1章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
夕暮れの光が、古びた石造りの廊下をゆっくりと染め上げていた。
磨かれた床には、橙に霞む窓硝子を透けて落ちる光の帯が細く伸び、その上を埃が舞いながらきらめいている。
冷たい石壁は、まるでその光を抱くように淡く温もりを帯び、ひとときだけ、静かな午後のぬくもりが世界を包んでいた。
その光の中を、アランは歩いていた。
両腕には厚い課題の束。書き込みで歪んだ紙の端が、腕の中で揺れている。
彼女の歩みは慎重だった。けれど、その足取りのどこかに疲れが滲んでいる。視線はいつもより低く、手元の文字ばかりを追っていた。
思考の中に沈み込み、周囲の気配などとうに遠くに置き去りにしていた。
そのとき——。
「なぁ、アラン」
その声は、夕暮れの静寂を破って真っ直ぐに届いた。
柔らかいのに、胸の奥を打つような響き。
アランは足を止め、振り返った。
背後に立っていたのは、シリウス・ブラック。
光の中に立つその姿は、まるで時間を切り取った絵のようだった。
壁に寄りかかることもなく、まっすぐに立つ。
その姿勢には怯むことのない意志が宿っている。
いつものように口元に浮かぶ笑みはなく、灰色の瞳は真剣な色を帯びていた。
燃えるように強く、それでいて静かに、何かを決意した者の光を湛えている。
アランの心臓が、ひとつ大きく鳴った。
「ダンスパーティさ。お前、一緒に行かねぇか?」
一瞬、世界が止まったように感じた。
耳の奥で血の音が高鳴り、抱えていた紙束がふっと軽くなる。
理解が追いつかず、彼女はただその場に立ち尽くした。
胸の奥に、熱がじわりと灯る。
いま確かに——彼は自分を誘ったのだ。
「……私を? パーティに?」
掠れる声が唇を震わせた。
口に出した瞬間、その響きが現実を形に変えていく。
夢のようだと思った。
王子様のような誰かが、物語の登場人物ではなく、自分の名を呼んだ。
そんなこと、あるはずがないのに。
「でも……私、スリザリンだし……」
気づけば、声がこぼれていた。
不安という名の影が、夕暮れの光を薄く覆う。
けれどその影を、シリウスはあっけなく笑い飛ばした。
「んなもん気にすんな。これは寮を超えたイベントなんだから」
軽やかに笑う彼の声。
その笑みには、どんな境界も意味を持たせない強さがあった。
灰色の瞳が冴えた光を放ち、背負うものすら軽々と跳ね返すようだった。
彼はいつもそうだ。
世界を分ける壁を、ひとつずつ壊していく。
その真っ直ぐな強さが、アランの胸をやさしく侵していく。
気づけば、不安も言葉も、彼の前では形をなくしていた。
「でも……私、ドレスなんて一枚も持ってないわ」
現実がふと顔を覗かせた。
おずおずとした声で俯いたまま、指先が課題の紙をぎゅっと握る。
その様子に、シリウスは大げさに肩を竦めて笑った。
「心配すんな。俺とお揃いのやつを着よう! 当日までにちゃんと用意しとく」
その言葉が、胸の奥で花開いた。
一瞬で世界が色づく。
夕陽の光が揺れて、彼の灰色の瞳を金に染める。
アランの頬に、ふわりと熱が上がった。
息を呑むほどに心臓が暴れ、胸の奥から溢れる何かが抑えきれない。
頭の中に、はっきりとした光景が浮かぶ。
煌めくシャンデリアが天井を照らす大広間。
楽団の奏でる優雅な旋律。
円を描いて舞う人々の中で、彼の手を取って踊る自分——。
その幻想は、夢ではなく、もうすぐ触れられる現実のように思えた。
「……っ」
熱を隠そうと、両手で頬を覆う。
けれど翡翠の瞳は、喜びの光を宿していた。
潤んで揺れ、夕陽の反射にきらめくそれは、幸福そのものの証。
——まさか、自分が。
シリウス・ブラックに誘われる日が来るなんて。
心臓の鼓動が、服の下で激しく跳ねる。
息を整えようとしても、胸の奥の高鳴りは止まらない。
言葉が溶け、世界が霞む。
アランは小さく唇を震わせ、かすれた声で答えを零した。
「……はい」
その一言が、廊下の静寂に柔らかく落ちた。
次の瞬間、夕暮れの光はふたりの輪郭をやさしく包み込む。
世界が切り替わるように、そこにはもう誰もいない。
残されたのは、光と影と、ふたりの呼吸だけ。
まるで、これから始まる舞踏の幕開けを、夕陽が静かに祝福しているかのようだった。
返事を告げた瞬間、シリウスの唇にぱっと明るい笑みが咲いた。
その笑顔は、夕暮れの光を映して輝く。廊下の橙色の影がゆるやかに彼の頬を撫で、まるで光そのものが彼の中からこぼれているかのようだった。
「よかったー。誘われてたらどうしようって心配してたんだ」
軽やかに放たれた言葉。
その声音にはいつものような冗談めいた響きが混じっていたが、瞳の奥には揺るぎのない真剣さが宿っていた。
柔らかな笑みの裏で、安堵がはっきりと浮かんでいる。まるで胸の奥で長い間抑えていた息をようやく吐き出せたような——そんな表情だった。
アランの胸が小さく震える。
(誘われてたら……? 誰に?)
ふと脳裏に疑問が過る。
自分の周囲にいるのは、レギュラスや同室の友人たちくらい。
誰かに「パートナーになってほしい」と求められるようなことなど、一度もなかった。
そんな世界は、自分には無縁のものだと思っていた。
だからこそ、シリウスの言葉は、遠く現実離れした光景のように感じられた。
「……シリウスこそ、他の方から誘われてるんじゃありませんか?」
気づけば、思わず声に出していた。
問うように、けれどどこか怯えるように。
自分の口から出た言葉に、アラン自身が驚いた。
だが、その裏には確かな不安があった。
——あの更衣室で耳にした女生徒たちの囁きが甦る。
「レギュラスを誘いたい」と言っていた、あのときの熱っぽい声。
けれどその中には、シリウスの名も何度も上がっていたのを覚えている。
華やかで、自由で、誰もが目を奪われる存在。
兄弟揃って人々の注目を浴びる彼らが、誰からも誘われないはずがない。
アランはわずかに俯き、胸の奥で言葉を探した。
光が床に長く伸び、彼女の影を包むように寄り添っている。
沈黙が一瞬、ふたりの間をやさしく満たした。
その沈黙を破るように、シリウスが息を弾ませながら、はっきりと告げた。
「俺はアランと踊りたいんだよ」
まっすぐな声。
そこには飾りも駆け引きもなかった。
ただ、真実だけがあった。
笑みを浮かべた唇から放たれたその言葉が、まるで矢のように心臓の奥へ届いた。
軽やかに見えて、その芯は強く、熱を帯びている。
「……っ」
胸が大きく跳ねた。
世界がその瞬間だけ、音を失った。
鼓動の音だけが、耳の奥で波のように響く。
選ばれた——。
その事実が、ゆっくりと心の中に沁みていく。
自分なんかが、と何度思ってきただろう。
爵位もなく、財もなく、ただ仕える立場で生きてきた。
人より優れているものなど一つもないと、ずっと思っていた。
それでも。
今この瞬間、シリウスの言葉がその思いをすべて覆した。
彼は、他の誰でもなく、アランを選んだ。
「アランと踊りたい」と言った。
たったそれだけの言葉が、胸の奥を熱で満たしていく。
その熱はじんわりと広がり、翡翠色の瞳が潤み、頬まで紅く染まっていく。
指先が震え、唇がかすかに開いた。
頬を両手で覆い、どうしても収まらない熱を隠そうとするしかなかった。
光が静かに廊下を満たす。
夕陽が差し込む窓の外では、遠くで鳥が翼を鳴らす。
まるで世界が祝福しているかのように、柔らかな風が髪を揺らした。
——彼に選ばれた。
その言葉が胸の奥で反響するたびに、身体が震える。
それはどんな呪文よりも強く、どんな魔法よりも甘い。
心の奥深くまで浸透していく。
それは、アランにとって生まれて初めての“魔法”だった。
そして彼女はもう、それを解く術を知らなかった。
スリザリンの談話室は、夜になるとまるで別世界のようだった。
昼間のざわめきが嘘のように静まり返り、湖底から射し込む薄青い光が、壁の緑がかった石面にゆらゆらと揺れていた。
宙に浮かぶランプの灯りは霧を孕んだように柔らかく滲み、空気そのものが水の底に沈んだような静謐さを帯びている。
その空間は、ただ息をするだけで心の奥まで澄んでいくような、張りつめた静けさに包まれていた。
アランが扉を押し開けたとき、その静けさの中心に、ひとつの場面があった。
談話室の中央に、レギュラスが立っている。
彼の前には、赤らんだ頬の女生徒がひとり。
両手で大事そうに小さな包みを抱きしめ、何度も唇を開いては閉じ、勇気を掻き集めるように立っていた。
その瞳には、淡く輝く希望の光が宿っている。
彼女が差し出そうとしているのは、紛れもなく想いの証だった。
その瞬間、談話室全体のざわめきが遠ざかり、時間そのものが一瞬止まったかのように思えた。
「失礼。僕は出るつもりがなくて」
レギュラスの声は穏やかだった。
けれど、そこには一切の曖昧さがなかった。
淡々とした口調の奥に、はっきりとした拒絶の意志が宿っていた。
優しさを纏いながらも、決して誤解を残さない——そんな声だった。
女生徒の肩がわずかに震えた。
瞳が揺れ、口元が悲しげに歪む。
彼女は何も言えず、抱えていた包みを胸に引き寄せると、小さな吐息を漏らしながら踵を返した。
足音が床を叩き、やがて扉の向こうに消えていく。
淡い香りだけが、一瞬、空気の中に残った。
アランはその一部始終を、扉口で見てしまっていた。
声も出せず、ただ立ち尽くす。
見てはいけない瞬間に触れてしまったような後ろめたさと、胸の奥で渦巻く奇妙な痛みが混ざり合う。
それでも——どうしても視線を逸らすことができなかった。
(……綺麗な人だった)
そう思った。
透き通るような肌、光を受けて揺れる栗色の髪。
誰が見ても魅了されるであろう少女。
けれど、レギュラスはその手を取らなかった。
まるで最初から、選ぶという選択肢が存在しなかったかのように。
驚きが胸を満たしていく。
完璧な容姿、卓越した魔法の才能、教授たちからの信頼、そして同級生たちの羨望。
何もかもを手にしている彼が、どうしてこんなにも淡々としていられるのだろう。
彼にとって、愛や憧れなどは、もしかしたら遠い概念なのかもしれない。
——理想は、どれほど高みにあるのだろう?
そんな言葉が、胸の奥に静かに浮かんだ。
その時だった。
レギュラスがふと顔を上げ、こちらを見た。
目が合った瞬間、アランの心臓が跳ねる。
彼は表情を崩さず、まっすぐに歩み寄ってきた。
足音が柔らかく響き、ランプの灯が彼の髪に光を落とす。
「アラン」
名前を呼ばれる声が、静寂に染みわたる。
それだけで胸の奥が熱くなる。
「……パーティには出ないんですか?」
気づけば、問いが唇からこぼれていた。
思考よりも先に、感情が動いた。
レギュラスは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに穏やかに微笑んだ。
「聞こえていたんですね」
軽く言ったその声音に、アランは返す言葉を失った。
淡い微笑の裏に、どこか照れくささのようなものが覗いていて——胸の奥がざわめく。
「……あの、とても綺麗な方でしたのに」
言葉を選びながら、やっとそれだけを告げた。
だがレギュラスは小さく首を傾げ、真面目な表情で言う。
「スラグホーン先生からの課題があって。なかなか進まないんです。パーティなどに行っている場合ではなくて」
予想もしなかった返答に、アランは目を瞬かせた。
「レギュラス、あなたでも課題に追われることがあるんですね」
小さな笑みが自然とこぼれる。
思わずくすぐられるような、可笑しさと安心が入り混じった。
レギュラスはその笑みを受けて、ほんの少し肩を揺らして笑った。
「僕を完璧人間だと勘違いしていませんか?」
その声は柔らかく、湖底の光のように静かに広がった。
「……してます。完璧人間ですよ、あなたは」
アランは少し頬を染めながら言った。
半分は冗談。けれど、その半分は確かな本音だった。
レギュラスは目を細め、静かに笑った。
その笑みはどこか年相応で、人間らしい温もりを帯びていた。
彼の中にも迷いや弱さがあり、努力の跡がある。
その一片を垣間見たことで、アランの胸の奥がほんのりと温かく満たされていく。
湖底の光が、二人の横顔を青白く照らしていた。
ゆらめく影が壁に揺れ、静かな時間だけが流れていく。
完璧と呼ばれる少年にも、こうして息づく人間らしい瞬間がある。
そのことを知ってしまったことで、アランの胸はやさしく震えた。
けれど同時に——痛みも生まれる。
触れれば触れるほど、彼が遠い人だと感じてしまう。
優しさは距離を埋めるものではなく、むしろ際立たせる。
温かさと切なさがひとつになり、
夜の静けさに溶けていった。
スリザリン寮の談話室は、夜の帳にゆっくりと沈みつつあった。
湖底を通して射し込む光は、昼間よりもいっそう深く、青緑の影を帯びている。
その光が石壁をかすかに染め、厚いカーテンや天井の装飾を淡く揺らしていた。
冷たい空気の底で、煖炉の火がぱちぱちと乾いた音を立てる。
橙の炎と湖底の光が交じり合い、空間全体が冷たさと温かさを同時に抱えた、不思議な静寂を生み出していた。
アランはその光と影のあわいの中、暖炉のそばの椅子に腰を下ろしていた。
指先でノートの角をなぞり、閉じかけたページの隙間から淡いインクの香りが立ち上る。
外では水の流れる音が微かに響いていた。
宿題を終えようか、もう少し書こうか——そんな些細な思考の揺れの中で、静かな時間が流れていた。
「アラン、一緒に課題をしませんか」
背後からかけられた声に、アランは思わず振り向いた。
その声は静かなのに、不思議とよく通る。
そこに立っていたのは、レギュラス・ブラック。
腕に抱えた羊皮紙の束が、ランプの光を受けて淡く光る。
彼の黒髪は湖底の光を反射してわずかに青を帯び、整った横顔の輪郭が一層際立っていた。
「……どんな課題なんですか?」
恐る恐る問いかける。
彼が手にしているそれは、見慣れぬ文字が細かく並び、難解な魔法理論の香りを放っていた。
興味と不安が胸の中で入り混じる。
レギュラスは言葉少なに机の上へ羊皮紙を並べた。
静かな所作。
一枚、また一枚と広げられていく紙面には、幾つもの魔法陣と論理式が刻まれていた。
「多重層の魔法効果が互いに干渉する条件を整理し、その相違点を図解せよ」
彼は淡々と読み上げる。
そこに書かれていたのは、透明化呪文と防御魔法が重なった際の干渉。
幻影呪文と束縛魔法が併用されたときの失敗例。
条件ごとに原因を解析し、干渉を防ぎつつ効率的に発動させる仕組みを導く——。
それは、授業で扱う内容などとはまるで別次元の難題だった。
「……これを?」
アランは思わず呟いた。
驚きというより、言葉が追いつかない。
常人ならば一晩かけても理解できないほどの理論。
その紙面を見つめながら、彼女の声は自然に掠れていた。
レギュラスは小さく頷いた。
「ええ。難解ですが……とても面白いですよ」
声は穏やかで、どこか楽しげですらある。
彼にとってはこの難問すら、未知を解き明かす喜びのひとつなのだろう。
その声音に、石の部屋にわずかな温もりが滲んだ。
レギュラスは椅子を引き、ゆっくりと腰を下ろした。
その動きには無駄がない。
羽ペンを手に取り、羊皮紙に触れる瞬間、空気が静かに張り詰めた。
彼の筆先が滑らかに紙を走る。
規則正しい文字の列が、美しい旋律のように連なっていく。
けれど、アランは見てしまった。
その完璧な筆致の裏に、ほんの一瞬の停滞があることを。
羽ペンの動きがふと止まり、レギュラスの瞳が深く沈む。
考えている。
何かを組み合わせ、仮定を立て、また壊しては再構築している。
眉間にわずかに皺が寄る。
指先が羽ペンを握る力を強めるたび、静かな緊張が走る。
——この人は、ひと息で答えを導く天才ではないのだ。
そう気づいた瞬間、胸の奥で何かが柔らかくほどけた。
ずっと、彼は何でも完璧にこなす人だと思っていた。
努力よりも天賦の才で頂に立っているのだと、どこかで思い込んでいた。
けれど今こうして間近で見るとわかる。
彼の完璧さは、静かで果てしない試行錯誤の上に築かれたものだ。
見えないところで何度も失敗し、考え、削ぎ落として磨き上げた成果。
人前では決して弱さを見せず、完成された答えだけを差し出す。
だから人は彼を「無謬のレギュラス」と呼ぶのだ。
アランの視線が止まってしまう。
机の上に流れ込む青緑の光に照らされた横顔。
繊細な睫毛の影。
羽ペンを走らせる指先のしなやかな動き。
そして何より——彼の眼差しに宿る、静かな情熱。
その熱が、目には見えない波のようにアランの胸に伝わってくる。
息をするたびに胸が少し痛い。
温かいのに、切ない。
そんな相反する感情が、ひとつの場所で静かに溶け合っていた。
「……なんです?」
不意に声をかけられて、アランは小さく肩を跳ねさせた。
「え……? あ、ううん。なんでもないの」
慌てて笑みを作り、視線を逸らす。
心臓の鼓動が耳の奥でうるさく響いている。
レギュラスは小首を傾げ、わずかに目を細めた。
その表情は穏やかで、追及する気配もない。
再び羽ペンを取り、羊皮紙の上で淡い音を立て始めた。
インクが光を反射し、流れるような文字列がまた増えていく。
青緑の光が二人の間に漂い、静かな時間を編んでいく。
レギュラスの集中した横顔を見つめながら、アランは胸の奥にふっくらとした温かさを覚えた。
それは、彼の努力を知ってしまったことで芽生えた尊敬。
そして、それと同じくらい強い、どうしようもない切なさ。
彼の隣で過ごすこの静かな時間が、永遠ではないことを知っている。
けれど、それでもいいと思えた。
今だけは、この湖底の光に包まれて、彼の呼吸を感じながら——ただ静かに、もっとも信頼のおける友として心を寄せていたかった。
羽ペンのかすかな音だけが、スリザリンの談話室に流れる静寂を切り取っていた。
ランプの炎がかすかに揺れ、湖底から射し込む淡い青緑の光が石床に緑がかった影を落とす。
その光は煖炉の橙と混ざり合い、冷たい空気の中に微かな温もりを描いていた。
アランはノートを閉じかけ、指先に残るインクの香りをぼんやりと感じていた。
視線を落としたまま、静けさの中で心地よい倦怠に浸っていると、向かいに座っていたレギュラスが、ふと羽ペンを止めた。
インクの滴が紙に小さく落ちる音。
顔を上げた彼の瞳が、静かにアランを捉える。
その視線には、いつもの穏やかさと違う熱があった。
深く、真剣で、まるで心の奥まで射抜かれるような。
アランは思わずノートの上から目を外した。
「…… アラン」
低く呼ばれる声。
名を呼ばれただけなのに、胸の奥がひどく疼いた。
「なんです?」
どうにか答えた声は、自分でもわかるほど震えていた。
レギュラスは一呼吸を置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「僕は、あなたが好きです」
その言葉は、静かな湖面に石を落としたように響いた。
淡々とした口調なのに、そこには決して曖昧さのない、真っ直ぐな想いがあった。
「幼馴染としてではなく。ちゃんと——一人の女の子として、あなたのことが好きなんです」
時間が止まった。
火のはぜる音も、ランプの揺れも、遠くの水音も、すべてが遠のいた。
世界が静止し、アランの耳には自分の鼓動だけが響いていた。
(——いま、なんと?)
理解が追いつかない。
聞き間違いか、幻でも見ているのではないかと疑うほどに現実味がなかった。
完璧で、誰からも一目置かれる彼が。
自分のような、ただの使用人の娘を……好きだと言うなんて。
息が詰まり、喉が固まった。
指先が冷たくなり、何も言葉が出てこない。
レギュラスはそんな彼女の沈黙を待っていた。
けれどその沈黙を恐れず、むしろ確かめるように言葉を重ねた。
「そばにいてほしいんです。これから先も、ずっと」
その声音は、切実だった。
静かなのに、胸の奥まで響くような深さを持っていた。
アランの胸の中で、何かがざわりと音を立ててほどけていく。
あたたかくて、けれど苦しい。
夢のような言葉なのに、現実が痛いほどにそれを否定していた。
——でも。
この想いをまっすぐに受け取ってはいけない。
心の奥が警鐘のようにそう告げていた。
「ええ……」
やっとのことで声を出す。けれど、その声音は震えている。
「私の家は代々、ずっとブラック家に仕えていますし……」
それは、彼の告白への返事ではなく、逃げ場を探すための言葉だった。
精一杯、冷静を装って紡いだ言葉。
だが、震える唇はその努力を裏切っていた。
セシールの家—— アランの生まれた家は、何世代にもわたってブラック家に仕えてきた。
屋敷の手入れ、書簡の管理、細やかな奉仕。
その労の見返りとして一族は庇護を受け、代々その関係の中で生きてきた。
それは彼らにとって誇りであり、また逃れられない宿命でもある。
アランもまた、幼いころからその道を疑わなかった。
主に仕え、忠を尽くし、与えられた場所で生きていく——それが自分の在り方だと信じていた。
だから、本来ならこの屋敷に留まるつもりだった。
言われるまでもなく、ブラック家の傍に生きることが自分の未来だと思っていた。
けれど今、目の前で彼に「そばにいてほしい」と言われた瞬間、
その意味が、まったく違うものに変わってしまった。
心臓が痛いほど鳴っている。
呼吸をするたびに胸が軋む。
彼の瞳に宿る真剣な光が、恐ろしいほど眩しくて——目を逸らせなかった。
こんなにも純粋に、まっすぐに想われてしまったら。
この想いを拒むことが、どうしてこんなにも苦しいのだろう。
煖炉の火が小さくはぜ、灰がぱらぱらと舞い落ちる。
その音が、まるで二人の沈黙を慰めるようだった。
アランは唇を噛み、震える声を胸の奥に押し込めた。
「……レギュラス」
名を呼ぶ声はかすれて、溶けるように消えた。
目の前の彼は、ただ静かに微笑んでいた。
それは哀しみと決意が混ざった微笑みで、
その瞬間、アランの胸の奥に痛いほどの切なさが広がった。
——届かない想いほど、美しいものはない。
そう思ってしまった自分が、ひどく哀しかった。
「レギュラス……そんなの……おかしいわ……」
掠れる声を絞り出した瞬間、アランの掌は血の気を失い、指先が小さく震えた。
胸の奥にせき止めきれず溢れ出した感情が、体の芯を蝕んでいく。
どうにか抑えようとしても、こわばりは全身に広がり、心の奥で冷たい波が打ち寄せた。
だって、これは——本当に「おかしい」ことなのだ。
主が、使用人に恋をする。そんなことは許されない。
それは秩序を乱す背信であり、神聖な家名を汚す禁忌。
まして相手は、由緒正しきブラック家の嫡子。
その名にかけられた誇りと責務を知る彼が、そんな感情を抱いていいはずがない。
もしも、このことがオリオン様やヴァルブルガ様の耳に入れば——。
想像するだけで、胸の奥が凍りつく。
怒りと屈辱の炎は、アランひとりではなく、彼女の一族全てを呑み込むだろう。
代々ブラック家に仕えてきたセシールの家系。
その名誉と信頼は、一瞬の火花で灰になる。
それでも、レギュラスは静かに言葉を続けた。
「そうなんですけど……もし抑えられるような想いだったら、多分もっと前に……とっくにそうしてました」
その声音は淡々としていた。
けれど、静けさの奥には鋼のような決意があった。
言葉のひとつひとつが胸に突き刺さる。
彼は、そんなにも長く、そんなにも真剣に、自分を想い続けていたのだろうか。
胸の奥が痛んだ。呼吸が浅くなる。
その痛みが、愛おしさと恐怖を同時に呼び起こす。
「……オリオン様も、ヴァルブルガ様も……きっと、お怒りになるわ」
アランは震える声で理性をかろうじて掴もうとした。
だが、レギュラスは短く目を伏せ、すぐにまたその灰色の瞳を彼女に向けた。
「どうしたら……あなたと一緒になれるんでしょう」
息が止まる。
その言葉は、祈りにも似ていた。
完璧な人間が、決して問うはずのない愚直な問い。
けれど、だからこそ、その一言はあまりに重く、胸にのしかかった。
——どうしたら。
そんな道など、この世に存在しない。
身分も血筋も、宿命さえも、二人のあいだに深く根を張っている。
越えられぬ壁の前に立たされながら、それでも彼は「どうしたら」と問う。
誰かが答えを与えるのではなく、自ら道を切り開こうとしている。
その真っ直ぐさが、胸の奥を鋭く貫いた。
アランは目を伏せた。
目の前の少年の中に宿る誠実さと、燃えるような熱情が、あまりにまぶしかった。
そして——ふいに脳裏に蘇ったのは、あの夜の声だった。
「——俺は、一緒に生きていきたい」
シリウスの言葉。
迷いも恐れもなく、ただまっすぐに差し出された手のひら。
その言葉を聞いたとき、何も考えられなかった。
家系も、義務も、未来の難しさも。
ただ、その声だけで胸が満たされ、
「恋すること」が許されたように思えた。
けれど今。
レギュラスの告げた切実な言葉が、その幻想を静かに壊していく。
——そんな未来は、本当に叶うのだろうか。
シリウスが与えてくれた光の温もり。
レギュラスが差し出す静かな熱。
二人の想いが、異なる色で胸の奥に溶けていく。
どちらを選んでも、片方を失う痛みが待っている。
自由を選べば、セシール家が守ってきた絆を失う。
絆を選べば、自分の心を切り捨てる。
そのどちらも、彼女にとっては同じほど残酷だった。
胸が締め付けられる。
痛みに似た甘さが広がり、涙が滲む。
噛み殺した嗚咽が、喉の奥で震えた。
声を出せば崩れてしまう。だから、唇を強く結ぶしかなかった。
煖炉の火がぱち、と音を立てる。
炎が小さく揺れ、その赤が二人の横顔を淡く照らす。
レギュラスはその光の中で、ただ真っ直ぐにアランを見つめていた。
アランは視線を合わせられず、沈黙の底に沈んでいく。
その沈黙は、まるで火と氷のように相克していた。
触れれば溶けてしまう。離れれば凍りつく。
それでも——確かにそこにあったのは、理屈では届かない「熱」だった。
どうしようもなく、美しく、
そして、永遠に報われることのない恋の熱。
スリザリン寮の談話室は、夜の深まりとともに静けさを増していた。
湖底を通して射し込む深青の光が壁に滲み、緑がかった影を不規則に踊らせる。
煖炉の火は燃え残る薪をかすかに弾き、ぱちりと小さな破裂音を立てては、二人の沈黙を強調するように響いた。
アランの耳には、自分自身の心音ばかりが大きく鳴り響いていた。
胸をつかむような緊張、そして息を潜めようとしても収まらない浅い呼吸。
長椅子の一角に座るレギュラスの静かな姿が、湖底の光と火の影とに揺れて見える。
——どうしたら、このままずっと、一緒にいられるんだろう。
ふと、一瞬の油断のようにその思いが言葉になって零れた。
声が空気に溶けた瞬間、アラン自身の胸に鋭い罪悪感が走る。
翡翠の瞳を大きく揺らし、肩を小さく震わせる。困惑と怯え。
それを映した彼女の表情を見るだけで、レギュラスの胸には申し訳なさと後悔が込み上げた。
いけないことを口にしてしまったのだと、自分でも理解していた。
けれど、それでも——。
思いを秘めているだけでは、彼女はわかってくれないだろう。
そしていつか、気づかぬまま別の光にさらわれてしまうかもしれない。
それだけは、どうしても許せなかった。
レギュラスは深く息を吸った。
そして、いつになく強い声音で告げた。
「もし……もしもです」
言葉は慎重に、しかし確かに彼女の胸へ届くように。
「セシール家の娘であるあなたを、僕の妻にとできるなら——あなたは応えてくれますか?」
アランの思考は真っ白になった。
血が引くように冷えるのを自覚し、同時に胸の奥が熱で焼ける。
「……そんなこと……」
喉の奥で潰れた声が小さく響く。
ひりつくようにかすれたその言葉に、レギュラスの瞳は一層深みを帯びた。
「許されるわけがないわ……」
ようやく紡ぎ出せた返事は、壊れそうに弱かった。
けれど、その拒絶すら——彼は受け止める覚悟を崩さなかった。
灰色の瞳が真っ直ぐにこちらを捕らえる。
まるで、その答えを待ちかねていたかのように、一歩、彼は前へ。
「許されるように——動こうと思っているんです」
静謐を切り裂くその言葉は、火花のように鋭く散った。
名家の掟。
親の意志。
純血の誇りを背負わせる鎖。
それらすべてを承知した上で、そのすべてに抗うと言った。
アランの胸は強く波立ち、痛みにも似た熱が込み上げる。
——どうして、この完璧な人は。
難解な課題も、冷たい秩序も、すべてを悠然と乗り越える彼が。
どうしてこんなにも愚かしいまでに、叶い得ぬ未来へ手を伸ばそうとするのか。
その本気を、目の奥に滲む熱を、否定できなかった。
「……」
声を探す唇が震える。
けれど言葉は見つからない。
自分が答えれば、彼の想いはもっと強くなる。
拒めなければ、自分の大切な人々を裏切る。
それでも、胸を掴まれるように熱く脈打つこの鼓動は、理性さえ裏切ってしまっている。
火と水に挟まれたように。
煖炉の赤と湖底の緑青が交ざる談話室で、アランはただ揺れる瞳で彼を見返すほかなかった。
目の前の灰色の瞳は静謐そのものでありながら、一歩も退かぬ意志をたたえていた。
その視線に飲み込まれ、声を失いながらも、胸を締め付ける鼓動だけが裏切りのように大きく響き続けていた。
この家において、アランを「妻」と呼ぶ未来など、決して許されはしない。
レギュラスには、それが誰よりも明確にわかっていた。
ブラック家——純血と名誉を理想とし、誇りを血に刻み続ける家。
長い歴史の中で、数え切れぬほどの犠牲を払ってまで守られてきた掟がある。
その掟はもはや生きる証であり、血族の命脈そのもの。
父オリオンも、母ヴァルブルガも、それを誰よりも厳格に体現する者たちだった。
彼らの前で、「血を持たぬ娘を正妻に迎えたい」などと告げることは、神聖な家の誓いを侮辱するに等しい。
赦されることなど、決してない。
「妻にする」——その言葉の響きはあまりに甘美だった。
唇の奥でそっと形にしただけで、夢のような温かさが胸に広がる。
だが、現実の冷たさの前では、その温もりは泡のように消えてしまう。
理想を思えば思うほど、世界は冷たく正確に線を引く。
それでも。
どれほど目を背けようとも、レギュラスの胸には一つだけ浮かび上がる考えがあった。
——体裁を保つために、正妻にはいずれ名家の令嬢を迎えなければならない。
それがこの家の宿命であり、古い魔法界の枠組みの中で、誰も逆らえぬ「常識」だった。
純血を守るための結びつき。
権威と力を絶やさぬための結婚。
それは愛などという柔らかいものとは無縁の、計算された取引だ。
だが——。
アランを「側室」としてなら、この家の中に場所を与えられるのではないか。
名家の秩序の中で、彼女を“許される形”として置くことができるのではないか。
もし、彼女が自分の血を宿すことになれば、たとえ冷徹な掟であっても完全には拒めまい。
血が血を呼ぶ世界で、それは唯一、家の論理を揺るがせる“例外”になり得る。
——その方法ならば、現実的だ。
その思考が胸の奥に生まれた瞬間、レギュラスは自分を軽蔑した。
まるで彼女を所有物のように扱おうとする、その浅ましさ。
一番に尊び、守りたいはずの人を、制度の中に押し込めてしまおうとする、その狡さ。
「側室」として彼女を傍に置いたとして、果たして彼女は笑うだろうか。
そんな不当な形で「二番手」だと伝えたなら——
翡翠の瞳は曇り、あの澄んだ光を永遠に失ってしまうだろう。
胸の奥に鋭い痛みが走った。
だから、決して言葉にはしない。
その代わりに、ただひとつの想いだけを深く抱きしめる。
——誰にも渡したくない
彼女の存在が光であれ影であれ、この手の中に留めておきたい。
失うことだけは、どうしても受け入れられなかった。
煖炉の火がぱち、と音を立てた。
柔らかな橙の光が二人を包む。
アランは未だ俯き、指先を固く組んでいる。
その肩が、微かに震えていた。
レギュラスは静かに息を吸った。
迷いを振り払い、声を整える。
「…… アラン。覚えておいてください。僕が今日、あなたに伝えたことを」
灰色の瞳が、ゆらぐ炎と湖底の青を一緒に映している。
その瞳は冷たくも、どこまでも穏やかだった。
彼の声には命令も懇願もなく、ただひとつの祈りが宿っていた。
彼女の胸の奥に、この言葉が刻まれるようにと。
ためらうことなく、レギュラスは彼女の手を取った。
細く、白く、柔らかな指先。
触れた瞬間、冷たい温度が掌へと伝わる。
それはまるで、雪のように儚い温度だった。
アランが驚いたように顔を上げる。
翡翠の瞳が大きく揺れた。
その中に映るのは、まだ迷い。まだ戸惑い。
拒絶にも承諾にも届かぬ、不安と揺らぎの光。
——それでいい。今はまだ。
レギュラスはゆっくりと目を伏せた。
それ以上の言葉は必要なかった。
焦れば、彼女の心を傷つけるだけだ。
けれど、今刻まれたこの想いは、確かに未来へと波紋を広げる。
いつか、彼女がひとり静かな夜を過ごす時——
この温もりを思い出してくれたなら。
その記憶が、必ず彼女の胸を叩き返すだろうと信じていた。
煖炉の炎がふいに大きく爆ぜ、赤い光が石壁に散る。
その瞬間、二人の影が壁に映し出された。
灰色と翡翠。
その二つの影は、揺れながらも重なり合い、まるで鎖のように結びついていた。
儚く揺れるその影を見つめながら、レギュラスの胸にはただ一つの言葉が刻まれていく。
——何があっても、彼女を手放さない。
たとえこの誇り高き家に背を向けることになろうとも。
たとえ、世界そのものを敵に回すことになろうとも。
その決意だけは、誰にも奪わせはしない。
燃える炎がふたたび弾け、湖底の光が揺らめく。
静寂の中で二人の影は、まるで運命の糸に縛られたように、寄り添いながら静かに溶けていった。
——複雑だった。
レギュラスのまっすぐな告白。
避けようとしても、どこにも逃げ場がなかった。
「幼馴染としてではなく、一人の女の子として好きだ」と語ったときの、あの灰色の瞳の熱。
言葉の意味も、声音の震えも、息づかいの温度も、すべてが胸の奥に刻まれて離れなかった。
それは、決して触れてはいけない炎だった。
ひとたび手を伸ばせば、自分だけでなく、セシール家の名までも燃やし尽くしてしまう。
わかっている。わかっているのに——。
アランの心は、抗えないほど揺れていた。
そして、その想いを抱いたまま迎えてしまった。
ダンスパーティーの当日を。
磨かれた床には、橙に霞む窓硝子を透けて落ちる光の帯が細く伸び、その上を埃が舞いながらきらめいている。
冷たい石壁は、まるでその光を抱くように淡く温もりを帯び、ひとときだけ、静かな午後のぬくもりが世界を包んでいた。
その光の中を、アランは歩いていた。
両腕には厚い課題の束。書き込みで歪んだ紙の端が、腕の中で揺れている。
彼女の歩みは慎重だった。けれど、その足取りのどこかに疲れが滲んでいる。視線はいつもより低く、手元の文字ばかりを追っていた。
思考の中に沈み込み、周囲の気配などとうに遠くに置き去りにしていた。
そのとき——。
「なぁ、アラン」
その声は、夕暮れの静寂を破って真っ直ぐに届いた。
柔らかいのに、胸の奥を打つような響き。
アランは足を止め、振り返った。
背後に立っていたのは、シリウス・ブラック。
光の中に立つその姿は、まるで時間を切り取った絵のようだった。
壁に寄りかかることもなく、まっすぐに立つ。
その姿勢には怯むことのない意志が宿っている。
いつものように口元に浮かぶ笑みはなく、灰色の瞳は真剣な色を帯びていた。
燃えるように強く、それでいて静かに、何かを決意した者の光を湛えている。
アランの心臓が、ひとつ大きく鳴った。
「ダンスパーティさ。お前、一緒に行かねぇか?」
一瞬、世界が止まったように感じた。
耳の奥で血の音が高鳴り、抱えていた紙束がふっと軽くなる。
理解が追いつかず、彼女はただその場に立ち尽くした。
胸の奥に、熱がじわりと灯る。
いま確かに——彼は自分を誘ったのだ。
「……私を? パーティに?」
掠れる声が唇を震わせた。
口に出した瞬間、その響きが現実を形に変えていく。
夢のようだと思った。
王子様のような誰かが、物語の登場人物ではなく、自分の名を呼んだ。
そんなこと、あるはずがないのに。
「でも……私、スリザリンだし……」
気づけば、声がこぼれていた。
不安という名の影が、夕暮れの光を薄く覆う。
けれどその影を、シリウスはあっけなく笑い飛ばした。
「んなもん気にすんな。これは寮を超えたイベントなんだから」
軽やかに笑う彼の声。
その笑みには、どんな境界も意味を持たせない強さがあった。
灰色の瞳が冴えた光を放ち、背負うものすら軽々と跳ね返すようだった。
彼はいつもそうだ。
世界を分ける壁を、ひとつずつ壊していく。
その真っ直ぐな強さが、アランの胸をやさしく侵していく。
気づけば、不安も言葉も、彼の前では形をなくしていた。
「でも……私、ドレスなんて一枚も持ってないわ」
現実がふと顔を覗かせた。
おずおずとした声で俯いたまま、指先が課題の紙をぎゅっと握る。
その様子に、シリウスは大げさに肩を竦めて笑った。
「心配すんな。俺とお揃いのやつを着よう! 当日までにちゃんと用意しとく」
その言葉が、胸の奥で花開いた。
一瞬で世界が色づく。
夕陽の光が揺れて、彼の灰色の瞳を金に染める。
アランの頬に、ふわりと熱が上がった。
息を呑むほどに心臓が暴れ、胸の奥から溢れる何かが抑えきれない。
頭の中に、はっきりとした光景が浮かぶ。
煌めくシャンデリアが天井を照らす大広間。
楽団の奏でる優雅な旋律。
円を描いて舞う人々の中で、彼の手を取って踊る自分——。
その幻想は、夢ではなく、もうすぐ触れられる現実のように思えた。
「……っ」
熱を隠そうと、両手で頬を覆う。
けれど翡翠の瞳は、喜びの光を宿していた。
潤んで揺れ、夕陽の反射にきらめくそれは、幸福そのものの証。
——まさか、自分が。
シリウス・ブラックに誘われる日が来るなんて。
心臓の鼓動が、服の下で激しく跳ねる。
息を整えようとしても、胸の奥の高鳴りは止まらない。
言葉が溶け、世界が霞む。
アランは小さく唇を震わせ、かすれた声で答えを零した。
「……はい」
その一言が、廊下の静寂に柔らかく落ちた。
次の瞬間、夕暮れの光はふたりの輪郭をやさしく包み込む。
世界が切り替わるように、そこにはもう誰もいない。
残されたのは、光と影と、ふたりの呼吸だけ。
まるで、これから始まる舞踏の幕開けを、夕陽が静かに祝福しているかのようだった。
返事を告げた瞬間、シリウスの唇にぱっと明るい笑みが咲いた。
その笑顔は、夕暮れの光を映して輝く。廊下の橙色の影がゆるやかに彼の頬を撫で、まるで光そのものが彼の中からこぼれているかのようだった。
「よかったー。誘われてたらどうしようって心配してたんだ」
軽やかに放たれた言葉。
その声音にはいつものような冗談めいた響きが混じっていたが、瞳の奥には揺るぎのない真剣さが宿っていた。
柔らかな笑みの裏で、安堵がはっきりと浮かんでいる。まるで胸の奥で長い間抑えていた息をようやく吐き出せたような——そんな表情だった。
アランの胸が小さく震える。
(誘われてたら……? 誰に?)
ふと脳裏に疑問が過る。
自分の周囲にいるのは、レギュラスや同室の友人たちくらい。
誰かに「パートナーになってほしい」と求められるようなことなど、一度もなかった。
そんな世界は、自分には無縁のものだと思っていた。
だからこそ、シリウスの言葉は、遠く現実離れした光景のように感じられた。
「……シリウスこそ、他の方から誘われてるんじゃありませんか?」
気づけば、思わず声に出していた。
問うように、けれどどこか怯えるように。
自分の口から出た言葉に、アラン自身が驚いた。
だが、その裏には確かな不安があった。
——あの更衣室で耳にした女生徒たちの囁きが甦る。
「レギュラスを誘いたい」と言っていた、あのときの熱っぽい声。
けれどその中には、シリウスの名も何度も上がっていたのを覚えている。
華やかで、自由で、誰もが目を奪われる存在。
兄弟揃って人々の注目を浴びる彼らが、誰からも誘われないはずがない。
アランはわずかに俯き、胸の奥で言葉を探した。
光が床に長く伸び、彼女の影を包むように寄り添っている。
沈黙が一瞬、ふたりの間をやさしく満たした。
その沈黙を破るように、シリウスが息を弾ませながら、はっきりと告げた。
「俺はアランと踊りたいんだよ」
まっすぐな声。
そこには飾りも駆け引きもなかった。
ただ、真実だけがあった。
笑みを浮かべた唇から放たれたその言葉が、まるで矢のように心臓の奥へ届いた。
軽やかに見えて、その芯は強く、熱を帯びている。
「……っ」
胸が大きく跳ねた。
世界がその瞬間だけ、音を失った。
鼓動の音だけが、耳の奥で波のように響く。
選ばれた——。
その事実が、ゆっくりと心の中に沁みていく。
自分なんかが、と何度思ってきただろう。
爵位もなく、財もなく、ただ仕える立場で生きてきた。
人より優れているものなど一つもないと、ずっと思っていた。
それでも。
今この瞬間、シリウスの言葉がその思いをすべて覆した。
彼は、他の誰でもなく、アランを選んだ。
「アランと踊りたい」と言った。
たったそれだけの言葉が、胸の奥を熱で満たしていく。
その熱はじんわりと広がり、翡翠色の瞳が潤み、頬まで紅く染まっていく。
指先が震え、唇がかすかに開いた。
頬を両手で覆い、どうしても収まらない熱を隠そうとするしかなかった。
光が静かに廊下を満たす。
夕陽が差し込む窓の外では、遠くで鳥が翼を鳴らす。
まるで世界が祝福しているかのように、柔らかな風が髪を揺らした。
——彼に選ばれた。
その言葉が胸の奥で反響するたびに、身体が震える。
それはどんな呪文よりも強く、どんな魔法よりも甘い。
心の奥深くまで浸透していく。
それは、アランにとって生まれて初めての“魔法”だった。
そして彼女はもう、それを解く術を知らなかった。
スリザリンの談話室は、夜になるとまるで別世界のようだった。
昼間のざわめきが嘘のように静まり返り、湖底から射し込む薄青い光が、壁の緑がかった石面にゆらゆらと揺れていた。
宙に浮かぶランプの灯りは霧を孕んだように柔らかく滲み、空気そのものが水の底に沈んだような静謐さを帯びている。
その空間は、ただ息をするだけで心の奥まで澄んでいくような、張りつめた静けさに包まれていた。
アランが扉を押し開けたとき、その静けさの中心に、ひとつの場面があった。
談話室の中央に、レギュラスが立っている。
彼の前には、赤らんだ頬の女生徒がひとり。
両手で大事そうに小さな包みを抱きしめ、何度も唇を開いては閉じ、勇気を掻き集めるように立っていた。
その瞳には、淡く輝く希望の光が宿っている。
彼女が差し出そうとしているのは、紛れもなく想いの証だった。
その瞬間、談話室全体のざわめきが遠ざかり、時間そのものが一瞬止まったかのように思えた。
「失礼。僕は出るつもりがなくて」
レギュラスの声は穏やかだった。
けれど、そこには一切の曖昧さがなかった。
淡々とした口調の奥に、はっきりとした拒絶の意志が宿っていた。
優しさを纏いながらも、決して誤解を残さない——そんな声だった。
女生徒の肩がわずかに震えた。
瞳が揺れ、口元が悲しげに歪む。
彼女は何も言えず、抱えていた包みを胸に引き寄せると、小さな吐息を漏らしながら踵を返した。
足音が床を叩き、やがて扉の向こうに消えていく。
淡い香りだけが、一瞬、空気の中に残った。
アランはその一部始終を、扉口で見てしまっていた。
声も出せず、ただ立ち尽くす。
見てはいけない瞬間に触れてしまったような後ろめたさと、胸の奥で渦巻く奇妙な痛みが混ざり合う。
それでも——どうしても視線を逸らすことができなかった。
(……綺麗な人だった)
そう思った。
透き通るような肌、光を受けて揺れる栗色の髪。
誰が見ても魅了されるであろう少女。
けれど、レギュラスはその手を取らなかった。
まるで最初から、選ぶという選択肢が存在しなかったかのように。
驚きが胸を満たしていく。
完璧な容姿、卓越した魔法の才能、教授たちからの信頼、そして同級生たちの羨望。
何もかもを手にしている彼が、どうしてこんなにも淡々としていられるのだろう。
彼にとって、愛や憧れなどは、もしかしたら遠い概念なのかもしれない。
——理想は、どれほど高みにあるのだろう?
そんな言葉が、胸の奥に静かに浮かんだ。
その時だった。
レギュラスがふと顔を上げ、こちらを見た。
目が合った瞬間、アランの心臓が跳ねる。
彼は表情を崩さず、まっすぐに歩み寄ってきた。
足音が柔らかく響き、ランプの灯が彼の髪に光を落とす。
「アラン」
名前を呼ばれる声が、静寂に染みわたる。
それだけで胸の奥が熱くなる。
「……パーティには出ないんですか?」
気づけば、問いが唇からこぼれていた。
思考よりも先に、感情が動いた。
レギュラスは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに穏やかに微笑んだ。
「聞こえていたんですね」
軽く言ったその声音に、アランは返す言葉を失った。
淡い微笑の裏に、どこか照れくささのようなものが覗いていて——胸の奥がざわめく。
「……あの、とても綺麗な方でしたのに」
言葉を選びながら、やっとそれだけを告げた。
だがレギュラスは小さく首を傾げ、真面目な表情で言う。
「スラグホーン先生からの課題があって。なかなか進まないんです。パーティなどに行っている場合ではなくて」
予想もしなかった返答に、アランは目を瞬かせた。
「レギュラス、あなたでも課題に追われることがあるんですね」
小さな笑みが自然とこぼれる。
思わずくすぐられるような、可笑しさと安心が入り混じった。
レギュラスはその笑みを受けて、ほんの少し肩を揺らして笑った。
「僕を完璧人間だと勘違いしていませんか?」
その声は柔らかく、湖底の光のように静かに広がった。
「……してます。完璧人間ですよ、あなたは」
アランは少し頬を染めながら言った。
半分は冗談。けれど、その半分は確かな本音だった。
レギュラスは目を細め、静かに笑った。
その笑みはどこか年相応で、人間らしい温もりを帯びていた。
彼の中にも迷いや弱さがあり、努力の跡がある。
その一片を垣間見たことで、アランの胸の奥がほんのりと温かく満たされていく。
湖底の光が、二人の横顔を青白く照らしていた。
ゆらめく影が壁に揺れ、静かな時間だけが流れていく。
完璧と呼ばれる少年にも、こうして息づく人間らしい瞬間がある。
そのことを知ってしまったことで、アランの胸はやさしく震えた。
けれど同時に——痛みも生まれる。
触れれば触れるほど、彼が遠い人だと感じてしまう。
優しさは距離を埋めるものではなく、むしろ際立たせる。
温かさと切なさがひとつになり、
夜の静けさに溶けていった。
スリザリン寮の談話室は、夜の帳にゆっくりと沈みつつあった。
湖底を通して射し込む光は、昼間よりもいっそう深く、青緑の影を帯びている。
その光が石壁をかすかに染め、厚いカーテンや天井の装飾を淡く揺らしていた。
冷たい空気の底で、煖炉の火がぱちぱちと乾いた音を立てる。
橙の炎と湖底の光が交じり合い、空間全体が冷たさと温かさを同時に抱えた、不思議な静寂を生み出していた。
アランはその光と影のあわいの中、暖炉のそばの椅子に腰を下ろしていた。
指先でノートの角をなぞり、閉じかけたページの隙間から淡いインクの香りが立ち上る。
外では水の流れる音が微かに響いていた。
宿題を終えようか、もう少し書こうか——そんな些細な思考の揺れの中で、静かな時間が流れていた。
「アラン、一緒に課題をしませんか」
背後からかけられた声に、アランは思わず振り向いた。
その声は静かなのに、不思議とよく通る。
そこに立っていたのは、レギュラス・ブラック。
腕に抱えた羊皮紙の束が、ランプの光を受けて淡く光る。
彼の黒髪は湖底の光を反射してわずかに青を帯び、整った横顔の輪郭が一層際立っていた。
「……どんな課題なんですか?」
恐る恐る問いかける。
彼が手にしているそれは、見慣れぬ文字が細かく並び、難解な魔法理論の香りを放っていた。
興味と不安が胸の中で入り混じる。
レギュラスは言葉少なに机の上へ羊皮紙を並べた。
静かな所作。
一枚、また一枚と広げられていく紙面には、幾つもの魔法陣と論理式が刻まれていた。
「多重層の魔法効果が互いに干渉する条件を整理し、その相違点を図解せよ」
彼は淡々と読み上げる。
そこに書かれていたのは、透明化呪文と防御魔法が重なった際の干渉。
幻影呪文と束縛魔法が併用されたときの失敗例。
条件ごとに原因を解析し、干渉を防ぎつつ効率的に発動させる仕組みを導く——。
それは、授業で扱う内容などとはまるで別次元の難題だった。
「……これを?」
アランは思わず呟いた。
驚きというより、言葉が追いつかない。
常人ならば一晩かけても理解できないほどの理論。
その紙面を見つめながら、彼女の声は自然に掠れていた。
レギュラスは小さく頷いた。
「ええ。難解ですが……とても面白いですよ」
声は穏やかで、どこか楽しげですらある。
彼にとってはこの難問すら、未知を解き明かす喜びのひとつなのだろう。
その声音に、石の部屋にわずかな温もりが滲んだ。
レギュラスは椅子を引き、ゆっくりと腰を下ろした。
その動きには無駄がない。
羽ペンを手に取り、羊皮紙に触れる瞬間、空気が静かに張り詰めた。
彼の筆先が滑らかに紙を走る。
規則正しい文字の列が、美しい旋律のように連なっていく。
けれど、アランは見てしまった。
その完璧な筆致の裏に、ほんの一瞬の停滞があることを。
羽ペンの動きがふと止まり、レギュラスの瞳が深く沈む。
考えている。
何かを組み合わせ、仮定を立て、また壊しては再構築している。
眉間にわずかに皺が寄る。
指先が羽ペンを握る力を強めるたび、静かな緊張が走る。
——この人は、ひと息で答えを導く天才ではないのだ。
そう気づいた瞬間、胸の奥で何かが柔らかくほどけた。
ずっと、彼は何でも完璧にこなす人だと思っていた。
努力よりも天賦の才で頂に立っているのだと、どこかで思い込んでいた。
けれど今こうして間近で見るとわかる。
彼の完璧さは、静かで果てしない試行錯誤の上に築かれたものだ。
見えないところで何度も失敗し、考え、削ぎ落として磨き上げた成果。
人前では決して弱さを見せず、完成された答えだけを差し出す。
だから人は彼を「無謬のレギュラス」と呼ぶのだ。
アランの視線が止まってしまう。
机の上に流れ込む青緑の光に照らされた横顔。
繊細な睫毛の影。
羽ペンを走らせる指先のしなやかな動き。
そして何より——彼の眼差しに宿る、静かな情熱。
その熱が、目には見えない波のようにアランの胸に伝わってくる。
息をするたびに胸が少し痛い。
温かいのに、切ない。
そんな相反する感情が、ひとつの場所で静かに溶け合っていた。
「……なんです?」
不意に声をかけられて、アランは小さく肩を跳ねさせた。
「え……? あ、ううん。なんでもないの」
慌てて笑みを作り、視線を逸らす。
心臓の鼓動が耳の奥でうるさく響いている。
レギュラスは小首を傾げ、わずかに目を細めた。
その表情は穏やかで、追及する気配もない。
再び羽ペンを取り、羊皮紙の上で淡い音を立て始めた。
インクが光を反射し、流れるような文字列がまた増えていく。
青緑の光が二人の間に漂い、静かな時間を編んでいく。
レギュラスの集中した横顔を見つめながら、アランは胸の奥にふっくらとした温かさを覚えた。
それは、彼の努力を知ってしまったことで芽生えた尊敬。
そして、それと同じくらい強い、どうしようもない切なさ。
彼の隣で過ごすこの静かな時間が、永遠ではないことを知っている。
けれど、それでもいいと思えた。
今だけは、この湖底の光に包まれて、彼の呼吸を感じながら——ただ静かに、もっとも信頼のおける友として心を寄せていたかった。
羽ペンのかすかな音だけが、スリザリンの談話室に流れる静寂を切り取っていた。
ランプの炎がかすかに揺れ、湖底から射し込む淡い青緑の光が石床に緑がかった影を落とす。
その光は煖炉の橙と混ざり合い、冷たい空気の中に微かな温もりを描いていた。
アランはノートを閉じかけ、指先に残るインクの香りをぼんやりと感じていた。
視線を落としたまま、静けさの中で心地よい倦怠に浸っていると、向かいに座っていたレギュラスが、ふと羽ペンを止めた。
インクの滴が紙に小さく落ちる音。
顔を上げた彼の瞳が、静かにアランを捉える。
その視線には、いつもの穏やかさと違う熱があった。
深く、真剣で、まるで心の奥まで射抜かれるような。
アランは思わずノートの上から目を外した。
「…… アラン」
低く呼ばれる声。
名を呼ばれただけなのに、胸の奥がひどく疼いた。
「なんです?」
どうにか答えた声は、自分でもわかるほど震えていた。
レギュラスは一呼吸を置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「僕は、あなたが好きです」
その言葉は、静かな湖面に石を落としたように響いた。
淡々とした口調なのに、そこには決して曖昧さのない、真っ直ぐな想いがあった。
「幼馴染としてではなく。ちゃんと——一人の女の子として、あなたのことが好きなんです」
時間が止まった。
火のはぜる音も、ランプの揺れも、遠くの水音も、すべてが遠のいた。
世界が静止し、アランの耳には自分の鼓動だけが響いていた。
(——いま、なんと?)
理解が追いつかない。
聞き間違いか、幻でも見ているのではないかと疑うほどに現実味がなかった。
完璧で、誰からも一目置かれる彼が。
自分のような、ただの使用人の娘を……好きだと言うなんて。
息が詰まり、喉が固まった。
指先が冷たくなり、何も言葉が出てこない。
レギュラスはそんな彼女の沈黙を待っていた。
けれどその沈黙を恐れず、むしろ確かめるように言葉を重ねた。
「そばにいてほしいんです。これから先も、ずっと」
その声音は、切実だった。
静かなのに、胸の奥まで響くような深さを持っていた。
アランの胸の中で、何かがざわりと音を立ててほどけていく。
あたたかくて、けれど苦しい。
夢のような言葉なのに、現実が痛いほどにそれを否定していた。
——でも。
この想いをまっすぐに受け取ってはいけない。
心の奥が警鐘のようにそう告げていた。
「ええ……」
やっとのことで声を出す。けれど、その声音は震えている。
「私の家は代々、ずっとブラック家に仕えていますし……」
それは、彼の告白への返事ではなく、逃げ場を探すための言葉だった。
精一杯、冷静を装って紡いだ言葉。
だが、震える唇はその努力を裏切っていた。
セシールの家—— アランの生まれた家は、何世代にもわたってブラック家に仕えてきた。
屋敷の手入れ、書簡の管理、細やかな奉仕。
その労の見返りとして一族は庇護を受け、代々その関係の中で生きてきた。
それは彼らにとって誇りであり、また逃れられない宿命でもある。
アランもまた、幼いころからその道を疑わなかった。
主に仕え、忠を尽くし、与えられた場所で生きていく——それが自分の在り方だと信じていた。
だから、本来ならこの屋敷に留まるつもりだった。
言われるまでもなく、ブラック家の傍に生きることが自分の未来だと思っていた。
けれど今、目の前で彼に「そばにいてほしい」と言われた瞬間、
その意味が、まったく違うものに変わってしまった。
心臓が痛いほど鳴っている。
呼吸をするたびに胸が軋む。
彼の瞳に宿る真剣な光が、恐ろしいほど眩しくて——目を逸らせなかった。
こんなにも純粋に、まっすぐに想われてしまったら。
この想いを拒むことが、どうしてこんなにも苦しいのだろう。
煖炉の火が小さくはぜ、灰がぱらぱらと舞い落ちる。
その音が、まるで二人の沈黙を慰めるようだった。
アランは唇を噛み、震える声を胸の奥に押し込めた。
「……レギュラス」
名を呼ぶ声はかすれて、溶けるように消えた。
目の前の彼は、ただ静かに微笑んでいた。
それは哀しみと決意が混ざった微笑みで、
その瞬間、アランの胸の奥に痛いほどの切なさが広がった。
——届かない想いほど、美しいものはない。
そう思ってしまった自分が、ひどく哀しかった。
「レギュラス……そんなの……おかしいわ……」
掠れる声を絞り出した瞬間、アランの掌は血の気を失い、指先が小さく震えた。
胸の奥にせき止めきれず溢れ出した感情が、体の芯を蝕んでいく。
どうにか抑えようとしても、こわばりは全身に広がり、心の奥で冷たい波が打ち寄せた。
だって、これは——本当に「おかしい」ことなのだ。
主が、使用人に恋をする。そんなことは許されない。
それは秩序を乱す背信であり、神聖な家名を汚す禁忌。
まして相手は、由緒正しきブラック家の嫡子。
その名にかけられた誇りと責務を知る彼が、そんな感情を抱いていいはずがない。
もしも、このことがオリオン様やヴァルブルガ様の耳に入れば——。
想像するだけで、胸の奥が凍りつく。
怒りと屈辱の炎は、アランひとりではなく、彼女の一族全てを呑み込むだろう。
代々ブラック家に仕えてきたセシールの家系。
その名誉と信頼は、一瞬の火花で灰になる。
それでも、レギュラスは静かに言葉を続けた。
「そうなんですけど……もし抑えられるような想いだったら、多分もっと前に……とっくにそうしてました」
その声音は淡々としていた。
けれど、静けさの奥には鋼のような決意があった。
言葉のひとつひとつが胸に突き刺さる。
彼は、そんなにも長く、そんなにも真剣に、自分を想い続けていたのだろうか。
胸の奥が痛んだ。呼吸が浅くなる。
その痛みが、愛おしさと恐怖を同時に呼び起こす。
「……オリオン様も、ヴァルブルガ様も……きっと、お怒りになるわ」
アランは震える声で理性をかろうじて掴もうとした。
だが、レギュラスは短く目を伏せ、すぐにまたその灰色の瞳を彼女に向けた。
「どうしたら……あなたと一緒になれるんでしょう」
息が止まる。
その言葉は、祈りにも似ていた。
完璧な人間が、決して問うはずのない愚直な問い。
けれど、だからこそ、その一言はあまりに重く、胸にのしかかった。
——どうしたら。
そんな道など、この世に存在しない。
身分も血筋も、宿命さえも、二人のあいだに深く根を張っている。
越えられぬ壁の前に立たされながら、それでも彼は「どうしたら」と問う。
誰かが答えを与えるのではなく、自ら道を切り開こうとしている。
その真っ直ぐさが、胸の奥を鋭く貫いた。
アランは目を伏せた。
目の前の少年の中に宿る誠実さと、燃えるような熱情が、あまりにまぶしかった。
そして——ふいに脳裏に蘇ったのは、あの夜の声だった。
「——俺は、一緒に生きていきたい」
シリウスの言葉。
迷いも恐れもなく、ただまっすぐに差し出された手のひら。
その言葉を聞いたとき、何も考えられなかった。
家系も、義務も、未来の難しさも。
ただ、その声だけで胸が満たされ、
「恋すること」が許されたように思えた。
けれど今。
レギュラスの告げた切実な言葉が、その幻想を静かに壊していく。
——そんな未来は、本当に叶うのだろうか。
シリウスが与えてくれた光の温もり。
レギュラスが差し出す静かな熱。
二人の想いが、異なる色で胸の奥に溶けていく。
どちらを選んでも、片方を失う痛みが待っている。
自由を選べば、セシール家が守ってきた絆を失う。
絆を選べば、自分の心を切り捨てる。
そのどちらも、彼女にとっては同じほど残酷だった。
胸が締め付けられる。
痛みに似た甘さが広がり、涙が滲む。
噛み殺した嗚咽が、喉の奥で震えた。
声を出せば崩れてしまう。だから、唇を強く結ぶしかなかった。
煖炉の火がぱち、と音を立てる。
炎が小さく揺れ、その赤が二人の横顔を淡く照らす。
レギュラスはその光の中で、ただ真っ直ぐにアランを見つめていた。
アランは視線を合わせられず、沈黙の底に沈んでいく。
その沈黙は、まるで火と氷のように相克していた。
触れれば溶けてしまう。離れれば凍りつく。
それでも——確かにそこにあったのは、理屈では届かない「熱」だった。
どうしようもなく、美しく、
そして、永遠に報われることのない恋の熱。
スリザリン寮の談話室は、夜の深まりとともに静けさを増していた。
湖底を通して射し込む深青の光が壁に滲み、緑がかった影を不規則に踊らせる。
煖炉の火は燃え残る薪をかすかに弾き、ぱちりと小さな破裂音を立てては、二人の沈黙を強調するように響いた。
アランの耳には、自分自身の心音ばかりが大きく鳴り響いていた。
胸をつかむような緊張、そして息を潜めようとしても収まらない浅い呼吸。
長椅子の一角に座るレギュラスの静かな姿が、湖底の光と火の影とに揺れて見える。
——どうしたら、このままずっと、一緒にいられるんだろう。
ふと、一瞬の油断のようにその思いが言葉になって零れた。
声が空気に溶けた瞬間、アラン自身の胸に鋭い罪悪感が走る。
翡翠の瞳を大きく揺らし、肩を小さく震わせる。困惑と怯え。
それを映した彼女の表情を見るだけで、レギュラスの胸には申し訳なさと後悔が込み上げた。
いけないことを口にしてしまったのだと、自分でも理解していた。
けれど、それでも——。
思いを秘めているだけでは、彼女はわかってくれないだろう。
そしていつか、気づかぬまま別の光にさらわれてしまうかもしれない。
それだけは、どうしても許せなかった。
レギュラスは深く息を吸った。
そして、いつになく強い声音で告げた。
「もし……もしもです」
言葉は慎重に、しかし確かに彼女の胸へ届くように。
「セシール家の娘であるあなたを、僕の妻にとできるなら——あなたは応えてくれますか?」
アランの思考は真っ白になった。
血が引くように冷えるのを自覚し、同時に胸の奥が熱で焼ける。
「……そんなこと……」
喉の奥で潰れた声が小さく響く。
ひりつくようにかすれたその言葉に、レギュラスの瞳は一層深みを帯びた。
「許されるわけがないわ……」
ようやく紡ぎ出せた返事は、壊れそうに弱かった。
けれど、その拒絶すら——彼は受け止める覚悟を崩さなかった。
灰色の瞳が真っ直ぐにこちらを捕らえる。
まるで、その答えを待ちかねていたかのように、一歩、彼は前へ。
「許されるように——動こうと思っているんです」
静謐を切り裂くその言葉は、火花のように鋭く散った。
名家の掟。
親の意志。
純血の誇りを背負わせる鎖。
それらすべてを承知した上で、そのすべてに抗うと言った。
アランの胸は強く波立ち、痛みにも似た熱が込み上げる。
——どうして、この完璧な人は。
難解な課題も、冷たい秩序も、すべてを悠然と乗り越える彼が。
どうしてこんなにも愚かしいまでに、叶い得ぬ未来へ手を伸ばそうとするのか。
その本気を、目の奥に滲む熱を、否定できなかった。
「……」
声を探す唇が震える。
けれど言葉は見つからない。
自分が答えれば、彼の想いはもっと強くなる。
拒めなければ、自分の大切な人々を裏切る。
それでも、胸を掴まれるように熱く脈打つこの鼓動は、理性さえ裏切ってしまっている。
火と水に挟まれたように。
煖炉の赤と湖底の緑青が交ざる談話室で、アランはただ揺れる瞳で彼を見返すほかなかった。
目の前の灰色の瞳は静謐そのものでありながら、一歩も退かぬ意志をたたえていた。
その視線に飲み込まれ、声を失いながらも、胸を締め付ける鼓動だけが裏切りのように大きく響き続けていた。
この家において、アランを「妻」と呼ぶ未来など、決して許されはしない。
レギュラスには、それが誰よりも明確にわかっていた。
ブラック家——純血と名誉を理想とし、誇りを血に刻み続ける家。
長い歴史の中で、数え切れぬほどの犠牲を払ってまで守られてきた掟がある。
その掟はもはや生きる証であり、血族の命脈そのもの。
父オリオンも、母ヴァルブルガも、それを誰よりも厳格に体現する者たちだった。
彼らの前で、「血を持たぬ娘を正妻に迎えたい」などと告げることは、神聖な家の誓いを侮辱するに等しい。
赦されることなど、決してない。
「妻にする」——その言葉の響きはあまりに甘美だった。
唇の奥でそっと形にしただけで、夢のような温かさが胸に広がる。
だが、現実の冷たさの前では、その温もりは泡のように消えてしまう。
理想を思えば思うほど、世界は冷たく正確に線を引く。
それでも。
どれほど目を背けようとも、レギュラスの胸には一つだけ浮かび上がる考えがあった。
——体裁を保つために、正妻にはいずれ名家の令嬢を迎えなければならない。
それがこの家の宿命であり、古い魔法界の枠組みの中で、誰も逆らえぬ「常識」だった。
純血を守るための結びつき。
権威と力を絶やさぬための結婚。
それは愛などという柔らかいものとは無縁の、計算された取引だ。
だが——。
アランを「側室」としてなら、この家の中に場所を与えられるのではないか。
名家の秩序の中で、彼女を“許される形”として置くことができるのではないか。
もし、彼女が自分の血を宿すことになれば、たとえ冷徹な掟であっても完全には拒めまい。
血が血を呼ぶ世界で、それは唯一、家の論理を揺るがせる“例外”になり得る。
——その方法ならば、現実的だ。
その思考が胸の奥に生まれた瞬間、レギュラスは自分を軽蔑した。
まるで彼女を所有物のように扱おうとする、その浅ましさ。
一番に尊び、守りたいはずの人を、制度の中に押し込めてしまおうとする、その狡さ。
「側室」として彼女を傍に置いたとして、果たして彼女は笑うだろうか。
そんな不当な形で「二番手」だと伝えたなら——
翡翠の瞳は曇り、あの澄んだ光を永遠に失ってしまうだろう。
胸の奥に鋭い痛みが走った。
だから、決して言葉にはしない。
その代わりに、ただひとつの想いだけを深く抱きしめる。
——誰にも渡したくない
彼女の存在が光であれ影であれ、この手の中に留めておきたい。
失うことだけは、どうしても受け入れられなかった。
煖炉の火がぱち、と音を立てた。
柔らかな橙の光が二人を包む。
アランは未だ俯き、指先を固く組んでいる。
その肩が、微かに震えていた。
レギュラスは静かに息を吸った。
迷いを振り払い、声を整える。
「…… アラン。覚えておいてください。僕が今日、あなたに伝えたことを」
灰色の瞳が、ゆらぐ炎と湖底の青を一緒に映している。
その瞳は冷たくも、どこまでも穏やかだった。
彼の声には命令も懇願もなく、ただひとつの祈りが宿っていた。
彼女の胸の奥に、この言葉が刻まれるようにと。
ためらうことなく、レギュラスは彼女の手を取った。
細く、白く、柔らかな指先。
触れた瞬間、冷たい温度が掌へと伝わる。
それはまるで、雪のように儚い温度だった。
アランが驚いたように顔を上げる。
翡翠の瞳が大きく揺れた。
その中に映るのは、まだ迷い。まだ戸惑い。
拒絶にも承諾にも届かぬ、不安と揺らぎの光。
——それでいい。今はまだ。
レギュラスはゆっくりと目を伏せた。
それ以上の言葉は必要なかった。
焦れば、彼女の心を傷つけるだけだ。
けれど、今刻まれたこの想いは、確かに未来へと波紋を広げる。
いつか、彼女がひとり静かな夜を過ごす時——
この温もりを思い出してくれたなら。
その記憶が、必ず彼女の胸を叩き返すだろうと信じていた。
煖炉の炎がふいに大きく爆ぜ、赤い光が石壁に散る。
その瞬間、二人の影が壁に映し出された。
灰色と翡翠。
その二つの影は、揺れながらも重なり合い、まるで鎖のように結びついていた。
儚く揺れるその影を見つめながら、レギュラスの胸にはただ一つの言葉が刻まれていく。
——何があっても、彼女を手放さない。
たとえこの誇り高き家に背を向けることになろうとも。
たとえ、世界そのものを敵に回すことになろうとも。
その決意だけは、誰にも奪わせはしない。
燃える炎がふたたび弾け、湖底の光が揺らめく。
静寂の中で二人の影は、まるで運命の糸に縛られたように、寄り添いながら静かに溶けていった。
——複雑だった。
レギュラスのまっすぐな告白。
避けようとしても、どこにも逃げ場がなかった。
「幼馴染としてではなく、一人の女の子として好きだ」と語ったときの、あの灰色の瞳の熱。
言葉の意味も、声音の震えも、息づかいの温度も、すべてが胸の奥に刻まれて離れなかった。
それは、決して触れてはいけない炎だった。
ひとたび手を伸ばせば、自分だけでなく、セシール家の名までも燃やし尽くしてしまう。
わかっている。わかっているのに——。
アランの心は、抗えないほど揺れていた。
そして、その想いを抱いたまま迎えてしまった。
ダンスパーティーの当日を。
