4章
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午後の陽が傾く頃、
ポッター邸の書斎に射し込む光が、
古い木の机を金色に染めていた。
その静寂を破るように、
ハリーは父の机の引き出しをそっと開けた。
中には整然と並べられた封筒や報告書。
その中の一つ、表紙に「出生記録照合」と記された書類が
ひときわ目を引いた。
父ジェームズの筆跡だった。
ハリーは息を詰めながらページを開く。
「アルタイル・ブラック」
「シリウス・ブラック」
二つの名が並んでいる。
記録には、杖の素材・魔法性質・魔力波長・呪文特性、
すべてが詳細に照らし合わされていた。
黒壇、十一インチ、不死鳥の尾羽――
そして、驚くほど一致した魔力の流れの記録。
冷たいインクの線が、まるで血の系譜を指し示すように並んでいる。
――同じだ。
胸の奥がずきんと鳴った。
心臓の音が耳の中で響く。
父がこれを持っているということは、
父自身がアルタイルの出生に疑問を抱いたからに違いない。
でなければ、こんな照合記録を作るはずがない。
あの冷静な筆致が、逆にその執念を物語っていた。
もはや確信だった。
アルタイル・ブラック――
彼は、シリウス・ブラックの子だ。
だが、なぜそれを隠す?
なぜ父は、その真実を覆い隠そうとするのか。
そして、なぜアラン・ブラックという女性を
あれほどまでに憎んでいるのか。
ハリーには、理解できなかった。
だからこそ、母に聞こうと思った。
夕方。
リビングには紅茶の香りが漂い、
リリー・ポッターが窓際の椅子に腰掛けていた。
ハリーは意を決して口を開いた。
「母さん、アラン・セシールって人を知ってる?」
リリーは驚いたように瞬きをした。
「……どうしたの、急に?」
「父さんが教えてくれそうにないから。」
静寂が落ちる。
彼女は手にしていたカップをゆっくりとテーブルに置き、
ハリーの目をまっすぐ見つめた。
その表情には――
“ついにこの話をする時が来たのね”という、
どこか覚悟のような影があった。
「アラン・セシールはね、ホグワーツ時代、
スリザリンの二学年下の子だったわ。」
母の声は静かだった。
どこか懐かしさを含んでいた。
「もともとはブラック家の使用人だったの。
在学中はいつもレギュラス・ブラックと一緒にいた。
でもね……シリウスが彼女を想っていたのよ。」
「シリウスが……?」
ハリーの声がかすれる。
リリーは頷いた。
「ええ。シリウスにとって初恋の人だったわ。
私は陰ながら二人を応援していたの。
でも結局、アランは弟のレギュラスを選んだの。」
淡々と語られるその口調の奥に、
当時を知る者だけの哀しみがにじんでいた。
「どうして一緒になれなかったの?
レギュラスがいたから?」
「それは……私にも分からないわ。」
リリーは遠くを見るように窓の外を眺めた。
「ただ、彼女はレギュラスを選んだ。
それだけは確かよ。」
それきり、言葉は途切れた。
時計の針の音だけが部屋に響く。
母の話は嘘ではない。
だが――それは、
ほんの一片の真実に過ぎない。
傍観者としてのリリーの記憶。
学生時代の淡い恋として語られたアランとシリウスの物語は、
どこにでもある若者の恋のように儚く美しい。
けれどハリーの胸の中では、
その「ありふれた過去」こそが、
何か大きな秘密の表層を覆っている気がしてならなかった。
父も、シリウスも、彼女の名を出そうとしない。
まるで、その名を口にした瞬間に
何か取り返しのつかないものが崩れてしまうかのように。
ハリーは机の上の照合記録をもう一度見つめた。
黒いインクで並ぶ文字が、
まるで自分に問いかけてくるようだった。
――「真実を知る覚悟はあるか?」
その夜、
ハリーは静かにカーテンを閉じた。
窓の外の月は、
まるで過去を照らすためにだけ、
冷たく光っていた。
ホグワーツの空は、厚い雲に覆われていた。
新学期が始まって間もないのに、アルタイル・ブラックはさっそくマクゴナガル教授の部屋に呼び出されていた。
隣には同じく罰を受けることになった三人の顔――ハリー・ポッター、ロン・ウィーズリー、ハーマイオニー・グレンジャー。
机の上には校則違反の報告書が広げられている。
夜間の外出、禁じられた森への立ち入り、
魔法生物飼育小屋の鍵の無断使用、
そして城外通信呪文による外部者との接触――
計四つの違反。
「まったく、あなた方という子たちは……!」
マクゴナガルの声は、雷のように響いた。
「ホグワーツの規律を破ってばかり!
ミスター・ポッター、あなたの悪影響がここまで広がるとは思いませんでした。」
「ぼ、僕のせいですか!?」とハリー。
「あなたもです、ミスター・ウィーズリー!」
ロンが小さく肩をすくめる。
アルタイルは黙って頭を下げていた。
セブルス・スネイプのように成績を持ち出して許してもらうことも、マクゴナガルには通用しない。
淡々と、「保護者を呼びます」とだけ言われた。
「すみません、先生……」
「まったく、なんということです、ミスター・ブラック。
お父様に怒られてらっしゃい。」
マクゴナガルの言葉が冷たく響く。
アルタイルの胸に、冷たいものが落ちていく。
――父が来る。
そう思うだけで、胃がひりつくようだった。
けれどその日、ホグワーツに現れたのは父ではなく――母だった。
校長室の前の廊下で待っていると、
淡い青のローブをまとった女性が、静かな足取りで現れた。
アラン・ブラック。
アルタイルの胸がぎゅっと締め付けられる。
母の顔はどこか青白く、
それでも微笑もうとするその姿は痛いほど優しかった。
本当は、家で休んでいなければならない体だと分かっている。
こんなことで、わざわざ学校に来させてしまった。
その罪悪感が、胸を刺した。
「先日はご迷惑をおかけしてしまいました……」
深々と頭を下げる母。
その姿を見て、アルタイルはいたたまれなかった。
マクゴナガル教授は、表情を和らげる。
「まあ……アラン・セシール。お久しぶりね。」
アランは小さく会釈する。
「はい、先生。こんな状況での再会なのが申し訳ないです。」
「あなたのお子さんはとても優秀ですよ。
ただ――少々、好奇心が旺盛すぎるようですわね。」
その時、背後の扉が音を立てて開いた。
長い銀髭を揺らして、アルバス・ダンブルドアが入ってくる。
「久しいのお、アラン。」
その声に、アランは微笑んだ。
「お久しぶりです、先生。」
ダンブルドアは優しく頷き、ハリーの肩に手を置く。
「君が、あの時――彼女が救ってくれた“予言の子”じゃよ。」
ハリーは驚いたようにアランを見た。
その瞳に、かすかな既視感が宿る。
アランは一歩近づき、
静かにハリーの手を取った。
「あなたが……ハリー・ポッター。」
その声は柔らかく、どこか遠い懐かしさを含んでいた。
「お父様に似て勇敢で、自信に満ち溢れているのね。
大きくなってくれたこと、誇りに思います。」
その瞬間――
アランの瞳がわずかに潤んだ。
まるで、十数年前に守り抜いた“未来”が今ここに立っていることに
ようやく実感が追いついたかのように。
ハリーは何かを言いかけたが、
その眼差しの奥にある深い哀しみに、言葉を失った。
アルタイルはただ、母を見つめていた。
自分の知らない母の一面。
過去と現在が、ホグワーツの石造りの部屋の中で静かに交差していく。
母の手は細く、冷たかった。
その手が、震えていることに気づいた時、
アルタイルは強く思った――
もう二度と、母をこんな風に疲れさせるようなことはしない、と。
石造りの廊下に、午後の光が淡く差し込んでいた。
校長室の扉が静かに閉まる音を聞きながら、ハリーはしばらくその場に立ち尽くしていた。
胸の奥に、ざらりとした感情が残っている。
彼女――アラン・ブラック。
魔法写真で何度も見たことのある人だった。
だが、実際に目の前にした彼女は、写真で見るよりもずっと、ずっと美しかった。
艶やかな黒髪が肩を滑り、動くたびに微かに香る花のような匂い。
その瞳は深い翡翠色で、見る者の心を静かにすくい取ってしまうような光を湛えていた。
――これが、シリウス・ブラックの初恋の人。
母からそう聞かされていた。
そのせいで、どうしてもそういう目で見てしまう。
けれど、実際に見たアラン・ブラックは、伝え聞く言葉以上に“完成された美”だった。
息をするのも惜しいほどに。
これほどの女性が初恋の人であったなら、彼女を超える誰かを見つけることなど、きっと容易ではないだろう――
そう思わずにはいられなかった。
校長室を去っていくアランとアルタイルの後ろ姿を、
ハリーは思わず追いかけた。
「アランさん!」
その声に、アランはゆっくりと振り向く。
長い髪が柔らかく揺れ、翡翠の瞳が光を受けて煌めいた。
その瞬間、ハリーは息を呑む。
――母さんに似ている。
ほんの一瞬、リリー・ポッターの面影をそこに見た気がした。
「どうしました、ハリー?」
穏やかな声。包み込むような柔らかさがあった。
「あの……ちゃんとお礼が言いたくて、僕……その……」
言葉が出てこなかった。何を言えばいいのか分からない。
けれど、伝えなければいけない気がして、
咄嗟に口から出たのは、まるで違う言葉だった。
「これからも……アルタイルを導いてあげてください。」
アランは一瞬目を細め、それから静かに頭を下げた。
その笑みは、光の中で柔らかく滲んだ。
声の響きも仕草も、どこまでも優しく、そして温かい。
――父がなぜ、こんな人を憎むのだろう。
その理由が、まるで分からなかった。
「アルタイルは悪くなくて、僕が誘い出したんです。」
ハリーは慌てて言葉を継いだ。
誤解されたくなかった。
アルタイルは父の期待にも母の信頼にも誠実に応えようとする少年だ。
スリザリンに属していながらも、偏見に囚われず、
マグル出身の生徒や混血の子たちにさえ、分け隔てなく笑顔を向ける。
そんな彼をもっと知りたくて、気づけば、
無茶な冒険にまで誘ってしまっていた。
「いや、違います、母さん。僕がそもそも行きたいって言ったのが原因なんです。」
隣でアルタイルが言う。
まるで、互いにかばい合うように。
アランはふっと笑みをこぼした。
「いい友達ができたようで、安心しました、アルタイル。」
口元に指を添え、少しだけ首を傾げる。
その仕草があまりにも柔らかく、
慈愛に満ちた母の顔そのものだった。
ハリーはただ、見とれていた。
この人が――シリウスの初恋の相手。
そして、アルタイルの母。
彼女が微笑むたびに、
過去と現在が、静かにひとつに溶け合っていくような気がした。
それは、どこまでも優しい幻のようで、
同時に、痛いほどの真実の光でもあった。
ホグワーツから戻った日の夕暮れ。
アラン・ブラックは深い安堵と、拭えぬ胸の痛みを同時に抱えていた。
アルタイルが罰則を受けたという知らせを受け、久しぶりに城を訪れた。
そして――そこで出会ったのが、ハリー・ポッターだった。
その名を聞いた瞬間、かつての記憶が胸の奥でざわめいた。
あの時、まだ幼かった予言の子。
自分が命を懸けて守った存在。
今は立派に成長し、
堂々とした立ち姿の少年として目の前にいた。
アルタイルの話すハリーの話は、どれも眩しかった。
「ハリーがこう言っていた」「ハリーに教わった」と、
彼の名を口にするたびに、アルタイルの声は少しだけ弾む。
きっと彼が見せてくれる世界は、
アルタイルにとって新しく、刺激に満ち、
生きることの輝きを感じさせるものなのだろう。
――まるで、かつての自分を見ているようだった。
若き日のアラン・セシールも、
シリウス・ブラックという名の光に導かれ、
ただその輝きに惹かれていた。
危うさと自由をまとうその光が、
どんなに遠くにいても自分を照らしてくれる気がしたのだ。
レギュラスには、今日のことは伏せておこう。
もし知れれば、彼はアルタイルを厳しく叱責するだろう。
だが今のアルタイルに必要なのは、叱責でも抑制でもない。
惹かれたものに手を伸ばす勇気。
無謀でも、大胆でも、若さゆえのその熱が、
彼をより強く、しなやかに育ててくれる。
あの城の中でなら――
どんな失敗も、まだ取り返せる。
そう信じたかった。
屋敷へ戻ると、静寂が支配していた。
廊下の燭台にともる炎が、ゆらゆらと揺れている。
その先の部屋では、カサンドラ・ブラックが伏せっていた。
「カサンドラ様、失礼します。」
アランは扉をそっと開け、足音を殺して中へ入った。
白い寝台の上に横たわるカサンドラは、
頬の血の気を失い、透きとおるように儚かった。
フランスのロズィエ家の令嬢。
名高き魔法一族の誇りを宿したその姿には、
どんなに病に蝕まれてもなお気高さがあった。
「……ロズィエ家に、戻りたいのです。」
掠れる声でそう言った。
フランス語の響きが残るその言葉に、
懐かしさと哀しみが混じっていた。
アランは枕元に膝をつき、そっと彼女の手を握る。
冷たい。
だがその冷たさの奥に、まだ消えぬ誇りの熱を感じた。
カサンドラ――ブラック家の正妻。
彼女がこの屋敷に嫁いでこなければ、
レギュラスはもっと穏やかな人生を送っていたかもしれない。
だが現実は残酷だった。
レギュラスが彼女を心から愛することは、ついになかった。
アランは知っている。
かつてレギュラスの想いが自分に向かぬようにと、
カサンドラに心が向くよう必死に手を尽くした時期があった。
けれど、レギュラスの想いはますます強く自分へと傾いていった。
――その結果、彼女を不幸にしてしまった。
誇り高き令嬢を、
愛されぬ妻としてこの屋敷に縛りつけてしまった。
そのことが、何よりも苦しかった。
それでも、アランにも譲れないものがあった。
自分には守るべき父と一族がいた。
セシール家はすでに没落の道を歩み、
ブラック家の庇護を失えば、
一族すべてが破滅することは目に見えていた。
――そして何より、アルタイルを身籠っていた。
まだ生まれてもいないその命を、
安全に育て上げるには、ブラック家の力が必要だった。
彼の血を継ぐ子として、
この家の庇護の下でだけ守れる未来があった。
それは打算ではなかった。
必死だったのだ。
生きるために。守るために。
たったひとつの命を繋ぐために。
「アラン。」
カサンドラの声が、弱々しくも確かに響いた。
「あなたに……最後のお願いがあるのです。」
アランは手を握り返す。
「なんでも仰ってください。」
「私がこの屋敷を去った後――」
一瞬、息を吸い込むように間を置き、
カサンドラはゆっくりと続けた。
「どうか……リディアを見守ってください。」
その瞳には、母としての光が宿っていた。
愛し、残していくものへの祈り。
アランは、そっと頷いた。
「……お約束します。」
その言葉に、カサンドラの唇がわずかに緩む。
安堵と、静かな諦め。
どちらも混じった微笑みだった。
アランはその夜、長く眠れなかった。
自分の生を重ねてきたこの家の中で、
誰かが失われ、誰かが傷ついていく。
それでも、
自分はまだ守らねばならないものがある。
――カサンドラの娘、リディア。
彼女にだけは、
何ひとつ不自由のない幸福な未来を歩ませたい。
それが、
アラン・ブラックという女に課された
最後の償いの形だった。
カサンドラ・ブラックが病に伏せ、ほどなくして故郷ロズィエ家へ戻った。
春の終わり、屋敷の門を出ていく馬車の音が、まだ耳に残っている。
見送りに立つ者は少なく、庭の花々だけが風に揺れ、静かに彼女の背を追った。
それは、レギュラスにとって解放の音でもあった。
心のどこかで――ようやく荷が降りたのだと、そう感じていた。
彼の心がアラン以外に向くことなど、一度もなかった。
その事実を自覚していながら、正妻であるカサンドラの部屋を訪ねることもせず、
病状の報告は医務魔女を介して形式的に受け取るだけだった。
彼女の存在は、義務と罪悪感を象徴するようなものだった。
フランスから届くロズィエ家の文書は、もはや封を切るのも嫌になるほどだった。
「娘を返せ」「あの冷血なブラックは呪われろ」――
封蝋を解くたびに、言葉が毒のように胸を焼いた。
だがレギュラスにとって、それすらももう遠い出来事だった。
すべてを終わらせたつもりだった。
――これでようやく一つ、楽になれる。
そう、ほんの少しだけ安堵の息をついた。
しかし、屋敷にはまだ小さな嘆きが残っていた。
母を失った幼いリディアは、夜ごとカサンドラを求めて泣き続けた。
アランはその小さな体を抱き上げ、胸に抱き寄せる。
「大丈夫ですよ、リディア。私がいますから。」
低く優しい声が、夜の静けさに溶けていく。
アランの腕の中で、リディアの嗚咽は次第に小さくなり、
やがて子守歌のように穏やかな呼吸へと変わっていった。
レギュラスはその光景を扉の影から見ていた。
息を呑むほどだった。
カサンドラが娘を抱いていたときには、
そこに心を動かされることはなかった。
けれど――アランが抱くリディアには、
目が離せなかった。
腕の中にある小さな命と、それを包み込む女性の姿。
その柔らかな光景に、
自分の中に潜む残酷さが静かに顔を覗かせた。
――どうして、こんなにも美しく見えてしまうのだろう。
自分が壊してきた幸福の形を、
今、アランが手の中でやさしく紡いでいる。
それが痛いほど眩しかった。
「レギュラス。」
アランがそっと顔を上げた。
「リディアのための婚約は……名誉や地位だけでなく、
彼女が本当に敬意を持って、愛せる人のもとに嫁がせましょう。」
その声には迷いがなかった。
自分の幸福よりも、他者の幸福を願う強さ。
それはかつてから変わらぬアランの本質だった。
レギュラスは一瞬、言葉を失った。
その瞳の奥に浮かぶものが、あまりにまっすぐで、
嘘も打算もひとつもなかった。
「ええ。婚約の件は、必ずあなたにも相談いたします。」
そう口にした時、
胸の奥に小さな安堵が広がっていくのを感じた。
アランに言われると、
どんな決定であれ事前に相談し、
話し合って決めていくというやり方に、
一切の異議を唱えようとは思わなかった。
彼女の言葉は、もはや命令でも忠告でもない。
それはレギュラスにとって、“真実”そのものだった。
――自分はこの人にすべてを委ねている。
その事実が、
静かに、しかし確かに彼の中で形を持った瞬間だった。
アラン・ブラック。
彼女こそが、自分の理性を縛り、心を支配し、
そして唯一、救いに変えてしまう存在。
カサンドラの去った屋敷で、
ようやく風が通り始めた夜――
その空気の中で、レギュラスは確かに悟っていた。
自分にとってアランという名の女は、
罪と赦しの両方を背負う“絶対”なのだと。
魔法新聞の一面に、その記事は大きく載っていた。
「ロズィエ家の令嬢カサンドラ・ブラック、病により帰郷――ブラック家の正妻の座をアラン・ブラック夫人が継承」
その見出しを、ジェームズ・ポッターは無言で見つめていた。
指先で新聞の端を押さえながら、何度もその名を追う。
――アラン・ブラック。
ただの使用人としてセシール家からブラック家に入った女。
それが今や、英国の魔法貴族の頂点に立つ正妻だ。
まるで物語のような出世劇。
だが、ジェームズにとっては美談でも奇跡でもなかった。
「……ついに、そこまで行ったか。」
声にならない呟きが、唇の内側で乾いていく。
彼女はシリウス・ブラックの人生そのものを縛りつけた女だ。
かつての親友がどれほど彼女に心を砕かれ、何年経ってもその幻影に囚われ続けているか――
ジェームズはずっと、隣で見てきた。
アランはきっとそんな自覚などないのだろう。
自分が誰かの人生を狂わせ、崩してきたなどとは夢にも思わず、
ただその美貌と静謐な微笑みで、すべてを手に入れてしまう。
使用人として屋敷の片隅にいた女が、
今や英国魔法界の権力の象徴――ブラック家の正妻。
フランス一の純血魔法族の娘を追いやり、
誰よりも高い場所に立った。
「……美しさひとつでここまで登るか。」
ジェームズは新聞を折り、額に手を当てた。
憎悪と諦念がないまぜになったような眼差しで、
遠くの窓の向こうを見つめる。
あの女は、あの翡翠の瞳の奥で、何を見ているのだろう。
シリウスの名も、かつての愛も、すべて灰のように忘れて。
だが彼女が笑う限り――シリウスは決して自由になれない。
「カサンドラ・ブラックが病で伏せったらしい。」
リーマスがジェームズの隣で新聞を覗き込みながら言った。
「……なんの病だろうな。」
その何気ない一言に、ジェームズの思考が一瞬止まった。
数日前――ブラック家の医務魔女が、
闇市で高額の取引をしているという情報を掴んでいた。
違法魔法薬。
本来なら医師の許可なしに扱うことを禁じられた強力な薬。
服用者の精神と肉体を蝕み、やがて破滅させる副作用を持つ。
だが、ブラック家の関係者がそれを大量に買い付けていた。
その事実と、今目の前にあるこのニュース。
――カサンドラの病。
「もしも……」
ジェームズの声が低く落ちる。
「もしもその薬を、アラン・ブラックが使っていたのだとしたら。」
リーマスが眉を寄せる。
「使っていた? 誰に?」
「カサンドラにだよ。」
口にした瞬間、自分でもぞっとするほど冷たい響きだった。
だが、考えれば考えるほど筋が通っていた。
――邪魔な正妻を追い出すため。
――ブラック家の頂点に立つため。
恐ろしい仮説。
けれど、どこかで妙に“しっくり”ときてしまう。
アラン・ブラックならやりかねない――そう思わせる何かがあった。
彼女の微笑みの奥に潜む、底の見えない静けさ。
それを知る者は、みな本能的に恐れていた。
リーマスはため息をついた。
「……まるで呪いだな。誰もが、あの女の美しさに取り憑かれて、破滅していく。」
ジェームズは黙って新聞を折りたたみ、
卓上に置かれたランプの炎にそれを近づけた。
紙がぱち、と音を立て、火が走る。
「呪い、か。」
炎がアランの名を焼き尽くしていくのを見つめながら、
ジェームズは静かに呟いた。
「……ああ、まさにその通りだ。」
闇の奥で微笑む彼女の姿が、
その瞬間、まるで亡霊のように脳裏に浮かんだ。
ジェームズ・ポッターの執務室には、フランスから届いた分厚い封筒が置かれていた。
ロズィエ家の紋章が押された赤い封蝋が、ゆっくりと魔法の熱で溶ける。
中には、精緻な筆跡で書かれた診療報告書と、治療経過の記録が綴られていた。
「……違法魔法薬の成分、まったく検出されない。」
報告書を読み終えたジェームズは、息を吐いた。
白――つまり、カサンドラ・ブラックの病は、アラン・ブラックの仕業ではなかった。
先日まで自分の中で渦巻いていた仮説が、脆くも崩れていく。
「じゃあ……あの薬を、いったい誰が使ってる?」
呟きは低く、重かった。
ブラック家の屋敷には今、当主レギュラス・ブラックと、その妻アラン・ブラック、そして幼いリディア・ブラック。
それ以外の人間はいない。
誰かが確実に、あの薬を使っている――それだけは間違いない。
「医務魔女を買収するのはどうだ?」
ジェームズの声は焦燥に滲んでいた。
対面の机で、リーマスが眉をひそめる。
「危険すぎる。……それに、現実的じゃない。ブラック家が彼女に支払える金額に、うちの予算で太刀打ちできると思うか?」
リーマスの言葉は冷静だった。
まるで氷のような現実を突きつけられる。
ジェームズは、無言で机を叩いた。
確かにそうだ。
だが――それでも引き下がれなかった。
あの屋敷に流れ込む金、力、そして秘密。
その中に、彼らが追っている“闇の魔法使い”たちに繋がる糸がある。
ブラック家の内情を暴ければ、一気に道が開ける。
それに、もし本当にアラン・ブラックが薬を使っているのだとしたら――
それだけで、魔法法廷に彼女を立たせることができる。
その女を断罪する口実が、ようやく掴める。
「……これが突破口なんだ、リーマス。
このまま見逃すわけにはいかない。」
リーマスは静かに立ち上がり、背を向けた。
「ジェームズ、最近の君は――少し、やりすぎだ。」
ジェームズは眉をひそめる。
「やりすぎ? 何言ってる。俺たちは正義のために――」
「違う。」
振り返ったリーマスの目が、まっすぐだった。
「“正義”の名を借りて、君はアラン・ブラックを罰したいだけなんだ。」
空気が一瞬で張りつめた。
ジェームズは思わず言葉を詰まらせる。
「……そんなつもりは……」
だが、自分の中で何かが疼いた。
図星を突かれたような痛み。
確かに――心のどこかで、アラン・ブラックを罪に落としたいと願っていた。
そうして「見ろ、あの女は恐ろしい人間なんだ」と、親友に告げてやりたかった。
シリウスを、あの女の幻影から解き放ちたかった。
もう二度と、彼が過去に囚われて生きることがないように。
だが、それは“救い”なのか――それとも“復讐”なのか。
リーマスの言葉が、胸の奥に刺さったまま抜けない。
夜更けの書斎。
ランプの火が、ジェームズの横顔を淡く照らす。
机の上には、焼け焦げた報告書の欠片と、アラン・ブラックの名が書かれたメモ。
ジェームズはそれを見つめながら、掌をぎゅっと握った。
「……俺は、正しいことをしているはずだ。」
そう言い聞かせる声が、どこか震えていた。
燃えかけた蝋燭の炎が、わずかに揺れた。
――正義と執念の境界は、いつも薄氷の上にある。
アランはできる限り、リディアと過ごす時間を増やした。
彼女が望む遊びに付き合い、リディアが喜ぶものを手作りし、リディアが好む音楽や詩を一緒に覚えた。
その小さな笑顔が、どれほどこの屋敷の中に灯をともしてくれるかを、アランはよく知っていた。
アルタイルが幼かった頃でさえ、アランは外出などほとんどしなかった。
それでも今は違う。
まだあどけないリディアが「お外へ行きたい」と小さな声で言えば、
胸の奥の痛みも、身体のきしみも、ただ奥に押し込めて笑ってみせた。
「いいわ。少しだけ行きましょう。」
そう言ってコートのボタンを留める手が、かすかに震えている。
だが、リディアの瞳に光が宿る瞬間、それだけで不思議と力が湧いてくるのだった。
この時間が、罪悪感からの偽善なのかもしれない――
アランは時折そんな思いに囚われた。
レギュラスの正妻だったカサンドラに対しての、
自分なりの償いなのかもしれない。
その思いが心のどこかを締めつけた。
カサンドラが病に伏し、ついにロズィエ家へ戻っていった今、
アランが彼女にしてやれることは何もない。
けれど、せめて――彼女の娘であるリディアを幸せにすることだけは、
自分に許された最後の贖罪の形なのだと思った。
「リディア、もう少し歩けますか?」
「ええ、お母様!」
その言葉に、胸が痛んだ。
いつしかリディアは、アランのことを“お母様”と呼ぶようになっていた。
それは自然の流れのようであり、残酷な響きでもあった。
――実の父を知らぬまま育ったアルタイルに、レギュラスを“父”と呼ばせ、
――実の母を失ったリディアには、自分が“母”と呼ばれている。
なんという皮肉だろう。
人生とは、時にどれほどの因果を抱かせるのだろう。
「お母様、これが欲しいわ!」
リディアが駆け寄った先にあったのは、小さなショーウィンドウだった。
中には、春を思わせる桃色のドレス。
胸元には繊細なレースが縫い込まれ、光沢のあるリボンが裾をふわりと飾っている。
リディアの瞳が、まるで花びらのように輝いた。
アランは思わず微笑んだ。
「リディアに似合いそうですね。……着てみましょうか。」
「いいの? 本当に?」
弾むような声。
店の扉の鐘が小さく鳴り、ふたりの影があたたかな光の中へと吸い込まれていく。
鏡の前でドレスを広げてくるくると回るリディア。
アランは両手を胸の前で組み、微笑んだ。
――まるでカサンドラが幼い娘に着せたがっていたドレスのよう。
その記憶がふと過ぎり、胸の奥に小さな痛みが灯る。
「とても、似合っていますよ。」
「本当? 嬉しい!」
リディアが駆け寄って、アランの腰に抱きついた。
柔らかな髪が頬に触れる。
その感触が、あまりにも愛しくて、切なかった。
帰り道。
手を繋いで歩くふたりの影が、長く夕陽に伸びていた。
リディアは新しいドレスを抱きしめるように持ち、
アランはその小さな手をぎゅっと握り返す。
「お母様、今日はとっても楽しかったわ!」
「そう……よかった。」
笑いながら答えるアランの声が、少し震えていた。
切なさと、愛しさと、赦しがないまぜになって胸を満たしていく。
――この子が笑ってくれるのなら、それでいい。
たとえ、この幸福が誰かの痛みの上に成り立っているとしても。
その夜、屋敷に戻ったあとも、アランの手にはあの温もりが残っていた。
まるでリディアの小さな掌が、彼女の心に「生きて」と囁いているようだった。
リディアとアランが寄り添う姿を見るたびに、レギュラスは言葉にならない不思議な感情に包まれた。
リディアが「語学を学びたい」と言えば、アランはすぐに家庭教師を呼んで手配した。
「ダンスは嫌い」と言えば、翌日には講師を辞退させる。
欲しいと言った玩具は迷いなく買い与え、食べたいと呟いた菓子は夜更けまで台所で焼いてやる。
――まるで、リディアの笑顔ひとつが世界の中心であるかのように。
アルタイルの幼い頃も、もちろん愛情を注いではいた。
だが、これほどまでに子どもの希望を最優先にして動くアランの姿は、記憶になかった。
その徹底した“母”としての在り方は、見ているこちらが戸惑うほどだった。
「……無理してませんか?」
夕暮れ時、書斎の窓辺。
レギュラスはそっと尋ねた。
外はうっすらと茜色に染まり、風がカーテンを揺らしている。
アランは紅茶のカップを静かに置き、微笑んだ。
「いいえ。むしろ……久しぶりに“子育て”をしている気分なのです。」
レギュラスは一瞬、返す言葉を失った。
その笑みがあまりにも穏やかで、どこか遠い。
まるで、そこに宿る安らぎが“痛み”の裏返しのように見えてしまった。
「……それならいいんですが。」
レギュラスはそれ以上言葉を重ねなかった。
何を言っても、彼女の心に踏み込みすぎてしまう気がした。
母と娘の仲睦まじい光景は、確かに微笑ましかった。
リディアがアランのスカートの裾を掴んで歩く姿は、まるでかつてのアルタイルを見ているようで、どこか懐かしくもあった。
だが――その幸福な光景が続けば続くほど、胸の奥に小さな棘のような違和感が残った。
レギュラスは、最近アランが自分と過ごす時間を少しずつ削っていることに気づいていた。
昼間、仕事を早めに切り上げて帰宅しても、屋敷は静まり返っている。
アランとリディアは外出中――それが日常になっていた。
戻ってきた頃には、アランの頬にはわずかな疲労の色があり、
夜、レギュラスがベッドに入る頃にはすでに彼女は眠っている。
呼びかけても、うっすらと目を開けて微笑むだけ。
「……お帰りなさい」と、かすれた声で囁き、再び眠りに落ちていく。
それが続くうちに、レギュラスは思った。
――自分は今、彼女の“日常”の外にいるのではないか、と。
もちろん、そんな感情は子どもじみている。
わかっている。
彼女が誰かを愛し、慈しむ姿は本来なら誇るべきものなのだ。
それでも、心のどこかで嫉妬に似た痛みが広がる。
あれほど“自分の手の中”に感じていたアランが、
今は、別の小さな世界――リディアという名の小宇宙の中にいる。
その事実が、どうしようもなく寂しかった。
どう言葉にすれば、彼女を傷つけずに伝えられるのか。
“寂しい”と正直に言ってしまえば、
彼女はきっとまた微笑んで、「ごめんなさい」と言うだけだろう。
レギュラスはその姿を想像して、胸の奥を握り潰されたような痛みに耐えた。
「……僕は、どうすればいいんでしょうね」
誰にも聞こえないように呟いた声が、静かな部屋に吸い込まれていった。
カーテンの向こうでは、リディアの笑い声が庭から聞こえてくる。
その声に混じって、アランの柔らかな笑い声も響いた。
――その音が愛しいほどに、孤独だった。
ポッター邸の書斎に射し込む光が、
古い木の机を金色に染めていた。
その静寂を破るように、
ハリーは父の机の引き出しをそっと開けた。
中には整然と並べられた封筒や報告書。
その中の一つ、表紙に「出生記録照合」と記された書類が
ひときわ目を引いた。
父ジェームズの筆跡だった。
ハリーは息を詰めながらページを開く。
「アルタイル・ブラック」
「シリウス・ブラック」
二つの名が並んでいる。
記録には、杖の素材・魔法性質・魔力波長・呪文特性、
すべてが詳細に照らし合わされていた。
黒壇、十一インチ、不死鳥の尾羽――
そして、驚くほど一致した魔力の流れの記録。
冷たいインクの線が、まるで血の系譜を指し示すように並んでいる。
――同じだ。
胸の奥がずきんと鳴った。
心臓の音が耳の中で響く。
父がこれを持っているということは、
父自身がアルタイルの出生に疑問を抱いたからに違いない。
でなければ、こんな照合記録を作るはずがない。
あの冷静な筆致が、逆にその執念を物語っていた。
もはや確信だった。
アルタイル・ブラック――
彼は、シリウス・ブラックの子だ。
だが、なぜそれを隠す?
なぜ父は、その真実を覆い隠そうとするのか。
そして、なぜアラン・ブラックという女性を
あれほどまでに憎んでいるのか。
ハリーには、理解できなかった。
だからこそ、母に聞こうと思った。
夕方。
リビングには紅茶の香りが漂い、
リリー・ポッターが窓際の椅子に腰掛けていた。
ハリーは意を決して口を開いた。
「母さん、アラン・セシールって人を知ってる?」
リリーは驚いたように瞬きをした。
「……どうしたの、急に?」
「父さんが教えてくれそうにないから。」
静寂が落ちる。
彼女は手にしていたカップをゆっくりとテーブルに置き、
ハリーの目をまっすぐ見つめた。
その表情には――
“ついにこの話をする時が来たのね”という、
どこか覚悟のような影があった。
「アラン・セシールはね、ホグワーツ時代、
スリザリンの二学年下の子だったわ。」
母の声は静かだった。
どこか懐かしさを含んでいた。
「もともとはブラック家の使用人だったの。
在学中はいつもレギュラス・ブラックと一緒にいた。
でもね……シリウスが彼女を想っていたのよ。」
「シリウスが……?」
ハリーの声がかすれる。
リリーは頷いた。
「ええ。シリウスにとって初恋の人だったわ。
私は陰ながら二人を応援していたの。
でも結局、アランは弟のレギュラスを選んだの。」
淡々と語られるその口調の奥に、
当時を知る者だけの哀しみがにじんでいた。
「どうして一緒になれなかったの?
レギュラスがいたから?」
「それは……私にも分からないわ。」
リリーは遠くを見るように窓の外を眺めた。
「ただ、彼女はレギュラスを選んだ。
それだけは確かよ。」
それきり、言葉は途切れた。
時計の針の音だけが部屋に響く。
母の話は嘘ではない。
だが――それは、
ほんの一片の真実に過ぎない。
傍観者としてのリリーの記憶。
学生時代の淡い恋として語られたアランとシリウスの物語は、
どこにでもある若者の恋のように儚く美しい。
けれどハリーの胸の中では、
その「ありふれた過去」こそが、
何か大きな秘密の表層を覆っている気がしてならなかった。
父も、シリウスも、彼女の名を出そうとしない。
まるで、その名を口にした瞬間に
何か取り返しのつかないものが崩れてしまうかのように。
ハリーは机の上の照合記録をもう一度見つめた。
黒いインクで並ぶ文字が、
まるで自分に問いかけてくるようだった。
――「真実を知る覚悟はあるか?」
その夜、
ハリーは静かにカーテンを閉じた。
窓の外の月は、
まるで過去を照らすためにだけ、
冷たく光っていた。
ホグワーツの空は、厚い雲に覆われていた。
新学期が始まって間もないのに、アルタイル・ブラックはさっそくマクゴナガル教授の部屋に呼び出されていた。
隣には同じく罰を受けることになった三人の顔――ハリー・ポッター、ロン・ウィーズリー、ハーマイオニー・グレンジャー。
机の上には校則違反の報告書が広げられている。
夜間の外出、禁じられた森への立ち入り、
魔法生物飼育小屋の鍵の無断使用、
そして城外通信呪文による外部者との接触――
計四つの違反。
「まったく、あなた方という子たちは……!」
マクゴナガルの声は、雷のように響いた。
「ホグワーツの規律を破ってばかり!
ミスター・ポッター、あなたの悪影響がここまで広がるとは思いませんでした。」
「ぼ、僕のせいですか!?」とハリー。
「あなたもです、ミスター・ウィーズリー!」
ロンが小さく肩をすくめる。
アルタイルは黙って頭を下げていた。
セブルス・スネイプのように成績を持ち出して許してもらうことも、マクゴナガルには通用しない。
淡々と、「保護者を呼びます」とだけ言われた。
「すみません、先生……」
「まったく、なんということです、ミスター・ブラック。
お父様に怒られてらっしゃい。」
マクゴナガルの言葉が冷たく響く。
アルタイルの胸に、冷たいものが落ちていく。
――父が来る。
そう思うだけで、胃がひりつくようだった。
けれどその日、ホグワーツに現れたのは父ではなく――母だった。
校長室の前の廊下で待っていると、
淡い青のローブをまとった女性が、静かな足取りで現れた。
アラン・ブラック。
アルタイルの胸がぎゅっと締め付けられる。
母の顔はどこか青白く、
それでも微笑もうとするその姿は痛いほど優しかった。
本当は、家で休んでいなければならない体だと分かっている。
こんなことで、わざわざ学校に来させてしまった。
その罪悪感が、胸を刺した。
「先日はご迷惑をおかけしてしまいました……」
深々と頭を下げる母。
その姿を見て、アルタイルはいたたまれなかった。
マクゴナガル教授は、表情を和らげる。
「まあ……アラン・セシール。お久しぶりね。」
アランは小さく会釈する。
「はい、先生。こんな状況での再会なのが申し訳ないです。」
「あなたのお子さんはとても優秀ですよ。
ただ――少々、好奇心が旺盛すぎるようですわね。」
その時、背後の扉が音を立てて開いた。
長い銀髭を揺らして、アルバス・ダンブルドアが入ってくる。
「久しいのお、アラン。」
その声に、アランは微笑んだ。
「お久しぶりです、先生。」
ダンブルドアは優しく頷き、ハリーの肩に手を置く。
「君が、あの時――彼女が救ってくれた“予言の子”じゃよ。」
ハリーは驚いたようにアランを見た。
その瞳に、かすかな既視感が宿る。
アランは一歩近づき、
静かにハリーの手を取った。
「あなたが……ハリー・ポッター。」
その声は柔らかく、どこか遠い懐かしさを含んでいた。
「お父様に似て勇敢で、自信に満ち溢れているのね。
大きくなってくれたこと、誇りに思います。」
その瞬間――
アランの瞳がわずかに潤んだ。
まるで、十数年前に守り抜いた“未来”が今ここに立っていることに
ようやく実感が追いついたかのように。
ハリーは何かを言いかけたが、
その眼差しの奥にある深い哀しみに、言葉を失った。
アルタイルはただ、母を見つめていた。
自分の知らない母の一面。
過去と現在が、ホグワーツの石造りの部屋の中で静かに交差していく。
母の手は細く、冷たかった。
その手が、震えていることに気づいた時、
アルタイルは強く思った――
もう二度と、母をこんな風に疲れさせるようなことはしない、と。
石造りの廊下に、午後の光が淡く差し込んでいた。
校長室の扉が静かに閉まる音を聞きながら、ハリーはしばらくその場に立ち尽くしていた。
胸の奥に、ざらりとした感情が残っている。
彼女――アラン・ブラック。
魔法写真で何度も見たことのある人だった。
だが、実際に目の前にした彼女は、写真で見るよりもずっと、ずっと美しかった。
艶やかな黒髪が肩を滑り、動くたびに微かに香る花のような匂い。
その瞳は深い翡翠色で、見る者の心を静かにすくい取ってしまうような光を湛えていた。
――これが、シリウス・ブラックの初恋の人。
母からそう聞かされていた。
そのせいで、どうしてもそういう目で見てしまう。
けれど、実際に見たアラン・ブラックは、伝え聞く言葉以上に“完成された美”だった。
息をするのも惜しいほどに。
これほどの女性が初恋の人であったなら、彼女を超える誰かを見つけることなど、きっと容易ではないだろう――
そう思わずにはいられなかった。
校長室を去っていくアランとアルタイルの後ろ姿を、
ハリーは思わず追いかけた。
「アランさん!」
その声に、アランはゆっくりと振り向く。
長い髪が柔らかく揺れ、翡翠の瞳が光を受けて煌めいた。
その瞬間、ハリーは息を呑む。
――母さんに似ている。
ほんの一瞬、リリー・ポッターの面影をそこに見た気がした。
「どうしました、ハリー?」
穏やかな声。包み込むような柔らかさがあった。
「あの……ちゃんとお礼が言いたくて、僕……その……」
言葉が出てこなかった。何を言えばいいのか分からない。
けれど、伝えなければいけない気がして、
咄嗟に口から出たのは、まるで違う言葉だった。
「これからも……アルタイルを導いてあげてください。」
アランは一瞬目を細め、それから静かに頭を下げた。
その笑みは、光の中で柔らかく滲んだ。
声の響きも仕草も、どこまでも優しく、そして温かい。
――父がなぜ、こんな人を憎むのだろう。
その理由が、まるで分からなかった。
「アルタイルは悪くなくて、僕が誘い出したんです。」
ハリーは慌てて言葉を継いだ。
誤解されたくなかった。
アルタイルは父の期待にも母の信頼にも誠実に応えようとする少年だ。
スリザリンに属していながらも、偏見に囚われず、
マグル出身の生徒や混血の子たちにさえ、分け隔てなく笑顔を向ける。
そんな彼をもっと知りたくて、気づけば、
無茶な冒険にまで誘ってしまっていた。
「いや、違います、母さん。僕がそもそも行きたいって言ったのが原因なんです。」
隣でアルタイルが言う。
まるで、互いにかばい合うように。
アランはふっと笑みをこぼした。
「いい友達ができたようで、安心しました、アルタイル。」
口元に指を添え、少しだけ首を傾げる。
その仕草があまりにも柔らかく、
慈愛に満ちた母の顔そのものだった。
ハリーはただ、見とれていた。
この人が――シリウスの初恋の相手。
そして、アルタイルの母。
彼女が微笑むたびに、
過去と現在が、静かにひとつに溶け合っていくような気がした。
それは、どこまでも優しい幻のようで、
同時に、痛いほどの真実の光でもあった。
ホグワーツから戻った日の夕暮れ。
アラン・ブラックは深い安堵と、拭えぬ胸の痛みを同時に抱えていた。
アルタイルが罰則を受けたという知らせを受け、久しぶりに城を訪れた。
そして――そこで出会ったのが、ハリー・ポッターだった。
その名を聞いた瞬間、かつての記憶が胸の奥でざわめいた。
あの時、まだ幼かった予言の子。
自分が命を懸けて守った存在。
今は立派に成長し、
堂々とした立ち姿の少年として目の前にいた。
アルタイルの話すハリーの話は、どれも眩しかった。
「ハリーがこう言っていた」「ハリーに教わった」と、
彼の名を口にするたびに、アルタイルの声は少しだけ弾む。
きっと彼が見せてくれる世界は、
アルタイルにとって新しく、刺激に満ち、
生きることの輝きを感じさせるものなのだろう。
――まるで、かつての自分を見ているようだった。
若き日のアラン・セシールも、
シリウス・ブラックという名の光に導かれ、
ただその輝きに惹かれていた。
危うさと自由をまとうその光が、
どんなに遠くにいても自分を照らしてくれる気がしたのだ。
レギュラスには、今日のことは伏せておこう。
もし知れれば、彼はアルタイルを厳しく叱責するだろう。
だが今のアルタイルに必要なのは、叱責でも抑制でもない。
惹かれたものに手を伸ばす勇気。
無謀でも、大胆でも、若さゆえのその熱が、
彼をより強く、しなやかに育ててくれる。
あの城の中でなら――
どんな失敗も、まだ取り返せる。
そう信じたかった。
屋敷へ戻ると、静寂が支配していた。
廊下の燭台にともる炎が、ゆらゆらと揺れている。
その先の部屋では、カサンドラ・ブラックが伏せっていた。
「カサンドラ様、失礼します。」
アランは扉をそっと開け、足音を殺して中へ入った。
白い寝台の上に横たわるカサンドラは、
頬の血の気を失い、透きとおるように儚かった。
フランスのロズィエ家の令嬢。
名高き魔法一族の誇りを宿したその姿には、
どんなに病に蝕まれてもなお気高さがあった。
「……ロズィエ家に、戻りたいのです。」
掠れる声でそう言った。
フランス語の響きが残るその言葉に、
懐かしさと哀しみが混じっていた。
アランは枕元に膝をつき、そっと彼女の手を握る。
冷たい。
だがその冷たさの奥に、まだ消えぬ誇りの熱を感じた。
カサンドラ――ブラック家の正妻。
彼女がこの屋敷に嫁いでこなければ、
レギュラスはもっと穏やかな人生を送っていたかもしれない。
だが現実は残酷だった。
レギュラスが彼女を心から愛することは、ついになかった。
アランは知っている。
かつてレギュラスの想いが自分に向かぬようにと、
カサンドラに心が向くよう必死に手を尽くした時期があった。
けれど、レギュラスの想いはますます強く自分へと傾いていった。
――その結果、彼女を不幸にしてしまった。
誇り高き令嬢を、
愛されぬ妻としてこの屋敷に縛りつけてしまった。
そのことが、何よりも苦しかった。
それでも、アランにも譲れないものがあった。
自分には守るべき父と一族がいた。
セシール家はすでに没落の道を歩み、
ブラック家の庇護を失えば、
一族すべてが破滅することは目に見えていた。
――そして何より、アルタイルを身籠っていた。
まだ生まれてもいないその命を、
安全に育て上げるには、ブラック家の力が必要だった。
彼の血を継ぐ子として、
この家の庇護の下でだけ守れる未来があった。
それは打算ではなかった。
必死だったのだ。
生きるために。守るために。
たったひとつの命を繋ぐために。
「アラン。」
カサンドラの声が、弱々しくも確かに響いた。
「あなたに……最後のお願いがあるのです。」
アランは手を握り返す。
「なんでも仰ってください。」
「私がこの屋敷を去った後――」
一瞬、息を吸い込むように間を置き、
カサンドラはゆっくりと続けた。
「どうか……リディアを見守ってください。」
その瞳には、母としての光が宿っていた。
愛し、残していくものへの祈り。
アランは、そっと頷いた。
「……お約束します。」
その言葉に、カサンドラの唇がわずかに緩む。
安堵と、静かな諦め。
どちらも混じった微笑みだった。
アランはその夜、長く眠れなかった。
自分の生を重ねてきたこの家の中で、
誰かが失われ、誰かが傷ついていく。
それでも、
自分はまだ守らねばならないものがある。
――カサンドラの娘、リディア。
彼女にだけは、
何ひとつ不自由のない幸福な未来を歩ませたい。
それが、
アラン・ブラックという女に課された
最後の償いの形だった。
カサンドラ・ブラックが病に伏せ、ほどなくして故郷ロズィエ家へ戻った。
春の終わり、屋敷の門を出ていく馬車の音が、まだ耳に残っている。
見送りに立つ者は少なく、庭の花々だけが風に揺れ、静かに彼女の背を追った。
それは、レギュラスにとって解放の音でもあった。
心のどこかで――ようやく荷が降りたのだと、そう感じていた。
彼の心がアラン以外に向くことなど、一度もなかった。
その事実を自覚していながら、正妻であるカサンドラの部屋を訪ねることもせず、
病状の報告は医務魔女を介して形式的に受け取るだけだった。
彼女の存在は、義務と罪悪感を象徴するようなものだった。
フランスから届くロズィエ家の文書は、もはや封を切るのも嫌になるほどだった。
「娘を返せ」「あの冷血なブラックは呪われろ」――
封蝋を解くたびに、言葉が毒のように胸を焼いた。
だがレギュラスにとって、それすらももう遠い出来事だった。
すべてを終わらせたつもりだった。
――これでようやく一つ、楽になれる。
そう、ほんの少しだけ安堵の息をついた。
しかし、屋敷にはまだ小さな嘆きが残っていた。
母を失った幼いリディアは、夜ごとカサンドラを求めて泣き続けた。
アランはその小さな体を抱き上げ、胸に抱き寄せる。
「大丈夫ですよ、リディア。私がいますから。」
低く優しい声が、夜の静けさに溶けていく。
アランの腕の中で、リディアの嗚咽は次第に小さくなり、
やがて子守歌のように穏やかな呼吸へと変わっていった。
レギュラスはその光景を扉の影から見ていた。
息を呑むほどだった。
カサンドラが娘を抱いていたときには、
そこに心を動かされることはなかった。
けれど――アランが抱くリディアには、
目が離せなかった。
腕の中にある小さな命と、それを包み込む女性の姿。
その柔らかな光景に、
自分の中に潜む残酷さが静かに顔を覗かせた。
――どうして、こんなにも美しく見えてしまうのだろう。
自分が壊してきた幸福の形を、
今、アランが手の中でやさしく紡いでいる。
それが痛いほど眩しかった。
「レギュラス。」
アランがそっと顔を上げた。
「リディアのための婚約は……名誉や地位だけでなく、
彼女が本当に敬意を持って、愛せる人のもとに嫁がせましょう。」
その声には迷いがなかった。
自分の幸福よりも、他者の幸福を願う強さ。
それはかつてから変わらぬアランの本質だった。
レギュラスは一瞬、言葉を失った。
その瞳の奥に浮かぶものが、あまりにまっすぐで、
嘘も打算もひとつもなかった。
「ええ。婚約の件は、必ずあなたにも相談いたします。」
そう口にした時、
胸の奥に小さな安堵が広がっていくのを感じた。
アランに言われると、
どんな決定であれ事前に相談し、
話し合って決めていくというやり方に、
一切の異議を唱えようとは思わなかった。
彼女の言葉は、もはや命令でも忠告でもない。
それはレギュラスにとって、“真実”そのものだった。
――自分はこの人にすべてを委ねている。
その事実が、
静かに、しかし確かに彼の中で形を持った瞬間だった。
アラン・ブラック。
彼女こそが、自分の理性を縛り、心を支配し、
そして唯一、救いに変えてしまう存在。
カサンドラの去った屋敷で、
ようやく風が通り始めた夜――
その空気の中で、レギュラスは確かに悟っていた。
自分にとってアランという名の女は、
罪と赦しの両方を背負う“絶対”なのだと。
魔法新聞の一面に、その記事は大きく載っていた。
「ロズィエ家の令嬢カサンドラ・ブラック、病により帰郷――ブラック家の正妻の座をアラン・ブラック夫人が継承」
その見出しを、ジェームズ・ポッターは無言で見つめていた。
指先で新聞の端を押さえながら、何度もその名を追う。
――アラン・ブラック。
ただの使用人としてセシール家からブラック家に入った女。
それが今や、英国の魔法貴族の頂点に立つ正妻だ。
まるで物語のような出世劇。
だが、ジェームズにとっては美談でも奇跡でもなかった。
「……ついに、そこまで行ったか。」
声にならない呟きが、唇の内側で乾いていく。
彼女はシリウス・ブラックの人生そのものを縛りつけた女だ。
かつての親友がどれほど彼女に心を砕かれ、何年経ってもその幻影に囚われ続けているか――
ジェームズはずっと、隣で見てきた。
アランはきっとそんな自覚などないのだろう。
自分が誰かの人生を狂わせ、崩してきたなどとは夢にも思わず、
ただその美貌と静謐な微笑みで、すべてを手に入れてしまう。
使用人として屋敷の片隅にいた女が、
今や英国魔法界の権力の象徴――ブラック家の正妻。
フランス一の純血魔法族の娘を追いやり、
誰よりも高い場所に立った。
「……美しさひとつでここまで登るか。」
ジェームズは新聞を折り、額に手を当てた。
憎悪と諦念がないまぜになったような眼差しで、
遠くの窓の向こうを見つめる。
あの女は、あの翡翠の瞳の奥で、何を見ているのだろう。
シリウスの名も、かつての愛も、すべて灰のように忘れて。
だが彼女が笑う限り――シリウスは決して自由になれない。
「カサンドラ・ブラックが病で伏せったらしい。」
リーマスがジェームズの隣で新聞を覗き込みながら言った。
「……なんの病だろうな。」
その何気ない一言に、ジェームズの思考が一瞬止まった。
数日前――ブラック家の医務魔女が、
闇市で高額の取引をしているという情報を掴んでいた。
違法魔法薬。
本来なら医師の許可なしに扱うことを禁じられた強力な薬。
服用者の精神と肉体を蝕み、やがて破滅させる副作用を持つ。
だが、ブラック家の関係者がそれを大量に買い付けていた。
その事実と、今目の前にあるこのニュース。
――カサンドラの病。
「もしも……」
ジェームズの声が低く落ちる。
「もしもその薬を、アラン・ブラックが使っていたのだとしたら。」
リーマスが眉を寄せる。
「使っていた? 誰に?」
「カサンドラにだよ。」
口にした瞬間、自分でもぞっとするほど冷たい響きだった。
だが、考えれば考えるほど筋が通っていた。
――邪魔な正妻を追い出すため。
――ブラック家の頂点に立つため。
恐ろしい仮説。
けれど、どこかで妙に“しっくり”ときてしまう。
アラン・ブラックならやりかねない――そう思わせる何かがあった。
彼女の微笑みの奥に潜む、底の見えない静けさ。
それを知る者は、みな本能的に恐れていた。
リーマスはため息をついた。
「……まるで呪いだな。誰もが、あの女の美しさに取り憑かれて、破滅していく。」
ジェームズは黙って新聞を折りたたみ、
卓上に置かれたランプの炎にそれを近づけた。
紙がぱち、と音を立て、火が走る。
「呪い、か。」
炎がアランの名を焼き尽くしていくのを見つめながら、
ジェームズは静かに呟いた。
「……ああ、まさにその通りだ。」
闇の奥で微笑む彼女の姿が、
その瞬間、まるで亡霊のように脳裏に浮かんだ。
ジェームズ・ポッターの執務室には、フランスから届いた分厚い封筒が置かれていた。
ロズィエ家の紋章が押された赤い封蝋が、ゆっくりと魔法の熱で溶ける。
中には、精緻な筆跡で書かれた診療報告書と、治療経過の記録が綴られていた。
「……違法魔法薬の成分、まったく検出されない。」
報告書を読み終えたジェームズは、息を吐いた。
白――つまり、カサンドラ・ブラックの病は、アラン・ブラックの仕業ではなかった。
先日まで自分の中で渦巻いていた仮説が、脆くも崩れていく。
「じゃあ……あの薬を、いったい誰が使ってる?」
呟きは低く、重かった。
ブラック家の屋敷には今、当主レギュラス・ブラックと、その妻アラン・ブラック、そして幼いリディア・ブラック。
それ以外の人間はいない。
誰かが確実に、あの薬を使っている――それだけは間違いない。
「医務魔女を買収するのはどうだ?」
ジェームズの声は焦燥に滲んでいた。
対面の机で、リーマスが眉をひそめる。
「危険すぎる。……それに、現実的じゃない。ブラック家が彼女に支払える金額に、うちの予算で太刀打ちできると思うか?」
リーマスの言葉は冷静だった。
まるで氷のような現実を突きつけられる。
ジェームズは、無言で机を叩いた。
確かにそうだ。
だが――それでも引き下がれなかった。
あの屋敷に流れ込む金、力、そして秘密。
その中に、彼らが追っている“闇の魔法使い”たちに繋がる糸がある。
ブラック家の内情を暴ければ、一気に道が開ける。
それに、もし本当にアラン・ブラックが薬を使っているのだとしたら――
それだけで、魔法法廷に彼女を立たせることができる。
その女を断罪する口実が、ようやく掴める。
「……これが突破口なんだ、リーマス。
このまま見逃すわけにはいかない。」
リーマスは静かに立ち上がり、背を向けた。
「ジェームズ、最近の君は――少し、やりすぎだ。」
ジェームズは眉をひそめる。
「やりすぎ? 何言ってる。俺たちは正義のために――」
「違う。」
振り返ったリーマスの目が、まっすぐだった。
「“正義”の名を借りて、君はアラン・ブラックを罰したいだけなんだ。」
空気が一瞬で張りつめた。
ジェームズは思わず言葉を詰まらせる。
「……そんなつもりは……」
だが、自分の中で何かが疼いた。
図星を突かれたような痛み。
確かに――心のどこかで、アラン・ブラックを罪に落としたいと願っていた。
そうして「見ろ、あの女は恐ろしい人間なんだ」と、親友に告げてやりたかった。
シリウスを、あの女の幻影から解き放ちたかった。
もう二度と、彼が過去に囚われて生きることがないように。
だが、それは“救い”なのか――それとも“復讐”なのか。
リーマスの言葉が、胸の奥に刺さったまま抜けない。
夜更けの書斎。
ランプの火が、ジェームズの横顔を淡く照らす。
机の上には、焼け焦げた報告書の欠片と、アラン・ブラックの名が書かれたメモ。
ジェームズはそれを見つめながら、掌をぎゅっと握った。
「……俺は、正しいことをしているはずだ。」
そう言い聞かせる声が、どこか震えていた。
燃えかけた蝋燭の炎が、わずかに揺れた。
――正義と執念の境界は、いつも薄氷の上にある。
アランはできる限り、リディアと過ごす時間を増やした。
彼女が望む遊びに付き合い、リディアが喜ぶものを手作りし、リディアが好む音楽や詩を一緒に覚えた。
その小さな笑顔が、どれほどこの屋敷の中に灯をともしてくれるかを、アランはよく知っていた。
アルタイルが幼かった頃でさえ、アランは外出などほとんどしなかった。
それでも今は違う。
まだあどけないリディアが「お外へ行きたい」と小さな声で言えば、
胸の奥の痛みも、身体のきしみも、ただ奥に押し込めて笑ってみせた。
「いいわ。少しだけ行きましょう。」
そう言ってコートのボタンを留める手が、かすかに震えている。
だが、リディアの瞳に光が宿る瞬間、それだけで不思議と力が湧いてくるのだった。
この時間が、罪悪感からの偽善なのかもしれない――
アランは時折そんな思いに囚われた。
レギュラスの正妻だったカサンドラに対しての、
自分なりの償いなのかもしれない。
その思いが心のどこかを締めつけた。
カサンドラが病に伏し、ついにロズィエ家へ戻っていった今、
アランが彼女にしてやれることは何もない。
けれど、せめて――彼女の娘であるリディアを幸せにすることだけは、
自分に許された最後の贖罪の形なのだと思った。
「リディア、もう少し歩けますか?」
「ええ、お母様!」
その言葉に、胸が痛んだ。
いつしかリディアは、アランのことを“お母様”と呼ぶようになっていた。
それは自然の流れのようであり、残酷な響きでもあった。
――実の父を知らぬまま育ったアルタイルに、レギュラスを“父”と呼ばせ、
――実の母を失ったリディアには、自分が“母”と呼ばれている。
なんという皮肉だろう。
人生とは、時にどれほどの因果を抱かせるのだろう。
「お母様、これが欲しいわ!」
リディアが駆け寄った先にあったのは、小さなショーウィンドウだった。
中には、春を思わせる桃色のドレス。
胸元には繊細なレースが縫い込まれ、光沢のあるリボンが裾をふわりと飾っている。
リディアの瞳が、まるで花びらのように輝いた。
アランは思わず微笑んだ。
「リディアに似合いそうですね。……着てみましょうか。」
「いいの? 本当に?」
弾むような声。
店の扉の鐘が小さく鳴り、ふたりの影があたたかな光の中へと吸い込まれていく。
鏡の前でドレスを広げてくるくると回るリディア。
アランは両手を胸の前で組み、微笑んだ。
――まるでカサンドラが幼い娘に着せたがっていたドレスのよう。
その記憶がふと過ぎり、胸の奥に小さな痛みが灯る。
「とても、似合っていますよ。」
「本当? 嬉しい!」
リディアが駆け寄って、アランの腰に抱きついた。
柔らかな髪が頬に触れる。
その感触が、あまりにも愛しくて、切なかった。
帰り道。
手を繋いで歩くふたりの影が、長く夕陽に伸びていた。
リディアは新しいドレスを抱きしめるように持ち、
アランはその小さな手をぎゅっと握り返す。
「お母様、今日はとっても楽しかったわ!」
「そう……よかった。」
笑いながら答えるアランの声が、少し震えていた。
切なさと、愛しさと、赦しがないまぜになって胸を満たしていく。
――この子が笑ってくれるのなら、それでいい。
たとえ、この幸福が誰かの痛みの上に成り立っているとしても。
その夜、屋敷に戻ったあとも、アランの手にはあの温もりが残っていた。
まるでリディアの小さな掌が、彼女の心に「生きて」と囁いているようだった。
リディアとアランが寄り添う姿を見るたびに、レギュラスは言葉にならない不思議な感情に包まれた。
リディアが「語学を学びたい」と言えば、アランはすぐに家庭教師を呼んで手配した。
「ダンスは嫌い」と言えば、翌日には講師を辞退させる。
欲しいと言った玩具は迷いなく買い与え、食べたいと呟いた菓子は夜更けまで台所で焼いてやる。
――まるで、リディアの笑顔ひとつが世界の中心であるかのように。
アルタイルの幼い頃も、もちろん愛情を注いではいた。
だが、これほどまでに子どもの希望を最優先にして動くアランの姿は、記憶になかった。
その徹底した“母”としての在り方は、見ているこちらが戸惑うほどだった。
「……無理してませんか?」
夕暮れ時、書斎の窓辺。
レギュラスはそっと尋ねた。
外はうっすらと茜色に染まり、風がカーテンを揺らしている。
アランは紅茶のカップを静かに置き、微笑んだ。
「いいえ。むしろ……久しぶりに“子育て”をしている気分なのです。」
レギュラスは一瞬、返す言葉を失った。
その笑みがあまりにも穏やかで、どこか遠い。
まるで、そこに宿る安らぎが“痛み”の裏返しのように見えてしまった。
「……それならいいんですが。」
レギュラスはそれ以上言葉を重ねなかった。
何を言っても、彼女の心に踏み込みすぎてしまう気がした。
母と娘の仲睦まじい光景は、確かに微笑ましかった。
リディアがアランのスカートの裾を掴んで歩く姿は、まるでかつてのアルタイルを見ているようで、どこか懐かしくもあった。
だが――その幸福な光景が続けば続くほど、胸の奥に小さな棘のような違和感が残った。
レギュラスは、最近アランが自分と過ごす時間を少しずつ削っていることに気づいていた。
昼間、仕事を早めに切り上げて帰宅しても、屋敷は静まり返っている。
アランとリディアは外出中――それが日常になっていた。
戻ってきた頃には、アランの頬にはわずかな疲労の色があり、
夜、レギュラスがベッドに入る頃にはすでに彼女は眠っている。
呼びかけても、うっすらと目を開けて微笑むだけ。
「……お帰りなさい」と、かすれた声で囁き、再び眠りに落ちていく。
それが続くうちに、レギュラスは思った。
――自分は今、彼女の“日常”の外にいるのではないか、と。
もちろん、そんな感情は子どもじみている。
わかっている。
彼女が誰かを愛し、慈しむ姿は本来なら誇るべきものなのだ。
それでも、心のどこかで嫉妬に似た痛みが広がる。
あれほど“自分の手の中”に感じていたアランが、
今は、別の小さな世界――リディアという名の小宇宙の中にいる。
その事実が、どうしようもなく寂しかった。
どう言葉にすれば、彼女を傷つけずに伝えられるのか。
“寂しい”と正直に言ってしまえば、
彼女はきっとまた微笑んで、「ごめんなさい」と言うだけだろう。
レギュラスはその姿を想像して、胸の奥を握り潰されたような痛みに耐えた。
「……僕は、どうすればいいんでしょうね」
誰にも聞こえないように呟いた声が、静かな部屋に吸い込まれていった。
カーテンの向こうでは、リディアの笑い声が庭から聞こえてくる。
その声に混じって、アランの柔らかな笑い声も響いた。
――その音が愛しいほどに、孤独だった。
