1章
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闇の底に沈むような静寂があった。
それは音のない牢獄だった。冷え切った石壁は湿り気を帯び、ひとつ息をするたびに肺の奥が重く沈む。
そこに少女はいた。鎖で繋がれ、細い足首に絡む鉄環が小さく軋むたび、かすかな金属音が闇に吸い込まれていく。
彼女の名は――アラン・セシール。
封印の力を宿すセシール家の末裔。
その血筋ゆえに、闇の魔法使いに囚われ、地下に閉じ込められていた。
封印の魔法は、彼女自身の血によって施されていた。
その術は永遠に解かれぬもの――セシール家の血が途絶えぬ限り、決して破られぬ鎖。
ヴォルデモートはその力を利用しようとしていた。
ホークラックスを「永遠」に保つために。
アランの魔力により封じられ、彼女自身が“鍵”として、闇の中に沈められている。
その監視役として派遣されたのが――レギュラス・ブラック。
純血の名門、ブラック家の次男。若くして闇の印を刻まれた、デスイーターのひとりだった。
彼が初めて地下牢を訪れたとき、思っていたものとはまるで違う光景がそこにあった。
どんな凶暴な女魔法使いが囚われているのかと想像していた。
だが、鎖につながれたその女は、野蛮さとは正反対の存在だった。
青白く透き通るような肌。
長い年月、日の光を浴びていないせいだろう――それでも、どこか聖域めいた静謐さが漂っている。
瞳は翡翠。濁りのない深い緑の光が、薄闇の中でゆらりと輝いていた。
その光だけが、この陰鬱な地下室の唯一の“生”の証のように見えた。
髪は無造作に流れ、肩から背へと落ちていた。
粗末な服に包まれているが、その佇まいにはどこか品があった。
もしこの女に、上質な衣を与え、櫛を通し、香を焚いたなら――
貴族の舞踏会に立たせても、誰もが息を呑むだろう。
それほどに、彼女は“この世界に似つかわしくない”ほど美しかった。
レギュラスは思わず息を止めた。
その瞬間、彼は自分の胸の奥に生じた微かな動揺を、即座に打ち消す。
感情を持つことは許されない。
任務とは、この女の監視と管理。それ以上でも、それ以下でもない。
「――初めまして。アラン・セシールという名のようですね。レギュラス・ブラックです。」
低く、静かな声。
彼女は顔を上げもしなかった。
翡翠の瞳はどこか遠くを見ているようで、まるでこの世の言葉など意味を成さないかのように。
沈黙が落ちる。
湿った空気が、二人の間を流れた。
レギュラスは返事を待たなかった。
最初から、期待などしていない。
彼女は囚人であり、自分は監視者だ。
それだけの関係――そう、思い込もうとした。
だが、扉を閉めて背を向けた瞬間、彼の脳裏にはあの翡翠の光が焼き付いて離れなかった。
冷たいはずの空気の中で、あの瞳だけが確かに“生きていた”。
その輝きが、彼の理性をわずかに揺らしたことを、このときのレギュラスはまだ知らなかった。
――この地下で、彼の運命がゆっくりと狂い始めていくことも。
数日間、レギュラス・ブラックはその地下牢に通い続けた。
命じられた通り、ただ監視するだけの任務。
だが、通うたびに、胸の奥にじわじわと広がる違和感を無視できなくなっていた。
少女――アラン・セシールは、まるでこの世の意志をすべて抜き取られたように、微動だにしなかった。
まぶたの動きすら稀で、息をしているのかどうかさえ、時折確かめずにはいられなかった。
人というより、壊れかけた人形のようだった。
牢の入り口近くには、粗末な木皿が転がっている。
こぼれたスープが床に染みつき、湿った臭いが鼻を刺した。
食事係が乱暴に投げ込むせいで、皿の縁には乾いた跡が幾筋も走っている。
以前は、少しは口にしていたという報告があったが――ここ最近、彼女はほとんど何も食べていないらしい。
レギュラスは、鉄格子の向こうで黙ったままの彼女を見つめた。
皮膚は透けるように白く、鎖が擦れた手首は赤く傷ついている。
痩せ細ったその腕には、まだ少女の柔らかさが残っていた。
それなのに――そこに宿る魂だけが、どこか遠い場所へ置き去りにされたままだった。
「アラン、食べない理由はなんです?」
低い声で問いかける。
だが、返事はなかった。
彼女はただ、石の床に体を預けたまま、無音の世界に沈んでいる。
レギュラスはゆっくりと鉄格子を開けた。
軋む音が、狭い地下に響く。
近づくと、冷気が肌を撫でた。
彼女のそばにしゃがみこみ、鎖を掴む。
じゃらり――。
金属の擦れ合う音が冷たく鳴る。
彼はためらいながらも、その鎖を軽く引いた。
細い体が引かれるように起き上がる。
髪が肩から滑り落ち、頬を隠した。
そして――その隙間から、翡翠の瞳がぎょろりとこちらを見上げた。
一瞬、息が詰まる。
何か鋭いものに胸を突かれたようだった。
その瞳の色は、光を失っているのに、どこか異様なほど美しい。
まるで毒のような美しさだった。
この場所には似つかわしくない――不純なほどの清らかさがあった。
「……温かいものなら、食べられますか?」
答えはない。
唇が動くことすらない。
「汁物にします?」
またも、沈黙。
レギュラスは短く息を吐き、立ち上がる。
外に控えていた食事係を呼び、
「温かいスープを。すぐにです」
と命じた。
しばらくして、陶器の器が差し出される。
湯気がゆらゆらと立ちのぼり、冷えきった空気をわずかに温めた。
レギュラスはそれを受け取り、アランの前にしゃがむ。
「持てますか?」
彼女の指に、器をそっと押し当てた。
冷たくなった手が、わずかに動いた。
その指先が、かすかに震えながら器を支える。
しばらく沈黙が流れ――そして、ようやく。
彼女は唇を器に近づけ、ひと口、ゆっくりと飲んだ。
その瞬間、レギュラスは知らぬ間に息を吸っていた。
わずかに胸の奥が緩む。
この数日間、ようやく彼女の中に“生”の動きが見えたのだ。
器が触れる音と、鎖が揺れる微かな響きが、静かな地下室に混じり合う。
まるで、世界がほんの少しだけ動き出したように思えた。
――彼女が生きている。
その事実だけが、なぜかレギュラスの胸を温めた。
この冷たい牢獄の中で、唯一の温もりは、彼女の指先が掴んだその器だけだった。
アラン・セシール――セシール家の末裔。
彼女の血には、永遠を封じるという古代の魔法が流れているらしい。
その力は、血が続く限り効力を保ち、時を越えて封印を維持し続けるという。
闇の帝王が、その力を利用しようとしているのは明らかだった。
だが、何を封じようとしているのか――それは誰も知らない。
知る必要もなかった。
この世界では、“知らぬ”ことが最も確かな生存術だ。
真実に手を伸ばす者ほど、早く死ぬ。
だからこそ、レギュラス・ブラックは目を伏せる術を心得ていた。
闇の帝王の何かを守るために、犠牲となった女。
しかし彼女の力は、その血が絶えない限り効き続ける。
だからこそ、彼女を生かしておかねばならない。
あるいは――その血を継がせねばならない。
だが、そのどちらも容易ではなかった。
医務魔女たちの報告によれば、アラン・セシールの体は完全に閉ざされているという。
成人の魔女でありながら、月経も排卵もない。
生命を繋ぐ器官そのものが、静かに眠り続けている。
極度の恐怖と飢え、そして孤独。
地下の冷たく暗い空間に囚われ、何年も人としての温もりを知らずに過ごした女に、
“子を成す”という機能など、とうに枯れ果てているのだろう。
なるほど――と、レギュラスは思った。
闇の帝王は彼女の“命”だけを必要としている。
魂でも、尊厳でもない。
ただ血が流れ続けていれば、それでいいのだ。
その日も、地下へ向かう足音が石段に響いた。
毎日のように繰り返される監視の時間。
だが今日もまず、確認すべきことがあった。
「……これは食べたのか?」
牢の入り口には、また冷めきった器が放り出されていた。
食事係がどうせまた乱暴に投げ込んだのだろう。
中身はこぼれ、床に染み、まるで汚れた涙の跡のようだった。
温もりはすでに失われ、湯気のかけらもない。
アラン・セシールは、壁にもたれかかり、動かない。
呼吸はかすかで、まるで死と生の境界に立っているように見えた。
レギュラスは小さくため息をつく。
「……こうしても、食べないか」
結局、牢の入り口に投げ込まれた食事では、彼女は口をつけないのだ。
ならば、自分の手で持っていくしかない。
食事は、生存のための最低条件――
闇の帝王の命に背くことだけは、絶対に許されない。
彼は外に控える係の魔法使いに声をかけた。
「温かい汁物を。あの女の分です」
それだけ言い残し、再び牢の中へ入る。
やがて、湯気の立つ器が運ばれてきた。
かすかな香りが冷えた空気を柔らかく満たす。
レギュラスはその器を受け取り、膝をつく。
「アラン、どうぞ」
言葉は静かだった。
まるで敵でも囚人でもなく、ただ一人の人間として。
彼女の手首を掴み、冷えた指に器を握らせる。
その動作に抵抗はない。ただ、命令に従うようにわずかに動いた。
唇が器の縁に触れ、ひと口、またひと口と飲む。
その瞬間――レギュラスの胸に、微かな安堵が生まれた。
ただ、それだけのこと。
生きるための最小限の行為。
それなのに、不思議なほど、心が温まった。
器が傾くたび、鎖がかすかに鳴る。
音が重なり、静かな牢の中に淡く響いた。
彼女の喉が動くたびに、その存在が確かに“生きている”と伝えてくる。
「頼みますよ。死んでもらっては困ります。」
そう言いながら、レギュラスの声はどこか自嘲めいていた。
自分でも気づかぬほどに、言葉に温度があった。
この女を生かすことは、任務だ。
だが――それ以上の何かが、彼の中で静かに芽吹きつつあった。
翡翠の瞳は、まだ彼を見ようとしない。
だが、器の縁から立ちのぼる微かな湯気が、二人の間の冷気をほんの少しだけ融かしていく。
その瞬間、レギュラスは気づいていた。
――この牢に囚われているのは、彼女だけではないのかもしれない。
その夜、地下への階段はいつになく静かだった。
湿った石壁をなぞるように蝋燭の灯が揺れる。
職務を終え、わずかな記録をまとめてから戻ると、
薄闇の奥に――人の気配があった。
牢の扉は半ば開かれており、
中からは低く、乱れた呼吸の音が漏れていた。
蝋燭の炎を掲げて覗き込んだ瞬間、
レギュラスの足が止まる。
番人の男が、女の上にいた。
半裸の背がわずかに動いている。
そして床には、鎖の触れ合う鈍い音。
アラン・セシールは、ただ横たわっていた。
動かず、抵抗せず、何も見ていないような目をして。
――見た瞬間に、すべてを理解した。
何をしていたのか。
なぜ彼女の服が乱れ、空気がこんなにも濁っているのか。
考えるまでもない。
怒りは湧かなかった。
むしろ、空虚だった。
この世界では、そんなことは珍しくもない。
彼女は囚人で、所有物でしかない。
番人がどう扱おうと、咎める理由などどこにもない。
……それでも。
胸の奥が鈍く痛んだ。
どうしようもなく、惨めで、哀しかった。
彼女ではなく――この世界そのものが。
誰も止めない。
誰も見ない。
誰も気づかないふりをする。
尊厳も、慈悲も、ここには存在しない。
ただ、命令と恐怖と沈黙だけが生きていた。
レギュラスは小さく息を吸い、低い声で言った。
「医務魔女を呼ぶので、さっさと下を履いたらどうです?」
男がびくりと肩を震わせ、慌ててズボンを引き上げた。
動揺を隠すように唾を飲み込み、頭を下げる。
「……は、はい」
声を荒げることはなかった。
怒鳴る気もなかった。
怒鳴ったところで何も変わらないことを、もう知っている。
やがて医務魔女が現れた。
杖を握り、顔にわずかな険しさを浮かべている。
「お呼びでしょうか?」
「風呂に入れてもらっていいですか。汚すぎて近寄れません。」
言葉の響きは冷ややかだった。
だがその裏にあるものは、吐き出せぬほどの嫌悪だった。
知らぬ男の体液が、どこに触れ、何が染みているのかもわからない。
その状態で食事を与える――それが職務だとしても、
人として耐え難かった。
医務魔女は無言で頷き、アランを連れ出す。
鎖が床を引きずる音だけが残り、牢の中は再び静寂に沈んだ。
レギュラスは扉の傍らに視線を落とした。
そこには、誰もが触れられる鍵が吊るされている。
ずさんな管理。
それが、今夜のすべてを許してしまった理由。
そのことを思うと、胸の奥に小さな棘が刺さるようだった。
「……自分の責任か。」
小さく呟いた声は、誰にも届かない。
蝋燭の火がふっと揺れ、空気が冷える。
しばらくして、医務魔女たちがアランを戻した。
濡れた髪が肩に張りつき、白い肌がかすかに震えている。
清められたはずの身体からは、湯気と一緒に、何か大切なものまで抜け落ちたようだった。
レギュラスは、いつものように食事を運び、
器を手に取らせた。
その所作は、まるで儀式のように淡々としていた。
アランは何も言わず、ただ視線を落とす。
動きも声も、以前と変わらない。
――いつもと同じ、はずなのに。
どこか決定的に違って見えた。
沈黙が広がる。
レギュラスは、何か言葉を探した。
「……嫌なら、声を上げるようにしてください。」
そう言いかけて、喉の奥で言葉が消えた。
声を上げたところで、何になる。
自分はこの場を離れれば何もできない。
救う力も、守る権利も、与えられていない。
この牢の中での彼は、ただの“見張り”でしかないのだ。
沈黙のまま、器が空になった。
アランの指がそれを静かに差し出す。
レギュラスはそれを受け取り、立ち上がる。
――何も変えられない。
それが、この世界の現実だった。
だが扉を閉める前、ふと視線が交わった。
翡翠の瞳が、わずかに揺れた気がした。
痛みでも、恐怖でもない。
ただ、ひどく静かな“諦め”の光。
その光が、なぜか胸の奥に焼き付いて離れなかった。
冷たい扉の向こうで、鍵の音が響く。
沈黙だけが残り、レギュラスの表情からはすべての色が消えていた。
――救えぬ者を前にして、心だけがまだ人の形を保っている。
それが、最も残酷なことだと、彼は初めて知った。
セシール家――その名は、魔法界において“静謐なる力”として知られていた。
彼らは表舞台に立つことなく、ただ静かに世界の均衡を守り続けてきた一族。
闇と光、秩序と混沌、その狭間を見極め、暴走する力を封じることが彼らの使命だった。
人の手には余る呪具、禁じられた魔法書、魂を喰らう生物――
セシール家は代々、それらを封じてきた。
その力は、血の中に宿る。
そしてその血は、恐れられた。
理解できない力ほど、人はそれを恐れる。
それは魔法界よりもむしろ、マグルたちにとっての脅威だった。
科学が世界を支配しつつあった時代――
「見えない力」を操る存在など、もはや神話でも奇跡でもなく、“制御不能な災厄”としか見なされなかった。
セシール家の封印魔法は、マグルたちの理屈では説明できない。
その不可解さが、やがて“恐怖”へと形を変える。
そして、恐怖は決まって暴力を呼ぶ。
冬のある夜、雪の静寂を切り裂くようにサイレンが鳴り響いた。
闇を裂いて、無数の光が丘を照らす。
セシールの屋敷を取り囲むのは、銃を携えたマグルの軍勢だった。
外の空気が震え、照明弾が夜空を白く焼く。
屋敷の結界が、銃火の光の中で脆くもひび割れた。
「アラン! 地下へ!」
父の声が響いた。
アランは母の手に引かれ、息を切らしながら階段を駆け下りる。
心臓が痛いほど鳴っている。
背後では、魔法の防壁が破られる轟音がした。
「お母様、どうして――どうしてマグルが……!」
アランの声が震える。
母は答えず、ただ唇を噛みしめた。
その沈黙が、すべてを物語っていた。
――もう、話し合いではどうにもならない。
祈りの間に辿り着くと、母は急ぎ封印の呪文を唱え始めた。
古代の紋章が青く光り、石の床に微細な魔力の線が走る。
「アラン、いい? 外に出てはだめ。どんな音がしても……ここから動かないのよ」
「嫌です! お父様もお母様も一緒に――!」
アランの叫びが、石壁に反響した。
涙で視界が歪む。
母はそんな娘の頬を優しく撫で、首を横に振った。
「あなたは“封”の継承者。あなたが生きなければ、世界がまた闇に沈むの」
扉が閉まる。
外の光が細い隙間から差し込み、次の瞬間、轟音が部屋を揺らした。
天井がきしむ。
遠くで爆発音。
叫び声――そして、父の名を呼ぶ声。
「お父様――!!」
アランは叫んだ。
爪が床を掻く。
石に爪が割れて血が滲んでも、扉を叩き続けた。
しかし、封印の呪文が完成した瞬間、音がすべて遠のいた。
厚い石の壁が、彼女を世界から切り離す。
静寂。
炎の匂い。
そして、息を殺すような孤独。
アランは膝を抱き、声を押し殺して泣いた。
その声だけが、封印の間に残された最後の“生命の音”だった。
夜明け、屋敷は灰と化し、雪が灰の上に降り積もった。
マグルの報告書にはこう記される。
「異常な現象を起こした魔法集団を制圧。被害壊滅。」
だが、誰も知らない。
地下で一人、少女が封印の光の中で生き延びていたことを。
そして、その力を欲した者たちによって、彼女は捕らえられ、
封印の術を継ぐ最後の生贄として、闇の帝王の地下へと送られた。
――そうして、彼女の長い幽閉の日々が始まった。
レギュラス・ブラックは、淡々と報告書を閉じた。
書かれていたのは、ただの記録――しかし、それを読み終えたあと、胸の奥に重い澱が残った。
彼は牢の前に立つ。
いつものように、そこにいる女を見つめる。
あの薄汚れた服――まるで罪人の象徴のような布切れ。
見るたびに、吐き気にも似た不快感が胸に広がった。
レギュラスは屋敷に戻り、古い衣装部屋を探った。
もともと貴族の客人用に用意されていた服の中から、上質な布地のものを選ぶ。
淡い青のワンピース。装飾は控えめで、それでも柔らかな光沢がある。
――それならば、彼女の翡翠の瞳に似合うだろう。
再び牢へ戻り、医務魔女を呼ぶ。
「これを着せてやってください。あの服では……さすがに、目を背けたくなります。」
魔女は頷き、静かにアランを立たせた。
着替えの間、レギュラスは視線を逸らした。
ただ、鎖が擦れる音と布のこすれる音が、冷たい空気に混じって響いていた。
少しして、医務魔女が出ていく。
牢の中に残されたのは、新しい服を身にまとった女――アラン・セシールだった。
彼女は何も言わない。
ただ、薄暗い光の中で、ゆるやかに瞬きをした。
痩せすぎた肩に服が少し余っている。
それでも、その布が彼女の肌を覆うことで、ようやく“人間らしさ”が戻ったように見えた。
その姿を見た瞬間、レギュラスの胸にひどく痛い感情が走った。
あれほどまでに穢され、奪われ、心までも砕かれたというのに――
それでも彼女の中には、消えぬ何かが残っていた。
「……似合いますよ。」
思わず言葉が漏れた。
しかし口にした途端、レギュラスは小さく眉を寄せた。
何を言っているのだ、自分は。
監視者が囚人にかける言葉ではない。
感情を持つなど、あってはならない。
だが――
そのとき、アランがほんのわずかに顔を上げた。
表情はない。けれど、その瞳の奥に、一瞬だけ揺らぐ光が見えた気がした。
まるで、長い冬の終わりに射す陽のような、かすかな微光。
レギュラスはそれ以上、何も言わなかった。
沈黙を選び、背を向ける。
だが、胸の奥では確かに何かが変わり始めていた。
――この女を「生かす」ことは命令だ。
けれど、「生きさせたい」と思ったのは、初めてだった。
重い扉が静かに閉じる。
その奥に広がる空間は、異様なほど静まり返っていた。
空気そのものが冷え、光すら命を失ったような部屋。
壁一面に張り巡らされた影が、生き物のように蠢いている。
レギュラス・ブラックは、背筋を正してその中心に立っていた。
眼前の椅子には、闇の帝王――ヴォルデモート。
その指先がゆっくりと動き、杖の先で空気を撫でるたび、
まるで空間が歪むような圧が全身を包み込んだ。
「……報告を。」
その声は囁きのように静かだった。
だが一言で、空気のすべてが凍りつく。
レギュラスは頭を垂れたまま、淡々と話し始めた。
「セシール家の末裔、アラン・セシール。生命に異常はありません。
食事も取っています。封印の効力も、現状維持されています。」
ヴォルデモートの表情は読めない。
瞳は蛇のように細く、どこまでも冷ややかだ。
その沈黙を恐れずに、レギュラスは続けた。
「ただ……地下牢に出入りする者たちの中には、
彼女に対して不適切な行為を行っている者がいました。
番人がその中心であったため、処理済みです。
今後同様のことが起こらぬよう、牢の鍵は私が管理しております。」
報告の間も、視線は一度も上げない。
だが、耳には微かに笑う声が届いた。
――くつくつ、と。
ヴォルデモートはゆっくりと椅子に背を預け、
口角を歪めた。
「……好きにさせておけばいい。」
その言葉は、静寂よりも冷たく響いた。
「どうせ死ななければ、それでよいのだ。」
レギュラスは微動だにしなかった。
だが心の奥では、鈍い痛みが広がっていた。
死ななければいい――
その一言で片づけられるほど、人の命は軽いのか。
たとえ囚われの身でも、呼吸をしている限りは“人間”のはずだ。
生かしておくのならば、せめてその尊厳だけは――
そう思ってしまった自分を、愚かだと知りながらも。
ヴォルデモートはさらに嗤う。
その瞳に、悪意という名の愉悦が滲んでいた。
「レギュラス、お前もあの女を好きにしたらいい。
見た目だけは高貴な顔をしていた記憶がある。
名門の家系でないにしても、血筋の“飾り”にはちょうど良いだろう。」
笑い声が室内に響く。
金属が軋むような、冷たく乾いた笑いだった。
壁に反射して、いくつもの声が重なり、闇そのものが嘲っているように感じられた。
レギュラスは表情を変えなかった。
心を閉ざし、感情を凍らせる。
ただ、その場に立つための“仮面”を被る。
「……お言葉の意味を、深く受け止めます。」
その声には、抑え込まれた静かな怒りが滲んでいた。
だがヴォルデモートは気づかない。
彼にとって、人の心など、利用するための器以上の意味を持たないのだから。
沈黙が再び降りる。
やがてヴォルデモートは、無関心そうに手を振った。
「下がれ。」
レギュラスは一礼し、背を向ける。
扉を出る直前、背中越しに笑い声がもう一度響いた。
それは、蛇が皮を剥ぐように滑らかで、底なしに冷たい音だった。
――外に出た瞬間、息を吐く。
胸の奥に溜まっていた空気が、ようやく動き出す。
吐息は震えていた。
“死ななければそれでいい”
――あの言葉が耳に残る。
レギュラスはその夜、初めて気づいた。
自分が仕えている“闇”は、ただの権力や恐怖ではない。
それは、人の尊厳という最後の一線すらも喰らい尽くすもの。
廊下を歩きながら、彼は胸の奥でひとつの誓いを立てた。
――あの女だけは、死なせない。
ただ“生かす”ためではなく、“生きたまま”でいさせるために。
それが罪とわかっていても、
この腐った闇の中で、自分に残された唯一の人間らしさだった。
地下牢に流れる空気は、いつも冷たく湿っていた。
それでも最近、そこにはほんの僅かな“変化”が生まれていた。
アラン・セシールが、少しずつ食事を口にするようになったのだ。
以前は、器に触れることさえしなかった。
冷え切ったスープがそのまま腐っていくのを見届けるしかなかった日々。
けれど今は、レギュラスが手渡すたびに、彼女の指が確かに器を受け取り、
少しずつ、ゆっくりと、生命の証のように飲み下している。
――生きようとしている。
その事実だけで、胸の奥に小さな安堵が灯った。
自分でも気づかぬうちに、息を吐き出していた。
「……何か、食べたいものがあれば言ってください。」
いつものように静かに声をかけた。
牢の中に響くのは、鎖が微かに擦れる音と、遠くで滴る水の音だけ。
返事はなかった。
だが、代わりに――アランがゆっくりと顔を上げた。
翡翠の瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめる。
その色は、地下の闇に似合わないほど澄んでいた。
冷たい光なのに、どこか温かい。
言葉よりも多くを語るその瞳が、レギュラスの胸をかすかに刺した。
見つめられる――ただそれだけのことで、
居心地の悪さを覚えるのはなぜだろう。
「……何です?」
思わず口をついて出た。
問いかけても、彼女は答えない。
ただ、視線を逸らす。
再び沈黙が戻る。
レギュラスはその横顔を見下ろした。
青白い頬に、細く柔らかな髪が触れている。
やつれた輪郭の中にも、もとからの整った造形が見て取れた。
あまりに静かで、あまりに儚い――
それでも美しいと思ってしまった。
“美しい”――その感情に、自分が一瞬でも囚われたことが、
途端に不快だった。
闇の帝王が笑いながら言っていた言葉が脳裏に蘇る。
――「見た目だけは高貴な顔をしていた記憶がある。お前も好きにしたらいい。」
そのときは無視した。軽蔑とともに。
だが今、彼女を“綺麗だ”と思った自分は、
果たしてその男たちと何が違うのか。
胸の奥がざらついた。
この感情は下劣だ――そう思おうとした。
だが、理性では押し込められぬ何かが、
彼女を見つめる眼差しの奥で、微かに蠢いていた。
アランは視線を逸らしたまま、再び器に手を伸ばした。
指が震え、鎖が細く鳴る。
その小さな音に、レギュラスはふと現実へ引き戻された。
彼女はまだ囚われの身だ。
この冷たい石の牢に、希望も、太陽もない。
生かされているだけの存在。
なのに――彼女の瞳には、確かに“生”があった。
沈黙の中で、確かに彼女は生きている。
レギュラスはそっと視線を外した。
彼女を見続けることが、罪のように感じたからだ。
ただ、灯の揺れる影の中で、
彼女の瞳の色だけが、いつまでも脳裏に残り続けた。
翡翠の光。
それは、闇に閉じ込められたまま、なお消えぬ――人の証だった。
レギュラスは、いつものように冷たい石の階段を降りていった。
地下牢の空気は変わらず湿り、鉄の匂いが鼻に染みつく。
だが、以前よりも少しだけ穏やかな気配がある――
それは、アラン・セシールがようやく食事を受け入れるようになったからだった。
彼女は、相変わらず静かだ。
けれど、器を手に取り、わずかに唇を動かすたびに、
レギュラスは息を詰めて見守ってしまう。
生きている――そう実感できる瞬間が、
どれほど脆く、どれほど貴重なものかを知っていたから。
アランが器を置いたのを見計らい、レギュラスはそっと口を開く。
「……全部食べられましたね。えらい。」
言葉は淡々としていたが、心の奥では安堵が広がる。
それでも表情には出さない。出してはいけない。
任務の域を超えた情が見えるのは、許されないことだった。
ふと、彼女の顔に目をやると、長く伸びた前髪が頬に垂れていた。
その奥で、翡翠の瞳が半ば隠れている。
「……そういえば、髪もずいぶん伸びましたね。」
呟いた声は、自分でも思いのほか柔らかかった。
アランは返事をしない。
ただ、まばたきひとつせずに静かに座っている。
「切ります?」
やはり反応はない。
だが、拒絶の気配もなかった。
レギュラスは、わずかに息を吸って立ち上がる。
「……少しだけ整えます。動かないでください。」
彼は杖を取り出し、アランの前に膝をついた。
顎に手を添え、顔を真っ直ぐに向けさせる。
その肌は驚くほど冷たい。
血が通っているとは思えないほどに、白く薄い。
「じっとしててください。」
静かな声で告げると、杖先に微かな光を灯した。
切断呪文――髪の毛だけを傷つけぬよう、極めて微弱な魔力で。
ぱさり、と。
淡い光とともに、細い髪が床に散った。
伸び切った毛先を揃えていくうちに、
彼女の顔立ちが、少しずつ形を取り戻していく。
頬のライン、白磁のような額、長い睫毛。
そのすべてが、どこか神聖で、脆い芸術品のように思えた。
左右でわずかに長さが違うような気もしたが――
「ええ、いいと思いますよ。」
と、自らを納得させるように呟いた。
その瞬間、アランが顔を上げた。
隠れていた翡翠の瞳が、まっすぐにレギュラスを射抜く。
息を呑むほどに、澄んだ色だった。
光を帯びたその瞳に、
自分が写り込んでいるのが分かる。
どうしてだろう――直視できなかった。
見続けることが、どこか怖かった。
まるで、その瞳に見透かされているような、
己の浅ましい感情までも掬い上げられてしまいそうで。
視線を逸らし、わざと事務的な口調を保った。
だが、胸の奥では何かが軋んでいた。
レギュラス・ブラック。
名門の家に生まれ、貴族の舞踏会にも何度も出席してきた。
優雅に微笑む令嬢たちと踊ることなど、数え切れないほど経験している。
けれど、今目の前にいるこの女――
意思も言葉も奪われ、闇に閉ざされた囚人であるはずの彼女のほうが、どんな高貴な令嬢よりも、美しかった。
その事実が、恐ろしかった。
自分が“美しい”と思うこと自体が、
彼女に対する冒涜のように思えてならない。
――闇の帝王の言葉が脳裏を過る。
「見た目だけは高貴な顔をしていた。お前も好きにしたらいい。」
その言葉の汚れた響きが、胸の奥を苛む。
同じ感情の領域に踏み込むまいと、レギュラスは心を引き締めた。
それでも、翡翠の光が焼き付いて離れない。
まるで呪いのように、
その瞳が彼の理性の奥を、静かに揺さぶり続けていた。
――そして彼は、この地下の空間で初めて悟る。
守ることと、惹かれることの境界線は、
思っているよりもずっと脆く、曖昧なものなのだと。
季節の移ろいを感じることのない地下牢にも、
確かに“時間”というものは流れていた。
長く閉ざされた空間の中で、空気の温度や湿度、
光の加減が微かに変わるだけでも、レギュラスはそれを感じ取るようになっていた。
アラン・セシールの監視を任されてから、どれほどの日々が過ぎたのか。
日数を数えるのはとっくにやめていた。
だが、その間にひとつだけ確かな変化があった。
――アランが、少しずつ「生きる」ようになった。
初めの頃、彼女は無機質だった。
息をしているのかもわからないほどに動かず、言葉を発することもなく、
ただ虚空を見つめていた。
彼女の存在は、もはや“人間”ではなく、
何か神聖な彫像のようですらあった。
それが今では、ほんの少しずつ――
器を持つ指に力が入り、
目の焦点が確かに“今”を見ていることに気づく。
声を発することはまだない。
けれどその沈黙に、かすかな意思の鼓動が宿り始めていた。
レギュラスは、彼女の変化を言葉にしなかった。
ただ静かに、見守った。
食事を差し出すたび、彼女が受け取る。
その動作ひとつで、今日も生きているのだと実感する。
――それだけで十分だった。
ある日、彼は器を置いたあとに
ぽつりと何気ないことを口にした。
「……今日は、外は雪が降っているそうです。」
アランは顔を上げた。
翡翠の瞳に、かすかな反応が浮かぶ。
理解しているのかどうかは分からない。
それでも、レギュラスにはそれで十分だった。
地下のこの場所に、季節の景色を持ち込むのは自分しかいない。
せめて言葉だけでも、外の世界を届けたい。
そう思うようになっていた。
それからというもの、
レギュラスは毎日、短い言葉を添えるようになった。
「今日は曇りです。風が強くて、外に出る気にもなりませんね。」
「先日、城の温室で白い花を見かけました。名前は知らないけど……あなたに似ていました。」
「音楽は好きですか? 僕は、ピアノの音が落ち着きます。」
アランは一度も返事をしなかった。
だが、彼の言葉が響くたび、
翡翠の瞳がほんのわずかに揺れるのをレギュラスは見逃さなかった。
ある夜、レギュラスが牢を訪れた時、
彼女は壁にもたれかかって、目を閉じていた。
寝ているのかと思った。
けれど、足音に気づいたのか、静かに目を開ける。
その瞬間、彼の胸が妙に高鳴った。
言葉にできない何か――
恐れにも似た、温かい感情だった。
「……眠れていますか。」
思わず、そんな言葉が零れた。
アランは何も答えない。
ただ、まぶたをゆっくりと閉じた。
それがまるで、“はい”という返事のように見えて、
レギュラスは自分でも笑ってしまいそうになった。
彼女が変わり始めている。
それは確かに嬉しいことだった。
だが同時に、危うい。
この感情は、任務の域を越えてしまっている。
彼はそれを自覚しながらも、止められなかった。
ある日、アランの前に差し出したスープが
いつもより少し多く減っていた。
それに気づいたとき、レギュラスの口元にかすかな笑みが浮かんだ。
「……えらいですね。」
自分でもおかしな言葉だと思う。
彼女は子どもではない。
だが、口から出たのは、心の奥から湧いた素直な言葉だった。
アランが顔を上げる。
そして――ほんの一瞬、
彼女の唇の端が、わずかに動いた。
笑った、のかもしれない。
それが錯覚でも幻でも、構わなかった。
レギュラスの中で、何かが溶けていくのを感じた。
以来、彼の足は自然と地下牢へ向かうようになった。
職務だから、ではなく。
彼女の存在が、そこにあるから。
冷たい石壁の向こうで、翡翠の瞳が静かに光る。
その光を見つめるたびに、
レギュラスの心は、知らぬ間に救われていった。
彼はまだ、その意味を知らない。
それが“恋”と呼ばれるものに近いのだと気づくのは――
もう少し、時が経ってからのことだった。
数日間、レギュラスは地下牢へ降りることができなかった。
任務の報告や本部での会議、細々とした確認事項――
どれも一時的とはいえ彼をその牢から遠ざけるには十分だった。
けれど、胸の奥にどこか不安が残る。
あの冷たい石の部屋の中で、アラン・セシールは今も黙っているだろうか。
きちんと食事を取れているだろうか。
闇の帝王からは「死なせるな」としか命じられていない。
それ以上の感情を抱くことは、愚かだとわかっている。
だが、あの翡翠の瞳が脳裏に焼き付いてからというもの、
彼女が息をしているかどうか、それだけが気がかりになっていた。
不在の間のことを考え、レギュラスは地下牢の鍵を託す相手を思案した。
そして、選んだのは――バーテミウス・クラウチ・ジュニアだった。
奇妙な選択に見えるかもしれない。
だが、あの男はいい意味で“軽薄”だ。
興味を示しても、それを深く追おうとはしない。
人の苦しみを面白がるような残酷さも、支配欲も持ち合わせていない。
ただ世界を少し高みから眺めるように、どこか飄々としている。
その中立性が、時に何よりも信頼に値する。
「――数日間だけ、頼みます。」
レギュラスは鍵を手渡しながら言った。
「彼女にはきちんと食事を。必ず、手に持たせてください。」
バーテミウスは唇の端を持ち上げた。
「珍しいですね、君がそんな面倒を頼むなんて。」
「命令の範囲内です。」
レギュラスは短く答え、余計な感情を挟まぬよう努めた。
数日後。
ようやく任務を終え、レギュラスは再び地下への階段を降りていく。
懐かしいほどに、あの冷たい空気が肺を満たした。
牢の前では、バーテミウスが壁にもたれかかっていた。
薄暗い灯りの下、彼はいつもの気だるげな笑みを浮かべている。
「聞いてはいたけどさ――初めて見ましたよ、アラン・セシール。」
その声には好奇心が混じっていたが、どこか遠巻きでもあった。
彼は物事の中心には決して踏み込まない。
それが、彼の“安全な場所”なのだろう。
「食事は取っていましたか?」
レギュラスが尋ねると、
バーテミウスは肩をすくめて笑った。
「ああ、あのゲロみたいな汁物をかい?」
一瞬、眉がひくりと動いた。
その言葉に、反射的な苛立ちが浮かんだ。
確かに、味気ないものだ。
だが、医務魔女に言われていた。
――刺激の強いものを与えれば、体がもたない。
長く飢えた身体には、薄い湯気と香りだけで十分なのだ。
「……あれは、栄養を考えたものみたいです。」
抑えた声で返す。
感情を見せぬよう、静かに。
「そうかい。まあ、確かに食ってはいたよ。顔をしかめながらだけどね。」
その言葉に、レギュラスはほんの少しだけ息を吐いた。
無事でいる。それだけでいい。
「変わりがなければ安心しました。」
そう言うと、バーテミウスはふっと目を細めた。
「君、ずいぶん気にかけてるみたいですね。」
「……生かしておくようにとの命令ですから。」
その一言に、どれほどの意味を込めたか、
バーテミウスは察していないようだった。
軽く鼻を鳴らし、退屈そうに言う。
「それにしても――あの見た目には度肝を抜かれた。
まるで絵画の中の人物だ。あれなら売れば金になりそうですよ。」
その瞬間、レギュラスの瞳が細くなる。
「……下衆なことを言いますね。」
「冗談ですよ。」
バーテミウスは笑う。
だがその笑みは、本気でも嘲りでもない。
ただの観察。まるでこの世界を俯瞰する者のような無関心。
レギュラスは心の中で呟いた。
――やはり、この男で正解だった。
彼は欲望に支配されない。
金や権力、肉体的な愉悦に心を乱されることもない。
人間の醜悪さを面白がりながらも、決して自分はそこへ踏み込まない。
その奇妙な距離感が、今は救いだった。
牢の鍵を受け取りながら、レギュラスは短く言った。
「……感謝します。」
「いや、礼なんていらないさ。それより君、あの女に妙に優しい顔をしてましたよ」
その言葉に、レギュラスの表情が僅かに凍った。
「……優しさなど、持ち合わせていません。」
「ふうん。」
バーテミウスは興味なさげに笑い、肩をすくめて去っていった。
彼の足音が遠ざかる。
再び静まり返った廊下を、レギュラスは鍵を握りしめながら歩いた。
扉の向こうには、あの翡翠の瞳がある。
それを思うだけで、胸の奥に熱のようなものが灯る。
――だが、決してそれを名にしてはいけない。
任務のために生かす。
そう言い聞かせながらも、
彼の心はいつの間にか“生かしたい”という願いに変わっていた。
その夜、牢の扉を開けたとき、
わずかに動いたアランの視線が彼を迎えた。
その一瞬のまなざしだけで、
彼はすべての疲れを忘れてしまうほどの、静かな安堵を感じたのだった。
地下へ続く階段を降りるたびに、空気が変わっていく。
地上のぬくもりを忘れさせるような冷気が、肌を撫でた。
レギュラスは、手にしたランプの灯を頼りに歩みを進める。
いつもと同じ道。
けれど――今夜はなぜか、胸の奥がざわめいていた。
数日ぶりに戻る地下牢。
鉄の扉を開けると、湿った空気がゆっくりと流れ出た。
そこに、いつものようにアラン・セシールが座っていた。
鎖の音も立てず、静かに、まるでそこだけ時間が止まっているかのように。
レギュラスはゆっくりと歩み寄り、いつものように器を手渡した。
アランは無言のままそれを受け取る。
わずかに手が触れた。冷たいはずの指先が、ほんの少しだけ温もりを持っていた。
そして、彼女が器を置いた瞬間――
アランの口元が、わずかに動いた。
それは、ほんの一瞬のこと。
唇の端が柔らかく持ち上がった。
音もなく、言葉もない。
それでも確かに、“笑み”だった。
レギュラスの心臓が、不意に掴まれたように跳ねた。
鼓動がひどくうるさく感じられる。
思わず、息を呑んだ。
笑った――この女が。
あまりにも小さな仕草なのに、それはこの地下の世界を照らす光のように思えた。
長い沈黙の中に、初めて差し込んだ“生”の色。
自分は激情に駆られる人間ではないと理解している。
恋だの愛だのといったものに心を乱されるほど、感情的でもない。
けれどこの瞬間――胸の奥で何かが爆ぜるような音がした。
熱が広がる。
この冷たい牢の中で、自分の体温だけが異様に浮き立っているようだった。
「……ちゃんと、食べられたようですね。」
ようやく口を開くと、アランはゆっくりと顔を上げた。
翡翠の瞳がまっすぐに彼を見つめる。
そして、ほんのわずかに――頷いた。
それは、彼女と初めて交わした“意思”だった。
言葉ではなく、音でもなく。
ただ、確かに繋がった瞬間。
レギュラスは不意に視線を落とした。
胸が痛いほどに締め付けられる。
息を整え、いつもの調子を取り戻そうとする。
「……少しの間、任務で席を外していました。」
ゆっくりと語り始めた。
「本部での報告や、他の監視任務です。
北の砦では、闇祓いとの交戦がありました。
思ったより手強く、数日間、外に出られなかった。
その間は……バーテミウスに鍵を預けていました。」
アランは何も言わない。
ただ静かに聞いていた。
相槌すらない。
だが、瞳はレギュラスを見つめて離さない。
その視線に晒されるたび、彼の言葉が乱れそうになる。
普段なら滅多に感じない“居心地の悪さ”。
だが、それは嫌悪ではなかった。
むしろ、そこに人間らしい温度を感じて――怖かった。
彼女の瞳は、深い翡翠の湖のようだ。
表情は乏しいのに、その瞳だけは全てを映す。
優しさも、痛みも、静寂も、そして――彼自身も。
沈黙が降りた。
遠くの水滴が、石の床に落ちる音だけが響く。
レギュラスはそっと椅子を引き寄せ、彼女の前に腰を下ろした。
何かを言いたかった。
だが、言葉が見つからない。
語ればすべてが壊れてしまいそうで、怖かった。
ただ、灯の揺らめきの中で、二人の影が重なって見えた。
アランは相変わらず無言だったが、
その沈黙にはもう“拒絶”の気配はなかった。
どこか穏やかで、受け入れるような静けさ。
レギュラスはその空気に包まれながら、
自分の内側で何かが少しずつ変わっていくのを感じていた。
それは、情ではない。
哀れみでもない。
もっと静かで、もっと危うい――
“惹かれていく”という感覚だった。
冷たい牢の中に生まれた、小さな熱。
その火はまだかすかだったが、
確かに彼の中で、燃え始めていた。
それからの日々――
レギュラス・ブラックは、これまでよりも長く地下牢に滞在するようになった。
それは任務のため、という建前のもとで。
けれど本当の理由は、彼自身にももう分かっていた。
ただ、そこにいる彼女を見たかった。
それだけだった。
それは音のない牢獄だった。冷え切った石壁は湿り気を帯び、ひとつ息をするたびに肺の奥が重く沈む。
そこに少女はいた。鎖で繋がれ、細い足首に絡む鉄環が小さく軋むたび、かすかな金属音が闇に吸い込まれていく。
彼女の名は――アラン・セシール。
封印の力を宿すセシール家の末裔。
その血筋ゆえに、闇の魔法使いに囚われ、地下に閉じ込められていた。
封印の魔法は、彼女自身の血によって施されていた。
その術は永遠に解かれぬもの――セシール家の血が途絶えぬ限り、決して破られぬ鎖。
ヴォルデモートはその力を利用しようとしていた。
ホークラックスを「永遠」に保つために。
アランの魔力により封じられ、彼女自身が“鍵”として、闇の中に沈められている。
その監視役として派遣されたのが――レギュラス・ブラック。
純血の名門、ブラック家の次男。若くして闇の印を刻まれた、デスイーターのひとりだった。
彼が初めて地下牢を訪れたとき、思っていたものとはまるで違う光景がそこにあった。
どんな凶暴な女魔法使いが囚われているのかと想像していた。
だが、鎖につながれたその女は、野蛮さとは正反対の存在だった。
青白く透き通るような肌。
長い年月、日の光を浴びていないせいだろう――それでも、どこか聖域めいた静謐さが漂っている。
瞳は翡翠。濁りのない深い緑の光が、薄闇の中でゆらりと輝いていた。
その光だけが、この陰鬱な地下室の唯一の“生”の証のように見えた。
髪は無造作に流れ、肩から背へと落ちていた。
粗末な服に包まれているが、その佇まいにはどこか品があった。
もしこの女に、上質な衣を与え、櫛を通し、香を焚いたなら――
貴族の舞踏会に立たせても、誰もが息を呑むだろう。
それほどに、彼女は“この世界に似つかわしくない”ほど美しかった。
レギュラスは思わず息を止めた。
その瞬間、彼は自分の胸の奥に生じた微かな動揺を、即座に打ち消す。
感情を持つことは許されない。
任務とは、この女の監視と管理。それ以上でも、それ以下でもない。
「――初めまして。アラン・セシールという名のようですね。レギュラス・ブラックです。」
低く、静かな声。
彼女は顔を上げもしなかった。
翡翠の瞳はどこか遠くを見ているようで、まるでこの世の言葉など意味を成さないかのように。
沈黙が落ちる。
湿った空気が、二人の間を流れた。
レギュラスは返事を待たなかった。
最初から、期待などしていない。
彼女は囚人であり、自分は監視者だ。
それだけの関係――そう、思い込もうとした。
だが、扉を閉めて背を向けた瞬間、彼の脳裏にはあの翡翠の光が焼き付いて離れなかった。
冷たいはずの空気の中で、あの瞳だけが確かに“生きていた”。
その輝きが、彼の理性をわずかに揺らしたことを、このときのレギュラスはまだ知らなかった。
――この地下で、彼の運命がゆっくりと狂い始めていくことも。
数日間、レギュラス・ブラックはその地下牢に通い続けた。
命じられた通り、ただ監視するだけの任務。
だが、通うたびに、胸の奥にじわじわと広がる違和感を無視できなくなっていた。
少女――アラン・セシールは、まるでこの世の意志をすべて抜き取られたように、微動だにしなかった。
まぶたの動きすら稀で、息をしているのかどうかさえ、時折確かめずにはいられなかった。
人というより、壊れかけた人形のようだった。
牢の入り口近くには、粗末な木皿が転がっている。
こぼれたスープが床に染みつき、湿った臭いが鼻を刺した。
食事係が乱暴に投げ込むせいで、皿の縁には乾いた跡が幾筋も走っている。
以前は、少しは口にしていたという報告があったが――ここ最近、彼女はほとんど何も食べていないらしい。
レギュラスは、鉄格子の向こうで黙ったままの彼女を見つめた。
皮膚は透けるように白く、鎖が擦れた手首は赤く傷ついている。
痩せ細ったその腕には、まだ少女の柔らかさが残っていた。
それなのに――そこに宿る魂だけが、どこか遠い場所へ置き去りにされたままだった。
「アラン、食べない理由はなんです?」
低い声で問いかける。
だが、返事はなかった。
彼女はただ、石の床に体を預けたまま、無音の世界に沈んでいる。
レギュラスはゆっくりと鉄格子を開けた。
軋む音が、狭い地下に響く。
近づくと、冷気が肌を撫でた。
彼女のそばにしゃがみこみ、鎖を掴む。
じゃらり――。
金属の擦れ合う音が冷たく鳴る。
彼はためらいながらも、その鎖を軽く引いた。
細い体が引かれるように起き上がる。
髪が肩から滑り落ち、頬を隠した。
そして――その隙間から、翡翠の瞳がぎょろりとこちらを見上げた。
一瞬、息が詰まる。
何か鋭いものに胸を突かれたようだった。
その瞳の色は、光を失っているのに、どこか異様なほど美しい。
まるで毒のような美しさだった。
この場所には似つかわしくない――不純なほどの清らかさがあった。
「……温かいものなら、食べられますか?」
答えはない。
唇が動くことすらない。
「汁物にします?」
またも、沈黙。
レギュラスは短く息を吐き、立ち上がる。
外に控えていた食事係を呼び、
「温かいスープを。すぐにです」
と命じた。
しばらくして、陶器の器が差し出される。
湯気がゆらゆらと立ちのぼり、冷えきった空気をわずかに温めた。
レギュラスはそれを受け取り、アランの前にしゃがむ。
「持てますか?」
彼女の指に、器をそっと押し当てた。
冷たくなった手が、わずかに動いた。
その指先が、かすかに震えながら器を支える。
しばらく沈黙が流れ――そして、ようやく。
彼女は唇を器に近づけ、ひと口、ゆっくりと飲んだ。
その瞬間、レギュラスは知らぬ間に息を吸っていた。
わずかに胸の奥が緩む。
この数日間、ようやく彼女の中に“生”の動きが見えたのだ。
器が触れる音と、鎖が揺れる微かな響きが、静かな地下室に混じり合う。
まるで、世界がほんの少しだけ動き出したように思えた。
――彼女が生きている。
その事実だけが、なぜかレギュラスの胸を温めた。
この冷たい牢獄の中で、唯一の温もりは、彼女の指先が掴んだその器だけだった。
アラン・セシール――セシール家の末裔。
彼女の血には、永遠を封じるという古代の魔法が流れているらしい。
その力は、血が続く限り効力を保ち、時を越えて封印を維持し続けるという。
闇の帝王が、その力を利用しようとしているのは明らかだった。
だが、何を封じようとしているのか――それは誰も知らない。
知る必要もなかった。
この世界では、“知らぬ”ことが最も確かな生存術だ。
真実に手を伸ばす者ほど、早く死ぬ。
だからこそ、レギュラス・ブラックは目を伏せる術を心得ていた。
闇の帝王の何かを守るために、犠牲となった女。
しかし彼女の力は、その血が絶えない限り効き続ける。
だからこそ、彼女を生かしておかねばならない。
あるいは――その血を継がせねばならない。
だが、そのどちらも容易ではなかった。
医務魔女たちの報告によれば、アラン・セシールの体は完全に閉ざされているという。
成人の魔女でありながら、月経も排卵もない。
生命を繋ぐ器官そのものが、静かに眠り続けている。
極度の恐怖と飢え、そして孤独。
地下の冷たく暗い空間に囚われ、何年も人としての温もりを知らずに過ごした女に、
“子を成す”という機能など、とうに枯れ果てているのだろう。
なるほど――と、レギュラスは思った。
闇の帝王は彼女の“命”だけを必要としている。
魂でも、尊厳でもない。
ただ血が流れ続けていれば、それでいいのだ。
その日も、地下へ向かう足音が石段に響いた。
毎日のように繰り返される監視の時間。
だが今日もまず、確認すべきことがあった。
「……これは食べたのか?」
牢の入り口には、また冷めきった器が放り出されていた。
食事係がどうせまた乱暴に投げ込んだのだろう。
中身はこぼれ、床に染み、まるで汚れた涙の跡のようだった。
温もりはすでに失われ、湯気のかけらもない。
アラン・セシールは、壁にもたれかかり、動かない。
呼吸はかすかで、まるで死と生の境界に立っているように見えた。
レギュラスは小さくため息をつく。
「……こうしても、食べないか」
結局、牢の入り口に投げ込まれた食事では、彼女は口をつけないのだ。
ならば、自分の手で持っていくしかない。
食事は、生存のための最低条件――
闇の帝王の命に背くことだけは、絶対に許されない。
彼は外に控える係の魔法使いに声をかけた。
「温かい汁物を。あの女の分です」
それだけ言い残し、再び牢の中へ入る。
やがて、湯気の立つ器が運ばれてきた。
かすかな香りが冷えた空気を柔らかく満たす。
レギュラスはその器を受け取り、膝をつく。
「アラン、どうぞ」
言葉は静かだった。
まるで敵でも囚人でもなく、ただ一人の人間として。
彼女の手首を掴み、冷えた指に器を握らせる。
その動作に抵抗はない。ただ、命令に従うようにわずかに動いた。
唇が器の縁に触れ、ひと口、またひと口と飲む。
その瞬間――レギュラスの胸に、微かな安堵が生まれた。
ただ、それだけのこと。
生きるための最小限の行為。
それなのに、不思議なほど、心が温まった。
器が傾くたび、鎖がかすかに鳴る。
音が重なり、静かな牢の中に淡く響いた。
彼女の喉が動くたびに、その存在が確かに“生きている”と伝えてくる。
「頼みますよ。死んでもらっては困ります。」
そう言いながら、レギュラスの声はどこか自嘲めいていた。
自分でも気づかぬほどに、言葉に温度があった。
この女を生かすことは、任務だ。
だが――それ以上の何かが、彼の中で静かに芽吹きつつあった。
翡翠の瞳は、まだ彼を見ようとしない。
だが、器の縁から立ちのぼる微かな湯気が、二人の間の冷気をほんの少しだけ融かしていく。
その瞬間、レギュラスは気づいていた。
――この牢に囚われているのは、彼女だけではないのかもしれない。
その夜、地下への階段はいつになく静かだった。
湿った石壁をなぞるように蝋燭の灯が揺れる。
職務を終え、わずかな記録をまとめてから戻ると、
薄闇の奥に――人の気配があった。
牢の扉は半ば開かれており、
中からは低く、乱れた呼吸の音が漏れていた。
蝋燭の炎を掲げて覗き込んだ瞬間、
レギュラスの足が止まる。
番人の男が、女の上にいた。
半裸の背がわずかに動いている。
そして床には、鎖の触れ合う鈍い音。
アラン・セシールは、ただ横たわっていた。
動かず、抵抗せず、何も見ていないような目をして。
――見た瞬間に、すべてを理解した。
何をしていたのか。
なぜ彼女の服が乱れ、空気がこんなにも濁っているのか。
考えるまでもない。
怒りは湧かなかった。
むしろ、空虚だった。
この世界では、そんなことは珍しくもない。
彼女は囚人で、所有物でしかない。
番人がどう扱おうと、咎める理由などどこにもない。
……それでも。
胸の奥が鈍く痛んだ。
どうしようもなく、惨めで、哀しかった。
彼女ではなく――この世界そのものが。
誰も止めない。
誰も見ない。
誰も気づかないふりをする。
尊厳も、慈悲も、ここには存在しない。
ただ、命令と恐怖と沈黙だけが生きていた。
レギュラスは小さく息を吸い、低い声で言った。
「医務魔女を呼ぶので、さっさと下を履いたらどうです?」
男がびくりと肩を震わせ、慌ててズボンを引き上げた。
動揺を隠すように唾を飲み込み、頭を下げる。
「……は、はい」
声を荒げることはなかった。
怒鳴る気もなかった。
怒鳴ったところで何も変わらないことを、もう知っている。
やがて医務魔女が現れた。
杖を握り、顔にわずかな険しさを浮かべている。
「お呼びでしょうか?」
「風呂に入れてもらっていいですか。汚すぎて近寄れません。」
言葉の響きは冷ややかだった。
だがその裏にあるものは、吐き出せぬほどの嫌悪だった。
知らぬ男の体液が、どこに触れ、何が染みているのかもわからない。
その状態で食事を与える――それが職務だとしても、
人として耐え難かった。
医務魔女は無言で頷き、アランを連れ出す。
鎖が床を引きずる音だけが残り、牢の中は再び静寂に沈んだ。
レギュラスは扉の傍らに視線を落とした。
そこには、誰もが触れられる鍵が吊るされている。
ずさんな管理。
それが、今夜のすべてを許してしまった理由。
そのことを思うと、胸の奥に小さな棘が刺さるようだった。
「……自分の責任か。」
小さく呟いた声は、誰にも届かない。
蝋燭の火がふっと揺れ、空気が冷える。
しばらくして、医務魔女たちがアランを戻した。
濡れた髪が肩に張りつき、白い肌がかすかに震えている。
清められたはずの身体からは、湯気と一緒に、何か大切なものまで抜け落ちたようだった。
レギュラスは、いつものように食事を運び、
器を手に取らせた。
その所作は、まるで儀式のように淡々としていた。
アランは何も言わず、ただ視線を落とす。
動きも声も、以前と変わらない。
――いつもと同じ、はずなのに。
どこか決定的に違って見えた。
沈黙が広がる。
レギュラスは、何か言葉を探した。
「……嫌なら、声を上げるようにしてください。」
そう言いかけて、喉の奥で言葉が消えた。
声を上げたところで、何になる。
自分はこの場を離れれば何もできない。
救う力も、守る権利も、与えられていない。
この牢の中での彼は、ただの“見張り”でしかないのだ。
沈黙のまま、器が空になった。
アランの指がそれを静かに差し出す。
レギュラスはそれを受け取り、立ち上がる。
――何も変えられない。
それが、この世界の現実だった。
だが扉を閉める前、ふと視線が交わった。
翡翠の瞳が、わずかに揺れた気がした。
痛みでも、恐怖でもない。
ただ、ひどく静かな“諦め”の光。
その光が、なぜか胸の奥に焼き付いて離れなかった。
冷たい扉の向こうで、鍵の音が響く。
沈黙だけが残り、レギュラスの表情からはすべての色が消えていた。
――救えぬ者を前にして、心だけがまだ人の形を保っている。
それが、最も残酷なことだと、彼は初めて知った。
セシール家――その名は、魔法界において“静謐なる力”として知られていた。
彼らは表舞台に立つことなく、ただ静かに世界の均衡を守り続けてきた一族。
闇と光、秩序と混沌、その狭間を見極め、暴走する力を封じることが彼らの使命だった。
人の手には余る呪具、禁じられた魔法書、魂を喰らう生物――
セシール家は代々、それらを封じてきた。
その力は、血の中に宿る。
そしてその血は、恐れられた。
理解できない力ほど、人はそれを恐れる。
それは魔法界よりもむしろ、マグルたちにとっての脅威だった。
科学が世界を支配しつつあった時代――
「見えない力」を操る存在など、もはや神話でも奇跡でもなく、“制御不能な災厄”としか見なされなかった。
セシール家の封印魔法は、マグルたちの理屈では説明できない。
その不可解さが、やがて“恐怖”へと形を変える。
そして、恐怖は決まって暴力を呼ぶ。
冬のある夜、雪の静寂を切り裂くようにサイレンが鳴り響いた。
闇を裂いて、無数の光が丘を照らす。
セシールの屋敷を取り囲むのは、銃を携えたマグルの軍勢だった。
外の空気が震え、照明弾が夜空を白く焼く。
屋敷の結界が、銃火の光の中で脆くもひび割れた。
「アラン! 地下へ!」
父の声が響いた。
アランは母の手に引かれ、息を切らしながら階段を駆け下りる。
心臓が痛いほど鳴っている。
背後では、魔法の防壁が破られる轟音がした。
「お母様、どうして――どうしてマグルが……!」
アランの声が震える。
母は答えず、ただ唇を噛みしめた。
その沈黙が、すべてを物語っていた。
――もう、話し合いではどうにもならない。
祈りの間に辿り着くと、母は急ぎ封印の呪文を唱え始めた。
古代の紋章が青く光り、石の床に微細な魔力の線が走る。
「アラン、いい? 外に出てはだめ。どんな音がしても……ここから動かないのよ」
「嫌です! お父様もお母様も一緒に――!」
アランの叫びが、石壁に反響した。
涙で視界が歪む。
母はそんな娘の頬を優しく撫で、首を横に振った。
「あなたは“封”の継承者。あなたが生きなければ、世界がまた闇に沈むの」
扉が閉まる。
外の光が細い隙間から差し込み、次の瞬間、轟音が部屋を揺らした。
天井がきしむ。
遠くで爆発音。
叫び声――そして、父の名を呼ぶ声。
「お父様――!!」
アランは叫んだ。
爪が床を掻く。
石に爪が割れて血が滲んでも、扉を叩き続けた。
しかし、封印の呪文が完成した瞬間、音がすべて遠のいた。
厚い石の壁が、彼女を世界から切り離す。
静寂。
炎の匂い。
そして、息を殺すような孤独。
アランは膝を抱き、声を押し殺して泣いた。
その声だけが、封印の間に残された最後の“生命の音”だった。
夜明け、屋敷は灰と化し、雪が灰の上に降り積もった。
マグルの報告書にはこう記される。
「異常な現象を起こした魔法集団を制圧。被害壊滅。」
だが、誰も知らない。
地下で一人、少女が封印の光の中で生き延びていたことを。
そして、その力を欲した者たちによって、彼女は捕らえられ、
封印の術を継ぐ最後の生贄として、闇の帝王の地下へと送られた。
――そうして、彼女の長い幽閉の日々が始まった。
レギュラス・ブラックは、淡々と報告書を閉じた。
書かれていたのは、ただの記録――しかし、それを読み終えたあと、胸の奥に重い澱が残った。
彼は牢の前に立つ。
いつものように、そこにいる女を見つめる。
あの薄汚れた服――まるで罪人の象徴のような布切れ。
見るたびに、吐き気にも似た不快感が胸に広がった。
レギュラスは屋敷に戻り、古い衣装部屋を探った。
もともと貴族の客人用に用意されていた服の中から、上質な布地のものを選ぶ。
淡い青のワンピース。装飾は控えめで、それでも柔らかな光沢がある。
――それならば、彼女の翡翠の瞳に似合うだろう。
再び牢へ戻り、医務魔女を呼ぶ。
「これを着せてやってください。あの服では……さすがに、目を背けたくなります。」
魔女は頷き、静かにアランを立たせた。
着替えの間、レギュラスは視線を逸らした。
ただ、鎖が擦れる音と布のこすれる音が、冷たい空気に混じって響いていた。
少しして、医務魔女が出ていく。
牢の中に残されたのは、新しい服を身にまとった女――アラン・セシールだった。
彼女は何も言わない。
ただ、薄暗い光の中で、ゆるやかに瞬きをした。
痩せすぎた肩に服が少し余っている。
それでも、その布が彼女の肌を覆うことで、ようやく“人間らしさ”が戻ったように見えた。
その姿を見た瞬間、レギュラスの胸にひどく痛い感情が走った。
あれほどまでに穢され、奪われ、心までも砕かれたというのに――
それでも彼女の中には、消えぬ何かが残っていた。
「……似合いますよ。」
思わず言葉が漏れた。
しかし口にした途端、レギュラスは小さく眉を寄せた。
何を言っているのだ、自分は。
監視者が囚人にかける言葉ではない。
感情を持つなど、あってはならない。
だが――
そのとき、アランがほんのわずかに顔を上げた。
表情はない。けれど、その瞳の奥に、一瞬だけ揺らぐ光が見えた気がした。
まるで、長い冬の終わりに射す陽のような、かすかな微光。
レギュラスはそれ以上、何も言わなかった。
沈黙を選び、背を向ける。
だが、胸の奥では確かに何かが変わり始めていた。
――この女を「生かす」ことは命令だ。
けれど、「生きさせたい」と思ったのは、初めてだった。
重い扉が静かに閉じる。
その奥に広がる空間は、異様なほど静まり返っていた。
空気そのものが冷え、光すら命を失ったような部屋。
壁一面に張り巡らされた影が、生き物のように蠢いている。
レギュラス・ブラックは、背筋を正してその中心に立っていた。
眼前の椅子には、闇の帝王――ヴォルデモート。
その指先がゆっくりと動き、杖の先で空気を撫でるたび、
まるで空間が歪むような圧が全身を包み込んだ。
「……報告を。」
その声は囁きのように静かだった。
だが一言で、空気のすべてが凍りつく。
レギュラスは頭を垂れたまま、淡々と話し始めた。
「セシール家の末裔、アラン・セシール。生命に異常はありません。
食事も取っています。封印の効力も、現状維持されています。」
ヴォルデモートの表情は読めない。
瞳は蛇のように細く、どこまでも冷ややかだ。
その沈黙を恐れずに、レギュラスは続けた。
「ただ……地下牢に出入りする者たちの中には、
彼女に対して不適切な行為を行っている者がいました。
番人がその中心であったため、処理済みです。
今後同様のことが起こらぬよう、牢の鍵は私が管理しております。」
報告の間も、視線は一度も上げない。
だが、耳には微かに笑う声が届いた。
――くつくつ、と。
ヴォルデモートはゆっくりと椅子に背を預け、
口角を歪めた。
「……好きにさせておけばいい。」
その言葉は、静寂よりも冷たく響いた。
「どうせ死ななければ、それでよいのだ。」
レギュラスは微動だにしなかった。
だが心の奥では、鈍い痛みが広がっていた。
死ななければいい――
その一言で片づけられるほど、人の命は軽いのか。
たとえ囚われの身でも、呼吸をしている限りは“人間”のはずだ。
生かしておくのならば、せめてその尊厳だけは――
そう思ってしまった自分を、愚かだと知りながらも。
ヴォルデモートはさらに嗤う。
その瞳に、悪意という名の愉悦が滲んでいた。
「レギュラス、お前もあの女を好きにしたらいい。
見た目だけは高貴な顔をしていた記憶がある。
名門の家系でないにしても、血筋の“飾り”にはちょうど良いだろう。」
笑い声が室内に響く。
金属が軋むような、冷たく乾いた笑いだった。
壁に反射して、いくつもの声が重なり、闇そのものが嘲っているように感じられた。
レギュラスは表情を変えなかった。
心を閉ざし、感情を凍らせる。
ただ、その場に立つための“仮面”を被る。
「……お言葉の意味を、深く受け止めます。」
その声には、抑え込まれた静かな怒りが滲んでいた。
だがヴォルデモートは気づかない。
彼にとって、人の心など、利用するための器以上の意味を持たないのだから。
沈黙が再び降りる。
やがてヴォルデモートは、無関心そうに手を振った。
「下がれ。」
レギュラスは一礼し、背を向ける。
扉を出る直前、背中越しに笑い声がもう一度響いた。
それは、蛇が皮を剥ぐように滑らかで、底なしに冷たい音だった。
――外に出た瞬間、息を吐く。
胸の奥に溜まっていた空気が、ようやく動き出す。
吐息は震えていた。
“死ななければそれでいい”
――あの言葉が耳に残る。
レギュラスはその夜、初めて気づいた。
自分が仕えている“闇”は、ただの権力や恐怖ではない。
それは、人の尊厳という最後の一線すらも喰らい尽くすもの。
廊下を歩きながら、彼は胸の奥でひとつの誓いを立てた。
――あの女だけは、死なせない。
ただ“生かす”ためではなく、“生きたまま”でいさせるために。
それが罪とわかっていても、
この腐った闇の中で、自分に残された唯一の人間らしさだった。
地下牢に流れる空気は、いつも冷たく湿っていた。
それでも最近、そこにはほんの僅かな“変化”が生まれていた。
アラン・セシールが、少しずつ食事を口にするようになったのだ。
以前は、器に触れることさえしなかった。
冷え切ったスープがそのまま腐っていくのを見届けるしかなかった日々。
けれど今は、レギュラスが手渡すたびに、彼女の指が確かに器を受け取り、
少しずつ、ゆっくりと、生命の証のように飲み下している。
――生きようとしている。
その事実だけで、胸の奥に小さな安堵が灯った。
自分でも気づかぬうちに、息を吐き出していた。
「……何か、食べたいものがあれば言ってください。」
いつものように静かに声をかけた。
牢の中に響くのは、鎖が微かに擦れる音と、遠くで滴る水の音だけ。
返事はなかった。
だが、代わりに――アランがゆっくりと顔を上げた。
翡翠の瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめる。
その色は、地下の闇に似合わないほど澄んでいた。
冷たい光なのに、どこか温かい。
言葉よりも多くを語るその瞳が、レギュラスの胸をかすかに刺した。
見つめられる――ただそれだけのことで、
居心地の悪さを覚えるのはなぜだろう。
「……何です?」
思わず口をついて出た。
問いかけても、彼女は答えない。
ただ、視線を逸らす。
再び沈黙が戻る。
レギュラスはその横顔を見下ろした。
青白い頬に、細く柔らかな髪が触れている。
やつれた輪郭の中にも、もとからの整った造形が見て取れた。
あまりに静かで、あまりに儚い――
それでも美しいと思ってしまった。
“美しい”――その感情に、自分が一瞬でも囚われたことが、
途端に不快だった。
闇の帝王が笑いながら言っていた言葉が脳裏に蘇る。
――「見た目だけは高貴な顔をしていた記憶がある。お前も好きにしたらいい。」
そのときは無視した。軽蔑とともに。
だが今、彼女を“綺麗だ”と思った自分は、
果たしてその男たちと何が違うのか。
胸の奥がざらついた。
この感情は下劣だ――そう思おうとした。
だが、理性では押し込められぬ何かが、
彼女を見つめる眼差しの奥で、微かに蠢いていた。
アランは視線を逸らしたまま、再び器に手を伸ばした。
指が震え、鎖が細く鳴る。
その小さな音に、レギュラスはふと現実へ引き戻された。
彼女はまだ囚われの身だ。
この冷たい石の牢に、希望も、太陽もない。
生かされているだけの存在。
なのに――彼女の瞳には、確かに“生”があった。
沈黙の中で、確かに彼女は生きている。
レギュラスはそっと視線を外した。
彼女を見続けることが、罪のように感じたからだ。
ただ、灯の揺れる影の中で、
彼女の瞳の色だけが、いつまでも脳裏に残り続けた。
翡翠の光。
それは、闇に閉じ込められたまま、なお消えぬ――人の証だった。
レギュラスは、いつものように冷たい石の階段を降りていった。
地下牢の空気は変わらず湿り、鉄の匂いが鼻に染みつく。
だが、以前よりも少しだけ穏やかな気配がある――
それは、アラン・セシールがようやく食事を受け入れるようになったからだった。
彼女は、相変わらず静かだ。
けれど、器を手に取り、わずかに唇を動かすたびに、
レギュラスは息を詰めて見守ってしまう。
生きている――そう実感できる瞬間が、
どれほど脆く、どれほど貴重なものかを知っていたから。
アランが器を置いたのを見計らい、レギュラスはそっと口を開く。
「……全部食べられましたね。えらい。」
言葉は淡々としていたが、心の奥では安堵が広がる。
それでも表情には出さない。出してはいけない。
任務の域を超えた情が見えるのは、許されないことだった。
ふと、彼女の顔に目をやると、長く伸びた前髪が頬に垂れていた。
その奥で、翡翠の瞳が半ば隠れている。
「……そういえば、髪もずいぶん伸びましたね。」
呟いた声は、自分でも思いのほか柔らかかった。
アランは返事をしない。
ただ、まばたきひとつせずに静かに座っている。
「切ります?」
やはり反応はない。
だが、拒絶の気配もなかった。
レギュラスは、わずかに息を吸って立ち上がる。
「……少しだけ整えます。動かないでください。」
彼は杖を取り出し、アランの前に膝をついた。
顎に手を添え、顔を真っ直ぐに向けさせる。
その肌は驚くほど冷たい。
血が通っているとは思えないほどに、白く薄い。
「じっとしててください。」
静かな声で告げると、杖先に微かな光を灯した。
切断呪文――髪の毛だけを傷つけぬよう、極めて微弱な魔力で。
ぱさり、と。
淡い光とともに、細い髪が床に散った。
伸び切った毛先を揃えていくうちに、
彼女の顔立ちが、少しずつ形を取り戻していく。
頬のライン、白磁のような額、長い睫毛。
そのすべてが、どこか神聖で、脆い芸術品のように思えた。
左右でわずかに長さが違うような気もしたが――
「ええ、いいと思いますよ。」
と、自らを納得させるように呟いた。
その瞬間、アランが顔を上げた。
隠れていた翡翠の瞳が、まっすぐにレギュラスを射抜く。
息を呑むほどに、澄んだ色だった。
光を帯びたその瞳に、
自分が写り込んでいるのが分かる。
どうしてだろう――直視できなかった。
見続けることが、どこか怖かった。
まるで、その瞳に見透かされているような、
己の浅ましい感情までも掬い上げられてしまいそうで。
視線を逸らし、わざと事務的な口調を保った。
だが、胸の奥では何かが軋んでいた。
レギュラス・ブラック。
名門の家に生まれ、貴族の舞踏会にも何度も出席してきた。
優雅に微笑む令嬢たちと踊ることなど、数え切れないほど経験している。
けれど、今目の前にいるこの女――
意思も言葉も奪われ、闇に閉ざされた囚人であるはずの彼女のほうが、どんな高貴な令嬢よりも、美しかった。
その事実が、恐ろしかった。
自分が“美しい”と思うこと自体が、
彼女に対する冒涜のように思えてならない。
――闇の帝王の言葉が脳裏を過る。
「見た目だけは高貴な顔をしていた。お前も好きにしたらいい。」
その言葉の汚れた響きが、胸の奥を苛む。
同じ感情の領域に踏み込むまいと、レギュラスは心を引き締めた。
それでも、翡翠の光が焼き付いて離れない。
まるで呪いのように、
その瞳が彼の理性の奥を、静かに揺さぶり続けていた。
――そして彼は、この地下の空間で初めて悟る。
守ることと、惹かれることの境界線は、
思っているよりもずっと脆く、曖昧なものなのだと。
季節の移ろいを感じることのない地下牢にも、
確かに“時間”というものは流れていた。
長く閉ざされた空間の中で、空気の温度や湿度、
光の加減が微かに変わるだけでも、レギュラスはそれを感じ取るようになっていた。
アラン・セシールの監視を任されてから、どれほどの日々が過ぎたのか。
日数を数えるのはとっくにやめていた。
だが、その間にひとつだけ確かな変化があった。
――アランが、少しずつ「生きる」ようになった。
初めの頃、彼女は無機質だった。
息をしているのかもわからないほどに動かず、言葉を発することもなく、
ただ虚空を見つめていた。
彼女の存在は、もはや“人間”ではなく、
何か神聖な彫像のようですらあった。
それが今では、ほんの少しずつ――
器を持つ指に力が入り、
目の焦点が確かに“今”を見ていることに気づく。
声を発することはまだない。
けれどその沈黙に、かすかな意思の鼓動が宿り始めていた。
レギュラスは、彼女の変化を言葉にしなかった。
ただ静かに、見守った。
食事を差し出すたび、彼女が受け取る。
その動作ひとつで、今日も生きているのだと実感する。
――それだけで十分だった。
ある日、彼は器を置いたあとに
ぽつりと何気ないことを口にした。
「……今日は、外は雪が降っているそうです。」
アランは顔を上げた。
翡翠の瞳に、かすかな反応が浮かぶ。
理解しているのかどうかは分からない。
それでも、レギュラスにはそれで十分だった。
地下のこの場所に、季節の景色を持ち込むのは自分しかいない。
せめて言葉だけでも、外の世界を届けたい。
そう思うようになっていた。
それからというもの、
レギュラスは毎日、短い言葉を添えるようになった。
「今日は曇りです。風が強くて、外に出る気にもなりませんね。」
「先日、城の温室で白い花を見かけました。名前は知らないけど……あなたに似ていました。」
「音楽は好きですか? 僕は、ピアノの音が落ち着きます。」
アランは一度も返事をしなかった。
だが、彼の言葉が響くたび、
翡翠の瞳がほんのわずかに揺れるのをレギュラスは見逃さなかった。
ある夜、レギュラスが牢を訪れた時、
彼女は壁にもたれかかって、目を閉じていた。
寝ているのかと思った。
けれど、足音に気づいたのか、静かに目を開ける。
その瞬間、彼の胸が妙に高鳴った。
言葉にできない何か――
恐れにも似た、温かい感情だった。
「……眠れていますか。」
思わず、そんな言葉が零れた。
アランは何も答えない。
ただ、まぶたをゆっくりと閉じた。
それがまるで、“はい”という返事のように見えて、
レギュラスは自分でも笑ってしまいそうになった。
彼女が変わり始めている。
それは確かに嬉しいことだった。
だが同時に、危うい。
この感情は、任務の域を越えてしまっている。
彼はそれを自覚しながらも、止められなかった。
ある日、アランの前に差し出したスープが
いつもより少し多く減っていた。
それに気づいたとき、レギュラスの口元にかすかな笑みが浮かんだ。
「……えらいですね。」
自分でもおかしな言葉だと思う。
彼女は子どもではない。
だが、口から出たのは、心の奥から湧いた素直な言葉だった。
アランが顔を上げる。
そして――ほんの一瞬、
彼女の唇の端が、わずかに動いた。
笑った、のかもしれない。
それが錯覚でも幻でも、構わなかった。
レギュラスの中で、何かが溶けていくのを感じた。
以来、彼の足は自然と地下牢へ向かうようになった。
職務だから、ではなく。
彼女の存在が、そこにあるから。
冷たい石壁の向こうで、翡翠の瞳が静かに光る。
その光を見つめるたびに、
レギュラスの心は、知らぬ間に救われていった。
彼はまだ、その意味を知らない。
それが“恋”と呼ばれるものに近いのだと気づくのは――
もう少し、時が経ってからのことだった。
数日間、レギュラスは地下牢へ降りることができなかった。
任務の報告や本部での会議、細々とした確認事項――
どれも一時的とはいえ彼をその牢から遠ざけるには十分だった。
けれど、胸の奥にどこか不安が残る。
あの冷たい石の部屋の中で、アラン・セシールは今も黙っているだろうか。
きちんと食事を取れているだろうか。
闇の帝王からは「死なせるな」としか命じられていない。
それ以上の感情を抱くことは、愚かだとわかっている。
だが、あの翡翠の瞳が脳裏に焼き付いてからというもの、
彼女が息をしているかどうか、それだけが気がかりになっていた。
不在の間のことを考え、レギュラスは地下牢の鍵を託す相手を思案した。
そして、選んだのは――バーテミウス・クラウチ・ジュニアだった。
奇妙な選択に見えるかもしれない。
だが、あの男はいい意味で“軽薄”だ。
興味を示しても、それを深く追おうとはしない。
人の苦しみを面白がるような残酷さも、支配欲も持ち合わせていない。
ただ世界を少し高みから眺めるように、どこか飄々としている。
その中立性が、時に何よりも信頼に値する。
「――数日間だけ、頼みます。」
レギュラスは鍵を手渡しながら言った。
「彼女にはきちんと食事を。必ず、手に持たせてください。」
バーテミウスは唇の端を持ち上げた。
「珍しいですね、君がそんな面倒を頼むなんて。」
「命令の範囲内です。」
レギュラスは短く答え、余計な感情を挟まぬよう努めた。
数日後。
ようやく任務を終え、レギュラスは再び地下への階段を降りていく。
懐かしいほどに、あの冷たい空気が肺を満たした。
牢の前では、バーテミウスが壁にもたれかかっていた。
薄暗い灯りの下、彼はいつもの気だるげな笑みを浮かべている。
「聞いてはいたけどさ――初めて見ましたよ、アラン・セシール。」
その声には好奇心が混じっていたが、どこか遠巻きでもあった。
彼は物事の中心には決して踏み込まない。
それが、彼の“安全な場所”なのだろう。
「食事は取っていましたか?」
レギュラスが尋ねると、
バーテミウスは肩をすくめて笑った。
「ああ、あのゲロみたいな汁物をかい?」
一瞬、眉がひくりと動いた。
その言葉に、反射的な苛立ちが浮かんだ。
確かに、味気ないものだ。
だが、医務魔女に言われていた。
――刺激の強いものを与えれば、体がもたない。
長く飢えた身体には、薄い湯気と香りだけで十分なのだ。
「……あれは、栄養を考えたものみたいです。」
抑えた声で返す。
感情を見せぬよう、静かに。
「そうかい。まあ、確かに食ってはいたよ。顔をしかめながらだけどね。」
その言葉に、レギュラスはほんの少しだけ息を吐いた。
無事でいる。それだけでいい。
「変わりがなければ安心しました。」
そう言うと、バーテミウスはふっと目を細めた。
「君、ずいぶん気にかけてるみたいですね。」
「……生かしておくようにとの命令ですから。」
その一言に、どれほどの意味を込めたか、
バーテミウスは察していないようだった。
軽く鼻を鳴らし、退屈そうに言う。
「それにしても――あの見た目には度肝を抜かれた。
まるで絵画の中の人物だ。あれなら売れば金になりそうですよ。」
その瞬間、レギュラスの瞳が細くなる。
「……下衆なことを言いますね。」
「冗談ですよ。」
バーテミウスは笑う。
だがその笑みは、本気でも嘲りでもない。
ただの観察。まるでこの世界を俯瞰する者のような無関心。
レギュラスは心の中で呟いた。
――やはり、この男で正解だった。
彼は欲望に支配されない。
金や権力、肉体的な愉悦に心を乱されることもない。
人間の醜悪さを面白がりながらも、決して自分はそこへ踏み込まない。
その奇妙な距離感が、今は救いだった。
牢の鍵を受け取りながら、レギュラスは短く言った。
「……感謝します。」
「いや、礼なんていらないさ。それより君、あの女に妙に優しい顔をしてましたよ」
その言葉に、レギュラスの表情が僅かに凍った。
「……優しさなど、持ち合わせていません。」
「ふうん。」
バーテミウスは興味なさげに笑い、肩をすくめて去っていった。
彼の足音が遠ざかる。
再び静まり返った廊下を、レギュラスは鍵を握りしめながら歩いた。
扉の向こうには、あの翡翠の瞳がある。
それを思うだけで、胸の奥に熱のようなものが灯る。
――だが、決してそれを名にしてはいけない。
任務のために生かす。
そう言い聞かせながらも、
彼の心はいつの間にか“生かしたい”という願いに変わっていた。
その夜、牢の扉を開けたとき、
わずかに動いたアランの視線が彼を迎えた。
その一瞬のまなざしだけで、
彼はすべての疲れを忘れてしまうほどの、静かな安堵を感じたのだった。
地下へ続く階段を降りるたびに、空気が変わっていく。
地上のぬくもりを忘れさせるような冷気が、肌を撫でた。
レギュラスは、手にしたランプの灯を頼りに歩みを進める。
いつもと同じ道。
けれど――今夜はなぜか、胸の奥がざわめいていた。
数日ぶりに戻る地下牢。
鉄の扉を開けると、湿った空気がゆっくりと流れ出た。
そこに、いつものようにアラン・セシールが座っていた。
鎖の音も立てず、静かに、まるでそこだけ時間が止まっているかのように。
レギュラスはゆっくりと歩み寄り、いつものように器を手渡した。
アランは無言のままそれを受け取る。
わずかに手が触れた。冷たいはずの指先が、ほんの少しだけ温もりを持っていた。
そして、彼女が器を置いた瞬間――
アランの口元が、わずかに動いた。
それは、ほんの一瞬のこと。
唇の端が柔らかく持ち上がった。
音もなく、言葉もない。
それでも確かに、“笑み”だった。
レギュラスの心臓が、不意に掴まれたように跳ねた。
鼓動がひどくうるさく感じられる。
思わず、息を呑んだ。
笑った――この女が。
あまりにも小さな仕草なのに、それはこの地下の世界を照らす光のように思えた。
長い沈黙の中に、初めて差し込んだ“生”の色。
自分は激情に駆られる人間ではないと理解している。
恋だの愛だのといったものに心を乱されるほど、感情的でもない。
けれどこの瞬間――胸の奥で何かが爆ぜるような音がした。
熱が広がる。
この冷たい牢の中で、自分の体温だけが異様に浮き立っているようだった。
「……ちゃんと、食べられたようですね。」
ようやく口を開くと、アランはゆっくりと顔を上げた。
翡翠の瞳がまっすぐに彼を見つめる。
そして、ほんのわずかに――頷いた。
それは、彼女と初めて交わした“意思”だった。
言葉ではなく、音でもなく。
ただ、確かに繋がった瞬間。
レギュラスは不意に視線を落とした。
胸が痛いほどに締め付けられる。
息を整え、いつもの調子を取り戻そうとする。
「……少しの間、任務で席を外していました。」
ゆっくりと語り始めた。
「本部での報告や、他の監視任務です。
北の砦では、闇祓いとの交戦がありました。
思ったより手強く、数日間、外に出られなかった。
その間は……バーテミウスに鍵を預けていました。」
アランは何も言わない。
ただ静かに聞いていた。
相槌すらない。
だが、瞳はレギュラスを見つめて離さない。
その視線に晒されるたび、彼の言葉が乱れそうになる。
普段なら滅多に感じない“居心地の悪さ”。
だが、それは嫌悪ではなかった。
むしろ、そこに人間らしい温度を感じて――怖かった。
彼女の瞳は、深い翡翠の湖のようだ。
表情は乏しいのに、その瞳だけは全てを映す。
優しさも、痛みも、静寂も、そして――彼自身も。
沈黙が降りた。
遠くの水滴が、石の床に落ちる音だけが響く。
レギュラスはそっと椅子を引き寄せ、彼女の前に腰を下ろした。
何かを言いたかった。
だが、言葉が見つからない。
語ればすべてが壊れてしまいそうで、怖かった。
ただ、灯の揺らめきの中で、二人の影が重なって見えた。
アランは相変わらず無言だったが、
その沈黙にはもう“拒絶”の気配はなかった。
どこか穏やかで、受け入れるような静けさ。
レギュラスはその空気に包まれながら、
自分の内側で何かが少しずつ変わっていくのを感じていた。
それは、情ではない。
哀れみでもない。
もっと静かで、もっと危うい――
“惹かれていく”という感覚だった。
冷たい牢の中に生まれた、小さな熱。
その火はまだかすかだったが、
確かに彼の中で、燃え始めていた。
それからの日々――
レギュラス・ブラックは、これまでよりも長く地下牢に滞在するようになった。
それは任務のため、という建前のもとで。
けれど本当の理由は、彼自身にももう分かっていた。
ただ、そこにいる彼女を見たかった。
それだけだった。
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