4章
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秋の気配が静かに満ちていた。
ホグワーツ特急が煙を残して丘の向こうに消えた日、
屋敷の中から笑い声がひとつ消えた。
リディアが旅立ったあと、
ブラック家の屋敷は、まるで音そのものを失ったように沈黙している。
広間に並ぶ大理石の柱が、いつもよりも遠くに感じられる。
長い廊下を歩けば、自分の足音がやけに響いて、
返ってくる反響が心の奥をくすぐるようだった。
「……こんなにも広かったかしら、この屋敷は」
アランはぽつりと呟いた。
窓際には、リディアが使っていた小さな椅子。
いつもは母のドレスの裾を摘まんで離さなかった小さな手が、
今はもうそこにはない。
「寂しくなりますね」
暖炉の火を見つめながら、アランは言葉を続けた。
炎の揺らめきに、リディアの笑顔の残像が一瞬浮かぶ。
「子は巣立っていくものですからね」
レギュラスの声が静かに応じた。
灰色の瞳に炎が映り込み、ゆらゆらと光を揺らしている。
――その通りだと、アランも思う。
カサンドラがロズィエ家に戻った直後、
幼いリディアはまるで何かが壊れたように泣き続けた。
その小さな肩を抱きしめ、
「お母様は少し遠くに行っただけ」と何度も何度も言い聞かせた。
手を取り、絵本を読み、髪を梳き、
母親の不在を埋めるように過ごした日々。
けれど、気づけば――
支えているつもりが、支えられていたのは自分の方だった。
リディアが笑えば、外の光さえも柔らかく見えた。
リディアのために庭に花を植え、
リディアのために新しいドレスを縫い、
そのたびに生きる意味が増えていくようだった。
今はただ、ぽっかりと空いた空間が心を冷たく撫でていく。
屋敷に流れる時間は、まるで砂時計の砂が止まってしまったかのようだった。
「……これから、どうしましょう」
アランはぽつりと呟く。
レギュラスは本を閉じ、静かに妻へ目を向けた。
彼女の声に含まれた、わずかな戸惑いを聞き取ったのだろう。
「どう、とは?」
「子どもたちがいなくなってしまったら……
あなたと、どう過ごせばいいのかしら」
その声は、少しだけ寂しげで、
それでもどこか優しい響きを持っていた。
レギュラスは微かに笑みを浮かべる。
「あなたは、難しく考えすぎる」
彼はゆっくりと体勢を変え、
隣に座るアランの腰へと手を伸ばした。
驚くほど自然な仕草で、
細い腰を引き寄せる。
――ここは、寝室ではない。
レギュラスがそうしたのは、
この家の居間、家族が過ごす場所だった。
壁には家系の肖像画、
床には高価な絨毯。
暖炉の炎が小さく爆ぜて、
二人の影を柔らかく揺らした。
「レギュラス……ここでは……」
アランが小さく戸惑いの声をあげる。
けれど、彼はその視線を穏やかに交わしただ
けだった。
「もう、リディアもいませんから」
その一言に、すべての理由が含まれていた。
たしかに、子どもたちはもうここにはいない。
見守る目も、聞く耳も、どこにもない。
けれど――
それでも、アランの胸はざわめいていた。
慣れない場所での触れあいに、
心臓がひどくうるさく鳴る。
指先が触れるたび、過ぎ去った十数年の記憶が胸に広がる。
彼がどれほどの思いで、自分を見つめてきたか――
今ならわかる気がした。
(この人は、私を愛している。
それは確かに真実。けれど……
この愛をどう受け止めていけばいいのか、私はまだ知らない)
アランは瞼を閉じた。
レギュラスの手が背中に触れ、
静かな呼吸が頬をかすめる。
炎のゆらめきが二人を包み、
広すぎる屋敷の中に、
ようやく一つの鼓動が響いた。
それは――寂しさと温もりが同時に宿る音だった。
夜の帳が降りた屋敷に、しんとした静寂が漂っていた。
書斎の窓の外では風が木々の梢を撫で、
遠くの空で雷鳴がかすかにくぐもって響いている。
机上には、古びた羊皮紙が数枚、
闇の印を刻む者たちだけが閲覧を許された密書。
レギュラス・ブラックは、その最上に記された文面を目で追いながら、
重く深い息を吐いた。
――ヴォルデモート卿が、再び動き出した。
ハリー・ポッターの血肉によって再生した“完全なる肉体”を得た主は、
今やかつての影のような存在ではない。
その力は全盛期を凌駕し、
もはや死をも超越した存在となっていた。
そして今度は、
“マグルを擁護する愚か者ども”を根絶する計画を進めているという。
火に油を注ぐような血の粛清。
それを「秩序の回復」と称して。
レギュラスは眉間を押さえ、
乾いた笑みを一瞬だけ浮かべた。
「……秩序、か。」
どこまでが正義で、どこからが狂気なのか。
その線引きが、もはや彼自身にも見えなくなりつつあった。
机の上のインク壺が小さく揺れる。
雷がひとつ、夜空を切り裂いた。
この十数年、彼が守ろうとしてきたもの――
それは、“理念”ではなく“現実”だった。
ブラック家という名。
高貴な血筋の誇り。
そして、何よりもアラン。
彼女の名を思い浮かべた瞬間、胸の奥に痛みが走る。
自分が闇の帝王の配下である限り、
彼女もまたその影の中に生きなければならない。
それをわかっていながら、
なおも彼女をこの屋敷に留め、
守るという名の束縛で囲ってきた。
ヴォルデモートが掲げる純血主義――
それは、もはやかつての理想とは程遠いものになっていた。
純血の名を守るために、
無辜のマグルを虐殺し、
恐怖を支配の糧とする。
そのどこに、誇りがあるというのか。
レギュラスはゆっくりと立ち上がり、
窓辺に歩み寄る。
闇に沈む庭を見下ろしながら、
ひとつ、深く息を吸い込んだ。
「……我々の“尊い血”は、殺戮のために流されるものではない。」
低く呟いた声は、
静かに夜の空気へと溶けていった。
かつての純血主義者たちは、
自分たちの血を誇りとして守ってきた。
それは排他ではなく、
脅威から身を守るための“盾”だった。
マグルを支配するためでも、
混血を滅ぼすためでもない。
ただ、異端とされた己らの世界を、
静かに存続させるための境界線。
しかし今、ヴォルデモートはその思想を“支配”の名に変えた。
彼にとって“純血”とは、
不死を継ぐ器であり、権力を誇示するための道具に過ぎない。
レギュラスは、机の上の密書に向き直った。
記されていた作戦の一部を、
完璧に消し去るための呪文を唱える。
淡い光が走り、羊皮紙の文字が溶けるように消えていく。
指先に残る微かな魔力の熱。
そして、後に残る虚しさ。
――これが正しいのか。
――自分は、誰を守っているのか。
呪文を唱えるたびに、
心の奥で何かが小さく軋む音がした。
それは、もう何度も繰り返してきた音。
闇の帝王の命令に従い、
罪を隠し、痕跡を消し去る。
そのたびに、自分という存在が少しずつ削り取られていくような感覚。
守るために手を汚し、
愛する者のために闇を纏う。
――それが、レギュラス・ブラックという男の宿命なのだろう。
けれど、心の奥底で誰にも言えぬ声が響く。
(もうやめたい)
その一言を、口に出すことはできなかった。
外では再び、雷鳴が夜を裂く。
その光が書斎を照らし、
レギュラスの横顔に淡い銀の線を描いた。
灰色の瞳は静かに光り、
まるで深い湖の底で沈んでいく月のように、
冷たく、脆く、揺らめいていた。
灰色の朝靄が、ロンドンの街を包んでいた。
まだ夜の名残が消えきらない時間。
騎士団の本部――古びた石造りの建物の一室に、
淡いランプの灯りだけが頼りなく揺れている。
机の上には羊皮紙の束。
封印を解かれたそれは、
若き医務魔女エリナ・ウェルズからの最新の報告書だった。
「……驚くほど、上手くやっているようだな」
リーマスが口を開く。
指先で一枚の報告をめくりながら、
淡々とした声に、微かな感心が滲む。
「よくやってくれてるよ。
ブラック家の屋敷に、これほど早く馴染むとは思わなかった。」
ジェームズが同意するように頷く。
彼の表情には、どこか複雑な陰が差していた。
エリナ・ウェルズ――
若く、聡明で、そして何より“普通”の女。
それが、あの家に入るには最適な条件だった。
華やかさよりも、無垢に見える平凡さが鍵になる。
「君の見立ては正しかったな」
ジェームズは言いながら、
報告の一部に目を走らせた。
そこには淡々とした筆致で、
ブラック家の屋敷の様子、
アラン・ブラックの健康状態、
そして主レギュラス・ブラックの動向が詳細に記されていた。
数日前――。
マグルを擁護する団体が、
何者かによって“粛清”された。
その現場は、まるで幻のように跡形もなかった。
炎の痕も、死体も、呪文の残滓すら見つからない。
それどころか、痕跡を“消し去った痕跡”さえも存在しなかった。
「こんなことが、ありえるか?」
リーマスの低い声に、
部屋の空気が重く沈んだ。
「……痕跡を消した“誰か”が、完璧に仕事をしたということだ。」
ジェームズの指が、報告書の一節を叩く。
“その夜、レギュラス・ブラックが屋敷を離れていた。”
「偶然ではありえない」
リーマスが静かに言う。
「彼が、闇の帝王の痕跡を――いや、関与そのものを覆い隠した。
そう考えるのが自然だ。」
沈黙。
ジェームズは深く息を吐き、
額に手を当てた。
「……確実に、それがわかっただけでも大きな収穫だ。」
ヴォルデモートの影を覆うために動く“影”。
その名が、レギュラス・ブラック。
主の意志を叶え、痕跡を消し去る“消失の魔法使い”。
いくら捜査を進めても、掴めば掴むほど指の隙間から砂のように零れ落ちる。
報告書の束を整理していたリーマスが、
ふと手を止めた。
「……ジェームズ、これを見てくれ」
差し出された一枚には、
エリナが記した日付と時刻、
そしてごく短い一文があった。
“ご夫妻は、今夜もお二人で過ごされています。
奥様の体調はやや回復傾向にありますが、
主は相変わらず彼女の傍を離れようとされません。”
一見、何でもない報告。
だがその文面の行間には、
誰にも言えぬ「私生活」の匂いが、
淡く、しかし確実に滲んでいた。
「……これは」
ジェームズが言葉を選ぶようにして、視線を伏せる。
報告書の続きには、
“医務魔女としての診察時の観察”として、
レギュラスとアランの関係性が――
まるで冷静な医療記録のように、しかし残酷なまでに具体的に記されていた。
どれほど彼が彼女を大切に扱い、
どんな時間を共に過ごしているのか。
それは情報として淡々とした筆致でありながら、
読む者の胸に妙な温度を残した。
その報告を前に、ジェームズの表情がわずかに曇る。
「……シリウスが、これを見たんだ」
リーマスが小さく呟いた。
「彼の顔が、目に浮かぶようだ。」
ジェームズは手元の報告書を閉じた。
指先が微かに震えていた。
シリウス――
かつてレギュラスと血を分けた兄であり、
そして、アランを愛した男。
彼の心をどれほど抉っただろう。
愛した女が、今は弟の腕の中にいるという現実を。
しかも、それを“報告書”という形で目にしてしまうなど。
「できれば……彼には見せたくなかった」
ジェームズは静かに言った。
「でも、報告は上層部に共有される。
僕たちだけが目を通さないわけにはいかない。」
部屋に沈黙が落ちる。
外の雨が、静かに窓を打っていた。
ジェームズは報告書の束を閉じると、
深く背もたれに身を沈めた。
――エリナの筆は淡々としている。
けれどその紙の隅々には、
血のような現実と、痛みのような真実が染み込んでいる。
情報を得るたびに、
誰かの心がひとつずつ削られていく。
それが、騎士団の「正義」の代償だった。
冬の陽が、屋敷の重たいカーテン越しに斜めに差し込んでいた。
書斎には微かな香木の匂いが漂い、机の上には封蝋で閉じられた手紙がいくつも積まれている。
レギュラス・ブラックはその封を一つずつ切り、内容に目を通していた。
彼の指先の動きはいつものように冷静で正確だったが、その目の奥には疲労の翳が隠しきれない。
「……ここと、ここ。あとは――」
几帳面に分類された名簿の上に、黒いインクの印が並ぶ。
その印をつけられた名は、いずれも英国魔法界の名門家系。
――モンタギュー家、バーク家、ノット家。
いずれも純血一族の中でも古い歴史を持ち、
ブラック家との縁を結ぶには申し分のない家柄だった。
「……これで、ある程度は絞れたな」
ひとりごとのように呟くと、レギュラスは小さく息を吐いた。
ペン先に残ったインクを丁寧に拭いながら、
頭の奥に渦巻く思考を抑え込む。
――これは義務だ。
――父として、そして当主として、避けては通れぬ道。
だからこそ、心を揺らしてはいけない。
その時、静かに扉が叩かれた。
振り向くと、アランが立っていた。
「アラン。来てくれたんですね」
「何かご用かしら?」
レギュラスは手元の書類を整えると、
穏やかな声で言った。
「リディアの婚約を、そろそろ進めようと思うんです」
一瞬、アランの眉が動いた。
翡翠のように透き通る瞳が、静かに揺れる。
「……まだ、早くはありませんか?」
その声は、まるで息を殺すような小さな囁きだった。
レギュラスは軽く首を振る。
「このくらいですよ。僕もカサンドラとの婚約はそのくらいの時期に決まりましたから」
アランは少し視線を落とし、
卓上に広げられた名簿へと目を向けた。
整った筆跡で並ぶ名家の一覧。
それを、まるで未来の地図でも読むようにじっと見つめている。
「…ノット家の跡取りは、ずいぶん年が離れていますね」
「ええ。だが血筋は確かです」
「モンタギュー家は?」
「母親がやや病弱らしい。気性も強いと聞きます」
アランは黙り込む。
薄い唇がわずかに震えている。
「リディアのことを思えば……もう少し時間をあげてもいいのでは」
その声には、優しさと、母の直感のような切実さが混じっていた。
だがそれが今のレギュラスには、どこか重たく響いた。
このところ、彼の心は常に疲弊していた。
騎士団の動き、闇の帝王の命令、そしてアランの体調。
守るべきものが多すぎて、どれもが少しずつ心を削っていく。
――これ以上、余計な憂いを増やしたくない。
レギュラスは立ち上がると、
アランの背後にまわり、そっとその手から名簿の冊子を取った。
「まだ見ているのに……」
抗議するようにこちらを見上げるアラン。
その瞳の奥に、言葉にならない想いが宿っていた。
レギュラスは無言のまま、
その顔に唇を寄せた。
触れた瞬間、アランの身体がかすかに強ばる。
だが拒むような動きはない。
レギュラスはさらに深く、彼女の唇に自分の想いを押し込めた。
「……っ、レギュラス……」
何かを言おうとするその声を、また唇で塞ぐ。
まるで、言葉の一つひとつが彼の理性を乱してしまうのを恐れているかのように。
彼女の髪が頬に触れ、
微かな香りが鼻をくすぐった。
どこか寂しげな香草の匂い――
あの日、彼女が病床に伏していた頃と同じ香りだった。
(頼むから……これ以上、何も言わないでくれ)
その心の声を、唇の熱で封じた。
アランが自分にしてくれたことを、
レギュラスは誰よりも理解している。
カサンドラの子――リディアを、
まるで我が子のように愛し、育ててくれた。
熱を出せば夜通し看病し、
成績の報告が届けば自分より先に喜んでみせた。
その姿を幾度も見てきた。
だからこそ、感謝している。
だが同時に、理解してほしかった。
リディアは、ブラック家の名を継ぐことはできない。
娘として生まれた以上、いずれはどこかの純血貴族の妻になる。
それが、この世界で生きるための唯一の道なのだ。
「……どの家を選んだとて、大きな違いなどない」
彼は心の中で呟く。
選ばれた婚約者の家柄も、
生活も、
礼儀も、
いずれは似たようなものに収束していく。
――ならば、過剰に悩む必要はない。
――子は嫁ぎ、屋敷を離れていく。
――それが血の流れであり、秩序だ。
そう言い聞かせるように、
レギュラスはアランの背に手を回した。
アランの指先が名簿の紙片を掴んだまま震えている。
声を発することもできず、
ただ小さく息を吐いた。
その吐息が、レギュラスの胸を焦がした。
――彼女は、きっとわかっている。
――それでも、納得したくないだけなのだ。
「……アラン」
「ええ」
「僕に任せてください」
レギュラスの声は低く、静かだった。
アランは小さく頷き、
しかしその瞳はどこか遠くを見ていた。
それは、娘を手放す母の覚悟と、
それでも手放したくないという女の本能が、
痛みのようにせめぎ合っている光だった。
部屋の中に、二人の呼吸だけが残った。
窓の外では、雪が舞い始めている。
白い光の欠片がゆっくりと降り、
それぞれの想いの温度差を、静かに埋めていくようだった。
屋敷の夜は深く、長い。
冬の冷気が廊下をすり抜け、静けさを張り詰めたように満たしている。
寝室のランプは既に落とされ、暖炉の火だけが名残のように赤くゆらめいていた。
アランはその淡い光の中で、身じろぎもせずに横たわっていた。
微かな寝息を立てながら、閉じた瞼の奥では、眠りではなく思考が渦を巻いていた。
――レギュラスと、言い合いをしたいわけではない。
ただ、折れたくないものがある。
胸の奥にそう繰り返す。
その“折れたくないもの”の名は、リディア。
レギュラスが決めようとしている婚約相手のことを思うたび、
心に冷たい針が刺さるようだった。
ノット家の子息――
確かに由緒正しい純血の名家。
魔法省にも太い繋がりを持ち、格式としては申し分ない。
けれど、その青年はリディアより十も年上なのだ。
それを「常」として受け入れるこの世界に、どうしても馴染めなかった。
レギュラスは「家を継ぐ者の義務」として淡々と語った。
彼にとって婚姻とは、血統と政治の結び目でしかない。
愛情も情熱も、そこには含まれない。
だがアランにとって、それは違った。
――リディアは花よ蝶よと育ててきた。
あの子の笑顔、泣き顔、初めて杖を持った日の小さな手の震え。
そのすべてをこの胸に抱いて育ててきたのだ。
カサンドラへの贖罪からではない。
リディアを本当に“娘”として愛してきた。
だからこそ、あの子が誰かの妻になる日を、
自分の意志のないまま見送ることなどできない。
「リディアの幸せを一番に考えてください」
そう言った夜もあった。
けれど、レギュラスは静かに微笑みながら、
「わかっていますよ」とだけ答えた。
その目に宿るのは理解ではなく、決意だった。
彼の中で既に決まっている結論を、
アランの言葉で覆すことなどできないのだと、
すぐに悟った。
それでも、伝えずにはいられなかった。
母として、どうしても譲れない思いがある。
――あの子が笑顔でいられるように。
けれど、その思いは言葉として届くことはなかった。
レギュラスは話題を変えるように、
あるいは封じるように、
いつも“触れる”ことで全てを終わらせてしまう。
夜、寝室に戻ると、
彼は当たり前のようにアランの傍に寄ってくる。
その手が腰に回り、髪に触れ、頬を撫でる。
アランの反論も、憂いも、全てその手の中で溶かされていく。
「もう……その話はやめましょう」
そう囁かれるたびに、
アランの中の言葉たちは、息を潜めて消えていった。
――嫌だった。
彼を拒みたいわけではない。
でも、この沈黙を重ねるたびに、
自分が“意志のない妻”に戻っていくような気がして怖かった。
かつて使用人としてこの屋敷にいた頃の自分。
命じられれば従うしかなかったあの日々。
今、立場は変わっても、
結局は同じではないのか――そんな思いが胸を締め付ける。
だから、その夜は先に寝入ったふりをした。
ベッドの中、目を閉じ、
呼吸を整え、規則正しい寝息を立てる。
自分の鼓動が早まらぬように、
心臓を押し沈めるようにして。
レギュラスが部屋に入ってくる音がした。
衣擦れの音、
寝具が沈む感触。
背後から、腕が静かに伸びてくる。
肩に触れるか触れないかの距離で止まった手。
息が、首筋にかかる。
アランは寝息を続けた。
目を開ければ、
また“言葉より先に触れる夜”が始まってしまうから。
拒むわけではない。
ただ、逃げたかった。
流されるように重ねる温もりの中で、
本当に話したかった言葉が遠のいていくのが、
どうしようもなく悲しかった。
レギュラスの手がそっと退く気配がした。
彼も気づいているのだろう。
アランが眠っている“ふり”をしていることに。
それでも、何も言わなかった。
ただ静かに寝台を抜け、
暖炉の前に立つ影だけが残った。
赤い火が小さく揺れる。
二人の沈黙を照らすように。
アランは目を閉じたまま、
その影を感じながら、
唇を噛みしめた。
――私は、あなたと争いたいわけではないの。
でも、どうしても譲れないの。
その想いは、声にならぬまま胸に沈んでいった。
外では、風が吹き、
雪がゆっくりと降り始めていた。
その白い静けさが、
二人の距離のように、
深く、深く積もっていった。
夜の騎士団本部は、いつになく静かだった。
窓の外では雨が細く降り続き、時折、石畳を叩く音だけが遠くに響いていた。
明かりの落ちた廊下を一人歩き、
シリウス・ブラックは重たい扉を押し開けた。
中は薄暗く、ランプがひとつ灯っているだけ。
机の上には報告書の束。
封蝋が剥がされ、開かれたばかりのそれを前にして、
シリウスは言葉もなく立ち尽くした。
「……また、エリナの報告か」
低く呟いて、椅子に腰を下ろす。
羊皮紙をめくるたび、指先がかすかに震えた。
“ご夫妻は今夜も寝室で共に過ごされました。”
“本日、夫妻でロンドン郊外へ外出。目的は療養とのこと。”
“夕食は屋敷の居間にて、家族三人で摂られたようです。”
淡々とした文面。
それだけなのに――胸の奥を、鋭く抉られる。
アラン。
どうしても、彼女の名前を心の中で呼んでしまう。
彼女が笑っている姿を思い出す。
小さなランプの灯りの下、髪をかき上げ、
何気ない会話の中で目を細めていたあの頃。
――その笑顔の隣に、今いるのは自分ではない。
報告書にある「夫婦」という言葉が、
まるで呪いのように目に焼きついて離れない。
何も起こっていないはずの報告。
ただの生活の記録。
それなのに、そこに滲む“日常”が、
シリウスには何よりも残酷だった。
彼女が朝目を覚まし、
同じ屋敷で息をしている男がいて、
食卓を囲み、夜にはその隣で眠る――
そんな当たり前が、どうしようもなく羨ましかった。
気づけば、机の上には酒瓶が転がっていた。
琥珀色の液体がグラスに注がれ、
喉を焼くように流れ落ちる。
火のような味。
それでも、何も感じない。
「……いくら飲んでも、酔えねぇな」
静かに笑い、
またひと口。
酔えない酒ほど、うまくないものはない。
それでも飲まずにはいられなかった。
その時、扉の向こうから足音がした。
ジェームズ・ポッターが現れ、
手に持った書類を机に置く。
「もうそのくらいにしておけ、シリウス」
低い声。
シリウスは無言で酒瓶を持ち上げたが、
ジェームズが素早くそれを取り上げた。
「放せよ」
「放さない。もう十分だ」
グラスが揺れ、
琥珀の液が机にこぼれ落ちる。
シリウスは視線を逸らしたまま、
拳を握り締めた。
「……アランは、幸せなのか?」
静かな問い。
ジェームズはしばらく黙ったまま、
ランプの光を見つめていた。
「さあな」
短く、それだけを言った。
「それは本人にしかわからない」
飾りのない、まっすぐな言葉。
ジェームズらしい答えだった。
彼はいつだってそうだ。
慰めるための言葉ではなく、
現実の痛みを受け入れるための言葉をくれる。
シリウスは、
少しだけ唇を歪めて笑った。
「やってられねぇな……」
その声は、苦笑とも嗚咽ともつかない。
ジェームズは隣に腰を下ろし、
静かにグラスを奪って机に置いた。
「でも、アルタイルがいるじゃないか」
シリウスの瞳が、ゆっくりと彼を向く。
「……あんなに元気に、真っ直ぐ育ってる。
君があの子を抱きしめられた日、
あれは奇跡だよ。
運命そのものだと思う」
その言葉が胸の奥に落ちた瞬間、
シリウスの目が滲んだ。
息が詰まる。
指先で目頭を押さえた。
「……くそ、情けねぇな」
ジェームズは何も言わず、
ただ肩を叩いた。
ランプの光が二人の間を照らしていた。
静かな時間の中、
シリウスはうつむいたまま、
かすれた声で言った。
「後悔が……多すぎるんだ」
――アランを守れなかった。
――アルタイルを抱けなかった。
――愛してはいけないものを愛してしまった。
その全てが、胸の中で渦巻いていた。
「手放したものの大きさに、
今さら心が震えてる。
それでも……」
息を吐く。
言葉の先に、小さな笑みがあった。
「それでも、あの子をこの手で抱きしめられたことだけは、
感謝してる」
ジェームズは静かに頷いた。
「そうだな」
「ありがとうな、ジェームズ」
シリウスはようやく親友の顔を見た。
その目には、かすかな光が戻っていた。
「俺には……お前がいてくれて良かった」
ジェームズは何も言わず、
ただ酒瓶をもう一度塞ぎ、
シリウスの肩に手を置いた。
部屋の外では、雨がやんでいた。
夜が明ける兆しのように、
遠くの空が、薄く白みはじめていた。
二人の間に流れた沈黙は、
まるで長い年月のように穏やかで、
痛みを包み込むように静かだった。
レギュラス・ブラックという男は、あまりにも隙がなかった。
その姿には一分の乱れもなく、言葉には一滴の無駄もない。
彼の周囲には、絶えず静謐な空気が漂っていた。
まるで、氷でできた王の間に迷い込んだかのような感覚を、
エリナ・ウェルズはいつも覚えていた。
初めて会った時から、それは変わらなかった。
彼は常に整っている。
身に纏う黒いローブの襞の一つにすら皺がなく、
羽ペンを取る手は音も立てない。
話しかける者が誰であれ、冷静に、そして的確に応じる。
だがその均衡が、時折、ふとした瞬間に揺らぐ。
それが――アラン・ブラックの話をするときだった。
今日もまた、書斎の中で彼は羽ペンを走らせていた。
厚手のカーテンの隙間から差す光が、書類の上に淡く広がり、
その影がレギュラスの横顔を鋭く照らし出していた。
灰色の瞳は静まり返っているのに、
その奥には、何かを押し殺すような熱が見えた。
「アラン様の体調は、特に問題ございません」
エリナはいつものように簡潔に報告を終えた。
「そうですか。ご苦労様です」
レギュラスは顔を上げず、書き物を続けたまま淡々と応える。
指先が羽ペンを優雅に操り、紙の上で小さく擦れる音が部屋に満ちる。
一つの所作にも無駄がない。
その完璧な動作に、エリナは知らず呼吸を浅くした。
――この人は、本当に、美しい。
それは貴族特有の美しさではない。
生まれつきの血筋だけでは辿りつけない、
“知略”と“支配”を積み重ねた者だけが纏える美。
長年、上流階級の屋敷を渡り歩いてきたが、
ここまで完全無欠に見える男には出会ったことがない。
彼の一挙一動には、凛とした威圧と、
誰も寄せつけぬ孤高が同居している。
そんな男が――妻の前では、違う顔を見せるのだ。
アラン・ブラック。
エリナが勤め始めてまだ日が浅いが、
レギュラスが彼女を見る時のあの眼差しは、
この完璧な男の唯一の“隙”だとすぐに分かった。
その証拠を、今この瞬間に突きつけられた。
「……一つ、聞きたいことが」
ふいにレギュラスが筆を止めた。
滅多にないことだった。
静寂が落ちる。
エリナは少し身を正した。
「なんでしょう」
レギュラスはゆっくりと顔を上げ、
まっすぐにエリナを見た。
その瞳に射抜かれた瞬間、心臓が一度だけ跳ねる。
「妻が……最近、寝るのが早いのですが」
「……?」
「何か、変わったことはありませんか?
たとえば昼間、出かけて疲れているとか……」
その問いに、エリナはわずかに目を瞬かせた。
――寝るのが早い?
まるで、何気ない夫の心配のように聞こえる。
だがこの男が、そんな些細なことを口にするなど。
彼の声には確かな苛立ちが潜んでいた。
それは怒りでも猜疑でもなく、
“寂しさ”にも似た感情――
エリナは直感でそう感じた。
しばらく考え、慎重に言葉を選ぶ。
「特に変わりはございません。
季節の変わり目のせいかもしれませんね。
女性はこの時期、体調の波もございますから」
「……そうですか」
レギュラスは小さく頷き、
また羽ペンを取り直した。
その横顔は、まるで氷の彫像のように整っている。
だが――たった今、確かにその氷の内側に揺らぎがあった。
――この人は、アラン・ブラックに心を奪われている。
エリナは確信した。
それは単なる夫婦愛などではない。
もっと深く、もっと脆い場所にある何か。
まるで、アランという存在こそがこの完璧な男の“欠陥”なのだ。
レギュラス・ブラックという男は、
国を動かすほどの冷静さと力を持っている。
それなのに、その胸の奥では――
一人の女の寝息ひとつで心を乱されている。
なんという皮肉。
なんという美しい脆さ。
エリナは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
尊敬にも似ていたが、
それだけでは説明できない。
それは――憧れ。
こんなにも完全な男に、
もし自分の存在を一瞬でも意識させることができたなら。
そんな思いが、かすかに芽生えた。
レギュラスは再び、羽ペンを滑らせる。
その筆先からは、誰にも読み取れない言葉が紡がれていく。
淡いインクの光が、指の関節をかすめて反射した。
――美しい。
そう思った自分に、エリナはわずかに身震いした。
報告書に、このことを記しておこう。
レギュラス・ブラックの唯一の弱点は、アラン・ブラック。
それは確実だ。
彼の強さを支えるのも、彼を壊すのも、
結局は同じ女なのだ。
エリナは深く一礼し、
静かに部屋を出た。
背後で、羽ペンの音が再び鳴り始める。
それは、氷の城に戻った王が、
自らの感情を封印し直す音のようだった。
ホグワーツ特急が煙を残して丘の向こうに消えた日、
屋敷の中から笑い声がひとつ消えた。
リディアが旅立ったあと、
ブラック家の屋敷は、まるで音そのものを失ったように沈黙している。
広間に並ぶ大理石の柱が、いつもよりも遠くに感じられる。
長い廊下を歩けば、自分の足音がやけに響いて、
返ってくる反響が心の奥をくすぐるようだった。
「……こんなにも広かったかしら、この屋敷は」
アランはぽつりと呟いた。
窓際には、リディアが使っていた小さな椅子。
いつもは母のドレスの裾を摘まんで離さなかった小さな手が、
今はもうそこにはない。
「寂しくなりますね」
暖炉の火を見つめながら、アランは言葉を続けた。
炎の揺らめきに、リディアの笑顔の残像が一瞬浮かぶ。
「子は巣立っていくものですからね」
レギュラスの声が静かに応じた。
灰色の瞳に炎が映り込み、ゆらゆらと光を揺らしている。
――その通りだと、アランも思う。
カサンドラがロズィエ家に戻った直後、
幼いリディアはまるで何かが壊れたように泣き続けた。
その小さな肩を抱きしめ、
「お母様は少し遠くに行っただけ」と何度も何度も言い聞かせた。
手を取り、絵本を読み、髪を梳き、
母親の不在を埋めるように過ごした日々。
けれど、気づけば――
支えているつもりが、支えられていたのは自分の方だった。
リディアが笑えば、外の光さえも柔らかく見えた。
リディアのために庭に花を植え、
リディアのために新しいドレスを縫い、
そのたびに生きる意味が増えていくようだった。
今はただ、ぽっかりと空いた空間が心を冷たく撫でていく。
屋敷に流れる時間は、まるで砂時計の砂が止まってしまったかのようだった。
「……これから、どうしましょう」
アランはぽつりと呟く。
レギュラスは本を閉じ、静かに妻へ目を向けた。
彼女の声に含まれた、わずかな戸惑いを聞き取ったのだろう。
「どう、とは?」
「子どもたちがいなくなってしまったら……
あなたと、どう過ごせばいいのかしら」
その声は、少しだけ寂しげで、
それでもどこか優しい響きを持っていた。
レギュラスは微かに笑みを浮かべる。
「あなたは、難しく考えすぎる」
彼はゆっくりと体勢を変え、
隣に座るアランの腰へと手を伸ばした。
驚くほど自然な仕草で、
細い腰を引き寄せる。
――ここは、寝室ではない。
レギュラスがそうしたのは、
この家の居間、家族が過ごす場所だった。
壁には家系の肖像画、
床には高価な絨毯。
暖炉の炎が小さく爆ぜて、
二人の影を柔らかく揺らした。
「レギュラス……ここでは……」
アランが小さく戸惑いの声をあげる。
けれど、彼はその視線を穏やかに交わしただ
けだった。
「もう、リディアもいませんから」
その一言に、すべての理由が含まれていた。
たしかに、子どもたちはもうここにはいない。
見守る目も、聞く耳も、どこにもない。
けれど――
それでも、アランの胸はざわめいていた。
慣れない場所での触れあいに、
心臓がひどくうるさく鳴る。
指先が触れるたび、過ぎ去った十数年の記憶が胸に広がる。
彼がどれほどの思いで、自分を見つめてきたか――
今ならわかる気がした。
(この人は、私を愛している。
それは確かに真実。けれど……
この愛をどう受け止めていけばいいのか、私はまだ知らない)
アランは瞼を閉じた。
レギュラスの手が背中に触れ、
静かな呼吸が頬をかすめる。
炎のゆらめきが二人を包み、
広すぎる屋敷の中に、
ようやく一つの鼓動が響いた。
それは――寂しさと温もりが同時に宿る音だった。
夜の帳が降りた屋敷に、しんとした静寂が漂っていた。
書斎の窓の外では風が木々の梢を撫で、
遠くの空で雷鳴がかすかにくぐもって響いている。
机上には、古びた羊皮紙が数枚、
闇の印を刻む者たちだけが閲覧を許された密書。
レギュラス・ブラックは、その最上に記された文面を目で追いながら、
重く深い息を吐いた。
――ヴォルデモート卿が、再び動き出した。
ハリー・ポッターの血肉によって再生した“完全なる肉体”を得た主は、
今やかつての影のような存在ではない。
その力は全盛期を凌駕し、
もはや死をも超越した存在となっていた。
そして今度は、
“マグルを擁護する愚か者ども”を根絶する計画を進めているという。
火に油を注ぐような血の粛清。
それを「秩序の回復」と称して。
レギュラスは眉間を押さえ、
乾いた笑みを一瞬だけ浮かべた。
「……秩序、か。」
どこまでが正義で、どこからが狂気なのか。
その線引きが、もはや彼自身にも見えなくなりつつあった。
机の上のインク壺が小さく揺れる。
雷がひとつ、夜空を切り裂いた。
この十数年、彼が守ろうとしてきたもの――
それは、“理念”ではなく“現実”だった。
ブラック家という名。
高貴な血筋の誇り。
そして、何よりもアラン。
彼女の名を思い浮かべた瞬間、胸の奥に痛みが走る。
自分が闇の帝王の配下である限り、
彼女もまたその影の中に生きなければならない。
それをわかっていながら、
なおも彼女をこの屋敷に留め、
守るという名の束縛で囲ってきた。
ヴォルデモートが掲げる純血主義――
それは、もはやかつての理想とは程遠いものになっていた。
純血の名を守るために、
無辜のマグルを虐殺し、
恐怖を支配の糧とする。
そのどこに、誇りがあるというのか。
レギュラスはゆっくりと立ち上がり、
窓辺に歩み寄る。
闇に沈む庭を見下ろしながら、
ひとつ、深く息を吸い込んだ。
「……我々の“尊い血”は、殺戮のために流されるものではない。」
低く呟いた声は、
静かに夜の空気へと溶けていった。
かつての純血主義者たちは、
自分たちの血を誇りとして守ってきた。
それは排他ではなく、
脅威から身を守るための“盾”だった。
マグルを支配するためでも、
混血を滅ぼすためでもない。
ただ、異端とされた己らの世界を、
静かに存続させるための境界線。
しかし今、ヴォルデモートはその思想を“支配”の名に変えた。
彼にとって“純血”とは、
不死を継ぐ器であり、権力を誇示するための道具に過ぎない。
レギュラスは、机の上の密書に向き直った。
記されていた作戦の一部を、
完璧に消し去るための呪文を唱える。
淡い光が走り、羊皮紙の文字が溶けるように消えていく。
指先に残る微かな魔力の熱。
そして、後に残る虚しさ。
――これが正しいのか。
――自分は、誰を守っているのか。
呪文を唱えるたびに、
心の奥で何かが小さく軋む音がした。
それは、もう何度も繰り返してきた音。
闇の帝王の命令に従い、
罪を隠し、痕跡を消し去る。
そのたびに、自分という存在が少しずつ削り取られていくような感覚。
守るために手を汚し、
愛する者のために闇を纏う。
――それが、レギュラス・ブラックという男の宿命なのだろう。
けれど、心の奥底で誰にも言えぬ声が響く。
(もうやめたい)
その一言を、口に出すことはできなかった。
外では再び、雷鳴が夜を裂く。
その光が書斎を照らし、
レギュラスの横顔に淡い銀の線を描いた。
灰色の瞳は静かに光り、
まるで深い湖の底で沈んでいく月のように、
冷たく、脆く、揺らめいていた。
灰色の朝靄が、ロンドンの街を包んでいた。
まだ夜の名残が消えきらない時間。
騎士団の本部――古びた石造りの建物の一室に、
淡いランプの灯りだけが頼りなく揺れている。
机の上には羊皮紙の束。
封印を解かれたそれは、
若き医務魔女エリナ・ウェルズからの最新の報告書だった。
「……驚くほど、上手くやっているようだな」
リーマスが口を開く。
指先で一枚の報告をめくりながら、
淡々とした声に、微かな感心が滲む。
「よくやってくれてるよ。
ブラック家の屋敷に、これほど早く馴染むとは思わなかった。」
ジェームズが同意するように頷く。
彼の表情には、どこか複雑な陰が差していた。
エリナ・ウェルズ――
若く、聡明で、そして何より“普通”の女。
それが、あの家に入るには最適な条件だった。
華やかさよりも、無垢に見える平凡さが鍵になる。
「君の見立ては正しかったな」
ジェームズは言いながら、
報告の一部に目を走らせた。
そこには淡々とした筆致で、
ブラック家の屋敷の様子、
アラン・ブラックの健康状態、
そして主レギュラス・ブラックの動向が詳細に記されていた。
数日前――。
マグルを擁護する団体が、
何者かによって“粛清”された。
その現場は、まるで幻のように跡形もなかった。
炎の痕も、死体も、呪文の残滓すら見つからない。
それどころか、痕跡を“消し去った痕跡”さえも存在しなかった。
「こんなことが、ありえるか?」
リーマスの低い声に、
部屋の空気が重く沈んだ。
「……痕跡を消した“誰か”が、完璧に仕事をしたということだ。」
ジェームズの指が、報告書の一節を叩く。
“その夜、レギュラス・ブラックが屋敷を離れていた。”
「偶然ではありえない」
リーマスが静かに言う。
「彼が、闇の帝王の痕跡を――いや、関与そのものを覆い隠した。
そう考えるのが自然だ。」
沈黙。
ジェームズは深く息を吐き、
額に手を当てた。
「……確実に、それがわかっただけでも大きな収穫だ。」
ヴォルデモートの影を覆うために動く“影”。
その名が、レギュラス・ブラック。
主の意志を叶え、痕跡を消し去る“消失の魔法使い”。
いくら捜査を進めても、掴めば掴むほど指の隙間から砂のように零れ落ちる。
報告書の束を整理していたリーマスが、
ふと手を止めた。
「……ジェームズ、これを見てくれ」
差し出された一枚には、
エリナが記した日付と時刻、
そしてごく短い一文があった。
“ご夫妻は、今夜もお二人で過ごされています。
奥様の体調はやや回復傾向にありますが、
主は相変わらず彼女の傍を離れようとされません。”
一見、何でもない報告。
だがその文面の行間には、
誰にも言えぬ「私生活」の匂いが、
淡く、しかし確実に滲んでいた。
「……これは」
ジェームズが言葉を選ぶようにして、視線を伏せる。
報告書の続きには、
“医務魔女としての診察時の観察”として、
レギュラスとアランの関係性が――
まるで冷静な医療記録のように、しかし残酷なまでに具体的に記されていた。
どれほど彼が彼女を大切に扱い、
どんな時間を共に過ごしているのか。
それは情報として淡々とした筆致でありながら、
読む者の胸に妙な温度を残した。
その報告を前に、ジェームズの表情がわずかに曇る。
「……シリウスが、これを見たんだ」
リーマスが小さく呟いた。
「彼の顔が、目に浮かぶようだ。」
ジェームズは手元の報告書を閉じた。
指先が微かに震えていた。
シリウス――
かつてレギュラスと血を分けた兄であり、
そして、アランを愛した男。
彼の心をどれほど抉っただろう。
愛した女が、今は弟の腕の中にいるという現実を。
しかも、それを“報告書”という形で目にしてしまうなど。
「できれば……彼には見せたくなかった」
ジェームズは静かに言った。
「でも、報告は上層部に共有される。
僕たちだけが目を通さないわけにはいかない。」
部屋に沈黙が落ちる。
外の雨が、静かに窓を打っていた。
ジェームズは報告書の束を閉じると、
深く背もたれに身を沈めた。
――エリナの筆は淡々としている。
けれどその紙の隅々には、
血のような現実と、痛みのような真実が染み込んでいる。
情報を得るたびに、
誰かの心がひとつずつ削られていく。
それが、騎士団の「正義」の代償だった。
冬の陽が、屋敷の重たいカーテン越しに斜めに差し込んでいた。
書斎には微かな香木の匂いが漂い、机の上には封蝋で閉じられた手紙がいくつも積まれている。
レギュラス・ブラックはその封を一つずつ切り、内容に目を通していた。
彼の指先の動きはいつものように冷静で正確だったが、その目の奥には疲労の翳が隠しきれない。
「……ここと、ここ。あとは――」
几帳面に分類された名簿の上に、黒いインクの印が並ぶ。
その印をつけられた名は、いずれも英国魔法界の名門家系。
――モンタギュー家、バーク家、ノット家。
いずれも純血一族の中でも古い歴史を持ち、
ブラック家との縁を結ぶには申し分のない家柄だった。
「……これで、ある程度は絞れたな」
ひとりごとのように呟くと、レギュラスは小さく息を吐いた。
ペン先に残ったインクを丁寧に拭いながら、
頭の奥に渦巻く思考を抑え込む。
――これは義務だ。
――父として、そして当主として、避けては通れぬ道。
だからこそ、心を揺らしてはいけない。
その時、静かに扉が叩かれた。
振り向くと、アランが立っていた。
「アラン。来てくれたんですね」
「何かご用かしら?」
レギュラスは手元の書類を整えると、
穏やかな声で言った。
「リディアの婚約を、そろそろ進めようと思うんです」
一瞬、アランの眉が動いた。
翡翠のように透き通る瞳が、静かに揺れる。
「……まだ、早くはありませんか?」
その声は、まるで息を殺すような小さな囁きだった。
レギュラスは軽く首を振る。
「このくらいですよ。僕もカサンドラとの婚約はそのくらいの時期に決まりましたから」
アランは少し視線を落とし、
卓上に広げられた名簿へと目を向けた。
整った筆跡で並ぶ名家の一覧。
それを、まるで未来の地図でも読むようにじっと見つめている。
「…ノット家の跡取りは、ずいぶん年が離れていますね」
「ええ。だが血筋は確かです」
「モンタギュー家は?」
「母親がやや病弱らしい。気性も強いと聞きます」
アランは黙り込む。
薄い唇がわずかに震えている。
「リディアのことを思えば……もう少し時間をあげてもいいのでは」
その声には、優しさと、母の直感のような切実さが混じっていた。
だがそれが今のレギュラスには、どこか重たく響いた。
このところ、彼の心は常に疲弊していた。
騎士団の動き、闇の帝王の命令、そしてアランの体調。
守るべきものが多すぎて、どれもが少しずつ心を削っていく。
――これ以上、余計な憂いを増やしたくない。
レギュラスは立ち上がると、
アランの背後にまわり、そっとその手から名簿の冊子を取った。
「まだ見ているのに……」
抗議するようにこちらを見上げるアラン。
その瞳の奥に、言葉にならない想いが宿っていた。
レギュラスは無言のまま、
その顔に唇を寄せた。
触れた瞬間、アランの身体がかすかに強ばる。
だが拒むような動きはない。
レギュラスはさらに深く、彼女の唇に自分の想いを押し込めた。
「……っ、レギュラス……」
何かを言おうとするその声を、また唇で塞ぐ。
まるで、言葉の一つひとつが彼の理性を乱してしまうのを恐れているかのように。
彼女の髪が頬に触れ、
微かな香りが鼻をくすぐった。
どこか寂しげな香草の匂い――
あの日、彼女が病床に伏していた頃と同じ香りだった。
(頼むから……これ以上、何も言わないでくれ)
その心の声を、唇の熱で封じた。
アランが自分にしてくれたことを、
レギュラスは誰よりも理解している。
カサンドラの子――リディアを、
まるで我が子のように愛し、育ててくれた。
熱を出せば夜通し看病し、
成績の報告が届けば自分より先に喜んでみせた。
その姿を幾度も見てきた。
だからこそ、感謝している。
だが同時に、理解してほしかった。
リディアは、ブラック家の名を継ぐことはできない。
娘として生まれた以上、いずれはどこかの純血貴族の妻になる。
それが、この世界で生きるための唯一の道なのだ。
「……どの家を選んだとて、大きな違いなどない」
彼は心の中で呟く。
選ばれた婚約者の家柄も、
生活も、
礼儀も、
いずれは似たようなものに収束していく。
――ならば、過剰に悩む必要はない。
――子は嫁ぎ、屋敷を離れていく。
――それが血の流れであり、秩序だ。
そう言い聞かせるように、
レギュラスはアランの背に手を回した。
アランの指先が名簿の紙片を掴んだまま震えている。
声を発することもできず、
ただ小さく息を吐いた。
その吐息が、レギュラスの胸を焦がした。
――彼女は、きっとわかっている。
――それでも、納得したくないだけなのだ。
「……アラン」
「ええ」
「僕に任せてください」
レギュラスの声は低く、静かだった。
アランは小さく頷き、
しかしその瞳はどこか遠くを見ていた。
それは、娘を手放す母の覚悟と、
それでも手放したくないという女の本能が、
痛みのようにせめぎ合っている光だった。
部屋の中に、二人の呼吸だけが残った。
窓の外では、雪が舞い始めている。
白い光の欠片がゆっくりと降り、
それぞれの想いの温度差を、静かに埋めていくようだった。
屋敷の夜は深く、長い。
冬の冷気が廊下をすり抜け、静けさを張り詰めたように満たしている。
寝室のランプは既に落とされ、暖炉の火だけが名残のように赤くゆらめいていた。
アランはその淡い光の中で、身じろぎもせずに横たわっていた。
微かな寝息を立てながら、閉じた瞼の奥では、眠りではなく思考が渦を巻いていた。
――レギュラスと、言い合いをしたいわけではない。
ただ、折れたくないものがある。
胸の奥にそう繰り返す。
その“折れたくないもの”の名は、リディア。
レギュラスが決めようとしている婚約相手のことを思うたび、
心に冷たい針が刺さるようだった。
ノット家の子息――
確かに由緒正しい純血の名家。
魔法省にも太い繋がりを持ち、格式としては申し分ない。
けれど、その青年はリディアより十も年上なのだ。
それを「常」として受け入れるこの世界に、どうしても馴染めなかった。
レギュラスは「家を継ぐ者の義務」として淡々と語った。
彼にとって婚姻とは、血統と政治の結び目でしかない。
愛情も情熱も、そこには含まれない。
だがアランにとって、それは違った。
――リディアは花よ蝶よと育ててきた。
あの子の笑顔、泣き顔、初めて杖を持った日の小さな手の震え。
そのすべてをこの胸に抱いて育ててきたのだ。
カサンドラへの贖罪からではない。
リディアを本当に“娘”として愛してきた。
だからこそ、あの子が誰かの妻になる日を、
自分の意志のないまま見送ることなどできない。
「リディアの幸せを一番に考えてください」
そう言った夜もあった。
けれど、レギュラスは静かに微笑みながら、
「わかっていますよ」とだけ答えた。
その目に宿るのは理解ではなく、決意だった。
彼の中で既に決まっている結論を、
アランの言葉で覆すことなどできないのだと、
すぐに悟った。
それでも、伝えずにはいられなかった。
母として、どうしても譲れない思いがある。
――あの子が笑顔でいられるように。
けれど、その思いは言葉として届くことはなかった。
レギュラスは話題を変えるように、
あるいは封じるように、
いつも“触れる”ことで全てを終わらせてしまう。
夜、寝室に戻ると、
彼は当たり前のようにアランの傍に寄ってくる。
その手が腰に回り、髪に触れ、頬を撫でる。
アランの反論も、憂いも、全てその手の中で溶かされていく。
「もう……その話はやめましょう」
そう囁かれるたびに、
アランの中の言葉たちは、息を潜めて消えていった。
――嫌だった。
彼を拒みたいわけではない。
でも、この沈黙を重ねるたびに、
自分が“意志のない妻”に戻っていくような気がして怖かった。
かつて使用人としてこの屋敷にいた頃の自分。
命じられれば従うしかなかったあの日々。
今、立場は変わっても、
結局は同じではないのか――そんな思いが胸を締め付ける。
だから、その夜は先に寝入ったふりをした。
ベッドの中、目を閉じ、
呼吸を整え、規則正しい寝息を立てる。
自分の鼓動が早まらぬように、
心臓を押し沈めるようにして。
レギュラスが部屋に入ってくる音がした。
衣擦れの音、
寝具が沈む感触。
背後から、腕が静かに伸びてくる。
肩に触れるか触れないかの距離で止まった手。
息が、首筋にかかる。
アランは寝息を続けた。
目を開ければ、
また“言葉より先に触れる夜”が始まってしまうから。
拒むわけではない。
ただ、逃げたかった。
流されるように重ねる温もりの中で、
本当に話したかった言葉が遠のいていくのが、
どうしようもなく悲しかった。
レギュラスの手がそっと退く気配がした。
彼も気づいているのだろう。
アランが眠っている“ふり”をしていることに。
それでも、何も言わなかった。
ただ静かに寝台を抜け、
暖炉の前に立つ影だけが残った。
赤い火が小さく揺れる。
二人の沈黙を照らすように。
アランは目を閉じたまま、
その影を感じながら、
唇を噛みしめた。
――私は、あなたと争いたいわけではないの。
でも、どうしても譲れないの。
その想いは、声にならぬまま胸に沈んでいった。
外では、風が吹き、
雪がゆっくりと降り始めていた。
その白い静けさが、
二人の距離のように、
深く、深く積もっていった。
夜の騎士団本部は、いつになく静かだった。
窓の外では雨が細く降り続き、時折、石畳を叩く音だけが遠くに響いていた。
明かりの落ちた廊下を一人歩き、
シリウス・ブラックは重たい扉を押し開けた。
中は薄暗く、ランプがひとつ灯っているだけ。
机の上には報告書の束。
封蝋が剥がされ、開かれたばかりのそれを前にして、
シリウスは言葉もなく立ち尽くした。
「……また、エリナの報告か」
低く呟いて、椅子に腰を下ろす。
羊皮紙をめくるたび、指先がかすかに震えた。
“ご夫妻は今夜も寝室で共に過ごされました。”
“本日、夫妻でロンドン郊外へ外出。目的は療養とのこと。”
“夕食は屋敷の居間にて、家族三人で摂られたようです。”
淡々とした文面。
それだけなのに――胸の奥を、鋭く抉られる。
アラン。
どうしても、彼女の名前を心の中で呼んでしまう。
彼女が笑っている姿を思い出す。
小さなランプの灯りの下、髪をかき上げ、
何気ない会話の中で目を細めていたあの頃。
――その笑顔の隣に、今いるのは自分ではない。
報告書にある「夫婦」という言葉が、
まるで呪いのように目に焼きついて離れない。
何も起こっていないはずの報告。
ただの生活の記録。
それなのに、そこに滲む“日常”が、
シリウスには何よりも残酷だった。
彼女が朝目を覚まし、
同じ屋敷で息をしている男がいて、
食卓を囲み、夜にはその隣で眠る――
そんな当たり前が、どうしようもなく羨ましかった。
気づけば、机の上には酒瓶が転がっていた。
琥珀色の液体がグラスに注がれ、
喉を焼くように流れ落ちる。
火のような味。
それでも、何も感じない。
「……いくら飲んでも、酔えねぇな」
静かに笑い、
またひと口。
酔えない酒ほど、うまくないものはない。
それでも飲まずにはいられなかった。
その時、扉の向こうから足音がした。
ジェームズ・ポッターが現れ、
手に持った書類を机に置く。
「もうそのくらいにしておけ、シリウス」
低い声。
シリウスは無言で酒瓶を持ち上げたが、
ジェームズが素早くそれを取り上げた。
「放せよ」
「放さない。もう十分だ」
グラスが揺れ、
琥珀の液が机にこぼれ落ちる。
シリウスは視線を逸らしたまま、
拳を握り締めた。
「……アランは、幸せなのか?」
静かな問い。
ジェームズはしばらく黙ったまま、
ランプの光を見つめていた。
「さあな」
短く、それだけを言った。
「それは本人にしかわからない」
飾りのない、まっすぐな言葉。
ジェームズらしい答えだった。
彼はいつだってそうだ。
慰めるための言葉ではなく、
現実の痛みを受け入れるための言葉をくれる。
シリウスは、
少しだけ唇を歪めて笑った。
「やってられねぇな……」
その声は、苦笑とも嗚咽ともつかない。
ジェームズは隣に腰を下ろし、
静かにグラスを奪って机に置いた。
「でも、アルタイルがいるじゃないか」
シリウスの瞳が、ゆっくりと彼を向く。
「……あんなに元気に、真っ直ぐ育ってる。
君があの子を抱きしめられた日、
あれは奇跡だよ。
運命そのものだと思う」
その言葉が胸の奥に落ちた瞬間、
シリウスの目が滲んだ。
息が詰まる。
指先で目頭を押さえた。
「……くそ、情けねぇな」
ジェームズは何も言わず、
ただ肩を叩いた。
ランプの光が二人の間を照らしていた。
静かな時間の中、
シリウスはうつむいたまま、
かすれた声で言った。
「後悔が……多すぎるんだ」
――アランを守れなかった。
――アルタイルを抱けなかった。
――愛してはいけないものを愛してしまった。
その全てが、胸の中で渦巻いていた。
「手放したものの大きさに、
今さら心が震えてる。
それでも……」
息を吐く。
言葉の先に、小さな笑みがあった。
「それでも、あの子をこの手で抱きしめられたことだけは、
感謝してる」
ジェームズは静かに頷いた。
「そうだな」
「ありがとうな、ジェームズ」
シリウスはようやく親友の顔を見た。
その目には、かすかな光が戻っていた。
「俺には……お前がいてくれて良かった」
ジェームズは何も言わず、
ただ酒瓶をもう一度塞ぎ、
シリウスの肩に手を置いた。
部屋の外では、雨がやんでいた。
夜が明ける兆しのように、
遠くの空が、薄く白みはじめていた。
二人の間に流れた沈黙は、
まるで長い年月のように穏やかで、
痛みを包み込むように静かだった。
レギュラス・ブラックという男は、あまりにも隙がなかった。
その姿には一分の乱れもなく、言葉には一滴の無駄もない。
彼の周囲には、絶えず静謐な空気が漂っていた。
まるで、氷でできた王の間に迷い込んだかのような感覚を、
エリナ・ウェルズはいつも覚えていた。
初めて会った時から、それは変わらなかった。
彼は常に整っている。
身に纏う黒いローブの襞の一つにすら皺がなく、
羽ペンを取る手は音も立てない。
話しかける者が誰であれ、冷静に、そして的確に応じる。
だがその均衡が、時折、ふとした瞬間に揺らぐ。
それが――アラン・ブラックの話をするときだった。
今日もまた、書斎の中で彼は羽ペンを走らせていた。
厚手のカーテンの隙間から差す光が、書類の上に淡く広がり、
その影がレギュラスの横顔を鋭く照らし出していた。
灰色の瞳は静まり返っているのに、
その奥には、何かを押し殺すような熱が見えた。
「アラン様の体調は、特に問題ございません」
エリナはいつものように簡潔に報告を終えた。
「そうですか。ご苦労様です」
レギュラスは顔を上げず、書き物を続けたまま淡々と応える。
指先が羽ペンを優雅に操り、紙の上で小さく擦れる音が部屋に満ちる。
一つの所作にも無駄がない。
その完璧な動作に、エリナは知らず呼吸を浅くした。
――この人は、本当に、美しい。
それは貴族特有の美しさではない。
生まれつきの血筋だけでは辿りつけない、
“知略”と“支配”を積み重ねた者だけが纏える美。
長年、上流階級の屋敷を渡り歩いてきたが、
ここまで完全無欠に見える男には出会ったことがない。
彼の一挙一動には、凛とした威圧と、
誰も寄せつけぬ孤高が同居している。
そんな男が――妻の前では、違う顔を見せるのだ。
アラン・ブラック。
エリナが勤め始めてまだ日が浅いが、
レギュラスが彼女を見る時のあの眼差しは、
この完璧な男の唯一の“隙”だとすぐに分かった。
その証拠を、今この瞬間に突きつけられた。
「……一つ、聞きたいことが」
ふいにレギュラスが筆を止めた。
滅多にないことだった。
静寂が落ちる。
エリナは少し身を正した。
「なんでしょう」
レギュラスはゆっくりと顔を上げ、
まっすぐにエリナを見た。
その瞳に射抜かれた瞬間、心臓が一度だけ跳ねる。
「妻が……最近、寝るのが早いのですが」
「……?」
「何か、変わったことはありませんか?
たとえば昼間、出かけて疲れているとか……」
その問いに、エリナはわずかに目を瞬かせた。
――寝るのが早い?
まるで、何気ない夫の心配のように聞こえる。
だがこの男が、そんな些細なことを口にするなど。
彼の声には確かな苛立ちが潜んでいた。
それは怒りでも猜疑でもなく、
“寂しさ”にも似た感情――
エリナは直感でそう感じた。
しばらく考え、慎重に言葉を選ぶ。
「特に変わりはございません。
季節の変わり目のせいかもしれませんね。
女性はこの時期、体調の波もございますから」
「……そうですか」
レギュラスは小さく頷き、
また羽ペンを取り直した。
その横顔は、まるで氷の彫像のように整っている。
だが――たった今、確かにその氷の内側に揺らぎがあった。
――この人は、アラン・ブラックに心を奪われている。
エリナは確信した。
それは単なる夫婦愛などではない。
もっと深く、もっと脆い場所にある何か。
まるで、アランという存在こそがこの完璧な男の“欠陥”なのだ。
レギュラス・ブラックという男は、
国を動かすほどの冷静さと力を持っている。
それなのに、その胸の奥では――
一人の女の寝息ひとつで心を乱されている。
なんという皮肉。
なんという美しい脆さ。
エリナは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
尊敬にも似ていたが、
それだけでは説明できない。
それは――憧れ。
こんなにも完全な男に、
もし自分の存在を一瞬でも意識させることができたなら。
そんな思いが、かすかに芽生えた。
レギュラスは再び、羽ペンを滑らせる。
その筆先からは、誰にも読み取れない言葉が紡がれていく。
淡いインクの光が、指の関節をかすめて反射した。
――美しい。
そう思った自分に、エリナはわずかに身震いした。
報告書に、このことを記しておこう。
レギュラス・ブラックの唯一の弱点は、アラン・ブラック。
それは確実だ。
彼の強さを支えるのも、彼を壊すのも、
結局は同じ女なのだ。
エリナは深く一礼し、
静かに部屋を出た。
背後で、羽ペンの音が再び鳴り始める。
それは、氷の城に戻った王が、
自らの感情を封印し直す音のようだった。
