3章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
夜は静まり返っていた。
窓の外の月が、薄絹のような光を差し込ませる。
淡い銀の光が、寝室の壁をゆらゆらと撫でていた。
重い沈黙の中、二人の間には見えない隔たりが横たわっていた。
アランはベッドの端に腰を下ろしていた。
声を出せば、その沈黙が崩れてしまう気がした。
レギュラスは背を向けたまま、机の上の書類に視線を落とし、
灯したランプの火に影を揺らしている。
何を言っても、届かない。
さきほどの言葉の数々が、まだこの部屋の中に残響のように漂っていた。
――話し合いは、きっと永遠に平行線のままなのだ。
アランの胸に、かつての記憶がふと甦った。
共に過ごしたホグワーツの時代。
常に彼の隣で過ごしてきた日々のこと、
真っ直ぐな瞳で理想を語っていた少年の面影が、今ではもう遠い過去の幻のように霞んでいる。
互いに違う空を見上げていた。
彼は「正義」を冷静な理で測り、
アランは「愛」を痛みで選んできた。
その価値観の違いが、十年以上を経てなお、
小さな棘のように心に刺さったまま抜けなかった。
――アルタイルを、この人に背負わせてしまった。
愛した人との子を、安全な場所で育てるために、
彼の力を借りるしかなかった。
あのときは、それが唯一の道だったのだ。
けれど、それがどれほど彼を縛りつけ、
どれほどの孤独を抱かせたのかを、今ようやく思い知らされる。
「……レギュラス、寝ましょう」
声はかすかで、夜の静けさに溶けていった。
もう、これ以上言葉を重ねても、互いの溝は深まるだけだと思った。
それなら、沈黙の中で夜をやり過ごしたほうがいい。
アランはベッドに向かい、シーツをめくろうとした。
その瞬間、手首を掴まれた。
強くもなく、しかし逃れられない力。
「……レギュラス?」
次の瞬間、重力が崩れた。
身体がふっと持ち上がり、柔らかなベッドに押し倒される。
ぱさりとシーツが波を打ち、二人分の体温がその上に沈み込んだ。
レギュラスの影が、月の光を遮る。
近すぎる距離。
息の熱が頬をかすめ、心臓が耳のすぐ傍で鳴り響いているようだった。
唇が触れた。
冷たくも、狂おしいほどの熱を帯びた口づけ。
さっきまでの言葉たちがすべて溶かされ、
互いの理性が形を失っていく。
――違う。
これは、求めているものではない。
アランは胸の奥で思った。
この行為が、互いの間にできた深い亀裂を埋めるものではないことを知っている。
けれどレギュラスの指先から伝わる震えを感じた瞬間、それが彼なりの「誠意」なのだと悟ってしまう。
どうしようもなく不器用な愛し方。
触れることでしか、確かめられない温もり。
彼にとっての「寄り添い」は、こうして抱くことなのだ。
「……レギュラス」
その名を呼んだ声は、微かに掠れていた。
けれど彼は何も答えず、ただ唇を落とし続けた。
アランは目を閉じた。
拒むことも、受け入れることも、できなかった。
涙がこぼれる寸前の痛みと、
それでも確かに感じる愛しさが、
同じ場所で混ざり合っていく。
――無理に埋めようとしなくていいのに。
そう思いながら、アランは静かに息を吸った。
彼の腕の中で、夜の帳が深く降りていく。
やがて、窓の外の月光が二人を淡く包み、
部屋には、言葉にできない温度だけが残された。
神秘部の空気は、いつもどこか冷たい。
厚い石壁に囲まれたその一室には、魔力の微細な粒子が漂っている。
ランプの青白い光が金属棚に反射し、並ぶ魔法具たちがぼんやりと光を返していた。
人の声が響くことなど滅多にない場所――それが、レギュラス・ブラックの職場だった。
その静けさを破るように、足音が響く。
軽くも、どこか自信に満ちた響き。
扉が開くと、逆光の中に見慣れた顔が現れた。
ジェームズ・ポッター。
その名を、レギュラスは胸の奥で呟いた。
――あの日、死ぬはずだった男。
闇の帝王の襲撃において、唯一生き延びた奇跡の男。
「この魔法具の呪文解析を頼みたくてね。」
ジェームズは、軽く片手に握った黒い石のような魔法具を差し出した。
光を吸い込むような鈍い輝きを放つそれを、レギュラスは静かに受け取る。
「かしこまりました。解析結果が出次第、ご連絡いたします。」
声は冷静で、事務的だった。
表情には一切の感情を乗せず、淡々と書類に記録を書き込む。
この男にだけは、心を乱されたくなかった。
あの夜以来――アランを、そして自分の信念を試した夜以来、
レギュラスの中でジェームズ・ポッターは「避けるべき存在」となっていた。
ジェームズはそれを知ってか知らずか、部屋を見回しながら軽口を叩いた。
「君の息子も、来年はホグワーツに入るようだね。」
レギュラスの手が一瞬止まった。
だが視線は上げない。
ただ、机の上の書類を整え、仕事の続きをするだけだった。
――無駄話をするつもりはない。
「仕事がありますので。」
言葉には出さずとも、態度が雄弁に語っていた。
それでもジェームズは構わず続けた。
「君の妻に助けてもらったハリーは、無事にグリフィンドールに入った。
そのことを彼女にも伝えておいてくれないかい?」
アランの名が出た瞬間、空気が変わった。
胸の奥に、焼けるようなものが走る。
あの夜――彼女が取った行動。
そしてその代償を償うために、どれほどの年月を費やしたか。
どれほど多くの血と誓いを重ねてきたか。
レギュラスは拳を握りしめた。
だが、それでも声は崩さなかった。
「……ええ、そうしておきます。」
それ以上の感情を滲ませれば、何かが壊れそうだった。
ジェームズは首を傾げながら、手元の魔法具を指で転がした。
「この預けた魔法具が、ヴォルデモートの残りのホークラックスだったりはしないのかな?」
その名が出た瞬間、レギュラスの眼が細くなる。
静かに、冷たく。
「……なんのことでしょう。」
「残りのホークラックスはおそらく、君が守っているはずだ。」
ジェームズの声は穏やかだったが、その瞳には確信の光があった。
「君が協力してくれるなら――」
限界だった。
レギュラスは机の上に置いていた手を、ぎゅっと押さえつけた。
その指先が震えている。
心の奥で何かが爆ぜそうになるのを、必死で押さえ込む。
――履き違えてもらっては困る。
確かに、あの日。
ダンブルドアにひとつのホークラックスを差し出した。
それを破壊できる武器の在り処まで教えた。
けれど、それはあくまでアランを救い出すための、命懸けの取引だった。
協力でも、裏切りでもない。
愛する者を生かすためだけに、死神の前で選んだ唯一の道だった。
騎士団の掲げる平等主義――
純血を軽んじ、血統を無に帰そうとするその思想を、彼は決して肯定してはいない。
秩序を守るという名目のもとに、無秩序を撒き散らす彼らを、
心の底から軽蔑していた。
レギュラスは深く息を吐き、書類をまとめる。
「ミスター・ポッター。仕事がありますので。」
ジェームズは両手を挙げ、苦笑いを浮かべた。
「そうだった、すまない、すまない。」
その軽薄な仕草が、妙に空々しく見えた。
扉が閉まる音が、石壁に低く響く。
部屋の中に静寂が戻ると、レギュラスはゆっくりと目を閉じた。
胸の奥に残ったのは、怒りでも恐怖でもなく――
ただ、痛みだった。
アランの名を、あの男の口から聞くたびに、
自分の選んだ十年が、まるで償いきれぬ罪のように思えてならなかった。
机の上の魔法具が、月光を受けて淡く光る。
それは、彼の胸の奥に残る呪いのように、静かに脈動していた。
神秘部の空気は、どこか異様な静けさを孕んでいた。
厚い扉が音もなく閉じると、世界から切り離されたような冷たさが肌を撫でた。
その空間に、ジェームズ・ポッターの足音が一つひとつ響いていく。
目的は二つ。
ひとつは表向き――魔法具の解析依頼。
もうひとつは、心の奥に秘めた探り。
闇の帝王の残したホークラックス。
その“残り”がまだどこかに存在するのではないかと、ジェームズは確信していた。
あの日、ヴォルデモートの魂が一つ滅びたとされた夜。
その裏で、いったい誰が何を代償にしたのか。
レギュラス・ブラックが生き延び、なおも神秘部に籍を置き続けている――
それが何よりの答えだった。
実際に会ってみれば、レギュラスの態度は氷のように冷たかった。
「かしこまりました。解析結果が出次第ご連絡いたします。」
まるで機械が言葉を発するような無機質さ。
けれど、ジェームズは見逃さなかった。
その灰緑の瞳の奥に、一瞬だけ走った微かな影を。
あれは――隠している者の目だった。
おそらく、アラン・ブラックを救うため。
彼は闇の帝王のホークラックスを、すべて別の場所に隠し終えたのだろう。
巧妙に、そして完璧に。
ダンブルドアから聞かされた話によれば、
アランは裏切りの報いとして拷問にかけられていたが、命だけは繋がれた。
それは間違いなく、レギュラスが何かを差し出したからだ。
――命の重さに釣り合うほどの、恐るべき取引を。
ジェームズはそれを思い返しながら、ふと胸の奥にもうひとつの目的を思い出す。
言葉にはしなかったが、今日ここを訪れた本当の理由。
レギュラスの息子――アルタイル・ブラック。
先日、ホグワーツ入学許可証の発行に関わる部署を訪れた際、
偶然その少年の杖の記録を目にした。
その瞬間、心にひとつの引っかかりが生まれたのだ。
――杖の芯、そして素材。
アルタイルに選ばれたのは、「不死鳥の尾羽根」を芯とした、
やや柔軟で繊細な特性を持つ杖だった。
それは偶然にも、シリウス・ブラックとまったく同じ芯を持つ杖。
しかも、同じく「十一インチ」「黒檀」。
一族の中でも極めて稀な一致だった。
杖は、選ばれた者の「魂の性質」を映す。
似通った芯を持つことはあっても、
素材、長さ、そして反応までが完全に同じというのは、
血より深い“精神の遺伝”を意味する。
――まるで、父と息子のように。
その瞬間、ジェームズの胸の奥で冷たいものが流れた。
まさか、とは思う。
だが、あのアラン・ブラックが――かつてのアラン・セシールが――
シリウスと特別な関係にあったことは、昔から知っていた。
ホグワーツの廊下で、二人が笑い合っていた姿を、ジェームズ自身も何度となく見た。
そして今、アランの息子がシリウスと同じ魂の杖を選んだという現実。
その偶然を信じるほど、ジェームズは純粋ではなかった。
レギュラスは淡々と書類に目を通し、まるで何も聞こえていないかのように立っている。
その姿は静謐で、まるで氷の彫像のようだった。
だが、その沈黙の奥には――
誰にも言えぬ真実と、守るべきものを抱えた男の哀しみが潜んでいた。
ジェームズは魔法具を手に取り、軽く笑って見せた。
「……失礼するよ、ミスター・ブラック。」
背を向けた瞬間、レギュラスの視線が背中に刺さるように感じた。
その瞳の奥に宿るのは、怒りではない。
もっと深く、もっと哀しいもの――
「永遠に封じねばならない過去」そのものだった。
扉が閉まる。
静まり返った部屋の中で、レギュラスは机に残された杖の記録を見つめた。
アルタイル・ブラック。
――黒檀、十一インチ、不死鳥の尾羽根。
そして、小さく呟いた。
「……まったく、皮肉なものだ。」
ランプの光がゆらぎ、机の影が揺れた。
静寂の中、誰もいない部屋で、
神秘部の闇が再び、静かに息を潜めた。
薄曇りの空の下、ロンドンの魔法市場は早朝からざわめいていた。
ホグワーツの入学を目前に控えた子どもたちと、その親たちの声が、石畳の路地に反響している。
魔法動物が檻の中で鳴き、呪文道具店の看板が軋むように揺れた。
アルタイル・ブラックは、父レギュラスと並んで歩いていた。
黒のローブの裾を翻しながら歩く父の背中は、どこまでも凛としていた。
周囲の喧騒が霞むほどに、彼の存在は静かでありながら圧倒的だった。
幼い頃からずっと見上げてきた背中――この魔法界において“強さ”を象徴する背中だった。
杖店の扉を開けると、微かな木の香りと古い埃の匂いが混ざり合う。
オリバンダーの弟子が店番をしており、客の来訪に気づいて穏やかな笑みを浮かべた。
「ブラック様、息子さんの杖をお選びになるのですね。」
レギュラスは軽く頷くだけだった。
店内の棚には、無数の箱が並んでいる。
光を吸い込むような黒檀のもの、繊細な楓、銀色の装飾を施された杖――。
その中から一つを選ぶことが、人生の分岐点になる。
アルタイルは胸の奥にかすかな緊張を覚えていた。
試しに何本か握ってみたが、どれも手の中でしっくりこなかった。
だが、一本の箱を開けた瞬間、空気がふっと変わった。
黒檀に包まれた細身の杖。
指先に触れた瞬間、淡い光が杖の先から弧を描いた。
あたたかくも澄んだ感触。
「……これです。」
アルタイルは直感でそう言った。
店員が微笑んでうなずく。
「不死鳥の尾羽根を芯に持つ、黒檀の十一インチ。強い意志と内なる炎を宿す方が好まれる杖です。」
その言葉にレギュラスはほんの僅か、まぶたを伏せた。
帰り道、父は静かだった。
杖を選んだことへの祝福の言葉もなく、ただ遠くを見るように歩いている。
アルタイルは、父の横顔を見上げながら思った。
――この杖、父のものとはまるで違う。
母のものとも違う。
どうしてだろう。
その疑問の答えを知るのは数日後のことだった。
ホグワーツ入学の手続き書類を整理していた際、偶然見つけた古い記録。
シリウス・ブラック――かつて“最も異端なブラック家の男”と呼ばれたその人の杖。
黒檀、十一インチ、不死鳥の尾羽根。
記録に記された特徴が、自分の杖と一字一句違わなかった。
胸の奥で何かがざわめいた。
ただの偶然――そう思い込もうとしたが、否定すればするほど、
頭の片隅に父の無言の横顔が浮かんだ。
それでも、アルタイルは父を信じていた。
どんなに寡黙でも、どんなに感情を見せなくても、
父はいつだって母を守り、家を支え、誰よりも正しく生きている人だった。
その背中を見て育った自分は、心から彼を尊敬していた。
「アルタイル、ホグワーツでは必ずスリザリンを選んでください。」
出発前夜、レギュラスは静かに言った。
深い灰の瞳が、どこか祈るように息子を見つめている。
「はい。もちろんそのつもりです。」
そう答えると、父の表情がわずかにやわらいだ。
「あなたは本当に聡明な子だから。……心配はしていません。」
その言葉が、アルタイルには何よりの褒美だった。
父に期待されること。
その期待に応えられる自分でいること。
それが嬉しくて、誇らしかった。
母の言葉がふと、胸の奥に浮かんだ。
――自由に生きていいのよ。
けれど“自由”とは何だろう。
屋敷の中で不自由を感じたことなどなかった。
欲しいものはすべて与えられ、
学びたいことは学ばせてもらい、
同年代の誰よりも恵まれた暮らしをしている。
それでも、母の瞳の奥にいつもある翳りの意味だけは、
どうしても理解できなかった。
父の誇りと母の憂い――
その狭間で、まだ幼いアルタイルの心は、
知らぬままに二つの運命の糸を引き寄せていた。
昼下がりの陽光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
淡い金色の光が、レギュラスの肩をなぞるように流れ、ベッドの白いシーツに柔らかく落ちる。
外では鳥の声が遠く響き、屋敷は不気味なほど静かだった。
神秘部での仕事が一段落したこの日、彼は珍しく昼間から屋敷に戻ってきた。
そして、アランのもとへ。
長い月日の間、闇に呑まれたような日々を過ごしてきた。
任務と策略と報いの繰り返し。
その中で、ただ一つ確かな安らぎがあるとすれば、それはこの部屋でアランと過ごす時間だけだった。
久しぶりに、昼の光の下で肌を寄せ合う。
唇が触れ、呼吸が交じり、互いの鼓動の音が混じり合う。
全てが終わったあと、静けさの中に残るのは、どこか切ないほどの穏やかさだった。
アランの細い指がレギュラスの髪に触れる。
その仕草一つひとつが、彼にとっては祈りのようだった。
「……まだ陽が高いです。ずっとあなたがここにいると、良く思われません。」
アランの声は、昼の光に溶けて消えるように柔らかい。
「もう気にしていません。」
レギュラスは微笑みを浮かべながら答えた。
ヴァルブルガ――かつての母。
そして正妻カサンドラ。
どちらの名がその言葉に含まれているのかは、もう考えるまでもなかった。
この十数年で、彼は手に入れたのだ。
望んだ未来を、すべて。
アランにはブラックの名を与え、アルタイルは立派に育っている。
屋敷の者も皆、彼に逆らえない。
今さら何を恐れる必要があるだろう。
「そういうことではないわ。」
アランの声が少しだけ揺れた。
だが、レギュラスはその意味を深く追わなかった。
代わりに、彼はアランの頬に手を伸ばし、微笑む。
「じゃあ……どうでしょう。もう一人、次は本当に僕の子を産んでくれたりしませんか?」
一瞬、時間が止まったようだった。
冗談のように言ったその言葉の奥には、長年の渇望が潜んでいた。
アランの体調はここ数年で安定していた。
笑う日も増え、声にも明るさが戻ってきた。
それだけで、彼女は完全に過去の痛みから解放されたのだと錯覚してしまう。
今度こそ――。
本当の意味で、自分とアランの血を分けた子を抱きたい。
男児でなくてもいい。
彼女がもう一度身籠れば、その存在そのものが、彼女の地位を永遠に確固たるものにする。
“愛された女”ではなく、“正当なる妻”として。
長い年月を経てなお、夫の寵愛を受け続ける女が新たな命を授かれば、
もはや誰一人としてアラン・ブラックを蔑むことなどできない。
母も、カサンドラも、そして血統にうるさい貴族たちでさえ。
レギュラスの胸には、そんな計算と願いが入り混じっていた。
だが、そのどちらも、彼の瞳には映っていなかった。
見ていたのはただ、目の前に横たわるアランだけ。
アランは黙っていた。
言葉を選んでいるわけでもなく、拒絶しているわけでもない。
ただ、静かに息を吸い込み、目を伏せていた。
長い睫毛が頬に影を落とし、陽の光に揺れている。
レギュラスは彼女を愛していた。
確かに心の底から。
けれど、その愛は常に「所有」と「証明」を伴っていた。
そしてそれは、アランがかつて愛した誰よりも強く、そしてどこまでも優しかった。
レギュラスは、アランの沈黙を受け入れたように小さく頷いた。
「……いいですよ。答えは今でなくても。」
陽は少しずつ傾き、窓辺に影が伸びていく。
外の空は、昼と夜の狭間で淡い群青に染まり始めていた。
その光の中で、レギュラスはアランの手を取り、
額にそっと触れた。
二人の間に漂う沈黙は、愛とも痛みともつかない、
永遠に形を持たぬものだった。まだ何かを失い続けている。
そのことを、アランは痛いほど感じ取っていた。
夜明けの光が、まだ眠りきれない窓辺を淡く染めていた。
アランは寝台の縁に腰を下ろし、手の中で小瓶を転がしていた。
淡い琥珀色の液体が瓶の中でとろりと揺れる。
その一滴に、どれほどの安堵と、どれほどの罪が詰まっているのだろう。
――また飲んでしまった。
自分でも分かっていた。
これはもう、癒しではない。依存だ。
けれど、もう止められなかった。
最初はほんの少しのつもりだった。
痛みを和らげ、眠りを助けるために。
けれど、気づけばその効能の中に、
忘れていた“幸福”の形を見出していた。
あの薬を飲んでいる間だけは、
胸の奥を締め付けるような不安も、
過去の影も、消えていく。
そして何より――アルタイルの声がよく聞こえる。
笑い声が、澄んだ空気の中で美しく響くのだ。
だから、どうしても手が伸びてしまう。
最近では、薬が切れた時の反動が激しくなっていた。
体が鉛のように重く、まるで心臓が遠のいていくような感覚。
そんな沈みをどうしても避けたくて、
瓶の蓋を開ける手が、習慣のように動いてしまう。
医務魔女のサラには、もう何度も咎められた。
「奥様、これは危険です。使いすぎです。」
その声を聞くたびに、アランは微笑みでごまかした。
「わかっているわ。ほんの少しだけ……今日だけだから。」
そう言いながら、次の日もまた同じように小瓶を開けていた。
自覚はある。
けれど――弱さが、どうしても顔を出してくる。
レギュラスは、きっと気づいていない。
気づかせたくもなかった。
彼はいつだって、信じたものを守ろうとする。
だからこそ、アランの笑顔をそのまま真実として受け取ってしまうのだ。
「体調が良くなっているようですね」と彼が微笑むたび、
胸の奥が痛んだ。
そして、彼は言った。
――「もう一人、次は本当に僕の子を産んでくれませんか?」
アランは息を飲んだ。
彼の願いがどれほど純粋なものか、よくわかっている。
この十年、レギュラスはアルタイルを守り抜いた。
セシール家の血を、己の名のもとに庇護し続けてきた。
もしその恩に報いる方法があるとするなら、
それは彼の望む「真の子」を授けることなのだろう。
わかっている。
けれど――できなかった。
薬に縋るこの身体が、
新しい命を宿すなど、到底許されるはずがない。
そしてそれ以上に、あの夜の記憶がまだ消えない。
あの闇の帝王の屋敷で、
自分という存在が踏みにじられたあの夜のことを、
この体がまだ覚えている。
それでも、レギュラスの瞳は優しかった。
疑いも、詮索もなく、ただひたむきに信じてくる。
その純粋さが、時に痛いほど苦しかった。
アランは何も言わなかった。
ただ、小さく微笑んで頷いたふりをした。
レギュラスはそれを、承諾のように受け取ったのかもしれない。
けれどアランの手の中では、小瓶が震えていた。
――もう一度、あの薬を飲めば、少しだけ強くいられる気がした。
その誘惑が、心の奥で甘く囁いていた。
光が窓を満たしていく。
その中で、アランの横顔は静かに滲んでいた。
それは幸福の顔でも、絶望の顔でもない。
ただ、愛と弱さの狭間で、
ゆっくりと崩れていく人間の顔だった。
雨上がりの夜、騎士団の作戦室は重たい空気に包まれていた。
机の上には数本の杖の記録書が広げられ、ロウソクの炎がその紙面を淡く照らしている。
記録魔法によって抽出された杖の使用履歴は、魔法使いの行動を如実に物語る――
はずだった。
だが、レギュラス・ブラックの杖は、あまりにも“静か”だった。
まるで、彼自身の心臓の鼓動まで消し去ったかのように。
「……んなわけねぇだろ。」
シリウスが書類を叩きつけた。
苛立ちと、どこかに潜む焦燥が滲んだ声だった。
「でも、杖が沈黙している以上、証拠がなさすぎるね。」
リーマスは冷静に答えながらも、眉間に深い皺を寄せる。
「まるで、俺たちの目をあざ笑ってるようだ。」
静寂。
焚かれた魔法ランプの灯が、四人の影を壁に映し出す。
レギュラス・ブラック――
かつて闇の帝王の最も忠実な部下でありながら、
今やその“影の後継”として暗躍していると言われる男。
闇の帝王の残したホークラックスを守るため、
彼が仕掛けた罠には、必ず血の代償が伴う。
その術式を維持するには、
人間の生命、もしくは自身の魂の一部を捧げねばならない。
それほどまでに強固で、禍々しい守り。
「レギュラス・ブラックを追えば、必ず闇の魔法を使うはずだ。」
リーマスが呟くように言う。
「それなのに、杖の記録は――」
「笑えるほど、潔白だ。」
シリウスが言葉を継ぎ、低く唸った。
机の上で、ジェームズ・ポッターが顎に手を当てたまま考え込んでいた。
冷たい金の縁の眼鏡の奥で、その琥珀色の瞳が鋭く光る。
「……もしだ。」
静寂を破るように、ジェームズが口を開いた。
「もし、あの男が“別の杖”を持っているのだとしたら?」
三人の視線が一斉に彼に向く。
「つまり、本人の杖ではなく、別の――?」とリーマス。
「そうだ。」ジェームズは頷いた。
「自分の杖の記録を偽装するために、もう一本、別の杖を使っている。
たとえば……アラン・ブラックの杖を。」
一瞬、空気が張り詰めた。
その名が出た途端、シリウスの肩が僅かに動く。
握りしめた拳が、白くなるほどに力が入っていた。
「……アランの、杖?」
その名を口にする声は、かすれていた。
長い年月が経っても、シリウスにとってその名は特別だった。
痛みと懐かしさと、赦しきれぬ愛情が絡み合うような響き。
「彼女の杖も調べてみる価値がある。」
ジェームズは淡々と言った。
けれど、胸の奥では冷たいものがざわめいていた。
かつて闇の帝王の屋敷で拷問を受け、命からがら救い出された女。
彼女の存在が、レギュラスをどれほど狂わせ、
そしてシリウスをどれほど縛り付けてきたか――
ジェームズは、誰よりも知っていた。
火の灯りが、シリウスの銀灰色の瞳を照らす。
彼は俯いたまま、何も言わない。
けれど、指先が震えていた。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
ジェームズは心の中でため息をつく。
――やはり言えない。
彼は知っていた。
アルタイル・ブラック。
アランの息子。
ホグワーツ入学の手続きを確認したとき、
その少年が選んだ杖の記録を見た。
黒檀。十一インチ。不死鳥の尾羽根。
そして、その仕様は――
かつてのシリウス・ブラックとまったく同じものだった。
あのとき、ジェームズの心臓が止まりそうになった。
けれど、親友には伝えなかった。
伝えられるはずがなかった。
もしこの事実を知れば、
シリウスは間違いなく揺らぐ。
彼女が、自分の子を産んでいたという事実に。
その子が、今もブラックの名を背負って生きているという現実に。
そして――彼の心が揺らげば、
闇の帝王を倒すための剣が鈍る。
そのことを、ジェームズは誰よりも恐れていた。
アランという女は、闇を裂く光のようであり、
同時に、二人の兄弟の心を永遠に交わらせない影でもあった。
その夜、作戦室に響いたのは、
一枚の羊皮紙が燃える音だけだった。
ジェームズは、アルタイルの名が記されたその紙を、
静かに炎にくべた。
誰にも見せることのない、
ひとつの“沈黙”が、
また一つ増えた夜だった。
夜の帳が降りる頃、神秘部の奥深く、
青白い光を放つ魔力灯だけがひっそりと揺れていた。
書類の束の上に置かれた黒檀の杖を見つめながら、レギュラス・ブラックは微かに笑んだ。
――騎士団が動き出したか。
彼らが杖の記録を調べ始めていることなど、とうの昔に察していた。
自分の杖には、無害な呪文ばかりが記録されている。
照明の呪文、浮遊の呪文、日常の些末なものばかり。
そんなものをどれほど漁ったところで、彼の“闇”には一片も触れられはしない。
それこそが、彼の計算だった。
レギュラスの机の引き出しの奥には、もう一本の杖が隠されている。
銀の留め具で封じられた古びた箱。
その中に横たわるのは、エドモンド・ウィルクス――かつて闇の帝王の勅命を受けて動いていた魔法使いのものだった。
魔法省の記録上、ウィルクスはまだ生きている。
数年前に闇の帝王の粛清を逃れた“行方不明者”として名を残したまま。
つまり、彼の杖がこの世で動きを見せても、誰も不審に思わない。
生きている人間の杖が、ただ主の手で呪文を放っている――
そう記録されるだけなのだ。
それが、レギュラスの狙いだった。
ホークラックスを守る呪文を張るには、魂の贄が必要だった。
血だけでは足りない。命の“裂け目”が要る。
だから、レギュラスはウィルクスを選んだ。
彼はかつてレギュラスの部下だったが、慢心していた。
己の忠誠を信じ、闇の帝王に媚びへつらう姿は、もはや滑稽ですらあった。
あの夜――。
冷たい洞窟の奥、
レギュラスはウィルクスに命じて、
「主に仕えるための儀式だ」と嘘をついた。
ホークラックスに防護の呪文をかける役目を“与えた”のだ。
その実、それは死の儀式だった。
レギュラスは決して自分の杖でウィルクスを倒さなかった。
杖を奪えば、忠誠は自分に移る。
そうすれば、自分の杖の記録にその殺害が刻まれてしまう。
それを避けるため、レギュラスはウィルクス自身の杖を握らせたまま、
彼の背後から闇の儀式を完成させた。
ホークラックスの呪いが放たれた瞬間、
ウィルクスの体は灰のように崩れ落ちた。
杖は地に転がり、そのまま静かに光を失った。
あの瞬間から、その杖の“忠誠心”は、まだウィルクスにある。
形式上、レギュラスがそれを奪ったとは誰も言えない。
だからこそ、今もその杖を使えば、魔法省の記録にはこう残る――
「エドモンド・ウィルクス、活動中」と。
滑稽なほど完璧な偽装。
レギュラスは机の上に二本の杖を並べ、
自分の杖に軽く指先を這わせた。
艶やかな黒檀の表面には、どこまでも無垢な記録しか残っていない。
「――お前は、何一つ罪を知らない。」
小さく呟く。
もう一本の杖――ウィルクスの杖は、
鈍く光りながら、まるで息を潜めるようにそこにあった。
幾多の殺戮も、血の儀式も、
全てこの杖が背負っている。
「記録に残らぬ罪ほど、美しいものはない。」
レギュラスは笑った。
唇の端が静かに歪み、
その笑みに一抹の哀しみが混じった。
本来なら、闇の帝王が使うような卑劣な手口だった。
けれど、今となっては、それこそが生き残る唯一の術。
騎士団がどれほど探し回ろうと、彼の罪には辿り着けない。
そのために、何人の命を奪おうと、何を捨てようと――構わない。
「……終わりにできるのなら。」
静寂の中で、レギュラスは二本の杖を丁寧に箱へ戻した。
箱を閉め、封印の呪文を唱える。
低く響く音とともに、部屋の空気がぴたりと止まった。
――沈黙こそが、最も完璧な偽装。
それが、レギュラス・ブラックの生きる術だった。
午後の光が長く伸び、ブラック家の応接間を淡く照らしていた。
磨かれた黒檀の床に、レギュラス・ブラックの影が静かに落ちている。
その影の前に、一通の封蝋が置かれていた。
紅を帯びたロズィエ家の紋章。
深紅の蝋が冷たく光り、まるで古い血のように床へと沈んで見えた。
カサンドラはその封を震える指で差し出した。
祖国フランスの家――ロズィエ家から届いた手紙だった。
「……父と母からです」
封筒を開く音が、やけに響いた。
羊皮紙には、流麗な筆致で、しかし棘のように鋭い言葉が並んでいる。
『我らが末裔リディア・ブラックを、正統なる当主の座に据えよ。
ロズィエ家は、ブラック家に忠を誓い、娘を正妻として差し出した。
それにも関わらず、レギュラス・ブラックは名もなき使用人の娘を先に孕ませ、
その一族セシール家に職を与え、栄光を分け与えた。
我らロズィエ家が受けた屈辱と不名誉を、
その娘リディアをもって贖うことを求む。』
読み進めるほどに、カサンドラの頬は蒼くなっていった。
その手紙の内容をレギュラスが読み終えるより早く、彼の指先が静かに封を閉じた。
「……カサンドラ、前例は作れません。」
冷たく、それでいて静謐な声だった。
「ですが、それではロズィエ家が納得しません。」
カサンドラの声が震えた。
それでもレギュラスは視線を落としたまま、手紙を机に置いた。
読み返そうともしない。
まるで、読む価値さえないと言わんばかりに。
その無関心な仕草に、カサンドラの胸がきりきりと痛んだ。
彼の冷静さが、いつも以上に残酷に感じられた。
まるで、彼にとってロズィエ家の誇りも、
自分の存在さえも、すでに過去の残滓にすぎないかのように。
「リディアは……」
唇が震える。
声を出すのがこんなにも難しいことだったとは思わなかった。
「リディアは、望まれなかった子なのでしょうか……?」
長い沈黙。
レギュラスはただ、無言で視線を逸らした。
その沈黙こそが、答えに等しかった。
胸の奥が熱くなる。
こみ上げてくるのは怒りか、それとも悲しみか。
わからなかった。
あの子は、必死の思いで産んだ。
女児であると知った瞬間、確かに一度は嘆いた。
だが、それでも――
あの子が笑うときの顔を見れば、それだけで世界が満たされた。
リディアは、カサンドラにとってただの“証”ではなかった。
夫の愛を得られなかった代わりに、母として生きるための唯一の光だった。
彼女にだけは、自分のような人生を歩ませたくなかった。
愛されぬまま、子を産むための器として生きる人生など――二度と。
「せめて、あの子には与えられるものを与えたいのです。
ロズィエ家とブラック家という、誇り高い血の結晶を。」
レギュラスは瞼を閉じたまま、小さく息を吐いた。
「リディアには最善の嫁ぎ先を見つけます。」
その一言に、カサンドラの心が大きく揺れた。
嫁ぎ先――それはつまり、彼女を家の外へ追い出すということだ。
当主ではなく、誰かの妻として、家名を去らせるということだ。
「……私のようにはなってほしくありません。」
カサンドラの声は掠れていた。
けれど止められなかった。
「愛されないまま、子を産むだけの道具に成り下がる娘を……
私はもう、見たくないのです。」
その言葉を吐いた瞬間、
カサンドラは自分の中で何かが崩れる音を聞いた。
部屋に、静寂が落ちた。
時計の針の音だけが、遠くで淡々と刻まれている。
レギュラスは何も言わなかった。
ただ、窓の外に目を向けたまま立ち尽くしていた。
カサンドラの喉に、嗚咽のような息がこみ上げる。
彼女の目には、光が滲んでいた。
――愛を知らぬ婚姻の果てに、
残されたものは、誇りと哀しみだけだった。
ロズィエ家の血が、
静かに、しかし確実に、彼女の胸の奥で泣いていた。
窓の外の月が、薄絹のような光を差し込ませる。
淡い銀の光が、寝室の壁をゆらゆらと撫でていた。
重い沈黙の中、二人の間には見えない隔たりが横たわっていた。
アランはベッドの端に腰を下ろしていた。
声を出せば、その沈黙が崩れてしまう気がした。
レギュラスは背を向けたまま、机の上の書類に視線を落とし、
灯したランプの火に影を揺らしている。
何を言っても、届かない。
さきほどの言葉の数々が、まだこの部屋の中に残響のように漂っていた。
――話し合いは、きっと永遠に平行線のままなのだ。
アランの胸に、かつての記憶がふと甦った。
共に過ごしたホグワーツの時代。
常に彼の隣で過ごしてきた日々のこと、
真っ直ぐな瞳で理想を語っていた少年の面影が、今ではもう遠い過去の幻のように霞んでいる。
互いに違う空を見上げていた。
彼は「正義」を冷静な理で測り、
アランは「愛」を痛みで選んできた。
その価値観の違いが、十年以上を経てなお、
小さな棘のように心に刺さったまま抜けなかった。
――アルタイルを、この人に背負わせてしまった。
愛した人との子を、安全な場所で育てるために、
彼の力を借りるしかなかった。
あのときは、それが唯一の道だったのだ。
けれど、それがどれほど彼を縛りつけ、
どれほどの孤独を抱かせたのかを、今ようやく思い知らされる。
「……レギュラス、寝ましょう」
声はかすかで、夜の静けさに溶けていった。
もう、これ以上言葉を重ねても、互いの溝は深まるだけだと思った。
それなら、沈黙の中で夜をやり過ごしたほうがいい。
アランはベッドに向かい、シーツをめくろうとした。
その瞬間、手首を掴まれた。
強くもなく、しかし逃れられない力。
「……レギュラス?」
次の瞬間、重力が崩れた。
身体がふっと持ち上がり、柔らかなベッドに押し倒される。
ぱさりとシーツが波を打ち、二人分の体温がその上に沈み込んだ。
レギュラスの影が、月の光を遮る。
近すぎる距離。
息の熱が頬をかすめ、心臓が耳のすぐ傍で鳴り響いているようだった。
唇が触れた。
冷たくも、狂おしいほどの熱を帯びた口づけ。
さっきまでの言葉たちがすべて溶かされ、
互いの理性が形を失っていく。
――違う。
これは、求めているものではない。
アランは胸の奥で思った。
この行為が、互いの間にできた深い亀裂を埋めるものではないことを知っている。
けれどレギュラスの指先から伝わる震えを感じた瞬間、それが彼なりの「誠意」なのだと悟ってしまう。
どうしようもなく不器用な愛し方。
触れることでしか、確かめられない温もり。
彼にとっての「寄り添い」は、こうして抱くことなのだ。
「……レギュラス」
その名を呼んだ声は、微かに掠れていた。
けれど彼は何も答えず、ただ唇を落とし続けた。
アランは目を閉じた。
拒むことも、受け入れることも、できなかった。
涙がこぼれる寸前の痛みと、
それでも確かに感じる愛しさが、
同じ場所で混ざり合っていく。
――無理に埋めようとしなくていいのに。
そう思いながら、アランは静かに息を吸った。
彼の腕の中で、夜の帳が深く降りていく。
やがて、窓の外の月光が二人を淡く包み、
部屋には、言葉にできない温度だけが残された。
神秘部の空気は、いつもどこか冷たい。
厚い石壁に囲まれたその一室には、魔力の微細な粒子が漂っている。
ランプの青白い光が金属棚に反射し、並ぶ魔法具たちがぼんやりと光を返していた。
人の声が響くことなど滅多にない場所――それが、レギュラス・ブラックの職場だった。
その静けさを破るように、足音が響く。
軽くも、どこか自信に満ちた響き。
扉が開くと、逆光の中に見慣れた顔が現れた。
ジェームズ・ポッター。
その名を、レギュラスは胸の奥で呟いた。
――あの日、死ぬはずだった男。
闇の帝王の襲撃において、唯一生き延びた奇跡の男。
「この魔法具の呪文解析を頼みたくてね。」
ジェームズは、軽く片手に握った黒い石のような魔法具を差し出した。
光を吸い込むような鈍い輝きを放つそれを、レギュラスは静かに受け取る。
「かしこまりました。解析結果が出次第、ご連絡いたします。」
声は冷静で、事務的だった。
表情には一切の感情を乗せず、淡々と書類に記録を書き込む。
この男にだけは、心を乱されたくなかった。
あの夜以来――アランを、そして自分の信念を試した夜以来、
レギュラスの中でジェームズ・ポッターは「避けるべき存在」となっていた。
ジェームズはそれを知ってか知らずか、部屋を見回しながら軽口を叩いた。
「君の息子も、来年はホグワーツに入るようだね。」
レギュラスの手が一瞬止まった。
だが視線は上げない。
ただ、机の上の書類を整え、仕事の続きをするだけだった。
――無駄話をするつもりはない。
「仕事がありますので。」
言葉には出さずとも、態度が雄弁に語っていた。
それでもジェームズは構わず続けた。
「君の妻に助けてもらったハリーは、無事にグリフィンドールに入った。
そのことを彼女にも伝えておいてくれないかい?」
アランの名が出た瞬間、空気が変わった。
胸の奥に、焼けるようなものが走る。
あの夜――彼女が取った行動。
そしてその代償を償うために、どれほどの年月を費やしたか。
どれほど多くの血と誓いを重ねてきたか。
レギュラスは拳を握りしめた。
だが、それでも声は崩さなかった。
「……ええ、そうしておきます。」
それ以上の感情を滲ませれば、何かが壊れそうだった。
ジェームズは首を傾げながら、手元の魔法具を指で転がした。
「この預けた魔法具が、ヴォルデモートの残りのホークラックスだったりはしないのかな?」
その名が出た瞬間、レギュラスの眼が細くなる。
静かに、冷たく。
「……なんのことでしょう。」
「残りのホークラックスはおそらく、君が守っているはずだ。」
ジェームズの声は穏やかだったが、その瞳には確信の光があった。
「君が協力してくれるなら――」
限界だった。
レギュラスは机の上に置いていた手を、ぎゅっと押さえつけた。
その指先が震えている。
心の奥で何かが爆ぜそうになるのを、必死で押さえ込む。
――履き違えてもらっては困る。
確かに、あの日。
ダンブルドアにひとつのホークラックスを差し出した。
それを破壊できる武器の在り処まで教えた。
けれど、それはあくまでアランを救い出すための、命懸けの取引だった。
協力でも、裏切りでもない。
愛する者を生かすためだけに、死神の前で選んだ唯一の道だった。
騎士団の掲げる平等主義――
純血を軽んじ、血統を無に帰そうとするその思想を、彼は決して肯定してはいない。
秩序を守るという名目のもとに、無秩序を撒き散らす彼らを、
心の底から軽蔑していた。
レギュラスは深く息を吐き、書類をまとめる。
「ミスター・ポッター。仕事がありますので。」
ジェームズは両手を挙げ、苦笑いを浮かべた。
「そうだった、すまない、すまない。」
その軽薄な仕草が、妙に空々しく見えた。
扉が閉まる音が、石壁に低く響く。
部屋の中に静寂が戻ると、レギュラスはゆっくりと目を閉じた。
胸の奥に残ったのは、怒りでも恐怖でもなく――
ただ、痛みだった。
アランの名を、あの男の口から聞くたびに、
自分の選んだ十年が、まるで償いきれぬ罪のように思えてならなかった。
机の上の魔法具が、月光を受けて淡く光る。
それは、彼の胸の奥に残る呪いのように、静かに脈動していた。
神秘部の空気は、どこか異様な静けさを孕んでいた。
厚い扉が音もなく閉じると、世界から切り離されたような冷たさが肌を撫でた。
その空間に、ジェームズ・ポッターの足音が一つひとつ響いていく。
目的は二つ。
ひとつは表向き――魔法具の解析依頼。
もうひとつは、心の奥に秘めた探り。
闇の帝王の残したホークラックス。
その“残り”がまだどこかに存在するのではないかと、ジェームズは確信していた。
あの日、ヴォルデモートの魂が一つ滅びたとされた夜。
その裏で、いったい誰が何を代償にしたのか。
レギュラス・ブラックが生き延び、なおも神秘部に籍を置き続けている――
それが何よりの答えだった。
実際に会ってみれば、レギュラスの態度は氷のように冷たかった。
「かしこまりました。解析結果が出次第ご連絡いたします。」
まるで機械が言葉を発するような無機質さ。
けれど、ジェームズは見逃さなかった。
その灰緑の瞳の奥に、一瞬だけ走った微かな影を。
あれは――隠している者の目だった。
おそらく、アラン・ブラックを救うため。
彼は闇の帝王のホークラックスを、すべて別の場所に隠し終えたのだろう。
巧妙に、そして完璧に。
ダンブルドアから聞かされた話によれば、
アランは裏切りの報いとして拷問にかけられていたが、命だけは繋がれた。
それは間違いなく、レギュラスが何かを差し出したからだ。
――命の重さに釣り合うほどの、恐るべき取引を。
ジェームズはそれを思い返しながら、ふと胸の奥にもうひとつの目的を思い出す。
言葉にはしなかったが、今日ここを訪れた本当の理由。
レギュラスの息子――アルタイル・ブラック。
先日、ホグワーツ入学許可証の発行に関わる部署を訪れた際、
偶然その少年の杖の記録を目にした。
その瞬間、心にひとつの引っかかりが生まれたのだ。
――杖の芯、そして素材。
アルタイルに選ばれたのは、「不死鳥の尾羽根」を芯とした、
やや柔軟で繊細な特性を持つ杖だった。
それは偶然にも、シリウス・ブラックとまったく同じ芯を持つ杖。
しかも、同じく「十一インチ」「黒檀」。
一族の中でも極めて稀な一致だった。
杖は、選ばれた者の「魂の性質」を映す。
似通った芯を持つことはあっても、
素材、長さ、そして反応までが完全に同じというのは、
血より深い“精神の遺伝”を意味する。
――まるで、父と息子のように。
その瞬間、ジェームズの胸の奥で冷たいものが流れた。
まさか、とは思う。
だが、あのアラン・ブラックが――かつてのアラン・セシールが――
シリウスと特別な関係にあったことは、昔から知っていた。
ホグワーツの廊下で、二人が笑い合っていた姿を、ジェームズ自身も何度となく見た。
そして今、アランの息子がシリウスと同じ魂の杖を選んだという現実。
その偶然を信じるほど、ジェームズは純粋ではなかった。
レギュラスは淡々と書類に目を通し、まるで何も聞こえていないかのように立っている。
その姿は静謐で、まるで氷の彫像のようだった。
だが、その沈黙の奥には――
誰にも言えぬ真実と、守るべきものを抱えた男の哀しみが潜んでいた。
ジェームズは魔法具を手に取り、軽く笑って見せた。
「……失礼するよ、ミスター・ブラック。」
背を向けた瞬間、レギュラスの視線が背中に刺さるように感じた。
その瞳の奥に宿るのは、怒りではない。
もっと深く、もっと哀しいもの――
「永遠に封じねばならない過去」そのものだった。
扉が閉まる。
静まり返った部屋の中で、レギュラスは机に残された杖の記録を見つめた。
アルタイル・ブラック。
――黒檀、十一インチ、不死鳥の尾羽根。
そして、小さく呟いた。
「……まったく、皮肉なものだ。」
ランプの光がゆらぎ、机の影が揺れた。
静寂の中、誰もいない部屋で、
神秘部の闇が再び、静かに息を潜めた。
薄曇りの空の下、ロンドンの魔法市場は早朝からざわめいていた。
ホグワーツの入学を目前に控えた子どもたちと、その親たちの声が、石畳の路地に反響している。
魔法動物が檻の中で鳴き、呪文道具店の看板が軋むように揺れた。
アルタイル・ブラックは、父レギュラスと並んで歩いていた。
黒のローブの裾を翻しながら歩く父の背中は、どこまでも凛としていた。
周囲の喧騒が霞むほどに、彼の存在は静かでありながら圧倒的だった。
幼い頃からずっと見上げてきた背中――この魔法界において“強さ”を象徴する背中だった。
杖店の扉を開けると、微かな木の香りと古い埃の匂いが混ざり合う。
オリバンダーの弟子が店番をしており、客の来訪に気づいて穏やかな笑みを浮かべた。
「ブラック様、息子さんの杖をお選びになるのですね。」
レギュラスは軽く頷くだけだった。
店内の棚には、無数の箱が並んでいる。
光を吸い込むような黒檀のもの、繊細な楓、銀色の装飾を施された杖――。
その中から一つを選ぶことが、人生の分岐点になる。
アルタイルは胸の奥にかすかな緊張を覚えていた。
試しに何本か握ってみたが、どれも手の中でしっくりこなかった。
だが、一本の箱を開けた瞬間、空気がふっと変わった。
黒檀に包まれた細身の杖。
指先に触れた瞬間、淡い光が杖の先から弧を描いた。
あたたかくも澄んだ感触。
「……これです。」
アルタイルは直感でそう言った。
店員が微笑んでうなずく。
「不死鳥の尾羽根を芯に持つ、黒檀の十一インチ。強い意志と内なる炎を宿す方が好まれる杖です。」
その言葉にレギュラスはほんの僅か、まぶたを伏せた。
帰り道、父は静かだった。
杖を選んだことへの祝福の言葉もなく、ただ遠くを見るように歩いている。
アルタイルは、父の横顔を見上げながら思った。
――この杖、父のものとはまるで違う。
母のものとも違う。
どうしてだろう。
その疑問の答えを知るのは数日後のことだった。
ホグワーツ入学の手続き書類を整理していた際、偶然見つけた古い記録。
シリウス・ブラック――かつて“最も異端なブラック家の男”と呼ばれたその人の杖。
黒檀、十一インチ、不死鳥の尾羽根。
記録に記された特徴が、自分の杖と一字一句違わなかった。
胸の奥で何かがざわめいた。
ただの偶然――そう思い込もうとしたが、否定すればするほど、
頭の片隅に父の無言の横顔が浮かんだ。
それでも、アルタイルは父を信じていた。
どんなに寡黙でも、どんなに感情を見せなくても、
父はいつだって母を守り、家を支え、誰よりも正しく生きている人だった。
その背中を見て育った自分は、心から彼を尊敬していた。
「アルタイル、ホグワーツでは必ずスリザリンを選んでください。」
出発前夜、レギュラスは静かに言った。
深い灰の瞳が、どこか祈るように息子を見つめている。
「はい。もちろんそのつもりです。」
そう答えると、父の表情がわずかにやわらいだ。
「あなたは本当に聡明な子だから。……心配はしていません。」
その言葉が、アルタイルには何よりの褒美だった。
父に期待されること。
その期待に応えられる自分でいること。
それが嬉しくて、誇らしかった。
母の言葉がふと、胸の奥に浮かんだ。
――自由に生きていいのよ。
けれど“自由”とは何だろう。
屋敷の中で不自由を感じたことなどなかった。
欲しいものはすべて与えられ、
学びたいことは学ばせてもらい、
同年代の誰よりも恵まれた暮らしをしている。
それでも、母の瞳の奥にいつもある翳りの意味だけは、
どうしても理解できなかった。
父の誇りと母の憂い――
その狭間で、まだ幼いアルタイルの心は、
知らぬままに二つの運命の糸を引き寄せていた。
昼下がりの陽光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
淡い金色の光が、レギュラスの肩をなぞるように流れ、ベッドの白いシーツに柔らかく落ちる。
外では鳥の声が遠く響き、屋敷は不気味なほど静かだった。
神秘部での仕事が一段落したこの日、彼は珍しく昼間から屋敷に戻ってきた。
そして、アランのもとへ。
長い月日の間、闇に呑まれたような日々を過ごしてきた。
任務と策略と報いの繰り返し。
その中で、ただ一つ確かな安らぎがあるとすれば、それはこの部屋でアランと過ごす時間だけだった。
久しぶりに、昼の光の下で肌を寄せ合う。
唇が触れ、呼吸が交じり、互いの鼓動の音が混じり合う。
全てが終わったあと、静けさの中に残るのは、どこか切ないほどの穏やかさだった。
アランの細い指がレギュラスの髪に触れる。
その仕草一つひとつが、彼にとっては祈りのようだった。
「……まだ陽が高いです。ずっとあなたがここにいると、良く思われません。」
アランの声は、昼の光に溶けて消えるように柔らかい。
「もう気にしていません。」
レギュラスは微笑みを浮かべながら答えた。
ヴァルブルガ――かつての母。
そして正妻カサンドラ。
どちらの名がその言葉に含まれているのかは、もう考えるまでもなかった。
この十数年で、彼は手に入れたのだ。
望んだ未来を、すべて。
アランにはブラックの名を与え、アルタイルは立派に育っている。
屋敷の者も皆、彼に逆らえない。
今さら何を恐れる必要があるだろう。
「そういうことではないわ。」
アランの声が少しだけ揺れた。
だが、レギュラスはその意味を深く追わなかった。
代わりに、彼はアランの頬に手を伸ばし、微笑む。
「じゃあ……どうでしょう。もう一人、次は本当に僕の子を産んでくれたりしませんか?」
一瞬、時間が止まったようだった。
冗談のように言ったその言葉の奥には、長年の渇望が潜んでいた。
アランの体調はここ数年で安定していた。
笑う日も増え、声にも明るさが戻ってきた。
それだけで、彼女は完全に過去の痛みから解放されたのだと錯覚してしまう。
今度こそ――。
本当の意味で、自分とアランの血を分けた子を抱きたい。
男児でなくてもいい。
彼女がもう一度身籠れば、その存在そのものが、彼女の地位を永遠に確固たるものにする。
“愛された女”ではなく、“正当なる妻”として。
長い年月を経てなお、夫の寵愛を受け続ける女が新たな命を授かれば、
もはや誰一人としてアラン・ブラックを蔑むことなどできない。
母も、カサンドラも、そして血統にうるさい貴族たちでさえ。
レギュラスの胸には、そんな計算と願いが入り混じっていた。
だが、そのどちらも、彼の瞳には映っていなかった。
見ていたのはただ、目の前に横たわるアランだけ。
アランは黙っていた。
言葉を選んでいるわけでもなく、拒絶しているわけでもない。
ただ、静かに息を吸い込み、目を伏せていた。
長い睫毛が頬に影を落とし、陽の光に揺れている。
レギュラスは彼女を愛していた。
確かに心の底から。
けれど、その愛は常に「所有」と「証明」を伴っていた。
そしてそれは、アランがかつて愛した誰よりも強く、そしてどこまでも優しかった。
レギュラスは、アランの沈黙を受け入れたように小さく頷いた。
「……いいですよ。答えは今でなくても。」
陽は少しずつ傾き、窓辺に影が伸びていく。
外の空は、昼と夜の狭間で淡い群青に染まり始めていた。
その光の中で、レギュラスはアランの手を取り、
額にそっと触れた。
二人の間に漂う沈黙は、愛とも痛みともつかない、
永遠に形を持たぬものだった。まだ何かを失い続けている。
そのことを、アランは痛いほど感じ取っていた。
夜明けの光が、まだ眠りきれない窓辺を淡く染めていた。
アランは寝台の縁に腰を下ろし、手の中で小瓶を転がしていた。
淡い琥珀色の液体が瓶の中でとろりと揺れる。
その一滴に、どれほどの安堵と、どれほどの罪が詰まっているのだろう。
――また飲んでしまった。
自分でも分かっていた。
これはもう、癒しではない。依存だ。
けれど、もう止められなかった。
最初はほんの少しのつもりだった。
痛みを和らげ、眠りを助けるために。
けれど、気づけばその効能の中に、
忘れていた“幸福”の形を見出していた。
あの薬を飲んでいる間だけは、
胸の奥を締め付けるような不安も、
過去の影も、消えていく。
そして何より――アルタイルの声がよく聞こえる。
笑い声が、澄んだ空気の中で美しく響くのだ。
だから、どうしても手が伸びてしまう。
最近では、薬が切れた時の反動が激しくなっていた。
体が鉛のように重く、まるで心臓が遠のいていくような感覚。
そんな沈みをどうしても避けたくて、
瓶の蓋を開ける手が、習慣のように動いてしまう。
医務魔女のサラには、もう何度も咎められた。
「奥様、これは危険です。使いすぎです。」
その声を聞くたびに、アランは微笑みでごまかした。
「わかっているわ。ほんの少しだけ……今日だけだから。」
そう言いながら、次の日もまた同じように小瓶を開けていた。
自覚はある。
けれど――弱さが、どうしても顔を出してくる。
レギュラスは、きっと気づいていない。
気づかせたくもなかった。
彼はいつだって、信じたものを守ろうとする。
だからこそ、アランの笑顔をそのまま真実として受け取ってしまうのだ。
「体調が良くなっているようですね」と彼が微笑むたび、
胸の奥が痛んだ。
そして、彼は言った。
――「もう一人、次は本当に僕の子を産んでくれませんか?」
アランは息を飲んだ。
彼の願いがどれほど純粋なものか、よくわかっている。
この十年、レギュラスはアルタイルを守り抜いた。
セシール家の血を、己の名のもとに庇護し続けてきた。
もしその恩に報いる方法があるとするなら、
それは彼の望む「真の子」を授けることなのだろう。
わかっている。
けれど――できなかった。
薬に縋るこの身体が、
新しい命を宿すなど、到底許されるはずがない。
そしてそれ以上に、あの夜の記憶がまだ消えない。
あの闇の帝王の屋敷で、
自分という存在が踏みにじられたあの夜のことを、
この体がまだ覚えている。
それでも、レギュラスの瞳は優しかった。
疑いも、詮索もなく、ただひたむきに信じてくる。
その純粋さが、時に痛いほど苦しかった。
アランは何も言わなかった。
ただ、小さく微笑んで頷いたふりをした。
レギュラスはそれを、承諾のように受け取ったのかもしれない。
けれどアランの手の中では、小瓶が震えていた。
――もう一度、あの薬を飲めば、少しだけ強くいられる気がした。
その誘惑が、心の奥で甘く囁いていた。
光が窓を満たしていく。
その中で、アランの横顔は静かに滲んでいた。
それは幸福の顔でも、絶望の顔でもない。
ただ、愛と弱さの狭間で、
ゆっくりと崩れていく人間の顔だった。
雨上がりの夜、騎士団の作戦室は重たい空気に包まれていた。
机の上には数本の杖の記録書が広げられ、ロウソクの炎がその紙面を淡く照らしている。
記録魔法によって抽出された杖の使用履歴は、魔法使いの行動を如実に物語る――
はずだった。
だが、レギュラス・ブラックの杖は、あまりにも“静か”だった。
まるで、彼自身の心臓の鼓動まで消し去ったかのように。
「……んなわけねぇだろ。」
シリウスが書類を叩きつけた。
苛立ちと、どこかに潜む焦燥が滲んだ声だった。
「でも、杖が沈黙している以上、証拠がなさすぎるね。」
リーマスは冷静に答えながらも、眉間に深い皺を寄せる。
「まるで、俺たちの目をあざ笑ってるようだ。」
静寂。
焚かれた魔法ランプの灯が、四人の影を壁に映し出す。
レギュラス・ブラック――
かつて闇の帝王の最も忠実な部下でありながら、
今やその“影の後継”として暗躍していると言われる男。
闇の帝王の残したホークラックスを守るため、
彼が仕掛けた罠には、必ず血の代償が伴う。
その術式を維持するには、
人間の生命、もしくは自身の魂の一部を捧げねばならない。
それほどまでに強固で、禍々しい守り。
「レギュラス・ブラックを追えば、必ず闇の魔法を使うはずだ。」
リーマスが呟くように言う。
「それなのに、杖の記録は――」
「笑えるほど、潔白だ。」
シリウスが言葉を継ぎ、低く唸った。
机の上で、ジェームズ・ポッターが顎に手を当てたまま考え込んでいた。
冷たい金の縁の眼鏡の奥で、その琥珀色の瞳が鋭く光る。
「……もしだ。」
静寂を破るように、ジェームズが口を開いた。
「もし、あの男が“別の杖”を持っているのだとしたら?」
三人の視線が一斉に彼に向く。
「つまり、本人の杖ではなく、別の――?」とリーマス。
「そうだ。」ジェームズは頷いた。
「自分の杖の記録を偽装するために、もう一本、別の杖を使っている。
たとえば……アラン・ブラックの杖を。」
一瞬、空気が張り詰めた。
その名が出た途端、シリウスの肩が僅かに動く。
握りしめた拳が、白くなるほどに力が入っていた。
「……アランの、杖?」
その名を口にする声は、かすれていた。
長い年月が経っても、シリウスにとってその名は特別だった。
痛みと懐かしさと、赦しきれぬ愛情が絡み合うような響き。
「彼女の杖も調べてみる価値がある。」
ジェームズは淡々と言った。
けれど、胸の奥では冷たいものがざわめいていた。
かつて闇の帝王の屋敷で拷問を受け、命からがら救い出された女。
彼女の存在が、レギュラスをどれほど狂わせ、
そしてシリウスをどれほど縛り付けてきたか――
ジェームズは、誰よりも知っていた。
火の灯りが、シリウスの銀灰色の瞳を照らす。
彼は俯いたまま、何も言わない。
けれど、指先が震えていた。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
ジェームズは心の中でため息をつく。
――やはり言えない。
彼は知っていた。
アルタイル・ブラック。
アランの息子。
ホグワーツ入学の手続きを確認したとき、
その少年が選んだ杖の記録を見た。
黒檀。十一インチ。不死鳥の尾羽根。
そして、その仕様は――
かつてのシリウス・ブラックとまったく同じものだった。
あのとき、ジェームズの心臓が止まりそうになった。
けれど、親友には伝えなかった。
伝えられるはずがなかった。
もしこの事実を知れば、
シリウスは間違いなく揺らぐ。
彼女が、自分の子を産んでいたという事実に。
その子が、今もブラックの名を背負って生きているという現実に。
そして――彼の心が揺らげば、
闇の帝王を倒すための剣が鈍る。
そのことを、ジェームズは誰よりも恐れていた。
アランという女は、闇を裂く光のようであり、
同時に、二人の兄弟の心を永遠に交わらせない影でもあった。
その夜、作戦室に響いたのは、
一枚の羊皮紙が燃える音だけだった。
ジェームズは、アルタイルの名が記されたその紙を、
静かに炎にくべた。
誰にも見せることのない、
ひとつの“沈黙”が、
また一つ増えた夜だった。
夜の帳が降りる頃、神秘部の奥深く、
青白い光を放つ魔力灯だけがひっそりと揺れていた。
書類の束の上に置かれた黒檀の杖を見つめながら、レギュラス・ブラックは微かに笑んだ。
――騎士団が動き出したか。
彼らが杖の記録を調べ始めていることなど、とうの昔に察していた。
自分の杖には、無害な呪文ばかりが記録されている。
照明の呪文、浮遊の呪文、日常の些末なものばかり。
そんなものをどれほど漁ったところで、彼の“闇”には一片も触れられはしない。
それこそが、彼の計算だった。
レギュラスの机の引き出しの奥には、もう一本の杖が隠されている。
銀の留め具で封じられた古びた箱。
その中に横たわるのは、エドモンド・ウィルクス――かつて闇の帝王の勅命を受けて動いていた魔法使いのものだった。
魔法省の記録上、ウィルクスはまだ生きている。
数年前に闇の帝王の粛清を逃れた“行方不明者”として名を残したまま。
つまり、彼の杖がこの世で動きを見せても、誰も不審に思わない。
生きている人間の杖が、ただ主の手で呪文を放っている――
そう記録されるだけなのだ。
それが、レギュラスの狙いだった。
ホークラックスを守る呪文を張るには、魂の贄が必要だった。
血だけでは足りない。命の“裂け目”が要る。
だから、レギュラスはウィルクスを選んだ。
彼はかつてレギュラスの部下だったが、慢心していた。
己の忠誠を信じ、闇の帝王に媚びへつらう姿は、もはや滑稽ですらあった。
あの夜――。
冷たい洞窟の奥、
レギュラスはウィルクスに命じて、
「主に仕えるための儀式だ」と嘘をついた。
ホークラックスに防護の呪文をかける役目を“与えた”のだ。
その実、それは死の儀式だった。
レギュラスは決して自分の杖でウィルクスを倒さなかった。
杖を奪えば、忠誠は自分に移る。
そうすれば、自分の杖の記録にその殺害が刻まれてしまう。
それを避けるため、レギュラスはウィルクス自身の杖を握らせたまま、
彼の背後から闇の儀式を完成させた。
ホークラックスの呪いが放たれた瞬間、
ウィルクスの体は灰のように崩れ落ちた。
杖は地に転がり、そのまま静かに光を失った。
あの瞬間から、その杖の“忠誠心”は、まだウィルクスにある。
形式上、レギュラスがそれを奪ったとは誰も言えない。
だからこそ、今もその杖を使えば、魔法省の記録にはこう残る――
「エドモンド・ウィルクス、活動中」と。
滑稽なほど完璧な偽装。
レギュラスは机の上に二本の杖を並べ、
自分の杖に軽く指先を這わせた。
艶やかな黒檀の表面には、どこまでも無垢な記録しか残っていない。
「――お前は、何一つ罪を知らない。」
小さく呟く。
もう一本の杖――ウィルクスの杖は、
鈍く光りながら、まるで息を潜めるようにそこにあった。
幾多の殺戮も、血の儀式も、
全てこの杖が背負っている。
「記録に残らぬ罪ほど、美しいものはない。」
レギュラスは笑った。
唇の端が静かに歪み、
その笑みに一抹の哀しみが混じった。
本来なら、闇の帝王が使うような卑劣な手口だった。
けれど、今となっては、それこそが生き残る唯一の術。
騎士団がどれほど探し回ろうと、彼の罪には辿り着けない。
そのために、何人の命を奪おうと、何を捨てようと――構わない。
「……終わりにできるのなら。」
静寂の中で、レギュラスは二本の杖を丁寧に箱へ戻した。
箱を閉め、封印の呪文を唱える。
低く響く音とともに、部屋の空気がぴたりと止まった。
――沈黙こそが、最も完璧な偽装。
それが、レギュラス・ブラックの生きる術だった。
午後の光が長く伸び、ブラック家の応接間を淡く照らしていた。
磨かれた黒檀の床に、レギュラス・ブラックの影が静かに落ちている。
その影の前に、一通の封蝋が置かれていた。
紅を帯びたロズィエ家の紋章。
深紅の蝋が冷たく光り、まるで古い血のように床へと沈んで見えた。
カサンドラはその封を震える指で差し出した。
祖国フランスの家――ロズィエ家から届いた手紙だった。
「……父と母からです」
封筒を開く音が、やけに響いた。
羊皮紙には、流麗な筆致で、しかし棘のように鋭い言葉が並んでいる。
『我らが末裔リディア・ブラックを、正統なる当主の座に据えよ。
ロズィエ家は、ブラック家に忠を誓い、娘を正妻として差し出した。
それにも関わらず、レギュラス・ブラックは名もなき使用人の娘を先に孕ませ、
その一族セシール家に職を与え、栄光を分け与えた。
我らロズィエ家が受けた屈辱と不名誉を、
その娘リディアをもって贖うことを求む。』
読み進めるほどに、カサンドラの頬は蒼くなっていった。
その手紙の内容をレギュラスが読み終えるより早く、彼の指先が静かに封を閉じた。
「……カサンドラ、前例は作れません。」
冷たく、それでいて静謐な声だった。
「ですが、それではロズィエ家が納得しません。」
カサンドラの声が震えた。
それでもレギュラスは視線を落としたまま、手紙を机に置いた。
読み返そうともしない。
まるで、読む価値さえないと言わんばかりに。
その無関心な仕草に、カサンドラの胸がきりきりと痛んだ。
彼の冷静さが、いつも以上に残酷に感じられた。
まるで、彼にとってロズィエ家の誇りも、
自分の存在さえも、すでに過去の残滓にすぎないかのように。
「リディアは……」
唇が震える。
声を出すのがこんなにも難しいことだったとは思わなかった。
「リディアは、望まれなかった子なのでしょうか……?」
長い沈黙。
レギュラスはただ、無言で視線を逸らした。
その沈黙こそが、答えに等しかった。
胸の奥が熱くなる。
こみ上げてくるのは怒りか、それとも悲しみか。
わからなかった。
あの子は、必死の思いで産んだ。
女児であると知った瞬間、確かに一度は嘆いた。
だが、それでも――
あの子が笑うときの顔を見れば、それだけで世界が満たされた。
リディアは、カサンドラにとってただの“証”ではなかった。
夫の愛を得られなかった代わりに、母として生きるための唯一の光だった。
彼女にだけは、自分のような人生を歩ませたくなかった。
愛されぬまま、子を産むための器として生きる人生など――二度と。
「せめて、あの子には与えられるものを与えたいのです。
ロズィエ家とブラック家という、誇り高い血の結晶を。」
レギュラスは瞼を閉じたまま、小さく息を吐いた。
「リディアには最善の嫁ぎ先を見つけます。」
その一言に、カサンドラの心が大きく揺れた。
嫁ぎ先――それはつまり、彼女を家の外へ追い出すということだ。
当主ではなく、誰かの妻として、家名を去らせるということだ。
「……私のようにはなってほしくありません。」
カサンドラの声は掠れていた。
けれど止められなかった。
「愛されないまま、子を産むだけの道具に成り下がる娘を……
私はもう、見たくないのです。」
その言葉を吐いた瞬間、
カサンドラは自分の中で何かが崩れる音を聞いた。
部屋に、静寂が落ちた。
時計の針の音だけが、遠くで淡々と刻まれている。
レギュラスは何も言わなかった。
ただ、窓の外に目を向けたまま立ち尽くしていた。
カサンドラの喉に、嗚咽のような息がこみ上げる。
彼女の目には、光が滲んでいた。
――愛を知らぬ婚姻の果てに、
残されたものは、誇りと哀しみだけだった。
ロズィエ家の血が、
静かに、しかし確実に、彼女の胸の奥で泣いていた。
