1章
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空は透きとおるように澄み、吐く息が細く白く消えるほどの冷たさがあった。
冬の光がグラウンドをなぞるように射し、空気の粒ひとつひとつが張りつめている。
その緊張を割くように、風が走り抜けた。
頬を刺すような冷たさが、逆に生徒たちの胸を高鳴らせる。
飛行術の訓練。
掛け声が上がると、十数人の生徒たちがいっせいに箒を構えた。
そして次の瞬間、地面を蹴る音が一斉に鳴り、身体が宙へと舞い上がる。
風を掴む音。歓声。高揚した空気がグラウンドの上に渦を描く。
その中で、ひときわ目を奪う姿があった。
レギュラス・ブラック。
箒に跨がる所作ひとつ取っても、彼の動きには無駄がなかった。
滑らかに足を蹴り出したその瞬間、彼の身体はまるで風と一体化するように浮かび上がる。
姿勢は端正で、背筋は一本の弓のように張り、全ての動きが美しい均整を描いていた。
光を受けてなめらかに流れる黒髪、金具を握る指先の正確な角度、重心の移動。
それらは意識によるものではなく、もはや呼吸の延長のように自然だった。
彼は飛ぶために生まれたように見えた。
風が彼を押し上げ、空が彼を受け入れている。
見る者すべてを納得させる「当然の才能」というものが、そこにあった。
地上では、女生徒たちの小さな歓声があちこちで上がる。
「すごい……!」
「やっぱりレギュラス様、完璧ね」
「姿勢がまるでお手本のようだわ」
「飛んでるというより、空に溶けてるみたい……」
その声は囁きに近い。けれど確かに、ひとりの少年の名を讃える熱がそこにあった。
彼はそれを意に介することなく、淡々と空を駆ける。
誉め言葉を受け止めることに慣れすぎている人間の、静かな風格があった。
彼の姿は、まるで「努力」や「訓練」という言葉を超えた領域に立っているようだった。
その下で、アランは必死に箒にしがみついていた。
両手の平には冷たい汗が滲み、握り締めた指が痛いほどに強ばっている。
足の裏が地を離れる瞬間、心臓がぎゅっと縮み上がった。
風が頬を叩くたびに、息が浅くなり、喉がひりつく。
頭では「大丈夫」と繰り返しても、体は恐怖の方へ引き戻されてしまう。
「落ちないように」——ただその一心だった。
地上が遠ざかっていく。
眼下でグラウンドがゆらめき、風の唸りが鼓膜を震わせる。
指の力を緩めることができず、腕が軋むように痛い。
——やはり、彼らとは違う。
屋敷で過ごした幼い日の記憶が、ふいに蘇る。
兄のシリウスも、レギュラスも、箒を手にすればたちまち笑顔になった。
空への恐れなど微塵もなく、風を裂いて駆け抜けるその姿は、幼いアランの目には自由そのものに映っていた。
いつだって彼らは並んで空へ上がり、太陽を背に競い合っていた。
あの光景に比べれば——今の自分はあまりに拙い。
風を掴むことも、自由に身を任せることもできず、ただ空に「乗せられている」。
その不格好な姿が、恥ずかしさと劣等感を呼び起こす。
翡翠色の瞳で、必死にレギュラスの背を追う。
けれど、彼は遠く。
軽やかに弧を描き、空を自在に支配するように舞っていた。
その動きには、優美さと静かな力強さが同居している。
彼は風を従えているのではなく、風と共に在る。
アランの胸が締めつけられた。
——格が、違いすぎる。
彼女がどれほど努力を重ねても、彼が立つ場所には届かない。
レギュラスは生まれながらにして整っていて、何をしても完成された形に落ち着く。
その「完璧さ」は冷たいほどであり、同時に人を惹きつける力を持っていた。
「……」
手を伸ばせば、いつだって助けてくれる。
困れば、静かに導いてくれる。
誰よりも優しく、理性的で、信頼できる存在。
それでも、アランの胸の奥で芽生えるのは、温かい尊敬とは別の感情だった。
どうしようもない——卑下。
自分は彼に似つかわしくない。
ブラック家の次代、誇り高く完璧な少年に対して、
自分はただ仕える家の娘でしかない。
努力を重ねても、やっと「普通」に届く程度。
彼が空を支配するその瞬間でさえ、
自分はただ、恐怖と憧れの狭間で小さく震えているだけだ。
——不釣り合いだ。
そう思うたびに、胸が痛む。
彼の優しさは、あまりにも純粋で。
その純粋さがかえって、自分には触れることさえ許されない聖域のように感じられる。
もしこの温かさを受け取ってしまったら、
いつか必ず代償を支払うことになる——そんな予感が、背筋を冷たく撫でていく。
風が強くなり、髪が乱れた。
耳に届くのは、レギュラスの名を呼ぶ歓声ばかり。
その声の波が遠くから押し寄せるたび、胸の奥で何かがざらりと擦れた。
空の中で彼は光のように輝いている。
それに比べて、自分は影。
同じ空にいるのに、彼の世界には溶け込めない。
——あの人の眩しさを見上げながら、自分はどこまでも地上に縫いとめられている。
そんな想いが胸の奥で静かに重なり、風に溶けた。
空は美しかった。
けれどその美しさの中で、アランの心はひとり、翳りの中に取り残されていた。
風は澄みきっていた。
冬の陽を透かしたような空は深く、ひとつの濁りもない。
その透明な世界の只中で、アランの頬を切り裂くように冷たい風が奔っていく。
指の節が固くなり、胸の奥が強く脈打っていた。
飛行訓練の最中。
生徒たちはそれぞれの箒を操り、空を舞っている。
歓声と風の音が重なり合い、まるで天と地が溶け合うような広がりを見せていた。
だがアランの心は、その壮観とは対照的に張りつめていた。
両手で箒の柄を必死に握りしめている。
爪が食い込み、指の節が白く浮かび上がる。
わずかに体を動かすだけで、足元の空間がふわりと揺れるのを感じ、喉が詰まった。
視界の下には、豆粒のような人影と、遠くに流れる湖面。
ほんの少しでも力を抜けば、落ちてしまう。
その恐怖が喉元を掴み、息を狭めていた。
「アラン、手を」
はっきりとした声が、空を渡って届いた。
凛と張りつめた冬の空気の中で、その声だけが鮮やかに響く。
振り返ると、箒の上に立つレギュラスの姿があった。
灰色の瞳が風を受けてきらめき、そこには一片の迷いもなかった。
彼は片手を伸ばしていた。
風の中でも安定した姿勢を崩さず、その動きには絶対的な確信と余裕が漂っていた。
まるで「落ちる」という概念すら、彼には存在しないかのようだった。
アランはその手を見つめ、喉の奥で言葉を詰まらせた。
「できないわ……落ちるもの」
かろうじて絞り出した声は、風にかき消されそうに震えていた。
背中を冷たい汗が伝う。
恐怖が足元から這い上がってくるようだった。
両腕に力を込め、再び箒を握りしめる。
——手を離すなんて、とてもできない。
レギュラスは短く息を吸い、穏やかに言った。
「大丈夫です。……信じて」
その声は低く、しかし不思議な力を帯びていた。
決して強引ではなく、けれど抗えない。
風に溶け込むように優しいのに、確かに胸の奥を貫く。
——信じて。
その一言が、胸の奥の深い場所で響いた。
恐怖と共に、なぜか温かい痛みが広がる。
アランは唇を噛みしめた。
そして、震える指を、ほんの少しずつ前へと伸ばしていく。
空気が張りつめる。
冷たい風の中で、彼の手が彼女の指先に触れた。
次の瞬間、温もりが掌を包み込む。
しっかりと、しかし優しく。
その掌には、絶対に離さないという意志が宿っていた。
——一瞬で、世界が浮いた。
重心が外れ、風が身体をすくい上げる。
「――っ!」
反射的に短い悲鳴が洩れた。
次の瞬間、彼女の身体はふわりと引き寄せられ、レギュラスの箒の後ろへと収まった。
強い風が二人の間を駆け抜ける。
ローブの裾がはためき、髪が頬に絡む。
思わず前にしがみついた。
彼の背は、思っていたよりもずっと確かで、温かかった。
その背中に額が触れるほど近づいた瞬間、恐怖はわずかに緩み、息が深く吸えた。
「自由に飛んでいいそうですので……一周しましょう」
風を切る中、レギュラスの声が静かに響く。
いつもと変わらぬ、落ち着いた調子だった。
その冷静さが、今のアランには信じられないほど眩しく思えた。
「え……」
掠れた声を返すのがやっとだった。
だが、箒はぶれることなく空を滑っていく。
彼の手がしっかりと手綱を握り、動きは完璧なまでに安定していた。
風の唸りが、どこか心地よい旋律のように耳をかすめる。
「…… アラン、景色。綺麗ですよ」
風に溶けるような柔らかな声。
その響きに導かれ、アランは恐る恐る目を開いた。
視界が広がる。
一面の青。
湖面は鏡のように光を受け、波紋さえ宝石のように瞬いている。
森は深緑の絨毯を思わせ、光の粒を散らしながら風に揺れている。
その奥にそびえるホグワーツの尖塔。
陽光を浴びた石壁が、空の青に突き上げるように聳えていた。
「……」
息を呑んだ。
それは、胸の奥を掴まれるような美しさだった。
ほんの少し前まで恐怖でしかなかった空が、今は全く違うものに見えている。
風は優しく、陽の光は温かい。
恐怖が少しずつ剥がれ落ち、代わりに心を満たしていくのは静かな感動だった。
強ばっていた指先の力が、ようやく緩む。
レギュラスが微かに笑った気配がした。
見えなくてもわかる。
その笑みには、言葉よりも深い安心があった。
アランはゆっくりと息を吸い込む。
冷たいはずの空気が胸の奥で温かく溶けていく。
——初めて、空を美しいと思った。
恐ろしい場所ではなく、
ただ純粋に、世界のすべてが輝いて見える場所として。
その瞬間、風も光も、全てが彼女を祝福するかのように優しく流れた。
空の彼方で、冬の陽がふたりの影を淡く重ね、
アランの胸の奥に、言葉にならない静かな熱を灯した。
空は高く遠く、吐息が白くほどけてしまうほどに風は冷たかった。
頬を刺すようなその冷気のなかで、耳に届くレギュラスの声は不思議なほど温かく、胸の奥にじんわりと広がった。
「…… アラン、これから先も、あなたにいろんな景色を見せてさしあげます」
低く、しかし柔らかで、陽の光に溶けるような声音だ。
その言葉に守られるように、背に身を預けると、布地越しに伝わる温度と重みが確かな安心を与えた。
本来ならば、その幸福にただ浸ればいいはずだった。
けれど同時に、胸の中には「もったいない」「申し訳ない」といった思いが滲んでいく。
自分などに、この優しさを向け続けていいのか。
そんな疑問がよぎり、胸の奥をきゅっと締めつけた。
箒を操る背が風を受け、揺れながらもまっすぐに進む。
振り返らずに続けられる声が、また耳に届いた。
「だから、たくさんいろんな所に行きましょう。……必ず、僕が連れて行きます」
その響きに、胸が小さく震える。
背中に預けた身体越しにも、彼の言葉が染み込んでいくのが分かる。
振り返らずともわかる。
灰色の瞳を静かに細め、慈しむような微笑を浮かべているのだと。
その想像だけで胸が熱を帯びた。
ふと、別の記憶が蘇る。
——シリウスの隣で見たマグルの街。
石畳の道。行き交う人々の自由な雑踏。
すれ違う誰もが肩書きや血筋と無縁で、ただ思い思いに生きている風景。
あの瞬間、心は強く燃え上がり、「自由」という圧倒的な憧れに突き動かされた。
心臓さえも新しい未来へと駆り立てられるようだった。
けれど今。
レギュラスの背にしがみつきながら見下ろす世界は、まるで真逆の色を持っていた。
湖は穏やかに光を映し、森は静けさを大きな絨毯のように広げている。
尖塔の連なりは金に輝き、まるで誰をも守ろうと寄り添うように建っている。
そこに広がるのは、燃える衝動ではなく、安らかに心を包み込む広がり。
柔らかで、温かくて、優しい景色。
「……こんな景色も、あるのね」
小さな呟きが、彼方に溶けて風に運ばれていく。
その刹那、心が震えた。
どちらも真実の景色なのだろう。
シリウスとなら、燃えるような自由。
レギュラスとなら、穏やかで守られる幸福。
答えはまだ出ない。
けれど確かなのは、レギュラスの隣で見た景色が、あまりにも「美しい」と心に深く沁み込んでしまったということ。
それだけは否定できなかった。
そしてその気づきがまた、新たな痛みとなって心臓を締めつけた。
——二人が見せてくれる世界は、あまりに違って、そしてどちらも抗えないほどに眩しい。
その狭間で、揺れるローブの裾が風に舞い、アランの心は儚く震えていた。
やがて箒は風を切る音を緩め、旋回しながら校庭の地へと降りていった。
冷たく澄み切った空の高さからゆるやかに下りていく軌道は、まるで夢が地に溶けてゆく瞬間のようで、アランの胸は安堵と名残惜しさの入り混じった鼓動で震えていた。
土に足が触れた瞬間、膝の力が抜けた。
ほんの少し震え、体がよろめく。
先ほどまで風に抱かれ、高みの空を翔けていたことが幻であったかのように遠ざかっていく。
一歩ごとの体の重さが、夢からの覚醒を告げていた。
しかし同時に、背筋を冷やす感覚が訪れた。
突き刺さるような視線。
周囲の生徒たちの注目が、いっせいにこちらへ注がれているのをありありと感じる。
「……あれ、見た?」
「アラン・セシールが……」
「レギュラス様の後ろに?」
小声が絶え間なく生まれ、ざわめきが波のように広がってゆく。
女生徒たちの瞳は羨望と好奇の光を帯びて一斉にアランを探し、追っていた。
その視線を受けきれず、アランの翡翠の瞳はただ俯くしかなかった。
羞恥の熱が一気に頬へとのぼり、喉まで熱を帯びる。
——やっぱり、自分は。
こんなことは似合わない。
憧れと賞賛を浴びるレギュラスの隣に、自分のような娘が立っていいはずがない。
卑小な自己意識が鋭い棘のように胸を突いた。
「……」
視線を落としたまま、胸に去来するのは夜の残像だった。
真紅のドレス。
シリウスに手を取られた自分。
眩しすぎる光に心を震わせてしまった過ち。
そして、その翌朝。
何も責めずにパンと果物を差し出してくれたレギュラス。
深い声の温かさと、笑顔に隠された影。
二人の中間で揺れる自分の愚かさと罪悪感が重なり合い、重石のように胸にのしかかる。
「アラン、大丈夫ですか?」
近くから差し伸べられる声。
振り返ると、目の前にいたのはレギュラスだった。
彼の灰色の瞳は心配の影を帯びて、真剣に覗き込んでいる。
アランは必死に微笑もうとした。
けれど表情はうまく形を成さず、張りついたように強ばったままだった。
「……ええ。大丈夫……」
唇から漏れたのは、ほとんど消え入りそうな小さな声。
響くというより、掠れて雲に消えてしまいそうな返事。
だがその瞬間も、風に乗って女生徒たちの囁きが押し寄せてきた。
——「羨ましいわ」
——「特別に違いない」
囁きは優しさでも祝福でもなく、無邪気な憧れと嫉妬の混じったものだった。
その何気ない一言一言が、アランの胸を軋ませ、呼吸を苦しくした。
血が頬を上り、視線は足元に縫いつけられる。
心の奥は不安と羞恥と、拭いきれない罪の影で満たされていく。
——逃げ出してしまいたい。
遠くへ、誰もいない静かな場所へ。
耳に届く言葉も視線もない場所で、ただ息をついてしまいたい。
けれど現実はそこにあり、視線は止まず、噂の声も消えない。
赤く鮮やかで居心地の悪い光の中に押し出され、アランは内側から締めつけられる思いに耐えるしかなかった。
そして傍らには、何気なく「隣」を当然のように守るレギュラスの姿。
その影の奥にある本当の熱を彼女がまだ知らないまま、視線はただ地へ落ちていた。
背中に伝わっていたのは、柔らかな体温だった。
細い腕の力、恐怖にしがみついた緊張の硬さ、その奥に宿る確かなぬくもり。
風に揺られた髪がそっと頬に触れるたび、それがアランのものだと意識した瞬間、レギュラスの胸には不意に熱が募っていく。
「……綺麗」
ふと、耳に届いた彼女の囁き。
その声は風よりもかすかで、つかの間の露のように儚かった。
しかし確かに自分の耳に届いたその一言に、レギュラスの胸は静かに満たされていった。
自分が導いて見せた景色に、彼女は心を震わせてくれた。
湖の煌めきと森の海。遠くにそびえる尖塔と光の粒。
その光景を「美しい」と言葉にしてくれることで、自らの行為もまた肯定されていく。
彼女の感嘆、それだけで幸福に包まれる。
冷静であろうと努める自分の心が、じんわりと溶かされていく。
——たとえ、いずれどこかの由緒ある令嬢を妻に迎えることになるとしても。
——たとえ、家を継ぎ、子をもうけ、宿命をすべて受け入れなくてはならなくても。
この温もりだけは、決して失いたくはなかった。
一度心に刻んでしまったこの感覚を、簡単に手放せるはずがない。
そう思うと同時に、誓いにも似た意志が胸の奥に芽吹いた。
失わぬように。
たとえ一瞬でもいい、必ずこうして彼女を空へ連れ出し、美しい景色を共に見る時間を作るのだ。
足元に景色が近づき、箒はやがて柔らかな静けさをまとって地に戻った。
土に降り立ち、彼はゆっくりとアランの身体を支えるように腕を回した。
それは自然な動作でありながら、抑えきれぬものが胸の奥から込み上げていた。
仄かな重力とともに舞い戻ってきたのは、理性ではなく愛おしさだった。
「……ありがとう、レギュラス」
アランの声が、小鳥の羽音のように彼の胸に落ちた。
そこには確かな驚きと、照れを滲ませた色が混じっていた。
レギュラスはその一言に微笑を返した。声は穏やかで、しかし内には焼けるほどの決意を宿して。
「ええ。……何度でも、同じ景色を見ましょう」
何気ない約束のように響いたその言葉。
彼女からすれば、ただの優しい慰めのひとつに過ぎなかったかもしれない。
だがレギュラスにとっては、違った。
その言葉は、彼女を決して手放さないという静かな誓い。
運命に抗えず辿る未来のなかで、それだけは己の手で守り抜くという秘めた決意でもあった。
風が落ち着き、青空はいっそう澄み渡っていた。
光は厚い雲に遮られることなく一面に降り注ぎ、世界を透明に照らしている。
そしてその光の只中で。
レギュラスにとって、彼の心をまるごと照らす存在は、確かにひとりだけだった。
それは隣に立つ少女—— アラン。
彼女の輝きだけが、その一瞬、レギュラスのすべてを支配していた。
昼の大広間は活気の渦に満ちていた。
幾重にも交差する話し声、笑い声。
食器が触れ合う澄んだ音は反響してひとつのざわめきを作りだし、天井に浮かぶ魔法の空には、初夏の陽射しのような柔らかな光が降り注いでいた。
長卓の一角。レギュラスはいつもと同じように静かに腰を下ろし、取り乱すことなく穏やかに食事を続けていた。
隣にはアラン。
彼女の所作は控えめで、しかし驚くほど丁寧で繊細だった。
「どうぞ」
ゴブレットを手に取り、水差しを傾ける所作ひとつにも真心が滲む。澄んだ水が静かに注がれ、揺れる液面が光を弾いた。その器を差し出されたとき、レギュラスは自然にその手に指を添えていた。
柔らかく、温かい。
その何気ない一瞬に、心臓が深く跳ねる。
「…… アラン」
抑えきれない熱が声になって名前を呼んだ。
翡翠の瞳がふいに上がり、その無垢の揺らぎが自分を映した瞬間、すべての理性が微かに緩んだ。
次の瞬間には、体が動いていた。
考えるよりも先に。
レギュラスはそっと身を傾け、衝動に導かれるようにアランを引き寄せた。
そして——。
唇を重ねる。
ほんのわずかな時間。
ほんの一瞬すぎるひととき。
だが彼にとっては永遠に等しい時間だった。
初めて触れる女性の唇。
熱を秘めて、柔らかく、想像を遥かに超えて温かで。
細やかに、かすかに震えている。
その震えすら、いとおしくて胸が震えた。
大切に守らなければならないものに、確かに今、触れてしまっている。
計画したわけではなかった。
本来なら、もっと静かで二人きりの場所で——気持ちを告げ、慎重に距離を縮めたかった。
だがどうしても今、この一瞬。
この溢れそうな思いを止められなかった。
人々のざわめく昼の広間であろうと関係はなかった。
唇を離すと、目の前には翡翠の瞳が大きく見開かれていた。
驚き、不安、困惑。
すべての感情が複雑に入り交じって揺れている。
それでも、彼にはその瞳ごと愛おしくてならなかった。
世界で最も脆く、最も美しいものに触れてしまったようで。
もっと抱き寄せたい。もっと深く確かめたい。
強い衝動が胸を貫く。けれど、理性がぎりぎりのところでそれを押し留めた。
「…… アラン」
名を呼びながら、掠れるような声で続ける。
「すみません。……急に、どうしてもしたくなって」
言葉は震えていた。
隠すことなどできない。
抑えきれない熱が指先にも声にも宿っていた。
周囲では相変わらず談笑が続き、食器が軽やかに鳴り響いている。
誰も二人に気づかず、誰もその一瞬を切り取らなかった。
だが、レギュラスの世界にはもうそれらは存在していなかった。
あらゆる音が消え失せ、ざわめきが遠く霞んでいく。
彼にとって世界のすべては、この瞬間、この隣にいる少女ただ一人へと集約されていた。
全てを覆う空の光までも、彼女の横顔を照らすためだけに存在する。
そしてレギュラスの心臓は、その光景に静かに、しかし烈しく打ち続けていた。
——レギュラスに、キスをされた。
あまりにも突然の出来事だった。
考える余地などほんの欠片も与えられず、唇が触れ合った瞬間、意識は真っ白に塗りつぶされてしまった。
生まれて初めての経験。
心臓は胸の奥で大きく跳ね上がり、全身が驚きに固く凍りつく。
箸を持つ指先さえ力を失い、時の流れだけが大広間のざわめきの中で止まったかのようだった。
その一瞬——。
唇に触れた温もりは、想像すら超えてやわらかく、まるで命そのものを分かち合うように鮮烈に刻み込まれた。
ほんの刹那のはずなのに、その記憶は全身に広がり、身体の奥深くにまで沁みこむ。
そして唇が離れた後も、炎のような熱はそこに残り続けた。
脈打つような火照りが頬から喉元へ広がり、どうしても前を向けなかった。
翡翠の瞳は落ち着く場所を失い、視線はただ泳ぎ、逸らすことしかできない。
しかし——。
ふと顔を上げた先にあったのは、灰色の瞳だった。
まっすぐに、射抜くようにこちらを捕らえて離さない。
その眼差しに絡め取られた瞬間、頬も耳も、一瞬で熱に染まりきっていく。
「……レギュラス……」
掠れた声で名前を呼んだ。
自分の声がこんなにも頼りなく震えることを、自分自身で知らされた。
——少年の唇を知ってしまった。
それはアランにとって初めて「男」という存在を意識する瞬間だった。
これまでの彼は、幼馴染。
自分を導き、守ってくれる絶対の存在。
そのはずだった。
けれど今目の前にいるのは、それとは異なる輪郭を持った誰かだった。
触れた唇の熱が「異性」としてのレギュラスを告げていた。
そして、その気配は抗うことなく心の奥まで浸りきっていた。
彼は再び、ためらいなく言った。
「……好きです、アラン」
その声音には、飾りも余計な言葉も混ざらなかった。
ただ純粋に、一点の濁りもなく感情を投げかける。
言葉は真っ直ぐに、刃のように胸を突き刺す。
何度でも、何度でも繰り返される「好き」という告白。
それは炎の矢のようでありながら、不思議と痛みよりも熱が、滲むようにアランの心を満たす。
胸の奥がざわめき、痛みと熱に分け隔てられぬ感情が渦を巻いた。
これは「愛」だろうか。
それとも「恋」という響きなのだろうか。
——どちらにせよ、不器用で幼い「真似事」のようにも思えた。
けれど確かに今ここにあるものは、幼馴染だけでは決して生まれ得ない、男女の間に息づく特別な熱だった。
柔らかかった唇の余韻。
その熱。その重み。
それだけが確かな真実として、アランの胸にいつまでも残り続けていた。
―― アランとレギュラスが、大広間で唇を重ねた。
ほんの刹那の出来事だった。
だがその光景は、瞬く間に囁きとなって生徒たちの間を駆け抜けていった。
「やっぱりレギュラス・ブラックとアラン・セシール、できてたのよ」
「見た? あの二人。まるで油絵の一場面だった」
「使用人と主人の恋だなんて、物語みたい」
「いやいや、美男美女カップルの誕生だろ、あれは」
噂話は瞬く間に尾ひれを得て、まるで舞台で演じられる芝居の台本のように脚色されていく。
大広間の隅、石造りの廊下、各寮の談話室——至る所に小声のざわめきが波打って広がった。
当人たちがどんな気持ちでその瞬間にいたのかなどお構いなしに。
まるで舞台の上に無理やり立たされ、「演じろ」と観客に迫られているような強制的な脚光。
その話は当然のように、彼の耳にも届いた。
「……君の弟くん、先を越しちゃったね」
悪戯っぽく、けれどどこか興味深そうに囁いてきたのはジェームズだった。
いつも調子のいい親友らしい軽口。
だが、その瞬間にシリウスの歯ぎしりするような反応を引き出した。
「……チッ」
不快さを隠そうともせず、シリウスは舌打ちした。
無造作に手を突っ込み、ざらりと自分の黒髪をかき乱す。
そこにあるのは、いつもの無鉄砲で大きな笑いでも、自由気ままな明るさでもなかった。
胸を焼くような苛立ちだけが募っていた。
「あー……むしゃくしゃする」
吐き捨てるような呟きと共に、椅子の背もたれへと深く体を投げ出す。
視線は宙をさまよい、そこに焦点はなかった。
脳裏にまとわりついてくるのはひとつの疑問だった。
―― アランは、あのキスをどう受け止めたのか。
驚いたのだろうか。
拒んだのか。
それとも——受け入れてしまったのか。
まんざらでもなかったのではないか。
その答えが見えないことが、胸を焦がす。
火傷のように疼き続ける。
あの弟の唇に触れられて、アランは何を思ったのか。
その問いが呪縛のように絡みつき、離れなかった。
そしてもうひとつ、はっきりと知ってしまったことがある。
その予感自体は、前からあったのだ。
いつも静かで、人の期待に応じることを当然とし、家の名誉に従順だった弟。
欲を露わにすることもなく、感情を大きく外に示すこともなかった。
アランに心を寄せているのだろうと、どこかで気づいていながら、同時に「それ以上は望まない」とも思っていた。
だが違った。
弟は動いたのだ。
周囲の目を恐れもせず、ためらうことなく。
アランを人前で、あたかも自分のものだと告げるように抱き寄せて。
「……お前が、そうまでして欲しがるとはな」
低く重い声が、不意に唇から漏れた。
吐き捨てのようでありながら、自分でも意外に思うほど沈んだ音。
嫉妬か、焦燥か、苛立ちか。
そのすべてが混じって重なった灰色の瞳が、どこにも焦点を結ばぬまま宙を彷徨う。
シリウスの胸には、これまで知らぬほどの苦みが広がっていた。
炎のように燃え盛る反発心でもなく、言葉で切り捨てられる単純な苛立ちでもない。
じわじわと染み込んでいくような黒い熱。
弟の予想外の一歩によって揺さぶられた自分自身の「影」。
それを持て余しながら、シリウスは無言のまま、気持ちの置き場を探すかのように乱暴に天井を仰いだ。
だがそこには答えなどなく、ただ揺らめく不快な焦燥だけが彼を覆いつくしていた。
ジェームズはずっと気づいていた。
昼の大広間でも、授業の机の並びでも、石造りの廊下でも。
どんな場所であれ、アラン・セシールの傍らには必ず一つの影が寄り添っていた。
――レギュラス・ブラック。
一見すれば、それは「従者を気遣う主」のよくできた姿でしかない。
誰の目にも美しく、自然で、何の不安を抱かせない光景だろう。
だがジェームズの眼は、それを別の光景として捉えていた。
鋭く視線を注いでみれば、一見優しさに包まれているはずの眼差しが、実は「守る」というより「手放さない」と告げているように見える。
穏やかで繊細に見えるはずの保護の色に、不思議な支配の影が滲んでいたのだ。
ジェームズは胸の奥で思った。
シリウスがアランに向ける「好き」という感情は、もっと軽やかなものだ。
大空を駆ける風のように奔放で、自由を求めるがゆえの衝動。
触れることはあっても縛ることはない。
しかしレギュラスの抱えているそれは、まるで別物だった。
ずっと深く、暗く、絡みつくもの――光の届かぬ場所へと引きずり込もうとする影。
甘美な微笑に覆い隠しながら、その実、寄り添う相手を閉じ込めてしまうような熱を孕んでいる。
だからこそ、先日の大広間で流れた「二人の口づけ」の噂も、ジェームズにとっては衝撃ではなかった。
「ああ、やはり先に動いたな」
そう思っただけのこと。
きっとシリウスは、意図的に弟の方を見ないようにしてきたのだろう。
無意識のうちに、見たくないものを視線から遠ざけてきた。
……だが、ジェームズはよく見ていた。
同じ血を分けた兄弟。
整った美貌も、灰色の瞳も、不思議なほどよく似ているはずなのに、纏う空気は全く異なっていた。
片や、太陽に照らされる奔放な自由。
片や、深い森に潜むような静謐で暗い熱。
善悪では語れない違い。
けれど、確かにアランの瞳は少しずつ後者――影に引き寄せられてゆくかのように見えた。
その予感が、ジェームズの胸に不安をもたらし、しきりにざわつかせていた。
とはいえ、それをどう言葉にして伝えればいいのか。
アランについても、レギュラスについても。
軽々しく断じてしまうことはできない。
下手なひと言は、かえって親友のシリウスを追い詰め、彼女を傷つける結果になるかもしれない。
そのもどかしさが、ジェームズを黙らせていた。
「……君も、何か行動を起こさないと」
結局、そう遠回しに言うのが精一杯だった。
「わかってる!」
返ってきたのは苛立ちを隠そうともしない声。
シリウスは額に手を当て、黒髪をぐしゃぐしゃにかき乱した。
強がるように背を反らし、落ち着きを装うその仕草ほど、焦燥を隠せていなかった。
ジェームズはそんな親友をじっと見つめた。
その視線には、別の焦りが宿っていた。
——これほどの容姿を持ちながら。
——誰よりも自由で、誰に対しても臆せず振る舞えるのに。
それなのにアランに対してだけは、決定的な一歩が遅い。
心を射抜くような強い一手を、まだ打ち出せていない。
もしこのまま動かなければ。
彼女の心は、あの弟の闇に絡め取られてしまうのではないか。
ジェームズの胸の奥にあったのは警告にも近い予感だった。
けれどその輪郭はまだ曖昧で、自分にすら説明がつけられない。
ただ一つ確かにわかるのは、時間があまり残されていないということ。
親友と、自分が気づき続けてきた弟の影。
その均衡が、確かに崩れ始めている。
ジェームズの視線は強く硬く、無意識のうちに真剣さを帯びていた。
いつか必ず訪れるだろう選択の刹那を想像しながら。
そして、その時にシリウスが逃げずに一歩を踏み出すのかどうか——そこにすべてが懸かっていると、彼は漠然と悟っていた。
その日の授業の合間。
図書館へ続く長い廊下は、生徒たちの熱気とざわめきで溢れていた。
次の講義へと急ぐ学生たちの足音が石畳を打ち鳴らし、談笑を続ける笑い声と、抱えた本の落ちる鈍い音がところどころで響く。
狭い通路には肩が擦れ合い、ときおりぶつかり、空気はせわしなく揺れていた。
アランはその人波を懸命に縫いながら歩いていた。
抱えたノートが小さく揺れ、翡翠の瞳が必死で前方を見つめる。
そのとき——横から誰かが勢いよくすれ違い、その細い肩を押しやろうとした。
一瞬、体が揺らぎ、バランスを崩す。
「アラン」
低く、凛とした声が背後から響いた。
すっと伸ばされたレギュラスの手が、彼女の背を自然に支えた。
広い肩が人波との間に壁を作り、アランを庇うように進路へ導く。
その動きに一片の迷いもなかった。
長年の約束でもあるかのように当然で、誰からも訝しまれぬほど自然に見えた。
翡翠の瞳が小さく瞬き、微かな吐息が漏れ出る。
「……ありがとうございます」
掠れる小さな声でそう告げると、彼女は胸に当てたプリーツを整え、また歩き出した。
だが、その光景にすでに周囲の目は釘付けになっていた。
「またよ」
「やっぱり……あの二人」
「まるで運命のようじゃない?」
「特別なんだわ。きっと」
ひそひそと囁きがあちこちで生まれ、廊下の空気全体が微かにざわめく。
視線は自然と二人を追い、羨望に輝く眼差しが寄せられていた。
アランはその気配を感じ取り、頬がじわりと赤く染まる。
翡翠の瞳は恥じらいのように伏せられ、唇が小さく噛みしめられた。
——やはり、また噂になる。
心の内でそう呟きながらも、言葉にはできなかった。
その光景を、廊下の端から見ていた影が一つ。
シリウスだった。
人波の向こうに並ぶ二つの背中を視界に捉えたその瞬間、胸に鋭い苛立ちが奔った。
握りしめた拳が袖から軋むような音を立て、こめかみには鈍い熱が走った。
ただ——それだけのことだ。
人波で押されかけた彼女を庇った。
それ以上でも以下でもない。
本来ならば、何の違和感を抱く必要もない些細な場面。
それなのに。
その一瞬に滲んでいた当然のような親密さ。
彼女が弟の背に寄り添う姿が「もっともふさわしい」と言わんばかりに自然であることが、どうしようもなく鼻についた。
「……っ」
耐え切れずに、シリウスは乱暴に黒髪へ指を差し込み、宙を仰ぐ。
苛立ちを持て余し、吐き捨てる息が喉を焼いた。
すると背後から落ち着いた声が降ってきた。
「な? 言ったろう」
振り返らずともわかる。ジェームズだ。
「……あの弟は、ただ優しいだけじゃない。君から奪おうとしている」
静かな断言。
その言葉の一つひとつが針のように突き刺さる。
シリウスは何も言わず、ただ弟の背を追った。
彼のすぐ傍ら、小さな影のように寄り添うアランの姿も。
——どうして自分の前では、あんなにも軽やかに笑ってくれるのに。
——どうして弟の前では、決まってか弱く守られる存在に見えてしまうのか。
その対比が胸を掻き乱し、灰色の瞳にはざらついた熱が走った。
「……わかってる。わかってるんだよ」
押し潰すような声。
それはアランにも弟にも届かず、ただ自分自身を叱咤するように掠れて漏れた。
だが、その胸に渦巻くのはもはや苛立ちや焦燥だけではなかった。
もっと濃く、もっと苦いものが、静かに広がり始めている。
——いずれ、何かをしなければならない。
ジェームズの低い忠告が、更に鋭く意識に刻み込まれる。
振り払えぬ棘のように胸を突き刺し、シリウスの心を深く掻き乱し続けていた。
冬の光がグラウンドをなぞるように射し、空気の粒ひとつひとつが張りつめている。
その緊張を割くように、風が走り抜けた。
頬を刺すような冷たさが、逆に生徒たちの胸を高鳴らせる。
飛行術の訓練。
掛け声が上がると、十数人の生徒たちがいっせいに箒を構えた。
そして次の瞬間、地面を蹴る音が一斉に鳴り、身体が宙へと舞い上がる。
風を掴む音。歓声。高揚した空気がグラウンドの上に渦を描く。
その中で、ひときわ目を奪う姿があった。
レギュラス・ブラック。
箒に跨がる所作ひとつ取っても、彼の動きには無駄がなかった。
滑らかに足を蹴り出したその瞬間、彼の身体はまるで風と一体化するように浮かび上がる。
姿勢は端正で、背筋は一本の弓のように張り、全ての動きが美しい均整を描いていた。
光を受けてなめらかに流れる黒髪、金具を握る指先の正確な角度、重心の移動。
それらは意識によるものではなく、もはや呼吸の延長のように自然だった。
彼は飛ぶために生まれたように見えた。
風が彼を押し上げ、空が彼を受け入れている。
見る者すべてを納得させる「当然の才能」というものが、そこにあった。
地上では、女生徒たちの小さな歓声があちこちで上がる。
「すごい……!」
「やっぱりレギュラス様、完璧ね」
「姿勢がまるでお手本のようだわ」
「飛んでるというより、空に溶けてるみたい……」
その声は囁きに近い。けれど確かに、ひとりの少年の名を讃える熱がそこにあった。
彼はそれを意に介することなく、淡々と空を駆ける。
誉め言葉を受け止めることに慣れすぎている人間の、静かな風格があった。
彼の姿は、まるで「努力」や「訓練」という言葉を超えた領域に立っているようだった。
その下で、アランは必死に箒にしがみついていた。
両手の平には冷たい汗が滲み、握り締めた指が痛いほどに強ばっている。
足の裏が地を離れる瞬間、心臓がぎゅっと縮み上がった。
風が頬を叩くたびに、息が浅くなり、喉がひりつく。
頭では「大丈夫」と繰り返しても、体は恐怖の方へ引き戻されてしまう。
「落ちないように」——ただその一心だった。
地上が遠ざかっていく。
眼下でグラウンドがゆらめき、風の唸りが鼓膜を震わせる。
指の力を緩めることができず、腕が軋むように痛い。
——やはり、彼らとは違う。
屋敷で過ごした幼い日の記憶が、ふいに蘇る。
兄のシリウスも、レギュラスも、箒を手にすればたちまち笑顔になった。
空への恐れなど微塵もなく、風を裂いて駆け抜けるその姿は、幼いアランの目には自由そのものに映っていた。
いつだって彼らは並んで空へ上がり、太陽を背に競い合っていた。
あの光景に比べれば——今の自分はあまりに拙い。
風を掴むことも、自由に身を任せることもできず、ただ空に「乗せられている」。
その不格好な姿が、恥ずかしさと劣等感を呼び起こす。
翡翠色の瞳で、必死にレギュラスの背を追う。
けれど、彼は遠く。
軽やかに弧を描き、空を自在に支配するように舞っていた。
その動きには、優美さと静かな力強さが同居している。
彼は風を従えているのではなく、風と共に在る。
アランの胸が締めつけられた。
——格が、違いすぎる。
彼女がどれほど努力を重ねても、彼が立つ場所には届かない。
レギュラスは生まれながらにして整っていて、何をしても完成された形に落ち着く。
その「完璧さ」は冷たいほどであり、同時に人を惹きつける力を持っていた。
「……」
手を伸ばせば、いつだって助けてくれる。
困れば、静かに導いてくれる。
誰よりも優しく、理性的で、信頼できる存在。
それでも、アランの胸の奥で芽生えるのは、温かい尊敬とは別の感情だった。
どうしようもない——卑下。
自分は彼に似つかわしくない。
ブラック家の次代、誇り高く完璧な少年に対して、
自分はただ仕える家の娘でしかない。
努力を重ねても、やっと「普通」に届く程度。
彼が空を支配するその瞬間でさえ、
自分はただ、恐怖と憧れの狭間で小さく震えているだけだ。
——不釣り合いだ。
そう思うたびに、胸が痛む。
彼の優しさは、あまりにも純粋で。
その純粋さがかえって、自分には触れることさえ許されない聖域のように感じられる。
もしこの温かさを受け取ってしまったら、
いつか必ず代償を支払うことになる——そんな予感が、背筋を冷たく撫でていく。
風が強くなり、髪が乱れた。
耳に届くのは、レギュラスの名を呼ぶ歓声ばかり。
その声の波が遠くから押し寄せるたび、胸の奥で何かがざらりと擦れた。
空の中で彼は光のように輝いている。
それに比べて、自分は影。
同じ空にいるのに、彼の世界には溶け込めない。
——あの人の眩しさを見上げながら、自分はどこまでも地上に縫いとめられている。
そんな想いが胸の奥で静かに重なり、風に溶けた。
空は美しかった。
けれどその美しさの中で、アランの心はひとり、翳りの中に取り残されていた。
風は澄みきっていた。
冬の陽を透かしたような空は深く、ひとつの濁りもない。
その透明な世界の只中で、アランの頬を切り裂くように冷たい風が奔っていく。
指の節が固くなり、胸の奥が強く脈打っていた。
飛行訓練の最中。
生徒たちはそれぞれの箒を操り、空を舞っている。
歓声と風の音が重なり合い、まるで天と地が溶け合うような広がりを見せていた。
だがアランの心は、その壮観とは対照的に張りつめていた。
両手で箒の柄を必死に握りしめている。
爪が食い込み、指の節が白く浮かび上がる。
わずかに体を動かすだけで、足元の空間がふわりと揺れるのを感じ、喉が詰まった。
視界の下には、豆粒のような人影と、遠くに流れる湖面。
ほんの少しでも力を抜けば、落ちてしまう。
その恐怖が喉元を掴み、息を狭めていた。
「アラン、手を」
はっきりとした声が、空を渡って届いた。
凛と張りつめた冬の空気の中で、その声だけが鮮やかに響く。
振り返ると、箒の上に立つレギュラスの姿があった。
灰色の瞳が風を受けてきらめき、そこには一片の迷いもなかった。
彼は片手を伸ばしていた。
風の中でも安定した姿勢を崩さず、その動きには絶対的な確信と余裕が漂っていた。
まるで「落ちる」という概念すら、彼には存在しないかのようだった。
アランはその手を見つめ、喉の奥で言葉を詰まらせた。
「できないわ……落ちるもの」
かろうじて絞り出した声は、風にかき消されそうに震えていた。
背中を冷たい汗が伝う。
恐怖が足元から這い上がってくるようだった。
両腕に力を込め、再び箒を握りしめる。
——手を離すなんて、とてもできない。
レギュラスは短く息を吸い、穏やかに言った。
「大丈夫です。……信じて」
その声は低く、しかし不思議な力を帯びていた。
決して強引ではなく、けれど抗えない。
風に溶け込むように優しいのに、確かに胸の奥を貫く。
——信じて。
その一言が、胸の奥の深い場所で響いた。
恐怖と共に、なぜか温かい痛みが広がる。
アランは唇を噛みしめた。
そして、震える指を、ほんの少しずつ前へと伸ばしていく。
空気が張りつめる。
冷たい風の中で、彼の手が彼女の指先に触れた。
次の瞬間、温もりが掌を包み込む。
しっかりと、しかし優しく。
その掌には、絶対に離さないという意志が宿っていた。
——一瞬で、世界が浮いた。
重心が外れ、風が身体をすくい上げる。
「――っ!」
反射的に短い悲鳴が洩れた。
次の瞬間、彼女の身体はふわりと引き寄せられ、レギュラスの箒の後ろへと収まった。
強い風が二人の間を駆け抜ける。
ローブの裾がはためき、髪が頬に絡む。
思わず前にしがみついた。
彼の背は、思っていたよりもずっと確かで、温かかった。
その背中に額が触れるほど近づいた瞬間、恐怖はわずかに緩み、息が深く吸えた。
「自由に飛んでいいそうですので……一周しましょう」
風を切る中、レギュラスの声が静かに響く。
いつもと変わらぬ、落ち着いた調子だった。
その冷静さが、今のアランには信じられないほど眩しく思えた。
「え……」
掠れた声を返すのがやっとだった。
だが、箒はぶれることなく空を滑っていく。
彼の手がしっかりと手綱を握り、動きは完璧なまでに安定していた。
風の唸りが、どこか心地よい旋律のように耳をかすめる。
「…… アラン、景色。綺麗ですよ」
風に溶けるような柔らかな声。
その響きに導かれ、アランは恐る恐る目を開いた。
視界が広がる。
一面の青。
湖面は鏡のように光を受け、波紋さえ宝石のように瞬いている。
森は深緑の絨毯を思わせ、光の粒を散らしながら風に揺れている。
その奥にそびえるホグワーツの尖塔。
陽光を浴びた石壁が、空の青に突き上げるように聳えていた。
「……」
息を呑んだ。
それは、胸の奥を掴まれるような美しさだった。
ほんの少し前まで恐怖でしかなかった空が、今は全く違うものに見えている。
風は優しく、陽の光は温かい。
恐怖が少しずつ剥がれ落ち、代わりに心を満たしていくのは静かな感動だった。
強ばっていた指先の力が、ようやく緩む。
レギュラスが微かに笑った気配がした。
見えなくてもわかる。
その笑みには、言葉よりも深い安心があった。
アランはゆっくりと息を吸い込む。
冷たいはずの空気が胸の奥で温かく溶けていく。
——初めて、空を美しいと思った。
恐ろしい場所ではなく、
ただ純粋に、世界のすべてが輝いて見える場所として。
その瞬間、風も光も、全てが彼女を祝福するかのように優しく流れた。
空の彼方で、冬の陽がふたりの影を淡く重ね、
アランの胸の奥に、言葉にならない静かな熱を灯した。
空は高く遠く、吐息が白くほどけてしまうほどに風は冷たかった。
頬を刺すようなその冷気のなかで、耳に届くレギュラスの声は不思議なほど温かく、胸の奥にじんわりと広がった。
「…… アラン、これから先も、あなたにいろんな景色を見せてさしあげます」
低く、しかし柔らかで、陽の光に溶けるような声音だ。
その言葉に守られるように、背に身を預けると、布地越しに伝わる温度と重みが確かな安心を与えた。
本来ならば、その幸福にただ浸ればいいはずだった。
けれど同時に、胸の中には「もったいない」「申し訳ない」といった思いが滲んでいく。
自分などに、この優しさを向け続けていいのか。
そんな疑問がよぎり、胸の奥をきゅっと締めつけた。
箒を操る背が風を受け、揺れながらもまっすぐに進む。
振り返らずに続けられる声が、また耳に届いた。
「だから、たくさんいろんな所に行きましょう。……必ず、僕が連れて行きます」
その響きに、胸が小さく震える。
背中に預けた身体越しにも、彼の言葉が染み込んでいくのが分かる。
振り返らずともわかる。
灰色の瞳を静かに細め、慈しむような微笑を浮かべているのだと。
その想像だけで胸が熱を帯びた。
ふと、別の記憶が蘇る。
——シリウスの隣で見たマグルの街。
石畳の道。行き交う人々の自由な雑踏。
すれ違う誰もが肩書きや血筋と無縁で、ただ思い思いに生きている風景。
あの瞬間、心は強く燃え上がり、「自由」という圧倒的な憧れに突き動かされた。
心臓さえも新しい未来へと駆り立てられるようだった。
けれど今。
レギュラスの背にしがみつきながら見下ろす世界は、まるで真逆の色を持っていた。
湖は穏やかに光を映し、森は静けさを大きな絨毯のように広げている。
尖塔の連なりは金に輝き、まるで誰をも守ろうと寄り添うように建っている。
そこに広がるのは、燃える衝動ではなく、安らかに心を包み込む広がり。
柔らかで、温かくて、優しい景色。
「……こんな景色も、あるのね」
小さな呟きが、彼方に溶けて風に運ばれていく。
その刹那、心が震えた。
どちらも真実の景色なのだろう。
シリウスとなら、燃えるような自由。
レギュラスとなら、穏やかで守られる幸福。
答えはまだ出ない。
けれど確かなのは、レギュラスの隣で見た景色が、あまりにも「美しい」と心に深く沁み込んでしまったということ。
それだけは否定できなかった。
そしてその気づきがまた、新たな痛みとなって心臓を締めつけた。
——二人が見せてくれる世界は、あまりに違って、そしてどちらも抗えないほどに眩しい。
その狭間で、揺れるローブの裾が風に舞い、アランの心は儚く震えていた。
やがて箒は風を切る音を緩め、旋回しながら校庭の地へと降りていった。
冷たく澄み切った空の高さからゆるやかに下りていく軌道は、まるで夢が地に溶けてゆく瞬間のようで、アランの胸は安堵と名残惜しさの入り混じった鼓動で震えていた。
土に足が触れた瞬間、膝の力が抜けた。
ほんの少し震え、体がよろめく。
先ほどまで風に抱かれ、高みの空を翔けていたことが幻であったかのように遠ざかっていく。
一歩ごとの体の重さが、夢からの覚醒を告げていた。
しかし同時に、背筋を冷やす感覚が訪れた。
突き刺さるような視線。
周囲の生徒たちの注目が、いっせいにこちらへ注がれているのをありありと感じる。
「……あれ、見た?」
「アラン・セシールが……」
「レギュラス様の後ろに?」
小声が絶え間なく生まれ、ざわめきが波のように広がってゆく。
女生徒たちの瞳は羨望と好奇の光を帯びて一斉にアランを探し、追っていた。
その視線を受けきれず、アランの翡翠の瞳はただ俯くしかなかった。
羞恥の熱が一気に頬へとのぼり、喉まで熱を帯びる。
——やっぱり、自分は。
こんなことは似合わない。
憧れと賞賛を浴びるレギュラスの隣に、自分のような娘が立っていいはずがない。
卑小な自己意識が鋭い棘のように胸を突いた。
「……」
視線を落としたまま、胸に去来するのは夜の残像だった。
真紅のドレス。
シリウスに手を取られた自分。
眩しすぎる光に心を震わせてしまった過ち。
そして、その翌朝。
何も責めずにパンと果物を差し出してくれたレギュラス。
深い声の温かさと、笑顔に隠された影。
二人の中間で揺れる自分の愚かさと罪悪感が重なり合い、重石のように胸にのしかかる。
「アラン、大丈夫ですか?」
近くから差し伸べられる声。
振り返ると、目の前にいたのはレギュラスだった。
彼の灰色の瞳は心配の影を帯びて、真剣に覗き込んでいる。
アランは必死に微笑もうとした。
けれど表情はうまく形を成さず、張りついたように強ばったままだった。
「……ええ。大丈夫……」
唇から漏れたのは、ほとんど消え入りそうな小さな声。
響くというより、掠れて雲に消えてしまいそうな返事。
だがその瞬間も、風に乗って女生徒たちの囁きが押し寄せてきた。
——「羨ましいわ」
——「特別に違いない」
囁きは優しさでも祝福でもなく、無邪気な憧れと嫉妬の混じったものだった。
その何気ない一言一言が、アランの胸を軋ませ、呼吸を苦しくした。
血が頬を上り、視線は足元に縫いつけられる。
心の奥は不安と羞恥と、拭いきれない罪の影で満たされていく。
——逃げ出してしまいたい。
遠くへ、誰もいない静かな場所へ。
耳に届く言葉も視線もない場所で、ただ息をついてしまいたい。
けれど現実はそこにあり、視線は止まず、噂の声も消えない。
赤く鮮やかで居心地の悪い光の中に押し出され、アランは内側から締めつけられる思いに耐えるしかなかった。
そして傍らには、何気なく「隣」を当然のように守るレギュラスの姿。
その影の奥にある本当の熱を彼女がまだ知らないまま、視線はただ地へ落ちていた。
背中に伝わっていたのは、柔らかな体温だった。
細い腕の力、恐怖にしがみついた緊張の硬さ、その奥に宿る確かなぬくもり。
風に揺られた髪がそっと頬に触れるたび、それがアランのものだと意識した瞬間、レギュラスの胸には不意に熱が募っていく。
「……綺麗」
ふと、耳に届いた彼女の囁き。
その声は風よりもかすかで、つかの間の露のように儚かった。
しかし確かに自分の耳に届いたその一言に、レギュラスの胸は静かに満たされていった。
自分が導いて見せた景色に、彼女は心を震わせてくれた。
湖の煌めきと森の海。遠くにそびえる尖塔と光の粒。
その光景を「美しい」と言葉にしてくれることで、自らの行為もまた肯定されていく。
彼女の感嘆、それだけで幸福に包まれる。
冷静であろうと努める自分の心が、じんわりと溶かされていく。
——たとえ、いずれどこかの由緒ある令嬢を妻に迎えることになるとしても。
——たとえ、家を継ぎ、子をもうけ、宿命をすべて受け入れなくてはならなくても。
この温もりだけは、決して失いたくはなかった。
一度心に刻んでしまったこの感覚を、簡単に手放せるはずがない。
そう思うと同時に、誓いにも似た意志が胸の奥に芽吹いた。
失わぬように。
たとえ一瞬でもいい、必ずこうして彼女を空へ連れ出し、美しい景色を共に見る時間を作るのだ。
足元に景色が近づき、箒はやがて柔らかな静けさをまとって地に戻った。
土に降り立ち、彼はゆっくりとアランの身体を支えるように腕を回した。
それは自然な動作でありながら、抑えきれぬものが胸の奥から込み上げていた。
仄かな重力とともに舞い戻ってきたのは、理性ではなく愛おしさだった。
「……ありがとう、レギュラス」
アランの声が、小鳥の羽音のように彼の胸に落ちた。
そこには確かな驚きと、照れを滲ませた色が混じっていた。
レギュラスはその一言に微笑を返した。声は穏やかで、しかし内には焼けるほどの決意を宿して。
「ええ。……何度でも、同じ景色を見ましょう」
何気ない約束のように響いたその言葉。
彼女からすれば、ただの優しい慰めのひとつに過ぎなかったかもしれない。
だがレギュラスにとっては、違った。
その言葉は、彼女を決して手放さないという静かな誓い。
運命に抗えず辿る未来のなかで、それだけは己の手で守り抜くという秘めた決意でもあった。
風が落ち着き、青空はいっそう澄み渡っていた。
光は厚い雲に遮られることなく一面に降り注ぎ、世界を透明に照らしている。
そしてその光の只中で。
レギュラスにとって、彼の心をまるごと照らす存在は、確かにひとりだけだった。
それは隣に立つ少女—— アラン。
彼女の輝きだけが、その一瞬、レギュラスのすべてを支配していた。
昼の大広間は活気の渦に満ちていた。
幾重にも交差する話し声、笑い声。
食器が触れ合う澄んだ音は反響してひとつのざわめきを作りだし、天井に浮かぶ魔法の空には、初夏の陽射しのような柔らかな光が降り注いでいた。
長卓の一角。レギュラスはいつもと同じように静かに腰を下ろし、取り乱すことなく穏やかに食事を続けていた。
隣にはアラン。
彼女の所作は控えめで、しかし驚くほど丁寧で繊細だった。
「どうぞ」
ゴブレットを手に取り、水差しを傾ける所作ひとつにも真心が滲む。澄んだ水が静かに注がれ、揺れる液面が光を弾いた。その器を差し出されたとき、レギュラスは自然にその手に指を添えていた。
柔らかく、温かい。
その何気ない一瞬に、心臓が深く跳ねる。
「…… アラン」
抑えきれない熱が声になって名前を呼んだ。
翡翠の瞳がふいに上がり、その無垢の揺らぎが自分を映した瞬間、すべての理性が微かに緩んだ。
次の瞬間には、体が動いていた。
考えるよりも先に。
レギュラスはそっと身を傾け、衝動に導かれるようにアランを引き寄せた。
そして——。
唇を重ねる。
ほんのわずかな時間。
ほんの一瞬すぎるひととき。
だが彼にとっては永遠に等しい時間だった。
初めて触れる女性の唇。
熱を秘めて、柔らかく、想像を遥かに超えて温かで。
細やかに、かすかに震えている。
その震えすら、いとおしくて胸が震えた。
大切に守らなければならないものに、確かに今、触れてしまっている。
計画したわけではなかった。
本来なら、もっと静かで二人きりの場所で——気持ちを告げ、慎重に距離を縮めたかった。
だがどうしても今、この一瞬。
この溢れそうな思いを止められなかった。
人々のざわめく昼の広間であろうと関係はなかった。
唇を離すと、目の前には翡翠の瞳が大きく見開かれていた。
驚き、不安、困惑。
すべての感情が複雑に入り交じって揺れている。
それでも、彼にはその瞳ごと愛おしくてならなかった。
世界で最も脆く、最も美しいものに触れてしまったようで。
もっと抱き寄せたい。もっと深く確かめたい。
強い衝動が胸を貫く。けれど、理性がぎりぎりのところでそれを押し留めた。
「…… アラン」
名を呼びながら、掠れるような声で続ける。
「すみません。……急に、どうしてもしたくなって」
言葉は震えていた。
隠すことなどできない。
抑えきれない熱が指先にも声にも宿っていた。
周囲では相変わらず談笑が続き、食器が軽やかに鳴り響いている。
誰も二人に気づかず、誰もその一瞬を切り取らなかった。
だが、レギュラスの世界にはもうそれらは存在していなかった。
あらゆる音が消え失せ、ざわめきが遠く霞んでいく。
彼にとって世界のすべては、この瞬間、この隣にいる少女ただ一人へと集約されていた。
全てを覆う空の光までも、彼女の横顔を照らすためだけに存在する。
そしてレギュラスの心臓は、その光景に静かに、しかし烈しく打ち続けていた。
——レギュラスに、キスをされた。
あまりにも突然の出来事だった。
考える余地などほんの欠片も与えられず、唇が触れ合った瞬間、意識は真っ白に塗りつぶされてしまった。
生まれて初めての経験。
心臓は胸の奥で大きく跳ね上がり、全身が驚きに固く凍りつく。
箸を持つ指先さえ力を失い、時の流れだけが大広間のざわめきの中で止まったかのようだった。
その一瞬——。
唇に触れた温もりは、想像すら超えてやわらかく、まるで命そのものを分かち合うように鮮烈に刻み込まれた。
ほんの刹那のはずなのに、その記憶は全身に広がり、身体の奥深くにまで沁みこむ。
そして唇が離れた後も、炎のような熱はそこに残り続けた。
脈打つような火照りが頬から喉元へ広がり、どうしても前を向けなかった。
翡翠の瞳は落ち着く場所を失い、視線はただ泳ぎ、逸らすことしかできない。
しかし——。
ふと顔を上げた先にあったのは、灰色の瞳だった。
まっすぐに、射抜くようにこちらを捕らえて離さない。
その眼差しに絡め取られた瞬間、頬も耳も、一瞬で熱に染まりきっていく。
「……レギュラス……」
掠れた声で名前を呼んだ。
自分の声がこんなにも頼りなく震えることを、自分自身で知らされた。
——少年の唇を知ってしまった。
それはアランにとって初めて「男」という存在を意識する瞬間だった。
これまでの彼は、幼馴染。
自分を導き、守ってくれる絶対の存在。
そのはずだった。
けれど今目の前にいるのは、それとは異なる輪郭を持った誰かだった。
触れた唇の熱が「異性」としてのレギュラスを告げていた。
そして、その気配は抗うことなく心の奥まで浸りきっていた。
彼は再び、ためらいなく言った。
「……好きです、アラン」
その声音には、飾りも余計な言葉も混ざらなかった。
ただ純粋に、一点の濁りもなく感情を投げかける。
言葉は真っ直ぐに、刃のように胸を突き刺す。
何度でも、何度でも繰り返される「好き」という告白。
それは炎の矢のようでありながら、不思議と痛みよりも熱が、滲むようにアランの心を満たす。
胸の奥がざわめき、痛みと熱に分け隔てられぬ感情が渦を巻いた。
これは「愛」だろうか。
それとも「恋」という響きなのだろうか。
——どちらにせよ、不器用で幼い「真似事」のようにも思えた。
けれど確かに今ここにあるものは、幼馴染だけでは決して生まれ得ない、男女の間に息づく特別な熱だった。
柔らかかった唇の余韻。
その熱。その重み。
それだけが確かな真実として、アランの胸にいつまでも残り続けていた。
―― アランとレギュラスが、大広間で唇を重ねた。
ほんの刹那の出来事だった。
だがその光景は、瞬く間に囁きとなって生徒たちの間を駆け抜けていった。
「やっぱりレギュラス・ブラックとアラン・セシール、できてたのよ」
「見た? あの二人。まるで油絵の一場面だった」
「使用人と主人の恋だなんて、物語みたい」
「いやいや、美男美女カップルの誕生だろ、あれは」
噂話は瞬く間に尾ひれを得て、まるで舞台で演じられる芝居の台本のように脚色されていく。
大広間の隅、石造りの廊下、各寮の談話室——至る所に小声のざわめきが波打って広がった。
当人たちがどんな気持ちでその瞬間にいたのかなどお構いなしに。
まるで舞台の上に無理やり立たされ、「演じろ」と観客に迫られているような強制的な脚光。
その話は当然のように、彼の耳にも届いた。
「……君の弟くん、先を越しちゃったね」
悪戯っぽく、けれどどこか興味深そうに囁いてきたのはジェームズだった。
いつも調子のいい親友らしい軽口。
だが、その瞬間にシリウスの歯ぎしりするような反応を引き出した。
「……チッ」
不快さを隠そうともせず、シリウスは舌打ちした。
無造作に手を突っ込み、ざらりと自分の黒髪をかき乱す。
そこにあるのは、いつもの無鉄砲で大きな笑いでも、自由気ままな明るさでもなかった。
胸を焼くような苛立ちだけが募っていた。
「あー……むしゃくしゃする」
吐き捨てるような呟きと共に、椅子の背もたれへと深く体を投げ出す。
視線は宙をさまよい、そこに焦点はなかった。
脳裏にまとわりついてくるのはひとつの疑問だった。
―― アランは、あのキスをどう受け止めたのか。
驚いたのだろうか。
拒んだのか。
それとも——受け入れてしまったのか。
まんざらでもなかったのではないか。
その答えが見えないことが、胸を焦がす。
火傷のように疼き続ける。
あの弟の唇に触れられて、アランは何を思ったのか。
その問いが呪縛のように絡みつき、離れなかった。
そしてもうひとつ、はっきりと知ってしまったことがある。
その予感自体は、前からあったのだ。
いつも静かで、人の期待に応じることを当然とし、家の名誉に従順だった弟。
欲を露わにすることもなく、感情を大きく外に示すこともなかった。
アランに心を寄せているのだろうと、どこかで気づいていながら、同時に「それ以上は望まない」とも思っていた。
だが違った。
弟は動いたのだ。
周囲の目を恐れもせず、ためらうことなく。
アランを人前で、あたかも自分のものだと告げるように抱き寄せて。
「……お前が、そうまでして欲しがるとはな」
低く重い声が、不意に唇から漏れた。
吐き捨てのようでありながら、自分でも意外に思うほど沈んだ音。
嫉妬か、焦燥か、苛立ちか。
そのすべてが混じって重なった灰色の瞳が、どこにも焦点を結ばぬまま宙を彷徨う。
シリウスの胸には、これまで知らぬほどの苦みが広がっていた。
炎のように燃え盛る反発心でもなく、言葉で切り捨てられる単純な苛立ちでもない。
じわじわと染み込んでいくような黒い熱。
弟の予想外の一歩によって揺さぶられた自分自身の「影」。
それを持て余しながら、シリウスは無言のまま、気持ちの置き場を探すかのように乱暴に天井を仰いだ。
だがそこには答えなどなく、ただ揺らめく不快な焦燥だけが彼を覆いつくしていた。
ジェームズはずっと気づいていた。
昼の大広間でも、授業の机の並びでも、石造りの廊下でも。
どんな場所であれ、アラン・セシールの傍らには必ず一つの影が寄り添っていた。
――レギュラス・ブラック。
一見すれば、それは「従者を気遣う主」のよくできた姿でしかない。
誰の目にも美しく、自然で、何の不安を抱かせない光景だろう。
だがジェームズの眼は、それを別の光景として捉えていた。
鋭く視線を注いでみれば、一見優しさに包まれているはずの眼差しが、実は「守る」というより「手放さない」と告げているように見える。
穏やかで繊細に見えるはずの保護の色に、不思議な支配の影が滲んでいたのだ。
ジェームズは胸の奥で思った。
シリウスがアランに向ける「好き」という感情は、もっと軽やかなものだ。
大空を駆ける風のように奔放で、自由を求めるがゆえの衝動。
触れることはあっても縛ることはない。
しかしレギュラスの抱えているそれは、まるで別物だった。
ずっと深く、暗く、絡みつくもの――光の届かぬ場所へと引きずり込もうとする影。
甘美な微笑に覆い隠しながら、その実、寄り添う相手を閉じ込めてしまうような熱を孕んでいる。
だからこそ、先日の大広間で流れた「二人の口づけ」の噂も、ジェームズにとっては衝撃ではなかった。
「ああ、やはり先に動いたな」
そう思っただけのこと。
きっとシリウスは、意図的に弟の方を見ないようにしてきたのだろう。
無意識のうちに、見たくないものを視線から遠ざけてきた。
……だが、ジェームズはよく見ていた。
同じ血を分けた兄弟。
整った美貌も、灰色の瞳も、不思議なほどよく似ているはずなのに、纏う空気は全く異なっていた。
片や、太陽に照らされる奔放な自由。
片や、深い森に潜むような静謐で暗い熱。
善悪では語れない違い。
けれど、確かにアランの瞳は少しずつ後者――影に引き寄せられてゆくかのように見えた。
その予感が、ジェームズの胸に不安をもたらし、しきりにざわつかせていた。
とはいえ、それをどう言葉にして伝えればいいのか。
アランについても、レギュラスについても。
軽々しく断じてしまうことはできない。
下手なひと言は、かえって親友のシリウスを追い詰め、彼女を傷つける結果になるかもしれない。
そのもどかしさが、ジェームズを黙らせていた。
「……君も、何か行動を起こさないと」
結局、そう遠回しに言うのが精一杯だった。
「わかってる!」
返ってきたのは苛立ちを隠そうともしない声。
シリウスは額に手を当て、黒髪をぐしゃぐしゃにかき乱した。
強がるように背を反らし、落ち着きを装うその仕草ほど、焦燥を隠せていなかった。
ジェームズはそんな親友をじっと見つめた。
その視線には、別の焦りが宿っていた。
——これほどの容姿を持ちながら。
——誰よりも自由で、誰に対しても臆せず振る舞えるのに。
それなのにアランに対してだけは、決定的な一歩が遅い。
心を射抜くような強い一手を、まだ打ち出せていない。
もしこのまま動かなければ。
彼女の心は、あの弟の闇に絡め取られてしまうのではないか。
ジェームズの胸の奥にあったのは警告にも近い予感だった。
けれどその輪郭はまだ曖昧で、自分にすら説明がつけられない。
ただ一つ確かにわかるのは、時間があまり残されていないということ。
親友と、自分が気づき続けてきた弟の影。
その均衡が、確かに崩れ始めている。
ジェームズの視線は強く硬く、無意識のうちに真剣さを帯びていた。
いつか必ず訪れるだろう選択の刹那を想像しながら。
そして、その時にシリウスが逃げずに一歩を踏み出すのかどうか——そこにすべてが懸かっていると、彼は漠然と悟っていた。
その日の授業の合間。
図書館へ続く長い廊下は、生徒たちの熱気とざわめきで溢れていた。
次の講義へと急ぐ学生たちの足音が石畳を打ち鳴らし、談笑を続ける笑い声と、抱えた本の落ちる鈍い音がところどころで響く。
狭い通路には肩が擦れ合い、ときおりぶつかり、空気はせわしなく揺れていた。
アランはその人波を懸命に縫いながら歩いていた。
抱えたノートが小さく揺れ、翡翠の瞳が必死で前方を見つめる。
そのとき——横から誰かが勢いよくすれ違い、その細い肩を押しやろうとした。
一瞬、体が揺らぎ、バランスを崩す。
「アラン」
低く、凛とした声が背後から響いた。
すっと伸ばされたレギュラスの手が、彼女の背を自然に支えた。
広い肩が人波との間に壁を作り、アランを庇うように進路へ導く。
その動きに一片の迷いもなかった。
長年の約束でもあるかのように当然で、誰からも訝しまれぬほど自然に見えた。
翡翠の瞳が小さく瞬き、微かな吐息が漏れ出る。
「……ありがとうございます」
掠れる小さな声でそう告げると、彼女は胸に当てたプリーツを整え、また歩き出した。
だが、その光景にすでに周囲の目は釘付けになっていた。
「またよ」
「やっぱり……あの二人」
「まるで運命のようじゃない?」
「特別なんだわ。きっと」
ひそひそと囁きがあちこちで生まれ、廊下の空気全体が微かにざわめく。
視線は自然と二人を追い、羨望に輝く眼差しが寄せられていた。
アランはその気配を感じ取り、頬がじわりと赤く染まる。
翡翠の瞳は恥じらいのように伏せられ、唇が小さく噛みしめられた。
——やはり、また噂になる。
心の内でそう呟きながらも、言葉にはできなかった。
その光景を、廊下の端から見ていた影が一つ。
シリウスだった。
人波の向こうに並ぶ二つの背中を視界に捉えたその瞬間、胸に鋭い苛立ちが奔った。
握りしめた拳が袖から軋むような音を立て、こめかみには鈍い熱が走った。
ただ——それだけのことだ。
人波で押されかけた彼女を庇った。
それ以上でも以下でもない。
本来ならば、何の違和感を抱く必要もない些細な場面。
それなのに。
その一瞬に滲んでいた当然のような親密さ。
彼女が弟の背に寄り添う姿が「もっともふさわしい」と言わんばかりに自然であることが、どうしようもなく鼻についた。
「……っ」
耐え切れずに、シリウスは乱暴に黒髪へ指を差し込み、宙を仰ぐ。
苛立ちを持て余し、吐き捨てる息が喉を焼いた。
すると背後から落ち着いた声が降ってきた。
「な? 言ったろう」
振り返らずともわかる。ジェームズだ。
「……あの弟は、ただ優しいだけじゃない。君から奪おうとしている」
静かな断言。
その言葉の一つひとつが針のように突き刺さる。
シリウスは何も言わず、ただ弟の背を追った。
彼のすぐ傍ら、小さな影のように寄り添うアランの姿も。
——どうして自分の前では、あんなにも軽やかに笑ってくれるのに。
——どうして弟の前では、決まってか弱く守られる存在に見えてしまうのか。
その対比が胸を掻き乱し、灰色の瞳にはざらついた熱が走った。
「……わかってる。わかってるんだよ」
押し潰すような声。
それはアランにも弟にも届かず、ただ自分自身を叱咤するように掠れて漏れた。
だが、その胸に渦巻くのはもはや苛立ちや焦燥だけではなかった。
もっと濃く、もっと苦いものが、静かに広がり始めている。
——いずれ、何かをしなければならない。
ジェームズの低い忠告が、更に鋭く意識に刻み込まれる。
振り払えぬ棘のように胸を突き刺し、シリウスの心を深く掻き乱し続けていた。
