4章
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アラン・ブラックが、ハリーを抱きしめていた。
試合後のグラウンド。歓声の余韻がまだ風に漂う中で、
翡翠の瞳を柔らかく細め、少年を包み込むその姿は、
母のようであり、癒し手のようでもあった。
その光景を少し離れた場所から見ていたジェームズ・ポッターは、
胸の奥がざらつくような感覚を覚えていた。
ハリーはきっと、純粋な気持ちで彼女を慕っているのだろう。
命の恩人として。
そして、共に戦う仲間であるアルタイル・ブラックの母として。
だが――ジェームズには、それだけでは済まされなかった。
ハリーは知らない。
シリウス・ブラックが、どれほどの年月をかけて
この女の名を心に刻み続けたかを。
どれほどの夜を、アランの幻影を抱いて過ごしてきたかを。
ジェームズはそのすべてを、隣で見てきた。
アラン・セシール。
あの頃、シリウスが世界でただ一人愛した女。
そして、その女が選んだのは――兄のレギュラス・ブラックだった。
残酷だった。
その選択を下した瞬間から、
親友の笑顔は確かに崩れ落ちた。
それでも彼は、愚直なほどに彼女を思い続けた。
どんな女を紹介しても、どんな温もりを差し出しても、
その瞳に映るのはいつも彼女だけだった。
ジェームズは拳を握りしめる。
――アランという女さえいなければ。
そう思わずにはいられないのだ。
親友の人生は、もっと穏やかで幸福なものになれたはずだと。
夕暮れの校庭。
アランとレギュラスがゆっくりと歩いている。
石畳の上に二人の影が寄り添い、長く伸びていた。
その背に、低く響く声が届く。
「アラン!」
呼び止めたのは、シリウス・ブラックだった。
彼の声は、怒号でも嘆きでもなかった。
けれど、その一言に込められた年月の重さが
周囲の空気を震わせた。
アランが振り返るよりも早く、
レギュラスが足を止めた。
その灰色の瞳が鋭く光り、
冷たい刃のような視線がシリウスを射抜く。
思わず、シリウスの手がローブの内で杖を握る。
兄弟であることを忘れたような、
殺気にも似た緊張が一瞬にして張り詰めた。
「アルタイルは……立派だった。」
ようやく絞り出すように言ったシリウスの声は、
どこか掠れていた。
アランはほんの一瞬、瞳を揺らした。
翡翠の光が夕陽を受けて淡く煌めく。
その美しさに、シリウスは痛みを覚える。
彼女は、今もなお変わらない。
年月を経てもなお、人を惹きつけてやまない女。
「ええ……ありがとう。」
アランの声は柔らかく、しかし少し震えていた。
シリウスは何かを言い足そうとして、
うまく言葉を探せなかった。
「その……なんだ……すげぇいい箒の腕だ。」
どこか照れ隠しのような言い回し。
それをアランは、静かに受け止めた。
「スリザリンのシーカーを務める父から教えられたのだから当然だわ。」
微笑むアランの声は穏やかだった。
その「父」がレギュラスのことを指しているのか――
それとも、別の意味を含んでいるのか。
彼女の言葉は、まるで刃のように
ゆっくりとシリウスの胸を切り裂いた。
分かっている。
アルタイルは自分の子だ。
もう、それは隠しようのない事実だ。
けれど彼女は今、その事実を知ったうえで、
「父」と呼ぶ権利をレギュラスに与えている。
それが、彼女の選んだ答えだった。
アランはジェームズに軽く礼をして、
レギュラスの隣へと戻っていく。
そっとその腕に手を添え、
何事もなかったように微笑んだ。
その姿はあまりにも完璧で、
そして――痛々しいほどに美しかった。
シリウスは立ち尽くしていた。
言葉が出なかった。
胸の奥が、きしむように痛い。
夕陽の光が翳り、彼女の背中が遠ざかっていく。
ジェームズは横に立ち、
沈黙のまま親友の肩に手を置いた。
その指先に、シリウスの震えが伝わる。
――彼女は、もう二度と戻らない。
それでも、彼女の中で生きる“息子”だけが、
二人を永遠に繋ぎ止めている。
空を見上げれば、
アルタイルが飛んでいた軌跡が、まだ霞のように残っていた。
それはまるで、消えない呪いのように、
三人の心に静かに刻まれていた。
あの瞬間が、頭から離れなかった。
シリウス・ブラックがアランを見る目――
あれは兄弟として向ける眼差しではない。
まるで長い旅の果てに、ようやく水を見つけたような、
渇きに満ちた者の目だった。
その視線の熱を、レギュラスは正面から浴びてしまった。
脳裏に焼きついて離れない。
アルタイルの名を呼ぶ声。
「立派だった」と、まるで父親のように語るその響き。
そのひとつひとつが癪に障った。
――父親面をするな。
喉元で、呪いのように何度も反芻した。
アルタイルを育てたのは自分だ。
シリウスの血を引くその少年を、
何一つ欠けることなく愛情で包み、
守り抜いてきたのはこの自分だ。
だというのに、あの男の声が、
たった一言で息子の中に父の影を蘇らせる。
それが、どうしようもなく耐え難かった。
対して、アランの受け答えは完璧だった。
まるで台本を読んでいるかのように整っていた。
どこにも綻びがなく、感情を悟らせる隙もなかった。
だが、それがかえって胸を締めつけた。
――それは、自分が隣にいたからだ。
そう思った瞬間、胸の奥がざわついた。
もしシリウスと二人きりで言葉を交わしていたなら、
あの女はあんなふうに冷静ではいられなかったはずだ。
きっと、離れた日々を埋めるように語り合うだろう。
笑い、懐かしみ、あの頃に戻るだろう。
アランの完璧すぎる振る舞いが、
かえって芝居じみて見えた。
そうして、芝居が真実を覆い隠すほど、
レギュラスの苛立ちは募っていった。
屋敷に戻ると、いつもより食卓が静かだった。
夜気が窓の隙間から忍び込み、
銀の燭台の炎をわずかに揺らしている。
「今日はアルタイルの晴れ舞台を記念して、
ワインを開けてはどうです?」
アランが持ってきたのは、アルタイルの生まれ年のワインだった。
淡い笑みを浮かべ、赤い液体を二人のグラスに注ぐ。
透明な音が、静寂に響いた。
「そうですね。」
レギュラスは短く応え、グラスを掲げた。
杯を合わせる音が、やけに乾いていた。
口に含んだワインの香りは深く、熟成されている。
だがその芳香の裏に、
どうしても飲み下せない何かが喉に引っかかる。
心の奥で、黒いものがゆっくりと沈んでいく。
「アルタイルが戻ってきたら、
クィディッチ用品を買い与えてあげてください。」
アランの声は穏やかだった。
「ええ、そうしましょう。」
答えながら、レギュラスの指先が震えた。
その瞬間――ふいに脳裏に蘇る。
シリウスがアランを見ていたあの目。
呼び止める声、立ち止まる姿。
アランが振り返る、その一瞬の光景。
笑いが漏れた。
無意識だった。
けれど、その笑いはあまりにも冷たかった。
「……どうなさったのです?」
アランが小首を傾げる。
「今でも、シリウス・ブラックを愛しているんです?」
その言葉が、
空気を真っ二つに裂いた。
アランの手が止まる。
翡翠の瞳がわずかに揺れ、
息を飲んだまま何も言えなかった。
多分、言うべきではなかった。
彼女がこの数日、
どれほど気を配り、歩み寄ろうとしていたかを
レギュラスは知っている。
それでも、抑えられなかった。
リディアの婚約の件から、
微妙な歪みが生まれたまま、
修復できぬままに時間が過ぎていた。
アランの優しさを素直に受け取れない自分。
そんな自分への苛立ちが、
さらに負の連鎖を呼び込んでいた。
「……レギュラス。」
アランの声が震えた。
困り果てたような瞳が、翡翠の光を翳らせる。
「別に、今更隠さなくてもいいでしょう。」
吐き捨てるような声。
「やめましょう。」
アランはグラスを置き、
椅子を軋ませて立ち上がった。
その背を追うようにして、
レギュラスの声が低く響く。
「父と子を引き剥がしたことを詫びたら、
満足ですか?」
アランの肩が強ばる。
「やめてください、レギュラス。」
「あなたが何を望んでいるのか、
僕にはわからない。」
押し殺した声の奥に、
抑えきれない激情が渦巻いていた。
――本当はシリウスとアルタイルを育てたかったのだろう?
その問いが、喉まで出かかって飲み込めなかった。
もし言葉にした瞬間、
すべてが終わってしまう気がした。
アランは振り返らずに部屋を出ていく。
扉が静かに閉まる音が、
永遠の別れのように響いた。
残されたレギュラスのグラスの中で、
赤いワインがゆっくりと波打っていた。
その色は、まるで
焼けた嫉妬が液体に溶け出したかのように、
深く、暗かった。
寝室に入った瞬間、アランの体から力が抜け落ちた。
背中でそっと扉を閉め、そのまま重さに負けるようにしゃがみ込む。
冷たい木の床が背中にひやりと触れ、
まるで今の自分の心を映すように冷ややかだった。
――だめだった。
どれだけ言葉を尽くしても、どれだけ笑みを繕っても、
レギュラスの胸の奥には届かない。
今夜こそは歩み寄ろうと思っていた。
わずかでも「一緒に生きていきたい」という意思が伝われば、それでよかったのに。
シリウスと対面したあの場でも、
心を乱さぬようにと、息を整えていた。
動揺を顔に出すこともなく、
レギュラスを立て、完璧な妻であろうと努めた。
それでも、彼には伝わらない。
深く息を吸っても、胸の奥にわずかな痛みが残ったままだ。
ため息をひとつ吐き出した。
吐くたびに、少しずつ自分の中の何かが削られていくような気がした。
しばらくしても、レギュラスは寝室に現れなかった。
時計の針が何度も音を刻む。
屋敷は静まり返り、夜の帳だけが重く垂れ込めている。
――まだ食堂にいるのかしら。
心配が勝った。
ワインは酔いやすい。
あの人が酒に飲まれることなど考えにくいが、
近ごろは疲労が重なっている。
もし、あのまま椅子で眠ってしまっていたら。
ローブの裾を整え、アランは廊下に出た。
足音を殺しながら、階段をゆっくり降りていく。
月光が吹き抜けの大理石の床を照らし、
その上を渡るたびに淡い影が揺れた。
食堂の扉が半開きになっている。
そこから漏れる蝋燭の光が、薄く廊下を染めていた。
――いた。
テーブルの片側にレギュラスの姿。
彼はまだグラスを手にしていた。
そして、その隣には――エリナ・ウェルズ。
アランの心臓が、ひとつ大きく跳ねた。
反射的に柱の陰へと身を隠す。
扉の隙間から見えるのは、
主人と医務魔女の“報告”というには近すぎる距離。
エリナが何かを小声で告げる。
レギュラスがその言葉に目を伏せ、
穏やかにうなずいた。
その指先が、机の上で微かに彼女の手に触れたように見えた。
声までは届かない。
けれど――距離感だけで、すべてがわかった。
胸の奥が、ぎゅっと軋む。
まるで見えない刃で内側から刺されるような痛み。
それでも、悲鳴は上げなかった。
唇を噛みしめ、静かに呼吸を整える。
――見なかったことにすればいい。
――知らなかったことにすればいい。
そう言い聞かせても、震えが止まらなかった。
二人の姿を背に、アランは踵を返す。
長い廊下を戻るたび、
足音がやけに遠く、他人のもののように感じた。
寝室の扉を閉めた瞬間、
空気が再び静寂に戻った。
けれど、その静寂は決して安らぎではなかった。
ベッドの端に腰を下ろし、
指先でシーツの皺をなぞる。
頭の奥で、レギュラスの低い声が、
幾度も繰り返し響く――
「今でもシリウス・ブラックを愛しているんです?」
あの言葉に込められた嫉妬と痛み。
そして今、胸の奥に渦巻く自分の痛み。
二つの苦しみが、静かに混ざり合い、
この屋敷の夜気に溶けていった。
どちらの痛みがより深いのか――
もう、わからなかった。
深夜の屋敷は、息を潜めたように静まり返っていた。
銀の燭台の炎が、長い影を壁に揺らしている。
その中心に、ひとり――レギュラス・ブラックが座っていた。
テーブルの上には、空になりかけたワインのボトルが二本。
ひとつはすでに倒れ、赤い雫が布の上に滲みを広げている。
まるで、心の奥のどこかが血を流しているようだった。
ほんの少し前まで、ここで彼はアランに向かって
刃のような言葉を投げつけていた。
それがどれほど彼女を傷つけたかなど、分かっている。
それでも、言わずにはいられなかった。
彼女の心を試すように、そして自らの傷をさらにえぐるように。
だが今は――沈黙しか残っていなかった。
ワインを注ぐ音だけが、夜気の中で鈍く響く。
その背中は、いつもの冷静で完璧な男のそれではなかった。
どこか頼りなく、小さく見えた。
「……体に障ります。」
エリナ・ウェルズの声が静かに落ちた。
医務魔女としての忠告。
けれどその声音には、それ以上の感情が滲んでいた。
一種の賭けだった。
完璧すぎる夫婦の間に、今なら自分が入り込めるのではないか――
そんな淡い、そして危うい期待が胸の奥に灯る。
レギュラスがぼそりと呟く。
「息子の生まれ年なんですよ。」
その一言に、エリナの胸がわずかに疼いた。
どこか懐かしむような声。
それを掬い上げるように、静かに答える。
「古すぎることもなく……まさに今が飲み頃かもしれませんね。」
微笑を交わす。
十四年ものの赤。
銘は――〈シャトー・モンテリエ・リゼルヴ 1980〉。
魔法界でも滅多に出回らない逸品だった。
熟成の進んだ果実香の奥に、かすかに焦がしたオーク樽の香りが潜んでいる。
時間の層がそのまま液体に溶け込んだような、深く滑らかな香り。
グラスをわずかに傾けただけで、
ふくよかな香気が空気を満たしていく。
「ワインを嗜まれるんですね。」
「詳しくはありませんが、少しだけ。」
エリナの声はわずかに震えていた。
いつもは表情を変えぬこの男と、
こんなにも自然に会話が続くなんて――
それ自体が奇跡のように思えた。
もしかすると、今夜は酔いがまわっているのかもしれない。
あるいは、長い間抑え込んできた感情が、
わずかに緩んでいるだけなのかもしれない。
「……飲みます?」
一瞬、エリナの心臓が跳ねた。
視線を合わせることもできず、
それでも静かに頷く。
「よろしいですか?」
レギュラスはうなずき、
向かいの席――アランが使っていたグラスに
ゆっくりとワインを注いだ。
赤い液体が螺旋を描きながらグラスの底に広がる。
それはまるで、誰かの記憶を攪拌しているようだった。
「ご子息の未来に。」
エリナは小さく囁き、グラスを掲げた。
二人のグラスが触れ合い、
乾いた音が静寂を破った。
その瞬間、
アランがここにいないことを、
改めて思い知らされた。
香りを吸い込む。
熟れたベリーと黒い森の果実の香り。
時間がつくりあげた甘やかさと、
わずかに混ざる苦味。
まるでこの男そのもののようだった。
レギュラスがため息をつき、
遠くを見つめた。
翳りを帯びた灰色の瞳。
その中に映るのは、
もう失われた日々なのか、
それとも――まだ誰かを想っている影なのか。
エリナはその横顔を見つめた。
硬質なはずの美しさが、
今夜はどこか脆く、儚く見えた。
――今なら、あの瞳の中に私が映るだろうか。
その思いが、心の奥からゆっくりと浮かび上がってくる。
抑えようとしても、
どうしようもなく、胸の奥で熱を帯びていく。
彼女はそっとグラスを傾けた。
ワインの深紅が、蝋燭の光を受けて煌めく。
その色は、今夜だけの秘密のように――
静かに、そして甘く、
二人のあいだに沈んでいった。
よく覚えていない。
ただ――ワインを二本ほど、ほとんど一人で空けたことだけは確かだった。
深紅の液体がグラスの中で波打ち、
その度に過ぎた夜の記憶を曖昧にしていった。
ぼんやりとした意識の中で、
テーブルに頬を預けた。
心の奥に巣くうもの――嫉妬、怒り、後悔、愛。
どれも区別がつかないほど、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。
ただ、何かから逃げたかった。
自分の中の“男”も、“夫”も、“父”も。
――そして、気づいたら朝だった。
重たい瞼を開けた瞬間、
目の前の光景に、思考が凍りついた。
自分の下には、若い医務魔女――エリナ・ウェルズがいた。
柔らかな金の髪が頬に触れている。
白い首筋には、かすかに紅が残っていた。
息が詰まった。
何をどうしたのか、記憶が繋がらない。
ただ、肌の温もりだけが確かな現実として残っていた。
――嘘だろう。
まさか、こんなことを。
酔った勢いで、屋敷の妻を診ている医務魔女を抱くなど――
理性のどこを探しても、そんな愚行を許す自分はいなかったはずなのに。
「……おはようございます、レギュラス様」
静かな声が落ちた。
エリナがゆっくりと身を起こし、
皺になったローブを整える。
その指先は微かに震えている。
「もうじき、奥様がお目覚めになります。
それまでには……お着替えになった方が、よろしいかと。」
その一言が、胸の奥に突き刺さった。
まるで鋭い刃のように。
――アラン。
その名を心の中で呼んだ瞬間、
一気に酔いが覚めた。
頭の芯が冷え切る。
エリナは一礼し、
淡い香りを残して部屋を出ていった。
足音が遠ざかるたびに、現実がじわりと迫ってくる。
椅子に崩れ落ちるように座る。
両手で頭を抱えた。
何をやっているのか、自分は。
あの夜、アランの瞳を翳らせたまま、
どれほど自分が彼女を追い詰めてきたか、分かっているのに。
“あの人”だけは裏切ってはいけなかった。
慌てて立ち上がる。
冷たい石畳の上を裸足のまま、浴室へと向かった。
蛇口をひねると、熱い湯が勢いよく流れ出す。
その湯の中で、指先に残る彼女の体温を、
何度も、何度も洗い流した。
けれど、落ちなかった。
湯気に混じって漂うのは、ワインと香水と、
罪の残り香。
どれだけ洗っても、心の奥にこびりついた。
寝室の扉を開けると、
アランがすでに目を覚ましていた。
翡翠の瞳が、柔らかな朝の光を受けて揺れる。
その姿が、いっそ神聖なもののように見えた。
心臓が跳ねた。
喉の奥がひりつく。
彼女の前に立つ資格が、自分にあるのか。
「……ダイニングで朝を迎えるなんて、体に障ります。」
アランの声は穏やかで、責める色はなかった。
「ええ……ちょっと、背中が痛みます。」
口から出た言葉が、あまりにも嘘くさく響いた。
彼女の視線を避ける。
目を合わせたら、すべてを見透かされてしまいそうで。
レギュラスは寝台の端に腰を下ろし、
シーツを握りしめた。
心臓が、耳の奥で鳴っている。
――気づかれていないか。
――この部屋に、まだ罪の匂いは残っていないか。
思考が空回りする。
息をするたびに胸が締めつけられた。
アランは何も言わなかった。
ただ、静かに彼の背中を見つめていた。
その沈黙が、何よりも恐ろしかった。
その日、レギュラス・ブラックは初めて、
自分が手に入れたすべてを壊してしまうかもしれない――
そう、はっきりと感じていた。
夜はとうに明けていた。
それでも、アランは一睡もできずにいた。
寝台の片側に広がる空白を、
ひたすら見つめていた。
――待っていた。
それだけが、真実だった。
時計の針が音を刻むたび、
その静寂が鋭く胸を刺した。
窓の外に朝靄が広がっても、
レギュラスは戻ってこなかった。
いつもなら、どんなに遅く帰っても、
同じ寝台に身を横たえた。
それが夫婦としての“形”だと、信じていた。
だが今朝は違う。
扉は最後まで開かれなかった。
――もう、それが答えなのだ。
アランは薄く笑った。
笑顔の形をした、痛みの表情。
胸の奥にあった何かが、静かに砕けていく音がした。
衣擦れの音。
扉の向こうで足音が近づく。
やっと帰ってきた。
けれど、嬉しさよりも、恐れの方が先に立った。
扉が開き、
入浴後の余韻を纏ったレギュラスが現れた。
湯気の香りが淡く漂う。
濡れた黒髪が肩にかかり、
その姿はいつも通り整っているのに――
どこか、遠い。
「朝ですが、まだ寝ますか?」
声をかけた自分の声が、
他人のもののように掠れていた。
レギュラスは一瞬だけ視線を向け、
すぐに目を逸らした。
「ええ、少し。」
それだけ。
それだけのやりとりで、
全ての温度が失われた。
アランは、もう返さなかった。
静かに寝台の脇を離れ、
ローブの裾を揺らして寝室を出る。
背中越しに、扉が閉まる音が響く。
その音が、
ひとつの関係の終わりを告げたように感じられた。
朝の光が白く差し込む中、
エリナ・ウェルズがいつものように診察に現れた。
だが、その顔を見た瞬間、
アランの胸の奥に冷たい波が走った。
昨夜のことを、
いや、“あの朝のこと”を、
彼女が知らないはずがない――そう思った。
これまで見ていたはずの、
若く聡明な医務魔女の顔が、
今は別のものに見える。
あの子の報告書の一文一文が、
どんな言葉で、どんな視線で、
レギュラスへと届くのか――想像するだけで吐き気がした。
「お変わりはありませんか?」
いつもと同じ、丁寧な声。
「いいえ、どこも。」
アランの返答は、氷のように冷たく響いた。
言葉の奥に、誰にも知られたくない痛みが沈んでいる。
エリナが微かに眉をひそめ、
何かを言いかけたが、
アランは目を合わせなかった。
診察を終え、エリナが部屋を出ていく。
扉が閉まると同時に、
アランは両手で顔を覆った。
――責めるつもりはない。
そう、何度も心の中で繰り返した。
彼が何を選び、
どんな行動を取ろうとも、
それはレギュラス自身の自由。
それを理解していた。
けれど、理解したところで、
痛みが消えるわけではなかった。
これから先も彼だけを見て、
寄り添い続けようと思っていた。
その決意は、
夜明けと共に静かに砕け散っていた。
翡翠の瞳が、
朝光の中でわずかに濡れていた。
その雫は、決して流れ落ちなかった。
ただ静かに、心の底で――凍りついていった。
薄暗い部屋の中に、紙の擦れる音が響いていた。
暖炉の火は小さく、灰の中に埋もれながらかろうじて灯っている。
リーマス・ルーピンは、その光だけを頼りに報告書の文字を追っていた。
――「エリナ・ウェルズ、レギュラス・ブラックと関係を持つ。」
その一文を読んだ瞬間、
眉間の奥で鈍い痛みが走った。
彼は指先で紙の端を押さえたまま、
長く息を吐く。
灰色の瞳が静かに燃えるように揺れていた。
酒の力――そう記されている。
つまり、計算された偶然。
どこまでも冷徹な女のやり口だった。
彼女は巧妙に動いた。
あの隙のないレギュラス・ブラックを、
わずか一夜の油断で陥落させたのだ。
恐ろしいほどに、完璧な“計画通り”だった。
報告書には、詳細な記録があった。
ワインの銘柄、飲んだ量、
ダイニングでの会話の流れ、
そして、翌朝の状況――。
まるで現場にいたかのような正確さ。
彼女が意図して仕組んだ罠であることが、
一文一文の隙間から滲み出ていた。
リーマスは、紙の上に指先を滑らせた。
冷たく、乾いた感触。
だがその向こうには、
あまりにも熱く濃密な夜が横たわっている。
――狙った通り、だ。
思わず小さく呟いた。
怖いくらいに、計算通り。
まるで女という生き物の底知れなさを見せつけられたようだった。
優しく、聡明で、非力なふりをして。
その実、誰よりもしたたかに人の心を突く。
その狡猾さを、今ほど恐ろしく感じたことはなかった。
リーマスは報告書を閉じた。
手の中で紙が柔らかく音を立てる。
暖炉の炎が揺れ、金色の光が頬を照らした。
椅子の向こうで、ジェームズが同じ報告に目を通している。
その表情に言葉はなかった。
ただ、沈黙だけが二人の間に横たわっていた。
そして――決意が固まる。
この件は、シリウスには伏せる。
どんなに忠実であろうとも、
どんなに真実を重んじる男であろうとも、
これだけは知られてはならない。
アランが選び、愛した男。
その男が、酒の勢いで別の女を抱いた――。
そんな現実を知った時、
あの男の心は再び、粉々に砕けるだろう。
もう一度、同じ痛みを背負わせるわけにはいかなかった。
リーマスは静かにペンを取り、
報告書の末尾に印を押す。
その赤い印は、血のように濃く、
封印のように重かった。
――この調子でいい。
エリナ・ウェルズ。
彼女がこのまま、
レギュラス・ブラックの心の奥に潜り込み、
その弱みを掴み取ってくれれば。
もはや、外から崩せる相手ではない。
純血の名誉、完璧な忠誠、
冷静な頭脳――
全てを備えたあの男を壊すなら、
内部からしか道はない。
その唯一の鍵が、
あの若い医務魔女なのだ。
報告書を炎の中に投げ入れる。
紙が燃える匂いが、部屋に広がる。
赤い火が文字を舐め、黒い灰へと変えていく。
その灰の向こうに、
レギュラスとアラン――
かつて愛し合い、今は沈黙で繋がれた夫婦の影が
ゆらゆらと揺れていた。
リーマスは立ち上がり、
冷えた夜気の中で低く呟いた。
――「あの家を、内部から崩す。」
それが、
騎士団に課せられた最も冷たい使命だった。
ホークラックスを隠した周辺には、すでに新しい関所が築かれていた。
それは表向きには、魔法界とマグル界の境界を守るための“行政的な拠点”として設けられたもの。
だが実際のところは、純粋な防衛線――
ヴォルデモートの魂を護るための、鉄壁の檻だった。
関所の外壁は、魔法障壁とマグルの監視システムが混ざり合っていた。
魔法使いが通れば、マグルのセンサーが反応し、
マグルが通れば、魔法障壁が揺らぐ。
互いの領域を縫い合わせた、矛盾と狂気の防御構造。
それがまるで“誰も通らせないための完全な結界”のように機能していた。
さらにその関所には、マグル生まれの役人たちが配置された。
彼らは純血貴族の意図を何一つ知らされず、
ただ任務に忠実に働いている。
だが、その存在そのものが盾となり、
闇の帝王の秘匿を守る皮肉な歯車となっていた。
その配置が功を奏した。
騎士団は一切近づかなくなった。
彼らがあえてマグル生まれの役人に接触する理由などない。
それどころか、純血主義の象徴であるマルフォイ家とレストレンジ家が
“マグルとの協働”を表明したことで、
一時的に世界は“融和の空気”すら見せ始めていた。
もはや完璧だった。
少なくとも――レギュラス・ブラックが認識しているホークラックスに関しては。
それらの守りは、
魔法と権力と欺瞞の三重結界によって覆われ、
誰も触れることの出来ない“黒の要塞”と化していた。
だが。
レギュラスの心は静まりきらなかった。
闇の帝王が作り出したホークラックスは、
彼の知る限り、まだいくつか存在している。
しかし、その“いくつ”が、いくつなのか――それさえも分からない。
闇の帝王がすべてを話すことは決してない。
ヴォルデモートは決して全てを明かさない。
それが、忠誠の証であるはずの“自分”にさえも。
だからこそ、レギュラスの胸の内に
焦燥が燃えはじめていた。
知らなければならない。
次に“取引”を迫られるその時のために。
あの夜――アランの命を救うために
自らヴォルデモートのホークラックスを見破り、
それを保護する役目を引き受けた。
あの時は、差し出す“対価”があった。
だが、今は何もない。
自分にはもう、
闇の帝王に差し出せるものが何一つない。
その事実が、
知らぬ間に彼を焦らせていった。
いくら探しても、
残りのホークラックスがどこにあるのか分からない。
どんな呪文を使っても、
どんな密偵を放っても、
その痕跡を掴むことは出来なかった。
夜、書斎の机に散らばる古文書と地図を前に、
レギュラスは眉間に皺を刻む。
ランプの火がゆらゆらと揺れ、
その光の下で、彼の手が微かに震えた。
「……一体、あといくつ……?」
呟きが闇に吸い込まれる。
蝋燭の炎が揺れるたびに、
闇の帝王の笑い声が耳の奥で木霊するようだった。
知らぬことこそが、最大の恐怖だ。
そして今、レギュラス・ブラックの中で、
その恐怖は静かに育ち続けていた。
どれだけ完璧な守りを築いたとしても、
その中心に“知られざる闇”が残る限り――
それはいつか、ー
彼自身を喰らう毒へと変わるだろう。
試合後のグラウンド。歓声の余韻がまだ風に漂う中で、
翡翠の瞳を柔らかく細め、少年を包み込むその姿は、
母のようであり、癒し手のようでもあった。
その光景を少し離れた場所から見ていたジェームズ・ポッターは、
胸の奥がざらつくような感覚を覚えていた。
ハリーはきっと、純粋な気持ちで彼女を慕っているのだろう。
命の恩人として。
そして、共に戦う仲間であるアルタイル・ブラックの母として。
だが――ジェームズには、それだけでは済まされなかった。
ハリーは知らない。
シリウス・ブラックが、どれほどの年月をかけて
この女の名を心に刻み続けたかを。
どれほどの夜を、アランの幻影を抱いて過ごしてきたかを。
ジェームズはそのすべてを、隣で見てきた。
アラン・セシール。
あの頃、シリウスが世界でただ一人愛した女。
そして、その女が選んだのは――兄のレギュラス・ブラックだった。
残酷だった。
その選択を下した瞬間から、
親友の笑顔は確かに崩れ落ちた。
それでも彼は、愚直なほどに彼女を思い続けた。
どんな女を紹介しても、どんな温もりを差し出しても、
その瞳に映るのはいつも彼女だけだった。
ジェームズは拳を握りしめる。
――アランという女さえいなければ。
そう思わずにはいられないのだ。
親友の人生は、もっと穏やかで幸福なものになれたはずだと。
夕暮れの校庭。
アランとレギュラスがゆっくりと歩いている。
石畳の上に二人の影が寄り添い、長く伸びていた。
その背に、低く響く声が届く。
「アラン!」
呼び止めたのは、シリウス・ブラックだった。
彼の声は、怒号でも嘆きでもなかった。
けれど、その一言に込められた年月の重さが
周囲の空気を震わせた。
アランが振り返るよりも早く、
レギュラスが足を止めた。
その灰色の瞳が鋭く光り、
冷たい刃のような視線がシリウスを射抜く。
思わず、シリウスの手がローブの内で杖を握る。
兄弟であることを忘れたような、
殺気にも似た緊張が一瞬にして張り詰めた。
「アルタイルは……立派だった。」
ようやく絞り出すように言ったシリウスの声は、
どこか掠れていた。
アランはほんの一瞬、瞳を揺らした。
翡翠の光が夕陽を受けて淡く煌めく。
その美しさに、シリウスは痛みを覚える。
彼女は、今もなお変わらない。
年月を経てもなお、人を惹きつけてやまない女。
「ええ……ありがとう。」
アランの声は柔らかく、しかし少し震えていた。
シリウスは何かを言い足そうとして、
うまく言葉を探せなかった。
「その……なんだ……すげぇいい箒の腕だ。」
どこか照れ隠しのような言い回し。
それをアランは、静かに受け止めた。
「スリザリンのシーカーを務める父から教えられたのだから当然だわ。」
微笑むアランの声は穏やかだった。
その「父」がレギュラスのことを指しているのか――
それとも、別の意味を含んでいるのか。
彼女の言葉は、まるで刃のように
ゆっくりとシリウスの胸を切り裂いた。
分かっている。
アルタイルは自分の子だ。
もう、それは隠しようのない事実だ。
けれど彼女は今、その事実を知ったうえで、
「父」と呼ぶ権利をレギュラスに与えている。
それが、彼女の選んだ答えだった。
アランはジェームズに軽く礼をして、
レギュラスの隣へと戻っていく。
そっとその腕に手を添え、
何事もなかったように微笑んだ。
その姿はあまりにも完璧で、
そして――痛々しいほどに美しかった。
シリウスは立ち尽くしていた。
言葉が出なかった。
胸の奥が、きしむように痛い。
夕陽の光が翳り、彼女の背中が遠ざかっていく。
ジェームズは横に立ち、
沈黙のまま親友の肩に手を置いた。
その指先に、シリウスの震えが伝わる。
――彼女は、もう二度と戻らない。
それでも、彼女の中で生きる“息子”だけが、
二人を永遠に繋ぎ止めている。
空を見上げれば、
アルタイルが飛んでいた軌跡が、まだ霞のように残っていた。
それはまるで、消えない呪いのように、
三人の心に静かに刻まれていた。
あの瞬間が、頭から離れなかった。
シリウス・ブラックがアランを見る目――
あれは兄弟として向ける眼差しではない。
まるで長い旅の果てに、ようやく水を見つけたような、
渇きに満ちた者の目だった。
その視線の熱を、レギュラスは正面から浴びてしまった。
脳裏に焼きついて離れない。
アルタイルの名を呼ぶ声。
「立派だった」と、まるで父親のように語るその響き。
そのひとつひとつが癪に障った。
――父親面をするな。
喉元で、呪いのように何度も反芻した。
アルタイルを育てたのは自分だ。
シリウスの血を引くその少年を、
何一つ欠けることなく愛情で包み、
守り抜いてきたのはこの自分だ。
だというのに、あの男の声が、
たった一言で息子の中に父の影を蘇らせる。
それが、どうしようもなく耐え難かった。
対して、アランの受け答えは完璧だった。
まるで台本を読んでいるかのように整っていた。
どこにも綻びがなく、感情を悟らせる隙もなかった。
だが、それがかえって胸を締めつけた。
――それは、自分が隣にいたからだ。
そう思った瞬間、胸の奥がざわついた。
もしシリウスと二人きりで言葉を交わしていたなら、
あの女はあんなふうに冷静ではいられなかったはずだ。
きっと、離れた日々を埋めるように語り合うだろう。
笑い、懐かしみ、あの頃に戻るだろう。
アランの完璧すぎる振る舞いが、
かえって芝居じみて見えた。
そうして、芝居が真実を覆い隠すほど、
レギュラスの苛立ちは募っていった。
屋敷に戻ると、いつもより食卓が静かだった。
夜気が窓の隙間から忍び込み、
銀の燭台の炎をわずかに揺らしている。
「今日はアルタイルの晴れ舞台を記念して、
ワインを開けてはどうです?」
アランが持ってきたのは、アルタイルの生まれ年のワインだった。
淡い笑みを浮かべ、赤い液体を二人のグラスに注ぐ。
透明な音が、静寂に響いた。
「そうですね。」
レギュラスは短く応え、グラスを掲げた。
杯を合わせる音が、やけに乾いていた。
口に含んだワインの香りは深く、熟成されている。
だがその芳香の裏に、
どうしても飲み下せない何かが喉に引っかかる。
心の奥で、黒いものがゆっくりと沈んでいく。
「アルタイルが戻ってきたら、
クィディッチ用品を買い与えてあげてください。」
アランの声は穏やかだった。
「ええ、そうしましょう。」
答えながら、レギュラスの指先が震えた。
その瞬間――ふいに脳裏に蘇る。
シリウスがアランを見ていたあの目。
呼び止める声、立ち止まる姿。
アランが振り返る、その一瞬の光景。
笑いが漏れた。
無意識だった。
けれど、その笑いはあまりにも冷たかった。
「……どうなさったのです?」
アランが小首を傾げる。
「今でも、シリウス・ブラックを愛しているんです?」
その言葉が、
空気を真っ二つに裂いた。
アランの手が止まる。
翡翠の瞳がわずかに揺れ、
息を飲んだまま何も言えなかった。
多分、言うべきではなかった。
彼女がこの数日、
どれほど気を配り、歩み寄ろうとしていたかを
レギュラスは知っている。
それでも、抑えられなかった。
リディアの婚約の件から、
微妙な歪みが生まれたまま、
修復できぬままに時間が過ぎていた。
アランの優しさを素直に受け取れない自分。
そんな自分への苛立ちが、
さらに負の連鎖を呼び込んでいた。
「……レギュラス。」
アランの声が震えた。
困り果てたような瞳が、翡翠の光を翳らせる。
「別に、今更隠さなくてもいいでしょう。」
吐き捨てるような声。
「やめましょう。」
アランはグラスを置き、
椅子を軋ませて立ち上がった。
その背を追うようにして、
レギュラスの声が低く響く。
「父と子を引き剥がしたことを詫びたら、
満足ですか?」
アランの肩が強ばる。
「やめてください、レギュラス。」
「あなたが何を望んでいるのか、
僕にはわからない。」
押し殺した声の奥に、
抑えきれない激情が渦巻いていた。
――本当はシリウスとアルタイルを育てたかったのだろう?
その問いが、喉まで出かかって飲み込めなかった。
もし言葉にした瞬間、
すべてが終わってしまう気がした。
アランは振り返らずに部屋を出ていく。
扉が静かに閉まる音が、
永遠の別れのように響いた。
残されたレギュラスのグラスの中で、
赤いワインがゆっくりと波打っていた。
その色は、まるで
焼けた嫉妬が液体に溶け出したかのように、
深く、暗かった。
寝室に入った瞬間、アランの体から力が抜け落ちた。
背中でそっと扉を閉め、そのまま重さに負けるようにしゃがみ込む。
冷たい木の床が背中にひやりと触れ、
まるで今の自分の心を映すように冷ややかだった。
――だめだった。
どれだけ言葉を尽くしても、どれだけ笑みを繕っても、
レギュラスの胸の奥には届かない。
今夜こそは歩み寄ろうと思っていた。
わずかでも「一緒に生きていきたい」という意思が伝われば、それでよかったのに。
シリウスと対面したあの場でも、
心を乱さぬようにと、息を整えていた。
動揺を顔に出すこともなく、
レギュラスを立て、完璧な妻であろうと努めた。
それでも、彼には伝わらない。
深く息を吸っても、胸の奥にわずかな痛みが残ったままだ。
ため息をひとつ吐き出した。
吐くたびに、少しずつ自分の中の何かが削られていくような気がした。
しばらくしても、レギュラスは寝室に現れなかった。
時計の針が何度も音を刻む。
屋敷は静まり返り、夜の帳だけが重く垂れ込めている。
――まだ食堂にいるのかしら。
心配が勝った。
ワインは酔いやすい。
あの人が酒に飲まれることなど考えにくいが、
近ごろは疲労が重なっている。
もし、あのまま椅子で眠ってしまっていたら。
ローブの裾を整え、アランは廊下に出た。
足音を殺しながら、階段をゆっくり降りていく。
月光が吹き抜けの大理石の床を照らし、
その上を渡るたびに淡い影が揺れた。
食堂の扉が半開きになっている。
そこから漏れる蝋燭の光が、薄く廊下を染めていた。
――いた。
テーブルの片側にレギュラスの姿。
彼はまだグラスを手にしていた。
そして、その隣には――エリナ・ウェルズ。
アランの心臓が、ひとつ大きく跳ねた。
反射的に柱の陰へと身を隠す。
扉の隙間から見えるのは、
主人と医務魔女の“報告”というには近すぎる距離。
エリナが何かを小声で告げる。
レギュラスがその言葉に目を伏せ、
穏やかにうなずいた。
その指先が、机の上で微かに彼女の手に触れたように見えた。
声までは届かない。
けれど――距離感だけで、すべてがわかった。
胸の奥が、ぎゅっと軋む。
まるで見えない刃で内側から刺されるような痛み。
それでも、悲鳴は上げなかった。
唇を噛みしめ、静かに呼吸を整える。
――見なかったことにすればいい。
――知らなかったことにすればいい。
そう言い聞かせても、震えが止まらなかった。
二人の姿を背に、アランは踵を返す。
長い廊下を戻るたび、
足音がやけに遠く、他人のもののように感じた。
寝室の扉を閉めた瞬間、
空気が再び静寂に戻った。
けれど、その静寂は決して安らぎではなかった。
ベッドの端に腰を下ろし、
指先でシーツの皺をなぞる。
頭の奥で、レギュラスの低い声が、
幾度も繰り返し響く――
「今でもシリウス・ブラックを愛しているんです?」
あの言葉に込められた嫉妬と痛み。
そして今、胸の奥に渦巻く自分の痛み。
二つの苦しみが、静かに混ざり合い、
この屋敷の夜気に溶けていった。
どちらの痛みがより深いのか――
もう、わからなかった。
深夜の屋敷は、息を潜めたように静まり返っていた。
銀の燭台の炎が、長い影を壁に揺らしている。
その中心に、ひとり――レギュラス・ブラックが座っていた。
テーブルの上には、空になりかけたワインのボトルが二本。
ひとつはすでに倒れ、赤い雫が布の上に滲みを広げている。
まるで、心の奥のどこかが血を流しているようだった。
ほんの少し前まで、ここで彼はアランに向かって
刃のような言葉を投げつけていた。
それがどれほど彼女を傷つけたかなど、分かっている。
それでも、言わずにはいられなかった。
彼女の心を試すように、そして自らの傷をさらにえぐるように。
だが今は――沈黙しか残っていなかった。
ワインを注ぐ音だけが、夜気の中で鈍く響く。
その背中は、いつもの冷静で完璧な男のそれではなかった。
どこか頼りなく、小さく見えた。
「……体に障ります。」
エリナ・ウェルズの声が静かに落ちた。
医務魔女としての忠告。
けれどその声音には、それ以上の感情が滲んでいた。
一種の賭けだった。
完璧すぎる夫婦の間に、今なら自分が入り込めるのではないか――
そんな淡い、そして危うい期待が胸の奥に灯る。
レギュラスがぼそりと呟く。
「息子の生まれ年なんですよ。」
その一言に、エリナの胸がわずかに疼いた。
どこか懐かしむような声。
それを掬い上げるように、静かに答える。
「古すぎることもなく……まさに今が飲み頃かもしれませんね。」
微笑を交わす。
十四年ものの赤。
銘は――〈シャトー・モンテリエ・リゼルヴ 1980〉。
魔法界でも滅多に出回らない逸品だった。
熟成の進んだ果実香の奥に、かすかに焦がしたオーク樽の香りが潜んでいる。
時間の層がそのまま液体に溶け込んだような、深く滑らかな香り。
グラスをわずかに傾けただけで、
ふくよかな香気が空気を満たしていく。
「ワインを嗜まれるんですね。」
「詳しくはありませんが、少しだけ。」
エリナの声はわずかに震えていた。
いつもは表情を変えぬこの男と、
こんなにも自然に会話が続くなんて――
それ自体が奇跡のように思えた。
もしかすると、今夜は酔いがまわっているのかもしれない。
あるいは、長い間抑え込んできた感情が、
わずかに緩んでいるだけなのかもしれない。
「……飲みます?」
一瞬、エリナの心臓が跳ねた。
視線を合わせることもできず、
それでも静かに頷く。
「よろしいですか?」
レギュラスはうなずき、
向かいの席――アランが使っていたグラスに
ゆっくりとワインを注いだ。
赤い液体が螺旋を描きながらグラスの底に広がる。
それはまるで、誰かの記憶を攪拌しているようだった。
「ご子息の未来に。」
エリナは小さく囁き、グラスを掲げた。
二人のグラスが触れ合い、
乾いた音が静寂を破った。
その瞬間、
アランがここにいないことを、
改めて思い知らされた。
香りを吸い込む。
熟れたベリーと黒い森の果実の香り。
時間がつくりあげた甘やかさと、
わずかに混ざる苦味。
まるでこの男そのもののようだった。
レギュラスがため息をつき、
遠くを見つめた。
翳りを帯びた灰色の瞳。
その中に映るのは、
もう失われた日々なのか、
それとも――まだ誰かを想っている影なのか。
エリナはその横顔を見つめた。
硬質なはずの美しさが、
今夜はどこか脆く、儚く見えた。
――今なら、あの瞳の中に私が映るだろうか。
その思いが、心の奥からゆっくりと浮かび上がってくる。
抑えようとしても、
どうしようもなく、胸の奥で熱を帯びていく。
彼女はそっとグラスを傾けた。
ワインの深紅が、蝋燭の光を受けて煌めく。
その色は、今夜だけの秘密のように――
静かに、そして甘く、
二人のあいだに沈んでいった。
よく覚えていない。
ただ――ワインを二本ほど、ほとんど一人で空けたことだけは確かだった。
深紅の液体がグラスの中で波打ち、
その度に過ぎた夜の記憶を曖昧にしていった。
ぼんやりとした意識の中で、
テーブルに頬を預けた。
心の奥に巣くうもの――嫉妬、怒り、後悔、愛。
どれも区別がつかないほど、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。
ただ、何かから逃げたかった。
自分の中の“男”も、“夫”も、“父”も。
――そして、気づいたら朝だった。
重たい瞼を開けた瞬間、
目の前の光景に、思考が凍りついた。
自分の下には、若い医務魔女――エリナ・ウェルズがいた。
柔らかな金の髪が頬に触れている。
白い首筋には、かすかに紅が残っていた。
息が詰まった。
何をどうしたのか、記憶が繋がらない。
ただ、肌の温もりだけが確かな現実として残っていた。
――嘘だろう。
まさか、こんなことを。
酔った勢いで、屋敷の妻を診ている医務魔女を抱くなど――
理性のどこを探しても、そんな愚行を許す自分はいなかったはずなのに。
「……おはようございます、レギュラス様」
静かな声が落ちた。
エリナがゆっくりと身を起こし、
皺になったローブを整える。
その指先は微かに震えている。
「もうじき、奥様がお目覚めになります。
それまでには……お着替えになった方が、よろしいかと。」
その一言が、胸の奥に突き刺さった。
まるで鋭い刃のように。
――アラン。
その名を心の中で呼んだ瞬間、
一気に酔いが覚めた。
頭の芯が冷え切る。
エリナは一礼し、
淡い香りを残して部屋を出ていった。
足音が遠ざかるたびに、現実がじわりと迫ってくる。
椅子に崩れ落ちるように座る。
両手で頭を抱えた。
何をやっているのか、自分は。
あの夜、アランの瞳を翳らせたまま、
どれほど自分が彼女を追い詰めてきたか、分かっているのに。
“あの人”だけは裏切ってはいけなかった。
慌てて立ち上がる。
冷たい石畳の上を裸足のまま、浴室へと向かった。
蛇口をひねると、熱い湯が勢いよく流れ出す。
その湯の中で、指先に残る彼女の体温を、
何度も、何度も洗い流した。
けれど、落ちなかった。
湯気に混じって漂うのは、ワインと香水と、
罪の残り香。
どれだけ洗っても、心の奥にこびりついた。
寝室の扉を開けると、
アランがすでに目を覚ましていた。
翡翠の瞳が、柔らかな朝の光を受けて揺れる。
その姿が、いっそ神聖なもののように見えた。
心臓が跳ねた。
喉の奥がひりつく。
彼女の前に立つ資格が、自分にあるのか。
「……ダイニングで朝を迎えるなんて、体に障ります。」
アランの声は穏やかで、責める色はなかった。
「ええ……ちょっと、背中が痛みます。」
口から出た言葉が、あまりにも嘘くさく響いた。
彼女の視線を避ける。
目を合わせたら、すべてを見透かされてしまいそうで。
レギュラスは寝台の端に腰を下ろし、
シーツを握りしめた。
心臓が、耳の奥で鳴っている。
――気づかれていないか。
――この部屋に、まだ罪の匂いは残っていないか。
思考が空回りする。
息をするたびに胸が締めつけられた。
アランは何も言わなかった。
ただ、静かに彼の背中を見つめていた。
その沈黙が、何よりも恐ろしかった。
その日、レギュラス・ブラックは初めて、
自分が手に入れたすべてを壊してしまうかもしれない――
そう、はっきりと感じていた。
夜はとうに明けていた。
それでも、アランは一睡もできずにいた。
寝台の片側に広がる空白を、
ひたすら見つめていた。
――待っていた。
それだけが、真実だった。
時計の針が音を刻むたび、
その静寂が鋭く胸を刺した。
窓の外に朝靄が広がっても、
レギュラスは戻ってこなかった。
いつもなら、どんなに遅く帰っても、
同じ寝台に身を横たえた。
それが夫婦としての“形”だと、信じていた。
だが今朝は違う。
扉は最後まで開かれなかった。
――もう、それが答えなのだ。
アランは薄く笑った。
笑顔の形をした、痛みの表情。
胸の奥にあった何かが、静かに砕けていく音がした。
衣擦れの音。
扉の向こうで足音が近づく。
やっと帰ってきた。
けれど、嬉しさよりも、恐れの方が先に立った。
扉が開き、
入浴後の余韻を纏ったレギュラスが現れた。
湯気の香りが淡く漂う。
濡れた黒髪が肩にかかり、
その姿はいつも通り整っているのに――
どこか、遠い。
「朝ですが、まだ寝ますか?」
声をかけた自分の声が、
他人のもののように掠れていた。
レギュラスは一瞬だけ視線を向け、
すぐに目を逸らした。
「ええ、少し。」
それだけ。
それだけのやりとりで、
全ての温度が失われた。
アランは、もう返さなかった。
静かに寝台の脇を離れ、
ローブの裾を揺らして寝室を出る。
背中越しに、扉が閉まる音が響く。
その音が、
ひとつの関係の終わりを告げたように感じられた。
朝の光が白く差し込む中、
エリナ・ウェルズがいつものように診察に現れた。
だが、その顔を見た瞬間、
アランの胸の奥に冷たい波が走った。
昨夜のことを、
いや、“あの朝のこと”を、
彼女が知らないはずがない――そう思った。
これまで見ていたはずの、
若く聡明な医務魔女の顔が、
今は別のものに見える。
あの子の報告書の一文一文が、
どんな言葉で、どんな視線で、
レギュラスへと届くのか――想像するだけで吐き気がした。
「お変わりはありませんか?」
いつもと同じ、丁寧な声。
「いいえ、どこも。」
アランの返答は、氷のように冷たく響いた。
言葉の奥に、誰にも知られたくない痛みが沈んでいる。
エリナが微かに眉をひそめ、
何かを言いかけたが、
アランは目を合わせなかった。
診察を終え、エリナが部屋を出ていく。
扉が閉まると同時に、
アランは両手で顔を覆った。
――責めるつもりはない。
そう、何度も心の中で繰り返した。
彼が何を選び、
どんな行動を取ろうとも、
それはレギュラス自身の自由。
それを理解していた。
けれど、理解したところで、
痛みが消えるわけではなかった。
これから先も彼だけを見て、
寄り添い続けようと思っていた。
その決意は、
夜明けと共に静かに砕け散っていた。
翡翠の瞳が、
朝光の中でわずかに濡れていた。
その雫は、決して流れ落ちなかった。
ただ静かに、心の底で――凍りついていった。
薄暗い部屋の中に、紙の擦れる音が響いていた。
暖炉の火は小さく、灰の中に埋もれながらかろうじて灯っている。
リーマス・ルーピンは、その光だけを頼りに報告書の文字を追っていた。
――「エリナ・ウェルズ、レギュラス・ブラックと関係を持つ。」
その一文を読んだ瞬間、
眉間の奥で鈍い痛みが走った。
彼は指先で紙の端を押さえたまま、
長く息を吐く。
灰色の瞳が静かに燃えるように揺れていた。
酒の力――そう記されている。
つまり、計算された偶然。
どこまでも冷徹な女のやり口だった。
彼女は巧妙に動いた。
あの隙のないレギュラス・ブラックを、
わずか一夜の油断で陥落させたのだ。
恐ろしいほどに、完璧な“計画通り”だった。
報告書には、詳細な記録があった。
ワインの銘柄、飲んだ量、
ダイニングでの会話の流れ、
そして、翌朝の状況――。
まるで現場にいたかのような正確さ。
彼女が意図して仕組んだ罠であることが、
一文一文の隙間から滲み出ていた。
リーマスは、紙の上に指先を滑らせた。
冷たく、乾いた感触。
だがその向こうには、
あまりにも熱く濃密な夜が横たわっている。
――狙った通り、だ。
思わず小さく呟いた。
怖いくらいに、計算通り。
まるで女という生き物の底知れなさを見せつけられたようだった。
優しく、聡明で、非力なふりをして。
その実、誰よりもしたたかに人の心を突く。
その狡猾さを、今ほど恐ろしく感じたことはなかった。
リーマスは報告書を閉じた。
手の中で紙が柔らかく音を立てる。
暖炉の炎が揺れ、金色の光が頬を照らした。
椅子の向こうで、ジェームズが同じ報告に目を通している。
その表情に言葉はなかった。
ただ、沈黙だけが二人の間に横たわっていた。
そして――決意が固まる。
この件は、シリウスには伏せる。
どんなに忠実であろうとも、
どんなに真実を重んじる男であろうとも、
これだけは知られてはならない。
アランが選び、愛した男。
その男が、酒の勢いで別の女を抱いた――。
そんな現実を知った時、
あの男の心は再び、粉々に砕けるだろう。
もう一度、同じ痛みを背負わせるわけにはいかなかった。
リーマスは静かにペンを取り、
報告書の末尾に印を押す。
その赤い印は、血のように濃く、
封印のように重かった。
――この調子でいい。
エリナ・ウェルズ。
彼女がこのまま、
レギュラス・ブラックの心の奥に潜り込み、
その弱みを掴み取ってくれれば。
もはや、外から崩せる相手ではない。
純血の名誉、完璧な忠誠、
冷静な頭脳――
全てを備えたあの男を壊すなら、
内部からしか道はない。
その唯一の鍵が、
あの若い医務魔女なのだ。
報告書を炎の中に投げ入れる。
紙が燃える匂いが、部屋に広がる。
赤い火が文字を舐め、黒い灰へと変えていく。
その灰の向こうに、
レギュラスとアラン――
かつて愛し合い、今は沈黙で繋がれた夫婦の影が
ゆらゆらと揺れていた。
リーマスは立ち上がり、
冷えた夜気の中で低く呟いた。
――「あの家を、内部から崩す。」
それが、
騎士団に課せられた最も冷たい使命だった。
ホークラックスを隠した周辺には、すでに新しい関所が築かれていた。
それは表向きには、魔法界とマグル界の境界を守るための“行政的な拠点”として設けられたもの。
だが実際のところは、純粋な防衛線――
ヴォルデモートの魂を護るための、鉄壁の檻だった。
関所の外壁は、魔法障壁とマグルの監視システムが混ざり合っていた。
魔法使いが通れば、マグルのセンサーが反応し、
マグルが通れば、魔法障壁が揺らぐ。
互いの領域を縫い合わせた、矛盾と狂気の防御構造。
それがまるで“誰も通らせないための完全な結界”のように機能していた。
さらにその関所には、マグル生まれの役人たちが配置された。
彼らは純血貴族の意図を何一つ知らされず、
ただ任務に忠実に働いている。
だが、その存在そのものが盾となり、
闇の帝王の秘匿を守る皮肉な歯車となっていた。
その配置が功を奏した。
騎士団は一切近づかなくなった。
彼らがあえてマグル生まれの役人に接触する理由などない。
それどころか、純血主義の象徴であるマルフォイ家とレストレンジ家が
“マグルとの協働”を表明したことで、
一時的に世界は“融和の空気”すら見せ始めていた。
もはや完璧だった。
少なくとも――レギュラス・ブラックが認識しているホークラックスに関しては。
それらの守りは、
魔法と権力と欺瞞の三重結界によって覆われ、
誰も触れることの出来ない“黒の要塞”と化していた。
だが。
レギュラスの心は静まりきらなかった。
闇の帝王が作り出したホークラックスは、
彼の知る限り、まだいくつか存在している。
しかし、その“いくつ”が、いくつなのか――それさえも分からない。
闇の帝王がすべてを話すことは決してない。
ヴォルデモートは決して全てを明かさない。
それが、忠誠の証であるはずの“自分”にさえも。
だからこそ、レギュラスの胸の内に
焦燥が燃えはじめていた。
知らなければならない。
次に“取引”を迫られるその時のために。
あの夜――アランの命を救うために
自らヴォルデモートのホークラックスを見破り、
それを保護する役目を引き受けた。
あの時は、差し出す“対価”があった。
だが、今は何もない。
自分にはもう、
闇の帝王に差し出せるものが何一つない。
その事実が、
知らぬ間に彼を焦らせていった。
いくら探しても、
残りのホークラックスがどこにあるのか分からない。
どんな呪文を使っても、
どんな密偵を放っても、
その痕跡を掴むことは出来なかった。
夜、書斎の机に散らばる古文書と地図を前に、
レギュラスは眉間に皺を刻む。
ランプの火がゆらゆらと揺れ、
その光の下で、彼の手が微かに震えた。
「……一体、あといくつ……?」
呟きが闇に吸い込まれる。
蝋燭の炎が揺れるたびに、
闇の帝王の笑い声が耳の奥で木霊するようだった。
知らぬことこそが、最大の恐怖だ。
そして今、レギュラス・ブラックの中で、
その恐怖は静かに育ち続けていた。
どれだけ完璧な守りを築いたとしても、
その中心に“知られざる闇”が残る限り――
それはいつか、ー
彼自身を喰らう毒へと変わるだろう。
