3章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
広間を包む沈黙の中で、レギュラスは立ち尽くしていた。
耳の奥がじんじんと痛む。
さっきまでそこにいたアランが、もうどこにもいない。
闇の帝王の命令一つで、デスイーターたちの黒い影に囲まれ、そのまま地下へと連れ去られた。
その瞬間、胸の内で何かが崩れ落ちる音がした。
「……待ってください。我が君、アランは――!」
声を荒げるよりも早く、ルシウスとセブルスが両側からレギュラスの腕を掴む。
力の籠ったその手に押さえつけられ、床に膝をついた。
「やめろ、レギュラス!」
「落ち着け、今は無理だ!」
二人の声が重なる。だが、どちらの言葉も届かない。
心臓が耳元で鳴っている。鼓動の音しか聞こえなかった。
信じられなかった。
まさかアランが――あの場で、杖を下ろすとは。
たとえ内心がどうであろうと、命を守るために、あの一瞬だけは振るってほしかった。
その場を乗り切り、あとでいくらでも涙を流せばよかった。
それなのに。
彼女はあまりにも愚かに、潔く、そして美しく杖を下ろしたのだ。
「なぜだ……なぜだ……」
声にならぬ呻きが漏れる。
ヴォルデモートはすでに背を向け、長いローブを引きずりながら去っていった。
黒衣のデスイーターたちもざわめきながら広間を出ていく。
残された空間には、焼け焦げたような魔力の臭いだけが漂っていた。
ルシウスが肩に手を置く。
「レギュラス、もうやめろ。地下には行けない。」
「お願いです、行かせてください……!」
押さえつけられた腕が軋む。
それでももがこうとする。
もう、命令も忠誠もどうでもよかった。
ただ、あの人を救いたい――その一心だけだった。
「彼女は……あの人は、僕の妻なんです!」
声が裏返り、胸の奥から血が滲むように絞り出す。
その瞬間だった。
――アランの叫び声が、下から突き上げてきた。
それは、耳を裂くような悲鳴だった。
人の声とは思えぬほどの絶叫。
闇の中で何が行われているのか、想像するまでもない。
レギュラスの全身から血の気が引いていく。
冷たい汗が背中を伝う。
喉が詰まり、息ができない。
「アラン……!」
声が震え、足が勝手に動く。
だが、再びルシウスが腕を掴んだ。
「聞こえないふりをしろ、レギュラス!」
「死ぬぞ、あの声に反応したら!」
セブルスの声も重なる。
けれど、それらはもう遠くに霞んでいく。
――また聞こえた。
叫び声が、石壁を震わせながら何度も何度も上がる。
まるで命の最後の灯を燃やすように。
レギュラスの膝が床に崩れ落ちた。
両手で顔を覆う。
何度も響くその悲鳴に、心が少しずつ引き裂かれていく。
彼女の苦痛が、そのまま自分の中で燃え上がっていくようだった。
止めなければ。
それでも止められない。
ただ声を殺し、嗚咽を飲み込むしかなかった。
彼女をこの地獄へ連れてきたのは――他でもない、自分だ。
罪が、胸の奥で静かに形を持ち始める。
血のように重く、冷たい後悔だった。
夜の帳が降りたホグワーツの外れは、まるで息を潜めたように静まり返っていた。
姿くらましの余波で空気がゆがみ、レギュラスのマントが微かに揺れる。
月は細く、冷えた光が彼の頬を照らした。
肺に吸い込んだ空気は氷のように冷たく、喉を焼くようだった。
──急がねば。
地下に囚われたアランの悲鳴が、まだ耳の奥で反響している。
その声を振り払うように、彼は駆け出した。
ホグワーツの尖塔が見えたとき、胸の奥にわずかな安堵が広がる。
あの場所だけが、未だに「希望」と呼べるものを抱えている――
闇の帝王が唯一触れ得ぬ光を。
ダンブルドアの執務室に辿り着いたのは、夜明け前のことだった。
廊下の灯りは消え、肖像画の人々は寝息を立てている。
扉を叩くと同時に、中から穏やかな声がした。
「入るがよい、レギュラス・ブラック。」
まるで来訪を知っていたかのように。
中は暖かく、柔らかな橙の光が部屋を包んでいた。
机の上には山のように積まれた古文書と、ゆらゆらと宙を舞う羽ペン。
壁際の暖炉ではフェニックスのファウクスが翼を休め、
その赤い羽根が火に照らされて黄金のように輝いていた。
「……何用かね。」
ダンブルドアは机越しにレギュラスを見つめた。
老魔法使いの青い瞳は静謐で、全てを見通すようだった。
レギュラスは一礼し、喉の奥から絞り出すように言葉を発した。
「取引に伺いました。」
ダンブルドアの眉がわずかに動いた。
「取引、とな。」
その声音には警戒よりも、静かな興味が滲んでいた。
「応じていただけるなら――シリウス・ブラックの起訴を取り下げます。
事故として処理しましょう。すでに手は回しています」
室内の空気が一瞬止まった。
ファウクスが低く鳴く。
老魔法使いは眼鏡の奥でレギュラスを見据え、ゆっくりと言った。
「……それは、聞くに値する提案のようじゃな。」
レギュラスは懐に手を入れ、銀の鎖を取り出した。
その先には、鈍い金属光を放つロケット。
表面には古代文字のような刻印が走り、
微かな呻きにも似た魔力の気配が滲んでいた。
彼はそれを両手で差し出す。
「闇の帝王の“弱点”を、お伝えします。
そしてその一つを――あなたに託します。」
ダンブルドアは慎重にそれを受け取り、指先で撫でた。
その瞬間、老魔法使いの眉間に深い皺が寄る。
「……これは?」
「“ホークラックス”です。」
レギュラスの声は低く、震えていた。
「闇の帝王は死を恐れています。
肉体を滅ぼされようとも、魂を分け、器に封じて不死を得ようとしている。
このロケットは、その“器”の一つです。」
ダンブルドアの目が、ゆっくりと細められる。
沈黙が部屋を包んだ。
やがて彼は深く息を吐き、静かに呟いた。
「……愚かであり、同時に恐ろしい。」
レギュラスは頷く。
「屋敷しもべが、闇の帝王の命でこのロケットを運んできました。
あの禍々しい魔力を感じ取ってすぐにわかりました。
――これは、魂を裂いた証だと。」
ファウクスが羽を震わせ、火の粉が舞う。
その光がレギュラスの頬を照らした。
彼の瞳の奥には、決意と焦燥がないまぜになった影が宿っている。
「では、お主は何を望むのじゃ?」
ダンブルドアの問いは静かだった。
「グリフィンドールの剣で――そのロケットを破壊してください。」
「……なぜその剣なのじゃ?」
レギュラスは一歩前へ出る。
「グリフィンドールの剣は、ゴブリンによって鍛えられた唯一の武具。
触れたものの“力”を吸収します。
蛇の毒であろうと、呪いの魔力であろうと――。
だからこそ、ホークラックスの呪詛をも破壊できるはずです。」
ダンブルドアの眼差しが炎の揺らめきの中で光を帯びた。
「理屈は通る。……実に興味深い話じゃ。」
レギュラスはわずかに肩の力を抜いたが、
その声には震えが混じる。
「今まさに、私の妻が……あなたに情報を渡した罪で拷問にかけられています。」
ダンブルドアの目が見開かれた。
「……何と言った?」
「アラン・ブラックです。」
名を出すと、胸の奥が裂けるように痛んだ。
「彼女は愚かにも、あなたを頼りました。
そのせいで今、命を奪われようとしています。」
レギュラスは息を呑み、ダンブルドアの瞳をまっすぐに見た。
「闇の帝王に、あなたがホークラックスの存在に気づいたこと、
そしてその一つを破壊したと私が告げれば――
あの方は動揺します。焦り、他のホークラックスを守るため、
私を傍に置こうとするでしょう。」
「つまり……その“混乱”を利用して、彼女を救うと?」
「ええ。」
レギュラスの声は震えながらも確信に満ちていた。
「その時、私の唯一の願いを伝えます。
“アラン・ブラックを釈放せよ”と。」
長い沈黙が流れた。
暖炉の火がぱちりと弾ける音だけが響く。
やがてダンブルドアは、ゆっくりとロケットを見つめ、
その目に深い憂いと決意を宿した。
「……約束しよう、レギュラス。
このロケットを、必ず破壊する。」
その言葉を聞いた瞬間、レギュラスは小さく目を閉じた。
心の奥に、かすかな安堵が広がる。
長い闇の中でようやく見えた、一筋の光。
だが――その光は、命を代償にする炎のように脆く儚い。
彼はそれを分かっていた。
この取引の結末が、己の死に繋がることを。
それでも構わなかった。
たとえすべてを失っても、アランだけは――
光の中へ、還してやりたかった。
昨夜、あの禁断の薬の効能はとっくに切れていた。
今、アランの身体はその反動を嘲るように、激しい痛みの波に襲われている。
筋肉は引き裂かれるように軋み、骨の髄にまで灼ける熱が走る。
意識は何度も薄れ、そのたびに新たな呪文が叩きつけられた。
〈クラシアトゥス〉――。
叫びたいのに、声がもう出ない。
喉は焼け、唇は血で張りつき、代わりに洩れるのはかすれたうめき声だけだった。
それでも術者たちは、意識が遠のきそうになる瞬間を逃さず、再び痛みの雨を降らせる。
逃げ場などない。死ぬことすら許されない。
焦点の合わない視界の奥で、黒い影が揺れている。
湿った石床には血が滲み、皮膚に貼りつく冷たさがいやに鮮明だった。
どこか遠くで笑い声がする。
「レギュラス・ブラックも堕ちたものだな。」
「ったくよ、あの貴族面。気取りやがって。これで少しは分かったろうよ。」
耳だけはまだ鮮明だった。
声が届くたびに胸の奥をえぐられるようで、呼吸が苦しくなる。
確かに――憎んでいた。
闇を選んだ彼を、許すことなどできなかった。
自分の手でこの世界をこんなにも汚した男を、心の底から軽蔑していた。
けれど、それでも思い出す。
アルタイルを抱く彼の手。
熱の出た夜に背を撫でてくれた手。
眠る前に髪を整えてくれた指先。
あの優しさだけは、どんな闇にも染まらなかった。
シリウスと同じくらいの熱で愛してはいけなかった。
心はとうに別の人――シリウスのもとに置いてきた。
けれど、レギュラスがくれた想いに応えたくて、
支えになろうと願っていたのは、確かに自分の本心だった。
それが、彼に返せる唯一の「愛」だった。
「……ふん、気取った女だ。」
低い声とともに、杖の先がアランの顎を強引に持ち上げた。
頬に触れる木の冷たさ。息が止まりそうになる。
「泣きも喚きもしねぇ。強がりか?」
笑い声が重なる。
次の瞬間、別の男が杖の先でアランの服の裾を突いた。
布が破れ、ひやりとした空気が肌を撫でる。
たくし上げられていく感覚。
汚れた笑い声が耳に刺さる。
羞恥と屈辱が一気に込み上げた。
身体の自由が奪われ、抵抗もできない。
両手が使えたなら、この男たちの顔に爪を立ててやれたのに。
「やめて……」
唇が震え、絞り出した声は自分でも分からぬほど弱かった。
それでも男たちは笑いを増すだけだった。
世界の輪郭が霞んでいく。
視界の端で灯る松明の光が、血に濡れた床に映りこみ、
その光がまるで自分の命の最後の輝きのように揺らめいていた。
(レギュラス……)
名前を呼んでも、誰も応えない。
それでも、彼の顔が浮かぶ。
怒鳴りつけるときの冷たい灰色の瞳。
それでも、心の底で誰よりも優しい瞳だった。
痛みの向こうで、アランはかすかに笑った。
息をすることさえ、痛みに変わっていた。
身体の芯はもう何度も壊れかけ、限界という言葉の意味すらわからなくなっていた。
ここがどこなのか、何時間が過ぎたのかもわからない。
ただ、冷たく湿った石床の感触だけが現実をつなぎ止めていた。
──まさか、自分がこんな最期を迎えるなんて。
アランはぼんやりとそう思った。
愛した男のどちらでもない。
シリウスでも、レギュラスでもない。
名も知らぬ男たちが、笑いながら彼女の身体を弄んでいる。
まるで生きた人形のように。
心が現実から切り離されていく。
屈辱という感情さえ、もはや霞んでいた。
痛みも熱も、ただ遠い場所から眺めているようだった。
彼らは、ブラック家という名の下で育った男を羨み、妬み、憎んでいた。
そして今、その憎悪を“彼の女”にぶつけて快楽を得ようとしている。
彼を貶め、自分たちの中にある劣等感を打ち消すために。
アランは目を閉じた。
もう抵抗する気力も、恐怖もなかった。
ただ、静かに思う。
――いい。好きにすればいい。
こんなことで、レギュラスが壊れるなら、それも運命だ。
愛されるより、愛する方がずっと苦しい。
それでも、あの人を最後まで想えるなら、それでいいと思った。
やがて、頭上で誰かが下卑た声で笑う。
その音は、まるで遠雷のように遠のいていく。
(あなたたちも、いつか知るでしょう)
胸の奥で静かに呟く。
愛というものを。
誰かを心から想うということが、どれほどの痛みと優しさを伴うものか。
その時になれば、今日という日の愚かさを、きっと理解するだろう。
彼らが奪っているのは、肉体だけだ。
魂は誰にも触れさせない。
アランの中では、もう確信に近い静けさがあった。
――光は、必ず勝つ。
願望ではない。これは“未来”だった。
そう思うだけで、不思議と恐怖が消えていく。
闇はどれほど濃くても、光を完全には呑み込めない。
その証を、きっと誰かが継いでいく。
アルタイルが、あの小さな光が、いつの日か夜を裂いて歩むだろう。
アランの唇がかすかに動いた。
震える息の合間に、彼女は囁く。
「……光は、勝つのよ」
その言葉は誰にも届かない。
けれど、まるで夜明けの兆しのように、
冷たい石壁に淡く反射して消えていった。
ヴォルデモートの館には、夜の気配が沈み込んでいた。
蝋燭の火が壁に長い影を落とし、空気は死んだように静まり返っている。
レギュラスは、その闇の中心へと一歩ずつ進んでいった。
黒い石畳を踏むたびに靴音が響き、広間の奥に座る主の姿がぼんやりと浮かび上がる。
天井は高く、冷気が垂れ込めている。
炎の揺らめきに照らされた玉座には、ヴォルデモート。
赤い瞳が薄く笑みを帯び、指先が杖を弄ぶように回っていた。
その目には、すでにすべてを見通した者の余裕がある。
「よくきた、レギュラス・ブラック。」
声は冷たく、蛇の舌が滑るようだった。
レギュラスは深く一礼する。
その胸の奥では、心臓が速く脈を打っていたが、顔には一片の揺らぎも見せない。
――これで駄目なら、終わりだ。
アランも、アルタイルも、自分も。
「一つ、私からご提案がございます。」
低く抑えた声が、静まり返った空間に落ちる。
「ふむ、申してみよ。」
その返答には、明らかな愉悦が混じっていた。
この男が自分のもとを訪れた理由など――どうせあの女の命乞いだろう。そう確信して楽しんでいるのだ。
だが、レギュラスの瞳には微塵の揺れもなかった。
「スリザリンのロケット以外のホークラックスの隠し場所を、早急に変えられるべきかと存じます。」
ヴォルデモートの笑みが消える。
一瞬で空気が変わった。
それまで玉座にもたれかかっていた身体が、音もなく前のめりになる。
「……今、なんと言った?」
声が低く、重く、地の底から響いた。
紅い瞳が針のように細められ、空気が圧し潰される。
その視線だけで皮膚が裂けそうなほどだ。
「ホークラックス、でございます。」
レギュラスは静かに繰り返す。
もう恐れる気持ちはどこにもなかった。
命を差し出す覚悟は、とうに済ませている。
「貴様……それをどこで知った。」
声は怒号にも似ていた。
杖の先から冷たい火花が散る。
レギュラスはゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐにその瞳を見た。
「ダンブルドアの手に、スリザリンのロケットが渡っています。
当初は脅しだと思いましたが――彼は“グリフィンドールの剣”でロケットを破壊するつもりでいるようです。」
ヴォルデモートが立ち上がった。
マントが床を擦り、闇が波打つように広がる。
レギュラスの目の前に来ると、冷たい手が彼の喉元を掴んだ。
「誰が……誰が貴様にそれを教えた!」
絞めつけられた気管が軋み、息が詰まる。
しかしレギュラスは耐えた。
その赤い瞳の奥に、確かな“焦り”が宿っている。
――効いている。
「ダンブルドアは侮れません。
それはあなたが一番ご存知のはずです。
あの男は、真実を嗅ぎ分ける嗅覚を持っています。
ロケットの破壊は避けられません。
けれど、残りのホークラックスを守ることは、まだできます。」
ヴォルデモートの手がゆっくりと喉から離れた。
瞳が赤く光り、思考の影がその奥で渦巻いている。
「……続けよ。」
「私は、配置の再編に協力できます。
私に“探らせてください”。
ダンブルドアの動き、監視網、魔法省の記録。すべてをあなたの手の中に戻します。」
静寂が落ちた。
ヴォルデモートは視線を逸らさず、レギュラスの顔を舐めるように見つめている。
沈黙の中で、蝋燭の炎だけがかすかに揺れた。
やがて、細い声が落ちた。
「レギュラス・ブラック……貴様、愚かではないな。」
氷のような指が彼の頬に触れる。
その笑みは、冷笑とも満足ともつかない。
「だが、忘れるな。
ホークラックスの存在に触れた者は、いずれ“処理”される。
貴様の命は――今この私の気まぐれひとつだ。」
レギュラスはゆっくりと跪き、目を伏せた。
「ええ、存じております。我が君。
けれど、あなたが築かれた永遠の帝国を守れるのは、私しかおりません。」
その瞬間、ほんのわずかに、ヴォルデモートの唇が歪んだ。
笑みとも、侮蔑ともつかぬその動き。
「……面白い。」
闇が揺れた。
遠くで雷鳴のような音がした。
だがこの場には二人しかいない。
命を賭した取引は、成立したのか、あるいは延命を許されたのか。
ただ一つ確かなのは――
アラン・ブラックの命の灯が、まだかすかに燃えているということだけだった。
石造りの回廊を、革靴の音が静かに響く。
その歩調には、怒りと焦燥と、僅かな祈りが混ざっていた。
レギュラス・ブラックは闇の帝王の間を後にすると、そのまま迷いなく地下へと続く階段へ向かった。
冷たい空気が肌を刺す。
長い石段を照らすのは壁に浮かぶ緑の光球。
魔法の燐光がゆらゆらと揺れ、幽かな煙のように漂っている。
そこに立つ番人たちは、黒衣の影のように沈黙していた。
レギュラスの姿を認めると、彼らは一瞬ぎょっとして顔を見合わせる。
その表情は、まるで幽霊を見たかのようだった。
「アラン・ブラックの解放を命じます。」
淡々とした声だった。
だが、その一言が放たれた瞬間、空気がぴんと張り詰めた。
「……な、何を仰せで?」
「我が君のご命令では……?」
番人たちは信じられぬ様子で目を丸くする。
その動揺が広間の奥まで伝わり、別の足音が響いた。
「何の騒ぎだ?」
ルシウス・マルフォイが現れた。銀髪が燭光を受けて冷たく光る。
その後ろには、黒衣の裾を翻しながらセブルス・スネイプの姿も見えた。
「騒がしいぞ」と彼はぼそりと呟く。
だが、レギュラスの表情は微動だにしない。
「もう一度だけ言います――アラン・ブラックの解放を命じます。」
静かな声。それなのに、ひとつの呪文のように響いた。
番人たちは口を開けたまま固まる。
そしてその背後、暗がりの奥で何かがずるりと動いた。
ナギニだった。
巨大な蛇が、まるでレギュラスの意を汲むように静かに姿を現す。
艶やかな鱗が石床に音を立て、二つの金色の瞳が番人たちを射抜いた。
誰もが息を呑んだ。
ナギニ――闇の帝王の唯一無二の寵愛を受ける生き物。
その獰猛な蛇が、今はレギュラスの足元に身を寄せ、
まるで従者のように喉を鳴らしている。
それだけで、彼の言葉が本物であることは明白だった。
ヴォルデモートの愛玩が、主以外に頭を垂れることなどありえない。
「……承知いたしました。」
番人たちは蒼ざめ、互いに頷き合うと慌てて扉の鍵を外した。
ギィィ……と鈍い音を立てて、冷たい風が吹き上がる。
「何をした、レギュラス。」
ルシウスの声には焦りが混じる。
セブルスも静かに視線を寄越した。
「まさか……お前、あの方と何を交わした?」
レギュラスは短く息を吐く。
「取引の内容は申し上げられません。――破れぬ誓いを立てました。」
その言葉に、二人とも沈黙した。
ルシウスは軽く舌打ちし、セブルスは眉をひそめて顔を伏せる。
破れぬ誓い。
命と引き換えの誓約魔法――それを口にしたということは、
冗談でも気まぐれでもない。
階段は果てしなく続いていた。
苔むした壁、冷たい空気。
地下牢へ近づくほど、血と鉄の匂いが濃くなっていく。
レギュラスの足取りは次第に早くなる。
焦燥が、皮膚の下を這うように広がっていく。
「待て、レギュラス。」
ルシウスが腕を掴む。
「一旦、私が先に入る。」
「どういう意味です。
「いいから――お前のためだ。」
ルシウスの顔色は、普段の冷静さとは違っていた。
「精神衛生上な。……一旦、待て。」
扉の前に立つルシウスが杖を掲げる。
「アロホモーラ。」
鍵が外れ、重い扉がゆっくりと開く。
開いた瞬間、何かが腐ったような匂いが漂った。
ルシウスはほんの一瞥だけ中を見て、
すぐに扉を閉めた。
そして振り返り、レギュラスの肩を掴む。
「――待て。今は、見るな。」
その声には、かすかな震えがあった。
あのルシウス・マルフォイが、声を震わせている。
「……なぜです?」
ルシウスは答えない。
ただ、深く目を伏せ、ゆっくりと首を横に振った。
レギュラスの胸の奥で、冷たい何かが音を立てて崩れた。
その感覚だけが、現実だった。
ここまで来て、待てと言われて素直に止まれるわけがなかった。
扉の向こうには、まだ息をしているかも分からぬアランがいる。
彼女の呻き声がもう聞こえないことが、かえって恐ろしかった。レギュラスの中で何かが切れた。
「離してください、ルシウス。」
その声音は低く、掠れていたが、揺るぎなかった。
「おい、待て、レギュラス、今は——」
制止の声を無視して、レギュラスは扉の取っ手に手をかける。
冷たい鉄が手のひらに食い込む。
鍵はすでに解かれていた。
重い音を立てて扉が開く。
その瞬間、室内の空気が押し寄せる。
鉄と血の臭い、焦げたような薬品の匂い、そして何か腐ったような酸味。
息を吸うだけで喉が痛くなった。
奥の壁際。
鎖に繋がれ、ぐったりと項垂れた女がいた。
アラン。
その姿を見た瞬間、世界が止まった。
目が信じようとしない。
いや、信じたくなかった。
彼女の身体は傷だらけだった。
腕も脚も細く垂れ下がり、肌の上には紫の痣と焼け跡がいくつも刻まれている。
血の滲んだ髪が頬に貼りつき、唇は乾いて割れ、微かに震えていた。
着ていたドレスはもう布切れにすら見えない。
その端々が裂かれ、燃やされた跡が残っている。
まるで尊厳という言葉をこの世から消し去ろうとでもするかのような仕打ちだった。
レギュラスの胸に、激しい衝撃が走った。
息ができなかった。
痛みが、怒りが、悲しみが、一度に押し寄せる。
「アラン……」
掠れた声が唇から漏れる。
だが、その声に応えるものはない。
彼女は、まるで眠っているかのように動かない。
部屋の奥で、二人のデスイーターが慌てて立ち上がる。
「レギュラス様……!」
彼らの声は震えていた。
レギュラスの目が、ゆっくりと彼らに向けられる。
その灰色の瞳は氷のように冷たかった。
表情は静かだが、その奥に潜むのは狂気に近い怒り。
彼が何を考えているのか、誰にも読めなかった。
二人の男のズボンは乱れ、腰のあたりのベルトが締めきれていない。
ルシウスが一瞬入ったとき、慌てて着直したのだろう。
想像するまでもなく、何があったのかがわかってしまった。
世界が血の色に染まる。
鼓動の音が耳の奥で轟く。
気づけば、レギュラスの手は杖を掴んでいた。
「レギュラス!」
背後からルシウスの制止の声が響く。
だが、もう止まらない。
怒りではなかった。
理性も、使命も、何もなかった。
ただ、ひとつの感情だけがあった。
――この者たちを、生かしておく理由はない。
「お、お待ちください、レギュラス様!」
二人のデスイーターが同時に膝をつき、慌てて頭を下げる。
杖を取り落とし、床に額を押しつけるようにして命乞いをした。
震える声が、薄汚れた床の上で響く。
だが、レギュラスは耳を貸さなかった。
彼の足元で、ナギニが音もなく這い出してくる。
その巨体が二人を取り囲むように動く。
蛇の舌が空気を切り、冷たい音を立てた。
レギュラスの目は、すでに人のものではなかった。
愛する者の名を奪われた男の、絶望の底にある光。
それはもはや怒りではなく――報いだった。
そして、彼の唇が静かに死の呪文を紡ぐ。
その声は、祈りのように美しかった。
ルシウス・マルフォイは目を瞑った。
何も見たくなかった。
これ以上、この地下に渦巻く人間の暗さを見てしまえば、
彼自身の心も何かが崩れてしまう気がした。
背後で、セブルス・スネイプが無言のまま動く。
彼は躊躇なくローブを脱ぎ、そっとアラン・ブラックの身体にかけてやった。
破れた布地の隙間からのぞく肌が、青白く、氷のように冷たかった。
かけた布がその体温のなさを余計に際立たせていく。
「……感謝します。」
レギュラスの声は掠れていた。
どこか遠くで響くような、疲弊しきった声。
セブルスは表情を変えない。
「出血が酷い。応急処置だけでも施しておく。」
彼は杖を抜き、淡い光を放つ。
その呪文の光が、アランの傷口に当たるたび、微かに血の滲みが収まっていく。
それでも完治には程遠い。
癒しの光の下で、彼女の皮膚に刻まれた裂傷の痕が影のように浮かび上がる。
部屋は静まり返っていた。
ただ、レギュラスの荒い呼吸音と、遠くで滴る水音だけが響いていた。
──セブルスはふと、レギュラスを見た。
彼はいまだアランのそばに跪き、何かを呟くように彼女の髪を撫でていた。
その仕草には、もはや理性も威厳もなかった。
ただ、壊れてしまったものをどうにか抱き締めようとする人間の、
ひどく脆い、無防備な優しさがあった。
(……どこまで、この男はこの女のために身を削るつもりなのか。)
セブルスは心の中でそう呟く。
昔から見てきた。
学生の頃から、レギュラス・ブラックという男は“完璧”そのものだった。
冷静沈着で、血統の誇りを背負い、
誰に対しても礼を失わず、感情に流されることもない。
まるで氷の結晶でできたような人間だった。
だが――アラン・セシールだけは違った。
その名が出るだけで、彼の中の秩序が崩れていった。
彼の完璧さを最も揺らがせる、唯一の弱点。
セブルスはその弱点が“愛”だということを、ずっと理解できなかった。
愚かだと思っていた。
たかが一人の女のために、命を投げ出すなど、
自分には到底できぬことだった。
だが、今こうして目の前に広がる光景を見て、
彼はほんの少しだけ、その愚かしさが美しいもののように見えた。
アランがこの部屋で受けた仕打ちを、
彼は部屋に足を踏み入れた瞬間に悟った。
これほどまでの屈辱を受けた後で、
この男が“寛容”でいられるはずがない。
倒れ伏す二人のデスイーター。
セブルスの目に、哀れみの色はない。
ただ――彼らの“欲望”がどこから生まれたのか、理解はできた。
アラン・ブラックは、痛みの中にあってもなお美しかった。
その姿は、壊されてもなお、ひとつの祈りのようで。
それがまた、人を狂わせたのだろう。
(……これが、かつて王宮を揺るがせたリシェル・ブラウンの血か。)
彼女の母が辿った悲劇を、娘が今、なぞるように生きている。
血の宿命というものがあるなら、
これほど皮肉なものはない。
ナギニが、部屋の隅でとぐろを巻いた。
長い体を静かに揺らしながら、主を守るようにレギュラスの足元に寄り添う。
蛇の金色の瞳に映る彼は、もはや闇の帝王の“側近”であり、
同時に――その寵愛を奪った異端でもあった。
セブルスは思った。
レギュラス・ブラックという男は、
確かに闇に呑まれながらも、
その心の中にただ一つ、
純粋な光――“愛”だけを抱いているのだと。
愚かで、痛ましく、けれど誰よりも美しい。
その愛が、今夜、この冷たい地下で、
たしかに息づいていた。
屋敷の大きな扉を押し開けると、医務魔女たちが待ち構えていた。彼らは淡々と、しかし確実に準備を整えている。レギュラスはアランをそっと運ばせ、優しく彼女を寝台の上へと安置した。白いシーツに横たわるその姿は、陶磁器のように繊細で、しかしあちこちに壊れた跡がついていた。皮膚は血色を失い、所々に瘢痕のような変色が広がる。手首には深い締め跡が黒く残り、抵抗の痕がはっきりと刻まれていた。目を伏せた顔には薄い切り傷が走り、唇にはひび割れがある。美しさを剥ぎ取られたあとに残る、その崩れた輪郭が、レギュラスの胸を鋭くえぐった。
医務魔女の手が動き始める。消毒の香り、温かな蒸し布、静かな指先の仕事。彼女たちは言葉少なに、必要な処置を迅速に進める。出血箇所には癒しの呪文が穏やかに当てられ、裂けた皮膚は徐々に縁が寄せられていく。痛みが和らぐわけではないが、命を繋ぐための最低限の措置が施される。
「出血は何とか止まりました。痛みは残りますが、命に別条はないでしょう」
医務魔女サラの声は冷静だが、どこか震えを含んでいた。レギュラスは頷く。安堵のため息が出るより先に、胸の奥に渦巻く怒りが大きく膨らんでくるのを感じた。
処置を続ける中、医務魔女がふと手を止めて、落ち着いた口調で尋ねた。
「緊急の避妊措置をなさいますか?」
その言葉の意味を、レギュラスは一瞬理解できなかった。医療用語としての「避妊措置」──その用途を知らないわけではない。ただ、今の瞬間、その純粋さが、アランの身体に付着している何かと結びつくという観念が、冷たい衝撃となって彼の頸を締めつけた。医務魔女は淡々と、しかし確実に説明する。体液の付着が確認されたこと、そのままにしておけば妊娠の可能性があること、緊急避妊には吐き気や倦怠感といった副作用が伴う可能性があること──感情を削ぎ落とした声で、事実だけを淡々と並べていく。
レギュラスはアランの顔を見下ろした。薄紙のように白く、まだ意識の波に揺れている瞼の下で、まぶたがかすかに震える。あの夜の痛みや屈辱が、彼女の身体にどれほど深く刻まれているかを示す生々しい証拠が、今まさにここにある。怒りが、恥ずかしさが、守るべきものを奪われた男の本能が、胸の奥で燃え上がる。
「……やってください」
言葉は短く、しかし沈痛だった。レギュラスの声には震えがあった。医務魔女はすぐに同意を示し、必要な薬剤を用意し始める。レギュラスはその間、無意識のうちにアランの指をぎゅっと握りしめた。指先に伝わる冷たさが、彼の決意を硬くする。
処置は短時間で終わった。薬が投与され、副作用の可能性について再度の説明が行われる。レギュラスはそのすべてを受け入れる覚悟を示した。彼女の身を守るためには、短期的な苦痛や不快を受け入れるしかない。その代わりに、再びあのような暴虐が向けられることはあってはならない。そう自分に言い聞かせるように、彼はアランの頬に指先を添えた。
だが、冷静さの陰には尖った感情が潜んでいる。処置の手が止まった瞬間、レギュラスの瞳は不意に鋭くなる。数時間前に床に転がっていた二人のデスイーターのことが脳裏をよぎる。命は奪った。だが、レギュラスの胸には焦燥にも似た苛立ちが残った。「殺しただけでは足りない」と、彼の内側で何かが囁くのだ。正義でも復讐でも言葉に収まりきれない、もっと深い報いを求める衝動。だがそれは、冷静な自制のうちに押しとどめられる。闇の帝王との取引、屋敷の安定、アルタイルの未来──すべては天秤の上に載せられている。
レギュラスは静かに息を吐き、医務魔女に礼を言った。アランの額に冷たい布を当てると、彼女が薄く目を開け、頼りなげに彼を見た。そこには恐怖と混乱と、そしてどこか遠いところに向けられた悲しみが同居している。レギュラスは言葉を探したが、なにひとつ適切なものが見つからない。ただ、指先で彼女の髪を撫でる。それだけが、今できる最小限の慰めだった。
夜が深まるほどに、屋敷の空気は重く、冷たく澄んでいった。レギュラスは窓の外へ視線を投げ、闇の向こうに浮かぶ星を見上げる。星は遠く、そして無垢だ。どれだけの代償を払えば、この家に平穏が戻るのか。どれだけの血を流せば、アランの身体に落ちた影が払えるのか。彼は答えを持たないまま、ただ一つの誓いを胸に刻み込む。
――二度と、彼女にこんな目を合わせはしない。たとえ己の魂が黒く汚れようとも、彼女とその子を守るために、すべてを賭けると。
シリウス・ブラックはようやく自由の身となった。
長い尋問の末、魔法省はようやく「無実」という結論に至ったのだ。
あの忌まわしいアズカバンの名を聞かずに済んだとき、
シリウスは深く息を吐き、握りしめた拳を開いた。
だが胸の奥には、晴れぬ靄が残ったままだった。
──自分が助かったのは偶然ではない。
そう直感していた。
ピーター・ペティグリューの件は、魔法省によって
「呪文の暴走による事故」として処理された。
強大な呪文を放とうとしたが制御しきれず、
その反動で自身が消滅した──
書類の上では、それで全てが片付いていた。
だが、そんな馬鹿げた話を信じられるわけがない。
ピーターの臆病さを一番知っているのは、他でもないシリウス自身だった。
あの男があの夜、己の命を賭して呪文を放つなど、ありえない。
誰かが裏で細工をしたのだ。
自分を救うために。
ダンブルドアにその名を尋ねたとき、
返ってきた答えは信じ難いものだった。
「──レギュラス・ブラック、だよ。」
あの名前を聞いた瞬間、
シリウスの胸の奥で、凍りついた何かが微かにひび割れた。
「は……?冗談だろう、先生。」
「冗談を言う場ではない。」
ダンブルドアは静かに、しかし確かに言った。
レギュラス・ブラック。
闇の帝王に仕え、自らの血を誇りとし、
その信念のために弟としての情さえ捨てた男。
その彼が、裏で動いたというのだ。
「何考えてやがる……」
低く吐き捨てるようにシリウスは言った。
怒りと困惑が胸の中で渦を巻く。
ダンブルドアの声が続いた。
「アラン・ブラックを、救うためだったようじゃ。」
その名を聞いた瞬間、
シリウスの全身が強張った。
心臓が一瞬止まったように、息が詰まる。
アラン。
その名だけで、封じていた記憶が一斉に甦った。
柔らかな黒髪、翡翠の瞳、
笑えば世界がひととき明るくなるような微笑み。
自分の初恋であり、
永遠に手放したくなかった人。
「……アランを救う?」
絞り出すように問うと、ダンブルドアは頷いた。
「ジェームズとリリーの家が襲撃されると知り、
それを私に知らせたのは、彼女じゃった。
彼女がいなければ、彼らも、赤子も、
生きてはおらなんだろう。」
その言葉が胸の奥を貫いた。
アランが──レギュラスの妻であるアランが、
自分たちを救うために危険を冒したのか。
レギュラスの傍にいながら。
しかも、彼の子まで抱えて。
シリウスは天を仰いだ。
感謝と痛みと怒りとが入り混じった感情が、
喉の奥で詰まり、声にならない。
「……あの人が、どんな目に遭ったか知ってるか?」
「拷問にかけられたそうじゃ。」
その言葉が落ちた瞬間、
シリウスは立ち上がった。
世界が一瞬、真っ白になった。
指先が震え、握った拳に爪が食い込む。
胸の奥から迸るのは、怒りでも悲しみでもない。
それらすべてを飲み込んだ、狂おしいほどの痛み。
「……ふざけるな。」
あの小さな笑顔を、誰かが奪った。
あの優しい声を、誰かが踏みにじった。
その事実が、彼を焼くように苦しめた。
そして、その地獄の只中に、弟が身を置いていたという。
レギュラス・ブラック。
闇の帝王に魂を売り渡したはずの男が、
アランのために――命を懸けてヴォルデモートの秘密を差し出した。
「ホークラックス……」
その言葉をダンブルドアの口から聞いたとき、
シリウスは息を呑んだ。
魂を分け、死を超える術。
あまりにおぞましく、そして絶望的な禁忌。
ダンブルドアの表情に、一瞬だけ影が差した。
それは、これから先の戦いの果ての長さを示していた。
「レギュラスは、その一つを我らに託した。」
「だが残りは……」
「彼が守るのであろう。厳しい戦いになる」
沈黙が流れる。
炎のような怒りも、
氷のような悲しみも、
その沈黙の中で形を失っていった。
兄弟としての絆はとうに途切れている。
だが今、その途切れた線のどこかで、
確かに血の温もりだけが繋がっていた。
シリウスは低く呟いた。
「……レギュラス、あいつはどこまで俺を苦しめる気だ。」
ダンブルドアは静かに目を閉じた。
暖炉の炎が揺れ、灰が舞い上がる。
レギュラスは闇の中に生き、
シリウスは光の側に立った。
それでも二人の間には、
消えないひとつの影があった。
――それは、アラン・ブラックという名の、
愛と罪の残響だった。
夜明けの光がゆっくりと石造りの壁を染めていく。
カーテンの隙間から射し込む淡い光が、静かな寝室に揺れて落ちた。
その光の中で、レギュラスは目を覚ます。
眠れぬ夜をいくつ越えただろう。
この場所で、彼は毎朝、変わらぬ姿で眠るアランの隣にいた。
細く、冷たい指先を撫でるたびに、
この世界にまだ彼女が存在していることだけを確かめてきた。
彼女の肌の下に流れるかすかな熱を探し、
口付けで命を呼び覚ますように、その頬に、唇に、何度も触れた。
反応はなかった。
まるで深い海の底に沈んでしまったように、
アランは静かに、遠くの夢に囚われたままだった。
それでも構わなかった。
触れている限り、失われた温もりの残響だけはそこにあった。
レギュラスはその日も、同じように彼女の傍に身を寄せ、
そっと体を覆うように抱き寄せた。
細い肩に顔を埋めると、
ほのかに薬草の匂いがした。
医務魔女たちが使う癒しの香り――
それがこの部屋に残る唯一の生命の気配だった。
その時。
かすかに、布の擦れる音がした。
レギュラスは息を呑み、顔を上げる。
長いまつ毛がわずかに震え、
光を吸い込んだような翡翠の瞳が、
ゆっくりと開かれた。
一瞬、時間が止まった。
夢だろうかと錯覚するほど、静かだった。
けれど確かに――アランの瞳が彼を見ていた。
「……アラン。」
呼びかけた声が震えた。
喉の奥からこみ上げる感情が、堰を切ったように溢れそうになる。
アランはぼんやりと瞬きをして、
唇をわずかに動かした。
「……レギュラス……?」
その声が、胸の奥に深く沁みた。
どれほどこの瞬間を願ってきただろう。
何度、名を呼び続けただろう。
息を詰めて、彼女の頬に手を伸ばす。
「ここにいます……アラン。」
言葉が途切れる。
涙が零れた。
こみ上げる安堵と悔恨が同時に押し寄せて、
呼吸の仕方さえ忘れてしまいそうだった。
アランの手が、ゆっくりと動いた。
力の抜けた指が、レギュラスの胸元に触れる。
その感触があまりにもかすかで、
彼は慌てて彼女の手を両手で包み込む。
「……ごめんなさい。」
アランの声は小さく、か細かった。
レギュラスは首を振る。
「いいんです。もう何も言わなくていい。」
彼女を責めることなど、できようはずがなかった。
どんな過ちも、どんな裏切りも、
もうどうでもよかった。
何もいらない。
ただ、彼女がここに生きている――それだけで。
「言葉も、償いも、何もいりません。
ただ……あなたが息をしてくれているなら、それでいい。」
その言葉に、アランの目に涙が浮かんだ。
彼女は震える唇で微笑み、
かすかに頷いた。
レギュラスはそっと彼女を抱きしめた。
折れそうなほど細い身体を、まるで自分の中に取り込むように。
彼女が痛まぬように、けれど離さぬように、
震える腕で必死に抱きしめた。
どれほどの時間が流れただろう。
朝の光が、二人を包む。
窓辺の花が風に揺れ、外では鳥が鳴いた。
アランの胸が微かに上下する。
その鼓動が、レギュラスの胸の奥で共鳴していた。
――奇跡は確かにここにあった。
言葉ではなく、触れることでしか確かめられない、
生の証がそこにあった。
そしてレギュラスは悟った。
自分の人生が、この一瞬のためにあったのだと。
どれほど闇を歩こうとも、
この光だけは、決して失いたくなかった。
長い冬がようやく明けたような朝だった。
柔らかな光がレースのカーテンを透かして、
白く静かな寝室に降り注いでいる。
その光を見た瞬間、アランは思った――
もう二度と、この光を見ることは叶わないと思っていた、と。
あの日、闇に閉ざされた地下室で、
幾度となく死を願い、救いを諦めた。
生きるということが、あんなにも苦痛に満ちているとは知らなかった。
けれど今、その光の中で、
腕の中に我が子――アルタイルがいる。
眠りから目覚めたその朝、
涙は不思議と出なかった。
ただ、現実の感覚を取り戻すのに時間がかかった。
世界の輪郭がぼやけて、
何が本当で、何が夢だったのか分からなかった。
医務魔女の手を借りて、アルタイルを部屋に連れてきてもらった。
その小さな足音と、軽やかな声が聞こえた瞬間、
アランの胸の奥で、何かが弾けた。
「……アルタイル……」
伸ばした腕に、息子の温もりが戻ってくる。
ふっくらとした頬、まだ甘い香りのする髪、
そして無邪気に笑う声。
その全てが、生の実感だった。
「ごめんなさい……アルタイル……」
涙がとめどなく零れた。
声が震え、息が詰まり、
それでも抱きしめる腕を離せなかった。
――この子を置いて、逝こうとした。
あの絶望の夜、母であることを放棄しようとした。
そのことが今さらになって恐ろしく、
胸が締めつけられるようだった。
アルタイルは何も知らない。
母の腕の中でキャッキャと笑い、
小さな手でアランの頬を叩いてくる。
その仕草が愛しくて、悲しくて、
アランはまた泣いた。
泣きながらも笑った。
――もう二度と、この子の笑顔を見逃したりはしない。
そんな誓いを心の奥で静かに立てる。
ふと、部屋の扉が音もなく開く。
そこに立っていたのはレギュラスだった。
光を背にして立つ彼の姿が、
まるで陽炎のように揺らめいて見える。
アランは目を上げた。
言葉を探したが、何も出てこなかった。
救われたことへの感謝も、
心の奥に芽生えた不安も、
どちらも胸の奥で絡まり合っていた。
――この人はいったい、どんな取引をしたのだろう。
あの闇の帝王に、どんな代償を差し出して自分を救ったのだろう。
考えるだけで、背筋が冷たくなる。
尋ねても、彼はきっと答えない。
その沈黙の奥にある闇を、アランは恐れていた。
どうか、それが誰かの命を犠牲にしたものでありませんように――
心の中で、祈るように呟く。
レギュラスは、そっと近づいた。
「……ほんとに、よかったです。」
そう言って、アランの肩に手を置く。
その指先の震えが、彼の安堵と疲労を物語っていた。
アランが顔を上げると、レギュラスの灰色の瞳が
やわらかく揺れていた。
冷徹だった男の瞳に、確かな温度が宿っている。
彼の手が、アランの背を撫でるように包み込む。
その感触があまりに優しくて、アランは目を閉じた。
痛みも恐怖も、その瞬間だけは遠ざかっていく。
アルタイルが小さく笑い、
父の姿を見つけて手を伸ばす。
「……ぱぱ……」
その声に、レギュラスはわずかに表情を崩した。
膝をつき、両手を広げる。
アルタイルはその胸の中へ、迷いもなく飛び込んでいった。
レギュラスはその小さな体を抱きしめた。
あたたかな重みが、腕の中にある。
この重みのために、どれほどの闇を背負ってきたのだろう。
アランはその光景を見つめながら、
静かに涙を流した。
悲しみではない。
生きているという事実が、
これほどまでに美しいと思えたのは、初めてだった。
──もう一度、生きてみよう。
この光の中で、この家族と共に。
アランはそっと手を胸に当てた。
温かい鼓動が、確かにそこにあった。
耳の奥がじんじんと痛む。
さっきまでそこにいたアランが、もうどこにもいない。
闇の帝王の命令一つで、デスイーターたちの黒い影に囲まれ、そのまま地下へと連れ去られた。
その瞬間、胸の内で何かが崩れ落ちる音がした。
「……待ってください。我が君、アランは――!」
声を荒げるよりも早く、ルシウスとセブルスが両側からレギュラスの腕を掴む。
力の籠ったその手に押さえつけられ、床に膝をついた。
「やめろ、レギュラス!」
「落ち着け、今は無理だ!」
二人の声が重なる。だが、どちらの言葉も届かない。
心臓が耳元で鳴っている。鼓動の音しか聞こえなかった。
信じられなかった。
まさかアランが――あの場で、杖を下ろすとは。
たとえ内心がどうであろうと、命を守るために、あの一瞬だけは振るってほしかった。
その場を乗り切り、あとでいくらでも涙を流せばよかった。
それなのに。
彼女はあまりにも愚かに、潔く、そして美しく杖を下ろしたのだ。
「なぜだ……なぜだ……」
声にならぬ呻きが漏れる。
ヴォルデモートはすでに背を向け、長いローブを引きずりながら去っていった。
黒衣のデスイーターたちもざわめきながら広間を出ていく。
残された空間には、焼け焦げたような魔力の臭いだけが漂っていた。
ルシウスが肩に手を置く。
「レギュラス、もうやめろ。地下には行けない。」
「お願いです、行かせてください……!」
押さえつけられた腕が軋む。
それでももがこうとする。
もう、命令も忠誠もどうでもよかった。
ただ、あの人を救いたい――その一心だけだった。
「彼女は……あの人は、僕の妻なんです!」
声が裏返り、胸の奥から血が滲むように絞り出す。
その瞬間だった。
――アランの叫び声が、下から突き上げてきた。
それは、耳を裂くような悲鳴だった。
人の声とは思えぬほどの絶叫。
闇の中で何が行われているのか、想像するまでもない。
レギュラスの全身から血の気が引いていく。
冷たい汗が背中を伝う。
喉が詰まり、息ができない。
「アラン……!」
声が震え、足が勝手に動く。
だが、再びルシウスが腕を掴んだ。
「聞こえないふりをしろ、レギュラス!」
「死ぬぞ、あの声に反応したら!」
セブルスの声も重なる。
けれど、それらはもう遠くに霞んでいく。
――また聞こえた。
叫び声が、石壁を震わせながら何度も何度も上がる。
まるで命の最後の灯を燃やすように。
レギュラスの膝が床に崩れ落ちた。
両手で顔を覆う。
何度も響くその悲鳴に、心が少しずつ引き裂かれていく。
彼女の苦痛が、そのまま自分の中で燃え上がっていくようだった。
止めなければ。
それでも止められない。
ただ声を殺し、嗚咽を飲み込むしかなかった。
彼女をこの地獄へ連れてきたのは――他でもない、自分だ。
罪が、胸の奥で静かに形を持ち始める。
血のように重く、冷たい後悔だった。
夜の帳が降りたホグワーツの外れは、まるで息を潜めたように静まり返っていた。
姿くらましの余波で空気がゆがみ、レギュラスのマントが微かに揺れる。
月は細く、冷えた光が彼の頬を照らした。
肺に吸い込んだ空気は氷のように冷たく、喉を焼くようだった。
──急がねば。
地下に囚われたアランの悲鳴が、まだ耳の奥で反響している。
その声を振り払うように、彼は駆け出した。
ホグワーツの尖塔が見えたとき、胸の奥にわずかな安堵が広がる。
あの場所だけが、未だに「希望」と呼べるものを抱えている――
闇の帝王が唯一触れ得ぬ光を。
ダンブルドアの執務室に辿り着いたのは、夜明け前のことだった。
廊下の灯りは消え、肖像画の人々は寝息を立てている。
扉を叩くと同時に、中から穏やかな声がした。
「入るがよい、レギュラス・ブラック。」
まるで来訪を知っていたかのように。
中は暖かく、柔らかな橙の光が部屋を包んでいた。
机の上には山のように積まれた古文書と、ゆらゆらと宙を舞う羽ペン。
壁際の暖炉ではフェニックスのファウクスが翼を休め、
その赤い羽根が火に照らされて黄金のように輝いていた。
「……何用かね。」
ダンブルドアは机越しにレギュラスを見つめた。
老魔法使いの青い瞳は静謐で、全てを見通すようだった。
レギュラスは一礼し、喉の奥から絞り出すように言葉を発した。
「取引に伺いました。」
ダンブルドアの眉がわずかに動いた。
「取引、とな。」
その声音には警戒よりも、静かな興味が滲んでいた。
「応じていただけるなら――シリウス・ブラックの起訴を取り下げます。
事故として処理しましょう。すでに手は回しています」
室内の空気が一瞬止まった。
ファウクスが低く鳴く。
老魔法使いは眼鏡の奥でレギュラスを見据え、ゆっくりと言った。
「……それは、聞くに値する提案のようじゃな。」
レギュラスは懐に手を入れ、銀の鎖を取り出した。
その先には、鈍い金属光を放つロケット。
表面には古代文字のような刻印が走り、
微かな呻きにも似た魔力の気配が滲んでいた。
彼はそれを両手で差し出す。
「闇の帝王の“弱点”を、お伝えします。
そしてその一つを――あなたに託します。」
ダンブルドアは慎重にそれを受け取り、指先で撫でた。
その瞬間、老魔法使いの眉間に深い皺が寄る。
「……これは?」
「“ホークラックス”です。」
レギュラスの声は低く、震えていた。
「闇の帝王は死を恐れています。
肉体を滅ぼされようとも、魂を分け、器に封じて不死を得ようとしている。
このロケットは、その“器”の一つです。」
ダンブルドアの目が、ゆっくりと細められる。
沈黙が部屋を包んだ。
やがて彼は深く息を吐き、静かに呟いた。
「……愚かであり、同時に恐ろしい。」
レギュラスは頷く。
「屋敷しもべが、闇の帝王の命でこのロケットを運んできました。
あの禍々しい魔力を感じ取ってすぐにわかりました。
――これは、魂を裂いた証だと。」
ファウクスが羽を震わせ、火の粉が舞う。
その光がレギュラスの頬を照らした。
彼の瞳の奥には、決意と焦燥がないまぜになった影が宿っている。
「では、お主は何を望むのじゃ?」
ダンブルドアの問いは静かだった。
「グリフィンドールの剣で――そのロケットを破壊してください。」
「……なぜその剣なのじゃ?」
レギュラスは一歩前へ出る。
「グリフィンドールの剣は、ゴブリンによって鍛えられた唯一の武具。
触れたものの“力”を吸収します。
蛇の毒であろうと、呪いの魔力であろうと――。
だからこそ、ホークラックスの呪詛をも破壊できるはずです。」
ダンブルドアの眼差しが炎の揺らめきの中で光を帯びた。
「理屈は通る。……実に興味深い話じゃ。」
レギュラスはわずかに肩の力を抜いたが、
その声には震えが混じる。
「今まさに、私の妻が……あなたに情報を渡した罪で拷問にかけられています。」
ダンブルドアの目が見開かれた。
「……何と言った?」
「アラン・ブラックです。」
名を出すと、胸の奥が裂けるように痛んだ。
「彼女は愚かにも、あなたを頼りました。
そのせいで今、命を奪われようとしています。」
レギュラスは息を呑み、ダンブルドアの瞳をまっすぐに見た。
「闇の帝王に、あなたがホークラックスの存在に気づいたこと、
そしてその一つを破壊したと私が告げれば――
あの方は動揺します。焦り、他のホークラックスを守るため、
私を傍に置こうとするでしょう。」
「つまり……その“混乱”を利用して、彼女を救うと?」
「ええ。」
レギュラスの声は震えながらも確信に満ちていた。
「その時、私の唯一の願いを伝えます。
“アラン・ブラックを釈放せよ”と。」
長い沈黙が流れた。
暖炉の火がぱちりと弾ける音だけが響く。
やがてダンブルドアは、ゆっくりとロケットを見つめ、
その目に深い憂いと決意を宿した。
「……約束しよう、レギュラス。
このロケットを、必ず破壊する。」
その言葉を聞いた瞬間、レギュラスは小さく目を閉じた。
心の奥に、かすかな安堵が広がる。
長い闇の中でようやく見えた、一筋の光。
だが――その光は、命を代償にする炎のように脆く儚い。
彼はそれを分かっていた。
この取引の結末が、己の死に繋がることを。
それでも構わなかった。
たとえすべてを失っても、アランだけは――
光の中へ、還してやりたかった。
昨夜、あの禁断の薬の効能はとっくに切れていた。
今、アランの身体はその反動を嘲るように、激しい痛みの波に襲われている。
筋肉は引き裂かれるように軋み、骨の髄にまで灼ける熱が走る。
意識は何度も薄れ、そのたびに新たな呪文が叩きつけられた。
〈クラシアトゥス〉――。
叫びたいのに、声がもう出ない。
喉は焼け、唇は血で張りつき、代わりに洩れるのはかすれたうめき声だけだった。
それでも術者たちは、意識が遠のきそうになる瞬間を逃さず、再び痛みの雨を降らせる。
逃げ場などない。死ぬことすら許されない。
焦点の合わない視界の奥で、黒い影が揺れている。
湿った石床には血が滲み、皮膚に貼りつく冷たさがいやに鮮明だった。
どこか遠くで笑い声がする。
「レギュラス・ブラックも堕ちたものだな。」
「ったくよ、あの貴族面。気取りやがって。これで少しは分かったろうよ。」
耳だけはまだ鮮明だった。
声が届くたびに胸の奥をえぐられるようで、呼吸が苦しくなる。
確かに――憎んでいた。
闇を選んだ彼を、許すことなどできなかった。
自分の手でこの世界をこんなにも汚した男を、心の底から軽蔑していた。
けれど、それでも思い出す。
アルタイルを抱く彼の手。
熱の出た夜に背を撫でてくれた手。
眠る前に髪を整えてくれた指先。
あの優しさだけは、どんな闇にも染まらなかった。
シリウスと同じくらいの熱で愛してはいけなかった。
心はとうに別の人――シリウスのもとに置いてきた。
けれど、レギュラスがくれた想いに応えたくて、
支えになろうと願っていたのは、確かに自分の本心だった。
それが、彼に返せる唯一の「愛」だった。
「……ふん、気取った女だ。」
低い声とともに、杖の先がアランの顎を強引に持ち上げた。
頬に触れる木の冷たさ。息が止まりそうになる。
「泣きも喚きもしねぇ。強がりか?」
笑い声が重なる。
次の瞬間、別の男が杖の先でアランの服の裾を突いた。
布が破れ、ひやりとした空気が肌を撫でる。
たくし上げられていく感覚。
汚れた笑い声が耳に刺さる。
羞恥と屈辱が一気に込み上げた。
身体の自由が奪われ、抵抗もできない。
両手が使えたなら、この男たちの顔に爪を立ててやれたのに。
「やめて……」
唇が震え、絞り出した声は自分でも分からぬほど弱かった。
それでも男たちは笑いを増すだけだった。
世界の輪郭が霞んでいく。
視界の端で灯る松明の光が、血に濡れた床に映りこみ、
その光がまるで自分の命の最後の輝きのように揺らめいていた。
(レギュラス……)
名前を呼んでも、誰も応えない。
それでも、彼の顔が浮かぶ。
怒鳴りつけるときの冷たい灰色の瞳。
それでも、心の底で誰よりも優しい瞳だった。
痛みの向こうで、アランはかすかに笑った。
息をすることさえ、痛みに変わっていた。
身体の芯はもう何度も壊れかけ、限界という言葉の意味すらわからなくなっていた。
ここがどこなのか、何時間が過ぎたのかもわからない。
ただ、冷たく湿った石床の感触だけが現実をつなぎ止めていた。
──まさか、自分がこんな最期を迎えるなんて。
アランはぼんやりとそう思った。
愛した男のどちらでもない。
シリウスでも、レギュラスでもない。
名も知らぬ男たちが、笑いながら彼女の身体を弄んでいる。
まるで生きた人形のように。
心が現実から切り離されていく。
屈辱という感情さえ、もはや霞んでいた。
痛みも熱も、ただ遠い場所から眺めているようだった。
彼らは、ブラック家という名の下で育った男を羨み、妬み、憎んでいた。
そして今、その憎悪を“彼の女”にぶつけて快楽を得ようとしている。
彼を貶め、自分たちの中にある劣等感を打ち消すために。
アランは目を閉じた。
もう抵抗する気力も、恐怖もなかった。
ただ、静かに思う。
――いい。好きにすればいい。
こんなことで、レギュラスが壊れるなら、それも運命だ。
愛されるより、愛する方がずっと苦しい。
それでも、あの人を最後まで想えるなら、それでいいと思った。
やがて、頭上で誰かが下卑た声で笑う。
その音は、まるで遠雷のように遠のいていく。
(あなたたちも、いつか知るでしょう)
胸の奥で静かに呟く。
愛というものを。
誰かを心から想うということが、どれほどの痛みと優しさを伴うものか。
その時になれば、今日という日の愚かさを、きっと理解するだろう。
彼らが奪っているのは、肉体だけだ。
魂は誰にも触れさせない。
アランの中では、もう確信に近い静けさがあった。
――光は、必ず勝つ。
願望ではない。これは“未来”だった。
そう思うだけで、不思議と恐怖が消えていく。
闇はどれほど濃くても、光を完全には呑み込めない。
その証を、きっと誰かが継いでいく。
アルタイルが、あの小さな光が、いつの日か夜を裂いて歩むだろう。
アランの唇がかすかに動いた。
震える息の合間に、彼女は囁く。
「……光は、勝つのよ」
その言葉は誰にも届かない。
けれど、まるで夜明けの兆しのように、
冷たい石壁に淡く反射して消えていった。
ヴォルデモートの館には、夜の気配が沈み込んでいた。
蝋燭の火が壁に長い影を落とし、空気は死んだように静まり返っている。
レギュラスは、その闇の中心へと一歩ずつ進んでいった。
黒い石畳を踏むたびに靴音が響き、広間の奥に座る主の姿がぼんやりと浮かび上がる。
天井は高く、冷気が垂れ込めている。
炎の揺らめきに照らされた玉座には、ヴォルデモート。
赤い瞳が薄く笑みを帯び、指先が杖を弄ぶように回っていた。
その目には、すでにすべてを見通した者の余裕がある。
「よくきた、レギュラス・ブラック。」
声は冷たく、蛇の舌が滑るようだった。
レギュラスは深く一礼する。
その胸の奥では、心臓が速く脈を打っていたが、顔には一片の揺らぎも見せない。
――これで駄目なら、終わりだ。
アランも、アルタイルも、自分も。
「一つ、私からご提案がございます。」
低く抑えた声が、静まり返った空間に落ちる。
「ふむ、申してみよ。」
その返答には、明らかな愉悦が混じっていた。
この男が自分のもとを訪れた理由など――どうせあの女の命乞いだろう。そう確信して楽しんでいるのだ。
だが、レギュラスの瞳には微塵の揺れもなかった。
「スリザリンのロケット以外のホークラックスの隠し場所を、早急に変えられるべきかと存じます。」
ヴォルデモートの笑みが消える。
一瞬で空気が変わった。
それまで玉座にもたれかかっていた身体が、音もなく前のめりになる。
「……今、なんと言った?」
声が低く、重く、地の底から響いた。
紅い瞳が針のように細められ、空気が圧し潰される。
その視線だけで皮膚が裂けそうなほどだ。
「ホークラックス、でございます。」
レギュラスは静かに繰り返す。
もう恐れる気持ちはどこにもなかった。
命を差し出す覚悟は、とうに済ませている。
「貴様……それをどこで知った。」
声は怒号にも似ていた。
杖の先から冷たい火花が散る。
レギュラスはゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐにその瞳を見た。
「ダンブルドアの手に、スリザリンのロケットが渡っています。
当初は脅しだと思いましたが――彼は“グリフィンドールの剣”でロケットを破壊するつもりでいるようです。」
ヴォルデモートが立ち上がった。
マントが床を擦り、闇が波打つように広がる。
レギュラスの目の前に来ると、冷たい手が彼の喉元を掴んだ。
「誰が……誰が貴様にそれを教えた!」
絞めつけられた気管が軋み、息が詰まる。
しかしレギュラスは耐えた。
その赤い瞳の奥に、確かな“焦り”が宿っている。
――効いている。
「ダンブルドアは侮れません。
それはあなたが一番ご存知のはずです。
あの男は、真実を嗅ぎ分ける嗅覚を持っています。
ロケットの破壊は避けられません。
けれど、残りのホークラックスを守ることは、まだできます。」
ヴォルデモートの手がゆっくりと喉から離れた。
瞳が赤く光り、思考の影がその奥で渦巻いている。
「……続けよ。」
「私は、配置の再編に協力できます。
私に“探らせてください”。
ダンブルドアの動き、監視網、魔法省の記録。すべてをあなたの手の中に戻します。」
静寂が落ちた。
ヴォルデモートは視線を逸らさず、レギュラスの顔を舐めるように見つめている。
沈黙の中で、蝋燭の炎だけがかすかに揺れた。
やがて、細い声が落ちた。
「レギュラス・ブラック……貴様、愚かではないな。」
氷のような指が彼の頬に触れる。
その笑みは、冷笑とも満足ともつかない。
「だが、忘れるな。
ホークラックスの存在に触れた者は、いずれ“処理”される。
貴様の命は――今この私の気まぐれひとつだ。」
レギュラスはゆっくりと跪き、目を伏せた。
「ええ、存じております。我が君。
けれど、あなたが築かれた永遠の帝国を守れるのは、私しかおりません。」
その瞬間、ほんのわずかに、ヴォルデモートの唇が歪んだ。
笑みとも、侮蔑ともつかぬその動き。
「……面白い。」
闇が揺れた。
遠くで雷鳴のような音がした。
だがこの場には二人しかいない。
命を賭した取引は、成立したのか、あるいは延命を許されたのか。
ただ一つ確かなのは――
アラン・ブラックの命の灯が、まだかすかに燃えているということだけだった。
石造りの回廊を、革靴の音が静かに響く。
その歩調には、怒りと焦燥と、僅かな祈りが混ざっていた。
レギュラス・ブラックは闇の帝王の間を後にすると、そのまま迷いなく地下へと続く階段へ向かった。
冷たい空気が肌を刺す。
長い石段を照らすのは壁に浮かぶ緑の光球。
魔法の燐光がゆらゆらと揺れ、幽かな煙のように漂っている。
そこに立つ番人たちは、黒衣の影のように沈黙していた。
レギュラスの姿を認めると、彼らは一瞬ぎょっとして顔を見合わせる。
その表情は、まるで幽霊を見たかのようだった。
「アラン・ブラックの解放を命じます。」
淡々とした声だった。
だが、その一言が放たれた瞬間、空気がぴんと張り詰めた。
「……な、何を仰せで?」
「我が君のご命令では……?」
番人たちは信じられぬ様子で目を丸くする。
その動揺が広間の奥まで伝わり、別の足音が響いた。
「何の騒ぎだ?」
ルシウス・マルフォイが現れた。銀髪が燭光を受けて冷たく光る。
その後ろには、黒衣の裾を翻しながらセブルス・スネイプの姿も見えた。
「騒がしいぞ」と彼はぼそりと呟く。
だが、レギュラスの表情は微動だにしない。
「もう一度だけ言います――アラン・ブラックの解放を命じます。」
静かな声。それなのに、ひとつの呪文のように響いた。
番人たちは口を開けたまま固まる。
そしてその背後、暗がりの奥で何かがずるりと動いた。
ナギニだった。
巨大な蛇が、まるでレギュラスの意を汲むように静かに姿を現す。
艶やかな鱗が石床に音を立て、二つの金色の瞳が番人たちを射抜いた。
誰もが息を呑んだ。
ナギニ――闇の帝王の唯一無二の寵愛を受ける生き物。
その獰猛な蛇が、今はレギュラスの足元に身を寄せ、
まるで従者のように喉を鳴らしている。
それだけで、彼の言葉が本物であることは明白だった。
ヴォルデモートの愛玩が、主以外に頭を垂れることなどありえない。
「……承知いたしました。」
番人たちは蒼ざめ、互いに頷き合うと慌てて扉の鍵を外した。
ギィィ……と鈍い音を立てて、冷たい風が吹き上がる。
「何をした、レギュラス。」
ルシウスの声には焦りが混じる。
セブルスも静かに視線を寄越した。
「まさか……お前、あの方と何を交わした?」
レギュラスは短く息を吐く。
「取引の内容は申し上げられません。――破れぬ誓いを立てました。」
その言葉に、二人とも沈黙した。
ルシウスは軽く舌打ちし、セブルスは眉をひそめて顔を伏せる。
破れぬ誓い。
命と引き換えの誓約魔法――それを口にしたということは、
冗談でも気まぐれでもない。
階段は果てしなく続いていた。
苔むした壁、冷たい空気。
地下牢へ近づくほど、血と鉄の匂いが濃くなっていく。
レギュラスの足取りは次第に早くなる。
焦燥が、皮膚の下を這うように広がっていく。
「待て、レギュラス。」
ルシウスが腕を掴む。
「一旦、私が先に入る。」
「どういう意味です。
「いいから――お前のためだ。」
ルシウスの顔色は、普段の冷静さとは違っていた。
「精神衛生上な。……一旦、待て。」
扉の前に立つルシウスが杖を掲げる。
「アロホモーラ。」
鍵が外れ、重い扉がゆっくりと開く。
開いた瞬間、何かが腐ったような匂いが漂った。
ルシウスはほんの一瞥だけ中を見て、
すぐに扉を閉めた。
そして振り返り、レギュラスの肩を掴む。
「――待て。今は、見るな。」
その声には、かすかな震えがあった。
あのルシウス・マルフォイが、声を震わせている。
「……なぜです?」
ルシウスは答えない。
ただ、深く目を伏せ、ゆっくりと首を横に振った。
レギュラスの胸の奥で、冷たい何かが音を立てて崩れた。
その感覚だけが、現実だった。
ここまで来て、待てと言われて素直に止まれるわけがなかった。
扉の向こうには、まだ息をしているかも分からぬアランがいる。
彼女の呻き声がもう聞こえないことが、かえって恐ろしかった。レギュラスの中で何かが切れた。
「離してください、ルシウス。」
その声音は低く、掠れていたが、揺るぎなかった。
「おい、待て、レギュラス、今は——」
制止の声を無視して、レギュラスは扉の取っ手に手をかける。
冷たい鉄が手のひらに食い込む。
鍵はすでに解かれていた。
重い音を立てて扉が開く。
その瞬間、室内の空気が押し寄せる。
鉄と血の臭い、焦げたような薬品の匂い、そして何か腐ったような酸味。
息を吸うだけで喉が痛くなった。
奥の壁際。
鎖に繋がれ、ぐったりと項垂れた女がいた。
アラン。
その姿を見た瞬間、世界が止まった。
目が信じようとしない。
いや、信じたくなかった。
彼女の身体は傷だらけだった。
腕も脚も細く垂れ下がり、肌の上には紫の痣と焼け跡がいくつも刻まれている。
血の滲んだ髪が頬に貼りつき、唇は乾いて割れ、微かに震えていた。
着ていたドレスはもう布切れにすら見えない。
その端々が裂かれ、燃やされた跡が残っている。
まるで尊厳という言葉をこの世から消し去ろうとでもするかのような仕打ちだった。
レギュラスの胸に、激しい衝撃が走った。
息ができなかった。
痛みが、怒りが、悲しみが、一度に押し寄せる。
「アラン……」
掠れた声が唇から漏れる。
だが、その声に応えるものはない。
彼女は、まるで眠っているかのように動かない。
部屋の奥で、二人のデスイーターが慌てて立ち上がる。
「レギュラス様……!」
彼らの声は震えていた。
レギュラスの目が、ゆっくりと彼らに向けられる。
その灰色の瞳は氷のように冷たかった。
表情は静かだが、その奥に潜むのは狂気に近い怒り。
彼が何を考えているのか、誰にも読めなかった。
二人の男のズボンは乱れ、腰のあたりのベルトが締めきれていない。
ルシウスが一瞬入ったとき、慌てて着直したのだろう。
想像するまでもなく、何があったのかがわかってしまった。
世界が血の色に染まる。
鼓動の音が耳の奥で轟く。
気づけば、レギュラスの手は杖を掴んでいた。
「レギュラス!」
背後からルシウスの制止の声が響く。
だが、もう止まらない。
怒りではなかった。
理性も、使命も、何もなかった。
ただ、ひとつの感情だけがあった。
――この者たちを、生かしておく理由はない。
「お、お待ちください、レギュラス様!」
二人のデスイーターが同時に膝をつき、慌てて頭を下げる。
杖を取り落とし、床に額を押しつけるようにして命乞いをした。
震える声が、薄汚れた床の上で響く。
だが、レギュラスは耳を貸さなかった。
彼の足元で、ナギニが音もなく這い出してくる。
その巨体が二人を取り囲むように動く。
蛇の舌が空気を切り、冷たい音を立てた。
レギュラスの目は、すでに人のものではなかった。
愛する者の名を奪われた男の、絶望の底にある光。
それはもはや怒りではなく――報いだった。
そして、彼の唇が静かに死の呪文を紡ぐ。
その声は、祈りのように美しかった。
ルシウス・マルフォイは目を瞑った。
何も見たくなかった。
これ以上、この地下に渦巻く人間の暗さを見てしまえば、
彼自身の心も何かが崩れてしまう気がした。
背後で、セブルス・スネイプが無言のまま動く。
彼は躊躇なくローブを脱ぎ、そっとアラン・ブラックの身体にかけてやった。
破れた布地の隙間からのぞく肌が、青白く、氷のように冷たかった。
かけた布がその体温のなさを余計に際立たせていく。
「……感謝します。」
レギュラスの声は掠れていた。
どこか遠くで響くような、疲弊しきった声。
セブルスは表情を変えない。
「出血が酷い。応急処置だけでも施しておく。」
彼は杖を抜き、淡い光を放つ。
その呪文の光が、アランの傷口に当たるたび、微かに血の滲みが収まっていく。
それでも完治には程遠い。
癒しの光の下で、彼女の皮膚に刻まれた裂傷の痕が影のように浮かび上がる。
部屋は静まり返っていた。
ただ、レギュラスの荒い呼吸音と、遠くで滴る水音だけが響いていた。
──セブルスはふと、レギュラスを見た。
彼はいまだアランのそばに跪き、何かを呟くように彼女の髪を撫でていた。
その仕草には、もはや理性も威厳もなかった。
ただ、壊れてしまったものをどうにか抱き締めようとする人間の、
ひどく脆い、無防備な優しさがあった。
(……どこまで、この男はこの女のために身を削るつもりなのか。)
セブルスは心の中でそう呟く。
昔から見てきた。
学生の頃から、レギュラス・ブラックという男は“完璧”そのものだった。
冷静沈着で、血統の誇りを背負い、
誰に対しても礼を失わず、感情に流されることもない。
まるで氷の結晶でできたような人間だった。
だが――アラン・セシールだけは違った。
その名が出るだけで、彼の中の秩序が崩れていった。
彼の完璧さを最も揺らがせる、唯一の弱点。
セブルスはその弱点が“愛”だということを、ずっと理解できなかった。
愚かだと思っていた。
たかが一人の女のために、命を投げ出すなど、
自分には到底できぬことだった。
だが、今こうして目の前に広がる光景を見て、
彼はほんの少しだけ、その愚かしさが美しいもののように見えた。
アランがこの部屋で受けた仕打ちを、
彼は部屋に足を踏み入れた瞬間に悟った。
これほどまでの屈辱を受けた後で、
この男が“寛容”でいられるはずがない。
倒れ伏す二人のデスイーター。
セブルスの目に、哀れみの色はない。
ただ――彼らの“欲望”がどこから生まれたのか、理解はできた。
アラン・ブラックは、痛みの中にあってもなお美しかった。
その姿は、壊されてもなお、ひとつの祈りのようで。
それがまた、人を狂わせたのだろう。
(……これが、かつて王宮を揺るがせたリシェル・ブラウンの血か。)
彼女の母が辿った悲劇を、娘が今、なぞるように生きている。
血の宿命というものがあるなら、
これほど皮肉なものはない。
ナギニが、部屋の隅でとぐろを巻いた。
長い体を静かに揺らしながら、主を守るようにレギュラスの足元に寄り添う。
蛇の金色の瞳に映る彼は、もはや闇の帝王の“側近”であり、
同時に――その寵愛を奪った異端でもあった。
セブルスは思った。
レギュラス・ブラックという男は、
確かに闇に呑まれながらも、
その心の中にただ一つ、
純粋な光――“愛”だけを抱いているのだと。
愚かで、痛ましく、けれど誰よりも美しい。
その愛が、今夜、この冷たい地下で、
たしかに息づいていた。
屋敷の大きな扉を押し開けると、医務魔女たちが待ち構えていた。彼らは淡々と、しかし確実に準備を整えている。レギュラスはアランをそっと運ばせ、優しく彼女を寝台の上へと安置した。白いシーツに横たわるその姿は、陶磁器のように繊細で、しかしあちこちに壊れた跡がついていた。皮膚は血色を失い、所々に瘢痕のような変色が広がる。手首には深い締め跡が黒く残り、抵抗の痕がはっきりと刻まれていた。目を伏せた顔には薄い切り傷が走り、唇にはひび割れがある。美しさを剥ぎ取られたあとに残る、その崩れた輪郭が、レギュラスの胸を鋭くえぐった。
医務魔女の手が動き始める。消毒の香り、温かな蒸し布、静かな指先の仕事。彼女たちは言葉少なに、必要な処置を迅速に進める。出血箇所には癒しの呪文が穏やかに当てられ、裂けた皮膚は徐々に縁が寄せられていく。痛みが和らぐわけではないが、命を繋ぐための最低限の措置が施される。
「出血は何とか止まりました。痛みは残りますが、命に別条はないでしょう」
医務魔女サラの声は冷静だが、どこか震えを含んでいた。レギュラスは頷く。安堵のため息が出るより先に、胸の奥に渦巻く怒りが大きく膨らんでくるのを感じた。
処置を続ける中、医務魔女がふと手を止めて、落ち着いた口調で尋ねた。
「緊急の避妊措置をなさいますか?」
その言葉の意味を、レギュラスは一瞬理解できなかった。医療用語としての「避妊措置」──その用途を知らないわけではない。ただ、今の瞬間、その純粋さが、アランの身体に付着している何かと結びつくという観念が、冷たい衝撃となって彼の頸を締めつけた。医務魔女は淡々と、しかし確実に説明する。体液の付着が確認されたこと、そのままにしておけば妊娠の可能性があること、緊急避妊には吐き気や倦怠感といった副作用が伴う可能性があること──感情を削ぎ落とした声で、事実だけを淡々と並べていく。
レギュラスはアランの顔を見下ろした。薄紙のように白く、まだ意識の波に揺れている瞼の下で、まぶたがかすかに震える。あの夜の痛みや屈辱が、彼女の身体にどれほど深く刻まれているかを示す生々しい証拠が、今まさにここにある。怒りが、恥ずかしさが、守るべきものを奪われた男の本能が、胸の奥で燃え上がる。
「……やってください」
言葉は短く、しかし沈痛だった。レギュラスの声には震えがあった。医務魔女はすぐに同意を示し、必要な薬剤を用意し始める。レギュラスはその間、無意識のうちにアランの指をぎゅっと握りしめた。指先に伝わる冷たさが、彼の決意を硬くする。
処置は短時間で終わった。薬が投与され、副作用の可能性について再度の説明が行われる。レギュラスはそのすべてを受け入れる覚悟を示した。彼女の身を守るためには、短期的な苦痛や不快を受け入れるしかない。その代わりに、再びあのような暴虐が向けられることはあってはならない。そう自分に言い聞かせるように、彼はアランの頬に指先を添えた。
だが、冷静さの陰には尖った感情が潜んでいる。処置の手が止まった瞬間、レギュラスの瞳は不意に鋭くなる。数時間前に床に転がっていた二人のデスイーターのことが脳裏をよぎる。命は奪った。だが、レギュラスの胸には焦燥にも似た苛立ちが残った。「殺しただけでは足りない」と、彼の内側で何かが囁くのだ。正義でも復讐でも言葉に収まりきれない、もっと深い報いを求める衝動。だがそれは、冷静な自制のうちに押しとどめられる。闇の帝王との取引、屋敷の安定、アルタイルの未来──すべては天秤の上に載せられている。
レギュラスは静かに息を吐き、医務魔女に礼を言った。アランの額に冷たい布を当てると、彼女が薄く目を開け、頼りなげに彼を見た。そこには恐怖と混乱と、そしてどこか遠いところに向けられた悲しみが同居している。レギュラスは言葉を探したが、なにひとつ適切なものが見つからない。ただ、指先で彼女の髪を撫でる。それだけが、今できる最小限の慰めだった。
夜が深まるほどに、屋敷の空気は重く、冷たく澄んでいった。レギュラスは窓の外へ視線を投げ、闇の向こうに浮かぶ星を見上げる。星は遠く、そして無垢だ。どれだけの代償を払えば、この家に平穏が戻るのか。どれだけの血を流せば、アランの身体に落ちた影が払えるのか。彼は答えを持たないまま、ただ一つの誓いを胸に刻み込む。
――二度と、彼女にこんな目を合わせはしない。たとえ己の魂が黒く汚れようとも、彼女とその子を守るために、すべてを賭けると。
シリウス・ブラックはようやく自由の身となった。
長い尋問の末、魔法省はようやく「無実」という結論に至ったのだ。
あの忌まわしいアズカバンの名を聞かずに済んだとき、
シリウスは深く息を吐き、握りしめた拳を開いた。
だが胸の奥には、晴れぬ靄が残ったままだった。
──自分が助かったのは偶然ではない。
そう直感していた。
ピーター・ペティグリューの件は、魔法省によって
「呪文の暴走による事故」として処理された。
強大な呪文を放とうとしたが制御しきれず、
その反動で自身が消滅した──
書類の上では、それで全てが片付いていた。
だが、そんな馬鹿げた話を信じられるわけがない。
ピーターの臆病さを一番知っているのは、他でもないシリウス自身だった。
あの男があの夜、己の命を賭して呪文を放つなど、ありえない。
誰かが裏で細工をしたのだ。
自分を救うために。
ダンブルドアにその名を尋ねたとき、
返ってきた答えは信じ難いものだった。
「──レギュラス・ブラック、だよ。」
あの名前を聞いた瞬間、
シリウスの胸の奥で、凍りついた何かが微かにひび割れた。
「は……?冗談だろう、先生。」
「冗談を言う場ではない。」
ダンブルドアは静かに、しかし確かに言った。
レギュラス・ブラック。
闇の帝王に仕え、自らの血を誇りとし、
その信念のために弟としての情さえ捨てた男。
その彼が、裏で動いたというのだ。
「何考えてやがる……」
低く吐き捨てるようにシリウスは言った。
怒りと困惑が胸の中で渦を巻く。
ダンブルドアの声が続いた。
「アラン・ブラックを、救うためだったようじゃ。」
その名を聞いた瞬間、
シリウスの全身が強張った。
心臓が一瞬止まったように、息が詰まる。
アラン。
その名だけで、封じていた記憶が一斉に甦った。
柔らかな黒髪、翡翠の瞳、
笑えば世界がひととき明るくなるような微笑み。
自分の初恋であり、
永遠に手放したくなかった人。
「……アランを救う?」
絞り出すように問うと、ダンブルドアは頷いた。
「ジェームズとリリーの家が襲撃されると知り、
それを私に知らせたのは、彼女じゃった。
彼女がいなければ、彼らも、赤子も、
生きてはおらなんだろう。」
その言葉が胸の奥を貫いた。
アランが──レギュラスの妻であるアランが、
自分たちを救うために危険を冒したのか。
レギュラスの傍にいながら。
しかも、彼の子まで抱えて。
シリウスは天を仰いだ。
感謝と痛みと怒りとが入り混じった感情が、
喉の奥で詰まり、声にならない。
「……あの人が、どんな目に遭ったか知ってるか?」
「拷問にかけられたそうじゃ。」
その言葉が落ちた瞬間、
シリウスは立ち上がった。
世界が一瞬、真っ白になった。
指先が震え、握った拳に爪が食い込む。
胸の奥から迸るのは、怒りでも悲しみでもない。
それらすべてを飲み込んだ、狂おしいほどの痛み。
「……ふざけるな。」
あの小さな笑顔を、誰かが奪った。
あの優しい声を、誰かが踏みにじった。
その事実が、彼を焼くように苦しめた。
そして、その地獄の只中に、弟が身を置いていたという。
レギュラス・ブラック。
闇の帝王に魂を売り渡したはずの男が、
アランのために――命を懸けてヴォルデモートの秘密を差し出した。
「ホークラックス……」
その言葉をダンブルドアの口から聞いたとき、
シリウスは息を呑んだ。
魂を分け、死を超える術。
あまりにおぞましく、そして絶望的な禁忌。
ダンブルドアの表情に、一瞬だけ影が差した。
それは、これから先の戦いの果ての長さを示していた。
「レギュラスは、その一つを我らに託した。」
「だが残りは……」
「彼が守るのであろう。厳しい戦いになる」
沈黙が流れる。
炎のような怒りも、
氷のような悲しみも、
その沈黙の中で形を失っていった。
兄弟としての絆はとうに途切れている。
だが今、その途切れた線のどこかで、
確かに血の温もりだけが繋がっていた。
シリウスは低く呟いた。
「……レギュラス、あいつはどこまで俺を苦しめる気だ。」
ダンブルドアは静かに目を閉じた。
暖炉の炎が揺れ、灰が舞い上がる。
レギュラスは闇の中に生き、
シリウスは光の側に立った。
それでも二人の間には、
消えないひとつの影があった。
――それは、アラン・ブラックという名の、
愛と罪の残響だった。
夜明けの光がゆっくりと石造りの壁を染めていく。
カーテンの隙間から射し込む淡い光が、静かな寝室に揺れて落ちた。
その光の中で、レギュラスは目を覚ます。
眠れぬ夜をいくつ越えただろう。
この場所で、彼は毎朝、変わらぬ姿で眠るアランの隣にいた。
細く、冷たい指先を撫でるたびに、
この世界にまだ彼女が存在していることだけを確かめてきた。
彼女の肌の下に流れるかすかな熱を探し、
口付けで命を呼び覚ますように、その頬に、唇に、何度も触れた。
反応はなかった。
まるで深い海の底に沈んでしまったように、
アランは静かに、遠くの夢に囚われたままだった。
それでも構わなかった。
触れている限り、失われた温もりの残響だけはそこにあった。
レギュラスはその日も、同じように彼女の傍に身を寄せ、
そっと体を覆うように抱き寄せた。
細い肩に顔を埋めると、
ほのかに薬草の匂いがした。
医務魔女たちが使う癒しの香り――
それがこの部屋に残る唯一の生命の気配だった。
その時。
かすかに、布の擦れる音がした。
レギュラスは息を呑み、顔を上げる。
長いまつ毛がわずかに震え、
光を吸い込んだような翡翠の瞳が、
ゆっくりと開かれた。
一瞬、時間が止まった。
夢だろうかと錯覚するほど、静かだった。
けれど確かに――アランの瞳が彼を見ていた。
「……アラン。」
呼びかけた声が震えた。
喉の奥からこみ上げる感情が、堰を切ったように溢れそうになる。
アランはぼんやりと瞬きをして、
唇をわずかに動かした。
「……レギュラス……?」
その声が、胸の奥に深く沁みた。
どれほどこの瞬間を願ってきただろう。
何度、名を呼び続けただろう。
息を詰めて、彼女の頬に手を伸ばす。
「ここにいます……アラン。」
言葉が途切れる。
涙が零れた。
こみ上げる安堵と悔恨が同時に押し寄せて、
呼吸の仕方さえ忘れてしまいそうだった。
アランの手が、ゆっくりと動いた。
力の抜けた指が、レギュラスの胸元に触れる。
その感触があまりにもかすかで、
彼は慌てて彼女の手を両手で包み込む。
「……ごめんなさい。」
アランの声は小さく、か細かった。
レギュラスは首を振る。
「いいんです。もう何も言わなくていい。」
彼女を責めることなど、できようはずがなかった。
どんな過ちも、どんな裏切りも、
もうどうでもよかった。
何もいらない。
ただ、彼女がここに生きている――それだけで。
「言葉も、償いも、何もいりません。
ただ……あなたが息をしてくれているなら、それでいい。」
その言葉に、アランの目に涙が浮かんだ。
彼女は震える唇で微笑み、
かすかに頷いた。
レギュラスはそっと彼女を抱きしめた。
折れそうなほど細い身体を、まるで自分の中に取り込むように。
彼女が痛まぬように、けれど離さぬように、
震える腕で必死に抱きしめた。
どれほどの時間が流れただろう。
朝の光が、二人を包む。
窓辺の花が風に揺れ、外では鳥が鳴いた。
アランの胸が微かに上下する。
その鼓動が、レギュラスの胸の奥で共鳴していた。
――奇跡は確かにここにあった。
言葉ではなく、触れることでしか確かめられない、
生の証がそこにあった。
そしてレギュラスは悟った。
自分の人生が、この一瞬のためにあったのだと。
どれほど闇を歩こうとも、
この光だけは、決して失いたくなかった。
長い冬がようやく明けたような朝だった。
柔らかな光がレースのカーテンを透かして、
白く静かな寝室に降り注いでいる。
その光を見た瞬間、アランは思った――
もう二度と、この光を見ることは叶わないと思っていた、と。
あの日、闇に閉ざされた地下室で、
幾度となく死を願い、救いを諦めた。
生きるということが、あんなにも苦痛に満ちているとは知らなかった。
けれど今、その光の中で、
腕の中に我が子――アルタイルがいる。
眠りから目覚めたその朝、
涙は不思議と出なかった。
ただ、現実の感覚を取り戻すのに時間がかかった。
世界の輪郭がぼやけて、
何が本当で、何が夢だったのか分からなかった。
医務魔女の手を借りて、アルタイルを部屋に連れてきてもらった。
その小さな足音と、軽やかな声が聞こえた瞬間、
アランの胸の奥で、何かが弾けた。
「……アルタイル……」
伸ばした腕に、息子の温もりが戻ってくる。
ふっくらとした頬、まだ甘い香りのする髪、
そして無邪気に笑う声。
その全てが、生の実感だった。
「ごめんなさい……アルタイル……」
涙がとめどなく零れた。
声が震え、息が詰まり、
それでも抱きしめる腕を離せなかった。
――この子を置いて、逝こうとした。
あの絶望の夜、母であることを放棄しようとした。
そのことが今さらになって恐ろしく、
胸が締めつけられるようだった。
アルタイルは何も知らない。
母の腕の中でキャッキャと笑い、
小さな手でアランの頬を叩いてくる。
その仕草が愛しくて、悲しくて、
アランはまた泣いた。
泣きながらも笑った。
――もう二度と、この子の笑顔を見逃したりはしない。
そんな誓いを心の奥で静かに立てる。
ふと、部屋の扉が音もなく開く。
そこに立っていたのはレギュラスだった。
光を背にして立つ彼の姿が、
まるで陽炎のように揺らめいて見える。
アランは目を上げた。
言葉を探したが、何も出てこなかった。
救われたことへの感謝も、
心の奥に芽生えた不安も、
どちらも胸の奥で絡まり合っていた。
――この人はいったい、どんな取引をしたのだろう。
あの闇の帝王に、どんな代償を差し出して自分を救ったのだろう。
考えるだけで、背筋が冷たくなる。
尋ねても、彼はきっと答えない。
その沈黙の奥にある闇を、アランは恐れていた。
どうか、それが誰かの命を犠牲にしたものでありませんように――
心の中で、祈るように呟く。
レギュラスは、そっと近づいた。
「……ほんとに、よかったです。」
そう言って、アランの肩に手を置く。
その指先の震えが、彼の安堵と疲労を物語っていた。
アランが顔を上げると、レギュラスの灰色の瞳が
やわらかく揺れていた。
冷徹だった男の瞳に、確かな温度が宿っている。
彼の手が、アランの背を撫でるように包み込む。
その感触があまりに優しくて、アランは目を閉じた。
痛みも恐怖も、その瞬間だけは遠ざかっていく。
アルタイルが小さく笑い、
父の姿を見つけて手を伸ばす。
「……ぱぱ……」
その声に、レギュラスはわずかに表情を崩した。
膝をつき、両手を広げる。
アルタイルはその胸の中へ、迷いもなく飛び込んでいった。
レギュラスはその小さな体を抱きしめた。
あたたかな重みが、腕の中にある。
この重みのために、どれほどの闇を背負ってきたのだろう。
アランはその光景を見つめながら、
静かに涙を流した。
悲しみではない。
生きているという事実が、
これほどまでに美しいと思えたのは、初めてだった。
──もう一度、生きてみよう。
この光の中で、この家族と共に。
アランはそっと手を胸に当てた。
温かい鼓動が、確かにそこにあった。
