4章
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昼下がりの光が、魔法省の廊下を淡く照らしていた。
壁にかけられた燭台の炎が、微かに揺れている。
石造りの空間はひんやりと冷たく、誰もいないのに不思議と人の気配が漂っていた。
シリウス・ブラックは、ひとつの封筒を握りしめたまま、動けずにいた。
戸籍部の係官が無表情に差し出したその封筒――
開ける前から、胸の奥に不穏なざわめきがあった。
ジェームズが、なぜアルタイル・ブラックの出生記録を取り寄せたのか。
それを聞いたとき、ただの調査だと思った。
だが、あの真面目なジェームズが「取り寄せる必要がある」と感じた時点で、
きっと何かを感じ取っていたのだろう。
封蝋を指で割る。
紙の擦れる音が、やけに大きく響いた。
そして――その瞬間。
息が止まった。
羊皮紙の上に並ぶ記録の数々。
アルタイル・ブラック。
魔法属性、魔力の派生、杖適合率、呪文反応曲線。
細かく記されたその全てが、自分のものと恐ろしいほど一致していた。
魔力波形までが、完全に同一。
「……嘘だろ。」
声が震えた。
頭の奥がじんじんと痛む。
指先が冷たくなり、書類を落としそうになる。
紙の上の数字と記録が、目の前で滲んで見えた。
視界の端で、かつてのアランの笑顔が蘇る。
あの柔らかな黒髪、翡翠の瞳、
「さよなら」と言ったあの日の声。
――アルタイル。
彼女の隣にいた少年の顔が、脳裏に鮮やかに浮かんだ。
あのとき、どこかで既視感のようなものを覚えていた。
笑い方が、自分に似ていた。
目の奥の光の宿し方が、どこか同じだった。
だが、まさかそんなはずはないと打ち消した。
否定することで、守っていたのだ。
封筒の縁が、震える手でくしゃりと歪む。
「……アルタイルは……俺の……」
言葉にならない。
喉の奥で声が震えて、涙がこみ上げた。
胸の奥が灼けるように熱いのに、体の中心が凍えていく。
冷たい。
冷たくて、痛くて、呼吸ができない。
あの時、自分たちは別れた。
彼女の中に命が宿っていたことに、どうして気づけなかったのか。
どうして――。
彼女が1人で抱え、1人で生きてきた年月を思う。
アランの笑顔の裏にあった孤独を、今になって想像してしまう。
それがあまりに重く、苦しくて、
自分の愚かさを呪いたくなった。
涙が頬を伝った。
久しく忘れていた感情。
何年も、誰の前でも流したことのなかった涙だった。
「ジェームズ……」
親友の顔が浮かぶ。
なぜ、黙っていたのか。
なぜ、知らせてくれなかったのか。
そう思う気持ちが確かにあった。
けれど、すぐにその怒りは霧のように消えた。
――ジェームズは、分かっていたのだ。
アランの名を聞くだけで、今でも胸の奥が焼けるように痛む。
忘れようとしても、決して忘れられない。
彼女を思い出すたびに、心が乱れ、理性が削がれる。
もし自分がこの事実を知ったなら、
きっとまた彼女を追いかけ、
全てを壊してでも手を伸ばしてしまうだろう。
ジェームズはそれを恐れたのだ。
自分を――そしてアランを守るために。
「……馬鹿野郎……優しすぎるんだよ。」
静かに呟いて、シリウスは書類を胸に抱いた。
羊皮紙の端が涙で滲み、少しずつ歪んでいく。
外の風が吹き抜け、古いカーテンがはためいた。
窓の外には、夕暮れの光。
金色の空が、街を優しく包み込んでいる。
その光を見上げながら、シリウスは小さく息を吐いた。
「……会いたい。」
言葉が震えた。
アランに――そしてアルタイルに。
血のつながりがある親族としてではない。
“父”として、息子の前に立ちたい。
彼の目を真っ直ぐに見て、
自分の名前を名乗りたい。
たとえ、それが赦されぬことでも。
心の奥で静かに願った。
どうか、もう一度だけ――
彼女に、そして息子に会える機会を。
その願いが夜空に消えていく。
かつてアランと共に見上げた星々が、今も静かに輝いていた。
レギュラス・ブラックは、深い苛立ちを抱えていた。
その怒りは、外からも内からも押し寄せてくるものだった。
ここ最近、騎士団の動きがやけに活発だ。
何かを嗅ぎつけたのだろう――いや、確実に嗅ぎつけている。
屋敷の周囲に潜む監視の気配は、もう隠しようもなかった。
新聞を装った特使、街角の露天商、魔法省の使者。
どれもが一見何の変哲もない“通行人”のようでいて、
その目だけは妙に鋭く、冷たく光っていた。
そのたびに、胸の奥がかすかに軋む。
“見張られている”という意識が、
まるで細い糸のように首を締めつけてくる。
このままでは、ヴォルデモートの命を果たすこともできない。
ハリー・ポッターへの接触はすべて封じられた。
ホグワーツに何らかの“行事”を仕掛けようとしても、
「安全上の懸念がある」と却下されるばかり。
新たな教師を送り込む計画も、
“ダンブルドアの承認が必要”という名目で握り潰される。
まるで、透明な檻の中に閉じ込められたようだった。
どの道を進もうとしても、見えない壁に阻まれる。
頭では理解していても、感情は抑えられない。
あの老人が、すべてを見透かしているかのように。
レギュラスの思考の行く先を、何手も先に読まれているかのように。
苛立ちが心の底で渦を巻く。
その行き場を失った感情は、
やがて私生活にまで影を落とし始めていた。
最近、リディアがよくアランと共に寝室で眠るようになった。
最初は微笑ましい光景だった。
産みの母――カサンドラの不在が、幼い少女の心に
ぽっかりと空洞を作っていることを思えば、
アランがそれを埋めようとするのは当然のことだと思えた。
しかし、その“思いやり”は次第に彼の胸に小さな棘を生み始めた。
リディアが寝室に来る日が続くたび、
レギュラスは自分の居場所を奪われていくような気がした。
愛らしい少女の寝息が響くたび、
彼女を慈しむ母の柔らかな笑みを見るたびに、
どこか遠い場所へ押しやられるような感覚に襲われた。
屋敷の主でありながら、
この寝台の半分にすら自分の影を落とせない。
そんな日々が幾晩も続いた。
そして今夜、久方ぶりにリディアは使用人の部屋で眠っていた。
ようやく訪れた――二人きりの夜。
レギュラスは、寝台の脇に立ってアランを見下ろした。
白い寝間着の襟元から覗く鎖骨。
枕に流れる黒髪。
その一筋一筋が、灯火に照らされて淡く揺れている。
その姿は、静謐で、どこまでも美しかった。
けれど、どうしてだろう。
今夜に限って、その美しさがやけに遠く感じた。
まるで硝子の向こうに閉じ込められているようで、
どれほど手を伸ばしても触れられない。
「……アラン。」
声をかけても、反応はない。
寝息が穏やかに続いている。
ゆっくりと体をゆすってみる。
それでも彼女は微動だにせず、夢の中にいる。
深いため息が漏れた。
どれだけこの人を求めても、
彼女の心の一部は決してこちらを向かない。
いつだって、どこか遠くを見つめている。
それがシリウスであることを、もうとっくに悟っていた。
自分の手の中にいるのに、
その心だけは決して掴めない。
苛立ちとも、寂しさともつかぬ感情が、
胸の奥で重く沈殿していく。
彼女の頬にかかる髪を指先でそっと払う。
その瞬間、寝息に合わせてわずかに唇が動いた。
夢の中で誰の名を呼んでいるのだろう。
レギュラスの手が止まる。
胸の奥で、何かが軋む音がした。
愛おしいはずの寝顔が、今夜はやけに憎らしかった。
手を伸ばせば届く距離にいながら、
その心は永遠に遠い。
レギュラスは灯火を見つめ、
ゆっくりと目を閉じた。
――この寝室は、静かすぎる。
蝋燭の火が小さく揺れ、
その影が壁に滲んで消えていった。
寝室には深い静寂が漂っていた。
外の風が石壁をかすかに揺らし、カーテンの裾が静かに波打つ。
蝋燭の炎が、二人の輪郭を淡く照らしていた。
レギュラスは、長い吐息をひとつ零した。
心の奥で渦巻いていた苛立ちも、言葉にできない焦燥も、
この静けさの中では妙に遠く感じられた。
目を細めて、アランの寝顔を見つめる。
すうすうとアランな呼吸。
その胸の上下が、彼女が確かに“生きている”証のように思えた。
触れれば壊れてしまいそうなほど儚く、
けれどこの世のどんなものよりも美しい。
ゆっくりと、アランの体を横向きから仰向けに直す。
その指先の動きは、まるで壊れ物に触れるように繊細だった。
その拍子に、アランの唇から小さな吐息が漏れる。
レギュラスの胸がわずかに跳ねた。
もう一度、そっと肩に触れてゆすった。
その瞬間、長い睫毛の影がかすかに震え、
翡翠の瞳が静かに開かれた。
眠りの縁から戻ってきたばかりのその瞳は、
光を湛えながらもどこか夢の続きを見ているようで、
幻想的な色をしていた。
その視線とぶつかった。
言葉もなく、ただ見つめ合う。
時間が止まったように思えた。
蝋燭の灯りが、二人の間に揺れながら呼吸を刻む。
レギュラスは、堪えきれずにその唇に触れた。
最初の口づけは、
「まだ寝ないでいてほしい」――そんな小さなわがままが滲むような、
軽く、ためらいがちなものだった。
だが、触れた瞬間にすべてが崩れた。
その柔らかさ、温もり、
長い間触れることさえ叶わなかった感触が、
理性の奥をゆっくりと溶かしていく。
口づけは次第に深くなり、
ため息のような音が唇の隙間からこぼれた。
アランの瞳が少しだけ開き、
そこに浮かぶ微笑が、夜の光に溶けていく。
まるで赦しを与えるように、
そして求めを受け入れるように、
彼女は静かにその唇を重ね返した。
――愛している。
その思いが、言葉を超えて胸の奥に満ちていく。
けれど、どれほど繰り返しても伝えきれない。
どれほど触れ合っても、まだ足りない。
この胸に溢れる愛情は、
言葉という器には収まりきらないほどに大きく、
深く、苦しい。
彼女の唇の隙間から漏れる息が、頬を撫でた。
その温かさが、
心の奥に巣くっていた苛立ちを静かに溶かしていく。
波が引くように、静かに、穏やかに。
「……アラン。」
掠れた声でその名を呼ぶ。
彼女は瞼を半ば閉じたまま、
ほんの少しだけ微笑んだ。
その表情は、
眠りと覚醒の狭間で揺らぐ、夢のような美しさを帯びていた。
唇の端に浮かんだその弧は、
どこまでも妖しく、哀しく、そして優しい。
レギュラスはその頬に額を寄せ、
ただ彼女の息を感じた。
この人に触れていなければ、自分が壊れてしまいそうだった。
この瞬間だけが、
外の世界の混沌も、監視の目も、帝王の命令も、
すべてを忘れさせてくれる。
愛する人の体温が、自分の呼吸と重なる。
その中に安堵があった。
そして、その安堵の奥に、
微かに滲む恐れがあった。
――この温もりを、いつまで守れるだろうか。
思考の隙間で、そんな不安がこだまする。
けれど今はただ、
その不安さえも抱きしめるように、
彼女の唇を再び求めた。
爆ぜるような快楽の中に、静かな安らぎが満ちていく。
触れ合うたびに、
彼女の愛が確かに自分の中に流れ込んでくる。
その愛を確かめるように、
レギュラスはアランを胸に抱き寄せた。
外の風が止み、夜がさらに深く沈んでいく。
蝋燭の炎が一度だけ揺れ、
そして静かに、眠るように消えた。
まだ眠りと覚醒のあわいをさまよっていた。
意識は深い霧の奥にありながら、確かな熱と鼓動だけが自分を現実へと引き戻していた。
レギュラスの呼吸が、近い。
肌に伝わる温度が、夜気の冷たさを溶かしていく。
何度も、名前を呼ばれた。
低く、掠れた声で。
それはまるで、失われたものを確かめるように、
あるいは、存在の証を刻みつけるように。
夢の底から引き上げられるようにして、
アランは静かに目を開けた。
視界の中に映るのは、誰よりも愛した男の瞳。
その奥に宿る激情は、
言葉では到底言い尽くせぬほどの渇きと、
どこまでも深い孤独を孕んでいるようだった。
指先が触れるたびに、
世界の輪郭がぼやけていく。
痛みと呼ぶにはあまりに繊細で、
快楽と呼ぶにはあまりに哀しい感覚。
それは、愛という名のもとに
互いの魂をすり合わせるような時間だった。
「……レギュラス。」
かすれた声で彼の名を呼ぶ。
その瞬間、レギュラスの動きが一瞬止まり、
アランの言葉を待つように息をひそめた。
「私も……あなたを、愛しています。」
それは誓いのようであり、
赦しのようでもあった。
アランは彼の背に腕を回し、
逃げ場のないこの現実を抱きしめた。
この人は――何を求めているのだろう。
何もかもを持っているはずなのに、
それでも満たされない何かを
必死に追い求めているように見える。
名誉も、権力も、美しさも、
この人の手の中にはすでにある。
けれど、彼はきっと“安らぎ”というものを知らない。
いつだって、誰よりも強く、孤独に戦っている。
自分にできることはただ一つ。
その戦いの夜を、受け止めることだけ。
痛みも、嘆きも、すべて。
彼の抱えるものを、
一瞬でも軽くしてあげられるのなら――。
だから、アランは精一杯の愛をもって彼を受け入れる。
それが、自分にできる唯一の祈りのかたちだった。
「レギュラス……好きです。」
囁く声は震えていた。
その言葉が触れた瞬間、
レギュラスの腕が強く彼女を抱きしめる。
その抱擁には、愛と執着と祈りが同居していた。
重く、苦しく、けれどそれでいてどこまでも優しい。
彼女を閉じ込めるように、
しかし同時に守るように。
アランはその腕の中で思う。
この人の愛は、
降り注ぐ雨のように止めどなく溢れていく。
ならば、自分の愛は――
その雨を受け止める大地でありたい。
彼が降らせるものすべてを受け、
その重さごと包み込む存在でありたい。
二人の間に流れる静寂が、
夜の闇に溶けていった。
風がカーテンを揺らし、
蝋燭の炎がわずかに明滅する。
それは、愛という名の静かな嵐だった。
淡い光が、レースのカーテン越しに寝室を満たしていた。
夜の余韻がまだどこかに漂っている。
その光の中で、アランはゆっくりと瞼を開けた。
隣ではレギュラスが眠っていた。
寝台の端に片腕を投げ出し、規則正しい呼吸を繰り返している。
胸の上下が、静かな波のように揺れていた。
アランはしばらく、その寝顔をただ見つめていた。
普段の彼からは想像もつかないほど、穏やかで無防備な表情だった。
夜のあいだ、あれほど激しく心と体をぶつけてきた男とは思えないほどに。
そっと手を伸ばし、肩を軽く揺らしてみた。
しかし、目を覚ます気配はない。
深く眠っている。
おそらく、この数日まともに眠れていなかったのだろう。
重責と緊張、そして昨夜の昂ぶり――
そのすべてが、彼の体をようやく休息へと導いたのかもしれなかった。
アランは息をひとつ吐き、そっと体を起こした。
シーツの皺が、夜の記憶をそのままに刻んでいる。
彼のシャツは、胸元から少し乱れていて、
自分が掴んだ跡がくっきりと残っていた。
しがみついていた自分の手の跡が、あまりにも生々しく、
昨夜の情景をありありと思い出させる。
ベルトが寝台の脇に転がっている。
金具が朝の光を反射して、鈍く光った。
あの人は、まるで何かから逃げるようにして、
一目散にこの寝室へ戻ってきたのだ――
その光景がありありと目に浮かぶ。
アランは静かにシーツの端を整えながら、心の中で問いかけた。
――昨夜、彼は何を感じていたのだろう。
――私は、あの人の心の渇きをほんの少しでも潤せただろうか。
好きだと告げた。
それは、決して嘘ではなかった。
けれど、その言葉がどれほどの力を持って
彼の心に届いたのかが分からない。
彼はあまりにも多くを持ち、
それでもどこか満たされない人だった。
名誉も、血筋も、地位も手にしているのに、
いつも何かを求め続けている。
まるで、心の奥にぽっかりと空いた場所を
愛でしか埋められないと信じているかのように。
自分が、その欠片の一つになれたのなら――
それだけでいい。
そう思いながらも、胸の奥にかすかな不安が残る。
外の廊下から、小さな足音が聞こえた。
続いて、鈴の音のように愛らしい声。
「お母様? お父様は?」
リディアだ。
アランは慌てて寝室を振り返る。
まだ眠り続けるレギュラスの姿を見て、
この空気を娘に感じさせるわけにはいかないと思った。
彼の上にそっとシーツをかけ直す。
夜の熱がまだ残るその布を胸元まで引き寄せてやり、
乱れた髪を指でなぞる。
一瞬、指先に温もりが残った。
その感触を惜しむように離して、アランは静かに立ち上がった。
寝室を出ると、廊下の光が柔らかく広がっている。
リディアが、白いナイトドレスの裾を揺らしながらこちらを見上げた。
その瞳は、まるで夜明けの空をそのまま閉じ込めたように澄んでいる。
「お母様、お父様は?」
アランは微笑み、娘の髪を撫でた。
「……もう少し寝かせてあげましょう。
お父様、最近ずっとお疲れだったのよ。」
「じゃあ、静かにしておきますね。」
そう言って小さく頷くリディアの仕草が、
愛しくてたまらなかった。
アランはその手を取り、廊下の先へと歩き出す。
背後の扉の向こうでは、まだレギュラスが眠っている。
その寝顔に、どんな夢が宿っているのか。
自分がその夢の中に、ほんの少しでもいることを願いながら、
アランは静かに扉を閉めた。
――朝の光が、ゆっくりと屋敷を満たしていく。
昨夜の熱を洗い流すように、清らかで、どこか寂しい光だった。
ホグワーツの大広間は、冬の冷気を閉じ込めた石壁の内で、松明の炎が揺れていた。
四大魔法競技〈トライウィザード・トーナメント〉が開幕してからというもの、
学舎全体がざわめきに包まれている。
生徒たちは誰もがハリー・ポッターの名を口にし、
その名が夜風のように城の廊下を駆け抜けていた。
アルタイルもまた、その中心にいた。
遠巻きに、時に近くで、彼の姿を見つめる。
第一の課題――炎を吐くドラゴンを前にしても、
ハリーは怯むことなく立ち向かった。
第二の課題では、凍てつく湖の底に潜り、仲間を救い出した。
誰よりも勇敢で、誰よりも真っすぐな少年。
彼を見ていると、まるで光そのものを見ているような錯覚を覚える。
――人はこんなにも強く、自由でいられるものなのか。
ハリーを見ていると、そんな思いが胸の奥で何度も芽吹いた。
自分はいつも、父の影の中で、母の微笑の中で生きてきた。
どれほどの努力をしても、何かに守られ、囲われているという感覚が消えない。
けれど、ハリー・ポッターは違った。
彼は誰にも縛られず、何者の名にも従わず、
ただ己の信念だけで動いているように見えた。
その眩しさが、痛いほどだった。
だが、その光の傍らに、どうしようもなく不穏な影が伸びているようにも感じていた。
アルタイルの胸の奥で、何かがざわついている。
ハリーが〈トライウィザード・トーナメント〉に選ばれた時、
誰もが驚いた――いや、恐れた。
まだ年齢に満たない彼が、なぜ選ばれたのか。
年齢制限を越える魔法が施されているはずの聖杯が、
なぜ彼の名を吐き出したのか。
偶然などではありえない。
誰かの意図がある。
ハリーをこの危険な舞台に引きずり出した何者かの存在。
アルタイルはそれを直感していた。
そして、その不穏を裏付けるような出来事が、いくつか続いた。
新任の闇の魔術に対する防衛術の教師、アラスター・ムーディ。
顔に深い傷跡を刻み、魔法の義眼を持つ元闇祓い。
初めての授業の日、アルタイルの席の前で彼は立ち止まり、
まるで昔から知っている人間に声をかけるように言った。
「おや、レギュラス・ブラックの息子か。」
教室の空気が一瞬で凍る。
アルタイルは思わず姿勢を正した。
「……僕を、ご存じなんですか?」
「いや、君の父上をな。よく似ている。」
ムーディはそう言って片目を細めた。
だが、その声音の奥にあったのは懐かしさではなく、
どこか探るような、試すような響きだった。
――父を、知っている?
レギュラス・ブラックを?
不思議だった。
父は神秘部の中でも、
最も閉ざされた部署――危険物調査管理局に属している。
そこでは、古代の呪具や封印魔法、呪われた遺物の解析など、
極めて限定された人員だけが出入りを許される。
それは魔法省内でも他部署と交わることのほとんどない領域だ。
闇祓いのムーディのような人物が、父と関わりを持つ理由などあるはずがない。
それなのに、まるで古い友人のように語る口ぶり。
しかも、どこかでこちらを「観察している」ような眼差し。
あの回転する魔法義眼が、視界の外からでも
背筋をなぞるように動く気配を感じることさえあった。
アルタイルは笑顔を返しながらも、心の底で冷たいものが広がっていった。
父の名を出した時点で、何かが仕組まれているのかもしれない。
ハリーの参加も、彼の接触も、偶然ではない――そう思えてならなかった。
ひとつひとつの出来事は、取るに足らない。
しかし、それらが細い糸で繋がっていく感覚があった。
ハリーの周囲に漂う違和感。
ムーディの存在。
そして、舞台の裏で誰かが静かに糸を引いている気配。
アルタイルの胸の奥で、恐れにも似た焦燥が燃え上がる。
ハリーは光だ。
だが、その光は強ければ強いほど、
それを喰らおうとする影を呼び寄せる。
そして、その影は――
もしかすると、自分の家にさえ繋がっているのかもしれない。
城の外は、すでに冬の風が吹き荒れていた。
空は厚い雲に覆われ、陽の光はわずかにしか差し込まない。
それでも遠くの湖面には、
ハリーが放った火花のような勇気の光が反射していた。
アルタイルはその光を、
胸の奥でそっと見つめながら思った。
――もし彼が闇に飲まれそうになるのなら、
僕が、その光を守らなければならない。
それは、まだ少年の祈りのような決意だった。
けれど確かに、その瞬間、
彼の運命はハリー・ポッターのそれと
静かに絡み合い始めていた。
冬の雨が、魔法省の高窓を静かに叩いていた。
夜の帳が落ちるとともに、ランプの灯がゆらめき、薄暗い室内に複雑な影を描き出す。
その影の中で、二人の男が向かい合っていた。
一人は、冷ややかな銀灰色の瞳を持つレギュラス・ブラック。
もう一人は、淡い笑みを浮かべながらも目の奥に狂気の光を潜ませた男――バーテミウス・クラウチ・ジュニアである。
「頼みますよ。あなたにかかっています。」
レギュラスの声は低く、しかし鋭かった。
机の上には、羊皮紙に書き込まれた細かな指示書と、ホグワーツの古い地図が広げられている。
インクの匂いと蝋の香りが、冷たい空気に溶けていた。
「君の息子にも会えるなら、そりゃやりがいがありそうだ。」
バーテミウスが唇を歪める。
その言葉にレギュラスの眉が僅かに動いた。
「余計な接点は持たないでください。あの子は勘付きますよ。」
抑制された声音の中に、明確な警告が含まれていた。
バーテミウスは肩をすくめた。
「わかっているさ。僕はただ、“アラスター・ムーディ”として存在するだけだ。
――完璧に、な。」
その瞳が、異様に輝いた。
冷徹で、何かを弄ぶような光。
レギュラスは一瞬、その笑みに寒気を覚えた。
だが今さら、他に選択肢など残されていない。
バーテミウスには、闇祓いアラスター・ムーディに成りすまし、
ホグワーツへの潜入を果たすよう命じている。
任務はただ一つ――
〈四大魔法競技〉を無事に終盤まで導き、
ハリー・ポッターを“最後の門”へ送り出すこと。
そこで“儀式”は始まる。
ヴォルデモート卿の肉体復活のための、不可欠な要。
ハリー・ポッターの血肉を、闇の帝王に捧げねばならない。
そのための布石を、今、ここで打つしかないのだ。
バーテミウスは手にしていたカップを弄びながら、
「しかし皮肉だな。かつての闇の支配者のために、
今もブラック家が動いているなんて。」
と、呟いた。
「皮肉でも、運命でも、どちらでも構いません。」
レギュラスは淡々と答えた。
「僕は命ある限り、闇の帝王への忠誠を誓いました。」
バーテミウスが怪訝そうに眉を上げる。
「そこまでして、君はいったい何を守ろうとしている?」
しばらくの沈黙。
ランプの灯が小さく揺らめき、
レギュラスの横顔を淡く照らした。
その表情は冷たく見えたが、
その奥には痛切な祈りのようなものが潜んでいた。
「――アランを。」
その名を口にした瞬間、
わずかに声が震えた。
「彼女を救うためなら、どんな闇にでも沈む覚悟はあります。」
外では風が強くなり、雨粒が窓を叩く音が響いた。
その音が、まるで契約の鐘のように二人の間に鳴り渡る。
ヴォルデモートは、すでにホークラックスのいくつかを失い、
力を取り戻すために焦っていた。
ハリー・ポッターの血が持つ“生き残りの呪文”の力。
それが闇の帝王の損傷さ肉体を復活させる鍵となる。
レギュラスの任務は明白だった。
――忠誠の証として、ハリー・ポッターを〈儀式の場〉へ導くこと。
そして、その対価としてアランの命を保証させること。
愛する者を守るために、彼は再び闇に手を伸ばした。
己の魂を削りながら。
「バーテミウス、あなたの腕を信じています。」
「ええ。完璧にやってみせましょう。」
彼は嗜虐的な笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がった。
マントの裾が床を擦り、足音が遠ざかっていく。
扉が閉まると、部屋に残されたのは、
蝋燭の炎と、レギュラスの深い吐息だけだった。
机の上には、アランの微笑む写真が一枚。
若き日の、まだ何も知らぬような無垢な笑顔。
――彼女の命を、再び闇に奪われるわけにはいかない。
そのためなら、どんな罪も背負う。
レギュラスは写真に触れ、
目を閉じた。
窓の外では、闇が深まっていく。
まるで彼の誓いを呑み込み、
世界全体が静かに息を潜めているかのようだった。
冬の霧がホグワーツの尖塔を包み込み、湖面には薄い靄が漂っていた。
その白い空気の中を、二つの影が早足で進んでいく。
一人は、漆黒のローブを揺らしながら歩くシリウス・ブラック。
もう一人は、その隣に並ぶジェームズ・ポッターだった。
二人とも言葉少なだった。
重苦しい沈黙の中、靴音だけが長い廊下に響いていた。
ハリーの名が〈四大魔法競技〉に選ばれたとき、
シリウスは最初、ただの悪ふざけだと思っていた。
あの少年は運命を惹き寄せる――それも知っていた。
だが、ハリーが次々と難関を突破し、
それを誇らしげに語る手紙を読むうちに、
胸の奥に小さな棘のような不安が刺さっていたのも確かだった。
その不安が確信へと変わったのは、
アルタイルから届いた一通の便りだった。
フクロウ便で届いた羊皮紙には、
丁寧な筆跡で彼らしい慎重な言葉が並んでいた。
――アラスタ・ムーディが自分を知っていた。
――父のレギュラス・ブラックの名を出した。
――ハリーを妙に気にかけ、何かを導こうとしているように見える。
「考えすぎかもしれません。でも、どうにも気になります。」
最後の一文が、少年の心の震えをそのまま映していた。
アルタイルの手紙を読み終えた瞬間、
シリウスは胸の奥で血の音が鳴るのを感じた。
彼の“父”の名を知る者が、
ハリーのそばにいる――?
偶然で済ませられる話ではない。
すぐにジェームズに連絡を取り、
騎士団の仲間たちにも共有した。
何かが動いている。
ハリーの背後に、誰かの意図が確かにある。
そして――
その“誰か”に、レギュラスの影がちらつく。
その事実が、シリウスを夜も眠れぬほど苛立たせていた。
弟であり、裏切り者であり、
そして今なお自分の過去を縛る亡霊。
それでも、
アルタイルの名がそこにある限り、
無視などできるはずもなかった。
ホグワーツの客間で、
アルタイルは静かに座っていた。
あの柔らかな黒髪が、光を受けて青く光る。
緊張しているのか、指先が机の上を小さく叩いていた。
扉が開く。
「アルタイル。」
低い声。
その響きだけで、少年は立ち上がった。
シリウスがそこにいた。
以前ハリーに紹介されて会った、あのときの黒髪の男。
どこか懐かしいような、けれど理由の分からない親しさを感じた人。
「シリウスさん……」
その瞳――銀灰色の瞳が、じっとアルタイルを見つめていた。
そして一歩、また一歩と近づいてくる。
ジェームズは少し離れた場所に立ち、
静かにその様子を見守っていた。
まるで何かを悟らせまいとするように、
言葉を飲み込んで。
シリウスの喉がかすかに鳴った。
言葉を選ぼうとするたび、胸の奥が痛む。
ようやく会えた――この子に。
己の血を分けた、たった一人の息子に。
だが、今それを告げることはできない。
伝えるべき言葉が、喉の奥で渦を巻いて消える。
「ハリーのことを知らせてくれてありがとう。」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
それでも、声がかすかに震えた。
アルタイルは首を横に振る。
「いえ……僕なんかが出す手紙で、
ご迷惑をおかけしてしまっていたらすみません。」
「そんなことはない。」
シリウスは思わず言い切った。
「君の気づきがなければ、私たちは何も知らずにいた。
……君は、よくやった。」
その声に、
アルタイルは一瞬、息を呑んだ。
――この人の声を、やはりどこかで知っている。
そう感じた。
心臓の鼓動が早くなる。
なぜだろう。
目の前のこの人を見ていると、
胸の奥に懐かしい何かが疼く。
シリウスは、そんな少年の揺らぎを感じ取っていた。
その瞳があまりにもアランに似ている。
笑った時の口元まで、まるで鏡を見ているようだった。
喉の奥まで込み上げる衝動を押さえきれず、
思わず手を伸ばした。
「アルタイル……」
名前を呼んだその瞬間、
少年がゆっくりと振り返る。
銀の光が交錯するように、
二人の視線がかち合った。
「――また君に会えて、本当に嬉しい。」
言葉の意味を理解しきれず、
アルタイルはただ小さく微笑んだ。
「僕も……またお会いできて嬉しいです、シリウスさん。」
ほんの一瞬、
シリウスの胸に痛みが走る。
“シリウスさん”――
父と呼ばれることのない距離。
それでも今は、その距離さえも愛おしかった。
少年の背に伸ばした腕を、
ようやくそっと回し、抱きしめた。
細い体が、自分の胸の中で微かに震えている。
その温もりが、まるで失っていた時間の全てを取り戻すように、
シリウスの心を満たしていった。
ジェームズはその光景を見て、
ほんの少しだけ目を伏せた。
シリウスがすでに真実を知っていることを、
まだ知らないままに。
扉の外では、冬の風が鳴いていた。
その風音の中に、
血の記憶が静かに息を吹き返していく。
ホグワーツ全体に、緊張が張り詰めていた。
空気さえも硬く、息を潜めたような沈黙。
騎士団のメンバーたちはすでに校内に入り、
強力な保護呪文を幾重にも張り巡らせていた。
城壁の外郭から寮の周囲、湖の上空までもが見えない結界で覆われ、
不審な魔力の侵入を防ぐために、あらゆる通路が制限されている。
――それでも、不安は拭えなかった。
その夜、〈四大魔法競技〉最終決戦――
“迷路”の試練が始まった。
スタジアムには満員の観客が詰めかけ、
夜風の中に旗が翻っている。
だがその華やかな喧騒の裏側には、
誰も知らぬ闇の気配が静かに蠢いていた。
アルタイルは観覧席の片隅に立ち、
両手を胸の前で固く握りしめていた。
彼の瞳は、黒い迷路の方角をまっすぐに見据えている。
その表情は、祈りに近かった。
――どうか、ハリーが無事でありますように。
彼の心には、得体の知れない不安が巣くっていた。
何かが、ハリーを飲み込もうとしている。
そう感じてならなかった。
迷路の中では霧が立ち込め、
時折、観客の歓声をも呑み込んでしまうような沈黙が訪れる。
教師陣も騎士団も警戒を強め、
しかし肝心の“中”の様子を完全には把握できていなかった。
――そのとき。
アルタイルは決意した。
(行かなくては)
胸の奥で、雷鳴のように声が響いた。
立ち上がった瞬間、心臓が激しく脈打つ。
教師たちの目を盗み、迷路の裏側――観客席の影へと走った。
そこに結界の継ぎ目があることを、彼は以前の見学時に見抜いていた。
入口はすでに封印されていたが、
アルタイルは杖を構え、低く唱える。
「Alohomora Maxima.」
青白い光が走り、空気が軋む音がした。
魔力の網がわずかにほどけ、
迷路の入り口がひと筋だけ、歪むように開いた。
ひやりとする冷気が漏れ出す。
足を踏み入れた瞬間、
背後で扉が音もなく閉ざされた。
――静寂。
霧の向こうに、黒々とした茨の壁。
どこまでも続く狭い通路。
空は見えず、光は弱々しい。
アルタイルは唇を噛んだ。
(怖い……けれど、引き返せない。)
ハリーと共にあるようになってから、
自分の中の“臆病”が少しずつ姿を変えた。
恐れよりも、守りたいという衝動が勝るようになったのだ。
闇の中を駆ける。
足音が土を打ち、呼吸が荒くなる。
曲がり角の向こうから、風が吹いた。
幻影か、罠か――わからない。
だが立ち止まることはできなかった。
「ハリー!」
声を張り上げる。
しかし返事はない。
何度も何度も呼んだ。
迷路の中を走り続けた。
霧が視界を奪い、方向感覚も狂う。
けれど、その名を呼ぶたびに、
心の奥の光が道を示してくれる気がした。
「ハリー!!」
そして、遠くから微かな返事が聞こえた。
「アルタイル!? どうしてここに!?」
霧の向こうに、ハリーがいた。
彼は傷だらけの手で杖を構え、
だがその顔には確かな安堵の色が浮かんでいた。
「何とか……忍び込みました。」
息を切らしながらも、アルタイルは笑った。
「君、正気か? ここは危険すぎる!」
「わかってます。でも、放っておけませんでした。」
悪いことをしている自覚はあった。
教師の目を盗み、
規則を破り、
命を賭けるような真似をしている。
見つかれば、退学どころでは済まない。
それでも――。
目の前でハリーが無事に立っている。
その事実だけで、全ての恐怖が吹き飛んだ。
ハリーは苦笑を浮かべた。
「君がいると、心強いよ。」
アルタイルは胸が熱くなった。
「一緒に、カップを探しましょう。」
二人は頷き合い、再び走り出した。
霧が彼らの足元を包み、
風が髪を揺らす。
遠くで、雷鳴のような音が響いた。
迷路はまるで、生き物のように道を変え、
二人を試すように立ちはだかる。
だが彼らの心には、
確かな信頼と友情の光があった。
――その光こそが、
この夜、闇を切り裂く唯一の魔法だった。
その夜は、不気味なほどに静かだった。
風さえも息を潜め、月が薄雲の奥から地上を覗いている。
冷たい空気が骨の髄まで染み渡るような闇の中、
ひとりの男が墓地の中央に立っていた。
――レギュラス・ブラック。
漆黒のマントをまとい、
顔にはデスイーターの仮面。
その背筋は、氷のように張り詰めている。
彼の周囲にはすでに、十数人の同胞たちが集まっていた。
誰もが息を潜め、地面に刻まれた魔法陣の中心を見つめている。
そこでは、重苦しい緑の光がゆらゆらと揺れていた。
空気が、痛いほどに刺す。
風が吹くたびに、黒いマントがひるがえり、
そのたびに、どこかで誰かが息を呑む音がした。
――今日という日は、闇の帝王が完全に復活する日。
バーテミウスが完璧に動いていることをレギュラスは確認していた。
“アラスター・ムーディ”としての偽装は成功している。
あとは、優勝杯のポートキーが発動し、
“予言の子”――ハリー・ポッターがここへ導かれてくるのを待つだけだ。
これまでのすべては、そのために。
その一点に集約された闇の計画だった。
レギュラスの胸の奥では、
鋭い緊張と、形容しがたい疼きがせめぎ合っていた。
成功すれば、ヴォルデモートは完全な肉体を得る。
失敗すれば――家も、名も、すべてが終わる。
そして何より、アランが、アルタイルが、闇の怒りに巻き込まれる。
だから、何としても成功させねばならなかった。
……だが、その“完全”は、
あまりに脆く、残酷な形で崩れた。
眩い光とともに、
優勝杯――ポートキーが発動した。
次の瞬間、二つの影が地面に叩きつけられる。
「っ……ここは……?」
ハリー・ポッターが息を呑む。
隣には――アルタイル・ブラック。
(――なぜ、あの子が!?)
レギュラスの心臓が、
胸の奥で爆ぜた。
ありえない。
ポートキーは、ハリーひとりを運ぶはずだった。
他の者が触れて転移したとしても、
この場所にまで“正確に”届く確率は限りなく低い。
それなのに――なぜ、息子が。
レギュラスは呼吸を忘れた。
その間にも、闇の帝王はゆっくりと立ち上がる。
仮面の下からも分かるほど、
その空気は歪み、冷え、圧力を帯びていく。
「……来たか、ハリー・ポッター。」
蛇のような声が、墓地を這う。
ハリーの足元の地面が蠢き、
彼の体は瞬時に見えない鎖で石碑に縛りつけられた。
「ハリー!!!」
アルタイルの叫びが夜を裂く。
駆け寄ろうとした瞬間、
ヴォルデモートの冷たい声が響いた。
「お前が――アルタイル・ブラックか。」
アルタイルは足を止めた。
血の気が引き、喉がひきつる。
その名を呼ばれた時の、あの声。
まるで魂を凍らせるような響き。
「……は、はい……」
震える声で、なんとか返事をした。
ヴォルデモートはゆっくりと歩み寄る。
マントの裾が地面を擦り、
そのたびに、冷たい風が巻き起こった。
「父親によく似ている。
ここまで辿り着くとは……さすがはブラックの血だ。
見事な勘の鋭さだな。感心するぞ。」
その声には、嘲りとも称賛ともつかぬ響きがあった。
アルタイルは後ずさり、
杖を握る手が震えていた。
恐怖というものを、
これほど強く感じたことはなかった。
目の前の男は、存在そのものが“死”を意味している。
――そして、レギュラスはもう限界だった。
仮面の奥で、息を殺しながらも、
全身が叫んでいた。
(やめろ。やめてくれ。息子に触れるな。)
理性が叫び、使命がそれを押しとどめる。
だが、父としての本能が、
どうしても黙っていられなかった。
「アルタイル――こちらへ。」
低く、しかし確かな声が、闇の中から響いた。
ヴォルデモートの赤い瞳がわずかに動く。
アルタイルが、驚いたように目を見開く。
その声。
聞き間違えるはずがない。
「……父……さん……?」
だが、フードと仮面の群れの中で、
どれが父なのか、見分けがつかない。
声だけが、虚空に響いて消える。
混乱、恐怖、そして――一瞬の希望。
アルタイルは父の声を探すように、
必死に周囲を見回した。
だが、闇の中に並ぶ仮面たちはどれも同じ形。
誰が味方で、誰が敵なのかも分からない。
その光景に、レギュラスの胸が締めつけられた。
――自分の息子が、
この地獄の真ん中で怯えている。
それでも自分は、仮面を外せない。
すべては、アランを守るため。
彼女を、子を、生かすため。
だが、心はもう引き裂かれていた。
忠誠と愛。
その二つの鎖が、彼の中で軋んでいた。
冷たい夜気の中で、
レギュラスの指先が震えていた。
杖を握る手に力が入らない。
(どうか――生き延びてくれ、アルタイル。)
彼の祈りは、誰にも届かぬまま、
墓地に吹く風の中に、静かに溶けていった。
空気が、凍りついていた。
風が一切動かず、ただ湿った土と血のにおいだけが重く漂っていた。
月明かりが薄く墓地を照らし、
無数の墓標がまるで沈黙の兵士のように立ち並んでいる。
アルタイルはその場に立ち尽くしていた。
体が、まるで自分のものでないようだった。
心臓が喉の奥で跳ね、鼓動の音が耳の内側で暴れる。
震えが止まらない。
指先まで冷たくなり、杖を握る手が力を失っていた。
目の前にいるのは――“闇の帝王”。
生きているはずがないと信じられていた存在。
その声が、自分の名を呼んだ。
その響きは、氷刃のように鋭く心臓を貫いた。
体が動かない。
逃げ出したくても足が地面に縫いつけられたようだった。
闇の帝王の赤い瞳が、暗闇の中で不気味に光る。
その目が自分を射抜くたびに、
胸の奥の空気が抜け落ちるような恐怖が襲った。
――そして。
聞き慣れた、父の声が響いた。
「アルタイル……こちらへ。」
その瞬間、血が凍った。
まさか――父が、この場にいる?
仮面を被った無数のデスイーターたちの中。
どの顔も黒いローブに包まれ、どれが父なのかも分からない。
だが確かに、あの声は父のものだった。
信じられない。
尊敬して、誇りに思っていた父が、
なぜこんな恐ろしい集団の中にいるのか。
頭の中が真っ白になった。
息が詰まる。喉が焼けるように熱いのに、声が出ない。
胸の奥で何かが崩れる音がした。
(違う……そんなはずはない……)
だが、闇の帝王の冷たい笑い声が、
そのかすかな希望を踏み潰すように響いた。
「レギュラス・ブラック――」
その名が墓地に落ちた瞬間、
アルタイルの視界がぐらりと揺れた。
――父の名。
仮面の奥で、何かがかすかに動く気配がした。
父のいる場所が、分かってしまった。
その事実が、何よりも恐ろしかった。
どうして。
どうして、父が……。
彼の中で尊敬と信頼で築き上げてきた像が、
一瞬で崩れ落ちていくのを感じた。
「……父さん……?」
喉の奥から、かすれた声が漏れる。
だが返ってくるのは、沈黙だけ。
闇の帝王が杖を振り上げると、
墓地の空気がざらりと震えた。
その動作だけで、あたりの空気が凍るほどの力を放っているのが分かる。
ハリーが捕らえられていた。
墓碑の石に縛られ、動けずにいる。
魔法の鎖が赤く光り、ハリーの体を焼く。
「やめて……!」
叫んでも声が届かない。
闇の帝王はゆっくりと、
ハリーの腕に杖をかざした。
閃光が走り、
皮膚が裂け、血が流れる。
ハリーの喉から苦痛のうめきが漏れた。
その声を聞いた瞬間――
アルタイルの中で何かが壊れた。
恐怖と怒りと絶望とが一度に押し寄せ、
それでも体は動かない。
ただ、震えるだけ。
目の前で、大切な友の血が流れている。
けれど、杖を構えることすらできない。
動けば殺されると分かっている。
それでも、動かない自分が――許せなかった。
「血を……」
闇の帝王の声が低く響く。
取り分けられた血が、銀の杯に注がれた。
儀式の中心で、それが闇の光を放つ。
「肉を……」
次の瞬間、暗黒の炎が燃え上がる。
その中に、ひとつの影が姿を取り戻していった。
ヴォルデモートの肉体が、
再びこの世に形を持ったのだ。
フードを深く被っていた男が、ゆっくりとその布を取る。
現れた顔は――人間ではなかった。
白くのっぺりとした皮膚、蛇のような鼻、
紅く光る瞳。
その存在を見た瞬間、
アルタイルの呼吸が止まった。
それは、恐怖の象徴そのものだった。
世界が、音を失ったように静まり返る。
ヴォルデモートが、ゆっくりと右手を掲げた。
その動きには神のような自信と、怪物のような冷酷さが混ざっている。
「……レギュラス・ブラック。お前は実によく働いてくれた。」
「バーテミウス。お前もだ。」
その言葉が、
墓地の闇を裂くように響いた。
アルタイルの耳の奥で、父の名が何度も反響した。
“レギュラス・ブラック”。
その響きが、まるで刃のように突き刺さる。
尊敬してやまなかった父が――
この男の配下だった。
それが事実として突きつけられた瞬間、
アルタイルの中で世界が崩れた。
信じてきた“正義”の形が瓦解していく。
胸の奥が痛くて、呼吸ができない。
心が引き裂かれるようだった。
目の前の父が、
今、この闇の主の言葉に
何も返さず、ただ静かに頭を垂れている。
それが、なによりも――恐ろしかった。
迷路の中で、異常反応が走ったのはほんの一瞬のことだった。
魔法観測室の結界が震え、赤い灯が点滅する。
ポートキーの反応。
しかも――二つ。
「……今、誰かが飛ばされた!」
緊迫した声が響く。
次いで報告が重なる。
「対象、ハリー・ポッター! それと……アルタイル・ブラック!」
瞬間、騎士団の作戦室にいた全員の血の気が引いた。
「アルタイル……?」
シリウスの声が掠れる。
トーナメントに選ばれてもいない少年が、どうして迷路の中に――。
彼の胸の奥で、心臓が破裂しそうなほどに跳ねた。
(まさか、そんな……。アルタイルが、ハリーと一緒に……!)
何かが起こっている。
それも、取り返しのつかないことが。
騎士団は即座に動いた。
魔法で座標を解析し、ポートキーの発信源を辿る。
呪文の光が部屋中を駆け巡り、円陣の中央に一つの地点が浮かび上がった。
――墓地。
「急げ!」
シリウスの声がほとんど叫びに近かった。
椅子を弾き飛ばすように立ち上がり、杖を掴んで転移陣に飛び込む。
次の瞬間、世界が反転した。
黒い風が吹きすさぶ中、騎士団のメンバーたちが次々と現れる。
そこはまるで、死そのものが息づく場所だった。
墓標が並び、湿った土が靴に絡みつく。
空は異様なほど暗く、空気が痛い。
息を吸うだけで肺が焼けるようだった。
「……なんて場所だ……」
リーマスの声が低く響く。
シリウスの目が鋭く光る。
視線の先――そこに、ハリーとアルタイルがいた。
壁にかけられた燭台の炎が、微かに揺れている。
石造りの空間はひんやりと冷たく、誰もいないのに不思議と人の気配が漂っていた。
シリウス・ブラックは、ひとつの封筒を握りしめたまま、動けずにいた。
戸籍部の係官が無表情に差し出したその封筒――
開ける前から、胸の奥に不穏なざわめきがあった。
ジェームズが、なぜアルタイル・ブラックの出生記録を取り寄せたのか。
それを聞いたとき、ただの調査だと思った。
だが、あの真面目なジェームズが「取り寄せる必要がある」と感じた時点で、
きっと何かを感じ取っていたのだろう。
封蝋を指で割る。
紙の擦れる音が、やけに大きく響いた。
そして――その瞬間。
息が止まった。
羊皮紙の上に並ぶ記録の数々。
アルタイル・ブラック。
魔法属性、魔力の派生、杖適合率、呪文反応曲線。
細かく記されたその全てが、自分のものと恐ろしいほど一致していた。
魔力波形までが、完全に同一。
「……嘘だろ。」
声が震えた。
頭の奥がじんじんと痛む。
指先が冷たくなり、書類を落としそうになる。
紙の上の数字と記録が、目の前で滲んで見えた。
視界の端で、かつてのアランの笑顔が蘇る。
あの柔らかな黒髪、翡翠の瞳、
「さよなら」と言ったあの日の声。
――アルタイル。
彼女の隣にいた少年の顔が、脳裏に鮮やかに浮かんだ。
あのとき、どこかで既視感のようなものを覚えていた。
笑い方が、自分に似ていた。
目の奥の光の宿し方が、どこか同じだった。
だが、まさかそんなはずはないと打ち消した。
否定することで、守っていたのだ。
封筒の縁が、震える手でくしゃりと歪む。
「……アルタイルは……俺の……」
言葉にならない。
喉の奥で声が震えて、涙がこみ上げた。
胸の奥が灼けるように熱いのに、体の中心が凍えていく。
冷たい。
冷たくて、痛くて、呼吸ができない。
あの時、自分たちは別れた。
彼女の中に命が宿っていたことに、どうして気づけなかったのか。
どうして――。
彼女が1人で抱え、1人で生きてきた年月を思う。
アランの笑顔の裏にあった孤独を、今になって想像してしまう。
それがあまりに重く、苦しくて、
自分の愚かさを呪いたくなった。
涙が頬を伝った。
久しく忘れていた感情。
何年も、誰の前でも流したことのなかった涙だった。
「ジェームズ……」
親友の顔が浮かぶ。
なぜ、黙っていたのか。
なぜ、知らせてくれなかったのか。
そう思う気持ちが確かにあった。
けれど、すぐにその怒りは霧のように消えた。
――ジェームズは、分かっていたのだ。
アランの名を聞くだけで、今でも胸の奥が焼けるように痛む。
忘れようとしても、決して忘れられない。
彼女を思い出すたびに、心が乱れ、理性が削がれる。
もし自分がこの事実を知ったなら、
きっとまた彼女を追いかけ、
全てを壊してでも手を伸ばしてしまうだろう。
ジェームズはそれを恐れたのだ。
自分を――そしてアランを守るために。
「……馬鹿野郎……優しすぎるんだよ。」
静かに呟いて、シリウスは書類を胸に抱いた。
羊皮紙の端が涙で滲み、少しずつ歪んでいく。
外の風が吹き抜け、古いカーテンがはためいた。
窓の外には、夕暮れの光。
金色の空が、街を優しく包み込んでいる。
その光を見上げながら、シリウスは小さく息を吐いた。
「……会いたい。」
言葉が震えた。
アランに――そしてアルタイルに。
血のつながりがある親族としてではない。
“父”として、息子の前に立ちたい。
彼の目を真っ直ぐに見て、
自分の名前を名乗りたい。
たとえ、それが赦されぬことでも。
心の奥で静かに願った。
どうか、もう一度だけ――
彼女に、そして息子に会える機会を。
その願いが夜空に消えていく。
かつてアランと共に見上げた星々が、今も静かに輝いていた。
レギュラス・ブラックは、深い苛立ちを抱えていた。
その怒りは、外からも内からも押し寄せてくるものだった。
ここ最近、騎士団の動きがやけに活発だ。
何かを嗅ぎつけたのだろう――いや、確実に嗅ぎつけている。
屋敷の周囲に潜む監視の気配は、もう隠しようもなかった。
新聞を装った特使、街角の露天商、魔法省の使者。
どれもが一見何の変哲もない“通行人”のようでいて、
その目だけは妙に鋭く、冷たく光っていた。
そのたびに、胸の奥がかすかに軋む。
“見張られている”という意識が、
まるで細い糸のように首を締めつけてくる。
このままでは、ヴォルデモートの命を果たすこともできない。
ハリー・ポッターへの接触はすべて封じられた。
ホグワーツに何らかの“行事”を仕掛けようとしても、
「安全上の懸念がある」と却下されるばかり。
新たな教師を送り込む計画も、
“ダンブルドアの承認が必要”という名目で握り潰される。
まるで、透明な檻の中に閉じ込められたようだった。
どの道を進もうとしても、見えない壁に阻まれる。
頭では理解していても、感情は抑えられない。
あの老人が、すべてを見透かしているかのように。
レギュラスの思考の行く先を、何手も先に読まれているかのように。
苛立ちが心の底で渦を巻く。
その行き場を失った感情は、
やがて私生活にまで影を落とし始めていた。
最近、リディアがよくアランと共に寝室で眠るようになった。
最初は微笑ましい光景だった。
産みの母――カサンドラの不在が、幼い少女の心に
ぽっかりと空洞を作っていることを思えば、
アランがそれを埋めようとするのは当然のことだと思えた。
しかし、その“思いやり”は次第に彼の胸に小さな棘を生み始めた。
リディアが寝室に来る日が続くたび、
レギュラスは自分の居場所を奪われていくような気がした。
愛らしい少女の寝息が響くたび、
彼女を慈しむ母の柔らかな笑みを見るたびに、
どこか遠い場所へ押しやられるような感覚に襲われた。
屋敷の主でありながら、
この寝台の半分にすら自分の影を落とせない。
そんな日々が幾晩も続いた。
そして今夜、久方ぶりにリディアは使用人の部屋で眠っていた。
ようやく訪れた――二人きりの夜。
レギュラスは、寝台の脇に立ってアランを見下ろした。
白い寝間着の襟元から覗く鎖骨。
枕に流れる黒髪。
その一筋一筋が、灯火に照らされて淡く揺れている。
その姿は、静謐で、どこまでも美しかった。
けれど、どうしてだろう。
今夜に限って、その美しさがやけに遠く感じた。
まるで硝子の向こうに閉じ込められているようで、
どれほど手を伸ばしても触れられない。
「……アラン。」
声をかけても、反応はない。
寝息が穏やかに続いている。
ゆっくりと体をゆすってみる。
それでも彼女は微動だにせず、夢の中にいる。
深いため息が漏れた。
どれだけこの人を求めても、
彼女の心の一部は決してこちらを向かない。
いつだって、どこか遠くを見つめている。
それがシリウスであることを、もうとっくに悟っていた。
自分の手の中にいるのに、
その心だけは決して掴めない。
苛立ちとも、寂しさともつかぬ感情が、
胸の奥で重く沈殿していく。
彼女の頬にかかる髪を指先でそっと払う。
その瞬間、寝息に合わせてわずかに唇が動いた。
夢の中で誰の名を呼んでいるのだろう。
レギュラスの手が止まる。
胸の奥で、何かが軋む音がした。
愛おしいはずの寝顔が、今夜はやけに憎らしかった。
手を伸ばせば届く距離にいながら、
その心は永遠に遠い。
レギュラスは灯火を見つめ、
ゆっくりと目を閉じた。
――この寝室は、静かすぎる。
蝋燭の火が小さく揺れ、
その影が壁に滲んで消えていった。
寝室には深い静寂が漂っていた。
外の風が石壁をかすかに揺らし、カーテンの裾が静かに波打つ。
蝋燭の炎が、二人の輪郭を淡く照らしていた。
レギュラスは、長い吐息をひとつ零した。
心の奥で渦巻いていた苛立ちも、言葉にできない焦燥も、
この静けさの中では妙に遠く感じられた。
目を細めて、アランの寝顔を見つめる。
すうすうとアランな呼吸。
その胸の上下が、彼女が確かに“生きている”証のように思えた。
触れれば壊れてしまいそうなほど儚く、
けれどこの世のどんなものよりも美しい。
ゆっくりと、アランの体を横向きから仰向けに直す。
その指先の動きは、まるで壊れ物に触れるように繊細だった。
その拍子に、アランの唇から小さな吐息が漏れる。
レギュラスの胸がわずかに跳ねた。
もう一度、そっと肩に触れてゆすった。
その瞬間、長い睫毛の影がかすかに震え、
翡翠の瞳が静かに開かれた。
眠りの縁から戻ってきたばかりのその瞳は、
光を湛えながらもどこか夢の続きを見ているようで、
幻想的な色をしていた。
その視線とぶつかった。
言葉もなく、ただ見つめ合う。
時間が止まったように思えた。
蝋燭の灯りが、二人の間に揺れながら呼吸を刻む。
レギュラスは、堪えきれずにその唇に触れた。
最初の口づけは、
「まだ寝ないでいてほしい」――そんな小さなわがままが滲むような、
軽く、ためらいがちなものだった。
だが、触れた瞬間にすべてが崩れた。
その柔らかさ、温もり、
長い間触れることさえ叶わなかった感触が、
理性の奥をゆっくりと溶かしていく。
口づけは次第に深くなり、
ため息のような音が唇の隙間からこぼれた。
アランの瞳が少しだけ開き、
そこに浮かぶ微笑が、夜の光に溶けていく。
まるで赦しを与えるように、
そして求めを受け入れるように、
彼女は静かにその唇を重ね返した。
――愛している。
その思いが、言葉を超えて胸の奥に満ちていく。
けれど、どれほど繰り返しても伝えきれない。
どれほど触れ合っても、まだ足りない。
この胸に溢れる愛情は、
言葉という器には収まりきらないほどに大きく、
深く、苦しい。
彼女の唇の隙間から漏れる息が、頬を撫でた。
その温かさが、
心の奥に巣くっていた苛立ちを静かに溶かしていく。
波が引くように、静かに、穏やかに。
「……アラン。」
掠れた声でその名を呼ぶ。
彼女は瞼を半ば閉じたまま、
ほんの少しだけ微笑んだ。
その表情は、
眠りと覚醒の狭間で揺らぐ、夢のような美しさを帯びていた。
唇の端に浮かんだその弧は、
どこまでも妖しく、哀しく、そして優しい。
レギュラスはその頬に額を寄せ、
ただ彼女の息を感じた。
この人に触れていなければ、自分が壊れてしまいそうだった。
この瞬間だけが、
外の世界の混沌も、監視の目も、帝王の命令も、
すべてを忘れさせてくれる。
愛する人の体温が、自分の呼吸と重なる。
その中に安堵があった。
そして、その安堵の奥に、
微かに滲む恐れがあった。
――この温もりを、いつまで守れるだろうか。
思考の隙間で、そんな不安がこだまする。
けれど今はただ、
その不安さえも抱きしめるように、
彼女の唇を再び求めた。
爆ぜるような快楽の中に、静かな安らぎが満ちていく。
触れ合うたびに、
彼女の愛が確かに自分の中に流れ込んでくる。
その愛を確かめるように、
レギュラスはアランを胸に抱き寄せた。
外の風が止み、夜がさらに深く沈んでいく。
蝋燭の炎が一度だけ揺れ、
そして静かに、眠るように消えた。
まだ眠りと覚醒のあわいをさまよっていた。
意識は深い霧の奥にありながら、確かな熱と鼓動だけが自分を現実へと引き戻していた。
レギュラスの呼吸が、近い。
肌に伝わる温度が、夜気の冷たさを溶かしていく。
何度も、名前を呼ばれた。
低く、掠れた声で。
それはまるで、失われたものを確かめるように、
あるいは、存在の証を刻みつけるように。
夢の底から引き上げられるようにして、
アランは静かに目を開けた。
視界の中に映るのは、誰よりも愛した男の瞳。
その奥に宿る激情は、
言葉では到底言い尽くせぬほどの渇きと、
どこまでも深い孤独を孕んでいるようだった。
指先が触れるたびに、
世界の輪郭がぼやけていく。
痛みと呼ぶにはあまりに繊細で、
快楽と呼ぶにはあまりに哀しい感覚。
それは、愛という名のもとに
互いの魂をすり合わせるような時間だった。
「……レギュラス。」
かすれた声で彼の名を呼ぶ。
その瞬間、レギュラスの動きが一瞬止まり、
アランの言葉を待つように息をひそめた。
「私も……あなたを、愛しています。」
それは誓いのようであり、
赦しのようでもあった。
アランは彼の背に腕を回し、
逃げ場のないこの現実を抱きしめた。
この人は――何を求めているのだろう。
何もかもを持っているはずなのに、
それでも満たされない何かを
必死に追い求めているように見える。
名誉も、権力も、美しさも、
この人の手の中にはすでにある。
けれど、彼はきっと“安らぎ”というものを知らない。
いつだって、誰よりも強く、孤独に戦っている。
自分にできることはただ一つ。
その戦いの夜を、受け止めることだけ。
痛みも、嘆きも、すべて。
彼の抱えるものを、
一瞬でも軽くしてあげられるのなら――。
だから、アランは精一杯の愛をもって彼を受け入れる。
それが、自分にできる唯一の祈りのかたちだった。
「レギュラス……好きです。」
囁く声は震えていた。
その言葉が触れた瞬間、
レギュラスの腕が強く彼女を抱きしめる。
その抱擁には、愛と執着と祈りが同居していた。
重く、苦しく、けれどそれでいてどこまでも優しい。
彼女を閉じ込めるように、
しかし同時に守るように。
アランはその腕の中で思う。
この人の愛は、
降り注ぐ雨のように止めどなく溢れていく。
ならば、自分の愛は――
その雨を受け止める大地でありたい。
彼が降らせるものすべてを受け、
その重さごと包み込む存在でありたい。
二人の間に流れる静寂が、
夜の闇に溶けていった。
風がカーテンを揺らし、
蝋燭の炎がわずかに明滅する。
それは、愛という名の静かな嵐だった。
淡い光が、レースのカーテン越しに寝室を満たしていた。
夜の余韻がまだどこかに漂っている。
その光の中で、アランはゆっくりと瞼を開けた。
隣ではレギュラスが眠っていた。
寝台の端に片腕を投げ出し、規則正しい呼吸を繰り返している。
胸の上下が、静かな波のように揺れていた。
アランはしばらく、その寝顔をただ見つめていた。
普段の彼からは想像もつかないほど、穏やかで無防備な表情だった。
夜のあいだ、あれほど激しく心と体をぶつけてきた男とは思えないほどに。
そっと手を伸ばし、肩を軽く揺らしてみた。
しかし、目を覚ます気配はない。
深く眠っている。
おそらく、この数日まともに眠れていなかったのだろう。
重責と緊張、そして昨夜の昂ぶり――
そのすべてが、彼の体をようやく休息へと導いたのかもしれなかった。
アランは息をひとつ吐き、そっと体を起こした。
シーツの皺が、夜の記憶をそのままに刻んでいる。
彼のシャツは、胸元から少し乱れていて、
自分が掴んだ跡がくっきりと残っていた。
しがみついていた自分の手の跡が、あまりにも生々しく、
昨夜の情景をありありと思い出させる。
ベルトが寝台の脇に転がっている。
金具が朝の光を反射して、鈍く光った。
あの人は、まるで何かから逃げるようにして、
一目散にこの寝室へ戻ってきたのだ――
その光景がありありと目に浮かぶ。
アランは静かにシーツの端を整えながら、心の中で問いかけた。
――昨夜、彼は何を感じていたのだろう。
――私は、あの人の心の渇きをほんの少しでも潤せただろうか。
好きだと告げた。
それは、決して嘘ではなかった。
けれど、その言葉がどれほどの力を持って
彼の心に届いたのかが分からない。
彼はあまりにも多くを持ち、
それでもどこか満たされない人だった。
名誉も、血筋も、地位も手にしているのに、
いつも何かを求め続けている。
まるで、心の奥にぽっかりと空いた場所を
愛でしか埋められないと信じているかのように。
自分が、その欠片の一つになれたのなら――
それだけでいい。
そう思いながらも、胸の奥にかすかな不安が残る。
外の廊下から、小さな足音が聞こえた。
続いて、鈴の音のように愛らしい声。
「お母様? お父様は?」
リディアだ。
アランは慌てて寝室を振り返る。
まだ眠り続けるレギュラスの姿を見て、
この空気を娘に感じさせるわけにはいかないと思った。
彼の上にそっとシーツをかけ直す。
夜の熱がまだ残るその布を胸元まで引き寄せてやり、
乱れた髪を指でなぞる。
一瞬、指先に温もりが残った。
その感触を惜しむように離して、アランは静かに立ち上がった。
寝室を出ると、廊下の光が柔らかく広がっている。
リディアが、白いナイトドレスの裾を揺らしながらこちらを見上げた。
その瞳は、まるで夜明けの空をそのまま閉じ込めたように澄んでいる。
「お母様、お父様は?」
アランは微笑み、娘の髪を撫でた。
「……もう少し寝かせてあげましょう。
お父様、最近ずっとお疲れだったのよ。」
「じゃあ、静かにしておきますね。」
そう言って小さく頷くリディアの仕草が、
愛しくてたまらなかった。
アランはその手を取り、廊下の先へと歩き出す。
背後の扉の向こうでは、まだレギュラスが眠っている。
その寝顔に、どんな夢が宿っているのか。
自分がその夢の中に、ほんの少しでもいることを願いながら、
アランは静かに扉を閉めた。
――朝の光が、ゆっくりと屋敷を満たしていく。
昨夜の熱を洗い流すように、清らかで、どこか寂しい光だった。
ホグワーツの大広間は、冬の冷気を閉じ込めた石壁の内で、松明の炎が揺れていた。
四大魔法競技〈トライウィザード・トーナメント〉が開幕してからというもの、
学舎全体がざわめきに包まれている。
生徒たちは誰もがハリー・ポッターの名を口にし、
その名が夜風のように城の廊下を駆け抜けていた。
アルタイルもまた、その中心にいた。
遠巻きに、時に近くで、彼の姿を見つめる。
第一の課題――炎を吐くドラゴンを前にしても、
ハリーは怯むことなく立ち向かった。
第二の課題では、凍てつく湖の底に潜り、仲間を救い出した。
誰よりも勇敢で、誰よりも真っすぐな少年。
彼を見ていると、まるで光そのものを見ているような錯覚を覚える。
――人はこんなにも強く、自由でいられるものなのか。
ハリーを見ていると、そんな思いが胸の奥で何度も芽吹いた。
自分はいつも、父の影の中で、母の微笑の中で生きてきた。
どれほどの努力をしても、何かに守られ、囲われているという感覚が消えない。
けれど、ハリー・ポッターは違った。
彼は誰にも縛られず、何者の名にも従わず、
ただ己の信念だけで動いているように見えた。
その眩しさが、痛いほどだった。
だが、その光の傍らに、どうしようもなく不穏な影が伸びているようにも感じていた。
アルタイルの胸の奥で、何かがざわついている。
ハリーが〈トライウィザード・トーナメント〉に選ばれた時、
誰もが驚いた――いや、恐れた。
まだ年齢に満たない彼が、なぜ選ばれたのか。
年齢制限を越える魔法が施されているはずの聖杯が、
なぜ彼の名を吐き出したのか。
偶然などではありえない。
誰かの意図がある。
ハリーをこの危険な舞台に引きずり出した何者かの存在。
アルタイルはそれを直感していた。
そして、その不穏を裏付けるような出来事が、いくつか続いた。
新任の闇の魔術に対する防衛術の教師、アラスター・ムーディ。
顔に深い傷跡を刻み、魔法の義眼を持つ元闇祓い。
初めての授業の日、アルタイルの席の前で彼は立ち止まり、
まるで昔から知っている人間に声をかけるように言った。
「おや、レギュラス・ブラックの息子か。」
教室の空気が一瞬で凍る。
アルタイルは思わず姿勢を正した。
「……僕を、ご存じなんですか?」
「いや、君の父上をな。よく似ている。」
ムーディはそう言って片目を細めた。
だが、その声音の奥にあったのは懐かしさではなく、
どこか探るような、試すような響きだった。
――父を、知っている?
レギュラス・ブラックを?
不思議だった。
父は神秘部の中でも、
最も閉ざされた部署――危険物調査管理局に属している。
そこでは、古代の呪具や封印魔法、呪われた遺物の解析など、
極めて限定された人員だけが出入りを許される。
それは魔法省内でも他部署と交わることのほとんどない領域だ。
闇祓いのムーディのような人物が、父と関わりを持つ理由などあるはずがない。
それなのに、まるで古い友人のように語る口ぶり。
しかも、どこかでこちらを「観察している」ような眼差し。
あの回転する魔法義眼が、視界の外からでも
背筋をなぞるように動く気配を感じることさえあった。
アルタイルは笑顔を返しながらも、心の底で冷たいものが広がっていった。
父の名を出した時点で、何かが仕組まれているのかもしれない。
ハリーの参加も、彼の接触も、偶然ではない――そう思えてならなかった。
ひとつひとつの出来事は、取るに足らない。
しかし、それらが細い糸で繋がっていく感覚があった。
ハリーの周囲に漂う違和感。
ムーディの存在。
そして、舞台の裏で誰かが静かに糸を引いている気配。
アルタイルの胸の奥で、恐れにも似た焦燥が燃え上がる。
ハリーは光だ。
だが、その光は強ければ強いほど、
それを喰らおうとする影を呼び寄せる。
そして、その影は――
もしかすると、自分の家にさえ繋がっているのかもしれない。
城の外は、すでに冬の風が吹き荒れていた。
空は厚い雲に覆われ、陽の光はわずかにしか差し込まない。
それでも遠くの湖面には、
ハリーが放った火花のような勇気の光が反射していた。
アルタイルはその光を、
胸の奥でそっと見つめながら思った。
――もし彼が闇に飲まれそうになるのなら、
僕が、その光を守らなければならない。
それは、まだ少年の祈りのような決意だった。
けれど確かに、その瞬間、
彼の運命はハリー・ポッターのそれと
静かに絡み合い始めていた。
冬の雨が、魔法省の高窓を静かに叩いていた。
夜の帳が落ちるとともに、ランプの灯がゆらめき、薄暗い室内に複雑な影を描き出す。
その影の中で、二人の男が向かい合っていた。
一人は、冷ややかな銀灰色の瞳を持つレギュラス・ブラック。
もう一人は、淡い笑みを浮かべながらも目の奥に狂気の光を潜ませた男――バーテミウス・クラウチ・ジュニアである。
「頼みますよ。あなたにかかっています。」
レギュラスの声は低く、しかし鋭かった。
机の上には、羊皮紙に書き込まれた細かな指示書と、ホグワーツの古い地図が広げられている。
インクの匂いと蝋の香りが、冷たい空気に溶けていた。
「君の息子にも会えるなら、そりゃやりがいがありそうだ。」
バーテミウスが唇を歪める。
その言葉にレギュラスの眉が僅かに動いた。
「余計な接点は持たないでください。あの子は勘付きますよ。」
抑制された声音の中に、明確な警告が含まれていた。
バーテミウスは肩をすくめた。
「わかっているさ。僕はただ、“アラスター・ムーディ”として存在するだけだ。
――完璧に、な。」
その瞳が、異様に輝いた。
冷徹で、何かを弄ぶような光。
レギュラスは一瞬、その笑みに寒気を覚えた。
だが今さら、他に選択肢など残されていない。
バーテミウスには、闇祓いアラスター・ムーディに成りすまし、
ホグワーツへの潜入を果たすよう命じている。
任務はただ一つ――
〈四大魔法競技〉を無事に終盤まで導き、
ハリー・ポッターを“最後の門”へ送り出すこと。
そこで“儀式”は始まる。
ヴォルデモート卿の肉体復活のための、不可欠な要。
ハリー・ポッターの血肉を、闇の帝王に捧げねばならない。
そのための布石を、今、ここで打つしかないのだ。
バーテミウスは手にしていたカップを弄びながら、
「しかし皮肉だな。かつての闇の支配者のために、
今もブラック家が動いているなんて。」
と、呟いた。
「皮肉でも、運命でも、どちらでも構いません。」
レギュラスは淡々と答えた。
「僕は命ある限り、闇の帝王への忠誠を誓いました。」
バーテミウスが怪訝そうに眉を上げる。
「そこまでして、君はいったい何を守ろうとしている?」
しばらくの沈黙。
ランプの灯が小さく揺らめき、
レギュラスの横顔を淡く照らした。
その表情は冷たく見えたが、
その奥には痛切な祈りのようなものが潜んでいた。
「――アランを。」
その名を口にした瞬間、
わずかに声が震えた。
「彼女を救うためなら、どんな闇にでも沈む覚悟はあります。」
外では風が強くなり、雨粒が窓を叩く音が響いた。
その音が、まるで契約の鐘のように二人の間に鳴り渡る。
ヴォルデモートは、すでにホークラックスのいくつかを失い、
力を取り戻すために焦っていた。
ハリー・ポッターの血が持つ“生き残りの呪文”の力。
それが闇の帝王の損傷さ肉体を復活させる鍵となる。
レギュラスの任務は明白だった。
――忠誠の証として、ハリー・ポッターを〈儀式の場〉へ導くこと。
そして、その対価としてアランの命を保証させること。
愛する者を守るために、彼は再び闇に手を伸ばした。
己の魂を削りながら。
「バーテミウス、あなたの腕を信じています。」
「ええ。完璧にやってみせましょう。」
彼は嗜虐的な笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がった。
マントの裾が床を擦り、足音が遠ざかっていく。
扉が閉まると、部屋に残されたのは、
蝋燭の炎と、レギュラスの深い吐息だけだった。
机の上には、アランの微笑む写真が一枚。
若き日の、まだ何も知らぬような無垢な笑顔。
――彼女の命を、再び闇に奪われるわけにはいかない。
そのためなら、どんな罪も背負う。
レギュラスは写真に触れ、
目を閉じた。
窓の外では、闇が深まっていく。
まるで彼の誓いを呑み込み、
世界全体が静かに息を潜めているかのようだった。
冬の霧がホグワーツの尖塔を包み込み、湖面には薄い靄が漂っていた。
その白い空気の中を、二つの影が早足で進んでいく。
一人は、漆黒のローブを揺らしながら歩くシリウス・ブラック。
もう一人は、その隣に並ぶジェームズ・ポッターだった。
二人とも言葉少なだった。
重苦しい沈黙の中、靴音だけが長い廊下に響いていた。
ハリーの名が〈四大魔法競技〉に選ばれたとき、
シリウスは最初、ただの悪ふざけだと思っていた。
あの少年は運命を惹き寄せる――それも知っていた。
だが、ハリーが次々と難関を突破し、
それを誇らしげに語る手紙を読むうちに、
胸の奥に小さな棘のような不安が刺さっていたのも確かだった。
その不安が確信へと変わったのは、
アルタイルから届いた一通の便りだった。
フクロウ便で届いた羊皮紙には、
丁寧な筆跡で彼らしい慎重な言葉が並んでいた。
――アラスタ・ムーディが自分を知っていた。
――父のレギュラス・ブラックの名を出した。
――ハリーを妙に気にかけ、何かを導こうとしているように見える。
「考えすぎかもしれません。でも、どうにも気になります。」
最後の一文が、少年の心の震えをそのまま映していた。
アルタイルの手紙を読み終えた瞬間、
シリウスは胸の奥で血の音が鳴るのを感じた。
彼の“父”の名を知る者が、
ハリーのそばにいる――?
偶然で済ませられる話ではない。
すぐにジェームズに連絡を取り、
騎士団の仲間たちにも共有した。
何かが動いている。
ハリーの背後に、誰かの意図が確かにある。
そして――
その“誰か”に、レギュラスの影がちらつく。
その事実が、シリウスを夜も眠れぬほど苛立たせていた。
弟であり、裏切り者であり、
そして今なお自分の過去を縛る亡霊。
それでも、
アルタイルの名がそこにある限り、
無視などできるはずもなかった。
ホグワーツの客間で、
アルタイルは静かに座っていた。
あの柔らかな黒髪が、光を受けて青く光る。
緊張しているのか、指先が机の上を小さく叩いていた。
扉が開く。
「アルタイル。」
低い声。
その響きだけで、少年は立ち上がった。
シリウスがそこにいた。
以前ハリーに紹介されて会った、あのときの黒髪の男。
どこか懐かしいような、けれど理由の分からない親しさを感じた人。
「シリウスさん……」
その瞳――銀灰色の瞳が、じっとアルタイルを見つめていた。
そして一歩、また一歩と近づいてくる。
ジェームズは少し離れた場所に立ち、
静かにその様子を見守っていた。
まるで何かを悟らせまいとするように、
言葉を飲み込んで。
シリウスの喉がかすかに鳴った。
言葉を選ぼうとするたび、胸の奥が痛む。
ようやく会えた――この子に。
己の血を分けた、たった一人の息子に。
だが、今それを告げることはできない。
伝えるべき言葉が、喉の奥で渦を巻いて消える。
「ハリーのことを知らせてくれてありがとう。」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
それでも、声がかすかに震えた。
アルタイルは首を横に振る。
「いえ……僕なんかが出す手紙で、
ご迷惑をおかけしてしまっていたらすみません。」
「そんなことはない。」
シリウスは思わず言い切った。
「君の気づきがなければ、私たちは何も知らずにいた。
……君は、よくやった。」
その声に、
アルタイルは一瞬、息を呑んだ。
――この人の声を、やはりどこかで知っている。
そう感じた。
心臓の鼓動が早くなる。
なぜだろう。
目の前のこの人を見ていると、
胸の奥に懐かしい何かが疼く。
シリウスは、そんな少年の揺らぎを感じ取っていた。
その瞳があまりにもアランに似ている。
笑った時の口元まで、まるで鏡を見ているようだった。
喉の奥まで込み上げる衝動を押さえきれず、
思わず手を伸ばした。
「アルタイル……」
名前を呼んだその瞬間、
少年がゆっくりと振り返る。
銀の光が交錯するように、
二人の視線がかち合った。
「――また君に会えて、本当に嬉しい。」
言葉の意味を理解しきれず、
アルタイルはただ小さく微笑んだ。
「僕も……またお会いできて嬉しいです、シリウスさん。」
ほんの一瞬、
シリウスの胸に痛みが走る。
“シリウスさん”――
父と呼ばれることのない距離。
それでも今は、その距離さえも愛おしかった。
少年の背に伸ばした腕を、
ようやくそっと回し、抱きしめた。
細い体が、自分の胸の中で微かに震えている。
その温もりが、まるで失っていた時間の全てを取り戻すように、
シリウスの心を満たしていった。
ジェームズはその光景を見て、
ほんの少しだけ目を伏せた。
シリウスがすでに真実を知っていることを、
まだ知らないままに。
扉の外では、冬の風が鳴いていた。
その風音の中に、
血の記憶が静かに息を吹き返していく。
ホグワーツ全体に、緊張が張り詰めていた。
空気さえも硬く、息を潜めたような沈黙。
騎士団のメンバーたちはすでに校内に入り、
強力な保護呪文を幾重にも張り巡らせていた。
城壁の外郭から寮の周囲、湖の上空までもが見えない結界で覆われ、
不審な魔力の侵入を防ぐために、あらゆる通路が制限されている。
――それでも、不安は拭えなかった。
その夜、〈四大魔法競技〉最終決戦――
“迷路”の試練が始まった。
スタジアムには満員の観客が詰めかけ、
夜風の中に旗が翻っている。
だがその華やかな喧騒の裏側には、
誰も知らぬ闇の気配が静かに蠢いていた。
アルタイルは観覧席の片隅に立ち、
両手を胸の前で固く握りしめていた。
彼の瞳は、黒い迷路の方角をまっすぐに見据えている。
その表情は、祈りに近かった。
――どうか、ハリーが無事でありますように。
彼の心には、得体の知れない不安が巣くっていた。
何かが、ハリーを飲み込もうとしている。
そう感じてならなかった。
迷路の中では霧が立ち込め、
時折、観客の歓声をも呑み込んでしまうような沈黙が訪れる。
教師陣も騎士団も警戒を強め、
しかし肝心の“中”の様子を完全には把握できていなかった。
――そのとき。
アルタイルは決意した。
(行かなくては)
胸の奥で、雷鳴のように声が響いた。
立ち上がった瞬間、心臓が激しく脈打つ。
教師たちの目を盗み、迷路の裏側――観客席の影へと走った。
そこに結界の継ぎ目があることを、彼は以前の見学時に見抜いていた。
入口はすでに封印されていたが、
アルタイルは杖を構え、低く唱える。
「Alohomora Maxima.」
青白い光が走り、空気が軋む音がした。
魔力の網がわずかにほどけ、
迷路の入り口がひと筋だけ、歪むように開いた。
ひやりとする冷気が漏れ出す。
足を踏み入れた瞬間、
背後で扉が音もなく閉ざされた。
――静寂。
霧の向こうに、黒々とした茨の壁。
どこまでも続く狭い通路。
空は見えず、光は弱々しい。
アルタイルは唇を噛んだ。
(怖い……けれど、引き返せない。)
ハリーと共にあるようになってから、
自分の中の“臆病”が少しずつ姿を変えた。
恐れよりも、守りたいという衝動が勝るようになったのだ。
闇の中を駆ける。
足音が土を打ち、呼吸が荒くなる。
曲がり角の向こうから、風が吹いた。
幻影か、罠か――わからない。
だが立ち止まることはできなかった。
「ハリー!」
声を張り上げる。
しかし返事はない。
何度も何度も呼んだ。
迷路の中を走り続けた。
霧が視界を奪い、方向感覚も狂う。
けれど、その名を呼ぶたびに、
心の奥の光が道を示してくれる気がした。
「ハリー!!」
そして、遠くから微かな返事が聞こえた。
「アルタイル!? どうしてここに!?」
霧の向こうに、ハリーがいた。
彼は傷だらけの手で杖を構え、
だがその顔には確かな安堵の色が浮かんでいた。
「何とか……忍び込みました。」
息を切らしながらも、アルタイルは笑った。
「君、正気か? ここは危険すぎる!」
「わかってます。でも、放っておけませんでした。」
悪いことをしている自覚はあった。
教師の目を盗み、
規則を破り、
命を賭けるような真似をしている。
見つかれば、退学どころでは済まない。
それでも――。
目の前でハリーが無事に立っている。
その事実だけで、全ての恐怖が吹き飛んだ。
ハリーは苦笑を浮かべた。
「君がいると、心強いよ。」
アルタイルは胸が熱くなった。
「一緒に、カップを探しましょう。」
二人は頷き合い、再び走り出した。
霧が彼らの足元を包み、
風が髪を揺らす。
遠くで、雷鳴のような音が響いた。
迷路はまるで、生き物のように道を変え、
二人を試すように立ちはだかる。
だが彼らの心には、
確かな信頼と友情の光があった。
――その光こそが、
この夜、闇を切り裂く唯一の魔法だった。
その夜は、不気味なほどに静かだった。
風さえも息を潜め、月が薄雲の奥から地上を覗いている。
冷たい空気が骨の髄まで染み渡るような闇の中、
ひとりの男が墓地の中央に立っていた。
――レギュラス・ブラック。
漆黒のマントをまとい、
顔にはデスイーターの仮面。
その背筋は、氷のように張り詰めている。
彼の周囲にはすでに、十数人の同胞たちが集まっていた。
誰もが息を潜め、地面に刻まれた魔法陣の中心を見つめている。
そこでは、重苦しい緑の光がゆらゆらと揺れていた。
空気が、痛いほどに刺す。
風が吹くたびに、黒いマントがひるがえり、
そのたびに、どこかで誰かが息を呑む音がした。
――今日という日は、闇の帝王が完全に復活する日。
バーテミウスが完璧に動いていることをレギュラスは確認していた。
“アラスター・ムーディ”としての偽装は成功している。
あとは、優勝杯のポートキーが発動し、
“予言の子”――ハリー・ポッターがここへ導かれてくるのを待つだけだ。
これまでのすべては、そのために。
その一点に集約された闇の計画だった。
レギュラスの胸の奥では、
鋭い緊張と、形容しがたい疼きがせめぎ合っていた。
成功すれば、ヴォルデモートは完全な肉体を得る。
失敗すれば――家も、名も、すべてが終わる。
そして何より、アランが、アルタイルが、闇の怒りに巻き込まれる。
だから、何としても成功させねばならなかった。
……だが、その“完全”は、
あまりに脆く、残酷な形で崩れた。
眩い光とともに、
優勝杯――ポートキーが発動した。
次の瞬間、二つの影が地面に叩きつけられる。
「っ……ここは……?」
ハリー・ポッターが息を呑む。
隣には――アルタイル・ブラック。
(――なぜ、あの子が!?)
レギュラスの心臓が、
胸の奥で爆ぜた。
ありえない。
ポートキーは、ハリーひとりを運ぶはずだった。
他の者が触れて転移したとしても、
この場所にまで“正確に”届く確率は限りなく低い。
それなのに――なぜ、息子が。
レギュラスは呼吸を忘れた。
その間にも、闇の帝王はゆっくりと立ち上がる。
仮面の下からも分かるほど、
その空気は歪み、冷え、圧力を帯びていく。
「……来たか、ハリー・ポッター。」
蛇のような声が、墓地を這う。
ハリーの足元の地面が蠢き、
彼の体は瞬時に見えない鎖で石碑に縛りつけられた。
「ハリー!!!」
アルタイルの叫びが夜を裂く。
駆け寄ろうとした瞬間、
ヴォルデモートの冷たい声が響いた。
「お前が――アルタイル・ブラックか。」
アルタイルは足を止めた。
血の気が引き、喉がひきつる。
その名を呼ばれた時の、あの声。
まるで魂を凍らせるような響き。
「……は、はい……」
震える声で、なんとか返事をした。
ヴォルデモートはゆっくりと歩み寄る。
マントの裾が地面を擦り、
そのたびに、冷たい風が巻き起こった。
「父親によく似ている。
ここまで辿り着くとは……さすがはブラックの血だ。
見事な勘の鋭さだな。感心するぞ。」
その声には、嘲りとも称賛ともつかぬ響きがあった。
アルタイルは後ずさり、
杖を握る手が震えていた。
恐怖というものを、
これほど強く感じたことはなかった。
目の前の男は、存在そのものが“死”を意味している。
――そして、レギュラスはもう限界だった。
仮面の奥で、息を殺しながらも、
全身が叫んでいた。
(やめろ。やめてくれ。息子に触れるな。)
理性が叫び、使命がそれを押しとどめる。
だが、父としての本能が、
どうしても黙っていられなかった。
「アルタイル――こちらへ。」
低く、しかし確かな声が、闇の中から響いた。
ヴォルデモートの赤い瞳がわずかに動く。
アルタイルが、驚いたように目を見開く。
その声。
聞き間違えるはずがない。
「……父……さん……?」
だが、フードと仮面の群れの中で、
どれが父なのか、見分けがつかない。
声だけが、虚空に響いて消える。
混乱、恐怖、そして――一瞬の希望。
アルタイルは父の声を探すように、
必死に周囲を見回した。
だが、闇の中に並ぶ仮面たちはどれも同じ形。
誰が味方で、誰が敵なのかも分からない。
その光景に、レギュラスの胸が締めつけられた。
――自分の息子が、
この地獄の真ん中で怯えている。
それでも自分は、仮面を外せない。
すべては、アランを守るため。
彼女を、子を、生かすため。
だが、心はもう引き裂かれていた。
忠誠と愛。
その二つの鎖が、彼の中で軋んでいた。
冷たい夜気の中で、
レギュラスの指先が震えていた。
杖を握る手に力が入らない。
(どうか――生き延びてくれ、アルタイル。)
彼の祈りは、誰にも届かぬまま、
墓地に吹く風の中に、静かに溶けていった。
空気が、凍りついていた。
風が一切動かず、ただ湿った土と血のにおいだけが重く漂っていた。
月明かりが薄く墓地を照らし、
無数の墓標がまるで沈黙の兵士のように立ち並んでいる。
アルタイルはその場に立ち尽くしていた。
体が、まるで自分のものでないようだった。
心臓が喉の奥で跳ね、鼓動の音が耳の内側で暴れる。
震えが止まらない。
指先まで冷たくなり、杖を握る手が力を失っていた。
目の前にいるのは――“闇の帝王”。
生きているはずがないと信じられていた存在。
その声が、自分の名を呼んだ。
その響きは、氷刃のように鋭く心臓を貫いた。
体が動かない。
逃げ出したくても足が地面に縫いつけられたようだった。
闇の帝王の赤い瞳が、暗闇の中で不気味に光る。
その目が自分を射抜くたびに、
胸の奥の空気が抜け落ちるような恐怖が襲った。
――そして。
聞き慣れた、父の声が響いた。
「アルタイル……こちらへ。」
その瞬間、血が凍った。
まさか――父が、この場にいる?
仮面を被った無数のデスイーターたちの中。
どの顔も黒いローブに包まれ、どれが父なのかも分からない。
だが確かに、あの声は父のものだった。
信じられない。
尊敬して、誇りに思っていた父が、
なぜこんな恐ろしい集団の中にいるのか。
頭の中が真っ白になった。
息が詰まる。喉が焼けるように熱いのに、声が出ない。
胸の奥で何かが崩れる音がした。
(違う……そんなはずはない……)
だが、闇の帝王の冷たい笑い声が、
そのかすかな希望を踏み潰すように響いた。
「レギュラス・ブラック――」
その名が墓地に落ちた瞬間、
アルタイルの視界がぐらりと揺れた。
――父の名。
仮面の奥で、何かがかすかに動く気配がした。
父のいる場所が、分かってしまった。
その事実が、何よりも恐ろしかった。
どうして。
どうして、父が……。
彼の中で尊敬と信頼で築き上げてきた像が、
一瞬で崩れ落ちていくのを感じた。
「……父さん……?」
喉の奥から、かすれた声が漏れる。
だが返ってくるのは、沈黙だけ。
闇の帝王が杖を振り上げると、
墓地の空気がざらりと震えた。
その動作だけで、あたりの空気が凍るほどの力を放っているのが分かる。
ハリーが捕らえられていた。
墓碑の石に縛られ、動けずにいる。
魔法の鎖が赤く光り、ハリーの体を焼く。
「やめて……!」
叫んでも声が届かない。
闇の帝王はゆっくりと、
ハリーの腕に杖をかざした。
閃光が走り、
皮膚が裂け、血が流れる。
ハリーの喉から苦痛のうめきが漏れた。
その声を聞いた瞬間――
アルタイルの中で何かが壊れた。
恐怖と怒りと絶望とが一度に押し寄せ、
それでも体は動かない。
ただ、震えるだけ。
目の前で、大切な友の血が流れている。
けれど、杖を構えることすらできない。
動けば殺されると分かっている。
それでも、動かない自分が――許せなかった。
「血を……」
闇の帝王の声が低く響く。
取り分けられた血が、銀の杯に注がれた。
儀式の中心で、それが闇の光を放つ。
「肉を……」
次の瞬間、暗黒の炎が燃え上がる。
その中に、ひとつの影が姿を取り戻していった。
ヴォルデモートの肉体が、
再びこの世に形を持ったのだ。
フードを深く被っていた男が、ゆっくりとその布を取る。
現れた顔は――人間ではなかった。
白くのっぺりとした皮膚、蛇のような鼻、
紅く光る瞳。
その存在を見た瞬間、
アルタイルの呼吸が止まった。
それは、恐怖の象徴そのものだった。
世界が、音を失ったように静まり返る。
ヴォルデモートが、ゆっくりと右手を掲げた。
その動きには神のような自信と、怪物のような冷酷さが混ざっている。
「……レギュラス・ブラック。お前は実によく働いてくれた。」
「バーテミウス。お前もだ。」
その言葉が、
墓地の闇を裂くように響いた。
アルタイルの耳の奥で、父の名が何度も反響した。
“レギュラス・ブラック”。
その響きが、まるで刃のように突き刺さる。
尊敬してやまなかった父が――
この男の配下だった。
それが事実として突きつけられた瞬間、
アルタイルの中で世界が崩れた。
信じてきた“正義”の形が瓦解していく。
胸の奥が痛くて、呼吸ができない。
心が引き裂かれるようだった。
目の前の父が、
今、この闇の主の言葉に
何も返さず、ただ静かに頭を垂れている。
それが、なによりも――恐ろしかった。
迷路の中で、異常反応が走ったのはほんの一瞬のことだった。
魔法観測室の結界が震え、赤い灯が点滅する。
ポートキーの反応。
しかも――二つ。
「……今、誰かが飛ばされた!」
緊迫した声が響く。
次いで報告が重なる。
「対象、ハリー・ポッター! それと……アルタイル・ブラック!」
瞬間、騎士団の作戦室にいた全員の血の気が引いた。
「アルタイル……?」
シリウスの声が掠れる。
トーナメントに選ばれてもいない少年が、どうして迷路の中に――。
彼の胸の奥で、心臓が破裂しそうなほどに跳ねた。
(まさか、そんな……。アルタイルが、ハリーと一緒に……!)
何かが起こっている。
それも、取り返しのつかないことが。
騎士団は即座に動いた。
魔法で座標を解析し、ポートキーの発信源を辿る。
呪文の光が部屋中を駆け巡り、円陣の中央に一つの地点が浮かび上がった。
――墓地。
「急げ!」
シリウスの声がほとんど叫びに近かった。
椅子を弾き飛ばすように立ち上がり、杖を掴んで転移陣に飛び込む。
次の瞬間、世界が反転した。
黒い風が吹きすさぶ中、騎士団のメンバーたちが次々と現れる。
そこはまるで、死そのものが息づく場所だった。
墓標が並び、湿った土が靴に絡みつく。
空は異様なほど暗く、空気が痛い。
息を吸うだけで肺が焼けるようだった。
「……なんて場所だ……」
リーマスの声が低く響く。
シリウスの目が鋭く光る。
視線の先――そこに、ハリーとアルタイルがいた。
