4章
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屋敷の食堂には、昼間の宴の香水と花の余韻がまだ残っていた。
花弁を散らした大広間の花瓶が、今も彩りを保っている。
ワインの赤がグラスの中で小さく波打ち、
燭台の炎が揺れた。
レギュラスはその日のうちに、
アルタイルを呼び寄せていた。
舞踏会が終わって間もない。
まだ客たちが帰ったばかりの静けさの中、
彼は息子の言葉を待っていた。
手元の帳簿には、今日招いた令嬢たちの家名が並んでいる。
純血の名門ばかり、血統も格式も申し分ない。
娘たちは一様に美しく、笑顔も仕草も洗練されていた。
誰を選んでも、後悔のない顔合わせになるだろう――そう思っていた。
だが、息子はどう感じたのだろう。
それが気にかかっていた。
「……あなたの候補として挙げた令嬢の中に、めぼしい人はいたのでしょうか。」
そう切り出すと、
アルタイルは少し姿勢を正して椅子に座った。
舞踏会の最中、彼は終始穏やかではあったが、
どの令嬢にも積極的に話しかける様子がなかった。
礼儀を欠くわけでもなく、笑顔も保っていたが、
まるでそこに居ながら心だけがどこか別の場所にいるようだった。
――その様子が、どこか自分に似ている気がした。
若い頃、社交の場というものが苦手だった。
無意味な言葉と笑顔の応酬が、
どうしても空虚に思えて仕方がなかった。
レギュラスはワイングラスを傾けながら、
テーブル越しに息子を見た。
「アルタイル、どうでした? 誰か気になる令嬢は?」
アルタイルは少し眉を下げて、困ったように笑った。
「父さん……すごく言いにくいんですけど。」
「どうしました?」
レギュラスの手が止まる。
グラスの中で赤い液体が静かに揺れる。
先を促しても、アルタイルは唇を噛みしめてなかなか言わない。
沈黙の間に、嫌な予感がじわじわと広がった。
――まさか、誰も選ばなかった?
「もしかして……全員、お目にかないませんでした?」
そう尋ねながら、
グラスの縁に残る赤い滴を見つめた。
自分が選んだ令嬢たちは、
血筋も容姿も文句のつけようがなかった。
当時のアランほどの輝きはないかもしれないが、
どの娘も、誰かの妻として誇れるほどに整っていた。
しかし、それはあくまで父レギュラスの美的感覚だ。
息子にとっては、違ったのかもしれない。
社交界というものは怖い。
招いた宴の場で、もし誰一人として選ばなかったとなれば、
すぐに噂が広がる。
「選ばなかった」という事実が、
「選べなかった」になり、
やがて「女性に興味がないのでは」などという
馬鹿げた憶測へと変わる。
息子にそんな火の粉が降りかかることだけは避けたかった。
だから、なおさら焦りが募る。
「いや、そうではなくて……」
アルタイルはうつむいた。
「その……」
彼の迷うような声音に、レギュラスは息を詰めた。
心臓が静かに鳴る。
まるでこの沈黙が永遠に続くかのようだった。
そして――ようやく、アルタイルが顔を上げた。
「名前がわからないんですけど。
あの、小さな少女が……一番、僕の理想です。」
その瞬間、レギュラスの時が止まった。
「……小さな、少女?」
視線の先――つい先ほどまでの舞踏会の記憶が蘇る。
アルタイルが指差したのは、
華やかなドレスの令嬢たちの間を、
小さな足取りで歩く少女だった。
まだ幼い。
せいぜい五歳か、六歳。
もしかすると、もっと下かもしれない。
他の令嬢の妹か、付き添いで来た親族の子だろう。
宝石も髪飾りもほとんどなく、
ドレスも簡素で、袖口に少しほつれがある。
だが、そこに不思議な清らかさがあった。
透き通るような白い肌。
瞳は、灰色――いや、どこか銀に近い。
どこまでも真っ直ぐにアルタイルを見つめ返していた。
「……アルタイル、本気ですか。」
レギュラスは我知らず、低い声を漏らした。
「今すぐに、というわけじゃありません。」
アルタイルは頬を染めながら言った。
「でも、あの子が――一番、理想なんです。」
その言葉には、
一瞬の迷いもなかった。
レギュラスは息を呑み、
ワインの香りを遠くに追いやる。
――この息子が、こんなにも真っ直ぐな目をするのを、
いつ以来見ただろうか。
あまりにも意外で、
あまりにも純粋だった。
父としての戸惑いと、
一人の男としての理解が交錯する。
「……そうですか。」
レギュラスは、ゆっくりと息を吐いた。
「では、その少女がどこの家の者か――
調べてみましょう。」
アルタイルの瞳が輝いた。
その瞬間、レギュラスは悟った。
自分が何を言おうとも、
息子の心はもう決まっているのだと。
まだ幼い一輪の花。
けれど、アルタイルの中で、
その花はすでに永遠の色を宿していた。
夜はすでに更けていた。
ブラック家の寝室には、灯りを半分落としたランプが淡く光を落とし、
月明かりがレースのカーテン越しにゆらめいていた。
アランは鏡台の前で長い髪をほどき、
櫛を通しながらその柔らかな光に包まれていた。
背後の扉が静かに開く。
レギュラスが入ってきた。
ワインの香りを纏いながらも、疲労の滲む気配がある。
「……アルタイルのことですが。」
アランが振り返る。
レギュラスは寝衣の上着の襟を少しゆるめ、
ベッド脇の椅子に腰を下ろした。
「意外でした。」
低く、それでいてどこか愉しげな声だった。
「意外?」
「ええ。彼が興味を示した子が――まさか、あんな小さな少女だとは思いませんでした。」
アランの翡翠色の瞳がわずかに揺れる。
手にしていた櫛をそっと膝に置いた。
「調べてあげているそうですね。」
「ええ、調べさせています。」
レギュラスは頷き、ワイングラスを傾けるような仕草で手を持ち上げた。
「どうしましょうかね。僕が選んだ令嬢の妹だった場合……。」
苦笑いのような息が零れる。
その声音には、父としての戸惑いと、貴族としての慎重さが入り混じっていた。
アランは微笑を含んで言った。
「まあ、それは……いささか複雑ですわね。」
「でしょう?」
レギュラスは軽く目を閉じる。
「さすがに申し訳ない気がしてきますよ。
だって、その姉を“候補”として招いた宴で――息子は妹に目を奪われたんですから。」
皮肉と愛情が同居するような声音。
それが、どこか少年のように無邪気に響いた。
アランは小さく笑った。
「そういうところ、あなたに似ているのかもしれません。」
レギュラスはその言葉に顔を上げた。
「……僕に?」
「ええ。いったん“この人だ”と思ってしまったら、
他の誰も目に入らなくなるところが。」
その言葉は、冗談めかしているようで、
どこか胸の奥をくすぐるような温かさを持っていた。
レギュラスは微笑を浮かべ、アランを見つめる。
「確かに……否定できませんね。」
思い返せば、あの日。
使用人として屋敷にやってきた少女を初めて見た瞬間、
全ての理性が軋むように崩れ落ちていった。
気高く、静謐で、触れれば壊れてしまいそうな少女。
それがアランだった。
「アルタイルも、ああ見えて頑固です。
もし本気で惹かれたなら、きっとあの子は迷わないでしょう。」
「まるで、あなたみたいですね。」
アランは少し微笑んだ。
ランプの光が彼女の横顔を柔らかく照らし、
その影が壁に落ちる。
「でも……」と彼女は少しだけ視線を伏せた。
「家名のない子だったら、どうなさるのです?」
レギュラスは少し考えるように唇に指を添えた。
「……それが問題ですね。」
ブラック家の血統を継ぐ者として、
相手の家柄は無視できない。
けれど――心の奥で、もう一つの声が囁く。
血でも格式でもない。
“この人だ”と思える誰かに出会ってしまえば、
他のすべてが霞んでいく。
それをレギュラス自身、痛いほど知っていた。
「それでも、あの子の選んだ相手を、
僕が否定できるかは……分かりません。」
そう言って、彼は静かに目を閉じた。
ランプの灯がゆらゆらと揺れる。
アランはその横顔を見つめたまま、
小さく囁くように言った。
「……やっぱり、親子ですね。」
レギュラスはゆっくりと目を開け、
アランを見つめ返した。
その瞳には、柔らかい光が宿っていた。
二人の間に漂う沈黙は、
かつての冷たいすれ違いのものではなく、
穏やかに寄り添うような静寂だった。
その夜、
月は二人の影を重ねるように照らしていた。
夜更けの静寂。
ブラック家の書斎には、蝋燭の灯だけがかすかに揺れていた。
紙の焦げたような匂いと、古書の埃の香り。
窓の外では風が唸り、遠くで雷の腹音が響いている。
レギュラスは机の上に並べた羊皮紙に目を落としていた。
魔法生物に関する記録、ヴォルデモートの行動記録、
そして彼自身が長年かけて集めた断片的な情報。
「……ナギニ。」
静かな声が、書斎の中に沈んだ。
アランは紅茶を手に、そっと彼の傍に立っていた。
彼の声にこめられた思索の重みが、
空気ごと部屋をひき締める。
「ナギニが、何かを握っている気がするんです。」
アランが眉を寄せた。
「蛇の……ナギニが?」
レギュラスは深く頷いた。
「根拠がないわけじゃありません。」
手にしていた羽ペンを置くと、
ゆっくりとその記憶を紐解くように語り始めた。
「闇の帝王にホークラックスの保護を申し出た時、
あの蛇――ナギニが、妙に僕に懐いたんです。
普通なら、彼女は主以外の者に決して近寄らない。
あれは、ただの従属や訓練で従っているような存在ではありません。
まるで……彼女自身が、闇の帝王の分身のように感じた。」
アランは息を呑んだ。
その言葉が意味するものを、瞬時に理解した。
「あなたがホークラックスを見抜いたときも、
ナギニはあなたのそばを離れなかったと聞きました。」
「そうです。」
レギュラスは静かに言った。
「その時から、僕を敵ではないと判断したのでしょう。
あるいは……同じ“気配”を感じ取ったのかもしれません。」
アランはカップを机に置いた。
茶葉の沈んだ音が微かに響く。
「まさか、ナギニが――」
「もしもですよ。」
レギュラスは言葉を選ぶように間を置いた。
「闇の帝王のそばにいる“あの蛇”が、ホークラックスの一つだったとしたら……。」
静寂が落ちた。
アランの瞳が揺れる。
心のどこかで、それが真実であると感じてしまう恐怖。
「……常に、彼のそばにいますね。」
アランの声は低く、しかし確信に近い響きを持っていた。
「どんな封印を施すより、安全です。
誰も、あの蛇に手を出すことはできません。」
レギュラスはゆっくりと頷いた。
「そうなんです。だから――見落としていました。」
言葉と同時に、息を吐く。
長く張り詰めていた糸が、ほんの少し緩むような音だった。
「彼女を見たとき、何か違和感があったんです。
単なる使い魔にしては、魔力の濃度が異常でした。
まるで……生きている“呪具”そのもののような。」
アランはそっとレギュラスの肩に手を添える。
「あなたは、また一つ真実に近づいたのですね。」
「真実、か……」
レギュラスは遠い目をした。
「もし、ナギニがホークラックスであるなら、
ヴォルデモートの魂の一部は、あの蛇の体に宿っているということです。
破壊するには、ただ倒すだけでは足りない。
魂を断ち切らねばならない……。」
アランの指が、彼の肩に力を込めた。
「そんなことを、あなた一人で考えないで。」
レギュラスは小さく笑った。
その笑みには、疲労と安堵、そしてわずかな痛みが滲んでいる。
「僕の考えに、こうして耳を傾けてくれるのは、あなたしかいません。」
その声に、アランの胸が締めつけられる。
彼がどれだけの闇を抱え、孤独な戦いをしてきたかを
痛いほどに知っているから。
窓の外では、風が唸りをあげ、
遠雷がまたひとつ鳴った。
書斎の中で、二人の影が寄り添うように揺れている。
レギュラスの声が、再び低く響いた。
「――あの蛇を、次に見たとき。
僕はその目を、まっすぐに見ようと思います。
もしそこに“人の魂”の光が宿っているのなら、
僕はきっと、見逃せない。」
その決意の響きに、
アランは静かに息を詰めた。
ナギニ――闇の底に棲む、永遠の番人。
彼女の中に何が潜んでいるのか。
その夜、ふたりの胸の奥で、ひとつの予感が静かに形を取り始めていた。
屋敷は静まり返っていた。
重厚な扉の奥、書斎の前に立ったアルタイルは、
何度も手を伸ばしては引っ込めた。
――本当に、入るのか。
胸の奥で声がする。
けれど、その声を振り払うように、
彼は意を決して扉の取っ手を握った。
金属の冷たさが指先に伝わる。
ゆっくりと押し開くと、
油の香りと古書の匂いが混じり合った、
あの父の空気が流れ込んできた。
整然とした机。
一枚の紙も乱れていない。
羽ペンはいつもの角度でインク壺に差し込まれている。
すべてが几帳面で、
まるでこの部屋そのものが“父レギュラス・ブラック”であるかのようだった。
アルタイルはそっと扉を閉め、
小さな音すら立てないように息を詰めた。
罪悪感が押し寄せてくる。
胸の中で、何かが強く軋んだ。
父の信頼を裏切る行為。
けれど、そうと知りながらも足を止めることはできなかった。
――ハリーのために。
自分が信じたい正義のために。
彼と並んで戦いたい。
恐怖も痛みも、分け合えるような場所に立ちたい。
けれど、そのためには父の“秘密”に触れねばならない。
それがどれほど危険なことかは、誰よりも分かっているのに。
机に近づくと、そこに写真立てが並んでいた。
幼い自分を抱きかかえる父。
隣には、柔らかな笑みを浮かべる母。
少し離れた場所には、妹リディアの幼い笑顔もあった。
家族の温もりが、一枚一枚の写真から滲み出している。
「……父さん。」
思わず呟いた声が震えた。
どんな時も自分を誇りに思ってくれた父。
厳しくも、穏やかに導いてくれた父。
そして母を誰よりも大切にし、守り抜いてきた男。
その愛情を知っているからこそ、
今、自分がしていることがどれほどの裏切りなのか分かる。
胸の奥が焼けるように痛い。
それでも――止まれなかった。
アルタイルは震える手で、
机の上の書類の束に触れた。
羊皮紙を一枚ずつめくる。
整った筆跡が並んでいるが、
どれも政務的な書簡ばかりだった。
――やはり、何もない。
次に目を向けたのは、本棚。
革装丁の背表紙が整列し、
長年の手入れの痕跡が光を反射している。
魔法史、純血家系図、魔法生物学、そして暗黒の儀式書。
どれも一度は父が手に取った痕跡があった。
本を引き抜く。
ページの間に挟まれた羊皮紙があるかと期待したが、
それも空振りだった。
――本当に、何もない。
引き出しを開けた。
ペン先の替え、封蝋、整然と並ぶインク。
どこにも“秘密”の気配はない。
「……そんなはず、ない。」
思わず呟いた声が、部屋に吸い込まれる。
父がこの部屋に何も隠していないはずがない。
あの完璧主義の男が。
何層もの魔法で屋敷を守っている男が。
杖を取り出し、小声で呪文を唱える。
「Revelio(暴け)……」
しかし、杖は応えなかった。
光すら放たれない。
魔力の流れが遮断されている。
アルタイルは悟った。
――この部屋には、探知魔法無効の結界が張られている。
父の魔法だ。
誰一人として、彼の知らぬうちに何かを暴くことはできない。
徹底していた。
まるで、誰か――いや、自分のような者が
いつかここに踏み込むことを、
父自身が予見していたかのようだった。
アルタイルは机に手をつき、肩で息をした。
胸の奥に焦燥と悔しさが渦巻く。
――やはり、父には到底及ばない。
その現実が、痛いほど突きつけられる。
憧れと尊敬、そして恐れ。
それらが混ざり合って、胸の奥がぐちゃぐちゃにかき回される。
「僕は……父さんの半分にも届かない。」
そう呟いた時、
ふと視線の端に、額縁の中の家族写真が見えた。
そこには、笑う父の腕の中で、幼い自分が無邪気に笑っている。
母が寄り添い、妹がその手を握っている。
――どうして、こんなにも幸せそうなのに。
僕は、その笑顔を裏切ろうとしているのだろう。
目頭が熱くなる。
けれど、涙は零さなかった。
ここで泣けば、決意まで崩れてしまう気がした。
「ごめん、父さん。」
小さく呟き、アルタイルは杖を握り直す。
部屋を出る前に、机の上に置かれた羽ペンの角度を、
ほんの少しだけ元の位置に戻した。
父が気づかぬように。
けれど、それが唯一の“跡”になってしまうことを、
このときの彼はまだ知らなかった。
扉を閉める音が、
屋敷の静寂の中に吸い込まれていった。
暖炉の火がぱちぱちと音を立てていた。
夜更けの騎士団の部屋。
木の床を撫でるように炎の光が揺れ、
古い机の上に、封を切られた手紙が一枚置かれている。
シリウス・ブラックは、
その手紙を両手で包み込むように持っていた。
指先が微かに震えている。
便箋に走る筆跡は、どこまでも丁寧で、真面目で、
どこかあの優しい青年そのものだった。
――父の書斎に入りました。
感知不可呪文が張り巡らされており、
何一つ見つけることはできませんでした。
その一文を目で追うたびに、
胸の奥が締めつけられる。
あのレギュラス・ブラックの書斎に――。
息子が、恐怖と罪悪感を抱えながらも
自らの足でその扉を開けたのだ。
どれほどの勇気が必要だっただろう。
息を殺しながら、その部屋に踏み込む姿が目に浮かぶようだった。
きっと震えていただろう。
父の筆跡ひとつ、机の香りひとつが、
彼にとっては裏切りの証のように感じられたに違いない。
けれど――それでも彼は手を止めなかった。
家族の写真がありました。
父が、母を、僕を、そして妹を、
どれほど大切に思っているのかが痛いほど伝わりました。
その文字を追った瞬間、
シリウスの胸の奥に熱が込み上げた。
息を呑み、思わず目を閉じる。
火の光が頬を照らす。
けれど、それは暖かさではなく、痛みに近かった。
――なんて優しい子なんだ。
たとえ敵陣の中心に踏み込もうと、
そこにある“愛”を見逃さない。
それがアルタイルという青年なのだ。
あの子の中には、アランの静かな優しさと、
自分の中にある燃えるような衝動が、
奇跡のように調和している。
シリウスは手紙を胸に押し当てた。
涙が込み上げてくる。
けれど、それをこらえるように笑った。
涙を流せば、胸の中にいるアランに、
“弱いね”とからかわれそうで。
「……泣かせるなよ、まったく。」
掠れた声で呟く。
背後でジェームズが入ってきた。
「何か掴めたようかい?」
シリウスは小さく首を振った。
「いや……やっぱり何もなかった。」
「そうか。」
ジェームズは短く息を吐き、
暖炉の前に腰を下ろした。
「……まぁ、当然だな。
あのレギュラス・ブラックが、
子どもの手に掴まれるような証拠を残すわけがない。」
その言葉には皮肉よりも、
どこか認めざるを得ない畏怖が滲んでいた。
ジェームズでさえ、少しだけ肩を落としている。
シリウスは微かに笑みを浮かべた。
「でもな……あいつ、やり遂げたんだ。
父親の書斎に入って、
何も得られなくても、
真っすぐに自分の信じるものを選んだ。」
ジェームズは沈黙のまま頷いた。
炎の光が、シリウスの横顔を照らしている。
その表情には、誇りと痛み、そして深い愛情が滲んでいた。
――今すぐに抱きしめてやりたい。
そう思った。
怖かったはずだ。
罪悪感に押しつぶされそうだっただろう。
それでも、信念を貫いた。
その姿を想像するだけで、胸の奥が焼けるように熱くなる。
息子が、ここまで立派に育ってくれた。
アランが見たら、きっと涙をこぼすだろう。
シリウスは再び手紙を見下ろす。
端に少しだけインクのにじみがあった。
そのにじみが、彼の迷いと勇気の証のように思えた。
「……ありがとうな、アルタイル。」
誰に聞かせるでもなく、
シリウスは静かに呟いた。
その声は炎の音に溶け、
夜の闇に吸い込まれていった。
手紙の上には、わずかに震える指先が落ちる。
そしてその指先が、
長い時を越えて繋がる“父と息子”の絆の形だった。
夜の帳が屋敷を包み、
重たい雲が月を隠していた。
書斎の扉を押し開けると、
そこには静けさだけがあった。
レギュラス・ブラックはゆっくりと中へ足を踏み入れる。
わずかに、空気の流れが違っていた。
整然としているはずの羽ペンの角度、
机上の羊皮紙の端。
几帳面に揃えていた位置が、
ほんのわずかにずれている。
彼の目はすぐにその違和感を捉えた。
机の前に立ち、
指先をそっと滑らせる。
魔力の残滓が微かに反応した。
淡く金色の光が指先に滲む。
――アルタイル。
ため息がこぼれた。
想像はしていた。
いや、いつかこうなることを
心のどこかで覚悟していたのだろう。
「……やはり、来たか。」
息子は息子なりに何かを探っている。
自分の背を追い、
闇の奥に手を伸ばそうとしている。
真実を暴こうとして。
その小さな背中を思うと、胸が締めつけられる。
怒りはなかった。
叱る気持ちもない。
むしろ、胸の奥を掻きむしられるような痛みが広がった。
どれほどの葛藤の末に、この扉を開けたのだろう。
レギュラスは机の端に腰を下ろした。
灯りに照らされた髪が、
揺れる炎に照らされて柔らかく光る。
――あの子は、知っているのだ。
シリウスが本当の父であることを。
けれど、なお「父さん」と呼び続けてくれている。
その理由を考えるたび、胸が痛む。
それが礼節なのか、
あるいは情けなのか――分からない。
だが、その不器用な優しさは、
まるでアランのそれに似ていた。
かつて、アランもそうだった。
シリウスを愛し抜いた上で、
なお自分の隣に立つことを選んでくれた。
拒むことも、責めることもなく、
ただ静かに寄り添ってくれた。
妻も息子も、自分にばかり情をかけてくれる。
その事実が、どうしようもなく情けなかった。
「……僕は、なんと弱い人間なんでしょうね。」
独り言のように呟く。
部屋に残る彼の声は、
まるで古びた木の壁に溶けていくように消えた。
けれど――いまは、立ち止まることなどできない。
この手に残された使命がある。
闇の帝王のホークラックス。
それを暴き、回収し、そして滅ぼす。
自らの命を天秤にかけてでも、
この時代に終止符を打たねばならない。
レギュラスは立ち上がり、
机の奥の引き出しをそっと開けた。
そこには、封じの呪文で覆われた数枚の羊皮紙。
地図のようにも見えるが、
魔力の層がいくつも重なり、
容易に解読できるものではない。
「……騎士団に渡すべき時が来るかもしれないな。」
小さく呟き、視線を落とす。
ホークラックスをすべて暴ければ、
グリフィンドールの剣が“正しい役割”を果たす時が来るだろう。
もしかしたら――その時、自分は生き残るかもしれない。
けれど、そうでなくても構わない。
「アランが共にあると、言ってくれた。」
その言葉だけで、
もはや何も恐れるものはなかった。
彼女が共に歩むと誓ってくれた。
たとえそれが地の底であろうと、
闇の果てであろうと。
レギュラスは指先で机を撫でた。
そこには、ほんの微かな跡――
アルタイルが震える手で触れたであろう感触が残っていた。
「アルタイル……。」
その名を、誰に聞かせるでもなく口にする。
炎がぱちりと弾け、
揺れる光が彼の瞳を照らした。
愛している。
そう思うのに、伝えることすらできない。
それがこの世で最も残酷な愛の形だと、
レギュラスはようやく悟っていた。
机の上の灯をひとつ消す。
書斎が闇に沈む。
窓の外には、月がようやく雲間から顔を覗かせていた。
それはまるで、遠い夜空の向こうで
父と息子を静かに見守る光のように、
優しく彼を包んでいた。
夜は深く、静かだった。
窓の外では冷たい風がカーテンをわずかに揺らし、
寝室には蝋燭の光が淡く揺れていた。
アランが扉を開けると、
そこにレギュラスがいた。
ベッドの端に腰を下ろし、
片手で目頭を押さえている。
肩が小さく震えていた。
「……レギュラス?」
返事はない。
けれど、彼の指の隙間から、
一筋の光が頬を伝っているのが見えた。
アランは息を呑んだ。
この魔法界で、誰よりも冷静で、
誰よりも強く、誰よりも人の心に踏み込まなかった男が――
今、泣いていた。
「どうしました……?」
問いかける声が、
まるで触れれば壊れてしまう硝子細工のように震えていた。
レギュラスはかすかに首を振る。
「……いえ、なんでも。」
それ以上、言葉は続かなかった。
その声がかすれていた。
強がりだと、すぐにわかった。
アランはゆっくりと歩み寄る。
足音を殺すように。
そして、そっと腕を回した。
冷たい空気の中で、
レギュラスの体温だけが確かな現実だった。
その胸に顔を埋めると、
彼の心音が、かすかに震えて響く。
「すみません……」
彼の唇から漏れたその一言に、
アランの胸が痛んだ。
――謝らなくていい。
そんな言葉を口にするよりも早く、
彼女は抱きしめる腕に力を込めた。
まるで、自分の温もりで
この人の痛みを包み込みたかった。
どれほどの闇を一人で背負ってきたのだろう。
どれほどの孤独を、自らの中に押し込めてきたのだろう。
共に背負おうと、あの日、誓ったはずなのに。
それでもこの人は、いつも一人で抱え込もうとする。
そうしなければ立っていられないのだと分かっていても、
その癖が、どうしようもなく切なかった。
――どうして、あなたはそんなにも遠くへ行こうとするの。
並んで歩いているはずなのに、
いつも背中を見ている気がする。
どれだけ手を伸ばしても、
その先へ行こうとする。
指先が空を掴むように届かなくなる瞬間が、
たまらなく怖かった。
アランはレギュラスの頬に手を添えた。
涙の跡が冷たく光っている。
指先でそれをなぞると、
彼の瞳が、ゆっくりとこちらを向いた。
灰色の瞳。
冷たく、深く、
まるで凍てついた湖のようなその色。
けれどアランは知っている。
その奥には、誰よりも熱い炎が燃えていることを。
決して人には見せない、
彼だけの激情。
「……レギュラス。」
名を呼ぶと、彼はわずかに目を細めた。
いつもの冷静な顔ではなかった。
脆く、儚く、ひとりの人間としての表情だった。
その姿が、痛いほど愛おしかった。
「ねぇ……あなた。」
アランはその瞳を見つめた。
燃える灰のように揺れる光が、
蝋燭の灯と混ざり合い、
彼の頬を照らしていた。
「あなたのその涙を見るたびに、
私まで壊れそうになるのです。」
レギュラスは何も言わなかった。
ただ、アランの頬に手を伸ばし、
震える指先で髪をなぞった。
アランは微笑んだ。
「どうしてもっと早くに、
この気持ちに気づけなかったのでしょう。」
彼女の声は、囁くように優しかった。
レギュラスの胸に頬を寄せながら、
その鼓動の音を聞いていた。
過去に戻れたなら――そう思わずにはいられない。
もっと早く、この人を愛したかった。
もっと早く、寄り添ってやりたかった。
けれど今は、もう後戻りなどできない。
ただ、この瞬間を抱きしめるしかなかった。
レギュラスの指が、
アランの髪を撫でた。
静かな夜。
二人の間に言葉はなかった。
けれど、沈黙より雄弁な愛がそこにあった。
灰色の瞳の奥で、
まだ燃え続ける炎が、
確かにアランを映していた。
花弁を散らした大広間の花瓶が、今も彩りを保っている。
ワインの赤がグラスの中で小さく波打ち、
燭台の炎が揺れた。
レギュラスはその日のうちに、
アルタイルを呼び寄せていた。
舞踏会が終わって間もない。
まだ客たちが帰ったばかりの静けさの中、
彼は息子の言葉を待っていた。
手元の帳簿には、今日招いた令嬢たちの家名が並んでいる。
純血の名門ばかり、血統も格式も申し分ない。
娘たちは一様に美しく、笑顔も仕草も洗練されていた。
誰を選んでも、後悔のない顔合わせになるだろう――そう思っていた。
だが、息子はどう感じたのだろう。
それが気にかかっていた。
「……あなたの候補として挙げた令嬢の中に、めぼしい人はいたのでしょうか。」
そう切り出すと、
アルタイルは少し姿勢を正して椅子に座った。
舞踏会の最中、彼は終始穏やかではあったが、
どの令嬢にも積極的に話しかける様子がなかった。
礼儀を欠くわけでもなく、笑顔も保っていたが、
まるでそこに居ながら心だけがどこか別の場所にいるようだった。
――その様子が、どこか自分に似ている気がした。
若い頃、社交の場というものが苦手だった。
無意味な言葉と笑顔の応酬が、
どうしても空虚に思えて仕方がなかった。
レギュラスはワイングラスを傾けながら、
テーブル越しに息子を見た。
「アルタイル、どうでした? 誰か気になる令嬢は?」
アルタイルは少し眉を下げて、困ったように笑った。
「父さん……すごく言いにくいんですけど。」
「どうしました?」
レギュラスの手が止まる。
グラスの中で赤い液体が静かに揺れる。
先を促しても、アルタイルは唇を噛みしめてなかなか言わない。
沈黙の間に、嫌な予感がじわじわと広がった。
――まさか、誰も選ばなかった?
「もしかして……全員、お目にかないませんでした?」
そう尋ねながら、
グラスの縁に残る赤い滴を見つめた。
自分が選んだ令嬢たちは、
血筋も容姿も文句のつけようがなかった。
当時のアランほどの輝きはないかもしれないが、
どの娘も、誰かの妻として誇れるほどに整っていた。
しかし、それはあくまで父レギュラスの美的感覚だ。
息子にとっては、違ったのかもしれない。
社交界というものは怖い。
招いた宴の場で、もし誰一人として選ばなかったとなれば、
すぐに噂が広がる。
「選ばなかった」という事実が、
「選べなかった」になり、
やがて「女性に興味がないのでは」などという
馬鹿げた憶測へと変わる。
息子にそんな火の粉が降りかかることだけは避けたかった。
だから、なおさら焦りが募る。
「いや、そうではなくて……」
アルタイルはうつむいた。
「その……」
彼の迷うような声音に、レギュラスは息を詰めた。
心臓が静かに鳴る。
まるでこの沈黙が永遠に続くかのようだった。
そして――ようやく、アルタイルが顔を上げた。
「名前がわからないんですけど。
あの、小さな少女が……一番、僕の理想です。」
その瞬間、レギュラスの時が止まった。
「……小さな、少女?」
視線の先――つい先ほどまでの舞踏会の記憶が蘇る。
アルタイルが指差したのは、
華やかなドレスの令嬢たちの間を、
小さな足取りで歩く少女だった。
まだ幼い。
せいぜい五歳か、六歳。
もしかすると、もっと下かもしれない。
他の令嬢の妹か、付き添いで来た親族の子だろう。
宝石も髪飾りもほとんどなく、
ドレスも簡素で、袖口に少しほつれがある。
だが、そこに不思議な清らかさがあった。
透き通るような白い肌。
瞳は、灰色――いや、どこか銀に近い。
どこまでも真っ直ぐにアルタイルを見つめ返していた。
「……アルタイル、本気ですか。」
レギュラスは我知らず、低い声を漏らした。
「今すぐに、というわけじゃありません。」
アルタイルは頬を染めながら言った。
「でも、あの子が――一番、理想なんです。」
その言葉には、
一瞬の迷いもなかった。
レギュラスは息を呑み、
ワインの香りを遠くに追いやる。
――この息子が、こんなにも真っ直ぐな目をするのを、
いつ以来見ただろうか。
あまりにも意外で、
あまりにも純粋だった。
父としての戸惑いと、
一人の男としての理解が交錯する。
「……そうですか。」
レギュラスは、ゆっくりと息を吐いた。
「では、その少女がどこの家の者か――
調べてみましょう。」
アルタイルの瞳が輝いた。
その瞬間、レギュラスは悟った。
自分が何を言おうとも、
息子の心はもう決まっているのだと。
まだ幼い一輪の花。
けれど、アルタイルの中で、
その花はすでに永遠の色を宿していた。
夜はすでに更けていた。
ブラック家の寝室には、灯りを半分落としたランプが淡く光を落とし、
月明かりがレースのカーテン越しにゆらめいていた。
アランは鏡台の前で長い髪をほどき、
櫛を通しながらその柔らかな光に包まれていた。
背後の扉が静かに開く。
レギュラスが入ってきた。
ワインの香りを纏いながらも、疲労の滲む気配がある。
「……アルタイルのことですが。」
アランが振り返る。
レギュラスは寝衣の上着の襟を少しゆるめ、
ベッド脇の椅子に腰を下ろした。
「意外でした。」
低く、それでいてどこか愉しげな声だった。
「意外?」
「ええ。彼が興味を示した子が――まさか、あんな小さな少女だとは思いませんでした。」
アランの翡翠色の瞳がわずかに揺れる。
手にしていた櫛をそっと膝に置いた。
「調べてあげているそうですね。」
「ええ、調べさせています。」
レギュラスは頷き、ワイングラスを傾けるような仕草で手を持ち上げた。
「どうしましょうかね。僕が選んだ令嬢の妹だった場合……。」
苦笑いのような息が零れる。
その声音には、父としての戸惑いと、貴族としての慎重さが入り混じっていた。
アランは微笑を含んで言った。
「まあ、それは……いささか複雑ですわね。」
「でしょう?」
レギュラスは軽く目を閉じる。
「さすがに申し訳ない気がしてきますよ。
だって、その姉を“候補”として招いた宴で――息子は妹に目を奪われたんですから。」
皮肉と愛情が同居するような声音。
それが、どこか少年のように無邪気に響いた。
アランは小さく笑った。
「そういうところ、あなたに似ているのかもしれません。」
レギュラスはその言葉に顔を上げた。
「……僕に?」
「ええ。いったん“この人だ”と思ってしまったら、
他の誰も目に入らなくなるところが。」
その言葉は、冗談めかしているようで、
どこか胸の奥をくすぐるような温かさを持っていた。
レギュラスは微笑を浮かべ、アランを見つめる。
「確かに……否定できませんね。」
思い返せば、あの日。
使用人として屋敷にやってきた少女を初めて見た瞬間、
全ての理性が軋むように崩れ落ちていった。
気高く、静謐で、触れれば壊れてしまいそうな少女。
それがアランだった。
「アルタイルも、ああ見えて頑固です。
もし本気で惹かれたなら、きっとあの子は迷わないでしょう。」
「まるで、あなたみたいですね。」
アランは少し微笑んだ。
ランプの光が彼女の横顔を柔らかく照らし、
その影が壁に落ちる。
「でも……」と彼女は少しだけ視線を伏せた。
「家名のない子だったら、どうなさるのです?」
レギュラスは少し考えるように唇に指を添えた。
「……それが問題ですね。」
ブラック家の血統を継ぐ者として、
相手の家柄は無視できない。
けれど――心の奥で、もう一つの声が囁く。
血でも格式でもない。
“この人だ”と思える誰かに出会ってしまえば、
他のすべてが霞んでいく。
それをレギュラス自身、痛いほど知っていた。
「それでも、あの子の選んだ相手を、
僕が否定できるかは……分かりません。」
そう言って、彼は静かに目を閉じた。
ランプの灯がゆらゆらと揺れる。
アランはその横顔を見つめたまま、
小さく囁くように言った。
「……やっぱり、親子ですね。」
レギュラスはゆっくりと目を開け、
アランを見つめ返した。
その瞳には、柔らかい光が宿っていた。
二人の間に漂う沈黙は、
かつての冷たいすれ違いのものではなく、
穏やかに寄り添うような静寂だった。
その夜、
月は二人の影を重ねるように照らしていた。
夜更けの静寂。
ブラック家の書斎には、蝋燭の灯だけがかすかに揺れていた。
紙の焦げたような匂いと、古書の埃の香り。
窓の外では風が唸り、遠くで雷の腹音が響いている。
レギュラスは机の上に並べた羊皮紙に目を落としていた。
魔法生物に関する記録、ヴォルデモートの行動記録、
そして彼自身が長年かけて集めた断片的な情報。
「……ナギニ。」
静かな声が、書斎の中に沈んだ。
アランは紅茶を手に、そっと彼の傍に立っていた。
彼の声にこめられた思索の重みが、
空気ごと部屋をひき締める。
「ナギニが、何かを握っている気がするんです。」
アランが眉を寄せた。
「蛇の……ナギニが?」
レギュラスは深く頷いた。
「根拠がないわけじゃありません。」
手にしていた羽ペンを置くと、
ゆっくりとその記憶を紐解くように語り始めた。
「闇の帝王にホークラックスの保護を申し出た時、
あの蛇――ナギニが、妙に僕に懐いたんです。
普通なら、彼女は主以外の者に決して近寄らない。
あれは、ただの従属や訓練で従っているような存在ではありません。
まるで……彼女自身が、闇の帝王の分身のように感じた。」
アランは息を呑んだ。
その言葉が意味するものを、瞬時に理解した。
「あなたがホークラックスを見抜いたときも、
ナギニはあなたのそばを離れなかったと聞きました。」
「そうです。」
レギュラスは静かに言った。
「その時から、僕を敵ではないと判断したのでしょう。
あるいは……同じ“気配”を感じ取ったのかもしれません。」
アランはカップを机に置いた。
茶葉の沈んだ音が微かに響く。
「まさか、ナギニが――」
「もしもですよ。」
レギュラスは言葉を選ぶように間を置いた。
「闇の帝王のそばにいる“あの蛇”が、ホークラックスの一つだったとしたら……。」
静寂が落ちた。
アランの瞳が揺れる。
心のどこかで、それが真実であると感じてしまう恐怖。
「……常に、彼のそばにいますね。」
アランの声は低く、しかし確信に近い響きを持っていた。
「どんな封印を施すより、安全です。
誰も、あの蛇に手を出すことはできません。」
レギュラスはゆっくりと頷いた。
「そうなんです。だから――見落としていました。」
言葉と同時に、息を吐く。
長く張り詰めていた糸が、ほんの少し緩むような音だった。
「彼女を見たとき、何か違和感があったんです。
単なる使い魔にしては、魔力の濃度が異常でした。
まるで……生きている“呪具”そのもののような。」
アランはそっとレギュラスの肩に手を添える。
「あなたは、また一つ真実に近づいたのですね。」
「真実、か……」
レギュラスは遠い目をした。
「もし、ナギニがホークラックスであるなら、
ヴォルデモートの魂の一部は、あの蛇の体に宿っているということです。
破壊するには、ただ倒すだけでは足りない。
魂を断ち切らねばならない……。」
アランの指が、彼の肩に力を込めた。
「そんなことを、あなた一人で考えないで。」
レギュラスは小さく笑った。
その笑みには、疲労と安堵、そしてわずかな痛みが滲んでいる。
「僕の考えに、こうして耳を傾けてくれるのは、あなたしかいません。」
その声に、アランの胸が締めつけられる。
彼がどれだけの闇を抱え、孤独な戦いをしてきたかを
痛いほどに知っているから。
窓の外では、風が唸りをあげ、
遠雷がまたひとつ鳴った。
書斎の中で、二人の影が寄り添うように揺れている。
レギュラスの声が、再び低く響いた。
「――あの蛇を、次に見たとき。
僕はその目を、まっすぐに見ようと思います。
もしそこに“人の魂”の光が宿っているのなら、
僕はきっと、見逃せない。」
その決意の響きに、
アランは静かに息を詰めた。
ナギニ――闇の底に棲む、永遠の番人。
彼女の中に何が潜んでいるのか。
その夜、ふたりの胸の奥で、ひとつの予感が静かに形を取り始めていた。
屋敷は静まり返っていた。
重厚な扉の奥、書斎の前に立ったアルタイルは、
何度も手を伸ばしては引っ込めた。
――本当に、入るのか。
胸の奥で声がする。
けれど、その声を振り払うように、
彼は意を決して扉の取っ手を握った。
金属の冷たさが指先に伝わる。
ゆっくりと押し開くと、
油の香りと古書の匂いが混じり合った、
あの父の空気が流れ込んできた。
整然とした机。
一枚の紙も乱れていない。
羽ペンはいつもの角度でインク壺に差し込まれている。
すべてが几帳面で、
まるでこの部屋そのものが“父レギュラス・ブラック”であるかのようだった。
アルタイルはそっと扉を閉め、
小さな音すら立てないように息を詰めた。
罪悪感が押し寄せてくる。
胸の中で、何かが強く軋んだ。
父の信頼を裏切る行為。
けれど、そうと知りながらも足を止めることはできなかった。
――ハリーのために。
自分が信じたい正義のために。
彼と並んで戦いたい。
恐怖も痛みも、分け合えるような場所に立ちたい。
けれど、そのためには父の“秘密”に触れねばならない。
それがどれほど危険なことかは、誰よりも分かっているのに。
机に近づくと、そこに写真立てが並んでいた。
幼い自分を抱きかかえる父。
隣には、柔らかな笑みを浮かべる母。
少し離れた場所には、妹リディアの幼い笑顔もあった。
家族の温もりが、一枚一枚の写真から滲み出している。
「……父さん。」
思わず呟いた声が震えた。
どんな時も自分を誇りに思ってくれた父。
厳しくも、穏やかに導いてくれた父。
そして母を誰よりも大切にし、守り抜いてきた男。
その愛情を知っているからこそ、
今、自分がしていることがどれほどの裏切りなのか分かる。
胸の奥が焼けるように痛い。
それでも――止まれなかった。
アルタイルは震える手で、
机の上の書類の束に触れた。
羊皮紙を一枚ずつめくる。
整った筆跡が並んでいるが、
どれも政務的な書簡ばかりだった。
――やはり、何もない。
次に目を向けたのは、本棚。
革装丁の背表紙が整列し、
長年の手入れの痕跡が光を反射している。
魔法史、純血家系図、魔法生物学、そして暗黒の儀式書。
どれも一度は父が手に取った痕跡があった。
本を引き抜く。
ページの間に挟まれた羊皮紙があるかと期待したが、
それも空振りだった。
――本当に、何もない。
引き出しを開けた。
ペン先の替え、封蝋、整然と並ぶインク。
どこにも“秘密”の気配はない。
「……そんなはず、ない。」
思わず呟いた声が、部屋に吸い込まれる。
父がこの部屋に何も隠していないはずがない。
あの完璧主義の男が。
何層もの魔法で屋敷を守っている男が。
杖を取り出し、小声で呪文を唱える。
「Revelio(暴け)……」
しかし、杖は応えなかった。
光すら放たれない。
魔力の流れが遮断されている。
アルタイルは悟った。
――この部屋には、探知魔法無効の結界が張られている。
父の魔法だ。
誰一人として、彼の知らぬうちに何かを暴くことはできない。
徹底していた。
まるで、誰か――いや、自分のような者が
いつかここに踏み込むことを、
父自身が予見していたかのようだった。
アルタイルは机に手をつき、肩で息をした。
胸の奥に焦燥と悔しさが渦巻く。
――やはり、父には到底及ばない。
その現実が、痛いほど突きつけられる。
憧れと尊敬、そして恐れ。
それらが混ざり合って、胸の奥がぐちゃぐちゃにかき回される。
「僕は……父さんの半分にも届かない。」
そう呟いた時、
ふと視線の端に、額縁の中の家族写真が見えた。
そこには、笑う父の腕の中で、幼い自分が無邪気に笑っている。
母が寄り添い、妹がその手を握っている。
――どうして、こんなにも幸せそうなのに。
僕は、その笑顔を裏切ろうとしているのだろう。
目頭が熱くなる。
けれど、涙は零さなかった。
ここで泣けば、決意まで崩れてしまう気がした。
「ごめん、父さん。」
小さく呟き、アルタイルは杖を握り直す。
部屋を出る前に、机の上に置かれた羽ペンの角度を、
ほんの少しだけ元の位置に戻した。
父が気づかぬように。
けれど、それが唯一の“跡”になってしまうことを、
このときの彼はまだ知らなかった。
扉を閉める音が、
屋敷の静寂の中に吸い込まれていった。
暖炉の火がぱちぱちと音を立てていた。
夜更けの騎士団の部屋。
木の床を撫でるように炎の光が揺れ、
古い机の上に、封を切られた手紙が一枚置かれている。
シリウス・ブラックは、
その手紙を両手で包み込むように持っていた。
指先が微かに震えている。
便箋に走る筆跡は、どこまでも丁寧で、真面目で、
どこかあの優しい青年そのものだった。
――父の書斎に入りました。
感知不可呪文が張り巡らされており、
何一つ見つけることはできませんでした。
その一文を目で追うたびに、
胸の奥が締めつけられる。
あのレギュラス・ブラックの書斎に――。
息子が、恐怖と罪悪感を抱えながらも
自らの足でその扉を開けたのだ。
どれほどの勇気が必要だっただろう。
息を殺しながら、その部屋に踏み込む姿が目に浮かぶようだった。
きっと震えていただろう。
父の筆跡ひとつ、机の香りひとつが、
彼にとっては裏切りの証のように感じられたに違いない。
けれど――それでも彼は手を止めなかった。
家族の写真がありました。
父が、母を、僕を、そして妹を、
どれほど大切に思っているのかが痛いほど伝わりました。
その文字を追った瞬間、
シリウスの胸の奥に熱が込み上げた。
息を呑み、思わず目を閉じる。
火の光が頬を照らす。
けれど、それは暖かさではなく、痛みに近かった。
――なんて優しい子なんだ。
たとえ敵陣の中心に踏み込もうと、
そこにある“愛”を見逃さない。
それがアルタイルという青年なのだ。
あの子の中には、アランの静かな優しさと、
自分の中にある燃えるような衝動が、
奇跡のように調和している。
シリウスは手紙を胸に押し当てた。
涙が込み上げてくる。
けれど、それをこらえるように笑った。
涙を流せば、胸の中にいるアランに、
“弱いね”とからかわれそうで。
「……泣かせるなよ、まったく。」
掠れた声で呟く。
背後でジェームズが入ってきた。
「何か掴めたようかい?」
シリウスは小さく首を振った。
「いや……やっぱり何もなかった。」
「そうか。」
ジェームズは短く息を吐き、
暖炉の前に腰を下ろした。
「……まぁ、当然だな。
あのレギュラス・ブラックが、
子どもの手に掴まれるような証拠を残すわけがない。」
その言葉には皮肉よりも、
どこか認めざるを得ない畏怖が滲んでいた。
ジェームズでさえ、少しだけ肩を落としている。
シリウスは微かに笑みを浮かべた。
「でもな……あいつ、やり遂げたんだ。
父親の書斎に入って、
何も得られなくても、
真っすぐに自分の信じるものを選んだ。」
ジェームズは沈黙のまま頷いた。
炎の光が、シリウスの横顔を照らしている。
その表情には、誇りと痛み、そして深い愛情が滲んでいた。
――今すぐに抱きしめてやりたい。
そう思った。
怖かったはずだ。
罪悪感に押しつぶされそうだっただろう。
それでも、信念を貫いた。
その姿を想像するだけで、胸の奥が焼けるように熱くなる。
息子が、ここまで立派に育ってくれた。
アランが見たら、きっと涙をこぼすだろう。
シリウスは再び手紙を見下ろす。
端に少しだけインクのにじみがあった。
そのにじみが、彼の迷いと勇気の証のように思えた。
「……ありがとうな、アルタイル。」
誰に聞かせるでもなく、
シリウスは静かに呟いた。
その声は炎の音に溶け、
夜の闇に吸い込まれていった。
手紙の上には、わずかに震える指先が落ちる。
そしてその指先が、
長い時を越えて繋がる“父と息子”の絆の形だった。
夜の帳が屋敷を包み、
重たい雲が月を隠していた。
書斎の扉を押し開けると、
そこには静けさだけがあった。
レギュラス・ブラックはゆっくりと中へ足を踏み入れる。
わずかに、空気の流れが違っていた。
整然としているはずの羽ペンの角度、
机上の羊皮紙の端。
几帳面に揃えていた位置が、
ほんのわずかにずれている。
彼の目はすぐにその違和感を捉えた。
机の前に立ち、
指先をそっと滑らせる。
魔力の残滓が微かに反応した。
淡く金色の光が指先に滲む。
――アルタイル。
ため息がこぼれた。
想像はしていた。
いや、いつかこうなることを
心のどこかで覚悟していたのだろう。
「……やはり、来たか。」
息子は息子なりに何かを探っている。
自分の背を追い、
闇の奥に手を伸ばそうとしている。
真実を暴こうとして。
その小さな背中を思うと、胸が締めつけられる。
怒りはなかった。
叱る気持ちもない。
むしろ、胸の奥を掻きむしられるような痛みが広がった。
どれほどの葛藤の末に、この扉を開けたのだろう。
レギュラスは机の端に腰を下ろした。
灯りに照らされた髪が、
揺れる炎に照らされて柔らかく光る。
――あの子は、知っているのだ。
シリウスが本当の父であることを。
けれど、なお「父さん」と呼び続けてくれている。
その理由を考えるたび、胸が痛む。
それが礼節なのか、
あるいは情けなのか――分からない。
だが、その不器用な優しさは、
まるでアランのそれに似ていた。
かつて、アランもそうだった。
シリウスを愛し抜いた上で、
なお自分の隣に立つことを選んでくれた。
拒むことも、責めることもなく、
ただ静かに寄り添ってくれた。
妻も息子も、自分にばかり情をかけてくれる。
その事実が、どうしようもなく情けなかった。
「……僕は、なんと弱い人間なんでしょうね。」
独り言のように呟く。
部屋に残る彼の声は、
まるで古びた木の壁に溶けていくように消えた。
けれど――いまは、立ち止まることなどできない。
この手に残された使命がある。
闇の帝王のホークラックス。
それを暴き、回収し、そして滅ぼす。
自らの命を天秤にかけてでも、
この時代に終止符を打たねばならない。
レギュラスは立ち上がり、
机の奥の引き出しをそっと開けた。
そこには、封じの呪文で覆われた数枚の羊皮紙。
地図のようにも見えるが、
魔力の層がいくつも重なり、
容易に解読できるものではない。
「……騎士団に渡すべき時が来るかもしれないな。」
小さく呟き、視線を落とす。
ホークラックスをすべて暴ければ、
グリフィンドールの剣が“正しい役割”を果たす時が来るだろう。
もしかしたら――その時、自分は生き残るかもしれない。
けれど、そうでなくても構わない。
「アランが共にあると、言ってくれた。」
その言葉だけで、
もはや何も恐れるものはなかった。
彼女が共に歩むと誓ってくれた。
たとえそれが地の底であろうと、
闇の果てであろうと。
レギュラスは指先で机を撫でた。
そこには、ほんの微かな跡――
アルタイルが震える手で触れたであろう感触が残っていた。
「アルタイル……。」
その名を、誰に聞かせるでもなく口にする。
炎がぱちりと弾け、
揺れる光が彼の瞳を照らした。
愛している。
そう思うのに、伝えることすらできない。
それがこの世で最も残酷な愛の形だと、
レギュラスはようやく悟っていた。
机の上の灯をひとつ消す。
書斎が闇に沈む。
窓の外には、月がようやく雲間から顔を覗かせていた。
それはまるで、遠い夜空の向こうで
父と息子を静かに見守る光のように、
優しく彼を包んでいた。
夜は深く、静かだった。
窓の外では冷たい風がカーテンをわずかに揺らし、
寝室には蝋燭の光が淡く揺れていた。
アランが扉を開けると、
そこにレギュラスがいた。
ベッドの端に腰を下ろし、
片手で目頭を押さえている。
肩が小さく震えていた。
「……レギュラス?」
返事はない。
けれど、彼の指の隙間から、
一筋の光が頬を伝っているのが見えた。
アランは息を呑んだ。
この魔法界で、誰よりも冷静で、
誰よりも強く、誰よりも人の心に踏み込まなかった男が――
今、泣いていた。
「どうしました……?」
問いかける声が、
まるで触れれば壊れてしまう硝子細工のように震えていた。
レギュラスはかすかに首を振る。
「……いえ、なんでも。」
それ以上、言葉は続かなかった。
その声がかすれていた。
強がりだと、すぐにわかった。
アランはゆっくりと歩み寄る。
足音を殺すように。
そして、そっと腕を回した。
冷たい空気の中で、
レギュラスの体温だけが確かな現実だった。
その胸に顔を埋めると、
彼の心音が、かすかに震えて響く。
「すみません……」
彼の唇から漏れたその一言に、
アランの胸が痛んだ。
――謝らなくていい。
そんな言葉を口にするよりも早く、
彼女は抱きしめる腕に力を込めた。
まるで、自分の温もりで
この人の痛みを包み込みたかった。
どれほどの闇を一人で背負ってきたのだろう。
どれほどの孤独を、自らの中に押し込めてきたのだろう。
共に背負おうと、あの日、誓ったはずなのに。
それでもこの人は、いつも一人で抱え込もうとする。
そうしなければ立っていられないのだと分かっていても、
その癖が、どうしようもなく切なかった。
――どうして、あなたはそんなにも遠くへ行こうとするの。
並んで歩いているはずなのに、
いつも背中を見ている気がする。
どれだけ手を伸ばしても、
その先へ行こうとする。
指先が空を掴むように届かなくなる瞬間が、
たまらなく怖かった。
アランはレギュラスの頬に手を添えた。
涙の跡が冷たく光っている。
指先でそれをなぞると、
彼の瞳が、ゆっくりとこちらを向いた。
灰色の瞳。
冷たく、深く、
まるで凍てついた湖のようなその色。
けれどアランは知っている。
その奥には、誰よりも熱い炎が燃えていることを。
決して人には見せない、
彼だけの激情。
「……レギュラス。」
名を呼ぶと、彼はわずかに目を細めた。
いつもの冷静な顔ではなかった。
脆く、儚く、ひとりの人間としての表情だった。
その姿が、痛いほど愛おしかった。
「ねぇ……あなた。」
アランはその瞳を見つめた。
燃える灰のように揺れる光が、
蝋燭の灯と混ざり合い、
彼の頬を照らしていた。
「あなたのその涙を見るたびに、
私まで壊れそうになるのです。」
レギュラスは何も言わなかった。
ただ、アランの頬に手を伸ばし、
震える指先で髪をなぞった。
アランは微笑んだ。
「どうしてもっと早くに、
この気持ちに気づけなかったのでしょう。」
彼女の声は、囁くように優しかった。
レギュラスの胸に頬を寄せながら、
その鼓動の音を聞いていた。
過去に戻れたなら――そう思わずにはいられない。
もっと早く、この人を愛したかった。
もっと早く、寄り添ってやりたかった。
けれど今は、もう後戻りなどできない。
ただ、この瞬間を抱きしめるしかなかった。
レギュラスの指が、
アランの髪を撫でた。
静かな夜。
二人の間に言葉はなかった。
けれど、沈黙より雄弁な愛がそこにあった。
灰色の瞳の奥で、
まだ燃え続ける炎が、
確かにアランを映していた。
