4章
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石の床が冷たい。
ひざまずいた瞬間、骨を通してその冷たさが伝わる。
息を潜め、レギュラス・ブラックは目の前に立つ“闇の帝王”を仰いだ。
薄闇の中、ヴォルデモートの姿はまるで影そのものだった。
長い指がゆるやかに動くたび、空気が軋むように震える。
その足元を、しなやかな蛇――ナギニが這い、
艶めく鱗が燭台の火を反射して妖しく光った。
レギュラスは頭を垂れ、
その蛇の動きを視界の端でとらえながら、
わずかに魔力を走らせる。
感知の呪を、声に出さずに唱える。
わずかに息を止め、
己の魔力を波紋のように空間へと放った。
空気の層を通して、
見えない振動が世界をなぞる。
それはまるで水面下を流れる光の糸のように、
静かに、しかし確実に広がっていく。
ナギニから漂う魔力を探る。
そして、主のそれ――ヴォルデモートの魔力と重ねる。
同じだ。
完全に一致している。
波の周期、魔力の質、鼓動のように脈打つリズムまでも。
蛇の体から放たれる禍々しい気配は、
まるで彼自身の魂を複製したかのような“反響”を帯びていた。
――やはり。
レギュラスは確信する。
ナギニこそ、闇の帝王の魂を宿した器――ホークラックス。
この男が己の魂を割き、封じた“生ける器”。
だからこそ、この蛇は他のどの獣とも違う。
まるで言葉を理解するように、
主の意志を読み取り、従う。
いや――忠誠などではない。
それは魂の同調。
主の一部が、主を守っているだけなのだ。
ナギニの黄金の瞳がゆっくりとレギュラスを向いた。
視線がぶつかった瞬間、
背筋に冷たいものが走る。
蛇の瞳の奥にもまた、あの男と同じ“闇”が潜んでいた。
――やはり、間違いない。
主の魔力を帯びた存在。
闇の帝王が死ぬことを決して許さぬよう、
この蛇の中に魂を閉じ込めたのだ。
「レギュラス・ブラック。」
冷たい声が響いた。
氷刃のような声音。
レギュラスは静かに顔を上げる。
「我が忠実なる従者よ。
お前の働きは見事だ。」
その瞬間、ナギニが主の足元からするりと進み出て、
レギュラスの周囲を一周した。
鱗が衣を撫で、空気がざわりと鳴る。
首をもたげ、彼の頬すれすれまで近づいた蛇の舌が、
空気を裂く音を立てる。
魔力が絡みつく。
ぞくりとするような悪寒が走る。
けれど、レギュラスは表情を崩さなかった。
――懐いている。
それが唯一の救いだった。
この蛇は確かに自分を“主と同じ”と見ている。
ホークラックスを見抜いたことで、
ナギニは本能的に感じ取ったのだ。
――この男は、我が主と同じ“闇”を持っていると。
それが、彼に懐いた理由。
そして今、唯一近づくことを許される存在である理由。
だが同時に、それは恐ろしくもあった。
この蛇を、どうやってヴォルデモートの手から離せるというのか。
常に彼の傍にいる。
護衛であり、守護者であり、分身。
もはや封印された魂そのもの。
離そうとすれば、主が即座に察知する。
奪おうとすれば、
彼女自身が凶器となって襲いかかる。
――けれど、やるしかない。
レギュラスはそう心に誓った。
この蛇を討てば、
ヴォルデモートの永遠が崩れ落ちる。
それがどれほど危険な賭けであっても、
これを破壊しなければ世界に夜明けは来ない。
「我が主のご命令、しかと心得ております。」
レギュラスは深く頭を垂れ、
表情を崩さぬままその場を離れた。
背中に絡みつくような視線を感じながら、
扉を出た瞬間、
息を詰めていた胸の奥がようやく解ける。
その瞳には、決意の炎が宿っていた。
――あの蛇を、奪う。
そして、終わらせる。
夜の闇が深く沈むほど、
レギュラス・ブラックの中で
光は確かに燃え上がっていた。
レギュラス・ブラックは、静かな夜の書斎にひとり佇んでいた。
灯火がゆらゆらと揺れ、机の上に落ちる影が波紋のように広がる。
誰もいないはずのこの部屋には、息を潜めたような気配があった。
まるで、壁までもが彼の決断を見守っているかのようだった。
――このままでは終わらない。
ヴォルデモートは再び動き出す。
そしてその傍らには、必ずナギニがいる。
蛇――それはもはや生き物ではなかった。
あの瞳の奥に宿るのは、魂の欠片。
闇の帝王自身の一部だった。
それを倒さぬ限り、闇は決して滅びない。
だが、レギュラス自身にはもう、
主の目前でその蛇を討つほどの立場も、機会も残されていなかった。
ナギニは、ヴォルデモートの影のように彼から離れない。
ならば――いつか誰かが、あの場で討たねばならない。
それを成し遂げられるのは、おそらく若き者たちだ。
光の側に立つ、未来の世代。
ハリー・ポッター。
そして、あのアルタイル。
息子の顔が脳裏に浮かぶ。
自分を信じながらも、心のどこかで父を疑っていた青年。
その葛藤の痛みを、誰よりも理解していた。
だからこそ、導いてやらねばならなかった。
彼が正義と信念の中で答えにたどり着くように。
レギュラスは机の引き出しを開けた。
そこには幾重もの封印がかけられた黒い手帳。
アルタイルが以前、この部屋で見つけられなかったものだ。
感知不可呪文の層の下に、わずかな抜け道を作る。
彼が次に探した時には、そこへ辿り着けるように。
手帳の表紙を撫でながら、
彼はその中の一枚に、魔法で薄く文字を刻んだ。
「蛇は影とともに生きる。
主の魂の音に共鳴し、その身を永遠とする。
闇を断つ剣は、炎と勇気の紋章に宿る。」
まるで古の詩文のように見えるそれは、
ナギニがホークラックスであるということ、
そして“グリフィンドールの剣”こそがそれを滅ぼせることを暗に示す符号だった。
アルタイルなら気づく。
彼の聡明さと、真実を追う心があれば。
そして、もう一つ。
書斎の片隅――
アランと共に撮った古い家族写真の裏に、
もう一枚、魔法で隠された羊皮紙を滑り込ませた。
そこには蛇の紋章とともに、
ホークラックスの魔力波形を魔法式で描き出してあった。
闇の魔法を学ばぬ者にはただの幾何模様にしか見えない。
けれど、アルタイルの目にはそれが“父が何かを残そうとした痕跡”として映るだろう。
「……気づいてくれますね、アルタイル。」
誰にも聞こえぬような声で呟いた。
彼の声は震えていた。
それが希望であると同時に、別れの予感でもあったから。
レギュラスはそっと手帳を閉じ、
机の上に灰色の羽ペンを置いた。
その羽の先端――アランの髪を一房、魔法で封じ込めてある。
家族の香りが、最後の守りになるように。
彼は深く息を吐いた。
夜の闇が彼の肩を包み、
外の風が窓を震わせる。
――導くことは、裏切ることではない。
――真実に導くことこそ、愛だ。
「これでいい……」
椅子を引き、静かに立ち上がる。
外の空には月が昇っていた。
白銀の光が書斎の床を照らし、
彼の影がゆっくりと伸びる。
その影の中に、
レギュラスはかすかに笑みを浮かべた。
それは、父としての最後の願いの笑み。
息子が自らの信じる正義を貫き、
やがて本当の“闇の終焉”を見届けてくれることを信じて。
そして彼は、誰にも知られぬまま、
光と闇の狭間へと歩み去っていった。
夜の帳が降り、屋敷の灯がひとつ、またひとつと落ちていく。
寝静まった廊下を抜け、アランは書斎へと足を踏み入れた。
机の上には、レギュラスが使っていた地図と、
彼の手を離れることのなかった黒鉄のコンパスが置かれている。
手に取ると、ひんやりと冷たい。
まるで、闇そのものを閉じ込めたかのような感触。
中心に埋め込まれた翡翠色の針が、
淡く揺らめきながら北東の方角を指していた。
――反応している。
ごく微かに、だが確かに。
闇の帝王の魔力の波長が、針先に反応している。
アランは地図を広げ、
レギュラスが印をつけてきた数多の地点を指先でなぞる。
その中に、ひとつだけ――彼がまだ印をつけていない場所があった。
死の谷(The Hollow of Mourning)
北の果てに位置する、古くから魔法使いたちの間で
「魂の眠る地」と呼ばれてきた場所。
記録上はただの荒廃した渓谷にすぎない。
だが実際には、何百年も前の大戦で命を落とした魔法使いたちの魂が
いまだに成仏できず彷徨っているとされている。
木を隠すなら森の中。
ならば、魂を隠すなら――魂の中に。
アランの中で確信にも似た直感が走った。
ヴォルデモートほどの男なら、そうするだろう。
魂の断片を、他の魂の渦の中に紛れ込ませて隠す。
それこそ、最も見つけられぬ“聖域”であり、最も侵してはならぬ“墓場”。
指先に力が入る。
地図の上で針が震える。
風もないのに、部屋の空気が重たく波打った。
「……ここね。」
小さく呟いた声が、蝋燭の炎に吸い込まれて消える。
針がぴたりと止まる。
その瞬間、背筋を這い上がるような冷気が襲った。
死者の残滓だ。
この場所の名を呼んだだけで、
彼らの囁きが耳の奥でざわめくように響く。
――ここに長く立ち続けてはいけない。
この地は、生きる者の心を侵す。
結界を張っていなければ、魂を削られてしまう。
アランは両手を胸の前で組み、
無意識に防護の呪文を唱えていた。
彼女の魔力が空気を震わせ、部屋の中の陰影が淡く滲む。
そのとき。
「アラン、まだ起きていたんですか?」
背後からレギュラスの声。
振り返ると、薄衣の上着を羽織った彼が立っていた。
その灰色の瞳は疲れを滲ませながらも、
どこか穏やかで、夜の静けさに溶けていた。
「少し……整理をしていただけです。」
アランは慌てて地図を畳んだ。
折り畳む手の動きがわずかに震える。
コンパスの針はまだ微かに震えたままだったが、
それを掌で隠すようにして見せた。
レギュラスは彼女の側に歩み寄り、
机の上の灯をひとつ落とした。
闇が少し濃くなり、彼の影が伸びる。
「無理はなさらないでください。」
彼は静かに言った。
「このところ、休まずに考え詰めている。
……あなたのそういうところが、僕は心配なんです。」
アランは小さく微笑んだ。
「あなたに言われたくありませんわ。」
言葉は柔らかいのに、どこか切ない響きを帯びていた。
レギュラスの手が、そっと彼女の肩に置かれる。
温かい。
その温もりが、いっそう胸を締めつけた。
――言えない。
この地の名を口にすれば、
彼は迷わずそこへ向かう。
どれほど危険でも、
そこに闇の帝王の影があると知れば必ず。
その未来が、あまりにもはっきりと見えてしまった。
だから、アランはただ首を振る。
「本当に……何でもありません。」
「そうですか。」
レギュラスは彼女を見つめる。
いつも通りの穏やかな声音だった。
けれどその瞳の奥では、
彼女が何かを隠していると悟っている光がわずかに揺れた。
それでも追及はしない。
ただ彼は、そっと彼女の肩を撫でた。
「無理をしないでくださいね。」
そう言って、レギュラスは静かに背を向けた。
扉の向こうに消える瞬間、
アランは息を詰めたまま彼の影を見送った。
掌の中では、コンパスの針がまだ震えている。
北の果て――“死の谷”の方向を。
その震えは、まるで死者の声のように、
彼女にだけ届く囁きとなって響いていた。
――行かなければならない。
けれど、まだ今ではない。
アランは胸の奥にその決意を封じ込め、
静かに目を閉じた。
蝋燭の炎が細く揺れ、
ひとひらの灰が舞い上がる。
それは、まるで彼女の迷いのように、
夜の闇の中に溶けて消えていった。
長い年月を共に過ごしてきた。
彼女の沈黙が何を意味するのか、もう言葉など要らなかった。
笑みの奥の翳りも、指先のわずかな震えも、呼吸の乱れも——
それらが何を物語るのか、レギュラスにはすぐに分かってしまう。
だからこそ、アランが「何でもない」と言った時点で、
彼女が何かを隠していることなど、痛いほど分かっていた。
「アラン。」
そう言って、彼はゆっくりと彼女の肩を押し、
ソファに腰を下ろさせた。
その動作は優しく、けれど抗えない重みを帯びていた。
レギュラスは彼女が先ほど机に置いたままの地図を手に取り、
丁寧に折り目を戻して広げる。
その隣でアランの指がかすかに震えた。
地図の上には、針がかすかに震える黒鉄のコンパス。
それはまだ、何かを指し続けている。
「……まって、レギュラス。」
アランの声が掠れる。
彼女の手が、思わず彼の腕を掴んだ。
「あなたはあまりにも隠し事が下手すぎますよ。」
レギュラスは静かに微笑んだ。
優しくも、どこか切ない声音。
コンパスを持ち上げると、翡翠色の針が指す方向へと
その視線をたどっていく。
「……“死の谷”ですね。」
アランの胸が強く痛んだ。
ため息が零れ、静寂の部屋に溶けて消える。
「よく気づきましたね。」
「あなたに言いたくなかったのは、
隠そうとしたわけではありません。」
アランは絞り出すように言った。
俯いた横顔が、蝋燭の明かりに淡く照らされる。
レギュラスはその瞳を見つめながら、小さく頷いた。
「わかっていますよ。」
柔らかな言葉が、胸の奥に沁みていく。
自分を気遣ってくれたのだ。
一人で行かせたくないと、恐れてくれたのだ。
それが、どれほど嬉しいことか。
彼女が自分を引き止めようとする——
そのたったひとつの行為に、
長年乾ききっていた心が静かに満たされていくようだった。
「……生きて戻れそうにないですね。」
ふと、彼は呟いた。
その声には恐れではなく、ただ淡々とした覚悟があった。
死の谷。
魂が群れをなして彷徨い、
魔法の結界をいくつ張っても防ぎきれないほどの呪気に満ちた地。
生者が長く立てば、心を蝕まれ、狂気に堕ちるという。
「さすがに今回ばかりは、厳しいのかもしれません。」
アランは顔を上げ、レギュラスの横顔を見つめた。
その灰色の瞳は、静かに揺れていた。
凍てつくように冷たいはずのその瞳に、
今は淡い炎が宿っている。
――怖いのだ、この人も。
けれど、立ち止まることができない。
「それでも、一緒にいると約束してください……レギュラス。」
その言葉は、かすかに震えていた。
祈りにも似て、涙にも似て。
けれど、確かに彼の心の奥へと届いた。
レギュラスはその場に膝をつき、
アランの両手を静かに包み込む。
その手のひらは、驚くほど冷たかった。
「ええ。」
彼は短く答える。
その声は低く、揺るぎなかった。
「一緒に行きましょう。
どこまでも、あなたと。」
沈黙が降りた。
外では風が唸り、窓を叩いている。
二人の間にあるのは、ただひとつの灯だけ。
その光が、彼女の翡翠の瞳を柔らかく照らしていた。
それは誓いの光だった。
共に生き、共に死ぬと約束した夜。
長い運命の旅路が、また静かに動き出した。
いつのまにか、彼に感情を読まれることを恐ろしいとも、やましいとも思わなくなっていた。
レギュラス・ブラックという男は、昔からそういう人だった。
目の前の相手が何を考えているか、どんな言葉を呑み込んでいるか――
それを見抜くことに長けていた。
けれど今のアランにとって、その洞察の鋭さは恐れではなく、
静かな感嘆に近かった。
よく見ている。本当に。
声の揺れか、表情のわずかな翳りか。
あるいは、呼吸の間の沈黙からなのか。
何から察しているのかは分からない。
けれど彼はいつだって、鮮やかに、静かに、
アランの心の奥に隠れた言葉を暴き出すのだった。
レギュラスは机の上に置かれた書類を整え、
翡翠色のコンパスを手に取る。
針は微かに震えたまま、北東――“死の谷”の方向を指している。
だが今夜、彼の言葉はそれよりも深く、決定的なものだった。
「……ナギニはやはり、ホークラックスで間違いないです。」
淡々とした声だった。
しかしその静けさの奥には、確固たる確信と疲労が滲んでいた。
「闇の帝王のそばを離れないあの蛇……
一体、どこに隙があるんでしょうね。」
アランは息を詰めて問い返す。
レギュラスはゆっくりと顔を上げた。
その灰色の瞳には、すでに覚悟の色が宿っていた。
「……未来の世代に託しましょう。
あれを討つように――アルタイルに示唆した物を、この部屋に残しています。」
アランの胸が静かに波立った。
父が、息子に託す。
命を懸けて探し当てた、闇の帝王の魂の欠片を。
それを、直接ではなく、あの子自身の手で見つけさせようとしている。
――まさに彼らしいやり方だった。
「直接は……言わないんですか?」
問いながら、どこかで答えを知っていた。
レギュラスは小さく首を振る。
「ええ。言えません。」
その言葉のあと、短い沈黙が落ちた。
蝋燭の炎が揺れるたび、部屋の影が波のように動く。
レギュラスの横顔は、強さと脆さが同居していた。
ホークラックスの存在を知りながら、
その禁忌の魔法使いに仕え続けた。
その過去を、息子に知られることを恐れているのかもしれない。
いや――違う。
アランには分かっていた。
彼は恐れているのではない。
息子の中に宿る“正義”を信じているがゆえに、
その正義の光が、自分の影を焼き尽くしてしまうことを悟っているのだ。
「アルタイルは、以前にも一度この部屋に入りました。」
レギュラスが静かに言う。
「検知魔法でわかりました。
どれほどの覚悟があってこの部屋に入ったのか……
そう思うと、胸が詰まりそうです。」
アランは小さく目を伏せた。
机の上に散らばる羊皮紙の端を指でなぞる。
レギュラスの言葉は、穏やかに聞こえるのに、
その一つ一つが、彼自身の痛みを滲ませていた。
――本当に、この人は。
強さと優しさを、両手に抱えて生きてきた。
そのせいで、何度も傷つきながら。
それでもなお、息子を信じ、導こうとしている。
「……あなたは本当に、あの子の父ですね。」
アランの声はかすかに震えていた。
シリウスの子であると知っていても、
レギュラスはアルタイルを息子として育ててきた。
血よりも深い絆を、日々の言葉と行動で刻んできた。
そして今、その息子を――光の道へと送り出そうとしている。
「彼の中に、あなたの強さがちゃんと宿っています。」
アランは微笑んだ。
「きっと、辿り着きます。あなたの思いも、真実も。」
レギュラスは目を閉じた。
静かに頷く。
部屋の空気が柔らかくなる。
彼はそのままアランの手を取り、指先を絡めた。
「あなたがそう言ってくれるだけで、救われます。」
窓の外では夜風が吹き、月光が薄く差し込む。
二人の手の影が、机の上で重なり合う。
どれほど闇が深くとも、
確かにそこに光があった。
その光は、彼らの息子へと受け継がれ、
やがて闇を裂く剣となる。
レギュラスはその未来を信じ、
アランはその背を、涙を堪えて見つめていた。
――託すということは、手放すこと。
けれど、それは決して終わりではない。
静寂の中、二人の間に流れたのは、
祈りにも似た温もりだった。
夜の静寂は、いつもこの屋敷の奥でひそやかに息づいている。
厚い絨毯が足音を吸い込み、燭台の炎が金糸の壁を淡く照らす。
その光の下で、エリナ・ウェルズは医務魔女としての白衣を脱ぎ、
指先でそっと自らの手首を撫でた。
その皮膚の奥には、まだあの夜の余韻が微かに残っている気がしてならなかった。
――一度だけ。
ほんの一度だけ。
彼女はこの屋敷の主人、レギュラス・ブラックと夜を共にした。
それはまるで夢のような一夜だった。
あの鉄壁のような男の、完璧なまでに閉ざされた鎧の内側に、
自分の指先が触れたのだ。
その瞬間の衝撃と陶酔は、
エリナにとって、それまでの人生を塗り替えるほどの輝きだった。
思えば、自分の人生は地味で平凡なものだった。
貴族でもなく、華やかな血筋でもなく。
努力と勉学だけで、ようやく医務魔女としての地位を築いた。
“人を救う手”さえあれば、
どんな高貴な者たちの中でも、かろうじて息ができる――
それだけを信じてここまできた。
けれど、そんな自分の眼前に立つアラン・ブラックは、
まるで別の世界の住人のようだった。
長い病を経てなお、その肌は雪のように白く、
瞳は翡翠のように透きとおっている。
三十を越え、二人の子を持つ身でありながら、
その美貌は一輪の薔薇のように気高く、決して萎れることがなかった。
彼女の母、リシェル・ブラウンもまた類まれなる美しさで知られ、
かつて王に愛された女だと聞く。
娘は母の面影をそのまま受け継ぎ、
さらに“ブラック”の名にふさわしい気品を備えていた。
――選ばれた女。
その言葉が、エリナの胸の奥で何度も響いた。
そう、アラン・ブラックは“天に選ばれた者”だ。
使用人として屋敷に仕え、やがて当主に見初められ、
純血の世界の頂点にまで上りつめた。
物語にでも描かれそうな美しい奇跡を、
彼女は現実に生きている。
だから、エリナはいつも自分に言い聞かせていた。
――あの人は違う。
――あの人は、自分とは生まれた場所から違う。
それでも。
あの夜、確かにレギュラスの瞳が自分を見た。
凍てつくように冷たい灰色の瞳が、
一瞬、弱さを見せた。
そこにあるのは、愛でも情熱でもない。
ただ、痛みと孤独――それでもよかった。
彼の内側に触れられた、それだけで。
あの時の温もりを思い出すたびに、
エリナの胸は誇りと熱でいっぱいになる。
自分のような女が、あの完璧な男の鎧を脱がせた。
それは奇跡だった。
凡庸な人生に訪れた、唯一無二の光。
彼に触れられた瞬間、
自分の存在が一気に色づき、
世界が輝きを帯びたように感じた。
――私は、勝ったのだ。
そう思った。
アラン・ブラックのような女の影に生きてきた自分が、
一度でも、あの男の心の中に入り込めたのだから。
けれど。
それきりだった。
あの夜のあと、レギュラスは二度と自分に触れなかった。
視線さえ合わせることもなくなった。
かつて一度だけ交わされた言葉の温度が、
まるで幻だったかのように、冷たく遠ざかっていった。
そして代わりに、彼は妻を呼ぶようになった。
書斎に。
あの密室に、幾度も幾度も。
何時間も、何時間も。
二人は中から出てこない。
扉の向こうで、何が話され、何が交わされているのか。
エリナにはわからなかった。
ただ、蝋燭の影が床を揺らすたび、
心臓の奥が焼けつくように痛んだ。
任務――そう、自分には“任務”があった。
騎士団から命じられた、監視。
「レギュラス・ブラックの動きを探れ」
それが、彼女に与えられた使命。
だが今、エリナの胸の中には、
“任務”という言葉よりもずっと強い感情が渦巻いていた。
レギュラスが、あの女をどう見ているのか。
どんな声で呼び、どんな目で見つめているのか。
それだけが、知りたかった。
彼の背を見送るたびに、
あの一夜がまるで夢のように遠ざかっていく。
冷たい現実の中で、
エリナ・ウェルズという女の心は、
ひとひらの灰のように崩れ落ちていった。
――あの夜だけが、自分の真実。
けれど、あの人にとっては過ちでしかなかったのだろう。
そう思いながらも、彼女はまだ信じたかった。
自分の中で燃え尽きない微かな光を。
それがたとえ、彼にとっての“影”であっても。
エリナは静かに拳を握った。
その爪が掌に食い込んで痛む。
けれどその痛みさえも、
彼の残り香のように甘く、
消えないままでいた。
暖炉の火がゆるやかに揺れていた。
深夜の騎士団本部は、冬の夜の冷気に包まれながらも、静寂に満ちていた。
ジェームズ・ポッターは机の上に積まれた書類をぼんやりと眺めていたが、視線はとうに文字を追っていなかった。
その心は別の場所――ブラック家の屋敷にあった。
「……来ないな。」
独り言のような呟きが、静かな部屋に落ちる。
ジェームズの手には、一通の古びた封筒が握られていた。
それは最後に届いた、医務魔女エリナ・ウェルズからの報告書。
数日前まで、彼女は欠かすことなく定期的に情報を送ってきていた。
内容は些細なもの――レギュラス・ブラックがどの時間に外出したか、
アラン・ブラックの体調、屋敷の中の人の出入り。
どれも淡々とした記録に過ぎなかった。
だが、その報告が途絶えて、もう十日が経つ。
ジェームズは、封筒の縁を無意識に指で撫でながら、
微かに眉を寄せた。
「何かが起こっている気がする。」
部屋の奥で、椅子に凭れかかっていたリーマス・ルーピンが顔を上げた。
彼は穏やかな目でジェームズを見ながら、
少しだけ肩を竦める。
「考えすぎじゃないのか?」
「だといいんだがな。」
ジェームズは小さくため息を漏らした。
暖炉の炎が、木の壁に赤い揺らめきを落とす。
炎の反射で、ジェームズの眼鏡の奥の瞳が一瞬だけ光った。
「ここしばらく、レギュラス・ブラックは神秘部の危険物管理局に顔を出していない。
あいつが一日中屋敷に籠っているなんて、到底あり得ない。
それなのに、エリナから何の報告もない。」
「夫婦仲が良くて、報告することがないんじゃないか?」
リーマスの声は柔らかかった。
けれど、それがほんの冗談であることはすぐに分かった。
ジェームズは軽く苦笑して首を振る。
「その冗談、シリウスの前でだけは言わないでくれよ。」
リーマスも同じように苦笑した。
「言うわけないさ。命が惜しい。」
二人の間にわずかな笑いが生まれる。
けれど、その笑いはすぐに沈黙に飲み込まれた。
再び重く垂れ込める静けさ。
ジェームズは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
心の奥では、言いようのない不安がゆっくりと形を成していく。
報告がないということ――
それは、何も起こっていないことを意味するのか。
それとも、もう“報告できない状態”になっているのか。
暖炉の火がぱちりと音を立てた。
木がはぜる音がやけに耳に残る。
ジェームズは指で机を軽く叩いた。
思考が止まらない。
レギュラスの動き、エリナの沈黙、そして――アランの存在。
「報告がなければ、シリウスは……それを読んで心を乱されずに済む。」
ぽつりと呟いた声に、リーマスが静かに頷く。
「そうだな。ある意味では、平穏だ。」
「……報告のなさが平穏、か。」
ジェームズは苦く笑った。
「でも、あの屋敷の平穏ほど、信用ならないものはない。」
窓の外では、冷たい風が吹き荒れていた。
雲の切れ間から覗く月が、薄く光を落とす。
静寂の中、炎の影がジェームズの頬を照らした。
彼の胸中には、ひとつの確信が芽生えつつあった。
――“何かが動いている”。
報告がないというその事実こそが、
最も危うい兆しなのだと。
その夜、ジェームズは眠らなかった。
次の報告が届くことを信じながら、
届かない予感を、誰よりも強く感じていた。
リディア・ブラックは、兄の背中を見つめていた。
兄アルタイルは最近、ハリー・ポッターやシリウス・ブラックと親しく過ごしている。
その姿を遠くから見ていると、胸の奥が締め付けられるようだった。
――お兄様が光に近づいていく。
そんな予感が、どうしようもなく恐ろしかった。
ハリーやシリウスを嫌っているわけではない。
否定したいわけでもない。
むしろ、彼らの中にあるもの――“信念”や“光”と呼ぶべきものを、心の底では眩しいと思っている。
彼らは、どこまでも真っ直ぐだ。
正義を掲げ、仲間を守り、闇を断ち切ろうとする。
その姿は、まるで闇夜に浮かぶ燈火のように美しい。
だからこそ、怖い。
光は、闇を容赦なく貫く。
もしその光が、いつか父を、そして育ての母であるアランを照らし、
そのまま焼き尽くしてしまったら――
そう思うたびに、胸の奥に冷たい恐怖が芽生える。
リディアは知っていた。
父レギュラス・ブラックが、闇の帝王に仕えていることを。
幼い頃から、誰も口には出さなかったが、屋敷の空気で分かった。
闇の陣営と呼ばれる場所の、その中心近くに父がいるということを。
そして、その父が大切にしている純血の思想。
“血”は特別であるという誇り。
それを、リディア自身も理解している。
――自分たちの中に流れる血は、ただの血ではない。
祖先たちが何百年も守ってきた、魔法の系譜そのもの。
その血は、力であり、歴史であり、誇りだ。
確かに、それはもう時代遅れの考え方なのかもしれない。
マグルとの融合を目指す世界の方が、きっと“正しい”のだろう。
けれど、すべての境界をなくしてしまえば、
このブラックの血の意味は、いったいどこに消えてしまうのだろう。
“特別”であることが罪だと言われる世界に、どうやって息をして生きればいいのか。
リディアにはそれが分からなかった。
彼女は兄を見上げた。
高い天井の下、柔らかな光がステンドグラスを透かして、
アルタイルの横顔を照らしている。
その光はどこか神聖で、少しだけ遠かった。
――お願い、お兄様。
遠くに行かないで。
あの光の側に行ってしまえば、
もう二度と戻ってこられない気がする。
まるで実母カサンドラのように。
あの人も、ある日突然、風のように去っていった。
残された者の寂しさを、リディアはもう二度と味わいたくなかった。
彼女は躊躇いながらも、声を出した。
「お兄様……お兄様は、卒業後どんな職をお考えですの?」
アルタイルが驚いたように振り向く。
「どうしたんです? 急に。」
「いえ、何となく……」
リディアは微笑んでみせたが、指先は緊張で強ばっていた。
「お兄様が、どんな道に進まれるのか、気になって。」
兄が――
もし、騎士団に入ってしまったら。
闇払いになってしまったら。
いつか父に杖を向ける日が来るのではないか。
そんな未来を想像するだけで、喉が詰まりそうになった。
アルタイルは少し考えて、柔らかく笑った。
「人を導ける人になりたいと思ってます。」
「導ける人……?」
「はい。教壇に立ったり、後輩を指導したり。
そういう、誰かの力になれる仕事がしたいんです。」
リディアの胸の中に、ふっと温かい風が吹いた気がした。
安堵という名の光が、そっと胸を満たしていく。
兄はまだ、家族を突き刺す正義の刃を選んでいない。
彼の中にある“光”は、破壊ではなく、導くための光なのだ。
「……素敵ですわね、お兄様。」
小さく微笑みながら言ったその言葉は、
震えるほどの祈りでもあった。
どうか、このままで。
闇に堕ちず、光にも溶けず。
家族の傍にいてくれる存在でいてほしい。
アルタイルは、妹の想いに気づいていない。
けれど、リディアにはそれでよかった。
言葉にしてしまえば、
この淡い願いが壊れてしまいそうだから。
窓の外では、風がそよぎ、
遠くで鐘の音が静かに鳴っていた。
その響きが、祈りのように屋敷を包んでいた。
ひざまずいた瞬間、骨を通してその冷たさが伝わる。
息を潜め、レギュラス・ブラックは目の前に立つ“闇の帝王”を仰いだ。
薄闇の中、ヴォルデモートの姿はまるで影そのものだった。
長い指がゆるやかに動くたび、空気が軋むように震える。
その足元を、しなやかな蛇――ナギニが這い、
艶めく鱗が燭台の火を反射して妖しく光った。
レギュラスは頭を垂れ、
その蛇の動きを視界の端でとらえながら、
わずかに魔力を走らせる。
感知の呪を、声に出さずに唱える。
わずかに息を止め、
己の魔力を波紋のように空間へと放った。
空気の層を通して、
見えない振動が世界をなぞる。
それはまるで水面下を流れる光の糸のように、
静かに、しかし確実に広がっていく。
ナギニから漂う魔力を探る。
そして、主のそれ――ヴォルデモートの魔力と重ねる。
同じだ。
完全に一致している。
波の周期、魔力の質、鼓動のように脈打つリズムまでも。
蛇の体から放たれる禍々しい気配は、
まるで彼自身の魂を複製したかのような“反響”を帯びていた。
――やはり。
レギュラスは確信する。
ナギニこそ、闇の帝王の魂を宿した器――ホークラックス。
この男が己の魂を割き、封じた“生ける器”。
だからこそ、この蛇は他のどの獣とも違う。
まるで言葉を理解するように、
主の意志を読み取り、従う。
いや――忠誠などではない。
それは魂の同調。
主の一部が、主を守っているだけなのだ。
ナギニの黄金の瞳がゆっくりとレギュラスを向いた。
視線がぶつかった瞬間、
背筋に冷たいものが走る。
蛇の瞳の奥にもまた、あの男と同じ“闇”が潜んでいた。
――やはり、間違いない。
主の魔力を帯びた存在。
闇の帝王が死ぬことを決して許さぬよう、
この蛇の中に魂を閉じ込めたのだ。
「レギュラス・ブラック。」
冷たい声が響いた。
氷刃のような声音。
レギュラスは静かに顔を上げる。
「我が忠実なる従者よ。
お前の働きは見事だ。」
その瞬間、ナギニが主の足元からするりと進み出て、
レギュラスの周囲を一周した。
鱗が衣を撫で、空気がざわりと鳴る。
首をもたげ、彼の頬すれすれまで近づいた蛇の舌が、
空気を裂く音を立てる。
魔力が絡みつく。
ぞくりとするような悪寒が走る。
けれど、レギュラスは表情を崩さなかった。
――懐いている。
それが唯一の救いだった。
この蛇は確かに自分を“主と同じ”と見ている。
ホークラックスを見抜いたことで、
ナギニは本能的に感じ取ったのだ。
――この男は、我が主と同じ“闇”を持っていると。
それが、彼に懐いた理由。
そして今、唯一近づくことを許される存在である理由。
だが同時に、それは恐ろしくもあった。
この蛇を、どうやってヴォルデモートの手から離せるというのか。
常に彼の傍にいる。
護衛であり、守護者であり、分身。
もはや封印された魂そのもの。
離そうとすれば、主が即座に察知する。
奪おうとすれば、
彼女自身が凶器となって襲いかかる。
――けれど、やるしかない。
レギュラスはそう心に誓った。
この蛇を討てば、
ヴォルデモートの永遠が崩れ落ちる。
それがどれほど危険な賭けであっても、
これを破壊しなければ世界に夜明けは来ない。
「我が主のご命令、しかと心得ております。」
レギュラスは深く頭を垂れ、
表情を崩さぬままその場を離れた。
背中に絡みつくような視線を感じながら、
扉を出た瞬間、
息を詰めていた胸の奥がようやく解ける。
その瞳には、決意の炎が宿っていた。
――あの蛇を、奪う。
そして、終わらせる。
夜の闇が深く沈むほど、
レギュラス・ブラックの中で
光は確かに燃え上がっていた。
レギュラス・ブラックは、静かな夜の書斎にひとり佇んでいた。
灯火がゆらゆらと揺れ、机の上に落ちる影が波紋のように広がる。
誰もいないはずのこの部屋には、息を潜めたような気配があった。
まるで、壁までもが彼の決断を見守っているかのようだった。
――このままでは終わらない。
ヴォルデモートは再び動き出す。
そしてその傍らには、必ずナギニがいる。
蛇――それはもはや生き物ではなかった。
あの瞳の奥に宿るのは、魂の欠片。
闇の帝王自身の一部だった。
それを倒さぬ限り、闇は決して滅びない。
だが、レギュラス自身にはもう、
主の目前でその蛇を討つほどの立場も、機会も残されていなかった。
ナギニは、ヴォルデモートの影のように彼から離れない。
ならば――いつか誰かが、あの場で討たねばならない。
それを成し遂げられるのは、おそらく若き者たちだ。
光の側に立つ、未来の世代。
ハリー・ポッター。
そして、あのアルタイル。
息子の顔が脳裏に浮かぶ。
自分を信じながらも、心のどこかで父を疑っていた青年。
その葛藤の痛みを、誰よりも理解していた。
だからこそ、導いてやらねばならなかった。
彼が正義と信念の中で答えにたどり着くように。
レギュラスは机の引き出しを開けた。
そこには幾重もの封印がかけられた黒い手帳。
アルタイルが以前、この部屋で見つけられなかったものだ。
感知不可呪文の層の下に、わずかな抜け道を作る。
彼が次に探した時には、そこへ辿り着けるように。
手帳の表紙を撫でながら、
彼はその中の一枚に、魔法で薄く文字を刻んだ。
「蛇は影とともに生きる。
主の魂の音に共鳴し、その身を永遠とする。
闇を断つ剣は、炎と勇気の紋章に宿る。」
まるで古の詩文のように見えるそれは、
ナギニがホークラックスであるということ、
そして“グリフィンドールの剣”こそがそれを滅ぼせることを暗に示す符号だった。
アルタイルなら気づく。
彼の聡明さと、真実を追う心があれば。
そして、もう一つ。
書斎の片隅――
アランと共に撮った古い家族写真の裏に、
もう一枚、魔法で隠された羊皮紙を滑り込ませた。
そこには蛇の紋章とともに、
ホークラックスの魔力波形を魔法式で描き出してあった。
闇の魔法を学ばぬ者にはただの幾何模様にしか見えない。
けれど、アルタイルの目にはそれが“父が何かを残そうとした痕跡”として映るだろう。
「……気づいてくれますね、アルタイル。」
誰にも聞こえぬような声で呟いた。
彼の声は震えていた。
それが希望であると同時に、別れの予感でもあったから。
レギュラスはそっと手帳を閉じ、
机の上に灰色の羽ペンを置いた。
その羽の先端――アランの髪を一房、魔法で封じ込めてある。
家族の香りが、最後の守りになるように。
彼は深く息を吐いた。
夜の闇が彼の肩を包み、
外の風が窓を震わせる。
――導くことは、裏切ることではない。
――真実に導くことこそ、愛だ。
「これでいい……」
椅子を引き、静かに立ち上がる。
外の空には月が昇っていた。
白銀の光が書斎の床を照らし、
彼の影がゆっくりと伸びる。
その影の中に、
レギュラスはかすかに笑みを浮かべた。
それは、父としての最後の願いの笑み。
息子が自らの信じる正義を貫き、
やがて本当の“闇の終焉”を見届けてくれることを信じて。
そして彼は、誰にも知られぬまま、
光と闇の狭間へと歩み去っていった。
夜の帳が降り、屋敷の灯がひとつ、またひとつと落ちていく。
寝静まった廊下を抜け、アランは書斎へと足を踏み入れた。
机の上には、レギュラスが使っていた地図と、
彼の手を離れることのなかった黒鉄のコンパスが置かれている。
手に取ると、ひんやりと冷たい。
まるで、闇そのものを閉じ込めたかのような感触。
中心に埋め込まれた翡翠色の針が、
淡く揺らめきながら北東の方角を指していた。
――反応している。
ごく微かに、だが確かに。
闇の帝王の魔力の波長が、針先に反応している。
アランは地図を広げ、
レギュラスが印をつけてきた数多の地点を指先でなぞる。
その中に、ひとつだけ――彼がまだ印をつけていない場所があった。
死の谷(The Hollow of Mourning)
北の果てに位置する、古くから魔法使いたちの間で
「魂の眠る地」と呼ばれてきた場所。
記録上はただの荒廃した渓谷にすぎない。
だが実際には、何百年も前の大戦で命を落とした魔法使いたちの魂が
いまだに成仏できず彷徨っているとされている。
木を隠すなら森の中。
ならば、魂を隠すなら――魂の中に。
アランの中で確信にも似た直感が走った。
ヴォルデモートほどの男なら、そうするだろう。
魂の断片を、他の魂の渦の中に紛れ込ませて隠す。
それこそ、最も見つけられぬ“聖域”であり、最も侵してはならぬ“墓場”。
指先に力が入る。
地図の上で針が震える。
風もないのに、部屋の空気が重たく波打った。
「……ここね。」
小さく呟いた声が、蝋燭の炎に吸い込まれて消える。
針がぴたりと止まる。
その瞬間、背筋を這い上がるような冷気が襲った。
死者の残滓だ。
この場所の名を呼んだだけで、
彼らの囁きが耳の奥でざわめくように響く。
――ここに長く立ち続けてはいけない。
この地は、生きる者の心を侵す。
結界を張っていなければ、魂を削られてしまう。
アランは両手を胸の前で組み、
無意識に防護の呪文を唱えていた。
彼女の魔力が空気を震わせ、部屋の中の陰影が淡く滲む。
そのとき。
「アラン、まだ起きていたんですか?」
背後からレギュラスの声。
振り返ると、薄衣の上着を羽織った彼が立っていた。
その灰色の瞳は疲れを滲ませながらも、
どこか穏やかで、夜の静けさに溶けていた。
「少し……整理をしていただけです。」
アランは慌てて地図を畳んだ。
折り畳む手の動きがわずかに震える。
コンパスの針はまだ微かに震えたままだったが、
それを掌で隠すようにして見せた。
レギュラスは彼女の側に歩み寄り、
机の上の灯をひとつ落とした。
闇が少し濃くなり、彼の影が伸びる。
「無理はなさらないでください。」
彼は静かに言った。
「このところ、休まずに考え詰めている。
……あなたのそういうところが、僕は心配なんです。」
アランは小さく微笑んだ。
「あなたに言われたくありませんわ。」
言葉は柔らかいのに、どこか切ない響きを帯びていた。
レギュラスの手が、そっと彼女の肩に置かれる。
温かい。
その温もりが、いっそう胸を締めつけた。
――言えない。
この地の名を口にすれば、
彼は迷わずそこへ向かう。
どれほど危険でも、
そこに闇の帝王の影があると知れば必ず。
その未来が、あまりにもはっきりと見えてしまった。
だから、アランはただ首を振る。
「本当に……何でもありません。」
「そうですか。」
レギュラスは彼女を見つめる。
いつも通りの穏やかな声音だった。
けれどその瞳の奥では、
彼女が何かを隠していると悟っている光がわずかに揺れた。
それでも追及はしない。
ただ彼は、そっと彼女の肩を撫でた。
「無理をしないでくださいね。」
そう言って、レギュラスは静かに背を向けた。
扉の向こうに消える瞬間、
アランは息を詰めたまま彼の影を見送った。
掌の中では、コンパスの針がまだ震えている。
北の果て――“死の谷”の方向を。
その震えは、まるで死者の声のように、
彼女にだけ届く囁きとなって響いていた。
――行かなければならない。
けれど、まだ今ではない。
アランは胸の奥にその決意を封じ込め、
静かに目を閉じた。
蝋燭の炎が細く揺れ、
ひとひらの灰が舞い上がる。
それは、まるで彼女の迷いのように、
夜の闇の中に溶けて消えていった。
長い年月を共に過ごしてきた。
彼女の沈黙が何を意味するのか、もう言葉など要らなかった。
笑みの奥の翳りも、指先のわずかな震えも、呼吸の乱れも——
それらが何を物語るのか、レギュラスにはすぐに分かってしまう。
だからこそ、アランが「何でもない」と言った時点で、
彼女が何かを隠していることなど、痛いほど分かっていた。
「アラン。」
そう言って、彼はゆっくりと彼女の肩を押し、
ソファに腰を下ろさせた。
その動作は優しく、けれど抗えない重みを帯びていた。
レギュラスは彼女が先ほど机に置いたままの地図を手に取り、
丁寧に折り目を戻して広げる。
その隣でアランの指がかすかに震えた。
地図の上には、針がかすかに震える黒鉄のコンパス。
それはまだ、何かを指し続けている。
「……まって、レギュラス。」
アランの声が掠れる。
彼女の手が、思わず彼の腕を掴んだ。
「あなたはあまりにも隠し事が下手すぎますよ。」
レギュラスは静かに微笑んだ。
優しくも、どこか切ない声音。
コンパスを持ち上げると、翡翠色の針が指す方向へと
その視線をたどっていく。
「……“死の谷”ですね。」
アランの胸が強く痛んだ。
ため息が零れ、静寂の部屋に溶けて消える。
「よく気づきましたね。」
「あなたに言いたくなかったのは、
隠そうとしたわけではありません。」
アランは絞り出すように言った。
俯いた横顔が、蝋燭の明かりに淡く照らされる。
レギュラスはその瞳を見つめながら、小さく頷いた。
「わかっていますよ。」
柔らかな言葉が、胸の奥に沁みていく。
自分を気遣ってくれたのだ。
一人で行かせたくないと、恐れてくれたのだ。
それが、どれほど嬉しいことか。
彼女が自分を引き止めようとする——
そのたったひとつの行為に、
長年乾ききっていた心が静かに満たされていくようだった。
「……生きて戻れそうにないですね。」
ふと、彼は呟いた。
その声には恐れではなく、ただ淡々とした覚悟があった。
死の谷。
魂が群れをなして彷徨い、
魔法の結界をいくつ張っても防ぎきれないほどの呪気に満ちた地。
生者が長く立てば、心を蝕まれ、狂気に堕ちるという。
「さすがに今回ばかりは、厳しいのかもしれません。」
アランは顔を上げ、レギュラスの横顔を見つめた。
その灰色の瞳は、静かに揺れていた。
凍てつくように冷たいはずのその瞳に、
今は淡い炎が宿っている。
――怖いのだ、この人も。
けれど、立ち止まることができない。
「それでも、一緒にいると約束してください……レギュラス。」
その言葉は、かすかに震えていた。
祈りにも似て、涙にも似て。
けれど、確かに彼の心の奥へと届いた。
レギュラスはその場に膝をつき、
アランの両手を静かに包み込む。
その手のひらは、驚くほど冷たかった。
「ええ。」
彼は短く答える。
その声は低く、揺るぎなかった。
「一緒に行きましょう。
どこまでも、あなたと。」
沈黙が降りた。
外では風が唸り、窓を叩いている。
二人の間にあるのは、ただひとつの灯だけ。
その光が、彼女の翡翠の瞳を柔らかく照らしていた。
それは誓いの光だった。
共に生き、共に死ぬと約束した夜。
長い運命の旅路が、また静かに動き出した。
いつのまにか、彼に感情を読まれることを恐ろしいとも、やましいとも思わなくなっていた。
レギュラス・ブラックという男は、昔からそういう人だった。
目の前の相手が何を考えているか、どんな言葉を呑み込んでいるか――
それを見抜くことに長けていた。
けれど今のアランにとって、その洞察の鋭さは恐れではなく、
静かな感嘆に近かった。
よく見ている。本当に。
声の揺れか、表情のわずかな翳りか。
あるいは、呼吸の間の沈黙からなのか。
何から察しているのかは分からない。
けれど彼はいつだって、鮮やかに、静かに、
アランの心の奥に隠れた言葉を暴き出すのだった。
レギュラスは机の上に置かれた書類を整え、
翡翠色のコンパスを手に取る。
針は微かに震えたまま、北東――“死の谷”の方向を指している。
だが今夜、彼の言葉はそれよりも深く、決定的なものだった。
「……ナギニはやはり、ホークラックスで間違いないです。」
淡々とした声だった。
しかしその静けさの奥には、確固たる確信と疲労が滲んでいた。
「闇の帝王のそばを離れないあの蛇……
一体、どこに隙があるんでしょうね。」
アランは息を詰めて問い返す。
レギュラスはゆっくりと顔を上げた。
その灰色の瞳には、すでに覚悟の色が宿っていた。
「……未来の世代に託しましょう。
あれを討つように――アルタイルに示唆した物を、この部屋に残しています。」
アランの胸が静かに波立った。
父が、息子に託す。
命を懸けて探し当てた、闇の帝王の魂の欠片を。
それを、直接ではなく、あの子自身の手で見つけさせようとしている。
――まさに彼らしいやり方だった。
「直接は……言わないんですか?」
問いながら、どこかで答えを知っていた。
レギュラスは小さく首を振る。
「ええ。言えません。」
その言葉のあと、短い沈黙が落ちた。
蝋燭の炎が揺れるたび、部屋の影が波のように動く。
レギュラスの横顔は、強さと脆さが同居していた。
ホークラックスの存在を知りながら、
その禁忌の魔法使いに仕え続けた。
その過去を、息子に知られることを恐れているのかもしれない。
いや――違う。
アランには分かっていた。
彼は恐れているのではない。
息子の中に宿る“正義”を信じているがゆえに、
その正義の光が、自分の影を焼き尽くしてしまうことを悟っているのだ。
「アルタイルは、以前にも一度この部屋に入りました。」
レギュラスが静かに言う。
「検知魔法でわかりました。
どれほどの覚悟があってこの部屋に入ったのか……
そう思うと、胸が詰まりそうです。」
アランは小さく目を伏せた。
机の上に散らばる羊皮紙の端を指でなぞる。
レギュラスの言葉は、穏やかに聞こえるのに、
その一つ一つが、彼自身の痛みを滲ませていた。
――本当に、この人は。
強さと優しさを、両手に抱えて生きてきた。
そのせいで、何度も傷つきながら。
それでもなお、息子を信じ、導こうとしている。
「……あなたは本当に、あの子の父ですね。」
アランの声はかすかに震えていた。
シリウスの子であると知っていても、
レギュラスはアルタイルを息子として育ててきた。
血よりも深い絆を、日々の言葉と行動で刻んできた。
そして今、その息子を――光の道へと送り出そうとしている。
「彼の中に、あなたの強さがちゃんと宿っています。」
アランは微笑んだ。
「きっと、辿り着きます。あなたの思いも、真実も。」
レギュラスは目を閉じた。
静かに頷く。
部屋の空気が柔らかくなる。
彼はそのままアランの手を取り、指先を絡めた。
「あなたがそう言ってくれるだけで、救われます。」
窓の外では夜風が吹き、月光が薄く差し込む。
二人の手の影が、机の上で重なり合う。
どれほど闇が深くとも、
確かにそこに光があった。
その光は、彼らの息子へと受け継がれ、
やがて闇を裂く剣となる。
レギュラスはその未来を信じ、
アランはその背を、涙を堪えて見つめていた。
――託すということは、手放すこと。
けれど、それは決して終わりではない。
静寂の中、二人の間に流れたのは、
祈りにも似た温もりだった。
夜の静寂は、いつもこの屋敷の奥でひそやかに息づいている。
厚い絨毯が足音を吸い込み、燭台の炎が金糸の壁を淡く照らす。
その光の下で、エリナ・ウェルズは医務魔女としての白衣を脱ぎ、
指先でそっと自らの手首を撫でた。
その皮膚の奥には、まだあの夜の余韻が微かに残っている気がしてならなかった。
――一度だけ。
ほんの一度だけ。
彼女はこの屋敷の主人、レギュラス・ブラックと夜を共にした。
それはまるで夢のような一夜だった。
あの鉄壁のような男の、完璧なまでに閉ざされた鎧の内側に、
自分の指先が触れたのだ。
その瞬間の衝撃と陶酔は、
エリナにとって、それまでの人生を塗り替えるほどの輝きだった。
思えば、自分の人生は地味で平凡なものだった。
貴族でもなく、華やかな血筋でもなく。
努力と勉学だけで、ようやく医務魔女としての地位を築いた。
“人を救う手”さえあれば、
どんな高貴な者たちの中でも、かろうじて息ができる――
それだけを信じてここまできた。
けれど、そんな自分の眼前に立つアラン・ブラックは、
まるで別の世界の住人のようだった。
長い病を経てなお、その肌は雪のように白く、
瞳は翡翠のように透きとおっている。
三十を越え、二人の子を持つ身でありながら、
その美貌は一輪の薔薇のように気高く、決して萎れることがなかった。
彼女の母、リシェル・ブラウンもまた類まれなる美しさで知られ、
かつて王に愛された女だと聞く。
娘は母の面影をそのまま受け継ぎ、
さらに“ブラック”の名にふさわしい気品を備えていた。
――選ばれた女。
その言葉が、エリナの胸の奥で何度も響いた。
そう、アラン・ブラックは“天に選ばれた者”だ。
使用人として屋敷に仕え、やがて当主に見初められ、
純血の世界の頂点にまで上りつめた。
物語にでも描かれそうな美しい奇跡を、
彼女は現実に生きている。
だから、エリナはいつも自分に言い聞かせていた。
――あの人は違う。
――あの人は、自分とは生まれた場所から違う。
それでも。
あの夜、確かにレギュラスの瞳が自分を見た。
凍てつくように冷たい灰色の瞳が、
一瞬、弱さを見せた。
そこにあるのは、愛でも情熱でもない。
ただ、痛みと孤独――それでもよかった。
彼の内側に触れられた、それだけで。
あの時の温もりを思い出すたびに、
エリナの胸は誇りと熱でいっぱいになる。
自分のような女が、あの完璧な男の鎧を脱がせた。
それは奇跡だった。
凡庸な人生に訪れた、唯一無二の光。
彼に触れられた瞬間、
自分の存在が一気に色づき、
世界が輝きを帯びたように感じた。
――私は、勝ったのだ。
そう思った。
アラン・ブラックのような女の影に生きてきた自分が、
一度でも、あの男の心の中に入り込めたのだから。
けれど。
それきりだった。
あの夜のあと、レギュラスは二度と自分に触れなかった。
視線さえ合わせることもなくなった。
かつて一度だけ交わされた言葉の温度が、
まるで幻だったかのように、冷たく遠ざかっていった。
そして代わりに、彼は妻を呼ぶようになった。
書斎に。
あの密室に、幾度も幾度も。
何時間も、何時間も。
二人は中から出てこない。
扉の向こうで、何が話され、何が交わされているのか。
エリナにはわからなかった。
ただ、蝋燭の影が床を揺らすたび、
心臓の奥が焼けつくように痛んだ。
任務――そう、自分には“任務”があった。
騎士団から命じられた、監視。
「レギュラス・ブラックの動きを探れ」
それが、彼女に与えられた使命。
だが今、エリナの胸の中には、
“任務”という言葉よりもずっと強い感情が渦巻いていた。
レギュラスが、あの女をどう見ているのか。
どんな声で呼び、どんな目で見つめているのか。
それだけが、知りたかった。
彼の背を見送るたびに、
あの一夜がまるで夢のように遠ざかっていく。
冷たい現実の中で、
エリナ・ウェルズという女の心は、
ひとひらの灰のように崩れ落ちていった。
――あの夜だけが、自分の真実。
けれど、あの人にとっては過ちでしかなかったのだろう。
そう思いながらも、彼女はまだ信じたかった。
自分の中で燃え尽きない微かな光を。
それがたとえ、彼にとっての“影”であっても。
エリナは静かに拳を握った。
その爪が掌に食い込んで痛む。
けれどその痛みさえも、
彼の残り香のように甘く、
消えないままでいた。
暖炉の火がゆるやかに揺れていた。
深夜の騎士団本部は、冬の夜の冷気に包まれながらも、静寂に満ちていた。
ジェームズ・ポッターは机の上に積まれた書類をぼんやりと眺めていたが、視線はとうに文字を追っていなかった。
その心は別の場所――ブラック家の屋敷にあった。
「……来ないな。」
独り言のような呟きが、静かな部屋に落ちる。
ジェームズの手には、一通の古びた封筒が握られていた。
それは最後に届いた、医務魔女エリナ・ウェルズからの報告書。
数日前まで、彼女は欠かすことなく定期的に情報を送ってきていた。
内容は些細なもの――レギュラス・ブラックがどの時間に外出したか、
アラン・ブラックの体調、屋敷の中の人の出入り。
どれも淡々とした記録に過ぎなかった。
だが、その報告が途絶えて、もう十日が経つ。
ジェームズは、封筒の縁を無意識に指で撫でながら、
微かに眉を寄せた。
「何かが起こっている気がする。」
部屋の奥で、椅子に凭れかかっていたリーマス・ルーピンが顔を上げた。
彼は穏やかな目でジェームズを見ながら、
少しだけ肩を竦める。
「考えすぎじゃないのか?」
「だといいんだがな。」
ジェームズは小さくため息を漏らした。
暖炉の炎が、木の壁に赤い揺らめきを落とす。
炎の反射で、ジェームズの眼鏡の奥の瞳が一瞬だけ光った。
「ここしばらく、レギュラス・ブラックは神秘部の危険物管理局に顔を出していない。
あいつが一日中屋敷に籠っているなんて、到底あり得ない。
それなのに、エリナから何の報告もない。」
「夫婦仲が良くて、報告することがないんじゃないか?」
リーマスの声は柔らかかった。
けれど、それがほんの冗談であることはすぐに分かった。
ジェームズは軽く苦笑して首を振る。
「その冗談、シリウスの前でだけは言わないでくれよ。」
リーマスも同じように苦笑した。
「言うわけないさ。命が惜しい。」
二人の間にわずかな笑いが生まれる。
けれど、その笑いはすぐに沈黙に飲み込まれた。
再び重く垂れ込める静けさ。
ジェームズは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
心の奥では、言いようのない不安がゆっくりと形を成していく。
報告がないということ――
それは、何も起こっていないことを意味するのか。
それとも、もう“報告できない状態”になっているのか。
暖炉の火がぱちりと音を立てた。
木がはぜる音がやけに耳に残る。
ジェームズは指で机を軽く叩いた。
思考が止まらない。
レギュラスの動き、エリナの沈黙、そして――アランの存在。
「報告がなければ、シリウスは……それを読んで心を乱されずに済む。」
ぽつりと呟いた声に、リーマスが静かに頷く。
「そうだな。ある意味では、平穏だ。」
「……報告のなさが平穏、か。」
ジェームズは苦く笑った。
「でも、あの屋敷の平穏ほど、信用ならないものはない。」
窓の外では、冷たい風が吹き荒れていた。
雲の切れ間から覗く月が、薄く光を落とす。
静寂の中、炎の影がジェームズの頬を照らした。
彼の胸中には、ひとつの確信が芽生えつつあった。
――“何かが動いている”。
報告がないというその事実こそが、
最も危うい兆しなのだと。
その夜、ジェームズは眠らなかった。
次の報告が届くことを信じながら、
届かない予感を、誰よりも強く感じていた。
リディア・ブラックは、兄の背中を見つめていた。
兄アルタイルは最近、ハリー・ポッターやシリウス・ブラックと親しく過ごしている。
その姿を遠くから見ていると、胸の奥が締め付けられるようだった。
――お兄様が光に近づいていく。
そんな予感が、どうしようもなく恐ろしかった。
ハリーやシリウスを嫌っているわけではない。
否定したいわけでもない。
むしろ、彼らの中にあるもの――“信念”や“光”と呼ぶべきものを、心の底では眩しいと思っている。
彼らは、どこまでも真っ直ぐだ。
正義を掲げ、仲間を守り、闇を断ち切ろうとする。
その姿は、まるで闇夜に浮かぶ燈火のように美しい。
だからこそ、怖い。
光は、闇を容赦なく貫く。
もしその光が、いつか父を、そして育ての母であるアランを照らし、
そのまま焼き尽くしてしまったら――
そう思うたびに、胸の奥に冷たい恐怖が芽生える。
リディアは知っていた。
父レギュラス・ブラックが、闇の帝王に仕えていることを。
幼い頃から、誰も口には出さなかったが、屋敷の空気で分かった。
闇の陣営と呼ばれる場所の、その中心近くに父がいるということを。
そして、その父が大切にしている純血の思想。
“血”は特別であるという誇り。
それを、リディア自身も理解している。
――自分たちの中に流れる血は、ただの血ではない。
祖先たちが何百年も守ってきた、魔法の系譜そのもの。
その血は、力であり、歴史であり、誇りだ。
確かに、それはもう時代遅れの考え方なのかもしれない。
マグルとの融合を目指す世界の方が、きっと“正しい”のだろう。
けれど、すべての境界をなくしてしまえば、
このブラックの血の意味は、いったいどこに消えてしまうのだろう。
“特別”であることが罪だと言われる世界に、どうやって息をして生きればいいのか。
リディアにはそれが分からなかった。
彼女は兄を見上げた。
高い天井の下、柔らかな光がステンドグラスを透かして、
アルタイルの横顔を照らしている。
その光はどこか神聖で、少しだけ遠かった。
――お願い、お兄様。
遠くに行かないで。
あの光の側に行ってしまえば、
もう二度と戻ってこられない気がする。
まるで実母カサンドラのように。
あの人も、ある日突然、風のように去っていった。
残された者の寂しさを、リディアはもう二度と味わいたくなかった。
彼女は躊躇いながらも、声を出した。
「お兄様……お兄様は、卒業後どんな職をお考えですの?」
アルタイルが驚いたように振り向く。
「どうしたんです? 急に。」
「いえ、何となく……」
リディアは微笑んでみせたが、指先は緊張で強ばっていた。
「お兄様が、どんな道に進まれるのか、気になって。」
兄が――
もし、騎士団に入ってしまったら。
闇払いになってしまったら。
いつか父に杖を向ける日が来るのではないか。
そんな未来を想像するだけで、喉が詰まりそうになった。
アルタイルは少し考えて、柔らかく笑った。
「人を導ける人になりたいと思ってます。」
「導ける人……?」
「はい。教壇に立ったり、後輩を指導したり。
そういう、誰かの力になれる仕事がしたいんです。」
リディアの胸の中に、ふっと温かい風が吹いた気がした。
安堵という名の光が、そっと胸を満たしていく。
兄はまだ、家族を突き刺す正義の刃を選んでいない。
彼の中にある“光”は、破壊ではなく、導くための光なのだ。
「……素敵ですわね、お兄様。」
小さく微笑みながら言ったその言葉は、
震えるほどの祈りでもあった。
どうか、このままで。
闇に堕ちず、光にも溶けず。
家族の傍にいてくれる存在でいてほしい。
アルタイルは、妹の想いに気づいていない。
けれど、リディアにはそれでよかった。
言葉にしてしまえば、
この淡い願いが壊れてしまいそうだから。
窓の外では、風がそよぎ、
遠くで鐘の音が静かに鳴っていた。
その響きが、祈りのように屋敷を包んでいた。
