1章
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——もう抑えなくていい。
大広間で彼女の唇に触れた、あの瞬間から。
それはレギュラスの中に生まれ落ち、日に日に確かな輪郭を持ち始めていた。
それまで彼は、どれほどに胸を焦がしても、理性でその思いを抑え続けてきた。
幼馴染として、主と従者として、その一線を越えることはできない。
そう繰り返し言い聞かせ、自らを縛ってきた。
けれど、一度その線を越えてしまった今となっては、もはや隠す理由がどこにもなかった。
重い鎖が外れたような解放感。
それは彼に新たな自信を与え、ためらいを消し去っていた。
その日から。
彼の態度は明らかに変わった。
肩にそっと手を置くことも。
すれ違いざまに自然と彼女の手を取ることも。
時には軽く、さりげなく抱き寄せることさえも。
以前なら、そのどれもが無謀と感じ、慎重すぎるほどに遠ざけていた行為たち。
今の彼には、すべてが「当然の距離」として許されているように思えた。
アランはそのたび驚いたように瞳を瞬かせる。
翡翠の眼差しの奥に混じるのは、困惑と戸惑いの色。
けれど拒絶の強さはなかった。
彼女は逃げない。
レギュラスにとって、それだけで十分だった。
たとえ心を縛りきれていなくとも、彼女が自ら背を向けないという事実は、胸の奥を確かな安堵で満たした。
その安堵は、恩寵に似ていた。
「この手を離さなければ、彼女は自分の隣に居る」——そう信じられることが、甘美な支えとなっていた。
石畳の廊下に朝の柔らかな光が降り注ぐ。
すでに多くの生徒たちが行き交い、笑い声と靴音が入り混じっている中。
彼は横に並ぶ少女を見遣った。
「アラン、次の授業に行きましょう」
変わらぬ穏やかな声で誘いかける。
アランはわずかに肩を震わせたが、すぐに頷いた。
「ええ。……ありがとう」
その答えを聞いた瞬間、彼は迷うことなく彼女の手を取った。
初めて触れた時のように硬直することもなく。
ただ「自然」そのものの仕草として。
かつては驚きに固まり拒んだ彼女も、今は小さくためらいながらもその手を受け入れていた。
ぎこちなさはまだ抜けきらない。
翡翠の瞳は俯き、頬にかかる髪の奥に複雑な思いを隠そうと必死だった。
それでも彼女の細い手は、確かに彼の掌の中にあった。
その事実が、どれほど彼を温めたことか。
「……」
レギュラスは音もなく微笑んだ。
彼女と手を取り歩く、その一歩一歩。
今この瞬間の歩みが、まるで未来にまで響いていくように思えた。
その確信は静かでありながら、抗えぬほど甘美な力をともなって胸いっぱいに広がっていく。
——彼女は逃げない。
その思いが、レギュラスにとっては何よりも強く、幸福な誓約であった。
石畳を小さく鳴らしながら歩む影。
寄り添う影の小ささが、彼にはいっそういとおしく、また恐ろしいほど愛しかった。
そして彼の指先は、もう二度とその温もりを手放すまいと無言で誓いを強めていた。
アランは、ひどく困惑していた。
いつの間にか、レギュラスが詰めてくる距離は、あまりに近すぎるものになっていた。
以前なら横を並んでいても、そこには常に安心と落ち着きがあった。
けれど今は違う。
肩と肩が触れるほどの位置、繋がれた手の熱。
その存在は心を守るものではなく、逃げ場を塞ぎ、息苦しさを与えるものへと変わりつつあった。
ただ——怖かった。
もしこのことが世に知れてしまったら。
主人であるオリオンやヴァルブルガに伝わってしまったら。
かつてブラック家に仕え続けてきた父ロイクの耳に入ってしまったら。
「ブラック家の次男を惑わせた女の一族」。
その汚名は一族の名に永遠に刻まれ、庇護も失い、職も失い、未来を閉ざされるだろう。
それは、セシール家の誰もが路頭に迷うことを意味していた。
——絶対に、あってはならない。
それだけは絶対に。
翡翠の瞳を震わせ、アランは必死の思いで言葉を絞り出した。
「……レギュラス。こんなこと……お父様も、お母様も望まないわ」
懇願というよりも、悲痛の叫びに近い声だった。
必死に「線」を引こうと、理性で必死に堰き止めた。
けれど、レギュラスは。
「……そう、ですよね……すみません」
小さくうつむき、謝意の言葉だけを口にした。
けれど、その手は決して離されなかった。
むしろ、彼が握る手はさらに強く包み込まれ、指先で甲をゆっくり撫であげる。
ひどく優しげで、繊細で——撫でる動作自体は恋人の仕草にも似ていた。
だが、そこに含まれていた意思は。
「離さない」
その執着の熱が、じわじわと彼女の肌に伝わってきた。
「……」
アランは言葉を失う。
今のレギュラスは、あまりに矛盾していた。
「すみません」と謝る声音は静かで殊勝に響くのに、その反対に行動は執拗で熱を帯びている。
言葉は穏やかに彼女を解放するように見せて、行動はむしろ強く縛りつけていた。
その不一致がアランをより混乱させ、不安に追い込む。
胸はきゅっと締め付けられ、逃れられない影に包まれる。
——どうして、こんなふうになってしまったのだろう。
かつてのレギュラスは穏やかで、常に冷静で、何事も完璧にこなす人物に映っていた。
誰よりも信頼できる人。支えになる人。そう信じていた。
だが今、目の前にいるのは違う。
言葉は理性を装いながらも、仕草には焦燥と執念が色濃く滲み出し、追い詰められていく彼自身の姿が透けて見える。
……なにか、彼をここまで窮地に追いやったものがあるのだろうか。
そう考えても、答えは見つからなかった。
ただ、翡翠の瞳には困惑の色ばかりが滲む。
けれど抵抗する強さは持てなかった。
拒むことも、受け入れることもできず。
結局、アランができたのは——震える瞳を伏せて、言葉もなく。
ただその「優しさに偽装された執着」の温もりを、無言で受け止め続けることだけだった。
その小さな沈黙こそが、彼女にとっての限界であり、レギュラスにとっての確信となっていった。
休暇に入り、ホグワーツから帰省する一行は、それぞれブラック家という重厚な館の扉を再びくぐった。
威厳と伝統に押し潰されるような静謐さが石壁の隅々にまで宿り、長い廊下には装飾された燭台の火が冷たく揺れる。
そこは、空気そのものが「家」という名の重荷を帯びた場所だった。
アランもまた、その空気に体を慣らそうと努めながら、すぐに使用人としての役割へと戻っていた。
銀食器を磨き、床を整え、廊下へ花を飾る。
重い盆に並んだ水差しを両手に抱え、訓練されたように足音を忍ばせて歩く。
幼き頃から染みついた務めであり、本来ならば無心で安らぎさえ感じられるはずの作業。
だが今は、落ち着きなど訪れなかった。
「アラン。持ちましょう」
声に顔をあげると、すぐ傍らにレギュラスが立っていた。
いつになく自然な仕草で、彼は彼女の腕から水差しを取り上げようとする。
「……」
アランは瞬間的にその行為を拒んだ。
口には出さずとも、必死に翡翠の瞳で訴えかける。
お願いだから、ここでは——やめて、と。
だが、レギュラスは視線を逸らさない。
一歩も引かず、平然と彼女の歩みに寄り添い続ける。
「アラン。冷たい水は避けてください」
「ええ、大丈夫です」
「アラン。ここに置いたらいいです?」
「ええ……でも、もう大丈夫です……」
「アラン。次は何を?」
穏やかな声音で重ねられる名。
追うように肩越しから注がれる灰色の瞳。
その一つ一つがアランを遠ざけるどころか、ますます追い詰めていく。
ついに耐えきれず、彼女は足を止めた。
大きく息を吸い込み、小さな声を震わせる。
「レギュラス……お願いです。何もしなくて大丈夫です。……オリオン様やヴァルブルガ様に勘ぐられてしまいます」
その名を口にしたとたん、屋敷の空気自体がぴんと張りつめた。
言葉にするだけで影のような威圧が背筋を這い上がる。
アランの声には、怯えが濃くにじんでいた。
しかし、レギュラスはわずかに周囲へ目を配ると、誰の姿もないことを確認した。
その直後、彼はためらいもなく距離を詰めた。
「……っ」
肩を抱き寄せられた瞬間、アランの心臓は跳ねた。
石壁が至近に迫り、誰かに見られるのではという恐怖が胸を乱打する。
耳まで赤く染めながらも、体は硬直し震えていた。
けれど耳元にかすめた彼の声は、意外なほど淡々としていた。
「誰も見てないところでなら……いいです?」
落ち着いた囁き。
それは優しく響いているのに、どうしても逃れられない力を孕んでいた。
彼の瞳は灰銀に光り、静かな深みを帯びながら「決して手放さない」という意思を宿している。
「……レギュラス……」
震える声で名を呼んだが、その頑なな眼差しは揺れもしなかった。
屋敷という名の檻の中で、主の影と従者の影が静かに絡まり合おうとしていた。
石壁の冷たさも、家の掟が纏う重みも、二人を引き裂くことはまだできなかった。
——けれど、その一瞬ごとに、アランの胸には「罪」と「抗えない執着」という二重の棘が深く食い込み続けていた。
シリウスは、もう限界だった。
ホグワーツの大広間で見せつけられた、あの唇と唇の触れ合い。
視界の端で何度も映されてきた、弟がアランの隣に寄り添い、当然のようにその影を支配していく光景。
そして帰省してからもなお、屋敷の石壁の中で執拗に彼女を追い続けるレギュラスの姿。
——そのすべてを目の当たりにしながら、黙ったままでいられるほど彼は強くなかった。
アランが強く拒絶しないのは、あくまで「主人と従者」という関係だから。
そう自分に言い訳してきた。
けれど、それが本当に真実なのかと考えはじめると、胸がざわつき、夜を越えることさえ苦しかった。
深夜。
石造りの屋敷が静寂に沈む頃、彼は決意したように足を踏み出していた。
アランの部屋の扉を叩くこともなく、迷わぬ手つきで開け放つ。
月光に照らされた小さな空間の奥で、翡翠の瞳が面を上げ、驚きとわずかな警戒を宿して彼を見た。
「アラン、ちょっと出ないか?」
短い言葉だった。
だが、強い。抑え込んでいた熱そのものの響きを帯びていた。
「どちらに……?」
戸惑いを零しかけた声を、シリウスは「いいから」と低く遮る。
そのまま伸ばした手でアランの細い手を掴み取り、拒む暇さえ与えず窓辺へと導いた。
月光が白く射し込む。
風に揺れるカーテンを押し分け、シリウスの呪文に応じて黒い箒が宙を駆けて室内へと滑り入る。
柄を確かに掌中に収めたとき、彼の動きには躊躇がなかった。
窓から吹き込む冷たい夜風の中で、シリウスは先に跨り、振り返って手を差し出す。
「こいよ。星を見に行こう」
その声音は、彼らしい豪放さではなく、不思議なほど柔らかかった。
心の奥にあるものをまっすぐ伝える優しい響きで。
翡翠の瞳が揺れた。
アランの唇に、自然と笑みが滲んだ。
「……ええ」
恐る恐る、けれど確かに伸ばされた指先を、シリウスは強くしっかりと握り締める。
ふわり、と重力が解けた。
床から足が離れ、次の瞬間には彼女はシリウスの背中の後ろに腰を下ろしていた。
「しっかり掴まれ」
そう言われるままに、アランは両腕を彼の腰に回す。
その細やかな腕の感触が、自分を確かに抱きとめている。
瞬間、シリウスの胸が熱で膨れた。
彼女が、自らの腕へ預けてくれている。
その事実こそが、数え切れぬ苛立ちも嫉妬も、一息で霧のように消し去っていく。
振り返る必要などない。
背中に感じるぬくもりが何よりの証として、胸の奥を甘美に支配していた。
風が走り出す。
屋敷の屋根を越え、冷たい夜気を切り裂きながら、ふたりの影は天空へ昇る。
果てしなく広がる夜空。
黒い絹に散りばめられた無数の宝石のような星々が瞬き、月は悠然と彼らを照らしていた。
「……すごい……」
背後から小さくこぼれた声。
震えを帯びながらも、確かな喜びがそこに宿っていた。
シリウスの唇に笑みが生まれる。
風を切り、星々の間を翔ける中で感じるのは——幸福ただひとつ。
彼女が自分の背に寄り添っているという、この事実だけが。
シリウスにとって、何者にも代えがたい真実だった。
深夜の風が、頬をやさしく撫でていた。
冷たく冴えわたった夜気の中で、満天の星々が瞬いている。
無数の光が漆黒の天蓋を覆い尽くし、まるで無限に広がる海が頭上に流れているようだった。
「……シリウス。あなたの星は――どれでしょう」
翡翠の瞳を夜空へと向けたまま、アランは静かに問いかけた。
隣で肩を並べるシリウスが、ふっと口元を緩ませる。
月光を受けた横顔が、輪郭を銀に縁取られ、どこまでも頼もしく映った。
「俺の星は、あっち側にあるやつだ」
指で空を示しながら、無邪気に笑う。
その声音は明るく、どこまでも真っ直ぐで、自由を孕んだ風のようだった。
けれど、アランの目には夜空よりも輝くものがあった。
光を纏ったその横顔。
堂々と、星々すらかすませてしまいそうな存在感。
気づけば、彼女はその姿に見惚れていた。
その一瞬を切り取って永遠に飾っておきたいと願うほどに。
「……なに見てんだよ」
シリウスがぼそりと呟き、頬をかく。
照れ隠しの仕草には、少年のような不器用さが滲んでいた。
アランの唇は、思わず自然に動いていた。
「……ううん。星より、あなたの横顔の方がずっと綺麗って思って」
言葉が零れた瞬間、自分自身が驚いた。
どうしてこんなことを。
けれど、それは紛れもなく本心だった。
目の前には、どんな星々よりも眩しい存在がいるのだから。
灰色の瞳が――ゆっくりと彼女を捕らえた。
月光を宿した光が吸い込まれるように深まり、アランの心を縫い止める。
次の瞬間。
彼の唇が触れた。
「……!」
初めは小さく、震えるように重ねられた口づけだった。
だが全身は一気に火照り、心臓は胸を破ってしまいそうなほど高鳴った。
胸の奥から歓喜が溢れる。
血は熱を帯び、指先まで痺れるような感覚に囚われる。
「もっと――」
心の内で叫ぶように、アランの唇は自らも彼へ押し付けていた。
衝動のままに。
シリウスは驚く間もなく、その熱を受け止めた。
けれど彼もまた、応えるように温もりを深めていく。
唇は重なり合い、深みを増していった。
理性は溶け崩れ、ただ快楽に似た心地よさが脳を支配する。
燃え上がる激情は、夜空の星々さえ霞ませてしまうほどだった。
――好きだ。
鮮やかに、迷いなくそう思った。
好き。この人が好き。
その思いは火のように真っ直ぐ燃え、全ての迷いを焼き尽くしていく。
レギュラスが示してくれたものは、確かに誠実で、優しかった。
けれどその想いは重みとなり、戸惑いを滲ませるばかりだった。
シリウスには曖昧さがない。
ただ真っ直ぐで、風のように心にぶつかり来る。
その強さこそが、自分が求めてやまないものだった。
本当はずっと前から、知っていたのだ。
ただ、その真実から目を背けてきただけ。
答えを出す勇気がなく、レギュラスを傷つけたくなくて、ずるく曖昧なまま縋っていただけだった。
だが今。
星々の下で、彼の唇を受け入れた瞬間にはっきりと理解してしまった。
――自分の心は、シリウスを選んでいるのだと。
夜空は清らかに瞬き、二人の影を優しく包み込む。
見上げる満天の輝きは、祝福のように静かで、どこまでも深い。
そして、その下に寄り添う二人の心は、確かに一つへと重なっていた。
屋敷へ戻り、深夜の静寂に包まれた頃。
分厚い石壁に囲まれた部屋の中で、ランプの灯はすっかり落とされていた。
窓から射す月明かりだけが白く床を照らし、ほんの細い線となって影を作っている。
シリウスはそっと扉を押し開き、音もなく忍び込んだ。
その仕草には冒険前の少年のような悪戯心がありながらも、どこか切実な焦りも隠れていた。
ベッドに腰を掛けるアランの前まで歩み寄ると、彼はためらいなくシーツをふわりと掲げて落とした。
「……!」
布が一瞬にして二人を包み込み、外の世界を閉ざす。
しんとした静けさが広がる中、シーツの下に作られたのは狭く小さな「秘密の空間」。
息づかいも瞳の熱も、すべてがそこに溶け合っていった。
「なあ、アラン。聞けよ」
にやりと笑ったシリウスが語り始める。
ジェームズやリーマスと繰り広げた数々の冒険。
禁じられた部屋に息を殺して忍び込んだこと。
夜中に寮を抜け出して廊下を全力で駆け、教師のランタンから逃げ惑ったこと。
ジェームズが派手に転倒した直後に、呆れきったリーマスの眉が吊り上がった顔――。
その場面を思い出すたび、言葉に身振り手振りを添える彼の描写は生き生きとしていて、聞いているだけでありありと目に浮かんだ。
「ふふっ……!」
アランの唇から笑いが零れた。
「リーマス様のあの顔、目に浮かぶようです」
「だろ? あいつは最高に真面目なくせして、最後には笑って付き合ってくれるんだ」
二人の声は布の中で重なり、柔らかく響いた。
肩を揺らして笑い合う。
そこには抑えきれぬ楽しさと、確かな心の温度があった。
やがてアランがぽつりと「本当に楽しそう……」と零したとき。
シリウスは少し真剣な色を帯び、彼女へと視線を向けた。
「アランがいれば……絶対にもっと楽しい」
不意を打たれた翡翠の瞳が大きく揺れる。
胸の奥に波が走る。
彼の言葉はただの軽口ではなかった。
笑いに覆われながらも、その奥に潜む本音は真摯で、彼女の胸奥を静かに叩いた。
アランの唇が、勇気を振り絞るように動いた。
「……今度、連れていって」
精一杯の告白にも似たその一言。
どこであってもいい。
シリウスの手で導かれるなら、それは場所ではなく「光」になる。
その想いを受けた瞬間。
シリウスの灰色の瞳が満天の星のように輝き、口元に弾ける笑みが灯った。
「当たり前だ! ホグワーツに戻ったら一緒に探検しよう。秘密の通路も、夜の屋上も、ぜんぶ見せてやる」
彼の声は力強く、甘美に響いた。
誘いはあまりに心惹かれるもので、休暇を終え学校に戻ることさえ待ち遠しいとすら思わせるほど。
ふと、灰色と翡翠の瞳が布の下で絡み合った。
言葉もなく、熱を孕んで吸い寄せられるように。
頬にかかる影が交わり、やがて唇がゆっくりと重なった。
今度は不安や緊張の硬さもなかった。
ただ自然に、心が欲するままに。
温かく、心地よく。
溶け合う唇に、境界線はあやふやになっていく。
どこまでが自分で、どこからが相手なのか、その輪郭が曖昧になっていく。
時の感覚が消えるほど長く、甘美で、静かな口づけ。
脳まで溶かし、世界そのものを忘れさせる心地よさがそこにあった。
布の下という小さな仮初の楽園。
屋敷の重苦しさも、家に纏う鎖も、一瞬だけ遠ざかっていた。
そこにあったのは、月明かりを思わせる淡く純粋な幸福。
そして心臓を熱で震わせる、二人だけの甘い秘密だった。
アランは屋敷の誰よりも早く目を覚ました。
空はまだ半ば闇に沈んでおり、石畳を渡る空気はひんやりと冷たい。
それでも彼女の足取りは迷うことなく厨房へ向かう。
毎日繰り返してきた務め――それこそが彼女に安心を与えるはずの唯一の習慣だった。
慣れた手つきで、ブラック家に代々伝わる定番の朝餉に取りかかる。
分厚く切ったベーコンを鉄鍋で焼き、香ばしい匂いが油のはじける音と共に広がる。
大鍋にはヴィンテージのかぼちゃジュースを注ぎ、均一な火を調理魔法でめぐらせてじっくり温めていく。
鶏卵を割り、柔らかに仕上げたスクランブルエッグには色鮮やかなチャイブを散らす。
焼き立てのパンが香気を放ち、そこへハーブ入りのバターを滑らせる――父ロイクに何度も教わり、受け継いできた味がひとつずつ形を成していった。
銀のポットに濃く淹れた紅茶を注げば、立ちのぼる香気が朝の空気をきりりと引き締める。
同時に食器が宙に浮かび、小さな音を立てて自ら磨かれ、光を宿して棚へと戻っていく。
鍋が揺れ、皿が回転し、まるで音楽のように規則正しく響くその調和は、アランが最も得意とするものであり、密かに誇れる能力だった。
――せめて、この技術だけは自分の誇りでいたい。
彼女はそう思いながら、火と水と香りを制御し続けた。
「……早くから本当にありがとうございます」
背後から柔らかな声が落ちた。
アランは振り返り、心臓がひときわ高鳴った。
「あなたも……早いのね」
そこに立っていたのはレギュラスだった。
彼は涼しげに笑みを含み、自然な足取りで歩み寄ってくる。
「ええ……いい匂いがしましたから」
さらりとそう言うと、そのまま台に沿って回り込み、彼女の背後へ。
次の瞬間。
「……っ」
アランの肩に、重みがそっと乗せられた。
レギュラスの顎が彼女の肩の上へ静かに寄り添ったのだ。
温もりが直接、背筋を走り抜ける。
血流が逆流したかのように頬へ熱が上り、心臓は荒ぶるように跳ねる。
シルバーの食器がひとりでに空を舞い続ける中、彼女の指先だけが強張っていた。
もし、この光景を――オリオンやヴァルブルガに見られてしまったら。
想像しただけで、背筋に冷気が奔った。
屋敷全体が震えるほど凍りつく未来を、簡単に思い描けてしまったから。
「レギュラス……だめです」
押し殺した声が震えを帯びた。
それでも、彼の灰色の双眸は退くことがなかった。
「まだ父も母も当分降りてきませんから」
囁きは驚くほど穏やかだった。
優しいはずの声音に、しかし底知れぬ危うさが潜んでいる。
「……」
アランは黙り込み、唇を噛んだ。
オリオンやヴァルブルガに知られる恐怖、それは間違いなく重い。
けれど、今胸を強く締めつけたのは、別の想いだった。
――シリウスに見られたくない。
その光景を彼に見られてしまったら。
自分が拒まず、それを受け入れてしまっていると誤解されたら。
きっと、彼は呆れ、失望してしまうだろう。
翡翠の瞳が伏せられ、ただ背後に寄せる重みに耐える。
灰色の瞳は動かず、肩に圧し掛かる重みはかえって増していく。
アランの胸の中では、罪悪感と恐れと、まだ名付けられない複雑な感情が渦を巻き続けていた。
空間ごと閉じ込められていくような錯覚に、呼吸さえ浅くなる。
屋敷の空気は冷ややかに張りつめている。
その重みの中、アランはまるで檻に閉ざされた小鳥のように、行き場を失いながら彼の温もりを拒み切れずに震えていた。
「アラン……」
低く囁く声は、まるで溶け出すようで、アランの耳を包み込んだ。
次の瞬間、彼の指先が静かに頬へ伸び、白い肌へと添えられる。
強くもなく、弱すぎもせず――逃げられぬ絶妙な圧で彼女を自分の方へ向かせる。
背後ではフライパンの上で火がまだ小さく揺れていた。
油のはぜる音が、もはや二人の心音と重なり、不安を煽る。
だが、それすらも一瞬で消え去る。
レギュラスが杖を軽く一振りすれば、炎は音もなく立ち消え、厨房を支配したのはただ暗さと静寂のみ。
世界は狭まり、息づかいと鼓動だけが際立って濃くなる。
「れ、レギュラス……っ」
抗議の声が唇から漏れた――その瞬間。
空気が掻き消されるように、彼の唇が重なった。
「――っ」
ぶつかり合った呼吸が潰れ、わずかな衝撃音が厨房に弾ける。
それはホグワーツの大広間での出来事以来、二度目の口づけだった。
だが、状況は決定的に違っていた。
あの時は衝動のまま。
まだ周囲に漂っていた視線や窮屈な人目が抑止力となっていた。
けれど今は違う。
ここには誰もいない。
この瞬間、彼を止めるものは何も存在しなかった。
アランが一瞬息を求めてかすかに唇を開いたその隙を、彼は逃さなかった。
舌がするりと差し入れられ、彼女の口内を迷いなく侵していく。
「んっ……っ……」
幼さの残る苦悶の声がくぐもって洩れた。
抵抗の微かな意思を含む音。
だがレギュラスは耳を塞ぐつもりなど毛頭なかった。
むしろその震え声が、彼の心を強く征服した。
かすかに嫌がる気配さえ、彼にとっては支配の甘い証明に過ぎなかった。
冷たい朝の空気の中で、二人の世界だけが歪んで熱を孕んでいく。
幸福感に似た高揚が全身を駆け巡り、理性を遠ざけた。
やがて、ようやく唇を離す。
アランは肩を上下させ、押し殺そうとする息が荒く弾んでいた。
乱れた呼吸。潤んだ翡翠の瞳が揺れ、濡れ光る睫毛が幼さを強調する。
その姿が――可愛い。愛おしい。
そして、狂おしい。
レギュラスの胸の内で、焦げるような欲と想いが渦を巻く。
二度目の口づけが冷静さを切り裂き、彼を止まらぬ暗がりへと導いていた。
「……レギュラス……」
困惑を湛え、不安を抱き、怯えまで滲んだ声。
それでも、その声は確かに彼を呼んだ。
彼はかすかに笑みを浮かべる。
「そんな顔……誰にも、見せないでくださいね」
その一言に込められたのは、甘い優しさの仮面を被った独占欲。
不安げで困り果て、しかし確かに女の色を帯びた彼女の表情。
それは鋭い刃となって彼の心を刺し、深く深く沈めていく。
気づけばもう、後戻りなどできなかった。
淡々とした優しさなどそこにはない。
あるのはただ、抗えない執着。
まるで沼。
一度沈めば、抜け出すことは不可能な暗い水。
アランという存在こそが、彼の理性を奪っていく力そのもの。
そしてレギュラスは完全に、その甘く危うい囚われの底に落ちていた。
銀器の並ぶ長いテーブルは、格式と伝統を象徴していた。
朝の光が厚いカーテンを透かし、淡く冷たい光条となって落ちる。
それは暖かさをもたらすどころか、屋敷全体に漂う重苦しさをより浮き彫りにしていた。
アランは使用人としてその場に控え、紅茶のポットを両腕に抱えて立っていた。
まっすぐ背筋を伸ばし、呼吸すら乱さぬように整えながら、彼女は慎重に主人の背を見守る。
カチリ――。
銀のスプーンが皿の上で微かな音を立てた後、ヴァルブルガが優雅な仕草でカップを持ち上げた。
青白い指先、細い顎を傾けて、熱い紅茶を一口、二口と含む。
その所作の一つひとつが、努力して作り上げた威厳と誇りを示すかのようだった。
やがて空いたカップを見て、アランは小さな声で問う。
「おかわりはどうされますか?」
「……そうね、もう一杯頂こうかしら」
顎をわずかに上げ、視線を動かすこともなく告げられる。
アランはすぐに深く一礼し、ポットを傾けた。
香ばしい湯気と共に紅茶は波紋を描き、音もなく金色の液体が注がれていく。
その横。
シリウスは大きな体を椅子に沈め、背を丸めながら朝食を無造作につついていた。
皿に載ったベーコンを乱暴に千切り、眉間に深い皺を寄せている。
吐息は荒く、空気をかき乱す刃のようだった。
ちらりと視線がアランをかすめる。
そのときの瞳は鋭く、怒りとも苛立ちともつかぬ色を帯びていた。
「……自分で注げよ、クソババア」
低い声が吐き捨てられた瞬間――食卓全体の空気が凍りついた。
ヴァルブルガの顔色が一気に紅潮し、瞳が大きく揺れる。
次の言葉が烈火になるのは必定で、薄い唇が呻くように歪まれた。
「……なっ……!」
その刹那、屋敷全体が緊張で震えたかのようだった。
重い沈黙を割ったのは、反対側に座るオリオンの声。
深く疲れを含んだような、しかし決して弱くはない制止だった。
「……シリウス。黙って食事を取れないのか」
声には厳しさがあった。
けれどそれは叱責ではなく、ただ事態を収めようとする冷たい理性だった。
「チッ……」
舌打ちが広間に鋭く響いた。
シリウスは食卓に拳を叩きつけ、その反動で立ち上がる。
椅子が軋み、音を引きずりながら転がりそうになった。
彼の背はためらうことなく扉へ向かい、その苛立ちを隠すこともなく大股で歩み去った。
広間の扉が閉まると、残されたのは割れそうな静寂だった。
銀器の光が不気味に漂い、燃え残ったベーコンの匂いだけがかすかに漂っていた。
アランはただ、彼の背中が遠ざかっていったその影を見つめていた。
胸を締め上げるような悔しさと、言いようのない切なさが交わる。
——ほんの少しでいい。
オリオンも、ヴァルブルガも、彼を理解しようとしてくれたなら。
そして、シリウスにも。
挑発するように反抗を剥き出しにするのを抑えてほしかった。
どちらも、心を寄せ合おうとはしない。
ただそれだけが、この家を埋め尽くす冷えをより濃くしていた。
紅茶のポットを傾けたまま、アランの指先が細かく震えた。
落とさぬように、こぼさぬようにと必死に力を入れる。
それでも、耳の奥にはひび割れた家の音が鳴り続けていた。
まるで石壁に走る小さな傷が、やがて全てを崩してしまうのを予感させるように。
彼女はただ、その音に抗えず、胸の奥を痛ませるばかりだった。
朝食が終わり、重苦しい空気が未だ廊下に残る頃。
アランは、機を見計らってトレイを胸に抱いた。
その足音はひたすらに小さく、廊下を渡る彼女の心臓の音の方がなお大きく響いているようだった。
やがて立ち止まり、扉の前で小さくノックする。
「……シリウス」
返答を待ちながら手を添え、そっと扉を開けると。
中には、ベッドに腰を下ろした彼の姿があった。
灰色の瞳はどこか暗さを帯び、陽気な色は影を潜めていた。
だが、それは先ほど食卓で燃やしていた苛立ちの炎ではなかった。
荒んだ怒りの気配は消え、ただ深い疲れと塊のような思考だけが影となって漂っていた。
「……シリウス、あまり食べられていなかったでしょう?」
アランは静かな声でそう告げ、トレイを机に置く。
用意したのは少しのパンとベーコン、果物。
ほんのわずかだが、気持ちを込めて残してきたものだった。
驚いたようにシリウスが目を瞬き、それから照れ隠しの笑みを浮かべる。
「……すまねぇ。変な気を遣わせちまったな」
声が柔らかく、小さな光のように胸を撫で下ろす。
あの食卓で炎そのもののように荒れていた姿が、今は嘘のように静かで優しい。
頼れる光がそこに在った。
けれど、その安堵は長く続かなかった。
「…… アラン。言えなかったことがあるんだ」
急に落ちた声音に、翡翠の瞳が揺れる。
彼の灰色の瞳が正面からまっすぐに自分を射抜いていた。
その真剣さが胸をざわつかせる。
何か恐ろしいことを告げられる――そう直感して、体が震えるほど強張った。
「……俺、この家を出る」
息が止まった。
驚きに言葉が消え、声さえ霞んで喉奥に詰まった。
どうして。どこへ。なぜ今。それだけが幾重にも頭を過ぎるのに、ひとつも声にならなかった。
代わりに、熱い雫が頬を伝った。
「……っ」
涙があふれて、耐え切れず零れ落ちる。
シリウスがいなくなったら、自分はどうすればいいのだろう。
いつだって彼は、暗闇に差す唯一の光。
どんな場面でも先を照らしてくれる導きそのものだった。
その光を失ったら――。
これから先、生きる意味さえ見失ってしまうかもしれない。
「…… アラン」
名を優しく呼びながら、彼は大きな手を伸ばした。
乱暴に見えて、驚くほど優しい指の腹で、雫を拭い去る。
温度のある仕草が彼の人柄を雄弁に物語っていた。
「泣くなよ。……俺はお前を見捨てるわけじゃねぇ」
翡翠の瞳が震えながらも、必死に彼の声を追いかける。
「絶対に、この屋敷から出してやる。俺を信じて……待っててほしいんだ」
その声音は豪快さと真剣さが入り混じっていた。
強引に見えて、誰よりも真っ直ぐで誠実。
シリウスらしい言葉だった。
信じていいのだろうか。
未来など不確かで、そんな約束が果たされる保証はどこにもない。
けれど今のアランを支配しているのは、不確かな未来への迷いではなかった。
「すぐに彼がいなくなる」という、この瞬間の恐怖だった。
それだけはどうしても堪えられない。
震える唇が、小さな声を紡ぐ。
「……行かないで、シリウス」
小さな懇願。か細い祈り。
シリウスは短く目を伏せたが、次の瞬間、決然と顔を上げた。
強靭な意志を宿した灰色の瞳が、彼女を射抜く。
「……お前がホグワーツを卒業する時、一緒に暮らせる家を用意しとくつもりだ」
言葉を飲み込むようにアランの胸は締め付けられた。
そこまで先の未来を、彼はもう具体的に思い描いている――。
夢かもしれない、絵空事かもしれない。
それでも。
その約束を「信じたい」と思った。
嘘ではなく本物の未来として、胸に灯したいと願った。
不安よりも確かに強く、希望が翡翠の奥で息吹きはじめる。
それは柔らかな火種であり、暗い屋敷の中でただひとつの灯りだった。
アランは涙をこぼしたまま、その光を懸命に見つめようとした。
その日、屋敷は静かにざわめいていた。
分厚い石壁に反響する足音がゆっくりと回廊を渡り、その振動が家中へ広がっていく。
重厚な扉の蝶番が軋みを上げ、鋭くその音が廊下に響いた。
――ブラック家の長男、シリウス・ブラックが家を出た。
誰も止めなかった。
母ヴァルブルガの嘆きも、父オリオンの叱声もない。
呼び止める声も、追いすがる姿もなかった。
ただ一人。
レギュラスだけが、その影を見送っていた。
屋敷の玄関先、重たい扉の正面に立ち、彼は黙然と佇んだ。
夏の残照は赤く燃え、その光に照らされたシリウスの背は黒々と長く地に伸びている。
その背は迷いなく扉を超え、家の外へと踏み出していく。
レギュラスは声をかけなかった。
引き止めもしなければ、言葉を交わすこともしなかった。
ただ静かに、眼差しだけでその退背する背中を追い続けた。
――どこまでやれるのか。
胸の奥に渦巻くのはただ、それだけだった。
兄の口にする「正義」と「自由」。
シリウスはそれを誇らしく掲げ、時に嘲笑すら伴ってこの屋敷や家名を切って捨てた。
だが、それは果たしてどれほど力を持つものなのか。
ブラック家の名を否定し、名誉を投げ捨て、その先で本当に彼は生き抜けるのか。
レギュラスには見えていた。
理想だけでは越えられぬ境界があることを。
自由だけでは手に入らない富があり、綺麗事だけでは守れない「盾」としての誇りがあることを。
世界は理想だけで運ぶほど優しくはない。
そのことをいずれ、兄は身を以て思い知るだろう。
そして――。
彼が望んでいるであろう存在。
アラン・セシールを。
シリウスは決して手に入れることはできない。
彼女はこの屋敷に留まる。
この家の掟と血脈、そして伝統の重みに繋がれながら、ここに残る。
そしてそれを抱きとめ、支配し、側に置けるのは自分だけだ。
レギュラスはそう信じ、そう決めていた。
重たい沈黙の中で、屋敷の扉が静かに閉ざされる。
鈍い音が響くと同時に、背後にいた者たちは一斉に口を噤み、広間には冷たい静謐が満ちた。
ほどなく、深く威厳を帯びた声が空気を震わせた。
「……レギュラス。お前に全てがかかっている」
父オリオンの言葉は、命でもあり、戒めでもあり、決して逃れられぬ鉄鎖でもあった。
レギュラスはすっと背筋を正し、深く一礼する。
その顔にはわずかの揺れも影もなかった。
兄が自由を追い求めるならば、自分は誇りを全うする。
その道筋はもはや確定した。
静寂の中、屋敷にはゆるやかに新しい「秩序」が生まれ始めていた。
それは去った者を拒む秩序であり、残った者を鎖で締める秩序だった。
だがレギュラスの心には、ひとつの確信だけが硬く残っていた。
——兄の理想は、いずれ折れる。
そして、自分だけが抱きとめる「もの」を守り抜く。
広大に見える屋敷はその瞬間、冷たく閉ざされた檻であると同時に、彼にとっては誓いの聖域へと変貌していた。
大広間で彼女の唇に触れた、あの瞬間から。
それはレギュラスの中に生まれ落ち、日に日に確かな輪郭を持ち始めていた。
それまで彼は、どれほどに胸を焦がしても、理性でその思いを抑え続けてきた。
幼馴染として、主と従者として、その一線を越えることはできない。
そう繰り返し言い聞かせ、自らを縛ってきた。
けれど、一度その線を越えてしまった今となっては、もはや隠す理由がどこにもなかった。
重い鎖が外れたような解放感。
それは彼に新たな自信を与え、ためらいを消し去っていた。
その日から。
彼の態度は明らかに変わった。
肩にそっと手を置くことも。
すれ違いざまに自然と彼女の手を取ることも。
時には軽く、さりげなく抱き寄せることさえも。
以前なら、そのどれもが無謀と感じ、慎重すぎるほどに遠ざけていた行為たち。
今の彼には、すべてが「当然の距離」として許されているように思えた。
アランはそのたび驚いたように瞳を瞬かせる。
翡翠の眼差しの奥に混じるのは、困惑と戸惑いの色。
けれど拒絶の強さはなかった。
彼女は逃げない。
レギュラスにとって、それだけで十分だった。
たとえ心を縛りきれていなくとも、彼女が自ら背を向けないという事実は、胸の奥を確かな安堵で満たした。
その安堵は、恩寵に似ていた。
「この手を離さなければ、彼女は自分の隣に居る」——そう信じられることが、甘美な支えとなっていた。
石畳の廊下に朝の柔らかな光が降り注ぐ。
すでに多くの生徒たちが行き交い、笑い声と靴音が入り混じっている中。
彼は横に並ぶ少女を見遣った。
「アラン、次の授業に行きましょう」
変わらぬ穏やかな声で誘いかける。
アランはわずかに肩を震わせたが、すぐに頷いた。
「ええ。……ありがとう」
その答えを聞いた瞬間、彼は迷うことなく彼女の手を取った。
初めて触れた時のように硬直することもなく。
ただ「自然」そのものの仕草として。
かつては驚きに固まり拒んだ彼女も、今は小さくためらいながらもその手を受け入れていた。
ぎこちなさはまだ抜けきらない。
翡翠の瞳は俯き、頬にかかる髪の奥に複雑な思いを隠そうと必死だった。
それでも彼女の細い手は、確かに彼の掌の中にあった。
その事実が、どれほど彼を温めたことか。
「……」
レギュラスは音もなく微笑んだ。
彼女と手を取り歩く、その一歩一歩。
今この瞬間の歩みが、まるで未来にまで響いていくように思えた。
その確信は静かでありながら、抗えぬほど甘美な力をともなって胸いっぱいに広がっていく。
——彼女は逃げない。
その思いが、レギュラスにとっては何よりも強く、幸福な誓約であった。
石畳を小さく鳴らしながら歩む影。
寄り添う影の小ささが、彼にはいっそういとおしく、また恐ろしいほど愛しかった。
そして彼の指先は、もう二度とその温もりを手放すまいと無言で誓いを強めていた。
アランは、ひどく困惑していた。
いつの間にか、レギュラスが詰めてくる距離は、あまりに近すぎるものになっていた。
以前なら横を並んでいても、そこには常に安心と落ち着きがあった。
けれど今は違う。
肩と肩が触れるほどの位置、繋がれた手の熱。
その存在は心を守るものではなく、逃げ場を塞ぎ、息苦しさを与えるものへと変わりつつあった。
ただ——怖かった。
もしこのことが世に知れてしまったら。
主人であるオリオンやヴァルブルガに伝わってしまったら。
かつてブラック家に仕え続けてきた父ロイクの耳に入ってしまったら。
「ブラック家の次男を惑わせた女の一族」。
その汚名は一族の名に永遠に刻まれ、庇護も失い、職も失い、未来を閉ざされるだろう。
それは、セシール家の誰もが路頭に迷うことを意味していた。
——絶対に、あってはならない。
それだけは絶対に。
翡翠の瞳を震わせ、アランは必死の思いで言葉を絞り出した。
「……レギュラス。こんなこと……お父様も、お母様も望まないわ」
懇願というよりも、悲痛の叫びに近い声だった。
必死に「線」を引こうと、理性で必死に堰き止めた。
けれど、レギュラスは。
「……そう、ですよね……すみません」
小さくうつむき、謝意の言葉だけを口にした。
けれど、その手は決して離されなかった。
むしろ、彼が握る手はさらに強く包み込まれ、指先で甲をゆっくり撫であげる。
ひどく優しげで、繊細で——撫でる動作自体は恋人の仕草にも似ていた。
だが、そこに含まれていた意思は。
「離さない」
その執着の熱が、じわじわと彼女の肌に伝わってきた。
「……」
アランは言葉を失う。
今のレギュラスは、あまりに矛盾していた。
「すみません」と謝る声音は静かで殊勝に響くのに、その反対に行動は執拗で熱を帯びている。
言葉は穏やかに彼女を解放するように見せて、行動はむしろ強く縛りつけていた。
その不一致がアランをより混乱させ、不安に追い込む。
胸はきゅっと締め付けられ、逃れられない影に包まれる。
——どうして、こんなふうになってしまったのだろう。
かつてのレギュラスは穏やかで、常に冷静で、何事も完璧にこなす人物に映っていた。
誰よりも信頼できる人。支えになる人。そう信じていた。
だが今、目の前にいるのは違う。
言葉は理性を装いながらも、仕草には焦燥と執念が色濃く滲み出し、追い詰められていく彼自身の姿が透けて見える。
……なにか、彼をここまで窮地に追いやったものがあるのだろうか。
そう考えても、答えは見つからなかった。
ただ、翡翠の瞳には困惑の色ばかりが滲む。
けれど抵抗する強さは持てなかった。
拒むことも、受け入れることもできず。
結局、アランができたのは——震える瞳を伏せて、言葉もなく。
ただその「優しさに偽装された執着」の温もりを、無言で受け止め続けることだけだった。
その小さな沈黙こそが、彼女にとっての限界であり、レギュラスにとっての確信となっていった。
休暇に入り、ホグワーツから帰省する一行は、それぞれブラック家という重厚な館の扉を再びくぐった。
威厳と伝統に押し潰されるような静謐さが石壁の隅々にまで宿り、長い廊下には装飾された燭台の火が冷たく揺れる。
そこは、空気そのものが「家」という名の重荷を帯びた場所だった。
アランもまた、その空気に体を慣らそうと努めながら、すぐに使用人としての役割へと戻っていた。
銀食器を磨き、床を整え、廊下へ花を飾る。
重い盆に並んだ水差しを両手に抱え、訓練されたように足音を忍ばせて歩く。
幼き頃から染みついた務めであり、本来ならば無心で安らぎさえ感じられるはずの作業。
だが今は、落ち着きなど訪れなかった。
「アラン。持ちましょう」
声に顔をあげると、すぐ傍らにレギュラスが立っていた。
いつになく自然な仕草で、彼は彼女の腕から水差しを取り上げようとする。
「……」
アランは瞬間的にその行為を拒んだ。
口には出さずとも、必死に翡翠の瞳で訴えかける。
お願いだから、ここでは——やめて、と。
だが、レギュラスは視線を逸らさない。
一歩も引かず、平然と彼女の歩みに寄り添い続ける。
「アラン。冷たい水は避けてください」
「ええ、大丈夫です」
「アラン。ここに置いたらいいです?」
「ええ……でも、もう大丈夫です……」
「アラン。次は何を?」
穏やかな声音で重ねられる名。
追うように肩越しから注がれる灰色の瞳。
その一つ一つがアランを遠ざけるどころか、ますます追い詰めていく。
ついに耐えきれず、彼女は足を止めた。
大きく息を吸い込み、小さな声を震わせる。
「レギュラス……お願いです。何もしなくて大丈夫です。……オリオン様やヴァルブルガ様に勘ぐられてしまいます」
その名を口にしたとたん、屋敷の空気自体がぴんと張りつめた。
言葉にするだけで影のような威圧が背筋を這い上がる。
アランの声には、怯えが濃くにじんでいた。
しかし、レギュラスはわずかに周囲へ目を配ると、誰の姿もないことを確認した。
その直後、彼はためらいもなく距離を詰めた。
「……っ」
肩を抱き寄せられた瞬間、アランの心臓は跳ねた。
石壁が至近に迫り、誰かに見られるのではという恐怖が胸を乱打する。
耳まで赤く染めながらも、体は硬直し震えていた。
けれど耳元にかすめた彼の声は、意外なほど淡々としていた。
「誰も見てないところでなら……いいです?」
落ち着いた囁き。
それは優しく響いているのに、どうしても逃れられない力を孕んでいた。
彼の瞳は灰銀に光り、静かな深みを帯びながら「決して手放さない」という意思を宿している。
「……レギュラス……」
震える声で名を呼んだが、その頑なな眼差しは揺れもしなかった。
屋敷という名の檻の中で、主の影と従者の影が静かに絡まり合おうとしていた。
石壁の冷たさも、家の掟が纏う重みも、二人を引き裂くことはまだできなかった。
——けれど、その一瞬ごとに、アランの胸には「罪」と「抗えない執着」という二重の棘が深く食い込み続けていた。
シリウスは、もう限界だった。
ホグワーツの大広間で見せつけられた、あの唇と唇の触れ合い。
視界の端で何度も映されてきた、弟がアランの隣に寄り添い、当然のようにその影を支配していく光景。
そして帰省してからもなお、屋敷の石壁の中で執拗に彼女を追い続けるレギュラスの姿。
——そのすべてを目の当たりにしながら、黙ったままでいられるほど彼は強くなかった。
アランが強く拒絶しないのは、あくまで「主人と従者」という関係だから。
そう自分に言い訳してきた。
けれど、それが本当に真実なのかと考えはじめると、胸がざわつき、夜を越えることさえ苦しかった。
深夜。
石造りの屋敷が静寂に沈む頃、彼は決意したように足を踏み出していた。
アランの部屋の扉を叩くこともなく、迷わぬ手つきで開け放つ。
月光に照らされた小さな空間の奥で、翡翠の瞳が面を上げ、驚きとわずかな警戒を宿して彼を見た。
「アラン、ちょっと出ないか?」
短い言葉だった。
だが、強い。抑え込んでいた熱そのものの響きを帯びていた。
「どちらに……?」
戸惑いを零しかけた声を、シリウスは「いいから」と低く遮る。
そのまま伸ばした手でアランの細い手を掴み取り、拒む暇さえ与えず窓辺へと導いた。
月光が白く射し込む。
風に揺れるカーテンを押し分け、シリウスの呪文に応じて黒い箒が宙を駆けて室内へと滑り入る。
柄を確かに掌中に収めたとき、彼の動きには躊躇がなかった。
窓から吹き込む冷たい夜風の中で、シリウスは先に跨り、振り返って手を差し出す。
「こいよ。星を見に行こう」
その声音は、彼らしい豪放さではなく、不思議なほど柔らかかった。
心の奥にあるものをまっすぐ伝える優しい響きで。
翡翠の瞳が揺れた。
アランの唇に、自然と笑みが滲んだ。
「……ええ」
恐る恐る、けれど確かに伸ばされた指先を、シリウスは強くしっかりと握り締める。
ふわり、と重力が解けた。
床から足が離れ、次の瞬間には彼女はシリウスの背中の後ろに腰を下ろしていた。
「しっかり掴まれ」
そう言われるままに、アランは両腕を彼の腰に回す。
その細やかな腕の感触が、自分を確かに抱きとめている。
瞬間、シリウスの胸が熱で膨れた。
彼女が、自らの腕へ預けてくれている。
その事実こそが、数え切れぬ苛立ちも嫉妬も、一息で霧のように消し去っていく。
振り返る必要などない。
背中に感じるぬくもりが何よりの証として、胸の奥を甘美に支配していた。
風が走り出す。
屋敷の屋根を越え、冷たい夜気を切り裂きながら、ふたりの影は天空へ昇る。
果てしなく広がる夜空。
黒い絹に散りばめられた無数の宝石のような星々が瞬き、月は悠然と彼らを照らしていた。
「……すごい……」
背後から小さくこぼれた声。
震えを帯びながらも、確かな喜びがそこに宿っていた。
シリウスの唇に笑みが生まれる。
風を切り、星々の間を翔ける中で感じるのは——幸福ただひとつ。
彼女が自分の背に寄り添っているという、この事実だけが。
シリウスにとって、何者にも代えがたい真実だった。
深夜の風が、頬をやさしく撫でていた。
冷たく冴えわたった夜気の中で、満天の星々が瞬いている。
無数の光が漆黒の天蓋を覆い尽くし、まるで無限に広がる海が頭上に流れているようだった。
「……シリウス。あなたの星は――どれでしょう」
翡翠の瞳を夜空へと向けたまま、アランは静かに問いかけた。
隣で肩を並べるシリウスが、ふっと口元を緩ませる。
月光を受けた横顔が、輪郭を銀に縁取られ、どこまでも頼もしく映った。
「俺の星は、あっち側にあるやつだ」
指で空を示しながら、無邪気に笑う。
その声音は明るく、どこまでも真っ直ぐで、自由を孕んだ風のようだった。
けれど、アランの目には夜空よりも輝くものがあった。
光を纏ったその横顔。
堂々と、星々すらかすませてしまいそうな存在感。
気づけば、彼女はその姿に見惚れていた。
その一瞬を切り取って永遠に飾っておきたいと願うほどに。
「……なに見てんだよ」
シリウスがぼそりと呟き、頬をかく。
照れ隠しの仕草には、少年のような不器用さが滲んでいた。
アランの唇は、思わず自然に動いていた。
「……ううん。星より、あなたの横顔の方がずっと綺麗って思って」
言葉が零れた瞬間、自分自身が驚いた。
どうしてこんなことを。
けれど、それは紛れもなく本心だった。
目の前には、どんな星々よりも眩しい存在がいるのだから。
灰色の瞳が――ゆっくりと彼女を捕らえた。
月光を宿した光が吸い込まれるように深まり、アランの心を縫い止める。
次の瞬間。
彼の唇が触れた。
「……!」
初めは小さく、震えるように重ねられた口づけだった。
だが全身は一気に火照り、心臓は胸を破ってしまいそうなほど高鳴った。
胸の奥から歓喜が溢れる。
血は熱を帯び、指先まで痺れるような感覚に囚われる。
「もっと――」
心の内で叫ぶように、アランの唇は自らも彼へ押し付けていた。
衝動のままに。
シリウスは驚く間もなく、その熱を受け止めた。
けれど彼もまた、応えるように温もりを深めていく。
唇は重なり合い、深みを増していった。
理性は溶け崩れ、ただ快楽に似た心地よさが脳を支配する。
燃え上がる激情は、夜空の星々さえ霞ませてしまうほどだった。
――好きだ。
鮮やかに、迷いなくそう思った。
好き。この人が好き。
その思いは火のように真っ直ぐ燃え、全ての迷いを焼き尽くしていく。
レギュラスが示してくれたものは、確かに誠実で、優しかった。
けれどその想いは重みとなり、戸惑いを滲ませるばかりだった。
シリウスには曖昧さがない。
ただ真っ直ぐで、風のように心にぶつかり来る。
その強さこそが、自分が求めてやまないものだった。
本当はずっと前から、知っていたのだ。
ただ、その真実から目を背けてきただけ。
答えを出す勇気がなく、レギュラスを傷つけたくなくて、ずるく曖昧なまま縋っていただけだった。
だが今。
星々の下で、彼の唇を受け入れた瞬間にはっきりと理解してしまった。
――自分の心は、シリウスを選んでいるのだと。
夜空は清らかに瞬き、二人の影を優しく包み込む。
見上げる満天の輝きは、祝福のように静かで、どこまでも深い。
そして、その下に寄り添う二人の心は、確かに一つへと重なっていた。
屋敷へ戻り、深夜の静寂に包まれた頃。
分厚い石壁に囲まれた部屋の中で、ランプの灯はすっかり落とされていた。
窓から射す月明かりだけが白く床を照らし、ほんの細い線となって影を作っている。
シリウスはそっと扉を押し開き、音もなく忍び込んだ。
その仕草には冒険前の少年のような悪戯心がありながらも、どこか切実な焦りも隠れていた。
ベッドに腰を掛けるアランの前まで歩み寄ると、彼はためらいなくシーツをふわりと掲げて落とした。
「……!」
布が一瞬にして二人を包み込み、外の世界を閉ざす。
しんとした静けさが広がる中、シーツの下に作られたのは狭く小さな「秘密の空間」。
息づかいも瞳の熱も、すべてがそこに溶け合っていった。
「なあ、アラン。聞けよ」
にやりと笑ったシリウスが語り始める。
ジェームズやリーマスと繰り広げた数々の冒険。
禁じられた部屋に息を殺して忍び込んだこと。
夜中に寮を抜け出して廊下を全力で駆け、教師のランタンから逃げ惑ったこと。
ジェームズが派手に転倒した直後に、呆れきったリーマスの眉が吊り上がった顔――。
その場面を思い出すたび、言葉に身振り手振りを添える彼の描写は生き生きとしていて、聞いているだけでありありと目に浮かんだ。
「ふふっ……!」
アランの唇から笑いが零れた。
「リーマス様のあの顔、目に浮かぶようです」
「だろ? あいつは最高に真面目なくせして、最後には笑って付き合ってくれるんだ」
二人の声は布の中で重なり、柔らかく響いた。
肩を揺らして笑い合う。
そこには抑えきれぬ楽しさと、確かな心の温度があった。
やがてアランがぽつりと「本当に楽しそう……」と零したとき。
シリウスは少し真剣な色を帯び、彼女へと視線を向けた。
「アランがいれば……絶対にもっと楽しい」
不意を打たれた翡翠の瞳が大きく揺れる。
胸の奥に波が走る。
彼の言葉はただの軽口ではなかった。
笑いに覆われながらも、その奥に潜む本音は真摯で、彼女の胸奥を静かに叩いた。
アランの唇が、勇気を振り絞るように動いた。
「……今度、連れていって」
精一杯の告白にも似たその一言。
どこであってもいい。
シリウスの手で導かれるなら、それは場所ではなく「光」になる。
その想いを受けた瞬間。
シリウスの灰色の瞳が満天の星のように輝き、口元に弾ける笑みが灯った。
「当たり前だ! ホグワーツに戻ったら一緒に探検しよう。秘密の通路も、夜の屋上も、ぜんぶ見せてやる」
彼の声は力強く、甘美に響いた。
誘いはあまりに心惹かれるもので、休暇を終え学校に戻ることさえ待ち遠しいとすら思わせるほど。
ふと、灰色と翡翠の瞳が布の下で絡み合った。
言葉もなく、熱を孕んで吸い寄せられるように。
頬にかかる影が交わり、やがて唇がゆっくりと重なった。
今度は不安や緊張の硬さもなかった。
ただ自然に、心が欲するままに。
温かく、心地よく。
溶け合う唇に、境界線はあやふやになっていく。
どこまでが自分で、どこからが相手なのか、その輪郭が曖昧になっていく。
時の感覚が消えるほど長く、甘美で、静かな口づけ。
脳まで溶かし、世界そのものを忘れさせる心地よさがそこにあった。
布の下という小さな仮初の楽園。
屋敷の重苦しさも、家に纏う鎖も、一瞬だけ遠ざかっていた。
そこにあったのは、月明かりを思わせる淡く純粋な幸福。
そして心臓を熱で震わせる、二人だけの甘い秘密だった。
アランは屋敷の誰よりも早く目を覚ました。
空はまだ半ば闇に沈んでおり、石畳を渡る空気はひんやりと冷たい。
それでも彼女の足取りは迷うことなく厨房へ向かう。
毎日繰り返してきた務め――それこそが彼女に安心を与えるはずの唯一の習慣だった。
慣れた手つきで、ブラック家に代々伝わる定番の朝餉に取りかかる。
分厚く切ったベーコンを鉄鍋で焼き、香ばしい匂いが油のはじける音と共に広がる。
大鍋にはヴィンテージのかぼちゃジュースを注ぎ、均一な火を調理魔法でめぐらせてじっくり温めていく。
鶏卵を割り、柔らかに仕上げたスクランブルエッグには色鮮やかなチャイブを散らす。
焼き立てのパンが香気を放ち、そこへハーブ入りのバターを滑らせる――父ロイクに何度も教わり、受け継いできた味がひとつずつ形を成していった。
銀のポットに濃く淹れた紅茶を注げば、立ちのぼる香気が朝の空気をきりりと引き締める。
同時に食器が宙に浮かび、小さな音を立てて自ら磨かれ、光を宿して棚へと戻っていく。
鍋が揺れ、皿が回転し、まるで音楽のように規則正しく響くその調和は、アランが最も得意とするものであり、密かに誇れる能力だった。
――せめて、この技術だけは自分の誇りでいたい。
彼女はそう思いながら、火と水と香りを制御し続けた。
「……早くから本当にありがとうございます」
背後から柔らかな声が落ちた。
アランは振り返り、心臓がひときわ高鳴った。
「あなたも……早いのね」
そこに立っていたのはレギュラスだった。
彼は涼しげに笑みを含み、自然な足取りで歩み寄ってくる。
「ええ……いい匂いがしましたから」
さらりとそう言うと、そのまま台に沿って回り込み、彼女の背後へ。
次の瞬間。
「……っ」
アランの肩に、重みがそっと乗せられた。
レギュラスの顎が彼女の肩の上へ静かに寄り添ったのだ。
温もりが直接、背筋を走り抜ける。
血流が逆流したかのように頬へ熱が上り、心臓は荒ぶるように跳ねる。
シルバーの食器がひとりでに空を舞い続ける中、彼女の指先だけが強張っていた。
もし、この光景を――オリオンやヴァルブルガに見られてしまったら。
想像しただけで、背筋に冷気が奔った。
屋敷全体が震えるほど凍りつく未来を、簡単に思い描けてしまったから。
「レギュラス……だめです」
押し殺した声が震えを帯びた。
それでも、彼の灰色の双眸は退くことがなかった。
「まだ父も母も当分降りてきませんから」
囁きは驚くほど穏やかだった。
優しいはずの声音に、しかし底知れぬ危うさが潜んでいる。
「……」
アランは黙り込み、唇を噛んだ。
オリオンやヴァルブルガに知られる恐怖、それは間違いなく重い。
けれど、今胸を強く締めつけたのは、別の想いだった。
――シリウスに見られたくない。
その光景を彼に見られてしまったら。
自分が拒まず、それを受け入れてしまっていると誤解されたら。
きっと、彼は呆れ、失望してしまうだろう。
翡翠の瞳が伏せられ、ただ背後に寄せる重みに耐える。
灰色の瞳は動かず、肩に圧し掛かる重みはかえって増していく。
アランの胸の中では、罪悪感と恐れと、まだ名付けられない複雑な感情が渦を巻き続けていた。
空間ごと閉じ込められていくような錯覚に、呼吸さえ浅くなる。
屋敷の空気は冷ややかに張りつめている。
その重みの中、アランはまるで檻に閉ざされた小鳥のように、行き場を失いながら彼の温もりを拒み切れずに震えていた。
「アラン……」
低く囁く声は、まるで溶け出すようで、アランの耳を包み込んだ。
次の瞬間、彼の指先が静かに頬へ伸び、白い肌へと添えられる。
強くもなく、弱すぎもせず――逃げられぬ絶妙な圧で彼女を自分の方へ向かせる。
背後ではフライパンの上で火がまだ小さく揺れていた。
油のはぜる音が、もはや二人の心音と重なり、不安を煽る。
だが、それすらも一瞬で消え去る。
レギュラスが杖を軽く一振りすれば、炎は音もなく立ち消え、厨房を支配したのはただ暗さと静寂のみ。
世界は狭まり、息づかいと鼓動だけが際立って濃くなる。
「れ、レギュラス……っ」
抗議の声が唇から漏れた――その瞬間。
空気が掻き消されるように、彼の唇が重なった。
「――っ」
ぶつかり合った呼吸が潰れ、わずかな衝撃音が厨房に弾ける。
それはホグワーツの大広間での出来事以来、二度目の口づけだった。
だが、状況は決定的に違っていた。
あの時は衝動のまま。
まだ周囲に漂っていた視線や窮屈な人目が抑止力となっていた。
けれど今は違う。
ここには誰もいない。
この瞬間、彼を止めるものは何も存在しなかった。
アランが一瞬息を求めてかすかに唇を開いたその隙を、彼は逃さなかった。
舌がするりと差し入れられ、彼女の口内を迷いなく侵していく。
「んっ……っ……」
幼さの残る苦悶の声がくぐもって洩れた。
抵抗の微かな意思を含む音。
だがレギュラスは耳を塞ぐつもりなど毛頭なかった。
むしろその震え声が、彼の心を強く征服した。
かすかに嫌がる気配さえ、彼にとっては支配の甘い証明に過ぎなかった。
冷たい朝の空気の中で、二人の世界だけが歪んで熱を孕んでいく。
幸福感に似た高揚が全身を駆け巡り、理性を遠ざけた。
やがて、ようやく唇を離す。
アランは肩を上下させ、押し殺そうとする息が荒く弾んでいた。
乱れた呼吸。潤んだ翡翠の瞳が揺れ、濡れ光る睫毛が幼さを強調する。
その姿が――可愛い。愛おしい。
そして、狂おしい。
レギュラスの胸の内で、焦げるような欲と想いが渦を巻く。
二度目の口づけが冷静さを切り裂き、彼を止まらぬ暗がりへと導いていた。
「……レギュラス……」
困惑を湛え、不安を抱き、怯えまで滲んだ声。
それでも、その声は確かに彼を呼んだ。
彼はかすかに笑みを浮かべる。
「そんな顔……誰にも、見せないでくださいね」
その一言に込められたのは、甘い優しさの仮面を被った独占欲。
不安げで困り果て、しかし確かに女の色を帯びた彼女の表情。
それは鋭い刃となって彼の心を刺し、深く深く沈めていく。
気づけばもう、後戻りなどできなかった。
淡々とした優しさなどそこにはない。
あるのはただ、抗えない執着。
まるで沼。
一度沈めば、抜け出すことは不可能な暗い水。
アランという存在こそが、彼の理性を奪っていく力そのもの。
そしてレギュラスは完全に、その甘く危うい囚われの底に落ちていた。
銀器の並ぶ長いテーブルは、格式と伝統を象徴していた。
朝の光が厚いカーテンを透かし、淡く冷たい光条となって落ちる。
それは暖かさをもたらすどころか、屋敷全体に漂う重苦しさをより浮き彫りにしていた。
アランは使用人としてその場に控え、紅茶のポットを両腕に抱えて立っていた。
まっすぐ背筋を伸ばし、呼吸すら乱さぬように整えながら、彼女は慎重に主人の背を見守る。
カチリ――。
銀のスプーンが皿の上で微かな音を立てた後、ヴァルブルガが優雅な仕草でカップを持ち上げた。
青白い指先、細い顎を傾けて、熱い紅茶を一口、二口と含む。
その所作の一つひとつが、努力して作り上げた威厳と誇りを示すかのようだった。
やがて空いたカップを見て、アランは小さな声で問う。
「おかわりはどうされますか?」
「……そうね、もう一杯頂こうかしら」
顎をわずかに上げ、視線を動かすこともなく告げられる。
アランはすぐに深く一礼し、ポットを傾けた。
香ばしい湯気と共に紅茶は波紋を描き、音もなく金色の液体が注がれていく。
その横。
シリウスは大きな体を椅子に沈め、背を丸めながら朝食を無造作につついていた。
皿に載ったベーコンを乱暴に千切り、眉間に深い皺を寄せている。
吐息は荒く、空気をかき乱す刃のようだった。
ちらりと視線がアランをかすめる。
そのときの瞳は鋭く、怒りとも苛立ちともつかぬ色を帯びていた。
「……自分で注げよ、クソババア」
低い声が吐き捨てられた瞬間――食卓全体の空気が凍りついた。
ヴァルブルガの顔色が一気に紅潮し、瞳が大きく揺れる。
次の言葉が烈火になるのは必定で、薄い唇が呻くように歪まれた。
「……なっ……!」
その刹那、屋敷全体が緊張で震えたかのようだった。
重い沈黙を割ったのは、反対側に座るオリオンの声。
深く疲れを含んだような、しかし決して弱くはない制止だった。
「……シリウス。黙って食事を取れないのか」
声には厳しさがあった。
けれどそれは叱責ではなく、ただ事態を収めようとする冷たい理性だった。
「チッ……」
舌打ちが広間に鋭く響いた。
シリウスは食卓に拳を叩きつけ、その反動で立ち上がる。
椅子が軋み、音を引きずりながら転がりそうになった。
彼の背はためらうことなく扉へ向かい、その苛立ちを隠すこともなく大股で歩み去った。
広間の扉が閉まると、残されたのは割れそうな静寂だった。
銀器の光が不気味に漂い、燃え残ったベーコンの匂いだけがかすかに漂っていた。
アランはただ、彼の背中が遠ざかっていったその影を見つめていた。
胸を締め上げるような悔しさと、言いようのない切なさが交わる。
——ほんの少しでいい。
オリオンも、ヴァルブルガも、彼を理解しようとしてくれたなら。
そして、シリウスにも。
挑発するように反抗を剥き出しにするのを抑えてほしかった。
どちらも、心を寄せ合おうとはしない。
ただそれだけが、この家を埋め尽くす冷えをより濃くしていた。
紅茶のポットを傾けたまま、アランの指先が細かく震えた。
落とさぬように、こぼさぬようにと必死に力を入れる。
それでも、耳の奥にはひび割れた家の音が鳴り続けていた。
まるで石壁に走る小さな傷が、やがて全てを崩してしまうのを予感させるように。
彼女はただ、その音に抗えず、胸の奥を痛ませるばかりだった。
朝食が終わり、重苦しい空気が未だ廊下に残る頃。
アランは、機を見計らってトレイを胸に抱いた。
その足音はひたすらに小さく、廊下を渡る彼女の心臓の音の方がなお大きく響いているようだった。
やがて立ち止まり、扉の前で小さくノックする。
「……シリウス」
返答を待ちながら手を添え、そっと扉を開けると。
中には、ベッドに腰を下ろした彼の姿があった。
灰色の瞳はどこか暗さを帯び、陽気な色は影を潜めていた。
だが、それは先ほど食卓で燃やしていた苛立ちの炎ではなかった。
荒んだ怒りの気配は消え、ただ深い疲れと塊のような思考だけが影となって漂っていた。
「……シリウス、あまり食べられていなかったでしょう?」
アランは静かな声でそう告げ、トレイを机に置く。
用意したのは少しのパンとベーコン、果物。
ほんのわずかだが、気持ちを込めて残してきたものだった。
驚いたようにシリウスが目を瞬き、それから照れ隠しの笑みを浮かべる。
「……すまねぇ。変な気を遣わせちまったな」
声が柔らかく、小さな光のように胸を撫で下ろす。
あの食卓で炎そのもののように荒れていた姿が、今は嘘のように静かで優しい。
頼れる光がそこに在った。
けれど、その安堵は長く続かなかった。
「…… アラン。言えなかったことがあるんだ」
急に落ちた声音に、翡翠の瞳が揺れる。
彼の灰色の瞳が正面からまっすぐに自分を射抜いていた。
その真剣さが胸をざわつかせる。
何か恐ろしいことを告げられる――そう直感して、体が震えるほど強張った。
「……俺、この家を出る」
息が止まった。
驚きに言葉が消え、声さえ霞んで喉奥に詰まった。
どうして。どこへ。なぜ今。それだけが幾重にも頭を過ぎるのに、ひとつも声にならなかった。
代わりに、熱い雫が頬を伝った。
「……っ」
涙があふれて、耐え切れず零れ落ちる。
シリウスがいなくなったら、自分はどうすればいいのだろう。
いつだって彼は、暗闇に差す唯一の光。
どんな場面でも先を照らしてくれる導きそのものだった。
その光を失ったら――。
これから先、生きる意味さえ見失ってしまうかもしれない。
「…… アラン」
名を優しく呼びながら、彼は大きな手を伸ばした。
乱暴に見えて、驚くほど優しい指の腹で、雫を拭い去る。
温度のある仕草が彼の人柄を雄弁に物語っていた。
「泣くなよ。……俺はお前を見捨てるわけじゃねぇ」
翡翠の瞳が震えながらも、必死に彼の声を追いかける。
「絶対に、この屋敷から出してやる。俺を信じて……待っててほしいんだ」
その声音は豪快さと真剣さが入り混じっていた。
強引に見えて、誰よりも真っ直ぐで誠実。
シリウスらしい言葉だった。
信じていいのだろうか。
未来など不確かで、そんな約束が果たされる保証はどこにもない。
けれど今のアランを支配しているのは、不確かな未来への迷いではなかった。
「すぐに彼がいなくなる」という、この瞬間の恐怖だった。
それだけはどうしても堪えられない。
震える唇が、小さな声を紡ぐ。
「……行かないで、シリウス」
小さな懇願。か細い祈り。
シリウスは短く目を伏せたが、次の瞬間、決然と顔を上げた。
強靭な意志を宿した灰色の瞳が、彼女を射抜く。
「……お前がホグワーツを卒業する時、一緒に暮らせる家を用意しとくつもりだ」
言葉を飲み込むようにアランの胸は締め付けられた。
そこまで先の未来を、彼はもう具体的に思い描いている――。
夢かもしれない、絵空事かもしれない。
それでも。
その約束を「信じたい」と思った。
嘘ではなく本物の未来として、胸に灯したいと願った。
不安よりも確かに強く、希望が翡翠の奥で息吹きはじめる。
それは柔らかな火種であり、暗い屋敷の中でただひとつの灯りだった。
アランは涙をこぼしたまま、その光を懸命に見つめようとした。
その日、屋敷は静かにざわめいていた。
分厚い石壁に反響する足音がゆっくりと回廊を渡り、その振動が家中へ広がっていく。
重厚な扉の蝶番が軋みを上げ、鋭くその音が廊下に響いた。
――ブラック家の長男、シリウス・ブラックが家を出た。
誰も止めなかった。
母ヴァルブルガの嘆きも、父オリオンの叱声もない。
呼び止める声も、追いすがる姿もなかった。
ただ一人。
レギュラスだけが、その影を見送っていた。
屋敷の玄関先、重たい扉の正面に立ち、彼は黙然と佇んだ。
夏の残照は赤く燃え、その光に照らされたシリウスの背は黒々と長く地に伸びている。
その背は迷いなく扉を超え、家の外へと踏み出していく。
レギュラスは声をかけなかった。
引き止めもしなければ、言葉を交わすこともしなかった。
ただ静かに、眼差しだけでその退背する背中を追い続けた。
――どこまでやれるのか。
胸の奥に渦巻くのはただ、それだけだった。
兄の口にする「正義」と「自由」。
シリウスはそれを誇らしく掲げ、時に嘲笑すら伴ってこの屋敷や家名を切って捨てた。
だが、それは果たしてどれほど力を持つものなのか。
ブラック家の名を否定し、名誉を投げ捨て、その先で本当に彼は生き抜けるのか。
レギュラスには見えていた。
理想だけでは越えられぬ境界があることを。
自由だけでは手に入らない富があり、綺麗事だけでは守れない「盾」としての誇りがあることを。
世界は理想だけで運ぶほど優しくはない。
そのことをいずれ、兄は身を以て思い知るだろう。
そして――。
彼が望んでいるであろう存在。
アラン・セシールを。
シリウスは決して手に入れることはできない。
彼女はこの屋敷に留まる。
この家の掟と血脈、そして伝統の重みに繋がれながら、ここに残る。
そしてそれを抱きとめ、支配し、側に置けるのは自分だけだ。
レギュラスはそう信じ、そう決めていた。
重たい沈黙の中で、屋敷の扉が静かに閉ざされる。
鈍い音が響くと同時に、背後にいた者たちは一斉に口を噤み、広間には冷たい静謐が満ちた。
ほどなく、深く威厳を帯びた声が空気を震わせた。
「……レギュラス。お前に全てがかかっている」
父オリオンの言葉は、命でもあり、戒めでもあり、決して逃れられぬ鉄鎖でもあった。
レギュラスはすっと背筋を正し、深く一礼する。
その顔にはわずかの揺れも影もなかった。
兄が自由を追い求めるならば、自分は誇りを全うする。
その道筋はもはや確定した。
静寂の中、屋敷にはゆるやかに新しい「秩序」が生まれ始めていた。
それは去った者を拒む秩序であり、残った者を鎖で締める秩序だった。
だがレギュラスの心には、ひとつの確信だけが硬く残っていた。
——兄の理想は、いずれ折れる。
そして、自分だけが抱きとめる「もの」を守り抜く。
広大に見える屋敷はその瞬間、冷たく閉ざされた檻であると同時に、彼にとっては誓いの聖域へと変貌していた。
