4章
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灰色の雲がホグワーツの上空を覆っていた。
冬の冷たい風が塔の尖端を撫でる。
その夜、校内の一室で灯されたランプの光の中、
ハリー・ポッターの瞳は燃えるように真剣だった。
「ヴォルデモートと戦うには、
在学中だとか、関係ないんだ。」
その声は決意に満ちていた。
誰に向けた言葉というわけでもなく、
己を鼓舞するような静かな確信。
けれど、それは確かにアルタイルの胸に響いた。
ハリーの手の甲に浮かぶ古傷。
何度も戦い、何度も傷つきながら、
それでもなお前を向き続けるその姿。
まるで、夜の中で唯一燃える灯火のようだった。
――ヴォルデモートと戦うために。
――もう誰も奪わせないために。
その意思が、ハリーの瞳の奥で確かに光っていた。
アルタイルは静かに拳を握った。
胸の奥で、二つの影が交錯する。
父――レギュラス・ブラック。
そして、導くように微笑むシリウス・ブラック。
父は闇の帝王の陣営に属している。
その事実は、幼い頃から知っていた。
けれど――“どこまで”関与しているのか。
その問いだけは、怖くて口にできなかった。
父は多くを語らない。
己の信念も、過去も、闇も。
ただ黙して立ち、冷たい眼差しで世界を見つめていた。
――それでも。
その背中に宿る孤独を、アルタイルは誰よりも感じていた。
近づこうとすれば、闇の影に焼かれるように拒まれる。
けれど、放っておくこともできなかった。
「……父上は、いったい何を見ているんだろう。」
ふと零れた独り言が、静かな部屋に落ちる。
その時、シリウスがふっと笑った。
焚き火の明かりが揺れる夜、
談笑する騎士団の輪の中で、
いつもシリウスの笑い声だけが空気を明るくしていた。
「お前の父は……まあ、難しい男だ。」
彼がぽつりと呟いた夜のことを、アルタイルは思い出す。
その声には怒りも嘲りもなく、
ただ遠い弟への哀惜が滲んでいた。
――本当に、心の底から笑わせてくれる人。
シリウスは、いつも誰かを導いていた。
傷ついた者に寄り添い、
絶望の縁に立つ者を引き上げる。
光そのもののような人だった。
アルタイルは気づけば、
その背中を追うように視線を向けていた。
シリウスのように――
人を救える魔法使いになりたい。
それはまだ漠然とした夢。
けれど確かに、自分の中に芽生え始めていた。
だが、現実はあまりにも残酷だった。
シリウスと父は、
まるで正反対の思想を掲げている。
一方は“自由と平等”を。
もう一方は“誇りと線引き”を。
どちらが正しいのかなど、分からない。
けれど――それがいつか、
杖を向け合う戦いになるかもしれないと思うだけで、
胸が締めつけられた。
「アルタイル。」
ハリーの声が現実に引き戻した。
「君も……一緒に参加してほしいんだ。」
その一言に、空気が震えた。
ハリーの表情は真剣だった。
迷いのない瞳。
そのまっすぐさが、時に刃のように痛かった。
アルタイルは息を詰めた。
心が揺れる。
父への罪悪感が波のように押し寄せる。
――父を裏切ることになる。
そう思えば、足がすくむ。
けれど――ハリーと共に戦いたいという想いも、
確かにそこにあった。
彼が戦おうとするその姿を、支えたい。
そしていつか、自分も“共に並べる強さ”を得たい。
「……僕で、役に立てるでしょうか。」
アルタイルの声は震えていた。
けれど、その奥に宿る決意は確かだった。
ハリーが微笑む。
その微笑みは、
あの日、母が見せた微笑みとどこか似ていた。
「君なら、できる。」
その言葉が、
アルタイルの胸の奥に深く沈んでいった。
父の影、母の祈り、
そして仲間の光。
その全てが交差する中で、
少年は初めて、自分の意志で歩き出そうとしていた。
外では、夜明け前の風が吹き抜けていた。
遠くで雷鳴が轟く。
新しい嵐の気配。
――選ばなければならない。
誰のために、何のために。
アルタイル・ブラックの胸の奥に、
その問いが静かに燃えはじめていた。
暖炉の火が、ぱちぱちと音を立てていた。
ホグワーツの地下室、騎士団の臨時会合の部屋。
分厚い石壁に囲まれたその空間の中で、
ハリー・ポッターは手にした報告書を見つめながら、
静かに言葉を選んでいた。
アルタイル・ブラックが、目の前に座っている。
父譲りの落ち着きと、母譲りの穏やかさを併せ持った青年。
けれど、その瞳の奥には、深い迷いが潜んでいた。
――レギュラス・ブラック。
闇の帝王の陣営に属し、
ホークラックスを守っているとされる男。
そして、その息子が今、
父の秘密を探る“鍵”にされようとしている。
ハリーの胸の奥が痛んだ。
こんな残酷な役を、まだ少年の彼に背負わせるなど――。
「……アルタイル。」
ハリーは静かに口を開いた。
「君の父さんの書斎に、何か手がかりがあるかもしれない。
ホークラックスの在り処、あるいは……その意図を示す記録が。」
アルタイルは視線を落としたまま、
指先で机の縁をなぞっていた。
「……本当に、父とは……そういった話を一切したことがなくて。」
その声は、小さく震えていた。
彼がどれほど葛藤しているか――その一言で十分に伝わった。
沈黙が落ちる。
部屋の中の騎士団の面々が、
それぞれの思いを飲み込むように息を呑む。
落胆と、無力感。
それでも、誰もアルタイルを責めることはできなかった。
あの男――レギュラス・ブラックに、
正面から踏み込める者など、そうはいない。
ハリーは静かに頷いた。
「……分かった。無理はしないでいい。
でも、もし何かわかったことがあったら、教えてほしい。」
その言葉に、アルタイルは小さくうなずいた。
唇を噛みしめ、
まるで父を裏切ることへの痛みを飲み込むように。
ハリーは、そんな彼の仕草を見て、
胸の奥が焼けるように苦しかった。
酷なことを言っている――自覚はある。
彼に求めているのは、
父を裏切れということと同義だ。
だが、それでも。
この少年こそが、きっと“鍵”なのだ。
レギュラス・ブラックの築いた絶対の要塞を開く唯一の鍵。
自分がこの世界に命を持ち続けている限り、
この少年の存在を使うことになる。
その罪の重さを、ハリーは噛み締めていた。
会合が終わり、
他の団員たちが去った後も、
ハリーは椅子に腰を下ろしたまま、
暖炉の火を見つめていた。
――アラン・ブラック。
彼女の名が、心の奥で静かに響いた。
彼女は、あの日、自分を救ってくれた。
闇の帝王の襲撃を、身を挺して防いでくれた。
あの救いが、どんな理由からだったのかは分からない。
もしかしたら――
本当は自分ではなく、
かつての想い人であるシリウスを守るための行動だったのかもしれない。
それでも、あの日、自分は彼女に命をもらったのだ。
レギュラス・ブラックを糾弾するということは、
そのアランをも追い詰めることになる。
あの屋敷に住む“夫”と“妻”の運命を、
どちらも深く傷つけてしまう。
ハリーは顔を覆った。
炎の光がまぶたの裏に滲む。
――アランは、いまどうしているのだろう。
彼女の瞳は翡翠。
どこか自分に似ているその色を思い出すたび、
奇妙な縁を感じずにはいられなかった。
自分もまた、彼女の“決断”に生かされた者のひとり。
彼女を苦しめるような結果だけは、
本当は望んでいない。
それでも、進まねばならない。
ヴォルデモートの影を断つために。
レギュラス・ブラックという闇の要塞を崩すために。
ハリーは小さく息を吐いた。
――もし、彼を打ち破ることができたなら。
アランはどうするのだろう。
彼女はシリウスの手を取るだろうか。
そうなれば、アルタイルには本当の父と母が揃う。
本来あるべき形。
奪われた運命が、ようやく結ばれる。
それが、正しい未来なのだと、
そう思うことでしかこの罪を正当化できなかった。
「……僕は、どこまで残酷になれるんだろうな。」
独り言のように零した声が、
火の粉にかき消されていく。
暖炉の炎がゆらめくたびに、
ハリーの胸の奥で、ひとつの祈りが揺れた。
――どうか、これが赦される理由になりますように。
レギュラス・ブラック。
その名を呟くたび、
ハリーの心は冷たい痛みで満たされていった。
暖炉の炎が、深夜の寝室を淡く染めていた。
オレンジ色の光が天蓋の影を揺らし、静寂の中で燃える音だけが響いている。
外では冷たい雨が屋敷の屋根を叩き、世界が遠のくような音を立てていた。
その静けさの中で、アランはレギュラスの腕の中にいた。
彼の胸に頬を寄せ、震える呼吸を聞く。
その音が、なぜだか痛いほど胸に染みた。
――彼が語った真実は、あまりにも壮絶だった。
ホークラックス。
魂を引き裂き、不死を得るために造られた、禁断の闇の器。
それを見つけ、壊すのではなく「守る」ことで、
かつて自分の命を救ったという彼の告白。
あの日、拷問にかけられた自分を助けるために、
彼が差し出した“取引”。
それがどれほどの代償を伴うものであったか、
想像するだけで身が凍りついた。
どんな選択をしても、
その全てが彼の命を削る行為であることを悟ってしまった。
「……レギュラス。」
アランは小さく名を呼ぶ。
彼の胸に顔を埋める。
熱いものが込み上げ、涙が頬を伝った。
――どう支えればいいのか分からない。
見つけ出した先に、何が待っているのか。
その問いを、喉の奥で押し殺す。
聞いてしまえば、彼がそのまま死地へ赴く覚悟を
確かな言葉で知ってしまう気がしたからだ。
それでも、決めていた。
彼がどんな選択をしたとしても、共に背負うと。
だから――許したのだ。
もう、あの医務魔女のことを責めたりはしない。
エリナ・ウェルズ。
酒に酔い、弱った心が向かった先にあった女。
それは彼の愚かさであり、孤独が導いた一夜の過ちだった。
けれど、その弱さを引き出したのは――他でもない、自分だ。
長い年月、レギュラスの向ける深い想いに、
自分は何ひとつ返せなかった。
彼だけに重たいものを背負わせ、
自分は安全な場所から祈るだけの存在になっていた。
「……レギュラス、ごめんなさい。」
その言葉には、いままでの全てが込められていた。
裏切りも、すれ違いも、沈黙も。
彼の孤独を見過ごしてきた年月に対しての詫び。
それしか言えなかった。
けれど、それが全てだった。
レギュラスは小さく首を振り、
掠れた声で言った。
「僕の方こそ……あまりにも軽率でした。」
その言葉を聞いて、
彼が何を指しているのか、アランにはすぐ分かった。
――エリナのことだ。
けれど、もうそんなことはどうでもいい。
謝罪など、求めていない。
ただ――共にいさせてほしい。
彼の肩に乗る闇の一端を、少しでも分けてほしい。
唯一、許せないことがあるとすれば。
それは彼が、全てを一人で背負おうとしたことだった。
ホークラックスを探す。
闇の帝王の魂の欠片を――死を欺くその核心を。
それが、どれほどの危険を伴う行為なのか。
生きて帰れる未来が、限りなく薄いことを
彼自身が最も理解しているのだ。
――なのに、彼はまた一人で行こうとしていた。
それだけは、もう許せなかった。
アランはレギュラスの頬に手を添える。
そして、涙をぬぐいながら、
静かに告げた。
「エリナ・ウェルズのことは、もうすべて水に流します。
そのかわり、約束してください、レギュラス。」
彼は驚いたように目を瞬いた。
「ええ……何でも。」
アランはゆっくりと彼を抱き寄せた。
彼の肩に頬をあずける。
その体温が、まだ確かに生きていることを伝えてくる。
「どこまで辿り着けるかは分かりません。
全てを見つけられたとしても、そうでなかったとしても――」
アランは一度息を吸い込み、
囁くように、けれど確固たる意志を込めて続けた。
「――一緒にいましょう、レギュラス。」
その一言一言に、魂を削るほどの想いを込めた。
これは愛の言葉であり、
共に歩むという誓いであり、
同時に――共に死ぬという誓いでもあった。
レギュラスの体が、かすかに震えた。
それは泣いているのか、
それとも、久しく忘れていた“救い”に触れたからなのか、
アランには分からなかった。
ただ、そっとその背を撫でる。
彼の重たい闇を、少しでも分けて受け止めたくて。
炎がぱちりと鳴った。
その音とともに、ふたりの影が寄り添い、
まるでひとつの形に溶け合うように揺れていた。
夜が静かに更けていく。
嵐の前のような静寂の中で、
アラン・ブラックとレギュラス・ブラックは、
同じ運命の重さを、ひとつの抱擁に閉じ込めた。
アランの唇から零れたその言葉は、
まるで呪文のように、静かに空気を震わせた。
――「一緒にいましょう、レギュラス。」
愛している、という言葉よりも強く、
もっと深く魂に届く響きだった。
その声を聞いた瞬間、胸の奥に何かが崩れ落ちる音がした。
ずっと求めてきた。
この人の心を、声を、瞳の奥にある微かな熱を。
けれど、どれだけ抱きしめても掴めなかった。
どれほどの愛を差し出しても、届かない場所があった。
彼女の心には、かつて兄の名を刻んだ影があったからだ。
それでも、諦められなかった。
奪い取ってでも欲しかった。
囲い、縛り、閉じ込めて、それでも不安でたまらなかった。
どこまでも追い求めて、
彼女の一片でも自分の中に留めておきたかった。
それが、レギュラス・ブラックの愛だった。
理性では止められないほど、愚かで、激しく、
そして純粋な執着の形。
だが今、彼女のその一言が、
そんな全ての不安を一瞬にして溶かしていく。
――共にいましょう。
それは赦しの言葉でもあり、誓いの言葉でもあった。
彼女が初めて、同じ場所に立つと約束してくれた瞬間だった。
レギュラスの胸の奥に、
温かいものがじわりと広がる。
あまりに甘美で、酔いそうになる。
信じられないほどの幸福が、
不意にこの世界に訪れてしまったかのようだった。
「アラン……」
掠れる声で名を呼ぶ。
抱きしめた腕に力がこもる。
この瞬間が永遠に続けばいい――そう願った。
それからの日々、
レギュラスは一人でホークラックスを探すことをやめた。
アランを伴って動くようになった。
危険な領域だった。
けれど、アランを置いていくことの方がよほど恐ろしかった。
もう二度と、あの翡翠の瞳を失いたくなかった。
二人は地図と古文書を広げ、
机の上を埋め尽くしていった。
魔法地理書、古代の儀式書、
死者の魂に関する禁書、
そしてヴォルデモートが好んで訪れたとされる廃墟や洞窟の記録。
羊皮紙の上に広げた羽ペンが、
複雑な印を描きながら行き交う。
「この地点……旧ルーマニアの山岳地帯にある古代ドラゴンの巣。
防護結界が強く、闇の魔法に覆われていたと記録があります。」
アランが指先で地図を押さえながら告げる。
彼女の声が凛として響くたび、
レギュラスは思わずその横顔に見惚れてしまう。
「ふむ……確かに、可能性はありますね。
ホークラックスを守るには、
人間が踏み入れにくい場所ほど理に適っている。」
そう言いながらも、彼の目は資料よりも、
アランの揺れる髪へと向かってしまう。
「……なんです?」とアランが少し眉を寄せる。
「いえ。なんだか、試験前の図書室みたいだと思いまして。」
レギュラスの口元が柔らかく弧を描く。
アランも思わず微笑んだ。
「あなた、あの頃はほぼ、ちょっかいばかり出してたじゃないですか。」
「そんなことありませんよ。僕だって、
部屋に戻ってから朝まで勉強してました。」
「……ちょっかいのせいで、眠れなかったんじゃなくて?」
二人の笑い声が、静かな書斎に広がった。
長く続いた緊張の糸が、ふっと緩む。
ふとした会話の中に、
かつての二人が蘇る。
ホグワーツ時代――
魔法史の試験前、夜の図書室で並んで本を開いた記憶。
彼女の隣で羽ペンを動かしていても、
どうしても視線がノートではなく、
その白い頬や長い睫毛に向かってしまった。
灯りの魔法の下で揺れる髪。
インクの香りに混じるアランの匂い。
ただそれだけで、集中などできなかった。
伸ばした指先が、彼女の髪をすくう。
驚いたように振り向く彼女の瞳に、
翡翠の光が宿る――その度に、心が奪われた。
今、こうして隣にいる。
机の上には過去とは比べ物にならないほど危険な文献が並んでいるのに、
どこか懐かしい温もりがある。
あの頃と同じように、
彼女の横顔を見つめながら、
レギュラスは心の中で呟いた。
――あの日、君を見ていた時と同じだ。
――僕は今も、君に見惚れている。
外では雨が止み、月光が窓を照らした。
地図の上に、二人の影が寄り添うように落ちる。
その光の中で、
二人は再び“同じ道”を歩き始めていた。
闇へ向かう道。
それでも、二人であれば――。
そう信じられるほどに、
アランの誓いは、いまも胸の奥で静かに燃えていた。
報告書の束が机に叩きつけられた。
重たい紙の音が、会議室に鈍く響く。
「……もう一度、読んでくれ。」
ジェームズの声は低く、抑えた怒気を孕んでいた。
リーマスが眼鏡の位置を直しながら、
手にした羊皮紙を静かに開く。
封蝋には、医務魔女エリナ・ウェルズの名が記されている。
――《レギュラス・ブラックは、近頃アラン・ブラックを伴って頻繁に屋敷を離れるようになりました。
行き先は特定できませんが、長時間戻らないこともあり、外部との接触も確認されています。》
その一文を読み上げた瞬間、
シリウスの拳が机を打ち鳴らした。
「ふざけるな……!」
音が会議室に反響する。
怒りを抑えきれないその顔に、
紅潮が滲む。
「ついに……あの野郎、アランまで巻き込む気かよ。
自分の妻にまで、闇の魔術を背負わせるなんて……!」
歯を噛みしめる音が聞こえるほどだった。
誰もが息を呑んだ。
シリウスの怒りはもっともだった。
彼にとってアランは、
かつて命を懸けてでも守りたかった存在。
そして今も、心の奥で決して消えない“光”だった。
ジェームズは手を組み、眉間を押さえる。
「……正直、俺も信じられない。
あいつは、アランだけは――闇から遠ざけようとしてたはずだ。」
リーマスも頷く。
「そうだ。拷問を受けていたアランを救い出したとき、
レギュラスはホークラックスの一つを差し出したんだ。
闇の帝王の逆鱗に触れるほどの“裏切り”をしてまで、
彼女を救ったはずなのに……。」
沈黙が落ちる。
それぞれの胸に、同じ疑問が渦巻いていた。
――なぜ、今になってまた彼女を闇の中へ連れ出す?
「理解できねぇ……」
ジェームズが呟くように言った。
「どこまで掘り下げるつもりなんだ。
あいつは、どこまでこの“闇”を――」
「――どこまでも、だ。」
シリウスが言葉を切るように吐き捨てた。
瞳の奥に、黒い炎のような怒りが燃えている。
「レギュラス・ブラックって男は、
最初から“限界”なんてものを知らねぇんだ。
目的のためなら、愛する女さえ巻き込む。
あいつの正義は、いつだって狂ってる。」
部屋の空気が張り詰める。
ジェームズは言葉を失い、
リーマスは深く息を吐いた。
確かに、レギュラス・ブラックという男は――
純血主義の名門の血を引きながら、
その在り方は異常なほどに“潔癖”で“執着的”だった。
誇りと愛の境界が、常に曖昧だった。
アランを救うために命を賭けた男が、
今度はその愛を武器に、
彼女をまた闇に引きずり込もうとしている。
その矛盾が、誰にも理解できなかった。
「……もし本当にアランが、あいつと一緒に“探している”としたら?」
リーマスが慎重に言葉を選んだ。
「何を?」とジェームズ。
「ホークラックスだ。」
その名を出した瞬間、
空気が冷たく変わった。
シリウスが鋭く顔を上げる。
「まさか――アランを使って、ホークラックスを探してるってのか?」
「“使っている”というより、
共に探している、という報告の書き方だ。
でも、目的は明らかだろう。」
ジェームズの手が強く拳を握る。
「……闇の帝王の魂の欠片を見つけて、
どうしようっていうんだ、あいつは。
再びそれを“守る”つもりなのか?
それとも――破壊するつもりなのか?」
その問いに、誰も答えられなかった。
暖炉の火が弾け、灰が舞う。
静かな室内に、
燃える木の香りと、焦燥の匂いが混じった。
誰もが同じことを思っていた。
――アランを、闇の中で失いたくない。
だが同時に、誰も止める術を持っていなかった。
今やレギュラス・ブラックは、
ヴォルデモートの側近でありながら、
騎士団の誰もが踏み込めない、
“境界の男”になってしまっていた。
シリウスは最後に、低く呟いた。
「……あいつがどんな結末を迎えるにせよ、
アランを巻き込んだままじゃ、誰も救われない」
その言葉は、
まるで未来を予言するかのように
静かに、そして重く、
その場に落ちていった。
ホグワーツの寮の窓から、春の柔らかな光が差し込んでいた。
アルタイルは机の上に置かれた一通の封書を見つめていた。
銀の封蝋には「R・B」――Regulus Black の紋章。
父からの手紙だと一目で分かった。
便箋を開くと、流れるように整った筆跡が並んでいる。
――《あなたの婚姻について、いくつかの候補を選びました。
スラグホーン家のセリーヌ嬢、
マルシベール家のアデライン嬢、
バーク家のリリアン嬢、
フリント家のクラリッサ嬢。
いずれも血筋・家格・容姿において申し分のない令嬢です。
あなたが気に入る方を選びましょう。》
その最後の一文を見つめながら、
アルタイルはゆっくりと息を吐いた。
――あなたが気に入る令嬢を選びましょう。
まるで形式の上での「自由」だけを与えられたような響き。
けれど、文面の奥にある父の気質をよく知っている。
この言葉の裏には、息子への信頼と、
それでもなお“正しい選択”をしてほしいという祈りが込められているのだろう。
あの人はいつもそうだった。
冷静で、理性的で、
愛情さえも秩序の中に置いておくような人。
アルタイルは手紙を握りしめ、
窓の外に目をやった。
父には以前、軽口のように言ったことがある。
「見た目の美しい人がいい」と。
その一言を、レギュラスは真に受けたのだろう。
だが本当は――そんなことを本気で思ってはいない。
父が母アランを選んだように、
血でも名誉でもなく、心で選びたいと思っていた。
ただ、「この人だ」と思える誰かを、
純粋に愛せる未来を信じていたかった。
「アルタイル、それは父上からか?」
黒髪の青年――ハリー・ポッターの声に顔を上げると、
その後ろからシリウス・ブラックが現れた。
彼は防衛術の講師として、
しばしばダンブルドア軍団の生徒たちに指導をしていた。
「また手紙か。あの堅物の弟が書くってことは……縁談か?」
アルタイルは苦笑いしてうなずく。
「はい、婚約の件です。」
「ほう……見せてみろ。」
シリウスが羊皮紙を受け取り、さらりと目を通す。
「セリーヌ・スラグホーン、アデライン・マルシベール、リリアン・バーク、クラリッサ・フリント……。
相変わらず抜かりねぇな。血筋も財力も申し分ない。
息子のための“選定表”って感じだ。」
アルタイルは小さく笑った。
「次に屋敷に戻ったら、顔合わせで忙しくなりそうです。」
その言葉に、シリウスの表情がふっと曇る。
「……そうか。」
たったそれだけの返答だった。
けれど、その声の奥に滲む寂しさを、アルタイルはすぐに感じ取った。
胸が痛んだ。
――そんな顔をさせたいわけじゃない。
けれど、父の顔に泥を塗るような真似もしたくなかった。
自分はブラック家の長男だ。
父が築いてきた名を守らなければならない。
「どうせなら、顔のいい女を選べよ。」
沈黙を破って、シリウスが言った。
「しわくちゃになっても愛せそうな女だ。」
その軽口に、アルタイルは思わず吹き出す。
「……父さんと同じこと言いますね。」
「おいおい、一緒にすんなよ。」
シリウスが肩をすくめる。
「アイツは“見た目”に惚れたんじゃない。魂ごと惚れた。あれはもう病気みたいなもんだ。」
アルタイルは笑いながら頷いた。
「そうするよ。母さんみたいな人がいいって、父さんにも言いました。」
シリウスの表情に、懐かしさと痛みが入り混じる。
「……あれは格別だ。」
短い一言に、
何年経っても消えない想いが宿っていた。
それが痛いほど伝わってくる。
窓の外で夕陽が沈み、
塔の石壁が橙色に染まる。
その光の中で、
アルタイルはシリウスの横顔を見つめた。
この人もまた、
生涯ひとりの女を想い続けた男だった。
そしてその想いが、自分という存在を生んだ。
「僕、ちゃんと選びますよ。」
アルタイルの声は静かだった。
シリウスはゆっくりと頷いた。
「そうだな。
誰に何を言われても、
自分の選択を愛せるなら――それでいい。」
アルタイルは微笑み、封書を閉じた。
父と母がそうであったように、
愛に正解がなくても、
自分の道を選べる強さを、
今度は自分が証明してみせようと思った。
ホグワーツの塔の上に、ゆっくりと夜が降りていた。
寮の窓辺で語らっていたアルタイルが去った後、
シリウス・ブラックは一人、残された。
手には、アルタイルが見せてくれた手紙。
レギュラスの整った筆跡が、月明かりの下で青白く光る。
数人の令嬢の名が記された婚約者の選定表。
そこに並ぶ文字列を、シリウスは何度も目でなぞった。
――スラグホーン家のセリーヌ嬢、
マルシベール家のアデライン嬢、
バーク家のリリアン嬢、
フリント家のクラリッサ嬢。
完璧すぎるほど整えられた名家の娘たち。
その行間に、弟レギュラスの性格が滲んでいた。
彼らしいと、どこかで苦笑しそうになりながら、
シリウスは静かに便箋を折り畳んだ。
「……母さんのような人がいい、か。」
アルタイルがそう言った時の声が、まだ耳に残っている。
その言葉は、まるで刃物のように優しく心を裂いた。
――母さんのような人。
自分が最も求めて、最も遠ざけた人。
アラン・ブラック。
今もその名を心の奥で呼ぶだけで、息が詰まるようだった。
息子の成長は、あまりにも早かった。
あの幼い笑顔を見ているだけで幸せだった時期が、
まるで一瞬の幻のように思える。
そして気づけば、
その少年は自分に相談を持ちかけ、
未来を語るほどの青年になっていた。
――長らく父であることさえ知らずに、
こんなにも大きく、真っ直ぐに育ってしまった。
その事実が、胸をひどく締め付けた。
誇らしいのに、切なくてたまらなかった。
まるで自分が失った時間のすべてを、
彼の成長が照らして見せるかのようだった。
「……俺は、何をしていたんだろうな。」
ひとりごとのように呟く。
暖炉の火が、ゆらりと影を揺らす。
オレンジの光に照らされた手紙が、
一瞬、血のように赤く染まって見えた。
父親としての時間を取り戻すことは、もうできない。
どれほど悔やんでも、過去は戻らない。
それでも――
せめて、これからの彼の人生が、
自分のような執着に蝕まれたものにならないようにと、
強く願わずにはいられなかった。
頭に浮かぶのは、アランの姿だった。
月光の中で微笑む翡翠の瞳。
彼女を初めて見た日のことを、今も忘れられない。
――なぜ、彼女を超える人が現れなかったのだろう。
戦いのさなか、ジェームズが開いてくれた宴で出会った女性たち。
戦場で負傷した自分を介抱してくれた女たち。
笑いかけてくれた者もいた。
少し手を伸ばせば、穏やかな人生を築けたのかもしれない。
だが、そうしなかった。
――いや、できなかった。
アランを失ってから、自分の中の何かが壊れた。
再び誰かに心を開こうとすると、
必ずあの翡翠色の瞳が浮かんだ。
他の誰の顔を見ても、
彼女の面影が重なってしまった。
執着という名の呪いを患っていたのは、
弟ではなく、むしろ自分の方だったのだ。
「ぼく、ちゃんと選びますよ。」
先ほどのアルタイルの声が、静寂の中に蘇る。
あの少年の笑顔は、眩しかった。
まっすぐに未来を見据える瞳が、
どこまでも清らかで、どこまでも誠実だった。
――どうか、その光を曇らせないでほしい。
自分が歩いてきたような道を、
アルタイルには絶対に歩ませたくなかった。
何も手放さないでほしい。
失う痛みを知らずに生きてほしい。
諦める悲しさも、引きずる苦しさも、
そのどれもが、息子の人生には必要ないとさえ思った。
親として、いや――
かつて愛を失った男として、
それだけを、誰よりも強く願った。
シリウスはゆっくりと立ち上がる。
手紙を折り、暖炉の炎へと投げ入れた。
赤い光が一瞬、燃え上がる。
――燃えてゆく羊皮紙の中に、
弟の筆跡と、
自分の叶わなかった未来が、
ひっそりと消えていった。
夜とも昼ともつかぬ灰色の空の下、
二人の影が砂丘を越えて進んでいた。
アランのローブの裾は風に煽られ、
乾いた砂が頬を叩きつける。
ここは――エジプト西方、カイロからさらに外れた死の砂漠地帯、アメン・ラの神殿跡。
古代の王たちが不死の術を求めて築いた地下神殿が、
何千年の時を超えてなお崩れずに残る場所だった。
かつて闇の帝王がこの地を訪れたという記録が、
レギュラスの手元にある古文書の一節に記されていた。
――《かつての王が魂を二つに裂き、死すら欺く力を、
太陽の沈まぬ神の墓に封じた》
ヴォルデモートが分霊箱を隠すとすれば、
まさにその“死を欺く力”を象徴する場所だとレギュラスは考えた。
彼の手首に装着された魔力感知時計が、
低く脈打つような音を立てていた。
中心のルーン文字が淡く紅く点滅する。
「……反応がある。強い。かなり古い魔力です。」
レギュラスの声は風に掻き消されそうだった。
アランは必死にその背を追いかけながら、
懐から杖を取り出し、風除けの魔法を幾重にも重ねる。
「感知無効の呪文を、あと三重は張りましょう。
この魔力、闇の帝王に感づかれたら……」
「ええ、わかっています。」
レギュラスは短く答え、
地面に古代文字の円陣を描く。
淡い蒼光が走り、
砂の舞い上がる音が一瞬だけ遠のいた。
そこは、風の神が怒りを鎮めたかのような静寂。
その中心に――それはあった。
半ば崩れた石棺の奥、
黄金の蛇が絡み合うように彫刻された黒曜石の杯。
周囲の空気がゆがみ、
近づくたびに皮膚の下を這うような冷気が走る。
「……禍々しい。」
アランが息を呑む。
触れずともわかる。
それは“生きている”。
闇の帝王の魂の欠片が、
今も杯の底で蠢いているようだった。
「やっと……一つ辿り着きました……。」
レギュラスが囁くように言った。
声には達成感よりも、
終わりの見えない旅の重みが滲んでいた。
足元の砂が崩れ、アランがよろめく。
レギュラスはとっさに腕を伸ばして彼女を抱きとめた。
その体の軽さに、改めて彼女がここまでの旅を共にしてくれた事実が
胸に深く突き刺さる。
「すり替えます。」
レギュラスは懐から杖を出し
見事に模倣された同じ黒曜石の杯を作り出す。
アランがそっと魔法陣を展開し、
周囲の魔力流を抑制する。
それでも指先が震える。
この一瞬の気配の乱れすら、
ヴォルデモートに感知されかねないからだ。
杯を持ち上げた瞬間、
冷たい風が吹き抜ける。
まるで大地そのものが呻いているようだった。
闇の帝王の魂が、
その欠片を奪われたことを悟ったのだろうか。
「急ぎましょう……!」
アランが震える声で言う。
「ええ。」
レギュラスは頷き、
偽物の杯を元の位置に丁寧に戻す。
結界を再び組み直し、
すべてを元通りに見せかけた。
外に出ると、砂嵐がさらに強くなっていた。
互いに支え合わなければ立っていられないほどの風。
砂が顔を打ち、
それでも二人は離さなかった。
アランのローブが風に舞い上がり、
その隙間から見える翡翠色の瞳が、
砂の中でかすかに光を帯びていた。
「……帰りましょう、レギュラス。」
彼は頷き、
懐に抱えた黒曜石の杯を確かめた。
闇の帝王の魂の欠片が、
いま、彼の手の中にある。
その重みが、
まるで自分たちの命を量る天秤のように思えた。
吹き荒れる砂嵐の中、
二人は何も言わず、
ただ無言で互いの存在を確かめるように歩き出した。
――この手の中に抱く闇が、
やがてどんな未来を呼ぶのかを、
まだ誰も知らなかった。
屋敷の地下室には、
夜の闇をそのまま閉じ込めたような静寂があった。
ろうそくの灯が揺れ、
壁に掛けられた古い肖像画が、影のように震える。
アランとレギュラスは、
重厚な黒檀の机の上に“それ”を置いた。
――黒曜石のようなゴブレット。
まるで底なしの闇が形を持ったようだった。
見ているだけで吸い込まれそうになる。
触れずとも、皮膚の奥にまで届く冷たさ。
周囲の空気が、ひとつ息を吸うたびに軋む。
「……どうするつもりです?」
アランの声が震える。
風もないのに、ゴブレットの縁が微かに鳴いた。
レギュラスは答えず、
その杯を見つめたまま、
指先で机の縁をゆっくりとなぞる。
「ホークラックスの破壊法は――」
やがて、低い声が落ちた。
「――今のところ、グリフィンドールの剣しか知りません。」
絶望が、静かにその場に降りた。
アランは息を呑む。
グリフィンドールの剣。
伝説の魔具。
バジリスクの毒を吸収し、
いかなる呪いをも打ち砕くとされる剣。
それは、世界にたった一つ。
ホグワーツの奥深く、
ダンブルドアの手にあるという噂すら定かではない。
「そんなもの……
そう簡単に手に入るわけがありません。」
アランは静かに首を振る。
「世界に一つきり。
それに、剣の在り処を知るのは
ダンブルドア先生か……騎士団の人たちだけ。」
レギュラスは、わずかに瞼を伏せた。
「――もとより、破壊は騎士団の人間にやらせるつもりでしたから。」
アランは思わずレギュラスの顔を見た。
その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
長い間、闇の帝王の信奉者として生きてきた男の口から、
そんな言葉が出るなんて――。
「……本気で?」
「ええ。」
レギュラスは杯から視線を外さずに言った。
「僕は、“それ”を探し出す者であればいい。
破壊までは、別の手に委ねる。
……僕の手では、もはや“裁き”には届かない気がします。」
アランは胸の奥に、何かが崩れていくのを感じた。
それは絶望ではなかった。
むしろ――静かな光だった。
「あなたは……闇を断ち切ろうとしているのね。」
レギュラスは苦笑した。
「断ち切れると思いますか?」
「思います。」
アランの翡翠の瞳が、淡い光を宿す。
「あなたが、その闇の中でもがき続けている限りは。」
レギュラスはその言葉に、
ゆっくりと目を閉じた。
胸の奥の何かが、確かに緩んでいくのを感じた。
「僕は……」
彼は言葉を探すようにして、
目の前の杯に視線を戻した。
「結局のところ、この闇を完全に滅することはできなくても、
――あの子たちを、巻き込みたくないんです。」
その声は、
かつての冷徹な魔法使いのそれではなかった。
父親の声だった。
「アルタイルも、リディアも。
この闇の名残を、背負わせるわけにはいきません。それが、僕に残された償いだと思っています。」
アランはそっと彼の手に触れた。
冷たい指。
けれど、その奥には確かな熱があった。
「……あなたは、もう十分に償ってきたわ。」
「いや。」
レギュラスは首を振る。
「まだこんなんじゃ足りません。
闇の帝王に仕え、命を賭けてまで守った“偽りの誓い”の分だけ、
僕はまだ、神に背を向けたままなんです。」
言葉が、ゆっくりと沈黙に溶けていった。
蝋燭の火が、まるで呼吸のように揺れる。
アランはその炎を見つめながら、
彼の横顔を見た。
この人は、
闇の奥から光を見上げることを選んだのだ――。
その姿が、
あまりにも人間らしく、
あまりにも愛おしかった。
やがて、レギュラスが立ち上がる。
黒曜石の杯を慎重に布で包み、
古びた箱に収めた。
「破壊の手立てが見つかるまでは、
僕たちの手で守りましょう。」
「ええ。」
アランは頷いた。
「どんな闇にあっても、
この家だけは、光と誇りで満たしておきたい。」
レギュラスが微かに笑った。
その笑みは、
ほんの一瞬、若き日の彼――
まだ理想を夢見ていた頃の少年の面影を残していた。
夜の静寂の中、
箱の中の杯が低く軋んだ。
まるでまだ、
魂の主を呼び続けているかのように。
屋敷の大広間は、久しぶりに光と音と人の熱気に包まれていた。
長く仕舞い込まれていたシャンデリアの水晶が磨かれ、
百もの蝋燭が金の燭台に灯されている。
磨き上げられた床にはワルツの旋律が柔らかく響き、
黒い燕尾服やドレスが流れるようにすれ違っていく。
アルタイル・ブラックは、
そんな華やかな光景の中で、どこか居心地の悪さを覚えていた。
久しくこうした社交の宴など出たことがない。
胸元まで詰まった礼装のローブの襟が、やけに息苦しい。
頬に当たる照明が熱く、
肩のあたりにまで硬さが残る。
「話してくるといいですよ。気に入った方を教えてください。」
傍らで、父レギュラスが静かに言った。
相変わらずの穏やかな声。
けれどその眼差しの奥には、
どこか探るような光が潜んでいた。
「はい、そうします。」
そう答えながらも、心は揺れていた。
――さあ、話せと言われても。
見渡せば、レースと宝石に包まれた令嬢たちが笑い声を立て、
香水の甘い匂いが入り混じっている。
誰もが完璧に整えられた笑顔で、
誰もが計算された仕草で笑っている。
そのどれもが遠く感じた。
アルタイルは、
父のように雄弁でもなければ、
誰かを舞踏に誘うような華やかさも持ち合わせてはいない。
杖を振るのは得意でも、
手を取って踊ることには慣れていなかった。
音楽が変わり、
ドレスの裾が波のように広がる。
香り立つ金糸のドレス、
笑い声、光。
すべてが遠くで揺れているように思えた。
――そのときだった。
ふと、視線の先に小さな少女が立っていた。
他の誰とも違う。
まだ学生に上がる前か、上がったばかりの年頃だろう。
年齢に似合わず背筋を伸ばして立つ姿が凛としていて、
けれどどこか儚げでもあった。
透き通るような白い肌。
そして――彼女の瞳。
光を反射して、灰銀色の中に青の揺らめきが見えた。
まるで自分と同じ瞳だと思った。
その瞬間、胸の奥が微かに疼いた。
少女はアルタイルの視線に気づくと、
小さくドレスの裾をつまんで一礼し、
迷いなく歩み寄ってきた。
「……どうぞ。」
小さな手のひらに乗っていたのは、
一輪の白い花。
大広間の中で、唯一きらめきのないもの。
宝石でも、魔法の光でもない。
どこかの庭から摘んできたばかりのような、
素朴な花だった。
だが、その花からは
言葉では表せないほどの優しい魔力の気配が漂っていた。
温かく、純粋で、まるで春の光のような魔力。
「美しい魔法を知ってるんですね。」
アルタイルがそう言うと、
少女はにこりと笑った。
その笑顔は、
装飾も飾りもいらないほどの輝きを持っていた。
どの令嬢よりも華やかで、
どんな宝石よりも清らかだった。
「ありがとう。」
アルタイルは、
その小さな花を受け取りながら、
言葉以上の何かを胸の奥に感じていた。
音楽も人の声も、
遠く霞んでいくように感じた。
ただ、少女の笑みと花の香りだけが、
鮮明に心に刻まれていく。
彼女が去ったあとも、
その小さな背中を目で追ってしまう。
金糸のドレスが波の中に溶けていく。
灰色の瞳が振り返ることはなかった。
それでも、
アルタイルの心は確かに掴まれていた。
離れられなかった。
――この夜、
煌びやかな宴の中で、
アルタイル・ブラックが見つけたのは、
誰よりも小さく、誰よりも静かな“光”だった。
冬の冷たい風が塔の尖端を撫でる。
その夜、校内の一室で灯されたランプの光の中、
ハリー・ポッターの瞳は燃えるように真剣だった。
「ヴォルデモートと戦うには、
在学中だとか、関係ないんだ。」
その声は決意に満ちていた。
誰に向けた言葉というわけでもなく、
己を鼓舞するような静かな確信。
けれど、それは確かにアルタイルの胸に響いた。
ハリーの手の甲に浮かぶ古傷。
何度も戦い、何度も傷つきながら、
それでもなお前を向き続けるその姿。
まるで、夜の中で唯一燃える灯火のようだった。
――ヴォルデモートと戦うために。
――もう誰も奪わせないために。
その意思が、ハリーの瞳の奥で確かに光っていた。
アルタイルは静かに拳を握った。
胸の奥で、二つの影が交錯する。
父――レギュラス・ブラック。
そして、導くように微笑むシリウス・ブラック。
父は闇の帝王の陣営に属している。
その事実は、幼い頃から知っていた。
けれど――“どこまで”関与しているのか。
その問いだけは、怖くて口にできなかった。
父は多くを語らない。
己の信念も、過去も、闇も。
ただ黙して立ち、冷たい眼差しで世界を見つめていた。
――それでも。
その背中に宿る孤独を、アルタイルは誰よりも感じていた。
近づこうとすれば、闇の影に焼かれるように拒まれる。
けれど、放っておくこともできなかった。
「……父上は、いったい何を見ているんだろう。」
ふと零れた独り言が、静かな部屋に落ちる。
その時、シリウスがふっと笑った。
焚き火の明かりが揺れる夜、
談笑する騎士団の輪の中で、
いつもシリウスの笑い声だけが空気を明るくしていた。
「お前の父は……まあ、難しい男だ。」
彼がぽつりと呟いた夜のことを、アルタイルは思い出す。
その声には怒りも嘲りもなく、
ただ遠い弟への哀惜が滲んでいた。
――本当に、心の底から笑わせてくれる人。
シリウスは、いつも誰かを導いていた。
傷ついた者に寄り添い、
絶望の縁に立つ者を引き上げる。
光そのもののような人だった。
アルタイルは気づけば、
その背中を追うように視線を向けていた。
シリウスのように――
人を救える魔法使いになりたい。
それはまだ漠然とした夢。
けれど確かに、自分の中に芽生え始めていた。
だが、現実はあまりにも残酷だった。
シリウスと父は、
まるで正反対の思想を掲げている。
一方は“自由と平等”を。
もう一方は“誇りと線引き”を。
どちらが正しいのかなど、分からない。
けれど――それがいつか、
杖を向け合う戦いになるかもしれないと思うだけで、
胸が締めつけられた。
「アルタイル。」
ハリーの声が現実に引き戻した。
「君も……一緒に参加してほしいんだ。」
その一言に、空気が震えた。
ハリーの表情は真剣だった。
迷いのない瞳。
そのまっすぐさが、時に刃のように痛かった。
アルタイルは息を詰めた。
心が揺れる。
父への罪悪感が波のように押し寄せる。
――父を裏切ることになる。
そう思えば、足がすくむ。
けれど――ハリーと共に戦いたいという想いも、
確かにそこにあった。
彼が戦おうとするその姿を、支えたい。
そしていつか、自分も“共に並べる強さ”を得たい。
「……僕で、役に立てるでしょうか。」
アルタイルの声は震えていた。
けれど、その奥に宿る決意は確かだった。
ハリーが微笑む。
その微笑みは、
あの日、母が見せた微笑みとどこか似ていた。
「君なら、できる。」
その言葉が、
アルタイルの胸の奥に深く沈んでいった。
父の影、母の祈り、
そして仲間の光。
その全てが交差する中で、
少年は初めて、自分の意志で歩き出そうとしていた。
外では、夜明け前の風が吹き抜けていた。
遠くで雷鳴が轟く。
新しい嵐の気配。
――選ばなければならない。
誰のために、何のために。
アルタイル・ブラックの胸の奥に、
その問いが静かに燃えはじめていた。
暖炉の火が、ぱちぱちと音を立てていた。
ホグワーツの地下室、騎士団の臨時会合の部屋。
分厚い石壁に囲まれたその空間の中で、
ハリー・ポッターは手にした報告書を見つめながら、
静かに言葉を選んでいた。
アルタイル・ブラックが、目の前に座っている。
父譲りの落ち着きと、母譲りの穏やかさを併せ持った青年。
けれど、その瞳の奥には、深い迷いが潜んでいた。
――レギュラス・ブラック。
闇の帝王の陣営に属し、
ホークラックスを守っているとされる男。
そして、その息子が今、
父の秘密を探る“鍵”にされようとしている。
ハリーの胸の奥が痛んだ。
こんな残酷な役を、まだ少年の彼に背負わせるなど――。
「……アルタイル。」
ハリーは静かに口を開いた。
「君の父さんの書斎に、何か手がかりがあるかもしれない。
ホークラックスの在り処、あるいは……その意図を示す記録が。」
アルタイルは視線を落としたまま、
指先で机の縁をなぞっていた。
「……本当に、父とは……そういった話を一切したことがなくて。」
その声は、小さく震えていた。
彼がどれほど葛藤しているか――その一言で十分に伝わった。
沈黙が落ちる。
部屋の中の騎士団の面々が、
それぞれの思いを飲み込むように息を呑む。
落胆と、無力感。
それでも、誰もアルタイルを責めることはできなかった。
あの男――レギュラス・ブラックに、
正面から踏み込める者など、そうはいない。
ハリーは静かに頷いた。
「……分かった。無理はしないでいい。
でも、もし何かわかったことがあったら、教えてほしい。」
その言葉に、アルタイルは小さくうなずいた。
唇を噛みしめ、
まるで父を裏切ることへの痛みを飲み込むように。
ハリーは、そんな彼の仕草を見て、
胸の奥が焼けるように苦しかった。
酷なことを言っている――自覚はある。
彼に求めているのは、
父を裏切れということと同義だ。
だが、それでも。
この少年こそが、きっと“鍵”なのだ。
レギュラス・ブラックの築いた絶対の要塞を開く唯一の鍵。
自分がこの世界に命を持ち続けている限り、
この少年の存在を使うことになる。
その罪の重さを、ハリーは噛み締めていた。
会合が終わり、
他の団員たちが去った後も、
ハリーは椅子に腰を下ろしたまま、
暖炉の火を見つめていた。
――アラン・ブラック。
彼女の名が、心の奥で静かに響いた。
彼女は、あの日、自分を救ってくれた。
闇の帝王の襲撃を、身を挺して防いでくれた。
あの救いが、どんな理由からだったのかは分からない。
もしかしたら――
本当は自分ではなく、
かつての想い人であるシリウスを守るための行動だったのかもしれない。
それでも、あの日、自分は彼女に命をもらったのだ。
レギュラス・ブラックを糾弾するということは、
そのアランをも追い詰めることになる。
あの屋敷に住む“夫”と“妻”の運命を、
どちらも深く傷つけてしまう。
ハリーは顔を覆った。
炎の光がまぶたの裏に滲む。
――アランは、いまどうしているのだろう。
彼女の瞳は翡翠。
どこか自分に似ているその色を思い出すたび、
奇妙な縁を感じずにはいられなかった。
自分もまた、彼女の“決断”に生かされた者のひとり。
彼女を苦しめるような結果だけは、
本当は望んでいない。
それでも、進まねばならない。
ヴォルデモートの影を断つために。
レギュラス・ブラックという闇の要塞を崩すために。
ハリーは小さく息を吐いた。
――もし、彼を打ち破ることができたなら。
アランはどうするのだろう。
彼女はシリウスの手を取るだろうか。
そうなれば、アルタイルには本当の父と母が揃う。
本来あるべき形。
奪われた運命が、ようやく結ばれる。
それが、正しい未来なのだと、
そう思うことでしかこの罪を正当化できなかった。
「……僕は、どこまで残酷になれるんだろうな。」
独り言のように零した声が、
火の粉にかき消されていく。
暖炉の炎がゆらめくたびに、
ハリーの胸の奥で、ひとつの祈りが揺れた。
――どうか、これが赦される理由になりますように。
レギュラス・ブラック。
その名を呟くたび、
ハリーの心は冷たい痛みで満たされていった。
暖炉の炎が、深夜の寝室を淡く染めていた。
オレンジ色の光が天蓋の影を揺らし、静寂の中で燃える音だけが響いている。
外では冷たい雨が屋敷の屋根を叩き、世界が遠のくような音を立てていた。
その静けさの中で、アランはレギュラスの腕の中にいた。
彼の胸に頬を寄せ、震える呼吸を聞く。
その音が、なぜだか痛いほど胸に染みた。
――彼が語った真実は、あまりにも壮絶だった。
ホークラックス。
魂を引き裂き、不死を得るために造られた、禁断の闇の器。
それを見つけ、壊すのではなく「守る」ことで、
かつて自分の命を救ったという彼の告白。
あの日、拷問にかけられた自分を助けるために、
彼が差し出した“取引”。
それがどれほどの代償を伴うものであったか、
想像するだけで身が凍りついた。
どんな選択をしても、
その全てが彼の命を削る行為であることを悟ってしまった。
「……レギュラス。」
アランは小さく名を呼ぶ。
彼の胸に顔を埋める。
熱いものが込み上げ、涙が頬を伝った。
――どう支えればいいのか分からない。
見つけ出した先に、何が待っているのか。
その問いを、喉の奥で押し殺す。
聞いてしまえば、彼がそのまま死地へ赴く覚悟を
確かな言葉で知ってしまう気がしたからだ。
それでも、決めていた。
彼がどんな選択をしたとしても、共に背負うと。
だから――許したのだ。
もう、あの医務魔女のことを責めたりはしない。
エリナ・ウェルズ。
酒に酔い、弱った心が向かった先にあった女。
それは彼の愚かさであり、孤独が導いた一夜の過ちだった。
けれど、その弱さを引き出したのは――他でもない、自分だ。
長い年月、レギュラスの向ける深い想いに、
自分は何ひとつ返せなかった。
彼だけに重たいものを背負わせ、
自分は安全な場所から祈るだけの存在になっていた。
「……レギュラス、ごめんなさい。」
その言葉には、いままでの全てが込められていた。
裏切りも、すれ違いも、沈黙も。
彼の孤独を見過ごしてきた年月に対しての詫び。
それしか言えなかった。
けれど、それが全てだった。
レギュラスは小さく首を振り、
掠れた声で言った。
「僕の方こそ……あまりにも軽率でした。」
その言葉を聞いて、
彼が何を指しているのか、アランにはすぐ分かった。
――エリナのことだ。
けれど、もうそんなことはどうでもいい。
謝罪など、求めていない。
ただ――共にいさせてほしい。
彼の肩に乗る闇の一端を、少しでも分けてほしい。
唯一、許せないことがあるとすれば。
それは彼が、全てを一人で背負おうとしたことだった。
ホークラックスを探す。
闇の帝王の魂の欠片を――死を欺くその核心を。
それが、どれほどの危険を伴う行為なのか。
生きて帰れる未来が、限りなく薄いことを
彼自身が最も理解しているのだ。
――なのに、彼はまた一人で行こうとしていた。
それだけは、もう許せなかった。
アランはレギュラスの頬に手を添える。
そして、涙をぬぐいながら、
静かに告げた。
「エリナ・ウェルズのことは、もうすべて水に流します。
そのかわり、約束してください、レギュラス。」
彼は驚いたように目を瞬いた。
「ええ……何でも。」
アランはゆっくりと彼を抱き寄せた。
彼の肩に頬をあずける。
その体温が、まだ確かに生きていることを伝えてくる。
「どこまで辿り着けるかは分かりません。
全てを見つけられたとしても、そうでなかったとしても――」
アランは一度息を吸い込み、
囁くように、けれど確固たる意志を込めて続けた。
「――一緒にいましょう、レギュラス。」
その一言一言に、魂を削るほどの想いを込めた。
これは愛の言葉であり、
共に歩むという誓いであり、
同時に――共に死ぬという誓いでもあった。
レギュラスの体が、かすかに震えた。
それは泣いているのか、
それとも、久しく忘れていた“救い”に触れたからなのか、
アランには分からなかった。
ただ、そっとその背を撫でる。
彼の重たい闇を、少しでも分けて受け止めたくて。
炎がぱちりと鳴った。
その音とともに、ふたりの影が寄り添い、
まるでひとつの形に溶け合うように揺れていた。
夜が静かに更けていく。
嵐の前のような静寂の中で、
アラン・ブラックとレギュラス・ブラックは、
同じ運命の重さを、ひとつの抱擁に閉じ込めた。
アランの唇から零れたその言葉は、
まるで呪文のように、静かに空気を震わせた。
――「一緒にいましょう、レギュラス。」
愛している、という言葉よりも強く、
もっと深く魂に届く響きだった。
その声を聞いた瞬間、胸の奥に何かが崩れ落ちる音がした。
ずっと求めてきた。
この人の心を、声を、瞳の奥にある微かな熱を。
けれど、どれだけ抱きしめても掴めなかった。
どれほどの愛を差し出しても、届かない場所があった。
彼女の心には、かつて兄の名を刻んだ影があったからだ。
それでも、諦められなかった。
奪い取ってでも欲しかった。
囲い、縛り、閉じ込めて、それでも不安でたまらなかった。
どこまでも追い求めて、
彼女の一片でも自分の中に留めておきたかった。
それが、レギュラス・ブラックの愛だった。
理性では止められないほど、愚かで、激しく、
そして純粋な執着の形。
だが今、彼女のその一言が、
そんな全ての不安を一瞬にして溶かしていく。
――共にいましょう。
それは赦しの言葉でもあり、誓いの言葉でもあった。
彼女が初めて、同じ場所に立つと約束してくれた瞬間だった。
レギュラスの胸の奥に、
温かいものがじわりと広がる。
あまりに甘美で、酔いそうになる。
信じられないほどの幸福が、
不意にこの世界に訪れてしまったかのようだった。
「アラン……」
掠れる声で名を呼ぶ。
抱きしめた腕に力がこもる。
この瞬間が永遠に続けばいい――そう願った。
それからの日々、
レギュラスは一人でホークラックスを探すことをやめた。
アランを伴って動くようになった。
危険な領域だった。
けれど、アランを置いていくことの方がよほど恐ろしかった。
もう二度と、あの翡翠の瞳を失いたくなかった。
二人は地図と古文書を広げ、
机の上を埋め尽くしていった。
魔法地理書、古代の儀式書、
死者の魂に関する禁書、
そしてヴォルデモートが好んで訪れたとされる廃墟や洞窟の記録。
羊皮紙の上に広げた羽ペンが、
複雑な印を描きながら行き交う。
「この地点……旧ルーマニアの山岳地帯にある古代ドラゴンの巣。
防護結界が強く、闇の魔法に覆われていたと記録があります。」
アランが指先で地図を押さえながら告げる。
彼女の声が凛として響くたび、
レギュラスは思わずその横顔に見惚れてしまう。
「ふむ……確かに、可能性はありますね。
ホークラックスを守るには、
人間が踏み入れにくい場所ほど理に適っている。」
そう言いながらも、彼の目は資料よりも、
アランの揺れる髪へと向かってしまう。
「……なんです?」とアランが少し眉を寄せる。
「いえ。なんだか、試験前の図書室みたいだと思いまして。」
レギュラスの口元が柔らかく弧を描く。
アランも思わず微笑んだ。
「あなた、あの頃はほぼ、ちょっかいばかり出してたじゃないですか。」
「そんなことありませんよ。僕だって、
部屋に戻ってから朝まで勉強してました。」
「……ちょっかいのせいで、眠れなかったんじゃなくて?」
二人の笑い声が、静かな書斎に広がった。
長く続いた緊張の糸が、ふっと緩む。
ふとした会話の中に、
かつての二人が蘇る。
ホグワーツ時代――
魔法史の試験前、夜の図書室で並んで本を開いた記憶。
彼女の隣で羽ペンを動かしていても、
どうしても視線がノートではなく、
その白い頬や長い睫毛に向かってしまった。
灯りの魔法の下で揺れる髪。
インクの香りに混じるアランの匂い。
ただそれだけで、集中などできなかった。
伸ばした指先が、彼女の髪をすくう。
驚いたように振り向く彼女の瞳に、
翡翠の光が宿る――その度に、心が奪われた。
今、こうして隣にいる。
机の上には過去とは比べ物にならないほど危険な文献が並んでいるのに、
どこか懐かしい温もりがある。
あの頃と同じように、
彼女の横顔を見つめながら、
レギュラスは心の中で呟いた。
――あの日、君を見ていた時と同じだ。
――僕は今も、君に見惚れている。
外では雨が止み、月光が窓を照らした。
地図の上に、二人の影が寄り添うように落ちる。
その光の中で、
二人は再び“同じ道”を歩き始めていた。
闇へ向かう道。
それでも、二人であれば――。
そう信じられるほどに、
アランの誓いは、いまも胸の奥で静かに燃えていた。
報告書の束が机に叩きつけられた。
重たい紙の音が、会議室に鈍く響く。
「……もう一度、読んでくれ。」
ジェームズの声は低く、抑えた怒気を孕んでいた。
リーマスが眼鏡の位置を直しながら、
手にした羊皮紙を静かに開く。
封蝋には、医務魔女エリナ・ウェルズの名が記されている。
――《レギュラス・ブラックは、近頃アラン・ブラックを伴って頻繁に屋敷を離れるようになりました。
行き先は特定できませんが、長時間戻らないこともあり、外部との接触も確認されています。》
その一文を読み上げた瞬間、
シリウスの拳が机を打ち鳴らした。
「ふざけるな……!」
音が会議室に反響する。
怒りを抑えきれないその顔に、
紅潮が滲む。
「ついに……あの野郎、アランまで巻き込む気かよ。
自分の妻にまで、闇の魔術を背負わせるなんて……!」
歯を噛みしめる音が聞こえるほどだった。
誰もが息を呑んだ。
シリウスの怒りはもっともだった。
彼にとってアランは、
かつて命を懸けてでも守りたかった存在。
そして今も、心の奥で決して消えない“光”だった。
ジェームズは手を組み、眉間を押さえる。
「……正直、俺も信じられない。
あいつは、アランだけは――闇から遠ざけようとしてたはずだ。」
リーマスも頷く。
「そうだ。拷問を受けていたアランを救い出したとき、
レギュラスはホークラックスの一つを差し出したんだ。
闇の帝王の逆鱗に触れるほどの“裏切り”をしてまで、
彼女を救ったはずなのに……。」
沈黙が落ちる。
それぞれの胸に、同じ疑問が渦巻いていた。
――なぜ、今になってまた彼女を闇の中へ連れ出す?
「理解できねぇ……」
ジェームズが呟くように言った。
「どこまで掘り下げるつもりなんだ。
あいつは、どこまでこの“闇”を――」
「――どこまでも、だ。」
シリウスが言葉を切るように吐き捨てた。
瞳の奥に、黒い炎のような怒りが燃えている。
「レギュラス・ブラックって男は、
最初から“限界”なんてものを知らねぇんだ。
目的のためなら、愛する女さえ巻き込む。
あいつの正義は、いつだって狂ってる。」
部屋の空気が張り詰める。
ジェームズは言葉を失い、
リーマスは深く息を吐いた。
確かに、レギュラス・ブラックという男は――
純血主義の名門の血を引きながら、
その在り方は異常なほどに“潔癖”で“執着的”だった。
誇りと愛の境界が、常に曖昧だった。
アランを救うために命を賭けた男が、
今度はその愛を武器に、
彼女をまた闇に引きずり込もうとしている。
その矛盾が、誰にも理解できなかった。
「……もし本当にアランが、あいつと一緒に“探している”としたら?」
リーマスが慎重に言葉を選んだ。
「何を?」とジェームズ。
「ホークラックスだ。」
その名を出した瞬間、
空気が冷たく変わった。
シリウスが鋭く顔を上げる。
「まさか――アランを使って、ホークラックスを探してるってのか?」
「“使っている”というより、
共に探している、という報告の書き方だ。
でも、目的は明らかだろう。」
ジェームズの手が強く拳を握る。
「……闇の帝王の魂の欠片を見つけて、
どうしようっていうんだ、あいつは。
再びそれを“守る”つもりなのか?
それとも――破壊するつもりなのか?」
その問いに、誰も答えられなかった。
暖炉の火が弾け、灰が舞う。
静かな室内に、
燃える木の香りと、焦燥の匂いが混じった。
誰もが同じことを思っていた。
――アランを、闇の中で失いたくない。
だが同時に、誰も止める術を持っていなかった。
今やレギュラス・ブラックは、
ヴォルデモートの側近でありながら、
騎士団の誰もが踏み込めない、
“境界の男”になってしまっていた。
シリウスは最後に、低く呟いた。
「……あいつがどんな結末を迎えるにせよ、
アランを巻き込んだままじゃ、誰も救われない」
その言葉は、
まるで未来を予言するかのように
静かに、そして重く、
その場に落ちていった。
ホグワーツの寮の窓から、春の柔らかな光が差し込んでいた。
アルタイルは机の上に置かれた一通の封書を見つめていた。
銀の封蝋には「R・B」――Regulus Black の紋章。
父からの手紙だと一目で分かった。
便箋を開くと、流れるように整った筆跡が並んでいる。
――《あなたの婚姻について、いくつかの候補を選びました。
スラグホーン家のセリーヌ嬢、
マルシベール家のアデライン嬢、
バーク家のリリアン嬢、
フリント家のクラリッサ嬢。
いずれも血筋・家格・容姿において申し分のない令嬢です。
あなたが気に入る方を選びましょう。》
その最後の一文を見つめながら、
アルタイルはゆっくりと息を吐いた。
――あなたが気に入る令嬢を選びましょう。
まるで形式の上での「自由」だけを与えられたような響き。
けれど、文面の奥にある父の気質をよく知っている。
この言葉の裏には、息子への信頼と、
それでもなお“正しい選択”をしてほしいという祈りが込められているのだろう。
あの人はいつもそうだった。
冷静で、理性的で、
愛情さえも秩序の中に置いておくような人。
アルタイルは手紙を握りしめ、
窓の外に目をやった。
父には以前、軽口のように言ったことがある。
「見た目の美しい人がいい」と。
その一言を、レギュラスは真に受けたのだろう。
だが本当は――そんなことを本気で思ってはいない。
父が母アランを選んだように、
血でも名誉でもなく、心で選びたいと思っていた。
ただ、「この人だ」と思える誰かを、
純粋に愛せる未来を信じていたかった。
「アルタイル、それは父上からか?」
黒髪の青年――ハリー・ポッターの声に顔を上げると、
その後ろからシリウス・ブラックが現れた。
彼は防衛術の講師として、
しばしばダンブルドア軍団の生徒たちに指導をしていた。
「また手紙か。あの堅物の弟が書くってことは……縁談か?」
アルタイルは苦笑いしてうなずく。
「はい、婚約の件です。」
「ほう……見せてみろ。」
シリウスが羊皮紙を受け取り、さらりと目を通す。
「セリーヌ・スラグホーン、アデライン・マルシベール、リリアン・バーク、クラリッサ・フリント……。
相変わらず抜かりねぇな。血筋も財力も申し分ない。
息子のための“選定表”って感じだ。」
アルタイルは小さく笑った。
「次に屋敷に戻ったら、顔合わせで忙しくなりそうです。」
その言葉に、シリウスの表情がふっと曇る。
「……そうか。」
たったそれだけの返答だった。
けれど、その声の奥に滲む寂しさを、アルタイルはすぐに感じ取った。
胸が痛んだ。
――そんな顔をさせたいわけじゃない。
けれど、父の顔に泥を塗るような真似もしたくなかった。
自分はブラック家の長男だ。
父が築いてきた名を守らなければならない。
「どうせなら、顔のいい女を選べよ。」
沈黙を破って、シリウスが言った。
「しわくちゃになっても愛せそうな女だ。」
その軽口に、アルタイルは思わず吹き出す。
「……父さんと同じこと言いますね。」
「おいおい、一緒にすんなよ。」
シリウスが肩をすくめる。
「アイツは“見た目”に惚れたんじゃない。魂ごと惚れた。あれはもう病気みたいなもんだ。」
アルタイルは笑いながら頷いた。
「そうするよ。母さんみたいな人がいいって、父さんにも言いました。」
シリウスの表情に、懐かしさと痛みが入り混じる。
「……あれは格別だ。」
短い一言に、
何年経っても消えない想いが宿っていた。
それが痛いほど伝わってくる。
窓の外で夕陽が沈み、
塔の石壁が橙色に染まる。
その光の中で、
アルタイルはシリウスの横顔を見つめた。
この人もまた、
生涯ひとりの女を想い続けた男だった。
そしてその想いが、自分という存在を生んだ。
「僕、ちゃんと選びますよ。」
アルタイルの声は静かだった。
シリウスはゆっくりと頷いた。
「そうだな。
誰に何を言われても、
自分の選択を愛せるなら――それでいい。」
アルタイルは微笑み、封書を閉じた。
父と母がそうであったように、
愛に正解がなくても、
自分の道を選べる強さを、
今度は自分が証明してみせようと思った。
ホグワーツの塔の上に、ゆっくりと夜が降りていた。
寮の窓辺で語らっていたアルタイルが去った後、
シリウス・ブラックは一人、残された。
手には、アルタイルが見せてくれた手紙。
レギュラスの整った筆跡が、月明かりの下で青白く光る。
数人の令嬢の名が記された婚約者の選定表。
そこに並ぶ文字列を、シリウスは何度も目でなぞった。
――スラグホーン家のセリーヌ嬢、
マルシベール家のアデライン嬢、
バーク家のリリアン嬢、
フリント家のクラリッサ嬢。
完璧すぎるほど整えられた名家の娘たち。
その行間に、弟レギュラスの性格が滲んでいた。
彼らしいと、どこかで苦笑しそうになりながら、
シリウスは静かに便箋を折り畳んだ。
「……母さんのような人がいい、か。」
アルタイルがそう言った時の声が、まだ耳に残っている。
その言葉は、まるで刃物のように優しく心を裂いた。
――母さんのような人。
自分が最も求めて、最も遠ざけた人。
アラン・ブラック。
今もその名を心の奥で呼ぶだけで、息が詰まるようだった。
息子の成長は、あまりにも早かった。
あの幼い笑顔を見ているだけで幸せだった時期が、
まるで一瞬の幻のように思える。
そして気づけば、
その少年は自分に相談を持ちかけ、
未来を語るほどの青年になっていた。
――長らく父であることさえ知らずに、
こんなにも大きく、真っ直ぐに育ってしまった。
その事実が、胸をひどく締め付けた。
誇らしいのに、切なくてたまらなかった。
まるで自分が失った時間のすべてを、
彼の成長が照らして見せるかのようだった。
「……俺は、何をしていたんだろうな。」
ひとりごとのように呟く。
暖炉の火が、ゆらりと影を揺らす。
オレンジの光に照らされた手紙が、
一瞬、血のように赤く染まって見えた。
父親としての時間を取り戻すことは、もうできない。
どれほど悔やんでも、過去は戻らない。
それでも――
せめて、これからの彼の人生が、
自分のような執着に蝕まれたものにならないようにと、
強く願わずにはいられなかった。
頭に浮かぶのは、アランの姿だった。
月光の中で微笑む翡翠の瞳。
彼女を初めて見た日のことを、今も忘れられない。
――なぜ、彼女を超える人が現れなかったのだろう。
戦いのさなか、ジェームズが開いてくれた宴で出会った女性たち。
戦場で負傷した自分を介抱してくれた女たち。
笑いかけてくれた者もいた。
少し手を伸ばせば、穏やかな人生を築けたのかもしれない。
だが、そうしなかった。
――いや、できなかった。
アランを失ってから、自分の中の何かが壊れた。
再び誰かに心を開こうとすると、
必ずあの翡翠色の瞳が浮かんだ。
他の誰の顔を見ても、
彼女の面影が重なってしまった。
執着という名の呪いを患っていたのは、
弟ではなく、むしろ自分の方だったのだ。
「ぼく、ちゃんと選びますよ。」
先ほどのアルタイルの声が、静寂の中に蘇る。
あの少年の笑顔は、眩しかった。
まっすぐに未来を見据える瞳が、
どこまでも清らかで、どこまでも誠実だった。
――どうか、その光を曇らせないでほしい。
自分が歩いてきたような道を、
アルタイルには絶対に歩ませたくなかった。
何も手放さないでほしい。
失う痛みを知らずに生きてほしい。
諦める悲しさも、引きずる苦しさも、
そのどれもが、息子の人生には必要ないとさえ思った。
親として、いや――
かつて愛を失った男として、
それだけを、誰よりも強く願った。
シリウスはゆっくりと立ち上がる。
手紙を折り、暖炉の炎へと投げ入れた。
赤い光が一瞬、燃え上がる。
――燃えてゆく羊皮紙の中に、
弟の筆跡と、
自分の叶わなかった未来が、
ひっそりと消えていった。
夜とも昼ともつかぬ灰色の空の下、
二人の影が砂丘を越えて進んでいた。
アランのローブの裾は風に煽られ、
乾いた砂が頬を叩きつける。
ここは――エジプト西方、カイロからさらに外れた死の砂漠地帯、アメン・ラの神殿跡。
古代の王たちが不死の術を求めて築いた地下神殿が、
何千年の時を超えてなお崩れずに残る場所だった。
かつて闇の帝王がこの地を訪れたという記録が、
レギュラスの手元にある古文書の一節に記されていた。
――《かつての王が魂を二つに裂き、死すら欺く力を、
太陽の沈まぬ神の墓に封じた》
ヴォルデモートが分霊箱を隠すとすれば、
まさにその“死を欺く力”を象徴する場所だとレギュラスは考えた。
彼の手首に装着された魔力感知時計が、
低く脈打つような音を立てていた。
中心のルーン文字が淡く紅く点滅する。
「……反応がある。強い。かなり古い魔力です。」
レギュラスの声は風に掻き消されそうだった。
アランは必死にその背を追いかけながら、
懐から杖を取り出し、風除けの魔法を幾重にも重ねる。
「感知無効の呪文を、あと三重は張りましょう。
この魔力、闇の帝王に感づかれたら……」
「ええ、わかっています。」
レギュラスは短く答え、
地面に古代文字の円陣を描く。
淡い蒼光が走り、
砂の舞い上がる音が一瞬だけ遠のいた。
そこは、風の神が怒りを鎮めたかのような静寂。
その中心に――それはあった。
半ば崩れた石棺の奥、
黄金の蛇が絡み合うように彫刻された黒曜石の杯。
周囲の空気がゆがみ、
近づくたびに皮膚の下を這うような冷気が走る。
「……禍々しい。」
アランが息を呑む。
触れずともわかる。
それは“生きている”。
闇の帝王の魂の欠片が、
今も杯の底で蠢いているようだった。
「やっと……一つ辿り着きました……。」
レギュラスが囁くように言った。
声には達成感よりも、
終わりの見えない旅の重みが滲んでいた。
足元の砂が崩れ、アランがよろめく。
レギュラスはとっさに腕を伸ばして彼女を抱きとめた。
その体の軽さに、改めて彼女がここまでの旅を共にしてくれた事実が
胸に深く突き刺さる。
「すり替えます。」
レギュラスは懐から杖を出し
見事に模倣された同じ黒曜石の杯を作り出す。
アランがそっと魔法陣を展開し、
周囲の魔力流を抑制する。
それでも指先が震える。
この一瞬の気配の乱れすら、
ヴォルデモートに感知されかねないからだ。
杯を持ち上げた瞬間、
冷たい風が吹き抜ける。
まるで大地そのものが呻いているようだった。
闇の帝王の魂が、
その欠片を奪われたことを悟ったのだろうか。
「急ぎましょう……!」
アランが震える声で言う。
「ええ。」
レギュラスは頷き、
偽物の杯を元の位置に丁寧に戻す。
結界を再び組み直し、
すべてを元通りに見せかけた。
外に出ると、砂嵐がさらに強くなっていた。
互いに支え合わなければ立っていられないほどの風。
砂が顔を打ち、
それでも二人は離さなかった。
アランのローブが風に舞い上がり、
その隙間から見える翡翠色の瞳が、
砂の中でかすかに光を帯びていた。
「……帰りましょう、レギュラス。」
彼は頷き、
懐に抱えた黒曜石の杯を確かめた。
闇の帝王の魂の欠片が、
いま、彼の手の中にある。
その重みが、
まるで自分たちの命を量る天秤のように思えた。
吹き荒れる砂嵐の中、
二人は何も言わず、
ただ無言で互いの存在を確かめるように歩き出した。
――この手の中に抱く闇が、
やがてどんな未来を呼ぶのかを、
まだ誰も知らなかった。
屋敷の地下室には、
夜の闇をそのまま閉じ込めたような静寂があった。
ろうそくの灯が揺れ、
壁に掛けられた古い肖像画が、影のように震える。
アランとレギュラスは、
重厚な黒檀の机の上に“それ”を置いた。
――黒曜石のようなゴブレット。
まるで底なしの闇が形を持ったようだった。
見ているだけで吸い込まれそうになる。
触れずとも、皮膚の奥にまで届く冷たさ。
周囲の空気が、ひとつ息を吸うたびに軋む。
「……どうするつもりです?」
アランの声が震える。
風もないのに、ゴブレットの縁が微かに鳴いた。
レギュラスは答えず、
その杯を見つめたまま、
指先で机の縁をゆっくりとなぞる。
「ホークラックスの破壊法は――」
やがて、低い声が落ちた。
「――今のところ、グリフィンドールの剣しか知りません。」
絶望が、静かにその場に降りた。
アランは息を呑む。
グリフィンドールの剣。
伝説の魔具。
バジリスクの毒を吸収し、
いかなる呪いをも打ち砕くとされる剣。
それは、世界にたった一つ。
ホグワーツの奥深く、
ダンブルドアの手にあるという噂すら定かではない。
「そんなもの……
そう簡単に手に入るわけがありません。」
アランは静かに首を振る。
「世界に一つきり。
それに、剣の在り処を知るのは
ダンブルドア先生か……騎士団の人たちだけ。」
レギュラスは、わずかに瞼を伏せた。
「――もとより、破壊は騎士団の人間にやらせるつもりでしたから。」
アランは思わずレギュラスの顔を見た。
その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
長い間、闇の帝王の信奉者として生きてきた男の口から、
そんな言葉が出るなんて――。
「……本気で?」
「ええ。」
レギュラスは杯から視線を外さずに言った。
「僕は、“それ”を探し出す者であればいい。
破壊までは、別の手に委ねる。
……僕の手では、もはや“裁き”には届かない気がします。」
アランは胸の奥に、何かが崩れていくのを感じた。
それは絶望ではなかった。
むしろ――静かな光だった。
「あなたは……闇を断ち切ろうとしているのね。」
レギュラスは苦笑した。
「断ち切れると思いますか?」
「思います。」
アランの翡翠の瞳が、淡い光を宿す。
「あなたが、その闇の中でもがき続けている限りは。」
レギュラスはその言葉に、
ゆっくりと目を閉じた。
胸の奥の何かが、確かに緩んでいくのを感じた。
「僕は……」
彼は言葉を探すようにして、
目の前の杯に視線を戻した。
「結局のところ、この闇を完全に滅することはできなくても、
――あの子たちを、巻き込みたくないんです。」
その声は、
かつての冷徹な魔法使いのそれではなかった。
父親の声だった。
「アルタイルも、リディアも。
この闇の名残を、背負わせるわけにはいきません。それが、僕に残された償いだと思っています。」
アランはそっと彼の手に触れた。
冷たい指。
けれど、その奥には確かな熱があった。
「……あなたは、もう十分に償ってきたわ。」
「いや。」
レギュラスは首を振る。
「まだこんなんじゃ足りません。
闇の帝王に仕え、命を賭けてまで守った“偽りの誓い”の分だけ、
僕はまだ、神に背を向けたままなんです。」
言葉が、ゆっくりと沈黙に溶けていった。
蝋燭の火が、まるで呼吸のように揺れる。
アランはその炎を見つめながら、
彼の横顔を見た。
この人は、
闇の奥から光を見上げることを選んだのだ――。
その姿が、
あまりにも人間らしく、
あまりにも愛おしかった。
やがて、レギュラスが立ち上がる。
黒曜石の杯を慎重に布で包み、
古びた箱に収めた。
「破壊の手立てが見つかるまでは、
僕たちの手で守りましょう。」
「ええ。」
アランは頷いた。
「どんな闇にあっても、
この家だけは、光と誇りで満たしておきたい。」
レギュラスが微かに笑った。
その笑みは、
ほんの一瞬、若き日の彼――
まだ理想を夢見ていた頃の少年の面影を残していた。
夜の静寂の中、
箱の中の杯が低く軋んだ。
まるでまだ、
魂の主を呼び続けているかのように。
屋敷の大広間は、久しぶりに光と音と人の熱気に包まれていた。
長く仕舞い込まれていたシャンデリアの水晶が磨かれ、
百もの蝋燭が金の燭台に灯されている。
磨き上げられた床にはワルツの旋律が柔らかく響き、
黒い燕尾服やドレスが流れるようにすれ違っていく。
アルタイル・ブラックは、
そんな華やかな光景の中で、どこか居心地の悪さを覚えていた。
久しくこうした社交の宴など出たことがない。
胸元まで詰まった礼装のローブの襟が、やけに息苦しい。
頬に当たる照明が熱く、
肩のあたりにまで硬さが残る。
「話してくるといいですよ。気に入った方を教えてください。」
傍らで、父レギュラスが静かに言った。
相変わらずの穏やかな声。
けれどその眼差しの奥には、
どこか探るような光が潜んでいた。
「はい、そうします。」
そう答えながらも、心は揺れていた。
――さあ、話せと言われても。
見渡せば、レースと宝石に包まれた令嬢たちが笑い声を立て、
香水の甘い匂いが入り混じっている。
誰もが完璧に整えられた笑顔で、
誰もが計算された仕草で笑っている。
そのどれもが遠く感じた。
アルタイルは、
父のように雄弁でもなければ、
誰かを舞踏に誘うような華やかさも持ち合わせてはいない。
杖を振るのは得意でも、
手を取って踊ることには慣れていなかった。
音楽が変わり、
ドレスの裾が波のように広がる。
香り立つ金糸のドレス、
笑い声、光。
すべてが遠くで揺れているように思えた。
――そのときだった。
ふと、視線の先に小さな少女が立っていた。
他の誰とも違う。
まだ学生に上がる前か、上がったばかりの年頃だろう。
年齢に似合わず背筋を伸ばして立つ姿が凛としていて、
けれどどこか儚げでもあった。
透き通るような白い肌。
そして――彼女の瞳。
光を反射して、灰銀色の中に青の揺らめきが見えた。
まるで自分と同じ瞳だと思った。
その瞬間、胸の奥が微かに疼いた。
少女はアルタイルの視線に気づくと、
小さくドレスの裾をつまんで一礼し、
迷いなく歩み寄ってきた。
「……どうぞ。」
小さな手のひらに乗っていたのは、
一輪の白い花。
大広間の中で、唯一きらめきのないもの。
宝石でも、魔法の光でもない。
どこかの庭から摘んできたばかりのような、
素朴な花だった。
だが、その花からは
言葉では表せないほどの優しい魔力の気配が漂っていた。
温かく、純粋で、まるで春の光のような魔力。
「美しい魔法を知ってるんですね。」
アルタイルがそう言うと、
少女はにこりと笑った。
その笑顔は、
装飾も飾りもいらないほどの輝きを持っていた。
どの令嬢よりも華やかで、
どんな宝石よりも清らかだった。
「ありがとう。」
アルタイルは、
その小さな花を受け取りながら、
言葉以上の何かを胸の奥に感じていた。
音楽も人の声も、
遠く霞んでいくように感じた。
ただ、少女の笑みと花の香りだけが、
鮮明に心に刻まれていく。
彼女が去ったあとも、
その小さな背中を目で追ってしまう。
金糸のドレスが波の中に溶けていく。
灰色の瞳が振り返ることはなかった。
それでも、
アルタイルの心は確かに掴まれていた。
離れられなかった。
――この夜、
煌びやかな宴の中で、
アルタイル・ブラックが見つけたのは、
誰よりも小さく、誰よりも静かな“光”だった。
