1章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
魔法省の地下を思わせるほど静まり返った回廊を、シリウス・ブラックは足音を潜めて進んでいた。
長く続く廊下の壁には、淡い青光を放つ魔法灯が並び、一定の間隔で揺らめく光が彼の顔を照らしては、また影に沈める。
彼の首からは、細い銀の鎖に吊るされた小さな魔法時計が下がっていた。
針がゆっくりと動き、一定の時間が来ると赤く光を放つ仕組みだ。
――それは、レギュラスが執務室に戻るまでの残り時間を知らせるもの。
タイムリミットは正確に一時間。
その間に会って、話して、そして戻らねばならない。
騎士団内部では今、セシール家の生き残り――アラン・セシールを追うことでレギュラス・ブラックの動きを掴もうという策が立てられていた。
表向きは情報収集。だが実際には、彼女を鍵としてヴォルデモートの核の所在を暴くための作戦でもある。
「お前が行くのが一番だろうけど……」
ジェームズの声が脳裏に蘇る。
「ミイラ取りがミイラになるのだけは、やめてくれよ。」
「そんなんじゃねぇって言ってんだろ。」
そう返した時の自分の声には、思いのほか力がこもっていた。
だがジェームズが見抜いていたように――自分の胸のどこかに、言葉にできない“情”が芽生えていることを、シリウス自身も否定しきれてはいなかった。
今日、レギュラスは魔法法廷の裁判に出席している。
その後は法務大臣との会議、さらに夜は魔法省上層部との審議会が予定されている。
つまり、夕刻から夜半までは執務室に戻ることはない。
――絶好の“隙”だった。
扉の前に立ち、深呼吸を一つ。
軽くノックをしても返事はない。
ゆっくりと取っ手を回し、扉を開けた瞬間、ほのかに香るのは紙とインクの匂い、そして微かな花の香り。
その香りに包まれながら、視線を上げると――翡翠の瞳がこちらを見ていた。
アラン・セシール。
その瞳は、不安げに揺れながらも、どこか安心したように光を宿していた。
沈黙のまま数秒、互いの視線が絡む。
シリウスは思わず微笑んだ。
「ああ……悪い。驚かせたな。」
その声にアランは一歩後ずさり、杖を取り出して宙に文字を描く。
光の文字がふわりと浮かび、静かに揺れた。
――「ここに来てはいけないわ。レギュラスが、あなたをひどく警戒しているの。」
“嫌っている”ではなく、“警戒している”。
その言葉の選び方に、アランの優しさが滲んでいた。
シリウスの胸の奥で、何かが柔らかく解けていく。
「ああ、そうだろうな。」
シリウスは苦笑した。
「アイツは、俺を毛嫌いしてるからな。」
アランは首を横に振る。
その仕草ひとつが、静かに否定しているようだった。
シリウスはそっと彼女の隣に腰を下ろした。
アランの前のテーブルには、いくつもの古い本が積まれている。
表紙の革は少しひび割れていて、ところどころ金の箔文字が剥がれている。
それでも、その背表紙には懐かしいタイトルが並んでいた。
「……これ、屋敷の書斎にあった本だな。」
シリウスは指先でページをなぞる。
遠い記憶が蘇る。弟と共にいたあの家の書斎――
どの本にも、幼い日の思い出が染みついている。
「俺は別に、レギュラスと喧嘩しにきたわけじゃねぇんだ。」
ゆっくりと口を開く。
「お前と、楽しく話したくて来たんだ。」
その言葉は、照れ臭いほどに真っ直ぐだった。
けれど、言葉を話せないアランだからこそ、
取り繕わない言葉を投げたかった。
アランは一瞬驚いたように見えたが、
すぐに微笑み、杖を振る。
――「花をありがとう。とても嬉しかった。」
テーブルの上には、以前シリウスが送った花の魔法で散り落ちた花びらを、
アランが自ら拾い集めて作り直した小さな花束が置かれていた。
淡い色が重なり、光を反射してほのかに輝いている。
アランはその花束をそっと差し出した。
「お前が作ったのか?」
シリウスは目を細める。
「……俺のより、綺麗だ。」
アランは照れたように笑い、両手を広げた。
次の瞬間――
彼女の手のひらから、淡い光が零れ出した。
それは柔らかな金色の光。
まるで空気に溶けるように花束を包み込み、
花弁ひとつひとつが、生命を与えられたように静かに揺れた。
「……これ、もしかして……枯れないのか?」
シリウスの声は息を呑むように低くなった。
アランは微笑む。
声を出さず、ただ静かに頷く。
その光は、セシール家に伝わる封印の魔法。
永遠を閉じ込め、時の流れを止める力。
アラン・セシールの掌に宿るそれは、
かつてヴォルデモートが渇望した“永遠”そのものだった。
けれど今、その力は――
たった一輪の花を、枯れさせないために使われている。
シリウスはその花を見つめながら、
胸の奥で静かに呟いた。
「……お前の魔法は、優しいな。」
アランは、ただ笑っていた。
その笑顔に宿る光は、どんな魔法よりも温かかった。
初めてその光を見たとき、シリウスは息をするのも忘れていた。
アラン・セシールの掌からこぼれ落ちる光は、まるで空気そのものをやわらかく染め替えるような温もりを帯びていた。
強さも誇示もない。ただ静かに、静かに世界を包み込む。
花を枯らさないために。
ただ綺麗なままで、時を止めるために――。
それだけのためにかけられた封印の魔法は、あまりにも美しかった。
誰かを縛るための呪いではなく、誰かを守るための祈りのように。
その光を見ていると、心の奥に静かに訴えかけてくるものがあった。
――本来、この力は、こうして美しいものを永遠に伝えるためにあるのだ。
それをヴォルデモートのような男が利用していいはずがない。
闇の魔法使いたちの手で、道具のように扱われるものではない。
そして、この女もまたそうだ。
封印のために生かされるのではなく、生きるために、生きてほしい。
気づけば、シリウスはそっとアランの手を取っていた。
細く、透けるように白い手だった。
その手が一瞬強張るのを感じて、彼は微笑む。
「アラン、この花のお礼に――綺麗なものを見せてやるよ。行こう。」
杖を持つ指先が戸惑いを描くように揺れた。
それでもアランは拒まなかった。
どこか不安げに、けれど信頼するように彼の後を追う。
シリウスはそのまま魔法省のファーストフロアへ向かった。
広いホールには天井まで伸びるガラスのアーチ。
昼の光が透き通るように差し込み、
並んだ貸し出し用の箒の金属部分を白銀に輝かせていた。
シリウスはひとつ箒を手に取ると、手招きしてアランを外へと導いた。
風が吹き抜け、外の空気は少し冷たい。
「怖くねぇよ。俺を信じろ。」
軽く笑いながら、箒にまたがる。
アランの手を取って、その背後に座らせる。
「捕まってろよ。」
その声に従って、アランはそっと彼のローブを握った。
最初は怯えたように、小さな体を固くしていた。
だがシリウスが地面を蹴ると、
風が唸り、重力がほどけ、世界が一気に広がっていく。
箒が宙を舞い上がる。
ビルの屋根を越え、塔の先を越え、
青空が一面に広がった。
アランの髪が風に流れ、陽の光を受けて白く輝く。
シリウスの胸のあたりに感じるその小さな震えは、恐怖ではなく――初めて空を翔ける驚きと感動の震えのようだった。
「アラン、見ろよ。」
シリウスは指を差す。
眼下には、銀の鏡のような湖が広がっていた。
陽光が水面に散り、無数の粒が跳ねては煌めいている。
遠くの森は深い緑を湛え、風が通るたびに葉が波のように揺れた。
アランはゆっくりと顔を上げ、
その景色を、まるで夢を見ているように見つめていた。
翡翠の瞳が、空と湖の光を映して揺れる。
彼女が笑った。
声のないその笑顔は、
風の音よりも柔らかく、陽の光よりもあたたかかった。
シリウスは胸の奥で何かが解けていくのを感じた。
――これが、自由だ。
闇の中で生かされてきた彼女に、
本当の“生”を見せたかった。
たとえ束の間でもいい。
彼女が風を感じ、光を知り、
その心が“空の高さ”を覚える瞬間があれば、それでいい。
そう思った瞬間、
彼はこの世界で最も美しいものを手にしている気がした。
生まれて初めて――空へ駆け上がった。
アランの胸の奥で、何かがはじけるような音がした。
足元が地面から離れた瞬間、身体がふわりと浮き、冷たい風が肌を撫でていく。
世界が反転する。
見上げるだけの空が、いまは自分の真下にも、真横にも、どこまでも広がっている。
「空って……こんなに高いのね」と、声にならない言葉が心の中で零れた。
掴もうとしても届かない。
けれど、どこまでも行けそうな気がした。
その高さが、まるで希望の象徴のように思えた。
シリウス・ブラックという人は、不思議な人だと感じた。
少し強引で、息が詰まるほど自由で――けれど、その背中には確かな温かさがある。
彼の導くままに風を切ると、怖さよりも心地よさの方が勝っていく。
風の音と鼓動が一つになって、身体の奥に染み込んでいく。
眼下に広がる湖が、陽の光を浴びて宝石のように輝いていた。
幾千もの光の粒が揺れながら、まるで誰かの心を映すように煌めく。
その光景を見せてくれようとしたシリウスの優しさが、胸の奥をじんと熱くした。
冷たい闇の中で過ごしたあの頃には、決して知らなかった世界。
レギュラスの側で感じる穏やかな夜の静寂とも違う――
これは、生きていることを強く実感させてくれる世界だった。
今この瞬間を、永遠に閉じ込めてしまいたい。
封印の力があるのなら、この光景をこのまま心の中に刻みつけたい。
シリウスが振り返り、灰色の瞳でアランを見る。
「綺麗だな。湖も……お前の目も。」
不思議なことを言う人だと思った。
けれど次の瞬間、アランは理解した。
シリウスの瞳の奥に、確かに揺れている。
湖の銀色の波が――彼の瞳の中で。
そして同じように、彼が見つめる自分の瞳の中にも、その光が映っているのだ。
お互いの中に、湖のきらめきを宿して。
それが、言葉にならないほど美しく思えた。
執務室に戻ると、静寂が支配していた。
シリウスは軽やかに扉の前で振り返り、「また来るよ。これ、ありがとうな」と笑った。
アランが何かを伝えようと杖を取るより先に、彼は行ってしまった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
その瞬間、胸の奥にひやりとした空気が流れ込む。
さっきまで心を包んでいたあの温かい風が、急にどこか遠くへ行ってしまったようだった。
この部屋には空がない。
湖もない。
風も吹かない。
魔法省の冷たい石壁が、現実を突きつけるように立ち塞がっている。
アランは窓辺に歩み寄り、外を見上げた。
けれど、あの時見た空の高さは、どこにもなかった。
ここから見えるのは、ただの灰色の雲と、魔法塔の尖った影だけ。
胸の奥で、静かに痛みが広がる。
箒の上で感じた心の跳ねるような高鳴りも、湖の光も、風の匂いも――
すべて夢のように遠のいていく。
「……寂しい。」
声にはならない。
けれど、その思いは確かにあった。
アランはそっと目を閉じ、掌を胸に当てた。
あの時の風のぬくもりを、もう一度思い出そうとする。
シリウスの背中で感じた空の高さを、忘れまいと心に誓った。
――あの空は、自由そのものだった。
だからこそ、今の静けさが余計にこたえるのだ。
レギュラスの腕の中は、まるで深い微睡の底にいるようだった。
柔らかな布に包まれているような安心感――それは眠りではなく、魂ごと静かに休ませてくれるような温度だった。
どれほど世界が冷たくても、この胸の中だけは、確かに温かい。
首筋に、鎖骨に、唇が触れる。
ひとつひとつ確かめるように。
まるで壊れものを扱うように、丁寧に。
レギュラスの指先は、恐れるようにゆっくりと、アランの髪をすくい、頬を撫で、喉元をなぞっていった。
その動きには欲望よりも祈りに似た気配がある。
この人は、何をそんなにも大切にしようとしているのだろう――
そう問いたくなるほどに。
優しさというものを、アランはずっと家族の形でしか知らなかった。
幼いころに頭を撫でてくれた父の手。
泣きじゃくる夜に抱きしめてくれた母の手。
寒い朝に、転ばぬよう手を引いてくれた兄の手。
それらはみな、守るための温もりだった。
けれど、いま触れているこの手は――
守るというより、赦すための手。
何もかもを受け入れようとする手。
そして、ひとりの女として触れてくる手だった。
アランの喉がかすかに震える。
言葉を持たない彼女は、声ではなく呼吸で応える。
吐息が彼の耳にかかるたびに、レギュラスの唇がわずかに強く押し当てられた。
「……アラン。愛しています。」
その声は囁きに近く、けれど確かな重みを持っていた。
耳の奥に入り込んで、そこから全身を溶かしていく。
温かい波が胸から広がり、指先まで満たしていく。
心の奥底に、何かが静かに満ちていくのが分かる。
――愛している。
その言葉を、自分の口からも言えたらいいのに。
たった一言のその響きを、どれほどの想いを込めて返せるだろうか。
「私も、あなたを愛しています」
そう言葉にできたなら、どんなに幸せだろう。
けれど声は出ない。
だからアランは、言葉の代わりに、彼の首筋に唇を寄せた。
その行為が、彼の求めていたものだと分かっていた。
それが、唯一できる愛の返し方だった。
部屋の明かりが静かに揺れている。
淡い金の光がシーツに反射し、二人の輪郭をやわらかく包んでいた。
外の世界のざらついた現実も、闇の帝王の影も、この瞬間だけは遠かった。
けれど、心の奥に小さな棘のような痛みが刺さる。
昼間、シリウスの背中に掴まって感じた風の高さ。
頬を撫でていった、自由という名の空の感触。
あの瞬間、世界は広くて、限りなく澄んでいた。
そしていま、レギュラスの腕の中には、
静けさと安堵、そして地に根づくような温もりがある。
どちらが自分の望むものなのだろう。
空の高さか、それともこの胸の安らぎか。
そのどちらも、アランにとっては確かに“生”を感じさせるものだった。
――けれど、両方を得ようとすることは、罪なのだろうか。
ふと湧き上がった思いを、アランは慌てて胸の奥に押し込める。
罪を知らぬふりをして、ただ彼の腕の中で呼吸を合わせた。
彼の手が、髪を撫でる。
その優しさに身を預けながら、
アランは、声を持たないまま“愛しています”と心の中で繰り返した。
――まるで祈りのように。
騎士団が、グリンデンバルトの死がヴォルデモートの手によるものだと気づくのは時間の問題だった。
どれほど完璧に証拠を消し去ったとしても、あの魔法使いを殺せる者など他にいない。
だが――証拠を消した真の理由は、単に闇の帝王の存在を隠すためではない。
彼が“何を探して”グリンデンバルトに接触したのか。
その目的こそ、最も知られてはならない核心だった。
レギュラスは魔法法務部の執務机に山のように積まれた書類を前にして、静かに羽ペンを走らせていた。
連日届く騎士団からの再審要請書。
「十分な根拠がない」「再審の必要性は認められない」――同じ文言を繰り返し記す。
どの要請も、彼にとっては無意味でしかなかった。
それでも、まるで亡霊のように届く。毎日、毎晩、執念のように。
ノックの音。
「どうぞ」と短く返すと、重い扉が静かに開いた。
ルシウス・マルフォイだった。
長い銀髪が光を受けて淡く揺れ、完璧な笑みを貼り付けている。
「先日の件は実によくやってくれた。さすがだ。」
その声音は、褒め言葉でありながら、底に冷たい棘を含んでいた。
「証拠の改竄は時間を要しましたが、痕跡はすべて消去済みです。」
レギュラスの声は低く、揺らぎがなかった。
ルシウスは頷き、執務室の奥へと数歩進む。
「だが、厄介なことに……闇の帝王は“ニワトコの杖”を持ち帰られなかった。」
その一言に、空気がわずかに凍る。
グリンデンバルトが最後の所有者――その事実は、誰の目にも明らかだった。
それでも、あの男の口から何も聞き出せなかったというのなら、もはや行方は闇の中。
しかし、“わからない”という答えを闇の帝王に報告することなど、許されるはずがない。
「……力の限りを尽くしましょう。」
そう告げた声の奥で、レギュラスの胸は静かに沈んだ。
無理難題を押し付けられることに慣れてしまっている自分が、少しだけ嫌だった。
ルシウスの視線が、ふと部屋の隅へと向かう。
そこに、アランがいた。
書類を整えていた手を止め、わずかに背筋を伸ばす。
「この女は……守秘義務の面で問題はなさそうか?」
ぞんざいに放たれた問い。
「ええ。問題ありません。」
レギュラスは即答した。
ルシウスは鼻で笑うように微笑む。
「口もきけぬ女ならば、心配は無用だな。」
その言葉は、軽く放たれたようでいて、刃のように冷たかった。
アランの肩がかすかに震え、指先が強張る。
顔を上げることもできず、ただ静かに俯いた。
ルシウスが去っていった後、執務室には重たい沈黙が落ちた。
レギュラスは深く息を吐き、彼女のそばに歩み寄る。
その肩にそっと手を置いた。
「心配しなくて大丈夫です。あの人は……ああいう人ですから。」
アランは、ゆっくりと頷いた。
けれど、その瞳の奥には、確かに恐怖と嫌悪が揺れていた。
ルシウスという男が、地下牢の記憶と結びついているのだろう。
彼の声を聞くだけで、身体が凍りつくような記憶が呼び覚まされるのかもしれない。
――そんな顔を、させたくなかった。
レギュラスは、もう一度そっと肩を撫でた。
まるで「大丈夫だ」と魔法をかけるように。
だがその優しさの奥には、自分の無力さへの苛立ちもあった。
彼女を守ると言いながら、結局はこんな男たちと同じ場所で働いている。
その矛盾が胸を締めつける。
窓の外では、夕暮れが街を染めていた。
アランの翡翠の瞳がその光を映すたび、ほんの一瞬、彼女の恐怖の色が薄れていくように見えた。
それでも、彼女の心を完全に解き放つことができる日は――まだ、遠かった。
ブラック家の屋敷は、冷たいほどに整然としていた。
磨かれた大理石の床は月の光を反射して淡く光り、長い廊下の奥には沈黙が漂う。
その沈黙の中心――重厚な扉の向こうに、ヴァルブルガ・ブラックがいた。
「アラン・セシール、入りなさい。」
低く鋭い声。
アランは扉を押し開け、静かに歩みを進めた。
漆黒の髪が肩で揺れ、淡い光を吸い込むように艶やかだった。
その髪が彼女の白い肌を際立たせ、月光に照らされるたびに影のような気配をまとって見える。
部屋の奥では、ヴァルブルガが椅子に腰を下ろし、まるで王座に座るような姿勢でアランを見下ろしていた。
瞳には威厳と、そして冷ややかな蔑みが滲んでいる。
「おまえに言わなければならないことがあります。」
その声に、アランは自然と膝をついた。
言葉を持たぬ彼女は、ただ静かに頭を垂れ、指先を組む。
その姿はまるで従順な人形のようで――
ヴァルブルガの思惑にとって、それは都合の良い光景だった。
「いいことです。」
ヴァルブルガはゆっくりと立ち上がり、アランの周囲を円を描くように歩く。
「あなたがこの家に迎え入れられたのは、レギュラスの気まぐれだけではありません。
この家の名を継ぐ以上、あなたには果たすべき責務があります。」
アランは顔を上げない。
その黒髪が前に流れ落ち、ヴァルブルガの冷たい指が一房をつまみ上げた。
まるで品定めをするように。
「没落した一家の娘にしては、美しいものを持っていますね。
けれど、美貌だけでブラック家を守ることはできません。」
淡い香水の匂いが漂う。
アランの胸の奥に、冷たい何かが落ちていく。
言葉を発せぬ代わりに、ただ膝を折る姿勢を保つことしかできなかった。
「私たちは――最も高貴な血を持つ一族なのです。」
その言葉を吐くヴァルブルガの声は、まるで神託のように厳かでありながら、冷酷でもあった。
「その血を絶やしてはならない。おまえの一族とは違うのです。」
アランの喉が微かに動いた。
否定も、肯定も、できない。
ただ、沈黙の中で自分の鼓動の音だけが痛いほど響いた。
「この家を継げる“男児”を産むこと――それが、あなたにできる唯一の恩です。」
ヴァルブルガの声はさらに鋭くなる。
「女では意味がない。哀れな血を引いた娘など、負の連鎖が重なるだけです。」
アランの手が小刻みに震える。
それでも、彼女は頷いた。
その頷きは服従ではなく、諦めにも似た静かな受容だった。
ヴァルブルガの唇が、美しく、冷たく持ち上がる。
「分かればよろしい。」
月光が差し込む窓辺で、アランの黒髪が光を帯びて揺れる。
その光は、夜の闇を吸い込みながら、まるで深い湖の底でゆらめく影のように美しかった。
涙は落ちない。
泣くことすら、許されないのだろう。
――この屋敷では、感情もまた、血と同じく選別される。
愛されることより、血を残すことが優先される。
アランはその現実を、胸の奥で静かに受け止めた。
それでも心のどこかで、レギュラスの声が響いていた。
「僕があなたを幸せにします。」
その言葉だけが、凍てついた空気の中で、唯一の灯のように温かく残っていた。
だが今は、その灯さえも、ヴァルブルガの影に覆われて見えなかった。
執務室の午後は静かだった。
外の光がカーテンの隙間から斜めに差し込み、机の上の書類に淡く影を落とす。
ペンの音も、時計の針の音もやけに大きく感じるほど、空気は張りつめていた。
ふと視線を上げると、向かいのソファに座るアランの様子が、どこかいつもと違って見えた。
杖を手にしてはいるが、それを動かす気配がない。
笑おうとしているのに、微笑の形がどこかぎこちない。
目だけが、かすかに揺れている。
レギュラスは小さく息を吐き、椅子から立ち上がる。
アランの前に歩み寄り、両手を取る。
その手はひどく冷たくて、小さく震えていた。
「アラン……何かあったんですか?」
彼女の目が一瞬だけ見開かれた。
けれどすぐに、静かに首を振る。
――いいえ、何でもない。
そう伝えるように。
それでもレギュラスにはわかってしまう。
「今日は、顔が落ち込んでいますよ。」
そう言いながら、アランの前にしゃがみ込むようにして、その目を覗き込んだ。
彼女は逃げなかった。
けれど、その瞳の奥には、言葉では表せない影が沈んでいた。
まるで、胸の奥に重い石を抱えたまま微笑んでいるような――そんな痛みが見える。
沈黙が降りた。
その沈黙の中で、レギュラスは自分の鼓動の音を聞いていた。
アランの細い指が、かすかに動く。
だが杖を取るわけでも、文字を描くわけでもない。
彼女は、きっとどう伝えていいのかも分からないのだ。
言葉を持たないということは、想いを閉じ込めたまま生きるということ。
それは想像を絶するほどの孤独だろう。
伝える手段がないということは、助けを求めることも、痛みを打ち明けることも叶わないということなのだから。
――それでも、自分はこの人の中に渦巻くものを、感じ取れる人間でありたい。
そう思った。
たとえ彼女の言葉が一つも届かなくても。
たとえその沈黙がどんなに深い闇に包まれていても。
「言いたくないのかもしれないし、言えないのかもしれない。」
レギュラスはそう呟いて、アランの手を少しだけ強く握った。
その手のぬくもりだけが、確かな絆のように感じられる。
「アラン。誰に何を言われたとしても――僕の言葉だけを信じてくださいね。」
ゆっくりと、アランが顔を上げた。
翡翠の瞳が光を宿している。
その瞳は、涙ではなく、決意のような澄んだ輝きを帯びていた。
しばらくの沈黙のあと、彼女は真っ直ぐにレギュラスを見て、ゆっくりと頷いた。
その仕草は、どんな言葉よりも雄弁だった。
レギュラスは安堵の息を吐き、微かに微笑んだ。
アランの漆黒の髪が肩から零れ落ち、光を吸い込みながらゆらりと揺れる。
その髪が頬に触れるたび、彼の胸の奥の硬さが少しずつ溶けていくようだった。
静寂の中で、ただ二人の呼吸だけが、優しく重なっていた。
屋敷の夜は、静かすぎた。
風の音ひとつさえも遮る厚い石壁に囲まれ、灯された燭台の炎だけが、ほの暗い廊下を細く照らしている。
アランは、そんな夜の静寂の中でひとり、窓辺に立っていた。
月明かりが、漆黒の髪を淡く照らす。
その光の下で、彼女の瞳は翡翠のように静かに揺れていた。
胸の奥で、何かがきしむように痛む。
――レギュラス。
彼は自分にとって、すべてだった。
この世界の中心であり、息をする理由であり、存在の意味そのものだった。
彼が微笑めば世界が明るくなり、彼が眉を寄せれば空さえ曇る気がした。
それほどまでに、アランの世界はレギュラスを中心に回っていた。
けれど――
少しずつ、何かが変わり始めていた。
シリウスに連れ出され、初めて空を知ったあの日。
あの風の高さ、湖の煌めき、頬を撫でていく冷たい空気。
そのどれもが、閉ざされたこの屋敷の中では決して触れることのない世界だった。
「空」という広がりを知ってしまった瞬間、アランの胸の奥に小さな違和感が芽生えた。
レギュラスの腕の中の安らぎ――
その温かさを信じていたはずなのに、心のどこかで息苦しさを感じる時がある。
屋敷の中に満ちる沈黙が、いつのまにか鎖のように重たくなっていた。
ヴァルブルガの言葉が脳裏で蘇る。
「この家を継ぐ“男児”を産むこと。それがあなたの唯一の恩です。」
アランはその声を思い出すたび、胸の奥が凍るのを感じた。
優雅なドレスに包まれたヴァルブルガの笑みは、まるで刃のように冷たかった。
その一言一言が、アランという存在のすべてを“機能”に変えてしまうようで。
恐ろしかった。
この屋敷は、自分を拒んでいる。
壁の隅々にまで、見えない排斥の気配がある。
使用人たちの視線も、言葉も、何もかもが「お前はここにふさわしくない」と言っているように感じる。
まるで、“落ちぶれた一族の生き残り”であることが罪であるかのように。
レギュラスと共に、温かな家庭を築きたい――
その願いは、あまりにも純粋で、あまりにも幼い夢だったのかもしれない。
この屋敷では、愛も温もりも必要とされていない。
求められているのは、血と誇り、そして“男児”。
温かさなど、そこには不要なのだ。
アランは、自分の手のひらを見つめた。
この手で、果たして何かを“授かる”ことができるのだろうか。
長い幽閉の中で傷つき、壊れかけた体が――
まだ“母”としての希望を宿せるのだろうか。
それでも、レギュラスのためにと、そう思おうとする。
けれど、胸の奥では、幾重にも不安が積み重なっていく。
もし子が生まれたとして、それが女の子だったら?
この屋敷は、その子を祝福してくれるのだろうか。
否――きっと、また別の冷たい目で見下ろすだろう。
レギュラスの言葉だけを信じて生きたい。
彼の「愛している」という言葉だけを支えにしたい。
それが唯一の真実のように思えていた。
けれど、その信仰にも似た想いを支えるための「確信」が、今の自分には何ひとつない。
自分の存在が、彼にどんな意味を持つのか。
確かなものがほしいのに、それを掴もうとするたび指の隙間からこぼれ落ちる。
ふと、シリウス・ブラックの姿が脳裏をよぎった。
彼の銀色の瞳。
自由をまとうような声。
空へと導いてくれた手の感触。
彼の隣にいれば――
世界は、もっと広くなるのだろうか。
息ができるだろうか。
けれど、そんな思いを抱いた瞬間、心臓が締め付けられた。
それは裏切りだ。
レギュラスへの、そして自分が信じてきた愛への。
アランは慌てて首を振り、考えをかき消した。
両手で顔を覆う。
指の隙間から零れた息が、熱く震えていた。
――レギュラスだけを、信じなければ。
それなのに、胸のどこかで“もうひとつの世界”が静かに息づき始めているのを、どうしても否定できなかった。
魔法界が沸き立っていた。
新聞の一面には「ブラック家、セシール家の娘を娶る」と大きく見出しが躍り、魔法放送局では連日、評論家たちがこの結婚の真意を語っていた。
純血の名門ブラック家が、滅びたはずの一族――セシール家の娘を妻に迎える。
それは、古き血統社会における秩序を揺るがすほどの出来事だった。
屋敷には、毎日のように祝福の品が届いた。
金箔で縁取られた結婚祝いのカード、魔法花で作られたリース、装飾された呪文書。
それらが次々と玄関ホールに積み重ねられていく。
けれど、アランの胸を満たすのは喜びではなかった。
ただ、静かな息苦しさ。
祝福という名の視線のすべてが、自分を測っているように感じられる。
「滅びた一族の娘」「封印の魔術を受け継ぐ者」「純血に混じる異端の存在」。
その言葉の響きが、彼女の心を細く削っていく。
その日、レギュラスと共に魔法省を訪れた。
玄関ホールを出た瞬間、閃光が彼らを包み込む。
「お二人のご結婚、おめでとうございます!」
「レギュラス様、奥様のご出身について一言を!」
「封印魔術の継承は今後どうなるのでしょうか?」
声、声、声。
アランの耳に突き刺さるように響く。
幾つものフラッシュが交錯し、白い光が網膜を焼く。
アランは無意識にレギュラスの腕を掴んだ。
その手の温もりだけが、現実に自分をつなぎ止める。
「アラン、あなたは何も相手にしなくて構いませんから。」
レギュラスの低い声が耳に届く。
静かで、確かな声。
その響きに、アランは小さく頷いた。
けれど、光の洪水の中で彼の言葉はすぐに遠ざかっていく。
心の奥では別の声が響く――ヴァルブルガの冷たい声が。
「この家を継ぐ“男児”を産むこと、それがあなたの唯一の役目です。」
「没落した一族の娘にふさわしい責務を果たしなさい。」
あの声が再び耳を刺す。
“祝福”と“嘲笑”の境界が、曖昧に滲んでいく。
自分は、間違ってここに立っているのではないか。
そう思った。
この眩しい光の中に、自分の居場所はないのではないかと。
レギュラス・ブラックという名を冠する男の隣に立つには、自分はあまりにも脆く、あまりにも何も持たない。
フラッシュがまたひとつ弾ける。
その光の瞬間、アランはふと、自分が世界から切り離されていくような感覚に襲われた。
人々の視線、マイクの群れ、誰かの囁き声――すべてが遠く、遠く霞んでいく。
“世界が自分だけを置いて、回っていっている。”
心が軋む音がした。
それは、目に見えない亀裂が静かに広がっていくような音だった。
レギュラスはそんな彼女の手をしっかりと握り、記者たちを押しのけながら進んでいく。
その背中はいつものように毅然として、美しく、誰よりも強く見えた。
だがアランには、その強さの中に手の届かない遠さを感じてしまう。
――彼は世界の中心にいる。
そして、自分はその世界の影に過ぎない。
胸の奥で、静かに痛みが広がっていく。
レギュラスの隣を歩くたびに、自分の足音が小さく消えていく気がした。
記者たちのざわめきの中で、アランはそっとレギュラスの横顔を見つめた。
彼の横顔は穏やかで、完璧で、触れたら壊れてしまいそうなほどに美しかった。
けれど、その光に照らされるたびに、自分という影が一層濃く沈んでいくのを、どうしても止められなかった。
魔法界のあらゆる街角で――その名が語られていた。
新聞も、酒場の噂話も、上流の茶会さえも。
「ブラック家の若き当主が、滅びたセシール家の娘を娶った」と。
人々の言葉は、まるで風のように形を変えていく。
「歴史的な婚姻だ」「失われた封印の力が蘇る」「ブラック家が実質的に魔法界の頂点に立った」。
そんな言葉が、白い雪片のようにどこまでも舞い散っていた。
レギュラスにとって、それらはただの“雑音”に過ぎなかった。
称賛も中傷も、どれも空虚に響く。
彼が本当に気がかりだったのは、そんな世の喧噪が、隣にいるアランの心をどんなふうに刺してしまうか――ただそれだけだった。
彼女は光を知らない世界で生きてきた。
大勢に囲まれることも、視線を浴びることもなく、ずっと地下の静けさの中で息をしていた。
今、彼女の瞳に映る無数の視線と注目は、まるで鋭い刃のように感じられているに違いない。
「アラン、すみません。母が……婚姻を公にしたようで。」
声を低く落として言う。
アランはゆるやかに首を振った。
“大丈夫”と告げるような仕草。
けれど、その翡翠の瞳は不安に揺れていた。
レギュラスの胸の奥が、ひやりと軋む。
彼女は自分の側で守られる存在であるはずなのに、
その小さな心を、また誰かが試すように押し潰そうとしている。
公にしたことで、避けられぬものがひとつ浮き彫りになった。
――子を成すこと。
それは、ヴァルブルガが長らく抱いてきた焦燥と支配の象徴でもあった。
「純血の後継を。男児を。」
その声は、まるで呪いのように屋敷の壁に染みついている。
レギュラスはその思惑をよく知っていた。
母は“愛”ではなく、“血”しか見ていない。
息子の幸福よりも、血統の純粋さを優先する女だ。
そしてその圧力は、レギュラスの胸にも重くのしかかっていた。
焦りは、自分の中にもある。
闇の帝王との“契約”――
「セシール家の血を継ぎ、封印の術を永遠のものとする」という約束。
それはまだ果たされていない。
夜を重ねても、祈るように抱きしめ合っても、
生命の兆しは訪れなかった。
魔法の力ではなく、“人の奇跡”に頼るしかないこの現実が、
皮肉にも彼の無力さを突きつける。
アランを責めたいわけではない。
彼女の体に、心に、何度も傷が刻まれていることを知っているから。
それでも、時折心の奥で焦りが蠢く。
果たせぬ約束、母の視線、帝王の影――そのすべてが、彼の静けさを侵していく。
窓の外で、記者のフラッシュが夜空を白く照らした。
屋敷の門前には、今日も報道陣が張りついているのだろう。
その光を見つめながら、レギュラスはそっとアランの肩に手を置いた。
「アラン、何も心配しなくていい。」
自分に言い聞かせるように。
アランは小さく頷き、彼の指先に自分の手を重ねる。
けれど、その指は少し震えていた。
まるで、目に見えない未来の重みに怯えるように。
――この愛は、光の下で祝福されたものではない。
純血の誇りと封印の力、その交わる境界で試されるものだ。
それでも、アランの手を握る温もりだけは確かだった。
その温もりを守りたいと思うことだけが、
今のレギュラスにとって、唯一の真実だった。
机の上に置かれた魔法新聞が、風に揺れて紙の端をめくった。
黒いインクで刻まれた文字が、まるで呪いのようにアランの胸を締めつける。
「ブラック家に生まれる、セシール家の血を継いだ後継者はまだか」
その見出しの一行が、まるで鋭い刃のように心臓に突き刺さった。
紙面には、軽薄な筆致で未来を語る記者の言葉が踊っている。
“封印の術を施せる後継者が誕生すれば、ブラック家は永遠の栄華を手にする”――。
それは人々の期待という名の残酷な圧力だった。
アランはゆっくりと手を伸ばし、新聞の上に指を置いた。
指先が震える。
そこに綴られているのは、決して自分の意思ではない「運命」だった。
あの日、あの冷たい地下牢で、闇の帝王の影に怯えていた自分を、
レギュラスが救い出してくれた――
その意味を、疑ってしまった。
恐ろしい考えが、心の底から泡のように浮かび上がる。
もしも――
彼が自分を救ったのは、愛ではなく「血」のためだったとしたら?
セシール家の封印の力を、ブラック家に継がせるためだけに、自分を選んだのだとしたら?
思考の途中で、アランは息を呑んだ。
そんなはずはない。
そんなことを考えるなんて、愚かだ。
あの人は「愛している」と言ってくれた。
何度も、何度も。
そのたびに抱きしめてくれた。
傷を撫でるように、優しい手で心を包んでくれた。
――あれが嘘だったはずがない。
それでも、不安は静かに心を蝕んでいく。
頭では否定しても、胸の奥では恐怖が芽を出していた。
もしも、その愛が“目的のため”に紡がれた言葉だとしたら。
その目的が、ただ「子を残すため」だけのものだったとしたら――。
アランの視界がにじんだ。
あの日々の夜が、ひとつひとつ蘇ってくる。
重なり合う指、交わる息、絡まる影。
あの瞬間すら、すべて「血」を残すための行為だったのか。
そう思うと、胸の奥が冷たく沈んでいく。
愛していると告げられるたびに感じたあの温かさは、
もしかすると、夢のような幻想だったのではないか。
自分はただ、美しく設計された“器”として愛されていたのか。
風がカーテンを揺らす。
部屋の中に漂う冷たい空気が、背筋を這う。
どんなに自分に言い聞かせても、震えは止まらなかった。
その時、扉が開く音がした。
振り向けば、レギュラスがいた。
変わらぬ静けさを纏い、深い灰色の瞳がこちらを見つめている。
彼の手には、温かなティーカップ。
その穏やかな微笑みが、いっそう痛かった。
「アラン、愛しています。」
その言葉は、まるで呪文のように響いた。
かつては胸の奥を溶かしたその響きが、
今夜は胸を締めつける縄のように感じられる。
愛している――。
その言葉のどこまでが真実で、どこからが幻想なのか。
アランは確かめる勇気を持てずに、ただ小さく微笑んだ。
唇が震えても、声は出ない。
代わりに、胸の奥で小さく願う。
――どうか、愛だけが真実でありますように。
たとえすべてが計算であったとしても、
せめて今この瞬間だけは、偽りでない温もりで包まれたかった。
夜は、静かに流れていた。
まるで何事もなかったかのように、屋敷の時計の針が穏やかに時を刻んでいる。
カーテンの隙間から洩れる月明かりが、ベッドの上の二人を淡く照らしていた。
いつもの夜。いつもの優しさ。
それなのに――今夜だけは、どうしても胸の奥がざわめいていた。
レギュラスの手が、アランの髪を撫でる。
その手つきはあまりにも丁寧で、まるで壊れ物を扱うようだった。
唇が頬をなぞり、静かな口付けが落ちる。
それは痛みも熱もない、ただ温もりだけが伝わるような触れ方だった。
けれど、次の瞬間、胸の奥からこみ上げてきたものが抑えきれなかった。
――涙だった。
理由はわからない。
ただ、こぼれた涙が頬を伝って枕を濡らした。
レギュラスの手が止まり、灰色の瞳が心配そうに細められる。
「アラン、どうしたんです?」
その声音に、はっとする。
泣いてはいけない――そう思った。
彼を驚かせたくない。困らせたくない。
けれど、涙は勝手に溢れて止まらなかった。
この手が、もしも――。
この温度が、もしも――。
全て損得勘定の上に成り立っているものだったとしたら。
彼の優しさが、“封印の血”を継がせるためだけのものだったとしたら。
そう思った瞬間、胸の中の恐怖が一気に膨れ上がった。
彼が触れるたび、胸が痛んだ。
彼に抱かれるたび、心が軋んだ。
――どうして、こんなにも怖いのだろう。
アランは唇を噛みしめ、声にならない息を漏らした。
言葉にすれば、すべてが壊れてしまう気がした。
だから、何も言えなかった。
レギュラスは静かに手を伸ばし、アランの頬を撫でた。
その指先は冷たくもなく、ただ優しく涙を拭う。
灰色の瞳が、淡い月光を映して揺らめいていた。
心配と困惑、そしてほんの少しの痛みがそこに宿っている。
「泣かないでください。」
その声はとても柔らかく、まるで子供をあやすようだった。
アランは首を振る。
泣き止もうとしても、涙は次々と零れていく。
信じたい。
彼を信じたい。
けれど、信じることは怖い。
裏切られたくない。
同時に、疑うことも怖い。
疑えば彼を傷つけてしまうから。
その相反する思いが胸の奥でぶつかり合い、喉の奥が震えた。
言葉にならない謝罪が唇の内側で形を成す。
ごめんなさい、レギュラス――。
レギュラスはそっと身を引いた。
アランの上に覆いかぶさっていた体を離し、代わりに横から抱き寄せる。
その腕の中は、驚くほど静かで、温かかった。
鼓動の音が、互いの胸の奥で重なっていく。
「アラン、怖いものなんてないんですからね。僕がいます。」
その声は穏やかで、落ち着いていて、どこまでも優しかった。
夜の闇の中で響いたその一言が、アランの涙を静かに鎮めていく。
ただの慰めではなかった。
それは、まるで祈りのような響きだった。
アランはその胸の中で、静かに目を閉じた。
まだ不安は消えない。
けれど、少なくともこの瞬間だけは、彼の腕の中で呼吸を整えたかった。
月がゆっくりと傾き、カーテンの隙間から差し込む光が細くなっていく。
世界が静寂に包まれる中で、二人だけの小さな時間が流れていった。
涙の跡をそっと指でなぞるレギュラスの仕草が、
それでもなお、愛しくて――
アランの胸はまた少しだけ痛んだ。
長く続く廊下の壁には、淡い青光を放つ魔法灯が並び、一定の間隔で揺らめく光が彼の顔を照らしては、また影に沈める。
彼の首からは、細い銀の鎖に吊るされた小さな魔法時計が下がっていた。
針がゆっくりと動き、一定の時間が来ると赤く光を放つ仕組みだ。
――それは、レギュラスが執務室に戻るまでの残り時間を知らせるもの。
タイムリミットは正確に一時間。
その間に会って、話して、そして戻らねばならない。
騎士団内部では今、セシール家の生き残り――アラン・セシールを追うことでレギュラス・ブラックの動きを掴もうという策が立てられていた。
表向きは情報収集。だが実際には、彼女を鍵としてヴォルデモートの核の所在を暴くための作戦でもある。
「お前が行くのが一番だろうけど……」
ジェームズの声が脳裏に蘇る。
「ミイラ取りがミイラになるのだけは、やめてくれよ。」
「そんなんじゃねぇって言ってんだろ。」
そう返した時の自分の声には、思いのほか力がこもっていた。
だがジェームズが見抜いていたように――自分の胸のどこかに、言葉にできない“情”が芽生えていることを、シリウス自身も否定しきれてはいなかった。
今日、レギュラスは魔法法廷の裁判に出席している。
その後は法務大臣との会議、さらに夜は魔法省上層部との審議会が予定されている。
つまり、夕刻から夜半までは執務室に戻ることはない。
――絶好の“隙”だった。
扉の前に立ち、深呼吸を一つ。
軽くノックをしても返事はない。
ゆっくりと取っ手を回し、扉を開けた瞬間、ほのかに香るのは紙とインクの匂い、そして微かな花の香り。
その香りに包まれながら、視線を上げると――翡翠の瞳がこちらを見ていた。
アラン・セシール。
その瞳は、不安げに揺れながらも、どこか安心したように光を宿していた。
沈黙のまま数秒、互いの視線が絡む。
シリウスは思わず微笑んだ。
「ああ……悪い。驚かせたな。」
その声にアランは一歩後ずさり、杖を取り出して宙に文字を描く。
光の文字がふわりと浮かび、静かに揺れた。
――「ここに来てはいけないわ。レギュラスが、あなたをひどく警戒しているの。」
“嫌っている”ではなく、“警戒している”。
その言葉の選び方に、アランの優しさが滲んでいた。
シリウスの胸の奥で、何かが柔らかく解けていく。
「ああ、そうだろうな。」
シリウスは苦笑した。
「アイツは、俺を毛嫌いしてるからな。」
アランは首を横に振る。
その仕草ひとつが、静かに否定しているようだった。
シリウスはそっと彼女の隣に腰を下ろした。
アランの前のテーブルには、いくつもの古い本が積まれている。
表紙の革は少しひび割れていて、ところどころ金の箔文字が剥がれている。
それでも、その背表紙には懐かしいタイトルが並んでいた。
「……これ、屋敷の書斎にあった本だな。」
シリウスは指先でページをなぞる。
遠い記憶が蘇る。弟と共にいたあの家の書斎――
どの本にも、幼い日の思い出が染みついている。
「俺は別に、レギュラスと喧嘩しにきたわけじゃねぇんだ。」
ゆっくりと口を開く。
「お前と、楽しく話したくて来たんだ。」
その言葉は、照れ臭いほどに真っ直ぐだった。
けれど、言葉を話せないアランだからこそ、
取り繕わない言葉を投げたかった。
アランは一瞬驚いたように見えたが、
すぐに微笑み、杖を振る。
――「花をありがとう。とても嬉しかった。」
テーブルの上には、以前シリウスが送った花の魔法で散り落ちた花びらを、
アランが自ら拾い集めて作り直した小さな花束が置かれていた。
淡い色が重なり、光を反射してほのかに輝いている。
アランはその花束をそっと差し出した。
「お前が作ったのか?」
シリウスは目を細める。
「……俺のより、綺麗だ。」
アランは照れたように笑い、両手を広げた。
次の瞬間――
彼女の手のひらから、淡い光が零れ出した。
それは柔らかな金色の光。
まるで空気に溶けるように花束を包み込み、
花弁ひとつひとつが、生命を与えられたように静かに揺れた。
「……これ、もしかして……枯れないのか?」
シリウスの声は息を呑むように低くなった。
アランは微笑む。
声を出さず、ただ静かに頷く。
その光は、セシール家に伝わる封印の魔法。
永遠を閉じ込め、時の流れを止める力。
アラン・セシールの掌に宿るそれは、
かつてヴォルデモートが渇望した“永遠”そのものだった。
けれど今、その力は――
たった一輪の花を、枯れさせないために使われている。
シリウスはその花を見つめながら、
胸の奥で静かに呟いた。
「……お前の魔法は、優しいな。」
アランは、ただ笑っていた。
その笑顔に宿る光は、どんな魔法よりも温かかった。
初めてその光を見たとき、シリウスは息をするのも忘れていた。
アラン・セシールの掌からこぼれ落ちる光は、まるで空気そのものをやわらかく染め替えるような温もりを帯びていた。
強さも誇示もない。ただ静かに、静かに世界を包み込む。
花を枯らさないために。
ただ綺麗なままで、時を止めるために――。
それだけのためにかけられた封印の魔法は、あまりにも美しかった。
誰かを縛るための呪いではなく、誰かを守るための祈りのように。
その光を見ていると、心の奥に静かに訴えかけてくるものがあった。
――本来、この力は、こうして美しいものを永遠に伝えるためにあるのだ。
それをヴォルデモートのような男が利用していいはずがない。
闇の魔法使いたちの手で、道具のように扱われるものではない。
そして、この女もまたそうだ。
封印のために生かされるのではなく、生きるために、生きてほしい。
気づけば、シリウスはそっとアランの手を取っていた。
細く、透けるように白い手だった。
その手が一瞬強張るのを感じて、彼は微笑む。
「アラン、この花のお礼に――綺麗なものを見せてやるよ。行こう。」
杖を持つ指先が戸惑いを描くように揺れた。
それでもアランは拒まなかった。
どこか不安げに、けれど信頼するように彼の後を追う。
シリウスはそのまま魔法省のファーストフロアへ向かった。
広いホールには天井まで伸びるガラスのアーチ。
昼の光が透き通るように差し込み、
並んだ貸し出し用の箒の金属部分を白銀に輝かせていた。
シリウスはひとつ箒を手に取ると、手招きしてアランを外へと導いた。
風が吹き抜け、外の空気は少し冷たい。
「怖くねぇよ。俺を信じろ。」
軽く笑いながら、箒にまたがる。
アランの手を取って、その背後に座らせる。
「捕まってろよ。」
その声に従って、アランはそっと彼のローブを握った。
最初は怯えたように、小さな体を固くしていた。
だがシリウスが地面を蹴ると、
風が唸り、重力がほどけ、世界が一気に広がっていく。
箒が宙を舞い上がる。
ビルの屋根を越え、塔の先を越え、
青空が一面に広がった。
アランの髪が風に流れ、陽の光を受けて白く輝く。
シリウスの胸のあたりに感じるその小さな震えは、恐怖ではなく――初めて空を翔ける驚きと感動の震えのようだった。
「アラン、見ろよ。」
シリウスは指を差す。
眼下には、銀の鏡のような湖が広がっていた。
陽光が水面に散り、無数の粒が跳ねては煌めいている。
遠くの森は深い緑を湛え、風が通るたびに葉が波のように揺れた。
アランはゆっくりと顔を上げ、
その景色を、まるで夢を見ているように見つめていた。
翡翠の瞳が、空と湖の光を映して揺れる。
彼女が笑った。
声のないその笑顔は、
風の音よりも柔らかく、陽の光よりもあたたかかった。
シリウスは胸の奥で何かが解けていくのを感じた。
――これが、自由だ。
闇の中で生かされてきた彼女に、
本当の“生”を見せたかった。
たとえ束の間でもいい。
彼女が風を感じ、光を知り、
その心が“空の高さ”を覚える瞬間があれば、それでいい。
そう思った瞬間、
彼はこの世界で最も美しいものを手にしている気がした。
生まれて初めて――空へ駆け上がった。
アランの胸の奥で、何かがはじけるような音がした。
足元が地面から離れた瞬間、身体がふわりと浮き、冷たい風が肌を撫でていく。
世界が反転する。
見上げるだけの空が、いまは自分の真下にも、真横にも、どこまでも広がっている。
「空って……こんなに高いのね」と、声にならない言葉が心の中で零れた。
掴もうとしても届かない。
けれど、どこまでも行けそうな気がした。
その高さが、まるで希望の象徴のように思えた。
シリウス・ブラックという人は、不思議な人だと感じた。
少し強引で、息が詰まるほど自由で――けれど、その背中には確かな温かさがある。
彼の導くままに風を切ると、怖さよりも心地よさの方が勝っていく。
風の音と鼓動が一つになって、身体の奥に染み込んでいく。
眼下に広がる湖が、陽の光を浴びて宝石のように輝いていた。
幾千もの光の粒が揺れながら、まるで誰かの心を映すように煌めく。
その光景を見せてくれようとしたシリウスの優しさが、胸の奥をじんと熱くした。
冷たい闇の中で過ごしたあの頃には、決して知らなかった世界。
レギュラスの側で感じる穏やかな夜の静寂とも違う――
これは、生きていることを強く実感させてくれる世界だった。
今この瞬間を、永遠に閉じ込めてしまいたい。
封印の力があるのなら、この光景をこのまま心の中に刻みつけたい。
シリウスが振り返り、灰色の瞳でアランを見る。
「綺麗だな。湖も……お前の目も。」
不思議なことを言う人だと思った。
けれど次の瞬間、アランは理解した。
シリウスの瞳の奥に、確かに揺れている。
湖の銀色の波が――彼の瞳の中で。
そして同じように、彼が見つめる自分の瞳の中にも、その光が映っているのだ。
お互いの中に、湖のきらめきを宿して。
それが、言葉にならないほど美しく思えた。
執務室に戻ると、静寂が支配していた。
シリウスは軽やかに扉の前で振り返り、「また来るよ。これ、ありがとうな」と笑った。
アランが何かを伝えようと杖を取るより先に、彼は行ってしまった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
その瞬間、胸の奥にひやりとした空気が流れ込む。
さっきまで心を包んでいたあの温かい風が、急にどこか遠くへ行ってしまったようだった。
この部屋には空がない。
湖もない。
風も吹かない。
魔法省の冷たい石壁が、現実を突きつけるように立ち塞がっている。
アランは窓辺に歩み寄り、外を見上げた。
けれど、あの時見た空の高さは、どこにもなかった。
ここから見えるのは、ただの灰色の雲と、魔法塔の尖った影だけ。
胸の奥で、静かに痛みが広がる。
箒の上で感じた心の跳ねるような高鳴りも、湖の光も、風の匂いも――
すべて夢のように遠のいていく。
「……寂しい。」
声にはならない。
けれど、その思いは確かにあった。
アランはそっと目を閉じ、掌を胸に当てた。
あの時の風のぬくもりを、もう一度思い出そうとする。
シリウスの背中で感じた空の高さを、忘れまいと心に誓った。
――あの空は、自由そのものだった。
だからこそ、今の静けさが余計にこたえるのだ。
レギュラスの腕の中は、まるで深い微睡の底にいるようだった。
柔らかな布に包まれているような安心感――それは眠りではなく、魂ごと静かに休ませてくれるような温度だった。
どれほど世界が冷たくても、この胸の中だけは、確かに温かい。
首筋に、鎖骨に、唇が触れる。
ひとつひとつ確かめるように。
まるで壊れものを扱うように、丁寧に。
レギュラスの指先は、恐れるようにゆっくりと、アランの髪をすくい、頬を撫で、喉元をなぞっていった。
その動きには欲望よりも祈りに似た気配がある。
この人は、何をそんなにも大切にしようとしているのだろう――
そう問いたくなるほどに。
優しさというものを、アランはずっと家族の形でしか知らなかった。
幼いころに頭を撫でてくれた父の手。
泣きじゃくる夜に抱きしめてくれた母の手。
寒い朝に、転ばぬよう手を引いてくれた兄の手。
それらはみな、守るための温もりだった。
けれど、いま触れているこの手は――
守るというより、赦すための手。
何もかもを受け入れようとする手。
そして、ひとりの女として触れてくる手だった。
アランの喉がかすかに震える。
言葉を持たない彼女は、声ではなく呼吸で応える。
吐息が彼の耳にかかるたびに、レギュラスの唇がわずかに強く押し当てられた。
「……アラン。愛しています。」
その声は囁きに近く、けれど確かな重みを持っていた。
耳の奥に入り込んで、そこから全身を溶かしていく。
温かい波が胸から広がり、指先まで満たしていく。
心の奥底に、何かが静かに満ちていくのが分かる。
――愛している。
その言葉を、自分の口からも言えたらいいのに。
たった一言のその響きを、どれほどの想いを込めて返せるだろうか。
「私も、あなたを愛しています」
そう言葉にできたなら、どんなに幸せだろう。
けれど声は出ない。
だからアランは、言葉の代わりに、彼の首筋に唇を寄せた。
その行為が、彼の求めていたものだと分かっていた。
それが、唯一できる愛の返し方だった。
部屋の明かりが静かに揺れている。
淡い金の光がシーツに反射し、二人の輪郭をやわらかく包んでいた。
外の世界のざらついた現実も、闇の帝王の影も、この瞬間だけは遠かった。
けれど、心の奥に小さな棘のような痛みが刺さる。
昼間、シリウスの背中に掴まって感じた風の高さ。
頬を撫でていった、自由という名の空の感触。
あの瞬間、世界は広くて、限りなく澄んでいた。
そしていま、レギュラスの腕の中には、
静けさと安堵、そして地に根づくような温もりがある。
どちらが自分の望むものなのだろう。
空の高さか、それともこの胸の安らぎか。
そのどちらも、アランにとっては確かに“生”を感じさせるものだった。
――けれど、両方を得ようとすることは、罪なのだろうか。
ふと湧き上がった思いを、アランは慌てて胸の奥に押し込める。
罪を知らぬふりをして、ただ彼の腕の中で呼吸を合わせた。
彼の手が、髪を撫でる。
その優しさに身を預けながら、
アランは、声を持たないまま“愛しています”と心の中で繰り返した。
――まるで祈りのように。
騎士団が、グリンデンバルトの死がヴォルデモートの手によるものだと気づくのは時間の問題だった。
どれほど完璧に証拠を消し去ったとしても、あの魔法使いを殺せる者など他にいない。
だが――証拠を消した真の理由は、単に闇の帝王の存在を隠すためではない。
彼が“何を探して”グリンデンバルトに接触したのか。
その目的こそ、最も知られてはならない核心だった。
レギュラスは魔法法務部の執務机に山のように積まれた書類を前にして、静かに羽ペンを走らせていた。
連日届く騎士団からの再審要請書。
「十分な根拠がない」「再審の必要性は認められない」――同じ文言を繰り返し記す。
どの要請も、彼にとっては無意味でしかなかった。
それでも、まるで亡霊のように届く。毎日、毎晩、執念のように。
ノックの音。
「どうぞ」と短く返すと、重い扉が静かに開いた。
ルシウス・マルフォイだった。
長い銀髪が光を受けて淡く揺れ、完璧な笑みを貼り付けている。
「先日の件は実によくやってくれた。さすがだ。」
その声音は、褒め言葉でありながら、底に冷たい棘を含んでいた。
「証拠の改竄は時間を要しましたが、痕跡はすべて消去済みです。」
レギュラスの声は低く、揺らぎがなかった。
ルシウスは頷き、執務室の奥へと数歩進む。
「だが、厄介なことに……闇の帝王は“ニワトコの杖”を持ち帰られなかった。」
その一言に、空気がわずかに凍る。
グリンデンバルトが最後の所有者――その事実は、誰の目にも明らかだった。
それでも、あの男の口から何も聞き出せなかったというのなら、もはや行方は闇の中。
しかし、“わからない”という答えを闇の帝王に報告することなど、許されるはずがない。
「……力の限りを尽くしましょう。」
そう告げた声の奥で、レギュラスの胸は静かに沈んだ。
無理難題を押し付けられることに慣れてしまっている自分が、少しだけ嫌だった。
ルシウスの視線が、ふと部屋の隅へと向かう。
そこに、アランがいた。
書類を整えていた手を止め、わずかに背筋を伸ばす。
「この女は……守秘義務の面で問題はなさそうか?」
ぞんざいに放たれた問い。
「ええ。問題ありません。」
レギュラスは即答した。
ルシウスは鼻で笑うように微笑む。
「口もきけぬ女ならば、心配は無用だな。」
その言葉は、軽く放たれたようでいて、刃のように冷たかった。
アランの肩がかすかに震え、指先が強張る。
顔を上げることもできず、ただ静かに俯いた。
ルシウスが去っていった後、執務室には重たい沈黙が落ちた。
レギュラスは深く息を吐き、彼女のそばに歩み寄る。
その肩にそっと手を置いた。
「心配しなくて大丈夫です。あの人は……ああいう人ですから。」
アランは、ゆっくりと頷いた。
けれど、その瞳の奥には、確かに恐怖と嫌悪が揺れていた。
ルシウスという男が、地下牢の記憶と結びついているのだろう。
彼の声を聞くだけで、身体が凍りつくような記憶が呼び覚まされるのかもしれない。
――そんな顔を、させたくなかった。
レギュラスは、もう一度そっと肩を撫でた。
まるで「大丈夫だ」と魔法をかけるように。
だがその優しさの奥には、自分の無力さへの苛立ちもあった。
彼女を守ると言いながら、結局はこんな男たちと同じ場所で働いている。
その矛盾が胸を締めつける。
窓の外では、夕暮れが街を染めていた。
アランの翡翠の瞳がその光を映すたび、ほんの一瞬、彼女の恐怖の色が薄れていくように見えた。
それでも、彼女の心を完全に解き放つことができる日は――まだ、遠かった。
ブラック家の屋敷は、冷たいほどに整然としていた。
磨かれた大理石の床は月の光を反射して淡く光り、長い廊下の奥には沈黙が漂う。
その沈黙の中心――重厚な扉の向こうに、ヴァルブルガ・ブラックがいた。
「アラン・セシール、入りなさい。」
低く鋭い声。
アランは扉を押し開け、静かに歩みを進めた。
漆黒の髪が肩で揺れ、淡い光を吸い込むように艶やかだった。
その髪が彼女の白い肌を際立たせ、月光に照らされるたびに影のような気配をまとって見える。
部屋の奥では、ヴァルブルガが椅子に腰を下ろし、まるで王座に座るような姿勢でアランを見下ろしていた。
瞳には威厳と、そして冷ややかな蔑みが滲んでいる。
「おまえに言わなければならないことがあります。」
その声に、アランは自然と膝をついた。
言葉を持たぬ彼女は、ただ静かに頭を垂れ、指先を組む。
その姿はまるで従順な人形のようで――
ヴァルブルガの思惑にとって、それは都合の良い光景だった。
「いいことです。」
ヴァルブルガはゆっくりと立ち上がり、アランの周囲を円を描くように歩く。
「あなたがこの家に迎え入れられたのは、レギュラスの気まぐれだけではありません。
この家の名を継ぐ以上、あなたには果たすべき責務があります。」
アランは顔を上げない。
その黒髪が前に流れ落ち、ヴァルブルガの冷たい指が一房をつまみ上げた。
まるで品定めをするように。
「没落した一家の娘にしては、美しいものを持っていますね。
けれど、美貌だけでブラック家を守ることはできません。」
淡い香水の匂いが漂う。
アランの胸の奥に、冷たい何かが落ちていく。
言葉を発せぬ代わりに、ただ膝を折る姿勢を保つことしかできなかった。
「私たちは――最も高貴な血を持つ一族なのです。」
その言葉を吐くヴァルブルガの声は、まるで神託のように厳かでありながら、冷酷でもあった。
「その血を絶やしてはならない。おまえの一族とは違うのです。」
アランの喉が微かに動いた。
否定も、肯定も、できない。
ただ、沈黙の中で自分の鼓動の音だけが痛いほど響いた。
「この家を継げる“男児”を産むこと――それが、あなたにできる唯一の恩です。」
ヴァルブルガの声はさらに鋭くなる。
「女では意味がない。哀れな血を引いた娘など、負の連鎖が重なるだけです。」
アランの手が小刻みに震える。
それでも、彼女は頷いた。
その頷きは服従ではなく、諦めにも似た静かな受容だった。
ヴァルブルガの唇が、美しく、冷たく持ち上がる。
「分かればよろしい。」
月光が差し込む窓辺で、アランの黒髪が光を帯びて揺れる。
その光は、夜の闇を吸い込みながら、まるで深い湖の底でゆらめく影のように美しかった。
涙は落ちない。
泣くことすら、許されないのだろう。
――この屋敷では、感情もまた、血と同じく選別される。
愛されることより、血を残すことが優先される。
アランはその現実を、胸の奥で静かに受け止めた。
それでも心のどこかで、レギュラスの声が響いていた。
「僕があなたを幸せにします。」
その言葉だけが、凍てついた空気の中で、唯一の灯のように温かく残っていた。
だが今は、その灯さえも、ヴァルブルガの影に覆われて見えなかった。
執務室の午後は静かだった。
外の光がカーテンの隙間から斜めに差し込み、机の上の書類に淡く影を落とす。
ペンの音も、時計の針の音もやけに大きく感じるほど、空気は張りつめていた。
ふと視線を上げると、向かいのソファに座るアランの様子が、どこかいつもと違って見えた。
杖を手にしてはいるが、それを動かす気配がない。
笑おうとしているのに、微笑の形がどこかぎこちない。
目だけが、かすかに揺れている。
レギュラスは小さく息を吐き、椅子から立ち上がる。
アランの前に歩み寄り、両手を取る。
その手はひどく冷たくて、小さく震えていた。
「アラン……何かあったんですか?」
彼女の目が一瞬だけ見開かれた。
けれどすぐに、静かに首を振る。
――いいえ、何でもない。
そう伝えるように。
それでもレギュラスにはわかってしまう。
「今日は、顔が落ち込んでいますよ。」
そう言いながら、アランの前にしゃがみ込むようにして、その目を覗き込んだ。
彼女は逃げなかった。
けれど、その瞳の奥には、言葉では表せない影が沈んでいた。
まるで、胸の奥に重い石を抱えたまま微笑んでいるような――そんな痛みが見える。
沈黙が降りた。
その沈黙の中で、レギュラスは自分の鼓動の音を聞いていた。
アランの細い指が、かすかに動く。
だが杖を取るわけでも、文字を描くわけでもない。
彼女は、きっとどう伝えていいのかも分からないのだ。
言葉を持たないということは、想いを閉じ込めたまま生きるということ。
それは想像を絶するほどの孤独だろう。
伝える手段がないということは、助けを求めることも、痛みを打ち明けることも叶わないということなのだから。
――それでも、自分はこの人の中に渦巻くものを、感じ取れる人間でありたい。
そう思った。
たとえ彼女の言葉が一つも届かなくても。
たとえその沈黙がどんなに深い闇に包まれていても。
「言いたくないのかもしれないし、言えないのかもしれない。」
レギュラスはそう呟いて、アランの手を少しだけ強く握った。
その手のぬくもりだけが、確かな絆のように感じられる。
「アラン。誰に何を言われたとしても――僕の言葉だけを信じてくださいね。」
ゆっくりと、アランが顔を上げた。
翡翠の瞳が光を宿している。
その瞳は、涙ではなく、決意のような澄んだ輝きを帯びていた。
しばらくの沈黙のあと、彼女は真っ直ぐにレギュラスを見て、ゆっくりと頷いた。
その仕草は、どんな言葉よりも雄弁だった。
レギュラスは安堵の息を吐き、微かに微笑んだ。
アランの漆黒の髪が肩から零れ落ち、光を吸い込みながらゆらりと揺れる。
その髪が頬に触れるたび、彼の胸の奥の硬さが少しずつ溶けていくようだった。
静寂の中で、ただ二人の呼吸だけが、優しく重なっていた。
屋敷の夜は、静かすぎた。
風の音ひとつさえも遮る厚い石壁に囲まれ、灯された燭台の炎だけが、ほの暗い廊下を細く照らしている。
アランは、そんな夜の静寂の中でひとり、窓辺に立っていた。
月明かりが、漆黒の髪を淡く照らす。
その光の下で、彼女の瞳は翡翠のように静かに揺れていた。
胸の奥で、何かがきしむように痛む。
――レギュラス。
彼は自分にとって、すべてだった。
この世界の中心であり、息をする理由であり、存在の意味そのものだった。
彼が微笑めば世界が明るくなり、彼が眉を寄せれば空さえ曇る気がした。
それほどまでに、アランの世界はレギュラスを中心に回っていた。
けれど――
少しずつ、何かが変わり始めていた。
シリウスに連れ出され、初めて空を知ったあの日。
あの風の高さ、湖の煌めき、頬を撫でていく冷たい空気。
そのどれもが、閉ざされたこの屋敷の中では決して触れることのない世界だった。
「空」という広がりを知ってしまった瞬間、アランの胸の奥に小さな違和感が芽生えた。
レギュラスの腕の中の安らぎ――
その温かさを信じていたはずなのに、心のどこかで息苦しさを感じる時がある。
屋敷の中に満ちる沈黙が、いつのまにか鎖のように重たくなっていた。
ヴァルブルガの言葉が脳裏で蘇る。
「この家を継ぐ“男児”を産むこと。それがあなたの唯一の恩です。」
アランはその声を思い出すたび、胸の奥が凍るのを感じた。
優雅なドレスに包まれたヴァルブルガの笑みは、まるで刃のように冷たかった。
その一言一言が、アランという存在のすべてを“機能”に変えてしまうようで。
恐ろしかった。
この屋敷は、自分を拒んでいる。
壁の隅々にまで、見えない排斥の気配がある。
使用人たちの視線も、言葉も、何もかもが「お前はここにふさわしくない」と言っているように感じる。
まるで、“落ちぶれた一族の生き残り”であることが罪であるかのように。
レギュラスと共に、温かな家庭を築きたい――
その願いは、あまりにも純粋で、あまりにも幼い夢だったのかもしれない。
この屋敷では、愛も温もりも必要とされていない。
求められているのは、血と誇り、そして“男児”。
温かさなど、そこには不要なのだ。
アランは、自分の手のひらを見つめた。
この手で、果たして何かを“授かる”ことができるのだろうか。
長い幽閉の中で傷つき、壊れかけた体が――
まだ“母”としての希望を宿せるのだろうか。
それでも、レギュラスのためにと、そう思おうとする。
けれど、胸の奥では、幾重にも不安が積み重なっていく。
もし子が生まれたとして、それが女の子だったら?
この屋敷は、その子を祝福してくれるのだろうか。
否――きっと、また別の冷たい目で見下ろすだろう。
レギュラスの言葉だけを信じて生きたい。
彼の「愛している」という言葉だけを支えにしたい。
それが唯一の真実のように思えていた。
けれど、その信仰にも似た想いを支えるための「確信」が、今の自分には何ひとつない。
自分の存在が、彼にどんな意味を持つのか。
確かなものがほしいのに、それを掴もうとするたび指の隙間からこぼれ落ちる。
ふと、シリウス・ブラックの姿が脳裏をよぎった。
彼の銀色の瞳。
自由をまとうような声。
空へと導いてくれた手の感触。
彼の隣にいれば――
世界は、もっと広くなるのだろうか。
息ができるだろうか。
けれど、そんな思いを抱いた瞬間、心臓が締め付けられた。
それは裏切りだ。
レギュラスへの、そして自分が信じてきた愛への。
アランは慌てて首を振り、考えをかき消した。
両手で顔を覆う。
指の隙間から零れた息が、熱く震えていた。
――レギュラスだけを、信じなければ。
それなのに、胸のどこかで“もうひとつの世界”が静かに息づき始めているのを、どうしても否定できなかった。
魔法界が沸き立っていた。
新聞の一面には「ブラック家、セシール家の娘を娶る」と大きく見出しが躍り、魔法放送局では連日、評論家たちがこの結婚の真意を語っていた。
純血の名門ブラック家が、滅びたはずの一族――セシール家の娘を妻に迎える。
それは、古き血統社会における秩序を揺るがすほどの出来事だった。
屋敷には、毎日のように祝福の品が届いた。
金箔で縁取られた結婚祝いのカード、魔法花で作られたリース、装飾された呪文書。
それらが次々と玄関ホールに積み重ねられていく。
けれど、アランの胸を満たすのは喜びではなかった。
ただ、静かな息苦しさ。
祝福という名の視線のすべてが、自分を測っているように感じられる。
「滅びた一族の娘」「封印の魔術を受け継ぐ者」「純血に混じる異端の存在」。
その言葉の響きが、彼女の心を細く削っていく。
その日、レギュラスと共に魔法省を訪れた。
玄関ホールを出た瞬間、閃光が彼らを包み込む。
「お二人のご結婚、おめでとうございます!」
「レギュラス様、奥様のご出身について一言を!」
「封印魔術の継承は今後どうなるのでしょうか?」
声、声、声。
アランの耳に突き刺さるように響く。
幾つものフラッシュが交錯し、白い光が網膜を焼く。
アランは無意識にレギュラスの腕を掴んだ。
その手の温もりだけが、現実に自分をつなぎ止める。
「アラン、あなたは何も相手にしなくて構いませんから。」
レギュラスの低い声が耳に届く。
静かで、確かな声。
その響きに、アランは小さく頷いた。
けれど、光の洪水の中で彼の言葉はすぐに遠ざかっていく。
心の奥では別の声が響く――ヴァルブルガの冷たい声が。
「この家を継ぐ“男児”を産むこと、それがあなたの唯一の役目です。」
「没落した一族の娘にふさわしい責務を果たしなさい。」
あの声が再び耳を刺す。
“祝福”と“嘲笑”の境界が、曖昧に滲んでいく。
自分は、間違ってここに立っているのではないか。
そう思った。
この眩しい光の中に、自分の居場所はないのではないかと。
レギュラス・ブラックという名を冠する男の隣に立つには、自分はあまりにも脆く、あまりにも何も持たない。
フラッシュがまたひとつ弾ける。
その光の瞬間、アランはふと、自分が世界から切り離されていくような感覚に襲われた。
人々の視線、マイクの群れ、誰かの囁き声――すべてが遠く、遠く霞んでいく。
“世界が自分だけを置いて、回っていっている。”
心が軋む音がした。
それは、目に見えない亀裂が静かに広がっていくような音だった。
レギュラスはそんな彼女の手をしっかりと握り、記者たちを押しのけながら進んでいく。
その背中はいつものように毅然として、美しく、誰よりも強く見えた。
だがアランには、その強さの中に手の届かない遠さを感じてしまう。
――彼は世界の中心にいる。
そして、自分はその世界の影に過ぎない。
胸の奥で、静かに痛みが広がっていく。
レギュラスの隣を歩くたびに、自分の足音が小さく消えていく気がした。
記者たちのざわめきの中で、アランはそっとレギュラスの横顔を見つめた。
彼の横顔は穏やかで、完璧で、触れたら壊れてしまいそうなほどに美しかった。
けれど、その光に照らされるたびに、自分という影が一層濃く沈んでいくのを、どうしても止められなかった。
魔法界のあらゆる街角で――その名が語られていた。
新聞も、酒場の噂話も、上流の茶会さえも。
「ブラック家の若き当主が、滅びたセシール家の娘を娶った」と。
人々の言葉は、まるで風のように形を変えていく。
「歴史的な婚姻だ」「失われた封印の力が蘇る」「ブラック家が実質的に魔法界の頂点に立った」。
そんな言葉が、白い雪片のようにどこまでも舞い散っていた。
レギュラスにとって、それらはただの“雑音”に過ぎなかった。
称賛も中傷も、どれも空虚に響く。
彼が本当に気がかりだったのは、そんな世の喧噪が、隣にいるアランの心をどんなふうに刺してしまうか――ただそれだけだった。
彼女は光を知らない世界で生きてきた。
大勢に囲まれることも、視線を浴びることもなく、ずっと地下の静けさの中で息をしていた。
今、彼女の瞳に映る無数の視線と注目は、まるで鋭い刃のように感じられているに違いない。
「アラン、すみません。母が……婚姻を公にしたようで。」
声を低く落として言う。
アランはゆるやかに首を振った。
“大丈夫”と告げるような仕草。
けれど、その翡翠の瞳は不安に揺れていた。
レギュラスの胸の奥が、ひやりと軋む。
彼女は自分の側で守られる存在であるはずなのに、
その小さな心を、また誰かが試すように押し潰そうとしている。
公にしたことで、避けられぬものがひとつ浮き彫りになった。
――子を成すこと。
それは、ヴァルブルガが長らく抱いてきた焦燥と支配の象徴でもあった。
「純血の後継を。男児を。」
その声は、まるで呪いのように屋敷の壁に染みついている。
レギュラスはその思惑をよく知っていた。
母は“愛”ではなく、“血”しか見ていない。
息子の幸福よりも、血統の純粋さを優先する女だ。
そしてその圧力は、レギュラスの胸にも重くのしかかっていた。
焦りは、自分の中にもある。
闇の帝王との“契約”――
「セシール家の血を継ぎ、封印の術を永遠のものとする」という約束。
それはまだ果たされていない。
夜を重ねても、祈るように抱きしめ合っても、
生命の兆しは訪れなかった。
魔法の力ではなく、“人の奇跡”に頼るしかないこの現実が、
皮肉にも彼の無力さを突きつける。
アランを責めたいわけではない。
彼女の体に、心に、何度も傷が刻まれていることを知っているから。
それでも、時折心の奥で焦りが蠢く。
果たせぬ約束、母の視線、帝王の影――そのすべてが、彼の静けさを侵していく。
窓の外で、記者のフラッシュが夜空を白く照らした。
屋敷の門前には、今日も報道陣が張りついているのだろう。
その光を見つめながら、レギュラスはそっとアランの肩に手を置いた。
「アラン、何も心配しなくていい。」
自分に言い聞かせるように。
アランは小さく頷き、彼の指先に自分の手を重ねる。
けれど、その指は少し震えていた。
まるで、目に見えない未来の重みに怯えるように。
――この愛は、光の下で祝福されたものではない。
純血の誇りと封印の力、その交わる境界で試されるものだ。
それでも、アランの手を握る温もりだけは確かだった。
その温もりを守りたいと思うことだけが、
今のレギュラスにとって、唯一の真実だった。
机の上に置かれた魔法新聞が、風に揺れて紙の端をめくった。
黒いインクで刻まれた文字が、まるで呪いのようにアランの胸を締めつける。
「ブラック家に生まれる、セシール家の血を継いだ後継者はまだか」
その見出しの一行が、まるで鋭い刃のように心臓に突き刺さった。
紙面には、軽薄な筆致で未来を語る記者の言葉が踊っている。
“封印の術を施せる後継者が誕生すれば、ブラック家は永遠の栄華を手にする”――。
それは人々の期待という名の残酷な圧力だった。
アランはゆっくりと手を伸ばし、新聞の上に指を置いた。
指先が震える。
そこに綴られているのは、決して自分の意思ではない「運命」だった。
あの日、あの冷たい地下牢で、闇の帝王の影に怯えていた自分を、
レギュラスが救い出してくれた――
その意味を、疑ってしまった。
恐ろしい考えが、心の底から泡のように浮かび上がる。
もしも――
彼が自分を救ったのは、愛ではなく「血」のためだったとしたら?
セシール家の封印の力を、ブラック家に継がせるためだけに、自分を選んだのだとしたら?
思考の途中で、アランは息を呑んだ。
そんなはずはない。
そんなことを考えるなんて、愚かだ。
あの人は「愛している」と言ってくれた。
何度も、何度も。
そのたびに抱きしめてくれた。
傷を撫でるように、優しい手で心を包んでくれた。
――あれが嘘だったはずがない。
それでも、不安は静かに心を蝕んでいく。
頭では否定しても、胸の奥では恐怖が芽を出していた。
もしも、その愛が“目的のため”に紡がれた言葉だとしたら。
その目的が、ただ「子を残すため」だけのものだったとしたら――。
アランの視界がにじんだ。
あの日々の夜が、ひとつひとつ蘇ってくる。
重なり合う指、交わる息、絡まる影。
あの瞬間すら、すべて「血」を残すための行為だったのか。
そう思うと、胸の奥が冷たく沈んでいく。
愛していると告げられるたびに感じたあの温かさは、
もしかすると、夢のような幻想だったのではないか。
自分はただ、美しく設計された“器”として愛されていたのか。
風がカーテンを揺らす。
部屋の中に漂う冷たい空気が、背筋を這う。
どんなに自分に言い聞かせても、震えは止まらなかった。
その時、扉が開く音がした。
振り向けば、レギュラスがいた。
変わらぬ静けさを纏い、深い灰色の瞳がこちらを見つめている。
彼の手には、温かなティーカップ。
その穏やかな微笑みが、いっそう痛かった。
「アラン、愛しています。」
その言葉は、まるで呪文のように響いた。
かつては胸の奥を溶かしたその響きが、
今夜は胸を締めつける縄のように感じられる。
愛している――。
その言葉のどこまでが真実で、どこからが幻想なのか。
アランは確かめる勇気を持てずに、ただ小さく微笑んだ。
唇が震えても、声は出ない。
代わりに、胸の奥で小さく願う。
――どうか、愛だけが真実でありますように。
たとえすべてが計算であったとしても、
せめて今この瞬間だけは、偽りでない温もりで包まれたかった。
夜は、静かに流れていた。
まるで何事もなかったかのように、屋敷の時計の針が穏やかに時を刻んでいる。
カーテンの隙間から洩れる月明かりが、ベッドの上の二人を淡く照らしていた。
いつもの夜。いつもの優しさ。
それなのに――今夜だけは、どうしても胸の奥がざわめいていた。
レギュラスの手が、アランの髪を撫でる。
その手つきはあまりにも丁寧で、まるで壊れ物を扱うようだった。
唇が頬をなぞり、静かな口付けが落ちる。
それは痛みも熱もない、ただ温もりだけが伝わるような触れ方だった。
けれど、次の瞬間、胸の奥からこみ上げてきたものが抑えきれなかった。
――涙だった。
理由はわからない。
ただ、こぼれた涙が頬を伝って枕を濡らした。
レギュラスの手が止まり、灰色の瞳が心配そうに細められる。
「アラン、どうしたんです?」
その声音に、はっとする。
泣いてはいけない――そう思った。
彼を驚かせたくない。困らせたくない。
けれど、涙は勝手に溢れて止まらなかった。
この手が、もしも――。
この温度が、もしも――。
全て損得勘定の上に成り立っているものだったとしたら。
彼の優しさが、“封印の血”を継がせるためだけのものだったとしたら。
そう思った瞬間、胸の中の恐怖が一気に膨れ上がった。
彼が触れるたび、胸が痛んだ。
彼に抱かれるたび、心が軋んだ。
――どうして、こんなにも怖いのだろう。
アランは唇を噛みしめ、声にならない息を漏らした。
言葉にすれば、すべてが壊れてしまう気がした。
だから、何も言えなかった。
レギュラスは静かに手を伸ばし、アランの頬を撫でた。
その指先は冷たくもなく、ただ優しく涙を拭う。
灰色の瞳が、淡い月光を映して揺らめいていた。
心配と困惑、そしてほんの少しの痛みがそこに宿っている。
「泣かないでください。」
その声はとても柔らかく、まるで子供をあやすようだった。
アランは首を振る。
泣き止もうとしても、涙は次々と零れていく。
信じたい。
彼を信じたい。
けれど、信じることは怖い。
裏切られたくない。
同時に、疑うことも怖い。
疑えば彼を傷つけてしまうから。
その相反する思いが胸の奥でぶつかり合い、喉の奥が震えた。
言葉にならない謝罪が唇の内側で形を成す。
ごめんなさい、レギュラス――。
レギュラスはそっと身を引いた。
アランの上に覆いかぶさっていた体を離し、代わりに横から抱き寄せる。
その腕の中は、驚くほど静かで、温かかった。
鼓動の音が、互いの胸の奥で重なっていく。
「アラン、怖いものなんてないんですからね。僕がいます。」
その声は穏やかで、落ち着いていて、どこまでも優しかった。
夜の闇の中で響いたその一言が、アランの涙を静かに鎮めていく。
ただの慰めではなかった。
それは、まるで祈りのような響きだった。
アランはその胸の中で、静かに目を閉じた。
まだ不安は消えない。
けれど、少なくともこの瞬間だけは、彼の腕の中で呼吸を整えたかった。
月がゆっくりと傾き、カーテンの隙間から差し込む光が細くなっていく。
世界が静寂に包まれる中で、二人だけの小さな時間が流れていった。
涙の跡をそっと指でなぞるレギュラスの仕草が、
それでもなお、愛しくて――
アランの胸はまた少しだけ痛んだ。
