4章
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迷路の中で、異常反応が走ったのはほんの一瞬のことだった。
魔法観測室の結界が震え、赤い灯が点滅する。
ポートキーの反応。
しかも――二つ。
「……今、誰かが飛ばされた!」
緊迫した声が響く。
次いで報告が重なる。
「対象、ハリー・ポッター! それと……アルタイル・ブラック!」
瞬間、騎士団の作戦室にいた全員の血の気が引いた。
「アルタイル……?」
シリウスの声が掠れる。
トーナメントに選ばれてもいない少年が、どうして迷路の中に――。
彼の胸の奥で、心臓が破裂しそうなほどに跳ねた。
(まさか、そんな……。アルタイルが、ハリーと一緒に……!)
何かが起こっている。
それも、取り返しのつかないことが。
騎士団は即座に動いた。
魔法で座標を解析し、ポートキーの発信源を辿る。
呪文の光が部屋中を駆け巡り、円陣の中央に一つの地点が浮かび上がった。
――墓地。
「急げ!」
シリウスの声がほとんど叫びに近かった。
椅子を弾き飛ばすように立ち上がり、杖を掴んで転移陣に飛び込む。
次の瞬間、世界が反転した。
黒い風が吹きすさぶ中、騎士団のメンバーたちが次々と現れる。
そこはまるで、死そのものが息づく場所だった。
墓標が並び、湿った土が靴に絡みつく。
空は異様なほど暗く、空気が痛い。
息を吸うだけで肺が焼けるようだった。
「……なんて場所だ……」
リーマスの声が低く響く。
シリウスの目が鋭く光る。
視線の先――そこに、ハリーとアルタイルがいた。
ハリーは墓碑に縛り付けられ、
アルタイルはその傍で膝を折り、息も絶え絶えに座り込んでいた。
彼らの周囲には黒いローブを纏った者たち。
デスイーターたちがずらりと並び、杖を構えている。
その中央には――闇の帝王。
「……ハリー!! アルタイル!!」
シリウスが杖を振り上げた瞬間、
金色の閃光が走り、子どもたちを縛っていた呪縛が弾け飛んだ。
「行くんだ!!」
ジェームズの号令と共に、戦いが始まった。
轟音。閃光。叫び。
呪文の光が空を切り裂き、
墓地の石を砕き、地面を焦がす。
「プロテゴ!」
「ステューピファイ!」
「エクスパルソ!」
怒号と呪文が交錯する。
デスイーターたちはまるで狂気そのもののように攻撃を繰り返し、
騎士団は防御と反撃を織り交ぜながら子供たちを守るように戦った。
闇の帝王の声が響く。
「愚か者どもめ……!」
彼の杖が動くたびに、
地面が裂け、黒い炎が空を焼いた。
それでも、騎士団は一歩も退かない。
その中心に、シリウスとジェームズがいた。
「無事か!?」
振り向きざま、シリウスが叫ぶ。
ハリーが必死に頷く。
「シリウス、ヴォルデモートが……!」
「わかってる。何も言うな。」
シリウスの声は鋼のように冷たく、それでいて温かかった。
ジェームズがハリーを引き寄せ、強く抱きしめた。
「よく頑張ったな、息子……!」
その言葉は一瞬だった。
次の瞬間には杖を構え、再び闇へと立ち向かっていた。
シリウスはアルタイルの方へ駆け寄る。
少年は小刻みに震えていた。
泥にまみれた頬、涙の跡。
それでも、必死に立ち上がろうとしている。
「アルタイル……生きていてくれて、よかった。」
シリウスの声が震えていた。
本心だった。
もしこの子を失っていたら――自分はもう立っていられなかっただろう。
「……シリウス……」
アルタイルが震える声で名を呼ぶ。
その声に胸が詰まる。
この小さな体が、恐怖と絶望にさらされながらも、
友のためにここまで来たのだ。
なんて勇敢な子なのだろう。
どれほど怖かったか。
それでも立ち向かった。
「僕……何も……できませんでした……」
アルタイルの声は掠れていた。
シリウスは首を振る。
「何言ってるんだ。アルタイル……お前は強い。
お前は……俺の――俺の自慢の子だ。」
言うつもりはなかった。
こんな混乱の中で真実を明かすつもりなどなかった。
けれど、その言葉は自然と口を突いて出た。
抑えられなかった。
アルタイルの目が見開かれる。
けれど、何かを問い返す間もなく、
墓地の上空が激しく閃光で覆われた。
「今だ!! ポートキーを!!」
ジェームズが叫ぶ。
ハリーが手にしていた優勝杯を掲げる。
その表面に、再び魔力が宿るのが見えた。
「全員、掴め!!」
シリウスはアルタイルの肩を抱き寄せ、
他のメンバーたちも次々に手を伸ばす。
ポートキーが光を放つ瞬間、
ヴォルデモートの怒号が響いた。
「逃がすな――!!」
黒い炎が一斉に襲いかかる。
その瞬間、シリウスが叫んだ。
「プロテゴ・マキシマッ!!!」
眩い盾の光が仲間たちを包み込み、
次の瞬間――光が弾けた。
重力が反転する感覚。
世界がぐるりと回転し、
視界が白く染まっていく。
そして――静寂。
気づけば、彼らはホグワーツの石畳の上に倒れていた。
冷たい夜風が頬を撫でる。
ハリーは息を切らしながら笑い、
アルタイルはシリウスの腕の中で静かに涙をこぼした。
「……もう大丈夫だ。」
シリウスが囁く。
自分にも、少年にも、言い聞かせるように。
――この夜、闇は確かに強かった。
だが、それ以上に強かったのは、
命を賭して誰かを守ろうとした者たちの光だった。
夜の屋敷が震えていた。
ガラスの割れる音が、静まり返った廊下に響き渡る。
重厚な書斎の扉の向こうから、何かが床に叩きつけられる音がした。
次いで、低く押し殺したような唸り声。
レギュラス・ブラックは、狂気にも似た衝動に身を任せていた。
机の上に積み上げられていた書簡、文献、記録、全てを腕で払いのける。
羽ペンが宙を舞い、インク瓶が砕け、漆黒の液体が床一面に広がった。
硝子の破片が飛び散り、蝋燭台が倒れ、
壁にかけられていた古い地図が裂ける音が響いた。
息が荒い。
胸が焼けつくほどの憤りが止められなかった。
全身の血が逆流するような怒り。
それは恐怖と焦り、そして絶望の裏返しだった。
――まさか。
息子に、あの姿を見られるとは思わなかった。
闇の帝王の前に跪き、忠誠の印を掲げた自分を。
アルタイルが、あの場にいた。
よりによって、闇の帝王の復活の瞬間に。
“あの子の目に、自分はどう映ったのだろうか。”
父ではなく、怪物として。
信じてはいけない存在として。
その想像だけで、喉の奥が焼けるように熱くなった。
さらに最悪なのは、
アルタイルがハリー・ポッターのために迷路に入り、
命を賭けて彼を助けようとしたという事実だった。
それは、かつてアランがしたこととまったく同じだった。
――シリウスを守るために、ポッター夫妻襲撃の計画をダンブルドアに漏らした、あの夜。
それがどれほど多くの命を狂わせたかを知っていながら、
彼女は「正義」という言葉でその罪を正当化した。
今度は息子が、それを繰り返そうとしている。
同じ血。
同じ選択。
そして同じ“裏切り”を――。
「……アルタイルを……ホグワーツから呼び戻せ。」
使用人が動き出す。
低く絞り出した声は、怒りに震えていた。
書斎の扉の向こうで気配が動く。
やがて、静かに扉が開いた。
アランが立っていた。
白い寝間着の上に薄手のガウンを羽織り、
淡い光を灯した杖を手にしている。
床一面に広がったインクとガラス片、
乱れた書類の山を見て、彼女は息を呑んだ。
「レギュラス……何を――」
問いかける声を遮るように、
机を強く叩く音が響いた。
「今すぐにアルタイルを呼び戻してください」
その声には、有無を言わせぬ圧があった。
怒りと混乱と、かすかな恐怖が入り混じっている。
アランは何かを言おうとしたが、
言葉を選ぶ間もなく、また別の物音がした。
レギュラスが床に散らばった書類を踏みつけ、
窓際の棚に手をかけた。
次の瞬間、棚が横倒しに崩れ落ちた。
重い音が響く。
インクが新たに飛び散り、壁に黒い染みができた。
「どうして……こんなに。」
アランは呟きながら杖を構える。
壊れたガラスを浮かせ、
床に散った書類を魔法で一枚ずつ集め始めた。
「レパロ。」
小さな囁きが夜気に溶ける。
割れた器がひとつ、またひとつと元に戻る。
だが、その整然とした手つきが、
今のレギュラスには、かえって癇に障った。
「やめろ。」
低く、冷たい声だった。
アランの動きが止まる。
彼の怒りは、もはや理屈ではなかった。
「そんなものを直してどうする気です?
壊れたのは……これだけじゃない。」
アランの胸の奥に冷たいものが落ちた。
レギュラスはゆっくりと近づき、
アランの杖を掴む。
指先が彼女の手を強く押しのけ、杖を奪い取った。
わずかに残っていたインクの香りと、
割れたガラスの反射が床にちらつく。
静まり返った書斎に、
二人の呼吸だけが響いていた。
レギュラスの瞳は暗く、深く、
どこまでも沈んでいた。
怒りの奥に潜むのは――恐怖だった。
息子を失う恐怖。
家を、信念を、すべて崩されていく恐怖。
そして何より、
愛するこの女が、再び“正義”という名の裏切りを選ぶのではないかという恐怖だった。
アランは、その目をまっすぐに見つめた。
何も言わなかった。
ただ、静かに杖を奪われたまま、
その手の震えを見つめていた。
レギュラスの掌には、
奪い取った杖の冷たさがまだ残っていた。
そして、自分の心が
その冷たさと同じ温度まで落ちていくのを感じていた。
杖が、乾いた音を立てて床を転がった。
木の床を打つ小さな音が、やけに広い書斎に反響する。
ごろり、と転がり、やがて壁際で止まる。
アランはその音を聞きながら、
胸の奥で何かがひび割れる音を感じていた。
なぜ――。
なぜ、こんなにもこの人は怒りの色に染まっているのだろう。
怒鳴り声でもなく、罵倒でもない。
それ以上に、沈黙が恐ろしかった。
レギュラスの纏う空気が、まるで刃のように鋭く、触れただけで血を流しそうだった。
彼女は一歩、彼に近づいた。
けれど、その一歩が拒絶される。
肩越しに見えた横顔は、怒りと悲しみの境を行き来するように歪んでいた。
「……レギュラス。」
その名を呼んだ声は、震えていた。
答えはない。
ただ深く沈んだ息遣いだけが、
暗闇の中で熱を孕んでいる。
アランは静かに理解した。
――今は、この人のそばに立つべきではない。
これ以上、何を言っても、届かない。
怒りという名の濁流に飲まれているこの人には、
言葉など無力なのだ。
だから、アランは書斎を出ようとした。
背を向け、静かに歩き出す。
足音を立てないように、慎重に。
その瞬間――。
手首を掴まれた。
反射的に息が止まる。
鋭く、熱を帯びた手。
次の瞬間、体が引き戻された。
背中が本棚に叩きつけられる。
衝撃で本が上からぼとぼとと落ちてきた。
古びた表紙が裂け、紙片が宙を舞う。
積んでいたウイスキーの瓶が転がり落ち、
割れた硝子が床に散った。
琥珀色の液体が、夜の光を受けて鈍く光る。
その香りが空気に滲む。
まるで、静寂の中で世界が音を失ったようだった。
ただ、二人の荒い呼吸だけが響いている。
「レギュラス……?」
かすかに呼んだその名に、
返ってきたのは言葉ではなく、
激しい口付けだった。
衝撃で息が詰まる。
驚きと混乱と、ほんのわずかな恐れ。
唇を塞がれ、言葉は全て溶けた。
痛いほどの熱が押し寄せる。
それは愛の形をした怒りであり、
怒りの形をした愛だった。
掴まれた手首が、じりじりと痛む。
その痛みが、現実を思い出させる。
――この人は、壊れている。
胸の奥で何かが軋む音がした。
彼の腕の力はあまりに強く、
逃げる隙もなかった。
けれど、アランは抵抗しなかった。
彼が何に怯え、何に怒っているのか、
その全てを分かってしまっていたからだ。
この人は、恐れている。
息子を、家を、そして自分を――
何もかもを失うことを。
本棚の上から、最後の一冊が落ちた。
ぱらり、と開いたその中のページが、
微かな風にめくられ、
二人の間をかすめていく。
琥珀の液が床を伝い、
割れた硝子を濡らしながら
黒い影を作る。
その影が、まるでこの夜の結末のように
静かに広がっていった。
べつに、慰めてほしいわけではなかった。
話を聞いてほしいとも思わなかった。
ただ、そばにいてほしい――その言葉すら、違う気がした。
自分でも、何を求めているのかわからなかった。
ただひとつだけ確かなのは、出て行こうとするアランの背中に、心が激しく拒絶の声を上げていたこと。
それは理性の言葉ではなく、魂の奥底から漏れた悲鳴のようだった。
床に散らばる本がぼとぼとと音を立てて崩れ落ちる。
ページの一枚一枚が、彼女の心の中で破り捨てられていく記憶のように。
棚の上から転げ落ちた酒瓶が砕け、ガラス片が冷たい光を放つ。
純度の高いアルコールの匂いが部屋に満ち、むせ返るような酩酊を呼び起こした。
――世界そのものが、自分の罪を責めている。
そんな錯覚にとらわれた。
どこにも、自分の味方はいない。
言葉にできない焦燥と孤独が、胸の奥で膨張していく。
その中で、ただひとつ、アランの唇だけが静かな救いのようにそこにあった。
アランは何も言わなかった。
責めもせず、慰めもせず、ただ受け止めた。
その柔らかさに、彼女の理性が音を立てて崩れていく。
衝動のままに唇を重ねる。
それは求めるというより、すがりつくような行為だった。
貪るような熱が、互いの境界をゆっくりと溶かしていく。
息と息が触れ合うたび、世界の輪郭が曖昧になっていく。
金属の小さな音――
ベルトのバックルが外れる微かな響きが、部屋の静寂の中に痛いほど鮮やかに響いた。
それは、戻れない瞬間の合図のようでもあった。
アランは静かに目を閉じていた。
拒まれることも、受け入れられることもなく、ただ全てをそのままに受け止めていた。
その静けさが、かえって彼女の心をかき乱した。
だからこそ、今だけは。
この感情のすべてを、ぶつけてしまいたかった。
涙と怒りと哀しみと愛情と――
そのすべてを、どうしようもなく壊れそうな夜に、託すように。
灰色の夜に沈む音
背後の本棚に押し付けられたまま、逃げ場はどこにもなかった。
指先が木の冷たさを捉え、その感触が、いま自分が確かにここにいるという現実を突きつける。
目の前にいるのは、レギュラス。
いつも静謐で、どんな嵐の中でも揺らがないはずの彼が、いまはまるで壊れた波のように荒れていた。
「やめて」と言えば、彼の中にあるすべてのものを拒絶してしまうことになる。
その一言が、彼の崩れかけた心に最後の刃を突き立てることになる――
そう思うと、喉の奥で言葉が凍りついた。
痛みが走る。
鋭く、けれども不思議なほどに現実味を帯びた痛みだった。
それは罰のようでもあり、赦しのようでもあった。
その痛みの向こうに、彼の抱えているものが見える気がした。
言葉では届かず、涙でも流せない、どうしようもない苦しみ。
それが今、彼の体を通してぶつけられている。
――ならばせめて、受け止めたい。
共に背負うことができないのなら、彼が吐き出す痛みを、今だけは自分の中に留めておきたい。
たとえ、それがどんなに深く突き刺さっても。
身体が上下に揺れるたび、本棚が軋む。
まるで部屋そのものが二人の激情を拒むかのように、木材が悲鳴を上げた。
積み上げられた本が一冊、また一冊と落ちていく。
開かれたままのページが宙を舞い、白い紙がゆらゆらと床に舞い降りた。
その光景を、彼女はどこか遠くで見ていた。
焦点が合わないまま、視界の隅でページが散るのを追う。
それはまるで、壊れていく自分の心の断片のようだった。
レギュラスの息が首筋に触れる。
熱い。
それなのに、どこか哀しいほど冷たい。
彼の中に宿る焦燥と絶望が、皮膚を通して伝わってくる。
――どうして、こんな形でしか寄り添えないのだろう。
――どうして、愛はいつも痛みと背中合わせなのだろう。
胸の奥で、そんな言葉が静かに溶けていく。
指先が震え、肩がかすかに跳ねる。
そのたびに、木の棚が小さく鳴った。
外では風が吹いていた。
窓の隙間から忍び込む夜気が、汗ばむ肌を撫で、現実をほんの少しだけ取り戻させる。
けれど、次の瞬間にはまた、波のような熱に引き戻される。
崩れていく理性。
それでも、彼女はただ目を閉じていた。
これが終わるまで、受け止めるしかないと、心のどこかでわかっていた。
壊れゆく音の中で、唯一確かなのは――
互いが互いを失いたくないという、痛いほどの祈りだった。
静寂が降りた。
まるで嵐が過ぎ去ったあとのように、
書斎の中には、音ひとつなかった。
アランは床に伏したまま、
薄く開いた唇から浅い息をこぼしている。
動こうともしない。
いや、動けなかったのだろう。
レギュラスもまた、そこに座り込んでいた。
何かをしたいと思っても、
体が言うことを聞かなかった。
ただ、胸の奥から重たいものが溢れ出してくる。
――なぜ、こんなことをしてしまったのか。
こみ上げてくるのは、怒りではなく、後悔だった。
自分の手で壊したという実感が、
骨の奥まで沈んでくる。
「……すみません」
かすれた声でようやく言葉が出た。
情けないほど小さく、
自分に向けた懺悔のような声だった。
アランは、何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと体を起こした。
視線は合わせない。
それでも、その沈黙が、
どんな言葉よりも重く、痛かった。
レギュラスはそっと手を伸ばし、
崩れ落ちた彼女の肩を支えた。
衣服の乱れに指が触れる。
その冷たさが、彼女の心の距離を
まざまざと突きつけてくる。
ナイトドレスの胸元で、
結び目のレースがほどけていた。
指先で結び直そうとすると、
アランは小さく首を横に振った。
「……大丈夫です」
囁くような声だった。
それ以上、近づくなという意思が
静かに、確かに含まれていた。
レギュラスは動けなくなった。
その声に、全てを突き放された気がした。
アランは床に落ちていたショールを拾い上げ、
静かに身にかける。
その布が、まるで儀式のように
彼女をひとつの世界から切り離していく。
そして、何も言わずに書斎を出ていった。
扉が閉じる音が響いた。
その音が、妙に重くて長く残る。
レギュラスはその場に崩れ落ちるようにして座り込んだ。
インクの染みた床に手をつき、
深く、深く、息を吐く。
目を閉じても、焼きついた光景が離れない。
彼女の沈黙も、細い肩も、
離れていく背中の輪郭も。
「……僕は、何をしているんだ」
誰に聞かせるでもない独白。
返事はない。
ただ、夜の底が静かに彼を包み込んだ。
朝の大広間には、まだ冷たい光が差し込んでいた。
曇りがちな冬の陽は、ステンドグラスを淡く透かし、
白い光を食卓の上に落としている。
アルタイルは、フクロウ便で届いた封書をじっと見つめていた。
分厚い羊皮紙。黒い封蝋には、見慣れたブラック家の紋章。
封を切る前から、心臓の奥がずきりと疼いた。
――父からだ。
手紙の文面は、簡潔だった。
“今すぐに屋敷へ戻れ。”
それだけ。
たったそれだけなのに、胸の奥に突き刺さるような重みを持っていた。
アルタイルはゆっくりとそれを畳み、封を戻した。
戻れない。
今だけは、どうしても。
父の顔を思い浮かべるだけで、全身が強張る。
あの日のことが――墓地で見た、あの地獄のような光景が――何度も頭をよぎる。
闇の帝王の声。
血の匂い。
縛られたハリーの姿。
そして、あの中に確かにいた父の影。
黒い仮面をかぶっていても、
その声は、仕草は、息遣いまでも――息子には分かった。
もし、シリウスや騎士団のメンバーが助けに来てくれなかったら。
もし、あのまま儀式が終わっていたら。
父は、本当にハリーを殺していたのだろうか。
思考の端がぐらぐらと崩れる。
考えるたびに、喉が締めつけられるように痛い。
父は正しいと信じていた。
幼いころから、強く、正しく、美しい生き方を教えてくれた人だった。
その背中を、誇りに思っていた。
けれど――いまは、わからない。
レギュラス・ブラックは、純血主義を掲げている。
それはアルタイルも理解していた。
マグルと魔法族が完全に分かり合えない現実。
魔力の純度が薄れることへの懸念。
血筋を守るための戒め。
どれも理屈としては正しい。
けれど――
ハリーを思うと、その理屈は音を立てて崩れた。
彼の母はマグル生まれの魔女。
つまり、ハリーは混血だ。
だが、彼の中に流れる光は、
血の純度では測れないものだった。
勇気と、優しさと、決して折れない強さ。
それが、アルタイルの胸を焦がした。
「……父さんは、きっと許さないだろうな」
呟いた声が、広間の静けさに溶けて消える。
それでも、心の奥底では分かっていた。
純血という枠を越えてしまったハリーへの想いを、
もう、止めることはできない。
だからこそ、今は帰れなかった。
父の前に立てば、
自分の中の何かが――決定的に壊れてしまう気がした。
アルタイルは深く息を吸い、
封書をマントの内側へしまいこんだ。
そして静かに立ち上がる。
向かう先はひとつ。
――シリウス・ブラックのもとへ。
どうしても聞きたかった。
父と母のこと。
そして、自分の中でずっと燻っている血の違和感のこと。
彼だけが、その答えを知っているような気がした。
大広間の扉を押し開ける。
冬の風が、頬を冷たく撫でていった。
マントの裾がふわりと舞い上がる。
遠くに霞む空の向こうへ、
まるで導かれるように歩き出すアルタイルの背中は、
もう迷いの中にいなかった。
真実に向かうという痛みを知りながらも、
それでもなお、進むことを選んでいた。
ジェームズは、椅子の背にもたれたまま、天井を見上げていた。
頭の奥がじんじんと痛む。
どんな呪文を使っても消せやしない、重い現実がそこにあった。
――親友が真実を知ってしまった。
それはいつか来るとわかっていたことだった。
それでも、来てほしくなかった。
この瞬間だけは、永遠に先延ばしにできるものだと思っていた。
アラン・ブラックが産んだ子、アルタイル・ブラック。
その少年が――シリウスの子であるという事実。
あの墓地での戦闘のさなか。
混乱と怒号の中で、シリウスはアルタイルに向けて叫んだ。
「お前は俺の……俺の自慢の息子だ!」
その言葉が空気を裂いた瞬間、ジェームズの中で何かが崩れた。
ああ、ついに――この日が来てしまったのだ。
戦場でさえ胸を貫いたあの言葉が、今も脳裏から離れない。
その瞬間、長年守ってきた沈黙が、音を立てて壊れた気がした。
夜。
騎士団の拠点として使われている部屋の空気は、ひどく重たかった。
負傷者たちの治療のあと、誰もが口を閉ざしていた。
窓の外では、風が古い建物を軋ませている。
ジェームズは暖炉の火を見つめていた。
燃え上がる橙の炎が、まるで心を試すように揺らいでいる。
その時――扉を叩く音がした。
「……アルタイル・ブラックです」
若い声だった。
聞き慣れているはずなのに、なぜか心臓が跳ねる。
来てほしくなかった。
頭ではそう分かっているのに、体が反応してしまう。
「どうぞ」
ジェームズの声は、驚くほど低く掠れていた。
扉が静かに開く。
そこに立っていた少年は、戦いの余韻を引きずっていた。
顔には疲労の色が濃く、瞳の奥には何かを探すような焦燥が宿っている。
黒髪が炎に照らされて赤く染まり、頬の陰影を際立たせていた。
シリウスによく似ている――
あまりにも、似すぎていた。
それは単なる血の証明ではなく、
魂の奥に流れる何かの共鳴のようだった。
息を呑んだジェームズの横で、椅子を引く音がした。
「アルタイル……」
立ち上がったシリウスが、
まるで何年も会えなかった息子に再び出会った父親のように、
一歩、また一歩と近づく。
アルタイルは驚いたように瞬きをした。
次の瞬間、何も言えないまま抱きしめられた。
シリウスの腕が、強く彼を包む。
息が詰まるほどの抱擁。
それでもアルタイルは拒まなかった。
むしろ、ゆっくりとその背に手を回した。
「……生きていてくれてよかった」
シリウスの声が震えている。
掠れた音の中に、何年分もの悔恨と安堵が滲んでいた。
その光景を見ながら、ジェームズは奥歯を噛みしめた。
胸が痛かった。
どうしようもなく、痛かった。
親友が、自分の失った年月を、
ようやく取り戻したのだと思った。
だが同時に――これまで守ってきた嘘と沈黙の意味が、
音を立てて崩れていく気がした。
暖炉の火が、ぱちりと音を立てる。
橙の光が、二人の影を壁に映す。
抱き合う父と子の影が、重なって揺れている。
その光景が美しすぎて、胸が締めつけられた。
きっと、この瞬間は避けられなかった。
誰もが知るべき時を迎えたのだ。
ジェームズは静かに息を吐いた。
この再会が、祝福か、それとも悲劇の始まりか――
まだ誰にもわからなかった。
ただ一つだけ確かなのは、
長い間閉ざされていた運命の扉が、
今まさに音を立てて開いたということだった。
シリウスは、目の前に立つ少年をただ見つめていた。
その顔の輪郭、瞳の奥に宿る光、声の響き。
どれを取っても――懐かしい人の面影を宿していた。
「……アルタイル」
名前を呼んだ瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
言葉よりも先に、体が動いていた。
長い間、触れることさえ許されなかった“愛の証”を、この腕に抱きしめた。
少年の体温が、腕の中で確かに存在を主張している。
その温かさに、喉の奥が焼けるように熱くなる。
――ああ、生きていた。
――彼女が、この命を産み育ててくれたのだ。
溢れる思いが止まらなかった。
何年も、何十年も、心の奥に封じ込めてきたアランへの想い。
あの人の微笑みも、涙も、声も、
いつしか痛みと化して胸の奥深くに沈んでいた。
それを手放せずに、ただ前に進めないまま日々を重ねてきた。
けれど今――
この少年を抱きしめた瞬間、
その長い年月が報われたような気がした。
「お前は……あの人との、俺たちの――」
言葉が震える。
それでも、もう隠す意味などなかった。
アルタイルは黙ってその言葉を受け止めていた。
少年の瞳の奥には、動揺よりも、
どこか深く確かめるような静けさがあった。
シリウスはその瞳に、彼女の面影を見た。
あの人が笑うときの翡翠のような光。
あの優しさを、確かにこの少年は受け継いでいる。
「お前は強い子だ……」
声が滲んだ。
「正義を恐れず、光を信じる心を持っている。
まるで獅子の心臓を抱いているようだ。
それがどんなに誇らしいことか、わかるか?」
少年の肩に手を置くと、アルタイルは静かに頷いた。
ほんの一瞬、口元が笑みにゆるむ。
その笑顔が眩しすぎて、シリウスは胸の奥を掴まれるようだった。
二人は夜通し語り合った。
互いの時間を埋め合わせるように、途切れることなく。
アルタイルはホグワーツでの生活、
ハリーとの日々、
そして母アランのことを話した。
シリウスはそのすべてを聞きながら、
何度も頷き、何度も笑い、そして何度も胸を締めつけられた。
自分もまた、話した。
アランと別れてからの日々。
騎士団の本部で闇の魔法使いたちを追い、
戦い、そして生き抜いた年月を。
その間も、ただひとりの女性だけを思い続けていたことを。
それは懺悔のようであり、祈りのようでもあった。
語りながら、彼女がどれほど自分の人生に深く刻まれているかを、
改めて思い知らされた。
少しの沈黙のあと、アルタイルがぽつりとつぶやいた。
「どうして……母さんは、父さんを選んだんだろう」
その言葉が、刃のように心臓を刺した。
胸の奥に、今も残る夜の記憶が蘇る。
――あの日、伸ばした手を、取ってもらえなかった。
――“一緒にはいけないの”と、彼女は泣いていた。
あの夜から、シリウスの時間は止まっていたのかもしれない。
前に進むことも、忘れることもできずに。
その時、部屋の隅で黙っていたジェームズが口を開いた。
「アランの母――リシェル・ブラウンが王宮に連行されたんだ」
低く、淡々とした声。
「かつての罪の断罪のために、な。
彼女を守るために、アランは戻ったんだ。
レギュラス・ブラックの元へ」
アルタイルが驚いたように顔を上げた。
「……それで母さんは、父さんのところに?」
「おそらくな。あくまで憶測だが、
彼女らしい判断だと思う。その後、セシール家の一族は次々に要職についた。
代償としては、あまりにも重いがな」
ジェームズの言葉は冷静だったが、
その奥にある哀しみをシリウスは痛いほど感じ取っていた。
政治の駆け引き。
一族の名誉。
王宮の権力。
それらが絡み合い、アランの人生を縛っていった。
けれど、彼女を責める気にはなれなかった。
あの人は、愛を捨てたのではない。
守るために手放したのだ。
「彼女は……家族を守ったんだ」
シリウスの声は震えていた。
「俺は若かった。無謀で、愛だけで世界を変えられると思っていた。
けれど、あの人には背負うものがあったんだ」
炎が小さく弾ける音がした。
その音を聞きながら、シリウスはアルタイルの肩をそっと抱いた。
「お前が生まれてくれたこと、それがすべての答えだ。
アランは、愛を捨てたんじゃない。
愛を“残した”んだ」
アルタイルは目を伏せ、静かに頷いた。
その横顔に灯る影が、アランに生き写しだった。
暖炉の火がゆらゆらと揺れ、
三人の間に静かな時間が流れた。
シリウスは、目を閉じた。
ようやく息ができた気がした。
――この腕の中の命が、
あの人が生きた証なのだと、心から思えた。
屋敷に久しぶりの足音が響いた。
石畳の廊下を踏みしめるブーツの音が、冬の空気の中で静かに反響する。
その音を聞いただけで、アランの胸は跳ねた。
――アルタイルが帰ってきた。
長い休暇のあいだ、何度この瞬間を夢に見ただろう。
扉の向こうから「ただいま」と言って入ってくる息子の笑顔を思い浮かべるたびに、
胸の奥がじんわりと温かくなる。
けれど、実際に扉が開いた瞬間、
その温もりは息をする間もなくどこかへ消え去っていった。
「……ただいま、母さん」
穏やかで、落ち着いた声。
けれどその声音の奥に、かすかな張り詰めたものを感じた。
息子の瞳は静かで、どこか遠くを見ているようだった。
「おかえりなさい、アルタイル」
笑顔を作ろうとしたが、
喉の奥から出てくる声が思いのほか掠れていた。
自分でも驚くほどに、自然な笑顔が出せなかった。
それまでの時間、屋敷の中には奇妙なほどの静寂が流れていた。
外は霙まじりの雨。
屋根を叩く細やかな音だけが、耳に痛いほどに響いている。
暖炉の火は静かに燃えているのに、
なぜか空気が冷たい。
いつもなら、アルタイルが帰ってきたと知った瞬間、
使用人たちが軽やかに動き出し、温かいスープの香りが廊下に漂う。
だが今日は――誰も動かなかった。
その異様な空気を肌で感じ取った。
この家のすべてが、息を潜めているようだった。
まるで嵐の前の静けさのように。
「アルタイル」
低く、よく通る声が玄関の奥から響いた。
レギュラスの声だった。
いつもより低く、硬い。
それだけでアランの背筋に冷たいものが走る。
「書斎へ」
ただそれだけ。
命令のような声音だった。
その声を聞いたアルタイルの表情が一瞬だけ強張る。
けれど、何も言わずに頷いた。
「はい……父さん」
その返事の柔らかさが、かえって痛かった。
反論もしない。言い訳もしない。
ただ、静かに従うだけ。
アランはその背中を、ただ見送ることしかできなかった。
肩まで伸びた黒髪が光を受けて揺れ、
大きくなった背中がゆっくりと書斎へと消えていく。
その背に向かって何か言いたかった。
“おかえりなさい”の代わりに、
“行かないで”と。
けれど唇が動かなかった。
声に出せば、この沈黙が壊れてしまうような気がした。
扉が閉まる音が、屋敷全体に響く。
その音が、まるで心の中のどこかを打ち砕くようだった。
レギュラスとアルタイル――
父と息子のあいだに、何が起こっているのか。
そのことを、知らないのは自分だけ。
けれど、確かに何かが変わってしまっているのを感じていた。
目に見えない何かが、
三人のあいだに、静かに、けれど確実に割り込んでいる。
アランは廊下に立ち尽くしたまま、
閉ざされた扉の方を見つめ続けた。
息子を愛おしく思う気持ちと、
その行く先に漂う恐怖と、
胸の奥で絡まり合う二つの感情が、
冷えた空気の中でほどけぬままに渦を巻いていた。
やがて暖炉の火が小さく爆ぜ、
橙の火花がひとつ舞い上がった。
アランはその光を見つめながら、
小さく息をついた。
――あの部屋の中で、
いったいどんな言葉が交わされるのだろうか。
母として、知ることが怖かった。
書斎の扉が閉じられる音が、屋敷の静寂を切り裂いた。
深く沈んだような空気が満ちている。
重たいカーテンの隙間から差し込む陽光さえ、灰色にくすんで見えた。
机の上には開きかけの文書、書き散らされた手紙、止まったままの羽根ペン――
そのすべてが、まるで息を潜めてこの場の緊張を見守っているかのようだった。
アルタイルは、扉の前で立ち尽くしていた。
父と二人きりになるのは久しぶりのはずなのに、
どこか、呼吸が浅くなる。
胸の奥の鼓動が、静けさの中でやけに大きく響いた。
「……随分と自由にやっているそうですね」
沈黙を破ったのは、父の低い声だった。
抑え込まれた怒りの温度を孕んでいる。
目を合わせることができなかった。
「すみません、父さん……」
息を絞り出すように答えると、
レギュラスは椅子の肘掛けに手を置いたまま、
静かに息を吐いた。
「ハリー・ポッターとの関わりを絶ってください」
淡々とした声音。
だが、その冷たさは鋭い刃のようだった。
言葉の端に、一切の情がない。
「我々とは正反対の人間です」
アルタイルの胸がきしんだ。
喉の奥が焼けつくように痛い。
父のその言葉は、
単なる警告ではなく、
“線引き”だった。
純血主義の思想。
そして、闇の帝王に忠誠を誓う者としての立場。
そのどちらも、この瞬間、
父という存在の根幹にあるものとして立ちはだかっていた。
――あの優しい母は、この一面を知っているのだろうか。
知っていてなお、この人を愛しているのだろうか。
心の奥で、そんな問いが静かに生まれた。
母が微笑みながら語ってくれた父の思い出。
娘を抱き上げる彼の穏やかな手。
それらがすべて、今のこの男と結びつかなくなっていく。
シリウス・ブラック――
あの人と母が恋人だったという事実を知ってからというもの、
アルタイルの中で父という存在は、
徐々に、けれど確実に揺らいでいた。
“なぜ母は、この人を選んだのか。”
それがずっと、心の奥を占めて離れなかった。
「……父さん」
声が震えた。
視線を上げると、父の灰色の瞳が鋭くこちらを見つめている。
その冷たさに怯えながらも、
もう引き返せなかった。
「僕は……シリウス・ブラックの息子なんでしょう?」
部屋の空気が一瞬で変わった。
時間が止まったかのように、音が消える。
レギュラスの肩が、僅かに動いた。
「……どこで、それを」
額に手をあてる父の仕草。
その指の震えが、怒りなのか、後悔なのか、
アルタイルには分からなかった。
それでも確信した。
――これは真実だ。
「シリウスの魔法が……僕の杖と共鳴しました。
血が、僕を嘘つきにはしなかった」
自分の言葉が、空気を震わせて返ってくる。
レギュラスの沈黙が、
そのまま答えだった。
胸が苦しかった。
なぜ、こんなにも大切なことを、
どうして隠し通せたのか。
“なぜあなたは、そんな酷いことを平気でできるのですか。”
その問いが喉の奥まで込み上げてきたが、
声にならなかった。
唇を噛みしめ、
ただ父の表情を見つめた。
レギュラスは椅子を離れ、机の縁に片手をつく。
光を背に立つその姿は、
まるで影そのもののようだった。
「……お前には、知らなくていいことでした」
低く、絞り出すような声。
それが、最も残酷な答えだった。
その瞬間、
アルタイルの中で何かが崩れ落ちた。
信じていたもの。
憧れていたもの。
“父”という言葉に込めてきた尊敬や忠誠のすべてが、
音を立てて瓦解していく。
血が繋がっていようといまいと、
この瞬間、アルタイルにとってレギュラスは遠い人間になった。
沈黙が戻る。
窓の外で、風が木々を揺らす音がした。
そのざわめきが、かえって痛いほどに現実を突きつけてくる。
アルタイルは静かに立ち上がった。
何も言わず、父の目を見る。
そこには怒りも涙もなかった。
ただ、決意の色だけがあった。
――もう、あなたの言葉では僕は動かない。
その無言の意思が、
冷たい書斎の空気を震わせた。
そして、少年は扉に手をかけた。
背後から呼び止める声は、もうなかった。
閉ざされた扉の向こうに、
レギュラスの重い息だけが、
いつまでも響いていた。
廊下を駆け抜ける足音が、屋敷の静けさを裂いた。
アルタイルは胸の奥で何かが崩れ落ちる音を聞いていた。
書斎を出てからずっと、息がうまくできなかった。
胸の奥が焼けるように痛い。
喉が詰まり、涙が視界を滲ませる。
父――レギュラス・ブラック。
尊敬し、愛してきたその人が、
今や何よりも遠い存在になってしまった。
信じてきたものが、すべて崩れた音が、
まだ耳の奥で鳴り響いている。
息が苦しかった。
このままでは崩れ落ちてしまいそうで、
足が勝手に母の部屋へと向かっていた。
扉を開けた瞬間、
陽光がカーテンの隙間から差し込み、
部屋の中を柔らかな金色に染め上げていた。
アランが窓辺に座っていた。
膝の上には読みかけの本。
ゆったりとした白いドレスに包まれたその姿は、
まるで一枚の絵画のように静謐だった。
「アルタイル?」
振り向いた母の翡翠の瞳が、
真っ直ぐに自分を映した。
その光に触れた瞬間、胸の奥の堰が切れた。
――この瞳だ。
シリウスが“愛している”と言った、あの瞳。
どんな闇の中でも、決して濁らない、真実の色。
この人こそが、自分の“母”なのだ。
誰に何を言われようと、その事実だけは変わらない。
アルタイルはその場に駆け寄り、
母の胸にしがみついた。
アランは驚いたように目を瞬かせたが、
すぐに両腕で息子を包み込んだ。
「どうしたのです、アルタイル……」
柔らかな声が頭上から降ってきた。
その響きが、胸の奥に沁みるように優しかった。
指先が髪を撫でる。
その手のぬくもりに、全身がじんわりと解けていく。
「母さん……」
嗚咽混じりに呼ぶ声は、
幼い日のように震えていた。
アランは何も問わず、ただ静かに抱きしめ続けた。
彼女の心臓の鼓動が、耳元で穏やかに響いている。
それは確かに、生きている証の音。
愛されている証の音。
――父が誰であろうと、関係ない。
この人が、間違いなく“母”なのだ。
その事実が、アルタイルの心をどこまでも安堵で満たした。
母の肩口に顔を埋めながら、
涙が静かに頬を伝って落ちる。
それをアランの指がそっと拭った。
「大丈夫ですよ、アルタイル。
あなたは私の誇りです」
その一言で、胸の奥の痛みが少しだけほどけた。
けれど、同時に新しい痛みが生まれる。
――母は、どんな思いでシリウス・ブラックの手を離したのだろう。
どんな思いで、あの父の隣に立ち続けてきたのだろう。
想像すればするほど、胸が苦しくなった。
その人生のすべてが、
犠牲と忍耐と静かな決意で塗り重ねられているように思えた。
「……母さん」
名前を呼ぶ声が震えた。
アランは微笑んで、息子の頬に手を当てた。
その指先が、まるで祈るように優しい。
「私は大丈夫です。
あなたが無事に帰ってきてくれた、それだけで」
その言葉が、余計に胸に刺さった。
母はいつだって、自分より他人を先に案じる。
痛みも、悲しみも、決して表に出さない。
だからこそ、誰よりも強い。
けれど――その強さが、どれほど彼女を傷つけてきたのかを思うと、
息が詰まりそうだった。
「……母さん、僕、強くなります」
アルタイルは顔を上げ、真っ直ぐにその翡翠の瞳を見つめた。
「母さんが守ってきたものを、僕が守ります」
アランの表情に、静かな驚きが浮かんだ。
そして次の瞬間、柔らかく微笑んだ。
「あなたは本当に、優しい子ですね」
陽光がふたりの間に降り注ぐ。
その光が、どこまでも温かく、
まるで長い冬のあとに訪れる春の兆しのようだった。
だが、アランの胸の奥には、
ひとつの不安がひっそりと芽生えていた。
―この子がこれ以上、父と闇の運命に巻き込まれてしまいませんように。
その祈りを抱いたまま、
彼女は息子をもう一度、強く抱きしめた。
魔法観測室の結界が震え、赤い灯が点滅する。
ポートキーの反応。
しかも――二つ。
「……今、誰かが飛ばされた!」
緊迫した声が響く。
次いで報告が重なる。
「対象、ハリー・ポッター! それと……アルタイル・ブラック!」
瞬間、騎士団の作戦室にいた全員の血の気が引いた。
「アルタイル……?」
シリウスの声が掠れる。
トーナメントに選ばれてもいない少年が、どうして迷路の中に――。
彼の胸の奥で、心臓が破裂しそうなほどに跳ねた。
(まさか、そんな……。アルタイルが、ハリーと一緒に……!)
何かが起こっている。
それも、取り返しのつかないことが。
騎士団は即座に動いた。
魔法で座標を解析し、ポートキーの発信源を辿る。
呪文の光が部屋中を駆け巡り、円陣の中央に一つの地点が浮かび上がった。
――墓地。
「急げ!」
シリウスの声がほとんど叫びに近かった。
椅子を弾き飛ばすように立ち上がり、杖を掴んで転移陣に飛び込む。
次の瞬間、世界が反転した。
黒い風が吹きすさぶ中、騎士団のメンバーたちが次々と現れる。
そこはまるで、死そのものが息づく場所だった。
墓標が並び、湿った土が靴に絡みつく。
空は異様なほど暗く、空気が痛い。
息を吸うだけで肺が焼けるようだった。
「……なんて場所だ……」
リーマスの声が低く響く。
シリウスの目が鋭く光る。
視線の先――そこに、ハリーとアルタイルがいた。
ハリーは墓碑に縛り付けられ、
アルタイルはその傍で膝を折り、息も絶え絶えに座り込んでいた。
彼らの周囲には黒いローブを纏った者たち。
デスイーターたちがずらりと並び、杖を構えている。
その中央には――闇の帝王。
「……ハリー!! アルタイル!!」
シリウスが杖を振り上げた瞬間、
金色の閃光が走り、子どもたちを縛っていた呪縛が弾け飛んだ。
「行くんだ!!」
ジェームズの号令と共に、戦いが始まった。
轟音。閃光。叫び。
呪文の光が空を切り裂き、
墓地の石を砕き、地面を焦がす。
「プロテゴ!」
「ステューピファイ!」
「エクスパルソ!」
怒号と呪文が交錯する。
デスイーターたちはまるで狂気そのもののように攻撃を繰り返し、
騎士団は防御と反撃を織り交ぜながら子供たちを守るように戦った。
闇の帝王の声が響く。
「愚か者どもめ……!」
彼の杖が動くたびに、
地面が裂け、黒い炎が空を焼いた。
それでも、騎士団は一歩も退かない。
その中心に、シリウスとジェームズがいた。
「無事か!?」
振り向きざま、シリウスが叫ぶ。
ハリーが必死に頷く。
「シリウス、ヴォルデモートが……!」
「わかってる。何も言うな。」
シリウスの声は鋼のように冷たく、それでいて温かかった。
ジェームズがハリーを引き寄せ、強く抱きしめた。
「よく頑張ったな、息子……!」
その言葉は一瞬だった。
次の瞬間には杖を構え、再び闇へと立ち向かっていた。
シリウスはアルタイルの方へ駆け寄る。
少年は小刻みに震えていた。
泥にまみれた頬、涙の跡。
それでも、必死に立ち上がろうとしている。
「アルタイル……生きていてくれて、よかった。」
シリウスの声が震えていた。
本心だった。
もしこの子を失っていたら――自分はもう立っていられなかっただろう。
「……シリウス……」
アルタイルが震える声で名を呼ぶ。
その声に胸が詰まる。
この小さな体が、恐怖と絶望にさらされながらも、
友のためにここまで来たのだ。
なんて勇敢な子なのだろう。
どれほど怖かったか。
それでも立ち向かった。
「僕……何も……できませんでした……」
アルタイルの声は掠れていた。
シリウスは首を振る。
「何言ってるんだ。アルタイル……お前は強い。
お前は……俺の――俺の自慢の子だ。」
言うつもりはなかった。
こんな混乱の中で真実を明かすつもりなどなかった。
けれど、その言葉は自然と口を突いて出た。
抑えられなかった。
アルタイルの目が見開かれる。
けれど、何かを問い返す間もなく、
墓地の上空が激しく閃光で覆われた。
「今だ!! ポートキーを!!」
ジェームズが叫ぶ。
ハリーが手にしていた優勝杯を掲げる。
その表面に、再び魔力が宿るのが見えた。
「全員、掴め!!」
シリウスはアルタイルの肩を抱き寄せ、
他のメンバーたちも次々に手を伸ばす。
ポートキーが光を放つ瞬間、
ヴォルデモートの怒号が響いた。
「逃がすな――!!」
黒い炎が一斉に襲いかかる。
その瞬間、シリウスが叫んだ。
「プロテゴ・マキシマッ!!!」
眩い盾の光が仲間たちを包み込み、
次の瞬間――光が弾けた。
重力が反転する感覚。
世界がぐるりと回転し、
視界が白く染まっていく。
そして――静寂。
気づけば、彼らはホグワーツの石畳の上に倒れていた。
冷たい夜風が頬を撫でる。
ハリーは息を切らしながら笑い、
アルタイルはシリウスの腕の中で静かに涙をこぼした。
「……もう大丈夫だ。」
シリウスが囁く。
自分にも、少年にも、言い聞かせるように。
――この夜、闇は確かに強かった。
だが、それ以上に強かったのは、
命を賭して誰かを守ろうとした者たちの光だった。
夜の屋敷が震えていた。
ガラスの割れる音が、静まり返った廊下に響き渡る。
重厚な書斎の扉の向こうから、何かが床に叩きつけられる音がした。
次いで、低く押し殺したような唸り声。
レギュラス・ブラックは、狂気にも似た衝動に身を任せていた。
机の上に積み上げられていた書簡、文献、記録、全てを腕で払いのける。
羽ペンが宙を舞い、インク瓶が砕け、漆黒の液体が床一面に広がった。
硝子の破片が飛び散り、蝋燭台が倒れ、
壁にかけられていた古い地図が裂ける音が響いた。
息が荒い。
胸が焼けつくほどの憤りが止められなかった。
全身の血が逆流するような怒り。
それは恐怖と焦り、そして絶望の裏返しだった。
――まさか。
息子に、あの姿を見られるとは思わなかった。
闇の帝王の前に跪き、忠誠の印を掲げた自分を。
アルタイルが、あの場にいた。
よりによって、闇の帝王の復活の瞬間に。
“あの子の目に、自分はどう映ったのだろうか。”
父ではなく、怪物として。
信じてはいけない存在として。
その想像だけで、喉の奥が焼けるように熱くなった。
さらに最悪なのは、
アルタイルがハリー・ポッターのために迷路に入り、
命を賭けて彼を助けようとしたという事実だった。
それは、かつてアランがしたこととまったく同じだった。
――シリウスを守るために、ポッター夫妻襲撃の計画をダンブルドアに漏らした、あの夜。
それがどれほど多くの命を狂わせたかを知っていながら、
彼女は「正義」という言葉でその罪を正当化した。
今度は息子が、それを繰り返そうとしている。
同じ血。
同じ選択。
そして同じ“裏切り”を――。
「……アルタイルを……ホグワーツから呼び戻せ。」
使用人が動き出す。
低く絞り出した声は、怒りに震えていた。
書斎の扉の向こうで気配が動く。
やがて、静かに扉が開いた。
アランが立っていた。
白い寝間着の上に薄手のガウンを羽織り、
淡い光を灯した杖を手にしている。
床一面に広がったインクとガラス片、
乱れた書類の山を見て、彼女は息を呑んだ。
「レギュラス……何を――」
問いかける声を遮るように、
机を強く叩く音が響いた。
「今すぐにアルタイルを呼び戻してください」
その声には、有無を言わせぬ圧があった。
怒りと混乱と、かすかな恐怖が入り混じっている。
アランは何かを言おうとしたが、
言葉を選ぶ間もなく、また別の物音がした。
レギュラスが床に散らばった書類を踏みつけ、
窓際の棚に手をかけた。
次の瞬間、棚が横倒しに崩れ落ちた。
重い音が響く。
インクが新たに飛び散り、壁に黒い染みができた。
「どうして……こんなに。」
アランは呟きながら杖を構える。
壊れたガラスを浮かせ、
床に散った書類を魔法で一枚ずつ集め始めた。
「レパロ。」
小さな囁きが夜気に溶ける。
割れた器がひとつ、またひとつと元に戻る。
だが、その整然とした手つきが、
今のレギュラスには、かえって癇に障った。
「やめろ。」
低く、冷たい声だった。
アランの動きが止まる。
彼の怒りは、もはや理屈ではなかった。
「そんなものを直してどうする気です?
壊れたのは……これだけじゃない。」
アランの胸の奥に冷たいものが落ちた。
レギュラスはゆっくりと近づき、
アランの杖を掴む。
指先が彼女の手を強く押しのけ、杖を奪い取った。
わずかに残っていたインクの香りと、
割れたガラスの反射が床にちらつく。
静まり返った書斎に、
二人の呼吸だけが響いていた。
レギュラスの瞳は暗く、深く、
どこまでも沈んでいた。
怒りの奥に潜むのは――恐怖だった。
息子を失う恐怖。
家を、信念を、すべて崩されていく恐怖。
そして何より、
愛するこの女が、再び“正義”という名の裏切りを選ぶのではないかという恐怖だった。
アランは、その目をまっすぐに見つめた。
何も言わなかった。
ただ、静かに杖を奪われたまま、
その手の震えを見つめていた。
レギュラスの掌には、
奪い取った杖の冷たさがまだ残っていた。
そして、自分の心が
その冷たさと同じ温度まで落ちていくのを感じていた。
杖が、乾いた音を立てて床を転がった。
木の床を打つ小さな音が、やけに広い書斎に反響する。
ごろり、と転がり、やがて壁際で止まる。
アランはその音を聞きながら、
胸の奥で何かがひび割れる音を感じていた。
なぜ――。
なぜ、こんなにもこの人は怒りの色に染まっているのだろう。
怒鳴り声でもなく、罵倒でもない。
それ以上に、沈黙が恐ろしかった。
レギュラスの纏う空気が、まるで刃のように鋭く、触れただけで血を流しそうだった。
彼女は一歩、彼に近づいた。
けれど、その一歩が拒絶される。
肩越しに見えた横顔は、怒りと悲しみの境を行き来するように歪んでいた。
「……レギュラス。」
その名を呼んだ声は、震えていた。
答えはない。
ただ深く沈んだ息遣いだけが、
暗闇の中で熱を孕んでいる。
アランは静かに理解した。
――今は、この人のそばに立つべきではない。
これ以上、何を言っても、届かない。
怒りという名の濁流に飲まれているこの人には、
言葉など無力なのだ。
だから、アランは書斎を出ようとした。
背を向け、静かに歩き出す。
足音を立てないように、慎重に。
その瞬間――。
手首を掴まれた。
反射的に息が止まる。
鋭く、熱を帯びた手。
次の瞬間、体が引き戻された。
背中が本棚に叩きつけられる。
衝撃で本が上からぼとぼとと落ちてきた。
古びた表紙が裂け、紙片が宙を舞う。
積んでいたウイスキーの瓶が転がり落ち、
割れた硝子が床に散った。
琥珀色の液体が、夜の光を受けて鈍く光る。
その香りが空気に滲む。
まるで、静寂の中で世界が音を失ったようだった。
ただ、二人の荒い呼吸だけが響いている。
「レギュラス……?」
かすかに呼んだその名に、
返ってきたのは言葉ではなく、
激しい口付けだった。
衝撃で息が詰まる。
驚きと混乱と、ほんのわずかな恐れ。
唇を塞がれ、言葉は全て溶けた。
痛いほどの熱が押し寄せる。
それは愛の形をした怒りであり、
怒りの形をした愛だった。
掴まれた手首が、じりじりと痛む。
その痛みが、現実を思い出させる。
――この人は、壊れている。
胸の奥で何かが軋む音がした。
彼の腕の力はあまりに強く、
逃げる隙もなかった。
けれど、アランは抵抗しなかった。
彼が何に怯え、何に怒っているのか、
その全てを分かってしまっていたからだ。
この人は、恐れている。
息子を、家を、そして自分を――
何もかもを失うことを。
本棚の上から、最後の一冊が落ちた。
ぱらり、と開いたその中のページが、
微かな風にめくられ、
二人の間をかすめていく。
琥珀の液が床を伝い、
割れた硝子を濡らしながら
黒い影を作る。
その影が、まるでこの夜の結末のように
静かに広がっていった。
べつに、慰めてほしいわけではなかった。
話を聞いてほしいとも思わなかった。
ただ、そばにいてほしい――その言葉すら、違う気がした。
自分でも、何を求めているのかわからなかった。
ただひとつだけ確かなのは、出て行こうとするアランの背中に、心が激しく拒絶の声を上げていたこと。
それは理性の言葉ではなく、魂の奥底から漏れた悲鳴のようだった。
床に散らばる本がぼとぼとと音を立てて崩れ落ちる。
ページの一枚一枚が、彼女の心の中で破り捨てられていく記憶のように。
棚の上から転げ落ちた酒瓶が砕け、ガラス片が冷たい光を放つ。
純度の高いアルコールの匂いが部屋に満ち、むせ返るような酩酊を呼び起こした。
――世界そのものが、自分の罪を責めている。
そんな錯覚にとらわれた。
どこにも、自分の味方はいない。
言葉にできない焦燥と孤独が、胸の奥で膨張していく。
その中で、ただひとつ、アランの唇だけが静かな救いのようにそこにあった。
アランは何も言わなかった。
責めもせず、慰めもせず、ただ受け止めた。
その柔らかさに、彼女の理性が音を立てて崩れていく。
衝動のままに唇を重ねる。
それは求めるというより、すがりつくような行為だった。
貪るような熱が、互いの境界をゆっくりと溶かしていく。
息と息が触れ合うたび、世界の輪郭が曖昧になっていく。
金属の小さな音――
ベルトのバックルが外れる微かな響きが、部屋の静寂の中に痛いほど鮮やかに響いた。
それは、戻れない瞬間の合図のようでもあった。
アランは静かに目を閉じていた。
拒まれることも、受け入れられることもなく、ただ全てをそのままに受け止めていた。
その静けさが、かえって彼女の心をかき乱した。
だからこそ、今だけは。
この感情のすべてを、ぶつけてしまいたかった。
涙と怒りと哀しみと愛情と――
そのすべてを、どうしようもなく壊れそうな夜に、託すように。
灰色の夜に沈む音
背後の本棚に押し付けられたまま、逃げ場はどこにもなかった。
指先が木の冷たさを捉え、その感触が、いま自分が確かにここにいるという現実を突きつける。
目の前にいるのは、レギュラス。
いつも静謐で、どんな嵐の中でも揺らがないはずの彼が、いまはまるで壊れた波のように荒れていた。
「やめて」と言えば、彼の中にあるすべてのものを拒絶してしまうことになる。
その一言が、彼の崩れかけた心に最後の刃を突き立てることになる――
そう思うと、喉の奥で言葉が凍りついた。
痛みが走る。
鋭く、けれども不思議なほどに現実味を帯びた痛みだった。
それは罰のようでもあり、赦しのようでもあった。
その痛みの向こうに、彼の抱えているものが見える気がした。
言葉では届かず、涙でも流せない、どうしようもない苦しみ。
それが今、彼の体を通してぶつけられている。
――ならばせめて、受け止めたい。
共に背負うことができないのなら、彼が吐き出す痛みを、今だけは自分の中に留めておきたい。
たとえ、それがどんなに深く突き刺さっても。
身体が上下に揺れるたび、本棚が軋む。
まるで部屋そのものが二人の激情を拒むかのように、木材が悲鳴を上げた。
積み上げられた本が一冊、また一冊と落ちていく。
開かれたままのページが宙を舞い、白い紙がゆらゆらと床に舞い降りた。
その光景を、彼女はどこか遠くで見ていた。
焦点が合わないまま、視界の隅でページが散るのを追う。
それはまるで、壊れていく自分の心の断片のようだった。
レギュラスの息が首筋に触れる。
熱い。
それなのに、どこか哀しいほど冷たい。
彼の中に宿る焦燥と絶望が、皮膚を通して伝わってくる。
――どうして、こんな形でしか寄り添えないのだろう。
――どうして、愛はいつも痛みと背中合わせなのだろう。
胸の奥で、そんな言葉が静かに溶けていく。
指先が震え、肩がかすかに跳ねる。
そのたびに、木の棚が小さく鳴った。
外では風が吹いていた。
窓の隙間から忍び込む夜気が、汗ばむ肌を撫で、現実をほんの少しだけ取り戻させる。
けれど、次の瞬間にはまた、波のような熱に引き戻される。
崩れていく理性。
それでも、彼女はただ目を閉じていた。
これが終わるまで、受け止めるしかないと、心のどこかでわかっていた。
壊れゆく音の中で、唯一確かなのは――
互いが互いを失いたくないという、痛いほどの祈りだった。
静寂が降りた。
まるで嵐が過ぎ去ったあとのように、
書斎の中には、音ひとつなかった。
アランは床に伏したまま、
薄く開いた唇から浅い息をこぼしている。
動こうともしない。
いや、動けなかったのだろう。
レギュラスもまた、そこに座り込んでいた。
何かをしたいと思っても、
体が言うことを聞かなかった。
ただ、胸の奥から重たいものが溢れ出してくる。
――なぜ、こんなことをしてしまったのか。
こみ上げてくるのは、怒りではなく、後悔だった。
自分の手で壊したという実感が、
骨の奥まで沈んでくる。
「……すみません」
かすれた声でようやく言葉が出た。
情けないほど小さく、
自分に向けた懺悔のような声だった。
アランは、何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと体を起こした。
視線は合わせない。
それでも、その沈黙が、
どんな言葉よりも重く、痛かった。
レギュラスはそっと手を伸ばし、
崩れ落ちた彼女の肩を支えた。
衣服の乱れに指が触れる。
その冷たさが、彼女の心の距離を
まざまざと突きつけてくる。
ナイトドレスの胸元で、
結び目のレースがほどけていた。
指先で結び直そうとすると、
アランは小さく首を横に振った。
「……大丈夫です」
囁くような声だった。
それ以上、近づくなという意思が
静かに、確かに含まれていた。
レギュラスは動けなくなった。
その声に、全てを突き放された気がした。
アランは床に落ちていたショールを拾い上げ、
静かに身にかける。
その布が、まるで儀式のように
彼女をひとつの世界から切り離していく。
そして、何も言わずに書斎を出ていった。
扉が閉じる音が響いた。
その音が、妙に重くて長く残る。
レギュラスはその場に崩れ落ちるようにして座り込んだ。
インクの染みた床に手をつき、
深く、深く、息を吐く。
目を閉じても、焼きついた光景が離れない。
彼女の沈黙も、細い肩も、
離れていく背中の輪郭も。
「……僕は、何をしているんだ」
誰に聞かせるでもない独白。
返事はない。
ただ、夜の底が静かに彼を包み込んだ。
朝の大広間には、まだ冷たい光が差し込んでいた。
曇りがちな冬の陽は、ステンドグラスを淡く透かし、
白い光を食卓の上に落としている。
アルタイルは、フクロウ便で届いた封書をじっと見つめていた。
分厚い羊皮紙。黒い封蝋には、見慣れたブラック家の紋章。
封を切る前から、心臓の奥がずきりと疼いた。
――父からだ。
手紙の文面は、簡潔だった。
“今すぐに屋敷へ戻れ。”
それだけ。
たったそれだけなのに、胸の奥に突き刺さるような重みを持っていた。
アルタイルはゆっくりとそれを畳み、封を戻した。
戻れない。
今だけは、どうしても。
父の顔を思い浮かべるだけで、全身が強張る。
あの日のことが――墓地で見た、あの地獄のような光景が――何度も頭をよぎる。
闇の帝王の声。
血の匂い。
縛られたハリーの姿。
そして、あの中に確かにいた父の影。
黒い仮面をかぶっていても、
その声は、仕草は、息遣いまでも――息子には分かった。
もし、シリウスや騎士団のメンバーが助けに来てくれなかったら。
もし、あのまま儀式が終わっていたら。
父は、本当にハリーを殺していたのだろうか。
思考の端がぐらぐらと崩れる。
考えるたびに、喉が締めつけられるように痛い。
父は正しいと信じていた。
幼いころから、強く、正しく、美しい生き方を教えてくれた人だった。
その背中を、誇りに思っていた。
けれど――いまは、わからない。
レギュラス・ブラックは、純血主義を掲げている。
それはアルタイルも理解していた。
マグルと魔法族が完全に分かり合えない現実。
魔力の純度が薄れることへの懸念。
血筋を守るための戒め。
どれも理屈としては正しい。
けれど――
ハリーを思うと、その理屈は音を立てて崩れた。
彼の母はマグル生まれの魔女。
つまり、ハリーは混血だ。
だが、彼の中に流れる光は、
血の純度では測れないものだった。
勇気と、優しさと、決して折れない強さ。
それが、アルタイルの胸を焦がした。
「……父さんは、きっと許さないだろうな」
呟いた声が、広間の静けさに溶けて消える。
それでも、心の奥底では分かっていた。
純血という枠を越えてしまったハリーへの想いを、
もう、止めることはできない。
だからこそ、今は帰れなかった。
父の前に立てば、
自分の中の何かが――決定的に壊れてしまう気がした。
アルタイルは深く息を吸い、
封書をマントの内側へしまいこんだ。
そして静かに立ち上がる。
向かう先はひとつ。
――シリウス・ブラックのもとへ。
どうしても聞きたかった。
父と母のこと。
そして、自分の中でずっと燻っている血の違和感のこと。
彼だけが、その答えを知っているような気がした。
大広間の扉を押し開ける。
冬の風が、頬を冷たく撫でていった。
マントの裾がふわりと舞い上がる。
遠くに霞む空の向こうへ、
まるで導かれるように歩き出すアルタイルの背中は、
もう迷いの中にいなかった。
真実に向かうという痛みを知りながらも、
それでもなお、進むことを選んでいた。
ジェームズは、椅子の背にもたれたまま、天井を見上げていた。
頭の奥がじんじんと痛む。
どんな呪文を使っても消せやしない、重い現実がそこにあった。
――親友が真実を知ってしまった。
それはいつか来るとわかっていたことだった。
それでも、来てほしくなかった。
この瞬間だけは、永遠に先延ばしにできるものだと思っていた。
アラン・ブラックが産んだ子、アルタイル・ブラック。
その少年が――シリウスの子であるという事実。
あの墓地での戦闘のさなか。
混乱と怒号の中で、シリウスはアルタイルに向けて叫んだ。
「お前は俺の……俺の自慢の息子だ!」
その言葉が空気を裂いた瞬間、ジェームズの中で何かが崩れた。
ああ、ついに――この日が来てしまったのだ。
戦場でさえ胸を貫いたあの言葉が、今も脳裏から離れない。
その瞬間、長年守ってきた沈黙が、音を立てて壊れた気がした。
夜。
騎士団の拠点として使われている部屋の空気は、ひどく重たかった。
負傷者たちの治療のあと、誰もが口を閉ざしていた。
窓の外では、風が古い建物を軋ませている。
ジェームズは暖炉の火を見つめていた。
燃え上がる橙の炎が、まるで心を試すように揺らいでいる。
その時――扉を叩く音がした。
「……アルタイル・ブラックです」
若い声だった。
聞き慣れているはずなのに、なぜか心臓が跳ねる。
来てほしくなかった。
頭ではそう分かっているのに、体が反応してしまう。
「どうぞ」
ジェームズの声は、驚くほど低く掠れていた。
扉が静かに開く。
そこに立っていた少年は、戦いの余韻を引きずっていた。
顔には疲労の色が濃く、瞳の奥には何かを探すような焦燥が宿っている。
黒髪が炎に照らされて赤く染まり、頬の陰影を際立たせていた。
シリウスによく似ている――
あまりにも、似すぎていた。
それは単なる血の証明ではなく、
魂の奥に流れる何かの共鳴のようだった。
息を呑んだジェームズの横で、椅子を引く音がした。
「アルタイル……」
立ち上がったシリウスが、
まるで何年も会えなかった息子に再び出会った父親のように、
一歩、また一歩と近づく。
アルタイルは驚いたように瞬きをした。
次の瞬間、何も言えないまま抱きしめられた。
シリウスの腕が、強く彼を包む。
息が詰まるほどの抱擁。
それでもアルタイルは拒まなかった。
むしろ、ゆっくりとその背に手を回した。
「……生きていてくれてよかった」
シリウスの声が震えている。
掠れた音の中に、何年分もの悔恨と安堵が滲んでいた。
その光景を見ながら、ジェームズは奥歯を噛みしめた。
胸が痛かった。
どうしようもなく、痛かった。
親友が、自分の失った年月を、
ようやく取り戻したのだと思った。
だが同時に――これまで守ってきた嘘と沈黙の意味が、
音を立てて崩れていく気がした。
暖炉の火が、ぱちりと音を立てる。
橙の光が、二人の影を壁に映す。
抱き合う父と子の影が、重なって揺れている。
その光景が美しすぎて、胸が締めつけられた。
きっと、この瞬間は避けられなかった。
誰もが知るべき時を迎えたのだ。
ジェームズは静かに息を吐いた。
この再会が、祝福か、それとも悲劇の始まりか――
まだ誰にもわからなかった。
ただ一つだけ確かなのは、
長い間閉ざされていた運命の扉が、
今まさに音を立てて開いたということだった。
シリウスは、目の前に立つ少年をただ見つめていた。
その顔の輪郭、瞳の奥に宿る光、声の響き。
どれを取っても――懐かしい人の面影を宿していた。
「……アルタイル」
名前を呼んだ瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
言葉よりも先に、体が動いていた。
長い間、触れることさえ許されなかった“愛の証”を、この腕に抱きしめた。
少年の体温が、腕の中で確かに存在を主張している。
その温かさに、喉の奥が焼けるように熱くなる。
――ああ、生きていた。
――彼女が、この命を産み育ててくれたのだ。
溢れる思いが止まらなかった。
何年も、何十年も、心の奥に封じ込めてきたアランへの想い。
あの人の微笑みも、涙も、声も、
いつしか痛みと化して胸の奥深くに沈んでいた。
それを手放せずに、ただ前に進めないまま日々を重ねてきた。
けれど今――
この少年を抱きしめた瞬間、
その長い年月が報われたような気がした。
「お前は……あの人との、俺たちの――」
言葉が震える。
それでも、もう隠す意味などなかった。
アルタイルは黙ってその言葉を受け止めていた。
少年の瞳の奥には、動揺よりも、
どこか深く確かめるような静けさがあった。
シリウスはその瞳に、彼女の面影を見た。
あの人が笑うときの翡翠のような光。
あの優しさを、確かにこの少年は受け継いでいる。
「お前は強い子だ……」
声が滲んだ。
「正義を恐れず、光を信じる心を持っている。
まるで獅子の心臓を抱いているようだ。
それがどんなに誇らしいことか、わかるか?」
少年の肩に手を置くと、アルタイルは静かに頷いた。
ほんの一瞬、口元が笑みにゆるむ。
その笑顔が眩しすぎて、シリウスは胸の奥を掴まれるようだった。
二人は夜通し語り合った。
互いの時間を埋め合わせるように、途切れることなく。
アルタイルはホグワーツでの生活、
ハリーとの日々、
そして母アランのことを話した。
シリウスはそのすべてを聞きながら、
何度も頷き、何度も笑い、そして何度も胸を締めつけられた。
自分もまた、話した。
アランと別れてからの日々。
騎士団の本部で闇の魔法使いたちを追い、
戦い、そして生き抜いた年月を。
その間も、ただひとりの女性だけを思い続けていたことを。
それは懺悔のようであり、祈りのようでもあった。
語りながら、彼女がどれほど自分の人生に深く刻まれているかを、
改めて思い知らされた。
少しの沈黙のあと、アルタイルがぽつりとつぶやいた。
「どうして……母さんは、父さんを選んだんだろう」
その言葉が、刃のように心臓を刺した。
胸の奥に、今も残る夜の記憶が蘇る。
――あの日、伸ばした手を、取ってもらえなかった。
――“一緒にはいけないの”と、彼女は泣いていた。
あの夜から、シリウスの時間は止まっていたのかもしれない。
前に進むことも、忘れることもできずに。
その時、部屋の隅で黙っていたジェームズが口を開いた。
「アランの母――リシェル・ブラウンが王宮に連行されたんだ」
低く、淡々とした声。
「かつての罪の断罪のために、な。
彼女を守るために、アランは戻ったんだ。
レギュラス・ブラックの元へ」
アルタイルが驚いたように顔を上げた。
「……それで母さんは、父さんのところに?」
「おそらくな。あくまで憶測だが、
彼女らしい判断だと思う。その後、セシール家の一族は次々に要職についた。
代償としては、あまりにも重いがな」
ジェームズの言葉は冷静だったが、
その奥にある哀しみをシリウスは痛いほど感じ取っていた。
政治の駆け引き。
一族の名誉。
王宮の権力。
それらが絡み合い、アランの人生を縛っていった。
けれど、彼女を責める気にはなれなかった。
あの人は、愛を捨てたのではない。
守るために手放したのだ。
「彼女は……家族を守ったんだ」
シリウスの声は震えていた。
「俺は若かった。無謀で、愛だけで世界を変えられると思っていた。
けれど、あの人には背負うものがあったんだ」
炎が小さく弾ける音がした。
その音を聞きながら、シリウスはアルタイルの肩をそっと抱いた。
「お前が生まれてくれたこと、それがすべての答えだ。
アランは、愛を捨てたんじゃない。
愛を“残した”んだ」
アルタイルは目を伏せ、静かに頷いた。
その横顔に灯る影が、アランに生き写しだった。
暖炉の火がゆらゆらと揺れ、
三人の間に静かな時間が流れた。
シリウスは、目を閉じた。
ようやく息ができた気がした。
――この腕の中の命が、
あの人が生きた証なのだと、心から思えた。
屋敷に久しぶりの足音が響いた。
石畳の廊下を踏みしめるブーツの音が、冬の空気の中で静かに反響する。
その音を聞いただけで、アランの胸は跳ねた。
――アルタイルが帰ってきた。
長い休暇のあいだ、何度この瞬間を夢に見ただろう。
扉の向こうから「ただいま」と言って入ってくる息子の笑顔を思い浮かべるたびに、
胸の奥がじんわりと温かくなる。
けれど、実際に扉が開いた瞬間、
その温もりは息をする間もなくどこかへ消え去っていった。
「……ただいま、母さん」
穏やかで、落ち着いた声。
けれどその声音の奥に、かすかな張り詰めたものを感じた。
息子の瞳は静かで、どこか遠くを見ているようだった。
「おかえりなさい、アルタイル」
笑顔を作ろうとしたが、
喉の奥から出てくる声が思いのほか掠れていた。
自分でも驚くほどに、自然な笑顔が出せなかった。
それまでの時間、屋敷の中には奇妙なほどの静寂が流れていた。
外は霙まじりの雨。
屋根を叩く細やかな音だけが、耳に痛いほどに響いている。
暖炉の火は静かに燃えているのに、
なぜか空気が冷たい。
いつもなら、アルタイルが帰ってきたと知った瞬間、
使用人たちが軽やかに動き出し、温かいスープの香りが廊下に漂う。
だが今日は――誰も動かなかった。
その異様な空気を肌で感じ取った。
この家のすべてが、息を潜めているようだった。
まるで嵐の前の静けさのように。
「アルタイル」
低く、よく通る声が玄関の奥から響いた。
レギュラスの声だった。
いつもより低く、硬い。
それだけでアランの背筋に冷たいものが走る。
「書斎へ」
ただそれだけ。
命令のような声音だった。
その声を聞いたアルタイルの表情が一瞬だけ強張る。
けれど、何も言わずに頷いた。
「はい……父さん」
その返事の柔らかさが、かえって痛かった。
反論もしない。言い訳もしない。
ただ、静かに従うだけ。
アランはその背中を、ただ見送ることしかできなかった。
肩まで伸びた黒髪が光を受けて揺れ、
大きくなった背中がゆっくりと書斎へと消えていく。
その背に向かって何か言いたかった。
“おかえりなさい”の代わりに、
“行かないで”と。
けれど唇が動かなかった。
声に出せば、この沈黙が壊れてしまうような気がした。
扉が閉まる音が、屋敷全体に響く。
その音が、まるで心の中のどこかを打ち砕くようだった。
レギュラスとアルタイル――
父と息子のあいだに、何が起こっているのか。
そのことを、知らないのは自分だけ。
けれど、確かに何かが変わってしまっているのを感じていた。
目に見えない何かが、
三人のあいだに、静かに、けれど確実に割り込んでいる。
アランは廊下に立ち尽くしたまま、
閉ざされた扉の方を見つめ続けた。
息子を愛おしく思う気持ちと、
その行く先に漂う恐怖と、
胸の奥で絡まり合う二つの感情が、
冷えた空気の中でほどけぬままに渦を巻いていた。
やがて暖炉の火が小さく爆ぜ、
橙の火花がひとつ舞い上がった。
アランはその光を見つめながら、
小さく息をついた。
――あの部屋の中で、
いったいどんな言葉が交わされるのだろうか。
母として、知ることが怖かった。
書斎の扉が閉じられる音が、屋敷の静寂を切り裂いた。
深く沈んだような空気が満ちている。
重たいカーテンの隙間から差し込む陽光さえ、灰色にくすんで見えた。
机の上には開きかけの文書、書き散らされた手紙、止まったままの羽根ペン――
そのすべてが、まるで息を潜めてこの場の緊張を見守っているかのようだった。
アルタイルは、扉の前で立ち尽くしていた。
父と二人きりになるのは久しぶりのはずなのに、
どこか、呼吸が浅くなる。
胸の奥の鼓動が、静けさの中でやけに大きく響いた。
「……随分と自由にやっているそうですね」
沈黙を破ったのは、父の低い声だった。
抑え込まれた怒りの温度を孕んでいる。
目を合わせることができなかった。
「すみません、父さん……」
息を絞り出すように答えると、
レギュラスは椅子の肘掛けに手を置いたまま、
静かに息を吐いた。
「ハリー・ポッターとの関わりを絶ってください」
淡々とした声音。
だが、その冷たさは鋭い刃のようだった。
言葉の端に、一切の情がない。
「我々とは正反対の人間です」
アルタイルの胸がきしんだ。
喉の奥が焼けつくように痛い。
父のその言葉は、
単なる警告ではなく、
“線引き”だった。
純血主義の思想。
そして、闇の帝王に忠誠を誓う者としての立場。
そのどちらも、この瞬間、
父という存在の根幹にあるものとして立ちはだかっていた。
――あの優しい母は、この一面を知っているのだろうか。
知っていてなお、この人を愛しているのだろうか。
心の奥で、そんな問いが静かに生まれた。
母が微笑みながら語ってくれた父の思い出。
娘を抱き上げる彼の穏やかな手。
それらがすべて、今のこの男と結びつかなくなっていく。
シリウス・ブラック――
あの人と母が恋人だったという事実を知ってからというもの、
アルタイルの中で父という存在は、
徐々に、けれど確実に揺らいでいた。
“なぜ母は、この人を選んだのか。”
それがずっと、心の奥を占めて離れなかった。
「……父さん」
声が震えた。
視線を上げると、父の灰色の瞳が鋭くこちらを見つめている。
その冷たさに怯えながらも、
もう引き返せなかった。
「僕は……シリウス・ブラックの息子なんでしょう?」
部屋の空気が一瞬で変わった。
時間が止まったかのように、音が消える。
レギュラスの肩が、僅かに動いた。
「……どこで、それを」
額に手をあてる父の仕草。
その指の震えが、怒りなのか、後悔なのか、
アルタイルには分からなかった。
それでも確信した。
――これは真実だ。
「シリウスの魔法が……僕の杖と共鳴しました。
血が、僕を嘘つきにはしなかった」
自分の言葉が、空気を震わせて返ってくる。
レギュラスの沈黙が、
そのまま答えだった。
胸が苦しかった。
なぜ、こんなにも大切なことを、
どうして隠し通せたのか。
“なぜあなたは、そんな酷いことを平気でできるのですか。”
その問いが喉の奥まで込み上げてきたが、
声にならなかった。
唇を噛みしめ、
ただ父の表情を見つめた。
レギュラスは椅子を離れ、机の縁に片手をつく。
光を背に立つその姿は、
まるで影そのもののようだった。
「……お前には、知らなくていいことでした」
低く、絞り出すような声。
それが、最も残酷な答えだった。
その瞬間、
アルタイルの中で何かが崩れ落ちた。
信じていたもの。
憧れていたもの。
“父”という言葉に込めてきた尊敬や忠誠のすべてが、
音を立てて瓦解していく。
血が繋がっていようといまいと、
この瞬間、アルタイルにとってレギュラスは遠い人間になった。
沈黙が戻る。
窓の外で、風が木々を揺らす音がした。
そのざわめきが、かえって痛いほどに現実を突きつけてくる。
アルタイルは静かに立ち上がった。
何も言わず、父の目を見る。
そこには怒りも涙もなかった。
ただ、決意の色だけがあった。
――もう、あなたの言葉では僕は動かない。
その無言の意思が、
冷たい書斎の空気を震わせた。
そして、少年は扉に手をかけた。
背後から呼び止める声は、もうなかった。
閉ざされた扉の向こうに、
レギュラスの重い息だけが、
いつまでも響いていた。
廊下を駆け抜ける足音が、屋敷の静けさを裂いた。
アルタイルは胸の奥で何かが崩れ落ちる音を聞いていた。
書斎を出てからずっと、息がうまくできなかった。
胸の奥が焼けるように痛い。
喉が詰まり、涙が視界を滲ませる。
父――レギュラス・ブラック。
尊敬し、愛してきたその人が、
今や何よりも遠い存在になってしまった。
信じてきたものが、すべて崩れた音が、
まだ耳の奥で鳴り響いている。
息が苦しかった。
このままでは崩れ落ちてしまいそうで、
足が勝手に母の部屋へと向かっていた。
扉を開けた瞬間、
陽光がカーテンの隙間から差し込み、
部屋の中を柔らかな金色に染め上げていた。
アランが窓辺に座っていた。
膝の上には読みかけの本。
ゆったりとした白いドレスに包まれたその姿は、
まるで一枚の絵画のように静謐だった。
「アルタイル?」
振り向いた母の翡翠の瞳が、
真っ直ぐに自分を映した。
その光に触れた瞬間、胸の奥の堰が切れた。
――この瞳だ。
シリウスが“愛している”と言った、あの瞳。
どんな闇の中でも、決して濁らない、真実の色。
この人こそが、自分の“母”なのだ。
誰に何を言われようと、その事実だけは変わらない。
アルタイルはその場に駆け寄り、
母の胸にしがみついた。
アランは驚いたように目を瞬かせたが、
すぐに両腕で息子を包み込んだ。
「どうしたのです、アルタイル……」
柔らかな声が頭上から降ってきた。
その響きが、胸の奥に沁みるように優しかった。
指先が髪を撫でる。
その手のぬくもりに、全身がじんわりと解けていく。
「母さん……」
嗚咽混じりに呼ぶ声は、
幼い日のように震えていた。
アランは何も問わず、ただ静かに抱きしめ続けた。
彼女の心臓の鼓動が、耳元で穏やかに響いている。
それは確かに、生きている証の音。
愛されている証の音。
――父が誰であろうと、関係ない。
この人が、間違いなく“母”なのだ。
その事実が、アルタイルの心をどこまでも安堵で満たした。
母の肩口に顔を埋めながら、
涙が静かに頬を伝って落ちる。
それをアランの指がそっと拭った。
「大丈夫ですよ、アルタイル。
あなたは私の誇りです」
その一言で、胸の奥の痛みが少しだけほどけた。
けれど、同時に新しい痛みが生まれる。
――母は、どんな思いでシリウス・ブラックの手を離したのだろう。
どんな思いで、あの父の隣に立ち続けてきたのだろう。
想像すればするほど、胸が苦しくなった。
その人生のすべてが、
犠牲と忍耐と静かな決意で塗り重ねられているように思えた。
「……母さん」
名前を呼ぶ声が震えた。
アランは微笑んで、息子の頬に手を当てた。
その指先が、まるで祈るように優しい。
「私は大丈夫です。
あなたが無事に帰ってきてくれた、それだけで」
その言葉が、余計に胸に刺さった。
母はいつだって、自分より他人を先に案じる。
痛みも、悲しみも、決して表に出さない。
だからこそ、誰よりも強い。
けれど――その強さが、どれほど彼女を傷つけてきたのかを思うと、
息が詰まりそうだった。
「……母さん、僕、強くなります」
アルタイルは顔を上げ、真っ直ぐにその翡翠の瞳を見つめた。
「母さんが守ってきたものを、僕が守ります」
アランの表情に、静かな驚きが浮かんだ。
そして次の瞬間、柔らかく微笑んだ。
「あなたは本当に、優しい子ですね」
陽光がふたりの間に降り注ぐ。
その光が、どこまでも温かく、
まるで長い冬のあとに訪れる春の兆しのようだった。
だが、アランの胸の奥には、
ひとつの不安がひっそりと芽生えていた。
―この子がこれ以上、父と闇の運命に巻き込まれてしまいませんように。
その祈りを抱いたまま、
彼女は息子をもう一度、強く抱きしめた。
