4章
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夜は深く、窓の外には風の唸る音だけが残っていた。
分厚いカーテンの向こうで揺れる影が、燭台の淡い炎をひとつ、またひとつと歪ませていく。
夫婦の寝室には、長い沈黙が張り詰めていた。
レギュラスはベッドの縁に腰を下ろしたまま、両手を膝の上で組んでいた。
その掌には微かな震えがある。
言葉にしようとしても、喉の奥で何かが絡まって、声にならなかった。
「……どうしました?」
アランの声が、静かにその沈黙を破る。
柔らかく、それでいて細い糸のように頼りない声音だった。
寝間着の袖口から覗く指先が、ベッドの端で小さく揺れる。
彼女の表情には、深い不安と優しさが同居していた。
レギュラスは息を吸い込み、吐き出すように言葉を落とした。
「……アルタイルが、真実を知りました」
その言葉を発した瞬間、
アランの肩がびくりと震えた。
「シリウス・ブラックのことを」
空気が、さらに重たく沈んだ。
その名を口にしただけで、胸の奥に熱い痛みが広がる。
アランは小さく息を呑み、両手を胸の前で固く握りしめた。
長い睫毛の影が頬に落ちる。
「……そう、ですか」
それだけを呟いた。
その声は、まるで祈りの終わりのように掠れていた。
レギュラスは両手を顔に当て、深く俯いた。
何をどう取り繕えばいいのか分からない。
どんな言葉を並べても、
息子との間にできた亀裂を埋められる気がしなかった。
いや、言葉など、もはや意味をなさない。
沈黙が再び戻る。
時計の針の音がやけに大きく響いた。
彼女の前では、強くあろうと思ってきた。
けれど今は――もう、限界だった。
「……僕は、どうすればいいんでしょう」
その声は、自嘲にも似ていた。
アルタイルが真実を知ったことへの恐怖よりも、
その事実を前にして、何もできない自分への絶望のほうが大きかった。
あの子を育ててきた年月が、今日一日で意味を失ってしまったように思えた。
確かに――最初は、打算だった。
アランをこの屋敷に留めるため。
シリウス・ブラックから引き剥がし、
ブラック家の未来をこの手で守るため。
そのために彼女を妻とし、生まれてくる子を“家の後継”とした。
そのはずだった。
けれど、あの子が生まれた日のことを思い出す。
初めて小さな命をこの腕に抱いた瞬間、
胸の奥が焼けるように熱くなった。
それが“誰の子”であるかなど、
どうでもよくなった。
泣き声が止んだとき、
その小さな手が自分の指を掴んだとき、
確かに思ったのだ――
この子は、自分の息子だ。
それから十数年、彼の成長を見守り、
導き、時には叱り、時には抱きしめてきた。
血の繋がりよりも深い、何かがそこにはあった。
そう信じていた。
だからこそ今、
そのすべてが否定されたようで、
どうしようもなく虚しかった。
「……あの子は、もう僕を父とは呼ばないかもしれない」
レギュラスの声が震える。
アランは静かに立ち上がった。
裸足のまま床を踏みしめ、レギュラスの隣に座る。
その横顔に、柔らかな光が差した。
彼女は、ゆっくりと手を伸ばし、
レギュラスの頬に触れた。
「レギュラス……」
呼ばれた名前の響きが、
ひどく優しくて、ひどく痛かった。
「――あの子の父親は、あなたです」
アランの声は、静かでありながらも揺るぎなかった。
レギュラスは顔を上げ、彼女を見た。
「あなたがいたから、私はアルタイルを無事に産めました。
そして、ここまで育てることができました。
あなたと共に過ごした十数年、
あの子を育ててきた年月は、どんな事実にも揺るぎません」
その言葉が、
深く、胸の奥へと染み込んでいく。
レギュラスは、思わず息を呑んだ。
こみ上げてくるものを、抑えられなかった。
喉の奥が震え、視界が滲む。
――こんなにも、優しい人だった。
アランのまなざしには、
責める色は一つもない。
悲しみも、憎しみも、そこにはなかった。
ただ静かな赦しだけがあった。
シリウスのもとで生きる未来を、
彼女は確かに望んでいたはずだ。
けれどその夢を断たれたあとも、
彼女は自分を責めず、恨まず、
“この場所”で生きることを選んだ。
その強さが、痛いほどに美しかった。
レギュラスは、
ようやく言葉を失ったままの妻の手を握る。
小さく震えるその手が、確かな温もりを伝えてくる。
「……ありがとう」
ようやく絞り出せた言葉だった。
涙が頬を伝い、アランの手に落ちた。
その夜、二人は灯を落としたまま、
長い沈黙の中で互いの手を離さなかった。
何も言葉にしなくても、
その沈黙が、かつての絆をわずかに繋ぎとめていた。
けれど、どこかで分かっていた。
この夜を境に、すべてが少しずつ変わっていくことを――。
朝の光は、いつもより静かに落ちていた。
食堂の大理石の床には、薄く差し込む陽が縁取るように光の筋を描いている。
磨き上げられた銀器が淡く反射し、
いつもなら上品な食事の時間を告げるはずのその輝きさえ、
今朝はどこかひんやりとした色をしていた。
テーブルの上には湯気を立てるスープ、香ばしいパン、
そして切り分けられた果実が並べられている。
だが、それらを味わう者の心はどこか遠くにあった。
レギュラスは、カップに注いだ紅茶の表面を見つめていた。
視線を少し上げれば、
対面に座る息子の姿が見える。
だが、その息子――アルタイルは、
まるで自分の方を見ないようにしているのが痛いほど分かった。
彼の黒髪が朝の光を受けて艶めく。
その顔立ちには、かつてのシリウスを思わせる面影が混じっていた。
それを見るたびに胸の奥が微かに疼く。
沈黙に耐えかねたように、
レギュラスはカップを置き、
ゆっくりと息を吸い込んだ。
「……アルタイル、昨日はすみません」
一言一言を慎重に選ぶような口調だった。
できる限り、父としての威厳ではなく、
一人の男としての誠意を込めようとした。
アルタイルは少し顔を上げ、
その灰色の瞳をわずかに揺らした。
けれど、目を合わせることはなかった。
「いえ……僕のほうこそ。無礼でした」
それはあまりにも形式的で、
あまりにも距離のある返事だった。
その響きに、レギュラスの胸の奥が小さく軋む。
――届かない。
言葉が、まるで氷の壁に遮られているかのようだった。
そのとき、
アランが匙を静かに皿の上に置いた。
金属の軽い音が、静寂を破って響いた。
その小さな音ひとつで、
二人の視線が一斉に彼女に向けられる。
アランは背筋を正し、
息を整えてからゆっくりと口を開いた。
「アルタイル」
その声には、叱責ではなく祈りがあった。
澄んだ翡翠の瞳が、まっすぐに息子を見つめている。
「あなたがホグワーツで何を見聞きしたのかは分かりません。
けれど、あなたが生まれる瞬間、
誰よりも母を案じ、
あなたの誕生を喜んだ人が、
今、あなたの目の前にいる――レギュラス・ブラックです」
その一言で、アルタイルの喉が震えた。
呼吸を忘れるほどだった。
アランは続けた。
「産後、あなたを抱くことすら叶わずに伏せった母に代わり、
夜ごとあなたをあやし、
泣き止むまで抱いていたのもこの人です。
何も持たない母を妃の位に据え、
あなたの存在を守り通した人も、
他の誰でもなく、レギュラス・ブラックです。
そのことの意味を――今一度、思い出してくださいね」
言葉のひとつひとつが、
柔らかいのに、心の奥深くへ鋭く沁みこんでいく。
アルタイルは動けなかった。
ただ、母の声を聞いていた。
喉の奥が熱くなり、視界が揺れる。
レギュラスは静かに下を向いたまま、
アランの言葉を聞いていた。
何も言えない。
ただ、その声があまりにも優しく、
それがかえって胸に刺さった。
「……はい、母さん」
やっとのことで声を絞り出したアルタイルは、
小さく頷いた。
「ちゃんと分かっています。
僕は、父さんがいたから今の僕があるんです」
言いながらも、唇が震えていた。
その声には確かな感謝と、拭いきれぬ痛みが混ざっていた。
アランはふっと微笑む。
「そうです。それは、母も同じです」
彼女は手を膝の上で重ね、静かに続けた。
「とうの昔に息絶えていてもおかしくなかった命を、あなたの父が救ってくれました。
だから今、あなたの目の前でこうして食事ができているのです」
その言葉に、
アルタイルの胸がぎゅっと締めつけられた。
視線が皿の上に落ちる。
ナイフの刃が朝の光を淡く返していた。
――何も言えなかった。
母の言葉は、あまりにも温かく、
それがかえって苦しかった。
「……母さん……」
小さく呟き、俯いたまま唇を噛む。
指先が震えていた。
アランはそれを見つめながら、
そっと手を伸ばして息子の背を撫でた。
レギュラスは黙ってその様子を見つめていた。
何かを言おうと口を開きかけたが、
結局、何も言えずに閉じた。
――赦しとは、
こんなにも静かで、こんなにも痛いものなのか。
朝の光が、テーブルの上を満たしていく。
けれどその温かさは、
三人の胸の中に溜まった冷たい痛みを、
溶かすにはまだ足りなかった。
ただ、彼らはそれでも同じ食卓を囲んでいた。
家族として――
わずかな希望を、まだ手放さぬままに。
陽がまだ柔らかな金色を帯びている。
窓辺にかけられたレースのカーテンが、朝風にそよいでかすかに揺れた。
机の上には整えられた書簡と、重厚な指輪。
これからまた任務へ向かうための支度を、アランが淡々と手伝っていた。
静かな時間だった。
暖炉の火が消えかけ、代わりに朝の光が部屋を満たしている。
硝子細工のように繊細な空気の中で、
アランの指先がレギュラスの袖口に触れる。
カフスを留めるその仕草は、もう十数年も続けてきた日常のひとつだった。
それなのに、今朝はなぜか、
その指の温もりひとつひとつが心に刺さるように痛かった。
レギュラスは静かに息を整え、
アランの髪越しにその横顔を見つめた。
「……アラン、さっきの言葉ですが」
アランは手を止め、わずかに顔を上げた。
翡翠の瞳が、朝の光を受けて淡く光る。
「すごく……救われました」
その声はかすかに震えていた。
まるで、ようやく息ができた人のような声音だった。
アランは驚いたように瞬きをした。
けれど何も言わず、ただ次のカフスを指先で留める。
銀色の留め具が、光を受けてひときわ鮮やかに輝いた。
レギュラスは静かに続ける。
「まさか、あんなふうに……
あなたの口から、息子にあの言葉が出る日が来るなんて思いませんでした」
言葉を紡ぎながら、彼は自分の胸の内を確かめるように呼吸をした。
――あの場で、アランが語った言葉。
それはまるで赦しそのものだった。
アルタイルがシリウスの子であることを、
アランは心のどこかで大切に抱いているのだと、ずっと思っていた。
だからこそ、自分が“父”として振る舞うことを、
彼女はどこかで否定的に感じているのではないかと。
“あなたは違う”――
その冷たい線がいつか引かれるのではないかと、
いつも怯えていた。
だがあの食卓で、アランは息子に向かって確かに言った。
“あなたの父はレギュラス・ブラックです”と。
その瞬間、長い年月の重みが溶け落ちるように、
心の奥で何かが崩れ、そして救われた。
あの言葉を聞いた時、
これまでの十数年――
彼女の隣で積み上げてきた日々、夜ごと抱きしめてきた小さな命、
そして見守ってきた成長のすべてが、
確かな意味を持ったのだと思えた。
それが、ただの錯覚ではなく、
“現実”として赦されたのだと。
アランは彼の胸元に手を伸ばし、
整えかけていたネクタイをそっと結んだ。
白い指が黒の布地を滑り、
結び目がきゅっと締まる音がした。
「当然です」
アランは小さく微笑んだ。
その微笑みは、春の陽だまりのように穏やかだった。
「アルタイルの父は、あなたです。
胸を張ってください」
きゅ、と最後の結びを整える指先の感触と同時に、
レギュラスの胸の奥が締めつけられた。
まるで、ネクタイの結び目が心臓を縛り上げたようだった。
痛みと同時に、溢れ出すほどの愛しさが押し寄せてくる。
彼は目を閉じ、
ゆっくりとその場に立ち尽くした。
「……ありがとう、アラン」
ようやく絞り出せた声は掠れていた。
アランは何も答えず、ただ彼の胸元の皺を指で整え、
軽く頷いた。
レギュラスはその仕草を見つめながら、
――この人がいたから、自分はここまで壊れずにいられたのだと、
改めて痛感していた。
窓の外では、一羽のカラスが鳴いた。
任務へ向かう朝は、再び始まる。
けれど今朝だけは、
その出立が、どこか穏やかで、静かな幸福を帯びていた。
レギュラスはドアを開ける前に、もう一度だけアランを見つめた。
魔法新聞の一面を飾ったのは、黒々とした見出しだった。
――「闇の帝王、完全復活」
その文字が、まるで燃え上がるように紙面に滲み、
読む者の心にじわりと冷たい恐怖を沁み込ませた。
街角では新聞を広げる魔法使いたちがざわめき、
魔法省の回廊には緊張した足音が響いていた。
笑い声も囁き声も消え失せ、
そこにあったのはただ――不吉な沈黙だった。
危険物管理局の一室。
分厚い石壁に囲まれたその部屋で、レギュラス・ブラックは机に向かって書類に印を押していた。
外の騒ぎを知らぬふりをし、淡々と仕事をこなす。
羽ペンの先が滑る音だけが、時計の針の音と交互に響いている。
――何も知らないふり。
それが、彼の生き残る術だった。
けれどその静寂は、不意に破られる。
重い扉が開き、数人の足音が室内に響いた。
「レギュラス・ブラック」
ジェームズ・ポッターの声だった。
その後ろには、リーマス・ルーピン、そして――シリウス・ブラック。
さらに数名の騎士団員たちが並び、冷ややかな視線を彼に注いでいた。
ジェームズが一枚の羊皮紙を掲げる。
それは、淡い金の封印が施された捜査礼状だった。
「君に、取り調べの許可が下りた。
少し、話を聞かせてもらいたくてね」
声は穏やかだが、目の奥にあるのは鋭い追及の光。
レギュラスは静かに立ち上がり、
書類を一つにまとめて机の端へ寄せた。
「……なんでしょうか」
その一言が終わるか終わらないうちに、
シリウスが一歩前へ出た。
「てめぇ――」
低く唸るような声だった。
「アルタイルの父親ヅラしてんじゃねえ。名乗れると思うなよ」
その目には、燃え盛る怒りがあった。
十数年、胸の奥に押し込めてきた憎悪と後悔と嫉妬が、
一気に溢れ出たようだった。
「落ち着くんだ、シリウス」
リーマスが制止する。
「今はその件じゃない」
シリウスは歯を食いしばり、視線を逸らした。
レギュラスは無言のまま、その怒りを受け流す。
表情は一切変えない。
その沈黙が、逆に彼の余裕を物語っていた。
ジェームズが一歩進み出る。
羊皮紙の端を指で叩きながら、静かに口を開いた。
「ホグワーツで行われたトーナメント。
そこで使われた優勝杯――あれがポートキーにされていた。
そしてその先、墓地の遺跡で検出された魔力の痕跡に、
君の魔力の性質が残っていた」
部屋の空気が一瞬で冷え込む。
レギュラスは眉一つ動かさず、
椅子を勧められるままに腰を下ろした。
手を組み、静かに言葉を待つ。
ジェームズは続ける。
「騎士団の追跡魔法で、現場にいたデスイーターたちはある程度特定されている。
――その中に、君の名が浮かび上がった」
沈黙。
レギュラスの灰色の瞳が、ゆっくりとジェームズを見据える。
その眼差しには、恐れの色がまるでない。
ジェームズは一枚の記録紙を机の上に広げた。
「単刀直入に聞こう。
君はあの日、ヴォルデモートの配下として墓地にいた。
そして、我々――闇払い部隊と交戦した。
その認識で間違いないか?」
静寂が落ちる。
蝋燭の炎が一度揺れ、
誰かの息を飲む音が響いた。
だがレギュラスは――微笑んだ。
その笑みは挑発的でもあり、どこか誇り高くもあった。
ゆっくりと身を乗り出し、
両手を組んでテーブルの上に置く。
「息子の魔力に、大きな揺らぎを感じたのです」
淡々とした声。
感情の起伏がまるでない。
「感知呪文で、未成年の魔力の乱れを察知しました。
……心配になりましてね。
その匂いを追って、辿り着いた先が――あの墓地だったのです」
シリウスが眉をひそめた。
リーマスが腕を組み、ジェームズが無言で続きを促す。
「辿り着いたときには、すでに誰もいませんでした。
……息子の安全を確かめるため、それだけのことです。
その後、彼にはすぐに屋敷へ戻るよう手紙を出しましたが――
まあ、反抗期ですから。帰ってはきませんでした」
小さく肩をすくめ、
「無事であったことに、ただ安堵しています」と付け加えた。
完璧だった。
どこにも綻びがない。
その口調も、表情も、息遣いまでもが。
「親であれば――
息子の魔力の揺らぎを感じ取れば、
居ても立ってもいられなくなるのは当然でしょう?」
その一言に、ジェームズは目を細めた。
シリウスが今にも噛みつきそうな顔で睨みつけている。
「嘘だ……貴様が――」
「シリウス」
リーマスが低く制した。
レギュラスはそのやり取りを一瞥し、
再びジェームズへと視線を戻す。
「――どうぞ。お好きに調べてください。
証拠は、すべてそちらの手の中にあるのでしょう?」
口元にわずかな笑みが浮かぶ。
ジェームズは紙を折りたたみながら、
「なるほど。そういう逃げ方をするわけか」と呟いた。
「逃げる?」
レギュラスはわずかに首を傾げた。
「逃げるも何も……
証拠というものは、常に事実を語るはずでは?」
まるで詩人が皮肉を編むように、
その声音は落ち着いていた。
――挑発的でありながら、美しかった。
レギュラス・ブラック。
闇と光の狭間に立つ男の微笑みは、
どこまでも冷たく、
そして――底知れぬ静けさを湛えていた。
取り調べが終わり、魔法省の部屋の中には重たい沈黙が落ちていた。
長机の上には、書類と封印済みの記録紙が散らばっている。
カーテンの隙間から射し込む光が埃を照らし、
それがまるで、過去の影までも浮かび上がらせるかのようだった。
ジェームズが羊皮紙をまとめ、
「これで取り調べは以上だ」とだけ言って、
レギュラスに視線を送る。
レギュラスは静かに頷き、
まるでその場の空気の重さを感じていないように、
いつものように整然とした姿勢のままだった。
だが――。
ジェームズたちが片付けを終えようとしたその時、
椅子を軋ませて立ち上がる音が響いた。
シリウスだった。
その顔には、怒りと悲痛が入り混じった色が濃く滲んでいる。
拳が震えていた。
「てめぇ……」
低く押し殺した声。
次の瞬間には、爆ぜるような怒号が室内を揺らした。
「てめぇ、アルタイルに何をさせようとしてやがる!
アイツは――俺の子だ!
絶対に、お前の好きにはさせねぇ!」
その声には、激情だけでなく、
十数年分の後悔と、奪われた時間の痛みが混じっていた。
机の上に置かれたインク壺が、怒声の響きにわずかに震える。
リーマスが即座にシリウスの腕を掴む。
「落ち着くんだ、シリウス!」
しかし、シリウスの怒りは簡単には収まらなかった。
その瞳には涙に似た光が宿り、
まるで心の奥底が燃え尽きるようだった。
レギュラスはそんな兄の姿を、ただ冷ややかに見つめていた。
表情には一切の動揺がない。
静かに組んだ手をテーブルに置いたまま、
涼やかな声音で言葉を紡ぐ。
「アルタイル・ブラックは、
このブラック家で十二年間、
私が育て上げてきました」
声には余裕があり、どこまでも落ち着いていた。
「多感な年齢の息子を――
あまり刺激なさらないでいただけますか?」
淡々と、それでいて鋭く。
その物言いが、まるで鋼の刃のようにシリウスの胸を抉った。
「てめぇが……!」
シリウスの声が震える。
「てめぇが、俺たち親子を――
俺とアランを、バラバラにしたんだ!」
その叫びは、長い年月を超えて溢れ出たものだった。
取り戻せなかった過去。
叶わなかった未来。
抱き締めることさえ許されなかった我が子の記憶。
――あの夜、あの女を連れ去らなければ。
――この男さえいなければ。
胸の奥に沈んでいた後悔が、今ようやく言葉になった。
シリウスの瞳に滲む光は、怒りだけではなかった。
痛みだった。
彼が人生で最も愛した人を奪った男が、
今、目の前で何事もなかったように息をしている。
それが許せなかった。
レギュラスは、そんな兄の激昂を受けてもなお、
眉一つ動かさなかった。
やがて、口角がゆっくりと上がる。
「シリウス」
その声は驚くほど静かで、冷たかった。
「一つ、勘違いしているようですよ」
灰銀色の瞳が、細く愉悦に滲む。
薄闇の中で、笑みが形を成す。
「アランが――自分で選んだのです。
僕の隣を」
その瞬間、空気が切り裂かれたようだった。
シリウスの顔から血の気が引き、
握りしめた拳が白くなるほど力がこもる。
「……てめぇ、ふざけんなよ」
怒声が響いた。
椅子が倒れ、机が大きく揺れる。
シリウスがレギュラスに殴りかかろうとした瞬間、
ジェームズが慌てて彼の腕を掴み、リーマスも肩を押さえた。
「やめるんだ、シリウス!」とリーマス。
「君が不利になる!」とジェームズ。
それでも、シリウスは歯を食いしばって前に出ようとする。
瞳には涙と怒りが滲んでいた。
レギュラスは、そんな兄の姿を見つめながら、
声を押し殺すように笑った。
低く、冷たく、心の奥底を掻き回すような笑い。
その音は、誰の耳にも不快なほど静かで、
まるで深い闇の底から湧き上がるようだった。
――勝者の笑み。
それは、兄を嘲るようでもあり、
同時に、自分自身を納得させるための嘲笑でもあった。
シリウスの胸に、その笑いがこびりつく。
どんなに離れようとも、
その声が耳の奥で鳴り続ける気がした。
もう、戻れない。
かつて兄弟だった二人の間にあったものは、
今や完全に――砕け散っていた。
ホグワーツの午後は穏やかで、
古い石造りの回廊を金色の光が斜めに差し込んでいた。
遠くでは生徒たちの笑い声が響き、
湖の方からは春の風がほのかに湿った香りを運んでくる。
アルタイルは中庭の古い噴水の縁に腰をかけていた。
その向かいに立つ黒髪の男――シリウス・ブラック。
自由奔放な笑みを浮かべ、
まるで若き日のグリフィンドールの象徴そのもののように光を纏っていた。
彼がホグワーツに顔を出すようになって、
もう幾度目になるだろうか。
授業の合間や放課後の空き時間に、ふらりと現れては、
「ちょっと散歩しようぜ」と軽く手を振る。
その誘い方がいかにも彼らしくて、
アルタイルはいつも胸の奥が温かくなるのを感じていた。
――まるで、離れていた時間を埋めるように。
彼はそうしてアルタイルと過ごす。
ホグズミードでバタービールを飲みながら笑い合ったり、
夜の天文塔から星空を眺めたり。
そのたびに、少年の心はほぐれ、
父と過ごすという行為の意味を少しずつ知っていった。
だが同時に――その幸福が、
屋敷にいるレギュラス・ブラックへの裏切りのようにも思えて、
アルタイルの胸にはいつも少しの痛みが走った。
あの荘厳な屋敷で、
厳格で、それでいてどこまでも静かに愛を注いでくれる父。
その姿を思い浮かべるたびに、
自分がここにいることが、彼を傷つけているような気がしてならなかった。
シリウスが、そんな彼の心の揺らぎを感じ取ったのだろう。
ふと、真面目な顔で口を開いた。
「アルタイル……もしもだ、その……」
言葉を探すように視線を宙に彷徨わせ、
息を整えてから続けた。
「一緒に暮らしたいって、思ってくれるなら……」
その続きを聞くまでもなく、
アルタイルの胸の奥で何かが弾けた。
――“一緒に暮らさないか”。
その一言は、まるで魔法だった。
心の底からじんわりと温かさが広がる。
胸の奥がくすぐったく、
涙が出そうになるほど嬉しかった。
自分は、愛されている。
無条件に、ただ存在しているだけで愛されている。
その実感が、アルタイルの中で小さな炎となって灯る。
シリウスの笑顔は太陽のようだった。
照らされた心が溶けていくように、
彼はただその場に立っているだけで、
全ての闇を遠ざけてくれるように思えた。
その時、ふと理解した。
――母はきっと、この人のこういうところが好きだったのだと。
目の前の男の中に、
かつてアランが恋をした理由が見えた気がした。
温かさ、包容、そして自由。
アルタイルは知らず、胸の奥で微笑んだ。
「シリウス……僕は、まだ屋敷を出ることはできない。
だけど……時々、遊びに行きたい」
少し照れながらそう告げると、
シリウスは目を細め、にやりと笑った。
「いいんだ。どっちを取れとか、そういうことじゃねぇ。
お前が来たい時に来る。それで、全然いいんだ」
彼の声は柔らかく、
それでいて心の奥に力をくれるような温度を帯びていた。
「……うん。いっぱい冒険に連れ出してほしい」
「任せろ。冒険なら、俺の得意分野だ」
二人の笑い声が、中庭に溶けていった。
空には雲ひとつなく、
水面には太陽の光が無数の粒となって踊っている。
アルタイルは、そっと目を閉じた。
――まっすぐに、どこまでも光の中を歩かせてくれそうな人。
それがシリウスだった。
けれど同時に、
あの屋敷の中で、自分を守り、教え、導いてくれたのも、
またもう一人の“父”――レギュラス・ブラックだった。
彼は闇を纏うように静かで、
けれど、その手は常に温かかった。
教養も誇りも、気品も――
どこの貴族と並んでも引けを取らない威厳。
そのすべてをもって、彼は息子を育ててくれた。
アルタイルは知っていた。
それもまた、本物の愛であることを。
だからこそ――まだ選べなかった。
どちらの手を取るのか。
どちらを「父」と呼ぶのか。
その答えは、まだ自分の中に形を持たなかった。
ただ確かなのは、
この瞬間、目の前にいるシリウスの笑顔が、
心の奥を照らしているということだけ。
陽光にきらめく銀灰色の瞳が、
まるで遠い未来を映すように輝いていた。
アルタイルはそっと呟く。
「父さん……ありがとう」
その声は風に溶け、湖の方へと流れていった。
そしてその笑顔の奥で、彼の胸には――
ふたつの光が、確かに共存していた。
分厚いカーテンの向こうで揺れる影が、燭台の淡い炎をひとつ、またひとつと歪ませていく。
夫婦の寝室には、長い沈黙が張り詰めていた。
レギュラスはベッドの縁に腰を下ろしたまま、両手を膝の上で組んでいた。
その掌には微かな震えがある。
言葉にしようとしても、喉の奥で何かが絡まって、声にならなかった。
「……どうしました?」
アランの声が、静かにその沈黙を破る。
柔らかく、それでいて細い糸のように頼りない声音だった。
寝間着の袖口から覗く指先が、ベッドの端で小さく揺れる。
彼女の表情には、深い不安と優しさが同居していた。
レギュラスは息を吸い込み、吐き出すように言葉を落とした。
「……アルタイルが、真実を知りました」
その言葉を発した瞬間、
アランの肩がびくりと震えた。
「シリウス・ブラックのことを」
空気が、さらに重たく沈んだ。
その名を口にしただけで、胸の奥に熱い痛みが広がる。
アランは小さく息を呑み、両手を胸の前で固く握りしめた。
長い睫毛の影が頬に落ちる。
「……そう、ですか」
それだけを呟いた。
その声は、まるで祈りの終わりのように掠れていた。
レギュラスは両手を顔に当て、深く俯いた。
何をどう取り繕えばいいのか分からない。
どんな言葉を並べても、
息子との間にできた亀裂を埋められる気がしなかった。
いや、言葉など、もはや意味をなさない。
沈黙が再び戻る。
時計の針の音がやけに大きく響いた。
彼女の前では、強くあろうと思ってきた。
けれど今は――もう、限界だった。
「……僕は、どうすればいいんでしょう」
その声は、自嘲にも似ていた。
アルタイルが真実を知ったことへの恐怖よりも、
その事実を前にして、何もできない自分への絶望のほうが大きかった。
あの子を育ててきた年月が、今日一日で意味を失ってしまったように思えた。
確かに――最初は、打算だった。
アランをこの屋敷に留めるため。
シリウス・ブラックから引き剥がし、
ブラック家の未来をこの手で守るため。
そのために彼女を妻とし、生まれてくる子を“家の後継”とした。
そのはずだった。
けれど、あの子が生まれた日のことを思い出す。
初めて小さな命をこの腕に抱いた瞬間、
胸の奥が焼けるように熱くなった。
それが“誰の子”であるかなど、
どうでもよくなった。
泣き声が止んだとき、
その小さな手が自分の指を掴んだとき、
確かに思ったのだ――
この子は、自分の息子だ。
それから十数年、彼の成長を見守り、
導き、時には叱り、時には抱きしめてきた。
血の繋がりよりも深い、何かがそこにはあった。
そう信じていた。
だからこそ今、
そのすべてが否定されたようで、
どうしようもなく虚しかった。
「……あの子は、もう僕を父とは呼ばないかもしれない」
レギュラスの声が震える。
アランは静かに立ち上がった。
裸足のまま床を踏みしめ、レギュラスの隣に座る。
その横顔に、柔らかな光が差した。
彼女は、ゆっくりと手を伸ばし、
レギュラスの頬に触れた。
「レギュラス……」
呼ばれた名前の響きが、
ひどく優しくて、ひどく痛かった。
「――あの子の父親は、あなたです」
アランの声は、静かでありながらも揺るぎなかった。
レギュラスは顔を上げ、彼女を見た。
「あなたがいたから、私はアルタイルを無事に産めました。
そして、ここまで育てることができました。
あなたと共に過ごした十数年、
あの子を育ててきた年月は、どんな事実にも揺るぎません」
その言葉が、
深く、胸の奥へと染み込んでいく。
レギュラスは、思わず息を呑んだ。
こみ上げてくるものを、抑えられなかった。
喉の奥が震え、視界が滲む。
――こんなにも、優しい人だった。
アランのまなざしには、
責める色は一つもない。
悲しみも、憎しみも、そこにはなかった。
ただ静かな赦しだけがあった。
シリウスのもとで生きる未来を、
彼女は確かに望んでいたはずだ。
けれどその夢を断たれたあとも、
彼女は自分を責めず、恨まず、
“この場所”で生きることを選んだ。
その強さが、痛いほどに美しかった。
レギュラスは、
ようやく言葉を失ったままの妻の手を握る。
小さく震えるその手が、確かな温もりを伝えてくる。
「……ありがとう」
ようやく絞り出せた言葉だった。
涙が頬を伝い、アランの手に落ちた。
その夜、二人は灯を落としたまま、
長い沈黙の中で互いの手を離さなかった。
何も言葉にしなくても、
その沈黙が、かつての絆をわずかに繋ぎとめていた。
けれど、どこかで分かっていた。
この夜を境に、すべてが少しずつ変わっていくことを――。
朝の光は、いつもより静かに落ちていた。
食堂の大理石の床には、薄く差し込む陽が縁取るように光の筋を描いている。
磨き上げられた銀器が淡く反射し、
いつもなら上品な食事の時間を告げるはずのその輝きさえ、
今朝はどこかひんやりとした色をしていた。
テーブルの上には湯気を立てるスープ、香ばしいパン、
そして切り分けられた果実が並べられている。
だが、それらを味わう者の心はどこか遠くにあった。
レギュラスは、カップに注いだ紅茶の表面を見つめていた。
視線を少し上げれば、
対面に座る息子の姿が見える。
だが、その息子――アルタイルは、
まるで自分の方を見ないようにしているのが痛いほど分かった。
彼の黒髪が朝の光を受けて艶めく。
その顔立ちには、かつてのシリウスを思わせる面影が混じっていた。
それを見るたびに胸の奥が微かに疼く。
沈黙に耐えかねたように、
レギュラスはカップを置き、
ゆっくりと息を吸い込んだ。
「……アルタイル、昨日はすみません」
一言一言を慎重に選ぶような口調だった。
できる限り、父としての威厳ではなく、
一人の男としての誠意を込めようとした。
アルタイルは少し顔を上げ、
その灰色の瞳をわずかに揺らした。
けれど、目を合わせることはなかった。
「いえ……僕のほうこそ。無礼でした」
それはあまりにも形式的で、
あまりにも距離のある返事だった。
その響きに、レギュラスの胸の奥が小さく軋む。
――届かない。
言葉が、まるで氷の壁に遮られているかのようだった。
そのとき、
アランが匙を静かに皿の上に置いた。
金属の軽い音が、静寂を破って響いた。
その小さな音ひとつで、
二人の視線が一斉に彼女に向けられる。
アランは背筋を正し、
息を整えてからゆっくりと口を開いた。
「アルタイル」
その声には、叱責ではなく祈りがあった。
澄んだ翡翠の瞳が、まっすぐに息子を見つめている。
「あなたがホグワーツで何を見聞きしたのかは分かりません。
けれど、あなたが生まれる瞬間、
誰よりも母を案じ、
あなたの誕生を喜んだ人が、
今、あなたの目の前にいる――レギュラス・ブラックです」
その一言で、アルタイルの喉が震えた。
呼吸を忘れるほどだった。
アランは続けた。
「産後、あなたを抱くことすら叶わずに伏せった母に代わり、
夜ごとあなたをあやし、
泣き止むまで抱いていたのもこの人です。
何も持たない母を妃の位に据え、
あなたの存在を守り通した人も、
他の誰でもなく、レギュラス・ブラックです。
そのことの意味を――今一度、思い出してくださいね」
言葉のひとつひとつが、
柔らかいのに、心の奥深くへ鋭く沁みこんでいく。
アルタイルは動けなかった。
ただ、母の声を聞いていた。
喉の奥が熱くなり、視界が揺れる。
レギュラスは静かに下を向いたまま、
アランの言葉を聞いていた。
何も言えない。
ただ、その声があまりにも優しく、
それがかえって胸に刺さった。
「……はい、母さん」
やっとのことで声を絞り出したアルタイルは、
小さく頷いた。
「ちゃんと分かっています。
僕は、父さんがいたから今の僕があるんです」
言いながらも、唇が震えていた。
その声には確かな感謝と、拭いきれぬ痛みが混ざっていた。
アランはふっと微笑む。
「そうです。それは、母も同じです」
彼女は手を膝の上で重ね、静かに続けた。
「とうの昔に息絶えていてもおかしくなかった命を、あなたの父が救ってくれました。
だから今、あなたの目の前でこうして食事ができているのです」
その言葉に、
アルタイルの胸がぎゅっと締めつけられた。
視線が皿の上に落ちる。
ナイフの刃が朝の光を淡く返していた。
――何も言えなかった。
母の言葉は、あまりにも温かく、
それがかえって苦しかった。
「……母さん……」
小さく呟き、俯いたまま唇を噛む。
指先が震えていた。
アランはそれを見つめながら、
そっと手を伸ばして息子の背を撫でた。
レギュラスは黙ってその様子を見つめていた。
何かを言おうと口を開きかけたが、
結局、何も言えずに閉じた。
――赦しとは、
こんなにも静かで、こんなにも痛いものなのか。
朝の光が、テーブルの上を満たしていく。
けれどその温かさは、
三人の胸の中に溜まった冷たい痛みを、
溶かすにはまだ足りなかった。
ただ、彼らはそれでも同じ食卓を囲んでいた。
家族として――
わずかな希望を、まだ手放さぬままに。
陽がまだ柔らかな金色を帯びている。
窓辺にかけられたレースのカーテンが、朝風にそよいでかすかに揺れた。
机の上には整えられた書簡と、重厚な指輪。
これからまた任務へ向かうための支度を、アランが淡々と手伝っていた。
静かな時間だった。
暖炉の火が消えかけ、代わりに朝の光が部屋を満たしている。
硝子細工のように繊細な空気の中で、
アランの指先がレギュラスの袖口に触れる。
カフスを留めるその仕草は、もう十数年も続けてきた日常のひとつだった。
それなのに、今朝はなぜか、
その指の温もりひとつひとつが心に刺さるように痛かった。
レギュラスは静かに息を整え、
アランの髪越しにその横顔を見つめた。
「……アラン、さっきの言葉ですが」
アランは手を止め、わずかに顔を上げた。
翡翠の瞳が、朝の光を受けて淡く光る。
「すごく……救われました」
その声はかすかに震えていた。
まるで、ようやく息ができた人のような声音だった。
アランは驚いたように瞬きをした。
けれど何も言わず、ただ次のカフスを指先で留める。
銀色の留め具が、光を受けてひときわ鮮やかに輝いた。
レギュラスは静かに続ける。
「まさか、あんなふうに……
あなたの口から、息子にあの言葉が出る日が来るなんて思いませんでした」
言葉を紡ぎながら、彼は自分の胸の内を確かめるように呼吸をした。
――あの場で、アランが語った言葉。
それはまるで赦しそのものだった。
アルタイルがシリウスの子であることを、
アランは心のどこかで大切に抱いているのだと、ずっと思っていた。
だからこそ、自分が“父”として振る舞うことを、
彼女はどこかで否定的に感じているのではないかと。
“あなたは違う”――
その冷たい線がいつか引かれるのではないかと、
いつも怯えていた。
だがあの食卓で、アランは息子に向かって確かに言った。
“あなたの父はレギュラス・ブラックです”と。
その瞬間、長い年月の重みが溶け落ちるように、
心の奥で何かが崩れ、そして救われた。
あの言葉を聞いた時、
これまでの十数年――
彼女の隣で積み上げてきた日々、夜ごと抱きしめてきた小さな命、
そして見守ってきた成長のすべてが、
確かな意味を持ったのだと思えた。
それが、ただの錯覚ではなく、
“現実”として赦されたのだと。
アランは彼の胸元に手を伸ばし、
整えかけていたネクタイをそっと結んだ。
白い指が黒の布地を滑り、
結び目がきゅっと締まる音がした。
「当然です」
アランは小さく微笑んだ。
その微笑みは、春の陽だまりのように穏やかだった。
「アルタイルの父は、あなたです。
胸を張ってください」
きゅ、と最後の結びを整える指先の感触と同時に、
レギュラスの胸の奥が締めつけられた。
まるで、ネクタイの結び目が心臓を縛り上げたようだった。
痛みと同時に、溢れ出すほどの愛しさが押し寄せてくる。
彼は目を閉じ、
ゆっくりとその場に立ち尽くした。
「……ありがとう、アラン」
ようやく絞り出せた声は掠れていた。
アランは何も答えず、ただ彼の胸元の皺を指で整え、
軽く頷いた。
レギュラスはその仕草を見つめながら、
――この人がいたから、自分はここまで壊れずにいられたのだと、
改めて痛感していた。
窓の外では、一羽のカラスが鳴いた。
任務へ向かう朝は、再び始まる。
けれど今朝だけは、
その出立が、どこか穏やかで、静かな幸福を帯びていた。
レギュラスはドアを開ける前に、もう一度だけアランを見つめた。
魔法新聞の一面を飾ったのは、黒々とした見出しだった。
――「闇の帝王、完全復活」
その文字が、まるで燃え上がるように紙面に滲み、
読む者の心にじわりと冷たい恐怖を沁み込ませた。
街角では新聞を広げる魔法使いたちがざわめき、
魔法省の回廊には緊張した足音が響いていた。
笑い声も囁き声も消え失せ、
そこにあったのはただ――不吉な沈黙だった。
危険物管理局の一室。
分厚い石壁に囲まれたその部屋で、レギュラス・ブラックは机に向かって書類に印を押していた。
外の騒ぎを知らぬふりをし、淡々と仕事をこなす。
羽ペンの先が滑る音だけが、時計の針の音と交互に響いている。
――何も知らないふり。
それが、彼の生き残る術だった。
けれどその静寂は、不意に破られる。
重い扉が開き、数人の足音が室内に響いた。
「レギュラス・ブラック」
ジェームズ・ポッターの声だった。
その後ろには、リーマス・ルーピン、そして――シリウス・ブラック。
さらに数名の騎士団員たちが並び、冷ややかな視線を彼に注いでいた。
ジェームズが一枚の羊皮紙を掲げる。
それは、淡い金の封印が施された捜査礼状だった。
「君に、取り調べの許可が下りた。
少し、話を聞かせてもらいたくてね」
声は穏やかだが、目の奥にあるのは鋭い追及の光。
レギュラスは静かに立ち上がり、
書類を一つにまとめて机の端へ寄せた。
「……なんでしょうか」
その一言が終わるか終わらないうちに、
シリウスが一歩前へ出た。
「てめぇ――」
低く唸るような声だった。
「アルタイルの父親ヅラしてんじゃねえ。名乗れると思うなよ」
その目には、燃え盛る怒りがあった。
十数年、胸の奥に押し込めてきた憎悪と後悔と嫉妬が、
一気に溢れ出たようだった。
「落ち着くんだ、シリウス」
リーマスが制止する。
「今はその件じゃない」
シリウスは歯を食いしばり、視線を逸らした。
レギュラスは無言のまま、その怒りを受け流す。
表情は一切変えない。
その沈黙が、逆に彼の余裕を物語っていた。
ジェームズが一歩進み出る。
羊皮紙の端を指で叩きながら、静かに口を開いた。
「ホグワーツで行われたトーナメント。
そこで使われた優勝杯――あれがポートキーにされていた。
そしてその先、墓地の遺跡で検出された魔力の痕跡に、
君の魔力の性質が残っていた」
部屋の空気が一瞬で冷え込む。
レギュラスは眉一つ動かさず、
椅子を勧められるままに腰を下ろした。
手を組み、静かに言葉を待つ。
ジェームズは続ける。
「騎士団の追跡魔法で、現場にいたデスイーターたちはある程度特定されている。
――その中に、君の名が浮かび上がった」
沈黙。
レギュラスの灰色の瞳が、ゆっくりとジェームズを見据える。
その眼差しには、恐れの色がまるでない。
ジェームズは一枚の記録紙を机の上に広げた。
「単刀直入に聞こう。
君はあの日、ヴォルデモートの配下として墓地にいた。
そして、我々――闇払い部隊と交戦した。
その認識で間違いないか?」
静寂が落ちる。
蝋燭の炎が一度揺れ、
誰かの息を飲む音が響いた。
だがレギュラスは――微笑んだ。
その笑みは挑発的でもあり、どこか誇り高くもあった。
ゆっくりと身を乗り出し、
両手を組んでテーブルの上に置く。
「息子の魔力に、大きな揺らぎを感じたのです」
淡々とした声。
感情の起伏がまるでない。
「感知呪文で、未成年の魔力の乱れを察知しました。
……心配になりましてね。
その匂いを追って、辿り着いた先が――あの墓地だったのです」
シリウスが眉をひそめた。
リーマスが腕を組み、ジェームズが無言で続きを促す。
「辿り着いたときには、すでに誰もいませんでした。
……息子の安全を確かめるため、それだけのことです。
その後、彼にはすぐに屋敷へ戻るよう手紙を出しましたが――
まあ、反抗期ですから。帰ってはきませんでした」
小さく肩をすくめ、
「無事であったことに、ただ安堵しています」と付け加えた。
完璧だった。
どこにも綻びがない。
その口調も、表情も、息遣いまでもが。
「親であれば――
息子の魔力の揺らぎを感じ取れば、
居ても立ってもいられなくなるのは当然でしょう?」
その一言に、ジェームズは目を細めた。
シリウスが今にも噛みつきそうな顔で睨みつけている。
「嘘だ……貴様が――」
「シリウス」
リーマスが低く制した。
レギュラスはそのやり取りを一瞥し、
再びジェームズへと視線を戻す。
「――どうぞ。お好きに調べてください。
証拠は、すべてそちらの手の中にあるのでしょう?」
口元にわずかな笑みが浮かぶ。
ジェームズは紙を折りたたみながら、
「なるほど。そういう逃げ方をするわけか」と呟いた。
「逃げる?」
レギュラスはわずかに首を傾げた。
「逃げるも何も……
証拠というものは、常に事実を語るはずでは?」
まるで詩人が皮肉を編むように、
その声音は落ち着いていた。
――挑発的でありながら、美しかった。
レギュラス・ブラック。
闇と光の狭間に立つ男の微笑みは、
どこまでも冷たく、
そして――底知れぬ静けさを湛えていた。
取り調べが終わり、魔法省の部屋の中には重たい沈黙が落ちていた。
長机の上には、書類と封印済みの記録紙が散らばっている。
カーテンの隙間から射し込む光が埃を照らし、
それがまるで、過去の影までも浮かび上がらせるかのようだった。
ジェームズが羊皮紙をまとめ、
「これで取り調べは以上だ」とだけ言って、
レギュラスに視線を送る。
レギュラスは静かに頷き、
まるでその場の空気の重さを感じていないように、
いつものように整然とした姿勢のままだった。
だが――。
ジェームズたちが片付けを終えようとしたその時、
椅子を軋ませて立ち上がる音が響いた。
シリウスだった。
その顔には、怒りと悲痛が入り混じった色が濃く滲んでいる。
拳が震えていた。
「てめぇ……」
低く押し殺した声。
次の瞬間には、爆ぜるような怒号が室内を揺らした。
「てめぇ、アルタイルに何をさせようとしてやがる!
アイツは――俺の子だ!
絶対に、お前の好きにはさせねぇ!」
その声には、激情だけでなく、
十数年分の後悔と、奪われた時間の痛みが混じっていた。
机の上に置かれたインク壺が、怒声の響きにわずかに震える。
リーマスが即座にシリウスの腕を掴む。
「落ち着くんだ、シリウス!」
しかし、シリウスの怒りは簡単には収まらなかった。
その瞳には涙に似た光が宿り、
まるで心の奥底が燃え尽きるようだった。
レギュラスはそんな兄の姿を、ただ冷ややかに見つめていた。
表情には一切の動揺がない。
静かに組んだ手をテーブルに置いたまま、
涼やかな声音で言葉を紡ぐ。
「アルタイル・ブラックは、
このブラック家で十二年間、
私が育て上げてきました」
声には余裕があり、どこまでも落ち着いていた。
「多感な年齢の息子を――
あまり刺激なさらないでいただけますか?」
淡々と、それでいて鋭く。
その物言いが、まるで鋼の刃のようにシリウスの胸を抉った。
「てめぇが……!」
シリウスの声が震える。
「てめぇが、俺たち親子を――
俺とアランを、バラバラにしたんだ!」
その叫びは、長い年月を超えて溢れ出たものだった。
取り戻せなかった過去。
叶わなかった未来。
抱き締めることさえ許されなかった我が子の記憶。
――あの夜、あの女を連れ去らなければ。
――この男さえいなければ。
胸の奥に沈んでいた後悔が、今ようやく言葉になった。
シリウスの瞳に滲む光は、怒りだけではなかった。
痛みだった。
彼が人生で最も愛した人を奪った男が、
今、目の前で何事もなかったように息をしている。
それが許せなかった。
レギュラスは、そんな兄の激昂を受けてもなお、
眉一つ動かさなかった。
やがて、口角がゆっくりと上がる。
「シリウス」
その声は驚くほど静かで、冷たかった。
「一つ、勘違いしているようですよ」
灰銀色の瞳が、細く愉悦に滲む。
薄闇の中で、笑みが形を成す。
「アランが――自分で選んだのです。
僕の隣を」
その瞬間、空気が切り裂かれたようだった。
シリウスの顔から血の気が引き、
握りしめた拳が白くなるほど力がこもる。
「……てめぇ、ふざけんなよ」
怒声が響いた。
椅子が倒れ、机が大きく揺れる。
シリウスがレギュラスに殴りかかろうとした瞬間、
ジェームズが慌てて彼の腕を掴み、リーマスも肩を押さえた。
「やめるんだ、シリウス!」とリーマス。
「君が不利になる!」とジェームズ。
それでも、シリウスは歯を食いしばって前に出ようとする。
瞳には涙と怒りが滲んでいた。
レギュラスは、そんな兄の姿を見つめながら、
声を押し殺すように笑った。
低く、冷たく、心の奥底を掻き回すような笑い。
その音は、誰の耳にも不快なほど静かで、
まるで深い闇の底から湧き上がるようだった。
――勝者の笑み。
それは、兄を嘲るようでもあり、
同時に、自分自身を納得させるための嘲笑でもあった。
シリウスの胸に、その笑いがこびりつく。
どんなに離れようとも、
その声が耳の奥で鳴り続ける気がした。
もう、戻れない。
かつて兄弟だった二人の間にあったものは、
今や完全に――砕け散っていた。
ホグワーツの午後は穏やかで、
古い石造りの回廊を金色の光が斜めに差し込んでいた。
遠くでは生徒たちの笑い声が響き、
湖の方からは春の風がほのかに湿った香りを運んでくる。
アルタイルは中庭の古い噴水の縁に腰をかけていた。
その向かいに立つ黒髪の男――シリウス・ブラック。
自由奔放な笑みを浮かべ、
まるで若き日のグリフィンドールの象徴そのもののように光を纏っていた。
彼がホグワーツに顔を出すようになって、
もう幾度目になるだろうか。
授業の合間や放課後の空き時間に、ふらりと現れては、
「ちょっと散歩しようぜ」と軽く手を振る。
その誘い方がいかにも彼らしくて、
アルタイルはいつも胸の奥が温かくなるのを感じていた。
――まるで、離れていた時間を埋めるように。
彼はそうしてアルタイルと過ごす。
ホグズミードでバタービールを飲みながら笑い合ったり、
夜の天文塔から星空を眺めたり。
そのたびに、少年の心はほぐれ、
父と過ごすという行為の意味を少しずつ知っていった。
だが同時に――その幸福が、
屋敷にいるレギュラス・ブラックへの裏切りのようにも思えて、
アルタイルの胸にはいつも少しの痛みが走った。
あの荘厳な屋敷で、
厳格で、それでいてどこまでも静かに愛を注いでくれる父。
その姿を思い浮かべるたびに、
自分がここにいることが、彼を傷つけているような気がしてならなかった。
シリウスが、そんな彼の心の揺らぎを感じ取ったのだろう。
ふと、真面目な顔で口を開いた。
「アルタイル……もしもだ、その……」
言葉を探すように視線を宙に彷徨わせ、
息を整えてから続けた。
「一緒に暮らしたいって、思ってくれるなら……」
その続きを聞くまでもなく、
アルタイルの胸の奥で何かが弾けた。
――“一緒に暮らさないか”。
その一言は、まるで魔法だった。
心の底からじんわりと温かさが広がる。
胸の奥がくすぐったく、
涙が出そうになるほど嬉しかった。
自分は、愛されている。
無条件に、ただ存在しているだけで愛されている。
その実感が、アルタイルの中で小さな炎となって灯る。
シリウスの笑顔は太陽のようだった。
照らされた心が溶けていくように、
彼はただその場に立っているだけで、
全ての闇を遠ざけてくれるように思えた。
その時、ふと理解した。
――母はきっと、この人のこういうところが好きだったのだと。
目の前の男の中に、
かつてアランが恋をした理由が見えた気がした。
温かさ、包容、そして自由。
アルタイルは知らず、胸の奥で微笑んだ。
「シリウス……僕は、まだ屋敷を出ることはできない。
だけど……時々、遊びに行きたい」
少し照れながらそう告げると、
シリウスは目を細め、にやりと笑った。
「いいんだ。どっちを取れとか、そういうことじゃねぇ。
お前が来たい時に来る。それで、全然いいんだ」
彼の声は柔らかく、
それでいて心の奥に力をくれるような温度を帯びていた。
「……うん。いっぱい冒険に連れ出してほしい」
「任せろ。冒険なら、俺の得意分野だ」
二人の笑い声が、中庭に溶けていった。
空には雲ひとつなく、
水面には太陽の光が無数の粒となって踊っている。
アルタイルは、そっと目を閉じた。
――まっすぐに、どこまでも光の中を歩かせてくれそうな人。
それがシリウスだった。
けれど同時に、
あの屋敷の中で、自分を守り、教え、導いてくれたのも、
またもう一人の“父”――レギュラス・ブラックだった。
彼は闇を纏うように静かで、
けれど、その手は常に温かかった。
教養も誇りも、気品も――
どこの貴族と並んでも引けを取らない威厳。
そのすべてをもって、彼は息子を育ててくれた。
アルタイルは知っていた。
それもまた、本物の愛であることを。
だからこそ――まだ選べなかった。
どちらの手を取るのか。
どちらを「父」と呼ぶのか。
その答えは、まだ自分の中に形を持たなかった。
ただ確かなのは、
この瞬間、目の前にいるシリウスの笑顔が、
心の奥を照らしているということだけ。
陽光にきらめく銀灰色の瞳が、
まるで遠い未来を映すように輝いていた。
アルタイルはそっと呟く。
「父さん……ありがとう」
その声は風に溶け、湖の方へと流れていった。
そしてその笑顔の奥で、彼の胸には――
ふたつの光が、確かに共存していた。
