4章
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死の谷を抜けた先――そこは世界の境のような場所だった。
谷を覆う黒い瘴気も、マグルの世界に続く澄んだ空気も、ここでは入り混じって溶けあっている。
昼とも夜ともつかぬ曖昧な光の中、老夫婦は小さな石造りの家で静かに暮らしていた。
夫の名は トマス・エイブリー。
妻の名は マルタ・エイブリー。
この辺境の集落では、古くから「谷の番人」と呼ばれていた。
といっても何か特別な力があるわけではない。
ただ、死の谷に最も近いこの土地を離れずに生きる唯一のマグル夫婦として、
長年この境の静けさを守り続けているというだけのことだった。
この地に好き好んで来る者などいない。
訪れるのは、道に迷った旅人か、帰る場所を失った者か。
だからこそ、あの日――
家の前の小道に二人の人影が倒れているのを見つけた時、老夫婦は言葉を失った。
その姿はあまりにも異質だった。
ひどく傷ついているというのに、どこか神聖な光を纏っている。
月明かりに照らされた二人の顔は穏やかで、まるで深い夢の中にいるようだった。
「……人間かい、これは……」
トマスが掠れた声で呟く。
「ええ、人間よ。でも、きっと……普通じゃないわね。」
マルタがそっと手を伸ばし、男の外套に触れる。
滑らかな黒の布地、繊細な刺繍、そして胸元の紋章。
そのどれもが、かつて見たことのないほどに精巧で、
持ち主の“格”を物語っていた。
「魔法使い、かもしれんな……」
トマスが言う。
マルタは頷き、
それ以上詮索せずに男の腕を掴んだ。
信じられないほど軽い。だが、その右手――黒く変色し、まるで焼け焦げたようにひび割れている。
「……ああ、かわいそうに。」
夫婦は息を合わせて、二人を家の中へと運び込んだ。
古びた木の床が軋む音が静寂の中に響く。
暖炉にはまだ火がくすぶっていた。
マルタが急いで薪を足し、トマスは寝台を整える。
彼らは完全にマグルであり、魔法の知識など持ち合わせてはいない。
それでも、倒れた者を放っておくことなどできなかった。
男を寝かせ、次に女の方をそっと隣に。
彼女の顔は雪のように白く、まるで彫刻のように美しかった。
黒髪が枕に広がり、薄く開いた唇からは微かな息が漏れている。
その美しさに、老夫婦は思わず息をのんだ。
「なんてきれいな……」
マルタの声には、敬意と驚きが混ざっていた。
夜が明け、鳥の声が聞こえ始めた頃、
先に目を覚ましたのは男の方だった。
かすかに眉を寄せ、
瞼の下の銀灰色の瞳が薄明の光を捉える。
その瞳には、深い痛みと警戒が宿っていた。
「……ここは……」
声は掠れ、ほとんど息に近かった。
「倒れておられましたよ。」
マルタが、柔らかい声で答えた。
しばしの沈黙。
男の視線がゆっくりと周囲を巡る。
古びた木の壁、乾燥した薬草の香り、温かな毛布。
自分がまだ生きていることを、ようやく理解したようだった。
「……助けていただいたのですか。」
声には、静かな威厳があった。
「いやいや、わしらは何もしておらん。」
トマスは笑いながら手を振った。
「ここに運んできて、寝かせただけだよ。」
男――レギュラス・ブラックは、
かすかに瞼を伏せ、
その銀灰の瞳にわずかな安堵を宿した。
「ご厚意に……感謝いたします。」
その言葉の調子には、どこか遠い国の貴族のような響きがあった。
老夫婦は顔を見合わせ、
やはりただ者ではないと直感する。
「見たところ、魔法族のお偉いさんのようですね。」
マルタが言う。
「こんなものですが……お口に合えば。」
木のトレイに湯気の立つカップを乗せ、
そっと差し出す。
中にはハーブを煮出しただけの素朴な飲み物。
レギュラスはしばしそれを見つめ、
ゆっくりと受け取った。
カップの熱が、冷え切った指にじんわりと伝わってくる。
口に含むと、わずかに甘く、草の香りが広がった。
「……温かいですね」
小さく呟いたその声は、
どこか懐かしさを帯びていた。
マルタは微笑む。
「もう少し休みなさい。あの方も、まだ眠っておられますよ。」
視線の先――隣の寝台には、アランが静かに眠っている。
頬にはかすかな血色が戻り、
胸の上で手が穏やかに組まれている。
レギュラスはその姿を見つめ、
唇の端にほとんど分からぬほどの笑みを浮かべた。
その微笑みは、祈りのように儚かった。
「……すみません」
老夫婦には、その言葉が誰に向けられたのか分からなかった。
けれど、そこに込められた静かな感謝の気配だけは、
確かに伝わってきた。
暖炉の火がぱちぱちと音を立てる。
外の世界では冷たい風が唸りを上げていたが、
この小さな家の中だけは、奇跡のように穏やかだった。
まさか、自分がマグルの世話になる日が来るとは思わなかった。
レギュラス・ブラックは、簡素な木の椅子に腰を下ろしながら、
窓の外に広がる灰色の空を見上げていた。
この世でもっとも“ひ弱”で、“非力”な存在だと信じて疑わなかった人々。
魔法族の庇護のもとでしか生きられない、愚かで哀れな存在。
かつては、そう心の底から信じていた。
――その自分が、いま彼らに助けられている。
不思議なほど、嫌悪の感情は湧かなかった。
蔑みも、優越感も。
どこか、遠い記憶を見ているように、ただ静かだった。
むしろ、マグルに救われたこの命は、
「まだ果たしていない役目がある」と
誰かに突きつけられたような気がした。
暖炉の火がぱちぱちと音を立てる。
粗末な木のテーブルには、トマスとマルタが用意した素朴なスープ。
香草の香りがほのかに漂う。
湯気の向こうで、老夫婦が穏やかに笑っていた。
アランは依然として眠ったままだ。
頬にわずかな血色が戻ってはいるが、
まるで深い夢の底に沈んでいるようだった。
彼女の枕元には、マルタが摘んできた野の花が一輪。
それが部屋の中で唯一、色を放っていた。
レギュラスは右手に視線を落とす。
あの日からずっと、重たく、動きが鈍い。
黒く変色した部分は少しずつ薄れているが、
杖を握ると、鈍い痛みが腕に走る。
――試すしかない。
彼はそっと立ち上がり、杖を取った。
家の壁には、嵐の夜に崩れたという小さなひび割れがある。
その上に杖先を向け、低く呪文を唱えた。
「Reparo」
ひびが音もなく塞がっていく。
割れた花瓶の欠片が勝手に集まり、もとの形を取り戻した。
床の上に散らばっていた埃がふっと浮き上がり、
小さな風に乗って外へと消えていく。
その一部始終を、トマスとマルタは目を丸くして見ていた。
まるで子供が奇跡を目の当たりにした時のように、
純粋な驚きと喜びがその顔に浮かんでいた。
「おお……これは……! 魔法使いさんはさすがだなあ!」
トマスが手を叩く。
「大したことではありません。」
レギュラスは淡く微笑んだ。
「いやいや、やっぱり私らとは格が違うんですよ。
こんな芸当、夢の中でもできません。」
格。
その言葉が胸に静かに刺さった。
この身に流れる血の重さ。
ブラック家の誇り。
代々受け継がれてきた“純血”の証。
そのすべてを、自分は生きる支柱としていた。
他者を隔てる壁であり、己を支える鎧だった。
――けれど、死を覚悟したあの瞬間。
そんなものは、どうでもよく思えた。
この夫婦のように、
誰かと肩を並べ、笑い合い、
穏やかに歳を重ねていく未来。
それこそが、どれほど尊く、
どれほど価値あるものだったのだろうか。
アランと共に、そんな日々を歩めたなら――。
その想像が、胸の奥を痛いほど締め付けた。
彼はふと、礼のことを考えた。
命を救われ、宿を与えられ、看病まで受けた。
差し出せるものといえば、金しか思い浮かばなかった。
だが、魔法界の通貨とマグル界のそれはまったく異なる。
換金するには関所まで行かねばならず、
この辺境に暮らす老夫婦が
そんな場所まで行けるはずもない。
金が価値を持たないのなら、
何をもって感謝を示せばよいのか。
考えあぐねた末に、レギュラスは杖を握り直した。
――この家に、小さな奇跡を贈ろう。
彼は家の裏手に出て、
荒れた畑の土を指先で掬った。
黒ずみ、長く耕されていない土地。
そこに杖先を向け、静かに唱える。
「Herbivicus.」
淡い緑の光が広がり、
やせ細った土の中から若葉が芽吹く。
小さなつぼみが花開き、
やがてそれは一面の白いクローバーへと変わった。
次に、家の屋根を指し、
「Impervius」と唱える。
風雨を防ぐ透明な膜が生まれ、
嵐の日にもこの家を護るだろう。
さらに暖炉には、火を絶やさぬようにと
「Incendio Lento.」
ゆるやかに燃え続ける、穏やかな炎が宿った。
マルタがその様子を見て、
少女のように目を輝かせた。
「まあ……なんて、美しい……!」
彼女の瞳は澄んだ琥珀色。
アランの翡翠とはまったく違う色なのに、
その笑みの中に、なぜかアランの面影を見た。
レギュラスはふと、胸が熱くなるのを感じた。
人はこんなにも――違う存在であるはずなのに――
心の温かさは、こうして重なるものなのかと。
「あなたがたのおかげで、助かりました。」
レギュラスは静かに言った。
「どうか、この家がこれからも穏やかでありますように。」
その言葉に、トマスとマルタは深く頭を下げた。
まるで聖人の祝福を受けたかのように、
二人の頬には安らぎの笑みが浮かんでいた。
レギュラスは再び家の中に戻る。
アランはまだ眠っている。
けれど、その胸はかすかに上下し、
生きている――それだけで、胸が震えた。
「……もう少し、休むといい。」
囁く声は、暖炉の火とともにやわらかく揺らめき、
死の谷の余韻を溶かすように、
静かな夜へと消えていった。
目を覚ましたとき、最初に見えたのは、レギュラスだった。
薄明の光がカーテンの隙間から差し込み、
彼の横顔の輪郭を淡く縁取っている。
前髪が、少し伸びた気がした。
疲れが滲む顔。けれど、その瞳は穏やかで、確かに生きている――
そのことに気づいた瞬間、胸の奥から安堵の息がこぼれた。
生きている。
それだけでいい。
ただ、またこの人の姿を見られたことが、奇跡のように思えた。
「アラン、ここはマグルのご夫婦のご自宅です。
僕たちを、運んでくれたそうです。」
柔らかな声が、静寂を撫でるように響いた。
アランは瞬きをし、乾いた喉からかすれた声を絞り出す。
「まあ……」
その言葉を受けて、レギュラスの背後から老夫婦が現れた。
暖炉の光に照らされたその顔は皺だらけだったが、
微笑みに満ちていて、まるで世界の全てを赦すような優しさがあった。
「なんとまあ……目を開けた奥様は天女のようですわねぇ。」
マルタが手を合わせて言った。
天女――
どこか遠い異国の言葉。
薄れゆく意識の中で、アランはそれを懐かしい響きとして受け止めた。
東洋の古い伝承に語られる、美しき姫の名。
自分がそんな風に呼ばれる日が来るなんて。
それだけで、笑い出したくなるほど不思議だった。
自分は遠くまで来てしまった。
あの閉ざされた魔法界から、
こんなにも柔らかく光の降り注ぐ場所へ――。
けれど、それ以上に驚いたのは、レギュラスだった。
この状況を、自然に受け入れている。
マグルの家に身を置き、
マグルの手で癒やされ、
マグルの作る食卓に座っている。
かつてなら、想像すらできなかった光景だった。
マルタの話を聞くうちに、胸の奥がじんと熱くなった。
彼が自分の目覚めない間に、
どんなふうにこの夫婦を笑顔にしていたのか。
どんな表情で、杖を振り、
どんな声で言葉を交わしていたのか。
「ほら、この家の壁を直してくださってね、
屋根の雨漏りももう心配いらないのよ。
それに、この畑を見てごらんなさい。
昨日まで枯れ草だったのに、
今朝見たら一面のクローバーが咲いてたの!」
マルタが目を輝かせながら話す。
その瞳はまるで少女のようだった。
――ああ、この人は。
アランは思った。
レギュラスは、この老夫婦に“救われた”のだと。
誇りでも、血でもなく、
ただ人として。
無条件の善意に触れたことで、
ようやく彼の中にあった闇の角が丸く削がれていったのだ。
口に出して尋ねなくてもわかる。
彼がこの夫婦に抱く感情が、どんなものか。
それは敬意であり、感謝であり――
人として初めて見た“無垢な善”への、静かな畏怖。
アランはそっとシーツを押さえ、
寝台からゆっくりと身体を起こした。
まだ少し眩暈が残っている。
それでも、彼の横に立ちたかった。
「少し、魔法を使ってもいいかしら。」
レギュラスが振り返る。
その灰色の瞳には、止めるよりも、
静かな理解の光が宿っていた。
アランは杖を取り、そっと宙にかざした。
「Lumos Florea.」
柔らかな光が杖先からこぼれ、
その光がゆっくりと空中で形を変えていく。
小さな蝶たちが舞い、
淡い光を纏った花びらが室内を流れていく。
マルタが息をのんだ。
天井に映る花々の影が、
まるで春の庭を閉じ込めたかのように揺らめいている。
「まあ……なんて綺麗……」
アランはさらに呪文を重ねた。
「Aurum Pluvia.」
細かな金の光の粒が、
まるで雨のようにゆっくりと降り注ぐ。
触れた瞬間、ぬくもりと香りが広がり、
見る者の心を静かに包み込む。
「これは……涙を流す人の心が、少しでも軽くなるようにって……
昔、母が教えてくれた魔法なの。」
マルタの瞳が潤む。
「奥様みたいに、お綺麗ね……」
アランは小さく微笑んだ。
マルタの瞳がキラキラと輝いていて、
その純粋な光がまぶしくて仕方なかった。
――皮肉ね。
心の中で、静かに呟く。
初めてマグルの世界に足を踏み入れたあの日を思い出した。
シリウスが手を引き、
街の明かりや喧騒に胸を躍らせた少女時代。
あの時の自分もまた、
今のマルタのように、無垢な瞳で光を見つめていたのだ。
その世界に、今はレギュラスと共にいる。
もう二度と来ることはないだろうマグルの世界。
けれど――最後にここへ来られたことを、
そしてその隣に彼がいることを、
心の底から幸せだと思えた。
光の雨が静かに降り注ぐ。
老夫婦の笑い声と、
レギュラスの安堵の息が、
同じ空気の中に溶けていく。
アランはその光景を見ながら、
胸の奥でそっと呟いた。
――ありがとう。
この世界に、まだ“優しさ”が残っていてくれて。
レギュラス・ブラックとアラン・ブラックの消息が、
エリナ・ウェルズから騎士団へと伝えられた。
数週間、彼らの姿は屋敷から消えていた。
その報告がハリーを経由してアルタイルに届いたのは、
ちょうど黄昏がホグワーツの塔を赤く染めるころだった。
「……父が? 母が……いなくなった?」
耳にした瞬間、
アルタイルの喉の奥で何かが崩れたような音がした。
声が震え、指先が冷たくなる。
椅子から立ち上がるのがやっとだった。
それ以上に、報告者の名を聞いたとき、
胸の奥が締めつけられた。
医務魔女――エリナ・ウェルズ。
母に寄り添い、いつも優しい笑みを浮かべていた彼女。
その彼女が、騎士団の“報告者”だったのだ。
母の世話をするために屋敷にいたあの女が、
父を――母を――見張っていた。
それを思うと、
怒りよりも悲しみが先にこみ上げた。
動機は理解できる。
理屈も正しい。
父の動向を探るためには、
最も近くにいる母を見張るのが最も合理的だ。
――けれど。
心が、それを許せなかった。
どんな正義も、
母の優しさを利用して成り立っているのだと思うと、
吐き気がするほど胸が痛んだ。
ハリーのために力になりたいという気持ちに、嘘はない。
闇の思想が蔓延る世界を終わらせたい。
マグルやマグル生まれの者が、
ただ生まれの違いで苦しめられる世界は間違っている。
だが同時に、
自分たちの中に流れる“純血の魔法族”の血が、
何の価値もないものとして扱われる世界もまた――
恐ろしくてたまらなかった。
理想はひとつしかない。
どちらの血も否定しない世界。
ハリーのような者と、
自分のような者が、
互いの違いを受け入れ、
友として並び立てる世界。
だが、その理想は、
父と母を容赦なく貫く刃にもなりうる。
自分が信じる未来が、
彼らを滅ぼすことになるかもしれない。
――怖い。
息が詰まるほどに。
父と母は、いったい今どこにいるのだろうか。
無事でいてほしい。
ただそれだけを願った。
アルタイルは走った。
夜の帳が下りる前に、屋敷へと戻る。
何度も通った石畳の道を、
ひとつも見慣れた景色として感じられなかった。
扉を押し開けると、屋敷はひどく静まり返っていた。
執事も、召使いもいない。
時計の針の音だけが、無機質に響く。
父の書斎に足を踏み入れる。
あの夜と変わらぬ整頓された部屋。
机の上には、一冊の手帳が置かれていた。
――そんなもの、前にはなかった。
足が止まる。
胸の奥で鼓動が高鳴る。
まるで「見ろ」と言われているかのように。
震える手でその手帳を開く。
整った筆記体が、規則正しく並んでいた。
それは紛れもなく、父の字だった。
“蛇を見よ。闇の主のそばにあるもの。
それが彼の魂の一部である。”
アルタイルの目が見開かれる。
読み進めるほどに、心臓が痛いほど脈打っていく。
“その蛇を討てるものは杖にあらず。
剣のみが魂を断つ。”
――蛇。
闇の帝王のそばを離れない、あの蛇。
ナギニ。
防衛術の授業で学んだ呪文を組み合わせ、
父の文に隠された魔法の印を解いていく。
文字が淡く光り、最後に浮かび上がったのは、
父が導き出した“真実”だった。
“ナギニ、それがホークラックスである。”
唇が震える。
息が詰まる。
涙がこぼれた。
父は知っていた。
そして――息子に託していたのだ。
机の前に膝をつき、
両手で顔を覆った。
父は、一度この部屋に自分が侵入したことを知っていたのだ。
気づいていながら、
あえて見つけさせるように仕向けた。
これはもはや遺言に等しい。
息子よ、正義の剣を取り、
必要とあらば、父をも貫け――。
それが、この手帳の意味だった。
「……父さん……」
嗚咽が喉を突いた。
涙が次から次へとあふれ、
床に落ちる音がやけに響く。
彼は、やはり強い人だった。
あまりにも、偉大すぎた。
恐ろしいほどに。
越えたいと思いながら、
越えられるはずがないと悟らされるほどに。
机の上のランプの灯りが、
静かに瞬いた。
その光が手帳の上で揺れて、
まるでレギュラスの面影がそこにあるように見えた。
アルタイルは泣きながら、
父の名を呼んだ。
「……父さん……どうして……」
涙に濡れた頁が、
淡く魔力の光を放った。
その光が、まるで父の手のひらのように、
アルタイルの頬を優しく撫でていった。
そして彼は知った。
この導きが――父の愛の形なのだと。
アルタイルはふと、机の上の隅に置かれた家族写真に目を留めた。
銀縁の写真立て。
父レギュラス、母アラン、そして幼い自分と妹リディア。
穏やかに微笑むその四人の姿は、まるで時が止まったように柔らかく光っていた。
震える指先でそれを手に取る。
写真の中の父が、静かな笑みでこちらを見ている気がした。
あの灰色の瞳の奥に宿るものが、
今もなお、自分を導いているようでならなかった。
裏面に、何かが貼り付いているのに気づいた。
写真立ての台座の裏――
指で触れると、小さな折りたたまれたメモが隠されていた。
――まるで、これもまた父に見透かされていたようだ。
息を呑み、そっと開く。
整った筆跡。
滑らかに流れる筆記体の線。
見間違えるはずがない。
父の文字だった。
“おそらく、お前はこの写真を手に取るだろう。
家族を見つめた後で、真実を知りたくなるはずです。”
アルタイルの胸が、ぎゅっと締め付けられた。
面白いほどに、父は自分の行動を予想している。
手帳を読み、涙を流し――
最後に写真を見て、きっとまた手を伸ばすだろうと。
どこまでも、自分を理解していた人だ。
思想は違う。歩む道も違う。
けれど父は、
いつだって自分という人間の心の奥底まで見抜いていた。
“僕とアランは、闇の帝王のホークラックスの一部を突き止め、
すでにすり替えています。
偽物を残し、本物は封じています。
それらを討ちなさい。グリフィンドールの剣で。”
その言葉を読んだ瞬間、
アルタイルの喉が熱くなり、
涙が視界を滲ませた。
父と母が――あの二人が――
共に、あの闇の帝王の手を欺いたというのか。
騎士団の誰も見つけられなかったホークラックスを、
あの二人は突き止め、
命を懸けてそれをすり替えた。
闇の帝王に仕えるふりをしながら、
その忠誠を覆い隠して、
裏ではその存在を削ぐために動いていた。
まるで――
死と闇の狭間をすり抜けるように。
その姿を思い浮かべるだけで、胸が焼けるように痛んだ。
“グリフィンドールの剣を持つ者に託す。
剣は、真に勇気ある者の手に導かれる。
もしお前がそれを握るときが来たなら、
私たちの終わりを完成させてくれ。”
――終わりを、完成させてくれ。
その一文に、息が詰まる。
父は、自らの死を“終わり”とは呼ばなかった。
それを“完成”と呼んでいる。
生きることよりも、
世界を正すことを選んだのだ。
母を守りながら、闇を欺き、
息子に未来を託す。
それは、誰にも真似できない――
強さそのものだった。
アルタイルは震える手でメモを握り締め、
机に額を押し当てた。
涙がぽたり、ぽたりと木の表面に落ちる。
それでも止まらなかった。
あまりにも偉大すぎる。
あまりにも、遠すぎる。
この人を超えることなどできない。
けれど、必ず受け継がなければならない。
この命を、次の夜明けに繋げるために。
父が残した文字が、淡く光って見えた。
その光が、
書斎の静寂をゆっくりと照らしていく。
まるで、父の灰色の瞳が、
今もどこかで優しく見つめているようだった。
「父さん……母さん……」
嗚咽混じりに呟く。
その声は小さく、
けれど確かに、誓いの響きを宿していた。
“僕がやります。
あなたたちの願いを――必ず。”
窓の外では、夜明け前の風が
ブラック家の古い屋敷のカーテンを揺らしていた。
その風の向こうに、
父と母の声が、確かに微かに聞こえた気がした。
谷を覆う黒い瘴気も、マグルの世界に続く澄んだ空気も、ここでは入り混じって溶けあっている。
昼とも夜ともつかぬ曖昧な光の中、老夫婦は小さな石造りの家で静かに暮らしていた。
夫の名は トマス・エイブリー。
妻の名は マルタ・エイブリー。
この辺境の集落では、古くから「谷の番人」と呼ばれていた。
といっても何か特別な力があるわけではない。
ただ、死の谷に最も近いこの土地を離れずに生きる唯一のマグル夫婦として、
長年この境の静けさを守り続けているというだけのことだった。
この地に好き好んで来る者などいない。
訪れるのは、道に迷った旅人か、帰る場所を失った者か。
だからこそ、あの日――
家の前の小道に二人の人影が倒れているのを見つけた時、老夫婦は言葉を失った。
その姿はあまりにも異質だった。
ひどく傷ついているというのに、どこか神聖な光を纏っている。
月明かりに照らされた二人の顔は穏やかで、まるで深い夢の中にいるようだった。
「……人間かい、これは……」
トマスが掠れた声で呟く。
「ええ、人間よ。でも、きっと……普通じゃないわね。」
マルタがそっと手を伸ばし、男の外套に触れる。
滑らかな黒の布地、繊細な刺繍、そして胸元の紋章。
そのどれもが、かつて見たことのないほどに精巧で、
持ち主の“格”を物語っていた。
「魔法使い、かもしれんな……」
トマスが言う。
マルタは頷き、
それ以上詮索せずに男の腕を掴んだ。
信じられないほど軽い。だが、その右手――黒く変色し、まるで焼け焦げたようにひび割れている。
「……ああ、かわいそうに。」
夫婦は息を合わせて、二人を家の中へと運び込んだ。
古びた木の床が軋む音が静寂の中に響く。
暖炉にはまだ火がくすぶっていた。
マルタが急いで薪を足し、トマスは寝台を整える。
彼らは完全にマグルであり、魔法の知識など持ち合わせてはいない。
それでも、倒れた者を放っておくことなどできなかった。
男を寝かせ、次に女の方をそっと隣に。
彼女の顔は雪のように白く、まるで彫刻のように美しかった。
黒髪が枕に広がり、薄く開いた唇からは微かな息が漏れている。
その美しさに、老夫婦は思わず息をのんだ。
「なんてきれいな……」
マルタの声には、敬意と驚きが混ざっていた。
夜が明け、鳥の声が聞こえ始めた頃、
先に目を覚ましたのは男の方だった。
かすかに眉を寄せ、
瞼の下の銀灰色の瞳が薄明の光を捉える。
その瞳には、深い痛みと警戒が宿っていた。
「……ここは……」
声は掠れ、ほとんど息に近かった。
「倒れておられましたよ。」
マルタが、柔らかい声で答えた。
しばしの沈黙。
男の視線がゆっくりと周囲を巡る。
古びた木の壁、乾燥した薬草の香り、温かな毛布。
自分がまだ生きていることを、ようやく理解したようだった。
「……助けていただいたのですか。」
声には、静かな威厳があった。
「いやいや、わしらは何もしておらん。」
トマスは笑いながら手を振った。
「ここに運んできて、寝かせただけだよ。」
男――レギュラス・ブラックは、
かすかに瞼を伏せ、
その銀灰の瞳にわずかな安堵を宿した。
「ご厚意に……感謝いたします。」
その言葉の調子には、どこか遠い国の貴族のような響きがあった。
老夫婦は顔を見合わせ、
やはりただ者ではないと直感する。
「見たところ、魔法族のお偉いさんのようですね。」
マルタが言う。
「こんなものですが……お口に合えば。」
木のトレイに湯気の立つカップを乗せ、
そっと差し出す。
中にはハーブを煮出しただけの素朴な飲み物。
レギュラスはしばしそれを見つめ、
ゆっくりと受け取った。
カップの熱が、冷え切った指にじんわりと伝わってくる。
口に含むと、わずかに甘く、草の香りが広がった。
「……温かいですね」
小さく呟いたその声は、
どこか懐かしさを帯びていた。
マルタは微笑む。
「もう少し休みなさい。あの方も、まだ眠っておられますよ。」
視線の先――隣の寝台には、アランが静かに眠っている。
頬にはかすかな血色が戻り、
胸の上で手が穏やかに組まれている。
レギュラスはその姿を見つめ、
唇の端にほとんど分からぬほどの笑みを浮かべた。
その微笑みは、祈りのように儚かった。
「……すみません」
老夫婦には、その言葉が誰に向けられたのか分からなかった。
けれど、そこに込められた静かな感謝の気配だけは、
確かに伝わってきた。
暖炉の火がぱちぱちと音を立てる。
外の世界では冷たい風が唸りを上げていたが、
この小さな家の中だけは、奇跡のように穏やかだった。
まさか、自分がマグルの世話になる日が来るとは思わなかった。
レギュラス・ブラックは、簡素な木の椅子に腰を下ろしながら、
窓の外に広がる灰色の空を見上げていた。
この世でもっとも“ひ弱”で、“非力”な存在だと信じて疑わなかった人々。
魔法族の庇護のもとでしか生きられない、愚かで哀れな存在。
かつては、そう心の底から信じていた。
――その自分が、いま彼らに助けられている。
不思議なほど、嫌悪の感情は湧かなかった。
蔑みも、優越感も。
どこか、遠い記憶を見ているように、ただ静かだった。
むしろ、マグルに救われたこの命は、
「まだ果たしていない役目がある」と
誰かに突きつけられたような気がした。
暖炉の火がぱちぱちと音を立てる。
粗末な木のテーブルには、トマスとマルタが用意した素朴なスープ。
香草の香りがほのかに漂う。
湯気の向こうで、老夫婦が穏やかに笑っていた。
アランは依然として眠ったままだ。
頬にわずかな血色が戻ってはいるが、
まるで深い夢の底に沈んでいるようだった。
彼女の枕元には、マルタが摘んできた野の花が一輪。
それが部屋の中で唯一、色を放っていた。
レギュラスは右手に視線を落とす。
あの日からずっと、重たく、動きが鈍い。
黒く変色した部分は少しずつ薄れているが、
杖を握ると、鈍い痛みが腕に走る。
――試すしかない。
彼はそっと立ち上がり、杖を取った。
家の壁には、嵐の夜に崩れたという小さなひび割れがある。
その上に杖先を向け、低く呪文を唱えた。
「Reparo」
ひびが音もなく塞がっていく。
割れた花瓶の欠片が勝手に集まり、もとの形を取り戻した。
床の上に散らばっていた埃がふっと浮き上がり、
小さな風に乗って外へと消えていく。
その一部始終を、トマスとマルタは目を丸くして見ていた。
まるで子供が奇跡を目の当たりにした時のように、
純粋な驚きと喜びがその顔に浮かんでいた。
「おお……これは……! 魔法使いさんはさすがだなあ!」
トマスが手を叩く。
「大したことではありません。」
レギュラスは淡く微笑んだ。
「いやいや、やっぱり私らとは格が違うんですよ。
こんな芸当、夢の中でもできません。」
格。
その言葉が胸に静かに刺さった。
この身に流れる血の重さ。
ブラック家の誇り。
代々受け継がれてきた“純血”の証。
そのすべてを、自分は生きる支柱としていた。
他者を隔てる壁であり、己を支える鎧だった。
――けれど、死を覚悟したあの瞬間。
そんなものは、どうでもよく思えた。
この夫婦のように、
誰かと肩を並べ、笑い合い、
穏やかに歳を重ねていく未来。
それこそが、どれほど尊く、
どれほど価値あるものだったのだろうか。
アランと共に、そんな日々を歩めたなら――。
その想像が、胸の奥を痛いほど締め付けた。
彼はふと、礼のことを考えた。
命を救われ、宿を与えられ、看病まで受けた。
差し出せるものといえば、金しか思い浮かばなかった。
だが、魔法界の通貨とマグル界のそれはまったく異なる。
換金するには関所まで行かねばならず、
この辺境に暮らす老夫婦が
そんな場所まで行けるはずもない。
金が価値を持たないのなら、
何をもって感謝を示せばよいのか。
考えあぐねた末に、レギュラスは杖を握り直した。
――この家に、小さな奇跡を贈ろう。
彼は家の裏手に出て、
荒れた畑の土を指先で掬った。
黒ずみ、長く耕されていない土地。
そこに杖先を向け、静かに唱える。
「Herbivicus.」
淡い緑の光が広がり、
やせ細った土の中から若葉が芽吹く。
小さなつぼみが花開き、
やがてそれは一面の白いクローバーへと変わった。
次に、家の屋根を指し、
「Impervius」と唱える。
風雨を防ぐ透明な膜が生まれ、
嵐の日にもこの家を護るだろう。
さらに暖炉には、火を絶やさぬようにと
「Incendio Lento.」
ゆるやかに燃え続ける、穏やかな炎が宿った。
マルタがその様子を見て、
少女のように目を輝かせた。
「まあ……なんて、美しい……!」
彼女の瞳は澄んだ琥珀色。
アランの翡翠とはまったく違う色なのに、
その笑みの中に、なぜかアランの面影を見た。
レギュラスはふと、胸が熱くなるのを感じた。
人はこんなにも――違う存在であるはずなのに――
心の温かさは、こうして重なるものなのかと。
「あなたがたのおかげで、助かりました。」
レギュラスは静かに言った。
「どうか、この家がこれからも穏やかでありますように。」
その言葉に、トマスとマルタは深く頭を下げた。
まるで聖人の祝福を受けたかのように、
二人の頬には安らぎの笑みが浮かんでいた。
レギュラスは再び家の中に戻る。
アランはまだ眠っている。
けれど、その胸はかすかに上下し、
生きている――それだけで、胸が震えた。
「……もう少し、休むといい。」
囁く声は、暖炉の火とともにやわらかく揺らめき、
死の谷の余韻を溶かすように、
静かな夜へと消えていった。
目を覚ましたとき、最初に見えたのは、レギュラスだった。
薄明の光がカーテンの隙間から差し込み、
彼の横顔の輪郭を淡く縁取っている。
前髪が、少し伸びた気がした。
疲れが滲む顔。けれど、その瞳は穏やかで、確かに生きている――
そのことに気づいた瞬間、胸の奥から安堵の息がこぼれた。
生きている。
それだけでいい。
ただ、またこの人の姿を見られたことが、奇跡のように思えた。
「アラン、ここはマグルのご夫婦のご自宅です。
僕たちを、運んでくれたそうです。」
柔らかな声が、静寂を撫でるように響いた。
アランは瞬きをし、乾いた喉からかすれた声を絞り出す。
「まあ……」
その言葉を受けて、レギュラスの背後から老夫婦が現れた。
暖炉の光に照らされたその顔は皺だらけだったが、
微笑みに満ちていて、まるで世界の全てを赦すような優しさがあった。
「なんとまあ……目を開けた奥様は天女のようですわねぇ。」
マルタが手を合わせて言った。
天女――
どこか遠い異国の言葉。
薄れゆく意識の中で、アランはそれを懐かしい響きとして受け止めた。
東洋の古い伝承に語られる、美しき姫の名。
自分がそんな風に呼ばれる日が来るなんて。
それだけで、笑い出したくなるほど不思議だった。
自分は遠くまで来てしまった。
あの閉ざされた魔法界から、
こんなにも柔らかく光の降り注ぐ場所へ――。
けれど、それ以上に驚いたのは、レギュラスだった。
この状況を、自然に受け入れている。
マグルの家に身を置き、
マグルの手で癒やされ、
マグルの作る食卓に座っている。
かつてなら、想像すらできなかった光景だった。
マルタの話を聞くうちに、胸の奥がじんと熱くなった。
彼が自分の目覚めない間に、
どんなふうにこの夫婦を笑顔にしていたのか。
どんな表情で、杖を振り、
どんな声で言葉を交わしていたのか。
「ほら、この家の壁を直してくださってね、
屋根の雨漏りももう心配いらないのよ。
それに、この畑を見てごらんなさい。
昨日まで枯れ草だったのに、
今朝見たら一面のクローバーが咲いてたの!」
マルタが目を輝かせながら話す。
その瞳はまるで少女のようだった。
――ああ、この人は。
アランは思った。
レギュラスは、この老夫婦に“救われた”のだと。
誇りでも、血でもなく、
ただ人として。
無条件の善意に触れたことで、
ようやく彼の中にあった闇の角が丸く削がれていったのだ。
口に出して尋ねなくてもわかる。
彼がこの夫婦に抱く感情が、どんなものか。
それは敬意であり、感謝であり――
人として初めて見た“無垢な善”への、静かな畏怖。
アランはそっとシーツを押さえ、
寝台からゆっくりと身体を起こした。
まだ少し眩暈が残っている。
それでも、彼の横に立ちたかった。
「少し、魔法を使ってもいいかしら。」
レギュラスが振り返る。
その灰色の瞳には、止めるよりも、
静かな理解の光が宿っていた。
アランは杖を取り、そっと宙にかざした。
「Lumos Florea.」
柔らかな光が杖先からこぼれ、
その光がゆっくりと空中で形を変えていく。
小さな蝶たちが舞い、
淡い光を纏った花びらが室内を流れていく。
マルタが息をのんだ。
天井に映る花々の影が、
まるで春の庭を閉じ込めたかのように揺らめいている。
「まあ……なんて綺麗……」
アランはさらに呪文を重ねた。
「Aurum Pluvia.」
細かな金の光の粒が、
まるで雨のようにゆっくりと降り注ぐ。
触れた瞬間、ぬくもりと香りが広がり、
見る者の心を静かに包み込む。
「これは……涙を流す人の心が、少しでも軽くなるようにって……
昔、母が教えてくれた魔法なの。」
マルタの瞳が潤む。
「奥様みたいに、お綺麗ね……」
アランは小さく微笑んだ。
マルタの瞳がキラキラと輝いていて、
その純粋な光がまぶしくて仕方なかった。
――皮肉ね。
心の中で、静かに呟く。
初めてマグルの世界に足を踏み入れたあの日を思い出した。
シリウスが手を引き、
街の明かりや喧騒に胸を躍らせた少女時代。
あの時の自分もまた、
今のマルタのように、無垢な瞳で光を見つめていたのだ。
その世界に、今はレギュラスと共にいる。
もう二度と来ることはないだろうマグルの世界。
けれど――最後にここへ来られたことを、
そしてその隣に彼がいることを、
心の底から幸せだと思えた。
光の雨が静かに降り注ぐ。
老夫婦の笑い声と、
レギュラスの安堵の息が、
同じ空気の中に溶けていく。
アランはその光景を見ながら、
胸の奥でそっと呟いた。
――ありがとう。
この世界に、まだ“優しさ”が残っていてくれて。
レギュラス・ブラックとアラン・ブラックの消息が、
エリナ・ウェルズから騎士団へと伝えられた。
数週間、彼らの姿は屋敷から消えていた。
その報告がハリーを経由してアルタイルに届いたのは、
ちょうど黄昏がホグワーツの塔を赤く染めるころだった。
「……父が? 母が……いなくなった?」
耳にした瞬間、
アルタイルの喉の奥で何かが崩れたような音がした。
声が震え、指先が冷たくなる。
椅子から立ち上がるのがやっとだった。
それ以上に、報告者の名を聞いたとき、
胸の奥が締めつけられた。
医務魔女――エリナ・ウェルズ。
母に寄り添い、いつも優しい笑みを浮かべていた彼女。
その彼女が、騎士団の“報告者”だったのだ。
母の世話をするために屋敷にいたあの女が、
父を――母を――見張っていた。
それを思うと、
怒りよりも悲しみが先にこみ上げた。
動機は理解できる。
理屈も正しい。
父の動向を探るためには、
最も近くにいる母を見張るのが最も合理的だ。
――けれど。
心が、それを許せなかった。
どんな正義も、
母の優しさを利用して成り立っているのだと思うと、
吐き気がするほど胸が痛んだ。
ハリーのために力になりたいという気持ちに、嘘はない。
闇の思想が蔓延る世界を終わらせたい。
マグルやマグル生まれの者が、
ただ生まれの違いで苦しめられる世界は間違っている。
だが同時に、
自分たちの中に流れる“純血の魔法族”の血が、
何の価値もないものとして扱われる世界もまた――
恐ろしくてたまらなかった。
理想はひとつしかない。
どちらの血も否定しない世界。
ハリーのような者と、
自分のような者が、
互いの違いを受け入れ、
友として並び立てる世界。
だが、その理想は、
父と母を容赦なく貫く刃にもなりうる。
自分が信じる未来が、
彼らを滅ぼすことになるかもしれない。
――怖い。
息が詰まるほどに。
父と母は、いったい今どこにいるのだろうか。
無事でいてほしい。
ただそれだけを願った。
アルタイルは走った。
夜の帳が下りる前に、屋敷へと戻る。
何度も通った石畳の道を、
ひとつも見慣れた景色として感じられなかった。
扉を押し開けると、屋敷はひどく静まり返っていた。
執事も、召使いもいない。
時計の針の音だけが、無機質に響く。
父の書斎に足を踏み入れる。
あの夜と変わらぬ整頓された部屋。
机の上には、一冊の手帳が置かれていた。
――そんなもの、前にはなかった。
足が止まる。
胸の奥で鼓動が高鳴る。
まるで「見ろ」と言われているかのように。
震える手でその手帳を開く。
整った筆記体が、規則正しく並んでいた。
それは紛れもなく、父の字だった。
“蛇を見よ。闇の主のそばにあるもの。
それが彼の魂の一部である。”
アルタイルの目が見開かれる。
読み進めるほどに、心臓が痛いほど脈打っていく。
“その蛇を討てるものは杖にあらず。
剣のみが魂を断つ。”
――蛇。
闇の帝王のそばを離れない、あの蛇。
ナギニ。
防衛術の授業で学んだ呪文を組み合わせ、
父の文に隠された魔法の印を解いていく。
文字が淡く光り、最後に浮かび上がったのは、
父が導き出した“真実”だった。
“ナギニ、それがホークラックスである。”
唇が震える。
息が詰まる。
涙がこぼれた。
父は知っていた。
そして――息子に託していたのだ。
机の前に膝をつき、
両手で顔を覆った。
父は、一度この部屋に自分が侵入したことを知っていたのだ。
気づいていながら、
あえて見つけさせるように仕向けた。
これはもはや遺言に等しい。
息子よ、正義の剣を取り、
必要とあらば、父をも貫け――。
それが、この手帳の意味だった。
「……父さん……」
嗚咽が喉を突いた。
涙が次から次へとあふれ、
床に落ちる音がやけに響く。
彼は、やはり強い人だった。
あまりにも、偉大すぎた。
恐ろしいほどに。
越えたいと思いながら、
越えられるはずがないと悟らされるほどに。
机の上のランプの灯りが、
静かに瞬いた。
その光が手帳の上で揺れて、
まるでレギュラスの面影がそこにあるように見えた。
アルタイルは泣きながら、
父の名を呼んだ。
「……父さん……どうして……」
涙に濡れた頁が、
淡く魔力の光を放った。
その光が、まるで父の手のひらのように、
アルタイルの頬を優しく撫でていった。
そして彼は知った。
この導きが――父の愛の形なのだと。
アルタイルはふと、机の上の隅に置かれた家族写真に目を留めた。
銀縁の写真立て。
父レギュラス、母アラン、そして幼い自分と妹リディア。
穏やかに微笑むその四人の姿は、まるで時が止まったように柔らかく光っていた。
震える指先でそれを手に取る。
写真の中の父が、静かな笑みでこちらを見ている気がした。
あの灰色の瞳の奥に宿るものが、
今もなお、自分を導いているようでならなかった。
裏面に、何かが貼り付いているのに気づいた。
写真立ての台座の裏――
指で触れると、小さな折りたたまれたメモが隠されていた。
――まるで、これもまた父に見透かされていたようだ。
息を呑み、そっと開く。
整った筆跡。
滑らかに流れる筆記体の線。
見間違えるはずがない。
父の文字だった。
“おそらく、お前はこの写真を手に取るだろう。
家族を見つめた後で、真実を知りたくなるはずです。”
アルタイルの胸が、ぎゅっと締め付けられた。
面白いほどに、父は自分の行動を予想している。
手帳を読み、涙を流し――
最後に写真を見て、きっとまた手を伸ばすだろうと。
どこまでも、自分を理解していた人だ。
思想は違う。歩む道も違う。
けれど父は、
いつだって自分という人間の心の奥底まで見抜いていた。
“僕とアランは、闇の帝王のホークラックスの一部を突き止め、
すでにすり替えています。
偽物を残し、本物は封じています。
それらを討ちなさい。グリフィンドールの剣で。”
その言葉を読んだ瞬間、
アルタイルの喉が熱くなり、
涙が視界を滲ませた。
父と母が――あの二人が――
共に、あの闇の帝王の手を欺いたというのか。
騎士団の誰も見つけられなかったホークラックスを、
あの二人は突き止め、
命を懸けてそれをすり替えた。
闇の帝王に仕えるふりをしながら、
その忠誠を覆い隠して、
裏ではその存在を削ぐために動いていた。
まるで――
死と闇の狭間をすり抜けるように。
その姿を思い浮かべるだけで、胸が焼けるように痛んだ。
“グリフィンドールの剣を持つ者に託す。
剣は、真に勇気ある者の手に導かれる。
もしお前がそれを握るときが来たなら、
私たちの終わりを完成させてくれ。”
――終わりを、完成させてくれ。
その一文に、息が詰まる。
父は、自らの死を“終わり”とは呼ばなかった。
それを“完成”と呼んでいる。
生きることよりも、
世界を正すことを選んだのだ。
母を守りながら、闇を欺き、
息子に未来を託す。
それは、誰にも真似できない――
強さそのものだった。
アルタイルは震える手でメモを握り締め、
机に額を押し当てた。
涙がぽたり、ぽたりと木の表面に落ちる。
それでも止まらなかった。
あまりにも偉大すぎる。
あまりにも、遠すぎる。
この人を超えることなどできない。
けれど、必ず受け継がなければならない。
この命を、次の夜明けに繋げるために。
父が残した文字が、淡く光って見えた。
その光が、
書斎の静寂をゆっくりと照らしていく。
まるで、父の灰色の瞳が、
今もどこかで優しく見つめているようだった。
「父さん……母さん……」
嗚咽混じりに呟く。
その声は小さく、
けれど確かに、誓いの響きを宿していた。
“僕がやります。
あなたたちの願いを――必ず。”
窓の外では、夜明け前の風が
ブラック家の古い屋敷のカーテンを揺らしていた。
その風の向こうに、
父と母の声が、確かに微かに聞こえた気がした。
