4章
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アルタイルは、久しぶりに感じる軽やかさに心を弾ませていた。
ブラック家の屋敷では、何もかもが整然としすぎていて、
空気さえも秩序の中に閉じ込められているようだった。
食卓ではナイフとフォークの音すら慎ましく、
話す内容も、語彙も、礼節に包まれていなければならない。
だが今は違う。
シリウス・ブラックの家は、まるで風そのものが吹き抜けていくように自由だった。
重厚な絨毯の上には犬の毛が少し散らばっていて、
暖炉の火は音を立てて跳ね、テーブルには開けかけの酒瓶がいくつも並んでいる。
「飲んでみるか?」
シリウスが悪戯っぽく片眉を上げて、琥珀色の液体を差し出した。
ボトルのラベルには《ファイアウィスキー》とある。
ほんの少し、琥珀がかった煙のような香りが漂った。
「まだ未成年ですよ」と口では言いながらも、
アルタイルの手はそのグラスを受け取っていた。
口に含んだ瞬間、喉が焼けるように熱くなる。
けれどその熱は不思議と心地よかった。
身体の奥からじわじわと広がって、
胸の中の何か――ずっと堅く締め付けられていた何かを、
ゆっくりと溶かしていくようだった。
「ははっ、初めてにしては顔色悪くないな!」
シリウスは豪快に笑って、自分のグラスを空けた。
テーブルの上には、ホグワーツの大広間を思わせるほどの菓子が並んでいる。
ショートブレッド、かぼちゃパイ、チョコレート・フロッグ。
あまい匂いが空気いっぱいに漂って、
まるで少年時代そのものを取り戻したかのようだった。
「母さんに見つかったら、確実に怒られますね」
「いいんだよ。今日はお前が“お前のままで”いていい日なんだ」
その言葉に、アルタイルは笑った。
口の端にチョコレートがついているのも気にせず、
息が切れるほど笑った。
やがて、シリウスの武勇伝が始まった。
「お前、知ってるか? ホグワーツの北の塔、昔は立ち入り禁止だったんだ。
でも俺とジェームズとリーマスとピーターで、真夜中に忍び込んでさ……
見つからないように《姿くらまし》して、
マクゴナガル先生が置いてたワインを一本持ち出したんだよ!」
「……怒られなかったんですか?」
「そりゃあ怒られたさ! でもな、バレたのが一年後だった。
あの時の勝利感ったら、もう最高だったね」
シリウスは笑いながら語り、
その目にはあの頃の光が宿っていた。
アルタイルは頬杖をつきながら、その話を夢のように聞いていた。
父の屋敷では決して聞けない類の話。
危うくて、馬鹿げていて、けれど心から羨ましいと思える冒険の数々。
「僕が生まれてたら、絶対ついていきました」
「そうか? じゃあ次は俺と行くか?」
「……はい!」
笑い声が暖炉の火に溶けて、
二人の影が壁に揺れた。
それからは、まるで競うように話が続いた。
アルタイルも負けじと、ハリーと過ごしたホグワーツでの日常を語りはじめた。
「この前、ハリーとロンとハーマイオニーで夜の廊下を抜け出したんです。
見回りの先生に見つかりそうになって、
僕だけ《透明マント》の端を踏んで転んで……
結局、スネイプ先生に見つかって、減点30点ですよ!」
「はははっ、それはジェームズそっくりだ!」
シリウスが腹を抱えて笑う。
その笑い声が部屋いっぱいに響き、
アルタイルもつられて声をあげて笑った。
もう何時間も話しているのに、
まだ話したいことが山ほどあった。
屋敷の中では決してこんなふうに笑わない。
こんなに大きな声で喋ることもない。
妹のリディアに話すときだって、いつも言葉を選んでいた。
だが今は違う。
ここでは、どんな話をしても、どんなふうに笑ってもいい。
シリウスはそれを受け止めてくれる。
まるで、心に羽が生えたように軽かった。
「シリウス、僕ね……」
言いかけて、アルタイルはグラスの中を覗き込む。
揺れる琥珀の波に、自分の顔が映る。
「……なんだ?」
「ここにいると、生きてるって感じがする」
シリウスはその言葉に少し黙った。
そして、ゆっくりと笑った。
「そうか。なら、俺の勝ちだな」
「勝ち?」
「お前を笑わせた。お前を自由にできた。それで十分だ」
シリウスの瞳が炎の明かりを映し、
アルタイルの胸が熱くなった。
こんな夜が、いつまでも続けばいいと思った。
時間が止まってほしいと、心から願った。
けれど時計の針は無情に進む。
ファイアウィスキーの瓶が半分ほどになった頃、
窓の外には淡い夜明けの光が滲みはじめていた。
それでも二人は話をやめなかった。
話すたびに、笑うたびに、
“親子”という言葉が少しずつ現実になっていくような夜だった。
夜の帳が屋敷を包み、暖炉の火が静かに揺れていた。
アランはソファに腰を下ろし、指先で膝掛けの端を撫でながら、
ふと遠くの空を見つめた。
――アルタイルは、今頃どうしているのだろう。
あの子の笑い声が脳裏に浮かぶ。
きっと、シリウスの隣で思い切り笑っているに違いない。
不器用だけれど、誰よりも真っ直ぐで温かいその人の腕の中で。
「……シリウス」
その名を、声に出すことはなかった。
唇が微かに震えただけ。
心の奥底で、静かに呟く。
かつて燃えるように愛した人――。
ホグワーツの夜空を飛びながら、風の中で何度も笑い合った。
彼の自由さに惹かれ、彼の優しさに救われた。
そして、いつかその自由の炎に焼かれることを恐れた。
もしもその人が、今、息子を抱きしめているのなら。
どんな言葉をかけているのだろう。
何を語り、どんな未来を見せてやっているのだろう。
その光景を思うだけで胸が締めつけられた。
羨ましいわけでも、嫉妬でもない。
ただ、遠くで自分の知らない「父と子」の絆が生まれていくことに、
言葉にできない切なさがあった。
見たい気もした。
けれど、それを見てしまえば、自分の心がどこへ向かうのか――
怖かった。
暖炉の炎がはぜ、パチリと音を立てた。
振り返れば、レギュラスが静かに本を閉じている。
その姿を見つめると、胸の奥にあたたかな波が広がった。
この人がいたから、今の自分がある。
何を犠牲にしてでも守ってくれた人。
どんなに冷たく見えても、その瞳の奥にはいつも真っ直ぐな誠実さがあった。
――あの頃、もし違う道を選んでいたら。
そんな「もしも」を考えたこともあった。
けれど今は違う。
シリウスの名を思い出すたび、
同時にレギュラスの姿が浮かぶ。
彼は、痛みも過去も、全てを抱えたまま、
それでも自分を愛し抜いてくれた人だ。
「……ありがとう、レギュラス」
小さく呟く。
彼には届かなくてもいい。
この気持ちだけは、誰にも聞かれずに胸の中にしまっておきたかった。
アルタイルがシリウスのもとへ行くこと。
それをレギュラスがどんな思いで受け入れているのか、
痛いほど分かっていた。
彼は決して快く思っていない。
息子を、兄に奪われるような感覚を抱えているに違いない。
それでも、息子の前では一言も愚痴をこぼさない。
その沈黙の裏に、どれほどの苦しみを隠しているのだろう。
だからこそ――アランは彼に寄り添いたいと思った。
彼が選んだ沈黙の中に、そっと手を差し伸べたかった。
レギュラスがふとこちらを見やる。
深い銀灰色の瞳が、静かに揺れる。
「寒くないですか」
それだけの言葉なのに、
その声音には確かな愛情が宿っていた。
アランは微笑んで首を振った。
「いいえ。あたたかいです」
レギュラスは小さく頷き、またページをめくった。
その指の動きが妙に優しく見えて、
アランはそっと彼の肩に頭を預ける。
もう迷わない。
自分はこの人と生きていく。
過去に囚われたままではいられない。
たとえシリウスが息子を抱きしめていたとしても、
自分が抱くのは、目の前のこの人だけだ。
炎の赤が二人の頬を染め、
やがて夜の静寂がすべてを包み込んでいく。
その沈黙の中で、アランは静かに誓った。
――私はもう、振り返らない。
あなたを、心の底から愛していく。
新月の夜。
薄暗い蝋燭の灯が、騎士団本部の石壁を橙に照らしていた。
ジェームズ・ポッターの机の上には、封蝋の押された書類がいくつも並び、
その中央には、一枚の人事記録が静かに置かれている。
その名は――エリナ・ウェルズ。
純血の魔法使い。
医務魔女として正式に免許を取得して三年。
魔法治癒に関する知識はまだ浅いが、誠実で、慎ましく、
何より、どこにでもいるような「普通の女」だった。
彼女は静かに部屋の中央に立っていた。
背筋はまっすぐで、表情には怯えの色ひとつない。
ただ、緊張を包み隠すように、指先がわずかにローブの裾をつまんでいる。
「……君がエリナ・ウェルズか」
ジェームズの声は、低くも穏やかだった。
「はい」
少女ははっきりと答える。
蝋燭の炎が彼女の頬を照らす。
その顔立ちは可憐というよりも、どこか儚げで、
印象に残らないほどに“普通”だった。
だが、その“普通さ”こそが、騎士団にとって最高の武器となる。
「ブラック家への潜入が決まった。屋敷の新しい医務魔女としてだ」
エリナは深く頷いた。
すでに心の準備はできているようだった。
ジェームズは書類をめくりながら続ける。
「君はアラン・ブラックの体調管理を任されることになるだろう。
だが、我々の狙いはそこではない。
屋敷の主、レギュラス・ブラック――あの男の周囲を探ることだ」
「……レギュラス・ブラック」
エリナがその名を口の中で繰り返す。
音の響きを確かめるように。
「そうだ。彼は今や、我々にとって最も厄介な存在だ。
正義と偽り、冷静と情の間で均衡を保っている。
何を考えているのか誰にも読めない。
だからこそ、君の役目がある」
エリナは静かに息を吸い込んだ。
蝋燭の灯が、その灰青色の瞳に揺れる。
ジェームズは彼女に近づき、掌ほどの銀の装飾品を差し出した。
ペンダントの形をした通信具。
裏面には極小の呪文刻印が彫り込まれている。
「これを身につけておけ。
こちらから魔力を流せば、君の声が届く。
また、必要なときは君の魔力から我々に状況が伝わるようになっている」
「了解いたしました」
ジェームズはその様子を見つめながら、
少しだけ視線を逸らす。
この任務は、成功すれば歴史に名を残すほどの功績になる。
しかし、失敗すれば――命はない。
レギュラス・ブラックという男は、
理性の皮を被った猛獣だ。
不用意に近づけば、静かに喉を噛み切られる。
「君の報酬ははずむ。
だが忘れるな――これは重要な任務だ。
彼を誘惑する必要はない。
だが、もし彼が心を開いたなら……その先は君の裁量に任せる」
「……かしこまりました」
その返事は驚くほど落ち着いていた。
若いながら、覚悟の決まった声。
ジェームズはゆっくりと頷く。
「君は、アラン・ブラックとは違う。
派手さも華もない。
だが、それがいい。
あの男の目を欺くには、完璧な“凡庸さ”が必要だ」
「……理解しております」
エリナは深く一礼し、背を伸ばした。
その動作には、僅かな恐れよりも使命感が勝っていた。
彼女の背に、騎士団の紋章が描かれた黒いマントがかけられる。
「では、出発を」
ジェームズが告げる。
扉の外では、夜明け前の風が吹いていた。
まだ空は藍色に沈み、遠くで雷鳴のような魔力のうねりが聞こえる。
その光景の中、エリナ・ウェルズはローブの裾を翻し、
静かに闇の中へと歩み出した。
彼女の心臓は静かに高鳴っていた。
恐怖ではない。
これは使命の鼓動。
――この手で、あの闇を暴くのだ。
そしてその先に、何が待っているのかを、
彼女自身もまだ知らなかった。
その日、ブラック家の玄関ホールにはひんやりとした空気が満ちていた。
曇天の光が曇りガラス越しに落ち、深緑の絨毯に柔らかな陰を落としている。
黒檀の柱の間を抜け、執事がひとりの若い女を伴ってゆっくりと歩いてきた。
「お連れいたしました、旦那様」
その声に、書斎から姿を現したレギュラス・ブラックは軽く顎を上げた。
長身のシルエットが光を遮り、静かな威圧感を漂わせる。
新しい医務魔女――エリナ・ウェルズ。
それが、目の前に立つ少女の名だった。
彼女は深く頭を下げた。
控えめな仕草。慎ましい佇まい。
何より、その若さがまず目についた。
「……随分と若い方ですね」
低い声でレギュラスが言うと、エリナは小さく頷いた。
「はい。ですが、魔法医療の資格は三年前に取得しております」
彼女の声は驚くほど落ち着いていた。
震えもなく、抑揚もない。
それでいて、誠実さが滲んでいる。
レギュラスはその一言を受けて、しばらく黙った。
じっと、彼女の瞳を見つめる。
灰青色の瞳はまっすぐに自分を見返してきた。
気弱さも、媚びもない。
ただ、任務に忠実な者の静かな覚悟がそこにあった。
「この若さで魔法医療資格を有しているとは、優秀なようですね」
「恐縮です」
言葉少なに返すその様子に、レギュラスはわずかに頷く。
――悪くない。
実務経験が浅いのは確かに気がかりだった。
だが、長く仕えすぎて余計な情を抱くよりは、こういう無垢な者の方が扱いやすい。
冷静にそう考えていた。
「妻のことは聞いていますね?」
「はい。産後から体調の波が続いていると」
「ええ。……あの人は、体が弱いんです」
レギュラスの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
だがその微かな変化は、誰の耳にも届かぬほどだった。
「何よりも見落としをしないこと。それだけを重んじてください。
彼女は私の――最も大切な人です」
言葉の最後に、わずかに間が空いた。
その沈黙が、レギュラスという男の感情の深さを物語っていた。
エリナは深く頭を下げた。
「精一杯尽力いたします」
短い、だが無駄のない返答だった。
声に媚びも感情もない。
ただ職務に徹する意志が透けて見える。
――いい。これ以上の言葉は要らない。
レギュラスは思った。
使用人や執事、そして医務魔女。
誰に対しても必要以上の言葉をかけることはない。
報告だけを聞き、命令だけを下す。
そこに情を混ぜることは、彼の中では“失策”と同義だった。
それがレギュラス・ブラックという男だった。
「それでは、アランのもとへ案内します。
まずは診察をして、環境に慣れてください」
「承知しました」
エリナは短く答え、執事の後を静かに歩き出した。
レギュラスはその背中を見送る。
小柄な体。肩までの栗色の髪。
どこにでもいそうな平凡な少女。
だが、その歩みには奇妙な落ち着きがあった。
――若いが、妙に冷静だ。
そう思いながらも、彼はすぐにその考えを打ち消す。
疑う理由などない。
ただ新しい医務魔女が、アランのもとに加わったというだけの話だ。
けれどその瞬間、レギュラスの脳裏を、ふと過去のある光景がよぎった。
初めてアランをこの屋敷に迎え入れた日のこと。
あの日も、こんなふうに玄関の光が淡く差し込んでいた。
――どうか、彼女を救ってほしい。
そう願いながら、レギュラスは背を向けた。
長いローブの裾が静かに揺れ、足音だけが廊下に響いた。
その背を見送りながら、エリナはほんの一瞬だけ、
胸元に下げた銀のペンダントに指先を触れた。
その裏側に彫られた小さな刻印が、光を反射して一瞬だけきらりと光った。
レギュラスの知らぬところで、
ブラック家の静寂の中に、騎士団の影がそっと忍び込んでいた。
エリナ・ウェルズは、その日初めてブラック家の正妻――アラン・ブラックと対面した。
屋敷の重厚な廊下を、執事に導かれて進む。
壁に並ぶ肖像画たちは皆、冷ややかな眼差しで新参者を見下ろしているようだった。
その威圧の中に足を踏み入れるたび、彼女は己の心臓の鼓動を静めようと深呼吸を繰り返した。
「こちらでございます」
執事が静かに扉を開けた。
中は柔らかな陽が差す一室。
ベッドサイドに花が飾られ、淡い香が漂っている。
思っていたよりも質素で、飾り立てた豪奢さはなかった。
その中心に――アラン・ブラックがいた。
エリナは一瞬、息を呑んだ。
光の中に座るその姿は、まるで絵画のようだった。
翡翠色の瞳は、宝石のような透明感を湛え、
漆黒の髪は陽の光を受けて柔らかく艶めく。
頬の線は儚くも気高く、
その存在そのものが「気品」という言葉の形をしているようだった。
――これが、かの有名なアラン・ブラック。
かつて使用人としてこの屋敷に仕えていた女。
それが今や、純血貴族ブラック家の正妻にまで上り詰めた。
その名を知らぬ者はいない。
噂では、母リシェル・ブラウンの血を引き、
王を惑わせ国を傾けた“王宮の魔女”の娘――。
どこか劇的で、妖艶で、
誰をも惹きつける女を想像していた。
けれど、目の前にいるアランは違った。
艶やかさよりも、どこか儚く、
美しさの奥に深い静けさがあった。
その静謐な気配に、エリナは思わず背筋を正した。
「エリナ・ウェルズでございます。
この度、医務魔女としてお仕えいたします」
深く頭を下げると、アランは穏やかに微笑んだ。
「よろしくお願いします、エリナ」
その声は柔らかく、どこか人の心を撫でるような温度を帯びていた。
ほんの一言なのに、心が解けるような感覚。
なるほど――これが、“国を傾かせた血”かと、エリナは妙に納得した。
声の一つ、仕草の一つまでもが、人を魅了する。
しかし職務を忘れるわけにはいかない。
エリナは淡々と準備を整え、診察を始めた。
アランの腕に手を添えた瞬間、その肌の冷たさにわずかに眉を寄せる。
血の巡りが悪い。魔力の流れも不安定だ。
脈を測る指先から、淡く乱れた魔力の波が伝わってくる。
「お加減はいかがですか」
「ええ……あまり良くはありませんね」
アランはそう言って小さく笑った。
その笑顔には、諦めのような穏やかさが滲んでいた。
エリナは記録帳に静かに筆を走らせる。
衰弱の兆候、体力の低下、神経の興奮……。
滋養強壮の魔法薬を長期的に服用する必要があるだろう。
そして――気になる反応もいくつかあった。
魔力の流れに微かに残る“異質な痕跡”。
それは、違法魔法薬を長期的に摂取した者に特有の反応だった。
レギュラス・ブラックからの報告に、そのような話はなかった。
だが、確実に体がそれを覚えている。
静かに問う。
「アラン様、こちらの反応ですが……
失礼を承知で伺います。
過去に、違法指定の魔法薬を服用された経験はございますか?」
一瞬、空気が止まった。
アランは少しだけ目を伏せ、
それからゆっくりと、苦笑するように答えた。
「ええ……昔に。
頂き物を、そのまま服用してしまったことがあります。けれど、もう随分前の話です」
「そうでしたか……」
短く返すエリナの心の中で、
何かがひっそりと結びついた。
――やはり、騎士団の言っていた“事件”は本当だった。
少し前この屋敷を揺るがせた「違法魔法薬事件」。
罪をすべて被ったのは、前妻カサンドラ・ロズィエ。
だが実際に服用していたのは、このアラン・ブラック。
カサンドラが守ったのは、ブラック家の名誉か、それともこの女か。
その真相は分からない。
けれど、アランの口元の一瞬の影が、それを肯定しているように見えた。
診察を終えると、アランは深く息を吐いた。
「ありがとう。あなたの手は、冷たくて気持ちがいいのね」
エリナは微かに微笑みを返す。
「冷たくて、申し訳ございません」
「いいえ。あの人の手も、少し冷たいから」
――“あの人”。
言うまでもなく、レギュラス・ブラックのことだろう。
エリナはその言葉を胸に刻みながら、
部屋を辞した後、廊下の影でそっと胸元のペンダントを握った。
通信魔法の小さな魔石が、淡く光る。
小声で呟く。
「報告します……対象、アラン・ブラック。
違法魔法薬の長期服用反応を確認」
淡い光が一瞬、指先を照らした。
やがて光は消え、闇が戻る。
エリナは深く息を吐いた。
胸の奥に、言いようのない感情が残った。
それが罪悪感なのか、憐れみなのか――自分でも分からなかった。
ただ一つ確かなのは、
この屋敷の美しき正妻が、今なお何かに蝕まれているということ。
そしてその闇の奥に、
エリナが探す“真実”が眠っているということだった。
冬の風がホグワーツの尖塔を鳴らしていた。
長い休暇を終えて生徒たちが戻ってきた大広間は、
再び明るい声と食器の音とで満ちている。
スリザリンのテーブルに座ったアルタイルは、
まだどこか休暇の余韻を引きずっていた。
ハリーたちがグリフィンドールの席から身を乗り出すようにして話しかけてくる。
「それで? シリウスの家ではどんな風に過ごしたんだ?」とハリー。
翡翠色の瞳がきらきらと輝いている。
アルタイルは頬を少し紅潮させながら笑った。
「とても楽しかったよ。僕のために、屋敷をピカピカに掃除してくれてて……。
お菓子も、もうホグワーツの大広間かと思うくらい山ほどあって」
「さすがシリウス!」とハリーが笑う。
「お菓子で部屋が埋まるなんて、聞くだけで最高だ」
「そうそう、あとね、シリウスが“酒ってのはな、人生の勲章みたいなもんだ”って言いながら
ハチミツ酒を少しだけ飲ませてくれたんです」
その瞬間、向かいにいたロンが吹き出した。
「未成年に酒! 先生にバレたら完全にアウトだな!」
アルタイルは笑いながら手を振った。
「ちょっとだけですよ。ひと口飲んだら頭がふわふわして、すぐ眠くなりましたけど」
ハリーが楽しそうに笑いながら、
「僕らもシリウスに負けないくらいの冒険エピソードを作らなきゃな」と言う。
「本当だよ。でも減点だけは勘弁してもらいたいです」
アルタイルは苦笑しながら、パンプキンジュースのカップを持ち上げた。
「お前はほんと、しっかりしてるようで要領悪すぎんだよな」
ロンが肩をすくめる。
「この前だって透明マント踏んで、スネイプにバレてただろ!」
「やめてくださいよロン、それ今でも悪夢に出てくるほどですから」
アルタイルは苦笑しながら頭を抱えた。
「スネイプ先生の顔、あれ本当に怖かったんですよ」
テーブルの上に笑い声が弾む。
炎の光が彼らの横顔を照らし、
窓の外の雪景色がゆらゆらと反射している。
少し落ち着いたころ、アルタイルは袋から何かを取り出した。
黒い皮のクィディッチ用グローブ、そして銀の縁が入ったゴーグル。
「これ、シリウスが買ってくれたんだ。クィディッチの道具。
まだ選手にはなれないけど、いつか君みたいに空を飛びたい」
ハリーが目を丸くした。
「すごいじゃないか、アルタイル! シーカー志望なの?」
「うん。父さんが――スリザリンのシーカーだったから」
アルタイルの声が少しだけ低くなる。
「僕も、同じ場所に立ってみたいんだ」
彼の指先が、グローブの革をゆっくりとなぞる。
その瞳には、ハリーに似たまっすぐな光が宿っていた。
「父に認められたいって思うんだ。
……血の繋がりとか、そういうことじゃなくて。
“自分の努力を、ちゃんと見てもらいたい”って」
ハリーは静かに頷いた。
「わかるよ。僕も……いつもそう思ってる」
ほんの少しの沈黙が流れ、
やがてロンが口を開いた。
「じゃあ、次の休みには三人で飛ぼうぜ。
俺は観客専門だけどな」
笑いが戻る。
天井の魔法の星々がきらめき、
冬の夜をゆっくりと照らしていた。
スリザリンの翡翠色の旗の下、
アルタイルは確かに感じていた。
この学び舎の中で――
自分はもう、誰かの影ではなく、
自分の名で立とうとしているのだと。
暖炉の炎が低く揺れていた。
冬の終わりの冷たい風が窓を叩き、
古い家の中に、微かに木の軋む音が響く。
シリウス・ブラックは、その報せを耳にした瞬間、
息を呑み、拳を握り締めた。
「――なんで、俺に何も教えてくれなかったんだ」
声が震えていた。
怒りよりも、呆然とした痛みの色を帯びて。
対面の椅子に腰をかけていたジェームズは、
深くため息をついた。
「君に言うと、話が拗れると思ったんだ」
「だとしてもだろう!」
シリウスは立ち上がり、机を拳で叩いた。
音が部屋の静けさを切り裂く。
「アランを攻撃するような真似だけは、絶対にやめてくれ、ジェームズ」
長い沈黙。
暖炉の中で火がぱちぱちと弾ける音だけが響く。
リーマスが静かに口を開いた。
「シリウス……。誰も、アランを傷つけようとしてるわけじゃない」
「じゃあ、なんであの屋敷に“スパイ”を送り込んだ?」
低く、押し殺した声だった。
「エリナ・ウェルズ。若い医務魔女だ。
彼女はただの観察者だよ。ブラック家の内情を知るためのな」
「違う。彼女はアランの傍にいる。
あの人の生活に、息に、触れる位置に置かれてるんだ」
シリウスは言葉を飲み込み、喉の奥を詰まらせた。
脳裏に浮かぶのは、アランの微笑み。
あの翡翠の瞳。
どんな闇の中にあっても、自分を真っ直ぐ見返した光。
――そんな彼女が、いま“監視されている”。
ジェームズは黙ってその視線を受け止めていた。
「……違法魔法薬の使用が確認されたんだ、シリウス」
「――なに?」
空気が一瞬止まった。
「確証が取れた。あの屋敷の医務魔女、サラ・モーリンが使っていたとされていた薬。
実際はアラン本人が服用していた痕跡が見つかった」
火の粉がはぜ、灰が宙に舞う。
シリウスは呆然と立ち尽くした。
「……そんな、馬鹿な」
胸の奥が焼けるように痛んだ。
彼女が、あの誇り高いアランが――
そんなものに頼らなければ立てないほど、
体を、心を、蝕まれていたというのか。
「……あの時」
かすれた声が零れた。
「……あの時、俺が……強引にでもあの屋敷から連れ出していれば」
リーマスとジェームズは黙っていた。
「俺が……! あの手を、離さなければ」
シリウスの拳が震える。
「きっと、今もあの人は、笑っていてくれたはずだ……」
頭の奥で、あの夜が蘇る。
月明かりの下、アランが差し出した手をそっと引いたあの日。
彼女は微笑みながら言った――
「ありがとう。でも私は、あの人の傍に戻らなくちゃ」
その一言が、いま胸を切り裂く。
「……アルタイルだって、俺が育てられたかもしれない」
低く、嗄れた声。
「選ばなかった方の未来ばかりが、どうしてこんなに輝いて見えるんだ……」
沈黙が落ちた。
やがて、リーマスが静かに言う。
「シリウス、聞いてくれ。
俺たちは、アランを攻撃しようとしてるわけじゃない。
むしろ……守ろうとしてるんだ」
「守る?」
「そうだ。あの家には闇がある。
レギュラス・ブラック――君の弟は、ヴォルデモートの最も信頼する右腕だ。
あの男の“闇”を暴くことができれば、ホークラックスの在り処にも辿りつける」
ジェームズが頷いた。
「つまり、エリナはその鍵になる。
ブラック家の内部に入って、レギュラスの動きを探る。
……それが、アランを間接的に守ることにも繋がる」
「……皮肉だな」
シリウスが呟く。
「彼女を守るために、また誰かが彼女の側に潜り込む」
誰も、何も返せなかった。
暖炉の炎が小さく鳴る。
シリウスはその火をじっと見つめていた。
――アラン。
君はいま、どんな顔であの屋敷にいる?
違法魔法薬なんかに頼るほど、
どれほどの孤独を抱えていた?
誰よりも強く、誰よりも美しかった君が。
いまは、誰のために笑っているのか。
その答えを知りたくてたまらなかった。
そして同時に、知るのが怖かった。
「……ジェームズ、リーマス」
やがて、静かに口を開く。
「それでも、あの人だけは――俺が守る」
二人は黙って頷いた。
レギュラス・ブラックの書斎は、
昼なお薄暗く、整然とした空気に包まれていた。
分厚いカーテンの隙間から、かすかに陽光が差し込む。
木の香とインクの匂い、そして沈黙――。
全てが秩序の中にあり、彼という男そのものを映しているようだった。
扉をノックする小さな音。
「どうぞ」
低く響く声。
扉が静かに開かれ、エリナ・ウェルズが姿を現した。
まだ若く、背筋を伸ばして立つその様は、
緊張と自信の両方を纏っているようだった。
「ご報告よろしいでしょうか、ブラック卿」
レギュラスは羽ペンを置き、顔を上げた。
「どうぞ」
彼女は慎重な足取りで机の前に進み出る。
その手には整然とまとめられた記録帳が抱えられていた。
「アラン様の診察結果をまとめました。
事前に伺っていた情報にはございませんでしたが……」
一拍置き、
「違法魔法薬の長期服用の痕跡がございました。ご存知でしたか?」
部屋の空気が、微かに凍った。
レギュラスは瞬きもせずに、
ゆっくりと呼吸を整え、静かに言葉を返す。
「――ええ。その件は、伏せておいてもらっていいですか?」
その声音には揺らぎがなかった。
あまりにも自然で、まるでそれが当然の対応であるかのように。
エリナは短く頷く。
「かしこまりました」
彼女の視線には動揺も、詮索の色もない。
ただ冷静に報告を終える医務魔女としての在り方がそこにあった。
――なるほど。
レギュラスは心の中で小さく息を吐く。
薬を断たせてから、もう随分と経つはずだ。
それでも、この少女は痕跡を見抜いた。
腕は確かだ。
加えて、余計な憶測を挟まぬ慎みもある。
(信頼を寄せてもいいかもしれない)
胸の奥で、そう思った。
「妻に他に気になる点はなさそうですか?」
レギュラスの問いに、
エリナは一瞬、報告帳を見つめ、
それから淡々と答えた。
「はい。ひとつございます。
排卵がほとんどされていないようですので……
妊娠は、ほぼ不可能かと思われます」
その一言に、静寂が落ちた。
ペン先が転がる音すら響くほどの、張り詰めた沈黙。
レギュラスは一度目を閉じ、深く息を吐く。
彼女の声には、ためらいが一切なかった。
同情も慰めもなく、ただ医学的事実として。
それは冷たい言葉ではあったが、
同時に――妙に安心感があった。
「……随分とはっきり言いますね」
レギュラスは、かすかに口角を上げる。
揶揄でも、皮肉でもない。
むしろその率直さに敬意を感じていた。
エリナは背筋を伸ばしたまま、
「気に障りましたら申し訳ございません」と静かに答えた。
「いえ、助かりますよ。
そうやって包み隠さず伝えてくれる方が、
僕にはわかりやすい」
レギュラスの声は穏やかで、
だがその奥に微かな疲労と痛みが滲んでいた。
アランがもう子を宿せない――
それは、どこかで覚悟していた事実だった。
産後の長い不調。
夜ごと震えるように眠る姿。
あの繊細な指が、どれほど薬の痕に侵されていたか。
分かっていた。
けれど、他人の口から告げられる現実というのは、
想像よりもずっと鋭く胸に突き刺さる。
エリナは深く一礼した。
「今後も、できる限りの処置をいたします」
「頼みます」
レギュラスは小さく頷いた。
エリナが去ると、
部屋に再び静寂が戻る。
――アラン。
僕はあなたを、守れているのだろうか。
言葉にできない思いが、
喉の奥で静かに震えた。
昼下がりの光がカーテン越しにやわらかく降り注ぎ、
淡い翡翠色の光がアランの寝台の上に落ちていた。
部屋にはほのかな香草の匂いと、
新しい薬瓶の清冽な香りが混ざり合って漂っている。
若き医務魔女――エリナ・ウェルズは、
銀糸のような髪を後ろでまとめ、
淡々と手元の診療記録に筆を走らせていた。
「アラン様、魔力免疫が落ちているようです」
彼女は顔を上げると、静かに言葉を続けた。
「性行為の際は避妊具を用いてください。
余計な感染症を防げます」
アランは思わずまばたきをした。
一瞬、空気がぴんと張り詰める。
昨夜――夫婦の寝室で過ごした時間の余韻など、
もうどこにも残ってはいなかった。
それでも、彼女は何かを感じ取ったのだろう。
まるで医療的忠告という形を借りて、
夜の秘密をそっと見抜いたような、そんな声音だった。
若いのに、なんと観察力と洞察力の鋭い子なのだろう。
羞恥が頬をかすめた。
十年以上も自分の身体を診てくれていたサラ・モーリンには
心を開くことに何の抵抗もなかったのに――。
この少女の前では、まるで自分の心と肉体の奥までも
見透かされているようで落ち着かない。
けれど、同時に。
彼女の真っ直ぐな目と、
嘘や曖昧さのない口調が、
妙に安心を与えてくれるのも事実だった。
「……わかりました、気をつけますわ」
アランは静かに微笑み、
エリナの差し出す手に頷きを返した。
「では、本日の診察はこれで」
エリナは立ち上がり、礼をして部屋を出て行く。
その足音が遠ざかっていくのを聞きながら、
アランは胸の奥でひとつ息を吐いた。
(……まったく、あの年頃の子にまで見抜かれるなんて)
羞恥と可笑しさが、同時に胸に込み上げる。
同時に――この屋敷に再び「信頼できる手」が
生まれつつあることに、
ほのかな安堵も覚えていた。
夜。
書斎で報告書に目を通していたレギュラスが、
ふと顔を上げた。
「どうです? エリナ・ウェルズは」
カップの紅茶を持ち上げていたアランは、
その問いに小さく笑みを浮かべた。
「ええ、よく働いてくれていますよ」
その声は穏やかで、
けれど少しだけ、思案の色を含んでいた。
まるで若い医務魔女の姿を思い浮かべながら、
その性格を慎重に言葉にしようとしているように。
「それなら安心ですね」
レギュラスはわずかに口角を上げた。
「彼女は率直に物を言う。
……あなたにもそうなんですか?」
アランはカップを置き、視線を落とした。
「ええ。はっきりと告げてくれます。
少し驚くくらいに」
「そうですか」
レギュラスは笑い、ページを閉じた。
アランはその横顔を見つめながら、
ふと考えた。
あの聡明な少女は、レギュラスにどんな口調で報告をしているのだろう。
冷静に、簡潔に、しかし一切の躊躇なく――。
あの澄んだ瞳で夫を見つめ、
妻の体のことを淡々と話している姿を想像すると、
何故だか胸の奥に小さなざわめきが生まれた。
アランはそっと微笑んだ。
使用人として仕えていた頃の自分と、
今の彼女の姿が一瞬重なったのだ。
ただ違うのは――
エリナ・ウェルズはまだ何も知らない。
この屋敷の闇も、
レギュラス・ブラックという男の真の顔も。
だからこそ、
あの真っ直ぐな瞳が、少しだけ眩しく見えた。
アランは静かに立ち上がり、
そっとレギュラスの肩に手を置いた。
「今夜は早く休みましょう。
……私も、少し疲れました」
「ええ」
レギュラスは短く答え、
その手を包み込むように握った。
暖炉の炎が、静かに揺らめく。
夜の帳が降りていく中、
ブラック家の屋敷は再び静寂に沈んだ――。
エリナ・ウェルズは、静寂を好む屋敷に少しずつ馴染み始めていた。
長い廊下には古い絨毯の上を歩く音がほとんど響かず、
黒檀の壁に掛けられた肖像画の中の人々は、
ただ黙ってその様子を見守っている。
ここはブラック家――闇と誇りと沈黙の一族。
だが、その屋敷の主、レギュラス・ブラックは
外で語られるような冷酷な男ではなかった。
彼は静謐そのもののような人物だった。
夫婦の寝室と書斎――その二つの空間には決して人を入れない。
家令でさえ、掃除の許可を得るには何度も確認が必要だ。
仕事の書簡も、魔法省とのやり取りも、
決して屋敷内では行わない。
まるで、屋敷の中のすべてが
「アラン・ブラックを守るための聖域」であるかのようだった。
騎士団から与えられた指示は明確だ。
“信用を得よ。そして観察を続けよ。”
エリナはそれを守り、
一日の終わりには、
通信魔法を施したペンダントを通して報告を送る。
「……現状、レギュラス・ブラックにデスイーターとしての活動の痕跡は見られません。
集会への出入りも、怪しい連絡もなし。
ここで暮らす限り、ただの貴族の愛妻家にしか見えません」
報告のたび、騎士団側は同じように答えた。
“それでいい。見張るだけでいい。
やがて、何かが崩れる。
その時、お前が鍵になる。”
――それが本当に正しいのだろうか。
彼女は胸の奥に小さな疑問を抱えながらも、
日々の務めを淡々と果たした。
アラン・ブラック。
この屋敷の女主人。
初めて会ったときの印象が、まだ鮮明に残っている。
あの翡翠の瞳――
まるで深い湖の底を覗き込むように静かで、
言葉の端々に気品と緊張を纏っていた。
エリナは少しずつ信頼を得ようと努めていたが、
十年以上仕えた医務魔女サラ・モーリンに比べれば、
まだ表層を撫でる程度の関係に過ぎなかった。
アランはよく笑う。
だが、その笑みの奥には必ず影があった。
そして何より――
レギュラス・ブラックの視線が、
常にその影を追っていることに気づいた。
食卓でも、居間でも、
彼は妻を目で追う。
娘のリディアが話しかけていても、
その隣にいるアランの一挙手一投足に、
目を離さない。
それはただの愛情とは違う。
まるで、自分の存在意義の全てを
彼女の呼吸に結びつけているような、
そんな執着に似た眼差しだった。
エリナはその視線を何度も見た。
静かな夕餉の場でも、
書斎から夫婦の部屋へ向かう彼の背を見送る時も。
――レギュラス・ブラックは、
この女を愛しているというよりも、
この女に「取り憑かれている」。
そう思わずにはいられなかった。
だからこそ、
彼に報告を上げる時には細心の注意を払った。
診察の記録、薬の調合、
それらに一つの誤りも許されない。
たった一度のしくじりで、
この屋敷から自分の命ごと追い出されるかもしれない。
ある日、報告の中で彼に告げた。
「アラン様は……排卵がほとんどされていないようです。
妊娠の可能性は極めて低いでしょう」
彼は静かに頷き、
それ以上何も言わなかった。
その反応が、逆に恐ろしかった。
(――それでも、あの二人は……)
夜、屋敷の奥に続く廊下を通ると、
夫婦の寝室からは時折、
微かな気配が漏れてくる。
灯りが落とされる前の、
かすかな囁きと衣擦れの音。
アラン・ブラックはもう子を宿せない。
それを知った上で、
彼らは互いを求め続けている。
――世継ぎのためでも、形式のためでもない。
ただ、存在を確かめるように。
エリナには、それが理解できなかった。
理屈では測れない何かが、
この二人の間にはある。
彼を縛っているのは、
アラン・ブラックという女そのものなのか。
それとも、
かつて国を揺るがせたとまで言われる
リシェル・ブラウンの血の魔性なのか。
答えを見つけようとしても、
霧のように掴めない。
エリナは記録帳を閉じ、
灯りを消した。
窓の外では、
月が重く黒雲の向こうに隠れている。
「……彼らの闇は、
想像よりも深いかもしれない」
小さく呟きながら、
彼女は静かに報告書の封を閉じた。
その夜もまた、
ブラック家の屋敷には音ひとつ響かない。
ただ遠くで、
古い時計の針が淡々と時を刻み続けていた――。
ブラック家の屋敷では、何もかもが整然としすぎていて、
空気さえも秩序の中に閉じ込められているようだった。
食卓ではナイフとフォークの音すら慎ましく、
話す内容も、語彙も、礼節に包まれていなければならない。
だが今は違う。
シリウス・ブラックの家は、まるで風そのものが吹き抜けていくように自由だった。
重厚な絨毯の上には犬の毛が少し散らばっていて、
暖炉の火は音を立てて跳ね、テーブルには開けかけの酒瓶がいくつも並んでいる。
「飲んでみるか?」
シリウスが悪戯っぽく片眉を上げて、琥珀色の液体を差し出した。
ボトルのラベルには《ファイアウィスキー》とある。
ほんの少し、琥珀がかった煙のような香りが漂った。
「まだ未成年ですよ」と口では言いながらも、
アルタイルの手はそのグラスを受け取っていた。
口に含んだ瞬間、喉が焼けるように熱くなる。
けれどその熱は不思議と心地よかった。
身体の奥からじわじわと広がって、
胸の中の何か――ずっと堅く締め付けられていた何かを、
ゆっくりと溶かしていくようだった。
「ははっ、初めてにしては顔色悪くないな!」
シリウスは豪快に笑って、自分のグラスを空けた。
テーブルの上には、ホグワーツの大広間を思わせるほどの菓子が並んでいる。
ショートブレッド、かぼちゃパイ、チョコレート・フロッグ。
あまい匂いが空気いっぱいに漂って、
まるで少年時代そのものを取り戻したかのようだった。
「母さんに見つかったら、確実に怒られますね」
「いいんだよ。今日はお前が“お前のままで”いていい日なんだ」
その言葉に、アルタイルは笑った。
口の端にチョコレートがついているのも気にせず、
息が切れるほど笑った。
やがて、シリウスの武勇伝が始まった。
「お前、知ってるか? ホグワーツの北の塔、昔は立ち入り禁止だったんだ。
でも俺とジェームズとリーマスとピーターで、真夜中に忍び込んでさ……
見つからないように《姿くらまし》して、
マクゴナガル先生が置いてたワインを一本持ち出したんだよ!」
「……怒られなかったんですか?」
「そりゃあ怒られたさ! でもな、バレたのが一年後だった。
あの時の勝利感ったら、もう最高だったね」
シリウスは笑いながら語り、
その目にはあの頃の光が宿っていた。
アルタイルは頬杖をつきながら、その話を夢のように聞いていた。
父の屋敷では決して聞けない類の話。
危うくて、馬鹿げていて、けれど心から羨ましいと思える冒険の数々。
「僕が生まれてたら、絶対ついていきました」
「そうか? じゃあ次は俺と行くか?」
「……はい!」
笑い声が暖炉の火に溶けて、
二人の影が壁に揺れた。
それからは、まるで競うように話が続いた。
アルタイルも負けじと、ハリーと過ごしたホグワーツでの日常を語りはじめた。
「この前、ハリーとロンとハーマイオニーで夜の廊下を抜け出したんです。
見回りの先生に見つかりそうになって、
僕だけ《透明マント》の端を踏んで転んで……
結局、スネイプ先生に見つかって、減点30点ですよ!」
「はははっ、それはジェームズそっくりだ!」
シリウスが腹を抱えて笑う。
その笑い声が部屋いっぱいに響き、
アルタイルもつられて声をあげて笑った。
もう何時間も話しているのに、
まだ話したいことが山ほどあった。
屋敷の中では決してこんなふうに笑わない。
こんなに大きな声で喋ることもない。
妹のリディアに話すときだって、いつも言葉を選んでいた。
だが今は違う。
ここでは、どんな話をしても、どんなふうに笑ってもいい。
シリウスはそれを受け止めてくれる。
まるで、心に羽が生えたように軽かった。
「シリウス、僕ね……」
言いかけて、アルタイルはグラスの中を覗き込む。
揺れる琥珀の波に、自分の顔が映る。
「……なんだ?」
「ここにいると、生きてるって感じがする」
シリウスはその言葉に少し黙った。
そして、ゆっくりと笑った。
「そうか。なら、俺の勝ちだな」
「勝ち?」
「お前を笑わせた。お前を自由にできた。それで十分だ」
シリウスの瞳が炎の明かりを映し、
アルタイルの胸が熱くなった。
こんな夜が、いつまでも続けばいいと思った。
時間が止まってほしいと、心から願った。
けれど時計の針は無情に進む。
ファイアウィスキーの瓶が半分ほどになった頃、
窓の外には淡い夜明けの光が滲みはじめていた。
それでも二人は話をやめなかった。
話すたびに、笑うたびに、
“親子”という言葉が少しずつ現実になっていくような夜だった。
夜の帳が屋敷を包み、暖炉の火が静かに揺れていた。
アランはソファに腰を下ろし、指先で膝掛けの端を撫でながら、
ふと遠くの空を見つめた。
――アルタイルは、今頃どうしているのだろう。
あの子の笑い声が脳裏に浮かぶ。
きっと、シリウスの隣で思い切り笑っているに違いない。
不器用だけれど、誰よりも真っ直ぐで温かいその人の腕の中で。
「……シリウス」
その名を、声に出すことはなかった。
唇が微かに震えただけ。
心の奥底で、静かに呟く。
かつて燃えるように愛した人――。
ホグワーツの夜空を飛びながら、風の中で何度も笑い合った。
彼の自由さに惹かれ、彼の優しさに救われた。
そして、いつかその自由の炎に焼かれることを恐れた。
もしもその人が、今、息子を抱きしめているのなら。
どんな言葉をかけているのだろう。
何を語り、どんな未来を見せてやっているのだろう。
その光景を思うだけで胸が締めつけられた。
羨ましいわけでも、嫉妬でもない。
ただ、遠くで自分の知らない「父と子」の絆が生まれていくことに、
言葉にできない切なさがあった。
見たい気もした。
けれど、それを見てしまえば、自分の心がどこへ向かうのか――
怖かった。
暖炉の炎がはぜ、パチリと音を立てた。
振り返れば、レギュラスが静かに本を閉じている。
その姿を見つめると、胸の奥にあたたかな波が広がった。
この人がいたから、今の自分がある。
何を犠牲にしてでも守ってくれた人。
どんなに冷たく見えても、その瞳の奥にはいつも真っ直ぐな誠実さがあった。
――あの頃、もし違う道を選んでいたら。
そんな「もしも」を考えたこともあった。
けれど今は違う。
シリウスの名を思い出すたび、
同時にレギュラスの姿が浮かぶ。
彼は、痛みも過去も、全てを抱えたまま、
それでも自分を愛し抜いてくれた人だ。
「……ありがとう、レギュラス」
小さく呟く。
彼には届かなくてもいい。
この気持ちだけは、誰にも聞かれずに胸の中にしまっておきたかった。
アルタイルがシリウスのもとへ行くこと。
それをレギュラスがどんな思いで受け入れているのか、
痛いほど分かっていた。
彼は決して快く思っていない。
息子を、兄に奪われるような感覚を抱えているに違いない。
それでも、息子の前では一言も愚痴をこぼさない。
その沈黙の裏に、どれほどの苦しみを隠しているのだろう。
だからこそ――アランは彼に寄り添いたいと思った。
彼が選んだ沈黙の中に、そっと手を差し伸べたかった。
レギュラスがふとこちらを見やる。
深い銀灰色の瞳が、静かに揺れる。
「寒くないですか」
それだけの言葉なのに、
その声音には確かな愛情が宿っていた。
アランは微笑んで首を振った。
「いいえ。あたたかいです」
レギュラスは小さく頷き、またページをめくった。
その指の動きが妙に優しく見えて、
アランはそっと彼の肩に頭を預ける。
もう迷わない。
自分はこの人と生きていく。
過去に囚われたままではいられない。
たとえシリウスが息子を抱きしめていたとしても、
自分が抱くのは、目の前のこの人だけだ。
炎の赤が二人の頬を染め、
やがて夜の静寂がすべてを包み込んでいく。
その沈黙の中で、アランは静かに誓った。
――私はもう、振り返らない。
あなたを、心の底から愛していく。
新月の夜。
薄暗い蝋燭の灯が、騎士団本部の石壁を橙に照らしていた。
ジェームズ・ポッターの机の上には、封蝋の押された書類がいくつも並び、
その中央には、一枚の人事記録が静かに置かれている。
その名は――エリナ・ウェルズ。
純血の魔法使い。
医務魔女として正式に免許を取得して三年。
魔法治癒に関する知識はまだ浅いが、誠実で、慎ましく、
何より、どこにでもいるような「普通の女」だった。
彼女は静かに部屋の中央に立っていた。
背筋はまっすぐで、表情には怯えの色ひとつない。
ただ、緊張を包み隠すように、指先がわずかにローブの裾をつまんでいる。
「……君がエリナ・ウェルズか」
ジェームズの声は、低くも穏やかだった。
「はい」
少女ははっきりと答える。
蝋燭の炎が彼女の頬を照らす。
その顔立ちは可憐というよりも、どこか儚げで、
印象に残らないほどに“普通”だった。
だが、その“普通さ”こそが、騎士団にとって最高の武器となる。
「ブラック家への潜入が決まった。屋敷の新しい医務魔女としてだ」
エリナは深く頷いた。
すでに心の準備はできているようだった。
ジェームズは書類をめくりながら続ける。
「君はアラン・ブラックの体調管理を任されることになるだろう。
だが、我々の狙いはそこではない。
屋敷の主、レギュラス・ブラック――あの男の周囲を探ることだ」
「……レギュラス・ブラック」
エリナがその名を口の中で繰り返す。
音の響きを確かめるように。
「そうだ。彼は今や、我々にとって最も厄介な存在だ。
正義と偽り、冷静と情の間で均衡を保っている。
何を考えているのか誰にも読めない。
だからこそ、君の役目がある」
エリナは静かに息を吸い込んだ。
蝋燭の灯が、その灰青色の瞳に揺れる。
ジェームズは彼女に近づき、掌ほどの銀の装飾品を差し出した。
ペンダントの形をした通信具。
裏面には極小の呪文刻印が彫り込まれている。
「これを身につけておけ。
こちらから魔力を流せば、君の声が届く。
また、必要なときは君の魔力から我々に状況が伝わるようになっている」
「了解いたしました」
ジェームズはその様子を見つめながら、
少しだけ視線を逸らす。
この任務は、成功すれば歴史に名を残すほどの功績になる。
しかし、失敗すれば――命はない。
レギュラス・ブラックという男は、
理性の皮を被った猛獣だ。
不用意に近づけば、静かに喉を噛み切られる。
「君の報酬ははずむ。
だが忘れるな――これは重要な任務だ。
彼を誘惑する必要はない。
だが、もし彼が心を開いたなら……その先は君の裁量に任せる」
「……かしこまりました」
その返事は驚くほど落ち着いていた。
若いながら、覚悟の決まった声。
ジェームズはゆっくりと頷く。
「君は、アラン・ブラックとは違う。
派手さも華もない。
だが、それがいい。
あの男の目を欺くには、完璧な“凡庸さ”が必要だ」
「……理解しております」
エリナは深く一礼し、背を伸ばした。
その動作には、僅かな恐れよりも使命感が勝っていた。
彼女の背に、騎士団の紋章が描かれた黒いマントがかけられる。
「では、出発を」
ジェームズが告げる。
扉の外では、夜明け前の風が吹いていた。
まだ空は藍色に沈み、遠くで雷鳴のような魔力のうねりが聞こえる。
その光景の中、エリナ・ウェルズはローブの裾を翻し、
静かに闇の中へと歩み出した。
彼女の心臓は静かに高鳴っていた。
恐怖ではない。
これは使命の鼓動。
――この手で、あの闇を暴くのだ。
そしてその先に、何が待っているのかを、
彼女自身もまだ知らなかった。
その日、ブラック家の玄関ホールにはひんやりとした空気が満ちていた。
曇天の光が曇りガラス越しに落ち、深緑の絨毯に柔らかな陰を落としている。
黒檀の柱の間を抜け、執事がひとりの若い女を伴ってゆっくりと歩いてきた。
「お連れいたしました、旦那様」
その声に、書斎から姿を現したレギュラス・ブラックは軽く顎を上げた。
長身のシルエットが光を遮り、静かな威圧感を漂わせる。
新しい医務魔女――エリナ・ウェルズ。
それが、目の前に立つ少女の名だった。
彼女は深く頭を下げた。
控えめな仕草。慎ましい佇まい。
何より、その若さがまず目についた。
「……随分と若い方ですね」
低い声でレギュラスが言うと、エリナは小さく頷いた。
「はい。ですが、魔法医療の資格は三年前に取得しております」
彼女の声は驚くほど落ち着いていた。
震えもなく、抑揚もない。
それでいて、誠実さが滲んでいる。
レギュラスはその一言を受けて、しばらく黙った。
じっと、彼女の瞳を見つめる。
灰青色の瞳はまっすぐに自分を見返してきた。
気弱さも、媚びもない。
ただ、任務に忠実な者の静かな覚悟がそこにあった。
「この若さで魔法医療資格を有しているとは、優秀なようですね」
「恐縮です」
言葉少なに返すその様子に、レギュラスはわずかに頷く。
――悪くない。
実務経験が浅いのは確かに気がかりだった。
だが、長く仕えすぎて余計な情を抱くよりは、こういう無垢な者の方が扱いやすい。
冷静にそう考えていた。
「妻のことは聞いていますね?」
「はい。産後から体調の波が続いていると」
「ええ。……あの人は、体が弱いんです」
レギュラスの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
だがその微かな変化は、誰の耳にも届かぬほどだった。
「何よりも見落としをしないこと。それだけを重んじてください。
彼女は私の――最も大切な人です」
言葉の最後に、わずかに間が空いた。
その沈黙が、レギュラスという男の感情の深さを物語っていた。
エリナは深く頭を下げた。
「精一杯尽力いたします」
短い、だが無駄のない返答だった。
声に媚びも感情もない。
ただ職務に徹する意志が透けて見える。
――いい。これ以上の言葉は要らない。
レギュラスは思った。
使用人や執事、そして医務魔女。
誰に対しても必要以上の言葉をかけることはない。
報告だけを聞き、命令だけを下す。
そこに情を混ぜることは、彼の中では“失策”と同義だった。
それがレギュラス・ブラックという男だった。
「それでは、アランのもとへ案内します。
まずは診察をして、環境に慣れてください」
「承知しました」
エリナは短く答え、執事の後を静かに歩き出した。
レギュラスはその背中を見送る。
小柄な体。肩までの栗色の髪。
どこにでもいそうな平凡な少女。
だが、その歩みには奇妙な落ち着きがあった。
――若いが、妙に冷静だ。
そう思いながらも、彼はすぐにその考えを打ち消す。
疑う理由などない。
ただ新しい医務魔女が、アランのもとに加わったというだけの話だ。
けれどその瞬間、レギュラスの脳裏を、ふと過去のある光景がよぎった。
初めてアランをこの屋敷に迎え入れた日のこと。
あの日も、こんなふうに玄関の光が淡く差し込んでいた。
――どうか、彼女を救ってほしい。
そう願いながら、レギュラスは背を向けた。
長いローブの裾が静かに揺れ、足音だけが廊下に響いた。
その背を見送りながら、エリナはほんの一瞬だけ、
胸元に下げた銀のペンダントに指先を触れた。
その裏側に彫られた小さな刻印が、光を反射して一瞬だけきらりと光った。
レギュラスの知らぬところで、
ブラック家の静寂の中に、騎士団の影がそっと忍び込んでいた。
エリナ・ウェルズは、その日初めてブラック家の正妻――アラン・ブラックと対面した。
屋敷の重厚な廊下を、執事に導かれて進む。
壁に並ぶ肖像画たちは皆、冷ややかな眼差しで新参者を見下ろしているようだった。
その威圧の中に足を踏み入れるたび、彼女は己の心臓の鼓動を静めようと深呼吸を繰り返した。
「こちらでございます」
執事が静かに扉を開けた。
中は柔らかな陽が差す一室。
ベッドサイドに花が飾られ、淡い香が漂っている。
思っていたよりも質素で、飾り立てた豪奢さはなかった。
その中心に――アラン・ブラックがいた。
エリナは一瞬、息を呑んだ。
光の中に座るその姿は、まるで絵画のようだった。
翡翠色の瞳は、宝石のような透明感を湛え、
漆黒の髪は陽の光を受けて柔らかく艶めく。
頬の線は儚くも気高く、
その存在そのものが「気品」という言葉の形をしているようだった。
――これが、かの有名なアラン・ブラック。
かつて使用人としてこの屋敷に仕えていた女。
それが今や、純血貴族ブラック家の正妻にまで上り詰めた。
その名を知らぬ者はいない。
噂では、母リシェル・ブラウンの血を引き、
王を惑わせ国を傾けた“王宮の魔女”の娘――。
どこか劇的で、妖艶で、
誰をも惹きつける女を想像していた。
けれど、目の前にいるアランは違った。
艶やかさよりも、どこか儚く、
美しさの奥に深い静けさがあった。
その静謐な気配に、エリナは思わず背筋を正した。
「エリナ・ウェルズでございます。
この度、医務魔女としてお仕えいたします」
深く頭を下げると、アランは穏やかに微笑んだ。
「よろしくお願いします、エリナ」
その声は柔らかく、どこか人の心を撫でるような温度を帯びていた。
ほんの一言なのに、心が解けるような感覚。
なるほど――これが、“国を傾かせた血”かと、エリナは妙に納得した。
声の一つ、仕草の一つまでもが、人を魅了する。
しかし職務を忘れるわけにはいかない。
エリナは淡々と準備を整え、診察を始めた。
アランの腕に手を添えた瞬間、その肌の冷たさにわずかに眉を寄せる。
血の巡りが悪い。魔力の流れも不安定だ。
脈を測る指先から、淡く乱れた魔力の波が伝わってくる。
「お加減はいかがですか」
「ええ……あまり良くはありませんね」
アランはそう言って小さく笑った。
その笑顔には、諦めのような穏やかさが滲んでいた。
エリナは記録帳に静かに筆を走らせる。
衰弱の兆候、体力の低下、神経の興奮……。
滋養強壮の魔法薬を長期的に服用する必要があるだろう。
そして――気になる反応もいくつかあった。
魔力の流れに微かに残る“異質な痕跡”。
それは、違法魔法薬を長期的に摂取した者に特有の反応だった。
レギュラス・ブラックからの報告に、そのような話はなかった。
だが、確実に体がそれを覚えている。
静かに問う。
「アラン様、こちらの反応ですが……
失礼を承知で伺います。
過去に、違法指定の魔法薬を服用された経験はございますか?」
一瞬、空気が止まった。
アランは少しだけ目を伏せ、
それからゆっくりと、苦笑するように答えた。
「ええ……昔に。
頂き物を、そのまま服用してしまったことがあります。けれど、もう随分前の話です」
「そうでしたか……」
短く返すエリナの心の中で、
何かがひっそりと結びついた。
――やはり、騎士団の言っていた“事件”は本当だった。
少し前この屋敷を揺るがせた「違法魔法薬事件」。
罪をすべて被ったのは、前妻カサンドラ・ロズィエ。
だが実際に服用していたのは、このアラン・ブラック。
カサンドラが守ったのは、ブラック家の名誉か、それともこの女か。
その真相は分からない。
けれど、アランの口元の一瞬の影が、それを肯定しているように見えた。
診察を終えると、アランは深く息を吐いた。
「ありがとう。あなたの手は、冷たくて気持ちがいいのね」
エリナは微かに微笑みを返す。
「冷たくて、申し訳ございません」
「いいえ。あの人の手も、少し冷たいから」
――“あの人”。
言うまでもなく、レギュラス・ブラックのことだろう。
エリナはその言葉を胸に刻みながら、
部屋を辞した後、廊下の影でそっと胸元のペンダントを握った。
通信魔法の小さな魔石が、淡く光る。
小声で呟く。
「報告します……対象、アラン・ブラック。
違法魔法薬の長期服用反応を確認」
淡い光が一瞬、指先を照らした。
やがて光は消え、闇が戻る。
エリナは深く息を吐いた。
胸の奥に、言いようのない感情が残った。
それが罪悪感なのか、憐れみなのか――自分でも分からなかった。
ただ一つ確かなのは、
この屋敷の美しき正妻が、今なお何かに蝕まれているということ。
そしてその闇の奥に、
エリナが探す“真実”が眠っているということだった。
冬の風がホグワーツの尖塔を鳴らしていた。
長い休暇を終えて生徒たちが戻ってきた大広間は、
再び明るい声と食器の音とで満ちている。
スリザリンのテーブルに座ったアルタイルは、
まだどこか休暇の余韻を引きずっていた。
ハリーたちがグリフィンドールの席から身を乗り出すようにして話しかけてくる。
「それで? シリウスの家ではどんな風に過ごしたんだ?」とハリー。
翡翠色の瞳がきらきらと輝いている。
アルタイルは頬を少し紅潮させながら笑った。
「とても楽しかったよ。僕のために、屋敷をピカピカに掃除してくれてて……。
お菓子も、もうホグワーツの大広間かと思うくらい山ほどあって」
「さすがシリウス!」とハリーが笑う。
「お菓子で部屋が埋まるなんて、聞くだけで最高だ」
「そうそう、あとね、シリウスが“酒ってのはな、人生の勲章みたいなもんだ”って言いながら
ハチミツ酒を少しだけ飲ませてくれたんです」
その瞬間、向かいにいたロンが吹き出した。
「未成年に酒! 先生にバレたら完全にアウトだな!」
アルタイルは笑いながら手を振った。
「ちょっとだけですよ。ひと口飲んだら頭がふわふわして、すぐ眠くなりましたけど」
ハリーが楽しそうに笑いながら、
「僕らもシリウスに負けないくらいの冒険エピソードを作らなきゃな」と言う。
「本当だよ。でも減点だけは勘弁してもらいたいです」
アルタイルは苦笑しながら、パンプキンジュースのカップを持ち上げた。
「お前はほんと、しっかりしてるようで要領悪すぎんだよな」
ロンが肩をすくめる。
「この前だって透明マント踏んで、スネイプにバレてただろ!」
「やめてくださいよロン、それ今でも悪夢に出てくるほどですから」
アルタイルは苦笑しながら頭を抱えた。
「スネイプ先生の顔、あれ本当に怖かったんですよ」
テーブルの上に笑い声が弾む。
炎の光が彼らの横顔を照らし、
窓の外の雪景色がゆらゆらと反射している。
少し落ち着いたころ、アルタイルは袋から何かを取り出した。
黒い皮のクィディッチ用グローブ、そして銀の縁が入ったゴーグル。
「これ、シリウスが買ってくれたんだ。クィディッチの道具。
まだ選手にはなれないけど、いつか君みたいに空を飛びたい」
ハリーが目を丸くした。
「すごいじゃないか、アルタイル! シーカー志望なの?」
「うん。父さんが――スリザリンのシーカーだったから」
アルタイルの声が少しだけ低くなる。
「僕も、同じ場所に立ってみたいんだ」
彼の指先が、グローブの革をゆっくりとなぞる。
その瞳には、ハリーに似たまっすぐな光が宿っていた。
「父に認められたいって思うんだ。
……血の繋がりとか、そういうことじゃなくて。
“自分の努力を、ちゃんと見てもらいたい”って」
ハリーは静かに頷いた。
「わかるよ。僕も……いつもそう思ってる」
ほんの少しの沈黙が流れ、
やがてロンが口を開いた。
「じゃあ、次の休みには三人で飛ぼうぜ。
俺は観客専門だけどな」
笑いが戻る。
天井の魔法の星々がきらめき、
冬の夜をゆっくりと照らしていた。
スリザリンの翡翠色の旗の下、
アルタイルは確かに感じていた。
この学び舎の中で――
自分はもう、誰かの影ではなく、
自分の名で立とうとしているのだと。
暖炉の炎が低く揺れていた。
冬の終わりの冷たい風が窓を叩き、
古い家の中に、微かに木の軋む音が響く。
シリウス・ブラックは、その報せを耳にした瞬間、
息を呑み、拳を握り締めた。
「――なんで、俺に何も教えてくれなかったんだ」
声が震えていた。
怒りよりも、呆然とした痛みの色を帯びて。
対面の椅子に腰をかけていたジェームズは、
深くため息をついた。
「君に言うと、話が拗れると思ったんだ」
「だとしてもだろう!」
シリウスは立ち上がり、机を拳で叩いた。
音が部屋の静けさを切り裂く。
「アランを攻撃するような真似だけは、絶対にやめてくれ、ジェームズ」
長い沈黙。
暖炉の中で火がぱちぱちと弾ける音だけが響く。
リーマスが静かに口を開いた。
「シリウス……。誰も、アランを傷つけようとしてるわけじゃない」
「じゃあ、なんであの屋敷に“スパイ”を送り込んだ?」
低く、押し殺した声だった。
「エリナ・ウェルズ。若い医務魔女だ。
彼女はただの観察者だよ。ブラック家の内情を知るためのな」
「違う。彼女はアランの傍にいる。
あの人の生活に、息に、触れる位置に置かれてるんだ」
シリウスは言葉を飲み込み、喉の奥を詰まらせた。
脳裏に浮かぶのは、アランの微笑み。
あの翡翠の瞳。
どんな闇の中にあっても、自分を真っ直ぐ見返した光。
――そんな彼女が、いま“監視されている”。
ジェームズは黙ってその視線を受け止めていた。
「……違法魔法薬の使用が確認されたんだ、シリウス」
「――なに?」
空気が一瞬止まった。
「確証が取れた。あの屋敷の医務魔女、サラ・モーリンが使っていたとされていた薬。
実際はアラン本人が服用していた痕跡が見つかった」
火の粉がはぜ、灰が宙に舞う。
シリウスは呆然と立ち尽くした。
「……そんな、馬鹿な」
胸の奥が焼けるように痛んだ。
彼女が、あの誇り高いアランが――
そんなものに頼らなければ立てないほど、
体を、心を、蝕まれていたというのか。
「……あの時」
かすれた声が零れた。
「……あの時、俺が……強引にでもあの屋敷から連れ出していれば」
リーマスとジェームズは黙っていた。
「俺が……! あの手を、離さなければ」
シリウスの拳が震える。
「きっと、今もあの人は、笑っていてくれたはずだ……」
頭の奥で、あの夜が蘇る。
月明かりの下、アランが差し出した手をそっと引いたあの日。
彼女は微笑みながら言った――
「ありがとう。でも私は、あの人の傍に戻らなくちゃ」
その一言が、いま胸を切り裂く。
「……アルタイルだって、俺が育てられたかもしれない」
低く、嗄れた声。
「選ばなかった方の未来ばかりが、どうしてこんなに輝いて見えるんだ……」
沈黙が落ちた。
やがて、リーマスが静かに言う。
「シリウス、聞いてくれ。
俺たちは、アランを攻撃しようとしてるわけじゃない。
むしろ……守ろうとしてるんだ」
「守る?」
「そうだ。あの家には闇がある。
レギュラス・ブラック――君の弟は、ヴォルデモートの最も信頼する右腕だ。
あの男の“闇”を暴くことができれば、ホークラックスの在り処にも辿りつける」
ジェームズが頷いた。
「つまり、エリナはその鍵になる。
ブラック家の内部に入って、レギュラスの動きを探る。
……それが、アランを間接的に守ることにも繋がる」
「……皮肉だな」
シリウスが呟く。
「彼女を守るために、また誰かが彼女の側に潜り込む」
誰も、何も返せなかった。
暖炉の炎が小さく鳴る。
シリウスはその火をじっと見つめていた。
――アラン。
君はいま、どんな顔であの屋敷にいる?
違法魔法薬なんかに頼るほど、
どれほどの孤独を抱えていた?
誰よりも強く、誰よりも美しかった君が。
いまは、誰のために笑っているのか。
その答えを知りたくてたまらなかった。
そして同時に、知るのが怖かった。
「……ジェームズ、リーマス」
やがて、静かに口を開く。
「それでも、あの人だけは――俺が守る」
二人は黙って頷いた。
レギュラス・ブラックの書斎は、
昼なお薄暗く、整然とした空気に包まれていた。
分厚いカーテンの隙間から、かすかに陽光が差し込む。
木の香とインクの匂い、そして沈黙――。
全てが秩序の中にあり、彼という男そのものを映しているようだった。
扉をノックする小さな音。
「どうぞ」
低く響く声。
扉が静かに開かれ、エリナ・ウェルズが姿を現した。
まだ若く、背筋を伸ばして立つその様は、
緊張と自信の両方を纏っているようだった。
「ご報告よろしいでしょうか、ブラック卿」
レギュラスは羽ペンを置き、顔を上げた。
「どうぞ」
彼女は慎重な足取りで机の前に進み出る。
その手には整然とまとめられた記録帳が抱えられていた。
「アラン様の診察結果をまとめました。
事前に伺っていた情報にはございませんでしたが……」
一拍置き、
「違法魔法薬の長期服用の痕跡がございました。ご存知でしたか?」
部屋の空気が、微かに凍った。
レギュラスは瞬きもせずに、
ゆっくりと呼吸を整え、静かに言葉を返す。
「――ええ。その件は、伏せておいてもらっていいですか?」
その声音には揺らぎがなかった。
あまりにも自然で、まるでそれが当然の対応であるかのように。
エリナは短く頷く。
「かしこまりました」
彼女の視線には動揺も、詮索の色もない。
ただ冷静に報告を終える医務魔女としての在り方がそこにあった。
――なるほど。
レギュラスは心の中で小さく息を吐く。
薬を断たせてから、もう随分と経つはずだ。
それでも、この少女は痕跡を見抜いた。
腕は確かだ。
加えて、余計な憶測を挟まぬ慎みもある。
(信頼を寄せてもいいかもしれない)
胸の奥で、そう思った。
「妻に他に気になる点はなさそうですか?」
レギュラスの問いに、
エリナは一瞬、報告帳を見つめ、
それから淡々と答えた。
「はい。ひとつございます。
排卵がほとんどされていないようですので……
妊娠は、ほぼ不可能かと思われます」
その一言に、静寂が落ちた。
ペン先が転がる音すら響くほどの、張り詰めた沈黙。
レギュラスは一度目を閉じ、深く息を吐く。
彼女の声には、ためらいが一切なかった。
同情も慰めもなく、ただ医学的事実として。
それは冷たい言葉ではあったが、
同時に――妙に安心感があった。
「……随分とはっきり言いますね」
レギュラスは、かすかに口角を上げる。
揶揄でも、皮肉でもない。
むしろその率直さに敬意を感じていた。
エリナは背筋を伸ばしたまま、
「気に障りましたら申し訳ございません」と静かに答えた。
「いえ、助かりますよ。
そうやって包み隠さず伝えてくれる方が、
僕にはわかりやすい」
レギュラスの声は穏やかで、
だがその奥に微かな疲労と痛みが滲んでいた。
アランがもう子を宿せない――
それは、どこかで覚悟していた事実だった。
産後の長い不調。
夜ごと震えるように眠る姿。
あの繊細な指が、どれほど薬の痕に侵されていたか。
分かっていた。
けれど、他人の口から告げられる現実というのは、
想像よりもずっと鋭く胸に突き刺さる。
エリナは深く一礼した。
「今後も、できる限りの処置をいたします」
「頼みます」
レギュラスは小さく頷いた。
エリナが去ると、
部屋に再び静寂が戻る。
――アラン。
僕はあなたを、守れているのだろうか。
言葉にできない思いが、
喉の奥で静かに震えた。
昼下がりの光がカーテン越しにやわらかく降り注ぎ、
淡い翡翠色の光がアランの寝台の上に落ちていた。
部屋にはほのかな香草の匂いと、
新しい薬瓶の清冽な香りが混ざり合って漂っている。
若き医務魔女――エリナ・ウェルズは、
銀糸のような髪を後ろでまとめ、
淡々と手元の診療記録に筆を走らせていた。
「アラン様、魔力免疫が落ちているようです」
彼女は顔を上げると、静かに言葉を続けた。
「性行為の際は避妊具を用いてください。
余計な感染症を防げます」
アランは思わずまばたきをした。
一瞬、空気がぴんと張り詰める。
昨夜――夫婦の寝室で過ごした時間の余韻など、
もうどこにも残ってはいなかった。
それでも、彼女は何かを感じ取ったのだろう。
まるで医療的忠告という形を借りて、
夜の秘密をそっと見抜いたような、そんな声音だった。
若いのに、なんと観察力と洞察力の鋭い子なのだろう。
羞恥が頬をかすめた。
十年以上も自分の身体を診てくれていたサラ・モーリンには
心を開くことに何の抵抗もなかったのに――。
この少女の前では、まるで自分の心と肉体の奥までも
見透かされているようで落ち着かない。
けれど、同時に。
彼女の真っ直ぐな目と、
嘘や曖昧さのない口調が、
妙に安心を与えてくれるのも事実だった。
「……わかりました、気をつけますわ」
アランは静かに微笑み、
エリナの差し出す手に頷きを返した。
「では、本日の診察はこれで」
エリナは立ち上がり、礼をして部屋を出て行く。
その足音が遠ざかっていくのを聞きながら、
アランは胸の奥でひとつ息を吐いた。
(……まったく、あの年頃の子にまで見抜かれるなんて)
羞恥と可笑しさが、同時に胸に込み上げる。
同時に――この屋敷に再び「信頼できる手」が
生まれつつあることに、
ほのかな安堵も覚えていた。
夜。
書斎で報告書に目を通していたレギュラスが、
ふと顔を上げた。
「どうです? エリナ・ウェルズは」
カップの紅茶を持ち上げていたアランは、
その問いに小さく笑みを浮かべた。
「ええ、よく働いてくれていますよ」
その声は穏やかで、
けれど少しだけ、思案の色を含んでいた。
まるで若い医務魔女の姿を思い浮かべながら、
その性格を慎重に言葉にしようとしているように。
「それなら安心ですね」
レギュラスはわずかに口角を上げた。
「彼女は率直に物を言う。
……あなたにもそうなんですか?」
アランはカップを置き、視線を落とした。
「ええ。はっきりと告げてくれます。
少し驚くくらいに」
「そうですか」
レギュラスは笑い、ページを閉じた。
アランはその横顔を見つめながら、
ふと考えた。
あの聡明な少女は、レギュラスにどんな口調で報告をしているのだろう。
冷静に、簡潔に、しかし一切の躊躇なく――。
あの澄んだ瞳で夫を見つめ、
妻の体のことを淡々と話している姿を想像すると、
何故だか胸の奥に小さなざわめきが生まれた。
アランはそっと微笑んだ。
使用人として仕えていた頃の自分と、
今の彼女の姿が一瞬重なったのだ。
ただ違うのは――
エリナ・ウェルズはまだ何も知らない。
この屋敷の闇も、
レギュラス・ブラックという男の真の顔も。
だからこそ、
あの真っ直ぐな瞳が、少しだけ眩しく見えた。
アランは静かに立ち上がり、
そっとレギュラスの肩に手を置いた。
「今夜は早く休みましょう。
……私も、少し疲れました」
「ええ」
レギュラスは短く答え、
その手を包み込むように握った。
暖炉の炎が、静かに揺らめく。
夜の帳が降りていく中、
ブラック家の屋敷は再び静寂に沈んだ――。
エリナ・ウェルズは、静寂を好む屋敷に少しずつ馴染み始めていた。
長い廊下には古い絨毯の上を歩く音がほとんど響かず、
黒檀の壁に掛けられた肖像画の中の人々は、
ただ黙ってその様子を見守っている。
ここはブラック家――闇と誇りと沈黙の一族。
だが、その屋敷の主、レギュラス・ブラックは
外で語られるような冷酷な男ではなかった。
彼は静謐そのもののような人物だった。
夫婦の寝室と書斎――その二つの空間には決して人を入れない。
家令でさえ、掃除の許可を得るには何度も確認が必要だ。
仕事の書簡も、魔法省とのやり取りも、
決して屋敷内では行わない。
まるで、屋敷の中のすべてが
「アラン・ブラックを守るための聖域」であるかのようだった。
騎士団から与えられた指示は明確だ。
“信用を得よ。そして観察を続けよ。”
エリナはそれを守り、
一日の終わりには、
通信魔法を施したペンダントを通して報告を送る。
「……現状、レギュラス・ブラックにデスイーターとしての活動の痕跡は見られません。
集会への出入りも、怪しい連絡もなし。
ここで暮らす限り、ただの貴族の愛妻家にしか見えません」
報告のたび、騎士団側は同じように答えた。
“それでいい。見張るだけでいい。
やがて、何かが崩れる。
その時、お前が鍵になる。”
――それが本当に正しいのだろうか。
彼女は胸の奥に小さな疑問を抱えながらも、
日々の務めを淡々と果たした。
アラン・ブラック。
この屋敷の女主人。
初めて会ったときの印象が、まだ鮮明に残っている。
あの翡翠の瞳――
まるで深い湖の底を覗き込むように静かで、
言葉の端々に気品と緊張を纏っていた。
エリナは少しずつ信頼を得ようと努めていたが、
十年以上仕えた医務魔女サラ・モーリンに比べれば、
まだ表層を撫でる程度の関係に過ぎなかった。
アランはよく笑う。
だが、その笑みの奥には必ず影があった。
そして何より――
レギュラス・ブラックの視線が、
常にその影を追っていることに気づいた。
食卓でも、居間でも、
彼は妻を目で追う。
娘のリディアが話しかけていても、
その隣にいるアランの一挙手一投足に、
目を離さない。
それはただの愛情とは違う。
まるで、自分の存在意義の全てを
彼女の呼吸に結びつけているような、
そんな執着に似た眼差しだった。
エリナはその視線を何度も見た。
静かな夕餉の場でも、
書斎から夫婦の部屋へ向かう彼の背を見送る時も。
――レギュラス・ブラックは、
この女を愛しているというよりも、
この女に「取り憑かれている」。
そう思わずにはいられなかった。
だからこそ、
彼に報告を上げる時には細心の注意を払った。
診察の記録、薬の調合、
それらに一つの誤りも許されない。
たった一度のしくじりで、
この屋敷から自分の命ごと追い出されるかもしれない。
ある日、報告の中で彼に告げた。
「アラン様は……排卵がほとんどされていないようです。
妊娠の可能性は極めて低いでしょう」
彼は静かに頷き、
それ以上何も言わなかった。
その反応が、逆に恐ろしかった。
(――それでも、あの二人は……)
夜、屋敷の奥に続く廊下を通ると、
夫婦の寝室からは時折、
微かな気配が漏れてくる。
灯りが落とされる前の、
かすかな囁きと衣擦れの音。
アラン・ブラックはもう子を宿せない。
それを知った上で、
彼らは互いを求め続けている。
――世継ぎのためでも、形式のためでもない。
ただ、存在を確かめるように。
エリナには、それが理解できなかった。
理屈では測れない何かが、
この二人の間にはある。
彼を縛っているのは、
アラン・ブラックという女そのものなのか。
それとも、
かつて国を揺るがせたとまで言われる
リシェル・ブラウンの血の魔性なのか。
答えを見つけようとしても、
霧のように掴めない。
エリナは記録帳を閉じ、
灯りを消した。
窓の外では、
月が重く黒雲の向こうに隠れている。
「……彼らの闇は、
想像よりも深いかもしれない」
小さく呟きながら、
彼女は静かに報告書の封を閉じた。
その夜もまた、
ブラック家の屋敷には音ひとつ響かない。
ただ遠くで、
古い時計の針が淡々と時を刻み続けていた――。
