4章
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ホグワーツの午後は、いつも薄く霞がかかっている。
石造りの塔の影が長く伸び、陽が傾くにつれて廊下の空気が冷えていく。
アルタイルは、その静けさの中でふと立ち止まった。
手には、封蝋のついた一通の手紙。
差出人は――シリウス・ブラック。
もう何通目になるだろう。
夏の休暇で再会して以来、手紙のやり取りは細く長く続いている。
けれど、受け取るたびに胸が苦しくなるのだ。
自室に戻り、ベッド脇の小さな机の上で封を切る。
いつも通り、シリウスらしい力強い筆跡。
勢いよく走るインクの線からも、彼の性格が滲んでいた。
「アルタイル、勉強はどうだ? ハリーと喧嘩してないか?」
「この前のクィディッチの試合、見たかったな」
「それから――アランはどうしてる?」
そこまで読んで、アルタイルの指が止まった。
インクの染みた文字が、胸の奥を締めつける。
「アランはどうしてる」
その一文が、まるで呪文のように響く。
いつだって同じだ。
どんな手紙にも、必ずその言葉が書かれている。
彼の筆跡の強さとは裏腹に、その文字だけが少し小さく、ためらいが混じって見えるのは気のせいだろうか。
シリウスが母を心配している――
それは、きっと心の底からの想いだ。
それを疑う余地などない。
けれど、その優しさを伝えれば伝えるほど、母アランの心はどこかで傷ついてしまう気がした。
暖炉の火が静かに揺れ、羊皮紙の端を橙色に照らす。
アルタイルは手紙を折りたたき、深く息を吐いた。
――母に、このことを話すべきだろうか。
ほんの一瞬、そう考えた。
けれど次の瞬間、頭の中でレギュラスの姿が浮かぶ。
書斎の椅子に腰かけ、黙って書類に目を通すあの灰色の瞳。
いつも冷静で、凛として、誰にも隙を見せない男。
アルタイルにとっては、父であり、師であり、誇りだった。
そんな父が、どれほどの想いで母を守り、支えてきたかを知っている。
どんな時も、妻を第一に考え、弱音ひとつ吐かない。
愛情を、ただ行動で示し続けてきた人。
――その父の前で、「母を心配しているのは別の男だ」なんて、どうして言える?
胸が痛む。
自分の中の血が二つに裂かれているようだった。
一方はシリウス・ブラックの血。
陽の光のように熱く、真っ直ぐで、何よりも人を包み込む温かさ。
もう一方はレギュラス・ブラックの血。
夜の静けさのように冷たく、誇り高く、決して揺るがない力。
どちらも自分を形づくるもの。
どちらかを否定することは、自分の一部を切り捨てることに等しい。
だが――母を守りたいと思う時、
アルタイルの中で勝つのは、やはりレギュラスの血だった。
彼の名誉を、彼の愛を、彼が築いた家庭を。
誰よりも近くで守るのは自分でなければならない。
それが、息子としての使命のように思えた。
だから、何も言わなかった。
母に、シリウスのことを。
その人が今も母を想っていることを。
そしてその想いが、手紙のたびに綴られていることを。
全て――胸の奥に閉じ込めた。
アルタイルは立ち上がり、暖炉の前に歩み寄る。
炎の前に手紙をかざし、ためらいながらも、
指先を離した。
羊皮紙がゆっくりと燃えていく。
赤い光が文字を包み込み、やがて黒い灰に変わった。
――これでいい。
誰も傷つかない。
そう呟いても、心は軽くならなかった。
ただ、胸の奥に溜まった重さが、
静かに沈殿していくだけだった。
炎の光が翳っていく。
灰色の瞳に映るその光が、
まるで消えかけの星のように、揺らいでいた。
季節は秋へと移り、屋敷の庭には紅葉が色づき始めていた。
リディアは、ホグワーツから戻る馬車の窓からその光景をぼんやりと眺めていた。
空気が澄んでいて、遠くの丘の上まで見渡せる。
だが、心の中には霞がかかったように重く、息苦しいものがあった。
父レギュラスから届いた手紙には、端的な言葉でこう記されていた。
「婚姻の取り決めの話があります。
一度、屋敷に戻りなさい。」
淡々とした文面。
けれど、その一文が、まるで運命の扉の音のように思えた。
屋敷に到着すると、長い石畳の廊下を歩く足音がやけに響いた。
どの部屋も昔と変わらない。
重厚なカーテンの隙間からは金色の光が差し込み、
その下を通るたびに、自分がもう子供ではないことを思い知らされる。
食堂に入ると、レギュラスがすでに席に着いていた。
背筋を伸ばし、いつものように整然とした姿。
手元には分厚い書類の束が積まれている。
そして、目の前の椅子を指し示す。
「座ってください、リディア」
リディアは静かに頷き、椅子を引いた。
その瞬間、幼い頃に叱られた時と同じように、
背筋が自然とまっすぐになるのを感じた。
「ノット家の子息との縁談の顔合わせです」
レギュラスの声は変わらない。冷静で、感情の揺らぎが一切ない。
「きっと気に入られますよ」
リディアは口角を上げ、形だけの笑みを浮かべた。
「お父様が選んでくださった方なら、間違いありませんわね」
そう言うのが正解だと思った。
それ以外の言葉を探す勇気がなかった。
けれど――胸の奥では、何かが悲鳴をあげていた。
本当にそれでいいの?
愛のない結婚をして、微笑むだけの妻になって。
母のように、心のどこかを空洞にしたまま生きていくの?
息が詰まりそうだった。
どうしてこんなに苦しいのか、自分でもわからなかった。
父の言葉を聞きながら、
脳裏に浮かんだのは一人の女性――実母カサンドラの姿だった。
まだ幼い頃。
夕暮れの廊下で、カサンドラが黒いヴェールを下ろして屋敷を去っていくあの背中を見た。
誰も追いかけようとしなかった。
ただ、静かに扉が閉まる音だけが響いていた。
――あの人の娘である自分も、同じ道を歩くのだろうか。
その思いが、喉の奥に絡みつくように苦しかった。
知らずのうちに、頬を伝って涙が落ちていた。
レギュラスは気づかなかったのか、気づいても口にしなかった。
いつも通り、沈黙の支配者のままだった。
その時、扉が静かに開いた。
アランが入ってくる。
白いドレスの裾が床をすべり、香りが部屋に流れ込んだ。
レギュラスとは対照的な柔らかさ。
アランは、涙を拭うこともできずに座る娘のもとへすぐに歩み寄った。
そして、何も言わず抱きしめた。
「リディア……」
優しい声だった。
かつて自分が熱を出して寝込んだ夜に、
同じようにこの腕に包まれて眠ったことを思い出す。
「あなたの気が進まないのなら、この婚約は断りましょう」
その一言に、リディアの胸が揺れた。
母の温もりに包まれて、嗚咽がこみ上げる。
「アラン」
その時、レギュラスの声が割り込んだ。
冷たく、鋭く、氷の刃のように響く。
短い一言――それだけで、空気が凍りついた。
アランは一瞬目を伏せ、リディアを抱く腕に少しだけ力を込めた。
それ以上は何も言わなかった。
沈黙が降りる。
時計の針が進む音だけが、遠くで響いていた。
リディアは、自分の鼓動の速さを感じながら、
どちらの顔も見られなかった。
父の冷静な瞳も、
母の揺れる瞳も。
この二人の間に挟まれて生きてきた。
愛されて育った――それは確かだ。
だからこそ、誰も責められない。
カサンドラを愛さなかった父を恨むこともできない。
アランが母の居場所を奪ったと感じたことも、一度もない。
アランは、実の母以上の愛情を注いでくれたのだから。
けれど、それでも――
心のどこかに、実母の影は消えない。
あの人の悲しみを、背中の寂しさを、
自分は確かに覚えている。
だから怖い。
同じようになるのではないか。
愛されない正妻として、形だけの夫に仕え、
誰にも心を見せられないまま生きるのではないか。
思い描く未来の光景が、あまりにも冷たく、暗かった。
涙が次々と頬を伝う。
「リディア……」
アランの声が微かに震える。
レギュラスは黙ったまま、
ただ、硬く組んだ指を机の上に置いていた。
愛するということは、きっとこういうことなのだ。
誰かを守るために、誰かを泣かせてしまう。
誰も間違っていないのに、
誰も幸せにはなりきれない。
リディアは母の胸の中で、
声を上げずに泣き続けた。
外では風が吹き、
庭の紅葉が舞い落ちていた。
その音が、まるで屋敷全体のため息のように聞こえた。
ぼとぼとと大粒の涙をこぼす娘の姿を前にして、アランの胸は張り裂けそうだった。
嗚咽をこらえるリディアの肩を抱きながら、
――どうして私は、この子にまで同じ悲しみを背負わせてしまうのだろう。
そんな思いが喉の奥を塞いで、息が苦しかった。
リディアが部屋に下がったあとも、あの涙の跡が頭から離れない。
あの翡翠のような瞳に似た灰色の瞳が、怯えと絶望で揺れていた。
それを見て、アランの中にあるもう一つの顔――カサンドラ・ロズィエの面影が重なった。
彼女もまた、同じようにこの屋敷で泣いたのだ。
愛されないまま、耐えて、静かに去っていった。
そのことを思うと、申し訳なさと悔しさが胸に押し寄せた。
まるで、カサンドラの罪をいま自分が償っているかのように。
リディアの部屋の扉が閉まる音を聞き終えた瞬間、アランはもう抑えきれなかった。
寝室に向かい、机の上に資料を広げているレギュラスを見つける。
「レギュラス……せめて、明日の会合は延期してください」
その声は震えていた。
けれど彼は、顔も上げずに書類を揃えながら答える。
「できません。あちらがわざわざ出向いてくださるんですよ」
低く、揺るぎのない声。
その冷静さに、逆に胸が痛んだ。
「このままでは、リディアの心が壊れます」
「婚姻生活なんて、慣れです」
「慣れません……!」
抑えていた声が、堰を切ったように溢れた。
「蓋をして生きていくんです。感じないようにして、見ないようにして……
そんなもの、幸せじゃないわ」
レギュラスは静かにため息をついた。
「アラン、もうその話は――」
手を振って、終わりだという仕草をする。
だが、今日だけは、どうしても引けなかった。
レギュラスが部屋を出ようとしたその腕を、アランは思わず掴んだ。
「あなたは……カサンドラの心を壊しました」
その言葉に、空気が凍る。
レギュラスの足が止まった。
けれど、振り返らない。
アランはそれでも、止まれなかった。
「一度も愛さず、彼女の誇りを踏みにじった」
「……」
「そして、今度はリディアを――同じ目に遭わせようとしている」
沈黙。
炎の揺らぎが、ふたりの影を壁に映し出している。
その揺れが、まるで亀裂のように見えた。
――もう、やめて。
頭の中で警鐘が鳴っていた。
これ以上言えば、戻れないところまで行く。
それでも、唇は動いた。
「私の……シリウスを思っていた心も、壊しました」
「そんな想いを、血の繋がった娘にまで、させるつもりですか?」
その名を出した瞬間、部屋の空気が鋭く裂けた。
レギュラスの肩が僅かに揺れ、掴んでいた手が振り払われる。
「……では僕も言わせてもらいましょうか?」
静かな声だった。
だが、その静けさの奥に潜む冷たさは、刃よりも鋭かった。
彼がこちらを振り向く。
灰色の瞳が、氷のように光る。
「どこまであなたに振り回された人生だったか、分かりますか?」
アランの心臓が、ひとつ大きく跳ねた。
「闇の帝王の前で、僕が何を差し出し、何を誓ったか――あなたに分かります?」
声は穏やかだった。
けれど、その言葉の一つ一つが、焼けるように痛かった。
そう――知っている。
レギュラスが、かつて自分を守るために闇の帝王に下ったことを。
自分が騎士団と関わっていた罪を問われたとき、
あの男はすべてを背負った。
自らの魂を、闇の支配者に差し出してでも、
アランを守る道を選んだ。
その代償がどれほどのものだったか――
想像するだけで、息ができなくなる。
彼の声が、静かに降りてくる。
「アラン。僕の心を一番壊したのは、あなたですよ」
その瞬間、アランの視界が揺らいだ。
立っていられないほどの衝撃だった。
喉の奥が焼けつくようで、涙が止まらなかった。
「……そんな、こと」
声が掠れる。
だけど、もう彼は目を合わせてくれなかった。
暖炉の火がぱちりと弾ける。
その音が、まるで二人の間で何かが完全に壊れた合図のように聞こえた。
アランは震える手で口元を覆った。
頬を伝う涙は止まらず、次々と零れ落ちていく。
気づけば、十数年前の光景が蘇っていた。
――あの夜。
差し出された手。
闇の中で、シリウスが自分の名を呼んだ声。
あの時、あの手を取っていれば――
取れなかった手。
選べなかった未来。
それが、今も彼女の中で疼いている。
後悔が、胸の奥で血のように滲む。
それでも、その痛みすらもう、誰にも話せない。
レギュラスは背を向けたまま、何も言わなかった。
扉が静かに閉まる音がした。
その音を聞きながら、アランは崩れ落ちるように床に膝をついた。
涙が床に落ちて、滲んだ。
まるで、取り返しのつかない愛の跡のように。
アランの中で――いまだに、シリウスとの掴めなかった未来が生き続けている。
その事実を、レギュラスは初めて真正面から突きつけられた。
頭ではずっと分かっていた。
アランの瞳の奥に、どこか届かない遠い光があることも。
触れても、抱きしめても、心のどこかに微かに残る影が、
自分のものではない誰かを映しているのだということも。
けれど、それを口にされることと、ただ感じ取っていることはまるで違う。
「心を壊された」と言われたその瞬間、
レギュラスの中の均衡は完全に崩れ落ちた。
何かを言い返す気力もなかった。
胸の奥に、何か冷たいものが突き刺さって抜けなくなったようだった。
静かに、部屋を出て、書斎へと向かった。
扉を閉める音が、まるで外界との境界線のように響く。
次の瞬間――彼は、テーブルの上のものを一気になぎ払った。
羽ペンが宙を舞い、インク壺が床に転がって砕ける。
黒い染みが絨毯に広がり、まるで胸の中に溢れ出た感情のようだった。
魔法写真が倒れ、額縁の中の家族が静かに揺れる。
倒れた写真の一つに、アランと共に微笑む自分の姿が映っていた。
リディアの小さな手を握り、アルタイルが肩に腕を回して笑っている。
完璧な家族の形――
だが今、彼の目には、その写真がひどく偽りに満ちたものに見えた。
「……何をしているんだ、僕は」
低く、自嘲するような声が漏れた。
額を押さえる。
手のひらの下で、鼓動が不規則に跳ねている。
アランを手に入れたはずだった。
彼女の隣に立ち、彼女の名を名乗らせ、彼女の人生を自分のものにした。
愛して、守って、与えて――それでもなお、届かない。
体を重ねるたびに、彼女が少しだけ遠くに行ってしまうような気がして、
それが怖かった。
だから、抱く回数を増やした。
まるで、触れるほどに絆が確かめられるとでも信じるように。
シリウスがアランを抱いた回数なんて、
とっくに上回っているはずだった。
数では到底届かないと知りながら、それでも自分に言い聞かせるように数えた。
十数年という時間の積み重ねが、
せめて自分の立場を保証してくれると思いたかった。
それは小さな優越感だった。
男としての誇りの最後の支え。
けれど――その夜、アランの言葉はそれらを一瞬で瓦解させた。
「心を壊された」
たったそれだけで、十数年分の思いが灰のように崩れ落ちた。
レギュラスは、ぐらつく視界の中で、
ひとりの男としての自分が崩壊していくのを感じていた。
机の上に残った書簡の束の中には、
かつて闇の帝王と交わした誓約の記録がある。
思わず指先が震えた。
あの夜、自分が差し出したもの――
それは名誉でも命でもなく、魂そのものだった。
アランを守るために。
彼女を罪人にしないために。
闇の帝王の前に跪き、
「この身すべてを差し出す」と誓ったあの時の光景が、脳裏に焼きついている。
誰にも知られなくていい。
アランに感謝などされたくもない。
そんな取引をしたことすら、知られたくなかった。
恩義を感じさせたくなかった。
ただ、彼女の笑顔の裏に穏やかな日々があればそれでよかった。
――それくらい、アランという女は自分のすべてだった。
椅子に腰を下ろし、両手で顔を覆う。
深く息を吐くたびに、胸が締めつけられる。
手のひらに残るアランの温もり。
唇に残る、彼女の涙の味。
あれほど確かに存在していたものが、
今はどれも虚空に溶けて消えていくように思えた。
書斎の奥では、壊れた写真立てが傾いたまま、
倒れた影を伸ばしている。
その影が、まるで自分自身の心のかたちのように見えた。
形を保てなくなり、
触れれば崩れ、
誰にも見せられないほど脆くなった、壊れた心。
――アラン。
僕は、あなたに何をしてしまったのだろう。
レギュラスは目を閉じ、
闇の中で小さく呟いた。
暖炉の火が静かに揺れ、
ひときわ強く燃え上がって、
そして消えた。
ホグワーツの制服を脱いだばかりの少女が、今夜は立派な令嬢の装いをしていた。
リディア・ブラック――その名にふさわしく、深緑のドレスを身にまとい、
漆黒の髪を丁寧に編み上げて宝石のような銀の飾りを添えている。
耳元で揺れる小さなイヤリングが、緊張で微かに震えていた。
ノット家との顔合わせの場は、屋敷の最も古い応接室で行われた。
大理石の床に灯りが反射して、まるで静謐な湖のように光を湛えている。
壁に掛けられた一族の肖像画が、無言のまま二人を見下ろしていた。
レギュラスは席に着く前に姿勢を正し、
アランとリディアに視線を送ることなく、
淡々と挨拶の言葉を述べた。
「ノット卿、ようこそお越しくださいました」
声には一片の揺らぎもない。
貴族としての礼儀と威厳を完璧に備えた声。
それを聞きながら、アランの胸の奥は強く締めつけられた。
昨日のあの言葉が、まだ耳に焼きついている。
壊されたのはどちらの心だったのだろう――
考えるたびに、胸が痛んだ。
一方、リディアは父の斜め向かいに座り、
あどけなさを残しながらも、堂々と背筋を伸ばしていた。
完璧な微笑を浮かべ、ノット家の子息に挨拶をする。
その笑顔の奥で、膝の下の手が小さく震えているのを、
アランだけが見ていた。
テーブルの下、アランはそっとその手を包み込む。
温もりが伝わる。
リディアの瞳が一瞬だけ母の方を見て、
安心したように瞬いた。
――大丈夫。今日はまだ、決まりではない。
そう心の中で何度も呟いた。
形式上の顔合わせ。
最終的な判断は、本人同士の意向を含めて決まるはずだった。
けれど、そんな建前がどれほどの意味を持つのか。
アランには分かっていた。
ブラック家の“決定”とは、常に父レギュラスの言葉ひとつで下るものだ。
それでも、娘に恥をかかせたくはなかった。
この場だけでも、堂々と、誇り高くあってほしかった。
ノット家の子息は二十を越えているというのに、
無邪気な笑顔でリディアの手をとり、
「お会いできて光栄です、ブラック嬢」と口にした。
その声が妙に軽くて、アランの胸の奥がざわついた。
「こちらこそ……」
リディアの声は震えを帯びていた。
隣でレギュラスが何も言わず、ただ静かに見つめている。
その灰色の瞳は、何を考えているのか掴めない。
昨夜のあの口論以来、アランは夫の目を見ることができなかった。
互いに何かを壊してしまったという確信だけが、
二人の間に深い溝を作っていた。
――せめて、今だけは平穏に終わってほしい。
アランはリディアの指先をもう一度握った。
娘の手は冷たい。
けれど、その小さな指先が必死に震えを抑えているのが分かった。
会合が終わるころには、夜の帳が屋敷を覆っていた。
重たい空気をまとったまま、ノット家の馬車が去っていく。
玄関先で見送るレギュラスの横顔は、
まるで彫像のように動かない。
その背中に、アランはもう何も言わなかった。
何を言っても届かないと思った。
翌朝。
空が淡い紫に染まり始める頃、
アランはリディアを起こし、荷をまとめさせた。
「お母様……どこへ?」
「フランスよ。ロズィエ家へ行きましょう」
その言葉にリディアの瞳が大きく揺れた。
「お父様に言わなくて、平気かしら?」
アランは微笑んだ。
けれど、その笑みはどこか儚げだった。
「大丈夫よ。心配しないで」
声の奥に、決意のような硬さがあった。
彼女の中で、今だけは夫よりも娘の心を優先するという決断が固まっていた。
玄関の扉が静かに開く。
ひんやりとした朝の風が流れ込む。
アランはフードを被り、リディアの手を握って外へ出た。
石畳を踏む音が、まだ眠る屋敷の中に響く。
馬車の影が待っていた。
御者に小声で合図を送り、二人は乗り込む。
振り返れば、屋敷の塔の上に明かりが灯っていた。
おそらく、レギュラスはもう気づいている。
けれど――追ってくることはないだろう。
彼はそういう男だ。
馬車が走り出す。
蹄の音が遠ざかり、霧がゆっくりと二人を包み込む。
アランはリディアの肩を抱き寄せた。
娘の髪から漂う花の香りが切なくて、胸が痛くなった。
「大丈夫。きっと、カサンドラ様が力になってくれるわ」
窓の外には、まだ夜の名残を残す薄明の空。
その向こうに、フランス・ロズィエ家の屋敷が待っている。
かつて自分が去ることを選んだ地へ――
今度は、母として戻るのだ。
その旅が、
リディアの未来を変えることになるとは、
まだこの時のアランは知らなかった。
フランスの地に降り立った時、空気が違って感じられた。
薄く霞む朝靄の中、石畳の道を馬車が静かに進む。
ロズィエ家の屋敷が近づくにつれて、胸の奥がざわついていく。
この門をくぐるのは、生まれて初めてのことだった。
リディアは窓の外に広がる庭園を見つめた。
四季折々の花々が幾重にも咲き誇り、噴水の水音がかすかに響いている。
その景色の中に、母カサンドラの面影を重ねた。
いつもどこか遠い存在で、けれど確かに血でつながっている人。
今から会うのだと思うと、足が震えた。
扉が開かれた瞬間、
玄関ホールの奥に立つ女性が目に飛び込んできた。
金の髪を優雅にまとめ、深紅のドレスを纏ったその姿――
まるで昔、肖像画で見たままの姿だった。
「……お母様」
その一言で、喉の奥が詰まった。
言葉にならない。
ただ、熱いものがこみ上げてきて、
次の瞬間には頬を伝って涙が零れ落ちていた。
「会いたかったわ……お母様」
声を震わせながら駆け寄ると、
カサンドラは静かに両腕を広げて受け止めてくれた。
抱きしめられた瞬間、
幼い頃に知らぬうちに空白になっていた“母の匂い”が胸いっぱいに広がる。
「大きくなったのね、リディア」
「美しくなったわ……本当に」
耳元で囁かれた声に、
こらえていたものが一気に崩れた。
屋敷ではアランが母のように愛を注いでくれた。
優しく、温かく、決して欠けることのない愛情だった。
けれど――やはり実の母の抱擁は違った。
触れただけで、血の温度が伝わってくる。
胸の奥に長いこと溜まっていた何かが、音を立てて溶けていくようだった。
アランも静かにその様子を見つめていた。
母と娘の間にある、言葉を超えた絆。
それを壊さぬようにと、少し距離を取って立っていた。
広間に移り、三人でテーブルを囲んだ。
カサンドラは紅茶を注ぎながら、
まるで何も変わらぬ日常を取り戻すかのように穏やかだった。
「それで……顔合わせはどうだったの?」
その問いに、リディアは小さく唇を噛んだ。
アランが優しく頷いて促す。
そこでようやく、娘は全てを打ち明けた。
ノット家との顔合わせで感じた不安。
十以上も歳の離れた相手に対する恐怖。
そして、父の決断に逆らえず、母の前で涙を堪えたこと。
アランも補うように口を開いた。
「婚約が進みそうになってはいますが、
まだ決定ではありません。リディアは迷っています。
私は……彼女の気持ちを何よりも尊重したいんです」
その声には、昨夜の激しい口論の名残があった。
誰よりも娘を想うからこそ、もう夫の決断に黙って従うことはできない。
カサンドラは二人を見比べ、
静かに紅茶のカップを置いた。
「そう……そうなのね」
その声には思案の響きがあった。
長い沈黙のあと、彼女はふっと微笑んだ。
「私は……いいと思うわよ。ノット家との婚姻」
その言葉にアランが顔を上げた。
「カサンドラ様……! ですが――」
「分かっているわ、アラン」
カサンドラは優しく遮る。
「けれど、どの家のご子息を紹介されたところで、
最初から“正解”なんて分からないでしょう?
ならば、飛び込んでみることも一つの手よ。
人生は、失敗から花が咲くこともあるの」
あまりに達観した言葉に、アランは言葉を失った。
そして、そんな母をたしなめるように眉を寄せる。
「ですが……大切なのはリディアの気持ちです」
カサンドラはその姿を見て微笑んだ。
かつて敵対していた女が、今では娘を庇って自分に意見している――
それが、どこかおかしくもあり、誇らしくもあった。
「そうね、あなたの言う通りだわ」
そう言ってから、カサンドラはリディアの手を取った。
「もし嫌なら、ロズィエ家にいらっしゃい。
あなたはこの家の娘でもあるのだから。
もしくはブラック家に戻ってもいい。
あなたにはアランがいるでしょう?
――リディア、あなたには帰る場所がいくつもあるのよ」
リディアの喉が詰まり、視界が滲んだ。
「……お母様」
その一言で、これまでの重さが少しずつ解けていくのが分かった。
自分はどこか一つに縛られていない。
父の名でも、家の名でもない。
“リディア”という一人の人間として生きていいのだ――
そう思わせてくれたのは、母のこの言葉だった。
アランはその光景を見つめながら、
胸の奥で静かに息を吐いた。
これでいいのだ。
リディアの心が軽くなるなら、
たとえレギュラスが怒りに震えたとしても構わない。
――母の手に導かれた娘は、
いまようやく、自分の未来を選ぶための場所に立っていた。
その夜、屋敷は異様な静けさに包まれていた。
いつもなら、執事の足音や遠くの暖炉の薪の爆ぜる音が、
かすかな生活の気配を運んでくるはずなのに――今宵ばかりは違っていた。
空気が重く、どこか張り詰めていて、
エリナ・ウェルズは息をするのもためらうほどだった。
廊下の先、夫婦の寝室の扉の向こうから微かな声が響く。
耳を澄ませたくなくても、自然と足が止まってしまう。
それは、今まで聞いたことのないような声の調子だった。
「レギュラス、せめて明日の会合は延期してください」
「できません。あちらが出向いてくださるのです」
アランの声は震えていた。
それでも、決して怯えているわけではない。
むしろ、娘を想う母としての強さがその一言一言に宿っていた。
「このままではリディアの心が壊れます」
「婚姻生活など、慣れです」
「慣れません……蓋をして生きていくんです」
それは、穏やかな夫婦喧嘩などではなかった。
言葉こそ静かに選ばれているが、
互いの心を削り取るような、張り詰めた争いだった。
――この二人が、言葉でぶつかる姿を初めて見た。
アラン・ブラック。
いつもは柔らかな微笑みと気品で屋敷を満たす女性。
その声に怒りの色が混じるなど、誰が想像できただろう。
普段は決して誰にも感情を荒げない彼女が、
今は静かに、けれど確固たる意志を持って夫に立ち向かっている。
対するレギュラス・ブラックもまた、
決して声を荒げることはない。
低く、冷ややかに言葉を積み重ねる。
それがかえって、アランを圧するものとなっていた。
冷戦――まさにその言葉が似つかわしい。
扉の向こうでは、何かが静かに崩れていく音がした。
アランが涙を堪えているのだろう。
そして、レギュラスの息が僅かに乱れた気配があった。
「あなたは……カサンドラの心を壊しました。
一度も愛さず、彼女の誇りを踏み躙りました」
アランの声が震える。
それでも逃げなかった。
「私の……シリウスを思っていた心も壊しました。
そんな想いを、血の繋がった娘にまでさせますか?」
その名が出た瞬間、空気が凍りついた。
シリウス――
それはレギュラスにとって、最も触れてはならない名。
扉の向こうで何かが弾けたような気配がした。
エリナは息を呑んだ。
「では僕も言わせてもらいましょうか?」
その声は低く、鋭い刃のように響く。
「どこまであなたに振り回された人生だったか、
分かりますか? 闇の帝王の前で、
僕が何を差し出し、何を誓ったかあなたに分かりますか?」
――闇の帝王。
その言葉が耳に届いた瞬間、エリナの背筋に冷たいものが走った。
この夫婦の間に横たわる闇が、ただの感情ではないと理解した。
ヴォルデモートに、何かを差し出した――?
その取引の内容はわからない。
けれど、声の震えから、それが尋常なものではないことは察せられた。
命か、あるいは魂そのものか。
それほどの代償を、この男は払ったのだろう。
「アラン、僕の心を一番壊したのはあなたですよ」
扉の向こうで、何かが静かに崩れ落ちた音がした。
それが、彼女の涙だったのか、
それともこの夫婦の絆そのものだったのか、エリナには分からなかった。
翌朝、屋敷の中は不気味なほど静かだった。
アランとリディアが荷をまとめて玄関を出ていく姿を、
エリナは階段の陰から見送った。
「……奥様、まさか」
小声で呟いた。
レギュラスに告げずに出ていく――そんなこと、これまで一度もなかった。
リディアの背中は小刻みに震え、
アランは何も言わずに娘の肩を抱いて歩いていた。
その表情には、決意と哀しみが入り混じっていた。
屋敷の扉が閉まる音が響いたあと、
しばらくして――
レギュラス・ブラックの書斎から、
何かが壊れるような激しい音がした。
本棚が倒れる音、
ガラスが割れる音、
重たい椅子が床を引きずる音。
彼が荒れる姿など、誰も見たことがなかった。
それだけに、その音は屋敷中に恐怖を広げた。
エリナは震える指で報告書を書いた。
ペン先が何度も紙を掠め、インクが滲んだ。
――アラン・ブラック、リディア・ブラック共に屋敷を出る。
――レギュラス・ブラック、書斎にて破壊音。精神的動揺の兆候。
――昨夜の口論にて、「闇の帝王」「取引」「差し出したもの」という発言を確認。
書き終えた紙を乾かし、
封をして、騎士団宛に魔法通信で送る。
青白い光が一瞬だけ部屋を満たした。
消えゆく光を見つめながら、
エリナは自分の心臓の音が、
屋敷の沈黙の中にやけに大きく響いているのを感じた。
――この家は、いつ崩れてもおかしくない。
そう思った。
けれどその崩壊の音を、一番近くで聞いているのは自分なのだと、
エリナはようやく悟った。
その報せは、執事の手を通して静かに届けられた。
――リディア嬢はホグワーツへと戻られました。
それだけの一文が、
妙に胸の奥を冷たく撫でていく。
広すぎる食卓の上には、いつものように二人分の朝食が整えられていたが、
温もりを感じることはなかった。
レギュラスはカップを持ったまま、
湯気の向こうに座るアランを見た。
彼女は微笑んでもいなければ、俯いてもいない。
ただ、静かに整った姿勢で座っている。
その落ち着きがかえって胸に痛かった。
「娘は……戻らないそうですね」
「ええ。リディアはそのままホグワーツへ」
まるで他人事のような穏やかな声だった。
そこに罪悪も、動揺も感じられない。
ただ受け止めたという事実だけが淡々と流れる。
「そして――ノット家との婚姻を受け入れたと」
「ええ」
アランはその一言で終わらせようとした。
けれど、レギュラスの視線がそれを許さなかった。
長い指先でカップをゆっくりとソーサーに戻し、
低く、静かに問いを続けた。
「どういう説得をしたんです?」
その声音に怒りはない。
だが、確かにそこには棘があった。
“何が彼女の心を変えたのか”
純粋に知りたい――
そう言い訳するように、自分に言い聞かせる。
本当は違う。
ロズィエ家に行ったことを責めたいのでもない。
ただ、自分の知らぬところで、
娘の心を決定づけた“何か”が存在したことが許せなかった。
アランは、少しだけ目を伏せた。
その仕草は、まるで痛みを押し殺すようでもあり、
記憶を辿るようでもあった。
「カサンドラ様が……おっしゃったのです」
声が、細く、しかし確かに震えた。
「踏み込んでみなければ分からない世界がある。
そう教えてくださったと。
そしてリディアの背を押してくださったのです」
その名を聞いた瞬間、
空気がぴたりと止まった。
カサンドラ。
レギュラスの耳にその音が届くと同時に、
胸の奥の何かがきしむ音がした。
懐かしいという感情ではない。
もっと、黒く、重たく、やりきれない感情。
「……そうですか」
ただ、その一言を搾り出すのがやっとだった。
カップの中の紅茶はすでに冷めきっていた。
しかし、手放すことができない。
そのまま、無言で液面を見つめる。
アランの声が遠く聞こえた。
愛したこともない女――
かつて、彼女にそう言われた言葉が、耳の奥で再生される。
その女の名を、今、彼女の口からまた聞く。
しかも、まるで娘の人生を導いた賢母のような口ぶりで。
胸の奥で、鈍い音が鳴った。
カサンドラ・ロズィエ。
自分がかつて壊した女。
その名が、まだこの家の空気の中に残っていることが、
どうしようもなく不快だった。
――もう終わったはずなのに。
――なぜ、まだおまえはこの家の中で息をしている。
そんな声が心の奥から湧き上がる。
アランは気づいていないのだろうか。
彼にとって、カサンドラという名がどれほどの棘であるかを。
そして、彼女が口にした瞬間に、
どれほど過去の亡霊が甦るかを。
けれど、責める気力もなかった。
その疲弊が、今の自分の限界を物語っていた。
「そうですか……」
再び同じ言葉を口にして、
それ以上は何も言わなかった。
アランもまた、何かを察したように黙り込む。
二人の間に沈黙が流れた。
窓の外では、午後の光が傾き始めている。
長い影が床を横切り、
テーブルの上のカップの影と重なった。
レギュラスはそっと立ち上がる。
「少し、書斎に戻ります」
「……ええ」
その声の向こうで、アランの指先が
膝の上でかすかに震えているのが見えた。
扉が閉まる。
重たい音が、心の底まで響いた。
レギュラスは書斎の扉に背を預け、
深く息を吐いた。
――踏み込んでみなければ分からない世界、か。
皮肉なものだ。
踏み込んだ結果、壊れてしまう世界もあるというのに。
冷たい指先で額を押さえ、
静かに呟いた。
「……もう、あの名は口にしないでくれ」
誰に聞かせるでもない独り言。
けれど、その声は確かに震えていた。
最近、胸の奥が重たかった。
それは風邪でも発熱でもなく、もっと曖昧な不調。
体の芯がじわりと疲れを帯び、
まるで魔力そのものが濁っていくような感覚だった。
――無理をしている。
それは自分でも分かっていた。
けれど、誰にも言えなかった。
とくにレギュラスには。
彼の前で“弱さ”を晒すことは、いまのアランには何よりも怖かった。
心の距離がわずかに離れただけで、
彼の瞳の奥に、見たくない影が差すのを知っていたから。
淡い光が差す部屋の中央で、エリナ・ウェルズが静かに立っていた。
彼女の白いローブが、清潔な空気の中で微かに揺れる。
「アラン様、お体がすぐれないのではありませんか?」
その問いに、アランは微笑を作った。
「いえ、少し……眠たいだけですの」
優雅な笑みで取り繕いながらも、
喉の奥で嘘の味がした。
エリナの灰色がかった瞳がじっとアランを見つめていた。
鋭い。
まるで、心の奥まで見透かされるような視線だった。
「魔力の波に変化がありましたので……お聞きしました」
淡々とした声。
感情をまるで交えないその言い方は、
かつての医務魔女サラ・モーリンとはまるで違っていた。
あの人は、診るときにも“寄り添う”気配があった。
けれどエリナは――違う。
彼女の診察には温度がない。
必要な情報を引き出し、冷静に判断する。
まるでレギュラスのように。
だから、アランはこの若い医務魔女に心を開ききれなかった。
「少し休みます」
そう言って席を立つ。
それ以上、彼女の観察の眼差しに晒されるのが辛かった。
寝室に戻ると、
淡い薄明かりがレースのカーテン越しに差し込んでいた。
空気が冷たい。
レギュラスの香水の残り香が、枕元にかすかに漂っている。
この香りを嗅ぐたび、
どうしようもなく胸が締め付けられる。
ここ数日、彼とは言葉を交わしていない。
無視をしているわけではない。
ただ、どうしても顔を合わせたくなかった。
リディアの婚約の件で口論になってから、
彼の眼差しが怖かった。
何を思っているのか分からない沈黙。
優しさの仮面の裏に、何かが崩れ落ちていくような気配。
だから、夜はいつも先にベッドに入り、
わざと寝息を立ててみせた。
掛け布を肩まで引き上げて、
背を向けたまま静かに目を閉じる。
彼が部屋に入ってくる気配を感じても、
決して動かない。
寝返りも、呼吸のリズムも変えないように努めた。
その小さな緊張が、どれほど神経をすり減らすか分かっていても――
それでも、“眠ったふり”を続けるしかなかった。
このピリついた空気の中で、
不用意な言葉を交わすことは、
どんな呪文よりも危険に思えた。
そして何より怖いのは――
この沈黙を破るために、
彼が“行為”に逃げることだった。
そのたびに、心の奥で叫びたくなる。
やめて、そんな方法で確かめ合わないで。
愛し合うための触れ合いではなく、
崩壊を覆い隠すための手段のようで、
アランにはもう受け入れがたかった。
彼が求めているのは、体ではない。
“確信”なのだ。
自分がまだ、彼のものかどうか。
心がどこへも行っていないか――
その確認のために、彼は抱くのだ。
それが分かってしまうから、
触れられるたびに、痛みが走った。
だから、寝たふりを通した。
彼の指が髪に触れ、頬をなぞっても、
まるで夢の中にいるように動かない。
そして、その指先が離れるのを待つ。
やがて静かに衣擦れの音が遠のき、
ドアが閉まる音がした。
その瞬間、息を吐いた。
目尻から、知らずに一筋の涙が落ちていた。
――もう、どこで間違えたのだろう。
互いを守り合ってきたはずの十数年。
それが今は、
互いを避け合い、欺き合う夜に変わっている。
心の奥で、
誰にも届かない小さな声が響いた。
「……ごめんなさい、レギュラス」
それは懺悔でも、愛の言葉でもなかった。
ただ、この沈黙の夜に置いていく、
最後の優しさのようなものだった。
蝋燭の灯りがゆらゆらと揺れる。
古びた石造りの部屋の中、長机の上には数枚の報告書が広げられていた。
インクの匂いがまだ新しく、魔法の封蝋を解いたばかりの痕跡が残っている。
シリウスは、無言でその一枚に目を落とした。
――ブラック家夫妻、娘リディアの婚約を巡り激しく口論。
――数日間、夫婦の間に沈黙が続く。
――アラン夫人の体調、やや不安定。
――しかし、形式的な「夫婦の時間」は維持されている。
文字が眼に焼きつくたび、胸の奥がずきずきと疼いた。
報告の文面は淡々としている。
感情の一片も混じらない“事実”の羅列。
けれど、その行間に――確かに痛みが滲んでいた。
「……順調に“夫婦生活”が送れている、か」
低く呟いた声は、蝋燭の炎のようにかすかに揺れた。
報告にあった“平穏”という言葉ほど、残酷に響くものはない。
ジェームズが向かいの椅子に座り、
リーマスは窓際で腕を組んでいた。
「まあ……よくある夫婦喧嘩の一つさ」
リーマスの声が、穏やかに部屋を包む。
だが、その優しさが逆に胸を締めつけた。
シリウスは返事をしなかった。
指先で報告書の端をなぞりながら、
彼女の顔を思い出していた。
――アラン。
頑ななまでに気高く、
誰よりも他人の痛みに敏感で、
それでいて自分の苦しみは絶対に口にしない女。
“張り詰めた空気の中に、彼女が押しつぶされてはいないか”
その一文を読んだ瞬間、
胸の奥で小さな警鐘が鳴った。
彼女は黙って微笑む。
痛みを隠して、まるでそれが呼吸であるかのように。
けれど、誰も見ていないところで崩れてはいないか。
エリナの目が届かないところで――
レギュラスに詰められ、追い詰められてはいないか。
悪い想像ばかりが浮かぶ。
拭おうとするほど、
その輪郭は鮮明になっていく。
「……リディアの婚約の件、だろうな」
リーマスがため息をついた。
「親と娘、よくある話さ。彼女も、きっと耐えている」
その“耐えている”という言葉が、
まるで刃のように胸に刺さった。
アランに“耐えさせている”世界を、
シリウスはもう見たくなかった。
ふと、ジェームズが報告書を閉じた。
「シリウス、やっぱり君はこの報告を見るべきじゃない」
その声は優しかった。
けれど、きっぱりとしていた。
シリウスは少しだけ口角を上げたが、
その笑みには何の力もなかった。
「分かってる。私情は挟まないようにしてる」
「できてないさ」
ジェームズの返しは即座だった。
「今だって、変なことを考えてるだろ?」
図星だった。
親友の目は誤魔化せない。
シリウスは短く息を吐いた。
視線は依然として報告書に落ちたままだったが、
心は、もうそこにはいなかった。
――もし今、あの屋敷に行ったら。
――今度こそ、あの人は自分の手を取ってくれるだろうか。
そんな馬鹿げた考えが、頭の中をかすめた。
彼女の指先の温もりを思い出す。
あの夜、泣きながらも手を伸ばさなかった女。
あの選択の意味を、何度自分に問い直しても答えは出ない。
「……やってられねぇな」
低く呟いて、酒瓶に手を伸ばした。
キャップを外す音が部屋に響く。
ジェームズがその手を軽く押さえた。
「やめとけ、今の君には毒だ」
「毒でも構わねぇ」
シリウスの声が震えた。
「酔えない酒より、何も感じない夜の方がずっと怖い」
沈黙。
リーマスが小さく首を振る。
ジェームズがそっと手を離した。
蝋燭の炎が、三人の影を壁に長く映す。
その中でシリウスは、報告書を畳んだ。
そこには彼の知らない“今”のアランがいた。
触れられない、遠い世界。
けれど確かに、まだ彼女は生きている。
その事実だけが、どうしようもなく残酷だった。
「……アルタイルが元気でいる。それだけで救いだな」
リーマスが呟く。
「そうだな」
シリウスは苦笑した。
「息子には、罪がない」
親友たちが黙った。
それ以上、何も言えなかった。
炎が小さく瞬き、
静寂の中で報告書の封が音を立てて閉じられた。
その夜、
シリウスは眠らなかった。
報告の行間に残るアランの影を、
一晩中追い続けていた。
石造りの塔の影が長く伸び、陽が傾くにつれて廊下の空気が冷えていく。
アルタイルは、その静けさの中でふと立ち止まった。
手には、封蝋のついた一通の手紙。
差出人は――シリウス・ブラック。
もう何通目になるだろう。
夏の休暇で再会して以来、手紙のやり取りは細く長く続いている。
けれど、受け取るたびに胸が苦しくなるのだ。
自室に戻り、ベッド脇の小さな机の上で封を切る。
いつも通り、シリウスらしい力強い筆跡。
勢いよく走るインクの線からも、彼の性格が滲んでいた。
「アルタイル、勉強はどうだ? ハリーと喧嘩してないか?」
「この前のクィディッチの試合、見たかったな」
「それから――アランはどうしてる?」
そこまで読んで、アルタイルの指が止まった。
インクの染みた文字が、胸の奥を締めつける。
「アランはどうしてる」
その一文が、まるで呪文のように響く。
いつだって同じだ。
どんな手紙にも、必ずその言葉が書かれている。
彼の筆跡の強さとは裏腹に、その文字だけが少し小さく、ためらいが混じって見えるのは気のせいだろうか。
シリウスが母を心配している――
それは、きっと心の底からの想いだ。
それを疑う余地などない。
けれど、その優しさを伝えれば伝えるほど、母アランの心はどこかで傷ついてしまう気がした。
暖炉の火が静かに揺れ、羊皮紙の端を橙色に照らす。
アルタイルは手紙を折りたたき、深く息を吐いた。
――母に、このことを話すべきだろうか。
ほんの一瞬、そう考えた。
けれど次の瞬間、頭の中でレギュラスの姿が浮かぶ。
書斎の椅子に腰かけ、黙って書類に目を通すあの灰色の瞳。
いつも冷静で、凛として、誰にも隙を見せない男。
アルタイルにとっては、父であり、師であり、誇りだった。
そんな父が、どれほどの想いで母を守り、支えてきたかを知っている。
どんな時も、妻を第一に考え、弱音ひとつ吐かない。
愛情を、ただ行動で示し続けてきた人。
――その父の前で、「母を心配しているのは別の男だ」なんて、どうして言える?
胸が痛む。
自分の中の血が二つに裂かれているようだった。
一方はシリウス・ブラックの血。
陽の光のように熱く、真っ直ぐで、何よりも人を包み込む温かさ。
もう一方はレギュラス・ブラックの血。
夜の静けさのように冷たく、誇り高く、決して揺るがない力。
どちらも自分を形づくるもの。
どちらかを否定することは、自分の一部を切り捨てることに等しい。
だが――母を守りたいと思う時、
アルタイルの中で勝つのは、やはりレギュラスの血だった。
彼の名誉を、彼の愛を、彼が築いた家庭を。
誰よりも近くで守るのは自分でなければならない。
それが、息子としての使命のように思えた。
だから、何も言わなかった。
母に、シリウスのことを。
その人が今も母を想っていることを。
そしてその想いが、手紙のたびに綴られていることを。
全て――胸の奥に閉じ込めた。
アルタイルは立ち上がり、暖炉の前に歩み寄る。
炎の前に手紙をかざし、ためらいながらも、
指先を離した。
羊皮紙がゆっくりと燃えていく。
赤い光が文字を包み込み、やがて黒い灰に変わった。
――これでいい。
誰も傷つかない。
そう呟いても、心は軽くならなかった。
ただ、胸の奥に溜まった重さが、
静かに沈殿していくだけだった。
炎の光が翳っていく。
灰色の瞳に映るその光が、
まるで消えかけの星のように、揺らいでいた。
季節は秋へと移り、屋敷の庭には紅葉が色づき始めていた。
リディアは、ホグワーツから戻る馬車の窓からその光景をぼんやりと眺めていた。
空気が澄んでいて、遠くの丘の上まで見渡せる。
だが、心の中には霞がかかったように重く、息苦しいものがあった。
父レギュラスから届いた手紙には、端的な言葉でこう記されていた。
「婚姻の取り決めの話があります。
一度、屋敷に戻りなさい。」
淡々とした文面。
けれど、その一文が、まるで運命の扉の音のように思えた。
屋敷に到着すると、長い石畳の廊下を歩く足音がやけに響いた。
どの部屋も昔と変わらない。
重厚なカーテンの隙間からは金色の光が差し込み、
その下を通るたびに、自分がもう子供ではないことを思い知らされる。
食堂に入ると、レギュラスがすでに席に着いていた。
背筋を伸ばし、いつものように整然とした姿。
手元には分厚い書類の束が積まれている。
そして、目の前の椅子を指し示す。
「座ってください、リディア」
リディアは静かに頷き、椅子を引いた。
その瞬間、幼い頃に叱られた時と同じように、
背筋が自然とまっすぐになるのを感じた。
「ノット家の子息との縁談の顔合わせです」
レギュラスの声は変わらない。冷静で、感情の揺らぎが一切ない。
「きっと気に入られますよ」
リディアは口角を上げ、形だけの笑みを浮かべた。
「お父様が選んでくださった方なら、間違いありませんわね」
そう言うのが正解だと思った。
それ以外の言葉を探す勇気がなかった。
けれど――胸の奥では、何かが悲鳴をあげていた。
本当にそれでいいの?
愛のない結婚をして、微笑むだけの妻になって。
母のように、心のどこかを空洞にしたまま生きていくの?
息が詰まりそうだった。
どうしてこんなに苦しいのか、自分でもわからなかった。
父の言葉を聞きながら、
脳裏に浮かんだのは一人の女性――実母カサンドラの姿だった。
まだ幼い頃。
夕暮れの廊下で、カサンドラが黒いヴェールを下ろして屋敷を去っていくあの背中を見た。
誰も追いかけようとしなかった。
ただ、静かに扉が閉まる音だけが響いていた。
――あの人の娘である自分も、同じ道を歩くのだろうか。
その思いが、喉の奥に絡みつくように苦しかった。
知らずのうちに、頬を伝って涙が落ちていた。
レギュラスは気づかなかったのか、気づいても口にしなかった。
いつも通り、沈黙の支配者のままだった。
その時、扉が静かに開いた。
アランが入ってくる。
白いドレスの裾が床をすべり、香りが部屋に流れ込んだ。
レギュラスとは対照的な柔らかさ。
アランは、涙を拭うこともできずに座る娘のもとへすぐに歩み寄った。
そして、何も言わず抱きしめた。
「リディア……」
優しい声だった。
かつて自分が熱を出して寝込んだ夜に、
同じようにこの腕に包まれて眠ったことを思い出す。
「あなたの気が進まないのなら、この婚約は断りましょう」
その一言に、リディアの胸が揺れた。
母の温もりに包まれて、嗚咽がこみ上げる。
「アラン」
その時、レギュラスの声が割り込んだ。
冷たく、鋭く、氷の刃のように響く。
短い一言――それだけで、空気が凍りついた。
アランは一瞬目を伏せ、リディアを抱く腕に少しだけ力を込めた。
それ以上は何も言わなかった。
沈黙が降りる。
時計の針が進む音だけが、遠くで響いていた。
リディアは、自分の鼓動の速さを感じながら、
どちらの顔も見られなかった。
父の冷静な瞳も、
母の揺れる瞳も。
この二人の間に挟まれて生きてきた。
愛されて育った――それは確かだ。
だからこそ、誰も責められない。
カサンドラを愛さなかった父を恨むこともできない。
アランが母の居場所を奪ったと感じたことも、一度もない。
アランは、実の母以上の愛情を注いでくれたのだから。
けれど、それでも――
心のどこかに、実母の影は消えない。
あの人の悲しみを、背中の寂しさを、
自分は確かに覚えている。
だから怖い。
同じようになるのではないか。
愛されない正妻として、形だけの夫に仕え、
誰にも心を見せられないまま生きるのではないか。
思い描く未来の光景が、あまりにも冷たく、暗かった。
涙が次々と頬を伝う。
「リディア……」
アランの声が微かに震える。
レギュラスは黙ったまま、
ただ、硬く組んだ指を机の上に置いていた。
愛するということは、きっとこういうことなのだ。
誰かを守るために、誰かを泣かせてしまう。
誰も間違っていないのに、
誰も幸せにはなりきれない。
リディアは母の胸の中で、
声を上げずに泣き続けた。
外では風が吹き、
庭の紅葉が舞い落ちていた。
その音が、まるで屋敷全体のため息のように聞こえた。
ぼとぼとと大粒の涙をこぼす娘の姿を前にして、アランの胸は張り裂けそうだった。
嗚咽をこらえるリディアの肩を抱きながら、
――どうして私は、この子にまで同じ悲しみを背負わせてしまうのだろう。
そんな思いが喉の奥を塞いで、息が苦しかった。
リディアが部屋に下がったあとも、あの涙の跡が頭から離れない。
あの翡翠のような瞳に似た灰色の瞳が、怯えと絶望で揺れていた。
それを見て、アランの中にあるもう一つの顔――カサンドラ・ロズィエの面影が重なった。
彼女もまた、同じようにこの屋敷で泣いたのだ。
愛されないまま、耐えて、静かに去っていった。
そのことを思うと、申し訳なさと悔しさが胸に押し寄せた。
まるで、カサンドラの罪をいま自分が償っているかのように。
リディアの部屋の扉が閉まる音を聞き終えた瞬間、アランはもう抑えきれなかった。
寝室に向かい、机の上に資料を広げているレギュラスを見つける。
「レギュラス……せめて、明日の会合は延期してください」
その声は震えていた。
けれど彼は、顔も上げずに書類を揃えながら答える。
「できません。あちらがわざわざ出向いてくださるんですよ」
低く、揺るぎのない声。
その冷静さに、逆に胸が痛んだ。
「このままでは、リディアの心が壊れます」
「婚姻生活なんて、慣れです」
「慣れません……!」
抑えていた声が、堰を切ったように溢れた。
「蓋をして生きていくんです。感じないようにして、見ないようにして……
そんなもの、幸せじゃないわ」
レギュラスは静かにため息をついた。
「アラン、もうその話は――」
手を振って、終わりだという仕草をする。
だが、今日だけは、どうしても引けなかった。
レギュラスが部屋を出ようとしたその腕を、アランは思わず掴んだ。
「あなたは……カサンドラの心を壊しました」
その言葉に、空気が凍る。
レギュラスの足が止まった。
けれど、振り返らない。
アランはそれでも、止まれなかった。
「一度も愛さず、彼女の誇りを踏みにじった」
「……」
「そして、今度はリディアを――同じ目に遭わせようとしている」
沈黙。
炎の揺らぎが、ふたりの影を壁に映し出している。
その揺れが、まるで亀裂のように見えた。
――もう、やめて。
頭の中で警鐘が鳴っていた。
これ以上言えば、戻れないところまで行く。
それでも、唇は動いた。
「私の……シリウスを思っていた心も、壊しました」
「そんな想いを、血の繋がった娘にまで、させるつもりですか?」
その名を出した瞬間、部屋の空気が鋭く裂けた。
レギュラスの肩が僅かに揺れ、掴んでいた手が振り払われる。
「……では僕も言わせてもらいましょうか?」
静かな声だった。
だが、その静けさの奥に潜む冷たさは、刃よりも鋭かった。
彼がこちらを振り向く。
灰色の瞳が、氷のように光る。
「どこまであなたに振り回された人生だったか、分かりますか?」
アランの心臓が、ひとつ大きく跳ねた。
「闇の帝王の前で、僕が何を差し出し、何を誓ったか――あなたに分かります?」
声は穏やかだった。
けれど、その言葉の一つ一つが、焼けるように痛かった。
そう――知っている。
レギュラスが、かつて自分を守るために闇の帝王に下ったことを。
自分が騎士団と関わっていた罪を問われたとき、
あの男はすべてを背負った。
自らの魂を、闇の支配者に差し出してでも、
アランを守る道を選んだ。
その代償がどれほどのものだったか――
想像するだけで、息ができなくなる。
彼の声が、静かに降りてくる。
「アラン。僕の心を一番壊したのは、あなたですよ」
その瞬間、アランの視界が揺らいだ。
立っていられないほどの衝撃だった。
喉の奥が焼けつくようで、涙が止まらなかった。
「……そんな、こと」
声が掠れる。
だけど、もう彼は目を合わせてくれなかった。
暖炉の火がぱちりと弾ける。
その音が、まるで二人の間で何かが完全に壊れた合図のように聞こえた。
アランは震える手で口元を覆った。
頬を伝う涙は止まらず、次々と零れ落ちていく。
気づけば、十数年前の光景が蘇っていた。
――あの夜。
差し出された手。
闇の中で、シリウスが自分の名を呼んだ声。
あの時、あの手を取っていれば――
取れなかった手。
選べなかった未来。
それが、今も彼女の中で疼いている。
後悔が、胸の奥で血のように滲む。
それでも、その痛みすらもう、誰にも話せない。
レギュラスは背を向けたまま、何も言わなかった。
扉が静かに閉まる音がした。
その音を聞きながら、アランは崩れ落ちるように床に膝をついた。
涙が床に落ちて、滲んだ。
まるで、取り返しのつかない愛の跡のように。
アランの中で――いまだに、シリウスとの掴めなかった未来が生き続けている。
その事実を、レギュラスは初めて真正面から突きつけられた。
頭ではずっと分かっていた。
アランの瞳の奥に、どこか届かない遠い光があることも。
触れても、抱きしめても、心のどこかに微かに残る影が、
自分のものではない誰かを映しているのだということも。
けれど、それを口にされることと、ただ感じ取っていることはまるで違う。
「心を壊された」と言われたその瞬間、
レギュラスの中の均衡は完全に崩れ落ちた。
何かを言い返す気力もなかった。
胸の奥に、何か冷たいものが突き刺さって抜けなくなったようだった。
静かに、部屋を出て、書斎へと向かった。
扉を閉める音が、まるで外界との境界線のように響く。
次の瞬間――彼は、テーブルの上のものを一気になぎ払った。
羽ペンが宙を舞い、インク壺が床に転がって砕ける。
黒い染みが絨毯に広がり、まるで胸の中に溢れ出た感情のようだった。
魔法写真が倒れ、額縁の中の家族が静かに揺れる。
倒れた写真の一つに、アランと共に微笑む自分の姿が映っていた。
リディアの小さな手を握り、アルタイルが肩に腕を回して笑っている。
完璧な家族の形――
だが今、彼の目には、その写真がひどく偽りに満ちたものに見えた。
「……何をしているんだ、僕は」
低く、自嘲するような声が漏れた。
額を押さえる。
手のひらの下で、鼓動が不規則に跳ねている。
アランを手に入れたはずだった。
彼女の隣に立ち、彼女の名を名乗らせ、彼女の人生を自分のものにした。
愛して、守って、与えて――それでもなお、届かない。
体を重ねるたびに、彼女が少しだけ遠くに行ってしまうような気がして、
それが怖かった。
だから、抱く回数を増やした。
まるで、触れるほどに絆が確かめられるとでも信じるように。
シリウスがアランを抱いた回数なんて、
とっくに上回っているはずだった。
数では到底届かないと知りながら、それでも自分に言い聞かせるように数えた。
十数年という時間の積み重ねが、
せめて自分の立場を保証してくれると思いたかった。
それは小さな優越感だった。
男としての誇りの最後の支え。
けれど――その夜、アランの言葉はそれらを一瞬で瓦解させた。
「心を壊された」
たったそれだけで、十数年分の思いが灰のように崩れ落ちた。
レギュラスは、ぐらつく視界の中で、
ひとりの男としての自分が崩壊していくのを感じていた。
机の上に残った書簡の束の中には、
かつて闇の帝王と交わした誓約の記録がある。
思わず指先が震えた。
あの夜、自分が差し出したもの――
それは名誉でも命でもなく、魂そのものだった。
アランを守るために。
彼女を罪人にしないために。
闇の帝王の前に跪き、
「この身すべてを差し出す」と誓ったあの時の光景が、脳裏に焼きついている。
誰にも知られなくていい。
アランに感謝などされたくもない。
そんな取引をしたことすら、知られたくなかった。
恩義を感じさせたくなかった。
ただ、彼女の笑顔の裏に穏やかな日々があればそれでよかった。
――それくらい、アランという女は自分のすべてだった。
椅子に腰を下ろし、両手で顔を覆う。
深く息を吐くたびに、胸が締めつけられる。
手のひらに残るアランの温もり。
唇に残る、彼女の涙の味。
あれほど確かに存在していたものが、
今はどれも虚空に溶けて消えていくように思えた。
書斎の奥では、壊れた写真立てが傾いたまま、
倒れた影を伸ばしている。
その影が、まるで自分自身の心のかたちのように見えた。
形を保てなくなり、
触れれば崩れ、
誰にも見せられないほど脆くなった、壊れた心。
――アラン。
僕は、あなたに何をしてしまったのだろう。
レギュラスは目を閉じ、
闇の中で小さく呟いた。
暖炉の火が静かに揺れ、
ひときわ強く燃え上がって、
そして消えた。
ホグワーツの制服を脱いだばかりの少女が、今夜は立派な令嬢の装いをしていた。
リディア・ブラック――その名にふさわしく、深緑のドレスを身にまとい、
漆黒の髪を丁寧に編み上げて宝石のような銀の飾りを添えている。
耳元で揺れる小さなイヤリングが、緊張で微かに震えていた。
ノット家との顔合わせの場は、屋敷の最も古い応接室で行われた。
大理石の床に灯りが反射して、まるで静謐な湖のように光を湛えている。
壁に掛けられた一族の肖像画が、無言のまま二人を見下ろしていた。
レギュラスは席に着く前に姿勢を正し、
アランとリディアに視線を送ることなく、
淡々と挨拶の言葉を述べた。
「ノット卿、ようこそお越しくださいました」
声には一片の揺らぎもない。
貴族としての礼儀と威厳を完璧に備えた声。
それを聞きながら、アランの胸の奥は強く締めつけられた。
昨日のあの言葉が、まだ耳に焼きついている。
壊されたのはどちらの心だったのだろう――
考えるたびに、胸が痛んだ。
一方、リディアは父の斜め向かいに座り、
あどけなさを残しながらも、堂々と背筋を伸ばしていた。
完璧な微笑を浮かべ、ノット家の子息に挨拶をする。
その笑顔の奥で、膝の下の手が小さく震えているのを、
アランだけが見ていた。
テーブルの下、アランはそっとその手を包み込む。
温もりが伝わる。
リディアの瞳が一瞬だけ母の方を見て、
安心したように瞬いた。
――大丈夫。今日はまだ、決まりではない。
そう心の中で何度も呟いた。
形式上の顔合わせ。
最終的な判断は、本人同士の意向を含めて決まるはずだった。
けれど、そんな建前がどれほどの意味を持つのか。
アランには分かっていた。
ブラック家の“決定”とは、常に父レギュラスの言葉ひとつで下るものだ。
それでも、娘に恥をかかせたくはなかった。
この場だけでも、堂々と、誇り高くあってほしかった。
ノット家の子息は二十を越えているというのに、
無邪気な笑顔でリディアの手をとり、
「お会いできて光栄です、ブラック嬢」と口にした。
その声が妙に軽くて、アランの胸の奥がざわついた。
「こちらこそ……」
リディアの声は震えを帯びていた。
隣でレギュラスが何も言わず、ただ静かに見つめている。
その灰色の瞳は、何を考えているのか掴めない。
昨夜のあの口論以来、アランは夫の目を見ることができなかった。
互いに何かを壊してしまったという確信だけが、
二人の間に深い溝を作っていた。
――せめて、今だけは平穏に終わってほしい。
アランはリディアの指先をもう一度握った。
娘の手は冷たい。
けれど、その小さな指先が必死に震えを抑えているのが分かった。
会合が終わるころには、夜の帳が屋敷を覆っていた。
重たい空気をまとったまま、ノット家の馬車が去っていく。
玄関先で見送るレギュラスの横顔は、
まるで彫像のように動かない。
その背中に、アランはもう何も言わなかった。
何を言っても届かないと思った。
翌朝。
空が淡い紫に染まり始める頃、
アランはリディアを起こし、荷をまとめさせた。
「お母様……どこへ?」
「フランスよ。ロズィエ家へ行きましょう」
その言葉にリディアの瞳が大きく揺れた。
「お父様に言わなくて、平気かしら?」
アランは微笑んだ。
けれど、その笑みはどこか儚げだった。
「大丈夫よ。心配しないで」
声の奥に、決意のような硬さがあった。
彼女の中で、今だけは夫よりも娘の心を優先するという決断が固まっていた。
玄関の扉が静かに開く。
ひんやりとした朝の風が流れ込む。
アランはフードを被り、リディアの手を握って外へ出た。
石畳を踏む音が、まだ眠る屋敷の中に響く。
馬車の影が待っていた。
御者に小声で合図を送り、二人は乗り込む。
振り返れば、屋敷の塔の上に明かりが灯っていた。
おそらく、レギュラスはもう気づいている。
けれど――追ってくることはないだろう。
彼はそういう男だ。
馬車が走り出す。
蹄の音が遠ざかり、霧がゆっくりと二人を包み込む。
アランはリディアの肩を抱き寄せた。
娘の髪から漂う花の香りが切なくて、胸が痛くなった。
「大丈夫。きっと、カサンドラ様が力になってくれるわ」
窓の外には、まだ夜の名残を残す薄明の空。
その向こうに、フランス・ロズィエ家の屋敷が待っている。
かつて自分が去ることを選んだ地へ――
今度は、母として戻るのだ。
その旅が、
リディアの未来を変えることになるとは、
まだこの時のアランは知らなかった。
フランスの地に降り立った時、空気が違って感じられた。
薄く霞む朝靄の中、石畳の道を馬車が静かに進む。
ロズィエ家の屋敷が近づくにつれて、胸の奥がざわついていく。
この門をくぐるのは、生まれて初めてのことだった。
リディアは窓の外に広がる庭園を見つめた。
四季折々の花々が幾重にも咲き誇り、噴水の水音がかすかに響いている。
その景色の中に、母カサンドラの面影を重ねた。
いつもどこか遠い存在で、けれど確かに血でつながっている人。
今から会うのだと思うと、足が震えた。
扉が開かれた瞬間、
玄関ホールの奥に立つ女性が目に飛び込んできた。
金の髪を優雅にまとめ、深紅のドレスを纏ったその姿――
まるで昔、肖像画で見たままの姿だった。
「……お母様」
その一言で、喉の奥が詰まった。
言葉にならない。
ただ、熱いものがこみ上げてきて、
次の瞬間には頬を伝って涙が零れ落ちていた。
「会いたかったわ……お母様」
声を震わせながら駆け寄ると、
カサンドラは静かに両腕を広げて受け止めてくれた。
抱きしめられた瞬間、
幼い頃に知らぬうちに空白になっていた“母の匂い”が胸いっぱいに広がる。
「大きくなったのね、リディア」
「美しくなったわ……本当に」
耳元で囁かれた声に、
こらえていたものが一気に崩れた。
屋敷ではアランが母のように愛を注いでくれた。
優しく、温かく、決して欠けることのない愛情だった。
けれど――やはり実の母の抱擁は違った。
触れただけで、血の温度が伝わってくる。
胸の奥に長いこと溜まっていた何かが、音を立てて溶けていくようだった。
アランも静かにその様子を見つめていた。
母と娘の間にある、言葉を超えた絆。
それを壊さぬようにと、少し距離を取って立っていた。
広間に移り、三人でテーブルを囲んだ。
カサンドラは紅茶を注ぎながら、
まるで何も変わらぬ日常を取り戻すかのように穏やかだった。
「それで……顔合わせはどうだったの?」
その問いに、リディアは小さく唇を噛んだ。
アランが優しく頷いて促す。
そこでようやく、娘は全てを打ち明けた。
ノット家との顔合わせで感じた不安。
十以上も歳の離れた相手に対する恐怖。
そして、父の決断に逆らえず、母の前で涙を堪えたこと。
アランも補うように口を開いた。
「婚約が進みそうになってはいますが、
まだ決定ではありません。リディアは迷っています。
私は……彼女の気持ちを何よりも尊重したいんです」
その声には、昨夜の激しい口論の名残があった。
誰よりも娘を想うからこそ、もう夫の決断に黙って従うことはできない。
カサンドラは二人を見比べ、
静かに紅茶のカップを置いた。
「そう……そうなのね」
その声には思案の響きがあった。
長い沈黙のあと、彼女はふっと微笑んだ。
「私は……いいと思うわよ。ノット家との婚姻」
その言葉にアランが顔を上げた。
「カサンドラ様……! ですが――」
「分かっているわ、アラン」
カサンドラは優しく遮る。
「けれど、どの家のご子息を紹介されたところで、
最初から“正解”なんて分からないでしょう?
ならば、飛び込んでみることも一つの手よ。
人生は、失敗から花が咲くこともあるの」
あまりに達観した言葉に、アランは言葉を失った。
そして、そんな母をたしなめるように眉を寄せる。
「ですが……大切なのはリディアの気持ちです」
カサンドラはその姿を見て微笑んだ。
かつて敵対していた女が、今では娘を庇って自分に意見している――
それが、どこかおかしくもあり、誇らしくもあった。
「そうね、あなたの言う通りだわ」
そう言ってから、カサンドラはリディアの手を取った。
「もし嫌なら、ロズィエ家にいらっしゃい。
あなたはこの家の娘でもあるのだから。
もしくはブラック家に戻ってもいい。
あなたにはアランがいるでしょう?
――リディア、あなたには帰る場所がいくつもあるのよ」
リディアの喉が詰まり、視界が滲んだ。
「……お母様」
その一言で、これまでの重さが少しずつ解けていくのが分かった。
自分はどこか一つに縛られていない。
父の名でも、家の名でもない。
“リディア”という一人の人間として生きていいのだ――
そう思わせてくれたのは、母のこの言葉だった。
アランはその光景を見つめながら、
胸の奥で静かに息を吐いた。
これでいいのだ。
リディアの心が軽くなるなら、
たとえレギュラスが怒りに震えたとしても構わない。
――母の手に導かれた娘は、
いまようやく、自分の未来を選ぶための場所に立っていた。
その夜、屋敷は異様な静けさに包まれていた。
いつもなら、執事の足音や遠くの暖炉の薪の爆ぜる音が、
かすかな生活の気配を運んでくるはずなのに――今宵ばかりは違っていた。
空気が重く、どこか張り詰めていて、
エリナ・ウェルズは息をするのもためらうほどだった。
廊下の先、夫婦の寝室の扉の向こうから微かな声が響く。
耳を澄ませたくなくても、自然と足が止まってしまう。
それは、今まで聞いたことのないような声の調子だった。
「レギュラス、せめて明日の会合は延期してください」
「できません。あちらが出向いてくださるのです」
アランの声は震えていた。
それでも、決して怯えているわけではない。
むしろ、娘を想う母としての強さがその一言一言に宿っていた。
「このままではリディアの心が壊れます」
「婚姻生活など、慣れです」
「慣れません……蓋をして生きていくんです」
それは、穏やかな夫婦喧嘩などではなかった。
言葉こそ静かに選ばれているが、
互いの心を削り取るような、張り詰めた争いだった。
――この二人が、言葉でぶつかる姿を初めて見た。
アラン・ブラック。
いつもは柔らかな微笑みと気品で屋敷を満たす女性。
その声に怒りの色が混じるなど、誰が想像できただろう。
普段は決して誰にも感情を荒げない彼女が、
今は静かに、けれど確固たる意志を持って夫に立ち向かっている。
対するレギュラス・ブラックもまた、
決して声を荒げることはない。
低く、冷ややかに言葉を積み重ねる。
それがかえって、アランを圧するものとなっていた。
冷戦――まさにその言葉が似つかわしい。
扉の向こうでは、何かが静かに崩れていく音がした。
アランが涙を堪えているのだろう。
そして、レギュラスの息が僅かに乱れた気配があった。
「あなたは……カサンドラの心を壊しました。
一度も愛さず、彼女の誇りを踏み躙りました」
アランの声が震える。
それでも逃げなかった。
「私の……シリウスを思っていた心も壊しました。
そんな想いを、血の繋がった娘にまでさせますか?」
その名が出た瞬間、空気が凍りついた。
シリウス――
それはレギュラスにとって、最も触れてはならない名。
扉の向こうで何かが弾けたような気配がした。
エリナは息を呑んだ。
「では僕も言わせてもらいましょうか?」
その声は低く、鋭い刃のように響く。
「どこまであなたに振り回された人生だったか、
分かりますか? 闇の帝王の前で、
僕が何を差し出し、何を誓ったかあなたに分かりますか?」
――闇の帝王。
その言葉が耳に届いた瞬間、エリナの背筋に冷たいものが走った。
この夫婦の間に横たわる闇が、ただの感情ではないと理解した。
ヴォルデモートに、何かを差し出した――?
その取引の内容はわからない。
けれど、声の震えから、それが尋常なものではないことは察せられた。
命か、あるいは魂そのものか。
それほどの代償を、この男は払ったのだろう。
「アラン、僕の心を一番壊したのはあなたですよ」
扉の向こうで、何かが静かに崩れ落ちた音がした。
それが、彼女の涙だったのか、
それともこの夫婦の絆そのものだったのか、エリナには分からなかった。
翌朝、屋敷の中は不気味なほど静かだった。
アランとリディアが荷をまとめて玄関を出ていく姿を、
エリナは階段の陰から見送った。
「……奥様、まさか」
小声で呟いた。
レギュラスに告げずに出ていく――そんなこと、これまで一度もなかった。
リディアの背中は小刻みに震え、
アランは何も言わずに娘の肩を抱いて歩いていた。
その表情には、決意と哀しみが入り混じっていた。
屋敷の扉が閉まる音が響いたあと、
しばらくして――
レギュラス・ブラックの書斎から、
何かが壊れるような激しい音がした。
本棚が倒れる音、
ガラスが割れる音、
重たい椅子が床を引きずる音。
彼が荒れる姿など、誰も見たことがなかった。
それだけに、その音は屋敷中に恐怖を広げた。
エリナは震える指で報告書を書いた。
ペン先が何度も紙を掠め、インクが滲んだ。
――アラン・ブラック、リディア・ブラック共に屋敷を出る。
――レギュラス・ブラック、書斎にて破壊音。精神的動揺の兆候。
――昨夜の口論にて、「闇の帝王」「取引」「差し出したもの」という発言を確認。
書き終えた紙を乾かし、
封をして、騎士団宛に魔法通信で送る。
青白い光が一瞬だけ部屋を満たした。
消えゆく光を見つめながら、
エリナは自分の心臓の音が、
屋敷の沈黙の中にやけに大きく響いているのを感じた。
――この家は、いつ崩れてもおかしくない。
そう思った。
けれどその崩壊の音を、一番近くで聞いているのは自分なのだと、
エリナはようやく悟った。
その報せは、執事の手を通して静かに届けられた。
――リディア嬢はホグワーツへと戻られました。
それだけの一文が、
妙に胸の奥を冷たく撫でていく。
広すぎる食卓の上には、いつものように二人分の朝食が整えられていたが、
温もりを感じることはなかった。
レギュラスはカップを持ったまま、
湯気の向こうに座るアランを見た。
彼女は微笑んでもいなければ、俯いてもいない。
ただ、静かに整った姿勢で座っている。
その落ち着きがかえって胸に痛かった。
「娘は……戻らないそうですね」
「ええ。リディアはそのままホグワーツへ」
まるで他人事のような穏やかな声だった。
そこに罪悪も、動揺も感じられない。
ただ受け止めたという事実だけが淡々と流れる。
「そして――ノット家との婚姻を受け入れたと」
「ええ」
アランはその一言で終わらせようとした。
けれど、レギュラスの視線がそれを許さなかった。
長い指先でカップをゆっくりとソーサーに戻し、
低く、静かに問いを続けた。
「どういう説得をしたんです?」
その声音に怒りはない。
だが、確かにそこには棘があった。
“何が彼女の心を変えたのか”
純粋に知りたい――
そう言い訳するように、自分に言い聞かせる。
本当は違う。
ロズィエ家に行ったことを責めたいのでもない。
ただ、自分の知らぬところで、
娘の心を決定づけた“何か”が存在したことが許せなかった。
アランは、少しだけ目を伏せた。
その仕草は、まるで痛みを押し殺すようでもあり、
記憶を辿るようでもあった。
「カサンドラ様が……おっしゃったのです」
声が、細く、しかし確かに震えた。
「踏み込んでみなければ分からない世界がある。
そう教えてくださったと。
そしてリディアの背を押してくださったのです」
その名を聞いた瞬間、
空気がぴたりと止まった。
カサンドラ。
レギュラスの耳にその音が届くと同時に、
胸の奥の何かがきしむ音がした。
懐かしいという感情ではない。
もっと、黒く、重たく、やりきれない感情。
「……そうですか」
ただ、その一言を搾り出すのがやっとだった。
カップの中の紅茶はすでに冷めきっていた。
しかし、手放すことができない。
そのまま、無言で液面を見つめる。
アランの声が遠く聞こえた。
愛したこともない女――
かつて、彼女にそう言われた言葉が、耳の奥で再生される。
その女の名を、今、彼女の口からまた聞く。
しかも、まるで娘の人生を導いた賢母のような口ぶりで。
胸の奥で、鈍い音が鳴った。
カサンドラ・ロズィエ。
自分がかつて壊した女。
その名が、まだこの家の空気の中に残っていることが、
どうしようもなく不快だった。
――もう終わったはずなのに。
――なぜ、まだおまえはこの家の中で息をしている。
そんな声が心の奥から湧き上がる。
アランは気づいていないのだろうか。
彼にとって、カサンドラという名がどれほどの棘であるかを。
そして、彼女が口にした瞬間に、
どれほど過去の亡霊が甦るかを。
けれど、責める気力もなかった。
その疲弊が、今の自分の限界を物語っていた。
「そうですか……」
再び同じ言葉を口にして、
それ以上は何も言わなかった。
アランもまた、何かを察したように黙り込む。
二人の間に沈黙が流れた。
窓の外では、午後の光が傾き始めている。
長い影が床を横切り、
テーブルの上のカップの影と重なった。
レギュラスはそっと立ち上がる。
「少し、書斎に戻ります」
「……ええ」
その声の向こうで、アランの指先が
膝の上でかすかに震えているのが見えた。
扉が閉まる。
重たい音が、心の底まで響いた。
レギュラスは書斎の扉に背を預け、
深く息を吐いた。
――踏み込んでみなければ分からない世界、か。
皮肉なものだ。
踏み込んだ結果、壊れてしまう世界もあるというのに。
冷たい指先で額を押さえ、
静かに呟いた。
「……もう、あの名は口にしないでくれ」
誰に聞かせるでもない独り言。
けれど、その声は確かに震えていた。
最近、胸の奥が重たかった。
それは風邪でも発熱でもなく、もっと曖昧な不調。
体の芯がじわりと疲れを帯び、
まるで魔力そのものが濁っていくような感覚だった。
――無理をしている。
それは自分でも分かっていた。
けれど、誰にも言えなかった。
とくにレギュラスには。
彼の前で“弱さ”を晒すことは、いまのアランには何よりも怖かった。
心の距離がわずかに離れただけで、
彼の瞳の奥に、見たくない影が差すのを知っていたから。
淡い光が差す部屋の中央で、エリナ・ウェルズが静かに立っていた。
彼女の白いローブが、清潔な空気の中で微かに揺れる。
「アラン様、お体がすぐれないのではありませんか?」
その問いに、アランは微笑を作った。
「いえ、少し……眠たいだけですの」
優雅な笑みで取り繕いながらも、
喉の奥で嘘の味がした。
エリナの灰色がかった瞳がじっとアランを見つめていた。
鋭い。
まるで、心の奥まで見透かされるような視線だった。
「魔力の波に変化がありましたので……お聞きしました」
淡々とした声。
感情をまるで交えないその言い方は、
かつての医務魔女サラ・モーリンとはまるで違っていた。
あの人は、診るときにも“寄り添う”気配があった。
けれどエリナは――違う。
彼女の診察には温度がない。
必要な情報を引き出し、冷静に判断する。
まるでレギュラスのように。
だから、アランはこの若い医務魔女に心を開ききれなかった。
「少し休みます」
そう言って席を立つ。
それ以上、彼女の観察の眼差しに晒されるのが辛かった。
寝室に戻ると、
淡い薄明かりがレースのカーテン越しに差し込んでいた。
空気が冷たい。
レギュラスの香水の残り香が、枕元にかすかに漂っている。
この香りを嗅ぐたび、
どうしようもなく胸が締め付けられる。
ここ数日、彼とは言葉を交わしていない。
無視をしているわけではない。
ただ、どうしても顔を合わせたくなかった。
リディアの婚約の件で口論になってから、
彼の眼差しが怖かった。
何を思っているのか分からない沈黙。
優しさの仮面の裏に、何かが崩れ落ちていくような気配。
だから、夜はいつも先にベッドに入り、
わざと寝息を立ててみせた。
掛け布を肩まで引き上げて、
背を向けたまま静かに目を閉じる。
彼が部屋に入ってくる気配を感じても、
決して動かない。
寝返りも、呼吸のリズムも変えないように努めた。
その小さな緊張が、どれほど神経をすり減らすか分かっていても――
それでも、“眠ったふり”を続けるしかなかった。
このピリついた空気の中で、
不用意な言葉を交わすことは、
どんな呪文よりも危険に思えた。
そして何より怖いのは――
この沈黙を破るために、
彼が“行為”に逃げることだった。
そのたびに、心の奥で叫びたくなる。
やめて、そんな方法で確かめ合わないで。
愛し合うための触れ合いではなく、
崩壊を覆い隠すための手段のようで、
アランにはもう受け入れがたかった。
彼が求めているのは、体ではない。
“確信”なのだ。
自分がまだ、彼のものかどうか。
心がどこへも行っていないか――
その確認のために、彼は抱くのだ。
それが分かってしまうから、
触れられるたびに、痛みが走った。
だから、寝たふりを通した。
彼の指が髪に触れ、頬をなぞっても、
まるで夢の中にいるように動かない。
そして、その指先が離れるのを待つ。
やがて静かに衣擦れの音が遠のき、
ドアが閉まる音がした。
その瞬間、息を吐いた。
目尻から、知らずに一筋の涙が落ちていた。
――もう、どこで間違えたのだろう。
互いを守り合ってきたはずの十数年。
それが今は、
互いを避け合い、欺き合う夜に変わっている。
心の奥で、
誰にも届かない小さな声が響いた。
「……ごめんなさい、レギュラス」
それは懺悔でも、愛の言葉でもなかった。
ただ、この沈黙の夜に置いていく、
最後の優しさのようなものだった。
蝋燭の灯りがゆらゆらと揺れる。
古びた石造りの部屋の中、長机の上には数枚の報告書が広げられていた。
インクの匂いがまだ新しく、魔法の封蝋を解いたばかりの痕跡が残っている。
シリウスは、無言でその一枚に目を落とした。
――ブラック家夫妻、娘リディアの婚約を巡り激しく口論。
――数日間、夫婦の間に沈黙が続く。
――アラン夫人の体調、やや不安定。
――しかし、形式的な「夫婦の時間」は維持されている。
文字が眼に焼きつくたび、胸の奥がずきずきと疼いた。
報告の文面は淡々としている。
感情の一片も混じらない“事実”の羅列。
けれど、その行間に――確かに痛みが滲んでいた。
「……順調に“夫婦生活”が送れている、か」
低く呟いた声は、蝋燭の炎のようにかすかに揺れた。
報告にあった“平穏”という言葉ほど、残酷に響くものはない。
ジェームズが向かいの椅子に座り、
リーマスは窓際で腕を組んでいた。
「まあ……よくある夫婦喧嘩の一つさ」
リーマスの声が、穏やかに部屋を包む。
だが、その優しさが逆に胸を締めつけた。
シリウスは返事をしなかった。
指先で報告書の端をなぞりながら、
彼女の顔を思い出していた。
――アラン。
頑ななまでに気高く、
誰よりも他人の痛みに敏感で、
それでいて自分の苦しみは絶対に口にしない女。
“張り詰めた空気の中に、彼女が押しつぶされてはいないか”
その一文を読んだ瞬間、
胸の奥で小さな警鐘が鳴った。
彼女は黙って微笑む。
痛みを隠して、まるでそれが呼吸であるかのように。
けれど、誰も見ていないところで崩れてはいないか。
エリナの目が届かないところで――
レギュラスに詰められ、追い詰められてはいないか。
悪い想像ばかりが浮かぶ。
拭おうとするほど、
その輪郭は鮮明になっていく。
「……リディアの婚約の件、だろうな」
リーマスがため息をついた。
「親と娘、よくある話さ。彼女も、きっと耐えている」
その“耐えている”という言葉が、
まるで刃のように胸に刺さった。
アランに“耐えさせている”世界を、
シリウスはもう見たくなかった。
ふと、ジェームズが報告書を閉じた。
「シリウス、やっぱり君はこの報告を見るべきじゃない」
その声は優しかった。
けれど、きっぱりとしていた。
シリウスは少しだけ口角を上げたが、
その笑みには何の力もなかった。
「分かってる。私情は挟まないようにしてる」
「できてないさ」
ジェームズの返しは即座だった。
「今だって、変なことを考えてるだろ?」
図星だった。
親友の目は誤魔化せない。
シリウスは短く息を吐いた。
視線は依然として報告書に落ちたままだったが、
心は、もうそこにはいなかった。
――もし今、あの屋敷に行ったら。
――今度こそ、あの人は自分の手を取ってくれるだろうか。
そんな馬鹿げた考えが、頭の中をかすめた。
彼女の指先の温もりを思い出す。
あの夜、泣きながらも手を伸ばさなかった女。
あの選択の意味を、何度自分に問い直しても答えは出ない。
「……やってられねぇな」
低く呟いて、酒瓶に手を伸ばした。
キャップを外す音が部屋に響く。
ジェームズがその手を軽く押さえた。
「やめとけ、今の君には毒だ」
「毒でも構わねぇ」
シリウスの声が震えた。
「酔えない酒より、何も感じない夜の方がずっと怖い」
沈黙。
リーマスが小さく首を振る。
ジェームズがそっと手を離した。
蝋燭の炎が、三人の影を壁に長く映す。
その中でシリウスは、報告書を畳んだ。
そこには彼の知らない“今”のアランがいた。
触れられない、遠い世界。
けれど確かに、まだ彼女は生きている。
その事実だけが、どうしようもなく残酷だった。
「……アルタイルが元気でいる。それだけで救いだな」
リーマスが呟く。
「そうだな」
シリウスは苦笑した。
「息子には、罪がない」
親友たちが黙った。
それ以上、何も言えなかった。
炎が小さく瞬き、
静寂の中で報告書の封が音を立てて閉じられた。
その夜、
シリウスは眠らなかった。
報告の行間に残るアランの影を、
一晩中追い続けていた。
