4章
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ロンドンの魔法省地下三階、闇祓い局の執務室。
夜明け前の薄い光が、窓もないその部屋を灰色に染めていた。
蝋燭の炎がわずかに揺れ、積み上げられた書類の山に不気味な影を落とす。
その沈黙を破るように、重く低い音が響いた。
――机を叩く音だった。
「……また、あの男だ」
ジェームズ・ポッターは拳を握りしめたまま、噛みつくように言った。
その目の奥には、怒りと呆れ、そしてほんの少しの敗北感が滲んでいる。
手元の羊皮紙には新たな報告書が置かれていた。
フランスのロズィエ家が出した、公式の“釈明文”――
それが、すべてをひっくり返したのだ。
『違法魔法薬の使用を認める。
ただし、それはロズィエ家嫡女カサンドラ・ロズィエの責任において行われたものであり、
ブラック家のアラン・ブラックはそれに巻き込まれた形で一時的に体調を崩したため、
療養のためにロズィエ家へと身を移した――』
完璧だった。
どこにも綻びがない。
あたかも最初から、そうであったかのような文面。
法務局の判定印が押された瞬間、アラン・ブラックに対する召喚命令は即座に取り消された。
「……フランスのロズィエ家がここまで動くとはな」
リーマス・ルーピンが静かに呟いた。
その声は冷静だが、内側では深い諦念を含んでいた。
ジェームズは報告書を握り潰すように丸め、机に叩きつけた。
「全部、レギュラス・ブラックの仕業だ」
彼の声が低く震える。
怒りと悔しさが混ざり合い、鋭く空気を裂くようだった。
「ロズィエ家がこのタイミングで声明を出すなんて、偶然じゃない。
あいつが動いたんだ。全部、あの冷血な男の仕組んだことだ」
ジェームズの頭の中には、かつて同じ家の血を引く二人の兄弟の姿がよぎる。
シリウス――己の信じる正義に生きた男。
レギュラス――己の信じる秩序のためなら、どんな手も使う男。
兄は情で動き、弟は理で動く。
その理が、時にどんな魔法よりも残酷な刃となることを、ジェームズは痛いほど知っていた。
リーマスが静かに眼鏡を外し、疲れたように額を押さえた。
「こうなるだろうと、予想はしていたよ」
低い声だった。
「彼は――アランを、命懸けで守るだろう。
あの人を失えば、あの男はもう何も残らない」
ジェームズは肩で息をした。
怒りの火が、少しだけ鎮まっていく。
その代わり、胸の奥に重い無力感が沈んだ。
「……それでも、どこまでやるつもりなんだ。
自分の罪を隠すために、他人を犠牲にしてまで……」
その言葉に、部屋の隅で黙って聞いていたキングスリーが口を開いた。
いつもの冷静な低音が、空気を引き締める。
「いや――彼は、自分の罪を守ったんじゃない」
「……なんだと?」とジェームズ。
「アラン・ブラックを、守ったんだ。
我々の手から、法の手から、世界の嘲笑から。
そのためなら、いくらでも泥を被る。
それがレギュラス・ブラックという男だ」
キングスリーは椅子の背にもたれ、腕を組んだ。
「我々がどんな証拠を掴んでも、あの男は潰す。
周到に、冷静に、合法の皮を被せて。
だからこそ、恐ろしい」
ジェームズは黙り込んだ。
頭の奥で、怒りとは違う別の感情が広がっていく。
それは、戦場で敵ながら見せられる――“敬意”に似た感情だった。
誰よりも冷酷で、
誰よりも愛に誠実な男。
それが、レギュラス・ブラックという矛盾そのものだった。
「……あの男、ほんとうにアランのためだけに動いてるのか?」とジェームズ。
「分からん」とキングスリー。
「だが、彼が誰かのためにここまで徹底して動くなら――
その“誰か”がアランであることだけは、確かだろう」
リーマスが小さく頷いた。
「たぶん、もう彼にとっては“正義”でも“理想”でもない。
それは――執念だよ。
愛と呼ぶには、あまりに静かで、あまりに深い」
部屋に沈黙が落ちる。
壁の時計が、コツコツと音を立てていた。
その音が、まるで彼らの無力さを刻むように響いていた。
ジェームズは窓もない部屋の空を見上げるようにして、深く息を吐いた。
「……まったく、どこまでも小癪な男だ」
その声は、怒りではなく――
認めざるを得ない敗北の響きを帯びていた。
そしてその瞬間、
ロンドンの地下の静寂の中で、誰も知らぬままに、
またひとつ、レギュラス・ブラックの完璧な“手”が成されたのだった。
闇祓い局の奥にある作戦室には、低く抑えられた声と紙の擦れる音が満ちていた。
曇り硝子越しに射し込む朝の光が、壁一面の地図や資料を鈍く照らし出している。
中央の円卓を囲む三人の男――ジェームズ・ポッター、リーマス・ルーピン、そしてキングスリー・シャックルボルト。
彼らの表情には疲労と焦燥が刻まれていた。
「……何か、あのレギュラス・ブラックを嵌められるようなものはないのか」
ジェームズの声が静かに響く。
低いが、怒りと苛立ちを押し殺した音だった。
握っていた書類を机の上に叩きつけると、紙の端がわずかにめくれて、蝋燭の炎に光を反射した。
リーマスは腕を組んだまま、深く息を吐く。
「握った情報は、全部潰された。
核心に迫れそうな証拠も、気づけば別のものにすり替えられてる」
キングスリーが頷く。
「そうだ。あの男、動きが速すぎる。
証拠を消すというより、“別の真実”に書き換えてしまう。
まるで、最初からそれが事実であったかのように」
部屋の空気が重く沈む。
蝋燭の炎がひときわ強く揺れた。
ジェームズは机に肘をつき、指でこめかみを押さえた。
レギュラス・ブラック――あの男の計算の精度は、尋常ではない。
事実を事実で塗り替える。
嘘を真実に変える。
人の心の隙間にまで踏み込んで、支配していく。
どんな証拠を掴んでも、手元に残るのは“真実の影”だけ。
それを追うほど、指の隙間から砂のように零れていく。
「では……何なら、彼を嵌められる?」
ジェームズの問いに、リーマスが眉を寄せて呟いた。
「……女、かな」
その場に乾いた笑いがこぼれた。
ジェームズは思わず吹き出し、椅子の背にもたれかかる。
「冗談だろ。アラン・ブラックっていう、あんな圧倒的な女がそばにいるんだぞ。
あの女を超える存在なんて――」
「――超えなくていいんだよ」
リーマスの言葉が割って入る。
その声音は、妙に静かで、しかしどこか確信めいていた。
「アラン・ブラックを超える必要なんてない。
むしろ、“超えない”方がいい」
キングスリーが腕を組み直し、顎に手を当てる。
「……なるほど。あの男にとって、アランは完璧な存在だ。
誰より美しく、聡明で、そして危うい。
完璧すぎる存在の隣に立ってしまった者ほど、欠落に惹かれるものだ」
ジェームズは視線を落としたまま、ゆっくりと呟く。
「……欠落、か」
リーマスは淡々と続ける。
「派手で魅力的な女なんて要らない。
むしろ、地味で、目立たず、どこにでもいるような――そういう女がいい」
その言葉に、ジェームズの瞳がかすかに光を宿す。
「……そうか。
アラン・ブラックのような女は、誰も“敵”にできない。
だが、凡庸な存在なら、気配もなく近づける」
「そういうことだ」とキングスリーが頷く。
「派手な色の蝶は、網にかかりやすい。
だが、灰色の蛾は、闇に紛れて入り込む。
そして、あの屋敷の奥にたどり着ける女がいるとすれば――」
「……屋敷の医務魔女、か」
ジェームズの口角がゆっくりと上がる。
リーマスとキングスリーの視線が、彼の顔に集まった。
「サラ・モーリンは解雇された。
今、ブラック家には専属の医務魔女がいない。
屋敷の中で、最も警戒が緩む“隙間”だ。
つまり――そこが入り口になる」
「なるほどな」
キングスリーが低く呟く。
「医務魔女は、当主の体調を理由に屋敷のあらゆる部屋に入れる。
寝室にも、書斎にも、家族の居室にも。
しかも、護衛も同行しない。完璧な隠れ蓑だ」
ジェームズの胸に、久しぶりに“手応え”のような感覚が走った。
「少しずつ近づけさせる。
まずは信頼を得ることだ。
その女が、あの男の“テリトリー”の中に足を踏み入れさえすれば――」
「スパイになる」とリーマスが言葉を継ぐ。
その瞬間、部屋の空気が一段と冷たくなった。
それは悪意の匂いではなく、“目的”の匂い。
戦いのための知恵が、静かに形を取り始める瞬間だった。
「……だが、一つだけ覚えておけ」
キングスリーが言葉を重ねた。
「レギュラス・ブラックという男は、“見抜く”。
相手の嘘も、息づかいも、ほんの一瞬の揺らぎさえも。
もし仕掛けるなら、完璧でなければならない」
ジェームズはゆっくり頷いた。
「完璧な嘘をつける女を、探そう。
誰にも気づかれず、静かにあの屋敷に忍び込める女を」
炎の揺らぎが、三人の顔に陰影を作る。
作戦室の空気が重く沈み、外ではまだ夜明け前の風が唸っていた。
誰もが口を閉ざしたまま、それぞれの思考を沈める。
やがて、リーマスがぽつりと呟いた。
「――あの男を倒すには、理じゃない。
“情”で崩すしかないのかもしれないな」
その言葉に、誰も何も返さなかった。
ただ、遠くで時計の針が音を刻む。
それはまるで、これから始まる策謀の時間を告げる鐘のように、静かに鳴り響いていた。
曇り硝子の向こうに、冬の陽が淡く沈みかけていた。
屋敷の奥の居間はひどく静かで、暖炉の薪が小さくはぜる音だけが響いている。
アラン・ブラックはその音を聞きながら、ぼんやりと椅子の肘掛けに手を置いていた。
指先には、いつの間にか消えかけた火の温もりが染みついている。
彼女の顔には、わずかな影が落ちていた。
落ち込んでいる――というより、胸のどこかがぽっかりと空洞になったようだった。
その理由はたったひとつ。
サラ・モーリン。
十年のあいだ、病の弱りや悪夢の夜を支え続けてくれた医務魔女。
その人が――もう、この屋敷にはいなかった。
「あなたに言うと、引き留めていたでしょう」
レギュラス・ブラックの低い声が、背後から静かに落ちてきた。
その声音には、冷たさよりも慎重な気遣いがあった。
アランは振り向かず、ただ膝の上で手を組み合わせた。
「……当たり前です。十年、私のそばにいた医務魔女ですよ」
声が震えそうになるのを、かろうじて抑えた。
それは怒りでも悲しみでもない。
もっと深く、名のつけようのない喪失感だった。
レギュラスは答えなかった。
彼の沈黙が、かえって真実を語っているように思えた。
わかっている――アランは心の中でそう呟いた。
彼を責めるのは筋違いなのだと。
レギュラスは自分を守ったのではない。
彼女を守ったのだ。
騎士団がアランに向けて投げ込もうとしていた“違法魔法薬使用”の告発。
その爆弾を、彼は信じられないほどの手際で交わしてみせた。
フランスのロズィエ家を訪れ、カサンドラ・ロズィエをも巻き込みながら――
完璧なまでに幕を引いた。
その代償が、サラの追放だった。
屋敷に残っていたはずの彼女の荷物は、気づけば跡形もなく消えていた。
アランはそれで全てを悟った。
「ちゃんと、しばらく食いつなげるだけの金は持たせました」
レギュラスの声が、穏やかに続く。
その一言に、アランは小さく息を吐いた。
心の奥底で、少しだけ安堵が広がる。
彼はいつも、徹底している。
冷徹でありながら、必要な優しさだけは忘れない。
アランがサラをどれほど信頼していたかを理解しているのだろう。
彼のやり方で、きちんと終わらせてくれた。
それでも――やはり寂しかった。
長い年月、苦しい夜に手を握ってくれた人のぬくもりは、
簡単に消せるものではない。
しばらく沈黙が落ちたのち、レギュラスが静かに言った。
「こんな時に重ねて言いたくはないんですが……
新しい医務魔女を選ばねばなりません。僕が決めていいですか?」
アランはゆっくりと顔を上げた。
その灰緑の瞳には、燃え尽きたような静けさがあった。
「……ええ。お願いします」
声はかすれていたが、拒絶の色はなかった。
サラでない以上、誰が来ても同じ――そう思っていた。
もう、誰にも心を預けるつもりはなかった。
レギュラスは小さく頷くと、
彼女の背後に回り、そっと腕を回した。
その抱擁は、言葉よりも誠実だった。
強く抱きしめるわけではない。
ただ、彼女の肩を包み込むようにして、
自分の体温を少しだけ分け与える。
アランの頬が、彼の胸元に触れた。
衣の香りに混ざって、淡いインクの匂いがした。
書斎の空気の匂い――彼の生き方そのものの香り。
そのぬくもりに包まれながら、アランはようやく目を閉じた。
勝手なことをしてしまったという彼の無言の謝罪も、
守るための決断だったという確信も、
すべてがその腕の強さの中にあった。
「……ありがとう、レギュラス」
その言葉は、ほとんど聞き取れないほどの囁きだった。
それでもレギュラスはわずかに目を伏せ、
彼女の髪に触れながら、静かに答えた。
「あなたを守るためです。すべて、僕の意思で」
暖炉の火が、ぱちりと音を立てた。
その音が、二人の間に横たわる痛みを
わずかに柔らげてくれるように感じられた。
アランは微かに微笑んだ。
その表情には、悲しみと感謝が入り混じっていた。
まるで長い冬の夜に、最後の光を見つけた人のように――。
冬の陽がゆるやかに傾き、ブラック家の屋敷の中庭を金色に染めていた。
窓辺から射し込む光は冷たく、それでもどこか懐かしい。
アルタイルはゆっくりと階段を上がり、長い廊下を歩いた。
磨かれた黒檀の床が、足音を反射して淡く響く。
ホグワーツの休暇で屋敷に戻るのは久しぶりだった。
けれど、帰ってきたという安堵よりも、胸の奥には言葉にできないざわめきがあった。
今回の休暇には――どうしても、ひとつだけ叶えたいことがあったのだ。
部屋の扉をノックすると、柔らかな声が返ってきた。
「どうぞ」
母アラン・ブラックの声は、いつもと変わらず穏やかだった。
だが、その姿を目にした瞬間、アルタイルの胸がわずかに痛んだ。
机の上にはリディアのホグワーツ入学の準備品が整然と並べられている。
制服、教科書、杖のケース、そして仕立てかけのローブ。
母はそれらの確認に追われているのだろう。
けれど、その横顔には、どこか疲れの影があった。
「母さん……」
「どうしました?」
アランが顔を上げる。
翡翠の瞳が、優しくもまっすぐに息子を見つめた。
その眼差しに触れると、いつだって言葉が詰まってしまう。
アルタイルは拳を握りしめ、口の中で何度もためらいながら、ようやく絞り出すように言った。
「母さん、その……休暇のあいだに……シリウスのところに行きたいんだ」
その一言を言うまでに、どれほど勇気を使っただろう。
部屋の空気が少しだけ張りつめる。
暖炉の薪がはぜる音が、やけに大きく響いた。
沈黙――。
母は何も言わなかった。
まつげがわずかに震え、指先で書類の角を整える仕草をした。
その沈黙が、アルタイルには痛かった。
“やはり駄目か”――そう思った瞬間、喉の奥がぎゅっと締めつけられた。
けれど、しばらくして。
アランは立ち上がり、静かに歩み寄ってきた。
その動作は、まるで壊れものを扱うようにゆっくりだった。
そして、何も言わずにアルタイルを抱き寄せた。
「……いいのでは?」
耳元で囁かれたその声は、驚くほど柔らかかった。
「レギュラスには、私から言っておくわ」
その瞬間、アルタイルの胸に張りつめていた何かがほどけていく。
息が楽になり、全身から力が抜けた。
母の香りがした――ラベンダーと、微かにインクの匂いが混ざったような。
いつも屋敷の書斎や寝室に漂う、母特有の香り。
母の手が、背中をゆっくりと撫でる。
その仕草には、言葉にできない深い理解と、赦しがあった。
「……ありがとう、母さん」
声が震えた。
母の胸元に顔を埋めると、幼い頃の記憶がふと蘇る。
熱を出した夜、怖い夢を見た夜、いつも同じように抱きしめてくれた。
そのぬくもりは、あの頃と何も変わっていなかった。
アランは黙ったまま、少しだけ強く抱きしめた。
息子の背中に指をそっと滑らせながら、心の中で思う。
――レギュラスがこの話を聞いたら、きっと表情ひとつ変えずに受け入れるだろう。
けれど、彼の心の奥に去来する感情の深さを、アランは知っている。
それでも、アルタイルの願いを止めることはできなかった。
この子の中で、もう一人の父との絆が確かに芽生えているのだ。
それを無理に断ち切ることは、彼の心を壊すことになる。
「……気をつけて行くのよ」
アランが離れ、手のひらで息子の頬を撫でた。
その指先に、母の愛情が静かに宿っている。
「はい」
アルタイルは微笑んだ。
その笑顔が、どこか少年と大人のあいだに揺れて見えた。
まだ幼さが残るけれど、その瞳には確かな意志があった。
アランはその横顔を見つめながら、胸の奥に淡い痛みを覚える。
――もう、この子は“自分の選ぶ道”を歩き始めているのだ。
暖炉の火がぱちぱちと音を立てた。
冬の午後、黄金色の光の中で、母と子の影がゆるやかに重なっていた。
その静けさの中に、言葉にはできない祈りのようなものが満ちていた。
久しぶりに帰ってきた息子は、ひとまわりもふたまわりも成長していた。
その姿を見つめるレギュラスは、どこか懐かしさと誇らしさを同時に覚えていた。
姿勢はすっと伸び、話し方には落ち着きがあり、少年の面影の奥に、すでに青年の輪郭が見える。
声変わりした低い声が、暖炉の火の音と重なりながら、屋敷の食卓に穏やかに響いていた。
「魔法史の授業が最近おもしろくて。教授が新しい視点で歴史を語ってくれるんです」
アルタイルは楽しそうに言葉を重ねる。
「それに、ホグワーツでは植物学の実験で新種のマンドレイクを扱うことになって――」
彼の瞳は生き生きとしていた。
その輝きがあまりにまぶしく、見ているだけで胸の奥が温かくなる。
レギュラスは頷きながら、静かにワイングラスを傾けた。
(こんなにも表情豊かに語る息子を見るのはいつ以来だろう)
ふとそんな思いがよぎる。
――そして、話題が一段落するたび、彼の息子がどこかに気を遣っているのが分かった。
アルタイルは決して、シリウス・ブラックの名を口にしなかった。
意図して避けている。
レギュラスもまた、それを理解していた。
だから自分からその話題を出すこともなかった。
それはまるで、互いに傷を庇い合うような沈黙だった。
不器用な父と息子の間に流れる、言葉よりも確かな情の形。
「リディアが入学したら、面倒を見てあげてくださいね」
レギュラスが穏やかに言う。
アルタイルは少し笑い、まっすぐ父を見る。
「もちろんです。今から楽しみですよ」
そのやりとりに、アランの唇がほころんだ。
彼女はナイフとフォークをそっと置き、隣の娘に目をやる。
「お兄様とずっと一緒にいられるかしら」
リディアが頬を赤らめながら言う。
白い頬に、夜会の灯りのような薄紅が差している。
彼女の髪には、アランが贈った翡翠の髪飾りがきらりと光っていた。
その光は、まるで家族の絆を象徴するかのように美しかった。
アルタイルは少し微笑み、妹に向き直る。
「ええ、もちろん。でも……リディアの周りには男子生徒がたくさん寄ってくるでしょうね」
その言葉に、食卓に柔らかな笑いが広がる。
レギュラスの口元にも、久しぶりに心からの笑みが浮かんだ。
アランも、穏やかな表情で二人の子を見つめている。
暖炉の火がパチリと弾け、テーブルの銀器が光を反射した。
「その時は、アルタイル。あなたが兄としてしっかりこの子を守ってくださいね」
アランの声は、どこまでも優しく、そして静かに響いた。
「はい」
アルタイルは一呼吸置き、わざと少し誇張した口調で言った。
「僕の許しを得た者のみが、リディアと話せるように。見定めの役を、務めさせていただきます」
食卓が一層賑やかになる。
リディアは「お兄様、それは困ります」と顔を赤らめ、アランは声を立てて笑った。
その笑い声が、屋敷の天井に柔らかく反響する。
レギュラスは、笑いながらもその光景を心の奥に焼きつけていた。
――家族の笑顔がある。
それだけで、どんな闇も遠ざかっていくように思える。
彼はグラスを持つ手をゆっくりと下ろし、静かに深呼吸をした。
息を吸い込むたび、暖炉の香りとアランの香水が混ざり合う。
その穏やかで幸福な空気を壊したくない。
ただ、このひとときを永遠に閉じ込めておきたかった。
外では雪がちらつき始めていた。
窓越しに見えるその白は、屋敷の灯りに照らされて、ゆっくりと舞い落ちている。
アルタイルはその雪を見上げながら、心のどこかで感じていた。
――この家には確かに愛がある。
けれど、自分の中に流れるもうひとつの血もまた、同じように確かなものなのだと。
父の沈黙と、母の微笑みと、妹の無邪気な声。
それらが重なって、まるで音楽のように食卓を満たしていた。
冬の夜のブラック家は、久しぶりに“家族”の灯で温かく照らされていた。
夜の帳がゆっくりと屋敷を包み、夫婦の寝室には柔らかな灯がともっていた。
窓辺のカーテンは薄く揺れ、冬の冷たい風がかすかにすり抜ける。
暖炉の火は小さくなり、パチリ、と木がはぜる音だけが静寂を縫うように響いていた。
アランの声は、その静けさの中に落ちた一滴の水のようだった。
「アルタイルが……休暇中に、シリウスのところに行くそうです」
レギュラスは、その言葉を聞いた瞬間、ページをめくろうとしていた指を止めた。
手にしていた分厚い本の紙面に目を落としたまま、数秒間、呼吸が止まる。
文字の列が、まるで遠くの国の言葉のように意味を失っていく。
やがて、静かに本を閉じた。
革張りの表紙が低く鳴り、彼はそれをベッドサイドの机に置いた。
「……そうですか」
それだけを言うまでに、ずいぶん長い沈黙があった。
その声音には抑制が効いていたが、内側では血が騒いでいた。
気にしていないわけがなかった。
むしろ、あらゆる感情が嵐のように胸の奥でせめぎ合っていた。
――シリウスとアルタイルが、どんな言葉を交わすのか。
――どんな約束を交わすのか。
十数年、父として、守護者として、教育者として、
自らの手で育て上げてきた息子。
その絆が、「血」というひとつの事実で上書きされてしまうかもしれない。
その想像だけで、胸の奥に冷たい恐怖が広がった。
たとえ言葉にできなくとも、その恐怖は確実に彼の喉を締めつけていた。
「あなたは……行く気ですか?」
ようやく絞り出した声は、意識して抑えた低音だった。
アランは一瞬まばたきをし、すぐに静かに首を振った。
「いいえ。ここに残ります」
その答えに、レギュラスは息を吐いた。
喉の奥から微かに音が漏れる。
安堵――それが真っ先に来た感情だった。
まさか、アルタイルの付き添いとしてアランもシリウスに会いに行くのではないか。
そんな想像が、彼の胸をひどくかき乱していた。
だが、その可能性が即座に否定されたことが、どれほどの救いだったか。
暖炉の明かりが、アランの横顔を照らしていた。
その光に浮かぶ睫毛の影が、レギュラスにはなぜか切なく見えた。
彼女がいま何を思っているのか――想像するのが怖かった。
アルタイルを見て、シリウスは何を思うだろう。
かつて愛した女の面影を、そこにどれほど見るのだろう。
そして、どんなふうに、叶わなかった未来を思い描くのだろうか。
そのすべてが、レギュラスには許しがたかった。
アランは、自分が勝ち得た女だ。
誰にも奪わせない――そう決めていた。
だが同時に、彼は知っていた。
アランの中にシリウス・ブラックという存在が、
決して消えない記憶として、深く、静かに根を張っていることを。
それは血肉のように、彼女の一部として染みついている。
その男への想いが、時間の流れでも、婚姻という制度でも、
完全には拭い去れないのだということを。
レギュラスは、指先で本の背表紙をなぞりながら、
ゆっくりと視線を床に落とした。
自分がアランを妻として迎えてから、
互いの心が本当にひとつに重なったと感じた瞬間が、
果たしてあっただろうか。
彼女の微笑みは、いつもどこか遠い。
腕の中に抱いても、温もりの向こうに影があった。
その影の正体を、レギュラスはずっと知っていた。
――それは、シリウス・ブラックという男だ。
「……」
喉の奥に言葉が詰まり、声にはならなかった。
アランはそんな夫を見つめながらも、何も言わなかった。
彼女の瞳は澄んでいて、何も映さない鏡のようだった。
やがてレギュラスは小さく息をついた。
「寒い夜ですね」
その言葉は、どうでもいい雑談のようでいて、
心の奥の張り詰めた糸をほんの少しだけ緩めるための逃げ道でもあった。
アランは微かに微笑んだ。
「ええ、ほんとうに」
そして、二人の間に再び静寂が落ちる。
その沈黙は、どこか痛みを伴ったものだったが、
それでも、二人は同じ部屋の中で、同じ時間を過ごしていた。
レギュラスは横目でアランの肩越しに揺れる灯りを見つめた。
彼女がシリウスを忘れられないとしても――
それでもいい、と言えるほどの強さは、まだ自分にはなかった。
ただ一つ確かなのは、
どんなに遠くにいても、
彼女が「レギュラスブラックの妻」としてこの屋敷にいる限り、
その現実だけが、彼にとって唯一の勝利なのだ。
炎がひときわ高くはぜた。
ふたりの影が壁に揺らめき、寄り添うように一つに溶けていった。
朝から落ち着かなかった。
シリウス・ブラックは、ひとり笑いながら、いつもは放っておくリビングの隅々まで磨き上げていた。
埃を払うたび、窓の外から射す冬の陽光が床に反射し、部屋の中を金色に照らす。
磨きすぎて、肘まで黒光りしているのを見て「らしくないな」と自嘲する。
親友には言われていた。
“あまり型破りなことはするな、張り切りすぎるな”と。
だが、そんな助言を聞き入れるほど落ち着いていられなかった。
――息子が来るのだ。
アルタイルが、ここに。
この家に、自分を訪ねてやって来る。
それを思うだけで、胸が躍る。
少年が階段を駆け上がってくる音や、無邪気に話す声を想像するだけで、
何十年分の孤独がいっぺんに溶け出していくような気がした。
「……さて、どう迎えてやるか」
テーブルの上には彼の好きそうな焼き菓子をいくつも並べた。
ショコラのビスケット、カラメルタルト、蜂蜜入りのフィナンシェ。
どれも、ホグワーツの生徒が列を成すほど人気の店から取り寄せたものだった。
本棚の脇には、わざわざ仕入れたクィディッチの最新雑誌。
そして、明日の朝には一緒に市場へ行くつもりでいる。
彼が手に取る箒を見ながら、「それは重心がいい」「いや、こっちの方が速い」と話し合う光景を思い描くだけで、頬が緩む。
「……まるで、初めて恋人を迎えるみたいだな」
ひとり苦笑したその時、扉のベルが鳴った。
胸の鼓動が、音より早く鳴る。
扉を開けた瞬間、風と共に少年の声が飛び込んでくる。
「シリウス!」
声が弾けるように響き、次の瞬間には勢いよく抱きつかれていた。
ああ、この抱擁を、どれだけ夢見てきたことか。
「アルタイル……!」
腕の中の少年の体は驚くほど温かかった。
少し背が伸びていて、髪も長くなっている。
「やっと……来たんだな」
「うん。父さんには直接話していませんが、母さんが許可を出してくれました」
「そうか……アランは元気にしてるのか?」
アルタイルは少しだけ言葉を選ぶように視線を伏せた。
「食が細くなったようですが、父が母のために新しい医務魔女を探してくれているようです」
「そうか……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にずしりと重い痛みが走った。
暖炉の火がぱちりと弾ける音が、やけに遠くに感じる。
アラン――。
名前を心の中で呼ぶだけで、記憶が蘇る。
夜のホグワーツ。
二人で箒にまたがり、風を切って飛んだ夜のこと。
月明かりを受けて笑う横顔。
彼女の髪が風に踊り、指先をかすめるたび、何もかもが輝いて見えた。
禁書の棚を抜け出して、ふたりで湖まで歩いたこともあった。
氷のように静かな水面に月が映り、
彼女は「この光を瓶に閉じ込めたい」と言って、杖の先で水面をすくおうとした。
あのとき見た彼女の瞳のきらめき――あれは、生きる喜びそのものだった。
だが、今アルタイルから聞かされる“アラン”は、まるで別の人のようだった。
どこかの不調を抱え、疲れ、細く、静かに暮らしている。
その姿を想像するたび、胸の奥が冷えていく。
――もう、あのアランはいないのかもしれない。
――あの光を、この世で一番美しいと思えたあの人は、もう……。
「シリウス?」
不安げに覗き込むアルタイルの声に、我に返る。
「いや、なんでもない」
彼は笑った。
少し無理をしているのが自分でも分かる。
それでも、目の前にいるこの少年が、アランと自分の証なのだ。
その事実ひとつで、どんな痛みも耐えられるような気がした。
「さあ、腹が減ったろう。食え、全部お前の好きなものだ」
テーブルの菓子を指差すと、アルタイルの顔がぱっと明るくなる。
「わあ、こんなに!」
「いいんだ、遠慮するな。父親が息子を迎える日なんて、そう何度もあるもんじゃない」
その言葉に、アルタイルが一瞬だけ微笑んで、
照れくさそうに「ありがとう、シリウス」と小さく呟いた。
シリウスはその声を胸の奥に刻むように聞いた。
――この瞬間を、永遠に忘れたくなかった。
暖炉の炎が二人の間を照らす。
ひとりの父と、十三歳の息子。
再びつながれたその絆は、外の世界の闇よりも確かに、あたたかく燃えていた。
夜明け前の薄い光が、窓もないその部屋を灰色に染めていた。
蝋燭の炎がわずかに揺れ、積み上げられた書類の山に不気味な影を落とす。
その沈黙を破るように、重く低い音が響いた。
――机を叩く音だった。
「……また、あの男だ」
ジェームズ・ポッターは拳を握りしめたまま、噛みつくように言った。
その目の奥には、怒りと呆れ、そしてほんの少しの敗北感が滲んでいる。
手元の羊皮紙には新たな報告書が置かれていた。
フランスのロズィエ家が出した、公式の“釈明文”――
それが、すべてをひっくり返したのだ。
『違法魔法薬の使用を認める。
ただし、それはロズィエ家嫡女カサンドラ・ロズィエの責任において行われたものであり、
ブラック家のアラン・ブラックはそれに巻き込まれた形で一時的に体調を崩したため、
療養のためにロズィエ家へと身を移した――』
完璧だった。
どこにも綻びがない。
あたかも最初から、そうであったかのような文面。
法務局の判定印が押された瞬間、アラン・ブラックに対する召喚命令は即座に取り消された。
「……フランスのロズィエ家がここまで動くとはな」
リーマス・ルーピンが静かに呟いた。
その声は冷静だが、内側では深い諦念を含んでいた。
ジェームズは報告書を握り潰すように丸め、机に叩きつけた。
「全部、レギュラス・ブラックの仕業だ」
彼の声が低く震える。
怒りと悔しさが混ざり合い、鋭く空気を裂くようだった。
「ロズィエ家がこのタイミングで声明を出すなんて、偶然じゃない。
あいつが動いたんだ。全部、あの冷血な男の仕組んだことだ」
ジェームズの頭の中には、かつて同じ家の血を引く二人の兄弟の姿がよぎる。
シリウス――己の信じる正義に生きた男。
レギュラス――己の信じる秩序のためなら、どんな手も使う男。
兄は情で動き、弟は理で動く。
その理が、時にどんな魔法よりも残酷な刃となることを、ジェームズは痛いほど知っていた。
リーマスが静かに眼鏡を外し、疲れたように額を押さえた。
「こうなるだろうと、予想はしていたよ」
低い声だった。
「彼は――アランを、命懸けで守るだろう。
あの人を失えば、あの男はもう何も残らない」
ジェームズは肩で息をした。
怒りの火が、少しだけ鎮まっていく。
その代わり、胸の奥に重い無力感が沈んだ。
「……それでも、どこまでやるつもりなんだ。
自分の罪を隠すために、他人を犠牲にしてまで……」
その言葉に、部屋の隅で黙って聞いていたキングスリーが口を開いた。
いつもの冷静な低音が、空気を引き締める。
「いや――彼は、自分の罪を守ったんじゃない」
「……なんだと?」とジェームズ。
「アラン・ブラックを、守ったんだ。
我々の手から、法の手から、世界の嘲笑から。
そのためなら、いくらでも泥を被る。
それがレギュラス・ブラックという男だ」
キングスリーは椅子の背にもたれ、腕を組んだ。
「我々がどんな証拠を掴んでも、あの男は潰す。
周到に、冷静に、合法の皮を被せて。
だからこそ、恐ろしい」
ジェームズは黙り込んだ。
頭の奥で、怒りとは違う別の感情が広がっていく。
それは、戦場で敵ながら見せられる――“敬意”に似た感情だった。
誰よりも冷酷で、
誰よりも愛に誠実な男。
それが、レギュラス・ブラックという矛盾そのものだった。
「……あの男、ほんとうにアランのためだけに動いてるのか?」とジェームズ。
「分からん」とキングスリー。
「だが、彼が誰かのためにここまで徹底して動くなら――
その“誰か”がアランであることだけは、確かだろう」
リーマスが小さく頷いた。
「たぶん、もう彼にとっては“正義”でも“理想”でもない。
それは――執念だよ。
愛と呼ぶには、あまりに静かで、あまりに深い」
部屋に沈黙が落ちる。
壁の時計が、コツコツと音を立てていた。
その音が、まるで彼らの無力さを刻むように響いていた。
ジェームズは窓もない部屋の空を見上げるようにして、深く息を吐いた。
「……まったく、どこまでも小癪な男だ」
その声は、怒りではなく――
認めざるを得ない敗北の響きを帯びていた。
そしてその瞬間、
ロンドンの地下の静寂の中で、誰も知らぬままに、
またひとつ、レギュラス・ブラックの完璧な“手”が成されたのだった。
闇祓い局の奥にある作戦室には、低く抑えられた声と紙の擦れる音が満ちていた。
曇り硝子越しに射し込む朝の光が、壁一面の地図や資料を鈍く照らし出している。
中央の円卓を囲む三人の男――ジェームズ・ポッター、リーマス・ルーピン、そしてキングスリー・シャックルボルト。
彼らの表情には疲労と焦燥が刻まれていた。
「……何か、あのレギュラス・ブラックを嵌められるようなものはないのか」
ジェームズの声が静かに響く。
低いが、怒りと苛立ちを押し殺した音だった。
握っていた書類を机の上に叩きつけると、紙の端がわずかにめくれて、蝋燭の炎に光を反射した。
リーマスは腕を組んだまま、深く息を吐く。
「握った情報は、全部潰された。
核心に迫れそうな証拠も、気づけば別のものにすり替えられてる」
キングスリーが頷く。
「そうだ。あの男、動きが速すぎる。
証拠を消すというより、“別の真実”に書き換えてしまう。
まるで、最初からそれが事実であったかのように」
部屋の空気が重く沈む。
蝋燭の炎がひときわ強く揺れた。
ジェームズは机に肘をつき、指でこめかみを押さえた。
レギュラス・ブラック――あの男の計算の精度は、尋常ではない。
事実を事実で塗り替える。
嘘を真実に変える。
人の心の隙間にまで踏み込んで、支配していく。
どんな証拠を掴んでも、手元に残るのは“真実の影”だけ。
それを追うほど、指の隙間から砂のように零れていく。
「では……何なら、彼を嵌められる?」
ジェームズの問いに、リーマスが眉を寄せて呟いた。
「……女、かな」
その場に乾いた笑いがこぼれた。
ジェームズは思わず吹き出し、椅子の背にもたれかかる。
「冗談だろ。アラン・ブラックっていう、あんな圧倒的な女がそばにいるんだぞ。
あの女を超える存在なんて――」
「――超えなくていいんだよ」
リーマスの言葉が割って入る。
その声音は、妙に静かで、しかしどこか確信めいていた。
「アラン・ブラックを超える必要なんてない。
むしろ、“超えない”方がいい」
キングスリーが腕を組み直し、顎に手を当てる。
「……なるほど。あの男にとって、アランは完璧な存在だ。
誰より美しく、聡明で、そして危うい。
完璧すぎる存在の隣に立ってしまった者ほど、欠落に惹かれるものだ」
ジェームズは視線を落としたまま、ゆっくりと呟く。
「……欠落、か」
リーマスは淡々と続ける。
「派手で魅力的な女なんて要らない。
むしろ、地味で、目立たず、どこにでもいるような――そういう女がいい」
その言葉に、ジェームズの瞳がかすかに光を宿す。
「……そうか。
アラン・ブラックのような女は、誰も“敵”にできない。
だが、凡庸な存在なら、気配もなく近づける」
「そういうことだ」とキングスリーが頷く。
「派手な色の蝶は、網にかかりやすい。
だが、灰色の蛾は、闇に紛れて入り込む。
そして、あの屋敷の奥にたどり着ける女がいるとすれば――」
「……屋敷の医務魔女、か」
ジェームズの口角がゆっくりと上がる。
リーマスとキングスリーの視線が、彼の顔に集まった。
「サラ・モーリンは解雇された。
今、ブラック家には専属の医務魔女がいない。
屋敷の中で、最も警戒が緩む“隙間”だ。
つまり――そこが入り口になる」
「なるほどな」
キングスリーが低く呟く。
「医務魔女は、当主の体調を理由に屋敷のあらゆる部屋に入れる。
寝室にも、書斎にも、家族の居室にも。
しかも、護衛も同行しない。完璧な隠れ蓑だ」
ジェームズの胸に、久しぶりに“手応え”のような感覚が走った。
「少しずつ近づけさせる。
まずは信頼を得ることだ。
その女が、あの男の“テリトリー”の中に足を踏み入れさえすれば――」
「スパイになる」とリーマスが言葉を継ぐ。
その瞬間、部屋の空気が一段と冷たくなった。
それは悪意の匂いではなく、“目的”の匂い。
戦いのための知恵が、静かに形を取り始める瞬間だった。
「……だが、一つだけ覚えておけ」
キングスリーが言葉を重ねた。
「レギュラス・ブラックという男は、“見抜く”。
相手の嘘も、息づかいも、ほんの一瞬の揺らぎさえも。
もし仕掛けるなら、完璧でなければならない」
ジェームズはゆっくり頷いた。
「完璧な嘘をつける女を、探そう。
誰にも気づかれず、静かにあの屋敷に忍び込める女を」
炎の揺らぎが、三人の顔に陰影を作る。
作戦室の空気が重く沈み、外ではまだ夜明け前の風が唸っていた。
誰もが口を閉ざしたまま、それぞれの思考を沈める。
やがて、リーマスがぽつりと呟いた。
「――あの男を倒すには、理じゃない。
“情”で崩すしかないのかもしれないな」
その言葉に、誰も何も返さなかった。
ただ、遠くで時計の針が音を刻む。
それはまるで、これから始まる策謀の時間を告げる鐘のように、静かに鳴り響いていた。
曇り硝子の向こうに、冬の陽が淡く沈みかけていた。
屋敷の奥の居間はひどく静かで、暖炉の薪が小さくはぜる音だけが響いている。
アラン・ブラックはその音を聞きながら、ぼんやりと椅子の肘掛けに手を置いていた。
指先には、いつの間にか消えかけた火の温もりが染みついている。
彼女の顔には、わずかな影が落ちていた。
落ち込んでいる――というより、胸のどこかがぽっかりと空洞になったようだった。
その理由はたったひとつ。
サラ・モーリン。
十年のあいだ、病の弱りや悪夢の夜を支え続けてくれた医務魔女。
その人が――もう、この屋敷にはいなかった。
「あなたに言うと、引き留めていたでしょう」
レギュラス・ブラックの低い声が、背後から静かに落ちてきた。
その声音には、冷たさよりも慎重な気遣いがあった。
アランは振り向かず、ただ膝の上で手を組み合わせた。
「……当たり前です。十年、私のそばにいた医務魔女ですよ」
声が震えそうになるのを、かろうじて抑えた。
それは怒りでも悲しみでもない。
もっと深く、名のつけようのない喪失感だった。
レギュラスは答えなかった。
彼の沈黙が、かえって真実を語っているように思えた。
わかっている――アランは心の中でそう呟いた。
彼を責めるのは筋違いなのだと。
レギュラスは自分を守ったのではない。
彼女を守ったのだ。
騎士団がアランに向けて投げ込もうとしていた“違法魔法薬使用”の告発。
その爆弾を、彼は信じられないほどの手際で交わしてみせた。
フランスのロズィエ家を訪れ、カサンドラ・ロズィエをも巻き込みながら――
完璧なまでに幕を引いた。
その代償が、サラの追放だった。
屋敷に残っていたはずの彼女の荷物は、気づけば跡形もなく消えていた。
アランはそれで全てを悟った。
「ちゃんと、しばらく食いつなげるだけの金は持たせました」
レギュラスの声が、穏やかに続く。
その一言に、アランは小さく息を吐いた。
心の奥底で、少しだけ安堵が広がる。
彼はいつも、徹底している。
冷徹でありながら、必要な優しさだけは忘れない。
アランがサラをどれほど信頼していたかを理解しているのだろう。
彼のやり方で、きちんと終わらせてくれた。
それでも――やはり寂しかった。
長い年月、苦しい夜に手を握ってくれた人のぬくもりは、
簡単に消せるものではない。
しばらく沈黙が落ちたのち、レギュラスが静かに言った。
「こんな時に重ねて言いたくはないんですが……
新しい医務魔女を選ばねばなりません。僕が決めていいですか?」
アランはゆっくりと顔を上げた。
その灰緑の瞳には、燃え尽きたような静けさがあった。
「……ええ。お願いします」
声はかすれていたが、拒絶の色はなかった。
サラでない以上、誰が来ても同じ――そう思っていた。
もう、誰にも心を預けるつもりはなかった。
レギュラスは小さく頷くと、
彼女の背後に回り、そっと腕を回した。
その抱擁は、言葉よりも誠実だった。
強く抱きしめるわけではない。
ただ、彼女の肩を包み込むようにして、
自分の体温を少しだけ分け与える。
アランの頬が、彼の胸元に触れた。
衣の香りに混ざって、淡いインクの匂いがした。
書斎の空気の匂い――彼の生き方そのものの香り。
そのぬくもりに包まれながら、アランはようやく目を閉じた。
勝手なことをしてしまったという彼の無言の謝罪も、
守るための決断だったという確信も、
すべてがその腕の強さの中にあった。
「……ありがとう、レギュラス」
その言葉は、ほとんど聞き取れないほどの囁きだった。
それでもレギュラスはわずかに目を伏せ、
彼女の髪に触れながら、静かに答えた。
「あなたを守るためです。すべて、僕の意思で」
暖炉の火が、ぱちりと音を立てた。
その音が、二人の間に横たわる痛みを
わずかに柔らげてくれるように感じられた。
アランは微かに微笑んだ。
その表情には、悲しみと感謝が入り混じっていた。
まるで長い冬の夜に、最後の光を見つけた人のように――。
冬の陽がゆるやかに傾き、ブラック家の屋敷の中庭を金色に染めていた。
窓辺から射し込む光は冷たく、それでもどこか懐かしい。
アルタイルはゆっくりと階段を上がり、長い廊下を歩いた。
磨かれた黒檀の床が、足音を反射して淡く響く。
ホグワーツの休暇で屋敷に戻るのは久しぶりだった。
けれど、帰ってきたという安堵よりも、胸の奥には言葉にできないざわめきがあった。
今回の休暇には――どうしても、ひとつだけ叶えたいことがあったのだ。
部屋の扉をノックすると、柔らかな声が返ってきた。
「どうぞ」
母アラン・ブラックの声は、いつもと変わらず穏やかだった。
だが、その姿を目にした瞬間、アルタイルの胸がわずかに痛んだ。
机の上にはリディアのホグワーツ入学の準備品が整然と並べられている。
制服、教科書、杖のケース、そして仕立てかけのローブ。
母はそれらの確認に追われているのだろう。
けれど、その横顔には、どこか疲れの影があった。
「母さん……」
「どうしました?」
アランが顔を上げる。
翡翠の瞳が、優しくもまっすぐに息子を見つめた。
その眼差しに触れると、いつだって言葉が詰まってしまう。
アルタイルは拳を握りしめ、口の中で何度もためらいながら、ようやく絞り出すように言った。
「母さん、その……休暇のあいだに……シリウスのところに行きたいんだ」
その一言を言うまでに、どれほど勇気を使っただろう。
部屋の空気が少しだけ張りつめる。
暖炉の薪がはぜる音が、やけに大きく響いた。
沈黙――。
母は何も言わなかった。
まつげがわずかに震え、指先で書類の角を整える仕草をした。
その沈黙が、アルタイルには痛かった。
“やはり駄目か”――そう思った瞬間、喉の奥がぎゅっと締めつけられた。
けれど、しばらくして。
アランは立ち上がり、静かに歩み寄ってきた。
その動作は、まるで壊れものを扱うようにゆっくりだった。
そして、何も言わずにアルタイルを抱き寄せた。
「……いいのでは?」
耳元で囁かれたその声は、驚くほど柔らかかった。
「レギュラスには、私から言っておくわ」
その瞬間、アルタイルの胸に張りつめていた何かがほどけていく。
息が楽になり、全身から力が抜けた。
母の香りがした――ラベンダーと、微かにインクの匂いが混ざったような。
いつも屋敷の書斎や寝室に漂う、母特有の香り。
母の手が、背中をゆっくりと撫でる。
その仕草には、言葉にできない深い理解と、赦しがあった。
「……ありがとう、母さん」
声が震えた。
母の胸元に顔を埋めると、幼い頃の記憶がふと蘇る。
熱を出した夜、怖い夢を見た夜、いつも同じように抱きしめてくれた。
そのぬくもりは、あの頃と何も変わっていなかった。
アランは黙ったまま、少しだけ強く抱きしめた。
息子の背中に指をそっと滑らせながら、心の中で思う。
――レギュラスがこの話を聞いたら、きっと表情ひとつ変えずに受け入れるだろう。
けれど、彼の心の奥に去来する感情の深さを、アランは知っている。
それでも、アルタイルの願いを止めることはできなかった。
この子の中で、もう一人の父との絆が確かに芽生えているのだ。
それを無理に断ち切ることは、彼の心を壊すことになる。
「……気をつけて行くのよ」
アランが離れ、手のひらで息子の頬を撫でた。
その指先に、母の愛情が静かに宿っている。
「はい」
アルタイルは微笑んだ。
その笑顔が、どこか少年と大人のあいだに揺れて見えた。
まだ幼さが残るけれど、その瞳には確かな意志があった。
アランはその横顔を見つめながら、胸の奥に淡い痛みを覚える。
――もう、この子は“自分の選ぶ道”を歩き始めているのだ。
暖炉の火がぱちぱちと音を立てた。
冬の午後、黄金色の光の中で、母と子の影がゆるやかに重なっていた。
その静けさの中に、言葉にはできない祈りのようなものが満ちていた。
久しぶりに帰ってきた息子は、ひとまわりもふたまわりも成長していた。
その姿を見つめるレギュラスは、どこか懐かしさと誇らしさを同時に覚えていた。
姿勢はすっと伸び、話し方には落ち着きがあり、少年の面影の奥に、すでに青年の輪郭が見える。
声変わりした低い声が、暖炉の火の音と重なりながら、屋敷の食卓に穏やかに響いていた。
「魔法史の授業が最近おもしろくて。教授が新しい視点で歴史を語ってくれるんです」
アルタイルは楽しそうに言葉を重ねる。
「それに、ホグワーツでは植物学の実験で新種のマンドレイクを扱うことになって――」
彼の瞳は生き生きとしていた。
その輝きがあまりにまぶしく、見ているだけで胸の奥が温かくなる。
レギュラスは頷きながら、静かにワイングラスを傾けた。
(こんなにも表情豊かに語る息子を見るのはいつ以来だろう)
ふとそんな思いがよぎる。
――そして、話題が一段落するたび、彼の息子がどこかに気を遣っているのが分かった。
アルタイルは決して、シリウス・ブラックの名を口にしなかった。
意図して避けている。
レギュラスもまた、それを理解していた。
だから自分からその話題を出すこともなかった。
それはまるで、互いに傷を庇い合うような沈黙だった。
不器用な父と息子の間に流れる、言葉よりも確かな情の形。
「リディアが入学したら、面倒を見てあげてくださいね」
レギュラスが穏やかに言う。
アルタイルは少し笑い、まっすぐ父を見る。
「もちろんです。今から楽しみですよ」
そのやりとりに、アランの唇がほころんだ。
彼女はナイフとフォークをそっと置き、隣の娘に目をやる。
「お兄様とずっと一緒にいられるかしら」
リディアが頬を赤らめながら言う。
白い頬に、夜会の灯りのような薄紅が差している。
彼女の髪には、アランが贈った翡翠の髪飾りがきらりと光っていた。
その光は、まるで家族の絆を象徴するかのように美しかった。
アルタイルは少し微笑み、妹に向き直る。
「ええ、もちろん。でも……リディアの周りには男子生徒がたくさん寄ってくるでしょうね」
その言葉に、食卓に柔らかな笑いが広がる。
レギュラスの口元にも、久しぶりに心からの笑みが浮かんだ。
アランも、穏やかな表情で二人の子を見つめている。
暖炉の火がパチリと弾け、テーブルの銀器が光を反射した。
「その時は、アルタイル。あなたが兄としてしっかりこの子を守ってくださいね」
アランの声は、どこまでも優しく、そして静かに響いた。
「はい」
アルタイルは一呼吸置き、わざと少し誇張した口調で言った。
「僕の許しを得た者のみが、リディアと話せるように。見定めの役を、務めさせていただきます」
食卓が一層賑やかになる。
リディアは「お兄様、それは困ります」と顔を赤らめ、アランは声を立てて笑った。
その笑い声が、屋敷の天井に柔らかく反響する。
レギュラスは、笑いながらもその光景を心の奥に焼きつけていた。
――家族の笑顔がある。
それだけで、どんな闇も遠ざかっていくように思える。
彼はグラスを持つ手をゆっくりと下ろし、静かに深呼吸をした。
息を吸い込むたび、暖炉の香りとアランの香水が混ざり合う。
その穏やかで幸福な空気を壊したくない。
ただ、このひとときを永遠に閉じ込めておきたかった。
外では雪がちらつき始めていた。
窓越しに見えるその白は、屋敷の灯りに照らされて、ゆっくりと舞い落ちている。
アルタイルはその雪を見上げながら、心のどこかで感じていた。
――この家には確かに愛がある。
けれど、自分の中に流れるもうひとつの血もまた、同じように確かなものなのだと。
父の沈黙と、母の微笑みと、妹の無邪気な声。
それらが重なって、まるで音楽のように食卓を満たしていた。
冬の夜のブラック家は、久しぶりに“家族”の灯で温かく照らされていた。
夜の帳がゆっくりと屋敷を包み、夫婦の寝室には柔らかな灯がともっていた。
窓辺のカーテンは薄く揺れ、冬の冷たい風がかすかにすり抜ける。
暖炉の火は小さくなり、パチリ、と木がはぜる音だけが静寂を縫うように響いていた。
アランの声は、その静けさの中に落ちた一滴の水のようだった。
「アルタイルが……休暇中に、シリウスのところに行くそうです」
レギュラスは、その言葉を聞いた瞬間、ページをめくろうとしていた指を止めた。
手にしていた分厚い本の紙面に目を落としたまま、数秒間、呼吸が止まる。
文字の列が、まるで遠くの国の言葉のように意味を失っていく。
やがて、静かに本を閉じた。
革張りの表紙が低く鳴り、彼はそれをベッドサイドの机に置いた。
「……そうですか」
それだけを言うまでに、ずいぶん長い沈黙があった。
その声音には抑制が効いていたが、内側では血が騒いでいた。
気にしていないわけがなかった。
むしろ、あらゆる感情が嵐のように胸の奥でせめぎ合っていた。
――シリウスとアルタイルが、どんな言葉を交わすのか。
――どんな約束を交わすのか。
十数年、父として、守護者として、教育者として、
自らの手で育て上げてきた息子。
その絆が、「血」というひとつの事実で上書きされてしまうかもしれない。
その想像だけで、胸の奥に冷たい恐怖が広がった。
たとえ言葉にできなくとも、その恐怖は確実に彼の喉を締めつけていた。
「あなたは……行く気ですか?」
ようやく絞り出した声は、意識して抑えた低音だった。
アランは一瞬まばたきをし、すぐに静かに首を振った。
「いいえ。ここに残ります」
その答えに、レギュラスは息を吐いた。
喉の奥から微かに音が漏れる。
安堵――それが真っ先に来た感情だった。
まさか、アルタイルの付き添いとしてアランもシリウスに会いに行くのではないか。
そんな想像が、彼の胸をひどくかき乱していた。
だが、その可能性が即座に否定されたことが、どれほどの救いだったか。
暖炉の明かりが、アランの横顔を照らしていた。
その光に浮かぶ睫毛の影が、レギュラスにはなぜか切なく見えた。
彼女がいま何を思っているのか――想像するのが怖かった。
アルタイルを見て、シリウスは何を思うだろう。
かつて愛した女の面影を、そこにどれほど見るのだろう。
そして、どんなふうに、叶わなかった未来を思い描くのだろうか。
そのすべてが、レギュラスには許しがたかった。
アランは、自分が勝ち得た女だ。
誰にも奪わせない――そう決めていた。
だが同時に、彼は知っていた。
アランの中にシリウス・ブラックという存在が、
決して消えない記憶として、深く、静かに根を張っていることを。
それは血肉のように、彼女の一部として染みついている。
その男への想いが、時間の流れでも、婚姻という制度でも、
完全には拭い去れないのだということを。
レギュラスは、指先で本の背表紙をなぞりながら、
ゆっくりと視線を床に落とした。
自分がアランを妻として迎えてから、
互いの心が本当にひとつに重なったと感じた瞬間が、
果たしてあっただろうか。
彼女の微笑みは、いつもどこか遠い。
腕の中に抱いても、温もりの向こうに影があった。
その影の正体を、レギュラスはずっと知っていた。
――それは、シリウス・ブラックという男だ。
「……」
喉の奥に言葉が詰まり、声にはならなかった。
アランはそんな夫を見つめながらも、何も言わなかった。
彼女の瞳は澄んでいて、何も映さない鏡のようだった。
やがてレギュラスは小さく息をついた。
「寒い夜ですね」
その言葉は、どうでもいい雑談のようでいて、
心の奥の張り詰めた糸をほんの少しだけ緩めるための逃げ道でもあった。
アランは微かに微笑んだ。
「ええ、ほんとうに」
そして、二人の間に再び静寂が落ちる。
その沈黙は、どこか痛みを伴ったものだったが、
それでも、二人は同じ部屋の中で、同じ時間を過ごしていた。
レギュラスは横目でアランの肩越しに揺れる灯りを見つめた。
彼女がシリウスを忘れられないとしても――
それでもいい、と言えるほどの強さは、まだ自分にはなかった。
ただ一つ確かなのは、
どんなに遠くにいても、
彼女が「レギュラスブラックの妻」としてこの屋敷にいる限り、
その現実だけが、彼にとって唯一の勝利なのだ。
炎がひときわ高くはぜた。
ふたりの影が壁に揺らめき、寄り添うように一つに溶けていった。
朝から落ち着かなかった。
シリウス・ブラックは、ひとり笑いながら、いつもは放っておくリビングの隅々まで磨き上げていた。
埃を払うたび、窓の外から射す冬の陽光が床に反射し、部屋の中を金色に照らす。
磨きすぎて、肘まで黒光りしているのを見て「らしくないな」と自嘲する。
親友には言われていた。
“あまり型破りなことはするな、張り切りすぎるな”と。
だが、そんな助言を聞き入れるほど落ち着いていられなかった。
――息子が来るのだ。
アルタイルが、ここに。
この家に、自分を訪ねてやって来る。
それを思うだけで、胸が躍る。
少年が階段を駆け上がってくる音や、無邪気に話す声を想像するだけで、
何十年分の孤独がいっぺんに溶け出していくような気がした。
「……さて、どう迎えてやるか」
テーブルの上には彼の好きそうな焼き菓子をいくつも並べた。
ショコラのビスケット、カラメルタルト、蜂蜜入りのフィナンシェ。
どれも、ホグワーツの生徒が列を成すほど人気の店から取り寄せたものだった。
本棚の脇には、わざわざ仕入れたクィディッチの最新雑誌。
そして、明日の朝には一緒に市場へ行くつもりでいる。
彼が手に取る箒を見ながら、「それは重心がいい」「いや、こっちの方が速い」と話し合う光景を思い描くだけで、頬が緩む。
「……まるで、初めて恋人を迎えるみたいだな」
ひとり苦笑したその時、扉のベルが鳴った。
胸の鼓動が、音より早く鳴る。
扉を開けた瞬間、風と共に少年の声が飛び込んでくる。
「シリウス!」
声が弾けるように響き、次の瞬間には勢いよく抱きつかれていた。
ああ、この抱擁を、どれだけ夢見てきたことか。
「アルタイル……!」
腕の中の少年の体は驚くほど温かかった。
少し背が伸びていて、髪も長くなっている。
「やっと……来たんだな」
「うん。父さんには直接話していませんが、母さんが許可を出してくれました」
「そうか……アランは元気にしてるのか?」
アルタイルは少しだけ言葉を選ぶように視線を伏せた。
「食が細くなったようですが、父が母のために新しい医務魔女を探してくれているようです」
「そうか……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にずしりと重い痛みが走った。
暖炉の火がぱちりと弾ける音が、やけに遠くに感じる。
アラン――。
名前を心の中で呼ぶだけで、記憶が蘇る。
夜のホグワーツ。
二人で箒にまたがり、風を切って飛んだ夜のこと。
月明かりを受けて笑う横顔。
彼女の髪が風に踊り、指先をかすめるたび、何もかもが輝いて見えた。
禁書の棚を抜け出して、ふたりで湖まで歩いたこともあった。
氷のように静かな水面に月が映り、
彼女は「この光を瓶に閉じ込めたい」と言って、杖の先で水面をすくおうとした。
あのとき見た彼女の瞳のきらめき――あれは、生きる喜びそのものだった。
だが、今アルタイルから聞かされる“アラン”は、まるで別の人のようだった。
どこかの不調を抱え、疲れ、細く、静かに暮らしている。
その姿を想像するたび、胸の奥が冷えていく。
――もう、あのアランはいないのかもしれない。
――あの光を、この世で一番美しいと思えたあの人は、もう……。
「シリウス?」
不安げに覗き込むアルタイルの声に、我に返る。
「いや、なんでもない」
彼は笑った。
少し無理をしているのが自分でも分かる。
それでも、目の前にいるこの少年が、アランと自分の証なのだ。
その事実ひとつで、どんな痛みも耐えられるような気がした。
「さあ、腹が減ったろう。食え、全部お前の好きなものだ」
テーブルの菓子を指差すと、アルタイルの顔がぱっと明るくなる。
「わあ、こんなに!」
「いいんだ、遠慮するな。父親が息子を迎える日なんて、そう何度もあるもんじゃない」
その言葉に、アルタイルが一瞬だけ微笑んで、
照れくさそうに「ありがとう、シリウス」と小さく呟いた。
シリウスはその声を胸の奥に刻むように聞いた。
――この瞬間を、永遠に忘れたくなかった。
暖炉の炎が二人の間を照らす。
ひとりの父と、十三歳の息子。
再びつながれたその絆は、外の世界の闇よりも確かに、あたたかく燃えていた。
