4章
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屋敷の窓辺には、薄く曇った月が静かに浮かんでいた。
レースのカーテンが夜風に揺れ、
白い影が壁をゆらゆらと踊らせている。
アランは寝台の上で、浅い呼吸を繰り返していた。
胸の奥が焼けるように痛い。
微熱を帯びた体が、重く沈む。
それでも――目を閉じてしまうのが怖かった。
リディアの笑顔が、まぶたの裏で揺れている。
寂しそうな声が聞こえる気がした。
「お母様、今日は……?」
もう何日、あの子に会っていないだろう。
乳母と二人きりの食卓で、
リディアがどんな顔をしているかを思うと、
胸の奥が締めつけられる。
――こんなふうに伏せっている場合ではないのに。
あの子は、まだ幼い。
カサンドラがロズィエ家に戻る前、
「リディアを頼むわ」と託されたときの、
彼女の青ざめた顔が今も脳裏に残っている。
あれは、懺悔にも似た願いだった。
だからこそ、アランは誓ったのだ。
リディアに注ぐ愛情と時間は、
自分の命を削ってでも惜しまないと。
けれど――。
体は、裏切る。
このところ、回復の兆しが見えない。
薬も、もう底を尽きかけていた。
枕元に置かれた小瓶を手に取る。
瓶底に残ったわずかな液体が、
光を受けて赤く揺れた。
それが、最後の一滴。
違法魔法薬。
かつて医務魔女のサラ・モーリンに頼み、
密かに仕入れていたもの。
服用すれば、体は短時間だけ蘇るように軽くなる。
だが代償として、体の内側を確実に蝕んでいく。
カサンドラから届いた手紙には、
“騎士団があなたの周囲を探り始めている”と書かれていた。
それを読んだ日から、サラに薬の調達を止めさせた。
もう、これ以上は危険だとわかっていた。
……わかってはいたのに。
「サラ……どうにか出来ないかしら」
アランは枕元の鈴を鳴らし、
静かに部屋へ入ってきたサラに声をかけた。
医務魔女の黒衣が、暗闇の中で微かに光を帯びる。
サラは眉を寄せて首を振った。
「奥様、もうやめるべきです。
これ以上は、あなたの体が持ちません」
その言葉は正しかった。
それでも、アランには受け入れられなかった。
「やめられるなら、とっくにそうしています」
微笑みながらも、その声には必死さが滲んでいた。
「私が倒れれば、リディアが……ひとりになってしまうのです」
サラは唇を噛み、しばらく黙っていた。
その横顔に、医務魔女としての理性と、
一人の女としての情がせめぎ合う。
「……方法は、ひとつだけあります」
サラの声は低く、慎重だった。
「表向きは、あなたの体質改善用の新薬という名目で。
私が新しい処方箋を提出します。
合法の薬草を組み合わせ、その中に――ほんの少量だけ、
例の成分を混ぜます。
記録上は“強壮薬”。 監査にも引っかかりません」
「そんなこと……できるの?」
「できます。
ただし、報酬が必要です。
正規の取引を装うには、かなりの金が動く。
魔法薬師と証人も抱き込まねば」
アランはわずかに目を伏せた。
考える時間はなかった。
「……いいわ。報酬は私が払います。
お金なら、どうにかするわ」
その声には、決意と焦燥が入り混じっていた。
サラは深く一礼し、
「すぐに手配をいたします」と言って部屋を出ていった。
残されたアランは、
枕の上で拳をぎゅっと握りしめた。
――リディアのため。
それだけが、生きる理由だった。
夜。
書斎では、レギュラスが任務の書類を整理していた。
黒いスーツの袖口が月光を反射して、
白い手が淡く光る。
アランはゆっくりとドアを叩いた。
「レギュラス」
彼が顔を上げる。
その瞳に映る妻の姿は、どこか儚く見えた。
「少し、お願いがあるのです」
「どうしました?」
「私につけてくださっている医務魔女――サラ・モーリンですが」
アランは慎重に言葉を選んだ。
「もう十年以上、私を診てくださっています。
そろそろ……彼女への報酬を、少し上げてもよいかと思いまして。
いつもよくしてくださるから、応えたくて」
レギュラスはペンを置き、軽く頷いた。
「ええ、どうぞ。
あなたのことを誰よりもよく見てくれている人ですからね。
任せますよ」
「ありがとうございます」
アランは深く頭を下げた。
その微笑みの裏で、
胸の奥に張り詰めた糸がきしむ音がした。
――これで、準備は整った。
夫の許可を得たことで、
屋敷の金を合法的に動かすことができる。
サラに新しい報酬を渡し、
彼女の「策」を実行できる。
アランはその場を離れ、
廊下をゆっくりと歩いた。
遠くから、リディアの笑い声が微かに聞こえる。
胸の奥で小さな痛みが走った。
もう一度――あの子を抱きしめたい。
その願いだけが、
彼女をこの世につなぎ止めていた。
レギュラスの残した温かな言葉が、
背中に滲むように残る。
けれどアランは知っていた。
この決断が、どれほど危うい綱の上を歩くことかを。
それでも構わない。
愛するものを守れるなら――
たとえ、その代償が自分の命であっても。
魔法省の一室には、まだ尋問の余熱が残っていた。
壁に埋め込まれた照明が冷たく光り、
磨かれた石床にわずかに反射する。
空気は重く、緊張の名残が肌に貼りつくようだった。
ジェームズ・ポッターは机の上に肘をつき、
深く息を吐いた。
目の前には、尋問記録の山と報告書。
どの一枚にも、同じ名前が記されている――
レギュラス・ブラック。
あまりにも見事だった。
尋問という名の包囲を、
彼はまるで舞踏でもしているかのように軽やかに抜けていった。
あの夜、墓地に残された魔力痕。
複数のデスイーターの魔力が確かに検知された。
それらの残留波から、
ルシウス・マルフォイ、バーテミウス・クラウチJr.――
名の知れた者たちが確実にそこにいたことが判明している。
だが、その中で最も強い痕跡を残していたのが、
レギュラス・ブラックの魔力だった。
それを突きつけたとき、
彼は少しも動じなかった。
「息子のアルタイルが行方不明になったのです。
あの夜、魔力の乱れを感知して……居ても立ってもいられませんでした」
低く、よく通る声だった。
穏やかで、まるで“当然の行動”を述べているだけのような口ぶり。
「息子の位置を探るために、
マルフォイ家とクラウチ家に連絡を取りました。
魔力感知に長けた彼らの協力を得たかっただけです。
彼らもまた私の懸念を共有し、駆けつけてくれた。
ただ、それだけのことですよ」
実際に、魔法通信記録には確かに彼の名があった。
だが――そこには“指示”や“命令”の痕跡は一つもない。
あくまで“息子の安否を案じた父親”の通信内容。
それ以上でも以下でもない。
ジェームズは歯を食いしばった。
――完璧だった。
全ての裏が、整いすぎている。
一見すれば、父として当然の行動。
しかし裏を返せば、
どんな追及をも軽やかに躱すために、
緻密に張り巡らされた言葉の網だった。
レギュラス・ブラック。
闇の帝王の側近でありながら、
その知性と冷静さは他のどの追従者とも違う。
光を呑み込むように、闇を操る。
彼は自らの罪を、
“理性”という名の鎧で完全に覆っていた。
ジェームズは書類を乱暴に閉じ、
小さく呟いた。
「逃げ押せると思うなよ……」
低く響くその声は、
誰にも聞かれないように沈んでいった。
けれど、ジェームズの頭を悩ませているのはそれだけではなかった。
シリウス・ブラック。
親友であり、最も信頼している男。
彼の中に、再び“あの女”の影が差し込み始めている。
シリウスは今、頻繁にアルタイルに会っている。
父と息子として、ようやく巡り会えた二人。
その関係が温かなものであることは、
ジェームズにだってわかっている。
だが、同時に――それが恐ろしかった。
あの少年の背後には、
必ずアラン・ブラックの影がある。
今やブラック家の正妻にまで上り詰めた女。
かつて「アラン・セシール」と呼ばれていた頃、
彼女はただの従者にすぎなかった。
それが今では、魔法界の頂に座している。
――あの女に関われば、
シリウスはきっとまた破滅する。
ジェームズは心の中でそう呟いた。
何度も、何度も。
彼女は、美しさと賢さを兼ね備えていた。
その微笑一つで、男の理性を簡単に壊す。
シリウスを、そしてレギュラスをも。
彼女の選んだ先にあるものは、
常に“権力”と“栄誉”だった。
レギュラス・ブラックが
「アランが自分を選んだ」と誇らしげに言った時、
ジェームズは何も返せなかった。
悔しいほどに、それが真実だったからだ。
確かに、彼女がレギュラスを選べば、
手に入るものは多すぎた。
富も、地位も、名誉も。
それに、子の未来も。
だが――愛ではなかった。
その女を、
未だに一途に想い続けているシリウスを見るのが、
もう耐えられなかった。
彼は誰よりも真っ直ぐで、
太陽のような男だ。
暗い過去を抱えながらも、
いつだって光の方へ歩いていく。
そんな彼の瞳に、再び翳りを落とす女など――
いてほしくなかった。
ジェームズは拳を強く握る。
――あの女と、その子供。
二人とも、シリウスの光を奪う存在でしかない。
「もう、これ以上は関わるな……」
声に出してみたが、
それは誰に向けての言葉だったのだろう。
シリウスか。
アランか。
それとも、自分自身か。
窓の外で、冷たい風が吹いた。
ジェームズはその音を聞きながら、
長い夜に沈むように目を閉じた。
彼の胸の奥では、
祈りにも似た願いが
静かに、けれど確かに燃えていた。
――どうか、親友が再び闇に触れませんように。
どうか、彼が光の中に居続けられますように。
その変化は、本当にささいなことばかりだった。
何かが壊れているわけでもない。
何かを取り繕うような不自然さもない。
けれど、どこか――ほんの少しだけ、
アランの輪郭が以前よりも遠くに感じられた。
最初に気づいたのは、ある夜遅く。
任務帰りで屋敷に戻ったときだった。
時計の針はとうに零時を過ぎ、
館の明かりはすべて落とされていた。
それなのに、寝室の扉の下からだけ、
うっすらと温かい光が漏れていた。
「アラン?」
ノックして扉を開けると、
妻はランプの明かりの下で、
静かに寝台の脚元の絨毯を磨いていた。
シーツを整え、ベッドサイドの小物を丁寧に拭い、
棚の上に置かれた書物の位置までも几帳面に揃えている。
「こんな時間に……どうしたんです?」
問いかけると、アランは少し驚いたように振り返り、
淡い笑みを浮かべた。
「気になってしまって……。
この部屋、いつも人を入れないから、ほこりが溜まりやすいの」
レギュラスは一瞬、言葉を失った。
確かに彼は、夫婦の寝室には誰も立ち入らせない主義だった。
子どもたちでさえ、この部屋の敷居をまたぐことは滅多にない。
ここは、アランと自分だけの世界――
外の誰にも触れさせたくない、閉ざされた静寂の空間。
だから、掃除が行き届かないこともあっただろう。
それでも、夜更けに磨き上げるほどのことだろうか。
レギュラスは「そうですか」とだけ言い、
深く考えぬまま寝衣に着替えた。
あの時の、ランプに照らされたアランの横顔を、
なぜか今でも鮮明に覚えている。
どこか、昔のようだった――
まだ彼女が屋敷で働いていた頃の、
使用人としての癖のようなものが、ふと滲んでいた。
それから数日後。
風呂場の扉の向こうから、
いつまで経っても湯の音が止まない夜があった。
「……アラン?」
呼びかけても返事がない。
胸の奥がざわついて、
レギュラスは思わず扉を押し開けた。
湯気が立ち込め、
バスルームの中は柔らかな泡の香りで満ちていた。
泡の海の中で、アランはうっとりと目を細めていた。
慌てて扉を閉めながら、
「……まだ洗っているんですか?」と聞くと、
中からくぐもった声が返ってきた。
「ええ、いい匂いだから」
言葉の意味を咀嚼する間もなく、
彼女の笑い声が小さく混じった。
レギュラスはどう返せばいいのかわからず、
「そうですか」とだけ呟いた。
それからさらに一時間後、
まだ上がってこない彼女を心配して、
使用人に見に行かせたこともある。
その時もアランは、
「大丈夫よ、すぐに上がるから」と微笑んでいたという。
きっと疲れているのだろう――
レギュラスはそう思い込みたかった。
だが、彼がもっとも戸惑いを覚えたのは、
ある晩の出来事だった。
これまでのアランは、
夜の営みにおいてはいつも静かで、
控えめな人だった。
それが悪いわけではなかった。
むしろ彼は、彼女の慎み深い態度を尊んでいた。
けれど、ここ最近の彼女は違った。
夜、レギュラスが肩に手を置けば、
それを拒まず――いや、
むしろその手を導くように指を絡めてくる。
その仕草には、以前にはなかった熱があった。
まるで、
「欲しいのです」と囁かれているような気さえした。
初めて見る表情だった。
息を乱し、頬を染め、
そのたびに彼の名を何度も呼ぶ。
それは新鮮で、どこか切実で、
彼の胸を焦がすように愛しかった。
「アラン……」
そう呼びかけても、彼女はただ静かに微笑むだけ。
その微笑みの奥に、どんな思いが隠されているのか、
彼は知る由もなかった。
むしろ、彼女が求めてくれることが嬉しかった。
疲れた心を癒すように、
その夜の彼女は柔らかく、
そしてどこか懐かしい匂いがした。
振り返れば、それらの一つひとつが、
小さな“異変”の兆しだったのかもしれない。
けれど当時のレギュラスには、
それが“変化”であることにさえ気づけなかった。
掃除も、入浴も、夜の求めも――
そのどれもが、ただ優しい妻の気まぐれのように思えた。
「きっと、昔の癖が戻ってきただけだ」
そう自分に言い聞かせた。
アランの中の“使用人としての感覚”が、
ふとした拍子に顔を出しただけなのだと。
彼女が少しだけ疲れているのだろうと、
深く考えもせず、ただ受け入れた。
そして、そんな小さな変化を積み重ねながら
彼は、妻の心の奥にある何かが、
静かに崩れていっていることに、
まだ気づいていなかった。
悪夢を見る夜が、またやってきた。
最近は、それがまるで息をするように自然になってしまった。
薬で眠りを強引に呼び込むたびに、心の奥で何かが鈍く軋む。
忘れたふりをしてきたものが、ひとつ、またひとつ、形を取り戻していくのだ。
夢の舞台はいつも同じ――闇の帝王の屋敷の地下。
空気は凍りついたように冷たく、石壁には染みのように黒い影が揺れている。
その中心に、自分はいる。
動けない。
身体の自由は奪われ、声は喉の奥で凍りついていた。
デスイーターの男たちが、笑っていた。
その笑い声が空間に反響して、耳の奥で何度も反復される。
拷問呪文の光が飛ぶたび、体が震え、皮膚の下を焼くような痛みが走る。
それだけでは終わらなかった。
彼らは、抵抗できぬままのアランを、何度も、何度も、冷たい床の上で弄んだ。
その瞬間、誇りという名の硝子が粉々に砕け散った。
どんな身分でも、どんな血筋でも、人として守られるべきものがある――そう信じていた。
けれど、その信念さえも無惨に壊されていった。
父と母の穏やかな笑顔。
家庭のあたたかな記憶。
それらが遠ざかるほど、現実の痛みが鮮明になる。
こんなことが、この世に存在するなんて。
知らなければよかった。知ってしまった自分を、赦せなかった。
そして夜ごと、あの冷たい地下室の光景が蘇る。
逃れられない幻のように、夢の中で繰り返される。
――息が詰まる。
アランは悲鳴と共に飛び起きた。
寝具は汗に濡れ、喉は焼けるように乾いている。
理性より先に、手が動いた。
自分の腕を掻きむしる。
爪が皮膚に食い込み、細い血の線が浮かぶ。
そうしなければ、あの男たちに触れられた場所が、自分の身体ではないような錯覚が消えないのだ。
「アラン!」
鋭い声が夜を裂いた。
レギュラスが起き上がり、慌てて彼女の手を掴む。
「アラン、何をしてるんです!」
その手は力強く、けれど震えていた。
「やめて、放して!」
アランは必死に叫ぶ。
涙と汗が頬を伝い、声は嗄れていた。
「皮膚が、ぼろぼろになります!」
「いいの、そんなの……放して!」
レギュラスの腕が、彼女を抱き締めた。
逃れようと暴れるアランの体を、痛いほどの力で包み込む。
「もういい、もう大丈夫です。誰もあなたを傷つけたりしない」
震える声が耳元で囁かれた。
それでもアランの瞳は焦点を結ばない。夢と現実の境界が溶けていた。
その騒ぎに気づいた医務魔女が駆け込んでくる。
「鎮静剤を打ちます」
短く告げると、レギュラスは迷いなく頷いた。
「ええ、お願いします」
針が皮膚を貫く瞬間、世界が遠のいていく。
視界の端で、レギュラスが自分の手を握っているのが見えた。
その温もりだけが、最後に残った。
――そして、静寂。
目を覚ました時、柔らかな光がカーテン越しに差し込んでいた。
空気は静かで、薬の匂いがかすかに残っている。
隣ではレギュラスが、椅子に腰を下ろしたまま目を覚ましたばかりのようだった。
疲れ切った表情に、それでも安堵の色が混じっている。
「……ごめんなさい。取り乱してしまったわ」
アランの声は、壊れそうに細かった。
「いいんです。怖かったでしょう」
レギュラスは静かに言い、そっと彼女の肩を抱いた。
その腕の中に、まだ痛みはあった。
けれど、ほんの少しだけ――息ができる気がした。
アランは目を閉じ、胸の奥に残る恐怖と優しさのあいだで、ひとつ長く息を吐いた。
それは、夜を抜け出すための最初の呼吸のようだった。
レギュラスは、アランの様子を見つめながら、すぐに悟った。
彼女がいま、どんな悪夢の中に囚われているのかを。
その震える手の先に、あの屋敷の地下がある――闇の帝王の冷たく閉ざされた空間。
石の壁に反響する嘲笑と、焼け焦げるような悲鳴。
彼女が何度も心を裂かれたあの夜の記憶が、今も彼女を苛んでいる。
ベッドの上、薄明かりの中でアランの腕には包帯が巻かれていた。
その白さがやけに痛々しく、まるで彼女の心の傷が外に滲み出たようだった。
レギュラスは喉の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
あの夜、自分がもう少し早く辿り着いていれば――そんな後悔が、何度も胸を突いた。
彼はそっと布団をめくり、アランの隣に身を滑り込ませた。
ひどく小さく見えるその身体を、両腕でそっと包み込む。
震えは止まらない。
アランの頬がかすかに自分の胸に触れ、熱と冷たさの間で揺れていた。
「アラン」
囁くように呼ぶと、かすかに瞳が開く。
その灰色の瞳はまだ夢の残滓を宿していた。
レギュラスは、彼女の髪に指を滑らせながら、低く告げた。
「……あの日、あなたを拷問したデスイーターの二人は、僕が殺しました」
その瞬間、アランの体がびくりと震えた。
息を呑む音が、静かな部屋の中に溶けていく。
長い睫毛が微かに揺れ、涙の粒がひとつ、頬を伝い落ちた。
「アラン……あなたの記憶は、消せないかもしれません」
言葉を選ぶように、彼はゆっくりと続ける。
「でも、あれから何度も僕があなたに触れました。これからも、何度でも触れるでしょう。そうやって少しずつ、あの記憶の上に、別の温もりを重ねていけたら……上書きできるかもしれないと思うんです」
アランは何も言わなかった。
ただ、静かに頬を彼の胸に寄せる。
その仕草が答えのように感じられた。
レギュラスは、彼女の背をゆっくりと撫でる。
指先が肩から腰へと流れ、震えを鎮めるように、何度も優しくなぞった。
その体温を確かめるたびに、胸の奥の痛みが増していく。
守り抜けなかった後悔。
救いきれなかった自責。
それでも、いまこうして彼女がここにいて、自分の腕の中にいるという現実が、唯一の救いだった。
「大丈夫です、アラン。もう誰もあなたに触れさせない」
彼の声は掠れていた。
夜の静寂の中、その声だけが確かに響いていた。
アランはわずかに頷いた。
まぶたを閉じたその表情は、痛みの底で、ほんの少しだけ安らぎを取り戻しているように見えた。
レギュラスはその姿を見つめながら、腕の力を少しだけ強めた。
もう二度と離すまいと、心の奥で誓いながら。
薄明の光がカーテンの隙間から差し込み、二人を包んでいた。
その柔らかな光の中で、過去の影がほんの少しだけ遠ざかっていく気がした。
闇市の噂は、いつも煙のように掴みづらい。
ひとたび手を伸ばせば霧散し、残るのはかすかな匂いと、耳の奥に残るざらついた声だけ。
だがその夜、ジェームズ・ポッターのもとに届いた報告は、長く途絶えていた線を再び繋ぐものだった。
――ブラック家付き医務魔女、サラ・モーリン。
五年ぶりに市場で目撃。
魔法省の裏通り、夜更けのダイアゴン横丁。
白く霞む街灯の下で、黒い外套を羽織った女が、不審な木箱を二つ抱えて歩いていた。
箱には魔法薬の封印紋があるが、刻印は剥がされ、識別呪文も反応しない。
正規の流通経路を外れた危険な薬――違法魔法薬の証だった。
追跡班が影のように距離を取って尾けたが、サラはその一角にある古い店――「モーリンダスト薬草舗」の裏口から姿を消した。
数分後、店主らしき男が現れ、客に見せるような笑みを浮かべて帳簿を閉じる。
何事もなかったかのような静けさ。
だが、その直後、店の裏からは明らかに強い魔力の痕が検知された。
試薬の匂いと、金属を溶かすような刺激臭。
そして、それを覆うために焚かれたのだろう、ローズマリーの香りが辺りに漂っていた。
ジェームズは、報告書を閉じる指先に力を込めた。
――また動き出した。
それは確信に近かった。
あの女は、長い沈黙のあとに必ず現れる。
しかも、何かを「作る」時だけだ。
机の上に広げた魔法地図の上に、いくつかの線を描く。
それらは、これまでサラが姿を見せた地域――そして、ブラック家が所有する別荘や領地のある場所と奇妙に重なっていた。
「まるで、何かを運んでいるみたいだ……」
思わず漏れた呟きは、薄い空気に溶けて消える。
違法魔法薬。
サラ・モーリンが過去に取引していた薬は、単なる快楽薬や治療促進の類ではなかった。
記憶の改変、精神の沈静、魔力の波を抑制する――どれも危険で、制御を誤れば命を落とす。
しかもそれらの薬は、長期的な使用によって人格や記憶に深刻な副作用を及ぼす可能性がある。
もし、その薬を必要としているのが――アラン・ブラック本人だとしたら。
ジェームズはペンを握る手を止めた。
その仮説を頭から否定できなかった。
むしろ、近頃のアランの動向を思い返すほどに、その可能性は現実味を帯びてくる。
体調不良による公の場の欠席、社交の場への顔見せの減少、そして――
何より、彼女の周囲を漂う、あの言葉にできない沈み。
まるで薄い膜に包まれたような静けさ。
薬で支えられている命――そうとしか思えないほどの儚さがあった。
もしもそれが真実であるなら、そこから糸を引けば、レギュラス・ブラックにも確実に辿り着ける。
彼が全く関与していないとは考えづらい。
いや、もしかすると――彼さえも、妻の行いを知らぬままなのかもしれない。
「だが、どちらにしても行き着く先は同じだ」
ジェームズは呟きながら、指先で地図の一点――「ブラック家本邸」を軽く叩いた。
アランが崩れれば、レギュラスも道連れになる。
そこからデスイーター残党の裏を暴ける可能性がある。
一族を守るために、どんな闇にでも足を踏み入れた女。
使用人の出でありながら、ブラック家の正妻にまで上り詰めたあの女。
その執念としたたかさは、ジェームズ自身も一目置いていた。
だが同時に――あの女の沈黙こそが、レギュラスを守っている防壁であることも、誰より理解していた。
彼女が倒れれば、すべてが崩れる。
ブラック家の均衡も、魔法界の秩序さえも。
ジェームズは深く息を吐いた。
窓の外では夜明けが近い。
東の空が白みはじめ、
冷たい光が机の上の書類を照らす。
「……アラン・ブラック。
あなたを、法廷に立たせる」
その決意は冷たく、それでいて静かな炎のように燃えていた。
夜の帳が降りたブラック家の廊下は、音を呑み込むように静まり返っていた。
ランプの灯りが壁に淡く揺れ、金糸の縁取りを持つ絨毯の上を、ひとりの男が迷うように歩いていた。
レギュラス・ブラック――その足取りにはいつになく迷いがあった。
いつもなら、一つの命令、一つの判断に一片の淀みも見せない彼が、今はまるで霧の中を進むような足取りでいた。
騎士団からの報せは、あまりにも突然だった。
アラン・ブラック、並びに医務魔女サラ・モーリンが、違法魔法薬の取引の線上にあるという。
金の流れも、証拠も、すでに掴まれている。
耳にした瞬間、世界がぐらりと傾いたような気がした。
信じられない。――いや、信じたくない。
「……そんな、馬鹿な」
低く、誰にも届かない声が唇から漏れた。
それでも頭の中では、次々に“思い当たる節”が鎖のように繋がっていく。
屋敷の金庫の動き。
いつもより高額な出費。
“教育費”という名目でリディアの周囲に増え続ける家庭教師や侍女たち。
アランが最近になって求めた“医務魔女サラへの報酬増額”――あの時も、疑いなど微塵も持たなかった。
「……全部、繋がっていたのか」
小さく息を吐く。
掌が震えていた。
それは怒りではなかった。
恐怖だった。
このままでは、アランが――魔法法廷に連行される。
あの純白の法廷に、被告人として座らされ、
裁判官たちの前で“ブラック家の正妻”として糾弾される姿など、想像したくもなかった。
机に手を突く。
硬い木の感触が掌に食い込み、思考の渦を無理やり押し止めた。
思い返せば、アランの体調は少しずつ変化していた。
夜中に寝室を掃除し始める奇妙な習慣。
長すぎる入浴時間。
そして――夜の営みの時、これまでとは違う彼女の熱。
あの時、喜びの裏で、どこか引っかかる違和感があったのを覚えている。
けれど、妻が自らを求めてくれることに浮かれ、その理由を深く考えようとはしなかった。
「僕の愛を取り戻してくれたのだ」と、愚かにも思っていたのだ。
けれど、それがもし――薬による副作用の一部だったのだとしたら。
胸の奥に冷たい刃が突き立ったようだった。
信頼していた時間が、一瞬で崩れていく音がした。
自分が見てきた幸福は、幻影だったのか。
いや、違う。
アランはきっと、自分の体を保つために、薬に頼るしかなかったのだ。
「……守らなければ」
呟きは低く、震えていた。
アランが魔法法廷に引きずり出されれば、
そこからブラック家への追及は必ず及ぶ。
彼女を罪に問うことは、すなわち“レギュラス・ブラックが何を隠してきたか”を暴かれることに等しい。
だが――それ以上に、彼女を守りたかった。
どんな手を使ってでも。
椅子を引く音が響いた。
レギュラスは立ち上がる。
その灰色の瞳には、疲労と焦燥が混じり、
それでもなお燃えるような意志の光が宿っていた。
「アランのもとへ行こう」
そう呟いて、扉の前で一瞬だけ立ち止まった。
彼の手が震える。
扉の向こうには、
過去の全てを背負い、
嘘と真実の狭間で生きる女がいる。
彼女に真実を問いただすことは、
同時に、自らの幸福を壊すことかもしれない。
けれど、それでも行かねばならなかった。
廊下を歩く靴音が、ゆっくりと響く。
長く続く絨毯の先に、
ランプの光が淡く揺れている。
闇の中、彼の背中は迷いながらも、確かに進んでいた。
夜の帳が落ち、ブラック家の寝室は深い静寂に包まれていた。
蝋燭の炎が揺れ、薄く垂れたカーテンが風に震えるたび、部屋の空気は淡い金色の波を描いた。
その光の中で、二人は向かい合っていた。
言葉を切り出すまでに、どれほどの沈黙が流れただろう。
壁に掛けられた時計の針が、ひとつひとつ、痛みのように時を刻む。
「……騎士団が、サラ・モーリンの動きを追っていたそうです」
ようやくレギュラスが口を開いた。
その声は低く、どこか慎重だった。
アランは驚いた様子も見せず、ただ両手を膝の上で静かに組んでいた。
レギュラスは彼女の表情を探る。
それでも彼女は目を上げない。
「違法魔法薬の仕入れが、騎士団に押さえられているようです」
一つ一つの言葉を確かめるように、ゆっくりと続ける。
「……まだサラを尋問したわけではありませんが、その薬の使用は――」
少し間を置いて、唇が震える。
「……アラン。あなた、なのですか」
アランは顔を上げなかった。
視線は二人の間の床に落ちたまま、微動だにしない。
ただ、その肩がわずかに震えているのを、レギュラスは見逃さなかった。
沈黙が、重く、痛いほどの答えだった。
「なぜです……」
レギュラスの声が掠れる。
問いかけながらも、答えはすでに胸の奥で形になっていた。
アランの壊れた身体。
アルタイルを産んだあの日の毒。
死の淵から奇跡のように生還して、それでも完全に回復することはなかった。
どれほどの痛みと倦怠が、日々彼女を蝕んでいたのだろう。
「ごめんなさい……」
小さな声が落ちる。
泣き声にも似たその謝罪に、レギュラスの心が軋んだ。
「期間は……どれくらいなのですか」
沈黙。
そして、震える唇から、信じがたい言葉がこぼれる。
「……十年ほど、です」
空気が止まった。
蝋燭の炎がわずかに揺れた音まで聞こえそうなほど、世界が静まり返る。
レギュラスの胸に、何かが鈍く崩れ落ちた。
十年――。
アルタイルの誕生の頃から、ずっと。
この十年、妻は薬の支えなしには生きてこられなかったのだ。
言葉が出なかった。
何も言えず、ただ息を吐き、視界の端がぼやけていく。
ベッドの端に腰を下ろすと、体の芯が抜けてしまったように、全ての力がどこかへ消えていった。
自分は何を見てきたのだろう。
何を、愛してきたのだろう。
あの笑顔を、あの柔らかな声を、どれほど本物だと信じてきたのか。
――信じてきた。
それがすべてだった。
「……すみません」
アランの声が、遠くから響くように聞こえた。
けれど、レギュラスは首を振った。
「謝らないでください」
その言葉は、哀しみよりも静かだった。
叱るでもなく、慰めるでもなく。
ただ、深く沈んだ静寂の底から、誰にも届かぬ祈りのように響いた。
「今すぐに……薬を断ってください」
レギュラスは立ち上がり、アランの前に膝をついた。
両手で彼女の頬を包み、その翡翠色の瞳を正面から見つめる。
「体から薬を抜くんです。そして――二度と、使わないと誓ってください」
アランはしばらくの間、震えるまま動かなかった。
それでも、やがて小さく頷く。
レギュラスの腕が彼女を包み込む。
冷たい肌を抱き寄せた時、胸の奥にひどく鋭い痛みが走った。
それは怒りでも、悲しみでもなかった。
ただ、
――遅すぎた。
そう痛感したのだ。
十年。
十年も傍にいながら、何も気づけなかった。
彼女の震えも、夜の沈黙も、笑顔の裏に潜む痛みも。
そのすべてを、愛だと錯覚してきた自分の愚かさが、何よりも苦しかった。
「もう大丈夫です。
僕が、全部背負います。
だから、もう苦しまないでください」
アランは何も言わず、ただレギュラスの胸に顔を埋めた。
嗚咽のような呼吸が、彼の胸元を濡らす。
レギュラスはその髪を撫でた。
抱き締めながら、心の中で何度も繰り返す。
――手遅れでも、いい。
――たとえこの先、すべてを失っても、もう彼女を一人にはしない。
窓の外では夜明けが近づいていた。
淡い光が、二人の影を床に長く伸ばしていく。
その光の中で、
レギュラスは、初めて本当の恐れを知った。
それは“失うこと”ではなく、
“気づけなかったこと”への、
どうしようもない絶望だった。
フランス、ロズィエ家の屋敷に、午後の陽が斜めに差し込んでいた。
庭園のラベンダーが淡い香りを放ち、窓越しに差し込む光が、磨き上げられた大理石の床に柔らかな模様を描いている。
その静謐な空間に、黒衣の男が立っていた。
――レギュラス・ブラック。
予期せぬ来訪だった。
使用人が名を告げた瞬間、カサンドラは手にしていた本を静かに閉じ、唇に薄く笑みを浮かべた。
「お久しぶりです、レギュラス様」
そう言って一礼した声は、かつて彼の妻であった女の響きをかすかに残していた。
レギュラスは一歩進み、礼儀正しく頭を下げる。
「お体はいかがです?」
形式的な問いだった。
それでも、声の奥にほんのわずかな柔らかさが宿っているのを、カサンドラは敏感に感じ取った。
「ええ、おかげさまで。
この土地は静かで、少しばかり退屈ですけれどね」
互いに短い挨拶を交わす。
それだけで、時間がひどく遠のいたように感じられた。
久しぶりに目にしたレギュラスは、やはりどこまでも冷ややかな美しさを纏っていた。
まるで氷の中に閉じ込められた宝石のように、完璧で、触れれば割れてしまいそうなほど。
その立ち姿、目の奥に光る冷静な理性。
――変わっていない。
けれど、もう胸の奥が熱く疼くことはなかった。
かつて、彼の愛が欲しくて、
彼の心を見つめようとして、
自らをすり減らしていた日々が確かにあった。
だが、今はもう違う。
ロズィエ家に戻ってからの毎日は、季節の移ろいと同じ速さで、穏やかに流れていく。
朝は鳥の声で目を覚まし、昼は薬草を調合し、夜は炎の灯りの中で手紙をしたためる。
この穏やかさを手に入れたことで、ようやく気づいた。
――誇りなど、捨ててよかったのだ。
ブラック家の名も、栄華も、夫の威光も。
それらを手放すことが恥であるなら、いくらでも恥を選ぶ。
あの家で息苦しく生きるより、ここで自分の呼吸を取り戻せたことのほうが、よほど尊いと思えた。
「リディアは……ずいぶんと大きくなったそうですね」
レギュラスの声が穏やかに響いた。
その響きは、かつてよりもどこか柔らかく、まるで氷の中に一滴の温もりが混じったようだった。
「ええ、あなたが娘の成長を見守ってくださっていること、心から感謝しています」
「アランが、よく面倒を見てくれています。
語学に興味を持ったようで、家庭教師をつけたのですよ。
最近は音楽にも関心を示していましてね。ピアノの前から離れようとしない」
語りながら、レギュラスの顔にはごくわずかに柔らかな表情が浮かんでいた。
父親としての誇り――それが彼の中に確かに息づいていることが分かる。
その姿を見つめながら、カサンドラはふと微笑んだ。
ああ、この人とは、きっとこうしてリディアの話をするくらいが丁度いいのだ。
愛だの赦しだのを語るより、
ただ娘の成長を語る方が、心が静かでいられる。
「……リディアが街に出ると聞きました。
嬉しそうにしているのでしょうね」
「ええ。アランがよく連れ出しているようです。
彼女の喜ぶ顔を見ると、どうしても財布の紐が緩んでしまうようで」
二人の間に、ごく短い笑いがこぼれた。
かつて愛と誤解で擦れ合った日々が、今は遠い昔話のように思える。
やがて、カサンドラはカップを静かにソーサーへ戻し、
真っ直ぐにレギュラスの灰色の瞳を見つめた。
「――それで。
レギュラス様、本題はなんでしょうか?」
その声音には、かすかな冷静さと警戒が滲んでいた。
この男がわざわざフランスまで足を運ぶなど、
娘の近況を語るためではないことなど、最初から分かっていた。
彼はいつもそうだった。
愛の言葉を囁くより、目的のために口を開く男。
一族の当主として、常に何かを計算し、何かを動かしている。
その瞳の奥に宿る打算の光を、カサンドラはよく知っていた。
レギュラスは一瞬だけ口を閉ざした。
灰色の瞳が細くなり、彼の指先が肘掛けをわずかに叩く。
「……あなたに、どうしても聞きたいことがありまして」
その声音には、かつて彼女が知っていたどのレギュラスとも違う響きがあった。
冷徹な当主ではなく、ひとりの男として、
何かを確かめに来た――そんな気配が、部屋の空気を揺らした。
カサンドラは背筋を伸ばしたまま、静かに微笑む。
その瞳は、もう恐れを知らない。
――この人が何を求めていようと、
私は、もう過去には戻らない。
窓の外では、秋の風が木々を揺らしていた。
ラベンダーの香りがふと流れ込み、
その紫の香気の中で、二人の沈黙が長く漂った。
やがて、レギュラスはその沈黙を破る。
「――アランのことです」
その言葉に、カサンドラの微笑が、ゆるやかに凍った。
ロズィエ家の客間には、午後の陽が斜めに差し込み、薄い金の帳が流れていた。
磨き上げられた黒檀のテーブルには、香り高い紅茶と銀の菓子器。
すべてが上品で完璧な静けさの中にあった。
けれど、その空気の奥底には、ひとつの亀裂が生まれつつあった。
――レギュラス・ブラックの来訪。
それは、単なる社交でも、旧友との懐旧でもなかった。
この男がわざわざフランスの地を訪れる理由など、ひとつしかない。
取引。
そして、その取引には必ず血のように冷たい現実が潜んでいる。
カサンドラは静かにカップを傾け、薄い唇を開いた。
「どういったお話でしょう?」
レギュラスはすでに彼女の前に座っていた。
その姿勢は完璧に整い、無駄のない動作でカップを持ち上げる。
指先の所作さえ、冷たい理性に磨かれているようだった。
カップの中で、琥珀色の液体がわずかに揺れる。
「……アラン・ブラックが、騎士団にマークされています」
紅茶の香りが一瞬にして苦く変わる。
カサンドラはまぶたを伏せ、息を吸い込んだ。
「ええ、以前、手紙でお伝えしました。用心されるようにと」
レギュラスの瞳がわずかに細くなる。
そのやり取りを、知らなかった――まるでそう告げるような沈黙が二人の間を渡った。
レギュラスは一度視線を逸らし、ゆっくりと紅茶を口に含んだ。
茶葉の種類など知らない。それでも、濃密で上品な香りだけは感じ取れる。
口の中で渋みが広がり、胸の奥で罪悪感と混ざり合う。
「違法魔法薬の使用で、魔法取締部に召喚されるのも……時間の問題です」
その言葉が落ちると同時に、蝋燭の炎がわずかに揺らいだ。
まるで空気そのものが、嘘を呑み込むように震えている。
「まあ……そこまで、ですか」
カサンドラの声は淡々としていた。
けれど、その瞳の奥には、感情の波が静かに蠢いていた。
レギュラスは息を整え、目の前の茶器を見つめる。
手にしたカップを、静かにソーサーに戻す音が響いた。
「そこで――お願いがあるのです」
低く、そして決意を秘めた声音だった。
この言葉を口にするまでに、どれほどの逡巡があったか。
彼は自分の中の“道徳”という名の鎧をすでに脱ぎ捨てていた。
「……カサンドラ嬢」
その名を呼ぶ声が、やけに遠くに聞こえる。
「屋敷の医務魔女――サラ・モーリンが仕入れていた違法魔法薬。
あれはすべて、あなたの指示であり……あなたの使用によるものとして、認めていただけませんか?」
沈黙。
時が止まったようだった。
外の鳥の声すら遠ざかり、ティーカップの縁から一滴の紅茶が零れる音だけが聞こえた。
カサンドラは表情を変えなかった。
ただ、長い睫毛の陰で、薄く微笑んだ。
「……驚きました」
その声は笑っているのに、まるで氷のように冷たかった。
レギュラスは視線を逸らさず、続ける。
「違法魔法薬にアランは関与していません。
医務魔女サラは、あなたの指示で動いていたという形にしたい。
フランスでの取引であれば治外法権により、魔法法の裁きは届きません。
ただ……ロズィエ家の名誉に少なからず影響が出るでしょう」
彼の声には、かすかな痛みが滲んでいた。
それが“ためらい”か“罪悪感”かは、もう自分でも分からない。
カサンドラは紅茶のカップを指先で回しながら、静かに彼を見た。
その灰色の瞳の奥に、どこか懐かしい光を探していた。
――この男は、変わらない。
冷静に、計算し、そしてどこまでも自分の正義を貫く。
まるで、それが唯一の愛の形であるかのように。
レギュラスは続けた。
「……随分と昔の話ですが、あなたか、母ヴァルブルガのどちらか――あるいは両方が関与した“毒薬”の件を、僕は知っています」
その一言で、カサンドラの指先が止まる。
「アランがアルタイルを出産する直前、盛られたものです。
そのため、お産が異常なほど長引いた。……ご記憶にありますね?」
沈黙。
けれど、カサンドラは否定しなかった。
ただ視線を落とし、ひとつ息をついた。
レギュラスは穏やかに言葉を続ける。
「昔の話ですから、それを掘り返すつもりはありません」
――掘り返すつもりはない。
そう言いながら、彼は確かに“掘り返している”。
そしてそれこそが、今回の交渉の本質であることを、カサンドラは理解していた。
つまり、“この件を表に出さない代わりに、引き受けろ”ということ。
カサンドラはゆっくりと椅子の背に身を預け、そして、微笑んだ。
その笑みは、かつて彼の傍らにいた女の、最後の誇りを宿していた。
「ええ、分かりました。
それで――罪滅ぼしになるのなら。
私が、背負いましょう」
レギュラスの瞳がわずかに揺れる。
その一瞬の揺らぎを、カサンドラは見逃さなかった。
男はゆっくりと息を吐き、そして口角を上げる。
まるで自分の中の葛藤を、静かに押し殺すように。
「感謝いたします、カサンドラ嬢」
その声は、礼儀の裏に深い疲労と痛みを滲ませていた。
窓の外では、夕刻の光が静かに沈み始めていた。
紅茶の表面に映る光が、ゆらゆらと揺れながら、やがて溶けていく。
二人の間には、紅茶の香りと、取り返しのつかない過去だけが残った。
そしてその静けさの中、
カサンドラは――もう一度、笑った。
「あなたは、ほんとうに変わらない方ですね……レギュラス様」
それは皮肉でも、愛情でもなく、
この男をもっとも深く知る者だけが口にできる、
哀しみを含んだ微笑だった。
レースのカーテンが夜風に揺れ、
白い影が壁をゆらゆらと踊らせている。
アランは寝台の上で、浅い呼吸を繰り返していた。
胸の奥が焼けるように痛い。
微熱を帯びた体が、重く沈む。
それでも――目を閉じてしまうのが怖かった。
リディアの笑顔が、まぶたの裏で揺れている。
寂しそうな声が聞こえる気がした。
「お母様、今日は……?」
もう何日、あの子に会っていないだろう。
乳母と二人きりの食卓で、
リディアがどんな顔をしているかを思うと、
胸の奥が締めつけられる。
――こんなふうに伏せっている場合ではないのに。
あの子は、まだ幼い。
カサンドラがロズィエ家に戻る前、
「リディアを頼むわ」と託されたときの、
彼女の青ざめた顔が今も脳裏に残っている。
あれは、懺悔にも似た願いだった。
だからこそ、アランは誓ったのだ。
リディアに注ぐ愛情と時間は、
自分の命を削ってでも惜しまないと。
けれど――。
体は、裏切る。
このところ、回復の兆しが見えない。
薬も、もう底を尽きかけていた。
枕元に置かれた小瓶を手に取る。
瓶底に残ったわずかな液体が、
光を受けて赤く揺れた。
それが、最後の一滴。
違法魔法薬。
かつて医務魔女のサラ・モーリンに頼み、
密かに仕入れていたもの。
服用すれば、体は短時間だけ蘇るように軽くなる。
だが代償として、体の内側を確実に蝕んでいく。
カサンドラから届いた手紙には、
“騎士団があなたの周囲を探り始めている”と書かれていた。
それを読んだ日から、サラに薬の調達を止めさせた。
もう、これ以上は危険だとわかっていた。
……わかってはいたのに。
「サラ……どうにか出来ないかしら」
アランは枕元の鈴を鳴らし、
静かに部屋へ入ってきたサラに声をかけた。
医務魔女の黒衣が、暗闇の中で微かに光を帯びる。
サラは眉を寄せて首を振った。
「奥様、もうやめるべきです。
これ以上は、あなたの体が持ちません」
その言葉は正しかった。
それでも、アランには受け入れられなかった。
「やめられるなら、とっくにそうしています」
微笑みながらも、その声には必死さが滲んでいた。
「私が倒れれば、リディアが……ひとりになってしまうのです」
サラは唇を噛み、しばらく黙っていた。
その横顔に、医務魔女としての理性と、
一人の女としての情がせめぎ合う。
「……方法は、ひとつだけあります」
サラの声は低く、慎重だった。
「表向きは、あなたの体質改善用の新薬という名目で。
私が新しい処方箋を提出します。
合法の薬草を組み合わせ、その中に――ほんの少量だけ、
例の成分を混ぜます。
記録上は“強壮薬”。 監査にも引っかかりません」
「そんなこと……できるの?」
「できます。
ただし、報酬が必要です。
正規の取引を装うには、かなりの金が動く。
魔法薬師と証人も抱き込まねば」
アランはわずかに目を伏せた。
考える時間はなかった。
「……いいわ。報酬は私が払います。
お金なら、どうにかするわ」
その声には、決意と焦燥が入り混じっていた。
サラは深く一礼し、
「すぐに手配をいたします」と言って部屋を出ていった。
残されたアランは、
枕の上で拳をぎゅっと握りしめた。
――リディアのため。
それだけが、生きる理由だった。
夜。
書斎では、レギュラスが任務の書類を整理していた。
黒いスーツの袖口が月光を反射して、
白い手が淡く光る。
アランはゆっくりとドアを叩いた。
「レギュラス」
彼が顔を上げる。
その瞳に映る妻の姿は、どこか儚く見えた。
「少し、お願いがあるのです」
「どうしました?」
「私につけてくださっている医務魔女――サラ・モーリンですが」
アランは慎重に言葉を選んだ。
「もう十年以上、私を診てくださっています。
そろそろ……彼女への報酬を、少し上げてもよいかと思いまして。
いつもよくしてくださるから、応えたくて」
レギュラスはペンを置き、軽く頷いた。
「ええ、どうぞ。
あなたのことを誰よりもよく見てくれている人ですからね。
任せますよ」
「ありがとうございます」
アランは深く頭を下げた。
その微笑みの裏で、
胸の奥に張り詰めた糸がきしむ音がした。
――これで、準備は整った。
夫の許可を得たことで、
屋敷の金を合法的に動かすことができる。
サラに新しい報酬を渡し、
彼女の「策」を実行できる。
アランはその場を離れ、
廊下をゆっくりと歩いた。
遠くから、リディアの笑い声が微かに聞こえる。
胸の奥で小さな痛みが走った。
もう一度――あの子を抱きしめたい。
その願いだけが、
彼女をこの世につなぎ止めていた。
レギュラスの残した温かな言葉が、
背中に滲むように残る。
けれどアランは知っていた。
この決断が、どれほど危うい綱の上を歩くことかを。
それでも構わない。
愛するものを守れるなら――
たとえ、その代償が自分の命であっても。
魔法省の一室には、まだ尋問の余熱が残っていた。
壁に埋め込まれた照明が冷たく光り、
磨かれた石床にわずかに反射する。
空気は重く、緊張の名残が肌に貼りつくようだった。
ジェームズ・ポッターは机の上に肘をつき、
深く息を吐いた。
目の前には、尋問記録の山と報告書。
どの一枚にも、同じ名前が記されている――
レギュラス・ブラック。
あまりにも見事だった。
尋問という名の包囲を、
彼はまるで舞踏でもしているかのように軽やかに抜けていった。
あの夜、墓地に残された魔力痕。
複数のデスイーターの魔力が確かに検知された。
それらの残留波から、
ルシウス・マルフォイ、バーテミウス・クラウチJr.――
名の知れた者たちが確実にそこにいたことが判明している。
だが、その中で最も強い痕跡を残していたのが、
レギュラス・ブラックの魔力だった。
それを突きつけたとき、
彼は少しも動じなかった。
「息子のアルタイルが行方不明になったのです。
あの夜、魔力の乱れを感知して……居ても立ってもいられませんでした」
低く、よく通る声だった。
穏やかで、まるで“当然の行動”を述べているだけのような口ぶり。
「息子の位置を探るために、
マルフォイ家とクラウチ家に連絡を取りました。
魔力感知に長けた彼らの協力を得たかっただけです。
彼らもまた私の懸念を共有し、駆けつけてくれた。
ただ、それだけのことですよ」
実際に、魔法通信記録には確かに彼の名があった。
だが――そこには“指示”や“命令”の痕跡は一つもない。
あくまで“息子の安否を案じた父親”の通信内容。
それ以上でも以下でもない。
ジェームズは歯を食いしばった。
――完璧だった。
全ての裏が、整いすぎている。
一見すれば、父として当然の行動。
しかし裏を返せば、
どんな追及をも軽やかに躱すために、
緻密に張り巡らされた言葉の網だった。
レギュラス・ブラック。
闇の帝王の側近でありながら、
その知性と冷静さは他のどの追従者とも違う。
光を呑み込むように、闇を操る。
彼は自らの罪を、
“理性”という名の鎧で完全に覆っていた。
ジェームズは書類を乱暴に閉じ、
小さく呟いた。
「逃げ押せると思うなよ……」
低く響くその声は、
誰にも聞かれないように沈んでいった。
けれど、ジェームズの頭を悩ませているのはそれだけではなかった。
シリウス・ブラック。
親友であり、最も信頼している男。
彼の中に、再び“あの女”の影が差し込み始めている。
シリウスは今、頻繁にアルタイルに会っている。
父と息子として、ようやく巡り会えた二人。
その関係が温かなものであることは、
ジェームズにだってわかっている。
だが、同時に――それが恐ろしかった。
あの少年の背後には、
必ずアラン・ブラックの影がある。
今やブラック家の正妻にまで上り詰めた女。
かつて「アラン・セシール」と呼ばれていた頃、
彼女はただの従者にすぎなかった。
それが今では、魔法界の頂に座している。
――あの女に関われば、
シリウスはきっとまた破滅する。
ジェームズは心の中でそう呟いた。
何度も、何度も。
彼女は、美しさと賢さを兼ね備えていた。
その微笑一つで、男の理性を簡単に壊す。
シリウスを、そしてレギュラスをも。
彼女の選んだ先にあるものは、
常に“権力”と“栄誉”だった。
レギュラス・ブラックが
「アランが自分を選んだ」と誇らしげに言った時、
ジェームズは何も返せなかった。
悔しいほどに、それが真実だったからだ。
確かに、彼女がレギュラスを選べば、
手に入るものは多すぎた。
富も、地位も、名誉も。
それに、子の未来も。
だが――愛ではなかった。
その女を、
未だに一途に想い続けているシリウスを見るのが、
もう耐えられなかった。
彼は誰よりも真っ直ぐで、
太陽のような男だ。
暗い過去を抱えながらも、
いつだって光の方へ歩いていく。
そんな彼の瞳に、再び翳りを落とす女など――
いてほしくなかった。
ジェームズは拳を強く握る。
――あの女と、その子供。
二人とも、シリウスの光を奪う存在でしかない。
「もう、これ以上は関わるな……」
声に出してみたが、
それは誰に向けての言葉だったのだろう。
シリウスか。
アランか。
それとも、自分自身か。
窓の外で、冷たい風が吹いた。
ジェームズはその音を聞きながら、
長い夜に沈むように目を閉じた。
彼の胸の奥では、
祈りにも似た願いが
静かに、けれど確かに燃えていた。
――どうか、親友が再び闇に触れませんように。
どうか、彼が光の中に居続けられますように。
その変化は、本当にささいなことばかりだった。
何かが壊れているわけでもない。
何かを取り繕うような不自然さもない。
けれど、どこか――ほんの少しだけ、
アランの輪郭が以前よりも遠くに感じられた。
最初に気づいたのは、ある夜遅く。
任務帰りで屋敷に戻ったときだった。
時計の針はとうに零時を過ぎ、
館の明かりはすべて落とされていた。
それなのに、寝室の扉の下からだけ、
うっすらと温かい光が漏れていた。
「アラン?」
ノックして扉を開けると、
妻はランプの明かりの下で、
静かに寝台の脚元の絨毯を磨いていた。
シーツを整え、ベッドサイドの小物を丁寧に拭い、
棚の上に置かれた書物の位置までも几帳面に揃えている。
「こんな時間に……どうしたんです?」
問いかけると、アランは少し驚いたように振り返り、
淡い笑みを浮かべた。
「気になってしまって……。
この部屋、いつも人を入れないから、ほこりが溜まりやすいの」
レギュラスは一瞬、言葉を失った。
確かに彼は、夫婦の寝室には誰も立ち入らせない主義だった。
子どもたちでさえ、この部屋の敷居をまたぐことは滅多にない。
ここは、アランと自分だけの世界――
外の誰にも触れさせたくない、閉ざされた静寂の空間。
だから、掃除が行き届かないこともあっただろう。
それでも、夜更けに磨き上げるほどのことだろうか。
レギュラスは「そうですか」とだけ言い、
深く考えぬまま寝衣に着替えた。
あの時の、ランプに照らされたアランの横顔を、
なぜか今でも鮮明に覚えている。
どこか、昔のようだった――
まだ彼女が屋敷で働いていた頃の、
使用人としての癖のようなものが、ふと滲んでいた。
それから数日後。
風呂場の扉の向こうから、
いつまで経っても湯の音が止まない夜があった。
「……アラン?」
呼びかけても返事がない。
胸の奥がざわついて、
レギュラスは思わず扉を押し開けた。
湯気が立ち込め、
バスルームの中は柔らかな泡の香りで満ちていた。
泡の海の中で、アランはうっとりと目を細めていた。
慌てて扉を閉めながら、
「……まだ洗っているんですか?」と聞くと、
中からくぐもった声が返ってきた。
「ええ、いい匂いだから」
言葉の意味を咀嚼する間もなく、
彼女の笑い声が小さく混じった。
レギュラスはどう返せばいいのかわからず、
「そうですか」とだけ呟いた。
それからさらに一時間後、
まだ上がってこない彼女を心配して、
使用人に見に行かせたこともある。
その時もアランは、
「大丈夫よ、すぐに上がるから」と微笑んでいたという。
きっと疲れているのだろう――
レギュラスはそう思い込みたかった。
だが、彼がもっとも戸惑いを覚えたのは、
ある晩の出来事だった。
これまでのアランは、
夜の営みにおいてはいつも静かで、
控えめな人だった。
それが悪いわけではなかった。
むしろ彼は、彼女の慎み深い態度を尊んでいた。
けれど、ここ最近の彼女は違った。
夜、レギュラスが肩に手を置けば、
それを拒まず――いや、
むしろその手を導くように指を絡めてくる。
その仕草には、以前にはなかった熱があった。
まるで、
「欲しいのです」と囁かれているような気さえした。
初めて見る表情だった。
息を乱し、頬を染め、
そのたびに彼の名を何度も呼ぶ。
それは新鮮で、どこか切実で、
彼の胸を焦がすように愛しかった。
「アラン……」
そう呼びかけても、彼女はただ静かに微笑むだけ。
その微笑みの奥に、どんな思いが隠されているのか、
彼は知る由もなかった。
むしろ、彼女が求めてくれることが嬉しかった。
疲れた心を癒すように、
その夜の彼女は柔らかく、
そしてどこか懐かしい匂いがした。
振り返れば、それらの一つひとつが、
小さな“異変”の兆しだったのかもしれない。
けれど当時のレギュラスには、
それが“変化”であることにさえ気づけなかった。
掃除も、入浴も、夜の求めも――
そのどれもが、ただ優しい妻の気まぐれのように思えた。
「きっと、昔の癖が戻ってきただけだ」
そう自分に言い聞かせた。
アランの中の“使用人としての感覚”が、
ふとした拍子に顔を出しただけなのだと。
彼女が少しだけ疲れているのだろうと、
深く考えもせず、ただ受け入れた。
そして、そんな小さな変化を積み重ねながら
彼は、妻の心の奥にある何かが、
静かに崩れていっていることに、
まだ気づいていなかった。
悪夢を見る夜が、またやってきた。
最近は、それがまるで息をするように自然になってしまった。
薬で眠りを強引に呼び込むたびに、心の奥で何かが鈍く軋む。
忘れたふりをしてきたものが、ひとつ、またひとつ、形を取り戻していくのだ。
夢の舞台はいつも同じ――闇の帝王の屋敷の地下。
空気は凍りついたように冷たく、石壁には染みのように黒い影が揺れている。
その中心に、自分はいる。
動けない。
身体の自由は奪われ、声は喉の奥で凍りついていた。
デスイーターの男たちが、笑っていた。
その笑い声が空間に反響して、耳の奥で何度も反復される。
拷問呪文の光が飛ぶたび、体が震え、皮膚の下を焼くような痛みが走る。
それだけでは終わらなかった。
彼らは、抵抗できぬままのアランを、何度も、何度も、冷たい床の上で弄んだ。
その瞬間、誇りという名の硝子が粉々に砕け散った。
どんな身分でも、どんな血筋でも、人として守られるべきものがある――そう信じていた。
けれど、その信念さえも無惨に壊されていった。
父と母の穏やかな笑顔。
家庭のあたたかな記憶。
それらが遠ざかるほど、現実の痛みが鮮明になる。
こんなことが、この世に存在するなんて。
知らなければよかった。知ってしまった自分を、赦せなかった。
そして夜ごと、あの冷たい地下室の光景が蘇る。
逃れられない幻のように、夢の中で繰り返される。
――息が詰まる。
アランは悲鳴と共に飛び起きた。
寝具は汗に濡れ、喉は焼けるように乾いている。
理性より先に、手が動いた。
自分の腕を掻きむしる。
爪が皮膚に食い込み、細い血の線が浮かぶ。
そうしなければ、あの男たちに触れられた場所が、自分の身体ではないような錯覚が消えないのだ。
「アラン!」
鋭い声が夜を裂いた。
レギュラスが起き上がり、慌てて彼女の手を掴む。
「アラン、何をしてるんです!」
その手は力強く、けれど震えていた。
「やめて、放して!」
アランは必死に叫ぶ。
涙と汗が頬を伝い、声は嗄れていた。
「皮膚が、ぼろぼろになります!」
「いいの、そんなの……放して!」
レギュラスの腕が、彼女を抱き締めた。
逃れようと暴れるアランの体を、痛いほどの力で包み込む。
「もういい、もう大丈夫です。誰もあなたを傷つけたりしない」
震える声が耳元で囁かれた。
それでもアランの瞳は焦点を結ばない。夢と現実の境界が溶けていた。
その騒ぎに気づいた医務魔女が駆け込んでくる。
「鎮静剤を打ちます」
短く告げると、レギュラスは迷いなく頷いた。
「ええ、お願いします」
針が皮膚を貫く瞬間、世界が遠のいていく。
視界の端で、レギュラスが自分の手を握っているのが見えた。
その温もりだけが、最後に残った。
――そして、静寂。
目を覚ました時、柔らかな光がカーテン越しに差し込んでいた。
空気は静かで、薬の匂いがかすかに残っている。
隣ではレギュラスが、椅子に腰を下ろしたまま目を覚ましたばかりのようだった。
疲れ切った表情に、それでも安堵の色が混じっている。
「……ごめんなさい。取り乱してしまったわ」
アランの声は、壊れそうに細かった。
「いいんです。怖かったでしょう」
レギュラスは静かに言い、そっと彼女の肩を抱いた。
その腕の中に、まだ痛みはあった。
けれど、ほんの少しだけ――息ができる気がした。
アランは目を閉じ、胸の奥に残る恐怖と優しさのあいだで、ひとつ長く息を吐いた。
それは、夜を抜け出すための最初の呼吸のようだった。
レギュラスは、アランの様子を見つめながら、すぐに悟った。
彼女がいま、どんな悪夢の中に囚われているのかを。
その震える手の先に、あの屋敷の地下がある――闇の帝王の冷たく閉ざされた空間。
石の壁に反響する嘲笑と、焼け焦げるような悲鳴。
彼女が何度も心を裂かれたあの夜の記憶が、今も彼女を苛んでいる。
ベッドの上、薄明かりの中でアランの腕には包帯が巻かれていた。
その白さがやけに痛々しく、まるで彼女の心の傷が外に滲み出たようだった。
レギュラスは喉の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
あの夜、自分がもう少し早く辿り着いていれば――そんな後悔が、何度も胸を突いた。
彼はそっと布団をめくり、アランの隣に身を滑り込ませた。
ひどく小さく見えるその身体を、両腕でそっと包み込む。
震えは止まらない。
アランの頬がかすかに自分の胸に触れ、熱と冷たさの間で揺れていた。
「アラン」
囁くように呼ぶと、かすかに瞳が開く。
その灰色の瞳はまだ夢の残滓を宿していた。
レギュラスは、彼女の髪に指を滑らせながら、低く告げた。
「……あの日、あなたを拷問したデスイーターの二人は、僕が殺しました」
その瞬間、アランの体がびくりと震えた。
息を呑む音が、静かな部屋の中に溶けていく。
長い睫毛が微かに揺れ、涙の粒がひとつ、頬を伝い落ちた。
「アラン……あなたの記憶は、消せないかもしれません」
言葉を選ぶように、彼はゆっくりと続ける。
「でも、あれから何度も僕があなたに触れました。これからも、何度でも触れるでしょう。そうやって少しずつ、あの記憶の上に、別の温もりを重ねていけたら……上書きできるかもしれないと思うんです」
アランは何も言わなかった。
ただ、静かに頬を彼の胸に寄せる。
その仕草が答えのように感じられた。
レギュラスは、彼女の背をゆっくりと撫でる。
指先が肩から腰へと流れ、震えを鎮めるように、何度も優しくなぞった。
その体温を確かめるたびに、胸の奥の痛みが増していく。
守り抜けなかった後悔。
救いきれなかった自責。
それでも、いまこうして彼女がここにいて、自分の腕の中にいるという現実が、唯一の救いだった。
「大丈夫です、アラン。もう誰もあなたに触れさせない」
彼の声は掠れていた。
夜の静寂の中、その声だけが確かに響いていた。
アランはわずかに頷いた。
まぶたを閉じたその表情は、痛みの底で、ほんの少しだけ安らぎを取り戻しているように見えた。
レギュラスはその姿を見つめながら、腕の力を少しだけ強めた。
もう二度と離すまいと、心の奥で誓いながら。
薄明の光がカーテンの隙間から差し込み、二人を包んでいた。
その柔らかな光の中で、過去の影がほんの少しだけ遠ざかっていく気がした。
闇市の噂は、いつも煙のように掴みづらい。
ひとたび手を伸ばせば霧散し、残るのはかすかな匂いと、耳の奥に残るざらついた声だけ。
だがその夜、ジェームズ・ポッターのもとに届いた報告は、長く途絶えていた線を再び繋ぐものだった。
――ブラック家付き医務魔女、サラ・モーリン。
五年ぶりに市場で目撃。
魔法省の裏通り、夜更けのダイアゴン横丁。
白く霞む街灯の下で、黒い外套を羽織った女が、不審な木箱を二つ抱えて歩いていた。
箱には魔法薬の封印紋があるが、刻印は剥がされ、識別呪文も反応しない。
正規の流通経路を外れた危険な薬――違法魔法薬の証だった。
追跡班が影のように距離を取って尾けたが、サラはその一角にある古い店――「モーリンダスト薬草舗」の裏口から姿を消した。
数分後、店主らしき男が現れ、客に見せるような笑みを浮かべて帳簿を閉じる。
何事もなかったかのような静けさ。
だが、その直後、店の裏からは明らかに強い魔力の痕が検知された。
試薬の匂いと、金属を溶かすような刺激臭。
そして、それを覆うために焚かれたのだろう、ローズマリーの香りが辺りに漂っていた。
ジェームズは、報告書を閉じる指先に力を込めた。
――また動き出した。
それは確信に近かった。
あの女は、長い沈黙のあとに必ず現れる。
しかも、何かを「作る」時だけだ。
机の上に広げた魔法地図の上に、いくつかの線を描く。
それらは、これまでサラが姿を見せた地域――そして、ブラック家が所有する別荘や領地のある場所と奇妙に重なっていた。
「まるで、何かを運んでいるみたいだ……」
思わず漏れた呟きは、薄い空気に溶けて消える。
違法魔法薬。
サラ・モーリンが過去に取引していた薬は、単なる快楽薬や治療促進の類ではなかった。
記憶の改変、精神の沈静、魔力の波を抑制する――どれも危険で、制御を誤れば命を落とす。
しかもそれらの薬は、長期的な使用によって人格や記憶に深刻な副作用を及ぼす可能性がある。
もし、その薬を必要としているのが――アラン・ブラック本人だとしたら。
ジェームズはペンを握る手を止めた。
その仮説を頭から否定できなかった。
むしろ、近頃のアランの動向を思い返すほどに、その可能性は現実味を帯びてくる。
体調不良による公の場の欠席、社交の場への顔見せの減少、そして――
何より、彼女の周囲を漂う、あの言葉にできない沈み。
まるで薄い膜に包まれたような静けさ。
薬で支えられている命――そうとしか思えないほどの儚さがあった。
もしもそれが真実であるなら、そこから糸を引けば、レギュラス・ブラックにも確実に辿り着ける。
彼が全く関与していないとは考えづらい。
いや、もしかすると――彼さえも、妻の行いを知らぬままなのかもしれない。
「だが、どちらにしても行き着く先は同じだ」
ジェームズは呟きながら、指先で地図の一点――「ブラック家本邸」を軽く叩いた。
アランが崩れれば、レギュラスも道連れになる。
そこからデスイーター残党の裏を暴ける可能性がある。
一族を守るために、どんな闇にでも足を踏み入れた女。
使用人の出でありながら、ブラック家の正妻にまで上り詰めたあの女。
その執念としたたかさは、ジェームズ自身も一目置いていた。
だが同時に――あの女の沈黙こそが、レギュラスを守っている防壁であることも、誰より理解していた。
彼女が倒れれば、すべてが崩れる。
ブラック家の均衡も、魔法界の秩序さえも。
ジェームズは深く息を吐いた。
窓の外では夜明けが近い。
東の空が白みはじめ、
冷たい光が机の上の書類を照らす。
「……アラン・ブラック。
あなたを、法廷に立たせる」
その決意は冷たく、それでいて静かな炎のように燃えていた。
夜の帳が降りたブラック家の廊下は、音を呑み込むように静まり返っていた。
ランプの灯りが壁に淡く揺れ、金糸の縁取りを持つ絨毯の上を、ひとりの男が迷うように歩いていた。
レギュラス・ブラック――その足取りにはいつになく迷いがあった。
いつもなら、一つの命令、一つの判断に一片の淀みも見せない彼が、今はまるで霧の中を進むような足取りでいた。
騎士団からの報せは、あまりにも突然だった。
アラン・ブラック、並びに医務魔女サラ・モーリンが、違法魔法薬の取引の線上にあるという。
金の流れも、証拠も、すでに掴まれている。
耳にした瞬間、世界がぐらりと傾いたような気がした。
信じられない。――いや、信じたくない。
「……そんな、馬鹿な」
低く、誰にも届かない声が唇から漏れた。
それでも頭の中では、次々に“思い当たる節”が鎖のように繋がっていく。
屋敷の金庫の動き。
いつもより高額な出費。
“教育費”という名目でリディアの周囲に増え続ける家庭教師や侍女たち。
アランが最近になって求めた“医務魔女サラへの報酬増額”――あの時も、疑いなど微塵も持たなかった。
「……全部、繋がっていたのか」
小さく息を吐く。
掌が震えていた。
それは怒りではなかった。
恐怖だった。
このままでは、アランが――魔法法廷に連行される。
あの純白の法廷に、被告人として座らされ、
裁判官たちの前で“ブラック家の正妻”として糾弾される姿など、想像したくもなかった。
机に手を突く。
硬い木の感触が掌に食い込み、思考の渦を無理やり押し止めた。
思い返せば、アランの体調は少しずつ変化していた。
夜中に寝室を掃除し始める奇妙な習慣。
長すぎる入浴時間。
そして――夜の営みの時、これまでとは違う彼女の熱。
あの時、喜びの裏で、どこか引っかかる違和感があったのを覚えている。
けれど、妻が自らを求めてくれることに浮かれ、その理由を深く考えようとはしなかった。
「僕の愛を取り戻してくれたのだ」と、愚かにも思っていたのだ。
けれど、それがもし――薬による副作用の一部だったのだとしたら。
胸の奥に冷たい刃が突き立ったようだった。
信頼していた時間が、一瞬で崩れていく音がした。
自分が見てきた幸福は、幻影だったのか。
いや、違う。
アランはきっと、自分の体を保つために、薬に頼るしかなかったのだ。
「……守らなければ」
呟きは低く、震えていた。
アランが魔法法廷に引きずり出されれば、
そこからブラック家への追及は必ず及ぶ。
彼女を罪に問うことは、すなわち“レギュラス・ブラックが何を隠してきたか”を暴かれることに等しい。
だが――それ以上に、彼女を守りたかった。
どんな手を使ってでも。
椅子を引く音が響いた。
レギュラスは立ち上がる。
その灰色の瞳には、疲労と焦燥が混じり、
それでもなお燃えるような意志の光が宿っていた。
「アランのもとへ行こう」
そう呟いて、扉の前で一瞬だけ立ち止まった。
彼の手が震える。
扉の向こうには、
過去の全てを背負い、
嘘と真実の狭間で生きる女がいる。
彼女に真実を問いただすことは、
同時に、自らの幸福を壊すことかもしれない。
けれど、それでも行かねばならなかった。
廊下を歩く靴音が、ゆっくりと響く。
長く続く絨毯の先に、
ランプの光が淡く揺れている。
闇の中、彼の背中は迷いながらも、確かに進んでいた。
夜の帳が落ち、ブラック家の寝室は深い静寂に包まれていた。
蝋燭の炎が揺れ、薄く垂れたカーテンが風に震えるたび、部屋の空気は淡い金色の波を描いた。
その光の中で、二人は向かい合っていた。
言葉を切り出すまでに、どれほどの沈黙が流れただろう。
壁に掛けられた時計の針が、ひとつひとつ、痛みのように時を刻む。
「……騎士団が、サラ・モーリンの動きを追っていたそうです」
ようやくレギュラスが口を開いた。
その声は低く、どこか慎重だった。
アランは驚いた様子も見せず、ただ両手を膝の上で静かに組んでいた。
レギュラスは彼女の表情を探る。
それでも彼女は目を上げない。
「違法魔法薬の仕入れが、騎士団に押さえられているようです」
一つ一つの言葉を確かめるように、ゆっくりと続ける。
「……まだサラを尋問したわけではありませんが、その薬の使用は――」
少し間を置いて、唇が震える。
「……アラン。あなた、なのですか」
アランは顔を上げなかった。
視線は二人の間の床に落ちたまま、微動だにしない。
ただ、その肩がわずかに震えているのを、レギュラスは見逃さなかった。
沈黙が、重く、痛いほどの答えだった。
「なぜです……」
レギュラスの声が掠れる。
問いかけながらも、答えはすでに胸の奥で形になっていた。
アランの壊れた身体。
アルタイルを産んだあの日の毒。
死の淵から奇跡のように生還して、それでも完全に回復することはなかった。
どれほどの痛みと倦怠が、日々彼女を蝕んでいたのだろう。
「ごめんなさい……」
小さな声が落ちる。
泣き声にも似たその謝罪に、レギュラスの心が軋んだ。
「期間は……どれくらいなのですか」
沈黙。
そして、震える唇から、信じがたい言葉がこぼれる。
「……十年ほど、です」
空気が止まった。
蝋燭の炎がわずかに揺れた音まで聞こえそうなほど、世界が静まり返る。
レギュラスの胸に、何かが鈍く崩れ落ちた。
十年――。
アルタイルの誕生の頃から、ずっと。
この十年、妻は薬の支えなしには生きてこられなかったのだ。
言葉が出なかった。
何も言えず、ただ息を吐き、視界の端がぼやけていく。
ベッドの端に腰を下ろすと、体の芯が抜けてしまったように、全ての力がどこかへ消えていった。
自分は何を見てきたのだろう。
何を、愛してきたのだろう。
あの笑顔を、あの柔らかな声を、どれほど本物だと信じてきたのか。
――信じてきた。
それがすべてだった。
「……すみません」
アランの声が、遠くから響くように聞こえた。
けれど、レギュラスは首を振った。
「謝らないでください」
その言葉は、哀しみよりも静かだった。
叱るでもなく、慰めるでもなく。
ただ、深く沈んだ静寂の底から、誰にも届かぬ祈りのように響いた。
「今すぐに……薬を断ってください」
レギュラスは立ち上がり、アランの前に膝をついた。
両手で彼女の頬を包み、その翡翠色の瞳を正面から見つめる。
「体から薬を抜くんです。そして――二度と、使わないと誓ってください」
アランはしばらくの間、震えるまま動かなかった。
それでも、やがて小さく頷く。
レギュラスの腕が彼女を包み込む。
冷たい肌を抱き寄せた時、胸の奥にひどく鋭い痛みが走った。
それは怒りでも、悲しみでもなかった。
ただ、
――遅すぎた。
そう痛感したのだ。
十年。
十年も傍にいながら、何も気づけなかった。
彼女の震えも、夜の沈黙も、笑顔の裏に潜む痛みも。
そのすべてを、愛だと錯覚してきた自分の愚かさが、何よりも苦しかった。
「もう大丈夫です。
僕が、全部背負います。
だから、もう苦しまないでください」
アランは何も言わず、ただレギュラスの胸に顔を埋めた。
嗚咽のような呼吸が、彼の胸元を濡らす。
レギュラスはその髪を撫でた。
抱き締めながら、心の中で何度も繰り返す。
――手遅れでも、いい。
――たとえこの先、すべてを失っても、もう彼女を一人にはしない。
窓の外では夜明けが近づいていた。
淡い光が、二人の影を床に長く伸ばしていく。
その光の中で、
レギュラスは、初めて本当の恐れを知った。
それは“失うこと”ではなく、
“気づけなかったこと”への、
どうしようもない絶望だった。
フランス、ロズィエ家の屋敷に、午後の陽が斜めに差し込んでいた。
庭園のラベンダーが淡い香りを放ち、窓越しに差し込む光が、磨き上げられた大理石の床に柔らかな模様を描いている。
その静謐な空間に、黒衣の男が立っていた。
――レギュラス・ブラック。
予期せぬ来訪だった。
使用人が名を告げた瞬間、カサンドラは手にしていた本を静かに閉じ、唇に薄く笑みを浮かべた。
「お久しぶりです、レギュラス様」
そう言って一礼した声は、かつて彼の妻であった女の響きをかすかに残していた。
レギュラスは一歩進み、礼儀正しく頭を下げる。
「お体はいかがです?」
形式的な問いだった。
それでも、声の奥にほんのわずかな柔らかさが宿っているのを、カサンドラは敏感に感じ取った。
「ええ、おかげさまで。
この土地は静かで、少しばかり退屈ですけれどね」
互いに短い挨拶を交わす。
それだけで、時間がひどく遠のいたように感じられた。
久しぶりに目にしたレギュラスは、やはりどこまでも冷ややかな美しさを纏っていた。
まるで氷の中に閉じ込められた宝石のように、完璧で、触れれば割れてしまいそうなほど。
その立ち姿、目の奥に光る冷静な理性。
――変わっていない。
けれど、もう胸の奥が熱く疼くことはなかった。
かつて、彼の愛が欲しくて、
彼の心を見つめようとして、
自らをすり減らしていた日々が確かにあった。
だが、今はもう違う。
ロズィエ家に戻ってからの毎日は、季節の移ろいと同じ速さで、穏やかに流れていく。
朝は鳥の声で目を覚まし、昼は薬草を調合し、夜は炎の灯りの中で手紙をしたためる。
この穏やかさを手に入れたことで、ようやく気づいた。
――誇りなど、捨ててよかったのだ。
ブラック家の名も、栄華も、夫の威光も。
それらを手放すことが恥であるなら、いくらでも恥を選ぶ。
あの家で息苦しく生きるより、ここで自分の呼吸を取り戻せたことのほうが、よほど尊いと思えた。
「リディアは……ずいぶんと大きくなったそうですね」
レギュラスの声が穏やかに響いた。
その響きは、かつてよりもどこか柔らかく、まるで氷の中に一滴の温もりが混じったようだった。
「ええ、あなたが娘の成長を見守ってくださっていること、心から感謝しています」
「アランが、よく面倒を見てくれています。
語学に興味を持ったようで、家庭教師をつけたのですよ。
最近は音楽にも関心を示していましてね。ピアノの前から離れようとしない」
語りながら、レギュラスの顔にはごくわずかに柔らかな表情が浮かんでいた。
父親としての誇り――それが彼の中に確かに息づいていることが分かる。
その姿を見つめながら、カサンドラはふと微笑んだ。
ああ、この人とは、きっとこうしてリディアの話をするくらいが丁度いいのだ。
愛だの赦しだのを語るより、
ただ娘の成長を語る方が、心が静かでいられる。
「……リディアが街に出ると聞きました。
嬉しそうにしているのでしょうね」
「ええ。アランがよく連れ出しているようです。
彼女の喜ぶ顔を見ると、どうしても財布の紐が緩んでしまうようで」
二人の間に、ごく短い笑いがこぼれた。
かつて愛と誤解で擦れ合った日々が、今は遠い昔話のように思える。
やがて、カサンドラはカップを静かにソーサーへ戻し、
真っ直ぐにレギュラスの灰色の瞳を見つめた。
「――それで。
レギュラス様、本題はなんでしょうか?」
その声音には、かすかな冷静さと警戒が滲んでいた。
この男がわざわざフランスまで足を運ぶなど、
娘の近況を語るためではないことなど、最初から分かっていた。
彼はいつもそうだった。
愛の言葉を囁くより、目的のために口を開く男。
一族の当主として、常に何かを計算し、何かを動かしている。
その瞳の奥に宿る打算の光を、カサンドラはよく知っていた。
レギュラスは一瞬だけ口を閉ざした。
灰色の瞳が細くなり、彼の指先が肘掛けをわずかに叩く。
「……あなたに、どうしても聞きたいことがありまして」
その声音には、かつて彼女が知っていたどのレギュラスとも違う響きがあった。
冷徹な当主ではなく、ひとりの男として、
何かを確かめに来た――そんな気配が、部屋の空気を揺らした。
カサンドラは背筋を伸ばしたまま、静かに微笑む。
その瞳は、もう恐れを知らない。
――この人が何を求めていようと、
私は、もう過去には戻らない。
窓の外では、秋の風が木々を揺らしていた。
ラベンダーの香りがふと流れ込み、
その紫の香気の中で、二人の沈黙が長く漂った。
やがて、レギュラスはその沈黙を破る。
「――アランのことです」
その言葉に、カサンドラの微笑が、ゆるやかに凍った。
ロズィエ家の客間には、午後の陽が斜めに差し込み、薄い金の帳が流れていた。
磨き上げられた黒檀のテーブルには、香り高い紅茶と銀の菓子器。
すべてが上品で完璧な静けさの中にあった。
けれど、その空気の奥底には、ひとつの亀裂が生まれつつあった。
――レギュラス・ブラックの来訪。
それは、単なる社交でも、旧友との懐旧でもなかった。
この男がわざわざフランスの地を訪れる理由など、ひとつしかない。
取引。
そして、その取引には必ず血のように冷たい現実が潜んでいる。
カサンドラは静かにカップを傾け、薄い唇を開いた。
「どういったお話でしょう?」
レギュラスはすでに彼女の前に座っていた。
その姿勢は完璧に整い、無駄のない動作でカップを持ち上げる。
指先の所作さえ、冷たい理性に磨かれているようだった。
カップの中で、琥珀色の液体がわずかに揺れる。
「……アラン・ブラックが、騎士団にマークされています」
紅茶の香りが一瞬にして苦く変わる。
カサンドラはまぶたを伏せ、息を吸い込んだ。
「ええ、以前、手紙でお伝えしました。用心されるようにと」
レギュラスの瞳がわずかに細くなる。
そのやり取りを、知らなかった――まるでそう告げるような沈黙が二人の間を渡った。
レギュラスは一度視線を逸らし、ゆっくりと紅茶を口に含んだ。
茶葉の種類など知らない。それでも、濃密で上品な香りだけは感じ取れる。
口の中で渋みが広がり、胸の奥で罪悪感と混ざり合う。
「違法魔法薬の使用で、魔法取締部に召喚されるのも……時間の問題です」
その言葉が落ちると同時に、蝋燭の炎がわずかに揺らいだ。
まるで空気そのものが、嘘を呑み込むように震えている。
「まあ……そこまで、ですか」
カサンドラの声は淡々としていた。
けれど、その瞳の奥には、感情の波が静かに蠢いていた。
レギュラスは息を整え、目の前の茶器を見つめる。
手にしたカップを、静かにソーサーに戻す音が響いた。
「そこで――お願いがあるのです」
低く、そして決意を秘めた声音だった。
この言葉を口にするまでに、どれほどの逡巡があったか。
彼は自分の中の“道徳”という名の鎧をすでに脱ぎ捨てていた。
「……カサンドラ嬢」
その名を呼ぶ声が、やけに遠くに聞こえる。
「屋敷の医務魔女――サラ・モーリンが仕入れていた違法魔法薬。
あれはすべて、あなたの指示であり……あなたの使用によるものとして、認めていただけませんか?」
沈黙。
時が止まったようだった。
外の鳥の声すら遠ざかり、ティーカップの縁から一滴の紅茶が零れる音だけが聞こえた。
カサンドラは表情を変えなかった。
ただ、長い睫毛の陰で、薄く微笑んだ。
「……驚きました」
その声は笑っているのに、まるで氷のように冷たかった。
レギュラスは視線を逸らさず、続ける。
「違法魔法薬にアランは関与していません。
医務魔女サラは、あなたの指示で動いていたという形にしたい。
フランスでの取引であれば治外法権により、魔法法の裁きは届きません。
ただ……ロズィエ家の名誉に少なからず影響が出るでしょう」
彼の声には、かすかな痛みが滲んでいた。
それが“ためらい”か“罪悪感”かは、もう自分でも分からない。
カサンドラは紅茶のカップを指先で回しながら、静かに彼を見た。
その灰色の瞳の奥に、どこか懐かしい光を探していた。
――この男は、変わらない。
冷静に、計算し、そしてどこまでも自分の正義を貫く。
まるで、それが唯一の愛の形であるかのように。
レギュラスは続けた。
「……随分と昔の話ですが、あなたか、母ヴァルブルガのどちらか――あるいは両方が関与した“毒薬”の件を、僕は知っています」
その一言で、カサンドラの指先が止まる。
「アランがアルタイルを出産する直前、盛られたものです。
そのため、お産が異常なほど長引いた。……ご記憶にありますね?」
沈黙。
けれど、カサンドラは否定しなかった。
ただ視線を落とし、ひとつ息をついた。
レギュラスは穏やかに言葉を続ける。
「昔の話ですから、それを掘り返すつもりはありません」
――掘り返すつもりはない。
そう言いながら、彼は確かに“掘り返している”。
そしてそれこそが、今回の交渉の本質であることを、カサンドラは理解していた。
つまり、“この件を表に出さない代わりに、引き受けろ”ということ。
カサンドラはゆっくりと椅子の背に身を預け、そして、微笑んだ。
その笑みは、かつて彼の傍らにいた女の、最後の誇りを宿していた。
「ええ、分かりました。
それで――罪滅ぼしになるのなら。
私が、背負いましょう」
レギュラスの瞳がわずかに揺れる。
その一瞬の揺らぎを、カサンドラは見逃さなかった。
男はゆっくりと息を吐き、そして口角を上げる。
まるで自分の中の葛藤を、静かに押し殺すように。
「感謝いたします、カサンドラ嬢」
その声は、礼儀の裏に深い疲労と痛みを滲ませていた。
窓の外では、夕刻の光が静かに沈み始めていた。
紅茶の表面に映る光が、ゆらゆらと揺れながら、やがて溶けていく。
二人の間には、紅茶の香りと、取り返しのつかない過去だけが残った。
そしてその静けさの中、
カサンドラは――もう一度、笑った。
「あなたは、ほんとうに変わらない方ですね……レギュラス様」
それは皮肉でも、愛情でもなく、
この男をもっとも深く知る者だけが口にできる、
哀しみを含んだ微笑だった。
