1章
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法廷の石壁は、深く冷たい灰色をしていた。
その中で、レギュラスは静かに腰掛けていた。背筋をぴんと伸ばし、動かぬように見えるほど静謐な姿勢。けれどその胸の奥では、じわりと焦燥が渦を巻いていた。
権力を与えられるということは、決して自由ではない。
むしろ、枷に近い。
「力」とは人を縛り、重しとなってその行動を制限する。
決定権を持つというのは、選択を許されぬ立場を意味していた。
今、魔法裁判の壇上で読み上げられているのは、マグルボーンの魔法使いによる弁論。
“偏見をなくし、平等を”と訴えるその声は、どこまでも澄んでいて、どこまでも青臭い。
正義を語るその響きが、なぜこれほど耳障りなのか――レギュラスは理解していた。
理想という名の幻想は、いつだって現実の犠牲を見ない。
“我々マグルボーンにも、同じ未来を――”
レギュラスは目を伏せた。
すでに、自分の票は有罪にサインをしている。
判決は決して覆らない。
それでもなお、この茶番を最後まで見届ける義務がある。
権力を持つ者として。ブラック家の名を背負う者として。
けれど――心の奥にあったのは、別の想いだった。
“アランは、今、執務室で待っているだろうか。”
暖炉の灯が揺れ、彼女の髪を照らしている情景が脳裏に浮かぶ。
静かに膝の上で本をめくり、時折こちらを見る、あの翡翠の瞳。
その穏やかな光景を思い浮かべるだけで、胸の緊張がわずかにほどけた。
しかし、法廷は長引いた。
弁論の無駄なやり取りが延々と続き、時の流れが重たく淀む。
ペンを握る手に力がこもる。
「……くだらない。」
誰にも聞こえぬほどの声で呟き、判決文に署名を終える。
ようやく全てが終わった頃には、外の空は深く暮れていた。
冷たい空気が法廷を出た途端に頬を撫でる。
その冷たさに、アランの待つ執務室の温かさを思い出す。
足早に廊下を抜け、扉を開けた。
――そこに、彼女の姿はなかった。
心臓が一瞬止まる。
机の上には、読みかけの本と、まだ湯気の残る紅茶のカップ。
つい先ほどまで、確かにここにいた気配。
けれど姿がない。
「……アラン?」
呼んでも、返事はない。
血の気が引いていく。
嫌な想像が、矢継ぎ早に脳裏をかすめた。
まさか、闇の帝王の手が――。
慌てて扉を押し開けようとしたその時、廊下の奥から軽やかな足音が近づいてくる。
アランだった。
安堵の息が一気に漏れる。
「どこにいたんです?」
レギュラスの声が思いのほか鋭く響いた。
彼女は杖を持って空中に小さく文字を描いた。
《シリウス・ブラックがやって来ました。少しお話をしていました。》
一瞬で、心の奥に熱が走った。
――シリウス。
最も会わせたくない人間。
最も、彼女のそばに立たせたくない存在。
「……は?」
声が自分でも驚くほど低く漏れる。
喉の奥が焼けるように熱い。
怒りと、焦燥と、わずかな嫉妬が、胸の奥でせめぎ合う。
「シリウスと、何を話しました?」
努めて冷静に――そう思ったのに、声は氷のように冷たく響いた。
アランが一瞬、怯えたようにまばたきをした。
《あなたとのことを、少しだけ話しました。》
――息が詰まる。
「……あまり、僕とのことに関しても話さないでください。」
思わず、言葉が突き放すように出てしまった。
理性よりも先に、感情が動いた。
アランは小さく肩をすくめ、静かに頭を下げた。
その仕草は、まるで怒られた小鳥のように小さくて、か細かった。
その背中を見た瞬間、胸が締めつけられた。
――違う、そんなつもりじゃなかった。
けれど、取り返す言葉が出てこない。
翡翠の瞳が揺れていた。
その奥には怯えと戸惑い、そしてほんの少しの悲しみが滲んでいた。
彼女の唇が震え、けれど声は出せない。
静寂が部屋を支配する。
外では風が窓を叩いていた。
その音がやけに冷たく響く。
レギュラスは、拳を握りしめたまま目を閉じた。
――力を持つということは、自由を失うということ。
その言葉が、また胸の奥で静かに蘇る。
自分は権力に縛られ、
そして今――愛する人を、自らの手で縛りつけようとしている。
レギュラスの心の奥で、冷たい波が静かに立ち上がった。
アランの微笑みを見ていながらも、胸の奥では疑念の棘が抜けない。
なぜ、シリウスがアランに近づいたのか。
理由のない行動ではない。兄はいつだって目的を持って動く。
そして、アランに触れる理由など、ひとつしか思い浮かばなかった。
――探るためだ。自分を。
レギュラスは無言のまま、深く息を吐いた。
こみ上げてくる焦燥をどうにも抑えられず、静かに声を落とす。
「……アラン。杖を、少し借りれますか?」
彼女は驚いたように瞬きをしたが、迷いながらも杖を差し出した。
レギュラスの掌に収まるその細い杖は、彼女の手の温もりをまだ宿していた。
指先に伝わる微かな熱が、余計に胸を締めつける。
杖先を光にかざし、
低く、古い呪文を唱える――
“Revelium vestigia.”
淡い銀の光が杖の軌跡を描き始めた。
空気がわずかに震え、透明な幕のような魔法陣が広がっていく。
やがて、その中に、光の文字が浮かび上がった。
──《闇の帝王には数回しか会っていない》
──《長い間捉えられていた》
──《セシール家の封印の術を施したのか》
──《何に術を施したのかはわからない》
光の粒が、彼女の筆跡のように宙を流れていく。
アランの指が震えながら描いたであろうその文字は、
まるで“真実”そのもののように生々しく、
逃れようのない現実を突きつけてきた。
レギュラスの胸の奥で、重い息が漏れた。
「……はぁ。」
それはため息というより、怒りと絶望を押し殺した音に近かった。
シリウスの顔が脳裏をよぎる。
――あの男なら、もう気づいている。
アランが闇の帝王の何かを封じていることに。
そして、自分がその女を傍に置く理由にも。
ヴォルデモートに近づきながら、同時に彼の秘密を守り、
その核心を“愛”の名のもとに囲っている男――
そう見えてしまうだろう。
そして、兄なら必ず動く。
アランを「救い出す」と称して、奪いに来る。
唇の端が震えた。
舌打ちが、思わず漏れる。
「チッ……」
杖を握る手に力がこもる。
怒りの矛先は兄か、それとも自分の無防備さか――わからなかった。
ふと視線を向けると、アランが身を縮めていた。
怯えたように肩をすぼめ、
杖を返してもらうこともできず、ただ立ち尽くしている。
彼女の翡翠の瞳には、不安と悲しみが混ざり合っていた。
――また、怖がらせてしまった。
本当は詰問なんてしたくなかった。
彼女を疑いたくなんて、なかった。
けれど、どうしても、兄と彼女の接触が許せなかった。
静かに、しかし強く言葉を落とす。
「アラン。……二度と、シリウス・ブラックに接触しないことを約束してください。」
アランの目が大きく揺れた。
だが、すぐに小さく頷いた。
一度、二度、三度。
まるで祈るように、繰り返し首を縦に振る。
その仕草が、かえって胸を締めつけた。
守るための言葉だったのに――
まるで、彼女をまた檻に閉じ込めてしまったような気がした。
光の魔法陣が静かに消え、杖の光も落ちる。
部屋の中に残ったのは、
インクの香りと、互いの呼吸だけだった。
レギュラスは杖を彼女に返しながら、
その指先が自分に触れた瞬間、
喉の奥で小さく息を呑んだ。
「……ごめんなさい。」
声にならぬ謝罪が、胸の内で崩れ落ちた。
けれど言葉にはならないまま、
その夜もまた、沈黙だけが二人の間に降り積もっていった。
夜の帳がゆっくりと降りていた。
寝室の中はほのかに揺れるランプの光がひとつ。
その明かりの下、レギュラスはベッドの縁に身を沈め、無言のまま天井を見つめていた。
アランは隣にいる。
けれど、その存在の温もりさえ、今はどこか遠く感じる。
頭の中は騒がしかった。
兄――シリウスの顔が幾度となく脳裏を過ぎる。
そして、騎士団の連中の思惑。
彼らが次にどんな手を使い、アランに接触してくるのか。
そのすべてを想像するたびに、冷たい怒りが胸の奥で燻った。
どう防げばいい?
屋敷の中なら安全だと思っていた。だが、完全ではない。
自分の目が届かない隙――たとえば法廷や執務室での時間。
その間に、彼女へ誰かが近づく可能性を、完全に排除することはできない。
「……いっそ、どこにも出さなければいい」
一瞬、そんな考えが頭をかすめる。
外界と断たれた場所――
彼女がかつて囚われていたあの暗い地下牢のように。
だが、すぐに思考を打ち消した。
――それだけは絶対に違う。
あの闇の底から彼女を救い出したのは、自分だ。
光のもとに戻してやりたかった。
自分の手で閉じ込めるような真似をすれば、
彼女を再び闇に戻すことになる。
そんなことをしてまで守る価値が、果たして“愛”と呼べるのか。
考えを巡らせているうちに、レギュラスの眉間には深い皺が寄っていた。
そのとき――細い指がそっと腕に触れた。
アランだった。
寄り添うように体を傾け、胸元に顔を埋めてくる。
翡翠の瞳が、怯えと不安を宿したまま、上目づかいに彼を見上げた。
その視線が痛いほどに真っ直ぐだった。
――あぁ、察しているのだ。
自分の沈黙を、怒りの証だと思って。
怯えながらも、それでも離れず傍にいる。
その健気さが胸を刺した。
レギュラスはゆっくりと息を吸い、声を絞り出す。
「……すみません、アラン。考え事をしていました。怒っているわけじゃありません。」
穏やかに言ったつもりだった。
けれど、低く乾いた声が、逆に彼女を安心させるにはほど遠かった。
アランの表情はまだ曇っている。
細い肩がかすかに震え、何かを探すように彼の胸に顔を寄せた。
どうすればいいのか、分からなかった。
彼女を安心させたい。けれど、言葉では届かない。
言葉という手段を持たぬ彼女に、どう伝えればよいのか。
だから、レギュラスは口づけでそれを覆った。
最初から深く、奥まで満たすような口づけ。
焦燥と愛情が混ざり合い、彼の唇が彼女の息を奪う。
その瞬間、世界が静まり返った。
アランの指がシーツを握り、肩がわずかに跳ねる。
唇が触れ合うたび、彼女の呼吸が乱れていく。
まるで不安や恐れのすべてが、キスの熱に溶けていくようだった。
唇を離したとき、アランの瞳はとろりと潤み、
頬は桜色に染まっていた。
その表情は、何も知らぬ少女のようで――同時に、ひどく扇情的だった。
レギュラスはその頬を撫で、震える声で言った。
「アラン……僕は、あなたと僕の血を継ぐ子が、欲しいのです。」
その言葉は、嘘でも飾りでもなかった。
彼の心の底から出た、真実だった。
この家の名誉のためでもある。
闇の帝王からアランを守るための盾としても。
そして何より――彼女を、永遠に自分のものとして繋ぎ止めるための。
アランは目を見開き、静止した。
息をすることさえ忘れているように、じっとレギュラスを見つめていた。
その瞳に映るのは、困惑か、恐れか、それとも……。
レギュラスは何も言わず、再び唇を重ねた。
言葉では届かぬ想いを、唇で伝えようとするように。
その夜、静かな寝室の中で、
灯りがゆらめくたびに二人の影が寄り添っては、溶け合っていった。
けれどその温もりの奥に――
確かな不安と、避けがたい運命の影が、ひっそりと息づいていた。
薄闇に沈む寝室の空気は、静かな波のようにゆるやかに揺れていた。
窓の外から差し込む月の光が、カーテンの隙間から細い帯となって床を撫でている。
その淡い光の中で、二人の影が寄り添っていた。
レギュラスは、出来るだけ多くの時間をかけるようにした。
焦ってはいけないと思った。
この行為が、もはや怒りや支配ではなく、赦しと愛情であるのだと、彼自身が証明する唯一の方法のように感じられたからだ。
絡め合う指先に、彼女の体温が伝わる。
震えるほどに細く、けれど確かなぬくもり。
指の節が重なり、掌が溶けるように一つになる。
唇を重ねた瞬間、呼吸と鼓動の境が曖昧になっていく。
互いの体の境界が失われていくたびに、心の奥底で何かが解けていくようだった。
――これは怒りではない。
レギュラスは、息を詰めながらそう思った。
胸の奥を満たしているのは、確かに愛だった。
触れるたびに、彼女の存在が現実となって押し寄せてくる。
その重さが、やがて彼を包み込み、痛みの記憶すら優しく溶かしていった。
アランの表情が、光の陰影の中でゆっくりと歪んだ。
快楽と戸惑いと、微かな恐れと――すべてが混ざり合った複雑な色。
けれどそのどれもが、今この瞬間、彼女が生きている証だった。
地下の闇から救い出して以来、アランはいくつもの顔を見せてくれるようになった。
笑った顔も、不安に沈む顔も。
そして今、こうして男の腕の中で乱れ、息を震わせる顔も。
レギュラスはそのすべてを、自分の手で与えたのだと思うと、胸が熱くなる。
愛を知ることも、痛みを知ることも、涙を流すことも――彼女の中でひとつひとつ芽生えていった感情の種が、ようやく今、花を開かせているように感じた。
「……アラン」
囁く声が、彼女の首筋に触れて震える。
その名を呼ぶたび、アランの指がきゅっと強く背に絡みついた。
拒絶ではない。
恐れでもない。
そこにあるのは、確かに求める意志だった。
レギュラスはそのまま、ゆっくりと額を重ねた。
互いの呼吸が交じり合うたび、部屋の空気が少しずつ熱を帯びていく。
ふたりの間に横たわっていた長い沈黙や、過去の痛み、罪悪感――すべてがこの夜の中で静かに溶けていくようだった。
やがて、ただの音も言葉もなく、静けさだけが残った。
それは決して虚無ではなく、満たされた静寂だった。
互いの存在が確かにここにあると、そう感じられるだけで十分だった。
灰色の雲が垂れ込めたような空の下、
騎士団の本部の一室では、シリウスが大きな机の縁に腰を掛け、
両手を組んだまま低く息を吐いていた。
その向かいで、ジェームズが肘をついて、
まるで旧友の告白を待つかのように穏やかに微笑んでいる。
「……レギュラスが、あの女をどうして隣に置いているのか。やっとわかったよ。」
シリウスの声は乾いていた。
「ヴォルデモートの監視から抜け出したと思ったら、
今度はレギュラスの監視下だ。……何が違うんだ、あれじゃ。」
口調こそ冷たいが、瞳の奥には焦燥が滲んでいた。
指先が落ち着きなく膝を叩く。
彼の頭の中では、アランの翡翠の瞳が何度も浮かんでは消えていった。
ジェームズは少し間を置いてから、静かに口を開く。
「で、君はその子をどうしたいんだい?」
その問いは柔らかい。けれど、どこか探るような響きが混じっていた。
シリウスは眉をしかめ、
「どうって……別に、何に利用されることもなく、
普通の生活を送ってほしいだけだ」と吐き捨てるように言った。
ジェームズはふっと笑う。
「彼女は君の弟を慕っているんだろ?
なら、無理に引き剥がさなくてもいいんじゃないのか?」
その言葉に、シリウスの胸が重く鳴った。
アランがレギュラスを慕う――それは確かにそうなのだ。
けれど、それは“本当の意味”での想いではない、と彼は思っていた。
「慕ってるって言ってもな、あれは“知らないから”だ。
あの狭い世界の中で、レギュラスだけが優しかった。
他に誰も知らなけりゃ、そりゃあ慕うしかねぇだろ。」
言葉と同時に、机の上の羽ペンが震えた。
シリウスの中にあるのは怒りではなく、もどかしさだった。
レギュラスの意図を理解してしまった今、
放っておくことがどうしてもできなかった。
「もっと広い世界を知れば、きっと気づくはずだ。
あいつのやり方に、そしてあいつの思惑に。」
声が低く、静かに震えていた。
ジェームズは腕を組んだまま、じっと彼を見つめていた。
「……君はその子を気に入ってるんだな?」
その一言が、まるで刃のように胸に突き刺さる。
シリウスは思わず顔を上げた。
「ち、違ぇよ。そんなつもりじゃねぇ。」
けれど否定の言葉が口を出た瞬間、
脳裏にはあの翡翠の瞳が浮かんでいた。
光を映すたびに色を変える、深い緑の湖のような瞳。
風に靡く淡い髪。
そして、微笑んだときに唇の端がかすかに震える仕草。
――綺麗だ、と無意識に思ってしまった自分が、嫌だった。
「……気に入ってるのかって聞かれたら、わかんねぇよ。」
小さく息を吐く。
「けどな、今までの女とは違うんだ。
見た目とか、そういうもんじゃねぇ。」
レギュラスの名を口にするたび、
胸の奥がざらつく。
弟への憎しみと愛情とが、いつだって曖昧に絡み合っている。
そして今は、そこに“彼女”の存在が加わってしまった。
「……ただ、もっといろんな世界を見せてやりてぇんだ。
笑ってる顔を増やしてやりてぇ。
それだけでいい。何も背負わせたくねぇ。」
シリウスの声は、いつになく穏やかだった。
その言葉の裏にあるのは、救いへの願い。
封印の力なんて、使わなくていい。
誰かの命令で生きる必要もない。
ただ“そこにいてくれればいい”。
ジェームズは長い沈黙の後、小さく笑った。
「君はほんとに、面倒くさい男だな。」
シリウスは肩をすくめた。
けれど、目の奥にはもう迷いがなかった。
――あの女を、レギュラスの檻から出してやる。
それがどんな結果を呼ぼうとも。
外では風が唸り、
夜空に走る稲光が、一瞬だけ彼の横顔を照らした。
その瞳は、まるで嵐の中の狼のように鋭く、
そしてどこか悲しげに光っていた。
朝の光はまだ柔らかく、薄いカーテン越しに金色の筋を描いていた。
寝室の静寂を破ったのは、軽やかな羽音と、窓ガラスを叩く小さな爪の音だった。
「……朝から何ですかね。」
半ば寝ぼけ声でレギュラスが呟く。
昨夜の名残が、まだ体の芯に残っていた。
まぶたは重く、夢と現の境目をさまようような倦怠感が全身に纏わりついている。
それでも、窓を開けに立ち上がったアランの動きが視界に入ると、自然と目を開けた。
アランは淡い寝間着姿のまま、羽音の主を迎え入れる。
窓を開けた瞬間、冷たい朝風とともに一羽のフクロウが部屋へと滑り込み――
次の瞬間、羽を大きく広げ、まるでいたずらっ子のようにくるりと一回転した。
風が舞い、
寝室いっぱいに花びらがばらまかれた。
赤、白、黄、紫――。
春の庭を丸ごと閉じ込めたかのような、色とりどりの花々が
ふわり、ふわりと舞い落ちてくる。
アランは驚きに目を見開き、
それからまるで子供のように頬を緩めて、手を伸ばした。
花びらを一枚すくい上げ、光に透かして笑う。
その無垢な喜びの表情に、レギュラスの胸の奥が一瞬温かくなる。
――が、次の瞬間にはその温もりが氷のように凍りついた。
花に込められた魔力の痕跡が、指先から伝わる。
間違いない。
シリウス・ブラックのものだった。
兄の名が頭に浮かんだ瞬間、
昨夜の余韻も、穏やかな朝の気配も、すべてが霧散する。
唇を噛み、レギュラスは低く息を吐いた。
「……なんてことを。」
彼はすぐに杖を抜き、
床に散らばった花々へと向けて短く呪文を唱える。
「Finite incantatem.」
しかし、花は霧のように消えるどころか、
一瞬だけ眩しく光り、次には形を変えた。
淡いピンク色の花弁が開き、
そこから――声が溢れ出した。
「アラン! シリウス・ブラックからの贈り物だ。
今度、一面のコスモス畑を見に行こう!」
まるで陽気な冗談のような明るい声。
だが、レギュラスにとっては、
それは悪意そのものに聞こえた。
――兄のやり方だ。
呪文の解除まで計算に入れて、二重に仕込む。
握った杖の先がわずかに震えた。
怒りが血管を這い、静かな怒号が内側で響く。
朝から、兄の声を聞かねばならないなど――最悪だ。
しかも、その声にアランが反応している。
目を丸くして驚いたかと思えば、
頬を赤らめて笑みを浮かべる。
花の魔法に、無邪気に喜ぶ。
その一つ一つの仕草が、レギュラスの胸を締めつけた。
彼女は、悪気があって笑っているわけではない。
ただ、美しいものに笑いかける少女のように、自然に笑っているだけだ。
だが――その笑顔の理由が“シリウス”であることが、どうしようもなく腹立たしい。
「……最悪の朝だ。」
低く呟いた声は、怒りと苦笑の境目のようだった。
アランはその声に気づかぬまま、
床に落ちた花びらを拾い集めていた。
その姿がまた、どうしようもなく愛おしく、そして苦しかった。
レギュラスは杖を振り、花びらの残滓をすべて消し去る。
けれど、部屋にはまだ淡い香りが漂っていた。
まるでシリウスの嘲笑のように、いつまでも消えずに。
彼は深く息を吸い込み、
無理やり平静を装うように言った。
「……朝食にしましょう。もう、花は――いりません。」
その声の奥に、僅かな棘が滲んでいた。
アランはただ静かに頷き、花びらの残り香の中で小さく微笑んだ。
――けれど、レギュラスの心の中ではもう、
甘やかな夜は跡形もなく砕け散っていた。
朝の食卓には、湯気の立つスープと焼きたてのパンの香りが漂っていた。
だがその温もりとは裏腹に、テーブルの上には静かな緊張が張り詰めていた。
レギュラスはナイフとフォークを手にしているが、動きはどこかぎこちない。
無言のまま皿の上の卵を切り分けるたび、銀の刃が皿を叩く硬い音が響いた。
アランは対面で微笑んでいた。
まだ花の魔法の残り香を思い出しているのだろう。
その頬には、朝の光のような柔らかい喜びの名残があった。
――その無垢な笑顔が、レギュラスの胸をいっそう苛立たせた。
彼女は気づいていない。
自分が今、どれほど怒りと困惑を抑えているのか。
シリウスの名がまた頭の中をよぎるたび、
血の気が冷たく引くような感覚が襲ってくる。
「……」
パンをちぎる音。
スープをすくう音。
会話のない朝食ほど味気のないものはない。
だが、言葉を交わせば、それはきっと小さな棘になる気がして。
レギュラスはひたすら黙り続けた。
アランはそんな彼の心情など露ほども知らず、
ただ小鳥のように控えめな仕草でスープを口に運んでいた。
翡翠の瞳がきらりと光を宿している。
その輝きが、まるでシリウスの花の魔法の続きを見ているようで、
レギュラスは息を詰めた。
――なぜ、こんなにも自分は小さなことに心を乱すのか。
彼女の笑顔ひとつで、なぜ平静を失うのか。
苛立ちは、もはや兄にではなく、自分自身に向かっていた。
自分の中に潜む余裕のなさが、露わになっていくのがわかる。
怒りではなく、焦り。
嫉妬でもなく、恐れ。
食事を終えたとき、
レギュラスは椅子を引く音さえ荒々しく感じてしまった。
「……戻ります」
短くそう言い残すと、
彼はアランを待たずに立ち上がり、そのまま食卓を出ていった。
アランは一瞬、何が起こったのかわからないというように瞬きをした。
食器を片付けようと立ち上がったが、足が止まる。
レギュラスの背中が扉の向こうに消える。
慌てて杖を手に取り、その後を追った。
彼女の足音は小さい。
けれどその焦りの色は、部屋の空気を震わせていた。
廊下の窓から射す朝の光が、
ふたりの間の見えない距離をくっきりと照らしていた。
そしてレギュラスの胸の奥では、
まだ消えぬ苛立ちの残滓が静かに燻っていた――
まるで燃え尽きた灰の下に残る、熱を帯びた赤い炭のように。
執務室の扉が静かに閉まる音がした。
レギュラスは何も言わず、黒檀の机の前に腰を下ろした。
魔法法務部の重厚な空気が、いつも以上に冷たく感じられる。
外の光を遮るように、カーテンの隙間から細く射す陽が机の上を横切っていた。
アランはソファに腰を下ろしていた。
彼の背中を見つめる。
沈黙が重く積もっていく。
言葉を発してはいけないような空気だった。
でも――それでも、何かをしたかった。
何か、彼の心を和らげられることを。
そっと立ち上がり、音を立てぬよう歩み寄る。
机の傍に立つと、レギュラスがペンを走らせる手を一瞬止めた。
アランは手にしていたものを差し出す。
それは――朝、シリウスの魔法で撒き散らされた花びらを、
ひとつひとつ拾い集めて、
自らの魔法で静かに束ねた小さな花束だった。
魔力の残滓を洗い流すように、彼女なりに清めの呪文をかけ、
香りだけが残るように仕立て直していた。
淡い桃色と白の花々が、指の間で柔らかく揺れる。
その香りが、ふと部屋の空気を優しく包んだ。
――けれど、それがいけなかった。
同じ香り。
同じ花。
朝の、あの不快な出来事の記憶をまざまざと呼び起こす匂い。
シリウス・ブラックの笑う顔が、
脳裏に浮かぶようだった。
「……アラン。」
低い声。
アランは小さく首を傾げた。
翡翠の瞳が純粋に光っている。
まるで、贈り物を渡す子供のように――ただ彼を喜ばせたかった。
だが、その“無垢さ”が、レギュラスの胸を締めつけた。
その花の香りが、彼にとってはもう“毒”でしかなかった。
冷たく、痛みを伴う記憶を蘇らせる。
「……シリウス・ブラックの魔力を、ひしひしと感じます。
――不愉快です。」
思っていたよりもずっと冷たく、
突き放すような声音になっていた。
アランは動きを止めた。
その瞳に、理解と戸惑いが交錯する。
少しの沈黙のあと、ゆっくりと花束を胸の前に下げた。
彼女の指がわずかに震えている。
言葉を失ったアランの姿に、レギュラスの胸が痛む。
分かっている。
アランは悪くない。
むしろ、こんなにも自分を想い、気遣ってくれている。
機嫌を取ろうとしてくれている――それが、痛いほどに伝わっている。
それでも、抑えきれなかった。
自分の中の小さな嫉妬や、兄への嫌悪や、
そして何より、彼女の心が誰か別の魔力に反応することへの恐怖が。
「……すみません、酷い言い方をしましたね。」
謝罪の言葉を探したが、
喉の奥からは掠れた声しか出てこなかった。
アランはかすかに首を振る。
大丈夫だというように、柔らかく微笑んだ。
その笑みが、却って胸を締めつける。
花束の香りがまだ残っている。
それはシリウスの残した呪文でも、アランの優しさでもなく――
レギュラス自身の“弱さ”の匂いのように思えた。
彼は深く息を吐き、
ゆっくりと目を閉じた。
その瞬間、机の上の蝋燭がかすかに揺れ、
炎の光が二人の間の沈黙を切り裂いた。
――愛しいものほど、壊したくなる。
その矛盾が、胸の奥で静かに軋んでいた。
執務室の重たい扉が静かに閉じてから、どれほどの時間が経ったのか。
アランはただ、俯いたまま、自分の手の中に残る花の残り香を見つめていた。
その香りが――彼を苦しめてしまった。
そのことを、痛いほどに悟っていた。
レギュラスに、シリウスの痕跡さえ見せてはならない。
彼のあの顔――あの冷たく沈んだ瞳を、もう二度と見たくなかった。
ただ喜んでもらいたかっただけだったのに。
綺麗だと、笑ってくれるとばかり思っていた。
同じものを見て、同じように「美しい」と感じられると思っていた。
けれど、そうじゃなかった。
彼と自分は、見ている“世界”の根本から違う。
そのことを、初めて知ってしまった。
静寂が落ちた執務室に、レギュラスの声が優しく割り込んだ。
「……アラン、さっきはすみません。
気分を変えましょう。何か、美味しいものでも食べに行きませんか。」
その声には、先ほどまでの冷たさはなかった。
それどころか、無理にでも穏やかさを取り戻そうとする
“必死な優しさ”が滲んでいた。
アランは顔を上げた。
彼の笑みはぎこちなかったが、
それでも――アランには痛いほど嬉しかった。
けれど同時に、罪悪感が胸を締めつける。
彼を苛立たせたのは自分だ。
そして、彼が自分を責めてまで笑おうとしてくれている。
それがわかるからこそ、
アランは、ただ静かに頷くことしかできなかった。
レギュラスは立ち上がり、彼女の手を取った。
細い指が、彼の手に包まれる。
冷たい指先だった。
その温度に気づいたレギュラスは、彼女の手をもう一度強く握り直す。
魔法省の外に出ると、冬の風が頬を刺した。
石畳を渡る風は、塔の隙間を抜けるたびに笛のような音を鳴らした。
アランの髪が揺れ、翡翠の瞳が瞬く。
「ちゃんと締めておかないと、寒いですよ。」
レギュラスが小さく杖を振る。
すると、アランのローブの前がふわりと閉じ、
銀糸のような魔法の糸が静かに留め具を結んだ。
その所作はあまりにも自然で、
まるで壊れやすい宝石を扱うかのようだった。
アランは杖を取り出し、
宙に細い筆跡を描くようにして言葉を綴る。
――「この前のカフェはどうですか?」
レギュラスはその文字を見て、少しだけ微笑んだ。
だがすぐに首を振る。
「違うところに行きましょう。
せっかくですから、今日は少し気分を変えたい。」
風に揺れるローブの裾が、ふたりの間をすれ違う。
アランは一歩、彼の隣に並んだ。
その横顔にはまだわずかに翳りが残っていたが、
それでも彼の言葉に従い、静かに歩き出した。
空は淡い灰色。
魔法省の高い塔の間を抜け、
ふたりは石畳の街へと下りていく。
足を止めたのは、
以前とは違う小さなカフェ――
窓際にドライフラワーが飾られた、静かな店だった。
扉を開けると、柔らかな香ばしい匂いが流れ込む。
レギュラスはアランに椅子を勧めながら、
その指先を一瞬見つめた。
小さく震えている。
「……暖かいものを頼みましょう。冷えましたね。」
その声は、まるで自分自身にも言い聞かせているようだった。
――もう怒ってはいない。
そう示すために、彼は今日、何度も優しくなろうとした。
けれど、アランの心の奥では、
彼の優しさほど痛みを感じるものはなかった。
香り立つカフェの中で、
ふたりの間に漂う沈黙だけが、
まだどこか冬の風の冷たさを孕んでいた。
薄曇りの空の下、騎士団本部の一室には静かな緊張が漂っていた。
壁にかけられた古い魔法地図が微かに震え、そこに刻まれた線が淡く光を放っている。
ジェームズ・ポッターはその地図を背に、両腕を組んで窓辺に立っていた。
ガラス越しに見える曇天は重く、世界そのものが息を潜めているようだった。
「……アラン・セシール。」
その名を口にするたび、部屋の空気がひときわ冷たくなる気がした。
ヴォルデモートの“永遠”を成す核のひとつ――
おそらく、彼女はそれを封印している。
彼女の命を絶たないかぎり、その封印は解けない。
そして封印が解けない限り、ヴォルデモートを滅ぼすこともできない。
ジェームズはゆっくりと目を閉じた。
瞼の裏に、淡い翡翠の瞳が浮かぶ。
静かで、儚く、それでいてどこか底知れない光を宿した瞳。
あの瞳の奥には、幾度となく痛みを飲み込んできた影が潜んでいるように見えた。
「――仕方のない犠牲、か。」
誰に言うでもなく、独りごちた。
たった一人の命。
世界の安寧を取り戻すために、その犠牲が必要なのだとしたら。
それは“理”として、きっと間違っていない。
だが、心のどこかが強く拒んでいた。
彼女の死を肯定することは、あまりに冷酷で、人として何かを失う気がした。
そして――面倒なのは、その迷いが自分ではなく、親友の中にも芽生えつつあることだった。
「お前、まさか……」と、数日前、ふと投げかけた言葉を思い出す。
シリウスは肩をすくめて笑い飛ばした。
「そんなわけねぇだろ。俺はただ、あの女を助けたいだけだ。」
だがジェームズは知っていた。
親友の嘘は、笑顔の隙間に滲む。
否定の言葉の中にこそ、真実が顔を覗かせるのだと。
あの灰色の瞳が、アランを見るときだけわずかに揺らぐ。
戦場でも動じない男が、彼女の名前を出されるとわずかに言葉を詰まらせる。
ほんの些細な変化――だが、それを見逃せるほどジェームズは鈍感ではなかった。
彼女に惹かれている。
そんなことは認めたくないに決まっている。
けれど、シリウスの胸の奥で、確実に何かが動き出している。
ジェームズは深く息を吐き、両手をポケットに押し込んだ。
外では風が唸り、古い窓が軋む。
冷たい風がわずかに吹き込み、書類の端を揺らした。
「……厄介だな。」
呟きが沈むように消える。
理と情がせめぎ合う中で、どちらを取るべきか分からない。
それでも“戦い”は待ってはくれない。
ヴォルデモートを討つためには、アラン・セシールの封印を解かなければならない。
そのためには、彼女の命が必要だ。
――それだけが、揺るぎない現実だった。
けれどもし、その現実を“壊したい”と思う者が現れたとしたら?
その者が、他ならぬ親友であったとしたら?
ジェームズの胸に、重たい予感が落ちていく。
シリウス・ブラック。
いつも正義の炎を掲げて戦ってきた男が、
たった一人の女のためにその炎を手放してしまうかもしれない――。
その可能性を思うだけで、
彼の心の奥に冷たい影がゆっくりと広がっていった。
屋敷の大広間に、冷えた空気が満ちていた。
冬の陽はとうに沈み、重々しいカーテンの隙間からわずかに差す燭の光が、磨かれた黒檀の床をかすかに照らしている。
古い肖像画たちが壁に並び、どれも一族の誇りと傲慢を湛えたまま、無言でこの言い争いを見つめていた。
「――あんな娘を? 滅びた一族の娘を妻に、ですって?」
ヴァルブルガ・ブラックの声は、空気を裂くように鋭かった。
その怒気は、雷鳴のように屋敷全体を震わせる。
手にしたティーカップが卓に叩きつけられ、紅茶が滴となって銀の皿を濡らした。
対するレギュラスは、毅然と立っていた。
黒いローブの襟元をきちんと正し、母の前から一歩も引かない。
彼の灰色の瞳には冷たい光が宿っていたが、その奥にはわずかに焦燥の影が揺れていた。
「貴重な血です。彼女の血筋は、セシール家。
闇の帝王の信頼を――独占できます。」
その声は静かだったが、確かな決意があった。
だがその言葉に、ヴァルブルガの瞳がぎらりと光る。
「地下牢で育ったような娘が、この家を背負えるとでも思っているの?」
その声音には、あからさまな侮蔑が滲んでいた。
母の唇は、薄く吊り上がっている。
純血の誇りを何よりも重んじる彼女にとって、滅んだ家の娘を“ブラック”の名で迎えるなど、もはや冒涜以外の何ものでもなかった。
「知性も教養も、これから身につけていけます。」
レギュラスの言葉には迷いがなかった。
「口も聞けない女が、どうやってそれを証明するというの!」
ヴァルブルガの手が、怒りに震えている。
その声は甲高く、まるで古い屋敷の壁を震わせる悲鳴のようだった。
レギュラスはわずかに目を伏せ、
それから、ゆっくりと息を整えて言った。
「……口が聞けないからこそ、彼女は何も言いません。
母さんのことも、この家のことも。
何が降りかかっても、声をあげることはない。」
その言葉には、一瞬の沈黙が落ちた。
まるで屋敷そのものが息を止めたようだった。
ヴァルブルガは眉をひそめ、息を吸い込む。
だがその怒気の奥に、わずかに考え込むような気配が混じった。
“何も言わない女”――その言葉が、彼女の支配欲をくすぐったのだ。
声を上げないということは、反論しないということ。
反論しないということは、従順であるということ。
母のヒステリックにも、父の冷たい威圧にも、
この屋敷を包む息苦しい沈黙にも、彼女は逆らうことができない。
その存在は、ヴァルブルガにとって恐ろしいほど“都合がいい”。
己の思うように形づくり、飾り立て、従わせることができる――完璧な人形。
ヴァルブルガの唇がゆっくりと歪んだ。
「……お前は、本当に父親に似てきたわね。
理屈と計算でしかものを見ない。」
その言葉に、レギュラスの胸の奥が微かに痛んだ。
けれど、顔には出さない。
「僕は理で動いています。感情ではありません。」
母と息子――二人の冷たい視線が交錯する。
その間には、家の誇りという名の鎖が張り詰めていた。
ヴァルブルガは長く息を吐き、扇で口元を隠した。
「……その娘が本当に“役に立つ”ならば、見せてもらうわ。」
それは認めたわけではない。
ただ、計算の余地を残しただけだった。
レギュラスは静かに頭を下げた。
母の怒りの影の奥に、わずかに光る興味の色を見たのだ。
それで十分だった。
けれど、胸の奥ではわかっていた。
母がアランを認める理由は“愛”ではない。
“利用”だ。
この家に男児が生まれれば、ブラック家の未来を担うと喜ぶだろう。
女児であっても、封印の力を継ぐ娘として、
魔法界における地位を独占することができる。
――アラン・セシール。
その名を胸の奥でそっと呼ぶ。
彼女は決して“道具”ではない。
けれど、母の前ではそう見せかけるしかない。
そうでなければ、
彼女をこの屋敷に置いておくことすら、許されないのだから。
レギュラスは静かに拳を握った。
蝋燭の灯りが、彼の瞳の奥で静かに揺れていた。
その中で、レギュラスは静かに腰掛けていた。背筋をぴんと伸ばし、動かぬように見えるほど静謐な姿勢。けれどその胸の奥では、じわりと焦燥が渦を巻いていた。
権力を与えられるということは、決して自由ではない。
むしろ、枷に近い。
「力」とは人を縛り、重しとなってその行動を制限する。
決定権を持つというのは、選択を許されぬ立場を意味していた。
今、魔法裁判の壇上で読み上げられているのは、マグルボーンの魔法使いによる弁論。
“偏見をなくし、平等を”と訴えるその声は、どこまでも澄んでいて、どこまでも青臭い。
正義を語るその響きが、なぜこれほど耳障りなのか――レギュラスは理解していた。
理想という名の幻想は、いつだって現実の犠牲を見ない。
“我々マグルボーンにも、同じ未来を――”
レギュラスは目を伏せた。
すでに、自分の票は有罪にサインをしている。
判決は決して覆らない。
それでもなお、この茶番を最後まで見届ける義務がある。
権力を持つ者として。ブラック家の名を背負う者として。
けれど――心の奥にあったのは、別の想いだった。
“アランは、今、執務室で待っているだろうか。”
暖炉の灯が揺れ、彼女の髪を照らしている情景が脳裏に浮かぶ。
静かに膝の上で本をめくり、時折こちらを見る、あの翡翠の瞳。
その穏やかな光景を思い浮かべるだけで、胸の緊張がわずかにほどけた。
しかし、法廷は長引いた。
弁論の無駄なやり取りが延々と続き、時の流れが重たく淀む。
ペンを握る手に力がこもる。
「……くだらない。」
誰にも聞こえぬほどの声で呟き、判決文に署名を終える。
ようやく全てが終わった頃には、外の空は深く暮れていた。
冷たい空気が法廷を出た途端に頬を撫でる。
その冷たさに、アランの待つ執務室の温かさを思い出す。
足早に廊下を抜け、扉を開けた。
――そこに、彼女の姿はなかった。
心臓が一瞬止まる。
机の上には、読みかけの本と、まだ湯気の残る紅茶のカップ。
つい先ほどまで、確かにここにいた気配。
けれど姿がない。
「……アラン?」
呼んでも、返事はない。
血の気が引いていく。
嫌な想像が、矢継ぎ早に脳裏をかすめた。
まさか、闇の帝王の手が――。
慌てて扉を押し開けようとしたその時、廊下の奥から軽やかな足音が近づいてくる。
アランだった。
安堵の息が一気に漏れる。
「どこにいたんです?」
レギュラスの声が思いのほか鋭く響いた。
彼女は杖を持って空中に小さく文字を描いた。
《シリウス・ブラックがやって来ました。少しお話をしていました。》
一瞬で、心の奥に熱が走った。
――シリウス。
最も会わせたくない人間。
最も、彼女のそばに立たせたくない存在。
「……は?」
声が自分でも驚くほど低く漏れる。
喉の奥が焼けるように熱い。
怒りと、焦燥と、わずかな嫉妬が、胸の奥でせめぎ合う。
「シリウスと、何を話しました?」
努めて冷静に――そう思ったのに、声は氷のように冷たく響いた。
アランが一瞬、怯えたようにまばたきをした。
《あなたとのことを、少しだけ話しました。》
――息が詰まる。
「……あまり、僕とのことに関しても話さないでください。」
思わず、言葉が突き放すように出てしまった。
理性よりも先に、感情が動いた。
アランは小さく肩をすくめ、静かに頭を下げた。
その仕草は、まるで怒られた小鳥のように小さくて、か細かった。
その背中を見た瞬間、胸が締めつけられた。
――違う、そんなつもりじゃなかった。
けれど、取り返す言葉が出てこない。
翡翠の瞳が揺れていた。
その奥には怯えと戸惑い、そしてほんの少しの悲しみが滲んでいた。
彼女の唇が震え、けれど声は出せない。
静寂が部屋を支配する。
外では風が窓を叩いていた。
その音がやけに冷たく響く。
レギュラスは、拳を握りしめたまま目を閉じた。
――力を持つということは、自由を失うということ。
その言葉が、また胸の奥で静かに蘇る。
自分は権力に縛られ、
そして今――愛する人を、自らの手で縛りつけようとしている。
レギュラスの心の奥で、冷たい波が静かに立ち上がった。
アランの微笑みを見ていながらも、胸の奥では疑念の棘が抜けない。
なぜ、シリウスがアランに近づいたのか。
理由のない行動ではない。兄はいつだって目的を持って動く。
そして、アランに触れる理由など、ひとつしか思い浮かばなかった。
――探るためだ。自分を。
レギュラスは無言のまま、深く息を吐いた。
こみ上げてくる焦燥をどうにも抑えられず、静かに声を落とす。
「……アラン。杖を、少し借りれますか?」
彼女は驚いたように瞬きをしたが、迷いながらも杖を差し出した。
レギュラスの掌に収まるその細い杖は、彼女の手の温もりをまだ宿していた。
指先に伝わる微かな熱が、余計に胸を締めつける。
杖先を光にかざし、
低く、古い呪文を唱える――
“Revelium vestigia.”
淡い銀の光が杖の軌跡を描き始めた。
空気がわずかに震え、透明な幕のような魔法陣が広がっていく。
やがて、その中に、光の文字が浮かび上がった。
──《闇の帝王には数回しか会っていない》
──《長い間捉えられていた》
──《セシール家の封印の術を施したのか》
──《何に術を施したのかはわからない》
光の粒が、彼女の筆跡のように宙を流れていく。
アランの指が震えながら描いたであろうその文字は、
まるで“真実”そのもののように生々しく、
逃れようのない現実を突きつけてきた。
レギュラスの胸の奥で、重い息が漏れた。
「……はぁ。」
それはため息というより、怒りと絶望を押し殺した音に近かった。
シリウスの顔が脳裏をよぎる。
――あの男なら、もう気づいている。
アランが闇の帝王の何かを封じていることに。
そして、自分がその女を傍に置く理由にも。
ヴォルデモートに近づきながら、同時に彼の秘密を守り、
その核心を“愛”の名のもとに囲っている男――
そう見えてしまうだろう。
そして、兄なら必ず動く。
アランを「救い出す」と称して、奪いに来る。
唇の端が震えた。
舌打ちが、思わず漏れる。
「チッ……」
杖を握る手に力がこもる。
怒りの矛先は兄か、それとも自分の無防備さか――わからなかった。
ふと視線を向けると、アランが身を縮めていた。
怯えたように肩をすぼめ、
杖を返してもらうこともできず、ただ立ち尽くしている。
彼女の翡翠の瞳には、不安と悲しみが混ざり合っていた。
――また、怖がらせてしまった。
本当は詰問なんてしたくなかった。
彼女を疑いたくなんて、なかった。
けれど、どうしても、兄と彼女の接触が許せなかった。
静かに、しかし強く言葉を落とす。
「アラン。……二度と、シリウス・ブラックに接触しないことを約束してください。」
アランの目が大きく揺れた。
だが、すぐに小さく頷いた。
一度、二度、三度。
まるで祈るように、繰り返し首を縦に振る。
その仕草が、かえって胸を締めつけた。
守るための言葉だったのに――
まるで、彼女をまた檻に閉じ込めてしまったような気がした。
光の魔法陣が静かに消え、杖の光も落ちる。
部屋の中に残ったのは、
インクの香りと、互いの呼吸だけだった。
レギュラスは杖を彼女に返しながら、
その指先が自分に触れた瞬間、
喉の奥で小さく息を呑んだ。
「……ごめんなさい。」
声にならぬ謝罪が、胸の内で崩れ落ちた。
けれど言葉にはならないまま、
その夜もまた、沈黙だけが二人の間に降り積もっていった。
夜の帳がゆっくりと降りていた。
寝室の中はほのかに揺れるランプの光がひとつ。
その明かりの下、レギュラスはベッドの縁に身を沈め、無言のまま天井を見つめていた。
アランは隣にいる。
けれど、その存在の温もりさえ、今はどこか遠く感じる。
頭の中は騒がしかった。
兄――シリウスの顔が幾度となく脳裏を過ぎる。
そして、騎士団の連中の思惑。
彼らが次にどんな手を使い、アランに接触してくるのか。
そのすべてを想像するたびに、冷たい怒りが胸の奥で燻った。
どう防げばいい?
屋敷の中なら安全だと思っていた。だが、完全ではない。
自分の目が届かない隙――たとえば法廷や執務室での時間。
その間に、彼女へ誰かが近づく可能性を、完全に排除することはできない。
「……いっそ、どこにも出さなければいい」
一瞬、そんな考えが頭をかすめる。
外界と断たれた場所――
彼女がかつて囚われていたあの暗い地下牢のように。
だが、すぐに思考を打ち消した。
――それだけは絶対に違う。
あの闇の底から彼女を救い出したのは、自分だ。
光のもとに戻してやりたかった。
自分の手で閉じ込めるような真似をすれば、
彼女を再び闇に戻すことになる。
そんなことをしてまで守る価値が、果たして“愛”と呼べるのか。
考えを巡らせているうちに、レギュラスの眉間には深い皺が寄っていた。
そのとき――細い指がそっと腕に触れた。
アランだった。
寄り添うように体を傾け、胸元に顔を埋めてくる。
翡翠の瞳が、怯えと不安を宿したまま、上目づかいに彼を見上げた。
その視線が痛いほどに真っ直ぐだった。
――あぁ、察しているのだ。
自分の沈黙を、怒りの証だと思って。
怯えながらも、それでも離れず傍にいる。
その健気さが胸を刺した。
レギュラスはゆっくりと息を吸い、声を絞り出す。
「……すみません、アラン。考え事をしていました。怒っているわけじゃありません。」
穏やかに言ったつもりだった。
けれど、低く乾いた声が、逆に彼女を安心させるにはほど遠かった。
アランの表情はまだ曇っている。
細い肩がかすかに震え、何かを探すように彼の胸に顔を寄せた。
どうすればいいのか、分からなかった。
彼女を安心させたい。けれど、言葉では届かない。
言葉という手段を持たぬ彼女に、どう伝えればよいのか。
だから、レギュラスは口づけでそれを覆った。
最初から深く、奥まで満たすような口づけ。
焦燥と愛情が混ざり合い、彼の唇が彼女の息を奪う。
その瞬間、世界が静まり返った。
アランの指がシーツを握り、肩がわずかに跳ねる。
唇が触れ合うたび、彼女の呼吸が乱れていく。
まるで不安や恐れのすべてが、キスの熱に溶けていくようだった。
唇を離したとき、アランの瞳はとろりと潤み、
頬は桜色に染まっていた。
その表情は、何も知らぬ少女のようで――同時に、ひどく扇情的だった。
レギュラスはその頬を撫で、震える声で言った。
「アラン……僕は、あなたと僕の血を継ぐ子が、欲しいのです。」
その言葉は、嘘でも飾りでもなかった。
彼の心の底から出た、真実だった。
この家の名誉のためでもある。
闇の帝王からアランを守るための盾としても。
そして何より――彼女を、永遠に自分のものとして繋ぎ止めるための。
アランは目を見開き、静止した。
息をすることさえ忘れているように、じっとレギュラスを見つめていた。
その瞳に映るのは、困惑か、恐れか、それとも……。
レギュラスは何も言わず、再び唇を重ねた。
言葉では届かぬ想いを、唇で伝えようとするように。
その夜、静かな寝室の中で、
灯りがゆらめくたびに二人の影が寄り添っては、溶け合っていった。
けれどその温もりの奥に――
確かな不安と、避けがたい運命の影が、ひっそりと息づいていた。
薄闇に沈む寝室の空気は、静かな波のようにゆるやかに揺れていた。
窓の外から差し込む月の光が、カーテンの隙間から細い帯となって床を撫でている。
その淡い光の中で、二人の影が寄り添っていた。
レギュラスは、出来るだけ多くの時間をかけるようにした。
焦ってはいけないと思った。
この行為が、もはや怒りや支配ではなく、赦しと愛情であるのだと、彼自身が証明する唯一の方法のように感じられたからだ。
絡め合う指先に、彼女の体温が伝わる。
震えるほどに細く、けれど確かなぬくもり。
指の節が重なり、掌が溶けるように一つになる。
唇を重ねた瞬間、呼吸と鼓動の境が曖昧になっていく。
互いの体の境界が失われていくたびに、心の奥底で何かが解けていくようだった。
――これは怒りではない。
レギュラスは、息を詰めながらそう思った。
胸の奥を満たしているのは、確かに愛だった。
触れるたびに、彼女の存在が現実となって押し寄せてくる。
その重さが、やがて彼を包み込み、痛みの記憶すら優しく溶かしていった。
アランの表情が、光の陰影の中でゆっくりと歪んだ。
快楽と戸惑いと、微かな恐れと――すべてが混ざり合った複雑な色。
けれどそのどれもが、今この瞬間、彼女が生きている証だった。
地下の闇から救い出して以来、アランはいくつもの顔を見せてくれるようになった。
笑った顔も、不安に沈む顔も。
そして今、こうして男の腕の中で乱れ、息を震わせる顔も。
レギュラスはそのすべてを、自分の手で与えたのだと思うと、胸が熱くなる。
愛を知ることも、痛みを知ることも、涙を流すことも――彼女の中でひとつひとつ芽生えていった感情の種が、ようやく今、花を開かせているように感じた。
「……アラン」
囁く声が、彼女の首筋に触れて震える。
その名を呼ぶたび、アランの指がきゅっと強く背に絡みついた。
拒絶ではない。
恐れでもない。
そこにあるのは、確かに求める意志だった。
レギュラスはそのまま、ゆっくりと額を重ねた。
互いの呼吸が交じり合うたび、部屋の空気が少しずつ熱を帯びていく。
ふたりの間に横たわっていた長い沈黙や、過去の痛み、罪悪感――すべてがこの夜の中で静かに溶けていくようだった。
やがて、ただの音も言葉もなく、静けさだけが残った。
それは決して虚無ではなく、満たされた静寂だった。
互いの存在が確かにここにあると、そう感じられるだけで十分だった。
灰色の雲が垂れ込めたような空の下、
騎士団の本部の一室では、シリウスが大きな机の縁に腰を掛け、
両手を組んだまま低く息を吐いていた。
その向かいで、ジェームズが肘をついて、
まるで旧友の告白を待つかのように穏やかに微笑んでいる。
「……レギュラスが、あの女をどうして隣に置いているのか。やっとわかったよ。」
シリウスの声は乾いていた。
「ヴォルデモートの監視から抜け出したと思ったら、
今度はレギュラスの監視下だ。……何が違うんだ、あれじゃ。」
口調こそ冷たいが、瞳の奥には焦燥が滲んでいた。
指先が落ち着きなく膝を叩く。
彼の頭の中では、アランの翡翠の瞳が何度も浮かんでは消えていった。
ジェームズは少し間を置いてから、静かに口を開く。
「で、君はその子をどうしたいんだい?」
その問いは柔らかい。けれど、どこか探るような響きが混じっていた。
シリウスは眉をしかめ、
「どうって……別に、何に利用されることもなく、
普通の生活を送ってほしいだけだ」と吐き捨てるように言った。
ジェームズはふっと笑う。
「彼女は君の弟を慕っているんだろ?
なら、無理に引き剥がさなくてもいいんじゃないのか?」
その言葉に、シリウスの胸が重く鳴った。
アランがレギュラスを慕う――それは確かにそうなのだ。
けれど、それは“本当の意味”での想いではない、と彼は思っていた。
「慕ってるって言ってもな、あれは“知らないから”だ。
あの狭い世界の中で、レギュラスだけが優しかった。
他に誰も知らなけりゃ、そりゃあ慕うしかねぇだろ。」
言葉と同時に、机の上の羽ペンが震えた。
シリウスの中にあるのは怒りではなく、もどかしさだった。
レギュラスの意図を理解してしまった今、
放っておくことがどうしてもできなかった。
「もっと広い世界を知れば、きっと気づくはずだ。
あいつのやり方に、そしてあいつの思惑に。」
声が低く、静かに震えていた。
ジェームズは腕を組んだまま、じっと彼を見つめていた。
「……君はその子を気に入ってるんだな?」
その一言が、まるで刃のように胸に突き刺さる。
シリウスは思わず顔を上げた。
「ち、違ぇよ。そんなつもりじゃねぇ。」
けれど否定の言葉が口を出た瞬間、
脳裏にはあの翡翠の瞳が浮かんでいた。
光を映すたびに色を変える、深い緑の湖のような瞳。
風に靡く淡い髪。
そして、微笑んだときに唇の端がかすかに震える仕草。
――綺麗だ、と無意識に思ってしまった自分が、嫌だった。
「……気に入ってるのかって聞かれたら、わかんねぇよ。」
小さく息を吐く。
「けどな、今までの女とは違うんだ。
見た目とか、そういうもんじゃねぇ。」
レギュラスの名を口にするたび、
胸の奥がざらつく。
弟への憎しみと愛情とが、いつだって曖昧に絡み合っている。
そして今は、そこに“彼女”の存在が加わってしまった。
「……ただ、もっといろんな世界を見せてやりてぇんだ。
笑ってる顔を増やしてやりてぇ。
それだけでいい。何も背負わせたくねぇ。」
シリウスの声は、いつになく穏やかだった。
その言葉の裏にあるのは、救いへの願い。
封印の力なんて、使わなくていい。
誰かの命令で生きる必要もない。
ただ“そこにいてくれればいい”。
ジェームズは長い沈黙の後、小さく笑った。
「君はほんとに、面倒くさい男だな。」
シリウスは肩をすくめた。
けれど、目の奥にはもう迷いがなかった。
――あの女を、レギュラスの檻から出してやる。
それがどんな結果を呼ぼうとも。
外では風が唸り、
夜空に走る稲光が、一瞬だけ彼の横顔を照らした。
その瞳は、まるで嵐の中の狼のように鋭く、
そしてどこか悲しげに光っていた。
朝の光はまだ柔らかく、薄いカーテン越しに金色の筋を描いていた。
寝室の静寂を破ったのは、軽やかな羽音と、窓ガラスを叩く小さな爪の音だった。
「……朝から何ですかね。」
半ば寝ぼけ声でレギュラスが呟く。
昨夜の名残が、まだ体の芯に残っていた。
まぶたは重く、夢と現の境目をさまようような倦怠感が全身に纏わりついている。
それでも、窓を開けに立ち上がったアランの動きが視界に入ると、自然と目を開けた。
アランは淡い寝間着姿のまま、羽音の主を迎え入れる。
窓を開けた瞬間、冷たい朝風とともに一羽のフクロウが部屋へと滑り込み――
次の瞬間、羽を大きく広げ、まるでいたずらっ子のようにくるりと一回転した。
風が舞い、
寝室いっぱいに花びらがばらまかれた。
赤、白、黄、紫――。
春の庭を丸ごと閉じ込めたかのような、色とりどりの花々が
ふわり、ふわりと舞い落ちてくる。
アランは驚きに目を見開き、
それからまるで子供のように頬を緩めて、手を伸ばした。
花びらを一枚すくい上げ、光に透かして笑う。
その無垢な喜びの表情に、レギュラスの胸の奥が一瞬温かくなる。
――が、次の瞬間にはその温もりが氷のように凍りついた。
花に込められた魔力の痕跡が、指先から伝わる。
間違いない。
シリウス・ブラックのものだった。
兄の名が頭に浮かんだ瞬間、
昨夜の余韻も、穏やかな朝の気配も、すべてが霧散する。
唇を噛み、レギュラスは低く息を吐いた。
「……なんてことを。」
彼はすぐに杖を抜き、
床に散らばった花々へと向けて短く呪文を唱える。
「Finite incantatem.」
しかし、花は霧のように消えるどころか、
一瞬だけ眩しく光り、次には形を変えた。
淡いピンク色の花弁が開き、
そこから――声が溢れ出した。
「アラン! シリウス・ブラックからの贈り物だ。
今度、一面のコスモス畑を見に行こう!」
まるで陽気な冗談のような明るい声。
だが、レギュラスにとっては、
それは悪意そのものに聞こえた。
――兄のやり方だ。
呪文の解除まで計算に入れて、二重に仕込む。
握った杖の先がわずかに震えた。
怒りが血管を這い、静かな怒号が内側で響く。
朝から、兄の声を聞かねばならないなど――最悪だ。
しかも、その声にアランが反応している。
目を丸くして驚いたかと思えば、
頬を赤らめて笑みを浮かべる。
花の魔法に、無邪気に喜ぶ。
その一つ一つの仕草が、レギュラスの胸を締めつけた。
彼女は、悪気があって笑っているわけではない。
ただ、美しいものに笑いかける少女のように、自然に笑っているだけだ。
だが――その笑顔の理由が“シリウス”であることが、どうしようもなく腹立たしい。
「……最悪の朝だ。」
低く呟いた声は、怒りと苦笑の境目のようだった。
アランはその声に気づかぬまま、
床に落ちた花びらを拾い集めていた。
その姿がまた、どうしようもなく愛おしく、そして苦しかった。
レギュラスは杖を振り、花びらの残滓をすべて消し去る。
けれど、部屋にはまだ淡い香りが漂っていた。
まるでシリウスの嘲笑のように、いつまでも消えずに。
彼は深く息を吸い込み、
無理やり平静を装うように言った。
「……朝食にしましょう。もう、花は――いりません。」
その声の奥に、僅かな棘が滲んでいた。
アランはただ静かに頷き、花びらの残り香の中で小さく微笑んだ。
――けれど、レギュラスの心の中ではもう、
甘やかな夜は跡形もなく砕け散っていた。
朝の食卓には、湯気の立つスープと焼きたてのパンの香りが漂っていた。
だがその温もりとは裏腹に、テーブルの上には静かな緊張が張り詰めていた。
レギュラスはナイフとフォークを手にしているが、動きはどこかぎこちない。
無言のまま皿の上の卵を切り分けるたび、銀の刃が皿を叩く硬い音が響いた。
アランは対面で微笑んでいた。
まだ花の魔法の残り香を思い出しているのだろう。
その頬には、朝の光のような柔らかい喜びの名残があった。
――その無垢な笑顔が、レギュラスの胸をいっそう苛立たせた。
彼女は気づいていない。
自分が今、どれほど怒りと困惑を抑えているのか。
シリウスの名がまた頭の中をよぎるたび、
血の気が冷たく引くような感覚が襲ってくる。
「……」
パンをちぎる音。
スープをすくう音。
会話のない朝食ほど味気のないものはない。
だが、言葉を交わせば、それはきっと小さな棘になる気がして。
レギュラスはひたすら黙り続けた。
アランはそんな彼の心情など露ほども知らず、
ただ小鳥のように控えめな仕草でスープを口に運んでいた。
翡翠の瞳がきらりと光を宿している。
その輝きが、まるでシリウスの花の魔法の続きを見ているようで、
レギュラスは息を詰めた。
――なぜ、こんなにも自分は小さなことに心を乱すのか。
彼女の笑顔ひとつで、なぜ平静を失うのか。
苛立ちは、もはや兄にではなく、自分自身に向かっていた。
自分の中に潜む余裕のなさが、露わになっていくのがわかる。
怒りではなく、焦り。
嫉妬でもなく、恐れ。
食事を終えたとき、
レギュラスは椅子を引く音さえ荒々しく感じてしまった。
「……戻ります」
短くそう言い残すと、
彼はアランを待たずに立ち上がり、そのまま食卓を出ていった。
アランは一瞬、何が起こったのかわからないというように瞬きをした。
食器を片付けようと立ち上がったが、足が止まる。
レギュラスの背中が扉の向こうに消える。
慌てて杖を手に取り、その後を追った。
彼女の足音は小さい。
けれどその焦りの色は、部屋の空気を震わせていた。
廊下の窓から射す朝の光が、
ふたりの間の見えない距離をくっきりと照らしていた。
そしてレギュラスの胸の奥では、
まだ消えぬ苛立ちの残滓が静かに燻っていた――
まるで燃え尽きた灰の下に残る、熱を帯びた赤い炭のように。
執務室の扉が静かに閉まる音がした。
レギュラスは何も言わず、黒檀の机の前に腰を下ろした。
魔法法務部の重厚な空気が、いつも以上に冷たく感じられる。
外の光を遮るように、カーテンの隙間から細く射す陽が机の上を横切っていた。
アランはソファに腰を下ろしていた。
彼の背中を見つめる。
沈黙が重く積もっていく。
言葉を発してはいけないような空気だった。
でも――それでも、何かをしたかった。
何か、彼の心を和らげられることを。
そっと立ち上がり、音を立てぬよう歩み寄る。
机の傍に立つと、レギュラスがペンを走らせる手を一瞬止めた。
アランは手にしていたものを差し出す。
それは――朝、シリウスの魔法で撒き散らされた花びらを、
ひとつひとつ拾い集めて、
自らの魔法で静かに束ねた小さな花束だった。
魔力の残滓を洗い流すように、彼女なりに清めの呪文をかけ、
香りだけが残るように仕立て直していた。
淡い桃色と白の花々が、指の間で柔らかく揺れる。
その香りが、ふと部屋の空気を優しく包んだ。
――けれど、それがいけなかった。
同じ香り。
同じ花。
朝の、あの不快な出来事の記憶をまざまざと呼び起こす匂い。
シリウス・ブラックの笑う顔が、
脳裏に浮かぶようだった。
「……アラン。」
低い声。
アランは小さく首を傾げた。
翡翠の瞳が純粋に光っている。
まるで、贈り物を渡す子供のように――ただ彼を喜ばせたかった。
だが、その“無垢さ”が、レギュラスの胸を締めつけた。
その花の香りが、彼にとってはもう“毒”でしかなかった。
冷たく、痛みを伴う記憶を蘇らせる。
「……シリウス・ブラックの魔力を、ひしひしと感じます。
――不愉快です。」
思っていたよりもずっと冷たく、
突き放すような声音になっていた。
アランは動きを止めた。
その瞳に、理解と戸惑いが交錯する。
少しの沈黙のあと、ゆっくりと花束を胸の前に下げた。
彼女の指がわずかに震えている。
言葉を失ったアランの姿に、レギュラスの胸が痛む。
分かっている。
アランは悪くない。
むしろ、こんなにも自分を想い、気遣ってくれている。
機嫌を取ろうとしてくれている――それが、痛いほどに伝わっている。
それでも、抑えきれなかった。
自分の中の小さな嫉妬や、兄への嫌悪や、
そして何より、彼女の心が誰か別の魔力に反応することへの恐怖が。
「……すみません、酷い言い方をしましたね。」
謝罪の言葉を探したが、
喉の奥からは掠れた声しか出てこなかった。
アランはかすかに首を振る。
大丈夫だというように、柔らかく微笑んだ。
その笑みが、却って胸を締めつける。
花束の香りがまだ残っている。
それはシリウスの残した呪文でも、アランの優しさでもなく――
レギュラス自身の“弱さ”の匂いのように思えた。
彼は深く息を吐き、
ゆっくりと目を閉じた。
その瞬間、机の上の蝋燭がかすかに揺れ、
炎の光が二人の間の沈黙を切り裂いた。
――愛しいものほど、壊したくなる。
その矛盾が、胸の奥で静かに軋んでいた。
執務室の重たい扉が静かに閉じてから、どれほどの時間が経ったのか。
アランはただ、俯いたまま、自分の手の中に残る花の残り香を見つめていた。
その香りが――彼を苦しめてしまった。
そのことを、痛いほどに悟っていた。
レギュラスに、シリウスの痕跡さえ見せてはならない。
彼のあの顔――あの冷たく沈んだ瞳を、もう二度と見たくなかった。
ただ喜んでもらいたかっただけだったのに。
綺麗だと、笑ってくれるとばかり思っていた。
同じものを見て、同じように「美しい」と感じられると思っていた。
けれど、そうじゃなかった。
彼と自分は、見ている“世界”の根本から違う。
そのことを、初めて知ってしまった。
静寂が落ちた執務室に、レギュラスの声が優しく割り込んだ。
「……アラン、さっきはすみません。
気分を変えましょう。何か、美味しいものでも食べに行きませんか。」
その声には、先ほどまでの冷たさはなかった。
それどころか、無理にでも穏やかさを取り戻そうとする
“必死な優しさ”が滲んでいた。
アランは顔を上げた。
彼の笑みはぎこちなかったが、
それでも――アランには痛いほど嬉しかった。
けれど同時に、罪悪感が胸を締めつける。
彼を苛立たせたのは自分だ。
そして、彼が自分を責めてまで笑おうとしてくれている。
それがわかるからこそ、
アランは、ただ静かに頷くことしかできなかった。
レギュラスは立ち上がり、彼女の手を取った。
細い指が、彼の手に包まれる。
冷たい指先だった。
その温度に気づいたレギュラスは、彼女の手をもう一度強く握り直す。
魔法省の外に出ると、冬の風が頬を刺した。
石畳を渡る風は、塔の隙間を抜けるたびに笛のような音を鳴らした。
アランの髪が揺れ、翡翠の瞳が瞬く。
「ちゃんと締めておかないと、寒いですよ。」
レギュラスが小さく杖を振る。
すると、アランのローブの前がふわりと閉じ、
銀糸のような魔法の糸が静かに留め具を結んだ。
その所作はあまりにも自然で、
まるで壊れやすい宝石を扱うかのようだった。
アランは杖を取り出し、
宙に細い筆跡を描くようにして言葉を綴る。
――「この前のカフェはどうですか?」
レギュラスはその文字を見て、少しだけ微笑んだ。
だがすぐに首を振る。
「違うところに行きましょう。
せっかくですから、今日は少し気分を変えたい。」
風に揺れるローブの裾が、ふたりの間をすれ違う。
アランは一歩、彼の隣に並んだ。
その横顔にはまだわずかに翳りが残っていたが、
それでも彼の言葉に従い、静かに歩き出した。
空は淡い灰色。
魔法省の高い塔の間を抜け、
ふたりは石畳の街へと下りていく。
足を止めたのは、
以前とは違う小さなカフェ――
窓際にドライフラワーが飾られた、静かな店だった。
扉を開けると、柔らかな香ばしい匂いが流れ込む。
レギュラスはアランに椅子を勧めながら、
その指先を一瞬見つめた。
小さく震えている。
「……暖かいものを頼みましょう。冷えましたね。」
その声は、まるで自分自身にも言い聞かせているようだった。
――もう怒ってはいない。
そう示すために、彼は今日、何度も優しくなろうとした。
けれど、アランの心の奥では、
彼の優しさほど痛みを感じるものはなかった。
香り立つカフェの中で、
ふたりの間に漂う沈黙だけが、
まだどこか冬の風の冷たさを孕んでいた。
薄曇りの空の下、騎士団本部の一室には静かな緊張が漂っていた。
壁にかけられた古い魔法地図が微かに震え、そこに刻まれた線が淡く光を放っている。
ジェームズ・ポッターはその地図を背に、両腕を組んで窓辺に立っていた。
ガラス越しに見える曇天は重く、世界そのものが息を潜めているようだった。
「……アラン・セシール。」
その名を口にするたび、部屋の空気がひときわ冷たくなる気がした。
ヴォルデモートの“永遠”を成す核のひとつ――
おそらく、彼女はそれを封印している。
彼女の命を絶たないかぎり、その封印は解けない。
そして封印が解けない限り、ヴォルデモートを滅ぼすこともできない。
ジェームズはゆっくりと目を閉じた。
瞼の裏に、淡い翡翠の瞳が浮かぶ。
静かで、儚く、それでいてどこか底知れない光を宿した瞳。
あの瞳の奥には、幾度となく痛みを飲み込んできた影が潜んでいるように見えた。
「――仕方のない犠牲、か。」
誰に言うでもなく、独りごちた。
たった一人の命。
世界の安寧を取り戻すために、その犠牲が必要なのだとしたら。
それは“理”として、きっと間違っていない。
だが、心のどこかが強く拒んでいた。
彼女の死を肯定することは、あまりに冷酷で、人として何かを失う気がした。
そして――面倒なのは、その迷いが自分ではなく、親友の中にも芽生えつつあることだった。
「お前、まさか……」と、数日前、ふと投げかけた言葉を思い出す。
シリウスは肩をすくめて笑い飛ばした。
「そんなわけねぇだろ。俺はただ、あの女を助けたいだけだ。」
だがジェームズは知っていた。
親友の嘘は、笑顔の隙間に滲む。
否定の言葉の中にこそ、真実が顔を覗かせるのだと。
あの灰色の瞳が、アランを見るときだけわずかに揺らぐ。
戦場でも動じない男が、彼女の名前を出されるとわずかに言葉を詰まらせる。
ほんの些細な変化――だが、それを見逃せるほどジェームズは鈍感ではなかった。
彼女に惹かれている。
そんなことは認めたくないに決まっている。
けれど、シリウスの胸の奥で、確実に何かが動き出している。
ジェームズは深く息を吐き、両手をポケットに押し込んだ。
外では風が唸り、古い窓が軋む。
冷たい風がわずかに吹き込み、書類の端を揺らした。
「……厄介だな。」
呟きが沈むように消える。
理と情がせめぎ合う中で、どちらを取るべきか分からない。
それでも“戦い”は待ってはくれない。
ヴォルデモートを討つためには、アラン・セシールの封印を解かなければならない。
そのためには、彼女の命が必要だ。
――それだけが、揺るぎない現実だった。
けれどもし、その現実を“壊したい”と思う者が現れたとしたら?
その者が、他ならぬ親友であったとしたら?
ジェームズの胸に、重たい予感が落ちていく。
シリウス・ブラック。
いつも正義の炎を掲げて戦ってきた男が、
たった一人の女のためにその炎を手放してしまうかもしれない――。
その可能性を思うだけで、
彼の心の奥に冷たい影がゆっくりと広がっていった。
屋敷の大広間に、冷えた空気が満ちていた。
冬の陽はとうに沈み、重々しいカーテンの隙間からわずかに差す燭の光が、磨かれた黒檀の床をかすかに照らしている。
古い肖像画たちが壁に並び、どれも一族の誇りと傲慢を湛えたまま、無言でこの言い争いを見つめていた。
「――あんな娘を? 滅びた一族の娘を妻に、ですって?」
ヴァルブルガ・ブラックの声は、空気を裂くように鋭かった。
その怒気は、雷鳴のように屋敷全体を震わせる。
手にしたティーカップが卓に叩きつけられ、紅茶が滴となって銀の皿を濡らした。
対するレギュラスは、毅然と立っていた。
黒いローブの襟元をきちんと正し、母の前から一歩も引かない。
彼の灰色の瞳には冷たい光が宿っていたが、その奥にはわずかに焦燥の影が揺れていた。
「貴重な血です。彼女の血筋は、セシール家。
闇の帝王の信頼を――独占できます。」
その声は静かだったが、確かな決意があった。
だがその言葉に、ヴァルブルガの瞳がぎらりと光る。
「地下牢で育ったような娘が、この家を背負えるとでも思っているの?」
その声音には、あからさまな侮蔑が滲んでいた。
母の唇は、薄く吊り上がっている。
純血の誇りを何よりも重んじる彼女にとって、滅んだ家の娘を“ブラック”の名で迎えるなど、もはや冒涜以外の何ものでもなかった。
「知性も教養も、これから身につけていけます。」
レギュラスの言葉には迷いがなかった。
「口も聞けない女が、どうやってそれを証明するというの!」
ヴァルブルガの手が、怒りに震えている。
その声は甲高く、まるで古い屋敷の壁を震わせる悲鳴のようだった。
レギュラスはわずかに目を伏せ、
それから、ゆっくりと息を整えて言った。
「……口が聞けないからこそ、彼女は何も言いません。
母さんのことも、この家のことも。
何が降りかかっても、声をあげることはない。」
その言葉には、一瞬の沈黙が落ちた。
まるで屋敷そのものが息を止めたようだった。
ヴァルブルガは眉をひそめ、息を吸い込む。
だがその怒気の奥に、わずかに考え込むような気配が混じった。
“何も言わない女”――その言葉が、彼女の支配欲をくすぐったのだ。
声を上げないということは、反論しないということ。
反論しないということは、従順であるということ。
母のヒステリックにも、父の冷たい威圧にも、
この屋敷を包む息苦しい沈黙にも、彼女は逆らうことができない。
その存在は、ヴァルブルガにとって恐ろしいほど“都合がいい”。
己の思うように形づくり、飾り立て、従わせることができる――完璧な人形。
ヴァルブルガの唇がゆっくりと歪んだ。
「……お前は、本当に父親に似てきたわね。
理屈と計算でしかものを見ない。」
その言葉に、レギュラスの胸の奥が微かに痛んだ。
けれど、顔には出さない。
「僕は理で動いています。感情ではありません。」
母と息子――二人の冷たい視線が交錯する。
その間には、家の誇りという名の鎖が張り詰めていた。
ヴァルブルガは長く息を吐き、扇で口元を隠した。
「……その娘が本当に“役に立つ”ならば、見せてもらうわ。」
それは認めたわけではない。
ただ、計算の余地を残しただけだった。
レギュラスは静かに頭を下げた。
母の怒りの影の奥に、わずかに光る興味の色を見たのだ。
それで十分だった。
けれど、胸の奥ではわかっていた。
母がアランを認める理由は“愛”ではない。
“利用”だ。
この家に男児が生まれれば、ブラック家の未来を担うと喜ぶだろう。
女児であっても、封印の力を継ぐ娘として、
魔法界における地位を独占することができる。
――アラン・セシール。
その名を胸の奥でそっと呼ぶ。
彼女は決して“道具”ではない。
けれど、母の前ではそう見せかけるしかない。
そうでなければ、
彼女をこの屋敷に置いておくことすら、許されないのだから。
レギュラスは静かに拳を握った。
蝋燭の灯りが、彼の瞳の奥で静かに揺れていた。
