4章
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黒雲が垂れ込め、光の一片も射さぬ谷だった。
地の底から這い出すような呻きが、風に乗って響く。
ここは“死の谷”――かつて幾千もの魔法使いたちが命を落とした、魂の吹き溜まり。
古の戦で断たれた命が未だに安らげず、虚空を漂い続けている。
その怨嗟が大地を呑み、空気を歪ませる。
レギュラス・ブラックは、アランを伴ってその地に足を踏み入れていた。
彼の感知装置――闇の帝王の魔力を探知するコンパスが、狂おしいほど震えている。
針が、谷の奥へ奥へと吸い込まれるように向かっていた。
「……やはり、ここですか。」
低く呟いた声が、風にかき消される。
アランは肩をすくめ、顔を覆うようにローブの裾を引き上げた。
霧のような瘴気が肌を刺し、呼吸するたび胸の奥が冷たく痛む。
「結界は私が張りましょう。」
静かな声だったが、その響きの中には確固たる決意があった。
「ええ、お願いします。」
レギュラスは短く頷く。
彼女の魔力は、爆発的な攻撃呪文には向かない。
けれど、護りと祈りの呪文において、アランの右に出る者はいない。
その繊細な魔力の糸が、大気の裂け目を縫うように広がり、
二人の周囲に淡い光の膜を形づくっていった。
一瞬、霧が晴れる。
だが、すぐにまた風が吹き荒れ、砂が舞い上がった。
目も開けていられないほどの風圧が二人を襲う。
「……っ!」
アランが杖を強く握りしめる。
その手が、細かく震えていた。
長時間にわたって張り続ける結界は、
体力と魔力を容赦なく削っていく。
アランの頬は血の気を失い、唇は淡く色をなくしていた。
レギュラスは迷わず一歩近づき、
彼女の杖を持つ手に、自らの手を重ねた。
その瞬間、結界が低く鳴った。
ふたつの魔力が共鳴し、光の膜が強く、厚く輝きを増す。
荒れ狂う風の中で、レギュラスの魔力がアランの魔力に絡み合い、
まるでふたりの鼓動がひとつになるようだった。
「……あなたの魔力が加わると、結界が息をしてるみたい。」
アランの声はかすかに震えていたが、
そこには確かな安堵が滲んでいた。
レギュラスは彼女の横顔を見た。
その瞳には怯えも絶望もない。
ただ、自分と共にこの地に立つという確かな意志だけが宿っていた。
「足を引っ張ってますね……」
アランが俯いたまま、申し訳なさそうに言う。
レギュラスは小さく首を振り、
その言葉を静かに打ち消すように囁いた。
「あなたがいるから、立ててるんですよ。」
その声は、風の轟音の中でもはっきりと届いた。
アランは顔を上げた。
灰色の瞳が、ほんの一瞬だけ柔らかく微笑んだ気がした。
それだけで、レギュラスの胸に込み上げるものがあった。
どれほどの闇を歩こうと、
彼女が傍にいてくれる限り、自分は沈まない――そう確信できた。
だが、死の谷は容赦しない。
足元からは呻き声のような風が吹き上げ、
闇の帝王の残した魔力が、空間そのものを歪ませている。
まるでこの場所そのものが、生者の侵入を拒んでいるかのようだった。
それでもレギュラスは一歩、また一歩と足を進める。
闇の底に、確かに“それ”がある。
かつて誰かが魂を裂いて封じた、
“人ならざるもの”が眠る気配を感じながら――。
二人の姿は、吹き荒ぶ砂嵐の中にかき消えていった。
結界の光だけが、淡く揺れながら、
死の谷の底に小さな希望の灯のように瞬いていた。
死の谷を吹き抜ける風は、まるで生き物のように蠢き、彼らの肌を容赦なく裂いていった。
その奥深く――もはや“地”と呼ぶにはあまりにも歪み、滅びを湛えた世界。岩は溶けかけた蠟のようにねじれ、地層の隙間からは白煙が立ち上り、かすかに呻くような音を立てていた。それは地中に囚われ、長き年月を経てもなお解かれぬ魂の嘆きのようにも聞こえた。
「……あと少しです、アラン。」
レギュラスの声は風に攫われ、形を失いながらもアランの耳に届く。その手の中で、黒鉄のコンパスが狂ったように針を回し続けていた。針は震えながら、一つの方向を指し示す。その先に、まるで“生きている何か”が呼吸しているかのように。
アランは唇を結び、潤んだ瞳の奥でかすかな恐れと決意を揺らした。
「……この先に。」
彼女の声は震えながらも確かに、夜気に溶けた。
二人は互いのローブを握り合い、一歩ずつ闇を裂くように進む。足を踏み出すたび、地は低く呻き、無数の亀裂が赤い光を滲ませた。黒い霧が足首にまとわりつき、囁きを送ってくる。人の心を狂わせると伝えられるその霧の中で、結界の淡い光が辛うじて二人の意識を守っていた。
やがて、闇の底に淡い光が浮かび上がった。
冷たく、どこか美しすぎる光――それは聖なるものではなく、怨嗟を冷却したような、静かに人の魂を侵す輝きだった。
「レギュラス……見て。」
アランが指差す先。風に削られた石の台座の上に、黒曜石の小箱が鎮座していた。
まるで呼吸をしているかのように箱の表面が脈動し、その隙間から滲み出る闇が、谷の空気そのものを歪ませている。光が歪み、音が遠のく。世界の輪郭が、崩れ落ちていく。
「……きっとホークラックスです。」
レギュラスの声は微かに震えた。ひとつの言葉の中に、恐れと決意、そして罪の意識が滲んでいた。
箱の表面に刻まれた古代文字が、青黒い光を帯びて浮かび上がる。
――統べる者、裂けし魂。
それは、この地の呪いそのものを象徴する銘文だった。
レギュラスが一歩踏み出そうとした瞬間、アランが咄嗟にその腕を掴んだ。
「触れては駄目です。」
その声は掠れていたが、確かな力を宿していた。
彼女はその箱を見つめながら、微かに唇を噛む。あれに触れた者は、魂を抜かれ、意識の底から塵となる。
レギュラスは静かに息を整え、杖を手に取った。
彼の唇から、古の呪文が低く紡がれる。
「Replicatio Obscura(レプリカ・オブスクラ)。」
杖先から淡い光が放たれ、空気が波打つように震えた。黒曜石の箱の形が少しずつ空中に描かれ、幻の箱が、まるで本物のような重々しい気配を纏って現れた。
偽りの鼓動が、静かに始まる。
「これを置き、本物をすり替える。」
レギュラスの声は低く、刃のように鋭い。
アランは頷き、両の手をすぼめながら己の魔力を編み上げる。繊細な光糸が箱を包み、ふわりと浮かせる。
その瞬間、足下の大地が唸り、谷の奥から叫びが響いた。黒い霧が渦を巻き、無数の影がうごめく。
「来ます!」
アランの叫びと共に、亡霊たちが姿を成した。
灰白の衣を裂きながら、かつて戦場で息絶えた魔法使いたちの亡骸――彼らの魂が、怒りと痛みのままに結界を叩きつけた。
「持ちこたえてください!」
レギュラスは叫び、アランを腕の中へ引き寄せる。
「だいじょうぶ……まだ!」
アランの声は必死に震え、結界の膜がきしみ、ひび割れる。
レギュラスは彼女の杖に自らの手を重ね、己の魔力を流し込む。
二つの魔力が絡み合い、夜空を焼く閃光が谷を照らした。亡霊たちが悲鳴を上げ、形を失う一瞬――その隙を、レギュラスは逃さなかった。
本物のホークラックスを封印袋に滑り込ませ、幻の箱を静かに台座に置く。
「……すり替え、完了です。」
呟いた刹那、谷の空気が変わった。
嘆きが静まり、風が遠のき、霧が薄れていく。
まるで、この谷が彼らを“見逃す”ことを選んだかのようだった。
レギュラスはアランの肩を抱くようにして歩き出した。
足場は崩れ、背後ではなお幻の鼓動が続く。
谷の荒れ狂う風が背を押し、冷たい灰を舞い上げた。
出口の光が見えたとき、彼はゆっくりと振り返る。
黒曜石の偽物の箱が、なお息をするように脈動し、谷の奥に沈んでいる。
まるで嘘と真実の境界を、永遠に見守るかのように。
「やっと、また一つ……辿り着けましたね。」
アランの声はかすれていたが、その中には確かな誇りと安堵があった。
レギュラスは疲れた笑みを浮かべ、その肩に手を置く。
「ええ。でも、まだ終わりじゃない。」
その時、谷の奥から声が響いた。
言葉にならぬ声――無数の魂のざわめきが、風に混じって彼らに囁く。
――見つけたのなら、背負って行け。
二人は振り返らずに歩き出す。
手を強く握りしめ、長い闇の中を進んでいく。
その先に待つものがどれほどの代償を要求するのか、まだ知る者はいなかった。
ただ、彼らの背中を撫でる風は、どこか優しく――まるで、誰かの祈りのように静かだった。
死の谷を抜ける風は、もはや風と呼べるものではなかった。
それは、耳鳴りのように響く亡者たちの声であり、
息を吸い込むたびに胸の奥を焼くような瘴気そのものだった。
ホークラックスをすり替えた直後から、
レギュラス・ブラックは自分の右手に異変を感じていた。
杖を握る指が――重い。
まるで誰かの見えない手に掴まれているように、動かない。
魔力の流れが滞っていくのがはっきりと分かる。
“これはまずい。”
内心でそう呟くが、顔には一切出さなかった。
アランの前で弱みを見せたくなかった。
彼女に余計な心配をさせたくなかった。
「……行きましょう。」
そう言って、レギュラスはアランの手を引く。
強く、指が白くなるほどに。
まるで、その温もりだけを確かめようとするかのように。
足元は崩れかけた岩、
頭上では霧が蠢き、
一歩ごとに魂の呻きが背後から追いかけてくる。
アランの張る結界の光が、徐々に薄くなっていた。
最初は眩しいほどに輝いていたはずのその光が、
いまや頼りない灯のように揺らめいている。
「アラン、代わりましょう。」
レギュラスの声は冷静だったが、その奥に焦りが滲んでいた。
「レギュラス、平気です。」
アランの返事は短く、息がかすれている。
「消耗してほしくないんです。」
彼女は首を振る。
汗がこめかみを伝い、震える唇がかすかに動いた。
「あなたが……ここまで導いてきたんですもの。
最後まで、私にやらせてください。」
その声に抗えなかった。
結界の光が彼女の手元でかすかに脈打つ。
しかし、その杖の先から漏れる光は――痛いほど儚かった。
レギュラスは無意識に、彼女の杖を握る手を見た。
震えている。
まるで彼女の指先に、見えない氷が這っているようだった。
おそらく自分と同じ現象だ。
この谷に漂う怨念の瘴気が、
生きた魔法使いの“魔力そのもの”を奪っていっている。
“このままでは、持たない。”
そう理解しながらも、レギュラスは歩みを止めなかった。
彼の視線はただ、前へと向いていた。
――生きて出ること。
それだけを考える。
だが、胸の奥では別の感情が渦巻いていた。
アランが放つ光の中で、彼女の横顔を盗み見る。
疲労の色が濃く滲んでいる。
それでも、彼女は美しかった。
思えば、レギュラス・ブラックの人生は、
彼女を想い続けた時間の連なりだった。
彼女に向けて放った言葉も、怒りも、執着も、
そのすべてが“愛”の変形だった。
だがその愛の大半は、いつだって一方通行だった。
シリウスと引き離した時。
アルタイルを自分の子として育てると誓った時。
確かに勝利したつもりでいた。
けれど、本当はわかっていた。
――アランの心は、常に別の男の方を向いていた。
息子の血の奥には、シリウス・ブラックの魂が眠っている。
それでもよかった。
その現実を受け入れてなお、
彼女が自分の隣にいてくれることだけで、
レギュラスは呼吸を繋げた。
“愛されたかどうか”ではない。
“許された”ことが、何よりの救いだった。
いま、こうして彼女と共に死の谷を歩く。
それだけで、
自分の人生に意味があったように思えた。
「レギュラス……」
アランが呼んだ。
その声にはかすかな不安が混じっていた。
「ええ、ここにいます。」
彼は微笑み、彼女の手を強く握った。
けれど、右手の感覚がもう半分以上ない。
握っているはずの杖が、鉛のように重い。
魔力の流れが、静かに途切れていく。
構わない。
この命の灯を全部、
彼女を守るために使い切れるなら、それでいい。
足元の岩が崩れる。
瘴気が波のように押し寄せる。
結界の膜がきしみ、亀裂が走る。
アランが最後の力を振り絞って杖を掲げた。
その手も、もうきっと限界に近い。
レギュラスは彼女の肩を抱き寄せ、
己の杖を左手で構えた。
本来なら右手でなければ発動しないほど精密な魔術を、
左手で無理やり編み上げる。
稲妻のような光が二人を包んだ。
亡霊たちの影が、悲鳴を上げて散る。
その一瞬の静寂の中、レギュラスは目を閉じた。
――どうか、この命の果てまで。
この人と、共にいられますように。
そう祈りながら、
彼はアランの手を引き、
崩れかけた谷の出口を目指して歩き続けた。
灰色の空の下、
彼の右手はすでに冷たく、
それでも確かに、彼女の手を離さなかった。
谷の出口は、まるで蜃気楼のように目の前に揺らめいていた。
そこに辿り着いただけで、すべてを果たしたはずだった。
けれど、足はもう一歩を刻むことすらできなかった。膝の芯まで力が抜け、土と灰の混ざる地面がやけに近く感じる。
風は、いつのまにか止んでいた。
荒れ狂っていた嵐が息を潜め、残されたのは、世界そのものが死を迎えたような静寂。
霧は薄れ、遠くの空に、夜明け前の淡い光が滲みはじめていた。
それは祝福ではなく、終焉を告げる光だった。
「……もう少しで……」
アランの声は、風の残響に溶けるほどかすれていた。
張り詰めていた魔力の波が跡形もなく消え、彼女の体を包んでいた結界の光は、今や肌に残る名残だけが儚く瞬いている。
彼女の肩が小刻みに揺れ、そして、糸が切れたように崩れ落ちた。
レギュラスは慌ててその体を抱きとめた。
砂の感触が掌を刺し、震える息が彼女の頬をかすめる。
だが、どれほどその身を抱き締めようとしても、彼女の体は軽く、遠ざかるように感じた。
片手に握りしめた杖の感触が、まるで他人の手に触れているように曖昧だった。骨の形を確かめようとしても、指は言うことを聞かず、感覚は闇に沈んでいく。
「……アラン。」
名を呼ぶ声は風に攫われ、答えはなかった。
アランはかすかに息をしていたが、その呼吸の気配は、砂に吸い込まれる焔のように頼りなかった。
彼女の眼差しはどこを見るでもなく、静かに空の彼方を見つめていた。
レギュラスはそっとその傍らに身を寄せた。
背中に触れる地面は冷たく、乾いた砂の一粒一粒が皮膚の下に刺さるようだった。
しかし痛みは感じなかった。
痛みよりも、深い眠気と穏やかな疲労が胸を満たしていた。
目を閉じるな。眠るな。
そう心が叫んでいた。
それでも唇は動かず、喉は焼け付き、声は空気に変わった。
かろうじて動く手で、彼女の頬に触れる。
そこには、まだ温もりがあった。わずかに冷たく、けれど確かに、生きていた。
「……もう少し……」
それは、もはや彼女に向けた言葉ではなかった。
自分に言い聞かせるように、かすれた唇が形を作った。
だが、次の瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
あまりにも静かに、あまりにも柔らかく。
その穏やかさは、死の訪れにさえ似ていた。
――もういい。
この光景の中で、彼女の隣にいられるのなら、何を失っても構わない。
谷を覆っていた瘴気が、ゆっくりと薄れていく。
風が頬を撫で、灰の匂いを押し流していった。
アランの髪がそよぎ、彼の頬をかすめた。
優しい香りが微かに漂い、その懐かしい匂いの中で、レギュラスは静かに目を閉じた。
――もし、このまま目を覚まさなかったとしても。
脳裏に、二人の子どもたちの姿が浮かぶ。
アルタイル。
リディア。
小さな手、無邪気な笑顔、そしていつか聞いた笑い声。
それらが粒子となって光の中に滲んだ。
(どうか見つけてほしい。書斎の写真立てを。
父と母が何を信じ、どこまで抗い、生きようとしたのか――
その全てを、そこに残している。)
言葉にならない祈りが、胸の奥を満たしていく。
命が燃え尽きようと、想いは残る。
その想いが、二人の小さな背を押してくれることを信じていた。
レギュラスは最後の力を振り絞って、アランの顔を見た。
まつげの影が頬に落ち、唇がかすかに開いている。
その横顔は、あまりにも美しく、まるで夢の中の人のようだった。
それを焼き付けるように、彼は瞳を閉じずに見つめ続けた。
愛している。
最初から、ずっと。
その愛が鎖となり、彼女を縛り、苦しめてしまったとしても――
それでも手放すことはできなかった。
「……ごめん。」
風がその言葉を攫っていった。
謝罪と感謝と、永遠の誓いがひとつになり、空に溶けていく。
アルタイルの父にしてくれたことを。
血の繋がらないリディアまで、心から愛してくれたことを。
全てを捧げてくれた彼女へ、最後に伝えたかった。
もう何もいらない。
この人生に、悔いはなかった。
東の空が淡く染まり、灰色の空が金へと移ろう。
夜が終わろうとしていた。
死の谷の果てに、初めての光が差しはじめる。
レギュラスはその光を見届け、アランの手を握りしめたまま、
静かに息を吐いた。
指の感覚はもうなかった。
それでも、その温もりだけは、確かに彼の掌の中にあった。
地の底から這い出すような呻きが、風に乗って響く。
ここは“死の谷”――かつて幾千もの魔法使いたちが命を落とした、魂の吹き溜まり。
古の戦で断たれた命が未だに安らげず、虚空を漂い続けている。
その怨嗟が大地を呑み、空気を歪ませる。
レギュラス・ブラックは、アランを伴ってその地に足を踏み入れていた。
彼の感知装置――闇の帝王の魔力を探知するコンパスが、狂おしいほど震えている。
針が、谷の奥へ奥へと吸い込まれるように向かっていた。
「……やはり、ここですか。」
低く呟いた声が、風にかき消される。
アランは肩をすくめ、顔を覆うようにローブの裾を引き上げた。
霧のような瘴気が肌を刺し、呼吸するたび胸の奥が冷たく痛む。
「結界は私が張りましょう。」
静かな声だったが、その響きの中には確固たる決意があった。
「ええ、お願いします。」
レギュラスは短く頷く。
彼女の魔力は、爆発的な攻撃呪文には向かない。
けれど、護りと祈りの呪文において、アランの右に出る者はいない。
その繊細な魔力の糸が、大気の裂け目を縫うように広がり、
二人の周囲に淡い光の膜を形づくっていった。
一瞬、霧が晴れる。
だが、すぐにまた風が吹き荒れ、砂が舞い上がった。
目も開けていられないほどの風圧が二人を襲う。
「……っ!」
アランが杖を強く握りしめる。
その手が、細かく震えていた。
長時間にわたって張り続ける結界は、
体力と魔力を容赦なく削っていく。
アランの頬は血の気を失い、唇は淡く色をなくしていた。
レギュラスは迷わず一歩近づき、
彼女の杖を持つ手に、自らの手を重ねた。
その瞬間、結界が低く鳴った。
ふたつの魔力が共鳴し、光の膜が強く、厚く輝きを増す。
荒れ狂う風の中で、レギュラスの魔力がアランの魔力に絡み合い、
まるでふたりの鼓動がひとつになるようだった。
「……あなたの魔力が加わると、結界が息をしてるみたい。」
アランの声はかすかに震えていたが、
そこには確かな安堵が滲んでいた。
レギュラスは彼女の横顔を見た。
その瞳には怯えも絶望もない。
ただ、自分と共にこの地に立つという確かな意志だけが宿っていた。
「足を引っ張ってますね……」
アランが俯いたまま、申し訳なさそうに言う。
レギュラスは小さく首を振り、
その言葉を静かに打ち消すように囁いた。
「あなたがいるから、立ててるんですよ。」
その声は、風の轟音の中でもはっきりと届いた。
アランは顔を上げた。
灰色の瞳が、ほんの一瞬だけ柔らかく微笑んだ気がした。
それだけで、レギュラスの胸に込み上げるものがあった。
どれほどの闇を歩こうと、
彼女が傍にいてくれる限り、自分は沈まない――そう確信できた。
だが、死の谷は容赦しない。
足元からは呻き声のような風が吹き上げ、
闇の帝王の残した魔力が、空間そのものを歪ませている。
まるでこの場所そのものが、生者の侵入を拒んでいるかのようだった。
それでもレギュラスは一歩、また一歩と足を進める。
闇の底に、確かに“それ”がある。
かつて誰かが魂を裂いて封じた、
“人ならざるもの”が眠る気配を感じながら――。
二人の姿は、吹き荒ぶ砂嵐の中にかき消えていった。
結界の光だけが、淡く揺れながら、
死の谷の底に小さな希望の灯のように瞬いていた。
死の谷を吹き抜ける風は、まるで生き物のように蠢き、彼らの肌を容赦なく裂いていった。
その奥深く――もはや“地”と呼ぶにはあまりにも歪み、滅びを湛えた世界。岩は溶けかけた蠟のようにねじれ、地層の隙間からは白煙が立ち上り、かすかに呻くような音を立てていた。それは地中に囚われ、長き年月を経てもなお解かれぬ魂の嘆きのようにも聞こえた。
「……あと少しです、アラン。」
レギュラスの声は風に攫われ、形を失いながらもアランの耳に届く。その手の中で、黒鉄のコンパスが狂ったように針を回し続けていた。針は震えながら、一つの方向を指し示す。その先に、まるで“生きている何か”が呼吸しているかのように。
アランは唇を結び、潤んだ瞳の奥でかすかな恐れと決意を揺らした。
「……この先に。」
彼女の声は震えながらも確かに、夜気に溶けた。
二人は互いのローブを握り合い、一歩ずつ闇を裂くように進む。足を踏み出すたび、地は低く呻き、無数の亀裂が赤い光を滲ませた。黒い霧が足首にまとわりつき、囁きを送ってくる。人の心を狂わせると伝えられるその霧の中で、結界の淡い光が辛うじて二人の意識を守っていた。
やがて、闇の底に淡い光が浮かび上がった。
冷たく、どこか美しすぎる光――それは聖なるものではなく、怨嗟を冷却したような、静かに人の魂を侵す輝きだった。
「レギュラス……見て。」
アランが指差す先。風に削られた石の台座の上に、黒曜石の小箱が鎮座していた。
まるで呼吸をしているかのように箱の表面が脈動し、その隙間から滲み出る闇が、谷の空気そのものを歪ませている。光が歪み、音が遠のく。世界の輪郭が、崩れ落ちていく。
「……きっとホークラックスです。」
レギュラスの声は微かに震えた。ひとつの言葉の中に、恐れと決意、そして罪の意識が滲んでいた。
箱の表面に刻まれた古代文字が、青黒い光を帯びて浮かび上がる。
――統べる者、裂けし魂。
それは、この地の呪いそのものを象徴する銘文だった。
レギュラスが一歩踏み出そうとした瞬間、アランが咄嗟にその腕を掴んだ。
「触れては駄目です。」
その声は掠れていたが、確かな力を宿していた。
彼女はその箱を見つめながら、微かに唇を噛む。あれに触れた者は、魂を抜かれ、意識の底から塵となる。
レギュラスは静かに息を整え、杖を手に取った。
彼の唇から、古の呪文が低く紡がれる。
「Replicatio Obscura(レプリカ・オブスクラ)。」
杖先から淡い光が放たれ、空気が波打つように震えた。黒曜石の箱の形が少しずつ空中に描かれ、幻の箱が、まるで本物のような重々しい気配を纏って現れた。
偽りの鼓動が、静かに始まる。
「これを置き、本物をすり替える。」
レギュラスの声は低く、刃のように鋭い。
アランは頷き、両の手をすぼめながら己の魔力を編み上げる。繊細な光糸が箱を包み、ふわりと浮かせる。
その瞬間、足下の大地が唸り、谷の奥から叫びが響いた。黒い霧が渦を巻き、無数の影がうごめく。
「来ます!」
アランの叫びと共に、亡霊たちが姿を成した。
灰白の衣を裂きながら、かつて戦場で息絶えた魔法使いたちの亡骸――彼らの魂が、怒りと痛みのままに結界を叩きつけた。
「持ちこたえてください!」
レギュラスは叫び、アランを腕の中へ引き寄せる。
「だいじょうぶ……まだ!」
アランの声は必死に震え、結界の膜がきしみ、ひび割れる。
レギュラスは彼女の杖に自らの手を重ね、己の魔力を流し込む。
二つの魔力が絡み合い、夜空を焼く閃光が谷を照らした。亡霊たちが悲鳴を上げ、形を失う一瞬――その隙を、レギュラスは逃さなかった。
本物のホークラックスを封印袋に滑り込ませ、幻の箱を静かに台座に置く。
「……すり替え、完了です。」
呟いた刹那、谷の空気が変わった。
嘆きが静まり、風が遠のき、霧が薄れていく。
まるで、この谷が彼らを“見逃す”ことを選んだかのようだった。
レギュラスはアランの肩を抱くようにして歩き出した。
足場は崩れ、背後ではなお幻の鼓動が続く。
谷の荒れ狂う風が背を押し、冷たい灰を舞い上げた。
出口の光が見えたとき、彼はゆっくりと振り返る。
黒曜石の偽物の箱が、なお息をするように脈動し、谷の奥に沈んでいる。
まるで嘘と真実の境界を、永遠に見守るかのように。
「やっと、また一つ……辿り着けましたね。」
アランの声はかすれていたが、その中には確かな誇りと安堵があった。
レギュラスは疲れた笑みを浮かべ、その肩に手を置く。
「ええ。でも、まだ終わりじゃない。」
その時、谷の奥から声が響いた。
言葉にならぬ声――無数の魂のざわめきが、風に混じって彼らに囁く。
――見つけたのなら、背負って行け。
二人は振り返らずに歩き出す。
手を強く握りしめ、長い闇の中を進んでいく。
その先に待つものがどれほどの代償を要求するのか、まだ知る者はいなかった。
ただ、彼らの背中を撫でる風は、どこか優しく――まるで、誰かの祈りのように静かだった。
死の谷を抜ける風は、もはや風と呼べるものではなかった。
それは、耳鳴りのように響く亡者たちの声であり、
息を吸い込むたびに胸の奥を焼くような瘴気そのものだった。
ホークラックスをすり替えた直後から、
レギュラス・ブラックは自分の右手に異変を感じていた。
杖を握る指が――重い。
まるで誰かの見えない手に掴まれているように、動かない。
魔力の流れが滞っていくのがはっきりと分かる。
“これはまずい。”
内心でそう呟くが、顔には一切出さなかった。
アランの前で弱みを見せたくなかった。
彼女に余計な心配をさせたくなかった。
「……行きましょう。」
そう言って、レギュラスはアランの手を引く。
強く、指が白くなるほどに。
まるで、その温もりだけを確かめようとするかのように。
足元は崩れかけた岩、
頭上では霧が蠢き、
一歩ごとに魂の呻きが背後から追いかけてくる。
アランの張る結界の光が、徐々に薄くなっていた。
最初は眩しいほどに輝いていたはずのその光が、
いまや頼りない灯のように揺らめいている。
「アラン、代わりましょう。」
レギュラスの声は冷静だったが、その奥に焦りが滲んでいた。
「レギュラス、平気です。」
アランの返事は短く、息がかすれている。
「消耗してほしくないんです。」
彼女は首を振る。
汗がこめかみを伝い、震える唇がかすかに動いた。
「あなたが……ここまで導いてきたんですもの。
最後まで、私にやらせてください。」
その声に抗えなかった。
結界の光が彼女の手元でかすかに脈打つ。
しかし、その杖の先から漏れる光は――痛いほど儚かった。
レギュラスは無意識に、彼女の杖を握る手を見た。
震えている。
まるで彼女の指先に、見えない氷が這っているようだった。
おそらく自分と同じ現象だ。
この谷に漂う怨念の瘴気が、
生きた魔法使いの“魔力そのもの”を奪っていっている。
“このままでは、持たない。”
そう理解しながらも、レギュラスは歩みを止めなかった。
彼の視線はただ、前へと向いていた。
――生きて出ること。
それだけを考える。
だが、胸の奥では別の感情が渦巻いていた。
アランが放つ光の中で、彼女の横顔を盗み見る。
疲労の色が濃く滲んでいる。
それでも、彼女は美しかった。
思えば、レギュラス・ブラックの人生は、
彼女を想い続けた時間の連なりだった。
彼女に向けて放った言葉も、怒りも、執着も、
そのすべてが“愛”の変形だった。
だがその愛の大半は、いつだって一方通行だった。
シリウスと引き離した時。
アルタイルを自分の子として育てると誓った時。
確かに勝利したつもりでいた。
けれど、本当はわかっていた。
――アランの心は、常に別の男の方を向いていた。
息子の血の奥には、シリウス・ブラックの魂が眠っている。
それでもよかった。
その現実を受け入れてなお、
彼女が自分の隣にいてくれることだけで、
レギュラスは呼吸を繋げた。
“愛されたかどうか”ではない。
“許された”ことが、何よりの救いだった。
いま、こうして彼女と共に死の谷を歩く。
それだけで、
自分の人生に意味があったように思えた。
「レギュラス……」
アランが呼んだ。
その声にはかすかな不安が混じっていた。
「ええ、ここにいます。」
彼は微笑み、彼女の手を強く握った。
けれど、右手の感覚がもう半分以上ない。
握っているはずの杖が、鉛のように重い。
魔力の流れが、静かに途切れていく。
構わない。
この命の灯を全部、
彼女を守るために使い切れるなら、それでいい。
足元の岩が崩れる。
瘴気が波のように押し寄せる。
結界の膜がきしみ、亀裂が走る。
アランが最後の力を振り絞って杖を掲げた。
その手も、もうきっと限界に近い。
レギュラスは彼女の肩を抱き寄せ、
己の杖を左手で構えた。
本来なら右手でなければ発動しないほど精密な魔術を、
左手で無理やり編み上げる。
稲妻のような光が二人を包んだ。
亡霊たちの影が、悲鳴を上げて散る。
その一瞬の静寂の中、レギュラスは目を閉じた。
――どうか、この命の果てまで。
この人と、共にいられますように。
そう祈りながら、
彼はアランの手を引き、
崩れかけた谷の出口を目指して歩き続けた。
灰色の空の下、
彼の右手はすでに冷たく、
それでも確かに、彼女の手を離さなかった。
谷の出口は、まるで蜃気楼のように目の前に揺らめいていた。
そこに辿り着いただけで、すべてを果たしたはずだった。
けれど、足はもう一歩を刻むことすらできなかった。膝の芯まで力が抜け、土と灰の混ざる地面がやけに近く感じる。
風は、いつのまにか止んでいた。
荒れ狂っていた嵐が息を潜め、残されたのは、世界そのものが死を迎えたような静寂。
霧は薄れ、遠くの空に、夜明け前の淡い光が滲みはじめていた。
それは祝福ではなく、終焉を告げる光だった。
「……もう少しで……」
アランの声は、風の残響に溶けるほどかすれていた。
張り詰めていた魔力の波が跡形もなく消え、彼女の体を包んでいた結界の光は、今や肌に残る名残だけが儚く瞬いている。
彼女の肩が小刻みに揺れ、そして、糸が切れたように崩れ落ちた。
レギュラスは慌ててその体を抱きとめた。
砂の感触が掌を刺し、震える息が彼女の頬をかすめる。
だが、どれほどその身を抱き締めようとしても、彼女の体は軽く、遠ざかるように感じた。
片手に握りしめた杖の感触が、まるで他人の手に触れているように曖昧だった。骨の形を確かめようとしても、指は言うことを聞かず、感覚は闇に沈んでいく。
「……アラン。」
名を呼ぶ声は風に攫われ、答えはなかった。
アランはかすかに息をしていたが、その呼吸の気配は、砂に吸い込まれる焔のように頼りなかった。
彼女の眼差しはどこを見るでもなく、静かに空の彼方を見つめていた。
レギュラスはそっとその傍らに身を寄せた。
背中に触れる地面は冷たく、乾いた砂の一粒一粒が皮膚の下に刺さるようだった。
しかし痛みは感じなかった。
痛みよりも、深い眠気と穏やかな疲労が胸を満たしていた。
目を閉じるな。眠るな。
そう心が叫んでいた。
それでも唇は動かず、喉は焼け付き、声は空気に変わった。
かろうじて動く手で、彼女の頬に触れる。
そこには、まだ温もりがあった。わずかに冷たく、けれど確かに、生きていた。
「……もう少し……」
それは、もはや彼女に向けた言葉ではなかった。
自分に言い聞かせるように、かすれた唇が形を作った。
だが、次の瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
あまりにも静かに、あまりにも柔らかく。
その穏やかさは、死の訪れにさえ似ていた。
――もういい。
この光景の中で、彼女の隣にいられるのなら、何を失っても構わない。
谷を覆っていた瘴気が、ゆっくりと薄れていく。
風が頬を撫で、灰の匂いを押し流していった。
アランの髪がそよぎ、彼の頬をかすめた。
優しい香りが微かに漂い、その懐かしい匂いの中で、レギュラスは静かに目を閉じた。
――もし、このまま目を覚まさなかったとしても。
脳裏に、二人の子どもたちの姿が浮かぶ。
アルタイル。
リディア。
小さな手、無邪気な笑顔、そしていつか聞いた笑い声。
それらが粒子となって光の中に滲んだ。
(どうか見つけてほしい。書斎の写真立てを。
父と母が何を信じ、どこまで抗い、生きようとしたのか――
その全てを、そこに残している。)
言葉にならない祈りが、胸の奥を満たしていく。
命が燃え尽きようと、想いは残る。
その想いが、二人の小さな背を押してくれることを信じていた。
レギュラスは最後の力を振り絞って、アランの顔を見た。
まつげの影が頬に落ち、唇がかすかに開いている。
その横顔は、あまりにも美しく、まるで夢の中の人のようだった。
それを焼き付けるように、彼は瞳を閉じずに見つめ続けた。
愛している。
最初から、ずっと。
その愛が鎖となり、彼女を縛り、苦しめてしまったとしても――
それでも手放すことはできなかった。
「……ごめん。」
風がその言葉を攫っていった。
謝罪と感謝と、永遠の誓いがひとつになり、空に溶けていく。
アルタイルの父にしてくれたことを。
血の繋がらないリディアまで、心から愛してくれたことを。
全てを捧げてくれた彼女へ、最後に伝えたかった。
もう何もいらない。
この人生に、悔いはなかった。
東の空が淡く染まり、灰色の空が金へと移ろう。
夜が終わろうとしていた。
死の谷の果てに、初めての光が差しはじめる。
レギュラスはその光を見届け、アランの手を握りしめたまま、
静かに息を吐いた。
指の感覚はもうなかった。
それでも、その温もりだけは、確かに彼の掌の中にあった。
