4章
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スリザリンの地下室は、夜の静けさに包まれていた。
深い緑の帷幕が風に揺れ、壁に取り付けられた燭台の炎が、
古い石壁に淡く金色の模様を描いている。
アルタイル・ブラックは重い足取りで、
寮監室の扉の前に立っていた。
呼び出しを受けてから、ずっと胸の奥に硬いものが沈んでいる。
規律を破った。
それだけの話――のはずだった。
「入りたまえ。」
低く、冷えた声が響く。
扉を開くと、部屋の奥でセブルス・スネイプが黒衣の裾を翻して立っていた。
机の上には、報告書と羽根ペン、そして光を受けて鈍く輝く銀のインク壺。
「禁じられた森に侵入とは、大胆なことだ。」
声には感情がない。
ただ淡々と、事実だけを突きつける冷ややかさがあった。
アルタイルは俯いたまま、かすれた声で答える。
「……すみません、先生。以後、気をつけます。」
しばしの沈黙。
スネイプは腕を組んだまま、少年の顔を静かに見つめた。
「お前は――父親に似ていないな。」
その一言が、心臓を鋭く貫いた。
レギュラス・ブラック。
誰もが称賛する完全無欠の男。
アルタイルが幼いころから追い続けてきた背中。
その人のようになりたいと願い、
その人のようでなければならないと思い込んできた。
けれど、ハリーやロン、ハーマイオニーと過ごすうちに、
その誓いは知らず知らずのうちに霞んでいった。
禁じられた森に足を踏み入れたのも、
単なる好奇心ではなく――
「自由」を感じてみたかったのかもしれない。
「……そうですか。」
アルタイルの声は震えていた。
自分を恥じるような、かすかな笑いが混ざる。
スネイプはその様子に、わずかに目を細めた。
「グリフィンドールの人間に惹かれるところは――」
彼は言葉を区切り、目を伏せた。
「――母親によく似ている。」
その名を出さなくても、誰のことかは分かる。
アラン・ブラック。
かつてこの城を優秀な成績で卒業した魔女。
アルタイルの心臓が一度大きく鳴った。
「先生……母をご存じなんですか?」
スネイプの表情は変わらない。
「お前の母親は、優秀だった。
だが……少し、危ういところもあった。」
その声には、懐かしさと、わずかな痛みが混ざっていた。
アルタイルは思い切って尋ねる。
「先生は知っていますか? 母と――シリウス・ブラックのこと。」
部屋の空気が、ひやりと冷たく変わる。
ペン先から垂れたインクが、紙の上で黒く広がった。
スネイプの黒い瞳が、鋭くアルタイルを射抜いた。
「何を勘ぐっているのかは知らんが――」
ゆっくりと、言葉を吐く。
「聞きたいことは、直接父親に聞け。」
アルタイルは言葉を失った。
シリウス・ブラックの名を家で口にすることなど許されない。
家系図からその名は消され、
存在そのものが“裏切り”の象徴として封じられている。
父があの名を嫌悪している理由を、
彼は幼いながらも感じ取っていた。
それでも、どうしても確かめたかった。
「……先日、シリウス・ブラックの呪文と、僕の杖が共鳴したんです。」
アルタイルの声は真剣だった。
「彼の杖と僕の杖は――兄弟杖のようです。
そんなことって、普通ありますか?」
静寂。
スネイプは顔を上げずに、机の書類を整えた。
「余計なことを考える暇があるなら、期末試験の対策をしろ。」
冷たくも、どこか逃げるような声音だった。
「主席で成績を残せれば、今回の件は父親への報告はしないでおく。」
アルタイルは息を呑み、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。」
部屋を出た瞬間、背中に貼りついていた重圧が少しだけ緩む。
けれど、胸の中のもやは消えなかった。
父のようであれと言われ続けた人生。
だが――母が愛した人は、父ではなかったのかもしれない。
自分の杖が呼応した、もうひとつの杖。
それが何を意味しているのか、アルタイルはまだ知らない。
ただ、心の奥で微かに確信していた。
――“血は、真実を隠せない”ということを。
窓辺のカーテンが風に揺れ、淡い光が床を撫でていた。
かつては陽だまりのような温もりが満ちていた寝室も、
今はわずかに漂う薬草とアルコールの匂いが支配している。
アラン・ブラックは白いシーツの上で静かに横たわっていた。
長いまつげの影が頬に落ち、
その顔色は蝋細工のように透きとおっている。
アルタイルがホグワーツへ旅立ってから、
屋敷の中の時間はどこか止まったように感じられた。
無理に笑顔をつくる理由も、
薬を服用してまで元気に振る舞う理由も、
もうどこにもなかった。
本当は――ずっと前から兆候はあったのだろう。
胸の奥で鈍く響く痛みも、
手足に広がる倦怠感も、
見て見ぬふりをしてきた。
薬を飲めば痛みは消える。
だから、それで良かった。
そう思い込もうとした。
けれど、その“楽園”のような安らぎは、
やがて深い闇と化して、
彼女の身体を静かに侵食していった。
医務魔女サラがやって来たのは、
アランが食事も喉を通らなくなった頃だった。
診察のあと、彼女は薬瓶を手にして眉をひそめる。
「……量が多すぎます。
これでは仕入れも難しくなりますよ。」
アランは視線を逸らす。
サラの声が遠くで響くように聞こえた。
「別のルートを探してみますが、安定は保証できません。」
「お願いします。」
それだけを言うのが精一杯だった。
ベッドの傍に座るレギュラスは、
アランの細い手を包み込むように握っていた。
白い指が氷のように冷たい。
「レギュラス……少し休めば、回復しますから。」
かすかな声で、微笑もうとする。
けれど彼の灰色の瞳は、
その言葉のすべてを信じてはいなかった。
「ええ。それまで、ここにいます。」
彼の声は穏やかだが、どこか必死でもあった。
長い指が彼女の髪をそっと撫でる。
その仕草の裏にある焦燥と恐れを、
アランは感じ取っていた。
医務魔女に詰め寄る彼の姿を、
扉越しに見たとき――
胸が痛んだ。
「なぜ、ここまで悪化したのか。」
そう問い詰める彼の声が震えていた。
彼は誰かを責めるようでいて、
結局は自分を責めている。
悪いのは誰でもない。
悪いのは――自分の弱さ。
最初はほんの少しのつもりだった。
息をするだけで痛む身体を楽にするため。
けれど、いつのまにか薬は心をも蝕み、
それがなければ立ち上がれないほどになっていた。
レギュラスが見せる優しさが、
今は痛いほど眩しかった。
彼の信じる「回復」という言葉が、
どこまでも遠く感じられる。
――アルタイルがいない。
そのことが、どれほど静かに自分を崩しているのか、
アランはようやく理解した。
息をするたび、胸の奥が軋む。
それでも、彼の手を握り返す。
「ありがとう、レギュラス。」
微笑もうとして、
唇の端が震えた。
それは、どこまでも儚い“生”の温度だった。
夜が幾度も更けていった。
レギュラスは寝台の端に腰を下ろし、
冷たくなった湿布を替えながら、
アランの背を黙ってさすっていた。
灯りを落とした部屋には、
微かな吐息と、薬草の匂いだけが漂う。
彼女の背中は細く、軽かった。
手のひらの下から、骨ばった感触が伝わるたびに、
胸の奥が締めつけられる。
何日も、ほとんど眠っていない。
夜明け前の沈黙が、
まるで彼女の体調そのもののように脆く、不安定だった。
やがて、どうしようもない睡魔が襲う。
アランの体をそっと抱きしめるように支えたまま、
レギュラスは瞼を閉じた。
彼女の呼吸のリズムに合わせて、
ゆるやかに自分の心拍が重なっていく。
いつのまにか眠りに落ちていた。
ふと気づくと、朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
アランが上体を少しだけ起こし、
枕元の本を静かに読んでいた。
その手はまだ細く、
指先には力が入りきっていない。
「アラン……もう、きつくないんですか?」
レギュラスは慌てて姿勢を起こした。
アランはゆるやかに微笑む。
「まだ完全ではありませんけれど……
少し、回復した気がします。」
その声はかすれていて、
それでも久しぶりに聞く穏やかな響きだった。
レギュラスは言葉もなく、
彼女を強く抱き寄せた。
その肩が、自分の腕の中でかすかに震える。
「心配しました。」
声が掠れていた。
「ごめんなさい。心配をかけましたね。」
アランは彼の胸に顔をうずめ、
静かに息を吐いた。
彼女の髪からは、薄い薬草と香水の匂いがした。
その香りが懐かしく、そして切なかった。
――ほんの一瞬、
レギュラスは心の奥に淡い願いを抱いた。
もし、もう一度だけ。
彼女が自分と血のつながる子を産んでくれるなら――と。
それはあまりに愚かで、
あまりに身勝手な望みだとわかっていた。
この数日の、命を削るような彼女の姿を思えば、
そんなことは望むべきではない。
命を代償にするほどの奇跡を、
自分の欲のために願うことなど、
決して許されはしない。
彼女の命があること。
それだけでいい。
血のつながりなど、
愛の深さの前では意味を成さない。
彼はそう思いながら、
アランの髪をそっと撫でた。
「無理をしないでください。
もう、あなたが苦しむ姿は見たくない。」
アランは何も言わず、
その腕の中で目を閉じた。
まるで、短い夢の続きを
そっと抱きしめているかのように。
外では、春を告げる鳥の声がかすかに響いていた。
けれどその小さな希望の音が、
どこか儚く遠く感じられた。
夜の帳が屋敷を包み込むころ、寝室は深い静寂に満たされていた。
暖炉の炎が小さく揺れ、薄闇の中に二人の影を寄り添わせて映している。
レギュラスは、長く続いた不安を埋めるように、
アランをそっと抱き寄せた。
何日も続いた熱と痛み、その傍らで見た彼女の弱った姿が、
まだ脳裏に焼きついて離れない。
彼の指先は、慎重に彼女の髪を撫で、
背を、腕を、そっと確かめるように触れていく。
決して力を込めすぎない。
触れることが痛みに変わらないよう、
ひとつひとつの動作に、限りない気遣いを込めた。
彼女を求めるというより――
彼女がここにいるという事実を確かめたかった。
アランの体温が、指先にゆるやかに滲む。
その温もりだけで、数日の眠れぬ夜が報われていくような気がした。
「……私、まだ産めるんでしょうか。」
静かな問いだった。
まるで、心の奥底を覗かれたように、
レギュラスの手がそっと止まる。
炎の音だけが部屋に残る。
「いや……それは、もういいんです。」
レギュラスは首を振った。
アランは、淡く笑った。
「でも、あなたは望んでいたわ。」
「確かに――望みました。けれど……もう、いいんです。」
その声は低く、穏やかで、どこか切なさを含んでいた。
レギュラスの胸の奥には、
確かに願いがあった。
“真に自分と血を分けた子を、アランが産んでくれたら――”
そんな夢を抱いたことは、否定できない。
しかし、それはあくまで、
彼女が笑顔で過ごせていた日々に浮かんだ
一瞬の希望にすぎなかった。
今、目の前のアランの姿を見るたびに、
その希望は痛みに変わっていく。
アルタイルの誕生の夜を思い出す。
血に染まった寝台、
握り締めた彼女の手の冷たさ、
あの瞬間、世界の終わりを見た気がした。
彼女を失いかけた恐怖が、
今でも脊髄を伝って甦る。
あんな揺らぎを、二度と味わいたくない。
だから今は、違う。
この行為は、子を成すためのものではない。
名誉のためでも、家のためでもない。
ただ――愛しているから。
それだけの理由で、
彼はアランを抱き寄せた。
互いの体温が触れ合うたび、
生きていることの確かさが胸を満たしていく。
アランはその腕の中で、
穏やかに微笑んだ。
それは痛みを忘れた一瞬の奇跡のようで、
レギュラスは思わず息を呑む。
彼女の髪を撫で、
耳元に顔を寄せ、
かすれた声で囁く。
「あなたがここにいる――
それだけで、十分なんです。」
アランは目を閉じて、
その言葉を胸の奥でそっと抱きしめた。
炎の揺らめきが、
二人の影をひとつに溶かしていく。
夜が静かに更けていく。
愛の形が、痛みとともに、
ひとつの祈りへと変わっていった。
夜の帳が降り、外では風が木々の枝をそっと揺らしていた。
屋敷の中は静まり返り、暖炉の炎の柔らかな明かりだけが、
寝室を淡く照らしている。
アランはその光に照らされていた。
シーツの上、月光を帯びた肌が淡く輝く。
レギュラスは、まるでその姿に祈るような眼差しを向けた。
彼の手は、壊れものを扱うように慎重だった。
指先が触れるたびに、その温度を確かめるように、
恐る恐る、静かに、彼女の輪郭をなぞっていく。
触れれば壊れてしまうとでも思っているかのように。
その手が僅かに震えていることに、アランは気づいていた。
痛みがないか、確かめるように何度も見つめてくる彼の灰色の瞳。
少しでも息が乱れると、
レギュラスの動きはすぐに止まる。
「……大丈夫です。」
その一言が、まるで呪文のように、
彼の緊張をほぐしていく。
レギュラスは彼女の手を握り、
その細い指に自分の体温を移すように力を込めた。
彼は自分の欲望をすべて抑え、
ただ優しさだけでアランを包んでいた。
まるで、彼女の命を守ることそのものが、
今の彼にとって最も神聖な行為であるかのように。
――愛されているのだ。
アランはそのことを、
肌の一つひとつの感覚で悟っていた。
彼の息遣い、触れるたびの指先、
どれもが優しく、ひたすらに慈しみに満ちている。
レギュラスの言葉を思い出す。
もう一人、子を――そう望んでいた彼の声。
もし、この体がまだ彼の願いを叶えられるのなら。
もし、それが彼の幸福のすべてであるなら。
叶えられる限り、
与えられるものはすべて差し出してやりたいと思った。
けれど今は、不思議なほどに心が穏やかだった。
かつて胸を焼いたような、シリウスへの想い――
その熱は、いまこの夜には微塵も沸いてこない。
燃えるような情熱の代わりに、
胸に広がるのは静かな温もりだった。
長い年月をかけて少しずつ積み重なってきた、
感謝と信頼、そして確かな愛情。
レギュラスは、アルタイルを守ってくれた。
セシール家を守り、自分の命をも守り抜いてくれた。
そのすべてを思うたびに、
アランの胸には静かな涙が溢れそうになった。
こんなにも長く、
一人の人を変わらずに愛し続けられるものなのだろうか。
その愛は、燃え上がる情熱ではなく、
春を迎える雪解けのように、
穏やかで、深く、心の奥に根を張っていた。
シリウス以外を愛するということを知らなかった。
だからこそ、報いるように、贖うように、
レギュラスのそばに居続けた年月だった。
けれど今――
アランは静かに悟っていた。
この胸にあるのは、罪悪感でも義務でもない。
確かに彼を愛しているのだ、と。
彼の瞳が見つめ返してくる。
その中に映る自分の姿が、
あまりにも優しく、涙が出そうだった。
レギュラスの唇が、そっと彼女の頬に触れた。
まるで感謝の祈りのように。
その夜、二人を包んでいたのは、
熱でも欲でもなく、
静かに燃える永遠のような愛だった。
魔法省・杖管理部。
無数の棚が迷路のように続き、古い羊皮紙の匂いが鼻をくすぐる。
薄暗いランプの灯が金属の机を鈍く照らし出す中で、
シリウス・ブラックは身を屈め、慎重に記録簿を繰っていた。
指先が、一枚の羊皮紙の上で止まる。
――アルタイル・ブラック。
登録内容を目で追った瞬間、息が詰まる。
「杖木:黒壇。芯:不死鳥の尾羽。長さ:十一インチ。」
記録されたその文字が、まるで呪いのように目に焼きつく。
彼自身が使う杖と、寸分違わぬ仕様だった。
芯も、長さも、木目の色も。
完璧に同じ。
そんなことが、果たしてあり得るだろうか。
兄弟杖――それは理論上あり得ても、
現実にここまで一致することなど、ほとんど奇跡だ。
まさか。
まさかそんなはずは――。
シリウスは首を振る。
しかし胸の奥では、
その“まさか”を否定しきれないざわめきが広がっていく。
アラン。
彼女の名を心の中で呼んだ瞬間、
忘れかけていた痛みが胸の奥を貫いた。
ホグワーツを卒業したばかりの頃、
彼女をブラック家の屋敷から連れ出した。
二人きりで過ごした、短いが熱のこもった数ヶ月。
若く、愚かで、そして真剣だった。
夜を越えるたびに、
互いを求めずにはいられなかった。
それがどんな結果を招くかなど、
考えたこともなかった。
だが、幸福は長く続かなかった。
ある日突然、彼女の母リシェル・セシールが罪を暴かれ、
王宮へと召喚されたのだ。
アランは迷いながらも母を救うために屋敷へ戻った。
――そして二度と、シリウスの元には戻らなかった。
リシェル・セシールが晒し者にされ、やがて処刑されたと聞いたとき、
彼はようやく悟った。
あれは偶然などではなかったのだと。
ブラック家の権力を総動員し、
レギュラスが裏から糸を引いていたのだ。
アランを取り戻すために。
その後、アランの父ロイク・セシール、
そして一族の多くが要職につき、
セシール家はかつてない繁栄を遂げた。
あれは報酬であり、鎖だった。
アランを、完全にブラック家に繋ぎ止めるための。
シリウスは震える手で羊皮紙を握りしめた。
視界の端で、文字が揺らいで見える。
アルタイル・ブラック――。
あの子の年齢を思い出す。
彼女が戻った時期を重ね合わせる。
答えは、残酷なほど整然と辻褄が合っていた。
「……いや、違う。違うはずだ。」
呟いても、声は弱く、
すぐに記録室の冷たい空気に呑まれていく。
あの瞳。
灰色がかった、あの優しい光。
アランが微笑んだときと、
あの子が笑ったとき――重なって見えた。
彼は両手で頭を抱え、
深く息を吐いた。
“あの子が、自分の子だったら。”
思考がその一点に触れた瞬間、
胸の奥で、長年凍っていた感情が音を立てて崩れた。
愛しさ。
嫉妬。
そして、どうしようもない悔しさ。
レギュラス。
お前は、俺からすべてを奪った。
記録簿の上に落ちるシリウスの影が揺れる。
ランプの灯が細く震え、
彼の横顔を照らし出した。
その瞳の奥には、
失われたものを追い求める男の痛みが宿っていた。
魔法省の長い回廊は、昼下がりの淡い光を飲み込みながら、静かに沈黙していた。
磨き上げられた黒曜石の床に、レギュラス・ブラックのブーツが淡く反射する。
その足音の奥から、聞き慣れた軽薄な声が響いた。
「やあやあ、随分と久しぶりだな。先日の夫婦での対談の記事を読ませてもらったよ」
振り向くより早く、その男の笑い声が空気を割る。
「本当に熱々のご夫婦で――羨ましい限りだ」
ジェームズ・ポッター。
この男の声を聞くだけで、レギュラスは無意識に舌を打ちそうになる。
会釈だけを残して通り過ぎようとしたが、足音がしつこく背中を追ってきた。
「君に一つ、お願いがあってね」
言いながら、ジェームズはあえて早足でレギュラスの前に出た。
金縁の眼鏡の奥、光を孕んだ瞳が何かを測るようにこちらを覗く。
「なんです?」とレギュラス。
声は低く、冷たい。
ジェームズは微笑みを崩さずに言った。
「君の息子――アルタイル・ブラック。彼は“真実”を知っているのかい?」
その瞬間、レギュラスの眉間がわずかに寄った。
胸の奥を掠めるような冷たい感覚。
わざとらしい言葉の裏に潜む棘を、彼は即座に感じ取った。
相変わらず、癪に障る男だ。
「……なんのことでしょう」
「君の息子の杖だよ」
ジェームズの声は軽い。しかしその眼差しは笑っていなかった。
「うちの親友と全く同じなんだ。不死鳥の尾羽を芯にした黒壇の杖、十一インチ。
兄弟杖なんて生やさしいもんじゃない。――完全に一致してる」
レギュラスは呼吸をゆっくり整えた。
まるで、血の気がひいていくような感覚。
どこでその事実を掴んだのかはわからない。
だが、鋭すぎる指摘だった。
ジェームズはわざとらしく肩をすくめる。
「別にね、真実を暴こうってわけじゃない。むしろ――隠し通してくれと言いに来たんだ」
レギュラスは黙ってその男を見た。
その灰色の瞳には冷徹な光が宿る。
ジェームズの唇には笑みが浮かんでいたが、瞳の奥は氷のように冷たい。
“見定めている”――そう感じた。
「知っての通り、僕の親友はいまだにアラン・セシール……いや、失礼、アラン・ブラックに執心してる。
もしこの事実を知ったら、きっとまた昔みたいに暴走する。真実をねじ曲げてでも、自分の都合のいい幻想を作るだろう」
レギュラスは沈黙のまま、拳を握り締めた。
――“まだ、あの女を忘れていないのか。”
予想していたこととはいえ、
この男の口から聞かされる現実は、思いのほか鋭く胸に突き刺さった。
「もう二度と、叶いもしない女に囚われてほしくないんだ。
だから頼む、レギュラス。あの子のことは――黙っていてくれ。」
レギュラスは低く息を吐いた。
そして、冷ややかに言葉を返す。
「ご忠告をどうも、ポッターさん。
誤解がないようにお伝えしますが――アルタイル・ブラックは、紛れもなく僕の息子です。
余計な憶測はお控えください。」
言い終えると、マントの裾を翻して歩き出した。
背後に残るジェームズの視線が、冷たい針のように背中を突き刺してくる。
廊下の先、魔法省の壁に飾られた金色の燭台が淡く揺れていた。
歩くたびに靴音が反響し、
その一歩一歩がまるで自らの決意を刻むように響いていく。
杖――。
アルタイルがオリバンダーの店で選んだあの瞬間。
不死鳥の尾羽、十一インチ、黒壇。
それがシリウスの杖と同じだと知ったとき、
レギュラスはまるで運命に嘲られたような気分になった。
“血の繋がりを拒もうとしても、杖は真実を知っている。”
それが、呪いのように胸の奥に居座って離れなかった。
魔法省の回廊を、レギュラス・ブラックの背中が静かに遠ざかっていく。
その歩みには一分の隙もなく、黒いローブの裾が流れるように揺れていた。
ジェームズ・ポッターは、その姿を無言で見送っていた。
――あの男が動揺した。
アルタイル・ブラックの名を口にした瞬間、
冷徹な男の眉間にわずかに刻まれた皺、
感情を抑え込みきれずに歪んだ彫刻のような顔。
それだけで、すべてを悟った。
アルタイルは――シリウスの子だ。
もはや確信だった。
杖の一致だけでは、判断材料としては不十分だ。
ジェームズはその後、密かに独自の調査を進めた。
魔法省・戸籍部の裏帳簿にアクセスし、
“アルタイル・ブラック”という名で登録された出生記録を取り寄せる。
母:アラン・セシール(現ブラック)
父:レギュラス・ブラック――そう記されてはいたが、
記録の奥に残る血液魔法の符号が違っていた。
魔力波形、呪文反応率、魔法特性――どれを取っても、
レギュラスのものではなかった。
アルタイルの血液データに含まれていた魔力素因は、
“不死鳥反応素”と呼ばれる稀少な遺伝要素を示していた。
それはかつて、シリウス・ブラックの魔力測定値にのみ記録された特徴だ。
さらに――
アルタイルの魔力核は、純粋な闇属性を含みながらも、
表層には明確な「光魔素」の揺らぎを持っていた。
闇と光――矛盾する二つの属性を併せ持つ例は、
シリウス・ブラック以外に確認されていない。
これほどの一致を偶然で片付けるなど、もはや滑稽だ。
魔法遺伝子検査をかければ決定的な結果が出る。
だが、ジェームズはそこまで踏み込まなかった。
――踏み込んではいけないと思った。
この真実を知っても、誰も幸せにはならない。
シリウスにだけは、知られてはならない。
あいつは、彼女を知ればまた心を燃やす。
十年以上をかけてようやく鎮めた想いが、
再び炎のように燃え上がり、
判断力を奪い、理性を狂わせるだろう。
そして――その炎に焼かれるのは、
結局のところ、彼自身だ。
アラン・セシール。
あの女は、どこまで親友を縛り続けるつもりなのだ。
一度はシリウスを救いながら、
最終的に彼を誰よりも苦しめた女。
あの冷たい美しさ、凛とした佇まい、
そして決して誰のものにもならないような孤高さ。
その全てが、男たちの理性を狂わせる。
ジェームズの胸に、言いようのない怒りが湧き上がった。
――まるで、あの昔の事件のようだ。
英国王朝を崩壊させた“リシェル・ブラウン”。
妃を差し置いて王の愛を奪い取った魔女。
その娘が、再びこの国で男を惑わせている。
「……血は、罪まで継ぐのか。」
呟いた声が、静かな廊下に溶けていく。
ジェームズは目を閉じ、
胸の奥に燻る感情を押し殺した。
レギュラス・ブラック――あの男の冷たい背中が遠ざかっていく光景が、
しばらく網膜に焼き付いて離れなかった。
冬の名残をまだ残すホグワーツの朝。
石造りの校舎の尖塔に白い光が差し込み、霜がきらきらと溶けていく。
掲示板には学期末試験の結果が張り出され、ざわめきと歓声が混じり合っていた。
その中で、アルタイル・ブラックの名はすべての教科で最上位に刻まれていた。
スリザリンの生徒たちは誇らしげに頷き、
教師たちでさえも彼の答案に目を見張ったという。
「さすがだね、君は。」
真っ先に声をかけてきたのはハリーだった。
その横で、ロンが半ば呆れたように笑う。
「俺たちとあれだけ遊んでたのにこの成績かよ。なんなんだよ、お前。」
アルタイルは苦笑いを浮かべた。
「父の顔に、家の名に泥を塗るわけにはいかないんです。」
そう言いながらも、胸の奥では別の感情が渦を巻いていた。
ハリーと過ごす時間は、眩しかった。
彼が見せてくれる“自由”という世界――
それはアルタイルにとって、息をするように自然で、それでいて手の届かないものだった。
スリザリンの冷ややかな空気の中に戻るたび、
自分ひとりが異なる場所に立っているような孤独を感じた。
春風が城を抜ける頃、
ホグワーツでは新しいクィディッチ・シーズンが始まっていた。
ハリー・ポッターは史上最年少でグリフィンドールのシーカーに選ばれ、
グラウンドの上を矢のように駆け抜けていた。
金色のスニッチを追うその姿は、まるで光そのものだった。
観客席から見上げるアルタイルは、
その自由な飛翔に目を奪われ、胸を締めつけられるような思いで見つめていた。
――あれが、自由というものなのだ。
スリザリンの石壁の中では、
常に“血統”と“誇り”が縛りの鎖のように響いている。
だが、ハリーが空を駆ける姿には、
どんな血も、どんな家名も、何一つ絡みついていなかった。
「君の父さんもシーカーだったんだろ?」とロンが尋ねた。
アルタイルは一瞬言葉を探し、それから静かに答える。
「そうみたいですが……父が箒に乗っているのを見たことはないんです。」
――レギュラス・ブラック。
彼の中で、父は常に地上の人間だった。
決して空を見上げない、重く、揺るぎない存在。
父や母の学生時代の話を聞いたこともほとんどない。
問えば教えてくれるのかもしれない。
けれど、なぜだか話題にすることさえためらわれる。
そこに触れてはいけない何かがある気がして。
それでもアルタイルの胸の奥には、
どうしようもなく知りたいという衝動があった。
――母とシリウス・ブラック。
あの二人が、この同じ城でどんなふうに過ごしていたのか。
どんな言葉を交わし、どんな時間を分け合っていたのか。
空に浮かぶハリーの姿を追いながら、
アルタイルはその答えを求めるように、
どこまでも青く広がる空を見つめていた。
それは、彼の知らない「過去」への渇望であり、
同時に――「自由」という名の未来への憧れでもあった。
暖かな春の風が屋敷のカーテンを揺らしていた。
庭に咲く花々が陽光を浴び、薄く開いた窓からその香りが漂い込む。
ホグワーツから戻ったアルタイルを、レギュラスは玄関先で出迎えた。
黒いローブの裾を揺らしながら歩み寄る息子の姿を見た瞬間、
胸の奥に溜まっていた緊張がふっとほどけた。
「お帰り、アルタイル。」
声は穏やかでありながら、どこか滲むような優しさを含んでいた。
勉学で優秀な成績を収めたと校長から直接報告を受けていたこともあり、
その誇らしさは言葉にできぬほどだった。
「アルタイル、こちらへいらっしゃい。」
アランの呼ぶ声に、少年はすぐに母のもとへ歩み寄った。
その腕の中に抱きしめられた瞬間、
アランはしばらく何も言えずにいた。
ただ、息子の背に両手を回し、胸の奥で何度もその温もりを確かめるように。
――この手の中に、もう一度この子が帰ってきた。
それだけで世界が優しく見える。
「父さんは、どの教科が得意だったんです?」
夕食のあと、食後の紅茶を囲んでアルタイルがそう尋ねた。
レギュラスは一瞬、思案するように視線を落とす。
「僕は今のところ魔法薬学以外は苦手意識はないです。」
「魔法薬学は苦手ですか?」とレギュラスは軽く笑う。
「スネイプ先輩が教鞭を取っていたはずですが。」
彼は懐かしげに目を細めた。
危険物管理局の仕事でスネイプと何度か関わったことがある。
無駄を省いた冷静な説明――彼の言葉には常に明確な筋が通っていた。
自分に似た論理性を感じ、苦手意識どころか好感を抱いている人物だった。
「得意……ですか。」
言葉を繰り返しながら、レギュラスは遠い昔を思い出す。
ホグワーツでの学生時代、
あらゆる教科で首席を争うことが当然で、
“得意・不得意”という感覚を持つ暇もなかった。
「強いて言えば、スラグホーン先生の出す特別課題が好きでしたね。」
アランはそっと笑う。
「ええ、いつも教授の開く“優秀な生徒の晩餐会”にお父様は招かれていたのよ。」
「では僕も、そのパーティに呼ばれなければ父さんに顔向けできませんね。」
アルタイルの声には、照れと決意が入り混じっていた。
アランは目を細め、レギュラスは息子の言葉に静かに微笑んだ。
その瞬間、
ランプの柔らかな光が三人を包み込み、
時間が一瞬止まったように感じられた。
――この光景を、永遠に閉じ込めておけたら。
そう思ったのは、きっと三人とも同じだった。
レギュラスは杯を手に取り、静かに紅茶を口に含む。
アールグレイの香りの奥で、
家族という名の穏やかな幸福が、確かに息づいていた。
柔らかな午後の光が、屋敷の広間に射し込んでいた。
白いカーテンが風に揺れ、陽の粒が床の上でゆらゆらと踊っている。
アランはその穏やかな光の中で、戻ってきたアルタイルを抱きしめていた。
両腕に伝わる息子の体温が、久しく忘れていた安心を思い出させる。
その背を撫でながら、アランはゆっくりと瞳を閉じた。
――この子はもう、あのホグワーツで自分の足で歩いている。
遠く離れた学舎の中で、レギュラスの面影を探しながら、
それに追いつこうと懸命に努力しているのだと思うと、胸の奥が熱くなる。
「アルタイル、お父様に似て……本当に優秀なのね。誇らしいわ。」
言葉を紡ぐ声は、震えを隠しきれなかった。
アルタイルが差し出した成績表には、全教科に並ぶ「優」の文字。
その整った筆致を見つめながら、アランは微笑む。
レギュラスの息子――そう呼ばれるにふさわしい完璧な成績。
誇らしさと、そして痛みが胸の内でせめぎ合った。
ほんとうの父は、別の人。
それを知る自分が、この子に向ける「誇り」という言葉ほど、
残酷なものはないのかもしれない。
アルタイルは嬉しそうに笑いながら、
「父のように努力すれば、きっと僕も誰かを守れるようになりますよね」と言った。
その瞳は澄んでいて、まっすぐだった。
純粋に父を尊敬し、家の名に恥じぬようあろうとするその姿が、
アランにはあまりに眩しかった。
――この子は、レギュラスの姿を追いながらも、
無意識のうちにもう一人の影を追っている。
ホグワーツ。
あの城には、彼の“もう一人の父”の記憶が残っている。
グリフィンドールの談話室にも、
クィディッチの観覧席にも、
風に笑う声の残響が――シリウスの存在が。
もし、あの子がそこに触れてしまったなら。
もし、誰かが何気なく口にした一言からすべてを悟ってしまったなら。
その想像だけで、アランの胸は締めつけられるように痛んだ。
燃えるように愛した人――シリウス・ブラック。
彼の名を心の中で呼ぶたび、
もう決して戻らない時間の欠片が、
痛みをともなって蘇る。
「……お父様に似ているわね。」
アランはそっと呟いた。
その言葉に宿る意味を、誰も知らない。
偽りの言葉を真実のように口にすることでしか、
守れないものがある――そう信じた。
アルタイルは無邪気に笑い、
「そうかな、僕も父さんみたいに立派になれるかな」と言った。
アランは微笑んでうなずいた。
その笑みは、あまりにも優しく、あまりにも哀しかった。
胸の奥で、
“真実”が静かに沈んでいく音がした。
まるで湖の底に石を落としたように――
静かに、深く、戻らないほどに。
休暇の間、ハリーはシリウスと過ごす時間が自然と増えていた。
郊外の石造りの屋敷――かつてのブラック家の重苦しい屋敷とは異なり、
この家には柔らかな陽が差し込み、庭先には葡萄の蔦が絡まるアーチがあった。
シリウスが自らの手で建て直した、自由の象徴のような家だ。
木漏れ日が差す中、
シリウスは磨き上げられた黒檀の箒を誇らしげに掲げていた。
「どうだ、ハリー。すごいだろ?」
少年のような笑みを浮かべながら、
最高級モデルの箒――新型〈ファイアフライ・スプリント〉を手渡してくる。
「シーカー抜擢祝いだ。お前の飛びっぷりなら、きっと歴史に残るプレーができる。」
「……最高だよ。ありがとう、シリウス。」
ハリーは箒を抱きしめながら、胸の奥が温かく満たされていくのを感じた。
シリウスが見せるこうした愛情は、
いつだって父ジェームズに向けられていたものと同じ温度を持っている。
けれど――どこかで思う。
本当に、彼がこうして愛情を注ぐべき相手は、自分なのだろうか。
彼の笑顔の奥に、ずっと別の誰かの影が潜んでいる気がしてならなかった。
ハリーは、ふとそんな思いを確かめたくなっていた。
アルタイル・ブラック――あの少年のこと。
シリウスと彼を結びつける決定的な何かを、
そしてかつての「アラン・セシール」との関係を。
どうしても、知りたかった。
夕方、二人で屋敷のテラスに腰掛けていた。
空は茜に染まり、遠くの森を包むように夕靄が漂っていた。
カップに注がれた紅茶の湯気が揺れ、
木の机の上で淡く香る。
「なぁ、シリウス。前から聞こうと思ってたんだけど――」
「なんだ?」
「その……昔、ホグワーツでさ。『アラン・セシール』っていう人、知ってた?」
ほんの一瞬、シリウスの手が止まった。
カップの中で光が揺れ、沈黙が流れる。
けれど次の瞬間には、いつものように笑っていた。
「おお、そうか。そりゃあるかもな。なんだ、どうしてそんな名前を?」
「図書室で、彼女の論文を読んだんだ。魔法遺伝学の……とても綺麗な字だった。」
「ははっ、学者肌の子だったからな。」
ハリーは目を細めて彼を見た。
その笑顔は確かに自然だ。
けれど、ほんのわずか――ほんの一瞬、
瞳の奥がどこか懐かしむように揺れたのを、ハリーは見逃さなかった。
「どんな人だったの?」
「おいおい……なーに探ろうとしてやがる?」
シリウスはくしゃくしゃと笑いながら、
ハリーの髪をぐしゃぐしゃに撫でた。
いつものように明るく、からかうような調子。
けれどその笑いの奥には、
触れられたくない何かを隠す影が確かにあった。
夜になり、ハリーは部屋に戻っても、
シリウスの笑顔が頭から離れなかった。
――やっぱり、あの人は何かを知っている。
アラン・セシールという名を聞いた瞬間の、
あの“間”が、すべてを物語っていた。
彼が笑って誤魔化したのは、
忘れていないからだ。
ランプの灯りの下、ハリーは静かに息を吐いた。
箒の箱のリボンをほどき、指で撫でる。
その温もりのような贈り物の裏に、
誰かへの償いにも似た祈りが込められている気がしてならなかった。
――シリウスの愛情は、いったい誰のためにあるのだろう。
その問いだけが、
夜風の中で静かに揺れていた。
屋敷の食堂には、アルタイルの朗らかな声と、
アランの笑い声がゆるやかに溶け合っていた。
夕暮れに沈む陽が、長いカーテンの隙間から差し込み、
食卓の上の銀器を淡く光らせている。
レギュラスは、椅子に腰を下ろしながらその光景を眺めていた。
アランが上機嫌であることが、ただそれだけで胸を満たす。
病に伏していたあの頃の彼女を思えば、
こうして穏やかに笑っていられる日が戻ったことが、
どれほどの奇跡であろうか。
息子の話を聞くアランの表情は、まるで春の陽だまりのようだった。
「それでね、母さん。寮では上級生が僕に薬草学の指導をしてくれて……」
アルタイルが語るたび、アランはうなずきながら笑い、
時折その手をそっと握る。
レギュラスはその様子を、少し離れた場所から静かに見ていた。
愛おしい。
だが、同時に胸の奥で小さな嫉妬が疼く。
母と息子の世界に、自分が入り込む隙がないほどに、
二人の間に流れる空気がやわらかで、完結していた。
「アルタイル、そろそろお開きにしませんか?」
レギュラスが穏やかに声をかける。
アランは振り返り、微笑んだ。
「ええ。」
アルタイルもその笑みを受けて、同じように笑った。
「すみません、父さんの時間を邪魔してしまいました。」
その一言に、レギュラスは思わず吹き出しそうになる。
どこでそんな気の利いた言葉を覚えたのか。
きっとホグワーツで、多くの人々と交わるうちに身につけたものだろう。
礼節の中に、他人を思いやる優しさが垣間見える。
アルタイルが自室へと引き上げ、
広間に二人きりの静けさが戻った。
灯りの炎が揺れ、アランの髪に金の縁を描く。
「怒りました?」
レギュラスが肩越しに問う。
「いいえ。あなたの時間を邪魔してしまったもの。」
アランが、先ほどの息子の言葉をそのまま返す。
レギュラスは堪えきれず笑い出した。
「もう……そんな言い方、やめてくださいよ。」
笑いながら、彼はそっとアランを後ろから抱き寄せた。
その体温が背中越しに伝わる。
香るのはアランの髪に残る紅茶と石鹸の匂い。
小さく息を吐く彼女の肩が、ゆるやかに上下するたび、
その静かな夜に、幸福という名の波が寄せては返していく。
――彼女が、今こうして笑ってくれている。
それだけでいい。
息子と過ごす時間を奪ってしまったようで心苦しかったが、
この穏やかな横顔を、自分の腕の中で確かめられることの方が、
何よりも代えがたかった。
レギュラスはそっと、アランの耳元で囁く。
「……ありがとう。今日の君は、本当に綺麗です」
アランはその言葉に、小さく息を呑んだ。
そして、振り返らずに答えた。
「あなたがそう言ってくれるなら、それで十分です」
炎がまた一度揺れた。
夜は静かに更けていく。
愛と安堵が入り混じるその静寂の中で、
二人は、かつてないほど穏やかな幸福に包まれていた。
ロンドンの魔法省の裏手にある石畳の路地を抜け、
ジェームズ・ポッターは薄闇の中で黒い外套の襟を立てて歩いていた。
隣を歩くリーマス・ルーピンが小声で呟く。
「本当に、またあの女を追うのか?」
「他に手がかりがないんだ。
あの家の中に、何かがある。間違いなく――。」
ジェームズの声は低く、焦りがにじんでいた。
レギュラス・ブラックの家、そしてその妻、アラン・ブラック。
彼女を探るたびに、何かに導かれるようにして“見えない真実”の輪郭が浮かび上がってくる。
だが、それは同時に、彼の親友を再び傷つけることになるかもしれないという直感もあった。
「ブラック家専属の医務魔女が、闇市で取引をしていたらしい。」
リーマスの言葉に、ジェームズは目を細めた。
「何を仕入れていた?」
「違法魔法薬だ。金額も桁外れだった。」
空気がひやりと張り詰める。
違法魔法薬――それは、魔法省が厳しく取り締まる類のもので、
一度使用すれば強烈な依存と副作用に蝕まれる。
医師の認可なしに扱うことは、即座に犯罪として裁かれるほどの代物だ。
「……ブラック家の誰が使ってる?」
「まだ分からない。」
リーマスは首を振る。
だがその答えの裏に潜む可能性は、二人とも察していた。
ジェームズは短く息を吐いた。
「……やはり、アラン・ブラックを追うしかないな。」
夜が深まる。
再び魔法盗聴具を起動させる。
数ヶ月前、彼がアランのドレスの裾に仕込んだ小さな魔法具。
普段は沈黙しているが、今夜は何かが聞こえる気がした。
「どうせまた優雅に酒でも飲んでるさ。」
リーマスが皮肉を混ぜて言う。
ジェームズは口の端を歪めた。
「ヤクでもやっててくれたら、その線で魔法法廷に引きずり込めるんだがな。」
軽口に似た言葉の裏には、必死な焦燥が隠れていた。
彼は知りたかった。
あの家の闇を、アラン・ブラックという女の正体を。
しかし――次に聞こえてきた音は、
二人の想像をはるかに超えていた。
布の擦れる音。
微かな息遣い。
そして、ベッドが軋む音。
女性の吐息が途切れ、甘い声が夜気を震わせる。
「……アラン……」
男の低い声が、それに重なる。
レギュラス・ブラックの声だった。
瞬間、リーマスの顔が蒼白になる。
「やめだ、やめだ! 人の寝室を盗み聞きする趣味はない!」
彼は杖を一閃させ、魔法盗聴具の音を断ち切った。
途端に部屋の空気が重たく沈む。
ジェームズは額に手を当てたまま、何も言えなかった。
喉の奥に、何か熱いものがこみ上げてくる。
――これが、現実か。
アラン・ブラック。
かつて親友が愛し、今もなお忘れられずにいる女。
その女が、レギュラス・ブラックと。
ジェームズは、重く息を吐いた。
怒りでも嫉妬でもない。
ただ、胸を締め付けるような切なさだった。
「……なぜ、こうも空回りばかりなんだろうな。」
声が震えた。
何かを掴んだようで、何も掴めていない。
真実に手を伸ばすたびに、親友の過去の痛みだけを掘り起こしてしまう。
リーマスは黙って彼の肩に手を置いた。
「ジェームズ。……これ以上は、やめておこう。」
ジェームズは頷かなかった。
ただ、空を見上げた。
夜の帳が落ちたロンドンの空に、
細く光る三日月が浮かんでいる。
あの冷たい光の向こうに、
いくつもの嘘と秘密が絡まり合っているような気がした。
灰色の大理石で囲まれた魔法法廷の間は、
朝の光が差し込まぬよう厚い帷が閉ざされていた。
壁に刻まれた古代ルーンが鈍く光を放ち、
天井の高みでは無数の燭台が浮遊し、
冷たくも荘厳な光が、静寂の中を漂っている。
その中央――黒衣を纏ったレギュラス・ブラックが立っていた。
彼は完璧な所作で礼を取り、
まるで舞台の幕開けを知っているかのように、微笑んだ。
机上には、分厚い証拠書類が山のように積まれている。
提出されたのは先日立件された「マグル粛清事件」の証拠。
事件の概要はこうだ。
ロンドン北部のマグル居住区で、
夜間に多数のマグルが不可解な死を遂げた。
現場には黒焦げた痕跡と、呪文による破壊の痕が残されており、
生存者の証言では、
「闇の印」が一瞬だけ夜空に浮かんだという。
被疑者として逮捕されたのは、
混血の魔法使いエドマンド・カーター。
古びたローブを纏った冴えない青年だった。
しかし彼の杖から検出された呪文痕跡は、
致死級の“クラシア・マルティス”の魔力波形と一致――
その証拠を提出したのが、他でもないレギュラス・ブラック本人だった。
彼は淡々と証言台に立ち、冷静に語る。
「これは、過失です。
彼は呪文を制御できなかった。
自らの無力が引き起こした悲劇に過ぎません。」
整った声、揺るがぬ視線。
法廷の誰もがその言葉を鵜呑みにした。
だが――それは、恐ろしく計算された“捏造”だった。
提出された魔力波形の記録は、
完璧すぎるほどの整合性を持っており、
逆に“作り物”であることを疑わせるほどだった。
まるで最初から罪を着せるために仕組まれたような“証拠”。
レギュラス・ブラックの知略が光る一方、
その冷徹さに誰もが背筋を凍らせた。
深い緑の帷幕が風に揺れ、壁に取り付けられた燭台の炎が、
古い石壁に淡く金色の模様を描いている。
アルタイル・ブラックは重い足取りで、
寮監室の扉の前に立っていた。
呼び出しを受けてから、ずっと胸の奥に硬いものが沈んでいる。
規律を破った。
それだけの話――のはずだった。
「入りたまえ。」
低く、冷えた声が響く。
扉を開くと、部屋の奥でセブルス・スネイプが黒衣の裾を翻して立っていた。
机の上には、報告書と羽根ペン、そして光を受けて鈍く輝く銀のインク壺。
「禁じられた森に侵入とは、大胆なことだ。」
声には感情がない。
ただ淡々と、事実だけを突きつける冷ややかさがあった。
アルタイルは俯いたまま、かすれた声で答える。
「……すみません、先生。以後、気をつけます。」
しばしの沈黙。
スネイプは腕を組んだまま、少年の顔を静かに見つめた。
「お前は――父親に似ていないな。」
その一言が、心臓を鋭く貫いた。
レギュラス・ブラック。
誰もが称賛する完全無欠の男。
アルタイルが幼いころから追い続けてきた背中。
その人のようになりたいと願い、
その人のようでなければならないと思い込んできた。
けれど、ハリーやロン、ハーマイオニーと過ごすうちに、
その誓いは知らず知らずのうちに霞んでいった。
禁じられた森に足を踏み入れたのも、
単なる好奇心ではなく――
「自由」を感じてみたかったのかもしれない。
「……そうですか。」
アルタイルの声は震えていた。
自分を恥じるような、かすかな笑いが混ざる。
スネイプはその様子に、わずかに目を細めた。
「グリフィンドールの人間に惹かれるところは――」
彼は言葉を区切り、目を伏せた。
「――母親によく似ている。」
その名を出さなくても、誰のことかは分かる。
アラン・ブラック。
かつてこの城を優秀な成績で卒業した魔女。
アルタイルの心臓が一度大きく鳴った。
「先生……母をご存じなんですか?」
スネイプの表情は変わらない。
「お前の母親は、優秀だった。
だが……少し、危ういところもあった。」
その声には、懐かしさと、わずかな痛みが混ざっていた。
アルタイルは思い切って尋ねる。
「先生は知っていますか? 母と――シリウス・ブラックのこと。」
部屋の空気が、ひやりと冷たく変わる。
ペン先から垂れたインクが、紙の上で黒く広がった。
スネイプの黒い瞳が、鋭くアルタイルを射抜いた。
「何を勘ぐっているのかは知らんが――」
ゆっくりと、言葉を吐く。
「聞きたいことは、直接父親に聞け。」
アルタイルは言葉を失った。
シリウス・ブラックの名を家で口にすることなど許されない。
家系図からその名は消され、
存在そのものが“裏切り”の象徴として封じられている。
父があの名を嫌悪している理由を、
彼は幼いながらも感じ取っていた。
それでも、どうしても確かめたかった。
「……先日、シリウス・ブラックの呪文と、僕の杖が共鳴したんです。」
アルタイルの声は真剣だった。
「彼の杖と僕の杖は――兄弟杖のようです。
そんなことって、普通ありますか?」
静寂。
スネイプは顔を上げずに、机の書類を整えた。
「余計なことを考える暇があるなら、期末試験の対策をしろ。」
冷たくも、どこか逃げるような声音だった。
「主席で成績を残せれば、今回の件は父親への報告はしないでおく。」
アルタイルは息を呑み、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。」
部屋を出た瞬間、背中に貼りついていた重圧が少しだけ緩む。
けれど、胸の中のもやは消えなかった。
父のようであれと言われ続けた人生。
だが――母が愛した人は、父ではなかったのかもしれない。
自分の杖が呼応した、もうひとつの杖。
それが何を意味しているのか、アルタイルはまだ知らない。
ただ、心の奥で微かに確信していた。
――“血は、真実を隠せない”ということを。
窓辺のカーテンが風に揺れ、淡い光が床を撫でていた。
かつては陽だまりのような温もりが満ちていた寝室も、
今はわずかに漂う薬草とアルコールの匂いが支配している。
アラン・ブラックは白いシーツの上で静かに横たわっていた。
長いまつげの影が頬に落ち、
その顔色は蝋細工のように透きとおっている。
アルタイルがホグワーツへ旅立ってから、
屋敷の中の時間はどこか止まったように感じられた。
無理に笑顔をつくる理由も、
薬を服用してまで元気に振る舞う理由も、
もうどこにもなかった。
本当は――ずっと前から兆候はあったのだろう。
胸の奥で鈍く響く痛みも、
手足に広がる倦怠感も、
見て見ぬふりをしてきた。
薬を飲めば痛みは消える。
だから、それで良かった。
そう思い込もうとした。
けれど、その“楽園”のような安らぎは、
やがて深い闇と化して、
彼女の身体を静かに侵食していった。
医務魔女サラがやって来たのは、
アランが食事も喉を通らなくなった頃だった。
診察のあと、彼女は薬瓶を手にして眉をひそめる。
「……量が多すぎます。
これでは仕入れも難しくなりますよ。」
アランは視線を逸らす。
サラの声が遠くで響くように聞こえた。
「別のルートを探してみますが、安定は保証できません。」
「お願いします。」
それだけを言うのが精一杯だった。
ベッドの傍に座るレギュラスは、
アランの細い手を包み込むように握っていた。
白い指が氷のように冷たい。
「レギュラス……少し休めば、回復しますから。」
かすかな声で、微笑もうとする。
けれど彼の灰色の瞳は、
その言葉のすべてを信じてはいなかった。
「ええ。それまで、ここにいます。」
彼の声は穏やかだが、どこか必死でもあった。
長い指が彼女の髪をそっと撫でる。
その仕草の裏にある焦燥と恐れを、
アランは感じ取っていた。
医務魔女に詰め寄る彼の姿を、
扉越しに見たとき――
胸が痛んだ。
「なぜ、ここまで悪化したのか。」
そう問い詰める彼の声が震えていた。
彼は誰かを責めるようでいて、
結局は自分を責めている。
悪いのは誰でもない。
悪いのは――自分の弱さ。
最初はほんの少しのつもりだった。
息をするだけで痛む身体を楽にするため。
けれど、いつのまにか薬は心をも蝕み、
それがなければ立ち上がれないほどになっていた。
レギュラスが見せる優しさが、
今は痛いほど眩しかった。
彼の信じる「回復」という言葉が、
どこまでも遠く感じられる。
――アルタイルがいない。
そのことが、どれほど静かに自分を崩しているのか、
アランはようやく理解した。
息をするたび、胸の奥が軋む。
それでも、彼の手を握り返す。
「ありがとう、レギュラス。」
微笑もうとして、
唇の端が震えた。
それは、どこまでも儚い“生”の温度だった。
夜が幾度も更けていった。
レギュラスは寝台の端に腰を下ろし、
冷たくなった湿布を替えながら、
アランの背を黙ってさすっていた。
灯りを落とした部屋には、
微かな吐息と、薬草の匂いだけが漂う。
彼女の背中は細く、軽かった。
手のひらの下から、骨ばった感触が伝わるたびに、
胸の奥が締めつけられる。
何日も、ほとんど眠っていない。
夜明け前の沈黙が、
まるで彼女の体調そのもののように脆く、不安定だった。
やがて、どうしようもない睡魔が襲う。
アランの体をそっと抱きしめるように支えたまま、
レギュラスは瞼を閉じた。
彼女の呼吸のリズムに合わせて、
ゆるやかに自分の心拍が重なっていく。
いつのまにか眠りに落ちていた。
ふと気づくと、朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
アランが上体を少しだけ起こし、
枕元の本を静かに読んでいた。
その手はまだ細く、
指先には力が入りきっていない。
「アラン……もう、きつくないんですか?」
レギュラスは慌てて姿勢を起こした。
アランはゆるやかに微笑む。
「まだ完全ではありませんけれど……
少し、回復した気がします。」
その声はかすれていて、
それでも久しぶりに聞く穏やかな響きだった。
レギュラスは言葉もなく、
彼女を強く抱き寄せた。
その肩が、自分の腕の中でかすかに震える。
「心配しました。」
声が掠れていた。
「ごめんなさい。心配をかけましたね。」
アランは彼の胸に顔をうずめ、
静かに息を吐いた。
彼女の髪からは、薄い薬草と香水の匂いがした。
その香りが懐かしく、そして切なかった。
――ほんの一瞬、
レギュラスは心の奥に淡い願いを抱いた。
もし、もう一度だけ。
彼女が自分と血のつながる子を産んでくれるなら――と。
それはあまりに愚かで、
あまりに身勝手な望みだとわかっていた。
この数日の、命を削るような彼女の姿を思えば、
そんなことは望むべきではない。
命を代償にするほどの奇跡を、
自分の欲のために願うことなど、
決して許されはしない。
彼女の命があること。
それだけでいい。
血のつながりなど、
愛の深さの前では意味を成さない。
彼はそう思いながら、
アランの髪をそっと撫でた。
「無理をしないでください。
もう、あなたが苦しむ姿は見たくない。」
アランは何も言わず、
その腕の中で目を閉じた。
まるで、短い夢の続きを
そっと抱きしめているかのように。
外では、春を告げる鳥の声がかすかに響いていた。
けれどその小さな希望の音が、
どこか儚く遠く感じられた。
夜の帳が屋敷を包み込むころ、寝室は深い静寂に満たされていた。
暖炉の炎が小さく揺れ、薄闇の中に二人の影を寄り添わせて映している。
レギュラスは、長く続いた不安を埋めるように、
アランをそっと抱き寄せた。
何日も続いた熱と痛み、その傍らで見た彼女の弱った姿が、
まだ脳裏に焼きついて離れない。
彼の指先は、慎重に彼女の髪を撫で、
背を、腕を、そっと確かめるように触れていく。
決して力を込めすぎない。
触れることが痛みに変わらないよう、
ひとつひとつの動作に、限りない気遣いを込めた。
彼女を求めるというより――
彼女がここにいるという事実を確かめたかった。
アランの体温が、指先にゆるやかに滲む。
その温もりだけで、数日の眠れぬ夜が報われていくような気がした。
「……私、まだ産めるんでしょうか。」
静かな問いだった。
まるで、心の奥底を覗かれたように、
レギュラスの手がそっと止まる。
炎の音だけが部屋に残る。
「いや……それは、もういいんです。」
レギュラスは首を振った。
アランは、淡く笑った。
「でも、あなたは望んでいたわ。」
「確かに――望みました。けれど……もう、いいんです。」
その声は低く、穏やかで、どこか切なさを含んでいた。
レギュラスの胸の奥には、
確かに願いがあった。
“真に自分と血を分けた子を、アランが産んでくれたら――”
そんな夢を抱いたことは、否定できない。
しかし、それはあくまで、
彼女が笑顔で過ごせていた日々に浮かんだ
一瞬の希望にすぎなかった。
今、目の前のアランの姿を見るたびに、
その希望は痛みに変わっていく。
アルタイルの誕生の夜を思い出す。
血に染まった寝台、
握り締めた彼女の手の冷たさ、
あの瞬間、世界の終わりを見た気がした。
彼女を失いかけた恐怖が、
今でも脊髄を伝って甦る。
あんな揺らぎを、二度と味わいたくない。
だから今は、違う。
この行為は、子を成すためのものではない。
名誉のためでも、家のためでもない。
ただ――愛しているから。
それだけの理由で、
彼はアランを抱き寄せた。
互いの体温が触れ合うたび、
生きていることの確かさが胸を満たしていく。
アランはその腕の中で、
穏やかに微笑んだ。
それは痛みを忘れた一瞬の奇跡のようで、
レギュラスは思わず息を呑む。
彼女の髪を撫で、
耳元に顔を寄せ、
かすれた声で囁く。
「あなたがここにいる――
それだけで、十分なんです。」
アランは目を閉じて、
その言葉を胸の奥でそっと抱きしめた。
炎の揺らめきが、
二人の影をひとつに溶かしていく。
夜が静かに更けていく。
愛の形が、痛みとともに、
ひとつの祈りへと変わっていった。
夜の帳が降り、外では風が木々の枝をそっと揺らしていた。
屋敷の中は静まり返り、暖炉の炎の柔らかな明かりだけが、
寝室を淡く照らしている。
アランはその光に照らされていた。
シーツの上、月光を帯びた肌が淡く輝く。
レギュラスは、まるでその姿に祈るような眼差しを向けた。
彼の手は、壊れものを扱うように慎重だった。
指先が触れるたびに、その温度を確かめるように、
恐る恐る、静かに、彼女の輪郭をなぞっていく。
触れれば壊れてしまうとでも思っているかのように。
その手が僅かに震えていることに、アランは気づいていた。
痛みがないか、確かめるように何度も見つめてくる彼の灰色の瞳。
少しでも息が乱れると、
レギュラスの動きはすぐに止まる。
「……大丈夫です。」
その一言が、まるで呪文のように、
彼の緊張をほぐしていく。
レギュラスは彼女の手を握り、
その細い指に自分の体温を移すように力を込めた。
彼は自分の欲望をすべて抑え、
ただ優しさだけでアランを包んでいた。
まるで、彼女の命を守ることそのものが、
今の彼にとって最も神聖な行為であるかのように。
――愛されているのだ。
アランはそのことを、
肌の一つひとつの感覚で悟っていた。
彼の息遣い、触れるたびの指先、
どれもが優しく、ひたすらに慈しみに満ちている。
レギュラスの言葉を思い出す。
もう一人、子を――そう望んでいた彼の声。
もし、この体がまだ彼の願いを叶えられるのなら。
もし、それが彼の幸福のすべてであるなら。
叶えられる限り、
与えられるものはすべて差し出してやりたいと思った。
けれど今は、不思議なほどに心が穏やかだった。
かつて胸を焼いたような、シリウスへの想い――
その熱は、いまこの夜には微塵も沸いてこない。
燃えるような情熱の代わりに、
胸に広がるのは静かな温もりだった。
長い年月をかけて少しずつ積み重なってきた、
感謝と信頼、そして確かな愛情。
レギュラスは、アルタイルを守ってくれた。
セシール家を守り、自分の命をも守り抜いてくれた。
そのすべてを思うたびに、
アランの胸には静かな涙が溢れそうになった。
こんなにも長く、
一人の人を変わらずに愛し続けられるものなのだろうか。
その愛は、燃え上がる情熱ではなく、
春を迎える雪解けのように、
穏やかで、深く、心の奥に根を張っていた。
シリウス以外を愛するということを知らなかった。
だからこそ、報いるように、贖うように、
レギュラスのそばに居続けた年月だった。
けれど今――
アランは静かに悟っていた。
この胸にあるのは、罪悪感でも義務でもない。
確かに彼を愛しているのだ、と。
彼の瞳が見つめ返してくる。
その中に映る自分の姿が、
あまりにも優しく、涙が出そうだった。
レギュラスの唇が、そっと彼女の頬に触れた。
まるで感謝の祈りのように。
その夜、二人を包んでいたのは、
熱でも欲でもなく、
静かに燃える永遠のような愛だった。
魔法省・杖管理部。
無数の棚が迷路のように続き、古い羊皮紙の匂いが鼻をくすぐる。
薄暗いランプの灯が金属の机を鈍く照らし出す中で、
シリウス・ブラックは身を屈め、慎重に記録簿を繰っていた。
指先が、一枚の羊皮紙の上で止まる。
――アルタイル・ブラック。
登録内容を目で追った瞬間、息が詰まる。
「杖木:黒壇。芯:不死鳥の尾羽。長さ:十一インチ。」
記録されたその文字が、まるで呪いのように目に焼きつく。
彼自身が使う杖と、寸分違わぬ仕様だった。
芯も、長さも、木目の色も。
完璧に同じ。
そんなことが、果たしてあり得るだろうか。
兄弟杖――それは理論上あり得ても、
現実にここまで一致することなど、ほとんど奇跡だ。
まさか。
まさかそんなはずは――。
シリウスは首を振る。
しかし胸の奥では、
その“まさか”を否定しきれないざわめきが広がっていく。
アラン。
彼女の名を心の中で呼んだ瞬間、
忘れかけていた痛みが胸の奥を貫いた。
ホグワーツを卒業したばかりの頃、
彼女をブラック家の屋敷から連れ出した。
二人きりで過ごした、短いが熱のこもった数ヶ月。
若く、愚かで、そして真剣だった。
夜を越えるたびに、
互いを求めずにはいられなかった。
それがどんな結果を招くかなど、
考えたこともなかった。
だが、幸福は長く続かなかった。
ある日突然、彼女の母リシェル・セシールが罪を暴かれ、
王宮へと召喚されたのだ。
アランは迷いながらも母を救うために屋敷へ戻った。
――そして二度と、シリウスの元には戻らなかった。
リシェル・セシールが晒し者にされ、やがて処刑されたと聞いたとき、
彼はようやく悟った。
あれは偶然などではなかったのだと。
ブラック家の権力を総動員し、
レギュラスが裏から糸を引いていたのだ。
アランを取り戻すために。
その後、アランの父ロイク・セシール、
そして一族の多くが要職につき、
セシール家はかつてない繁栄を遂げた。
あれは報酬であり、鎖だった。
アランを、完全にブラック家に繋ぎ止めるための。
シリウスは震える手で羊皮紙を握りしめた。
視界の端で、文字が揺らいで見える。
アルタイル・ブラック――。
あの子の年齢を思い出す。
彼女が戻った時期を重ね合わせる。
答えは、残酷なほど整然と辻褄が合っていた。
「……いや、違う。違うはずだ。」
呟いても、声は弱く、
すぐに記録室の冷たい空気に呑まれていく。
あの瞳。
灰色がかった、あの優しい光。
アランが微笑んだときと、
あの子が笑ったとき――重なって見えた。
彼は両手で頭を抱え、
深く息を吐いた。
“あの子が、自分の子だったら。”
思考がその一点に触れた瞬間、
胸の奥で、長年凍っていた感情が音を立てて崩れた。
愛しさ。
嫉妬。
そして、どうしようもない悔しさ。
レギュラス。
お前は、俺からすべてを奪った。
記録簿の上に落ちるシリウスの影が揺れる。
ランプの灯が細く震え、
彼の横顔を照らし出した。
その瞳の奥には、
失われたものを追い求める男の痛みが宿っていた。
魔法省の長い回廊は、昼下がりの淡い光を飲み込みながら、静かに沈黙していた。
磨き上げられた黒曜石の床に、レギュラス・ブラックのブーツが淡く反射する。
その足音の奥から、聞き慣れた軽薄な声が響いた。
「やあやあ、随分と久しぶりだな。先日の夫婦での対談の記事を読ませてもらったよ」
振り向くより早く、その男の笑い声が空気を割る。
「本当に熱々のご夫婦で――羨ましい限りだ」
ジェームズ・ポッター。
この男の声を聞くだけで、レギュラスは無意識に舌を打ちそうになる。
会釈だけを残して通り過ぎようとしたが、足音がしつこく背中を追ってきた。
「君に一つ、お願いがあってね」
言いながら、ジェームズはあえて早足でレギュラスの前に出た。
金縁の眼鏡の奥、光を孕んだ瞳が何かを測るようにこちらを覗く。
「なんです?」とレギュラス。
声は低く、冷たい。
ジェームズは微笑みを崩さずに言った。
「君の息子――アルタイル・ブラック。彼は“真実”を知っているのかい?」
その瞬間、レギュラスの眉間がわずかに寄った。
胸の奥を掠めるような冷たい感覚。
わざとらしい言葉の裏に潜む棘を、彼は即座に感じ取った。
相変わらず、癪に障る男だ。
「……なんのことでしょう」
「君の息子の杖だよ」
ジェームズの声は軽い。しかしその眼差しは笑っていなかった。
「うちの親友と全く同じなんだ。不死鳥の尾羽を芯にした黒壇の杖、十一インチ。
兄弟杖なんて生やさしいもんじゃない。――完全に一致してる」
レギュラスは呼吸をゆっくり整えた。
まるで、血の気がひいていくような感覚。
どこでその事実を掴んだのかはわからない。
だが、鋭すぎる指摘だった。
ジェームズはわざとらしく肩をすくめる。
「別にね、真実を暴こうってわけじゃない。むしろ――隠し通してくれと言いに来たんだ」
レギュラスは黙ってその男を見た。
その灰色の瞳には冷徹な光が宿る。
ジェームズの唇には笑みが浮かんでいたが、瞳の奥は氷のように冷たい。
“見定めている”――そう感じた。
「知っての通り、僕の親友はいまだにアラン・セシール……いや、失礼、アラン・ブラックに執心してる。
もしこの事実を知ったら、きっとまた昔みたいに暴走する。真実をねじ曲げてでも、自分の都合のいい幻想を作るだろう」
レギュラスは沈黙のまま、拳を握り締めた。
――“まだ、あの女を忘れていないのか。”
予想していたこととはいえ、
この男の口から聞かされる現実は、思いのほか鋭く胸に突き刺さった。
「もう二度と、叶いもしない女に囚われてほしくないんだ。
だから頼む、レギュラス。あの子のことは――黙っていてくれ。」
レギュラスは低く息を吐いた。
そして、冷ややかに言葉を返す。
「ご忠告をどうも、ポッターさん。
誤解がないようにお伝えしますが――アルタイル・ブラックは、紛れもなく僕の息子です。
余計な憶測はお控えください。」
言い終えると、マントの裾を翻して歩き出した。
背後に残るジェームズの視線が、冷たい針のように背中を突き刺してくる。
廊下の先、魔法省の壁に飾られた金色の燭台が淡く揺れていた。
歩くたびに靴音が反響し、
その一歩一歩がまるで自らの決意を刻むように響いていく。
杖――。
アルタイルがオリバンダーの店で選んだあの瞬間。
不死鳥の尾羽、十一インチ、黒壇。
それがシリウスの杖と同じだと知ったとき、
レギュラスはまるで運命に嘲られたような気分になった。
“血の繋がりを拒もうとしても、杖は真実を知っている。”
それが、呪いのように胸の奥に居座って離れなかった。
魔法省の回廊を、レギュラス・ブラックの背中が静かに遠ざかっていく。
その歩みには一分の隙もなく、黒いローブの裾が流れるように揺れていた。
ジェームズ・ポッターは、その姿を無言で見送っていた。
――あの男が動揺した。
アルタイル・ブラックの名を口にした瞬間、
冷徹な男の眉間にわずかに刻まれた皺、
感情を抑え込みきれずに歪んだ彫刻のような顔。
それだけで、すべてを悟った。
アルタイルは――シリウスの子だ。
もはや確信だった。
杖の一致だけでは、判断材料としては不十分だ。
ジェームズはその後、密かに独自の調査を進めた。
魔法省・戸籍部の裏帳簿にアクセスし、
“アルタイル・ブラック”という名で登録された出生記録を取り寄せる。
母:アラン・セシール(現ブラック)
父:レギュラス・ブラック――そう記されてはいたが、
記録の奥に残る血液魔法の符号が違っていた。
魔力波形、呪文反応率、魔法特性――どれを取っても、
レギュラスのものではなかった。
アルタイルの血液データに含まれていた魔力素因は、
“不死鳥反応素”と呼ばれる稀少な遺伝要素を示していた。
それはかつて、シリウス・ブラックの魔力測定値にのみ記録された特徴だ。
さらに――
アルタイルの魔力核は、純粋な闇属性を含みながらも、
表層には明確な「光魔素」の揺らぎを持っていた。
闇と光――矛盾する二つの属性を併せ持つ例は、
シリウス・ブラック以外に確認されていない。
これほどの一致を偶然で片付けるなど、もはや滑稽だ。
魔法遺伝子検査をかければ決定的な結果が出る。
だが、ジェームズはそこまで踏み込まなかった。
――踏み込んではいけないと思った。
この真実を知っても、誰も幸せにはならない。
シリウスにだけは、知られてはならない。
あいつは、彼女を知ればまた心を燃やす。
十年以上をかけてようやく鎮めた想いが、
再び炎のように燃え上がり、
判断力を奪い、理性を狂わせるだろう。
そして――その炎に焼かれるのは、
結局のところ、彼自身だ。
アラン・セシール。
あの女は、どこまで親友を縛り続けるつもりなのだ。
一度はシリウスを救いながら、
最終的に彼を誰よりも苦しめた女。
あの冷たい美しさ、凛とした佇まい、
そして決して誰のものにもならないような孤高さ。
その全てが、男たちの理性を狂わせる。
ジェームズの胸に、言いようのない怒りが湧き上がった。
――まるで、あの昔の事件のようだ。
英国王朝を崩壊させた“リシェル・ブラウン”。
妃を差し置いて王の愛を奪い取った魔女。
その娘が、再びこの国で男を惑わせている。
「……血は、罪まで継ぐのか。」
呟いた声が、静かな廊下に溶けていく。
ジェームズは目を閉じ、
胸の奥に燻る感情を押し殺した。
レギュラス・ブラック――あの男の冷たい背中が遠ざかっていく光景が、
しばらく網膜に焼き付いて離れなかった。
冬の名残をまだ残すホグワーツの朝。
石造りの校舎の尖塔に白い光が差し込み、霜がきらきらと溶けていく。
掲示板には学期末試験の結果が張り出され、ざわめきと歓声が混じり合っていた。
その中で、アルタイル・ブラックの名はすべての教科で最上位に刻まれていた。
スリザリンの生徒たちは誇らしげに頷き、
教師たちでさえも彼の答案に目を見張ったという。
「さすがだね、君は。」
真っ先に声をかけてきたのはハリーだった。
その横で、ロンが半ば呆れたように笑う。
「俺たちとあれだけ遊んでたのにこの成績かよ。なんなんだよ、お前。」
アルタイルは苦笑いを浮かべた。
「父の顔に、家の名に泥を塗るわけにはいかないんです。」
そう言いながらも、胸の奥では別の感情が渦を巻いていた。
ハリーと過ごす時間は、眩しかった。
彼が見せてくれる“自由”という世界――
それはアルタイルにとって、息をするように自然で、それでいて手の届かないものだった。
スリザリンの冷ややかな空気の中に戻るたび、
自分ひとりが異なる場所に立っているような孤独を感じた。
春風が城を抜ける頃、
ホグワーツでは新しいクィディッチ・シーズンが始まっていた。
ハリー・ポッターは史上最年少でグリフィンドールのシーカーに選ばれ、
グラウンドの上を矢のように駆け抜けていた。
金色のスニッチを追うその姿は、まるで光そのものだった。
観客席から見上げるアルタイルは、
その自由な飛翔に目を奪われ、胸を締めつけられるような思いで見つめていた。
――あれが、自由というものなのだ。
スリザリンの石壁の中では、
常に“血統”と“誇り”が縛りの鎖のように響いている。
だが、ハリーが空を駆ける姿には、
どんな血も、どんな家名も、何一つ絡みついていなかった。
「君の父さんもシーカーだったんだろ?」とロンが尋ねた。
アルタイルは一瞬言葉を探し、それから静かに答える。
「そうみたいですが……父が箒に乗っているのを見たことはないんです。」
――レギュラス・ブラック。
彼の中で、父は常に地上の人間だった。
決して空を見上げない、重く、揺るぎない存在。
父や母の学生時代の話を聞いたこともほとんどない。
問えば教えてくれるのかもしれない。
けれど、なぜだか話題にすることさえためらわれる。
そこに触れてはいけない何かがある気がして。
それでもアルタイルの胸の奥には、
どうしようもなく知りたいという衝動があった。
――母とシリウス・ブラック。
あの二人が、この同じ城でどんなふうに過ごしていたのか。
どんな言葉を交わし、どんな時間を分け合っていたのか。
空に浮かぶハリーの姿を追いながら、
アルタイルはその答えを求めるように、
どこまでも青く広がる空を見つめていた。
それは、彼の知らない「過去」への渇望であり、
同時に――「自由」という名の未来への憧れでもあった。
暖かな春の風が屋敷のカーテンを揺らしていた。
庭に咲く花々が陽光を浴び、薄く開いた窓からその香りが漂い込む。
ホグワーツから戻ったアルタイルを、レギュラスは玄関先で出迎えた。
黒いローブの裾を揺らしながら歩み寄る息子の姿を見た瞬間、
胸の奥に溜まっていた緊張がふっとほどけた。
「お帰り、アルタイル。」
声は穏やかでありながら、どこか滲むような優しさを含んでいた。
勉学で優秀な成績を収めたと校長から直接報告を受けていたこともあり、
その誇らしさは言葉にできぬほどだった。
「アルタイル、こちらへいらっしゃい。」
アランの呼ぶ声に、少年はすぐに母のもとへ歩み寄った。
その腕の中に抱きしめられた瞬間、
アランはしばらく何も言えずにいた。
ただ、息子の背に両手を回し、胸の奥で何度もその温もりを確かめるように。
――この手の中に、もう一度この子が帰ってきた。
それだけで世界が優しく見える。
「父さんは、どの教科が得意だったんです?」
夕食のあと、食後の紅茶を囲んでアルタイルがそう尋ねた。
レギュラスは一瞬、思案するように視線を落とす。
「僕は今のところ魔法薬学以外は苦手意識はないです。」
「魔法薬学は苦手ですか?」とレギュラスは軽く笑う。
「スネイプ先輩が教鞭を取っていたはずですが。」
彼は懐かしげに目を細めた。
危険物管理局の仕事でスネイプと何度か関わったことがある。
無駄を省いた冷静な説明――彼の言葉には常に明確な筋が通っていた。
自分に似た論理性を感じ、苦手意識どころか好感を抱いている人物だった。
「得意……ですか。」
言葉を繰り返しながら、レギュラスは遠い昔を思い出す。
ホグワーツでの学生時代、
あらゆる教科で首席を争うことが当然で、
“得意・不得意”という感覚を持つ暇もなかった。
「強いて言えば、スラグホーン先生の出す特別課題が好きでしたね。」
アランはそっと笑う。
「ええ、いつも教授の開く“優秀な生徒の晩餐会”にお父様は招かれていたのよ。」
「では僕も、そのパーティに呼ばれなければ父さんに顔向けできませんね。」
アルタイルの声には、照れと決意が入り混じっていた。
アランは目を細め、レギュラスは息子の言葉に静かに微笑んだ。
その瞬間、
ランプの柔らかな光が三人を包み込み、
時間が一瞬止まったように感じられた。
――この光景を、永遠に閉じ込めておけたら。
そう思ったのは、きっと三人とも同じだった。
レギュラスは杯を手に取り、静かに紅茶を口に含む。
アールグレイの香りの奥で、
家族という名の穏やかな幸福が、確かに息づいていた。
柔らかな午後の光が、屋敷の広間に射し込んでいた。
白いカーテンが風に揺れ、陽の粒が床の上でゆらゆらと踊っている。
アランはその穏やかな光の中で、戻ってきたアルタイルを抱きしめていた。
両腕に伝わる息子の体温が、久しく忘れていた安心を思い出させる。
その背を撫でながら、アランはゆっくりと瞳を閉じた。
――この子はもう、あのホグワーツで自分の足で歩いている。
遠く離れた学舎の中で、レギュラスの面影を探しながら、
それに追いつこうと懸命に努力しているのだと思うと、胸の奥が熱くなる。
「アルタイル、お父様に似て……本当に優秀なのね。誇らしいわ。」
言葉を紡ぐ声は、震えを隠しきれなかった。
アルタイルが差し出した成績表には、全教科に並ぶ「優」の文字。
その整った筆致を見つめながら、アランは微笑む。
レギュラスの息子――そう呼ばれるにふさわしい完璧な成績。
誇らしさと、そして痛みが胸の内でせめぎ合った。
ほんとうの父は、別の人。
それを知る自分が、この子に向ける「誇り」という言葉ほど、
残酷なものはないのかもしれない。
アルタイルは嬉しそうに笑いながら、
「父のように努力すれば、きっと僕も誰かを守れるようになりますよね」と言った。
その瞳は澄んでいて、まっすぐだった。
純粋に父を尊敬し、家の名に恥じぬようあろうとするその姿が、
アランにはあまりに眩しかった。
――この子は、レギュラスの姿を追いながらも、
無意識のうちにもう一人の影を追っている。
ホグワーツ。
あの城には、彼の“もう一人の父”の記憶が残っている。
グリフィンドールの談話室にも、
クィディッチの観覧席にも、
風に笑う声の残響が――シリウスの存在が。
もし、あの子がそこに触れてしまったなら。
もし、誰かが何気なく口にした一言からすべてを悟ってしまったなら。
その想像だけで、アランの胸は締めつけられるように痛んだ。
燃えるように愛した人――シリウス・ブラック。
彼の名を心の中で呼ぶたび、
もう決して戻らない時間の欠片が、
痛みをともなって蘇る。
「……お父様に似ているわね。」
アランはそっと呟いた。
その言葉に宿る意味を、誰も知らない。
偽りの言葉を真実のように口にすることでしか、
守れないものがある――そう信じた。
アルタイルは無邪気に笑い、
「そうかな、僕も父さんみたいに立派になれるかな」と言った。
アランは微笑んでうなずいた。
その笑みは、あまりにも優しく、あまりにも哀しかった。
胸の奥で、
“真実”が静かに沈んでいく音がした。
まるで湖の底に石を落としたように――
静かに、深く、戻らないほどに。
休暇の間、ハリーはシリウスと過ごす時間が自然と増えていた。
郊外の石造りの屋敷――かつてのブラック家の重苦しい屋敷とは異なり、
この家には柔らかな陽が差し込み、庭先には葡萄の蔦が絡まるアーチがあった。
シリウスが自らの手で建て直した、自由の象徴のような家だ。
木漏れ日が差す中、
シリウスは磨き上げられた黒檀の箒を誇らしげに掲げていた。
「どうだ、ハリー。すごいだろ?」
少年のような笑みを浮かべながら、
最高級モデルの箒――新型〈ファイアフライ・スプリント〉を手渡してくる。
「シーカー抜擢祝いだ。お前の飛びっぷりなら、きっと歴史に残るプレーができる。」
「……最高だよ。ありがとう、シリウス。」
ハリーは箒を抱きしめながら、胸の奥が温かく満たされていくのを感じた。
シリウスが見せるこうした愛情は、
いつだって父ジェームズに向けられていたものと同じ温度を持っている。
けれど――どこかで思う。
本当に、彼がこうして愛情を注ぐべき相手は、自分なのだろうか。
彼の笑顔の奥に、ずっと別の誰かの影が潜んでいる気がしてならなかった。
ハリーは、ふとそんな思いを確かめたくなっていた。
アルタイル・ブラック――あの少年のこと。
シリウスと彼を結びつける決定的な何かを、
そしてかつての「アラン・セシール」との関係を。
どうしても、知りたかった。
夕方、二人で屋敷のテラスに腰掛けていた。
空は茜に染まり、遠くの森を包むように夕靄が漂っていた。
カップに注がれた紅茶の湯気が揺れ、
木の机の上で淡く香る。
「なぁ、シリウス。前から聞こうと思ってたんだけど――」
「なんだ?」
「その……昔、ホグワーツでさ。『アラン・セシール』っていう人、知ってた?」
ほんの一瞬、シリウスの手が止まった。
カップの中で光が揺れ、沈黙が流れる。
けれど次の瞬間には、いつものように笑っていた。
「おお、そうか。そりゃあるかもな。なんだ、どうしてそんな名前を?」
「図書室で、彼女の論文を読んだんだ。魔法遺伝学の……とても綺麗な字だった。」
「ははっ、学者肌の子だったからな。」
ハリーは目を細めて彼を見た。
その笑顔は確かに自然だ。
けれど、ほんのわずか――ほんの一瞬、
瞳の奥がどこか懐かしむように揺れたのを、ハリーは見逃さなかった。
「どんな人だったの?」
「おいおい……なーに探ろうとしてやがる?」
シリウスはくしゃくしゃと笑いながら、
ハリーの髪をぐしゃぐしゃに撫でた。
いつものように明るく、からかうような調子。
けれどその笑いの奥には、
触れられたくない何かを隠す影が確かにあった。
夜になり、ハリーは部屋に戻っても、
シリウスの笑顔が頭から離れなかった。
――やっぱり、あの人は何かを知っている。
アラン・セシールという名を聞いた瞬間の、
あの“間”が、すべてを物語っていた。
彼が笑って誤魔化したのは、
忘れていないからだ。
ランプの灯りの下、ハリーは静かに息を吐いた。
箒の箱のリボンをほどき、指で撫でる。
その温もりのような贈り物の裏に、
誰かへの償いにも似た祈りが込められている気がしてならなかった。
――シリウスの愛情は、いったい誰のためにあるのだろう。
その問いだけが、
夜風の中で静かに揺れていた。
屋敷の食堂には、アルタイルの朗らかな声と、
アランの笑い声がゆるやかに溶け合っていた。
夕暮れに沈む陽が、長いカーテンの隙間から差し込み、
食卓の上の銀器を淡く光らせている。
レギュラスは、椅子に腰を下ろしながらその光景を眺めていた。
アランが上機嫌であることが、ただそれだけで胸を満たす。
病に伏していたあの頃の彼女を思えば、
こうして穏やかに笑っていられる日が戻ったことが、
どれほどの奇跡であろうか。
息子の話を聞くアランの表情は、まるで春の陽だまりのようだった。
「それでね、母さん。寮では上級生が僕に薬草学の指導をしてくれて……」
アルタイルが語るたび、アランはうなずきながら笑い、
時折その手をそっと握る。
レギュラスはその様子を、少し離れた場所から静かに見ていた。
愛おしい。
だが、同時に胸の奥で小さな嫉妬が疼く。
母と息子の世界に、自分が入り込む隙がないほどに、
二人の間に流れる空気がやわらかで、完結していた。
「アルタイル、そろそろお開きにしませんか?」
レギュラスが穏やかに声をかける。
アランは振り返り、微笑んだ。
「ええ。」
アルタイルもその笑みを受けて、同じように笑った。
「すみません、父さんの時間を邪魔してしまいました。」
その一言に、レギュラスは思わず吹き出しそうになる。
どこでそんな気の利いた言葉を覚えたのか。
きっとホグワーツで、多くの人々と交わるうちに身につけたものだろう。
礼節の中に、他人を思いやる優しさが垣間見える。
アルタイルが自室へと引き上げ、
広間に二人きりの静けさが戻った。
灯りの炎が揺れ、アランの髪に金の縁を描く。
「怒りました?」
レギュラスが肩越しに問う。
「いいえ。あなたの時間を邪魔してしまったもの。」
アランが、先ほどの息子の言葉をそのまま返す。
レギュラスは堪えきれず笑い出した。
「もう……そんな言い方、やめてくださいよ。」
笑いながら、彼はそっとアランを後ろから抱き寄せた。
その体温が背中越しに伝わる。
香るのはアランの髪に残る紅茶と石鹸の匂い。
小さく息を吐く彼女の肩が、ゆるやかに上下するたび、
その静かな夜に、幸福という名の波が寄せては返していく。
――彼女が、今こうして笑ってくれている。
それだけでいい。
息子と過ごす時間を奪ってしまったようで心苦しかったが、
この穏やかな横顔を、自分の腕の中で確かめられることの方が、
何よりも代えがたかった。
レギュラスはそっと、アランの耳元で囁く。
「……ありがとう。今日の君は、本当に綺麗です」
アランはその言葉に、小さく息を呑んだ。
そして、振り返らずに答えた。
「あなたがそう言ってくれるなら、それで十分です」
炎がまた一度揺れた。
夜は静かに更けていく。
愛と安堵が入り混じるその静寂の中で、
二人は、かつてないほど穏やかな幸福に包まれていた。
ロンドンの魔法省の裏手にある石畳の路地を抜け、
ジェームズ・ポッターは薄闇の中で黒い外套の襟を立てて歩いていた。
隣を歩くリーマス・ルーピンが小声で呟く。
「本当に、またあの女を追うのか?」
「他に手がかりがないんだ。
あの家の中に、何かがある。間違いなく――。」
ジェームズの声は低く、焦りがにじんでいた。
レギュラス・ブラックの家、そしてその妻、アラン・ブラック。
彼女を探るたびに、何かに導かれるようにして“見えない真実”の輪郭が浮かび上がってくる。
だが、それは同時に、彼の親友を再び傷つけることになるかもしれないという直感もあった。
「ブラック家専属の医務魔女が、闇市で取引をしていたらしい。」
リーマスの言葉に、ジェームズは目を細めた。
「何を仕入れていた?」
「違法魔法薬だ。金額も桁外れだった。」
空気がひやりと張り詰める。
違法魔法薬――それは、魔法省が厳しく取り締まる類のもので、
一度使用すれば強烈な依存と副作用に蝕まれる。
医師の認可なしに扱うことは、即座に犯罪として裁かれるほどの代物だ。
「……ブラック家の誰が使ってる?」
「まだ分からない。」
リーマスは首を振る。
だがその答えの裏に潜む可能性は、二人とも察していた。
ジェームズは短く息を吐いた。
「……やはり、アラン・ブラックを追うしかないな。」
夜が深まる。
再び魔法盗聴具を起動させる。
数ヶ月前、彼がアランのドレスの裾に仕込んだ小さな魔法具。
普段は沈黙しているが、今夜は何かが聞こえる気がした。
「どうせまた優雅に酒でも飲んでるさ。」
リーマスが皮肉を混ぜて言う。
ジェームズは口の端を歪めた。
「ヤクでもやっててくれたら、その線で魔法法廷に引きずり込めるんだがな。」
軽口に似た言葉の裏には、必死な焦燥が隠れていた。
彼は知りたかった。
あの家の闇を、アラン・ブラックという女の正体を。
しかし――次に聞こえてきた音は、
二人の想像をはるかに超えていた。
布の擦れる音。
微かな息遣い。
そして、ベッドが軋む音。
女性の吐息が途切れ、甘い声が夜気を震わせる。
「……アラン……」
男の低い声が、それに重なる。
レギュラス・ブラックの声だった。
瞬間、リーマスの顔が蒼白になる。
「やめだ、やめだ! 人の寝室を盗み聞きする趣味はない!」
彼は杖を一閃させ、魔法盗聴具の音を断ち切った。
途端に部屋の空気が重たく沈む。
ジェームズは額に手を当てたまま、何も言えなかった。
喉の奥に、何か熱いものがこみ上げてくる。
――これが、現実か。
アラン・ブラック。
かつて親友が愛し、今もなお忘れられずにいる女。
その女が、レギュラス・ブラックと。
ジェームズは、重く息を吐いた。
怒りでも嫉妬でもない。
ただ、胸を締め付けるような切なさだった。
「……なぜ、こうも空回りばかりなんだろうな。」
声が震えた。
何かを掴んだようで、何も掴めていない。
真実に手を伸ばすたびに、親友の過去の痛みだけを掘り起こしてしまう。
リーマスは黙って彼の肩に手を置いた。
「ジェームズ。……これ以上は、やめておこう。」
ジェームズは頷かなかった。
ただ、空を見上げた。
夜の帳が落ちたロンドンの空に、
細く光る三日月が浮かんでいる。
あの冷たい光の向こうに、
いくつもの嘘と秘密が絡まり合っているような気がした。
灰色の大理石で囲まれた魔法法廷の間は、
朝の光が差し込まぬよう厚い帷が閉ざされていた。
壁に刻まれた古代ルーンが鈍く光を放ち、
天井の高みでは無数の燭台が浮遊し、
冷たくも荘厳な光が、静寂の中を漂っている。
その中央――黒衣を纏ったレギュラス・ブラックが立っていた。
彼は完璧な所作で礼を取り、
まるで舞台の幕開けを知っているかのように、微笑んだ。
机上には、分厚い証拠書類が山のように積まれている。
提出されたのは先日立件された「マグル粛清事件」の証拠。
事件の概要はこうだ。
ロンドン北部のマグル居住区で、
夜間に多数のマグルが不可解な死を遂げた。
現場には黒焦げた痕跡と、呪文による破壊の痕が残されており、
生存者の証言では、
「闇の印」が一瞬だけ夜空に浮かんだという。
被疑者として逮捕されたのは、
混血の魔法使いエドマンド・カーター。
古びたローブを纏った冴えない青年だった。
しかし彼の杖から検出された呪文痕跡は、
致死級の“クラシア・マルティス”の魔力波形と一致――
その証拠を提出したのが、他でもないレギュラス・ブラック本人だった。
彼は淡々と証言台に立ち、冷静に語る。
「これは、過失です。
彼は呪文を制御できなかった。
自らの無力が引き起こした悲劇に過ぎません。」
整った声、揺るがぬ視線。
法廷の誰もがその言葉を鵜呑みにした。
だが――それは、恐ろしく計算された“捏造”だった。
提出された魔力波形の記録は、
完璧すぎるほどの整合性を持っており、
逆に“作り物”であることを疑わせるほどだった。
まるで最初から罪を着せるために仕組まれたような“証拠”。
レギュラス・ブラックの知略が光る一方、
その冷徹さに誰もが背筋を凍らせた。
