4章
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雪解けの匂いを含んだ風が、ホグワーツの塔の窓から吹き込んでいた。
冬の期末試験が終わり、学生たちはそれぞれ結果に一喜一憂している。
その中で、アルタイル・ブラックは静かに机に向かっていた。
羊皮紙の上には、すでにいくつかの文字が丁寧に並んでいる。
――「期末試験の結果、また主席を頂きました」
羽ペンの先を止め、インク壺にそっと戻す。
筆先を整えながら、アルタイルは父ともうひとりの顔を思い浮かべた。
レギュラス・ブラック。
彼はこの報せを、静かな誇りと共に受け取るだろう。
決して大袈裟には喜ばない。
ただ、唇の端をわずかに緩め、
「よくやりましたね」
と、それだけを穏やかに告げるに違いない。
けれどその瞳の奥に、誰よりも深い満足を宿す男だということを、アルタイルはよく知っていた。
一方で――シリウス・ブラック。
あの人は全く違う反応をするだろう。
手紙を読みながら「やったじゃないか!」と笑い、
近くにいたハリーやルーピンを巻き込んで、まるで祝宴のような騒ぎを起こす。
肩を叩かれ、冗談を言われ、それでもその全てが温かくて、
自分の存在をまるごと肯定してくれるような、そんな明るさを持つ人。
どちらが良いというわけではない。
アルタイルは静かに微笑んだ。
どちらの反応も、彼の中で確かに“愛”だった。
形は違えど、どちらも自分を思ってのことだと、
もう分かる年齢になっていた。
手紙は二通。
片方にはブラック家の紋章入りの封蝋を。
もう片方には、彼自身のイニシャル――「A.B」を記した封蝋を押した。
それはあくまで中立でありたいという、彼なりのけじめだった。
「さすがだな、アルタイル!」
ハリーの声が食堂に響いた。
「もう、何回主席を取ってるんだよ」
「ほんと、少しでいいからその頭脳、俺と交換してくれないか?」とロンが笑う。
大広間の冬の陽がステンドグラスを透けて差し込み、
金色の光が彼らの髪を照らしていた。
「ありがとう」
アルタイルは小さく笑った。
友人たちの言葉が、素直に嬉しかった。
ハリーのように誰かを導き、
ロンのように人を笑わせ、
そういう温かい力を持つ人間になれたらと――ふと思う。
だがその先にある現実も、分かっていた。
この成績を持って自分が進むべき道を、
父はもう心の中で決めているのかもしれない。
ブラック家の名にふさわしい職、
純血の血統を誇れる立場。
父が理想とする道は、きっとその延長線上にある。
けれど、アルタイルの胸に浮かぶのは少し違っていた。
誰かを守るような仕事、
世界の狭間に立って、
血や身分ではなく「心」で繋がれるような場所に身を置きたい――
そんな漠然とした願いがあった。
だが、それを父に告げたら、
きっと静かに反対されるだろう。
――「それは、我々の血に相応しい道ではありません」
その言葉が、まだ聞こえてもいないのに胸の奥で響く。
父の思想と、シリウスの信じる世界。
純血主義と平等主義。
どちらが正しいのかなど、今の彼には分からない。
けれど、どちらの中にも“愛”はあるのだと知っている。
どちらの手紙も、アルタイルは心を込めて書いた。
父には誇りを。
シリウスには温もりを。
そしてどちらにも、
“僕はここでちゃんと生きています”という無言の報告を込めた。
雪のように白い封筒を二つ並べる。
羽ペンを置き、ゆっくりと息を吐いた。
「……いつか、二人が笑って話せる日が来たらいいな」
誰にも聞こえないように呟いたその言葉は、
冷たい冬の風に乗って、
ホグワーツの塔の外へと静かに流れていった。
レギュラスとの間に、見えない壁が立ちはだかっている。
それを意識するようになってから、どれほどの時が経っただろう。
屋敷は広いのに、どこか息苦しい。
廊下に灯る燭台の光が冷たく、
すれ違うたびに互いの衣擦れの音だけが響く。
言葉を交わそうとしても、喉の奥で言葉が凍りつくようだった。
子供たち――アルタイルもリディアも今はもうホグワーツにいる。
かつて家中に響いていた笑い声や足音はなく、
屋敷の中には二人分の呼吸音しかない。
“きっかけ”を作ろうと思っても、
どこから触れればいいのか分からなかった。
彼の中に触れてはいけない領域が増えていく。
まるで、互いの周りに透明な魔法障壁を張っているかのようだった。
そんな中、ひとつだけ変わったことがある。
――医務魔女、エリナ・ウェルズ。
この若い医務魔女が、最近よくレギュラスの書斎に呼ばれている。
その光景を見たのは偶然だった。
扉の前を通り過ぎたとき、
閉じられる寸前の隙間から彼女が恭しく頭を下げて入るのが見えた。
レギュラスは寝室と書斎に他人を入れることを嫌う。
それはこの屋敷の誰もが知る常識だった。
だからこそ、驚きと共に胸の奥がざわついた。
何を話しているのだろう。
医務魔女に報告を求めるようなことなど、あるのだろうか。
――あの人は、エリナを信頼している。
そう思うしかなかった。
信頼。
その言葉が、ひどく遠いものに感じられた。
夕刻。
重厚なマホガニーのテーブルの上に、銀の燭台が置かれている。
炎がゆらめき、ワインの赤がグラスの中で鈍く光る。
「ノット家から贈られてきたワインだそうです」
レギュラスが静かに言った。
リディアの婚約相手――ノット家からの贈り物。
アランは一瞬だけグラスを見つめ、
“娘の未来”という言葉の重さをその液体の赤に見た。
「そう……せっかくですから、いただきましょう」
いつもなら手を伸ばさないワインに、
今日は自らグラスを取った。
軽く注がれた液面が揺れ、
紅玉のような光を放つ。
――ほんの少しだけでも。
娘の嫁ぎ先の家が選んだものなら、
母としてその味を知らずにいるわけにはいかない。
グラスを唇に近づけたそのとき、
レギュラスの声が静かに落ちた。
「……昨夜まで微熱が続いていたはずでは?」
思わず動きを止めた。
「ええ、でも今朝からは治っています」
言葉を選びながら答える。
レギュラスはそのまま沈黙した。
彼の声色に怒りも非難もない。
ただ、どこか探るような、
観察するような冷静さがあった。
――“ただ飲んでも平気なのか”
その一言に、気遣いの色を見出すこともできた。
けれどアランには、もう素直にそう受け取れなかった。
この人はきっと、エリナ・ウェルズを通じて、
自分の体調の一つひとつを知っているのだ。
熱が出たことも、
食欲が落ちたことも、
きっと全て、あの若い医務魔女の口から報告されている。
――つまり、私は彼に“監視されている”。
その考えが胸の奥に影のように沈殿する。
かつては、
自分の小さな異変に誰よりも早く気づき、
優しく肩を抱いてくれた男だったのに。
今のレギュラスは違う。
アランを「守る」ためにではなく、
「見張る」ために全てを把握しているように思えてしまう。
ワインを口に含むと、
鉄のような渋みが舌に広がった。
少しだけ喉が熱くなる。
――まるでこの関係のようだ。
見た目は美しい。
けれど、飲み干すたびに苦味が残る。
レギュラスは黙ったまま、
ナイフとフォークをゆっくりと置いた。
その仕草すら完璧に整っている。
まるで、感情を一切持たぬ貴族の人形のように。
アランはもう一度ワインを口にした。
沈黙が降りる。
時計の針の音だけが、遠くで静かに響いていた。
――この沈黙の先に、何があるのだろう。
もう、話しかける勇気が出ない。
けれど、何も言わなければ本当に終わってしまいそうで。
心の奥で、
まだ見ぬ一言を、
アランは必死に探していた。
エリナ・ウェルズの報告は、いつも驚くほど的確だった。
淡々とした口調で、必要な情報だけを簡潔に伝えてくる。
無駄がなく、感情の揺れがない。
それゆえに、今のレギュラスには非常に都合がよかった。
――アランとの間に横たわる、言葉にできない距離。
見えない壁の存在を、彼は自覚していた。
その壁を壊そうとするたびに、
互いの心の奥に眠る傷が顔を出す。
そのたびに、彼は慎重になった。
そして気づけば、触れることすら恐れている。
そんな状態で、妻の体調や心の揺れを読み取ることなど、
到底できるものではなかった。
だからこそ、エリナの報告が必要だった。
「昨夜、微熱を出されていたようです」
「月経前の症状が出ているようで、胸の張りがあるご様子です」
淡々と、だが確かに――彼女は“鍵”のように報せを運んでくる。
言葉のひとつひとつが、レギュラスの疑問を正確に解いていく。
アランの顔色が優れなかった理由も、
少し緩やかなドレスを選んでいた理由も、
その説明を聞いた途端、全てが一つの線に繋がった。
エリナ・ウェルズ。
この若い医務魔女は、他の誰にもできない方法で
レギュラスの“知りたいこと”に触れてくる。
アランが言わないこと、アランが言えないことを、
まるで透視するかのように報告してくれる。
それが今は、彼にとって救いでもあり、同時に罪でもあった。
夜。
寝室の灯りは淡く、カーテンの隙間から月光がこぼれている。
アランは横になり、
胸元の開いた淡い色のドレスを纏っていた。
その姿は決してあらわではないのに、
どこか無防備で、儚い。
細い首筋から鎖骨にかけて、
薄い月の光が滑り落ちる。
その光景に、思考が一瞬だけ途切れた。
――彼女は、こんなにも近くにいるのに、
どうしてこんなにも遠いのだろう。
寝息を立てるわけでもなく、
アランは静かに瞳を閉じている。
互いの間に流れる沈黙が、
まるで形を持って重なっていくようだった。
ほんのわずかに揺れた胸元。
その下にある呼吸の鼓動。
“男”という生き物が持つ原始的な衝動が、
じわりと意識の底から立ち上がってくる。
触れたい。
ただそれだけなのに、
今それをしてはいけないという理性が、鋭く制止をかける。
――まだ冷戦が終わっていない。
――ここで求めることは、和解ではなく、逃避だ。
分かっている。
それでも、抑えがたい。
「……はあ」
自分でも気づかぬうちに、
息と共にため息が漏れていた。
「どうしました?」
閉じていたはずのアランの瞳が、ゆっくりと開かれる。
その声は驚くほど穏やかで、
どこか遠くから響いてくるようだった。
「いえ……ちょっと、考え事を」
そう答えるのが精一杯だった。
その一言に、何をどこまで含めるかなど、
自分でも分からなかった。
彼はアランの方を見なかった。
ベッドの上で、静かに体を反転させ、
背中を向ける。
まるで、彼女の気配を遮断するかのように。
背後から小さな寝息が聞こえた。
それが本当に眠っている音なのか、
あるいは眠ったふりをしているだけなのか、
確かめる勇気はなかった。
――どうして、こうなってしまったのだろう。
手を伸ばせば届く距離にいるのに、
今は、月よりも遠い。
レギュラスは目を閉じた。
闇の中で、
彼の胸に重く沈むのは、
欲望でも憎しみでもなく――
ただ、どうしようもない「喪失」だった。
闇の帝王の屋敷は、夜の底そのもののような静寂に包まれていた。
かつてはマグル貴族の館であったというその建物は、
いまや闇の魔法によって歪められ、
時間の流れさえ鈍るかのような不気味な静けさをたたえている。
黒い大理石の床を踏みしめるたびに、足音が壁に吸い込まれた。
高い天井の下には無数の燭台が浮かび、
青白い炎がゆらゆらと揺らめいている。
それはもはや「光」と呼べるものではなく、
闇をより濃く照らすための炎だった。
レギュラス・ブラックは、ゆっくりと歩を進める。
呼び出しの理由は告げられていない。
ただ、“今夜は必ず来い”――それだけが命じられていた。
彼は膝を折る位置を正確に測り、
冷たい大理石の床に静かに片膝をついた。
沈黙を破るように、
あの声が響いた。
「来たか、レギュラス。」
闇の帝王――ヴォルデモートが、
蛇のような細い指先で杖を弄びながら、ゆっくりと立ち上がる。
その周囲には数人のデスイーターが控えていたが、
誰一人として息を潜めたまま動かない。
「はい。お呼びとあらば、どこへでも。」
レギュラスは顔を上げずに答えた。
「魔法省の改革が、ついに形になる。」
ヴォルデモートの声には、陶酔にも似た響きがあった。
「我々の人間たちが、堂々と省内に入り込む。
純血も、混血も、いずれは我が理想のもとに統べられる。」
そう言いながら、
玉座のように設えられた椅子の肘掛けを細い指で叩く。
その音が妙に規則的で、レギュラスの背筋を冷たくなぞった。
「そして私は、新しい機関を立ち上げようと思う。」
「……新しい機関、ですか?」
「そうだ。マグル生まれの魔法使いたちを、
マグル界と魔法界を隔てる“関門”に配置する。
我々の世界に紛れ込もうとするマグルを、
未然に排除するのだ。
見た目には、彼らが“守っている”ように見えるだろう。」
その声音には、満足げな笑みが滲んでいた。
だが、レギュラスには分かっていた。
その本質が“守り”ではないことを。
――生きた盾。
ヴォルデモートが言う“関門”は、
彼が作り出したホークラックスのある場所に違いなかった。
そしてその番人として配置されるマグル生まれの魔法使いたちは、
彼の不死を守るために命を使い捨てにされる存在になる。
「……その“関門”の管理を、誰が?」
「お前だ、レギュラス。」
予想していたはずの言葉なのに、
胸の奥がわずかに凍りつく。
「お前が隠した“それら”の場所を、私は信頼している。
そこへ、彼らを導け。」
“それら”――ホークラックス。
その名を口にせずとも、互いに理解している。
レギュラスは目を伏せ、
ゆっくりと頭を垂れた。
「仰せのままに。」
だがその言葉の裏で、
冷たい汗が背中を伝っていた。
彼が知る限り、ホークラックスの隠し場所はどれも異常な結界下にある。
生きた人間がそこに常駐できるとは到底思えない。
だが、それこそが狙いなのだ。
死の淵に立たせることで、
彼らを“捨て駒”として閉じ込める。
――生きているのに、死よりも遠い場所。
レギュラスの喉奥に、苦いものがこみ上げた。
ヴォルデモートは、その内心など容易く見透かしているように微笑む。
「お前は賢い。私の意図が分かるだろう。
“見せかけ”が必要なのだ。
魔法省は表向き、“平等”を掲げねばならぬ。
闇の者どもが力を持つことを、誰も恐れぬように。」
玉座の周囲に並ぶデスイーターたちの間から、
くすくすと笑い声が漏れた。
――闇の魔法使いが、マグル生まれを擁護する。
それはあまりにも皮肉で、あまりにも巧妙なカモフラージュだった。
「お前も分かるだろう、レギュラス。
世界を動かすには、見せかけの“慈悲”が必要だ。」
闇の帝王の蛇のような瞳が、
彼の灰色の瞳を貫いた。
「……承知しました。」
低く答えながら、
レギュラスは心の底で、静かに自らを叱責した。
――この道の先には、もう戻れぬ場所しかない。
ヴォルデモートは満足げに微笑み、杖を軽く振る。
周囲の炎がわずかに揺れ、
空気が一瞬だけ軋むように歪んだ。
「よい。お前に任せよう。」
レギュラスはゆっくりと頭を垂れ、
そのまま後ずさりながら闇の間を出て行った。
外に出ると、夜風が頬を刺すように冷たい。
屋敷を振り返ると、
そこはまるで“光を飲み込む塊”のように黒く沈んでいた。
――誰も知らぬところで、
この世界の命が静かに取引されている。
レギュラスは、
その闇の中心に立つ自分の影を見つめ、
息をひとつだけ吐いた。
それは祈りではなく、
ただの諦念にも似た吐息だった。
レギュラスが屋敷に戻ってきたのは、深夜を少し回った頃だった。
玄関の扉が音もなく開き、重たい外気が廊下を通り抜ける。
いつもなら、帰宅の足音は静かで落ち着いているのに、
今夜のそれはどこか張り詰めていた。
歩幅は一定なのに、空気だけが異様に硬い。
アランは寝室の前の廊下で彼を待っていた。
胸の奥が、理由のわからぬ不安で締めつけられる。
灯りに照らされたレギュラスの顔は、
ひどく冷たく、そしてどこか遠くにあった。
「……お帰りなさいませ。」
声をかけると、
彼は短くうなずくだけで、視線をこちらに向けようとしなかった。
外気をまだ纏ったままの彼のコートには、
夜霧の匂いと、鉄のような魔力の残り香があった。
――今夜も、闇の帝王のもとへ行っていたのだ。
長く共にいるからこそ、
そういう夜の匂いを、すぐに嗅ぎ分けられるようになっていた。
そしてその夜ごとに、
少しずつ何かが崩れていくような気がしていた。
「何か……ありましたか?」
問いながらも、
返ってくる答えがどんなものであるかは、もう分かっていた。
それでも、言葉にせずにはいられなかった。
“あなたを案じています”と、それだけでも伝わればよかった。
「いえ、何も。」
いつも通りの、抑揚のない声。
その「何も」が、あまりに重たく響いた。
アランはかすかに微笑んだ。
その笑みは、優しさよりも痛みに近い。
「……私にできることがあれば、言ってください。」
そう言いながら、
心のどこかで自分に苦笑していた。
――何もできはしない。
彼はすべてを自分で背負う人。
知恵も、力も、魔力も、すべてを備えた完璧な男。
そんな人の隣で、自分にできることなど一つもない。
かつて自分の魔力で誰かを癒したいと願ったこともあった。
けれど、いまでは彼の背中を追うことさえできず、
ただ、見ているしかできないのだ。
それでも――彼の心に寄り添いたかった。
その思いだけで、唇から言葉がこぼれた。
その瞬間だった。
レギュラスが一歩近づき、
アランの細い腕をぐいと引いた。
驚く間もなく、胸の中に閉じ込められる。
彼の外套の冷たさと、体温の温もりが一度に押し寄せてくる。
鼓動が耳の奥で鳴り響いた。
「こうしていてくれれば、十分です。」
低く落ちるその声が、頭上から降りてきた。
彼の声はいつだって穏やかだった。
けれど、その穏やかさの奥に潜む痛みを、アランは知っている。
――私の“何かできること”なんて、
きっとこの腕を差し出すことだけ。
そんなことを思いながら、
彼の背中にそっと手を回した。
その背は硬く、張り詰めていた。
まるで、何かを支えきるために強張っているように。
彼の髪の香りが少しだけ鼻先をかすめ、
そこに漂う夜の匂いが、どうしようもなく切なかった。
どれほどこの男は孤独の中で立ち続けているのだろう。
何を差し出して、何を犠牲にして、
今もあの帝王の前に立っているのだろう。
その全てを知ることはできない。
けれど、抱きしめる腕の中に感じる体温が、
確かに“生きている”ことだけを教えてくれる。
アランは目を閉じた。
せめてこの一瞬だけでも、
彼の心を休ませてあげられるように――と願いながら。
静かな寝室には、
衣擦れの音と、二人の呼吸だけがあった。
月明かりが床に落ち、
そこに重なる二つの影は、まるで一つの影のように溶け合っていた。
夜明け前の薄暗い空の下、
騎士団本部の作戦室では異様な緊張が漂っていた。
大理石の壁に貼られた魔法省の最新通達の写し、
いくつもの地図と新聞の切り抜きが並び、
その中央の長机には、
魔力で自動記録された報告書が淡く光を放っている。
――魔法省新機関設立。
名称は〈境界管理局(Border Authority for Magical Regulation)〉。
マグル界と魔法界の間に設置される新しい関所を統括し、
“魔法の痕跡がマグル社会に漏れぬようにする”ことを目的とする。
だが、その裏の構造を知る者たちは、
ただの監視機関では終わらぬことを悟っていた。
報告書の見出しを指でなぞりながら、
リーマス・ルーピンが低く呟いた。
「……表向きは、平和維持だな。」
「笑わせる。」とジェームズ・ポッター。
青白い光に照らされた顔には、怒りの色が滲んでいる。
「完全な純血主義の連中が、
マグル生まれの魔法使いを“起用”だと?
そんな話、茶番以外の何ものでもない。」
リーマスは頷いた。
机の上に置かれた報告書の末尾に、
新機関の管理運営者として二つの名が記されている。
――マルフォイ家、レストレンジ家。
「よりによって、この二家が主導か。」
「皮肉だな。
“境界を守る”って言いながら、
本当は差別の線を濃くしてるだけだ。」
その言葉に、部屋の片隅にいたシリウス・ブラックが
低く鼻で笑った。
「違ぇな。あいつらはもう、線なんか引いてねぇ。」
「どういうことだ?」とジェームズが問う。
シリウスはゆっくりと椅子の背にもたれ、
手の中の羊皮紙を机に放り投げた。
「マルフォイもレストレンジも、
“平等”を演じることで奴らの支配を合法にしてるんだ。
見せかけの慈悲ってやつだ。」
ジェームズは深く眉を寄せ、沈黙する。
シリウスの言葉には、
誰よりも長く“闇”を見てきた男の実感がこもっていた。
「しかもな……」とリーマスが新しい書類を差し出す。
「レギュラス・ブラックの名もある。
“顧問”として〈境界管理局〉に出入りしているそうだ。」
その名が出た瞬間、
シリウスの表情がぴたりと固まった。
「……あいつが?」
「ああ。レストレンジ家との血縁関係を理由に、
ごく自然に見える形で。
ただ、それが“自然すぎる”。」
部屋の中の空気が一段と重くなる。
蝋燭の炎が、かすかに揺れた。
ジェームズが深く息を吐く。
「絶対に何かある。
あいつがマグルに仕事を与えるなんて、あり得ない。
俺たちが知ってるレギュラス・ブラックってのは、
そんな男じゃない。」
「……ああ。俺が一番よく知ってる。」
シリウスが絞り出すように言った。
「アイツは――“理想”のためなら、何だって切り捨てる。」
言葉のあとの沈黙が、
重く、長く、痛いほど続いた。
壁の向こうでは、
夜明けの空がゆっくりと白んでいく。
だが作戦室の空気は、
それとは正反対に冷たく濃い闇を孕んでいた。
新しい“境界管理局”――
その名が掲げるのは平和の旗印。
だがその裏にあるのは、
ホークラックスを守るための“生きた壁”の計画。
その中心に、レギュラス・ブラックの影がある。
そしてシリウスは、
その事実が親友ジェームズの言葉よりも先に、
胸の奥で静かに痛みに変わるのを感じていた。
――あいつが、また闇の中に戻っていく。
見えない境界線は、
いま魔法界とマグル界の間だけでなく、
兄弟の心にも引かれ始めていた。
マグル生まれの魔法使いたちが、
魔法界とマグル界の境に設けられた関所の至る所へと配置されていった。
〈境界管理局〉設立の報が広まるにつれ、
それまで黒い噂の絶えなかったマルフォイ家もレストレンジ家も、
あたかも心を入れ替えたかのように
“平等な雇用”を掲げ、マグル生まれの者たちを積極的に登用し始めた。
世間は歓喜した。
貴族の意識が変わったのだと、時代が動いているのだと。
純血至上の家柄が先頭に立ち、
マグル生まれの者を抱え入れる――
それだけで、世界がまるで平和に近づいたかのような錯覚を抱かせた。
だが、その裏に潜む意図を知る者は少なかった。
“平和の象徴”と称された者たちは、
実際には監視の鎖につながれ、
目に見えぬ境界の門に封じ込められていた。
ホグワーツのクィディッチ競技場は、
冬の名残を孕んだ風にざわめいていた。
旗が翻り、校章が舞う。
空には厚い雲がかかっていたが、
時折こぼれる光が、金色のスニッチのように地表を照らした。
観客席には生徒たちの歓声がこだまし、
青と緑、赤と金の旗が入り乱れている。
その最上段、貴賓席に並んで腰を下ろした二人の姿。
レギュラス・ブラックと、その妻アラン。
今日、スリザリンの新シーカーとしてデビューするのは、
アルタイル・ブラック。
あの少年は――自分の血を引いてはいない。
だが、レギュラスにとっては紛れもなく「息子」だった。
シリウスとアランの間に生まれた子。
あの忌まわしい現実を知ってもなお、
レギュラスはその子を手放さなかった。
血よりも誇りを、嫉妬よりも守りを選んだ。
彼の人生の中で最も誇れる選択の一つだった。
アルタイルは、いまその細い体で風を切って飛んでいる。
相手は――グリフィンドールのシーカー、ハリー・ポッター。
なんという皮肉だろう。
“予言の子”と、“シリウス・ブラックの子”が同じ空を翔けている。
宿命のように、二人は金色の光を追ってぶつかり合う。
レギュラスは無言で観戦していた。
灰色の瞳が、空を裂く箒の軌跡を鋭く追う。
隣で、アランが翡翠の瞳を輝かせていた。
両手を胸の前で組み、息を詰めている。
その表情には、抑えきれぬ母の愛情が滲んでいた。
――その視線が、どちらを見ているのか。
「……どちらを応援しているんです?」
わざと軽く笑うように問いかける。
だが声の奥には、鋭い棘があった。
アランは微笑んで、短く答えた。
「アルタイルの晴れ舞台を見に来たのですから、当然アルタイルです。」
その言葉は、まっすぐで、少しも揺らぎがなかった。
それでも、胸の奥に刺さる。
「命懸けで守った“予言の子”がいるようですから、
てっきりその子を見ているのかと。」
その瞬間、空気がぴたりと凍った。
自分でも、嫌な言い方だとわかっていた。
だが止められなかった。
アランは小さく息を吸い、翡翠の瞳を伏せた。
「……あなたは、まだその話を。」
哀しみのような声。
叱るでも、拒むでもなく。
ただ、胸の奥に波紋のように広がっていく。
レギュラスは視線を逸らした。
拳を握り、喉の奥に滞る熱を押し込める。
観客席の向こう――
視界の端に、見覚えのある黒髪を見つけてしまった。
シリウス・ブラック。
そして、その隣にジェームズ・ポッター。
笑っている。
観客の歓声に手を振り、若き日のままの輝きを纏って。
レギュラスの内側に、瞬時に爆ぜるような怒りが走った。
あの男の存在は、常に自分の中の均衡を崩していく。
アランが、いまも無意識に彼を追っているのではないか。
自分の知らないところで、
視線や想いを交わしているのではないか。
――血のつながりなどなくとも、
アランの目にはシリウスの面影を映した息子がいる。
そしてその血を継ぐ少年を、
自分は“息子”として見つめている。
その事実が、胸を締めつけた。
羨望、嫉妬、誇り――
すべてが絡み合い、ほどけない。
空の上では、アルタイルとハリーが同時に急降下していた。
風が唸り、歓声が割れる。
金色のスニッチが太陽の欠片のようにきらめく。
観客が総立ちになる中、
レギュラスはただ手すりを握りしめていた。
自分の中の何かが、音もなく軋んでいく。
――シリウス、あの男の血は、
いまもこの家に、生きている。
そう思った瞬間、隣のアランが両手を組み、目を閉じた。
その祈りが誰に向けられたものなのか、
レギュラスにはわかってしまった気がして、
息をするのも苦しくなった。
試合終了を告げる笛が、冷たい冬空に鋭く響いた。
風に舞う歓声が一斉に爆ぜる。
――グリフィンドールの勝利。
紅と金の旗が空に翻り、
ハリー・ポッターが胸の中に金色のスニッチを抱きしめている。
勝者の光を浴びた少年の瞳は、まるでその光をそのまま宿したように
まっすぐで、澄みきっていた。
アランは静かに見守っていた。
敗北の色に沈むスリザリンの緑が、風の中で揺れている。
アルタイルは勝てなかった。
けれど――彼の飛翔は、誇り高かった。
細く引かれた風の軌跡のような箒捌き。
恐れも焦りもなく、空を切り裂く姿。
それは、若き日のレギュラスが見せた
あの堂々とした飛翔によく似ていた。
アランの胸に、静かな熱が広がっていく。
血のつながりなどなくとも、
彼はまぎれもなく「父の背中」を見て育ったのだ。
ふと隣を見れば、レギュラスが
ほんの小さく、ため息をついていた。
無表情に見えるその横顔に、
わずかな悔しさと誇らしさが交錯している。
アランはその空気をやわらげるように口を開いた。
「あなたのような、堂々とした箒捌きでしたね。」
別に、機嫌を取るための言葉ではない。
心から、そう思った。
彼女の声に、レギュラスはわずかに眉を動かしただけで、
何も言わず観客席を降りていった。
アランもその背を追う。
石段を降りるたび、歓声が近づき、喧騒が熱を増していく。
グラウンドに出ると、そこには
歓喜の渦に囲まれたハリーの姿があった。
仲間たちに肩を叩かれながら笑っている。
その姿はまるで光の中心にいるようで、
周囲の空気までもが輝いて見えた。
アランは思わず微笑んだ。
彼女の姿に気づいたハリーが、
人垣を抜けてこちらへと駆け寄ってくる。
その動作が幼さを残していながらも、
どこか凛としていて、まぶしかった。
「アルタイルとだから、本気でやり合えました。」
少し照れたように言うハリーの声に、
アランの胸がじんわりと熱を帯びた。
勝者としての誇りを見せるのではなく、
敗者への敬意を忘れないその姿勢――
なんと優しく、強い子なのだろう。
この子は、光そのものだ。
誰かを傷つけることなく、照らしていく力を持っている。
それは、闇に抗う唯一の魔法だった。
アランは胸の奥で、遠い記憶を呼び覚ました。
――あの日。
闇の帝王が“予言の子”を殺すと告げられた夜。
自分は震える手で、ダンブルドアの元へ報せを運んだ。
あの時、命懸けで選んだ道が正しかったのか、
ずっと答えを見つけられずにいた。
ポッター家を守るのはきっとシリウスだと思った。
だからヴォルデモートの襲撃から
シリウスだけでも救いたい一心で告げた。
結果的に――この“予言の子”の命を守ることになった。
あの日の選択は、誰かを救うためではなく、
ただ、愛した人を守りたいという
わずかな祈りだったのかもしれない。
それでも今、ハリー・ポッターの瞳を見ていると、
自分の選択が“光の欠片”だったのだと、
心の底から誇りに思えた。
アランはそっと手を伸ばした。
ハリーが驚いたように目を瞬かせ、
それでも逃げずに受け入れるように立ち止まった。
その細い体を、静かに抱き寄せる。
息子よりも少し背が高く、
肩越しに陽光の香りがした。
暖かくて、優しくて――
まるであの日、失われたはずの未来を抱きしめているようだった。
レギュラスがその光景を少し離れた場所から見ていた。
言葉はなかった。
ただ、ひとりの男として、
アランの翡翠の瞳に映る少年の姿を
どうしようもなく眩しく感じていた。
歓声がまだ響くグラウンドで、
アランの腕の中にいたハリーの笑顔が、
春を待つ光のようにあたたかく揺れていた。
冬の期末試験が終わり、学生たちはそれぞれ結果に一喜一憂している。
その中で、アルタイル・ブラックは静かに机に向かっていた。
羊皮紙の上には、すでにいくつかの文字が丁寧に並んでいる。
――「期末試験の結果、また主席を頂きました」
羽ペンの先を止め、インク壺にそっと戻す。
筆先を整えながら、アルタイルは父ともうひとりの顔を思い浮かべた。
レギュラス・ブラック。
彼はこの報せを、静かな誇りと共に受け取るだろう。
決して大袈裟には喜ばない。
ただ、唇の端をわずかに緩め、
「よくやりましたね」
と、それだけを穏やかに告げるに違いない。
けれどその瞳の奥に、誰よりも深い満足を宿す男だということを、アルタイルはよく知っていた。
一方で――シリウス・ブラック。
あの人は全く違う反応をするだろう。
手紙を読みながら「やったじゃないか!」と笑い、
近くにいたハリーやルーピンを巻き込んで、まるで祝宴のような騒ぎを起こす。
肩を叩かれ、冗談を言われ、それでもその全てが温かくて、
自分の存在をまるごと肯定してくれるような、そんな明るさを持つ人。
どちらが良いというわけではない。
アルタイルは静かに微笑んだ。
どちらの反応も、彼の中で確かに“愛”だった。
形は違えど、どちらも自分を思ってのことだと、
もう分かる年齢になっていた。
手紙は二通。
片方にはブラック家の紋章入りの封蝋を。
もう片方には、彼自身のイニシャル――「A.B」を記した封蝋を押した。
それはあくまで中立でありたいという、彼なりのけじめだった。
「さすがだな、アルタイル!」
ハリーの声が食堂に響いた。
「もう、何回主席を取ってるんだよ」
「ほんと、少しでいいからその頭脳、俺と交換してくれないか?」とロンが笑う。
大広間の冬の陽がステンドグラスを透けて差し込み、
金色の光が彼らの髪を照らしていた。
「ありがとう」
アルタイルは小さく笑った。
友人たちの言葉が、素直に嬉しかった。
ハリーのように誰かを導き、
ロンのように人を笑わせ、
そういう温かい力を持つ人間になれたらと――ふと思う。
だがその先にある現実も、分かっていた。
この成績を持って自分が進むべき道を、
父はもう心の中で決めているのかもしれない。
ブラック家の名にふさわしい職、
純血の血統を誇れる立場。
父が理想とする道は、きっとその延長線上にある。
けれど、アルタイルの胸に浮かぶのは少し違っていた。
誰かを守るような仕事、
世界の狭間に立って、
血や身分ではなく「心」で繋がれるような場所に身を置きたい――
そんな漠然とした願いがあった。
だが、それを父に告げたら、
きっと静かに反対されるだろう。
――「それは、我々の血に相応しい道ではありません」
その言葉が、まだ聞こえてもいないのに胸の奥で響く。
父の思想と、シリウスの信じる世界。
純血主義と平等主義。
どちらが正しいのかなど、今の彼には分からない。
けれど、どちらの中にも“愛”はあるのだと知っている。
どちらの手紙も、アルタイルは心を込めて書いた。
父には誇りを。
シリウスには温もりを。
そしてどちらにも、
“僕はここでちゃんと生きています”という無言の報告を込めた。
雪のように白い封筒を二つ並べる。
羽ペンを置き、ゆっくりと息を吐いた。
「……いつか、二人が笑って話せる日が来たらいいな」
誰にも聞こえないように呟いたその言葉は、
冷たい冬の風に乗って、
ホグワーツの塔の外へと静かに流れていった。
レギュラスとの間に、見えない壁が立ちはだかっている。
それを意識するようになってから、どれほどの時が経っただろう。
屋敷は広いのに、どこか息苦しい。
廊下に灯る燭台の光が冷たく、
すれ違うたびに互いの衣擦れの音だけが響く。
言葉を交わそうとしても、喉の奥で言葉が凍りつくようだった。
子供たち――アルタイルもリディアも今はもうホグワーツにいる。
かつて家中に響いていた笑い声や足音はなく、
屋敷の中には二人分の呼吸音しかない。
“きっかけ”を作ろうと思っても、
どこから触れればいいのか分からなかった。
彼の中に触れてはいけない領域が増えていく。
まるで、互いの周りに透明な魔法障壁を張っているかのようだった。
そんな中、ひとつだけ変わったことがある。
――医務魔女、エリナ・ウェルズ。
この若い医務魔女が、最近よくレギュラスの書斎に呼ばれている。
その光景を見たのは偶然だった。
扉の前を通り過ぎたとき、
閉じられる寸前の隙間から彼女が恭しく頭を下げて入るのが見えた。
レギュラスは寝室と書斎に他人を入れることを嫌う。
それはこの屋敷の誰もが知る常識だった。
だからこそ、驚きと共に胸の奥がざわついた。
何を話しているのだろう。
医務魔女に報告を求めるようなことなど、あるのだろうか。
――あの人は、エリナを信頼している。
そう思うしかなかった。
信頼。
その言葉が、ひどく遠いものに感じられた。
夕刻。
重厚なマホガニーのテーブルの上に、銀の燭台が置かれている。
炎がゆらめき、ワインの赤がグラスの中で鈍く光る。
「ノット家から贈られてきたワインだそうです」
レギュラスが静かに言った。
リディアの婚約相手――ノット家からの贈り物。
アランは一瞬だけグラスを見つめ、
“娘の未来”という言葉の重さをその液体の赤に見た。
「そう……せっかくですから、いただきましょう」
いつもなら手を伸ばさないワインに、
今日は自らグラスを取った。
軽く注がれた液面が揺れ、
紅玉のような光を放つ。
――ほんの少しだけでも。
娘の嫁ぎ先の家が選んだものなら、
母としてその味を知らずにいるわけにはいかない。
グラスを唇に近づけたそのとき、
レギュラスの声が静かに落ちた。
「……昨夜まで微熱が続いていたはずでは?」
思わず動きを止めた。
「ええ、でも今朝からは治っています」
言葉を選びながら答える。
レギュラスはそのまま沈黙した。
彼の声色に怒りも非難もない。
ただ、どこか探るような、
観察するような冷静さがあった。
――“ただ飲んでも平気なのか”
その一言に、気遣いの色を見出すこともできた。
けれどアランには、もう素直にそう受け取れなかった。
この人はきっと、エリナ・ウェルズを通じて、
自分の体調の一つひとつを知っているのだ。
熱が出たことも、
食欲が落ちたことも、
きっと全て、あの若い医務魔女の口から報告されている。
――つまり、私は彼に“監視されている”。
その考えが胸の奥に影のように沈殿する。
かつては、
自分の小さな異変に誰よりも早く気づき、
優しく肩を抱いてくれた男だったのに。
今のレギュラスは違う。
アランを「守る」ためにではなく、
「見張る」ために全てを把握しているように思えてしまう。
ワインを口に含むと、
鉄のような渋みが舌に広がった。
少しだけ喉が熱くなる。
――まるでこの関係のようだ。
見た目は美しい。
けれど、飲み干すたびに苦味が残る。
レギュラスは黙ったまま、
ナイフとフォークをゆっくりと置いた。
その仕草すら完璧に整っている。
まるで、感情を一切持たぬ貴族の人形のように。
アランはもう一度ワインを口にした。
沈黙が降りる。
時計の針の音だけが、遠くで静かに響いていた。
――この沈黙の先に、何があるのだろう。
もう、話しかける勇気が出ない。
けれど、何も言わなければ本当に終わってしまいそうで。
心の奥で、
まだ見ぬ一言を、
アランは必死に探していた。
エリナ・ウェルズの報告は、いつも驚くほど的確だった。
淡々とした口調で、必要な情報だけを簡潔に伝えてくる。
無駄がなく、感情の揺れがない。
それゆえに、今のレギュラスには非常に都合がよかった。
――アランとの間に横たわる、言葉にできない距離。
見えない壁の存在を、彼は自覚していた。
その壁を壊そうとするたびに、
互いの心の奥に眠る傷が顔を出す。
そのたびに、彼は慎重になった。
そして気づけば、触れることすら恐れている。
そんな状態で、妻の体調や心の揺れを読み取ることなど、
到底できるものではなかった。
だからこそ、エリナの報告が必要だった。
「昨夜、微熱を出されていたようです」
「月経前の症状が出ているようで、胸の張りがあるご様子です」
淡々と、だが確かに――彼女は“鍵”のように報せを運んでくる。
言葉のひとつひとつが、レギュラスの疑問を正確に解いていく。
アランの顔色が優れなかった理由も、
少し緩やかなドレスを選んでいた理由も、
その説明を聞いた途端、全てが一つの線に繋がった。
エリナ・ウェルズ。
この若い医務魔女は、他の誰にもできない方法で
レギュラスの“知りたいこと”に触れてくる。
アランが言わないこと、アランが言えないことを、
まるで透視するかのように報告してくれる。
それが今は、彼にとって救いでもあり、同時に罪でもあった。
夜。
寝室の灯りは淡く、カーテンの隙間から月光がこぼれている。
アランは横になり、
胸元の開いた淡い色のドレスを纏っていた。
その姿は決してあらわではないのに、
どこか無防備で、儚い。
細い首筋から鎖骨にかけて、
薄い月の光が滑り落ちる。
その光景に、思考が一瞬だけ途切れた。
――彼女は、こんなにも近くにいるのに、
どうしてこんなにも遠いのだろう。
寝息を立てるわけでもなく、
アランは静かに瞳を閉じている。
互いの間に流れる沈黙が、
まるで形を持って重なっていくようだった。
ほんのわずかに揺れた胸元。
その下にある呼吸の鼓動。
“男”という生き物が持つ原始的な衝動が、
じわりと意識の底から立ち上がってくる。
触れたい。
ただそれだけなのに、
今それをしてはいけないという理性が、鋭く制止をかける。
――まだ冷戦が終わっていない。
――ここで求めることは、和解ではなく、逃避だ。
分かっている。
それでも、抑えがたい。
「……はあ」
自分でも気づかぬうちに、
息と共にため息が漏れていた。
「どうしました?」
閉じていたはずのアランの瞳が、ゆっくりと開かれる。
その声は驚くほど穏やかで、
どこか遠くから響いてくるようだった。
「いえ……ちょっと、考え事を」
そう答えるのが精一杯だった。
その一言に、何をどこまで含めるかなど、
自分でも分からなかった。
彼はアランの方を見なかった。
ベッドの上で、静かに体を反転させ、
背中を向ける。
まるで、彼女の気配を遮断するかのように。
背後から小さな寝息が聞こえた。
それが本当に眠っている音なのか、
あるいは眠ったふりをしているだけなのか、
確かめる勇気はなかった。
――どうして、こうなってしまったのだろう。
手を伸ばせば届く距離にいるのに、
今は、月よりも遠い。
レギュラスは目を閉じた。
闇の中で、
彼の胸に重く沈むのは、
欲望でも憎しみでもなく――
ただ、どうしようもない「喪失」だった。
闇の帝王の屋敷は、夜の底そのもののような静寂に包まれていた。
かつてはマグル貴族の館であったというその建物は、
いまや闇の魔法によって歪められ、
時間の流れさえ鈍るかのような不気味な静けさをたたえている。
黒い大理石の床を踏みしめるたびに、足音が壁に吸い込まれた。
高い天井の下には無数の燭台が浮かび、
青白い炎がゆらゆらと揺らめいている。
それはもはや「光」と呼べるものではなく、
闇をより濃く照らすための炎だった。
レギュラス・ブラックは、ゆっくりと歩を進める。
呼び出しの理由は告げられていない。
ただ、“今夜は必ず来い”――それだけが命じられていた。
彼は膝を折る位置を正確に測り、
冷たい大理石の床に静かに片膝をついた。
沈黙を破るように、
あの声が響いた。
「来たか、レギュラス。」
闇の帝王――ヴォルデモートが、
蛇のような細い指先で杖を弄びながら、ゆっくりと立ち上がる。
その周囲には数人のデスイーターが控えていたが、
誰一人として息を潜めたまま動かない。
「はい。お呼びとあらば、どこへでも。」
レギュラスは顔を上げずに答えた。
「魔法省の改革が、ついに形になる。」
ヴォルデモートの声には、陶酔にも似た響きがあった。
「我々の人間たちが、堂々と省内に入り込む。
純血も、混血も、いずれは我が理想のもとに統べられる。」
そう言いながら、
玉座のように設えられた椅子の肘掛けを細い指で叩く。
その音が妙に規則的で、レギュラスの背筋を冷たくなぞった。
「そして私は、新しい機関を立ち上げようと思う。」
「……新しい機関、ですか?」
「そうだ。マグル生まれの魔法使いたちを、
マグル界と魔法界を隔てる“関門”に配置する。
我々の世界に紛れ込もうとするマグルを、
未然に排除するのだ。
見た目には、彼らが“守っている”ように見えるだろう。」
その声音には、満足げな笑みが滲んでいた。
だが、レギュラスには分かっていた。
その本質が“守り”ではないことを。
――生きた盾。
ヴォルデモートが言う“関門”は、
彼が作り出したホークラックスのある場所に違いなかった。
そしてその番人として配置されるマグル生まれの魔法使いたちは、
彼の不死を守るために命を使い捨てにされる存在になる。
「……その“関門”の管理を、誰が?」
「お前だ、レギュラス。」
予想していたはずの言葉なのに、
胸の奥がわずかに凍りつく。
「お前が隠した“それら”の場所を、私は信頼している。
そこへ、彼らを導け。」
“それら”――ホークラックス。
その名を口にせずとも、互いに理解している。
レギュラスは目を伏せ、
ゆっくりと頭を垂れた。
「仰せのままに。」
だがその言葉の裏で、
冷たい汗が背中を伝っていた。
彼が知る限り、ホークラックスの隠し場所はどれも異常な結界下にある。
生きた人間がそこに常駐できるとは到底思えない。
だが、それこそが狙いなのだ。
死の淵に立たせることで、
彼らを“捨て駒”として閉じ込める。
――生きているのに、死よりも遠い場所。
レギュラスの喉奥に、苦いものがこみ上げた。
ヴォルデモートは、その内心など容易く見透かしているように微笑む。
「お前は賢い。私の意図が分かるだろう。
“見せかけ”が必要なのだ。
魔法省は表向き、“平等”を掲げねばならぬ。
闇の者どもが力を持つことを、誰も恐れぬように。」
玉座の周囲に並ぶデスイーターたちの間から、
くすくすと笑い声が漏れた。
――闇の魔法使いが、マグル生まれを擁護する。
それはあまりにも皮肉で、あまりにも巧妙なカモフラージュだった。
「お前も分かるだろう、レギュラス。
世界を動かすには、見せかけの“慈悲”が必要だ。」
闇の帝王の蛇のような瞳が、
彼の灰色の瞳を貫いた。
「……承知しました。」
低く答えながら、
レギュラスは心の底で、静かに自らを叱責した。
――この道の先には、もう戻れぬ場所しかない。
ヴォルデモートは満足げに微笑み、杖を軽く振る。
周囲の炎がわずかに揺れ、
空気が一瞬だけ軋むように歪んだ。
「よい。お前に任せよう。」
レギュラスはゆっくりと頭を垂れ、
そのまま後ずさりながら闇の間を出て行った。
外に出ると、夜風が頬を刺すように冷たい。
屋敷を振り返ると、
そこはまるで“光を飲み込む塊”のように黒く沈んでいた。
――誰も知らぬところで、
この世界の命が静かに取引されている。
レギュラスは、
その闇の中心に立つ自分の影を見つめ、
息をひとつだけ吐いた。
それは祈りではなく、
ただの諦念にも似た吐息だった。
レギュラスが屋敷に戻ってきたのは、深夜を少し回った頃だった。
玄関の扉が音もなく開き、重たい外気が廊下を通り抜ける。
いつもなら、帰宅の足音は静かで落ち着いているのに、
今夜のそれはどこか張り詰めていた。
歩幅は一定なのに、空気だけが異様に硬い。
アランは寝室の前の廊下で彼を待っていた。
胸の奥が、理由のわからぬ不安で締めつけられる。
灯りに照らされたレギュラスの顔は、
ひどく冷たく、そしてどこか遠くにあった。
「……お帰りなさいませ。」
声をかけると、
彼は短くうなずくだけで、視線をこちらに向けようとしなかった。
外気をまだ纏ったままの彼のコートには、
夜霧の匂いと、鉄のような魔力の残り香があった。
――今夜も、闇の帝王のもとへ行っていたのだ。
長く共にいるからこそ、
そういう夜の匂いを、すぐに嗅ぎ分けられるようになっていた。
そしてその夜ごとに、
少しずつ何かが崩れていくような気がしていた。
「何か……ありましたか?」
問いながらも、
返ってくる答えがどんなものであるかは、もう分かっていた。
それでも、言葉にせずにはいられなかった。
“あなたを案じています”と、それだけでも伝わればよかった。
「いえ、何も。」
いつも通りの、抑揚のない声。
その「何も」が、あまりに重たく響いた。
アランはかすかに微笑んだ。
その笑みは、優しさよりも痛みに近い。
「……私にできることがあれば、言ってください。」
そう言いながら、
心のどこかで自分に苦笑していた。
――何もできはしない。
彼はすべてを自分で背負う人。
知恵も、力も、魔力も、すべてを備えた完璧な男。
そんな人の隣で、自分にできることなど一つもない。
かつて自分の魔力で誰かを癒したいと願ったこともあった。
けれど、いまでは彼の背中を追うことさえできず、
ただ、見ているしかできないのだ。
それでも――彼の心に寄り添いたかった。
その思いだけで、唇から言葉がこぼれた。
その瞬間だった。
レギュラスが一歩近づき、
アランの細い腕をぐいと引いた。
驚く間もなく、胸の中に閉じ込められる。
彼の外套の冷たさと、体温の温もりが一度に押し寄せてくる。
鼓動が耳の奥で鳴り響いた。
「こうしていてくれれば、十分です。」
低く落ちるその声が、頭上から降りてきた。
彼の声はいつだって穏やかだった。
けれど、その穏やかさの奥に潜む痛みを、アランは知っている。
――私の“何かできること”なんて、
きっとこの腕を差し出すことだけ。
そんなことを思いながら、
彼の背中にそっと手を回した。
その背は硬く、張り詰めていた。
まるで、何かを支えきるために強張っているように。
彼の髪の香りが少しだけ鼻先をかすめ、
そこに漂う夜の匂いが、どうしようもなく切なかった。
どれほどこの男は孤独の中で立ち続けているのだろう。
何を差し出して、何を犠牲にして、
今もあの帝王の前に立っているのだろう。
その全てを知ることはできない。
けれど、抱きしめる腕の中に感じる体温が、
確かに“生きている”ことだけを教えてくれる。
アランは目を閉じた。
せめてこの一瞬だけでも、
彼の心を休ませてあげられるように――と願いながら。
静かな寝室には、
衣擦れの音と、二人の呼吸だけがあった。
月明かりが床に落ち、
そこに重なる二つの影は、まるで一つの影のように溶け合っていた。
夜明け前の薄暗い空の下、
騎士団本部の作戦室では異様な緊張が漂っていた。
大理石の壁に貼られた魔法省の最新通達の写し、
いくつもの地図と新聞の切り抜きが並び、
その中央の長机には、
魔力で自動記録された報告書が淡く光を放っている。
――魔法省新機関設立。
名称は〈境界管理局(Border Authority for Magical Regulation)〉。
マグル界と魔法界の間に設置される新しい関所を統括し、
“魔法の痕跡がマグル社会に漏れぬようにする”ことを目的とする。
だが、その裏の構造を知る者たちは、
ただの監視機関では終わらぬことを悟っていた。
報告書の見出しを指でなぞりながら、
リーマス・ルーピンが低く呟いた。
「……表向きは、平和維持だな。」
「笑わせる。」とジェームズ・ポッター。
青白い光に照らされた顔には、怒りの色が滲んでいる。
「完全な純血主義の連中が、
マグル生まれの魔法使いを“起用”だと?
そんな話、茶番以外の何ものでもない。」
リーマスは頷いた。
机の上に置かれた報告書の末尾に、
新機関の管理運営者として二つの名が記されている。
――マルフォイ家、レストレンジ家。
「よりによって、この二家が主導か。」
「皮肉だな。
“境界を守る”って言いながら、
本当は差別の線を濃くしてるだけだ。」
その言葉に、部屋の片隅にいたシリウス・ブラックが
低く鼻で笑った。
「違ぇな。あいつらはもう、線なんか引いてねぇ。」
「どういうことだ?」とジェームズが問う。
シリウスはゆっくりと椅子の背にもたれ、
手の中の羊皮紙を机に放り投げた。
「マルフォイもレストレンジも、
“平等”を演じることで奴らの支配を合法にしてるんだ。
見せかけの慈悲ってやつだ。」
ジェームズは深く眉を寄せ、沈黙する。
シリウスの言葉には、
誰よりも長く“闇”を見てきた男の実感がこもっていた。
「しかもな……」とリーマスが新しい書類を差し出す。
「レギュラス・ブラックの名もある。
“顧問”として〈境界管理局〉に出入りしているそうだ。」
その名が出た瞬間、
シリウスの表情がぴたりと固まった。
「……あいつが?」
「ああ。レストレンジ家との血縁関係を理由に、
ごく自然に見える形で。
ただ、それが“自然すぎる”。」
部屋の中の空気が一段と重くなる。
蝋燭の炎が、かすかに揺れた。
ジェームズが深く息を吐く。
「絶対に何かある。
あいつがマグルに仕事を与えるなんて、あり得ない。
俺たちが知ってるレギュラス・ブラックってのは、
そんな男じゃない。」
「……ああ。俺が一番よく知ってる。」
シリウスが絞り出すように言った。
「アイツは――“理想”のためなら、何だって切り捨てる。」
言葉のあとの沈黙が、
重く、長く、痛いほど続いた。
壁の向こうでは、
夜明けの空がゆっくりと白んでいく。
だが作戦室の空気は、
それとは正反対に冷たく濃い闇を孕んでいた。
新しい“境界管理局”――
その名が掲げるのは平和の旗印。
だがその裏にあるのは、
ホークラックスを守るための“生きた壁”の計画。
その中心に、レギュラス・ブラックの影がある。
そしてシリウスは、
その事実が親友ジェームズの言葉よりも先に、
胸の奥で静かに痛みに変わるのを感じていた。
――あいつが、また闇の中に戻っていく。
見えない境界線は、
いま魔法界とマグル界の間だけでなく、
兄弟の心にも引かれ始めていた。
マグル生まれの魔法使いたちが、
魔法界とマグル界の境に設けられた関所の至る所へと配置されていった。
〈境界管理局〉設立の報が広まるにつれ、
それまで黒い噂の絶えなかったマルフォイ家もレストレンジ家も、
あたかも心を入れ替えたかのように
“平等な雇用”を掲げ、マグル生まれの者たちを積極的に登用し始めた。
世間は歓喜した。
貴族の意識が変わったのだと、時代が動いているのだと。
純血至上の家柄が先頭に立ち、
マグル生まれの者を抱え入れる――
それだけで、世界がまるで平和に近づいたかのような錯覚を抱かせた。
だが、その裏に潜む意図を知る者は少なかった。
“平和の象徴”と称された者たちは、
実際には監視の鎖につながれ、
目に見えぬ境界の門に封じ込められていた。
ホグワーツのクィディッチ競技場は、
冬の名残を孕んだ風にざわめいていた。
旗が翻り、校章が舞う。
空には厚い雲がかかっていたが、
時折こぼれる光が、金色のスニッチのように地表を照らした。
観客席には生徒たちの歓声がこだまし、
青と緑、赤と金の旗が入り乱れている。
その最上段、貴賓席に並んで腰を下ろした二人の姿。
レギュラス・ブラックと、その妻アラン。
今日、スリザリンの新シーカーとしてデビューするのは、
アルタイル・ブラック。
あの少年は――自分の血を引いてはいない。
だが、レギュラスにとっては紛れもなく「息子」だった。
シリウスとアランの間に生まれた子。
あの忌まわしい現実を知ってもなお、
レギュラスはその子を手放さなかった。
血よりも誇りを、嫉妬よりも守りを選んだ。
彼の人生の中で最も誇れる選択の一つだった。
アルタイルは、いまその細い体で風を切って飛んでいる。
相手は――グリフィンドールのシーカー、ハリー・ポッター。
なんという皮肉だろう。
“予言の子”と、“シリウス・ブラックの子”が同じ空を翔けている。
宿命のように、二人は金色の光を追ってぶつかり合う。
レギュラスは無言で観戦していた。
灰色の瞳が、空を裂く箒の軌跡を鋭く追う。
隣で、アランが翡翠の瞳を輝かせていた。
両手を胸の前で組み、息を詰めている。
その表情には、抑えきれぬ母の愛情が滲んでいた。
――その視線が、どちらを見ているのか。
「……どちらを応援しているんです?」
わざと軽く笑うように問いかける。
だが声の奥には、鋭い棘があった。
アランは微笑んで、短く答えた。
「アルタイルの晴れ舞台を見に来たのですから、当然アルタイルです。」
その言葉は、まっすぐで、少しも揺らぎがなかった。
それでも、胸の奥に刺さる。
「命懸けで守った“予言の子”がいるようですから、
てっきりその子を見ているのかと。」
その瞬間、空気がぴたりと凍った。
自分でも、嫌な言い方だとわかっていた。
だが止められなかった。
アランは小さく息を吸い、翡翠の瞳を伏せた。
「……あなたは、まだその話を。」
哀しみのような声。
叱るでも、拒むでもなく。
ただ、胸の奥に波紋のように広がっていく。
レギュラスは視線を逸らした。
拳を握り、喉の奥に滞る熱を押し込める。
観客席の向こう――
視界の端に、見覚えのある黒髪を見つけてしまった。
シリウス・ブラック。
そして、その隣にジェームズ・ポッター。
笑っている。
観客の歓声に手を振り、若き日のままの輝きを纏って。
レギュラスの内側に、瞬時に爆ぜるような怒りが走った。
あの男の存在は、常に自分の中の均衡を崩していく。
アランが、いまも無意識に彼を追っているのではないか。
自分の知らないところで、
視線や想いを交わしているのではないか。
――血のつながりなどなくとも、
アランの目にはシリウスの面影を映した息子がいる。
そしてその血を継ぐ少年を、
自分は“息子”として見つめている。
その事実が、胸を締めつけた。
羨望、嫉妬、誇り――
すべてが絡み合い、ほどけない。
空の上では、アルタイルとハリーが同時に急降下していた。
風が唸り、歓声が割れる。
金色のスニッチが太陽の欠片のようにきらめく。
観客が総立ちになる中、
レギュラスはただ手すりを握りしめていた。
自分の中の何かが、音もなく軋んでいく。
――シリウス、あの男の血は、
いまもこの家に、生きている。
そう思った瞬間、隣のアランが両手を組み、目を閉じた。
その祈りが誰に向けられたものなのか、
レギュラスにはわかってしまった気がして、
息をするのも苦しくなった。
試合終了を告げる笛が、冷たい冬空に鋭く響いた。
風に舞う歓声が一斉に爆ぜる。
――グリフィンドールの勝利。
紅と金の旗が空に翻り、
ハリー・ポッターが胸の中に金色のスニッチを抱きしめている。
勝者の光を浴びた少年の瞳は、まるでその光をそのまま宿したように
まっすぐで、澄みきっていた。
アランは静かに見守っていた。
敗北の色に沈むスリザリンの緑が、風の中で揺れている。
アルタイルは勝てなかった。
けれど――彼の飛翔は、誇り高かった。
細く引かれた風の軌跡のような箒捌き。
恐れも焦りもなく、空を切り裂く姿。
それは、若き日のレギュラスが見せた
あの堂々とした飛翔によく似ていた。
アランの胸に、静かな熱が広がっていく。
血のつながりなどなくとも、
彼はまぎれもなく「父の背中」を見て育ったのだ。
ふと隣を見れば、レギュラスが
ほんの小さく、ため息をついていた。
無表情に見えるその横顔に、
わずかな悔しさと誇らしさが交錯している。
アランはその空気をやわらげるように口を開いた。
「あなたのような、堂々とした箒捌きでしたね。」
別に、機嫌を取るための言葉ではない。
心から、そう思った。
彼女の声に、レギュラスはわずかに眉を動かしただけで、
何も言わず観客席を降りていった。
アランもその背を追う。
石段を降りるたび、歓声が近づき、喧騒が熱を増していく。
グラウンドに出ると、そこには
歓喜の渦に囲まれたハリーの姿があった。
仲間たちに肩を叩かれながら笑っている。
その姿はまるで光の中心にいるようで、
周囲の空気までもが輝いて見えた。
アランは思わず微笑んだ。
彼女の姿に気づいたハリーが、
人垣を抜けてこちらへと駆け寄ってくる。
その動作が幼さを残していながらも、
どこか凛としていて、まぶしかった。
「アルタイルとだから、本気でやり合えました。」
少し照れたように言うハリーの声に、
アランの胸がじんわりと熱を帯びた。
勝者としての誇りを見せるのではなく、
敗者への敬意を忘れないその姿勢――
なんと優しく、強い子なのだろう。
この子は、光そのものだ。
誰かを傷つけることなく、照らしていく力を持っている。
それは、闇に抗う唯一の魔法だった。
アランは胸の奥で、遠い記憶を呼び覚ました。
――あの日。
闇の帝王が“予言の子”を殺すと告げられた夜。
自分は震える手で、ダンブルドアの元へ報せを運んだ。
あの時、命懸けで選んだ道が正しかったのか、
ずっと答えを見つけられずにいた。
ポッター家を守るのはきっとシリウスだと思った。
だからヴォルデモートの襲撃から
シリウスだけでも救いたい一心で告げた。
結果的に――この“予言の子”の命を守ることになった。
あの日の選択は、誰かを救うためではなく、
ただ、愛した人を守りたいという
わずかな祈りだったのかもしれない。
それでも今、ハリー・ポッターの瞳を見ていると、
自分の選択が“光の欠片”だったのだと、
心の底から誇りに思えた。
アランはそっと手を伸ばした。
ハリーが驚いたように目を瞬かせ、
それでも逃げずに受け入れるように立ち止まった。
その細い体を、静かに抱き寄せる。
息子よりも少し背が高く、
肩越しに陽光の香りがした。
暖かくて、優しくて――
まるであの日、失われたはずの未来を抱きしめているようだった。
レギュラスがその光景を少し離れた場所から見ていた。
言葉はなかった。
ただ、ひとりの男として、
アランの翡翠の瞳に映る少年の姿を
どうしようもなく眩しく感じていた。
歓声がまだ響くグラウンドで、
アランの腕の中にいたハリーの笑顔が、
春を待つ光のようにあたたかく揺れていた。
