3章
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書斎の扉の向こうから、女の声が聞こえた。
押し殺したような、それでいて震える声。
聞くつもりはなかった――けれど、足が勝手に止まってしまった。
「……リディアは、望まれなかった子なのでしょうか」
カサンドラ・ブラックの声だった。
低く、痛切な響きが、厚い扉をすり抜けてアルタイルの胸を刺した。
隣室にいる父の声は冷たく、短かった。
それ以上の言葉を交わさない沈黙が、
まるで“答え”そのもののように響いた。
扉の外に立つアルタイルの手が、ゆっくりと震えた。
何かを掴もうとしても、指先から力が抜けていく。
――自分の命は、決して“望まれて”ばかりいたわけではなかったのだ。
頭ではずっと理解していた。
けれど今、それが現実として胸に落ちていく。
冷たい現実の破片が、静かに心臓を裂くようだった。
ロズィエ家の人々が自分をどう思っているのか――
カサンドラが、どんな想いで自分を迎えたのか――
それを、今この瞬間、痛いほど理解してしまった。
幼い頃から、カサンドラは礼節を重んじ、
常に上品で、距離のある態度で接してきた。
それが礼儀だと思っていた。
だが、もしかするとそれは――愛し方を知らなかっただけなのかもしれない。
(自分は、この家にとって“外の血”なのだ)
胸の奥で何かが崩れた。
それでもアルタイルは、静かに踵を返し、
扉に背を向けた。
階段を下り、長い廊下を抜け、
居間へ戻ると、陽光が差し込んでいた。
大理石の床に反射した光が、金色の粒となって揺れている。
「お兄様、聞いて!」
小さな足音が駆け寄ってきた。
リディアが、母アランと一緒にいた。
白いドレスの裾がふわりと舞い、
手のひらの上に淡い花弁が咲いている。
「アラン様に教えてもらったのよ!」
リディアは嬉しそうに笑い、掌をこちらに差し出した。
手のひらの上で、小さな花がゆらりと開く。
薄桃色の光を帯びた魔法の花弁は、
春の風にそっと溶けていくようだった。
母アランは穏やかに笑いながら見守っている。
彼女の瞳の中に宿る光は、
何よりも優しく、そしてあたたかかった。
アルタイルは膝を折り、
リディアの小さな手を包み込む。
「きれいですね、リディア。とても上手です。」
そう言うと、リディアの頬がぱっと輝いた。
その無邪気な笑顔に、
ほんの少しだけ胸の痛みが和らぐ気がした。
アランが微笑む。
窓の外では風が庭を渡り、
桜色の花びらをゆっくりと舞い上げていた。
――これが、家族というものなのだろうか。
どこにでもあるような、
穏やかで、何気ない時間。
けれど、それが何よりも尊く思えた。
(どうか、この時間がずっと続きますように)
アルタイルは小さく祈るように目を閉じた。
母と妹の笑い声が、
春の光と混じり合い、
胸の奥でやさしく響き続けていた。
陽の落ちかけた午後、
レギュラス・ブラックは重厚な机の上に広げられた羊皮紙の束を無造作に払いのけた。
ロズィエ家から届いた便り――あの赤い封蝋を見ただけで、もはや頭痛がする。
彼らの文面はいつも同じだった。
冷たく、整然とした書体で、血統の誇りと家の名誉ばかりを語る。
その実、文の裏には、侮蔑と怒りが透けて見える。
――あの使用人の女を妃に据え、その子を当主にした。
この不名誉を、どう償うつもりか。
レギュラスは無言で手紙を丸めた。
インクの匂いが指先に残る。
確かに、アランを妃として迎えたことは、
ロズィエ家の誇りに対する裏切りだったのかもしれない。
彼らから見れば、正妻であるカサンドラを無碍にした愚行。
そして――母ヴァルブルガからも、何度同じ非難を浴びせられたことだろう。
「ロズィエの娘を正妻に迎えながら、
なぜあのような身分の女を屋敷に置いたのか。」
母の声が今も耳に残る。
あの鋭い眼差し、冷たい声音。
息子の判断を愚行と決めつけ、家の名を穢す行いだと断じる声。
少年のころから、母の前では常に“正しさ”を装うしかなかった。
母の愛は厳格であり、それはまるで“完璧”という名の呪いのように彼を縛っていた。
それでも、アランを選んだことに悔いはなかった。
彼女を妃にし、その子――アルタイルを当主として育て上げた。
それが間違いだったとは、今でも思わない。
ロズィエ家の娘リディアには、
その血に相応しい未来を与えよう。
最上の家に嫁がせ、名誉と安寧を保障する。
それこそが、自分にできる唯一の“愛”であり“償い”だった。
けれど、アルタイルを――
あの美しい瞳を持つ少年を――
今さら玉座から降ろすことなど、できるはずがなかった。
十年以上も、我が子として抱きしめ、育ててきた。
その笑い声を聞くたびに、胸の奥に灯がともった。
たとえ真実の血が違っていようとも、
レギュラスにとっては紛れもなく、息子だった。
だが、“完璧であること”は、常に彼の鎖だった。
レギュラス・ブラックという人間は、
“完璧でなければならない”。
それが、母ヴァルブルガが息子に刻んだ宿命。
使用人上がりの女を妃に迎えた“愚か者”と指を差されるわけにはいかない。
誰よりも美しい妻を持ち、
健やかな男児をもうけ、
優れた知性と統率力を備えた当主――
それこそが“理想のブラック”なのだ。
もしここでアルタイルを降ろすような真似をすれば、
自分はただの男に堕ちる。
“私生児を孕ませただけの愚物”として記録される。
アルタイルが屋敷を去れば、アランもまた、この家を出るだろう。
その未来は、考えるだけで寒気がした。
ふと、幼い声がした。
「お父様!」
振り向けば、リディアが両手を広げて立っていた。
白いドレスの裾を揺らしながら、
まるで光そのもののように笑っている。
「お兄様が褒めてくださったの!
ほら見て、お花を咲かせる魔法、できたのよ!」
小さな掌に淡い光が宿る。
花弁がひとひら、ふわりと開く。
それは、アランがよく使って見せていた魔法だった。
彼女は、戦いや力の魔法よりも、
美しいもの、やさしいものを好む人だった。
それを、リディアが真似ている。
レギュラスは微笑んで、その小さな手を包む。
「ええ、すごく上手ですよ。
あなたに似て、可愛らしい花です。」
リディアは頬を染めて笑った。
その姿に、カサンドラの面影がよぎる。
ロズィエ家の血が濃いせいだろう、
横顔の輪郭や睫毛の形までよく似ていた。
――この子の未来だけは、確かなものにしてやらねばならない。
そう強く思う。
自分がカサンドラを幸せにできなかった。
その罪を、娘の幸福で贖うしかない。
だが、皮肉なものだった。
自分の血を継ぐ子よりも、
愛する女が他の男と成した子を――
心の底から愛おしいと思っている。
その事実に気づくたび、
胸の奥が鈍く痛む。
完璧であることが、
これほど孤独なものだとは、
少年の頃、ヴァルブルガの監視の下にいた自分には想像もできなかった。
窓辺の陽光が、静かに傾いていく。
レギュラスはリディアを抱き上げながら、
その光の向こうに、
もう二度と取り戻せぬ穏やかな日々の幻を見ていた。
その日、魔法省の大広間は異様な熱気に包まれていた。
煌びやかなシャンデリアの光が、集まった純血の名家たちの金糸や宝石を照らし出し、
ざわめきの中に息を呑む音が混じる。
レギュラス・ブラックが――ついに、アラン・ブラックを公の場に伴って現れたのだ。
これまで彼女の存在は、屋敷の中でも“影”のようなものだった。
その顔を見たことがある者など、ほとんどいない。
だからこそ、想像ばかりが独り歩きしていた。
「使用人の出だというじゃないか」
「ロズィエ家の正妻を差し置いて妃に昇るなんて――」
「欲に取り憑かれた女だ」
そんな言葉が長い年月、貴族たちの酒席を賑わせてきた。
けれど、今。
実際にその姿を目にした者たちは、誰もが息を止めた。
白磁のように滑らかな肌。
夜の闇を思わせる黒髪が肩に流れ、
深い翡翠の瞳には、静かな知性と深淵が宿っていた。
華やかでありながら、決して押し出しの強くないその存在感――
ただ一歩、レギュラスの隣を歩くだけで、空気そのものが変わる。
“使用人の娘”ではない。
“魔法界を統べる女”の風格があった。
彼女は静かに会釈しながら、
誰にも媚びず、誰にも怯えず、
その歩みを一歩ずつ確かめるように進んでいく。
手を引くレギュラスの表情は穏やかで、
その眼差しはまるで、世界で最も美しいものを見守るようだった。
ざわめきが、感嘆に変わる。
「なんと……」
「美しい……」
その場にいた者たちは、もう二度と“使用人の出”などと軽んじることはできなかった。
アラン・ブラックという名が、
その瞬間、魔法界の最上層に刻み込まれたのだ。
バーテミウスは、杯を傾けながら思わず感嘆の息を漏らした。
闇の帝王の屋敷で拷問にかけられていた女――
あの惨状を、誰がこの光の中の姿と結びつけられるだろう。
彼女は奇跡のように蘇り、
今ではブラック家の当主に愛され、
息子を時期当主にまで押し上げた。
すでにこの魔法界で、
名実ともにすべてを掌中に収めた女。
(……まさに、栄光の化身だ)
そう思わずにはいられなかった。
まるで“闇を愛した女”というかつての噂を塗り替えるように、
アランは眩しいほどに“光”の側へと立っていた。
「いやー、君は本当にやり手だ。」
隣に歩み寄ったバーテミウスが、軽い調子で言葉を投げる。
アランは微笑んで、ほんの少しだけ首を振った。
「やめてください。」
その声音には、誇りでも傲慢でもなく、
深く静かな謙遜が滲んでいた。
――もはや謙遜など、必要ないほどに。
栄光と美しさを兼ね備えた彼女の姿は、
誰の目にも「ブラック家の妃」として、
完全にふさわしいものだった。
バーテミウスは思う。
この女は、決して“奪われた側”ではない。
彼女こそ、あのレギュラス・ブラックという男を動かし、
魔法界の運命をも揺るがす“静かな支配者”なのだと。
その夜、広間に鳴り響いた拍手と囁きは、
アラン・ブラックという名を永遠に魔法界の中心へと押し上げた。
荘厳な音楽が流れる。
天井から吊るされた無数の魔法灯が、柔らかく宙を漂い、銀糸のような光をきらめかせていた。
レギュラスに手を引かれ、アラン・ブラックは広間の扉をくぐる。
瞬間、空気が変わった。
煌めく視線が一斉に彼女へと注がれる。
目が眩むほどの光景だった。
クリスタルの杯、金の燭台、咲き乱れる百合の花。
純血の名家たちが立ち並ぶその場で、レギュラス・ブラックは誰よりも眩しかった。
彼は今夜、すべてを手にした男として立っていた。
完璧な姿勢、揺るぎない眼差し、そして誇り高い微笑。
まるで闇と光の境界をものともせず、世界の中心に立つ王のようだった。
アランはその隣に立ちながら、息をひそめるように微笑む。
胸の奥が静かに軋む。
――この夜を、きっと彼は永遠に忘れないだろう。
壇上で、レギュラスは息子の名を呼んだ。
「アルタイル・ブラック。」
静寂が訪れる。
金色の光に包まれて、アルタイルが一歩を踏み出す。
深い緑のローブに身を包み、黒曜石の髪を背に流すその姿は、
幼い頃の面影を残しながらも、すでに青年の威厳を帯びていた。
「今日をもって、アルタイル・ブラックを我が家の正式な後継者として認めます。」
その声は凛として響いた。
会場の空気が震え、次の瞬間、拍手が鳴り響く。
魔法新聞社の記者たちがペンを走らせ、
“ブラック家の未来、ここに誕生”という見出しがもう目に浮かぶようだった。
アルタイルの名は、この夜を境に魔法界の隅々まで知れ渡るだろう。
壇上の父子の姿は、まるで絵画のようだった。
父が息子の背を支え、軽く肩に手を置く。
その仕草に、確かな誇りと愛情がにじんでいた。
「アルタイル、緊張していますか?」
「はい。でも……父さんに恥をかかせたくないです。」
「そんなことは考えなくていいのです。今日はあなたのための夜だ。楽しみなさい。」
その柔らかな声に、アルタイルの肩の力が少しだけ抜けた。
二人を照らす光が重なり合い、
まるで時間そのものがその瞬間を祝福しているようだった。
――美しい親子。完璧な後継。非の打ちどころのない未来。
だが、アランの胸には静かな恐怖が渦巻いていた。
拍手の渦の中で、彼女はそっと手を握りしめる。
指先が冷たい。
息が浅くなる。
アルタイルが遠ざかっていく――
そんな予感が、どうしても拭えなかった。
あの子はもう、手の届く場所にはいない。
優しく微笑む彼の瞳の奥から、
少しずつシリウスの面影が消えていく。
あの銀灰色の光が、闇の奥に飲まれていく。
――このまま、父の影を追っていけば。
アルタイルはきっと、闇の帝王に跪く。
マグルを殺し、純血を称え、
母が憎み、シリウスが拒んだ道を歩んでしまうのかもしれない。
シリウスが命を懸けて守ろうとした“自由”と、
レギュラスが誇りとして掲げる“秩序”――
二つの理想の狭間で、アルタイルはどちらの血に導かれるのだろう。
拍手が響き、金の光が弾ける。
笑顔の海の中で、アランはただ一人、沈黙していた。
彼女の中で、歓喜と恐怖が同じ形をして膨らんでいく。
この夜、確かに息子は“未来”を手にした。
だが同時に、母の胸の中の“子供”は永遠に失われたのだ。
アランは目を伏せ、祈るように呟いた。
――どうか、彼が光の中で、闇を選ばぬように。
新聞の紙面をめくると、インクの香りが静かに立ちのぼった。
朝の光が斜めに差し込む居間で、シリウス・ブラックは指先を止めた。
そこには見慣れぬほど鮮やかな写真があった――レギュラス・ブラックと、その妃アラン・ブラック。
そして、“ブラック家の新たな後継、アルタイル・ブラック”という金色の見出し。
アランの姿は魔法写真の中で微かに動き、
穏やかに笑みを浮かべては、隣に立つレギュラスに視線を向けていた。
ドレスの襟元から肩へ流れる黒髪が光を受けて艶やかに揺れる。
まるで時間が彼女だけを老いから遠ざけたようだった。
――十年以上、会っていない。
それなのに、その姿を見ただけで胸が苦しくなる。
あの日と同じ、いや、むしろ今のほうが美しい。
目が離せなかった。
彼女は今も、自分の胸を縛りつけたまま離してくれない。
「綺麗な人だね。」
ふいに隣から声がした。
ハリーだった。
まだ幼さの残る声で、写真のアランをじっと見つめている。
その真っ直ぐな眼差しに、シリウスは思わず苦笑した。
「お前、見るなよ。」
慌てて新聞をたたみ、テーブルに伏せる。
「なになに、シリウスのタイプってああいう人なの?」
茶化すように言うハリーの声が、やけに響いた。
「そんなわけないだろう。」
咄嗟に言い返したものの、声の端が震えた。
自分でも分かっている。
嘘だ。
そこへ、奥からジェームズが入ってきた。
彼は苦い顔で新聞の表紙をちらりと見て言った。
「その女は闇の魔法使いの妻だ。
軽々しく口にするもんじゃない、ハリー。」
その声には、露骨な嫌悪が混じっていた。
十年前のあの夜――
ヴォルデモートがポッター家を襲撃したあの瞬間、
アランが情報を漏らしてくれたおかげで、ジェームズとその家族は助かった。
それでも彼は言っていた。
「感謝はしてる。だが、好きにはなれない。」
その言葉を聞いたとき、シリウスは何も言えなかった。
胸の奥を、見えない刃で静かに切り裂かれたような痛みだけが残った。
ジェームズの気持ちはわかる。
あれほどの悲劇を経てなお、
自分が“彼女を想い続けている”ことに、親友は気づいている。
そして、その哀れさが、きっと彼には耐え難いのだろう。
アランの微笑む写真が、机の上でひとり揺れている。
その背後でレギュラスが誇らしげに立っている。
――あの弟が、ついに全てを手にしたのだ。
地位も、名誉も、そして……彼女も。
胸の奥で何かがきしんだ。
それが嫉妬なのか、羨望なのか、もう自分でも分からない。
ただ、新聞を折り畳む手が震えていた。
「……綺麗な人だな。」
誰にも聞こえないほどの声で、
シリウスはもう一度だけそう呟いた。
それは、祈りにも似た告白だった。
午後の図書館には、冬の陽が斜めに差し込んでいた。
高い天井から吊るされたランプの光が、積み上げられた本の背を淡く照らしている。
ハリー・ポッターは静まり返った閲覧室の隅で、古びた羊皮紙の束を手にしていた。
表紙には金の文字でこう記されている。
「魔力伝導と魂結合の相関について――アラン・セシール」
指先でその名をなぞる。
インクは時を経て少し掠れていたが、書き手の筆圧の強さがまだ感じられた。
ページを開くと、整然とした魔法陣の図と、緻密な考察の文字が続く。
どの文も理路整然としていて、選ばれた言葉は驚くほど美しかった。
ただ知識を並べるのではなく、魔法そのものに“祈り”のような感情を宿している――そんな印象を受けた。
この人は、きっと努力家で、とても繊細な魔法使いだったんだろうな。
そう思うと、胸の奥が少し温かくなる。
その時、後ろから声がした。
「何を読んでるの?」
振り返るとハーマイオニーが立っていた。腕に数冊の本を抱え、興味深そうにハリーの手元を覗き込む。
「あ、いや。ちょっと……興味深い論文を見つけてさ。」
「誰の?」
「アラン・セシール。」
その名を口にした瞬間、ハーマイオニーの眉がぴくりと動いた。
「――ああ、リシェル・ブラウンの娘ね。」
「誰だよそれ?」と、向かいの席で居眠りしていたロンが顔を上げる。
ハリーも首をかしげた。
「僕も聞いたことないな。」
ハーマイオニーは、呆れたようにため息をついた。
「ほんっとにあなたたちって何も知らないのね。
リシェル・ブラウンは一つ前の王朝を崩壊させた女よ。妃を差し置いて王の寵愛を独占したの。まるで東の国の伝説に出てくる女王みたいな人だったの。」
「へぇ……そんなに綺麗だったのか。」
ハリーの素直な感想に、ハーマイオニーは即座に返す。
「そこ?!」
ロンは、目を丸くしながら聞いていた。
「で、その王朝はどうなったんだ?」
「リシェル・ブラウンも処刑されたわ。そして新しい王朝が建ったの。
……ほんと、少しは歴史を勉強しなさいよ。」
ハーマイオニーの口調は冷ややかだったが、ハリーの頭の中には別の疑問が浮かんでいた。
リシェル・ブラウン――そんな波乱の女の娘が、のちにブラック家の当主の心を射止め、
さらに次の当主を産むなんて。
それは偶然ではなく、何か大きな運命の糸に導かれていたように思えた。
彼女――アラン・ブラック。
その名を耳にした時、ハリーの胸の奥にわずかなざわめきが起こる。
新聞で見た彼女の記事。
父ジェームズの険しい横顔。
そして、シリウスが無言でその写真を見つめていたあの夜。
二人の親友が同じ女を知っていて、
一方は名を避け、もう一方は沈黙のまま思い続けている――
それは、少年の理解を超えた大人の沈黙だった。
アラン・セシール。
その名の響きが、今も図書館の空気の中で揺れている気がした。
ページをめくるたびに、彼女の筆跡から
知性と孤独、そしてどこか遠い痛みのようなものが立ち上ってくる。
どんな人だったんだろう。
ホグワーツで、どんな風に笑っていたんだろう。
ハリーは知らないままに、その名に惹かれていく。
まるで、過去のどこかに閉じ込められた光を手に取るように。
静寂の中で、彼はそっと呟いた。
「……アラン・セシール。」
その名を呼ぶ声は、誰にも届かず、
古い図書館のページを揺らして消えていった。
屋敷には、連日祝いの品が届いていた。
銀のリボンがかけられた箱、煌びやかな花束、魔法細工の装飾品。
そして、最も多かったのは各地から贈られてきた酒だった。
年代物のワイン、黄金色の蜂蜜酒、蒸留香草酒――どれも香り高く、
「ブラック家の未来の当主」に対する敬意と羨望が詰め込まれた贈り物だった。
レギュラス・ブラックは昼の陽光の中で、その一本を選び、
ためらいもなく栓を抜いた。
芳香がすぐに広がる。
熟れた果実のように甘く、けれど深い苦味を含んだ香り。
杯に注がれた金色の液体を指先で傾けると、光がゆらりと揺れた。
「体に良くないわ。」
背後からアランの声がした。
柔らかな声だが、その奥に心配の色がにじんでいる。
「そんなに飲まないようにしますから。」
レギュラスは軽く笑い、杯を揺らした。
その微笑は、穏やかさと疲労とがないまぜになったものだった。
アランが部屋を出ようとする。
その手を、彼はそっと引いた。
振り返ったアランの翡翠色の瞳が、問いかけるように揺れる。
レギュラスは言葉を挟まず、唇を寄せた。
ただ静かに――愛しさを確かめるように。
「少し、付き合ってください。」
彼の声は低く、どこか寂しげだった。
アランはほんの一瞬だけ目を伏せ、それから静かに頷いた。
二人の間を、酒の香りが満たしていく。
「そういえば、あなたに贈ったドレスがもう何着かありましたね。」
レギュラスはゆっくりと椅子に腰掛けながら、
金の縁取りのあるグラスを眺めた。
「それ、着て見せてくれませんか?」
アランは少し驚いた顔をした。
だが、彼の目の奥にある真摯な光を見て、
何も言わずに寝室へと消えていった。
数分後、ドアが開く。
アランが現れた。
柔らかな藤色のドレス。
肩から流れる黒髪が光を受けて艶やかに波打ち、
胸元には薄絹のレースが淡く透けている。
彼女が一歩進むごとに、布が静かに音を立てて揺れた。
レギュラスは杯を口に運ぼうとして、
そのまま手を止めた。
飲み込むはずの酒が喉の奥で動かない。
息が詰まるほどだった。
まるで、あの夜――宴で彼女が現れた瞬間のように。
黄金の光を背に、すべての視線を奪ってしまうような美しさ。
それが今、ただ二人きりの部屋で静かに再現されていた。
「……そっちも、いいですね。」
声がかすれる。
アランは微笑むでもなく、ただ静かに彼を見ていた。
その沈黙が、言葉よりも雄弁だった。
レギュラスの中で、何かが満ちていく。
酒の香り、彼女の姿、そして胸の奥に流れる穏やかな余韻。
どれもが、この上なく甘美で、同時にどこか儚かった。
こんなにも美しい時間が、永遠に続けばいいのに。
彼はそっと杯を置き、アランの手を取った。
指先をなぞると、彼女の肌がひどく温かかった。
外ではまだ昼の光が満ちている。
けれど、この部屋の中では、もう夜のように静かだった。
その静寂の中で、レギュラスはただひとり、
満たされた男の顔をしていた。
夕刻、長いテーブルの上に並べられた銀の燭台が淡い灯りを放っていた。
天井の高い食堂には、肉と香草の匂い、そしてほのかな葡萄酒の香りが混じっている。
その香りの中に、アルタイルは確かに酒の匂いを嗅ぎ取った。
父――レギュラス・ブラックは上機嫌そうに杯を傾け、
珍しく笑みを浮かべていた。
「お父様、お酒飲んでるのね。」
リディアが無邪気に言って、楽しげに笑う。
その笑顔は本当に可愛らしかった。
柔らかな金の髪が光を受けてきらきらと揺れ、
ドレスの袖口から覗く小さな指が、スープの匙を上品に握っている。
見ているだけで、胸が温かくなる――
けれど同時に、胸の奥に痛みが走る。
この妹を差し置いて、
自分がブラック家の次期当主として名を挙げられてしまった。
父も母もそのことを誇らしげに受け止めてくれているが、
カサンドラ夫人の冷ややかな視線を感じるたび、
アルタイルはどうしようもない罪悪感に押し潰されそうになる。
祝いの品が屋敷に届くたびに、
胸の奥が締めつけられるようだった。
誰もが“ブラック家の未来”と称えるその贈り物たちが、
自分の肩に降り積もる重荷のように思えた。
向かいに座る母――アランは、
静かにナプキンを膝に置き、食卓に手を添えていた。
以前よりも伏せることが少なくなった。
それでも、どこか遠くを見ているような眼差しをしている。
顔色も少し悪い。
それに気づきながらも、アルタイルは心の中で
「気のせいだ」と何度も言い聞かせていた。
「母さん。……食べてますか?」
声をかけると、アランは穏やかに微笑んだ。
「ええ、私のことより――アルタイル。あなたのほうこそ、たくさん食べてください。」
その優しい声に、胸が詰まる。
母の食が細くなっていることを、
アルタイルは誰よりも知っていた。
それでも彼女は、自分のことより他人を案じる。
まるで、身を削ってまで誰かの幸福を守ろうとする人のように。
レギュラスはそんな二人を見ていたが、
何も言わなかった。
杯を傾け、ワインの赤が薄い唇を濡らす。
その表情には満足げな影があり、
何もかも順調であるという確信に満ちていた。
けれどアルタイルには、
父と母の間に横たわる静かな溝が見えた。
言葉では交わされない違和感。
食卓の上に広がる沈黙が、
ナイフとフォークの音だけを際立たせていた。
――幸福なはずの晩餐だった。
それなのに、
アルタイルの胸には重いものが積もっていくばかりだった。
母の皿の上に残った肉片。
父の杯に満たされた酒の赤。
妹の笑い声。
そのすべてが、
どこか遠い世界の出来事のように感じられた。
机の上に、古びた新聞や雑誌が何冊も積み重なっていた。
端は少し黄ばんでいて、紙の角は何度もめくられた跡がついている。
それらの全てに共通していたのは――ひとりの女の名だった。
アラン・ブラック。
シリウスはため息をつきながら、一番上の新聞を手に取った。
記事の見出しは、最近発表されたブラック家の後継――アルタイル・ブラックを讃えるもの。
だがシリウスが目を止めるのは、そこに添えられた一枚の写真だった。
淡い光の下で、黒髪の女が静かに微笑んでいる。
横顔。
それだけなのに、胸が痛くなるほど美しかった。
――馬鹿だな、俺は。
我ながら気持ちの悪いことをしているという自覚はあった。
こんなふうに、彼女の記事を集めて切り抜いては封筒に仕舞うなんて。
それでも、もう今はこうして紙の中でしか彼女に会えない。
誰にも迷惑をかけていない――そう自分に言い訳をしながら、
シリウスは今日もまた新しい記事を挟み込んだ。
あの夜のことを思い出す。
炎に照らされた彼女の瞳。
笑い声。
指先。
もう二度と戻らない光景。
「綺麗な人だな。」
以前、ハリーが何気なく言った言葉が蘇る。
あの無邪気な一言に、胸の奥が締めつけられた。
――あぁ、ジェームズがいなければ。
彼女と出会ったあの頃の自分を、語り尽くしたかった。
どんなに愚かでも、あの瞬間の想いをもう一度誰かに伝えたかった。
だがそれを言葉にすれば、親友を裏切ることになる。
彼女を穢すことにもなる。
だから黙って、ただ新聞を畳んで、夜の静けさに沈むしかなかった。
記事の中には、アルタイルの写真も載っている。
端正な顔立ち。
冷たいほど整った灰色の瞳。
――レギュラスによく似ている。
分かっている。
アランは彼の妻だ。
そしてあの少年は、彼女が愛した男との間に生まれた子だ。
それでも写真を見ていると、どうしても心がざわめく。
もしも、もしもあの時――彼女が自分を選んでいたら。
彼女と結婚して、子をもうけて、
笑い合う未来が本当にあったのだろうか。
馬鹿げている。
分かっているのに、考えずにはいられない。
アルタイル・ブラック。
その名を小さく呟く。
――どうか彼が、あの屋敷の中で光となってくれますように。
あの屋敷で、孤独に押しつぶされそうなアランを守る男に成長してほしい。
それが、彼女を救えなかった自分にできる
ただ一つの祈りのようなものだった。
シリウスはそっと写真を封筒に戻した。
ランプの明かりが彼の指先を照らす。
その手は、かつて誰かを抱きしめようとして届かなかった手――
今もなお、空を掴むように震えていた。
薄明の光が差し込む騎士団の本部。
壁一面に貼られた地図の上では、いくつもの赤い印が線で繋がれていた。
それはすべて――闇の魔法使いたちが関与しているとされる事件の発生地点を示していた。
不気味なほど整然とした配置。それは偶然ではなかった。
「また一件、行方不明者が出た。」
リーマスの声が響く。
机の上には、被害者の名が記された報告書。
どの事件も、決定的な証拠は何一つ残されていない。
まるで闇そのものが、人を呑み込んだようだった。
ハリー・ポッター――“生き残った男の子”。
彼の存在が、ヴォルデモートを再び完全な力を呼び覚ます鍵になるのではないか。
それは誰もが抱いている不安であり、確信でもあった。
少年の命は、これから先も永遠に狙われ続けるだろう。
闇の帝王を討つためには、その影を徹底的に洗い出さねばならない。
ジェームズ・ポッターは、報告書を閉じた。
「ヴォルデモートを倒すには――やはり、まずは彼らを捕らえなければならない。」
声には疲労と焦燥が滲んでいた。
闇の魔法使いを一人ひとり捉え、その先にある本丸へと辿り着く。
その道は、長く、危険で、果てしない。
だがジェームズには、一人の名が頭を離れなかった。
レギュラス・ブラック。
十年以上、彼を追ってきた。
けれど、何も掴めなかった。
レギュラスはあまりにも用心深く、
一切の隙を見せない。
表の顔は、神秘部の優秀な調査官。
裏の顔は――闇の帝王の分霊箱を守る最後の男。
あと一歩。
その一歩を踏み込めないまま、十年という時が過ぎた。
ジェームズはゆっくりと立ち上がり、
壁の地図を見つめた。
針のように突き刺さる赤い印。
そのすべての中心に、
一つの名を思い浮かべる。
――アラン・ブラック。
レギュラスが最も愛し、
そして最も守り続けた女。
かつて闇の帝王に逆らい、
騎士団に情報を漏らした裏切り者。
本来なら処刑されていてもおかしくなかった彼女を、
レギュラスは救い出した。
命を賭して。
あの男が、あれほどまでに執着する理由は何か。
愛だけではない。
何か、もっと深い秘密がある。
「彼女を探る。」
ジェームズは呟いた。
「アラン・ブラックを調べれば、レギュラスの本当の狙いが見えてくるはずだ。」
「確かに君の言っていることはもっともだが……」
リーマスが腕を組む。
「アラン・ブラックは、そんなに出歩いていないようだけど。どうやって接触するんだい?」
ジェームズは小さく笑った。
「そこなんだよ。記者を買収して、取材という名目で彼女に会う。
一度だけの手だけど……直に会える。」
リーマスはため息をついた。
「一回しか使えない手だね。」
「十分だ。」
ジェームズの瞳に光が宿る。
「一度でいい。たった一度でも――彼女の目を見れば分かる。
あの家に潜む闇の真実が、きっと。」
外では冷たい風が吹いていた。
窓の外に沈む夕陽が、遠い森を朱く染めている。
ジェームズはコートを羽織り、帽子を被った。
この十年で何度も諦めかけた。
だが今日、初めて違う道が見えた気がした。
――レギュラス・ブラックには、決して手が届かない。
ならばその“心臓”を狙う。
彼の歩みは静かだった。
だがその一歩一歩が、確実に運命を揺らしていった。
ランプの灯が柔らかく寝室の壁を照らしていた。
書斎から戻ったばかりのレギュラスは、手にした封筒を静かに机の上に置く。
それは魔法新聞社から届いた正式な取材依頼状だった。
「あなたに取材をという雑誌の記者からの依頼がありますが……どうします?」
そう言って、レギュラスはベッドの縁に腰を下ろし、
読み終えた手紙をアランの前へ差し出した。
手紙には、こう書かれていた。
“使用人の家の出でありながら、名門ブラック家の妻に選ばれた美しき女性。
奇跡のようなシンデレラストーリーを、ぜひ本誌で取り上げたい。”
文章を目にした瞬間、レギュラスの唇にはわずかな笑みが浮かんだ。
それはまるで、自分の選択が正しかったことを
世間がようやく証明してくれたような気がしたからだ。
美しい妻。敬愛される家。誇り高き血統。
全てが調和し、完璧な絵画のように収まっている。
「……取材?」
アランは手紙を見つめ、かすかに眉を寄せた。
声の奥には、どこか怯えにも似た響きがあった。
人前に出ることを好まぬ彼女の反応は、レギュラスにとって予想通りだった。
「それなら、一緒に出るのはどうです?」
彼は穏やかに言葉を重ねた。
「あなたが話せないなら、僕が代わりに語ります。
あなたの人生を、僕の言葉で。」
アランは視線を落としたまま、
しばらく沈黙していた。
彼女の指先が膝の上で小さく震えている。
拒絶ではない――ただ、どこか遠くの光を見つめているような瞳だった。
レギュラスはその沈黙の意味を、
自分に対する控えめな遠慮だと受け取った。
だが、彼の心の奥底では別の炎が静かに燃えていた。
――シリウス・ブラック。
かつて手に入れられなかった女。
あの男が、この現実を知ったらどう思うだろう。
かつて自分のものにできなかった女が、
今や自分の隣で微笑み、
ブラックの名を冠した家の妻として立っている。
悔しさに顔を歪めるあの姿を想像すると、
胸の奥で小さく笑みがこぼれる。
あの男が見られなかった“幸福”を、
自分がこの手で見せつけてやるのだ。
「じゃあ……僕が贈ったドレスで、この取材を一緒に受けてくれませんか?」
アランは顔を上げた。
光を受けた黒髪が、波のように揺れた。
その瞳には、戸惑いと優しさと、
そして抗いようのない運命への諦めが入り混じっていた。
「……わかりました。」
小さな声でそう答え、アランは静かに頷いた。
その瞬間、レギュラスの胸に満ちるものがあった。
勝利のような、満足のような、そして――どこか哀しい充足。
彼はアランの手を取り、
その指先に唇を寄せた。
夜の帳がゆっくりと落ちていく。
遠くで時計の針が時を刻む音がする。
二人の間には、言葉にならない静寂が流れていた。
――この沈黙こそが、
彼らの絆の証であり、また、終わりの始まりでもあった。
押し殺したような、それでいて震える声。
聞くつもりはなかった――けれど、足が勝手に止まってしまった。
「……リディアは、望まれなかった子なのでしょうか」
カサンドラ・ブラックの声だった。
低く、痛切な響きが、厚い扉をすり抜けてアルタイルの胸を刺した。
隣室にいる父の声は冷たく、短かった。
それ以上の言葉を交わさない沈黙が、
まるで“答え”そのもののように響いた。
扉の外に立つアルタイルの手が、ゆっくりと震えた。
何かを掴もうとしても、指先から力が抜けていく。
――自分の命は、決して“望まれて”ばかりいたわけではなかったのだ。
頭ではずっと理解していた。
けれど今、それが現実として胸に落ちていく。
冷たい現実の破片が、静かに心臓を裂くようだった。
ロズィエ家の人々が自分をどう思っているのか――
カサンドラが、どんな想いで自分を迎えたのか――
それを、今この瞬間、痛いほど理解してしまった。
幼い頃から、カサンドラは礼節を重んじ、
常に上品で、距離のある態度で接してきた。
それが礼儀だと思っていた。
だが、もしかするとそれは――愛し方を知らなかっただけなのかもしれない。
(自分は、この家にとって“外の血”なのだ)
胸の奥で何かが崩れた。
それでもアルタイルは、静かに踵を返し、
扉に背を向けた。
階段を下り、長い廊下を抜け、
居間へ戻ると、陽光が差し込んでいた。
大理石の床に反射した光が、金色の粒となって揺れている。
「お兄様、聞いて!」
小さな足音が駆け寄ってきた。
リディアが、母アランと一緒にいた。
白いドレスの裾がふわりと舞い、
手のひらの上に淡い花弁が咲いている。
「アラン様に教えてもらったのよ!」
リディアは嬉しそうに笑い、掌をこちらに差し出した。
手のひらの上で、小さな花がゆらりと開く。
薄桃色の光を帯びた魔法の花弁は、
春の風にそっと溶けていくようだった。
母アランは穏やかに笑いながら見守っている。
彼女の瞳の中に宿る光は、
何よりも優しく、そしてあたたかかった。
アルタイルは膝を折り、
リディアの小さな手を包み込む。
「きれいですね、リディア。とても上手です。」
そう言うと、リディアの頬がぱっと輝いた。
その無邪気な笑顔に、
ほんの少しだけ胸の痛みが和らぐ気がした。
アランが微笑む。
窓の外では風が庭を渡り、
桜色の花びらをゆっくりと舞い上げていた。
――これが、家族というものなのだろうか。
どこにでもあるような、
穏やかで、何気ない時間。
けれど、それが何よりも尊く思えた。
(どうか、この時間がずっと続きますように)
アルタイルは小さく祈るように目を閉じた。
母と妹の笑い声が、
春の光と混じり合い、
胸の奥でやさしく響き続けていた。
陽の落ちかけた午後、
レギュラス・ブラックは重厚な机の上に広げられた羊皮紙の束を無造作に払いのけた。
ロズィエ家から届いた便り――あの赤い封蝋を見ただけで、もはや頭痛がする。
彼らの文面はいつも同じだった。
冷たく、整然とした書体で、血統の誇りと家の名誉ばかりを語る。
その実、文の裏には、侮蔑と怒りが透けて見える。
――あの使用人の女を妃に据え、その子を当主にした。
この不名誉を、どう償うつもりか。
レギュラスは無言で手紙を丸めた。
インクの匂いが指先に残る。
確かに、アランを妃として迎えたことは、
ロズィエ家の誇りに対する裏切りだったのかもしれない。
彼らから見れば、正妻であるカサンドラを無碍にした愚行。
そして――母ヴァルブルガからも、何度同じ非難を浴びせられたことだろう。
「ロズィエの娘を正妻に迎えながら、
なぜあのような身分の女を屋敷に置いたのか。」
母の声が今も耳に残る。
あの鋭い眼差し、冷たい声音。
息子の判断を愚行と決めつけ、家の名を穢す行いだと断じる声。
少年のころから、母の前では常に“正しさ”を装うしかなかった。
母の愛は厳格であり、それはまるで“完璧”という名の呪いのように彼を縛っていた。
それでも、アランを選んだことに悔いはなかった。
彼女を妃にし、その子――アルタイルを当主として育て上げた。
それが間違いだったとは、今でも思わない。
ロズィエ家の娘リディアには、
その血に相応しい未来を与えよう。
最上の家に嫁がせ、名誉と安寧を保障する。
それこそが、自分にできる唯一の“愛”であり“償い”だった。
けれど、アルタイルを――
あの美しい瞳を持つ少年を――
今さら玉座から降ろすことなど、できるはずがなかった。
十年以上も、我が子として抱きしめ、育ててきた。
その笑い声を聞くたびに、胸の奥に灯がともった。
たとえ真実の血が違っていようとも、
レギュラスにとっては紛れもなく、息子だった。
だが、“完璧であること”は、常に彼の鎖だった。
レギュラス・ブラックという人間は、
“完璧でなければならない”。
それが、母ヴァルブルガが息子に刻んだ宿命。
使用人上がりの女を妃に迎えた“愚か者”と指を差されるわけにはいかない。
誰よりも美しい妻を持ち、
健やかな男児をもうけ、
優れた知性と統率力を備えた当主――
それこそが“理想のブラック”なのだ。
もしここでアルタイルを降ろすような真似をすれば、
自分はただの男に堕ちる。
“私生児を孕ませただけの愚物”として記録される。
アルタイルが屋敷を去れば、アランもまた、この家を出るだろう。
その未来は、考えるだけで寒気がした。
ふと、幼い声がした。
「お父様!」
振り向けば、リディアが両手を広げて立っていた。
白いドレスの裾を揺らしながら、
まるで光そのもののように笑っている。
「お兄様が褒めてくださったの!
ほら見て、お花を咲かせる魔法、できたのよ!」
小さな掌に淡い光が宿る。
花弁がひとひら、ふわりと開く。
それは、アランがよく使って見せていた魔法だった。
彼女は、戦いや力の魔法よりも、
美しいもの、やさしいものを好む人だった。
それを、リディアが真似ている。
レギュラスは微笑んで、その小さな手を包む。
「ええ、すごく上手ですよ。
あなたに似て、可愛らしい花です。」
リディアは頬を染めて笑った。
その姿に、カサンドラの面影がよぎる。
ロズィエ家の血が濃いせいだろう、
横顔の輪郭や睫毛の形までよく似ていた。
――この子の未来だけは、確かなものにしてやらねばならない。
そう強く思う。
自分がカサンドラを幸せにできなかった。
その罪を、娘の幸福で贖うしかない。
だが、皮肉なものだった。
自分の血を継ぐ子よりも、
愛する女が他の男と成した子を――
心の底から愛おしいと思っている。
その事実に気づくたび、
胸の奥が鈍く痛む。
完璧であることが、
これほど孤独なものだとは、
少年の頃、ヴァルブルガの監視の下にいた自分には想像もできなかった。
窓辺の陽光が、静かに傾いていく。
レギュラスはリディアを抱き上げながら、
その光の向こうに、
もう二度と取り戻せぬ穏やかな日々の幻を見ていた。
その日、魔法省の大広間は異様な熱気に包まれていた。
煌びやかなシャンデリアの光が、集まった純血の名家たちの金糸や宝石を照らし出し、
ざわめきの中に息を呑む音が混じる。
レギュラス・ブラックが――ついに、アラン・ブラックを公の場に伴って現れたのだ。
これまで彼女の存在は、屋敷の中でも“影”のようなものだった。
その顔を見たことがある者など、ほとんどいない。
だからこそ、想像ばかりが独り歩きしていた。
「使用人の出だというじゃないか」
「ロズィエ家の正妻を差し置いて妃に昇るなんて――」
「欲に取り憑かれた女だ」
そんな言葉が長い年月、貴族たちの酒席を賑わせてきた。
けれど、今。
実際にその姿を目にした者たちは、誰もが息を止めた。
白磁のように滑らかな肌。
夜の闇を思わせる黒髪が肩に流れ、
深い翡翠の瞳には、静かな知性と深淵が宿っていた。
華やかでありながら、決して押し出しの強くないその存在感――
ただ一歩、レギュラスの隣を歩くだけで、空気そのものが変わる。
“使用人の娘”ではない。
“魔法界を統べる女”の風格があった。
彼女は静かに会釈しながら、
誰にも媚びず、誰にも怯えず、
その歩みを一歩ずつ確かめるように進んでいく。
手を引くレギュラスの表情は穏やかで、
その眼差しはまるで、世界で最も美しいものを見守るようだった。
ざわめきが、感嘆に変わる。
「なんと……」
「美しい……」
その場にいた者たちは、もう二度と“使用人の出”などと軽んじることはできなかった。
アラン・ブラックという名が、
その瞬間、魔法界の最上層に刻み込まれたのだ。
バーテミウスは、杯を傾けながら思わず感嘆の息を漏らした。
闇の帝王の屋敷で拷問にかけられていた女――
あの惨状を、誰がこの光の中の姿と結びつけられるだろう。
彼女は奇跡のように蘇り、
今ではブラック家の当主に愛され、
息子を時期当主にまで押し上げた。
すでにこの魔法界で、
名実ともにすべてを掌中に収めた女。
(……まさに、栄光の化身だ)
そう思わずにはいられなかった。
まるで“闇を愛した女”というかつての噂を塗り替えるように、
アランは眩しいほどに“光”の側へと立っていた。
「いやー、君は本当にやり手だ。」
隣に歩み寄ったバーテミウスが、軽い調子で言葉を投げる。
アランは微笑んで、ほんの少しだけ首を振った。
「やめてください。」
その声音には、誇りでも傲慢でもなく、
深く静かな謙遜が滲んでいた。
――もはや謙遜など、必要ないほどに。
栄光と美しさを兼ね備えた彼女の姿は、
誰の目にも「ブラック家の妃」として、
完全にふさわしいものだった。
バーテミウスは思う。
この女は、決して“奪われた側”ではない。
彼女こそ、あのレギュラス・ブラックという男を動かし、
魔法界の運命をも揺るがす“静かな支配者”なのだと。
その夜、広間に鳴り響いた拍手と囁きは、
アラン・ブラックという名を永遠に魔法界の中心へと押し上げた。
荘厳な音楽が流れる。
天井から吊るされた無数の魔法灯が、柔らかく宙を漂い、銀糸のような光をきらめかせていた。
レギュラスに手を引かれ、アラン・ブラックは広間の扉をくぐる。
瞬間、空気が変わった。
煌めく視線が一斉に彼女へと注がれる。
目が眩むほどの光景だった。
クリスタルの杯、金の燭台、咲き乱れる百合の花。
純血の名家たちが立ち並ぶその場で、レギュラス・ブラックは誰よりも眩しかった。
彼は今夜、すべてを手にした男として立っていた。
完璧な姿勢、揺るぎない眼差し、そして誇り高い微笑。
まるで闇と光の境界をものともせず、世界の中心に立つ王のようだった。
アランはその隣に立ちながら、息をひそめるように微笑む。
胸の奥が静かに軋む。
――この夜を、きっと彼は永遠に忘れないだろう。
壇上で、レギュラスは息子の名を呼んだ。
「アルタイル・ブラック。」
静寂が訪れる。
金色の光に包まれて、アルタイルが一歩を踏み出す。
深い緑のローブに身を包み、黒曜石の髪を背に流すその姿は、
幼い頃の面影を残しながらも、すでに青年の威厳を帯びていた。
「今日をもって、アルタイル・ブラックを我が家の正式な後継者として認めます。」
その声は凛として響いた。
会場の空気が震え、次の瞬間、拍手が鳴り響く。
魔法新聞社の記者たちがペンを走らせ、
“ブラック家の未来、ここに誕生”という見出しがもう目に浮かぶようだった。
アルタイルの名は、この夜を境に魔法界の隅々まで知れ渡るだろう。
壇上の父子の姿は、まるで絵画のようだった。
父が息子の背を支え、軽く肩に手を置く。
その仕草に、確かな誇りと愛情がにじんでいた。
「アルタイル、緊張していますか?」
「はい。でも……父さんに恥をかかせたくないです。」
「そんなことは考えなくていいのです。今日はあなたのための夜だ。楽しみなさい。」
その柔らかな声に、アルタイルの肩の力が少しだけ抜けた。
二人を照らす光が重なり合い、
まるで時間そのものがその瞬間を祝福しているようだった。
――美しい親子。完璧な後継。非の打ちどころのない未来。
だが、アランの胸には静かな恐怖が渦巻いていた。
拍手の渦の中で、彼女はそっと手を握りしめる。
指先が冷たい。
息が浅くなる。
アルタイルが遠ざかっていく――
そんな予感が、どうしても拭えなかった。
あの子はもう、手の届く場所にはいない。
優しく微笑む彼の瞳の奥から、
少しずつシリウスの面影が消えていく。
あの銀灰色の光が、闇の奥に飲まれていく。
――このまま、父の影を追っていけば。
アルタイルはきっと、闇の帝王に跪く。
マグルを殺し、純血を称え、
母が憎み、シリウスが拒んだ道を歩んでしまうのかもしれない。
シリウスが命を懸けて守ろうとした“自由”と、
レギュラスが誇りとして掲げる“秩序”――
二つの理想の狭間で、アルタイルはどちらの血に導かれるのだろう。
拍手が響き、金の光が弾ける。
笑顔の海の中で、アランはただ一人、沈黙していた。
彼女の中で、歓喜と恐怖が同じ形をして膨らんでいく。
この夜、確かに息子は“未来”を手にした。
だが同時に、母の胸の中の“子供”は永遠に失われたのだ。
アランは目を伏せ、祈るように呟いた。
――どうか、彼が光の中で、闇を選ばぬように。
新聞の紙面をめくると、インクの香りが静かに立ちのぼった。
朝の光が斜めに差し込む居間で、シリウス・ブラックは指先を止めた。
そこには見慣れぬほど鮮やかな写真があった――レギュラス・ブラックと、その妃アラン・ブラック。
そして、“ブラック家の新たな後継、アルタイル・ブラック”という金色の見出し。
アランの姿は魔法写真の中で微かに動き、
穏やかに笑みを浮かべては、隣に立つレギュラスに視線を向けていた。
ドレスの襟元から肩へ流れる黒髪が光を受けて艶やかに揺れる。
まるで時間が彼女だけを老いから遠ざけたようだった。
――十年以上、会っていない。
それなのに、その姿を見ただけで胸が苦しくなる。
あの日と同じ、いや、むしろ今のほうが美しい。
目が離せなかった。
彼女は今も、自分の胸を縛りつけたまま離してくれない。
「綺麗な人だね。」
ふいに隣から声がした。
ハリーだった。
まだ幼さの残る声で、写真のアランをじっと見つめている。
その真っ直ぐな眼差しに、シリウスは思わず苦笑した。
「お前、見るなよ。」
慌てて新聞をたたみ、テーブルに伏せる。
「なになに、シリウスのタイプってああいう人なの?」
茶化すように言うハリーの声が、やけに響いた。
「そんなわけないだろう。」
咄嗟に言い返したものの、声の端が震えた。
自分でも分かっている。
嘘だ。
そこへ、奥からジェームズが入ってきた。
彼は苦い顔で新聞の表紙をちらりと見て言った。
「その女は闇の魔法使いの妻だ。
軽々しく口にするもんじゃない、ハリー。」
その声には、露骨な嫌悪が混じっていた。
十年前のあの夜――
ヴォルデモートがポッター家を襲撃したあの瞬間、
アランが情報を漏らしてくれたおかげで、ジェームズとその家族は助かった。
それでも彼は言っていた。
「感謝はしてる。だが、好きにはなれない。」
その言葉を聞いたとき、シリウスは何も言えなかった。
胸の奥を、見えない刃で静かに切り裂かれたような痛みだけが残った。
ジェームズの気持ちはわかる。
あれほどの悲劇を経てなお、
自分が“彼女を想い続けている”ことに、親友は気づいている。
そして、その哀れさが、きっと彼には耐え難いのだろう。
アランの微笑む写真が、机の上でひとり揺れている。
その背後でレギュラスが誇らしげに立っている。
――あの弟が、ついに全てを手にしたのだ。
地位も、名誉も、そして……彼女も。
胸の奥で何かがきしんだ。
それが嫉妬なのか、羨望なのか、もう自分でも分からない。
ただ、新聞を折り畳む手が震えていた。
「……綺麗な人だな。」
誰にも聞こえないほどの声で、
シリウスはもう一度だけそう呟いた。
それは、祈りにも似た告白だった。
午後の図書館には、冬の陽が斜めに差し込んでいた。
高い天井から吊るされたランプの光が、積み上げられた本の背を淡く照らしている。
ハリー・ポッターは静まり返った閲覧室の隅で、古びた羊皮紙の束を手にしていた。
表紙には金の文字でこう記されている。
「魔力伝導と魂結合の相関について――アラン・セシール」
指先でその名をなぞる。
インクは時を経て少し掠れていたが、書き手の筆圧の強さがまだ感じられた。
ページを開くと、整然とした魔法陣の図と、緻密な考察の文字が続く。
どの文も理路整然としていて、選ばれた言葉は驚くほど美しかった。
ただ知識を並べるのではなく、魔法そのものに“祈り”のような感情を宿している――そんな印象を受けた。
この人は、きっと努力家で、とても繊細な魔法使いだったんだろうな。
そう思うと、胸の奥が少し温かくなる。
その時、後ろから声がした。
「何を読んでるの?」
振り返るとハーマイオニーが立っていた。腕に数冊の本を抱え、興味深そうにハリーの手元を覗き込む。
「あ、いや。ちょっと……興味深い論文を見つけてさ。」
「誰の?」
「アラン・セシール。」
その名を口にした瞬間、ハーマイオニーの眉がぴくりと動いた。
「――ああ、リシェル・ブラウンの娘ね。」
「誰だよそれ?」と、向かいの席で居眠りしていたロンが顔を上げる。
ハリーも首をかしげた。
「僕も聞いたことないな。」
ハーマイオニーは、呆れたようにため息をついた。
「ほんっとにあなたたちって何も知らないのね。
リシェル・ブラウンは一つ前の王朝を崩壊させた女よ。妃を差し置いて王の寵愛を独占したの。まるで東の国の伝説に出てくる女王みたいな人だったの。」
「へぇ……そんなに綺麗だったのか。」
ハリーの素直な感想に、ハーマイオニーは即座に返す。
「そこ?!」
ロンは、目を丸くしながら聞いていた。
「で、その王朝はどうなったんだ?」
「リシェル・ブラウンも処刑されたわ。そして新しい王朝が建ったの。
……ほんと、少しは歴史を勉強しなさいよ。」
ハーマイオニーの口調は冷ややかだったが、ハリーの頭の中には別の疑問が浮かんでいた。
リシェル・ブラウン――そんな波乱の女の娘が、のちにブラック家の当主の心を射止め、
さらに次の当主を産むなんて。
それは偶然ではなく、何か大きな運命の糸に導かれていたように思えた。
彼女――アラン・ブラック。
その名を耳にした時、ハリーの胸の奥にわずかなざわめきが起こる。
新聞で見た彼女の記事。
父ジェームズの険しい横顔。
そして、シリウスが無言でその写真を見つめていたあの夜。
二人の親友が同じ女を知っていて、
一方は名を避け、もう一方は沈黙のまま思い続けている――
それは、少年の理解を超えた大人の沈黙だった。
アラン・セシール。
その名の響きが、今も図書館の空気の中で揺れている気がした。
ページをめくるたびに、彼女の筆跡から
知性と孤独、そしてどこか遠い痛みのようなものが立ち上ってくる。
どんな人だったんだろう。
ホグワーツで、どんな風に笑っていたんだろう。
ハリーは知らないままに、その名に惹かれていく。
まるで、過去のどこかに閉じ込められた光を手に取るように。
静寂の中で、彼はそっと呟いた。
「……アラン・セシール。」
その名を呼ぶ声は、誰にも届かず、
古い図書館のページを揺らして消えていった。
屋敷には、連日祝いの品が届いていた。
銀のリボンがかけられた箱、煌びやかな花束、魔法細工の装飾品。
そして、最も多かったのは各地から贈られてきた酒だった。
年代物のワイン、黄金色の蜂蜜酒、蒸留香草酒――どれも香り高く、
「ブラック家の未来の当主」に対する敬意と羨望が詰め込まれた贈り物だった。
レギュラス・ブラックは昼の陽光の中で、その一本を選び、
ためらいもなく栓を抜いた。
芳香がすぐに広がる。
熟れた果実のように甘く、けれど深い苦味を含んだ香り。
杯に注がれた金色の液体を指先で傾けると、光がゆらりと揺れた。
「体に良くないわ。」
背後からアランの声がした。
柔らかな声だが、その奥に心配の色がにじんでいる。
「そんなに飲まないようにしますから。」
レギュラスは軽く笑い、杯を揺らした。
その微笑は、穏やかさと疲労とがないまぜになったものだった。
アランが部屋を出ようとする。
その手を、彼はそっと引いた。
振り返ったアランの翡翠色の瞳が、問いかけるように揺れる。
レギュラスは言葉を挟まず、唇を寄せた。
ただ静かに――愛しさを確かめるように。
「少し、付き合ってください。」
彼の声は低く、どこか寂しげだった。
アランはほんの一瞬だけ目を伏せ、それから静かに頷いた。
二人の間を、酒の香りが満たしていく。
「そういえば、あなたに贈ったドレスがもう何着かありましたね。」
レギュラスはゆっくりと椅子に腰掛けながら、
金の縁取りのあるグラスを眺めた。
「それ、着て見せてくれませんか?」
アランは少し驚いた顔をした。
だが、彼の目の奥にある真摯な光を見て、
何も言わずに寝室へと消えていった。
数分後、ドアが開く。
アランが現れた。
柔らかな藤色のドレス。
肩から流れる黒髪が光を受けて艶やかに波打ち、
胸元には薄絹のレースが淡く透けている。
彼女が一歩進むごとに、布が静かに音を立てて揺れた。
レギュラスは杯を口に運ぼうとして、
そのまま手を止めた。
飲み込むはずの酒が喉の奥で動かない。
息が詰まるほどだった。
まるで、あの夜――宴で彼女が現れた瞬間のように。
黄金の光を背に、すべての視線を奪ってしまうような美しさ。
それが今、ただ二人きりの部屋で静かに再現されていた。
「……そっちも、いいですね。」
声がかすれる。
アランは微笑むでもなく、ただ静かに彼を見ていた。
その沈黙が、言葉よりも雄弁だった。
レギュラスの中で、何かが満ちていく。
酒の香り、彼女の姿、そして胸の奥に流れる穏やかな余韻。
どれもが、この上なく甘美で、同時にどこか儚かった。
こんなにも美しい時間が、永遠に続けばいいのに。
彼はそっと杯を置き、アランの手を取った。
指先をなぞると、彼女の肌がひどく温かかった。
外ではまだ昼の光が満ちている。
けれど、この部屋の中では、もう夜のように静かだった。
その静寂の中で、レギュラスはただひとり、
満たされた男の顔をしていた。
夕刻、長いテーブルの上に並べられた銀の燭台が淡い灯りを放っていた。
天井の高い食堂には、肉と香草の匂い、そしてほのかな葡萄酒の香りが混じっている。
その香りの中に、アルタイルは確かに酒の匂いを嗅ぎ取った。
父――レギュラス・ブラックは上機嫌そうに杯を傾け、
珍しく笑みを浮かべていた。
「お父様、お酒飲んでるのね。」
リディアが無邪気に言って、楽しげに笑う。
その笑顔は本当に可愛らしかった。
柔らかな金の髪が光を受けてきらきらと揺れ、
ドレスの袖口から覗く小さな指が、スープの匙を上品に握っている。
見ているだけで、胸が温かくなる――
けれど同時に、胸の奥に痛みが走る。
この妹を差し置いて、
自分がブラック家の次期当主として名を挙げられてしまった。
父も母もそのことを誇らしげに受け止めてくれているが、
カサンドラ夫人の冷ややかな視線を感じるたび、
アルタイルはどうしようもない罪悪感に押し潰されそうになる。
祝いの品が屋敷に届くたびに、
胸の奥が締めつけられるようだった。
誰もが“ブラック家の未来”と称えるその贈り物たちが、
自分の肩に降り積もる重荷のように思えた。
向かいに座る母――アランは、
静かにナプキンを膝に置き、食卓に手を添えていた。
以前よりも伏せることが少なくなった。
それでも、どこか遠くを見ているような眼差しをしている。
顔色も少し悪い。
それに気づきながらも、アルタイルは心の中で
「気のせいだ」と何度も言い聞かせていた。
「母さん。……食べてますか?」
声をかけると、アランは穏やかに微笑んだ。
「ええ、私のことより――アルタイル。あなたのほうこそ、たくさん食べてください。」
その優しい声に、胸が詰まる。
母の食が細くなっていることを、
アルタイルは誰よりも知っていた。
それでも彼女は、自分のことより他人を案じる。
まるで、身を削ってまで誰かの幸福を守ろうとする人のように。
レギュラスはそんな二人を見ていたが、
何も言わなかった。
杯を傾け、ワインの赤が薄い唇を濡らす。
その表情には満足げな影があり、
何もかも順調であるという確信に満ちていた。
けれどアルタイルには、
父と母の間に横たわる静かな溝が見えた。
言葉では交わされない違和感。
食卓の上に広がる沈黙が、
ナイフとフォークの音だけを際立たせていた。
――幸福なはずの晩餐だった。
それなのに、
アルタイルの胸には重いものが積もっていくばかりだった。
母の皿の上に残った肉片。
父の杯に満たされた酒の赤。
妹の笑い声。
そのすべてが、
どこか遠い世界の出来事のように感じられた。
机の上に、古びた新聞や雑誌が何冊も積み重なっていた。
端は少し黄ばんでいて、紙の角は何度もめくられた跡がついている。
それらの全てに共通していたのは――ひとりの女の名だった。
アラン・ブラック。
シリウスはため息をつきながら、一番上の新聞を手に取った。
記事の見出しは、最近発表されたブラック家の後継――アルタイル・ブラックを讃えるもの。
だがシリウスが目を止めるのは、そこに添えられた一枚の写真だった。
淡い光の下で、黒髪の女が静かに微笑んでいる。
横顔。
それだけなのに、胸が痛くなるほど美しかった。
――馬鹿だな、俺は。
我ながら気持ちの悪いことをしているという自覚はあった。
こんなふうに、彼女の記事を集めて切り抜いては封筒に仕舞うなんて。
それでも、もう今はこうして紙の中でしか彼女に会えない。
誰にも迷惑をかけていない――そう自分に言い訳をしながら、
シリウスは今日もまた新しい記事を挟み込んだ。
あの夜のことを思い出す。
炎に照らされた彼女の瞳。
笑い声。
指先。
もう二度と戻らない光景。
「綺麗な人だな。」
以前、ハリーが何気なく言った言葉が蘇る。
あの無邪気な一言に、胸の奥が締めつけられた。
――あぁ、ジェームズがいなければ。
彼女と出会ったあの頃の自分を、語り尽くしたかった。
どんなに愚かでも、あの瞬間の想いをもう一度誰かに伝えたかった。
だがそれを言葉にすれば、親友を裏切ることになる。
彼女を穢すことにもなる。
だから黙って、ただ新聞を畳んで、夜の静けさに沈むしかなかった。
記事の中には、アルタイルの写真も載っている。
端正な顔立ち。
冷たいほど整った灰色の瞳。
――レギュラスによく似ている。
分かっている。
アランは彼の妻だ。
そしてあの少年は、彼女が愛した男との間に生まれた子だ。
それでも写真を見ていると、どうしても心がざわめく。
もしも、もしもあの時――彼女が自分を選んでいたら。
彼女と結婚して、子をもうけて、
笑い合う未来が本当にあったのだろうか。
馬鹿げている。
分かっているのに、考えずにはいられない。
アルタイル・ブラック。
その名を小さく呟く。
――どうか彼が、あの屋敷の中で光となってくれますように。
あの屋敷で、孤独に押しつぶされそうなアランを守る男に成長してほしい。
それが、彼女を救えなかった自分にできる
ただ一つの祈りのようなものだった。
シリウスはそっと写真を封筒に戻した。
ランプの明かりが彼の指先を照らす。
その手は、かつて誰かを抱きしめようとして届かなかった手――
今もなお、空を掴むように震えていた。
薄明の光が差し込む騎士団の本部。
壁一面に貼られた地図の上では、いくつもの赤い印が線で繋がれていた。
それはすべて――闇の魔法使いたちが関与しているとされる事件の発生地点を示していた。
不気味なほど整然とした配置。それは偶然ではなかった。
「また一件、行方不明者が出た。」
リーマスの声が響く。
机の上には、被害者の名が記された報告書。
どの事件も、決定的な証拠は何一つ残されていない。
まるで闇そのものが、人を呑み込んだようだった。
ハリー・ポッター――“生き残った男の子”。
彼の存在が、ヴォルデモートを再び完全な力を呼び覚ます鍵になるのではないか。
それは誰もが抱いている不安であり、確信でもあった。
少年の命は、これから先も永遠に狙われ続けるだろう。
闇の帝王を討つためには、その影を徹底的に洗い出さねばならない。
ジェームズ・ポッターは、報告書を閉じた。
「ヴォルデモートを倒すには――やはり、まずは彼らを捕らえなければならない。」
声には疲労と焦燥が滲んでいた。
闇の魔法使いを一人ひとり捉え、その先にある本丸へと辿り着く。
その道は、長く、危険で、果てしない。
だがジェームズには、一人の名が頭を離れなかった。
レギュラス・ブラック。
十年以上、彼を追ってきた。
けれど、何も掴めなかった。
レギュラスはあまりにも用心深く、
一切の隙を見せない。
表の顔は、神秘部の優秀な調査官。
裏の顔は――闇の帝王の分霊箱を守る最後の男。
あと一歩。
その一歩を踏み込めないまま、十年という時が過ぎた。
ジェームズはゆっくりと立ち上がり、
壁の地図を見つめた。
針のように突き刺さる赤い印。
そのすべての中心に、
一つの名を思い浮かべる。
――アラン・ブラック。
レギュラスが最も愛し、
そして最も守り続けた女。
かつて闇の帝王に逆らい、
騎士団に情報を漏らした裏切り者。
本来なら処刑されていてもおかしくなかった彼女を、
レギュラスは救い出した。
命を賭して。
あの男が、あれほどまでに執着する理由は何か。
愛だけではない。
何か、もっと深い秘密がある。
「彼女を探る。」
ジェームズは呟いた。
「アラン・ブラックを調べれば、レギュラスの本当の狙いが見えてくるはずだ。」
「確かに君の言っていることはもっともだが……」
リーマスが腕を組む。
「アラン・ブラックは、そんなに出歩いていないようだけど。どうやって接触するんだい?」
ジェームズは小さく笑った。
「そこなんだよ。記者を買収して、取材という名目で彼女に会う。
一度だけの手だけど……直に会える。」
リーマスはため息をついた。
「一回しか使えない手だね。」
「十分だ。」
ジェームズの瞳に光が宿る。
「一度でいい。たった一度でも――彼女の目を見れば分かる。
あの家に潜む闇の真実が、きっと。」
外では冷たい風が吹いていた。
窓の外に沈む夕陽が、遠い森を朱く染めている。
ジェームズはコートを羽織り、帽子を被った。
この十年で何度も諦めかけた。
だが今日、初めて違う道が見えた気がした。
――レギュラス・ブラックには、決して手が届かない。
ならばその“心臓”を狙う。
彼の歩みは静かだった。
だがその一歩一歩が、確実に運命を揺らしていった。
ランプの灯が柔らかく寝室の壁を照らしていた。
書斎から戻ったばかりのレギュラスは、手にした封筒を静かに机の上に置く。
それは魔法新聞社から届いた正式な取材依頼状だった。
「あなたに取材をという雑誌の記者からの依頼がありますが……どうします?」
そう言って、レギュラスはベッドの縁に腰を下ろし、
読み終えた手紙をアランの前へ差し出した。
手紙には、こう書かれていた。
“使用人の家の出でありながら、名門ブラック家の妻に選ばれた美しき女性。
奇跡のようなシンデレラストーリーを、ぜひ本誌で取り上げたい。”
文章を目にした瞬間、レギュラスの唇にはわずかな笑みが浮かんだ。
それはまるで、自分の選択が正しかったことを
世間がようやく証明してくれたような気がしたからだ。
美しい妻。敬愛される家。誇り高き血統。
全てが調和し、完璧な絵画のように収まっている。
「……取材?」
アランは手紙を見つめ、かすかに眉を寄せた。
声の奥には、どこか怯えにも似た響きがあった。
人前に出ることを好まぬ彼女の反応は、レギュラスにとって予想通りだった。
「それなら、一緒に出るのはどうです?」
彼は穏やかに言葉を重ねた。
「あなたが話せないなら、僕が代わりに語ります。
あなたの人生を、僕の言葉で。」
アランは視線を落としたまま、
しばらく沈黙していた。
彼女の指先が膝の上で小さく震えている。
拒絶ではない――ただ、どこか遠くの光を見つめているような瞳だった。
レギュラスはその沈黙の意味を、
自分に対する控えめな遠慮だと受け取った。
だが、彼の心の奥底では別の炎が静かに燃えていた。
――シリウス・ブラック。
かつて手に入れられなかった女。
あの男が、この現実を知ったらどう思うだろう。
かつて自分のものにできなかった女が、
今や自分の隣で微笑み、
ブラックの名を冠した家の妻として立っている。
悔しさに顔を歪めるあの姿を想像すると、
胸の奥で小さく笑みがこぼれる。
あの男が見られなかった“幸福”を、
自分がこの手で見せつけてやるのだ。
「じゃあ……僕が贈ったドレスで、この取材を一緒に受けてくれませんか?」
アランは顔を上げた。
光を受けた黒髪が、波のように揺れた。
その瞳には、戸惑いと優しさと、
そして抗いようのない運命への諦めが入り混じっていた。
「……わかりました。」
小さな声でそう答え、アランは静かに頷いた。
その瞬間、レギュラスの胸に満ちるものがあった。
勝利のような、満足のような、そして――どこか哀しい充足。
彼はアランの手を取り、
その指先に唇を寄せた。
夜の帳がゆっくりと落ちていく。
遠くで時計の針が時を刻む音がする。
二人の間には、言葉にならない静寂が流れていた。
――この沈黙こそが、
彼らの絆の証であり、また、終わりの始まりでもあった。
