4章
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シリウス・ブラックは、ハリーに頼まれて夜のホグワーツを探検していた。
良識ある大人としては止めるべきことだと分かっていた。
だが――校則違反の冒険に胸が高鳴る自分を、どうしても抑えられなかった。
薄闇の中、城の石造りの廊下を抜け、月明かりの射し込む中庭へ。
そこにはハリーと、彼の隣にもう一人の少年の姿があった。
「シリウス! 今日は友達を連れてきたんだ。紹介するよ、アルタイル。アルタイル・ブラックだ。」
「はじめまして。」
少年はまっすぐに立ち、礼儀正しく頭を下げた。
その一挙手一投足に、血筋の良さと教育の深さが滲み出ている。
闇のなかで月光に照らされた横顔――
黒檀の髪に映える淡い光、涼やかな瞳、整った眉の形。
あまりにも見覚えがある。
レギュラスによく似ている。
いや、それ以上に――どこか、自分自身にも似ていた。
「やあ、名前は聞いてるよ。シリウスだ。」
手を差し出すと、アルタイルは一瞬ためらい、それから丁寧にその手を取った。
少年の手はまだ細く、けれど芯のある力が宿っていた。
――まるで、若き日の彼女のように。
シリウスの胸の奥に、言葉にならない痛みが広がっていく。
愛した人の子を、ハリーが“親友”として連れてきた。
何という皮肉。
何という運命の悪戯だろうか。
三人は箒に乗り、夜のホグワーツを飛んだ。
城の灯が点々と瞬き、湖面には月の光が揺れる。
風が頬を打つたび、胸の奥に眠っていた古い記憶が呼び覚まされていく。
――あの夜、アランと二人で箒に乗り、
学舎を空から見下ろした。
笑っていた彼女。
銀の月明かりの中、振り返って風を受けた髪が輝いていた。
その笑顔に恋をした。
それは若さの衝動などではなく、魂を焼くような愛だった。
もう二度と戻らない夜。
もう二度と、触れられない温もり。
その幻影を追いかけるように、シリウスは箒を滑らせた。
前方でハリーが笑う。
その背にしがみつくアルタイルが、不安と興奮の混ざった顔で振り向いた。
月光が少年の頬を照らす。
ああ、やはり――アランの面影がある。
彼女の血を引く者。
彼女の命の証。
「……母さんは、元気にしてるのか?」
思わず問いかけていた。
“アラン”と名前を出しそうになり、慌てて飲み込む。
彼女の息子の前で呼び捨てにするなど、不自然にもほどがある。
アルタイルは少し驚いた顔で、それでも柔らかく答えた。
「はい。僕のお産がとても難産だったようで、少し伏せりがちですが……元気です。」
シリウスの胸がずきりと痛んだ。
胸の奥の古傷が、再び熱を帯びて疼く。
――あの人が、病床に伏している。
あの美しかった人が、屋敷の暗い部屋の中で、
静かに衰えていくのだとしたら。
想像した瞬間、息が詰まりそうになった。
彼女は本来、光の中に立つ人だ。
陽だまりのような笑顔を浮かべ、花のように微笑む人だ。
闇に閉ざされた屋敷など、彼女には似合わない。
それなのに――
「連れ出したい……」
心の奥で、そう呟いていた。
もう一度、あの光を取り戻させてやりたい。
昔のように自由な空へ、風の中へ、笑い声を響かせてほしい。
だが、同時に分かってもいた。
彼女はもう、自分の差し出す手を取らない。
守るべきものがあるからだ。
帰るべき場所があるからだ。
箒の上で、アルタイルを見つめる。
夜風に揺れる黒髪が月明かりに照らされ、
その瞳の奥に、かつてのアランと同じ強い光を見た。
――彼女の守るべきもの。
――彼女がこの世に残した、生きる理由。
それがこの少年なのだと、痛いほど分かった。
胸の奥に沈んでいた何かが、ゆっくりと溶けていく。
寂しさでも、悔しさでもなく――
ただ、静かに満たされていく感情。
彼女が選んだ人生が、確かにここに息づいている。
その証を見つめながら、シリウスは夜空の下、
ひとり微笑んだ。
月の光は、三人を優しく包んでいた。
初めて、シリウス・ブラックという人に会った。
その瞬間――胸の奥で、何かが深く鳴った。
魂がこだまするように、奥の奥で震えた。
彼の差し出した手を握った瞬間、言葉では形容できないほどの衝撃が全身を駆け抜けた。
温かく、そして懐かしい。
生まれて初めて会ったはずなのに、どこかでずっと知っていたような気がする。
血のつながりという単純な理屈では説明できない、もっと深い――魂の根で共鳴しあうような感覚。
不思議だった。
まるで、心のどこかに空いていた穴の形が、この人の存在によってぴたりと埋められたような気がした。
「よくこの辺を冒険してたんだ。」
シリウスが、遠くの塔を指差しながら懐かしそうに言った。
「夜になると、空が一番綺麗に見えるんだよ。」
その声はどこか若々しく、少年の面影を残していた。
ハリーの父の親友であり、今は騎士団の一員として名を馳せる大人の男――
けれどその瞳の奥には、まだホグワーツの廊下を駆け抜けていた頃の光が残っている。
アルタイルは彼の隣に立ち、顔を上げた。
夜風が頬を撫で、黒髪がふわりと揺れる。
見上げた空は、息をのむほど澄み渡っていた。
星々が、無数の銀の粉となって降り注ぐように瞬いている。
その中で一際強く輝くひとつの星――
シリウス(天狼星)。
それは、まるで目の前にいる彼の魂そのもののように、鋭く、美しく、孤高に光っていた。
「……綺麗ですね。」
「だろう?」とシリウスは笑う。
その笑顔が夜気を柔らかくしていく。
アルタイルは、じっとその横顔を見つめた。
月明かりが頬の輪郭をなぞる。
鋭くも穏やかな光を宿した灰銀の瞳――
そこに、自分と同じ何かが宿っている気がしてならなかった。
この人の中に、自分と共鳴する何かがある。
それは血の記憶かもしれない。
あるいは、もっと深く――魂の奥底で受け継がれた何か。
けれどその瞬間、胸の奥に浮かび上がった疑問があった。
なぜ、僕と彼の杖は兄弟杖なのだろう。
なぜ、父と母とこの人の間に、不可思議な絆のようなものを感じるのだろう。
彼に問いたいことは山ほどあった。
けれど、口を開くことはできなかった。
――星があまりにも綺麗だったからだ。
言葉にしてはいけない気がした。
この静寂の中に、全ての答えがすでにあるように思えた。
シリウスは上空の星を見上げながら、ふっと笑った。
「この空の下で見える星たちは、昔からずっと同じなんだ。俺たちが変わっても、星は変わらない。」
アルタイルはその言葉を胸の奥に刻んだ。
“変わらないもの”――
それが彼とこの人の間に流れる、目には見えない絆なのかもしれない。
「……アルタイルって名前、いい名前だな。」とシリウスが言う。
「星の名前だろう?」
「はい。父がつけてくれました。」
「そうか。」
その瞬間、ほんの一瞬だけ、シリウスの表情に切なげな影が差した。
それは、誰にも見せたことのないほど柔らかくて、深い感情だった。
夜風が通り過ぎる。
その音の中で、アルタイルは確かに感じた。
この人の心の奥に、母の面影が生きている。
そして――その面影と自分の中の何かが、同じリズムで脈打っているのを。
星空の下、二人の間には言葉では語れない沈黙が流れた。
それは不思議と心地よい沈黙で、まるで長い年月を経てようやく再会した親子のような、
懐かしさと安堵を孕んだ静けさだった。
シリウスは、空を見上げたまま小さく息を吐いた。
「……星はいいな。どれだけ時が経っても、ちゃんとそこにある。」
アルタイルも同じ方向を見上げる。
「ええ、きっと僕たちが死んでも、ずっと。」
その瞬間、ふたりの視線が同じ星に重なった。
それはまるで――互いの中に眠る記憶が、夜空のどこかで再び出会ったようだった。
カサンドラ・ブラックは、差出人の名を見た瞬間に手が震えた。
封蝋を割るのが恐ろしかった。
それでも、震える指先で封を切る。
中から現れたのは、淡い香水の香りを含んだ便箋と――一枚の写真だった。
白いレースのドレスに身を包んだ少女が、春の庭を背景に微笑んでいる。
栗色の髪が陽光を受けてきらめき、青いリボンが風に揺れていた。
頬は健康的に色づき、唇には屈託のない笑み。
少女の名は、リディア・ブラック。
――私の娘。
その言葉が胸の奥で、静かに響いた。
写真の中の少女は幸福そのものだった。
その周囲には見えないほどの愛が降り注いでいる。
便箋に綴られた文字には、彼女の成長を一つひとつ慈しむように記した文面が続いていた。
「リディアは庭の花々の名をすべて覚えました。」
「今は音楽に夢中で、毎日小さな指で鍵盤を叩いています。」
「よく笑う子です。ほんとうに、幸せな子です。」
一文ごとに、アラン・ブラックの筆跡が優しさで滲んでいた。
そこには一切の驕りも嘲りもなく、ただ、純粋な愛情だけがあった。
カサンドラは写真を胸に抱いたまま、しばらく動けなかった。
温かい涙が頬を伝う。
――この人は、あのときのことを、赦しているのだろうか。
そう思った瞬間、胸が痛んだ。
痛みというより、軋むような音を立てて胸の奥が締めつけられる。
彼女は思い出していた。
あの夜のことを。
アランが命を賭して子を産もうとしていたあの晩を。
自分は――彼女に、毒を飲ませた。
ヴァルブルガ・ブラックから密かに渡された小瓶。
「母体だけを葬る薬」――そう説明された。
赤子は救われる、屋敷の血は汚れない、
すべてが“理”にかなっていると信じ込まされていた。
そのときの自分は、家の名誉のために、妻としての義務のために、
そして、女としての嫉妬と恐れのために、その毒を渡してしまったのだ。
アランは死ななかった。
奇跡のように、彼女は生き残った。
けれどその代償は大きく、二度と完全な健康を取り戻すことはできなかった。
あの瞬間から、カサンドラの心は呪われた。
夜ごと、夢の中でアランが血を吐きながら自分を見つめる。
その瞳は恨みでも怒りでもなく、ただ静かに「なぜ」と問いかけていた。
だから――せめてもの償いとして、カサンドラは“情報”を流した。
アランの身を狙う者が近づいていると知れば、伝えずにはいられなかった。
彼女のもとへ届いたのは、ジェームズ・ポッターとリーマス・ルーピンの名を冠した文書だった。
内容は一見、事務的なもの。
だがその裏には、明確な意図があった。
――ブラック家の病に、アラン・ブラックが関わっている。
彼らはそう考えているのだ。
カサンドラの病を口実に、アランを告発するための証拠を探している。
だが、その推測は誤りだった。
カサンドラは深く息を吐き、震える手でペンを取る。
羊皮紙に記す言葉は、彼女の最後の誠意のつもりだった。
「この病は、アラン・ブラックの仕業ではありません。」
「もし私がこの世を去る日が来たとしても、それは彼女の罪ではなく、私自身が負うべき報いです。」
封をして、騎士団の使いのフクロウに託す。
窓を開けると、外の風が頬を撫でた。
月が静かに昇っている。
あの頃と変わらない、夜の色。
「アラン……あなたはあのとき、私を憎まなかったのね。」
呟く声は涙に震えた。
写真の中のリディアの笑顔が、まるで答えるように柔らかく微笑んでいる。
カサンドラはその写真をそっと胸に当てた。
温もりのない紙切れなのに、不思議と心が温かくなる。
赦しというものは、もしかしたら――こうして形を変えて届くものなのかもしれない。
彼女は目を閉じた。
月明かりが静かに頬を照らす。
罪は消えない。
けれど、罪を悔い、誰かを想うことだけは、まだ許されているのだと信じた。
ハリーは、あの日のことを思い返していた。
あの夜、星明かりの下で――シリウスとアルタイルを会わせたこと。
本当は、軽い気持ちではなかった。
どこかで直感していたのだ。
父が必死に隠している“何か”が、この二人の間にあるということを。
だが、隠すことが正義だとは思えなかった。
過去に何があったとしても、真実はやがて光の中に出る。
そうでなければ、誰かの人生は、ずっと暗闇の中で足を止めたままになってしまう。
だから、会わせた。
彼らが“他人”ではなく、
きっと――“親子”として出会うために。
「アルタイル、すごく楽しそうだったんだ。」
ハリーの言葉に、シリウスはふっと笑った。
その笑みはどこか照れくさそうで、しかし深い安堵を含んでいる。
「そうか……」
少し間をおいて、彼は言った。
「また連れてくるといい。」
それだけで、胸の奥が熱くなった。
優しい声。
柔らかい灰銀の瞳が、どこか遠い過去の光を見ている。
ハリーは、願った。
次にシリウスがアルタイルに会う時――
自分が“友人として紹介した相手”ではなく、
ちゃんと“父と子”として、向き合っていてほしいと。
その日が来ることを、心から。
「そういえば……アルタイルの母さんにも会ったんだ。」
ハリーはふと、思い出したように口にした。
「アラン・ブラックに。」
一瞬。
シリウスの表情がわずかに変わった。
それは驚きではなく――息をのむほど繊細な反応。
胸の奥で、長い間閉ざしていた記憶がふと息を吹き返すような。
懐かしさと痛みと、そして儚い希望がないまぜになったような表情だった。
「……そうか。」
その声には、かすかな震えがあった。
ハリーは見逃さなかった。
彼の手が、膝の上で強く握られているのを。
何かをこらえるように、深く息をつく仕草を。
静かな沈黙が流れる。
暖炉の火がぱちぱちと音を立て、オレンジ色の光がシリウスの横顔を照らしていた。
その光に照らされた瞳の奥には、確かに“今でも消えないもの”があった。
ずっと同じ人を想い続けることが、悪いことだとは思わない。
むしろ、それほどまでに真っすぐでいられることを、ハリーは羨ましいと思った。
「……シリウスの初恋だったんでしょ?」
勇気を出して尋ねると、
シリウスは小さく笑った。
それはどこか照れたような、けれど哀しみを帯びた笑み。
「昔の話だ。」
たったそれだけの言葉だった。
けれどその声の奥に、幾重にも積み重なった年月の痛みが滲んでいた。
「昔」というには、あまりに鮮やかで、
「終わった」というには、あまりに生々しい。
ハリーは、それ以上言葉を継げなかった。
“今でも好きなのか”――その問いを口にすれば、
彼の中で静かに燃え続けている火を、無神経に掻き立ててしまう気がしたからだ。
沈黙の中で、シリウスは再び暖炉の炎を見つめた。
燃える薪の音が、遠い記憶のざわめきのように響いている。
あの頃、ホグワーツの廊下で笑っていた少女。
黒曜石のような瞳と、少しはにかんだ微笑み。
名前を呼ぶだけで、胸が熱くなったあの感覚。
彼の心は、いまだにあの夜の星空に囚われたままだった。
ハリーはその背中を見つめながら、
“真実を知るのは、もしかしたらもうすぐなのかもしれない”と感じていた。
炎が揺れる。
その光の中で、シリウスの横顔はどこか遠く、
まだ見ぬ過去の誰かを見つめているようだった。
カサンドラからの手紙を受け取ったのは、夕暮れ時だった。
窓辺に射し込む光が金の糸のように揺れ、封蝋の紋章を静かに照らしている。
ロズィエ家の印――その紋章を目にしただけで、アランの胸に鈍い痛みが走った。
震える手で封を切ると、上質な羊皮紙の中に整った筆跡が並んでいた。
そこにはただ一文、余計な飾りのない報せが記されていた。
「騎士団があなたをマークし始めました。どうか、慎重に。」
一瞬で、血の気が引いた。
手紙を握る指が冷たくなる。
机の上に手紙をそっと置き、深く息を吸う。
心臓が痛いほどに鼓動を打っていた。
――やはり、始まったのだ。
冷静に考えれば当然のことだった。
元はただの使用人。
純血一族の系譜に名を連ねることすら許されなかった身分の自分が、
今やブラック家の正妻として、この広大な屋敷に座している。
魔法界の誰が、その出世を純粋に祝うだろう。
ましてや、追い出されたロズィエ家の娘――カサンドラが病に伏せった今。
人々が“何か”を疑い始めるのは時間の問題だった。
嫉妬。偏見。憎悪。
そうした感情の渦の中で、真実など関係ない。
噂が事実を飲み込み、やがて“罪”として形を成す。
それがこの世界の恐ろしさであり、美しさだった。
アランは椅子に腰を下ろし、指先でこめかみを押さえる。
外では、秋風が木々の枝を揺らし、葉が舞い散っている。
冷たい風の音に混じって、遠くからリディアの笑い声が聞こえた。
あの笑い声――
それが今の彼女にとって、唯一の救いだった。
医務魔女の名を心の中で呼ぶ。
彼女を通して、長らく禁じられた魔法薬を入手してきた。
初めは痛み止めの代用品にすぎなかった。
だが、気づけばそれなしでは立ち上がることすら苦しい体になっていた。
「次で最後にしなければ……」
自分にそう言い聞かせるように、唇を噛む。
だが、果たして“最後”などあるのだろうか。
人は痛みを恐れる生き物だ。
痛みを忘れる術を覚えてしまえば、それを手放すことは、死よりも難しい。
しかも今は、屋敷の周囲に不審な視線を感じるようになった。
門番が変わったのかもしれない、あるいは監視がついているのかもしれない。
ほんの小さな違和感――それが命取りになる世界に、アランは長く身を置いてきた。
「軽率な行動は、もうできない。」
自分にそう言い聞かせながらも、内心では焦燥が広がっていた。
薬がなければ、動けない。
動けなければ、リディアを守れない。
そしてリディアを守れなければ、
この屋敷の中で、また誰かが不幸になる。
その思考は、まるで細い糸の上を歩くように危うかった。
「お母さま、今日は何をして遊ぶの?」
振り向くと、リディアが花の髪飾りをつけて立っていた。
頬は薔薇のように赤く、瞳は輝いている。
小さな両手を胸の前で組み、期待に満ちた表情でアランを見上げていた。
その瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。
ここ数ヶ月、泣き顔ばかり見ていたリディアが、
ようやくこんなふうに笑ってくれるようになった。
「そうね……今日はお庭に出ましょうか。」
「ほんと? やった!」
リディアがスカートをつまんでくるりと回る。
裾がふわりと広がり、陽光を受けて白く輝いた。
その姿を見て、アランの頬に自然と微笑みが戻る。
彼女が嬉しそうに笑うたび、
胸の痛みも、頭の重さも、すべてが遠のいていくようだった。
“この子のために、もう少しだけ動ける体が欲しい。”
たとえそれが、禁じられた魔法薬の力であっても。
たとえ、自分の命を少しずつ削る行為であっても。
アランはリディアの手を取り、庭へと歩き出した。
秋の風が頬を撫で、紅葉した葉が二人の肩に舞い落ちる。
リディアの笑い声が風の中に溶けていく。
その笑い声を聞きながら――アランは心の奥で祈っていた。
どうか、この幸せが、もう少しだけ長く続きますように。
たとえその代償が、どんなに重くても。
重く淀んだ空気が漂う。
闇の印が刻まれた腕が、焼けるように疼いていた。
皮膚の下で脈打つその痕は、まるで生き物のように蠢き、
主の怒りと焦燥を伝えてくる。
――呼ばれている。
レギュラス・ブラックは静かに立ち上がり、
黒いローブの襟を正した。
蝋燭の炎が風もないのに揺れ、
屋敷の廊下を歩く彼の影が長く伸びる。
“呼び出し”の意味を知る者は少ない。
生還を約束されるわけではない。
ただ、命令に応じる以外に選択肢がないというだけのことだった。
部屋を出る前、ちらりと振り返る。
そこにはまだ寝台に伏しているアランの姿があった。
彼女の安らかな寝息が、かすかに聞こえる。
リディアの笑い声が遠くから届く。
ほんのひと時の幸福。
その儚い世界を、再び闇の中に置き去りにしていくようで、胸が痛んだ。
「……すぐに戻ります。」
誰にともなくそう呟いて、姿を消した。
転移の先は、かつて礼拝堂だったという廃墟。
崩れかけた石壁に刻まれた古い紋章。
黒い霧が低く漂い、そこに座す存在の気配が空間を圧していた。
ヴォルデモート卿。
彼の名を口に出すことなど許されない。
ただ、跪くこと。それが唯一の礼であった。
「……お呼びにより、参上いたしました。」
床に膝をついた瞬間、
空気が一段と冷たくなる。
その冷たさは、魂の奥にまで沁みてくるようだった。
ゆっくりと、影の中から声がした。
かつては蛇のように滑らかだった声が、
今はどこか濁りを含み、かすかに軋んでいる。
「――私の、ホークラックスが……奪われた。」
レギュラスは頭を垂れたまま、息を殺した。
あの夜、自らが隠した“ひとつ”を除いて、
ヴォルデモートが創った魂の欠片は、いくつ残っているのか。
それを知るのは、主自身を除けばもはや誰もいない。
「……奴らが、私の永遠を壊した。」
怒りを抑えきれぬように、
ヴォルデモートの声が空間を震わせる。
彼の姿は闇に包まれ、
それでも、枯れたような手がかすかに見えた。
その肌は灰色に乾き、ひび割れている。
失った“魂の器”の代償が、
確実にその肉体を蝕んでいるのだろう。
「……ポッター。」
吐き捨てるような声。
その名を呼ぶたびに、空気がざらつく。
「奴の血が必要だ。」
その瞬間、レギュラスは顔を上げそうになった。
だが、ぐっと堪える。
主の言葉に異を唱えることなど、死と同義。
「我が肉体を、完全に甦らせるには……
奴の血が必要なのだ。
生き残った者の血。
その呪いを越えた血が、私の復活を完成させる。」
ヴォルデモートの声が、ひどく静かに、しかし鋭く響く。
――ハリー・ポッターの血。
騎士団の守り、ダンブルドアの加護。
それをかいくぐって彼の血を奪うなど、
不可能に等しい。
だが、拒むという選択肢はなかった。
レギュラスの胸に、
あの日、弟シリウスが見せた“自由な生き方”の残滓がよぎる。
それでも――今の自分は、ただ命令に従う駒だ。
「……御意のままに。」
声が震えないように、慎重に言葉を選んだ。
額を石床につける。
心臓が痛いほど高鳴る。
「お前の忠誠には、いつも感謝している。レギュラス。」
その言葉の裏にあるのは、決して信頼ではなかった。
ただの“利用”――そう分かっていても、
生きるためには受け入れるしかない。
その声に従い、レギュラスは再び跪く。
空気がひんやりと背筋を撫でた。
ふと、足元に滴る液体を感じた。
血ではない。
それは、ヴォルデモート自身の肉体から零れ落ちた“何か”だった。
歪んだ命の残滓。
それを見た瞬間、胸の奥に言いようのない恐怖が走る。
この男は、確かに死を拒んだ。
だが、もはや“生”とは呼べぬ存在になり果てている。
――いつか、この終わりを見届ける時が来るのだろうか。
レギュラスは静かに目を閉じ、深く頭を垂れた。
その胸の奥で、ひとつの決意が密かに灯っていた。
夜明け前のロンドンは、灰色の靄に包まれていた。
ガス灯の光が濁った霧を通してぼんやりと滲み、石畳を照らす。
ジェームズ・ポッターは、その薄闇の中で煙草に火をつけた。
火花が一瞬、闇を裂く。
吐き出した煙が白く漂い、すぐに霧の中に溶けていった。
長い。あまりに長い執念だった。
――アラン・ブラック。
その名を心の中で呼ぶたび、冷たい怒りが静かに燃え上がる。
なぜそこまで、彼女にこだわるのか。
もはや理屈では説明できない。
けれど、確信だけはある。
あの女の周りには、必ず“何か”がある。
彼女が“何もない”存在であるはずがない。
一介の使用人から、今やブラック家の正妻。
その立場に至るまでの軌跡は、まるで闇の魔法そのものだ。
美しさを武器にし、策略を隠し、感情を仮面で覆って。
一族の富と名誉を、まるで糸で操るかのように自分のものにしていった。
“リシェル・ブラウンの再来”――そう呼ぶ者もいた。
かつて王宮で最も危険な女と恐れられたリシェル。
だが今や、王宮ではなくブラック家こそが権力の舞台。
アラン・ブラックは、栄華と呪いが交錯するこの館の中心で、
まるで女王のように微笑んでいる。
そして、そんな彼女の“微笑み”の裏には、
必ず深い闇が潜んでいるとジェームズは信じていた。
「最近、動きがないな……。」
手元の書類をめくりながら、低く呟く。
医務魔女――あの女が使っていた闇市の繋がりも、今や完全に途絶えた。
誰かに口止めされたのか、それとも“処理”されたのか。
どちらにせよ、アランの手の届かぬところで起きた出来事ではない。
そしてもう一つ。
最近になって届いた情報が、ジェームズの胸をざわつかせていた。
「アラン・ブラックは、頻繁に街に出ている――娘と共に。」
娘。
リディア・ブラック。
かつての正妻カサンドラ・ロズィエが遺した少女だ。
報告書の中には、何度も繰り返される言葉が並んでいる。
「手をつなぎ、楽しげに笑う母子」
「絵のように美しい、完璧な親子」
再び闇の中へと歩み出した。
それを読むたびに、ジェームズの唇は硬く結ばれた。
完璧な母親。完璧な妻。完璧な淑女。
――だが、それこそが最も危うい。
アラン・ブラックは、見せたい姿しか見せない女だ。
その背後で何を画策していようと、
世間の目には常に“美しさ”と“高貴さ”しか映らない。
そして今、彼女はリディアの婚約を進めているという。
まだ若い娘の未来を、また政治の駒に使おうとしているのだろう。
マルフォイ家か、あるいはレストレンジか。
どこに嫁がせても、ブラック家の勢力は広がる。
その計算高さが、ジェームズの中の嫌悪をさらに煽った。
「どこまで望む気だ、あの女は……。」
呟いた声が、冷たい夜気に溶けていく。
彼女を追ううちに、もう一つ別の影が見えてきた。
――レギュラス・ブラック。
静かに、しかし確実に闇が動き出している。
マルフォイ家、レストレンジ家、
そして他の“印”を持つ者たちと接触を繰り返しているという情報が入った。
「まさか……。」
ジェームズは眉をひそめた。
騎士団の内部では、
つい先日“ホークラックス”の一つが破壊されたとの報告が上がったばかりだ。
それがヴォルデモートにとってどれほどの痛手だったかは、
想像に難くない。
その直後に、レギュラスが動き始めた――。
偶然だろうか?
ヴォルデモートは、確実に焦っている。
そしてその焦りは、必ず“誰か”に向かう。
レギュラスが再び“主”の元に呼ばれたという噂もある。
闇が蠢く音が聞こえるようだった。
ジェームズは書類を閉じ、机に手を置いた。
指先に力がこもる。
「――動くしかない。」
もしヴォルデモートが本格的に復活を目指しているのなら、
次の戦場は再びブラック家の周辺になる。
アラン・ブラック。レギュラス・ブラック。
あの屋敷には、常に“闇の中心”がある。
そして彼女――アランこそが、その闇の鍵を握っている。
ジェームズは立ち上がり、ローブを羽織った。
窓の外では、夜が明け始めている。
曇り空の隙間から、淡い光が差し込む。
それはまるで、暗闇の中でまだ微かに残る希望のようだった。
「終わらせてやる。今度こそ――。」
彼の瞳は、静かに燃えていた。
復讐とも、正義ともつかぬその炎を胸に、
ジェームズ・ポッターは再び闇の中へと歩み出した。
良識ある大人としては止めるべきことだと分かっていた。
だが――校則違反の冒険に胸が高鳴る自分を、どうしても抑えられなかった。
薄闇の中、城の石造りの廊下を抜け、月明かりの射し込む中庭へ。
そこにはハリーと、彼の隣にもう一人の少年の姿があった。
「シリウス! 今日は友達を連れてきたんだ。紹介するよ、アルタイル。アルタイル・ブラックだ。」
「はじめまして。」
少年はまっすぐに立ち、礼儀正しく頭を下げた。
その一挙手一投足に、血筋の良さと教育の深さが滲み出ている。
闇のなかで月光に照らされた横顔――
黒檀の髪に映える淡い光、涼やかな瞳、整った眉の形。
あまりにも見覚えがある。
レギュラスによく似ている。
いや、それ以上に――どこか、自分自身にも似ていた。
「やあ、名前は聞いてるよ。シリウスだ。」
手を差し出すと、アルタイルは一瞬ためらい、それから丁寧にその手を取った。
少年の手はまだ細く、けれど芯のある力が宿っていた。
――まるで、若き日の彼女のように。
シリウスの胸の奥に、言葉にならない痛みが広がっていく。
愛した人の子を、ハリーが“親友”として連れてきた。
何という皮肉。
何という運命の悪戯だろうか。
三人は箒に乗り、夜のホグワーツを飛んだ。
城の灯が点々と瞬き、湖面には月の光が揺れる。
風が頬を打つたび、胸の奥に眠っていた古い記憶が呼び覚まされていく。
――あの夜、アランと二人で箒に乗り、
学舎を空から見下ろした。
笑っていた彼女。
銀の月明かりの中、振り返って風を受けた髪が輝いていた。
その笑顔に恋をした。
それは若さの衝動などではなく、魂を焼くような愛だった。
もう二度と戻らない夜。
もう二度と、触れられない温もり。
その幻影を追いかけるように、シリウスは箒を滑らせた。
前方でハリーが笑う。
その背にしがみつくアルタイルが、不安と興奮の混ざった顔で振り向いた。
月光が少年の頬を照らす。
ああ、やはり――アランの面影がある。
彼女の血を引く者。
彼女の命の証。
「……母さんは、元気にしてるのか?」
思わず問いかけていた。
“アラン”と名前を出しそうになり、慌てて飲み込む。
彼女の息子の前で呼び捨てにするなど、不自然にもほどがある。
アルタイルは少し驚いた顔で、それでも柔らかく答えた。
「はい。僕のお産がとても難産だったようで、少し伏せりがちですが……元気です。」
シリウスの胸がずきりと痛んだ。
胸の奥の古傷が、再び熱を帯びて疼く。
――あの人が、病床に伏している。
あの美しかった人が、屋敷の暗い部屋の中で、
静かに衰えていくのだとしたら。
想像した瞬間、息が詰まりそうになった。
彼女は本来、光の中に立つ人だ。
陽だまりのような笑顔を浮かべ、花のように微笑む人だ。
闇に閉ざされた屋敷など、彼女には似合わない。
それなのに――
「連れ出したい……」
心の奥で、そう呟いていた。
もう一度、あの光を取り戻させてやりたい。
昔のように自由な空へ、風の中へ、笑い声を響かせてほしい。
だが、同時に分かってもいた。
彼女はもう、自分の差し出す手を取らない。
守るべきものがあるからだ。
帰るべき場所があるからだ。
箒の上で、アルタイルを見つめる。
夜風に揺れる黒髪が月明かりに照らされ、
その瞳の奥に、かつてのアランと同じ強い光を見た。
――彼女の守るべきもの。
――彼女がこの世に残した、生きる理由。
それがこの少年なのだと、痛いほど分かった。
胸の奥に沈んでいた何かが、ゆっくりと溶けていく。
寂しさでも、悔しさでもなく――
ただ、静かに満たされていく感情。
彼女が選んだ人生が、確かにここに息づいている。
その証を見つめながら、シリウスは夜空の下、
ひとり微笑んだ。
月の光は、三人を優しく包んでいた。
初めて、シリウス・ブラックという人に会った。
その瞬間――胸の奥で、何かが深く鳴った。
魂がこだまするように、奥の奥で震えた。
彼の差し出した手を握った瞬間、言葉では形容できないほどの衝撃が全身を駆け抜けた。
温かく、そして懐かしい。
生まれて初めて会ったはずなのに、どこかでずっと知っていたような気がする。
血のつながりという単純な理屈では説明できない、もっと深い――魂の根で共鳴しあうような感覚。
不思議だった。
まるで、心のどこかに空いていた穴の形が、この人の存在によってぴたりと埋められたような気がした。
「よくこの辺を冒険してたんだ。」
シリウスが、遠くの塔を指差しながら懐かしそうに言った。
「夜になると、空が一番綺麗に見えるんだよ。」
その声はどこか若々しく、少年の面影を残していた。
ハリーの父の親友であり、今は騎士団の一員として名を馳せる大人の男――
けれどその瞳の奥には、まだホグワーツの廊下を駆け抜けていた頃の光が残っている。
アルタイルは彼の隣に立ち、顔を上げた。
夜風が頬を撫で、黒髪がふわりと揺れる。
見上げた空は、息をのむほど澄み渡っていた。
星々が、無数の銀の粉となって降り注ぐように瞬いている。
その中で一際強く輝くひとつの星――
シリウス(天狼星)。
それは、まるで目の前にいる彼の魂そのもののように、鋭く、美しく、孤高に光っていた。
「……綺麗ですね。」
「だろう?」とシリウスは笑う。
その笑顔が夜気を柔らかくしていく。
アルタイルは、じっとその横顔を見つめた。
月明かりが頬の輪郭をなぞる。
鋭くも穏やかな光を宿した灰銀の瞳――
そこに、自分と同じ何かが宿っている気がしてならなかった。
この人の中に、自分と共鳴する何かがある。
それは血の記憶かもしれない。
あるいは、もっと深く――魂の奥底で受け継がれた何か。
けれどその瞬間、胸の奥に浮かび上がった疑問があった。
なぜ、僕と彼の杖は兄弟杖なのだろう。
なぜ、父と母とこの人の間に、不可思議な絆のようなものを感じるのだろう。
彼に問いたいことは山ほどあった。
けれど、口を開くことはできなかった。
――星があまりにも綺麗だったからだ。
言葉にしてはいけない気がした。
この静寂の中に、全ての答えがすでにあるように思えた。
シリウスは上空の星を見上げながら、ふっと笑った。
「この空の下で見える星たちは、昔からずっと同じなんだ。俺たちが変わっても、星は変わらない。」
アルタイルはその言葉を胸の奥に刻んだ。
“変わらないもの”――
それが彼とこの人の間に流れる、目には見えない絆なのかもしれない。
「……アルタイルって名前、いい名前だな。」とシリウスが言う。
「星の名前だろう?」
「はい。父がつけてくれました。」
「そうか。」
その瞬間、ほんの一瞬だけ、シリウスの表情に切なげな影が差した。
それは、誰にも見せたことのないほど柔らかくて、深い感情だった。
夜風が通り過ぎる。
その音の中で、アルタイルは確かに感じた。
この人の心の奥に、母の面影が生きている。
そして――その面影と自分の中の何かが、同じリズムで脈打っているのを。
星空の下、二人の間には言葉では語れない沈黙が流れた。
それは不思議と心地よい沈黙で、まるで長い年月を経てようやく再会した親子のような、
懐かしさと安堵を孕んだ静けさだった。
シリウスは、空を見上げたまま小さく息を吐いた。
「……星はいいな。どれだけ時が経っても、ちゃんとそこにある。」
アルタイルも同じ方向を見上げる。
「ええ、きっと僕たちが死んでも、ずっと。」
その瞬間、ふたりの視線が同じ星に重なった。
それはまるで――互いの中に眠る記憶が、夜空のどこかで再び出会ったようだった。
カサンドラ・ブラックは、差出人の名を見た瞬間に手が震えた。
封蝋を割るのが恐ろしかった。
それでも、震える指先で封を切る。
中から現れたのは、淡い香水の香りを含んだ便箋と――一枚の写真だった。
白いレースのドレスに身を包んだ少女が、春の庭を背景に微笑んでいる。
栗色の髪が陽光を受けてきらめき、青いリボンが風に揺れていた。
頬は健康的に色づき、唇には屈託のない笑み。
少女の名は、リディア・ブラック。
――私の娘。
その言葉が胸の奥で、静かに響いた。
写真の中の少女は幸福そのものだった。
その周囲には見えないほどの愛が降り注いでいる。
便箋に綴られた文字には、彼女の成長を一つひとつ慈しむように記した文面が続いていた。
「リディアは庭の花々の名をすべて覚えました。」
「今は音楽に夢中で、毎日小さな指で鍵盤を叩いています。」
「よく笑う子です。ほんとうに、幸せな子です。」
一文ごとに、アラン・ブラックの筆跡が優しさで滲んでいた。
そこには一切の驕りも嘲りもなく、ただ、純粋な愛情だけがあった。
カサンドラは写真を胸に抱いたまま、しばらく動けなかった。
温かい涙が頬を伝う。
――この人は、あのときのことを、赦しているのだろうか。
そう思った瞬間、胸が痛んだ。
痛みというより、軋むような音を立てて胸の奥が締めつけられる。
彼女は思い出していた。
あの夜のことを。
アランが命を賭して子を産もうとしていたあの晩を。
自分は――彼女に、毒を飲ませた。
ヴァルブルガ・ブラックから密かに渡された小瓶。
「母体だけを葬る薬」――そう説明された。
赤子は救われる、屋敷の血は汚れない、
すべてが“理”にかなっていると信じ込まされていた。
そのときの自分は、家の名誉のために、妻としての義務のために、
そして、女としての嫉妬と恐れのために、その毒を渡してしまったのだ。
アランは死ななかった。
奇跡のように、彼女は生き残った。
けれどその代償は大きく、二度と完全な健康を取り戻すことはできなかった。
あの瞬間から、カサンドラの心は呪われた。
夜ごと、夢の中でアランが血を吐きながら自分を見つめる。
その瞳は恨みでも怒りでもなく、ただ静かに「なぜ」と問いかけていた。
だから――せめてもの償いとして、カサンドラは“情報”を流した。
アランの身を狙う者が近づいていると知れば、伝えずにはいられなかった。
彼女のもとへ届いたのは、ジェームズ・ポッターとリーマス・ルーピンの名を冠した文書だった。
内容は一見、事務的なもの。
だがその裏には、明確な意図があった。
――ブラック家の病に、アラン・ブラックが関わっている。
彼らはそう考えているのだ。
カサンドラの病を口実に、アランを告発するための証拠を探している。
だが、その推測は誤りだった。
カサンドラは深く息を吐き、震える手でペンを取る。
羊皮紙に記す言葉は、彼女の最後の誠意のつもりだった。
「この病は、アラン・ブラックの仕業ではありません。」
「もし私がこの世を去る日が来たとしても、それは彼女の罪ではなく、私自身が負うべき報いです。」
封をして、騎士団の使いのフクロウに託す。
窓を開けると、外の風が頬を撫でた。
月が静かに昇っている。
あの頃と変わらない、夜の色。
「アラン……あなたはあのとき、私を憎まなかったのね。」
呟く声は涙に震えた。
写真の中のリディアの笑顔が、まるで答えるように柔らかく微笑んでいる。
カサンドラはその写真をそっと胸に当てた。
温もりのない紙切れなのに、不思議と心が温かくなる。
赦しというものは、もしかしたら――こうして形を変えて届くものなのかもしれない。
彼女は目を閉じた。
月明かりが静かに頬を照らす。
罪は消えない。
けれど、罪を悔い、誰かを想うことだけは、まだ許されているのだと信じた。
ハリーは、あの日のことを思い返していた。
あの夜、星明かりの下で――シリウスとアルタイルを会わせたこと。
本当は、軽い気持ちではなかった。
どこかで直感していたのだ。
父が必死に隠している“何か”が、この二人の間にあるということを。
だが、隠すことが正義だとは思えなかった。
過去に何があったとしても、真実はやがて光の中に出る。
そうでなければ、誰かの人生は、ずっと暗闇の中で足を止めたままになってしまう。
だから、会わせた。
彼らが“他人”ではなく、
きっと――“親子”として出会うために。
「アルタイル、すごく楽しそうだったんだ。」
ハリーの言葉に、シリウスはふっと笑った。
その笑みはどこか照れくさそうで、しかし深い安堵を含んでいる。
「そうか……」
少し間をおいて、彼は言った。
「また連れてくるといい。」
それだけで、胸の奥が熱くなった。
優しい声。
柔らかい灰銀の瞳が、どこか遠い過去の光を見ている。
ハリーは、願った。
次にシリウスがアルタイルに会う時――
自分が“友人として紹介した相手”ではなく、
ちゃんと“父と子”として、向き合っていてほしいと。
その日が来ることを、心から。
「そういえば……アルタイルの母さんにも会ったんだ。」
ハリーはふと、思い出したように口にした。
「アラン・ブラックに。」
一瞬。
シリウスの表情がわずかに変わった。
それは驚きではなく――息をのむほど繊細な反応。
胸の奥で、長い間閉ざしていた記憶がふと息を吹き返すような。
懐かしさと痛みと、そして儚い希望がないまぜになったような表情だった。
「……そうか。」
その声には、かすかな震えがあった。
ハリーは見逃さなかった。
彼の手が、膝の上で強く握られているのを。
何かをこらえるように、深く息をつく仕草を。
静かな沈黙が流れる。
暖炉の火がぱちぱちと音を立て、オレンジ色の光がシリウスの横顔を照らしていた。
その光に照らされた瞳の奥には、確かに“今でも消えないもの”があった。
ずっと同じ人を想い続けることが、悪いことだとは思わない。
むしろ、それほどまでに真っすぐでいられることを、ハリーは羨ましいと思った。
「……シリウスの初恋だったんでしょ?」
勇気を出して尋ねると、
シリウスは小さく笑った。
それはどこか照れたような、けれど哀しみを帯びた笑み。
「昔の話だ。」
たったそれだけの言葉だった。
けれどその声の奥に、幾重にも積み重なった年月の痛みが滲んでいた。
「昔」というには、あまりに鮮やかで、
「終わった」というには、あまりに生々しい。
ハリーは、それ以上言葉を継げなかった。
“今でも好きなのか”――その問いを口にすれば、
彼の中で静かに燃え続けている火を、無神経に掻き立ててしまう気がしたからだ。
沈黙の中で、シリウスは再び暖炉の炎を見つめた。
燃える薪の音が、遠い記憶のざわめきのように響いている。
あの頃、ホグワーツの廊下で笑っていた少女。
黒曜石のような瞳と、少しはにかんだ微笑み。
名前を呼ぶだけで、胸が熱くなったあの感覚。
彼の心は、いまだにあの夜の星空に囚われたままだった。
ハリーはその背中を見つめながら、
“真実を知るのは、もしかしたらもうすぐなのかもしれない”と感じていた。
炎が揺れる。
その光の中で、シリウスの横顔はどこか遠く、
まだ見ぬ過去の誰かを見つめているようだった。
カサンドラからの手紙を受け取ったのは、夕暮れ時だった。
窓辺に射し込む光が金の糸のように揺れ、封蝋の紋章を静かに照らしている。
ロズィエ家の印――その紋章を目にしただけで、アランの胸に鈍い痛みが走った。
震える手で封を切ると、上質な羊皮紙の中に整った筆跡が並んでいた。
そこにはただ一文、余計な飾りのない報せが記されていた。
「騎士団があなたをマークし始めました。どうか、慎重に。」
一瞬で、血の気が引いた。
手紙を握る指が冷たくなる。
机の上に手紙をそっと置き、深く息を吸う。
心臓が痛いほどに鼓動を打っていた。
――やはり、始まったのだ。
冷静に考えれば当然のことだった。
元はただの使用人。
純血一族の系譜に名を連ねることすら許されなかった身分の自分が、
今やブラック家の正妻として、この広大な屋敷に座している。
魔法界の誰が、その出世を純粋に祝うだろう。
ましてや、追い出されたロズィエ家の娘――カサンドラが病に伏せった今。
人々が“何か”を疑い始めるのは時間の問題だった。
嫉妬。偏見。憎悪。
そうした感情の渦の中で、真実など関係ない。
噂が事実を飲み込み、やがて“罪”として形を成す。
それがこの世界の恐ろしさであり、美しさだった。
アランは椅子に腰を下ろし、指先でこめかみを押さえる。
外では、秋風が木々の枝を揺らし、葉が舞い散っている。
冷たい風の音に混じって、遠くからリディアの笑い声が聞こえた。
あの笑い声――
それが今の彼女にとって、唯一の救いだった。
医務魔女の名を心の中で呼ぶ。
彼女を通して、長らく禁じられた魔法薬を入手してきた。
初めは痛み止めの代用品にすぎなかった。
だが、気づけばそれなしでは立ち上がることすら苦しい体になっていた。
「次で最後にしなければ……」
自分にそう言い聞かせるように、唇を噛む。
だが、果たして“最後”などあるのだろうか。
人は痛みを恐れる生き物だ。
痛みを忘れる術を覚えてしまえば、それを手放すことは、死よりも難しい。
しかも今は、屋敷の周囲に不審な視線を感じるようになった。
門番が変わったのかもしれない、あるいは監視がついているのかもしれない。
ほんの小さな違和感――それが命取りになる世界に、アランは長く身を置いてきた。
「軽率な行動は、もうできない。」
自分にそう言い聞かせながらも、内心では焦燥が広がっていた。
薬がなければ、動けない。
動けなければ、リディアを守れない。
そしてリディアを守れなければ、
この屋敷の中で、また誰かが不幸になる。
その思考は、まるで細い糸の上を歩くように危うかった。
「お母さま、今日は何をして遊ぶの?」
振り向くと、リディアが花の髪飾りをつけて立っていた。
頬は薔薇のように赤く、瞳は輝いている。
小さな両手を胸の前で組み、期待に満ちた表情でアランを見上げていた。
その瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。
ここ数ヶ月、泣き顔ばかり見ていたリディアが、
ようやくこんなふうに笑ってくれるようになった。
「そうね……今日はお庭に出ましょうか。」
「ほんと? やった!」
リディアがスカートをつまんでくるりと回る。
裾がふわりと広がり、陽光を受けて白く輝いた。
その姿を見て、アランの頬に自然と微笑みが戻る。
彼女が嬉しそうに笑うたび、
胸の痛みも、頭の重さも、すべてが遠のいていくようだった。
“この子のために、もう少しだけ動ける体が欲しい。”
たとえそれが、禁じられた魔法薬の力であっても。
たとえ、自分の命を少しずつ削る行為であっても。
アランはリディアの手を取り、庭へと歩き出した。
秋の風が頬を撫で、紅葉した葉が二人の肩に舞い落ちる。
リディアの笑い声が風の中に溶けていく。
その笑い声を聞きながら――アランは心の奥で祈っていた。
どうか、この幸せが、もう少しだけ長く続きますように。
たとえその代償が、どんなに重くても。
重く淀んだ空気が漂う。
闇の印が刻まれた腕が、焼けるように疼いていた。
皮膚の下で脈打つその痕は、まるで生き物のように蠢き、
主の怒りと焦燥を伝えてくる。
――呼ばれている。
レギュラス・ブラックは静かに立ち上がり、
黒いローブの襟を正した。
蝋燭の炎が風もないのに揺れ、
屋敷の廊下を歩く彼の影が長く伸びる。
“呼び出し”の意味を知る者は少ない。
生還を約束されるわけではない。
ただ、命令に応じる以外に選択肢がないというだけのことだった。
部屋を出る前、ちらりと振り返る。
そこにはまだ寝台に伏しているアランの姿があった。
彼女の安らかな寝息が、かすかに聞こえる。
リディアの笑い声が遠くから届く。
ほんのひと時の幸福。
その儚い世界を、再び闇の中に置き去りにしていくようで、胸が痛んだ。
「……すぐに戻ります。」
誰にともなくそう呟いて、姿を消した。
転移の先は、かつて礼拝堂だったという廃墟。
崩れかけた石壁に刻まれた古い紋章。
黒い霧が低く漂い、そこに座す存在の気配が空間を圧していた。
ヴォルデモート卿。
彼の名を口に出すことなど許されない。
ただ、跪くこと。それが唯一の礼であった。
「……お呼びにより、参上いたしました。」
床に膝をついた瞬間、
空気が一段と冷たくなる。
その冷たさは、魂の奥にまで沁みてくるようだった。
ゆっくりと、影の中から声がした。
かつては蛇のように滑らかだった声が、
今はどこか濁りを含み、かすかに軋んでいる。
「――私の、ホークラックスが……奪われた。」
レギュラスは頭を垂れたまま、息を殺した。
あの夜、自らが隠した“ひとつ”を除いて、
ヴォルデモートが創った魂の欠片は、いくつ残っているのか。
それを知るのは、主自身を除けばもはや誰もいない。
「……奴らが、私の永遠を壊した。」
怒りを抑えきれぬように、
ヴォルデモートの声が空間を震わせる。
彼の姿は闇に包まれ、
それでも、枯れたような手がかすかに見えた。
その肌は灰色に乾き、ひび割れている。
失った“魂の器”の代償が、
確実にその肉体を蝕んでいるのだろう。
「……ポッター。」
吐き捨てるような声。
その名を呼ぶたびに、空気がざらつく。
「奴の血が必要だ。」
その瞬間、レギュラスは顔を上げそうになった。
だが、ぐっと堪える。
主の言葉に異を唱えることなど、死と同義。
「我が肉体を、完全に甦らせるには……
奴の血が必要なのだ。
生き残った者の血。
その呪いを越えた血が、私の復活を完成させる。」
ヴォルデモートの声が、ひどく静かに、しかし鋭く響く。
――ハリー・ポッターの血。
騎士団の守り、ダンブルドアの加護。
それをかいくぐって彼の血を奪うなど、
不可能に等しい。
だが、拒むという選択肢はなかった。
レギュラスの胸に、
あの日、弟シリウスが見せた“自由な生き方”の残滓がよぎる。
それでも――今の自分は、ただ命令に従う駒だ。
「……御意のままに。」
声が震えないように、慎重に言葉を選んだ。
額を石床につける。
心臓が痛いほど高鳴る。
「お前の忠誠には、いつも感謝している。レギュラス。」
その言葉の裏にあるのは、決して信頼ではなかった。
ただの“利用”――そう分かっていても、
生きるためには受け入れるしかない。
その声に従い、レギュラスは再び跪く。
空気がひんやりと背筋を撫でた。
ふと、足元に滴る液体を感じた。
血ではない。
それは、ヴォルデモート自身の肉体から零れ落ちた“何か”だった。
歪んだ命の残滓。
それを見た瞬間、胸の奥に言いようのない恐怖が走る。
この男は、確かに死を拒んだ。
だが、もはや“生”とは呼べぬ存在になり果てている。
――いつか、この終わりを見届ける時が来るのだろうか。
レギュラスは静かに目を閉じ、深く頭を垂れた。
その胸の奥で、ひとつの決意が密かに灯っていた。
夜明け前のロンドンは、灰色の靄に包まれていた。
ガス灯の光が濁った霧を通してぼんやりと滲み、石畳を照らす。
ジェームズ・ポッターは、その薄闇の中で煙草に火をつけた。
火花が一瞬、闇を裂く。
吐き出した煙が白く漂い、すぐに霧の中に溶けていった。
長い。あまりに長い執念だった。
――アラン・ブラック。
その名を心の中で呼ぶたび、冷たい怒りが静かに燃え上がる。
なぜそこまで、彼女にこだわるのか。
もはや理屈では説明できない。
けれど、確信だけはある。
あの女の周りには、必ず“何か”がある。
彼女が“何もない”存在であるはずがない。
一介の使用人から、今やブラック家の正妻。
その立場に至るまでの軌跡は、まるで闇の魔法そのものだ。
美しさを武器にし、策略を隠し、感情を仮面で覆って。
一族の富と名誉を、まるで糸で操るかのように自分のものにしていった。
“リシェル・ブラウンの再来”――そう呼ぶ者もいた。
かつて王宮で最も危険な女と恐れられたリシェル。
だが今や、王宮ではなくブラック家こそが権力の舞台。
アラン・ブラックは、栄華と呪いが交錯するこの館の中心で、
まるで女王のように微笑んでいる。
そして、そんな彼女の“微笑み”の裏には、
必ず深い闇が潜んでいるとジェームズは信じていた。
「最近、動きがないな……。」
手元の書類をめくりながら、低く呟く。
医務魔女――あの女が使っていた闇市の繋がりも、今や完全に途絶えた。
誰かに口止めされたのか、それとも“処理”されたのか。
どちらにせよ、アランの手の届かぬところで起きた出来事ではない。
そしてもう一つ。
最近になって届いた情報が、ジェームズの胸をざわつかせていた。
「アラン・ブラックは、頻繁に街に出ている――娘と共に。」
娘。
リディア・ブラック。
かつての正妻カサンドラ・ロズィエが遺した少女だ。
報告書の中には、何度も繰り返される言葉が並んでいる。
「手をつなぎ、楽しげに笑う母子」
「絵のように美しい、完璧な親子」
再び闇の中へと歩み出した。
それを読むたびに、ジェームズの唇は硬く結ばれた。
完璧な母親。完璧な妻。完璧な淑女。
――だが、それこそが最も危うい。
アラン・ブラックは、見せたい姿しか見せない女だ。
その背後で何を画策していようと、
世間の目には常に“美しさ”と“高貴さ”しか映らない。
そして今、彼女はリディアの婚約を進めているという。
まだ若い娘の未来を、また政治の駒に使おうとしているのだろう。
マルフォイ家か、あるいはレストレンジか。
どこに嫁がせても、ブラック家の勢力は広がる。
その計算高さが、ジェームズの中の嫌悪をさらに煽った。
「どこまで望む気だ、あの女は……。」
呟いた声が、冷たい夜気に溶けていく。
彼女を追ううちに、もう一つ別の影が見えてきた。
――レギュラス・ブラック。
静かに、しかし確実に闇が動き出している。
マルフォイ家、レストレンジ家、
そして他の“印”を持つ者たちと接触を繰り返しているという情報が入った。
「まさか……。」
ジェームズは眉をひそめた。
騎士団の内部では、
つい先日“ホークラックス”の一つが破壊されたとの報告が上がったばかりだ。
それがヴォルデモートにとってどれほどの痛手だったかは、
想像に難くない。
その直後に、レギュラスが動き始めた――。
偶然だろうか?
ヴォルデモートは、確実に焦っている。
そしてその焦りは、必ず“誰か”に向かう。
レギュラスが再び“主”の元に呼ばれたという噂もある。
闇が蠢く音が聞こえるようだった。
ジェームズは書類を閉じ、机に手を置いた。
指先に力がこもる。
「――動くしかない。」
もしヴォルデモートが本格的に復活を目指しているのなら、
次の戦場は再びブラック家の周辺になる。
アラン・ブラック。レギュラス・ブラック。
あの屋敷には、常に“闇の中心”がある。
そして彼女――アランこそが、その闇の鍵を握っている。
ジェームズは立ち上がり、ローブを羽織った。
窓の外では、夜が明け始めている。
曇り空の隙間から、淡い光が差し込む。
それはまるで、暗闇の中でまだ微かに残る希望のようだった。
「終わらせてやる。今度こそ――。」
彼の瞳は、静かに燃えていた。
復讐とも、正義ともつかぬその炎を胸に、
ジェームズ・ポッターは再び闇の中へと歩み出した。
