1章
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寮の自室に戻ると、扉の前に小さな箱が置かれていた。
見慣れぬ封。けれど、上に置かれた一枚のメモに目が留まる。
『シリウスから』——。
ただそれだけの言葉。
それだけで、胸の奥が小さく跳ねた。
恐る恐る箱を開ける。
蓋を外した瞬間、目に飛び込んできたのは、燃えるような真紅の布。
「……なんて、大胆な色……」
指先に触れた感触は、絹のように滑らかで、ひと撫でするたびに光を返す。
その紅は、炎のようでもあり、血潮のようでもあった。
アランは息を呑んだ。
これまでの人生で、そんな色を纏ったことなど一度もない。
与えられた服はいつも落ち着いた緑か灰色で、華やかさなど自分に縁がないと思っていた。
なのに今、掌の中にあるのは世界で最も鮮烈な色。
まるで「お前は生きている」と告げるように。
指がかすかに震えた。
だが、その震えを押し殺し、アランは静かに腕を通した。
肩を覆い、腰に手を回す。
布が肌に馴染むたび、まるで新しい自分に生まれ変わっていくような感覚があった。
鏡の前に立ち、そっと息を整える。
視線の先に映るのは、知らない少女。
翡翠の瞳をしたその少女は、ただの使用人ではなく、まるで物語の中で舞う姫君のようだった。
あまりに非現実的で、アランは一瞬、目を逸らしそうになった。
けれど、逃げるようにしてはいけないと思った。
裾を整え、背を正す。
鏡に映る自分をまっすぐ見つめ、胸の中で静かに呟く。
——今日は。
この夜だけは。
未来も。
責任も。
しがらみも。
すべてを置き去りにして。
ただ一つ、胸の奥に灯った「ときめき」だけを信じて生きてみたい。
それがどんなに愚かで儚くても、この夜だけは少女として夢を見たい。
舞踏会場へと続く階段を下りる。
一段ごとに、胸の鼓動が速くなっていく。
音楽が聞こえる。
グラスの触れ合う音、人々の笑い声、香水と花の匂いが空気に溶ける。
光の粒が舞うように、シャンデリアが天井から煌めいていた。
そして——視線の先に、彼がいた。
シリウス。
階段の下、群衆の中でただひとり、彼だけが異彩を放っていた。
漆黒の髪が光を受けて揺れ、灰色の瞳がこちらを見上げている。
驚いたように目を見開き、そして——微笑んだ。
それは彼らしい、まっすぐな笑み。
どんな言葉よりも、温かくて、誠実な笑みだった。
「……綺麗だ、アラン」
その言葉が届いた瞬間、胸が一気に熱を帯びた。
喉の奥が詰まり、呼吸がうまくできない。
頬が燃えるように熱くなる。
彼の言葉は、いつも不思議な魔法を持っていた。
まるで世界そのものから祝福を受けたような、そんな力。
会場いっぱいに広がる煌びやかな光の中で、彼は確かに王子のように立っていた。
どんな飾りもいらない。
立っているだけで、彼の周りには自然と風が生まれる。
そんな存在だった。
そして、その視線の先に——自分がいる。
それだけで、胸がいっぱいになった。
シリウスが手を差し出す。
指先まで優雅で、まるで導くような仕草。
アランは一瞬だけ迷い、けれどその手に自分の手を重ねた。
触れた瞬間、心臓が跳ねる。
指先に伝わる温もりが、身体中を駆け巡る。
それはまるで、初めて世界に触れたような衝撃だった。
「……」
言葉にならない。
けれど、願いだけは確かに胸にあった。
——どうか、この夜のきらめきが幻ではありませんように。
赤いドレスの裾がふわりと揺れる。
踊るたびに布が光を返し、彼の瞳がわずかに笑う。
音楽が流れ、二人を包み込むように世界が回る。
その瞬間、アランは信じた。
この幸福がたとえ刹那であっても、
いつか遠い未来で、きっと本物に変わる日が来ると。
彼の隣で踊る自分の姿が、確かに「未来」という頁に刻まれていく。
その幻のような一瞬が、永遠の輝きになると信じられるだけで。
—— アランの胸は、痛いほどの幸福で満たされていた。
——幸せだった。
胸の奥が、熱くてどうしようもないほどに満たされていた。
高らかに響く楽団の音が天井のドームを揺らし、煌びやかなシャンデリアが光を滴らせる。
光は床に散り、真紅のドレスの裾に反射して、小さな花弁のように踊っていた。
そのひとつひとつが、まるで自分の鼓動と一緒に脈打っているようだった。
アランはシリウスの手を握りながら、夢の中にいるような感覚に包まれていた。
灰色の瞳の奥に、自分が揺れている。
そこに映るのは、物語の中の姫君ではなく——確かに「アラン・セシール」というひとりの少女。
この現実の中で、誰かの腕に抱かれて舞っている自分だった。
一生叶うわけがないと思っていた。
仕える側として生まれ、影の中で息をするしかないと思っていた。
それが今、シリウスの手の中で、夢のような光に包まれている。
——ああ、これは幻だ。
けれど、たとえ一夜の幻でもいい。
今日だけは、夢で終わっても構わない。
そう思えるほどに、幸せだった。
透明な旋律が流れ、彼の手に導かれるままステップを踏む。
シリウスの手はしっかりと温かく、彼の掌から伝わる熱が現実であることを教えてくれる。
その温もりに触れるたび、アランは息を詰め、胸の奥で何度も言葉にならない声を上げた。
「そんなに見んなよ。……恥ずかしいだろ」
ふいにこぼれた彼の言葉に、アランは目を瞬かせた。
踊りながら、軽く笑みを浮かべるシリウス。
彼の声は柔らかく、どこか照れくさそうで、いつものような軽口よりもずっと優しかった。
「ごめんなさい……だって、あまりにも……かっこいいから」
その囁きに、シリウスの頬がみるみる朱に染まる。
完璧にスーツを着こなし、誰よりも堂々とリードする男が。
たった一言でこんなにも素直に赤くなるなんて。
アランの胸がくすぐったく震えた。
笑ってはいけないのに、笑みがこぼれる。
——この人を“可愛い”と思う日が来るなんて。
彼は、自由で、奔放で、時に無鉄砲で。
それでもどんな場にいても誰より輝いて見える。
誰もが憧れる「ブラック兄弟の長男」。
それが、今、アランの言葉ひとつで照れ隠しをしている。
その人間らしさが、どこまでも愛おしかった。
真紅の布の下で胸が熱を帯び、鼓動は音楽のテンポを追い越して跳ね上がる。
その時、不意に背後から明るい声が響いた。
「やあ、セシール嬢」
振り向くと、軽やかな足取りで近づいてきたのはジェームズ・ポッターだった。
眼鏡の奥で金色の光を宿した瞳がきらめき、口元には常のように悪戯の笑み。
この荘厳な場にあっても、彼だけは不思議と軽やかだった。
「今夜は飛び切り綺麗だね。……シリウスが鼻の下を伸ばしてるわけだ」
「うるせえよ!」
シリウスが即座に声を荒げた。
その反応があまりに早く、あまりにわかりやすくて、アランの胸に笑いが零れる。
怒った顔も、照れた顔も、彼はどこまでも真っ直ぐで誤魔化しが効かない。
そんな彼の灰色の瞳が、ちらりとこちらに向けられた。
照れ隠しの奥に隠しきれない感情が宿っていて、胸がきゅうと鳴った。
「いいものを見させてもらった気分だよ」
今度は背後から穏やかな声がする。
振り返ると、リーマスが静かに笑みを浮かべて立っていた。
彼の眼差しはいつも柔らかく、場のざわめきすら和らげてしまう。
舞踏会のきらめきの中で、彼だけは穏やかな月のような気配を纏っていた。
ジェームズが茶化し、シリウスが憤り、リーマスがそれを微笑で包む。
三人のやり取りが、まるで息の合った音楽のように場を彩っていた。
その空気の中で、アランはふと気づく。
——この人たちは、シリウスの「世界」なのだ。
仲間であり、家族であり、彼の自由を形作る存在。
その中に、自分がほんの一瞬でも立てていることが、たまらなく嬉しかった。
音楽が再び盛り上がり、笑い声とグラスの音が重なる。
人々の衣擦れが波のように流れ、煌びやかな空間が一層光を増していく。
アランの胸は、音楽とは違うリズムで高鳴っていた。
美しい旋律。人の声。心の震え。
それらがひとつの調和となって彼女を包み込む。
頬は赤く、息は浅く、翡翠の瞳は揺れる光を映して輝いた。
世界がすべて祝福してくれているように思えた。
——今はただ、この夢を信じたい。
夜が終わらないように。
この魔法が、解けないように。
心の底からそう願いながら、アランは踊った。
真紅の裾が光を受けて花のように揺れる。
その一振りごとに、胸の奥の祈りが深く刻まれていく。
幸福に濡れた視線の中で見つめるのは、ただひとり。
シリウス・ブラックの笑顔だけ。
その笑みがある限り、この夜は——永遠に終わらない気がしていた。
煌びやかな音楽と人々のざわめきを背に、二人は静かにバルコニーへ出た。
厚い扉を背に閉じると、そこはまるで別の世界だった。
喧騒は瞬く間に遠ざかり、かわりに夜の静寂が満ちていく。
冷たい空気が頬を撫で、湖面の上を渡る風が真紅のドレスの裾をかすかに揺らした。
遠くでは月光が湖に落ち、波紋のように淡く光を散らしている。
まるで夜そのものが、息を潜めて二人を見守っているようだった。
舞い踊った後の高揚がまだ体の奥に残っている。
息を吸うたび、胸の内が柔らかく弾み、鼓動の音が夜気に溶けていく。
静けさの中で、火照った頬を冷ます風がひどく心地よかった。
同時に、その静寂が怖くもあった。
沈黙のひとつひとつが、何かを待っているようで。
「今日は本当に……すごく綺麗だ」
隣に立つシリウスの声が、やわらかく胸に落ちた。
その声音は驚くほど静かで、まっすぐだった。
照れ隠しの笑いもなく、軽口の影もない。
ただ一つの真実だけを、穏やかに伝える声だった。
灰色の瞳が、まっすぐアランを見ていた。
先ほどまでの明るく軽やかな彼ではない。
今そこにいるのは、飾らない素顔のシリウスだった。
無防備で、誠実で、どこまでも正直な。
その視線に捕らえられた瞬間、アランの胸が揺れた。
心臓が速く脈打ち、足元の石畳がふわりと溶けるように遠のく。
息が詰まる。
けれど目を逸らせない。
彼の瞳があまりにも綺麗で、あまりにも真っ直ぐで——。
——いいのだろうか。こんなにも、幸せで。
好きな人が、自分を「綺麗だ」と言ってくれる。
ただそれだけのことが、どうしてこんなにも胸を熱くするのだろう。
言葉ひとつで、世界が反転する。
見上げる夜空の星々が、すべて祝福の光に見えた。
それは、少女が一生に一度出会えるかどうかの、甘美な奇跡だった。
これまで何度も夢に見ては諦めた、儚い幻想。
けれど今、それが確かに現実の形を持っていた。
胸の奥が熱を帯び、真紅のドレスが鼓動のたびに柔らかく震える。
まるでその布地までが、自分の心臓の一部になったかのように。
だが——。
幸福の中に、別の声が静かに混ざった。
——「僕は、あなたが好きです」
脳裏に蘇るレギュラスの声。
凪のように穏やかで、それでいて底知れぬ誠実さを孕んだ響き。
彼の告白は、悲しいほど真摯だった。
純血の名家に生まれ、血筋の重さと掟を背負いながらも、
それでも「好きだ」と言い切ったあの勇気。
あの言葉を聞いた夜、自分は何を返せただろう。
何も返せなかった。
何も答えられなかった。
そして今、自分の心を支配しているのは——
彼の兄であり、誰よりも自由を愛し、光に向かって生きようとするこの人だった。
あの誠実な手を振り払い、光の方へ惹かれてしまう。
その事実がひどく醜く感じられて、胸の奥が痛む。
どうして自分は、いつも誰かの想いを踏み台にしてしか前へ進めないのだろう。
気づけば、視界が滲んでいた。
頬を伝う熱いものを、風が冷やす。
「……」
涙が一粒、静かに落ちた。
驚いたように、シリウスが目を見開いた。
彼の瞳が一瞬で揺らぎ、眉がわずかに下がる。
次の瞬間、彼はためらいがちに笑って言った。
「おい……真っ赤なドレスで泣いてたら似合わねぇよ」
その声は、軽口のように聞こえて、けれどどこまでも優しかった。
伸ばされた手が、ためらいなくアランの頬に触れる。
親指の腹がそっと涙をなぞり、温かさが肌を伝った。
その手は荒削りなのに、包み込むような優しさを持っていた。
無造作に見えて、まるで彼の心そのもののように真っ直ぐで。
アランは翡翠の瞳を揺らしながら、彼を見上げた。
喉が詰まり、声が出ない。
罪悪感と幸福が同時に押し寄せ、胸の奥で衝突しては溶け合う。
真紅の裾が夜風に揺れ、二人の間の距離がわずかに縮まった。
その瞬間、すべての思考が静かになった。
月光が湖面に滴り、波紋のように広がる。
白銀の光が二人を包み、その影を長く伸ばしていく。
重なり合った影が、石畳の上でゆっくりと寄り添った。
夜風が二人の髪を揺らし、ドレスの裾が音もなく擦れる。
アランの胸の奥では、幻のような幸福と、消せない痛みが静かに混じり合っていた。
まるで、運命の糸が一本の結び目を作るように。
その結び目がほどけない限り——
この夜の月光と風と、彼の手の温もりは、永遠に心の中で輝き続けるのだと思った。
スリザリン寮の談話室は、異様なほどの静けさに包まれていた。
まるで湖そのものが、この部屋の上に降り積もっているかのようだった。
いつもならば聞こえるはずの笑い声やカードを弾く音、誰かの気まぐれな口論——そのどれもが今夜は存在しない。
皆が舞踏会へと姿を消し、残されたのは煖炉の中でくすぶる火の音だけ。
橙の残り火が壁の影を長く伸ばし、湖底から滲む青緑の光と溶け合い、どこか冷たく、張り詰めた静寂を生み出していた。
——悪くない。
いや、むしろ好都合だ。
レギュラス・ブラックは机に肘をつき、羽ペンを走らせていた。
広げられた羊皮紙の上には、スラグホーンから課された特別課題。
「多重層魔法における呪文干渉の条件とその回避理論」——あまりにも複雑で、骨の折れる命題だった。
だが、雑音も視線もないこの静寂の中では、不思議と集中できた。
ペン先が紙を刻むたび、インクの香りとともに思考が形を成していく。
その音が、唯一この空間を満たす生命の鼓動のように響いていた。
火の光がゆらぎ、レギュラスの影が壁に長く落ちる。
静謐。
完璧な孤独。
彼にとっては、それこそが安定であり、居場所でもあった。
だが——。
「君、てっきりアラン・セシールと踊るんだと思ってたけど」
背後から、不意に声が落ちた。
羽ペンの動きが止まる。
かすかにインクが滲む音がして、レギュラスはゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、バーテミウス・クラウチ。
月光を受けてわずかに青ざめた横顔は、理知的で整っている。
夜会には似つかわしくない静けさをまとい、彼の双眸には冷ややかな光が宿っていた。
「……あなたこそ、一番宴に出たがりそうな人ですけれど」
レギュラスは眉をわずかに上げ、皮肉を滲ませて応じる。
クラウチは唇の端をわずかに上げた。
「僕は、観察する方が好きなんだ。人の動きや、選択の理由をね」
静かな声だった。
癖のない発音と抑揚の中に、わずかな探りの色がある。
レギュラスは軽く鼻を鳴らし、視線を再び羊皮紙へ戻した。
だが、羽ペンの先が思うように動かない。
クラウチの声が背後から続く。
「君があの子を誘わなかったのは、意外だったな」
レギュラスの胸が一瞬だけ波打つ。
その波を隠すように、淡々と答える。
「……興味がなかったわけではありません」
ペン先を動かしながら、静かに吐き出した。
——もちろん、アランを誘おうと思ったことはあった。
彼女と踊りたいと思わなかった日はなかった。
けれど、それをしなかった。
もし誘って、断られたら。
もしその瞳が、自分ではなく——兄を追いかけていたら。
その一瞬を見ることが、怖かった。
自分の中にある「ブラック」という名が、砕ける音を聞きたくなかった。
そして、信じていた。
自分が誘わなければ、アランは舞踏会には出ないだろうと。
ブラック家に仕える家の娘。
分をわきまえ、誰の誘いにも乗ることはないと。
それは、彼が無意識のうちに築いた「確信」だった。
……それが、油断だった。
クラウチが一拍の間を置いて、静かに告げる。
「アラン・セシールは、シリウス・ブラックと踊ったみたいだよ。真っ赤なドレスで」
一瞬で、空気が変わった。
羽ペンの先が止まり、わずかなインクが紙に落ちる。
黒い滴が、じわりと滲んで広がっていく。
「……今、なんと?」
低く、掠れた声。
音が、ひどく遠くで鳴っているように聞こえた。
シリウスと—— アランが?
脳裏に映像が勝手に浮かぶ。
真紅のドレスを纏い、シリウスの手に導かれて舞う彼女。
柔らかな笑み。
きらめく光の中で揺れる翡翠の瞳。
兄の灰色の瞳に映り込む彼女の微笑——。
想像の光景が、胸を鋭く切り裂いた。
一瞬で全身に冷たい衝撃が走る。
それと同時に、苛立ちの熱が駆け上がった。
静かだった血流が急速に逆巻き、鼓動が耳を叩く。
羽ペンを握る手に力が籠もり、紙がかすかに悲鳴を上げる。
——どうしてだ。
心の奥から声が湧いた。
——どうして、あの人は。
冷たい湖の水が胸の中で渦を巻き、呼吸を奪っていく。
兄とあの娘。
その二つの名を並べるだけで、何かが軋むように痛んだ。
彼女を奪われたわけではない。
まだ誰のものでもないはずだ。
けれど、「兄の隣に立つ」というたったそれだけの想像が、理性を焼き尽くす。
心の奥で、冷たい驚きと灼けつく怒りがせめぎ合う。
どちらが勝つでもなく、ただ彼の中を掻き乱していく。
紙の上で乾いたインクがひび割れ、火の残りがかすかに弾けた。
それでもレギュラスは、顔を上げなかった。
目を伏せ、ただ机を見つめる。
その瞳の奥で、光と影が渦を巻いていた。
静寂は、もはや安らぎではなかった。
煖炉の火がぱちりと鳴るたびに、心の奥で何かがひび割れていく。
レギュラスの胸にはただ——どうしようもなく、ねじれた二つの感情があった。
冷えた驚きと、灼熱の憤怒。
それは、決して交わらず、決して癒えない。
彼の中で永遠に渦を巻き続ける、黒い魔法のような痛みだった。
そしてその夜。
レギュラス・ブラックは二度と、心の静けさを取り戻すことはなかった。
バーテミウス・クラウチが去った後、スリザリン寮の談話室には、重たい沈黙だけが取り残された。
扉が閉まるわずかな音さえ、まるで遠い水の底で響いたかのように静かだった。
残るのは、煖炉の中で時折ぱちりと爆ぜる薪の音だけ。
そのわずかな音がやけに耳に刺さり、レギュラスの胸を締めつけた。
音の余韻が石壁にぶつかっては、湿った空気の中に消えていく。
静寂はむしろ増幅され、鋭さを帯びて心の内を掻き乱した。
彼は深く息を吸い込み、震えそうになる指先を強引に押さえつけた。
冷静でいなければ。
自分はブラック家の息子だ。感情に流されるなど、あってはならない。
羽ペンを握り直し、再び羊皮紙へ視線を落とす。
課題はまだ終わっていない。
「干渉する魔法の理論的整理」——スラグホーンが与えた、特別課題の題名が目の前にある。
だが、整然と並んだはずの文字はもはやただの黒い斑点の群れにしか見えなかった。
焦点を合わせようとしても、行間が波のように歪み、意味を結ばない。
「透明化呪文と防御呪文の……相互作用は……」
声に出して読んでみる。
だがその響きは、内容を伴わぬ空虚な音となって空気に消えた。
自分の口からこぼれた言葉の意味すら理解できず、ただ耳の奥で遠く反響するだけだった。
——彼女は、本当に兄と踊ったのか。
脳裏に浮かぶのは、文字ではなく幻影。
真紅のドレス。
光の海に包まれて舞う少女の姿。
そして、その手を取って導くのは、自分ではなく——兄、シリウス。
「……っ」
羽ペンの先が震えた。
細い線を描くはずが、深く裂けるような傷跡を紙に刻む。
焦げ茶色のインクが滲み、白紙の上に不格好な染みが広がっていく。
その滲みはまるで、自分の中で崩れていく均衡そのもののようだった。
完璧であること。
冷静であること。
誰よりも聡く、優れていなければならないという自負。
それらすべてが、今、赤く染まる彼女の幻影の前で音を立てて崩れていく。
集中しようとするほどに、心の奥から別の声が立ち上がる。
——なぜ兄なのか。
——どうして、誘うはずのないあの人が。
——どうして、自分ではなく。
思考が渦を巻く。
疑念と嫉妬が交互に顔を出し、理性の鎖を喰い破っていく。
理屈ではない。感情でもない。
それは、血の奥から湧き上がる、どうしようもない「嫉み」そのものだった。
机に置いた手に、無意識のうちに力がこもる。
羊皮紙が歪み、しわを刻んで軋む音が部屋に響いた。
わずかなその音さえ、自分を嘲笑うように感じられる。
「あの人は……」
掠れた声が零れた。
自分でも、何を言おうとしたのか分からない。
怒りなのか、悔しさなのか、あるいは恐れなのか。
どれも正しい。どれも間違っている。
ただ、確かなのは——胸の内に燃える熱と、それに覆い被さる冷たい怯え。
矛盾する二つの温度が同時に身体を支配していた。
再び羽ペンを持ち上げようとしたが、指先が動かない。
目の前の文字はもはや読めなかった。
数式も、呪文の理屈も、知識の体系も——すべて霧の中に押しやられていく。
彼の理性を象徴する整った筆致は、今や完全に崩れ去った。
羊皮紙の上には、ただ黒く滲んだ線がいくつも重なり、意味を失った記号のように残っている。
息を吸っても苦しい。
吐き出しても、空気は胸に届かない。
まぶたを閉じるたび、脳裏にはあの光景が再生された。
光に包まれた大広間。
笑うアラン。
その手を取るシリウス。
灰色の瞳と翡翠の瞳が交わる瞬間——。
その映像は幻ではなく、彼の中では確かな「現実」として焼き付いてしまっていた。
静けさを湛えるはずだった談話室。
今そこにあるのは、静けさではなく、息詰まるほどの「孤独」。
勉学の場だったこの空間は、もはや彼の感情を閉じ込める牢獄に変わっていた。
遠くの舞踏会では、音楽がまだ鳴り続けているだろう。
灯りも、笑い声も、拍手も——そのどれもが届かない。
ここは光から隔てられた、湖底のような場所。
冷たく、暗く、そして深い。
レギュラスの心は、もう課題から離れていた。
彼の思考はすべて、ひとりの少女へ、そしてその隣に立つ兄の影へと絡め取られていく。
かつて理性と誇りで築かれた彼の心の砦。
その内側で、嫉妬と焦燥という名の焔が、ゆっくりと燃え始めていた。
それは声も音も立てずに——
けれど確実に、彼という存在を蝕んでいく。
熾火のように。
静かに、しかし永遠に消えぬ熱を帯びて。
夜は深く沈み、スリザリンの談話室はまるで湖底そのものが静寂を吸い込んでしまったかのように、息をひそめていた。
石造りの天井から滴るような冷気。
すでに煖炉の炎は息絶え、残る薪がわずかに赤熱を宿している。
その名残火が「ぱち」と小さく音を立てるたび、長く伸びた影が壁を揺らし、空間に脈打つようなリズムを刻んだ。
湖底から透ける青緑の光が石壁に反射し、揺れるたびに部屋全体が水中に沈んでいるように見える。
レギュラスはその光に照らされながら、長椅子の脇に腰を掛け、動かずにいた。
机の上の羊皮紙には、書きかけの文字列が乾いたまま貼りついている。
インクの斑点がかすかに光を反射し、未完の思考を静かに物語っていた。
だが、彼の視線はその紙には向けられていない。
焦点の定まらない灰色の瞳は、部屋の奥、扉の方を見据えていた。
何を待っているのか、自分でも分からない。
ただ、胸の奥に残る熱と冷たさが、理屈では説明できない衝動となって彼をそこに縫い止めていた。
時の流れが凍りついたような静寂の中。
——音がした。
扉の蝶番がわずかに軋み、空気がかすかに動く。
その隙間から、細い光とともに人影が差し込んだ。
アランだった。
赤い。
最初に目に入ったのは、その色だった。
蝋燭の残光を受けて、真紅のドレスが夜気の中で微かに煌めく。
それは血潮のように鮮やかで、息を呑むほどに美しい。
淡い光の中で、彼女の肌は白磁のように透き通り、黒髪が波のように肩へと落ちていた。
まるで、舞踏会の残光をその身に宿したまま戻ってきたかのようだった。
レギュラスの胸の奥で、何かが軋んだ。
——ああ。本当に、行ったのだ。
あの宴へ。
兄と共に。
光の中へ。
それだけの事実が、鋭い痛みとなって心臓を掴む。
その痛みは形を変えながら広がり、怒りとも悲しみともつかない熱と共に、胸を内側から焼き尽くしていった。
「……レギュラス」
アランの声が、静寂の中に落ちた。
その声音には、戸惑いと、かすかな後ろめたさが滲んでいる。
彼女は思ってもみなかったのだろう。
この時間、この場所に、まだ彼がいるとは。
レギュラスはゆっくりと立ち上がった。
足音が石の床に乾いた反響を残す。
視線を逸らさず、まっすぐに彼女を見つめた。
「遅かったですね」
言葉は平静を装っていた。
だが、その裏に潜む感情を隠しきることはできなかった。
声はわずかに震え、冷たい刃のように硬質な響きを帯びていた。
「……ええ」
アランは短く頷いた。
その視線は、床に落とされたまま。
彼女の黒髪が揺れ、真紅の裾が静かに波打つ。
その仕草ひとつひとつが、レギュラスの胸を締めつけた。
沈黙が降りた。
針の先で張り詰めた糸を撫でるような、痛いほどの沈黙。
煖炉の残り火が「ぱち」と小さく弾け、その音さえ二人の距離を際立たせる。
レギュラスは息を吸い、そして吐く。
吐息の音がやけに重く響いた。
「…… アラン」
抑えていたものが、音になった。
静かで、それでいて鋭い。
低く沈んだその声は、刃のように空気を裂いた。
「シリウスと——踊ったんですか」
その問いが放たれた瞬間、空間がぴたりと止まった。
湖底の光さえ、動きを忘れたように。
アランの翡翠の瞳が、ゆっくりと震える。
唇がかすかに開き、息が漏れる。
けれど、言葉は出なかった。
その沈黙が、何より雄弁だった。
レギュラスの喉の奥で、熱が弾けた。
それは怒りでも憎悪でもなく、もっと原始的な感情——どうしようもない「悔しさ」だった。
言葉はいらない。
真実は、彼女の纏うその紅がすべてを物語っている。
舞踏の光を反射するその色は、まるで兄の手によって灯された印のように見えた。
「……」
唇の奥で、息が微かに震えた。
胸の奥に溜め込んだ感情が、静かに軋む。
心の内側で、何かが裂ける音がした。
煖炉の残り火が、再び弾けた。
橙と青の光が交錯し、アランの赤い裾を淡く照らし出す。
その光景は美しく、そしてあまりにも残酷だった。
レギュラスの灰色の瞳が揺れる。
彼女を責めたいわけではなかった。
ただ、どうしても受け入れられなかった。
兄を誇りに思っていた頃の気持ちと、兄を憎むような痛みが、胸の中で複雑に絡み合う。
愛と嫉妬、理性と感情。
どちらが正しいのか、もう分からない。
ただ一つ確かなのは——
この瞬間を境に、自分の中で何かが決定的に変わってしまったということ。
湖底の光がゆらめき、影が二人を包み込む。
赤と緑の光が交錯し、まるで相容れぬ世界が一瞬、同じ場所に存在しているようだった。
レギュラスの胸の奥で、痛みが熱を帯びて燃え上がる。
それはもはや静かな怒りではなかった。
彼の心を覆う影は、静かに、しかし確実に形を持ち始めていた。
——もはや、戻れない。
そう悟ったとき、煖炉の最後の火が、音もなく弾けて消えた。
そして部屋には、湖底の冷たい光だけが残された。
石造りの談話室は、夜更けの冷たさをゆっくりと吸い込みながら沈黙していた。
壁を伝う湿り気を帯びた空気が、まるで湖底の静寂そのものを閉じ込めたように重たく漂っている。
煖炉では燃え尽きかけた薪が細く赤熱を残し、時おり「ぱち」と音を立てては小さな火花を散らした。
その音がやけに鮮明に響き、ふたりの沈黙を際立たせる。
アランは真紅のドレスを纏ったまま、扉を閉じた位置に立ち尽くしていた。
艶やかな布がわずかに揺れ、そのたびに光を反射して血のような輝きを放つ。
彼女の瞳は伏せられ、唇は微かに震えていた。
まるでこの空間の冷たさに飲み込まれぬよう、息を押し殺しているかのように。
レギュラスは、そんな彼女を見つめていた。
背筋を伸ばし、影のように静止した姿。
湖底の光と煖炉の残り火が、彼の灰色の瞳に交錯し、淡い緑と橙の揺らぎを映している。
その瞳の奥には、凍てついたような静謐と、言葉にできぬ激しさが共に潜んでいた。
「シリウスと——踊ったんですか」
静寂を断ち切るように放たれた声は、鋭く、それでいて震えていた。
刃のような硬さを持ちながら、その裾にはわずかな痛みと迷いが滲んでいる。
アランは顔を上げた。
一瞬、息を呑んだように肩が揺れ、何かを言おうと唇がかすかに開く。
けれど、言葉は出なかった。
脳裏をよぎったのは、ほんの少し前の記憶——
シリウスが差し出した手。
「綺麗だ」と囁いた低い声。
照れ笑いと共に揺れた灰色の瞳。
その温もりを思い出すだけで、胸が再び熱を帯びる。
けれど、同時に押し寄せたのは耐え難い罪悪感だった。
——レギュラスの言葉。
「僕は、あなたが好きです」と、あの夜に告げた真摯な想い。
理性よりも誠実さを選んだ瞳。
その誠実に、何も返せなかった自分。
そして今、自分はその告白に背を向けるように、兄の手を取ってしまった。
「……答えられないんですね」
低く落とされたレギュラスの声が、沈黙を切り裂いた。
静かに、しかし決定的な響きをもって。
アランの胸の奥に、冷たい刃のような痛みが広がる。
「僕は……ずっと、あなたを信じていました」
言葉が、震えていた。
それでも彼は続けた。
「あなたは、そんな軽率な人じゃないと……そう思っていた。
でも今夜のあなたを見て……兄の隣で笑っていたと聞かされて……どうすればいいのか、わからない」
彼の声は、怒りよりも苦しみに近かった。
静かに震えるその響きが、かえって彼の心の深さを露わにしていた。
アランは慌てて首を振る。
「……違うの、レギュラス。そんなつもりじゃなかったの」
言葉を紡ぐたびに、息が途切れる。
涙がこぼれそうになるのを必死に堪えながら、彼女は視線を彷徨わせた。
「私は……ただ……」
「なら、なぜ……」
レギュラスの問いが重なった。
静かでありながら、その声は痛烈だった。
彼の瞳が揺れる。怒りとも、悲しみとも、羨望ともつかぬ光。
アランの唇が震え、翡翠の瞳が涙で滲む。
もう言葉は続かなかった。
喉を絞るように吐き出された声が、ようやく形を成す。
「……私、どうしても……答えられないの……」
涙が、頬を伝って落ちた。
それは静かで、美しく、あまりにも痛ましかった。
その雫を見た瞬間、レギュラスの表情が揺らぐ。
彼の中に渦巻いていた怒りが、ふっとほどける。
かわりに胸を占めたのは、言葉にできぬほどの哀切だった。
「……泣かないでください」
低く、掠れた声で彼は言った。
「あなたを泣かせたいわけじゃ……ないんです」
そっと伸ばされた指先が、アランの頬のすぐ前で止まる。
触れたら壊れてしまいそうで、触れずにいれば届かない。
その一瞬の逡巡に、レギュラスの苦悩が凝縮されていた。
火の残りが「ぱち」と弾け、影が壁に踊った。
炎は次の瞬間、息絶えるように沈み、室内は湖底のような青緑の光に包まれた。
完全な静寂。
アランの涙が石床に落ちるその音さえ、聞こえてしまいそうなほどの静けさ。
二人は、もう何も言わなかった。
言葉があまりに脆く、どんな音もこの沈黙を壊してしまいそうだった。
残されたのは、互いを縛り付けるような、痛いほどの静寂だけ。
それはまるで、燃え尽きた火の跡に残る灰のように、
かすかに温かく、それでいて取り戻せないほど冷たかった。
夜が明けたことを、アランはようやく鳥の声で知った。
それでも、瞼を閉じたまま動けなかった。
寝台の上で仰向けに横たわり、ひと晩中、何度も同じ光景を繰り返し見ていたからだ。
——舞踏会の階段の下。
手を差し伸べてくれたシリウスの姿。
照れたように笑いながら、少しだけ顔を背けて言った「綺麗だ」のひとこと。
煌びやかな照明の中で交わした視線の温度。
胸の鼓動が、まるで踊りの音に合わせるように跳ねていた幸福。
けれどその光の記憶のすぐあとには、別の声が重なる。
——「アラン。僕は、あなたが好きです」
湖底の光に照らされたあの夜のレギュラス。
凛として整った顔立ちに宿った、脆く真っ直ぐな熱。
彼の手の震え、唇のわずかな強張り。
その全てが、今もまざまざと胸に焼き付いて離れない。
答えられなかった。
ただ沈黙で返した自分。
涙に歪んだ彼の表情。
そして——逃げるように踏み出した足。
幸福と罪悪感がせめぎ合う。
どちらもあまりに鮮烈で、どちらも心の中で同じだけ重く、痛かった。
まるで二つの光が交差して眩しすぎるせいで、呼吸の仕方すら忘れてしまうようだった。
枕に顔を伏せても、眠りは訪れなかった。
何度まぶたを閉じても、舞踏会の光とレギュラスの瞳が交互に現れる。
朝が来る頃には、心は擦り切れ、体は鉛のように重くなっていた。
——行けない。
朝の大広間へなど。
あの明るい場所で笑い合う声を聞けば、自分の罪だけが際立ってしまう。
シリウスの柔らかな笑顔も、レギュラスの静かな視線も、今の自分には眩しすぎた。
けれど、空腹はどうしても誤魔化せなかった。
まるで何かに導かれるように、足が談話室の方へと向いていた。
そして、そこに彼がいた。
「……レギュラス」
声が震えた。
驚きと、どこか怯えにも似た感情が混ざっていた。
彼は椅子に腰を掛け、机の上に閉じた本を置いていた。
朝の光が細く差し込み、彼の横顔を縁取る。
湖の底のように淡い光が灰色の瞳に宿り、その奥に映る表情は読み取れなかった。
「朝食に来ていませんでしたから」
落ち着いた声で、そう告げられた。
その手には、布に包まれた小さな包みがある。
静かに立ち上がった彼は、それをアランの方へ差し出した。
恐る恐る受け取り、布を開く。
柔らかそうな白いパンがひとつ。
小さな陶器のバター。
丸い果実が一つ——どれもありふれたもの。
けれど、彼がこれを自分のために用意してくれたという事実だけが胸を刺した。
「少しくらいは食べてください」
穏やかな声。
責める調子はどこにもない。
昨夜の出来事を咎める言葉も、痛みをなぞるような問いかけもない。
ただ、優しさだけがあった。
「……ありがとうございます、レギュラス」
小さな声が震える。
感謝を伝えようとしても、喉が詰まって言葉がうまく出なかった。
彼の前に立つと、胸の奥がきりきりと軋んだ。
何も言われない。
それが何より苦しかった。
責められるよりも、罰せられるよりも。
沈黙の中で与えられる「優しさ」が一番痛かった。
レギュラスは、そんな彼女の心を見透かしたように、静かに微笑んだ。
その微笑みは穏やかで、少しだけ寂しげでもあった。
「食べたら、授業に行きましょう」
淡々とした口調。
まるで昨夜のすべてを、ひと晩で遠い記憶に押し込めてしまったかのように。
その姿勢が、かえってアランの胸を締め付けた。
——許されたのだろうか。
——もう、何も問わないという意味なのだろうか。
そう思いたかった。
ほんの少しでも、甘い希望にすがりたかった。
けれど、彼の瞳の奥にある影には、気づけなかった。
レギュラスの灰色の瞳は静かに微笑みながらも、奥底に沈殿した何かを隠していた。
怒りでも憎しみでもない。
それは、もっと深い場所で燻るもの——冷たい決意の種だった。
優しさと理性。
情と誇り。
その二つがひとつの器の中で静かに混ざり合い、やがて冷ややかな光を帯びていく。
朝の光は、窓から柔らかく差し込んでいた。
その明るさは確かに温かいのに、談話室の空気は不思議なほど冷たかった。
アランはそれに気づかぬまま、小さなパンを両手に抱いていた。
そしてその光の届かぬ奥底——
静かに、確実に、レギュラスという影は深く沈みはじめていた。
まるで、湖底に落ちてゆく黒い花弁のように。
見慣れぬ封。けれど、上に置かれた一枚のメモに目が留まる。
『シリウスから』——。
ただそれだけの言葉。
それだけで、胸の奥が小さく跳ねた。
恐る恐る箱を開ける。
蓋を外した瞬間、目に飛び込んできたのは、燃えるような真紅の布。
「……なんて、大胆な色……」
指先に触れた感触は、絹のように滑らかで、ひと撫でするたびに光を返す。
その紅は、炎のようでもあり、血潮のようでもあった。
アランは息を呑んだ。
これまでの人生で、そんな色を纏ったことなど一度もない。
与えられた服はいつも落ち着いた緑か灰色で、華やかさなど自分に縁がないと思っていた。
なのに今、掌の中にあるのは世界で最も鮮烈な色。
まるで「お前は生きている」と告げるように。
指がかすかに震えた。
だが、その震えを押し殺し、アランは静かに腕を通した。
肩を覆い、腰に手を回す。
布が肌に馴染むたび、まるで新しい自分に生まれ変わっていくような感覚があった。
鏡の前に立ち、そっと息を整える。
視線の先に映るのは、知らない少女。
翡翠の瞳をしたその少女は、ただの使用人ではなく、まるで物語の中で舞う姫君のようだった。
あまりに非現実的で、アランは一瞬、目を逸らしそうになった。
けれど、逃げるようにしてはいけないと思った。
裾を整え、背を正す。
鏡に映る自分をまっすぐ見つめ、胸の中で静かに呟く。
——今日は。
この夜だけは。
未来も。
責任も。
しがらみも。
すべてを置き去りにして。
ただ一つ、胸の奥に灯った「ときめき」だけを信じて生きてみたい。
それがどんなに愚かで儚くても、この夜だけは少女として夢を見たい。
舞踏会場へと続く階段を下りる。
一段ごとに、胸の鼓動が速くなっていく。
音楽が聞こえる。
グラスの触れ合う音、人々の笑い声、香水と花の匂いが空気に溶ける。
光の粒が舞うように、シャンデリアが天井から煌めいていた。
そして——視線の先に、彼がいた。
シリウス。
階段の下、群衆の中でただひとり、彼だけが異彩を放っていた。
漆黒の髪が光を受けて揺れ、灰色の瞳がこちらを見上げている。
驚いたように目を見開き、そして——微笑んだ。
それは彼らしい、まっすぐな笑み。
どんな言葉よりも、温かくて、誠実な笑みだった。
「……綺麗だ、アラン」
その言葉が届いた瞬間、胸が一気に熱を帯びた。
喉の奥が詰まり、呼吸がうまくできない。
頬が燃えるように熱くなる。
彼の言葉は、いつも不思議な魔法を持っていた。
まるで世界そのものから祝福を受けたような、そんな力。
会場いっぱいに広がる煌びやかな光の中で、彼は確かに王子のように立っていた。
どんな飾りもいらない。
立っているだけで、彼の周りには自然と風が生まれる。
そんな存在だった。
そして、その視線の先に——自分がいる。
それだけで、胸がいっぱいになった。
シリウスが手を差し出す。
指先まで優雅で、まるで導くような仕草。
アランは一瞬だけ迷い、けれどその手に自分の手を重ねた。
触れた瞬間、心臓が跳ねる。
指先に伝わる温もりが、身体中を駆け巡る。
それはまるで、初めて世界に触れたような衝撃だった。
「……」
言葉にならない。
けれど、願いだけは確かに胸にあった。
——どうか、この夜のきらめきが幻ではありませんように。
赤いドレスの裾がふわりと揺れる。
踊るたびに布が光を返し、彼の瞳がわずかに笑う。
音楽が流れ、二人を包み込むように世界が回る。
その瞬間、アランは信じた。
この幸福がたとえ刹那であっても、
いつか遠い未来で、きっと本物に変わる日が来ると。
彼の隣で踊る自分の姿が、確かに「未来」という頁に刻まれていく。
その幻のような一瞬が、永遠の輝きになると信じられるだけで。
—— アランの胸は、痛いほどの幸福で満たされていた。
——幸せだった。
胸の奥が、熱くてどうしようもないほどに満たされていた。
高らかに響く楽団の音が天井のドームを揺らし、煌びやかなシャンデリアが光を滴らせる。
光は床に散り、真紅のドレスの裾に反射して、小さな花弁のように踊っていた。
そのひとつひとつが、まるで自分の鼓動と一緒に脈打っているようだった。
アランはシリウスの手を握りながら、夢の中にいるような感覚に包まれていた。
灰色の瞳の奥に、自分が揺れている。
そこに映るのは、物語の中の姫君ではなく——確かに「アラン・セシール」というひとりの少女。
この現実の中で、誰かの腕に抱かれて舞っている自分だった。
一生叶うわけがないと思っていた。
仕える側として生まれ、影の中で息をするしかないと思っていた。
それが今、シリウスの手の中で、夢のような光に包まれている。
——ああ、これは幻だ。
けれど、たとえ一夜の幻でもいい。
今日だけは、夢で終わっても構わない。
そう思えるほどに、幸せだった。
透明な旋律が流れ、彼の手に導かれるままステップを踏む。
シリウスの手はしっかりと温かく、彼の掌から伝わる熱が現実であることを教えてくれる。
その温もりに触れるたび、アランは息を詰め、胸の奥で何度も言葉にならない声を上げた。
「そんなに見んなよ。……恥ずかしいだろ」
ふいにこぼれた彼の言葉に、アランは目を瞬かせた。
踊りながら、軽く笑みを浮かべるシリウス。
彼の声は柔らかく、どこか照れくさそうで、いつものような軽口よりもずっと優しかった。
「ごめんなさい……だって、あまりにも……かっこいいから」
その囁きに、シリウスの頬がみるみる朱に染まる。
完璧にスーツを着こなし、誰よりも堂々とリードする男が。
たった一言でこんなにも素直に赤くなるなんて。
アランの胸がくすぐったく震えた。
笑ってはいけないのに、笑みがこぼれる。
——この人を“可愛い”と思う日が来るなんて。
彼は、自由で、奔放で、時に無鉄砲で。
それでもどんな場にいても誰より輝いて見える。
誰もが憧れる「ブラック兄弟の長男」。
それが、今、アランの言葉ひとつで照れ隠しをしている。
その人間らしさが、どこまでも愛おしかった。
真紅の布の下で胸が熱を帯び、鼓動は音楽のテンポを追い越して跳ね上がる。
その時、不意に背後から明るい声が響いた。
「やあ、セシール嬢」
振り向くと、軽やかな足取りで近づいてきたのはジェームズ・ポッターだった。
眼鏡の奥で金色の光を宿した瞳がきらめき、口元には常のように悪戯の笑み。
この荘厳な場にあっても、彼だけは不思議と軽やかだった。
「今夜は飛び切り綺麗だね。……シリウスが鼻の下を伸ばしてるわけだ」
「うるせえよ!」
シリウスが即座に声を荒げた。
その反応があまりに早く、あまりにわかりやすくて、アランの胸に笑いが零れる。
怒った顔も、照れた顔も、彼はどこまでも真っ直ぐで誤魔化しが効かない。
そんな彼の灰色の瞳が、ちらりとこちらに向けられた。
照れ隠しの奥に隠しきれない感情が宿っていて、胸がきゅうと鳴った。
「いいものを見させてもらった気分だよ」
今度は背後から穏やかな声がする。
振り返ると、リーマスが静かに笑みを浮かべて立っていた。
彼の眼差しはいつも柔らかく、場のざわめきすら和らげてしまう。
舞踏会のきらめきの中で、彼だけは穏やかな月のような気配を纏っていた。
ジェームズが茶化し、シリウスが憤り、リーマスがそれを微笑で包む。
三人のやり取りが、まるで息の合った音楽のように場を彩っていた。
その空気の中で、アランはふと気づく。
——この人たちは、シリウスの「世界」なのだ。
仲間であり、家族であり、彼の自由を形作る存在。
その中に、自分がほんの一瞬でも立てていることが、たまらなく嬉しかった。
音楽が再び盛り上がり、笑い声とグラスの音が重なる。
人々の衣擦れが波のように流れ、煌びやかな空間が一層光を増していく。
アランの胸は、音楽とは違うリズムで高鳴っていた。
美しい旋律。人の声。心の震え。
それらがひとつの調和となって彼女を包み込む。
頬は赤く、息は浅く、翡翠の瞳は揺れる光を映して輝いた。
世界がすべて祝福してくれているように思えた。
——今はただ、この夢を信じたい。
夜が終わらないように。
この魔法が、解けないように。
心の底からそう願いながら、アランは踊った。
真紅の裾が光を受けて花のように揺れる。
その一振りごとに、胸の奥の祈りが深く刻まれていく。
幸福に濡れた視線の中で見つめるのは、ただひとり。
シリウス・ブラックの笑顔だけ。
その笑みがある限り、この夜は——永遠に終わらない気がしていた。
煌びやかな音楽と人々のざわめきを背に、二人は静かにバルコニーへ出た。
厚い扉を背に閉じると、そこはまるで別の世界だった。
喧騒は瞬く間に遠ざかり、かわりに夜の静寂が満ちていく。
冷たい空気が頬を撫で、湖面の上を渡る風が真紅のドレスの裾をかすかに揺らした。
遠くでは月光が湖に落ち、波紋のように淡く光を散らしている。
まるで夜そのものが、息を潜めて二人を見守っているようだった。
舞い踊った後の高揚がまだ体の奥に残っている。
息を吸うたび、胸の内が柔らかく弾み、鼓動の音が夜気に溶けていく。
静けさの中で、火照った頬を冷ます風がひどく心地よかった。
同時に、その静寂が怖くもあった。
沈黙のひとつひとつが、何かを待っているようで。
「今日は本当に……すごく綺麗だ」
隣に立つシリウスの声が、やわらかく胸に落ちた。
その声音は驚くほど静かで、まっすぐだった。
照れ隠しの笑いもなく、軽口の影もない。
ただ一つの真実だけを、穏やかに伝える声だった。
灰色の瞳が、まっすぐアランを見ていた。
先ほどまでの明るく軽やかな彼ではない。
今そこにいるのは、飾らない素顔のシリウスだった。
無防備で、誠実で、どこまでも正直な。
その視線に捕らえられた瞬間、アランの胸が揺れた。
心臓が速く脈打ち、足元の石畳がふわりと溶けるように遠のく。
息が詰まる。
けれど目を逸らせない。
彼の瞳があまりにも綺麗で、あまりにも真っ直ぐで——。
——いいのだろうか。こんなにも、幸せで。
好きな人が、自分を「綺麗だ」と言ってくれる。
ただそれだけのことが、どうしてこんなにも胸を熱くするのだろう。
言葉ひとつで、世界が反転する。
見上げる夜空の星々が、すべて祝福の光に見えた。
それは、少女が一生に一度出会えるかどうかの、甘美な奇跡だった。
これまで何度も夢に見ては諦めた、儚い幻想。
けれど今、それが確かに現実の形を持っていた。
胸の奥が熱を帯び、真紅のドレスが鼓動のたびに柔らかく震える。
まるでその布地までが、自分の心臓の一部になったかのように。
だが——。
幸福の中に、別の声が静かに混ざった。
——「僕は、あなたが好きです」
脳裏に蘇るレギュラスの声。
凪のように穏やかで、それでいて底知れぬ誠実さを孕んだ響き。
彼の告白は、悲しいほど真摯だった。
純血の名家に生まれ、血筋の重さと掟を背負いながらも、
それでも「好きだ」と言い切ったあの勇気。
あの言葉を聞いた夜、自分は何を返せただろう。
何も返せなかった。
何も答えられなかった。
そして今、自分の心を支配しているのは——
彼の兄であり、誰よりも自由を愛し、光に向かって生きようとするこの人だった。
あの誠実な手を振り払い、光の方へ惹かれてしまう。
その事実がひどく醜く感じられて、胸の奥が痛む。
どうして自分は、いつも誰かの想いを踏み台にしてしか前へ進めないのだろう。
気づけば、視界が滲んでいた。
頬を伝う熱いものを、風が冷やす。
「……」
涙が一粒、静かに落ちた。
驚いたように、シリウスが目を見開いた。
彼の瞳が一瞬で揺らぎ、眉がわずかに下がる。
次の瞬間、彼はためらいがちに笑って言った。
「おい……真っ赤なドレスで泣いてたら似合わねぇよ」
その声は、軽口のように聞こえて、けれどどこまでも優しかった。
伸ばされた手が、ためらいなくアランの頬に触れる。
親指の腹がそっと涙をなぞり、温かさが肌を伝った。
その手は荒削りなのに、包み込むような優しさを持っていた。
無造作に見えて、まるで彼の心そのもののように真っ直ぐで。
アランは翡翠の瞳を揺らしながら、彼を見上げた。
喉が詰まり、声が出ない。
罪悪感と幸福が同時に押し寄せ、胸の奥で衝突しては溶け合う。
真紅の裾が夜風に揺れ、二人の間の距離がわずかに縮まった。
その瞬間、すべての思考が静かになった。
月光が湖面に滴り、波紋のように広がる。
白銀の光が二人を包み、その影を長く伸ばしていく。
重なり合った影が、石畳の上でゆっくりと寄り添った。
夜風が二人の髪を揺らし、ドレスの裾が音もなく擦れる。
アランの胸の奥では、幻のような幸福と、消せない痛みが静かに混じり合っていた。
まるで、運命の糸が一本の結び目を作るように。
その結び目がほどけない限り——
この夜の月光と風と、彼の手の温もりは、永遠に心の中で輝き続けるのだと思った。
スリザリン寮の談話室は、異様なほどの静けさに包まれていた。
まるで湖そのものが、この部屋の上に降り積もっているかのようだった。
いつもならば聞こえるはずの笑い声やカードを弾く音、誰かの気まぐれな口論——そのどれもが今夜は存在しない。
皆が舞踏会へと姿を消し、残されたのは煖炉の中でくすぶる火の音だけ。
橙の残り火が壁の影を長く伸ばし、湖底から滲む青緑の光と溶け合い、どこか冷たく、張り詰めた静寂を生み出していた。
——悪くない。
いや、むしろ好都合だ。
レギュラス・ブラックは机に肘をつき、羽ペンを走らせていた。
広げられた羊皮紙の上には、スラグホーンから課された特別課題。
「多重層魔法における呪文干渉の条件とその回避理論」——あまりにも複雑で、骨の折れる命題だった。
だが、雑音も視線もないこの静寂の中では、不思議と集中できた。
ペン先が紙を刻むたび、インクの香りとともに思考が形を成していく。
その音が、唯一この空間を満たす生命の鼓動のように響いていた。
火の光がゆらぎ、レギュラスの影が壁に長く落ちる。
静謐。
完璧な孤独。
彼にとっては、それこそが安定であり、居場所でもあった。
だが——。
「君、てっきりアラン・セシールと踊るんだと思ってたけど」
背後から、不意に声が落ちた。
羽ペンの動きが止まる。
かすかにインクが滲む音がして、レギュラスはゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、バーテミウス・クラウチ。
月光を受けてわずかに青ざめた横顔は、理知的で整っている。
夜会には似つかわしくない静けさをまとい、彼の双眸には冷ややかな光が宿っていた。
「……あなたこそ、一番宴に出たがりそうな人ですけれど」
レギュラスは眉をわずかに上げ、皮肉を滲ませて応じる。
クラウチは唇の端をわずかに上げた。
「僕は、観察する方が好きなんだ。人の動きや、選択の理由をね」
静かな声だった。
癖のない発音と抑揚の中に、わずかな探りの色がある。
レギュラスは軽く鼻を鳴らし、視線を再び羊皮紙へ戻した。
だが、羽ペンの先が思うように動かない。
クラウチの声が背後から続く。
「君があの子を誘わなかったのは、意外だったな」
レギュラスの胸が一瞬だけ波打つ。
その波を隠すように、淡々と答える。
「……興味がなかったわけではありません」
ペン先を動かしながら、静かに吐き出した。
——もちろん、アランを誘おうと思ったことはあった。
彼女と踊りたいと思わなかった日はなかった。
けれど、それをしなかった。
もし誘って、断られたら。
もしその瞳が、自分ではなく——兄を追いかけていたら。
その一瞬を見ることが、怖かった。
自分の中にある「ブラック」という名が、砕ける音を聞きたくなかった。
そして、信じていた。
自分が誘わなければ、アランは舞踏会には出ないだろうと。
ブラック家に仕える家の娘。
分をわきまえ、誰の誘いにも乗ることはないと。
それは、彼が無意識のうちに築いた「確信」だった。
……それが、油断だった。
クラウチが一拍の間を置いて、静かに告げる。
「アラン・セシールは、シリウス・ブラックと踊ったみたいだよ。真っ赤なドレスで」
一瞬で、空気が変わった。
羽ペンの先が止まり、わずかなインクが紙に落ちる。
黒い滴が、じわりと滲んで広がっていく。
「……今、なんと?」
低く、掠れた声。
音が、ひどく遠くで鳴っているように聞こえた。
シリウスと—— アランが?
脳裏に映像が勝手に浮かぶ。
真紅のドレスを纏い、シリウスの手に導かれて舞う彼女。
柔らかな笑み。
きらめく光の中で揺れる翡翠の瞳。
兄の灰色の瞳に映り込む彼女の微笑——。
想像の光景が、胸を鋭く切り裂いた。
一瞬で全身に冷たい衝撃が走る。
それと同時に、苛立ちの熱が駆け上がった。
静かだった血流が急速に逆巻き、鼓動が耳を叩く。
羽ペンを握る手に力が籠もり、紙がかすかに悲鳴を上げる。
——どうしてだ。
心の奥から声が湧いた。
——どうして、あの人は。
冷たい湖の水が胸の中で渦を巻き、呼吸を奪っていく。
兄とあの娘。
その二つの名を並べるだけで、何かが軋むように痛んだ。
彼女を奪われたわけではない。
まだ誰のものでもないはずだ。
けれど、「兄の隣に立つ」というたったそれだけの想像が、理性を焼き尽くす。
心の奥で、冷たい驚きと灼けつく怒りがせめぎ合う。
どちらが勝つでもなく、ただ彼の中を掻き乱していく。
紙の上で乾いたインクがひび割れ、火の残りがかすかに弾けた。
それでもレギュラスは、顔を上げなかった。
目を伏せ、ただ机を見つめる。
その瞳の奥で、光と影が渦を巻いていた。
静寂は、もはや安らぎではなかった。
煖炉の火がぱちりと鳴るたびに、心の奥で何かがひび割れていく。
レギュラスの胸にはただ——どうしようもなく、ねじれた二つの感情があった。
冷えた驚きと、灼熱の憤怒。
それは、決して交わらず、決して癒えない。
彼の中で永遠に渦を巻き続ける、黒い魔法のような痛みだった。
そしてその夜。
レギュラス・ブラックは二度と、心の静けさを取り戻すことはなかった。
バーテミウス・クラウチが去った後、スリザリン寮の談話室には、重たい沈黙だけが取り残された。
扉が閉まるわずかな音さえ、まるで遠い水の底で響いたかのように静かだった。
残るのは、煖炉の中で時折ぱちりと爆ぜる薪の音だけ。
そのわずかな音がやけに耳に刺さり、レギュラスの胸を締めつけた。
音の余韻が石壁にぶつかっては、湿った空気の中に消えていく。
静寂はむしろ増幅され、鋭さを帯びて心の内を掻き乱した。
彼は深く息を吸い込み、震えそうになる指先を強引に押さえつけた。
冷静でいなければ。
自分はブラック家の息子だ。感情に流されるなど、あってはならない。
羽ペンを握り直し、再び羊皮紙へ視線を落とす。
課題はまだ終わっていない。
「干渉する魔法の理論的整理」——スラグホーンが与えた、特別課題の題名が目の前にある。
だが、整然と並んだはずの文字はもはやただの黒い斑点の群れにしか見えなかった。
焦点を合わせようとしても、行間が波のように歪み、意味を結ばない。
「透明化呪文と防御呪文の……相互作用は……」
声に出して読んでみる。
だがその響きは、内容を伴わぬ空虚な音となって空気に消えた。
自分の口からこぼれた言葉の意味すら理解できず、ただ耳の奥で遠く反響するだけだった。
——彼女は、本当に兄と踊ったのか。
脳裏に浮かぶのは、文字ではなく幻影。
真紅のドレス。
光の海に包まれて舞う少女の姿。
そして、その手を取って導くのは、自分ではなく——兄、シリウス。
「……っ」
羽ペンの先が震えた。
細い線を描くはずが、深く裂けるような傷跡を紙に刻む。
焦げ茶色のインクが滲み、白紙の上に不格好な染みが広がっていく。
その滲みはまるで、自分の中で崩れていく均衡そのもののようだった。
完璧であること。
冷静であること。
誰よりも聡く、優れていなければならないという自負。
それらすべてが、今、赤く染まる彼女の幻影の前で音を立てて崩れていく。
集中しようとするほどに、心の奥から別の声が立ち上がる。
——なぜ兄なのか。
——どうして、誘うはずのないあの人が。
——どうして、自分ではなく。
思考が渦を巻く。
疑念と嫉妬が交互に顔を出し、理性の鎖を喰い破っていく。
理屈ではない。感情でもない。
それは、血の奥から湧き上がる、どうしようもない「嫉み」そのものだった。
机に置いた手に、無意識のうちに力がこもる。
羊皮紙が歪み、しわを刻んで軋む音が部屋に響いた。
わずかなその音さえ、自分を嘲笑うように感じられる。
「あの人は……」
掠れた声が零れた。
自分でも、何を言おうとしたのか分からない。
怒りなのか、悔しさなのか、あるいは恐れなのか。
どれも正しい。どれも間違っている。
ただ、確かなのは——胸の内に燃える熱と、それに覆い被さる冷たい怯え。
矛盾する二つの温度が同時に身体を支配していた。
再び羽ペンを持ち上げようとしたが、指先が動かない。
目の前の文字はもはや読めなかった。
数式も、呪文の理屈も、知識の体系も——すべて霧の中に押しやられていく。
彼の理性を象徴する整った筆致は、今や完全に崩れ去った。
羊皮紙の上には、ただ黒く滲んだ線がいくつも重なり、意味を失った記号のように残っている。
息を吸っても苦しい。
吐き出しても、空気は胸に届かない。
まぶたを閉じるたび、脳裏にはあの光景が再生された。
光に包まれた大広間。
笑うアラン。
その手を取るシリウス。
灰色の瞳と翡翠の瞳が交わる瞬間——。
その映像は幻ではなく、彼の中では確かな「現実」として焼き付いてしまっていた。
静けさを湛えるはずだった談話室。
今そこにあるのは、静けさではなく、息詰まるほどの「孤独」。
勉学の場だったこの空間は、もはや彼の感情を閉じ込める牢獄に変わっていた。
遠くの舞踏会では、音楽がまだ鳴り続けているだろう。
灯りも、笑い声も、拍手も——そのどれもが届かない。
ここは光から隔てられた、湖底のような場所。
冷たく、暗く、そして深い。
レギュラスの心は、もう課題から離れていた。
彼の思考はすべて、ひとりの少女へ、そしてその隣に立つ兄の影へと絡め取られていく。
かつて理性と誇りで築かれた彼の心の砦。
その内側で、嫉妬と焦燥という名の焔が、ゆっくりと燃え始めていた。
それは声も音も立てずに——
けれど確実に、彼という存在を蝕んでいく。
熾火のように。
静かに、しかし永遠に消えぬ熱を帯びて。
夜は深く沈み、スリザリンの談話室はまるで湖底そのものが静寂を吸い込んでしまったかのように、息をひそめていた。
石造りの天井から滴るような冷気。
すでに煖炉の炎は息絶え、残る薪がわずかに赤熱を宿している。
その名残火が「ぱち」と小さく音を立てるたび、長く伸びた影が壁を揺らし、空間に脈打つようなリズムを刻んだ。
湖底から透ける青緑の光が石壁に反射し、揺れるたびに部屋全体が水中に沈んでいるように見える。
レギュラスはその光に照らされながら、長椅子の脇に腰を掛け、動かずにいた。
机の上の羊皮紙には、書きかけの文字列が乾いたまま貼りついている。
インクの斑点がかすかに光を反射し、未完の思考を静かに物語っていた。
だが、彼の視線はその紙には向けられていない。
焦点の定まらない灰色の瞳は、部屋の奥、扉の方を見据えていた。
何を待っているのか、自分でも分からない。
ただ、胸の奥に残る熱と冷たさが、理屈では説明できない衝動となって彼をそこに縫い止めていた。
時の流れが凍りついたような静寂の中。
——音がした。
扉の蝶番がわずかに軋み、空気がかすかに動く。
その隙間から、細い光とともに人影が差し込んだ。
アランだった。
赤い。
最初に目に入ったのは、その色だった。
蝋燭の残光を受けて、真紅のドレスが夜気の中で微かに煌めく。
それは血潮のように鮮やかで、息を呑むほどに美しい。
淡い光の中で、彼女の肌は白磁のように透き通り、黒髪が波のように肩へと落ちていた。
まるで、舞踏会の残光をその身に宿したまま戻ってきたかのようだった。
レギュラスの胸の奥で、何かが軋んだ。
——ああ。本当に、行ったのだ。
あの宴へ。
兄と共に。
光の中へ。
それだけの事実が、鋭い痛みとなって心臓を掴む。
その痛みは形を変えながら広がり、怒りとも悲しみともつかない熱と共に、胸を内側から焼き尽くしていった。
「……レギュラス」
アランの声が、静寂の中に落ちた。
その声音には、戸惑いと、かすかな後ろめたさが滲んでいる。
彼女は思ってもみなかったのだろう。
この時間、この場所に、まだ彼がいるとは。
レギュラスはゆっくりと立ち上がった。
足音が石の床に乾いた反響を残す。
視線を逸らさず、まっすぐに彼女を見つめた。
「遅かったですね」
言葉は平静を装っていた。
だが、その裏に潜む感情を隠しきることはできなかった。
声はわずかに震え、冷たい刃のように硬質な響きを帯びていた。
「……ええ」
アランは短く頷いた。
その視線は、床に落とされたまま。
彼女の黒髪が揺れ、真紅の裾が静かに波打つ。
その仕草ひとつひとつが、レギュラスの胸を締めつけた。
沈黙が降りた。
針の先で張り詰めた糸を撫でるような、痛いほどの沈黙。
煖炉の残り火が「ぱち」と小さく弾け、その音さえ二人の距離を際立たせる。
レギュラスは息を吸い、そして吐く。
吐息の音がやけに重く響いた。
「…… アラン」
抑えていたものが、音になった。
静かで、それでいて鋭い。
低く沈んだその声は、刃のように空気を裂いた。
「シリウスと——踊ったんですか」
その問いが放たれた瞬間、空間がぴたりと止まった。
湖底の光さえ、動きを忘れたように。
アランの翡翠の瞳が、ゆっくりと震える。
唇がかすかに開き、息が漏れる。
けれど、言葉は出なかった。
その沈黙が、何より雄弁だった。
レギュラスの喉の奥で、熱が弾けた。
それは怒りでも憎悪でもなく、もっと原始的な感情——どうしようもない「悔しさ」だった。
言葉はいらない。
真実は、彼女の纏うその紅がすべてを物語っている。
舞踏の光を反射するその色は、まるで兄の手によって灯された印のように見えた。
「……」
唇の奥で、息が微かに震えた。
胸の奥に溜め込んだ感情が、静かに軋む。
心の内側で、何かが裂ける音がした。
煖炉の残り火が、再び弾けた。
橙と青の光が交錯し、アランの赤い裾を淡く照らし出す。
その光景は美しく、そしてあまりにも残酷だった。
レギュラスの灰色の瞳が揺れる。
彼女を責めたいわけではなかった。
ただ、どうしても受け入れられなかった。
兄を誇りに思っていた頃の気持ちと、兄を憎むような痛みが、胸の中で複雑に絡み合う。
愛と嫉妬、理性と感情。
どちらが正しいのか、もう分からない。
ただ一つ確かなのは——
この瞬間を境に、自分の中で何かが決定的に変わってしまったということ。
湖底の光がゆらめき、影が二人を包み込む。
赤と緑の光が交錯し、まるで相容れぬ世界が一瞬、同じ場所に存在しているようだった。
レギュラスの胸の奥で、痛みが熱を帯びて燃え上がる。
それはもはや静かな怒りではなかった。
彼の心を覆う影は、静かに、しかし確実に形を持ち始めていた。
——もはや、戻れない。
そう悟ったとき、煖炉の最後の火が、音もなく弾けて消えた。
そして部屋には、湖底の冷たい光だけが残された。
石造りの談話室は、夜更けの冷たさをゆっくりと吸い込みながら沈黙していた。
壁を伝う湿り気を帯びた空気が、まるで湖底の静寂そのものを閉じ込めたように重たく漂っている。
煖炉では燃え尽きかけた薪が細く赤熱を残し、時おり「ぱち」と音を立てては小さな火花を散らした。
その音がやけに鮮明に響き、ふたりの沈黙を際立たせる。
アランは真紅のドレスを纏ったまま、扉を閉じた位置に立ち尽くしていた。
艶やかな布がわずかに揺れ、そのたびに光を反射して血のような輝きを放つ。
彼女の瞳は伏せられ、唇は微かに震えていた。
まるでこの空間の冷たさに飲み込まれぬよう、息を押し殺しているかのように。
レギュラスは、そんな彼女を見つめていた。
背筋を伸ばし、影のように静止した姿。
湖底の光と煖炉の残り火が、彼の灰色の瞳に交錯し、淡い緑と橙の揺らぎを映している。
その瞳の奥には、凍てついたような静謐と、言葉にできぬ激しさが共に潜んでいた。
「シリウスと——踊ったんですか」
静寂を断ち切るように放たれた声は、鋭く、それでいて震えていた。
刃のような硬さを持ちながら、その裾にはわずかな痛みと迷いが滲んでいる。
アランは顔を上げた。
一瞬、息を呑んだように肩が揺れ、何かを言おうと唇がかすかに開く。
けれど、言葉は出なかった。
脳裏をよぎったのは、ほんの少し前の記憶——
シリウスが差し出した手。
「綺麗だ」と囁いた低い声。
照れ笑いと共に揺れた灰色の瞳。
その温もりを思い出すだけで、胸が再び熱を帯びる。
けれど、同時に押し寄せたのは耐え難い罪悪感だった。
——レギュラスの言葉。
「僕は、あなたが好きです」と、あの夜に告げた真摯な想い。
理性よりも誠実さを選んだ瞳。
その誠実に、何も返せなかった自分。
そして今、自分はその告白に背を向けるように、兄の手を取ってしまった。
「……答えられないんですね」
低く落とされたレギュラスの声が、沈黙を切り裂いた。
静かに、しかし決定的な響きをもって。
アランの胸の奥に、冷たい刃のような痛みが広がる。
「僕は……ずっと、あなたを信じていました」
言葉が、震えていた。
それでも彼は続けた。
「あなたは、そんな軽率な人じゃないと……そう思っていた。
でも今夜のあなたを見て……兄の隣で笑っていたと聞かされて……どうすればいいのか、わからない」
彼の声は、怒りよりも苦しみに近かった。
静かに震えるその響きが、かえって彼の心の深さを露わにしていた。
アランは慌てて首を振る。
「……違うの、レギュラス。そんなつもりじゃなかったの」
言葉を紡ぐたびに、息が途切れる。
涙がこぼれそうになるのを必死に堪えながら、彼女は視線を彷徨わせた。
「私は……ただ……」
「なら、なぜ……」
レギュラスの問いが重なった。
静かでありながら、その声は痛烈だった。
彼の瞳が揺れる。怒りとも、悲しみとも、羨望ともつかぬ光。
アランの唇が震え、翡翠の瞳が涙で滲む。
もう言葉は続かなかった。
喉を絞るように吐き出された声が、ようやく形を成す。
「……私、どうしても……答えられないの……」
涙が、頬を伝って落ちた。
それは静かで、美しく、あまりにも痛ましかった。
その雫を見た瞬間、レギュラスの表情が揺らぐ。
彼の中に渦巻いていた怒りが、ふっとほどける。
かわりに胸を占めたのは、言葉にできぬほどの哀切だった。
「……泣かないでください」
低く、掠れた声で彼は言った。
「あなたを泣かせたいわけじゃ……ないんです」
そっと伸ばされた指先が、アランの頬のすぐ前で止まる。
触れたら壊れてしまいそうで、触れずにいれば届かない。
その一瞬の逡巡に、レギュラスの苦悩が凝縮されていた。
火の残りが「ぱち」と弾け、影が壁に踊った。
炎は次の瞬間、息絶えるように沈み、室内は湖底のような青緑の光に包まれた。
完全な静寂。
アランの涙が石床に落ちるその音さえ、聞こえてしまいそうなほどの静けさ。
二人は、もう何も言わなかった。
言葉があまりに脆く、どんな音もこの沈黙を壊してしまいそうだった。
残されたのは、互いを縛り付けるような、痛いほどの静寂だけ。
それはまるで、燃え尽きた火の跡に残る灰のように、
かすかに温かく、それでいて取り戻せないほど冷たかった。
夜が明けたことを、アランはようやく鳥の声で知った。
それでも、瞼を閉じたまま動けなかった。
寝台の上で仰向けに横たわり、ひと晩中、何度も同じ光景を繰り返し見ていたからだ。
——舞踏会の階段の下。
手を差し伸べてくれたシリウスの姿。
照れたように笑いながら、少しだけ顔を背けて言った「綺麗だ」のひとこと。
煌びやかな照明の中で交わした視線の温度。
胸の鼓動が、まるで踊りの音に合わせるように跳ねていた幸福。
けれどその光の記憶のすぐあとには、別の声が重なる。
——「アラン。僕は、あなたが好きです」
湖底の光に照らされたあの夜のレギュラス。
凛として整った顔立ちに宿った、脆く真っ直ぐな熱。
彼の手の震え、唇のわずかな強張り。
その全てが、今もまざまざと胸に焼き付いて離れない。
答えられなかった。
ただ沈黙で返した自分。
涙に歪んだ彼の表情。
そして——逃げるように踏み出した足。
幸福と罪悪感がせめぎ合う。
どちらもあまりに鮮烈で、どちらも心の中で同じだけ重く、痛かった。
まるで二つの光が交差して眩しすぎるせいで、呼吸の仕方すら忘れてしまうようだった。
枕に顔を伏せても、眠りは訪れなかった。
何度まぶたを閉じても、舞踏会の光とレギュラスの瞳が交互に現れる。
朝が来る頃には、心は擦り切れ、体は鉛のように重くなっていた。
——行けない。
朝の大広間へなど。
あの明るい場所で笑い合う声を聞けば、自分の罪だけが際立ってしまう。
シリウスの柔らかな笑顔も、レギュラスの静かな視線も、今の自分には眩しすぎた。
けれど、空腹はどうしても誤魔化せなかった。
まるで何かに導かれるように、足が談話室の方へと向いていた。
そして、そこに彼がいた。
「……レギュラス」
声が震えた。
驚きと、どこか怯えにも似た感情が混ざっていた。
彼は椅子に腰を掛け、机の上に閉じた本を置いていた。
朝の光が細く差し込み、彼の横顔を縁取る。
湖の底のように淡い光が灰色の瞳に宿り、その奥に映る表情は読み取れなかった。
「朝食に来ていませんでしたから」
落ち着いた声で、そう告げられた。
その手には、布に包まれた小さな包みがある。
静かに立ち上がった彼は、それをアランの方へ差し出した。
恐る恐る受け取り、布を開く。
柔らかそうな白いパンがひとつ。
小さな陶器のバター。
丸い果実が一つ——どれもありふれたもの。
けれど、彼がこれを自分のために用意してくれたという事実だけが胸を刺した。
「少しくらいは食べてください」
穏やかな声。
責める調子はどこにもない。
昨夜の出来事を咎める言葉も、痛みをなぞるような問いかけもない。
ただ、優しさだけがあった。
「……ありがとうございます、レギュラス」
小さな声が震える。
感謝を伝えようとしても、喉が詰まって言葉がうまく出なかった。
彼の前に立つと、胸の奥がきりきりと軋んだ。
何も言われない。
それが何より苦しかった。
責められるよりも、罰せられるよりも。
沈黙の中で与えられる「優しさ」が一番痛かった。
レギュラスは、そんな彼女の心を見透かしたように、静かに微笑んだ。
その微笑みは穏やかで、少しだけ寂しげでもあった。
「食べたら、授業に行きましょう」
淡々とした口調。
まるで昨夜のすべてを、ひと晩で遠い記憶に押し込めてしまったかのように。
その姿勢が、かえってアランの胸を締め付けた。
——許されたのだろうか。
——もう、何も問わないという意味なのだろうか。
そう思いたかった。
ほんの少しでも、甘い希望にすがりたかった。
けれど、彼の瞳の奥にある影には、気づけなかった。
レギュラスの灰色の瞳は静かに微笑みながらも、奥底に沈殿した何かを隠していた。
怒りでも憎しみでもない。
それは、もっと深い場所で燻るもの——冷たい決意の種だった。
優しさと理性。
情と誇り。
その二つがひとつの器の中で静かに混ざり合い、やがて冷ややかな光を帯びていく。
朝の光は、窓から柔らかく差し込んでいた。
その明るさは確かに温かいのに、談話室の空気は不思議なほど冷たかった。
アランはそれに気づかぬまま、小さなパンを両手に抱いていた。
そしてその光の届かぬ奥底——
静かに、確実に、レギュラスという影は深く沈みはじめていた。
まるで、湖底に落ちてゆく黒い花弁のように。
