4章
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屋敷に明るい声が戻ってきた。
それだけで、空気が変わるのがわかる。
いつもは静まり返っていた長い廊下に、
足音が二つ――軽やかに響いた。
玄関の扉を開けると、
懐かしい風が流れ込むようだった。
先に駆け込んできたのはリディア。
彼女の頬は学院の新しい季節の光を受けて紅潮し、
髪に編まれたリボンが揺れていた。
「お母様!」
抱きしめると、春の陽のような香りがした。
その後ろからアルタイルが姿を見せる。
少し背が伸び、声も低くなっていた。
けれど笑うと、まだ少年の柔らかさを残している。
「おかえりなさい、二人とも。」
アランの声が震えた。
心の奥に張り詰めていたものが、
一気にほどけていくようだった。
ここ最近、レギュラスとの間には
言葉では埋められない深い溝があった。
その沈黙を、二人の子どもたちが一瞬で塗り替えていく。
まるで光が差し込むように――。
夕暮れ時、食卓は久しぶりに賑わっていた。
金の燭台の炎がゆらめき、
銀の皿に並ぶ料理が柔らかな光を受けている。
普段は二人だけで向かい合う重苦しい食卓も、
今夜だけは笑い声が絶えなかった。
リディアが嬉しそうに身を乗り出す。
「お兄様ったら、女生徒にいっぱいラブレターをもらってるのよ!」
「やめてください、リディア。誇張しすぎです。」
頬を赤くして否定するアルタイルに、
食卓の空気が一層和む。
「さすがですね。」
レギュラスがワイングラスを軽く持ち上げ、
静かに微笑んだ。
その言葉にはどこか誇らしげな響きがあった。
アランはそのやり取りを見つめながら、
胸の奥に温かいものが満ちていくのを感じた。
リディアが笑う。
アルタイルが困った顔をする。
レギュラスの横顔が少しだけ和らぐ。
その一つひとつが、
どれほど長く失われていたものだっただろう。
この穏やかな夜のためだけに、
生きてきたのではないかと思えるほどだった。
「授業はどうでした?」
アランが尋ねると、
アルタイルは少し背筋を伸ばして話し出した。
魔法史の試験のこと、
クィディッチの練習で新しい戦法を試したこと、
そしてスリザリンの寮での出来事。
どの話も真剣で、
それでいてどこか大人びた自信があった。
「父さんのように、
いつかスリザリンのシーカーとして名を残せるよう頑張ります。」
その言葉に、レギュラスの目が細められた。
普段は滅多に見せない穏やかな表情。
アランの胸が、きゅうと締めつけられる。
リディアは相変わらずおしゃべりだった。
友人の話、寮での失敗談、
そしてアランが仕立ててくれたドレスが評判だったこと。
笑い声が、食卓に何度もこだまする。
それは、長いあいだこの家に欠けていた音。
懐かしくて、切ないほど美しい音だった。
夜が更けていく。
燭台の炎が細くなり、
窓の外には静かな星明かりが広がる。
アランはふと、グラスの中の赤いワインを見つめた。
それは深いルビーのようで、
今夜の幸福を閉じ込めた宝石のようだった。
――この時間が、ずっと続けばいい。
そう思った。
夫婦の間に横たわる溝も、
過去の傷も、
この子たちがいる限り、
一時でも忘れられる。
微笑むリディアの隣で、
アルタイルの声が響く。
そしてその向こうに、
静かにグラスを傾けるレギュラスの姿。
アランは、その光景を
胸に刻みつけるように目を閉じた。
灰色と翡翠、
ふたつの瞳に灯る家族の夜。
それは、静かに輝く“希望”のかたちだった。
食後のダイニングには、暖炉の火が穏やかに揺れていた。
食卓の上に残されたワインの香りが、
夜の空気に溶けるように漂っている。
アランとリディアが片付けにまわり、
屋敷の中に再び静けさが戻ったころ。
レギュラスはグラスを手に、
窓辺の椅子に腰を下ろしていた。
「アルタイル、少し話を。」
静かな呼びかけに、息子は姿勢を正して隣の椅子に座る。
炎の光がアルタイルの頬を照らし、
その輪郭に少年から青年への変化を感じさせた。
「勉学は進んでます?」
父の問いかけに、アルタイルは真っ直ぐな目で頷いた。
「はい。主席を落とさないようにしています。」
その言葉を聞いた瞬間、
レギュラスの胸の奥に、ふっと温かいものが広がった。
誇らしかった。
あの幼かった少年が、
ここまで真っ直ぐに育ってくれたことが、
血のつながりなど超えて、
何よりの証のように思えた。
息子は確かに、自分の背を見て育った。
その事実が、静かな誇りとなって心に染みていく。
「先日、リディアの婚約が決まりました。」
レギュラスがワインを傾けながら言うと、
アルタイルの瞳が柔らかく光を宿した。
「はい。ノット家のご子息だと。」
「そうです。その件で、あなたの母さんと……少し言い合いましてね。」
レギュラスは苦笑し、
グラスの中の赤い液体をくるりと回す。
炎がその表面でゆらりと踊った。
「歳の差が少しあるようですからね。」
アルタイルは穏やかに続けた。
「母さんの言うことも分かりますし。
でもリディアの明るさなら、そんなこと気にせず上手くやっていける気がします。」
その答えに、レギュラスは思わず笑みをこぼした。
自分が求めていた言葉を、
まるで見透かしていたかのように差し出してくる。
「……まったく、わかってますね。」
息子は微笑み、肩をすくめる。
その仕草がどこかアランに似ていた。
「今も、微妙にその時の空気を引きずってますからね。」
レギュラスはまいったというように片手を上げてみせた。
「だから、母さんと会話が少し少なかったんですね。」
アルタイルは冗談めかして言い、
二人の間に小さな笑いが生まれる。
炎のぱちりと弾ける音が、
その穏やかな沈黙を包み込んだ。
この息子は、
どれほど繊細に人の感情を読み取ることができるのだろう。
レギュラスは思った。
幼い頃からよく人を観察していた。
父と母の微かな空気の変化さえも感じ取って、
静かに立ち回る。
それはまさに、彼がブラック家の血を引いていなくとも、
立派に“ブラック”として育っている証だった。
「本来なら、長男のあなたから婚姻を決めるべきだったんですが。」
レギュラスの声は、どこか試すような響きを帯びた。
「僕は特に希望はありません。」
アルタイルは静かに言った。
「父さんが決めてください。」
「希望、ないんです?」
思わず問い返すと、
アルタイルは少しだけ口元を緩めた。
「ええ。しいて言えば――母さんくらいの美人さんがいいですね。」
その言葉に、レギュラスは吹き出しそうになった。
喉の奥で笑いが漏れ、
ついにはグラスを置いて肩を震わせる。
「それは……難題ですね。」
久しく忘れていた、心からの笑いだった。
アルタイルもつられて笑う。
暖炉の炎がゆらめき、
父と子の間に柔らかな灯がともったようだった。
――あんなに小さかった子が、
今ではこうして自分と肩を並べ、
杯を交わせるほどになった。
レギュラスはふと、
グラスの中の深紅を見つめながら思う。
血は繋がらずとも、
確かにこの青年の中に自分の形がある。
それで十分だった。
炎の音だけが響く静寂の中で、
レギュラスの心はひさしぶりに穏やかに満たされていた。
午後の光がやわらかく台所を照らしていた。
磨かれた大理石のカウンターの上に、
ガラスのティーポットが静かに湯気を立てている。
紅茶の葉がゆらゆらと浮かび、
花が開くように色を滲ませていく。
アランは手元の細い匙で、
湯の中をゆっくりと回していた。
その手元に影が差す。
「母さん、手伝いますよ。」
アルタイルだった。
少し背が伸びて、
もうどこから見ても“少年”とは呼べない面差し。
けれどその声は、あの幼い頃と変わらず穏やかで優しい。
「ありがとう、アルタイル。」
アランは微笑み、
彼に茶葉を蒸らす手順を教えるように
ポットを少し傾けて見せた。
アルタイルの手が彼女の手元に重なり、
柔らかな蒸気が二人の指先を包み込む。
「父さんと、リディアの婚約の件で口論されたそうですね。」
ふいに息子がそう言った。
アランは手を止め、
驚いたようにその顔を見上げる。
何を言いに来たのか――
まさか、そんな話をここでされるとは思ってもいなかった。
「もう……過ぎたことです。」
小さく答える。
声の端が微かに震えていた。
けれど、アルタイルは優しい眼差しのまま続ける。
「父さん、母さんと仲直りしたいみたいですよ。」
アランは一瞬、
何を聞かされたのか分からなかった。
「……仲直り?」
「はい。さっきそう言ってました。
母さんが冷たくて寂しいって。」
その言葉に、アランは思わず吹き出しそうになった。
口元を押さえて笑いを堪える。
まさか――あのレギュラスが。
あの、どんな状況でも冷静で、
決して自分の感情を言葉にしない男が。
息子にそんな愚痴をこぼしていたなんて。
「本当に、言ってたの?」
「本当に。
“もう少し優しくしてくれないかな”って。」
アルタイルが真顔で答えるから、
その可笑しさに拍車がかかる。
アランは小さく肩を震わせながら、
ポットの蓋を閉めた。
「まったく……あの人がね。」
その笑みの奥に、
少しだけ切なさが混じっていた。
ワインを片手に、
まるで何事もなかったかのように
涼しい顔で食卓に座っている姿しか思い浮かばない。
それが、息子の前では
そんな弱音を吐いていたというのだから――
どこまでも不器用な人だと思った。
「母さん、笑った。」
アルタイルが嬉しそうに言った。
その表情があまりに純粋で、
アランの胸がじんわりと熱くなる。
――この子は、
本来まだ自分のことで精一杯でいい年頃なのに。
父と母の間に横たわる見えない溝を感じ取って、
それを埋めようとしてくれている。
思春期の少年が、
自分の居場所を作るよりも先に、
家族の形を守ろうとしてくれているのだ。
アランは、そっと彼の頬に手を添えた。
「ありがとう、アルタイル。」
「何がです?」
「あなたのその気持ちが……嬉しいの。」
紅茶の香りが、
静かな午後の空気にふわりと広がった。
カップに注がれた琥珀色の液体が、
光を受けてきらめく。
アランはゆっくりとカップを差し出し、
「あなたの分も」と言って微笑んだ。
親子の間を流れる沈黙は、
どこまでもやさしく、あたたかかった。
この屋敷の中に、
久しぶりに“穏やかな時間”が満ちていた。
夜は深く、屋敷の中は静まり返っていた。
書斎の窓辺にかかる薄いカーテンが、
夜風にかすかに揺れている。
机の上では、羽ペンがインク壺の中で休んでいた。
長い時間を共にしてきたペン先には、
書きかけの文書の跡がまだ新しく残っている。
そんな静寂の中で、コン、コンと控えめなノックの音が響いた。
レギュラスはペンを置き、顔を上げる。
「どうぞ。」
扉が静かに開く。
そこに立っていたのはアランだった。
手には銀のトレイ。
その上に置かれたティーポットからは、
淡い湯気がゆらゆらと立ち上っている。
「紅茶をお持ちしました。……ワインではないですが、どうです?」
レギュラスは少しだけ表情を緩めた。
「いただきます。」
アランがソファテーブルにティーセットを置く。
紅茶がカップに注がれる音が、
夜の静けさを優しく満たしていく。
書斎でアランとこうして向き合うのは、
いつぶりだろうか。
仕事の報告や子どもたちの話を除けば、
本当に“夫婦として”言葉を交わす時間など、
もうどれほど失われていたか分からない。
レギュラスは羽ペンを片付け、
ゆっくりとソファに腰を下ろした。
「久しぶりに飲みました。美味しいですね。」
口に含んだ瞬間、
柔らかな茶葉の香りが広がり、
ほんのりとした甘味が喉を潤す。
「あなた、あまり紅茶を飲まないじゃないですか。」
アランの声は、どこか懐かしげだった。
「飲まないからこそ、たまに飲むといいものですよ。」
二人の間に、柔らかな沈黙が落ちた。
蝋燭の炎がかすかに揺れ、
机の上の書類の影を長く伸ばしている。
――久しぶりに、普通の会話をしている。
そう思うと、胸の奥がわずかに温かくなった。
きっと、アルタイルが間に入ったのだろう。
息子らしい気遣いだ。
レギュラスがアランに何を言えばよいか迷っていたように、
アランもまた、どう歩み寄ればいいのか分からなかったに違いない。
それでもこうして紅茶を運んで来てくれた。
その事実だけで十分だった。
「アルタイルは……婚約者を“顔で選びたい”そうですよ。」
レギュラスは少し大げさに言ってみせた。
息子との会話を軽く茶化すように。
アランは思わず吹き出した。
「まあ。見た目で選ぶと、ろくなことがありませんのに。」
「あなたを母に持つ子ですから、仕方ないかもしれませんね。」
レギュラスは微笑みながら紅茶を口に運んだ。
茶葉の香りとともに、胸の奥にかすかな苦味が滲む。
――見た目で選ぶ。
それは確かに、かつての自分がしたことだった。
使用人としてこの屋敷にやって来た少女。
何の身分も持たず、どこか影を帯びた翡翠の瞳。
ただ一度、その瞳を見た瞬間に心を奪われた。
あれが“恋”というものの始まりだったのだろう。
だが今思えば、それは一目惚れという言葉では足りない。
あの瞬間から、彼女は自分の全てになった。
命も、信念も、誇りさえも差し出せるほどに――。
闇の帝王に誓いを立てたあの日も、
守りたかったのは“アランただ一人”だった。
紅茶の香りが、
心の奥で眠っていた記憶をやわらかく呼び覚ます。
息子の未来を思う。
アルタイルがどんな恋をするのか、
どんな女性を選ぶのか――。
それを制する気はなかった。
ただ、見た目で恋に落ちるということが、
どれほどの覚悟と痛みを伴うものかだけは、
伝えてやりたかった。
「……見た目で入る恋は、長く続くものです。」
レギュラスがふと呟く。
「そうでしょうか。」
アランが小首を傾げる。
「ええ。終わりがなくて、消耗し尽くすほどに。」
一瞬、アランの瞳が翡翠色に揺れた。
それ以上、互いに何も言わなかった。
窓の外で風が吹き、
紅茶の香りがふわりと漂う。
二人の間に流れる沈黙は、
まるで壊れやすい硝子のように静かで、
けれどどこか、やさしい温もりを含んでいた。
その夜、書斎の灯はいつもより少しだけ長く灯り続けた。
レギュラス・ブラックは、今やほとんど寝る間も惜しんでいた。
彼が追っているのは、闇の帝王が造り出したホークラックス――
死を分け合うための、魂の断片。
その存在を暴くことは、
すなわち闇の帝王の「死」に触れるということだった。
彼は夜ごとに姿を消した。
古代魔法の痕跡を辿るように、
闇の帝王がかつて足跡を残した廃墟や屋敷、
焼け落ちた礼拝堂、魔力の溜まりやすい湖畔を巡っていた。
禁じられた魔法の巻物を読み、
古の呪文を唱え、
黒い霧のように漂う“残響”を感知するために
精神をすり減らすような儀式を幾度となく繰り返した。
闇の帝王の魔力は生き物のように動く。
一箇所を追っても、掴みきれない。
たとえ微細な残留魔力を見つけても、
触れた瞬間に燃え尽きるほどの激しさで
自らを焼き切って消えていく。
彼は今や、魔法の羅針盤と呼ばれる
古代の儀具を携えていた。
真鍮の針の中央に黒い宝石が嵌め込まれており、
魂の波動に反応すると鈍く光を放つ。
その針が、夜風の中でかすかに揺れる。
けれど――今夜も成果は、なかった。
湖畔の霧の中、彼は膝をついた。
息が白く散り、
指先の震えが止まらなかった。
どれだけ探っても、
あといくつ存在するのか、
どこに潜んでいるのかが分からない。
闇の帝王の死を見届けるための唯一の手段を、
自分は未だ掴めていない。
己の無力が骨の芯まで染みていく。
――そして、夜明け前。
屋敷の扉を開けた時、
静まり返った廊下の空気が
冷たく頬を撫でた。
その瞬間、張り詰めていた意識が途切れた。
寝室に入ると同時に、
レギュラスの膝が崩れ落ちる。
肩が震え、
吐息が乱れる。
「レギュラス……!」
寝台から飛び起きたアランが駆け寄る。
長い夜を過ごした彼女の寝衣が、
闇の中でほのかに揺れた。
「何があったのです?」
答える余力もなく、
レギュラスはただアランの胸元に額を預けた。
そのまま、
重力に抗うように息を吐きながら――
深い眠りに落ちていく。
アランは彼の背中をそっと抱きしめ、
ただその体温を感じていた。
この人はいったい、どこまで自分を削っているのだろう。
何を追って、何を抱えているのだろう。
問いかけたい気持ちを、
今夜だけは押し殺した。
――翌朝。
窓から差し込む淡い光が、
寝室を満たしていた。
アランは寝台の傍らで、
静かに紅茶を淹れていた。
カップから立ちのぼる香りが、
まだ重たげな空気をやわらげる。
「……昨晩、何があったのです?」
彼女の声は静かだったが、
奥底に張り詰めた糸のような緊張があった。
レギュラスはゆっくりと起き上がり、
枕元に置かれた時計に目をやる。
「大したことではありません。」
そう短く答え、
視線を合わせようとはしなかった。
アランはカップを置き、
彼をじっと見つめる。
「あとどれほど、私はあなたの“秘密”に直面しなければならないのです?」
一瞬、空気が凍った。
レギュラスはわずかに眉を動かし、
何気ない調子で返す。
「……何のことでしょう?」
沈黙が落ちる。
だがその沈黙こそ、
答えそのもののようだった。
――かまをかけられている。
彼はそう直感した。
けれど胸の奥がざわめく。
アランは、何を知っているのか?
ホークラックスのことか?
それとも、彼女を守るために行ったあの取引か?
まさか、新たなホークラックスを探っていることまでも……?
考えれば考えるほど、
思考が絡まり、呼吸が浅くなる。
そして――アランの口から
思いもよらぬ名が落ちた。
「……エリナ・ウェルズには話しているのです?」
レギュラスの心臓が跳ねた。
――なぜ、ここでその名が出てくる?
瞬間、あの夜の記憶が脳裏を過った。
ワインを二本空け、
理性が霧散していったあの夜。
気づけば、エリナを抱いていた。
その行為に意味はなかった。
だが、事実として刻まれてしまった。
まさか――そのことまで知っているのか?
冷や汗が首筋を伝う。
頭の中であらゆる可能性が回転する。
魔力の探知をしたのか、
誰かに見られたのか、
それともエリナ自身が――。
沈黙を破るように、アランがため息をついた。
その音が、静かな刃のように心に突き刺さる。
レギュラスは視線を落としたまま、
何も言い返せなかった。
その沈黙こそが、
彼がいくつもの秘密を抱え、
もはや“真実”という名の光から
遠ざかり続けている証だった。
アランの瞳に浮かぶ翡翠の色が、
わずかに揺れていた。
まるで――愛と絶望の境目で、
最後の火を保とうとしているように。
それは――緩やかに迫り来るような絶望だった。
最初から疑っていたわけではない。
けれど、気づけば“何か”が、
静かに自分たちの間に亀裂を生み出していた。
アランはそれを感じていた。
レギュラスの沈黙、曖昧な笑み、
いつの間にか増えていく外出、
そして夜更けに戻るその背の疲弊。
口を開けば「大したことではない」とだけ言う。
その一言で、すべての扉を閉ざすように。
――何かを追っている。
その確信だけはあった。
けれど、それが何なのか。
何を追い求め、何を犠牲にしているのか。
アランにはわからなかった。
問いただしても、レギュラスはいつも逃げるように視線を逸らす。
まるで、その瞳の奥に映るものを見せたら
全てが壊れてしまうとでも言うように。
そして、限界が訪れた。
このままでは、
彼の抱える“闇”が自分の心まで蝕んでしまう。
だから――アランは、ついに告げてしまった。
「……エリナ・ウェルズの件を知っています。」
その名を口にした瞬間、
レギュラスの顔に一瞬で“生”が走った。
冷静沈着だった灰色の瞳が、
まるで地中深くで眠る蛇に触れたかのように、
揺れた。
そのわずかな揺れだけで十分だった。
アランはもう、確信していた。
隠していた。
それも、心の奥深くに押し込めるように。
だからこそ――今、この沈黙が何よりの答えだった。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
氷の刃で内側を裂かれたような痛みだった。
「待ってください、アラン……どこまで知ってるんです。」
その言葉を聞いた瞬間、
アランは微笑すら浮かべそうになった。
“どこまで”。
それ自体がもう、真実の証だった。
彼は否定しなかった。
ただ、どこまで知られているのかを問うた。
――つまり、事実なのだ。
掴まれた腕を、思わず振りほどきそうになる。
レギュラスの指は熱を帯びていた。
懇願の熱。焦燥の熱。
けれどアランにとっては、
その熱こそが“裏切り”の証にしか感じられなかった。
「待ってください。説明を……説明をさせてください。」
「不要です。」
冷たい声だった。
それでもその中に、震えるほどの悲しみが混ざっていた。
――どうせ、言い訳をするのだろう。
間違いだったと。
酔っていたと。
心の隙間だったと。
そうした言葉は、
今のアランにはもう何の意味も持たなかった。
「すみません、アラン……でも誤解しないで欲しいんです。」
その必死な声音が、
かえって彼女の胸を締めつける。
「どうぞ……理解者のところに行ってください。」
アランの翡翠の瞳が、
静かに涙を孕んで光る。
レギュラスはその場で息を詰まらせた。
腕を伸ばしても、
その距離をもう埋められない。
「アラン、お願いです……」
その声が震えた。
いつもどんな場でも揺らぐことのなかった男の声が。
だが、もう遅かった。
アランの中で何かが崩れていた。
シリウスを想い続けた年月――
確かに長かった。
けれど、レギュラスを受け入れると決めた時、
それは彼女の人生の中で最も勇気のいる選択だった。
過去の恋を封じ、
新しい愛を築こうとした。
それが、どれほどの決意だったか。
それを――裏切られた。
胸の奥から、冷たい涙が溢れるように流れ出す。
あの日、シリウスに差し出された手を取れなかった自分。
そして今、レギュラスの差し出す手も取れない自分。
人生とは、
こんなにも残酷に同じ痛みを繰り返すものなのか。
かつて、シリウスを想っていた頃――
レギュラスの嫉妬と怒りに晒されることが
恐ろしくて仕方がなかった。
けれど今になってようやく分かる。
あの怒りの奥には、
こんなにも切実で壊れそうな愛があったのだと。
――そして、今の自分も同じ。
善意も、決意も、
愛も、誠意も、
すべてを踏み躙られた気分だった。
それでも、まだ――
彼を憎みきれない自分がいる。
そのことが、
いちばんの地獄だった。
焦燥が、喉の奥で鉄の味を立てていた。
胸の奥が、今にも爆ぜそうだった。
――もう、すべて知られている。
そう悟った瞬間、レギュラスの世界が静かに崩れていった。
一生、誰にも言うまいと決めていた。
墓の底まで抱えていくはずだった真実。
それを、アランの瞳がすでに見抜いている。
彼女の沈黙は、何より雄弁だった。
掴んだ腕が振り解かれそうになる。
それだけで心臓が裂けるほど苦しい。
「アラン……全部話します。
闇の帝王の――ホークラックスのことも。」
その名を口にした瞬間、
部屋の空気が一変した。
まるで誰かが見えない手で窓を閉め、
外界と切り離したように、
静寂が押し寄せた。
「……ホークラックス?」
アランの声は、息を呑むように震えていた。
翡翠の瞳がわずかに揺れる。
「全部話します。だから……お願いです。
誤解はしないでください。」
レギュラスの声が掠れた。
懇願だった。
懺悔にも似ていた。
巻き込みたくなどなかった。
この世界に生きる誰よりも、
彼女だけは――清らかな場所にいてほしかった。
だから、何も言わなかった。
知らなくていいと思っていた。
安全な場所で待っていてくれるだけでよかった。
けれど、いま。
たった一度の過ちを覆すために、
彼はその“禁忌”をさらけ出そうとしていた。
自分の弱さが情けなかった。
守るために築いた沈黙が、
結局は彼女を遠ざけただけだった。
レギュラスは、
震える指で髪をかき上げ、
言葉を紡ぎ始めた。
――すべてを。
闇の帝王の魂が分割され、
不死を保つために作られた“容れ物”の存在を。
それが、いかなる物体に宿っているのか。
そして自分が、そのいくつかを“保護”していることを。
あの日、
アランが拷問を受けていたこと。
ダンブルドアに情報を漏らしたことで
裏切り者として裁かれようとしていた彼女を、
死の縁から救い出すために――
自分が、闇の帝王に取引を申し出たことを。
「あなたを……救うためでした。」
声が、掠れていた。
それでも途切れさせなかった。
「あなたを差し出す代わりに、
僕は“彼の魂”の守護を引き受けました。
それが……僕の取引だった。」
アランの唇がかすかに開く。
震えが伝わる。
「闇の帝王の不死は、
いくつもの“魂の欠片”によって保たれている。
僕が隠しているものは、そのうちの一部です。
けれど、彼は……まだ他にも造っている。
どこに、どれだけ存在するのか。
僕にも、分からない。」
静寂の中で、
アランの息が詰まる音がした。
彼女の瞳に、涙が溜まっていく。
光を映した翡翠の粒が、
頬を伝い、音もなく落ちた。
レギュラスは、
その涙が床に落ちる瞬間を
見ていられなかった。
「……背負わせたいと思ったわけじゃないんです。」
彼は膝をつくようにして、
アランの視線の高さに合わせた。
「だから、言わなかった。
あなたの中に、この闇を宿してほしくなかった。
僕が……汚れていくことで守れるなら、
それでよかった。」
アランは唇を噛んだ。
嗚咽がこみ上げる。
息がうまくできなかった。
この男が、どれほどのものを犠牲にしてきたのか。
いま、その全てが理解できてしまった。
「……そんなことをしてまで……」
「あなたが生きているなら、それでよかった。」
言葉が重なり、沈黙が落ちた。
蝋燭の炎が、淡く揺れる。
レギュラスの横顔を照らし出す光が、
静かに震えていた。
「人の魂に触れるということは、
神の領域に踏み込むことだと分かっていました。
それでも――あなたを救えるなら、
僕は……神への冒涜さえ恐れなかった。」
アランは両手で顔を覆った。
嗚咽が溢れる。
その姿を見つめながら、
レギュラスはただ静かに膝を折った。
彼の指が、
そっとアランの足元に触れる。
「愚かだと思っても構いません。
でも……僕にとって、あなたはすべてなんです。」
アランの涙が、彼の頬に落ちた。
それは赦しでもなく、拒絶でもなかった。
――ただ、あまりにも深すぎる愛と、痛みの証だった。
その夜、
屋敷の中では一切の音が途絶えていた。
ただ、二人の呼吸と、
消え入りそうな蝋燭の炎だけが、
長い長い夜の闇を照らしていた。
夜の帳が、静かに魔法省の外壁を包み込んでいた。
蝋燭の灯りが、石造りの部屋の壁を淡く照らす。
その中心で、ジェームズ・ポッターは報告書を握り締めていた。
羊皮紙をめくる指先が、かすかに震える。
――“レギュラス・ブラックは夜通し活動しており、
屋敷に戻るのは深夜になることが多い”
エリナ・ウェルズの報告書の冒頭。
ただの観察記録に見えた。
しかし、その次に綴られた一文が、
一瞬で室内の空気を凍りつかせた。
“――ホークラックスという単語が、夫婦の寝室から漏れた”
ジェームズは目を細めた。
眉間に皺を寄せ、息を呑む。
「……やはり、か。」
その声は、ほとんど囁きのようだった。
背後でリーマスが腕を組む。
蝋燭の光が彼の横顔に落ち、
疲労と緊張の影を際立たせている。
「つまり……レギュラス・ブラックは、今もホークラックスを守っている。」
リーマスの言葉に、ジェームズは無言で頷いた。
ホークラックス――ヴォルデモートの魂を分けた、不死の核。
それを破壊しない限り、
闇の帝王は決して死なない。
「だが、あいつが立ちはだかっている限り、
破壊どころか発見も容易じゃない。」
ジェームズは唇を噛みしめ、報告書を机に叩きつけた。
紙が乾いた音を立てる。
エリナの報告には、
レギュラスの行動記録が細かく記されていた。
彼はまるで、何かを“追っている”。
それが闇の帝王の命令によるものなのか、
あるいは――別の意図があるのか。
「……なあ、ジェームズ。」
リーマスがゆっくりと声を落とす。
「もしかしたら、レギュラス・ブラックの把握しているホークラックス以外にも、
ヴォルデモートはホークラックスを作ってるんじゃないのか?」
一瞬、静寂が落ちた。
ジェームズは目を見開く。
「……なんだって?」
「考えてみろ。彼が守っているホークラックスは一部に過ぎない。
もし、ヴォルデモートが彼の知らぬ場所に、
新しい魂の欠片を宿したとしたら……」
その声は、落ち着いているようで震えていた。
恐ろしい仮説だった。
レギュラスですら知らない“もう一つの魂”。
それは、闇の帝王が死を欺くためのさらなる鍵。
「……いったい、いくつ作っているっていうんだ。」
ジェームズは低く呟く。
喉の奥で、乾いた息が擦れた。
ヴォルデモートの狂気は理解していたつもりだった。
だが、その想像を超えていた。
魂をいくつもに裂く――それは神への挑戦に他ならない。
「人の魂は一つだ。それを切り裂けば……もう“人”じゃない。」
リーマスの声には、哀れみすら滲んでいた。
「それでも奴はやる。恐怖と支配のためなら、
魂ごと踏みにじる。」
「じゃあ、レギュラスは……
そんな化け物の残した“魂の残骸”を、
夜な夜な探しているっていうのか。」
ジェームズが顔を上げると、
隣で黙っていたシリウスが、
低く息を吐いた。
「何のために、だ……?」
彼の声は掠れていた。
長い間、兄の名を口にすることすら避けてきた男の声。
「ヴォルデモートの忠実なしもべのはずだ。
それが、なぜホークラックスを探す。
忠誠の証を磨くためか?
それとも――」
シリウスの瞳に、一瞬、苦い光が宿った。
「……裏切るつもりなのか。」
リーマスが小さく息を呑む。
ジェームズが顔をしかめる。
「裏切り? あのレギュラス・ブラックが?
そんなこと、あるわけない。」
シリウスの声が、鋭く響いた。
「奴は生まれながらの“闇側”だ。
親父と同じ血を引いてる。
俺が家を飛び出したあの瞬間から、
奴は“あちら側”の人間だった。」
その言葉には、
過去の憎悪と痛みが滲んでいた。
けれど、どこかに“兄”を想う複雑な温度もあった。
リーマスが静かに首を振る。
「……それでも、もし仮に彼が探しているのが、
ヴォルデモート自身の“死”の在り処だったとしたら?」
ジェームズは息を呑んだ。
想像の域を超えた推測だった。
けれど、全くの絵空事とも言えなかった。
「ホークラックスを探す者が、
必ずしも“守る”ためとは限らない。」
リーマスの声が落ちる。
ジェームズは椅子にもたれ、
長く息を吐き出した。
――何が正義で、何が悪か。
もはやその境界は霞んでいく。
レギュラス・ブラック。
あの男は闇に生きながら、
その闇の奥底で、何を見ているのか。
闇を壊すために、闇を選ぶ者。
その存在が本当にあるのなら――
きっと世界は、もう誰にも裁けない。
蝋燭が最後の火を吐き、
音もなく消えた。
暗闇の中、三人の視線だけが、
同じ一点――“レギュラス・ブラック”という名に釘付けになっていた。
それだけで、空気が変わるのがわかる。
いつもは静まり返っていた長い廊下に、
足音が二つ――軽やかに響いた。
玄関の扉を開けると、
懐かしい風が流れ込むようだった。
先に駆け込んできたのはリディア。
彼女の頬は学院の新しい季節の光を受けて紅潮し、
髪に編まれたリボンが揺れていた。
「お母様!」
抱きしめると、春の陽のような香りがした。
その後ろからアルタイルが姿を見せる。
少し背が伸び、声も低くなっていた。
けれど笑うと、まだ少年の柔らかさを残している。
「おかえりなさい、二人とも。」
アランの声が震えた。
心の奥に張り詰めていたものが、
一気にほどけていくようだった。
ここ最近、レギュラスとの間には
言葉では埋められない深い溝があった。
その沈黙を、二人の子どもたちが一瞬で塗り替えていく。
まるで光が差し込むように――。
夕暮れ時、食卓は久しぶりに賑わっていた。
金の燭台の炎がゆらめき、
銀の皿に並ぶ料理が柔らかな光を受けている。
普段は二人だけで向かい合う重苦しい食卓も、
今夜だけは笑い声が絶えなかった。
リディアが嬉しそうに身を乗り出す。
「お兄様ったら、女生徒にいっぱいラブレターをもらってるのよ!」
「やめてください、リディア。誇張しすぎです。」
頬を赤くして否定するアルタイルに、
食卓の空気が一層和む。
「さすがですね。」
レギュラスがワイングラスを軽く持ち上げ、
静かに微笑んだ。
その言葉にはどこか誇らしげな響きがあった。
アランはそのやり取りを見つめながら、
胸の奥に温かいものが満ちていくのを感じた。
リディアが笑う。
アルタイルが困った顔をする。
レギュラスの横顔が少しだけ和らぐ。
その一つひとつが、
どれほど長く失われていたものだっただろう。
この穏やかな夜のためだけに、
生きてきたのではないかと思えるほどだった。
「授業はどうでした?」
アランが尋ねると、
アルタイルは少し背筋を伸ばして話し出した。
魔法史の試験のこと、
クィディッチの練習で新しい戦法を試したこと、
そしてスリザリンの寮での出来事。
どの話も真剣で、
それでいてどこか大人びた自信があった。
「父さんのように、
いつかスリザリンのシーカーとして名を残せるよう頑張ります。」
その言葉に、レギュラスの目が細められた。
普段は滅多に見せない穏やかな表情。
アランの胸が、きゅうと締めつけられる。
リディアは相変わらずおしゃべりだった。
友人の話、寮での失敗談、
そしてアランが仕立ててくれたドレスが評判だったこと。
笑い声が、食卓に何度もこだまする。
それは、長いあいだこの家に欠けていた音。
懐かしくて、切ないほど美しい音だった。
夜が更けていく。
燭台の炎が細くなり、
窓の外には静かな星明かりが広がる。
アランはふと、グラスの中の赤いワインを見つめた。
それは深いルビーのようで、
今夜の幸福を閉じ込めた宝石のようだった。
――この時間が、ずっと続けばいい。
そう思った。
夫婦の間に横たわる溝も、
過去の傷も、
この子たちがいる限り、
一時でも忘れられる。
微笑むリディアの隣で、
アルタイルの声が響く。
そしてその向こうに、
静かにグラスを傾けるレギュラスの姿。
アランは、その光景を
胸に刻みつけるように目を閉じた。
灰色と翡翠、
ふたつの瞳に灯る家族の夜。
それは、静かに輝く“希望”のかたちだった。
食後のダイニングには、暖炉の火が穏やかに揺れていた。
食卓の上に残されたワインの香りが、
夜の空気に溶けるように漂っている。
アランとリディアが片付けにまわり、
屋敷の中に再び静けさが戻ったころ。
レギュラスはグラスを手に、
窓辺の椅子に腰を下ろしていた。
「アルタイル、少し話を。」
静かな呼びかけに、息子は姿勢を正して隣の椅子に座る。
炎の光がアルタイルの頬を照らし、
その輪郭に少年から青年への変化を感じさせた。
「勉学は進んでます?」
父の問いかけに、アルタイルは真っ直ぐな目で頷いた。
「はい。主席を落とさないようにしています。」
その言葉を聞いた瞬間、
レギュラスの胸の奥に、ふっと温かいものが広がった。
誇らしかった。
あの幼かった少年が、
ここまで真っ直ぐに育ってくれたことが、
血のつながりなど超えて、
何よりの証のように思えた。
息子は確かに、自分の背を見て育った。
その事実が、静かな誇りとなって心に染みていく。
「先日、リディアの婚約が決まりました。」
レギュラスがワインを傾けながら言うと、
アルタイルの瞳が柔らかく光を宿した。
「はい。ノット家のご子息だと。」
「そうです。その件で、あなたの母さんと……少し言い合いましてね。」
レギュラスは苦笑し、
グラスの中の赤い液体をくるりと回す。
炎がその表面でゆらりと踊った。
「歳の差が少しあるようですからね。」
アルタイルは穏やかに続けた。
「母さんの言うことも分かりますし。
でもリディアの明るさなら、そんなこと気にせず上手くやっていける気がします。」
その答えに、レギュラスは思わず笑みをこぼした。
自分が求めていた言葉を、
まるで見透かしていたかのように差し出してくる。
「……まったく、わかってますね。」
息子は微笑み、肩をすくめる。
その仕草がどこかアランに似ていた。
「今も、微妙にその時の空気を引きずってますからね。」
レギュラスはまいったというように片手を上げてみせた。
「だから、母さんと会話が少し少なかったんですね。」
アルタイルは冗談めかして言い、
二人の間に小さな笑いが生まれる。
炎のぱちりと弾ける音が、
その穏やかな沈黙を包み込んだ。
この息子は、
どれほど繊細に人の感情を読み取ることができるのだろう。
レギュラスは思った。
幼い頃からよく人を観察していた。
父と母の微かな空気の変化さえも感じ取って、
静かに立ち回る。
それはまさに、彼がブラック家の血を引いていなくとも、
立派に“ブラック”として育っている証だった。
「本来なら、長男のあなたから婚姻を決めるべきだったんですが。」
レギュラスの声は、どこか試すような響きを帯びた。
「僕は特に希望はありません。」
アルタイルは静かに言った。
「父さんが決めてください。」
「希望、ないんです?」
思わず問い返すと、
アルタイルは少しだけ口元を緩めた。
「ええ。しいて言えば――母さんくらいの美人さんがいいですね。」
その言葉に、レギュラスは吹き出しそうになった。
喉の奥で笑いが漏れ、
ついにはグラスを置いて肩を震わせる。
「それは……難題ですね。」
久しく忘れていた、心からの笑いだった。
アルタイルもつられて笑う。
暖炉の炎がゆらめき、
父と子の間に柔らかな灯がともったようだった。
――あんなに小さかった子が、
今ではこうして自分と肩を並べ、
杯を交わせるほどになった。
レギュラスはふと、
グラスの中の深紅を見つめながら思う。
血は繋がらずとも、
確かにこの青年の中に自分の形がある。
それで十分だった。
炎の音だけが響く静寂の中で、
レギュラスの心はひさしぶりに穏やかに満たされていた。
午後の光がやわらかく台所を照らしていた。
磨かれた大理石のカウンターの上に、
ガラスのティーポットが静かに湯気を立てている。
紅茶の葉がゆらゆらと浮かび、
花が開くように色を滲ませていく。
アランは手元の細い匙で、
湯の中をゆっくりと回していた。
その手元に影が差す。
「母さん、手伝いますよ。」
アルタイルだった。
少し背が伸びて、
もうどこから見ても“少年”とは呼べない面差し。
けれどその声は、あの幼い頃と変わらず穏やかで優しい。
「ありがとう、アルタイル。」
アランは微笑み、
彼に茶葉を蒸らす手順を教えるように
ポットを少し傾けて見せた。
アルタイルの手が彼女の手元に重なり、
柔らかな蒸気が二人の指先を包み込む。
「父さんと、リディアの婚約の件で口論されたそうですね。」
ふいに息子がそう言った。
アランは手を止め、
驚いたようにその顔を見上げる。
何を言いに来たのか――
まさか、そんな話をここでされるとは思ってもいなかった。
「もう……過ぎたことです。」
小さく答える。
声の端が微かに震えていた。
けれど、アルタイルは優しい眼差しのまま続ける。
「父さん、母さんと仲直りしたいみたいですよ。」
アランは一瞬、
何を聞かされたのか分からなかった。
「……仲直り?」
「はい。さっきそう言ってました。
母さんが冷たくて寂しいって。」
その言葉に、アランは思わず吹き出しそうになった。
口元を押さえて笑いを堪える。
まさか――あのレギュラスが。
あの、どんな状況でも冷静で、
決して自分の感情を言葉にしない男が。
息子にそんな愚痴をこぼしていたなんて。
「本当に、言ってたの?」
「本当に。
“もう少し優しくしてくれないかな”って。」
アルタイルが真顔で答えるから、
その可笑しさに拍車がかかる。
アランは小さく肩を震わせながら、
ポットの蓋を閉めた。
「まったく……あの人がね。」
その笑みの奥に、
少しだけ切なさが混じっていた。
ワインを片手に、
まるで何事もなかったかのように
涼しい顔で食卓に座っている姿しか思い浮かばない。
それが、息子の前では
そんな弱音を吐いていたというのだから――
どこまでも不器用な人だと思った。
「母さん、笑った。」
アルタイルが嬉しそうに言った。
その表情があまりに純粋で、
アランの胸がじんわりと熱くなる。
――この子は、
本来まだ自分のことで精一杯でいい年頃なのに。
父と母の間に横たわる見えない溝を感じ取って、
それを埋めようとしてくれている。
思春期の少年が、
自分の居場所を作るよりも先に、
家族の形を守ろうとしてくれているのだ。
アランは、そっと彼の頬に手を添えた。
「ありがとう、アルタイル。」
「何がです?」
「あなたのその気持ちが……嬉しいの。」
紅茶の香りが、
静かな午後の空気にふわりと広がった。
カップに注がれた琥珀色の液体が、
光を受けてきらめく。
アランはゆっくりとカップを差し出し、
「あなたの分も」と言って微笑んだ。
親子の間を流れる沈黙は、
どこまでもやさしく、あたたかかった。
この屋敷の中に、
久しぶりに“穏やかな時間”が満ちていた。
夜は深く、屋敷の中は静まり返っていた。
書斎の窓辺にかかる薄いカーテンが、
夜風にかすかに揺れている。
机の上では、羽ペンがインク壺の中で休んでいた。
長い時間を共にしてきたペン先には、
書きかけの文書の跡がまだ新しく残っている。
そんな静寂の中で、コン、コンと控えめなノックの音が響いた。
レギュラスはペンを置き、顔を上げる。
「どうぞ。」
扉が静かに開く。
そこに立っていたのはアランだった。
手には銀のトレイ。
その上に置かれたティーポットからは、
淡い湯気がゆらゆらと立ち上っている。
「紅茶をお持ちしました。……ワインではないですが、どうです?」
レギュラスは少しだけ表情を緩めた。
「いただきます。」
アランがソファテーブルにティーセットを置く。
紅茶がカップに注がれる音が、
夜の静けさを優しく満たしていく。
書斎でアランとこうして向き合うのは、
いつぶりだろうか。
仕事の報告や子どもたちの話を除けば、
本当に“夫婦として”言葉を交わす時間など、
もうどれほど失われていたか分からない。
レギュラスは羽ペンを片付け、
ゆっくりとソファに腰を下ろした。
「久しぶりに飲みました。美味しいですね。」
口に含んだ瞬間、
柔らかな茶葉の香りが広がり、
ほんのりとした甘味が喉を潤す。
「あなた、あまり紅茶を飲まないじゃないですか。」
アランの声は、どこか懐かしげだった。
「飲まないからこそ、たまに飲むといいものですよ。」
二人の間に、柔らかな沈黙が落ちた。
蝋燭の炎がかすかに揺れ、
机の上の書類の影を長く伸ばしている。
――久しぶりに、普通の会話をしている。
そう思うと、胸の奥がわずかに温かくなった。
きっと、アルタイルが間に入ったのだろう。
息子らしい気遣いだ。
レギュラスがアランに何を言えばよいか迷っていたように、
アランもまた、どう歩み寄ればいいのか分からなかったに違いない。
それでもこうして紅茶を運んで来てくれた。
その事実だけで十分だった。
「アルタイルは……婚約者を“顔で選びたい”そうですよ。」
レギュラスは少し大げさに言ってみせた。
息子との会話を軽く茶化すように。
アランは思わず吹き出した。
「まあ。見た目で選ぶと、ろくなことがありませんのに。」
「あなたを母に持つ子ですから、仕方ないかもしれませんね。」
レギュラスは微笑みながら紅茶を口に運んだ。
茶葉の香りとともに、胸の奥にかすかな苦味が滲む。
――見た目で選ぶ。
それは確かに、かつての自分がしたことだった。
使用人としてこの屋敷にやって来た少女。
何の身分も持たず、どこか影を帯びた翡翠の瞳。
ただ一度、その瞳を見た瞬間に心を奪われた。
あれが“恋”というものの始まりだったのだろう。
だが今思えば、それは一目惚れという言葉では足りない。
あの瞬間から、彼女は自分の全てになった。
命も、信念も、誇りさえも差し出せるほどに――。
闇の帝王に誓いを立てたあの日も、
守りたかったのは“アランただ一人”だった。
紅茶の香りが、
心の奥で眠っていた記憶をやわらかく呼び覚ます。
息子の未来を思う。
アルタイルがどんな恋をするのか、
どんな女性を選ぶのか――。
それを制する気はなかった。
ただ、見た目で恋に落ちるということが、
どれほどの覚悟と痛みを伴うものかだけは、
伝えてやりたかった。
「……見た目で入る恋は、長く続くものです。」
レギュラスがふと呟く。
「そうでしょうか。」
アランが小首を傾げる。
「ええ。終わりがなくて、消耗し尽くすほどに。」
一瞬、アランの瞳が翡翠色に揺れた。
それ以上、互いに何も言わなかった。
窓の外で風が吹き、
紅茶の香りがふわりと漂う。
二人の間に流れる沈黙は、
まるで壊れやすい硝子のように静かで、
けれどどこか、やさしい温もりを含んでいた。
その夜、書斎の灯はいつもより少しだけ長く灯り続けた。
レギュラス・ブラックは、今やほとんど寝る間も惜しんでいた。
彼が追っているのは、闇の帝王が造り出したホークラックス――
死を分け合うための、魂の断片。
その存在を暴くことは、
すなわち闇の帝王の「死」に触れるということだった。
彼は夜ごとに姿を消した。
古代魔法の痕跡を辿るように、
闇の帝王がかつて足跡を残した廃墟や屋敷、
焼け落ちた礼拝堂、魔力の溜まりやすい湖畔を巡っていた。
禁じられた魔法の巻物を読み、
古の呪文を唱え、
黒い霧のように漂う“残響”を感知するために
精神をすり減らすような儀式を幾度となく繰り返した。
闇の帝王の魔力は生き物のように動く。
一箇所を追っても、掴みきれない。
たとえ微細な残留魔力を見つけても、
触れた瞬間に燃え尽きるほどの激しさで
自らを焼き切って消えていく。
彼は今や、魔法の羅針盤と呼ばれる
古代の儀具を携えていた。
真鍮の針の中央に黒い宝石が嵌め込まれており、
魂の波動に反応すると鈍く光を放つ。
その針が、夜風の中でかすかに揺れる。
けれど――今夜も成果は、なかった。
湖畔の霧の中、彼は膝をついた。
息が白く散り、
指先の震えが止まらなかった。
どれだけ探っても、
あといくつ存在するのか、
どこに潜んでいるのかが分からない。
闇の帝王の死を見届けるための唯一の手段を、
自分は未だ掴めていない。
己の無力が骨の芯まで染みていく。
――そして、夜明け前。
屋敷の扉を開けた時、
静まり返った廊下の空気が
冷たく頬を撫でた。
その瞬間、張り詰めていた意識が途切れた。
寝室に入ると同時に、
レギュラスの膝が崩れ落ちる。
肩が震え、
吐息が乱れる。
「レギュラス……!」
寝台から飛び起きたアランが駆け寄る。
長い夜を過ごした彼女の寝衣が、
闇の中でほのかに揺れた。
「何があったのです?」
答える余力もなく、
レギュラスはただアランの胸元に額を預けた。
そのまま、
重力に抗うように息を吐きながら――
深い眠りに落ちていく。
アランは彼の背中をそっと抱きしめ、
ただその体温を感じていた。
この人はいったい、どこまで自分を削っているのだろう。
何を追って、何を抱えているのだろう。
問いかけたい気持ちを、
今夜だけは押し殺した。
――翌朝。
窓から差し込む淡い光が、
寝室を満たしていた。
アランは寝台の傍らで、
静かに紅茶を淹れていた。
カップから立ちのぼる香りが、
まだ重たげな空気をやわらげる。
「……昨晩、何があったのです?」
彼女の声は静かだったが、
奥底に張り詰めた糸のような緊張があった。
レギュラスはゆっくりと起き上がり、
枕元に置かれた時計に目をやる。
「大したことではありません。」
そう短く答え、
視線を合わせようとはしなかった。
アランはカップを置き、
彼をじっと見つめる。
「あとどれほど、私はあなたの“秘密”に直面しなければならないのです?」
一瞬、空気が凍った。
レギュラスはわずかに眉を動かし、
何気ない調子で返す。
「……何のことでしょう?」
沈黙が落ちる。
だがその沈黙こそ、
答えそのもののようだった。
――かまをかけられている。
彼はそう直感した。
けれど胸の奥がざわめく。
アランは、何を知っているのか?
ホークラックスのことか?
それとも、彼女を守るために行ったあの取引か?
まさか、新たなホークラックスを探っていることまでも……?
考えれば考えるほど、
思考が絡まり、呼吸が浅くなる。
そして――アランの口から
思いもよらぬ名が落ちた。
「……エリナ・ウェルズには話しているのです?」
レギュラスの心臓が跳ねた。
――なぜ、ここでその名が出てくる?
瞬間、あの夜の記憶が脳裏を過った。
ワインを二本空け、
理性が霧散していったあの夜。
気づけば、エリナを抱いていた。
その行為に意味はなかった。
だが、事実として刻まれてしまった。
まさか――そのことまで知っているのか?
冷や汗が首筋を伝う。
頭の中であらゆる可能性が回転する。
魔力の探知をしたのか、
誰かに見られたのか、
それともエリナ自身が――。
沈黙を破るように、アランがため息をついた。
その音が、静かな刃のように心に突き刺さる。
レギュラスは視線を落としたまま、
何も言い返せなかった。
その沈黙こそが、
彼がいくつもの秘密を抱え、
もはや“真実”という名の光から
遠ざかり続けている証だった。
アランの瞳に浮かぶ翡翠の色が、
わずかに揺れていた。
まるで――愛と絶望の境目で、
最後の火を保とうとしているように。
それは――緩やかに迫り来るような絶望だった。
最初から疑っていたわけではない。
けれど、気づけば“何か”が、
静かに自分たちの間に亀裂を生み出していた。
アランはそれを感じていた。
レギュラスの沈黙、曖昧な笑み、
いつの間にか増えていく外出、
そして夜更けに戻るその背の疲弊。
口を開けば「大したことではない」とだけ言う。
その一言で、すべての扉を閉ざすように。
――何かを追っている。
その確信だけはあった。
けれど、それが何なのか。
何を追い求め、何を犠牲にしているのか。
アランにはわからなかった。
問いただしても、レギュラスはいつも逃げるように視線を逸らす。
まるで、その瞳の奥に映るものを見せたら
全てが壊れてしまうとでも言うように。
そして、限界が訪れた。
このままでは、
彼の抱える“闇”が自分の心まで蝕んでしまう。
だから――アランは、ついに告げてしまった。
「……エリナ・ウェルズの件を知っています。」
その名を口にした瞬間、
レギュラスの顔に一瞬で“生”が走った。
冷静沈着だった灰色の瞳が、
まるで地中深くで眠る蛇に触れたかのように、
揺れた。
そのわずかな揺れだけで十分だった。
アランはもう、確信していた。
隠していた。
それも、心の奥深くに押し込めるように。
だからこそ――今、この沈黙が何よりの答えだった。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
氷の刃で内側を裂かれたような痛みだった。
「待ってください、アラン……どこまで知ってるんです。」
その言葉を聞いた瞬間、
アランは微笑すら浮かべそうになった。
“どこまで”。
それ自体がもう、真実の証だった。
彼は否定しなかった。
ただ、どこまで知られているのかを問うた。
――つまり、事実なのだ。
掴まれた腕を、思わず振りほどきそうになる。
レギュラスの指は熱を帯びていた。
懇願の熱。焦燥の熱。
けれどアランにとっては、
その熱こそが“裏切り”の証にしか感じられなかった。
「待ってください。説明を……説明をさせてください。」
「不要です。」
冷たい声だった。
それでもその中に、震えるほどの悲しみが混ざっていた。
――どうせ、言い訳をするのだろう。
間違いだったと。
酔っていたと。
心の隙間だったと。
そうした言葉は、
今のアランにはもう何の意味も持たなかった。
「すみません、アラン……でも誤解しないで欲しいんです。」
その必死な声音が、
かえって彼女の胸を締めつける。
「どうぞ……理解者のところに行ってください。」
アランの翡翠の瞳が、
静かに涙を孕んで光る。
レギュラスはその場で息を詰まらせた。
腕を伸ばしても、
その距離をもう埋められない。
「アラン、お願いです……」
その声が震えた。
いつもどんな場でも揺らぐことのなかった男の声が。
だが、もう遅かった。
アランの中で何かが崩れていた。
シリウスを想い続けた年月――
確かに長かった。
けれど、レギュラスを受け入れると決めた時、
それは彼女の人生の中で最も勇気のいる選択だった。
過去の恋を封じ、
新しい愛を築こうとした。
それが、どれほどの決意だったか。
それを――裏切られた。
胸の奥から、冷たい涙が溢れるように流れ出す。
あの日、シリウスに差し出された手を取れなかった自分。
そして今、レギュラスの差し出す手も取れない自分。
人生とは、
こんなにも残酷に同じ痛みを繰り返すものなのか。
かつて、シリウスを想っていた頃――
レギュラスの嫉妬と怒りに晒されることが
恐ろしくて仕方がなかった。
けれど今になってようやく分かる。
あの怒りの奥には、
こんなにも切実で壊れそうな愛があったのだと。
――そして、今の自分も同じ。
善意も、決意も、
愛も、誠意も、
すべてを踏み躙られた気分だった。
それでも、まだ――
彼を憎みきれない自分がいる。
そのことが、
いちばんの地獄だった。
焦燥が、喉の奥で鉄の味を立てていた。
胸の奥が、今にも爆ぜそうだった。
――もう、すべて知られている。
そう悟った瞬間、レギュラスの世界が静かに崩れていった。
一生、誰にも言うまいと決めていた。
墓の底まで抱えていくはずだった真実。
それを、アランの瞳がすでに見抜いている。
彼女の沈黙は、何より雄弁だった。
掴んだ腕が振り解かれそうになる。
それだけで心臓が裂けるほど苦しい。
「アラン……全部話します。
闇の帝王の――ホークラックスのことも。」
その名を口にした瞬間、
部屋の空気が一変した。
まるで誰かが見えない手で窓を閉め、
外界と切り離したように、
静寂が押し寄せた。
「……ホークラックス?」
アランの声は、息を呑むように震えていた。
翡翠の瞳がわずかに揺れる。
「全部話します。だから……お願いです。
誤解はしないでください。」
レギュラスの声が掠れた。
懇願だった。
懺悔にも似ていた。
巻き込みたくなどなかった。
この世界に生きる誰よりも、
彼女だけは――清らかな場所にいてほしかった。
だから、何も言わなかった。
知らなくていいと思っていた。
安全な場所で待っていてくれるだけでよかった。
けれど、いま。
たった一度の過ちを覆すために、
彼はその“禁忌”をさらけ出そうとしていた。
自分の弱さが情けなかった。
守るために築いた沈黙が、
結局は彼女を遠ざけただけだった。
レギュラスは、
震える指で髪をかき上げ、
言葉を紡ぎ始めた。
――すべてを。
闇の帝王の魂が分割され、
不死を保つために作られた“容れ物”の存在を。
それが、いかなる物体に宿っているのか。
そして自分が、そのいくつかを“保護”していることを。
あの日、
アランが拷問を受けていたこと。
ダンブルドアに情報を漏らしたことで
裏切り者として裁かれようとしていた彼女を、
死の縁から救い出すために――
自分が、闇の帝王に取引を申し出たことを。
「あなたを……救うためでした。」
声が、掠れていた。
それでも途切れさせなかった。
「あなたを差し出す代わりに、
僕は“彼の魂”の守護を引き受けました。
それが……僕の取引だった。」
アランの唇がかすかに開く。
震えが伝わる。
「闇の帝王の不死は、
いくつもの“魂の欠片”によって保たれている。
僕が隠しているものは、そのうちの一部です。
けれど、彼は……まだ他にも造っている。
どこに、どれだけ存在するのか。
僕にも、分からない。」
静寂の中で、
アランの息が詰まる音がした。
彼女の瞳に、涙が溜まっていく。
光を映した翡翠の粒が、
頬を伝い、音もなく落ちた。
レギュラスは、
その涙が床に落ちる瞬間を
見ていられなかった。
「……背負わせたいと思ったわけじゃないんです。」
彼は膝をつくようにして、
アランの視線の高さに合わせた。
「だから、言わなかった。
あなたの中に、この闇を宿してほしくなかった。
僕が……汚れていくことで守れるなら、
それでよかった。」
アランは唇を噛んだ。
嗚咽がこみ上げる。
息がうまくできなかった。
この男が、どれほどのものを犠牲にしてきたのか。
いま、その全てが理解できてしまった。
「……そんなことをしてまで……」
「あなたが生きているなら、それでよかった。」
言葉が重なり、沈黙が落ちた。
蝋燭の炎が、淡く揺れる。
レギュラスの横顔を照らし出す光が、
静かに震えていた。
「人の魂に触れるということは、
神の領域に踏み込むことだと分かっていました。
それでも――あなたを救えるなら、
僕は……神への冒涜さえ恐れなかった。」
アランは両手で顔を覆った。
嗚咽が溢れる。
その姿を見つめながら、
レギュラスはただ静かに膝を折った。
彼の指が、
そっとアランの足元に触れる。
「愚かだと思っても構いません。
でも……僕にとって、あなたはすべてなんです。」
アランの涙が、彼の頬に落ちた。
それは赦しでもなく、拒絶でもなかった。
――ただ、あまりにも深すぎる愛と、痛みの証だった。
その夜、
屋敷の中では一切の音が途絶えていた。
ただ、二人の呼吸と、
消え入りそうな蝋燭の炎だけが、
長い長い夜の闇を照らしていた。
夜の帳が、静かに魔法省の外壁を包み込んでいた。
蝋燭の灯りが、石造りの部屋の壁を淡く照らす。
その中心で、ジェームズ・ポッターは報告書を握り締めていた。
羊皮紙をめくる指先が、かすかに震える。
――“レギュラス・ブラックは夜通し活動しており、
屋敷に戻るのは深夜になることが多い”
エリナ・ウェルズの報告書の冒頭。
ただの観察記録に見えた。
しかし、その次に綴られた一文が、
一瞬で室内の空気を凍りつかせた。
“――ホークラックスという単語が、夫婦の寝室から漏れた”
ジェームズは目を細めた。
眉間に皺を寄せ、息を呑む。
「……やはり、か。」
その声は、ほとんど囁きのようだった。
背後でリーマスが腕を組む。
蝋燭の光が彼の横顔に落ち、
疲労と緊張の影を際立たせている。
「つまり……レギュラス・ブラックは、今もホークラックスを守っている。」
リーマスの言葉に、ジェームズは無言で頷いた。
ホークラックス――ヴォルデモートの魂を分けた、不死の核。
それを破壊しない限り、
闇の帝王は決して死なない。
「だが、あいつが立ちはだかっている限り、
破壊どころか発見も容易じゃない。」
ジェームズは唇を噛みしめ、報告書を机に叩きつけた。
紙が乾いた音を立てる。
エリナの報告には、
レギュラスの行動記録が細かく記されていた。
彼はまるで、何かを“追っている”。
それが闇の帝王の命令によるものなのか、
あるいは――別の意図があるのか。
「……なあ、ジェームズ。」
リーマスがゆっくりと声を落とす。
「もしかしたら、レギュラス・ブラックの把握しているホークラックス以外にも、
ヴォルデモートはホークラックスを作ってるんじゃないのか?」
一瞬、静寂が落ちた。
ジェームズは目を見開く。
「……なんだって?」
「考えてみろ。彼が守っているホークラックスは一部に過ぎない。
もし、ヴォルデモートが彼の知らぬ場所に、
新しい魂の欠片を宿したとしたら……」
その声は、落ち着いているようで震えていた。
恐ろしい仮説だった。
レギュラスですら知らない“もう一つの魂”。
それは、闇の帝王が死を欺くためのさらなる鍵。
「……いったい、いくつ作っているっていうんだ。」
ジェームズは低く呟く。
喉の奥で、乾いた息が擦れた。
ヴォルデモートの狂気は理解していたつもりだった。
だが、その想像を超えていた。
魂をいくつもに裂く――それは神への挑戦に他ならない。
「人の魂は一つだ。それを切り裂けば……もう“人”じゃない。」
リーマスの声には、哀れみすら滲んでいた。
「それでも奴はやる。恐怖と支配のためなら、
魂ごと踏みにじる。」
「じゃあ、レギュラスは……
そんな化け物の残した“魂の残骸”を、
夜な夜な探しているっていうのか。」
ジェームズが顔を上げると、
隣で黙っていたシリウスが、
低く息を吐いた。
「何のために、だ……?」
彼の声は掠れていた。
長い間、兄の名を口にすることすら避けてきた男の声。
「ヴォルデモートの忠実なしもべのはずだ。
それが、なぜホークラックスを探す。
忠誠の証を磨くためか?
それとも――」
シリウスの瞳に、一瞬、苦い光が宿った。
「……裏切るつもりなのか。」
リーマスが小さく息を呑む。
ジェームズが顔をしかめる。
「裏切り? あのレギュラス・ブラックが?
そんなこと、あるわけない。」
シリウスの声が、鋭く響いた。
「奴は生まれながらの“闇側”だ。
親父と同じ血を引いてる。
俺が家を飛び出したあの瞬間から、
奴は“あちら側”の人間だった。」
その言葉には、
過去の憎悪と痛みが滲んでいた。
けれど、どこかに“兄”を想う複雑な温度もあった。
リーマスが静かに首を振る。
「……それでも、もし仮に彼が探しているのが、
ヴォルデモート自身の“死”の在り処だったとしたら?」
ジェームズは息を呑んだ。
想像の域を超えた推測だった。
けれど、全くの絵空事とも言えなかった。
「ホークラックスを探す者が、
必ずしも“守る”ためとは限らない。」
リーマスの声が落ちる。
ジェームズは椅子にもたれ、
長く息を吐き出した。
――何が正義で、何が悪か。
もはやその境界は霞んでいく。
レギュラス・ブラック。
あの男は闇に生きながら、
その闇の奥底で、何を見ているのか。
闇を壊すために、闇を選ぶ者。
その存在が本当にあるのなら――
きっと世界は、もう誰にも裁けない。
蝋燭が最後の火を吐き、
音もなく消えた。
暗闇の中、三人の視線だけが、
同じ一点――“レギュラス・ブラック”という名に釘付けになっていた。
