4章
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屋敷に戻る前の午後。
アランとレギュラスは、老夫婦――トマスとマルタ――が時折足を運ぶという、マグルの小さな市場へ出かけた。
丘を下ると、石畳の先に、木の屋台がいくつも並んでいた。
焼きたてのパンの香ばしい匂い、紙袋の中で立ちのぼる湯気、
子どもたちのはしゃぐ声。
魔法界の市場とはまるで違う、生活の音がそこにはあった。
マグルたちは、誰も魔法など知らない。
杖もローブもない世界。
それなのに、こんなにも人々はよく笑い、よく生きていた。
アランは胸の奥にじんわりとした温かさを覚えた。
――シリウスと歩いたあの頃の世界だ。
けれど今、自分の隣にいるのはレギュラスだった。
まさか、この人と同じ景色を見ながら歩ける日が来るなんて。
そんな未来を想像したことすら、一度もなかった。
なのに今、彼と並んで歩いている。
夢のような、不思議な静けさが心に満ちていた。
レギュラスは、まだ感覚の残る方の腕をゆっくりと差し出した。
その手のひらに、アランは自分の手を重ねる。
指先から伝わる確かな温度。
冷たくなることを知らない炎のようだった。
長い間、彼の愛を鎖のように感じていた。
純血という血筋も、ブラックという名も。
全てが自分を縛るものだと思ってきた。
けれど今、繋がれたこの手の中には、鎖などどこにもなかった。
ただ――愛だけがあった。
それだけが、確かに存在していた。
「レギュラス、何か食べます?」
市場の角に並んだ屋台を指差しながら、アランが微笑んだアラン
「……食べ物が、よくわからないんですよね。」
少し困ったように言うレギュラスの声に、アランは小さく笑った。
確かに、アランの世界には奇妙な食べ物が多い。
見た目も味も、魔法界のそれとはまるで違う。
「大丈夫、私もよくわかってません。」
そう言って、アランは紙皿を二つ買った。
中には、焼きたての丸いパンに挟まれた肉と野菜――
香ばしい匂いが立ちのぼる。
「どうぞ、レギュラス。」
レギュラスは恐る恐るそれを手に取る。
そして一口、静かにかじった。
……眉がぴくりと動いた。
「これは……不思議な味ですね。」
「でしょう?」
アランが吹き出すように笑う。
「塩なのか、甘いのか、どちらかにしてほしい味です。」
真顔で言うレギュラスが可笑しくて、
アランは声を上げて笑った。
市場のざわめきの中で、久しく聞いたことのない自分の笑い声が響く。
レギュラスも、つられるように口元を緩めた。
その穏やかな笑顔を見て、胸の奥があたたかく満たされていく。
この人が笑うだけで、世界の色が変わる。
そんな錯覚さえ覚えた。
「……少し歩いたら、戻りましょうか。」
レギュラスの声が風に溶ける。
どこに、とは言わなかった。
言葉にせずとも、互いにわかっていた。
――自分たちは、もう一度、あの世界へ戻らなければならない。
――まだ、終えていない使命がある。
握り合った手が、少しだけ強くなった。
そのぬくもりはあまりにも優しくて、
離したくないと思った。
アランは歩きながら、ふと心の奥で呟いた。
――なぜ、もっと早くに、この手を取って生きる道を選べなかったのだろう。
こんなにも優しい手を、
どうしてあの時は拒んでしまったのだろう。
後悔は、静かに胸を締め付ける。
けれど、その痛みすらも、どこか愛おしかった。
なぜなら今、彼の手が確かに自分を包んでいるのだから。
街の明かりが夕陽に染まり、影が長く伸びる。
風が吹き抜け、屋台の旗を揺らした。
遠くで、鐘の音が一度だけ鳴る。
それはまるで、最後の穏やかな時間を知らせる合図のようだった。
アランは立ち止まり、レギュラスの横顔を見上げた。
風に揺れる黒髪。
灰色の瞳は、どこまでも静かで――
その奥に、決意の光が宿っていた。
この人となら、どんな運命の果ても恐くない。
この人と並んで歩ける今が、
どんな栄光よりも尊い。
二人は手を繋いだまま、
沈みゆく夕日の中をゆっくりと歩いていった。
まるで、永遠という言葉を確かめるかのように。
その光景は、
嵐の前の静けさ――
そして、最後の陽だまりだった。
闇の帝王は――きっともう気づいている。
レギュラスは、冷え切った自分の右手を見つめながら静かにそう悟った。
死の谷で触れてしまったホークラックスの呪い。
黒く変色し、指先の感覚すら曖昧になりつつある利き手。
そして、それはアランの腕にも及び始めている。
この呪いが作動したということは、ホークラックスへの接触が闇の帝王に伝わったということだ。
模倣品で誤魔化した。
だが、レギュラスは理解している。
――そんな浅い偽装が、あの男にいつまで通用するものか。
魔法界に戻れば、レギュラスの魔力はすぐさま闇の帝王の感知領域に触れる。
その瞬間、この呪いについて何かしらの“気づき”が生まれる。
戦いは避けられない。
それも、すぐに。
風を受けながら歩くアランの横顔を見る。
彼女も気づいているのだろう。
杖を握る指が微かに震えている。
「……レギュラス、その腕……」
絞り出すような声。
「大丈夫ですよ。」
そう言いながらも、レギュラスは自分に嘘をついていると分かっていた。
この腕で、どこまで呪文を振るえるのか。
この手で、どこまで闇の帝王に抗えるのか。
――未知だった。
けれど、既に“答え”は胸の奥底にはあった。
自分は敗れる。
いや、むしろ敗れなければならない。
闇の帝王の足元には、必ずナギニがいる。
自分が倒れ、闇の帝王が勝利したと思い込んだその瞬間――
あの蛇の側には、剣を持ち、真実を知る者が立つはずだ。
自分が命をかけて導いた息子たち。
アルタイルやハリーたちが、あの蛇へと刃を向けてくれるはずだと信じて。
レギュラスは立ち止まり、夕空を見上げた。
血のように赤く染まる空。
沈みゆく太陽が、地平線の向こうで儚く揺れている。
まるで世界が、終わりを告げる前の静けさを纏っているかのようだった。
その夕空を眺めながら、胸がひどく軋んだ。
――アルタイルは気づいてくれただろうか。
書斎に残したメモの数々。
暗号のようなヒント、父として憎まれる覚悟のうえで残した指針。
全てをわざと、目立つように置いておいた。
あの子なら、必ず辿り着くだろうと信じていたから。
父が、どんな未来を選び取ったのか。
父が、何のために命を燃やしたのか。
父が、最後まで守ろうとしたものが――何だったのか。
それが、息子の胸に伝わってほしかった。
届いてほしかった。
愛しているという言葉を直接言わずとも、
導く背中で示すしかなかった不器用な父の祈りを、
どうか理解してほしいと願った。
アランが隣で息を呑んだ。
その横顔には、レギュラスの痛みをそのまま受け取るような、静かな涙が光っていた。
レギュラスはその手をそっと握る。
もうほとんど力の入らない手で。
「アラン……あと少しだけ。
僕に、あなたの隣で生きさせてください。」
声はかすれ、弱々しかった。
けれどその言葉は、この世界のどんな呪文よりも真っ直ぐで、
どんな誓いよりも深かった。
アランは、震える唇を噛みしめてうなずく。
その瞳は、レギュラスを抱きしめたい衝動と、迫りくる運命を理解した苦しみで曇っていた。
夕日が完全に沈む。
闇が迫る。
まるで、決戦の刻がすぐそこまで来ていると告げるように。
レギュラスは胸の奥で静かに呟いた。
――アルタイル、頼む。
父の願いを、刃として振るってくれ。
君ならできる。
君にしか、できない。
そして、父と母が命を尽くして守りたかった世界を、
どうか照らしてほしい。
祈りのようなその想いを胸に、
レギュラスはアランの手を握ったまま、ゆっくりと歩き出した。
闇を破るための、最後の一歩に向かって。
父の魔力が――感知された。
騎士団の感知網に映し出された地点は、
「リデルの森」と「沼地の境界」に広がる古い石造りの廃礼拝堂」だった。
神秘部で“魔力の死角”と呼ばれていた場所。
魔法使いが近づけば魔力が乱れ、呪文の反応も弱まるとされ、
闇の帝王側も騎士団側も、長らく調査を後回しにしていた区域だ。
そこに、レギュラスとアランの魔力が確かに残っていた。
まるで長い戦いの跡のような、残滓だけが薄く震えていた。
――生きているのか。
――それとももう……
不吉な静けさが胸を締めつけた。
アルタイルは震える手で、ハリーとシリウスの前に立った。
頬は蒼白で、声は震え、胸の奥からせり上がるものを必死に押し殺しているようだった。
テーブルに広げたのは、父が残した手帳と、闇の帝王の蛇――ナギニについての示唆。
そして、書斎に残されていた父と母が探し出したホークラックスの位置と、特徴の詳細な記録。
「父さんが……僕にこれを託したんです。」
声の端が痛いほど滲んだ。
喉が詰まり、言葉の出口が苦しげに揺れる。
「僕らは……闇の帝王の蛇を討たなきゃいけない。
あれが……ホークラックスだから。」
ハリーが息を呑む。
シリウスは目を細め、拳を強く握りしめた。
アルタイルは続ける。
涙で視界が滲んでも、言葉を止めるわけにはいかなかった。
「他にも……父さんと母さんがすり替えたホークラックスがあります。
それらは……グリフィンドールの剣でしか壊せないんです……!」
声が震えきって、最後は破れたように零れた。
沈黙。
胸に刺さるような重い沈黙が、テントの中を支配した。
ハリーがゆっくり近づき、肩に手を置いた。
その瞳には深い誇りと、痛みと、敬意が混じっていた。
「――よくやった、アルタイル。
君のおかげで……僕たちは突破口が掴めそうだ。」
その言葉に、アルタイルは耐えきれず大粒の涙をこぼした。
誇らしいのに。
こんなにも誇らしいのに。
胸が裂けそうだった。
父が選んだ道を理解している。
母がその隣に立ち続けた強さも。
彼らが正義のために命を投げ出す覚悟をしたことも。
息子である自分の未来を優先してくれたことも。
だからこそ――辛い。
「……父さんと、母さんを……どうか責めないでください。」
声が震え、唇がひきつる。
「二人は……間違いなく……誰よりも強い選択をした人なんです……。」
それだけ言って、アルタイルはその場に崩れ落ちた。
両手で顔を覆いながら、堰を切ったように涙を流す。
シリウスは息子を抱き寄せた。
祖父のように優しくでもあり、ずっと抱きしめたかった父そのものの抱擁でもあった。
「アルタイル……もういい。泣け。」
その一言で、アルタイルは胸の奥を掻きむしられるように泣いた。
そう遠くない未来――
自分の父を、誇り高い父を、誰より強い父を失うかもしれない。
そしてその終わりをもってしか、この世界の正義を貫くことができないという残酷さ。
その真実が、彼の心を無慈悲に叩きつけていた。
ハリーも、シリウスも、ただその涙を受け止めるしかなかった。
アルタイルが流す涙の重さこそ、
レギュラスとアランが命を賭して贈った未来そのものなのだから。
レギュラス・ブラックが息子に託した情報は、あまりに壮大だった。
まるで闇の帝王の心臓部に手を突っ込み、その奥底から秘密を引きずり出したかのような、途方もない真実の数々。
長年ヴォルデモートに仕え、誰よりも近い場所で闇を見続けた男だからこそ辿り着けた領域――
騎士団がどれほど足掻いても届かなかった場所を、レギュラスは踏破してみせた。
その事実だけは、認めなければならない。
感謝すべきだ。
どれほど屈辱的であっても、認めざるを得なかった。
だが。
胸の奥に広がっていくのは、感謝ではなく、どうしようもない
虚しさと切なさ
そして――
息が詰まるほどの 嫉妬 だった。
夜営のテントの中。
暖炉の火は小さく揺れ、影は静かに壁を這っていた。
その薄明かりの中で、シリウスは一人、拳を握りしめていた。
ハリーに示されたメモの内容。
アルタイルの涙。
レギュラスが命を賭して導こうとしている未来。
それだけなら、まだ耐えられる。
だが――
あの男の隣に、アランが立つ。
同じ死地を見つめ、同じ闇を歩く覚悟を決めている。
それが、シリウスには耐え難く苦しかった。
「……あいつの隣で、死ぬつもりなのか。」
喉の奥から漏れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
アラン。
あの少女だった彼女。
笑顔に光を宿し、湖畔で陽だまりのように笑った彼女。
シリウスが初めてもらった、“永遠”という感覚を与えてくれた人。
――いつから、こんなにも愛していたのだろう。
――どの時点でなら、諦める道があったのだろう。
今となっては、もう何も分からなかった。
気づいたときには、アラン・セシールはシリウス・ブラックにとって
人生そのものになっていた。
まともな未来を思い描く時は、いつも彼女がいた。
アルタイルを我が子として育て、暖炉の前で三人並んで笑っている。
そんな当たり前すぎる幸福が欲しかっただけなのに。
それは、あまりにも遠かった。
指の先に触れそうで、触れられない。
どれほど走っても追いつけない。
奪ったのはレギュラス。
彼が全てを攫っていった。
憎めばいい。
憎めば楽だ。
そう思ったのに――。
死の谷に消えていくレギュラスの背中を、
アランが静かに追いかけていく姿を、
どれだけ脳裏から払おうとしても消せなかった。
死をもってアランにとっての永遠になろうとしているレギュラスが、憎い。
どこまでも憎くて堪らない。
けれど。
「……憎しみの、向けどころがない……」
拳を握りしめても、壁を殴っても、胸の奥の痛みは消えなかった。
レギュラスを憎む資格が、自分にはなかった。
彼の妻に、今も彼女は寄り添い、共に闇に立っている。
レギュラスが守ろうとしているのはアランであり、アルタイルであり、魔法界そのものだ。
そして何より――
アルタイルを、こんなにも立派に育て上げたのはレギュラスだった。
その愛を、息子が泣きながら誇った。
それを見た瞬間、憎しみの刃はシリウス自身に向き直る。
「……俺は……何をしてきたんだ……」
声にならない声が漏れる。
虚しさが胸の奥に沈み、動けなくなるほど重く広がった。
愛した女は、もう手の届かない場所へ行ってしまった。
彼女を永遠にするのは――
自分ではなく、レギュラスブラックなのだ。
それが、どんな呪いよりも残酷だった。
闇の帝王は、とうとう気づいたのだ――
レギュラス・ブラックが、ホークラックスを模倣品とすり替えていっていることに。
その証拠は、あまりにも残酷な形で二人の身体に現れていた。
レギュラスの杖を握る利き手は、黒い煤のように変色し、
皮膚の奥を這う呪詛が、じわじわと死を刻むように広がっている。
アランの腕にも、同じように感覚の薄れが忍び寄っていた。
魂に触れた者への罰。
闇の帝王の怒りは、まだ見ぬ遠い場所からでも確実に二人を貫いていた。
これだけの反応が出ている以上、もはや自分たちの行動は筒抜けなのだ。
魔法界に戻った瞬間――
レギュラスは間違いなく、闇の帝王の討伐対象になる。
今の彼の手では、闇の帝王と互角に渡り合うなど到底できない。
すり替えられた分霊箱を見抜かれた時点で、
レギュラスの未来は、とうに死で定められていた。
それならば、自分にできることはただ一つ。
――せめて、彼とともに。
最期の瞬間まで、寄り添って在ること。
アランは、痛む胸を押さえるようにして、小さく目を閉じる。
残していくアルタイルの姿が浮かんだ。
あの子はこれからどれほど多くの未来を生きるのだろう。
父の真の姿も、父が抱いた葛藤も、
どれほど誇り高い生き方をしてきたのかも――
その全てを胸に刻んで生きてくれるだろうか。
アルタイルがシリウスの子である真実。
それを抱えながら、レギュラスは父として全てを捧げてくれた。
その愛の重さを、どうか忘れないでほしい。
次に浮かんだのは、リディアの笑顔。
産みの母カサンドラに対して、自分という存在があまりにも無神経だった過去。
正妻という立場を自分が奪ったがゆえに、
娘を孤立させてしまったこと。
それでも、あの陽だまりのような少女の母として
ほんのひととき寄り添えた事実は、アランの心を確かに満たしていた。
リディアには長く続く安定を、幸福を手にしてほしいと
心の底から願わずにはいられなかった。
そして――
かつて燃えるように愛したシリウス・ブラック。
激情にも似た若すぎる愛。
世界の中心が彼の笑顔だけで成り立つほどの恋。
あの恋が、アランの人生をどれほど鮮やかに彩ってくれたことか。
「……愛していました、確かに。」
胸の奥でそっと呟く。
幼く、世間知らずの少女でありながら、全霊で愛していた。
そしてその愛を貫けなかったこと。
アルタイルを実の父に抱かせられなかったこと。
その全てが、今は切ないほど悔やまれた。
アランが思索に沈んでいると、
レギュラスが利き手ではない方でそっと自分の手を握ってきた。
「……手に、力が入りませんね」とアランがかすれた声で言う。
「あなたの手を握れる力があれば、十分ですよ。」
レギュラスの声は弱っていたのに、
どこまでも優しく、揺るぎなく、真っ直ぐだった。
アランは微笑んだ。
その微笑みには、感謝と懺悔が幾重にも折り重なっている。
長い間向き合えなかった日々も、
彼が犠牲にしてきたものも、
自分へ注いだ愛のすべても。
――最後まで、彼に連れ添うことを誓える。
それこそがアランが最期に捧げられる、
もっとも深いところから湧き上がる愛情 なのだと分かっていた。
すり減った命の残り火が、
二人の指先の温もりだけでつながっているような夜だった。
たとえ明日、死が待っていようとも。
この瞬間だけは、確かに愛の中にいた。
魔法界へ戻るその瞬間、レギュラスの胸にあったのは恐れでも後悔でもなく――
ただ、アランの手の温かさだけだった。
戻る地として二人が選んだのは、
リデルの森と「沼地の境界」が交わる場所にぽつりと佇む、
古びた石造りの廃礼拝堂だった。
苔に覆われ、崩れ落ちた壁面はところどころ大きく欠け、
中に差し込む光はわずかな裂け目から落ちる灰色の光だけ。
祈りの声も、鐘の音も消え果て、
ただ「死」と「祈り」の残滓だけが静かに満ちている。
――自分の死に場所としては、ちょうどいいのかもしれない。
レギュラスはそっとアランの手を握った。
その温もりだけが、かろうじて現世につなぎ止めてくれる鎖のように思えた。
だが、次の瞬間、空気が変わった。
廃礼拝堂の奥、崩れた祭壇の向こうから
世界そのものを震わせるような重低音が、轟音となって押し寄せた。
闇が押し流れてくる。
風がざわつき、腐葉土が舞う。
あまりにも強い、あの男の魔力――
闇の帝王が来たのだ。
レギュラスは覚悟していた。
自分の魔力が戻ったと知られれば、闇の帝王がすぐに姿を現すだろう、と。
だがそれにしても早すぎる。
それはつまり、
ホークラックスへの接触を完全に悟られたということ。
だからこそ、闇の帝王は焦っている。
魂の器をすべて守りきれるか、確かめに来たのだ。
黒煙のように大気を裂いて降り立つその姿に、石の断片が跳ね飛んだ。
「――レギュラス・ブラック」
その声は、荒野の上を滑る冷たい刃のようだった。
「お前を探していたぞ」
嘲笑にも似た響き。
だがレギュラスは、もう跪かなかった。
黒く変色した利き手には、
もはやろくな呪文ひとつ出せない。
この手で敵うはずはない。
それでも少しでも――
アルタイルが到着するまでの時間稼ぎができれば、それでいい。
アランの手をそっと離し、レギュラスは一歩前に出た。
「……ええ、信頼をお寄せいただきながら、申し訳ありません」
あまりにも穏やかな声だった。
死を前にして、諦観ではなく静かな尊厳だけを抱いた声。
闇の帝王は、唇の端を吊り上げた。
「ふん……よほど死にたいらしいな。
俺様を――欺いたとでも思っているのか?」
その足元には、ナギニが佇んでいる。
闇の帝王と同じ闇色の魔力を滲ませながら、
赤い瞳をゆらり、ゆらりとこちらへ向けた。
――これでいい。
レギュラスの胸に安堵が満ちた。
この蛇こそが、分霊箱。
託した通り、誰かが――きっと息子が――
この蛇を討ちに来る。
その未来を信じた。
その時だった。
礼拝堂の壁の外から次々と魔力が近づいてくる。
砂塵が巻き、古い鐘楼が震えた。
光の呪文。闇払いの魔力。騎士団の合図。
そして――
「父さんッ!」
振り返った先にいたのは、
誇り高く成長したアルタイルだった。
黒い外套を翻し、瞳には恐れも迷いもなかった。
炎のように強く、まっすぐな眼差し。
レギュラスはその姿を見るだけで、不思議なほどの安堵に包まれた。
――強くなった。
――誇らしい。
心の奥底で、静かで深い愛情がひときわ強く熱を帯びた。
もう十分だ、とレギュラスは思った。
息子は、自分の背を越えて立っている。
そして今日、彼は――正義そのものになる。
二人の視線が交差した瞬間、
廃れた礼拝堂の空気が、ゆっくりと震えていた。
まるで何百年も祈り続けた石像が、
最期の瞬間に涙をこぼしたかのように。
アルタイルが――来てくれた。
その姿を見た瞬間、レギュラスの胸を満たしたのは驚愕でも焦りでもない。
ただ、深く、静かな安堵だった。
荒れ果てた廃礼拝堂の裂け目から差し込む光の中で、
凛と立つ息子の姿は、まるで遠い未来から来た“希望”そのもののようだった。
震えず、揺らがず、迷いを宿さない瞳。
そして、そのすぐ後ろに――
シリウスがいた。
黒髪を乱し、息を切らしながらも、
燃えるような眼差しでレギュラスとアランを見据えている。
守るべきもの全てを抱いて立つ男の顔をしていた。
レギュラスは思った。
――これからは、きっとシリウスがアルタイルを導いてくれるだろう。
それだけで、胸の奥がそっと緩んだ。
自分の役目は、もう終わりに近いのだと悟らせる温かい痛みだった。
アランはレギュラスの隣に立ちながら、
そっと懐から、死の谷で苦闘の末に見つけたホークラックスを取り出した。
黒ずんだ呪いの痕が残るその小さな器を、
アランはゆっくりとシリウスへと投げる。
その軌跡は、廃礼拝堂に差し込む光を反射してきらめき、
まるで「あとは頼んだ」と言っているかのようだった。
シリウスは受け取った瞬間、その意味を悟った。
驚愕と悲痛が表情をかすめ、すぐにキッと目を細める。
理解している――二人が命を賭して辿りついた答えを。
そしてそのすべてを、次代へ託そうとしていることを。
その一瞬の静寂を破るように、
ヴォルデモートが杖をゆっくりと、滑らかな動作でレギュラスに向けた。
「――終わりだ、レギュラス・ブラック」
冷酷な声が廃礼拝堂に響き渡る。
その刹那、アランは迷うことなくレギュラスの胸へ飛び込んだ。
彼の外套にしがみつき、
向けられた呪いが自分にも届くように、
その胸元へ必死に身を寄せる。
後ろから覆いかぶさるアランの腕は震えていない。
すべてを覚悟していた。
レギュラスが死を選ぶなら、自分もそこにいると――
共に果つることを恐れないと――
レギュラスは驚かなかった。
そっと利き手ではない方の手でアランの背を包み込む。
その触れ方が優しかった。
拒まれることも、止められることもない。
静かに、確かに――受け入れられた。
言葉ではなく触れ方で伝わった。
“あなたと共にありたい。それでいい” と。
その瞬間、アランの胸が熱く満たされた。
長い時間すれ違い、傷つけ合い、
それでもなお繋がっていた絆の全てが、
ここでひとつになったようだった。
レギュラスの胸に顔を押し当てたまま、
アランはその鼓動を聴いた。
――穏やかだ。
――あまりにも穏やかすぎる。
恐怖の気配はない。
死を前にした人間がこんなにも静かでいられるのかと思うほど、
レギュラスの心は静謐に満ちていた。
アラン自身にも、もう恐れはなかった。
彼の腕の中にいる――それだけで、
何もかもが赦され、満たされるようだった。
子どもたちはきっと理解してくれる。
父と母が何を守ろうとしたのか、
何を託そうとしたのか。
愛は、死で終わるものではない。
最期の瞬間に寄り添った温度こそが、
永遠に残るのだと信じている。
ヴォルデモートの杖先が光を帯びる。
石造りの礼拝堂の空気が張りつめ、
世界が静止したかのように凍りついた。
レギュラスとアランは、寄り添ったまま一度も離れなかった。
二つの心臓が、まるでひとつの音を奏でるように
静かに、ゆっくりと、同じリズムで打ち続けた。
その鼓動は――
最期の光だった。
アルタイルは震える指で、父の書斎に置かれていたホークラックスたち――
父と母が命を削ってすり替えてきたそれらを、ひとつずつグリフィンドールの剣で破壊した。
金属が闇を断ち切るたびに、胸の奥の何かが軋むように痛んだ。
けれど、迷いはなかった。
父が託したから。母が共に闇を暴いたから。
自分はその道を歩かなければならない。
そして、最後の一片――ナギニを討てという父のメッセージ。
アルタイルはそれを胸に抱きしめるように理解していた。
礼拝堂の廃墟。
闇の帝王の殺気が、石造りの空気そのものを重く変えている。
騎士団が陣形を整え、シリウスとリーマスが息を潜めて立つ。
ハリーはグリフィンドールの剣を手に、低く姿勢を沈めてナギニへと歩み寄った。
ヴォルデモートの杖が、迷いなく二人に向く。
アランはレギュラスに抱きついた。
その瞬間、死の呪文がアランの背を貫き、レギュラスの胸をそのまま貫通した。
アランの体から力が抜け、レギュラスの腕の中でゆっくりと崩れ落ちる。
レギュラスもまた、その場に膝をつきながらアランの体を抱いたまま倒れ、ついに動かなくなった。
レギュラスの杖が、手から滑り落ちて床を転がる。
誇り高い純血魔法使いの杖が、
主に寄り添うように転がり、そこで静かに止まった。
ハリーは振り返らない。
ナギニへ向けて、ただ一歩、また一歩と前に進む。
ヴォルデモートが悲鳴に近い叫びをあげた。
その瞬間、剣がナギニを切り裂き、蛇の体が崩れ落ちていく。
闇の帝王の顔に恐怖がはっきりと刻まれた。
ナギニ――最後から二つ目の魂の器が消えた。
アルタイルは泣き叫んだ。
目の前で、父と母が――
誰よりも強く、誰よりも優しかった二人が――
あまりにも簡単に、あまりにも理不尽に奪われた。
衝動が全身を突き抜け、
アルタイルはヴォルデモートへと向かっていこうとする。
だが背後から、強い腕が彼を抱きしめた。
「やめろ、アルタイル。
これを壊せば終わるんだ」
シリウスの声は震えていた。
父を失った息子を抱きしめるその腕は、
同時に愛した女を失った男の絶望も抱えていた。
アルタイルは涙で視界が滲む中、
それでも前を見た。
見ていなければ誓いを違えてしまう気がした。
ヴォルデモートは怒り狂い、騎士団へ呪文を乱射する。
リーマスは身を翻してかわし、
マクゴナガルは鋭い魔法障壁で受け止める。
キングズリーは正確な反撃を繰り出し、
礼拝堂の崩れかけた柱にひびが走っていく。
建物が軋み、崩れた天井の石材が
レギュラスとアランの身体に落ちてくる。
アルタイルは叫ぶ。
「やめて……やめてください……!
あの人たちを……これ以上傷つけないで……!」
杖を振るい、砕け落ちる瓦礫を粉々にする。
父と母の体に触れさせまいと、必死だった。
父は偉大な魔法使いだった。
母は光そのものだった。
死してなお、その体に傷がつくことが許せなかった。
ハリーはついに、
レギュラスがすり替えた「最後のホークラックス――黒曜石のゴブレット」を
剣の先で床へ叩きつける。
ヴォルデモートがこちらへ向けて呪文を放つが、
シリウスとキングズリーが同時に魔法を弾き返す。
騎士団が命を賭して守る中、
ハリーは渾身の力でゴブレットへ剣を振り下ろした。
深い闇が砕け、ひびが全体を走る。
黒い器は崩れ落ち、
内側から吹き出した闇の霧が空気に溶けて霧散していく。
ヴォルデモートの身体から力が抜け、
皮膚が崩れ落ちていくように朽ち始めた。
魂の器すべてを失った魔法使いの末路。
支えを失った巨塔が崩れるように、
闇の帝王はゆっくりと地面に沈んでいった。
その場に立ち尽くすアルタイルの視界に、
倒れ伏す父と母の姿が映り続ける。
二人が命で繋いだ最後の戦いが、
ようやく終わったのだと――
胸の奥で理解できた瞬間だった。
しかし理解は、痛みを和らげてはくれない。
これほど強く愛し、これほど強く誇った二人が
そこに横たわっているという現実だけが、
ただ容赦なくアルタイルの胸を締め付け続けた。
父と母が、世界を救ったのだ。
その事実だけが、唯一の救いだった。
礼拝堂の崩れた石の隙間から差す光が、瓦礫の白を淡く縁取っていた。
戦いが終わったことを、誰かが宣言したわけではない。
ただ、呪文の気配が途切れ、ヴォルデモートの存在がこの場から消えた瞬間、世界の重さが一段だけ軽くなった――それだけだった。
それでも、アルタイルの胸は軽くならない。
足元の石は冷たいのに、膝が崩れるほど熱いものが喉元に詰まり、息がうまくできなかった。
父と母が、そこにいる。
瓦礫の影に、二人は並ぶように倒れていた。
父の杖は少し離れたところで止まり、まるで持ち主の名をまだ呼び続けているみたいに見えた。
アルタイルは、ひとつずつ瓦礫を砕いた。
慎重に、丁寧に。
父の衣に触れる石を砕く時、躊躇いそうになる自分を怒鳴りつけた。
触れていいのか、壊していいのか、そんな迷いのために、二人をこれ以上傷つけさせるわけにはいかない。
最後の石が崩れ落ち、二人の姿がはっきりと現れたとき――
アルタイルは、そこで初めて「見てしまった」と思った。
父は、胸元で母を抱いたままだった。
最期の瞬間、アランが胸に飛び込んでいたような気がする。
けれど、いま目の前の姿は幻ではなかった。
父の腕の角度も、母の指先も、互いの身体の重なり方も、すべてが現実だった。
自分の中に、叫びが渦巻く。
どうして。
どうしてここまで。
どうして二人は――。
答えは、もう知っている。
いや、知っていたからこそ、泣けるのだ。
父の書斎で見つけたメモ。
写真立ての裏に隠された、短い言葉。
“蛇を討て”という、静かな命令。
“すり替えた器を壊せ”という、たったそれだけの指示の中に、父の人生のすべてが詰まっていた。
アルタイルは膝をつき、父の手に触れようとして、止めた。
黒く変色していた利き手。
最後まで闇の呪詛を抱えたまま、それでも杖を離さず、誰にも見せず、笑っていた手。
触れたら、その冷たさを知ってしまう。
知ってしまえば、もう戻れない気がした。
それでも、逃げられなかった。
アルタイルは震える息のまま、父と母を見下ろした。
涙は止まらない。
嗚咽も、喉の奥で潰れたままだ。
――父さん。母さん。
僕は、受け取るよ。
父が守ろうとしたものは何だったのか。
それは、正義の側に立てる自分の名誉でも、ブラック家の威光でもない。
父が最後まで守ろうとしたのは、もっと小さくて、もっと大きいものだった。
自分と、リディア。
次の世代が、闇の帝王に未来を奪われないこと。
そして、母がもう二度と鎖につながれないこと。
母の心が、恐怖で壊されないこと。
父はそのために、闇を知り尽くした。
闇の側に立ったまま、闇の最奥を暴き、光へ渡す橋を作った。
それはきっと、誰よりも孤独な役目だった。
誰にも理解されなくてもいい。
理解されない方が安全だと、父は分かっていた。
だから、直接言わない。
だから、メモで導く。
だから、息子に“見つけさせる”。
――僕は、どこまでもあなたの息子だった。
血のことが、頭をよぎる。
自分の中にはシリウスの血がある。
それは事実だ。
でも、父はそれを理由に、父であることをやめなかった。
自分が“父さん”と呼び続けるたびに、父はそれを受け取ってきた。
礼節でも情けでもなく、ただ、息子として。
アルタイルは両手で顔を覆った。
泣き方も分からないまま、ただ震えた。
こんな痛みは知らなかった。
父に怒りを向けられない。
父のやり方は残酷だったかもしれない。
でも、その残酷さの先に、守りたいものがあった。
その守りたいものの中に、自分がいたのだ。
それが、嬉しくて、苦しくて、怖かった。
――父さん。
あなたは最後まで、僕を守った。
だから僕も、あなたが守ろうとした未来を守る。
顔を上げると、少し離れた場所にシリウスが立っていた。
誰よりも強いはずの男が、ただ立っているだけだった。
杖を握る手が白くなるほど力が入っているのに、一歩も近づけない。
近づいたら、崩れてしまうと分かっているみたいだった。
シリウスの視線の先には、アランがいる。
いや、アラン“だった”人がいる。
その髪、その肌、その輪郭。
まるで眠っているようで、けれど、呼びかけても二度と返らない。
シリウスは、長い時間そこに目を落としたまま動かなかった。
アルタイルは、その背中を見て分かった。
この男は、今日この瞬間まで、ずっと彼女を愛していた。
自分の父であることに気づかず生きてきた年月よりも、
戦いに身を投じた時間よりも、
彼女を思い続ける時間の方が長かった。
そして、シリウスは今、見送らなければならない。
アランが選んだ道を。
レギュラス・ブラックと愛を貫くと決めた、その結末を。
アルタイルの胸が痛んだ。
シリウスは母の手を取ることもできない。
最後に“おかえり”と言うこともできない。
母は、父の胸の中で息を止めた。
それが、母の答えだった。
シリウスの唇が、かすかに動いた。
声になっていない。
けれど、アルタイルには分かった気がした。
「幸せなら、よかった」
そう言ったのだと思った。
――残酷だ。
この世で一番愛した人が、別の男の腕の中で穏やかに逝った。
それを肯定しなければならない。
否定したいのに、否定できない。
彼女が最期に選んだ温もりを、否定したら彼女を裏切るから。
シリウスは膝をつきそうになり、踏みとどまった。
その瞬間、アルタイルは思う。
父はこの光景さえ、覚悟していたのかもしれない、と。
自分が死んだあと、シリウスが息子を導くこと。
アランを失ったまま、それでも生きること。
その全部を含めて、父は道を残した。
だからこそ、アルタイルは立ち上がった。
泣きながらでもいい。
足が震えてもいい。
この戦いの後を生きていくのは、自分たちなのだから。
アルタイルは、父の杖を拾い上げた。
ひどく重い。
それは木と芯の重さではない。
父が背負ってきたものの重さだった。
胸に抱きしめる。
その瞬間、父がいたという事実が、少しだけ自分の中に落ちてくる。
――父さん。母さん。
僕は、忘れない。
あなたたちが最後まで守ろうとしたものを、僕は守る。
振り返ると、シリウスがまだそこにいた。
灰色の空気の中で、彼だけが取り残されたように見えた。
アルタイルはそっと近づき、声をかけようとして、言葉を失った。
何を言えばいい。
父として抱きしめてほしいのに、
母を奪った現実がそこにある。
慰めてほしいのに、慰める言葉が見つからない。
けれどシリウスは、アルタイルの目を見て、かすかに笑った。
泣いているのに、笑った。
「……立派になったな」
その一言だけで、アルタイルは崩れ落ちそうになった。
父を失い、母を失い、それでも誰かが“立派だ”と言ってくれる。
それは、父が最後に渡してくれた未来の続きだった。
アルタイルはシリウスの腕の中に、一度だけ身を預けた。
父の代わりではない。
母の代わりでもない。
ただ、これからの自分を導く人の腕だった。
礼拝堂の瓦礫の中で、アルタイルは最後にもう一度、二人を見る。
父の胸に抱かれた母。
その姿は残酷で、そして、あまりにも美しかった。
この世で一番欲しかった愛を、
母は最後に父の腕の中で受け取ったのだと、
アルタイルは痛いほど理解した。
だから、泣きながらも、受け止める。
父と母が守ろうとしたものを。
父と母が選んだ終わりを。
そして、そこから始まる自分の人生を。
――最終決戦は終わった。
けれど、彼らが命で繋いだ“次”の世界は、ここから始まるのだ。
アランとレギュラスは、老夫婦――トマスとマルタ――が時折足を運ぶという、マグルの小さな市場へ出かけた。
丘を下ると、石畳の先に、木の屋台がいくつも並んでいた。
焼きたてのパンの香ばしい匂い、紙袋の中で立ちのぼる湯気、
子どもたちのはしゃぐ声。
魔法界の市場とはまるで違う、生活の音がそこにはあった。
マグルたちは、誰も魔法など知らない。
杖もローブもない世界。
それなのに、こんなにも人々はよく笑い、よく生きていた。
アランは胸の奥にじんわりとした温かさを覚えた。
――シリウスと歩いたあの頃の世界だ。
けれど今、自分の隣にいるのはレギュラスだった。
まさか、この人と同じ景色を見ながら歩ける日が来るなんて。
そんな未来を想像したことすら、一度もなかった。
なのに今、彼と並んで歩いている。
夢のような、不思議な静けさが心に満ちていた。
レギュラスは、まだ感覚の残る方の腕をゆっくりと差し出した。
その手のひらに、アランは自分の手を重ねる。
指先から伝わる確かな温度。
冷たくなることを知らない炎のようだった。
長い間、彼の愛を鎖のように感じていた。
純血という血筋も、ブラックという名も。
全てが自分を縛るものだと思ってきた。
けれど今、繋がれたこの手の中には、鎖などどこにもなかった。
ただ――愛だけがあった。
それだけが、確かに存在していた。
「レギュラス、何か食べます?」
市場の角に並んだ屋台を指差しながら、アランが微笑んだアラン
「……食べ物が、よくわからないんですよね。」
少し困ったように言うレギュラスの声に、アランは小さく笑った。
確かに、アランの世界には奇妙な食べ物が多い。
見た目も味も、魔法界のそれとはまるで違う。
「大丈夫、私もよくわかってません。」
そう言って、アランは紙皿を二つ買った。
中には、焼きたての丸いパンに挟まれた肉と野菜――
香ばしい匂いが立ちのぼる。
「どうぞ、レギュラス。」
レギュラスは恐る恐るそれを手に取る。
そして一口、静かにかじった。
……眉がぴくりと動いた。
「これは……不思議な味ですね。」
「でしょう?」
アランが吹き出すように笑う。
「塩なのか、甘いのか、どちらかにしてほしい味です。」
真顔で言うレギュラスが可笑しくて、
アランは声を上げて笑った。
市場のざわめきの中で、久しく聞いたことのない自分の笑い声が響く。
レギュラスも、つられるように口元を緩めた。
その穏やかな笑顔を見て、胸の奥があたたかく満たされていく。
この人が笑うだけで、世界の色が変わる。
そんな錯覚さえ覚えた。
「……少し歩いたら、戻りましょうか。」
レギュラスの声が風に溶ける。
どこに、とは言わなかった。
言葉にせずとも、互いにわかっていた。
――自分たちは、もう一度、あの世界へ戻らなければならない。
――まだ、終えていない使命がある。
握り合った手が、少しだけ強くなった。
そのぬくもりはあまりにも優しくて、
離したくないと思った。
アランは歩きながら、ふと心の奥で呟いた。
――なぜ、もっと早くに、この手を取って生きる道を選べなかったのだろう。
こんなにも優しい手を、
どうしてあの時は拒んでしまったのだろう。
後悔は、静かに胸を締め付ける。
けれど、その痛みすらも、どこか愛おしかった。
なぜなら今、彼の手が確かに自分を包んでいるのだから。
街の明かりが夕陽に染まり、影が長く伸びる。
風が吹き抜け、屋台の旗を揺らした。
遠くで、鐘の音が一度だけ鳴る。
それはまるで、最後の穏やかな時間を知らせる合図のようだった。
アランは立ち止まり、レギュラスの横顔を見上げた。
風に揺れる黒髪。
灰色の瞳は、どこまでも静かで――
その奥に、決意の光が宿っていた。
この人となら、どんな運命の果ても恐くない。
この人と並んで歩ける今が、
どんな栄光よりも尊い。
二人は手を繋いだまま、
沈みゆく夕日の中をゆっくりと歩いていった。
まるで、永遠という言葉を確かめるかのように。
その光景は、
嵐の前の静けさ――
そして、最後の陽だまりだった。
闇の帝王は――きっともう気づいている。
レギュラスは、冷え切った自分の右手を見つめながら静かにそう悟った。
死の谷で触れてしまったホークラックスの呪い。
黒く変色し、指先の感覚すら曖昧になりつつある利き手。
そして、それはアランの腕にも及び始めている。
この呪いが作動したということは、ホークラックスへの接触が闇の帝王に伝わったということだ。
模倣品で誤魔化した。
だが、レギュラスは理解している。
――そんな浅い偽装が、あの男にいつまで通用するものか。
魔法界に戻れば、レギュラスの魔力はすぐさま闇の帝王の感知領域に触れる。
その瞬間、この呪いについて何かしらの“気づき”が生まれる。
戦いは避けられない。
それも、すぐに。
風を受けながら歩くアランの横顔を見る。
彼女も気づいているのだろう。
杖を握る指が微かに震えている。
「……レギュラス、その腕……」
絞り出すような声。
「大丈夫ですよ。」
そう言いながらも、レギュラスは自分に嘘をついていると分かっていた。
この腕で、どこまで呪文を振るえるのか。
この手で、どこまで闇の帝王に抗えるのか。
――未知だった。
けれど、既に“答え”は胸の奥底にはあった。
自分は敗れる。
いや、むしろ敗れなければならない。
闇の帝王の足元には、必ずナギニがいる。
自分が倒れ、闇の帝王が勝利したと思い込んだその瞬間――
あの蛇の側には、剣を持ち、真実を知る者が立つはずだ。
自分が命をかけて導いた息子たち。
アルタイルやハリーたちが、あの蛇へと刃を向けてくれるはずだと信じて。
レギュラスは立ち止まり、夕空を見上げた。
血のように赤く染まる空。
沈みゆく太陽が、地平線の向こうで儚く揺れている。
まるで世界が、終わりを告げる前の静けさを纏っているかのようだった。
その夕空を眺めながら、胸がひどく軋んだ。
――アルタイルは気づいてくれただろうか。
書斎に残したメモの数々。
暗号のようなヒント、父として憎まれる覚悟のうえで残した指針。
全てをわざと、目立つように置いておいた。
あの子なら、必ず辿り着くだろうと信じていたから。
父が、どんな未来を選び取ったのか。
父が、何のために命を燃やしたのか。
父が、最後まで守ろうとしたものが――何だったのか。
それが、息子の胸に伝わってほしかった。
届いてほしかった。
愛しているという言葉を直接言わずとも、
導く背中で示すしかなかった不器用な父の祈りを、
どうか理解してほしいと願った。
アランが隣で息を呑んだ。
その横顔には、レギュラスの痛みをそのまま受け取るような、静かな涙が光っていた。
レギュラスはその手をそっと握る。
もうほとんど力の入らない手で。
「アラン……あと少しだけ。
僕に、あなたの隣で生きさせてください。」
声はかすれ、弱々しかった。
けれどその言葉は、この世界のどんな呪文よりも真っ直ぐで、
どんな誓いよりも深かった。
アランは、震える唇を噛みしめてうなずく。
その瞳は、レギュラスを抱きしめたい衝動と、迫りくる運命を理解した苦しみで曇っていた。
夕日が完全に沈む。
闇が迫る。
まるで、決戦の刻がすぐそこまで来ていると告げるように。
レギュラスは胸の奥で静かに呟いた。
――アルタイル、頼む。
父の願いを、刃として振るってくれ。
君ならできる。
君にしか、できない。
そして、父と母が命を尽くして守りたかった世界を、
どうか照らしてほしい。
祈りのようなその想いを胸に、
レギュラスはアランの手を握ったまま、ゆっくりと歩き出した。
闇を破るための、最後の一歩に向かって。
父の魔力が――感知された。
騎士団の感知網に映し出された地点は、
「リデルの森」と「沼地の境界」に広がる古い石造りの廃礼拝堂」だった。
神秘部で“魔力の死角”と呼ばれていた場所。
魔法使いが近づけば魔力が乱れ、呪文の反応も弱まるとされ、
闇の帝王側も騎士団側も、長らく調査を後回しにしていた区域だ。
そこに、レギュラスとアランの魔力が確かに残っていた。
まるで長い戦いの跡のような、残滓だけが薄く震えていた。
――生きているのか。
――それとももう……
不吉な静けさが胸を締めつけた。
アルタイルは震える手で、ハリーとシリウスの前に立った。
頬は蒼白で、声は震え、胸の奥からせり上がるものを必死に押し殺しているようだった。
テーブルに広げたのは、父が残した手帳と、闇の帝王の蛇――ナギニについての示唆。
そして、書斎に残されていた父と母が探し出したホークラックスの位置と、特徴の詳細な記録。
「父さんが……僕にこれを託したんです。」
声の端が痛いほど滲んだ。
喉が詰まり、言葉の出口が苦しげに揺れる。
「僕らは……闇の帝王の蛇を討たなきゃいけない。
あれが……ホークラックスだから。」
ハリーが息を呑む。
シリウスは目を細め、拳を強く握りしめた。
アルタイルは続ける。
涙で視界が滲んでも、言葉を止めるわけにはいかなかった。
「他にも……父さんと母さんがすり替えたホークラックスがあります。
それらは……グリフィンドールの剣でしか壊せないんです……!」
声が震えきって、最後は破れたように零れた。
沈黙。
胸に刺さるような重い沈黙が、テントの中を支配した。
ハリーがゆっくり近づき、肩に手を置いた。
その瞳には深い誇りと、痛みと、敬意が混じっていた。
「――よくやった、アルタイル。
君のおかげで……僕たちは突破口が掴めそうだ。」
その言葉に、アルタイルは耐えきれず大粒の涙をこぼした。
誇らしいのに。
こんなにも誇らしいのに。
胸が裂けそうだった。
父が選んだ道を理解している。
母がその隣に立ち続けた強さも。
彼らが正義のために命を投げ出す覚悟をしたことも。
息子である自分の未来を優先してくれたことも。
だからこそ――辛い。
「……父さんと、母さんを……どうか責めないでください。」
声が震え、唇がひきつる。
「二人は……間違いなく……誰よりも強い選択をした人なんです……。」
それだけ言って、アルタイルはその場に崩れ落ちた。
両手で顔を覆いながら、堰を切ったように涙を流す。
シリウスは息子を抱き寄せた。
祖父のように優しくでもあり、ずっと抱きしめたかった父そのものの抱擁でもあった。
「アルタイル……もういい。泣け。」
その一言で、アルタイルは胸の奥を掻きむしられるように泣いた。
そう遠くない未来――
自分の父を、誇り高い父を、誰より強い父を失うかもしれない。
そしてその終わりをもってしか、この世界の正義を貫くことができないという残酷さ。
その真実が、彼の心を無慈悲に叩きつけていた。
ハリーも、シリウスも、ただその涙を受け止めるしかなかった。
アルタイルが流す涙の重さこそ、
レギュラスとアランが命を賭して贈った未来そのものなのだから。
レギュラス・ブラックが息子に託した情報は、あまりに壮大だった。
まるで闇の帝王の心臓部に手を突っ込み、その奥底から秘密を引きずり出したかのような、途方もない真実の数々。
長年ヴォルデモートに仕え、誰よりも近い場所で闇を見続けた男だからこそ辿り着けた領域――
騎士団がどれほど足掻いても届かなかった場所を、レギュラスは踏破してみせた。
その事実だけは、認めなければならない。
感謝すべきだ。
どれほど屈辱的であっても、認めざるを得なかった。
だが。
胸の奥に広がっていくのは、感謝ではなく、どうしようもない
虚しさと切なさ
そして――
息が詰まるほどの 嫉妬 だった。
夜営のテントの中。
暖炉の火は小さく揺れ、影は静かに壁を這っていた。
その薄明かりの中で、シリウスは一人、拳を握りしめていた。
ハリーに示されたメモの内容。
アルタイルの涙。
レギュラスが命を賭して導こうとしている未来。
それだけなら、まだ耐えられる。
だが――
あの男の隣に、アランが立つ。
同じ死地を見つめ、同じ闇を歩く覚悟を決めている。
それが、シリウスには耐え難く苦しかった。
「……あいつの隣で、死ぬつもりなのか。」
喉の奥から漏れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
アラン。
あの少女だった彼女。
笑顔に光を宿し、湖畔で陽だまりのように笑った彼女。
シリウスが初めてもらった、“永遠”という感覚を与えてくれた人。
――いつから、こんなにも愛していたのだろう。
――どの時点でなら、諦める道があったのだろう。
今となっては、もう何も分からなかった。
気づいたときには、アラン・セシールはシリウス・ブラックにとって
人生そのものになっていた。
まともな未来を思い描く時は、いつも彼女がいた。
アルタイルを我が子として育て、暖炉の前で三人並んで笑っている。
そんな当たり前すぎる幸福が欲しかっただけなのに。
それは、あまりにも遠かった。
指の先に触れそうで、触れられない。
どれほど走っても追いつけない。
奪ったのはレギュラス。
彼が全てを攫っていった。
憎めばいい。
憎めば楽だ。
そう思ったのに――。
死の谷に消えていくレギュラスの背中を、
アランが静かに追いかけていく姿を、
どれだけ脳裏から払おうとしても消せなかった。
死をもってアランにとっての永遠になろうとしているレギュラスが、憎い。
どこまでも憎くて堪らない。
けれど。
「……憎しみの、向けどころがない……」
拳を握りしめても、壁を殴っても、胸の奥の痛みは消えなかった。
レギュラスを憎む資格が、自分にはなかった。
彼の妻に、今も彼女は寄り添い、共に闇に立っている。
レギュラスが守ろうとしているのはアランであり、アルタイルであり、魔法界そのものだ。
そして何より――
アルタイルを、こんなにも立派に育て上げたのはレギュラスだった。
その愛を、息子が泣きながら誇った。
それを見た瞬間、憎しみの刃はシリウス自身に向き直る。
「……俺は……何をしてきたんだ……」
声にならない声が漏れる。
虚しさが胸の奥に沈み、動けなくなるほど重く広がった。
愛した女は、もう手の届かない場所へ行ってしまった。
彼女を永遠にするのは――
自分ではなく、レギュラスブラックなのだ。
それが、どんな呪いよりも残酷だった。
闇の帝王は、とうとう気づいたのだ――
レギュラス・ブラックが、ホークラックスを模倣品とすり替えていっていることに。
その証拠は、あまりにも残酷な形で二人の身体に現れていた。
レギュラスの杖を握る利き手は、黒い煤のように変色し、
皮膚の奥を這う呪詛が、じわじわと死を刻むように広がっている。
アランの腕にも、同じように感覚の薄れが忍び寄っていた。
魂に触れた者への罰。
闇の帝王の怒りは、まだ見ぬ遠い場所からでも確実に二人を貫いていた。
これだけの反応が出ている以上、もはや自分たちの行動は筒抜けなのだ。
魔法界に戻った瞬間――
レギュラスは間違いなく、闇の帝王の討伐対象になる。
今の彼の手では、闇の帝王と互角に渡り合うなど到底できない。
すり替えられた分霊箱を見抜かれた時点で、
レギュラスの未来は、とうに死で定められていた。
それならば、自分にできることはただ一つ。
――せめて、彼とともに。
最期の瞬間まで、寄り添って在ること。
アランは、痛む胸を押さえるようにして、小さく目を閉じる。
残していくアルタイルの姿が浮かんだ。
あの子はこれからどれほど多くの未来を生きるのだろう。
父の真の姿も、父が抱いた葛藤も、
どれほど誇り高い生き方をしてきたのかも――
その全てを胸に刻んで生きてくれるだろうか。
アルタイルがシリウスの子である真実。
それを抱えながら、レギュラスは父として全てを捧げてくれた。
その愛の重さを、どうか忘れないでほしい。
次に浮かんだのは、リディアの笑顔。
産みの母カサンドラに対して、自分という存在があまりにも無神経だった過去。
正妻という立場を自分が奪ったがゆえに、
娘を孤立させてしまったこと。
それでも、あの陽だまりのような少女の母として
ほんのひととき寄り添えた事実は、アランの心を確かに満たしていた。
リディアには長く続く安定を、幸福を手にしてほしいと
心の底から願わずにはいられなかった。
そして――
かつて燃えるように愛したシリウス・ブラック。
激情にも似た若すぎる愛。
世界の中心が彼の笑顔だけで成り立つほどの恋。
あの恋が、アランの人生をどれほど鮮やかに彩ってくれたことか。
「……愛していました、確かに。」
胸の奥でそっと呟く。
幼く、世間知らずの少女でありながら、全霊で愛していた。
そしてその愛を貫けなかったこと。
アルタイルを実の父に抱かせられなかったこと。
その全てが、今は切ないほど悔やまれた。
アランが思索に沈んでいると、
レギュラスが利き手ではない方でそっと自分の手を握ってきた。
「……手に、力が入りませんね」とアランがかすれた声で言う。
「あなたの手を握れる力があれば、十分ですよ。」
レギュラスの声は弱っていたのに、
どこまでも優しく、揺るぎなく、真っ直ぐだった。
アランは微笑んだ。
その微笑みには、感謝と懺悔が幾重にも折り重なっている。
長い間向き合えなかった日々も、
彼が犠牲にしてきたものも、
自分へ注いだ愛のすべても。
――最後まで、彼に連れ添うことを誓える。
それこそがアランが最期に捧げられる、
もっとも深いところから湧き上がる愛情 なのだと分かっていた。
すり減った命の残り火が、
二人の指先の温もりだけでつながっているような夜だった。
たとえ明日、死が待っていようとも。
この瞬間だけは、確かに愛の中にいた。
魔法界へ戻るその瞬間、レギュラスの胸にあったのは恐れでも後悔でもなく――
ただ、アランの手の温かさだけだった。
戻る地として二人が選んだのは、
リデルの森と「沼地の境界」が交わる場所にぽつりと佇む、
古びた石造りの廃礼拝堂だった。
苔に覆われ、崩れ落ちた壁面はところどころ大きく欠け、
中に差し込む光はわずかな裂け目から落ちる灰色の光だけ。
祈りの声も、鐘の音も消え果て、
ただ「死」と「祈り」の残滓だけが静かに満ちている。
――自分の死に場所としては、ちょうどいいのかもしれない。
レギュラスはそっとアランの手を握った。
その温もりだけが、かろうじて現世につなぎ止めてくれる鎖のように思えた。
だが、次の瞬間、空気が変わった。
廃礼拝堂の奥、崩れた祭壇の向こうから
世界そのものを震わせるような重低音が、轟音となって押し寄せた。
闇が押し流れてくる。
風がざわつき、腐葉土が舞う。
あまりにも強い、あの男の魔力――
闇の帝王が来たのだ。
レギュラスは覚悟していた。
自分の魔力が戻ったと知られれば、闇の帝王がすぐに姿を現すだろう、と。
だがそれにしても早すぎる。
それはつまり、
ホークラックスへの接触を完全に悟られたということ。
だからこそ、闇の帝王は焦っている。
魂の器をすべて守りきれるか、確かめに来たのだ。
黒煙のように大気を裂いて降り立つその姿に、石の断片が跳ね飛んだ。
「――レギュラス・ブラック」
その声は、荒野の上を滑る冷たい刃のようだった。
「お前を探していたぞ」
嘲笑にも似た響き。
だがレギュラスは、もう跪かなかった。
黒く変色した利き手には、
もはやろくな呪文ひとつ出せない。
この手で敵うはずはない。
それでも少しでも――
アルタイルが到着するまでの時間稼ぎができれば、それでいい。
アランの手をそっと離し、レギュラスは一歩前に出た。
「……ええ、信頼をお寄せいただきながら、申し訳ありません」
あまりにも穏やかな声だった。
死を前にして、諦観ではなく静かな尊厳だけを抱いた声。
闇の帝王は、唇の端を吊り上げた。
「ふん……よほど死にたいらしいな。
俺様を――欺いたとでも思っているのか?」
その足元には、ナギニが佇んでいる。
闇の帝王と同じ闇色の魔力を滲ませながら、
赤い瞳をゆらり、ゆらりとこちらへ向けた。
――これでいい。
レギュラスの胸に安堵が満ちた。
この蛇こそが、分霊箱。
託した通り、誰かが――きっと息子が――
この蛇を討ちに来る。
その未来を信じた。
その時だった。
礼拝堂の壁の外から次々と魔力が近づいてくる。
砂塵が巻き、古い鐘楼が震えた。
光の呪文。闇払いの魔力。騎士団の合図。
そして――
「父さんッ!」
振り返った先にいたのは、
誇り高く成長したアルタイルだった。
黒い外套を翻し、瞳には恐れも迷いもなかった。
炎のように強く、まっすぐな眼差し。
レギュラスはその姿を見るだけで、不思議なほどの安堵に包まれた。
――強くなった。
――誇らしい。
心の奥底で、静かで深い愛情がひときわ強く熱を帯びた。
もう十分だ、とレギュラスは思った。
息子は、自分の背を越えて立っている。
そして今日、彼は――正義そのものになる。
二人の視線が交差した瞬間、
廃れた礼拝堂の空気が、ゆっくりと震えていた。
まるで何百年も祈り続けた石像が、
最期の瞬間に涙をこぼしたかのように。
アルタイルが――来てくれた。
その姿を見た瞬間、レギュラスの胸を満たしたのは驚愕でも焦りでもない。
ただ、深く、静かな安堵だった。
荒れ果てた廃礼拝堂の裂け目から差し込む光の中で、
凛と立つ息子の姿は、まるで遠い未来から来た“希望”そのもののようだった。
震えず、揺らがず、迷いを宿さない瞳。
そして、そのすぐ後ろに――
シリウスがいた。
黒髪を乱し、息を切らしながらも、
燃えるような眼差しでレギュラスとアランを見据えている。
守るべきもの全てを抱いて立つ男の顔をしていた。
レギュラスは思った。
――これからは、きっとシリウスがアルタイルを導いてくれるだろう。
それだけで、胸の奥がそっと緩んだ。
自分の役目は、もう終わりに近いのだと悟らせる温かい痛みだった。
アランはレギュラスの隣に立ちながら、
そっと懐から、死の谷で苦闘の末に見つけたホークラックスを取り出した。
黒ずんだ呪いの痕が残るその小さな器を、
アランはゆっくりとシリウスへと投げる。
その軌跡は、廃礼拝堂に差し込む光を反射してきらめき、
まるで「あとは頼んだ」と言っているかのようだった。
シリウスは受け取った瞬間、その意味を悟った。
驚愕と悲痛が表情をかすめ、すぐにキッと目を細める。
理解している――二人が命を賭して辿りついた答えを。
そしてそのすべてを、次代へ託そうとしていることを。
その一瞬の静寂を破るように、
ヴォルデモートが杖をゆっくりと、滑らかな動作でレギュラスに向けた。
「――終わりだ、レギュラス・ブラック」
冷酷な声が廃礼拝堂に響き渡る。
その刹那、アランは迷うことなくレギュラスの胸へ飛び込んだ。
彼の外套にしがみつき、
向けられた呪いが自分にも届くように、
その胸元へ必死に身を寄せる。
後ろから覆いかぶさるアランの腕は震えていない。
すべてを覚悟していた。
レギュラスが死を選ぶなら、自分もそこにいると――
共に果つることを恐れないと――
レギュラスは驚かなかった。
そっと利き手ではない方の手でアランの背を包み込む。
その触れ方が優しかった。
拒まれることも、止められることもない。
静かに、確かに――受け入れられた。
言葉ではなく触れ方で伝わった。
“あなたと共にありたい。それでいい” と。
その瞬間、アランの胸が熱く満たされた。
長い時間すれ違い、傷つけ合い、
それでもなお繋がっていた絆の全てが、
ここでひとつになったようだった。
レギュラスの胸に顔を押し当てたまま、
アランはその鼓動を聴いた。
――穏やかだ。
――あまりにも穏やかすぎる。
恐怖の気配はない。
死を前にした人間がこんなにも静かでいられるのかと思うほど、
レギュラスの心は静謐に満ちていた。
アラン自身にも、もう恐れはなかった。
彼の腕の中にいる――それだけで、
何もかもが赦され、満たされるようだった。
子どもたちはきっと理解してくれる。
父と母が何を守ろうとしたのか、
何を託そうとしたのか。
愛は、死で終わるものではない。
最期の瞬間に寄り添った温度こそが、
永遠に残るのだと信じている。
ヴォルデモートの杖先が光を帯びる。
石造りの礼拝堂の空気が張りつめ、
世界が静止したかのように凍りついた。
レギュラスとアランは、寄り添ったまま一度も離れなかった。
二つの心臓が、まるでひとつの音を奏でるように
静かに、ゆっくりと、同じリズムで打ち続けた。
その鼓動は――
最期の光だった。
アルタイルは震える指で、父の書斎に置かれていたホークラックスたち――
父と母が命を削ってすり替えてきたそれらを、ひとつずつグリフィンドールの剣で破壊した。
金属が闇を断ち切るたびに、胸の奥の何かが軋むように痛んだ。
けれど、迷いはなかった。
父が託したから。母が共に闇を暴いたから。
自分はその道を歩かなければならない。
そして、最後の一片――ナギニを討てという父のメッセージ。
アルタイルはそれを胸に抱きしめるように理解していた。
礼拝堂の廃墟。
闇の帝王の殺気が、石造りの空気そのものを重く変えている。
騎士団が陣形を整え、シリウスとリーマスが息を潜めて立つ。
ハリーはグリフィンドールの剣を手に、低く姿勢を沈めてナギニへと歩み寄った。
ヴォルデモートの杖が、迷いなく二人に向く。
アランはレギュラスに抱きついた。
その瞬間、死の呪文がアランの背を貫き、レギュラスの胸をそのまま貫通した。
アランの体から力が抜け、レギュラスの腕の中でゆっくりと崩れ落ちる。
レギュラスもまた、その場に膝をつきながらアランの体を抱いたまま倒れ、ついに動かなくなった。
レギュラスの杖が、手から滑り落ちて床を転がる。
誇り高い純血魔法使いの杖が、
主に寄り添うように転がり、そこで静かに止まった。
ハリーは振り返らない。
ナギニへ向けて、ただ一歩、また一歩と前に進む。
ヴォルデモートが悲鳴に近い叫びをあげた。
その瞬間、剣がナギニを切り裂き、蛇の体が崩れ落ちていく。
闇の帝王の顔に恐怖がはっきりと刻まれた。
ナギニ――最後から二つ目の魂の器が消えた。
アルタイルは泣き叫んだ。
目の前で、父と母が――
誰よりも強く、誰よりも優しかった二人が――
あまりにも簡単に、あまりにも理不尽に奪われた。
衝動が全身を突き抜け、
アルタイルはヴォルデモートへと向かっていこうとする。
だが背後から、強い腕が彼を抱きしめた。
「やめろ、アルタイル。
これを壊せば終わるんだ」
シリウスの声は震えていた。
父を失った息子を抱きしめるその腕は、
同時に愛した女を失った男の絶望も抱えていた。
アルタイルは涙で視界が滲む中、
それでも前を見た。
見ていなければ誓いを違えてしまう気がした。
ヴォルデモートは怒り狂い、騎士団へ呪文を乱射する。
リーマスは身を翻してかわし、
マクゴナガルは鋭い魔法障壁で受け止める。
キングズリーは正確な反撃を繰り出し、
礼拝堂の崩れかけた柱にひびが走っていく。
建物が軋み、崩れた天井の石材が
レギュラスとアランの身体に落ちてくる。
アルタイルは叫ぶ。
「やめて……やめてください……!
あの人たちを……これ以上傷つけないで……!」
杖を振るい、砕け落ちる瓦礫を粉々にする。
父と母の体に触れさせまいと、必死だった。
父は偉大な魔法使いだった。
母は光そのものだった。
死してなお、その体に傷がつくことが許せなかった。
ハリーはついに、
レギュラスがすり替えた「最後のホークラックス――黒曜石のゴブレット」を
剣の先で床へ叩きつける。
ヴォルデモートがこちらへ向けて呪文を放つが、
シリウスとキングズリーが同時に魔法を弾き返す。
騎士団が命を賭して守る中、
ハリーは渾身の力でゴブレットへ剣を振り下ろした。
深い闇が砕け、ひびが全体を走る。
黒い器は崩れ落ち、
内側から吹き出した闇の霧が空気に溶けて霧散していく。
ヴォルデモートの身体から力が抜け、
皮膚が崩れ落ちていくように朽ち始めた。
魂の器すべてを失った魔法使いの末路。
支えを失った巨塔が崩れるように、
闇の帝王はゆっくりと地面に沈んでいった。
その場に立ち尽くすアルタイルの視界に、
倒れ伏す父と母の姿が映り続ける。
二人が命で繋いだ最後の戦いが、
ようやく終わったのだと――
胸の奥で理解できた瞬間だった。
しかし理解は、痛みを和らげてはくれない。
これほど強く愛し、これほど強く誇った二人が
そこに横たわっているという現実だけが、
ただ容赦なくアルタイルの胸を締め付け続けた。
父と母が、世界を救ったのだ。
その事実だけが、唯一の救いだった。
礼拝堂の崩れた石の隙間から差す光が、瓦礫の白を淡く縁取っていた。
戦いが終わったことを、誰かが宣言したわけではない。
ただ、呪文の気配が途切れ、ヴォルデモートの存在がこの場から消えた瞬間、世界の重さが一段だけ軽くなった――それだけだった。
それでも、アルタイルの胸は軽くならない。
足元の石は冷たいのに、膝が崩れるほど熱いものが喉元に詰まり、息がうまくできなかった。
父と母が、そこにいる。
瓦礫の影に、二人は並ぶように倒れていた。
父の杖は少し離れたところで止まり、まるで持ち主の名をまだ呼び続けているみたいに見えた。
アルタイルは、ひとつずつ瓦礫を砕いた。
慎重に、丁寧に。
父の衣に触れる石を砕く時、躊躇いそうになる自分を怒鳴りつけた。
触れていいのか、壊していいのか、そんな迷いのために、二人をこれ以上傷つけさせるわけにはいかない。
最後の石が崩れ落ち、二人の姿がはっきりと現れたとき――
アルタイルは、そこで初めて「見てしまった」と思った。
父は、胸元で母を抱いたままだった。
最期の瞬間、アランが胸に飛び込んでいたような気がする。
けれど、いま目の前の姿は幻ではなかった。
父の腕の角度も、母の指先も、互いの身体の重なり方も、すべてが現実だった。
自分の中に、叫びが渦巻く。
どうして。
どうしてここまで。
どうして二人は――。
答えは、もう知っている。
いや、知っていたからこそ、泣けるのだ。
父の書斎で見つけたメモ。
写真立ての裏に隠された、短い言葉。
“蛇を討て”という、静かな命令。
“すり替えた器を壊せ”という、たったそれだけの指示の中に、父の人生のすべてが詰まっていた。
アルタイルは膝をつき、父の手に触れようとして、止めた。
黒く変色していた利き手。
最後まで闇の呪詛を抱えたまま、それでも杖を離さず、誰にも見せず、笑っていた手。
触れたら、その冷たさを知ってしまう。
知ってしまえば、もう戻れない気がした。
それでも、逃げられなかった。
アルタイルは震える息のまま、父と母を見下ろした。
涙は止まらない。
嗚咽も、喉の奥で潰れたままだ。
――父さん。母さん。
僕は、受け取るよ。
父が守ろうとしたものは何だったのか。
それは、正義の側に立てる自分の名誉でも、ブラック家の威光でもない。
父が最後まで守ろうとしたのは、もっと小さくて、もっと大きいものだった。
自分と、リディア。
次の世代が、闇の帝王に未来を奪われないこと。
そして、母がもう二度と鎖につながれないこと。
母の心が、恐怖で壊されないこと。
父はそのために、闇を知り尽くした。
闇の側に立ったまま、闇の最奥を暴き、光へ渡す橋を作った。
それはきっと、誰よりも孤独な役目だった。
誰にも理解されなくてもいい。
理解されない方が安全だと、父は分かっていた。
だから、直接言わない。
だから、メモで導く。
だから、息子に“見つけさせる”。
――僕は、どこまでもあなたの息子だった。
血のことが、頭をよぎる。
自分の中にはシリウスの血がある。
それは事実だ。
でも、父はそれを理由に、父であることをやめなかった。
自分が“父さん”と呼び続けるたびに、父はそれを受け取ってきた。
礼節でも情けでもなく、ただ、息子として。
アルタイルは両手で顔を覆った。
泣き方も分からないまま、ただ震えた。
こんな痛みは知らなかった。
父に怒りを向けられない。
父のやり方は残酷だったかもしれない。
でも、その残酷さの先に、守りたいものがあった。
その守りたいものの中に、自分がいたのだ。
それが、嬉しくて、苦しくて、怖かった。
――父さん。
あなたは最後まで、僕を守った。
だから僕も、あなたが守ろうとした未来を守る。
顔を上げると、少し離れた場所にシリウスが立っていた。
誰よりも強いはずの男が、ただ立っているだけだった。
杖を握る手が白くなるほど力が入っているのに、一歩も近づけない。
近づいたら、崩れてしまうと分かっているみたいだった。
シリウスの視線の先には、アランがいる。
いや、アラン“だった”人がいる。
その髪、その肌、その輪郭。
まるで眠っているようで、けれど、呼びかけても二度と返らない。
シリウスは、長い時間そこに目を落としたまま動かなかった。
アルタイルは、その背中を見て分かった。
この男は、今日この瞬間まで、ずっと彼女を愛していた。
自分の父であることに気づかず生きてきた年月よりも、
戦いに身を投じた時間よりも、
彼女を思い続ける時間の方が長かった。
そして、シリウスは今、見送らなければならない。
アランが選んだ道を。
レギュラス・ブラックと愛を貫くと決めた、その結末を。
アルタイルの胸が痛んだ。
シリウスは母の手を取ることもできない。
最後に“おかえり”と言うこともできない。
母は、父の胸の中で息を止めた。
それが、母の答えだった。
シリウスの唇が、かすかに動いた。
声になっていない。
けれど、アルタイルには分かった気がした。
「幸せなら、よかった」
そう言ったのだと思った。
――残酷だ。
この世で一番愛した人が、別の男の腕の中で穏やかに逝った。
それを肯定しなければならない。
否定したいのに、否定できない。
彼女が最期に選んだ温もりを、否定したら彼女を裏切るから。
シリウスは膝をつきそうになり、踏みとどまった。
その瞬間、アルタイルは思う。
父はこの光景さえ、覚悟していたのかもしれない、と。
自分が死んだあと、シリウスが息子を導くこと。
アランを失ったまま、それでも生きること。
その全部を含めて、父は道を残した。
だからこそ、アルタイルは立ち上がった。
泣きながらでもいい。
足が震えてもいい。
この戦いの後を生きていくのは、自分たちなのだから。
アルタイルは、父の杖を拾い上げた。
ひどく重い。
それは木と芯の重さではない。
父が背負ってきたものの重さだった。
胸に抱きしめる。
その瞬間、父がいたという事実が、少しだけ自分の中に落ちてくる。
――父さん。母さん。
僕は、忘れない。
あなたたちが最後まで守ろうとしたものを、僕は守る。
振り返ると、シリウスがまだそこにいた。
灰色の空気の中で、彼だけが取り残されたように見えた。
アルタイルはそっと近づき、声をかけようとして、言葉を失った。
何を言えばいい。
父として抱きしめてほしいのに、
母を奪った現実がそこにある。
慰めてほしいのに、慰める言葉が見つからない。
けれどシリウスは、アルタイルの目を見て、かすかに笑った。
泣いているのに、笑った。
「……立派になったな」
その一言だけで、アルタイルは崩れ落ちそうになった。
父を失い、母を失い、それでも誰かが“立派だ”と言ってくれる。
それは、父が最後に渡してくれた未来の続きだった。
アルタイルはシリウスの腕の中に、一度だけ身を預けた。
父の代わりではない。
母の代わりでもない。
ただ、これからの自分を導く人の腕だった。
礼拝堂の瓦礫の中で、アルタイルは最後にもう一度、二人を見る。
父の胸に抱かれた母。
その姿は残酷で、そして、あまりにも美しかった。
この世で一番欲しかった愛を、
母は最後に父の腕の中で受け取ったのだと、
アルタイルは痛いほど理解した。
だから、泣きながらも、受け止める。
父と母が守ろうとしたものを。
父と母が選んだ終わりを。
そして、そこから始まる自分の人生を。
――最終決戦は終わった。
けれど、彼らが命で繋いだ“次”の世界は、ここから始まるのだ。
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