1章
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翌朝のブラック家の大広間は、朝靄が溶け残ったような薄い光に包まれていた。
分厚い石の壁に反射するその光は冷たく重々しいはずなのに、壁際に並んだランプや差し出される料理の香りが、そこにかすかな温もりを与えていた。
長机には焼きたてのパンが香ばしい匂いを漂わせ、果物は瑞々しい色を放ち、銀食器の触れ合う音や談笑が複雑に溶け合って大広間全体を賑わしている。
その喧噪に少し遅れて、アランがやってくる。
翡翠の瞳にはまだ淡い疲れの色が滲んでいる。だがそれ以上に、彼女の表情には昨夜とは違う柔らかさが宿っていた。
静かに灯り続けている小さな炎のような微笑。それは、きっと「秘密の食卓」が胸の奥に残した温もりの余韻だった。
孤独な夜の中で温かさを分け合った時間。その記憶が、彼女をひそかに優しく照らしていた。
「アラン」
隣に腰を下ろす声。
顔を上げれば、レギュラスがいつもの穏やかな面差しでこちらを見ていた。
「朝食は……きちんと取らないといけませんよ」
「ええ……ありがとうございます」
アランは自然に微笑みながらパンを手に取る。
その仕草に、レギュラスは静かに頷いた。
声も、態度も、互いにとっては慣れ親しんだ〈日常のやりとり〉。
けれどレギュラスの灰色の瞳の奥には、昨夜の光景が色濃く残っていた。
——静まり返った廊下の扉の隙間から垣間見てしまったもの。
机に並んだ皿を挟んで、並んで座る二人。
シリウスの灰色の瞳と、彼に向けられるアランの笑顔。
その瞬間の彼女の光は、自分が知っているものとは違って見えた。
翡翠の瞳がやわらかに細められ、頬を染めながら笑っていた。
「ああ、こんな笑い方をするのだ」と、胸に焼きついてしまうほどの色だった。
耳にはまだ残響がこびりついている。
「ありがとう、シリウス」という彼女の声。
それは思いやりの礼ではなく、心から零れ出ていた温もりを抱いた響きだった。
レギュラスは手元の皿にパンを移しながら、短く吐息を飲み込み、口を開いた。
「…… アラン」
「はい?」
「昨夜は……きちんと食事をとれましたか」
抑えた声の調子は、あくまで穏やかだった。
だがアランは一瞬だけ手を止め、その翡翠の瞳を小さく揺らした。
すぐに笑顔を戻し、「ええ」と答える。
それは嘘ではない。だが、真実のすべてでもない。
胸に残している温もりの相手を語ることはできないから。
レギュラスはそれ以上追及はしなかった。
パンを一口ちぎり、淡々と口へ運ぶふりをする。
表情は微笑を保っている。
だがその灰色の瞳の奥底は、硬い氷のように冷えたままだった。
——自分が彼女に差し出したかった温もり。
それを兄は、何の躊躇もなく先に与えてしまった。
その事実は胸をざらつかせ、鋭い棘のように残滓を刺し続ける。
そしてその冷たい影は、朝靄を透かす光では溶けることなく、彼の中に静かに沈み込みながら広がっていった。
食卓のざわめきは変わらず続いていた。
けれどアランの胸に残るのは、優しい夜の余韻。
そしてレギュラスの胸に沈むのは、消えぬ冷たい影。
相反する二つの色が、長いテーブルを挟んで、誰にも見えないほど静かに絡み合っていた。
レギュラスが父オリオンの書斎に足を踏み入れた瞬間、空気は一層濃淡を増した。
壁一面を覆う魔法書の背表紙は黒と深紅に並び、古代文字の金の箔押しが陰鬱に輝いている。
その下には、羊皮紙へ幾世代も遡る血脈を記す家系図の巻物が幾本も重ねられ、まるでこの部屋の空気そのものに「古き誇り」を刻み込んでいた。
暖炉では小さな火の魔法が燃え盛り、パチパチと木を弾く音が静寂の裂け目を繕っている。それすらも、この部屋の重圧を和らげることはなかった。
扉を閉じると同時に、父の灰色の瞳が静かに持ち上がる。
低い声が落ち、刃のように胸を突いた。
「レギュラス。……縁談のことを、そろそろ考えなければならない」
心臓が跳ね、背筋が硬直する。
父の言葉は常に静謐で無駄がない。その静かさこそが、かえって絶対の命令として響く。
「……縁談、ですか」
声が震えぬよう心の奥で必死に踏ん張った。
「シリウスは、あの有様だ」
オリオンの声音は冷たく切り捨てるもの。
「グリフィンドールに入り、縁談を潰し、この家をも軽んじる。あれを跡継ぎに据えることはもはや望めぬ」
黙り込むレギュラスに、父はさらに言葉を重ねる。
「このままいけば、このブラック家を継ぐのはお前だ。ゆえに、相応しい令嬢を妻に迎えよ」
その言葉は雷が石壁にこだまするほどの重みを持ってのしかかってきた。
理解できる。頭では。
自らが純血の子息として背負うべき義務。その重大さを軽んじることはしない。
だが——胸の奥底では、全く別の声が必死に叫んでいた。
——アラン。
鮮やかな翡翠の瞳が思い浮かぶ。
課題に向かって机に座る姿。縫い物に没頭する静かな横顔。
不意に笑みを零す瞬間、心細げに瞳を伏せる姿。
記憶の一つ一つが息をのむほど鮮明に胸を焦がす。
(あの人以外に、誰を想うことができるというのか)
けれど、口には決してできない。
彼女は使用人の娘。セシールの血を引いていても「令嬢」とは呼べず、妻として迎えるなど父が認めるはずもない。
ならば、自分はその現実を唯々諾々と受け入れ、彼女をこの屋敷に「使用人」として置き続ければいいのだろうか。
——いや。胸の奥が拒絶した。
その未来の光景が脳裏に浮かぶ。
彼女が誰かの妻として遠くへ嫁ぎ、翡翠の瞳を別の男に向ける日。
やがて腕に抱く子どもが生まれ、その子がまた「仕える者」としてこの家に立つ未来。
それはつまり、自分が今この屋敷で受け継いできた血の理を繰り返すということ。
父オリオンがロイクにそうしたように。
愛する者を「褒美」として与え、望まぬ宿命を当然の如く強いた、あの理不尽を。
思い描くだけで、胸の奥に鋭い痛みが刻まれた。
(耐えられない)
彼女を誰かに渡すなど。
彼女が自分の隣から消えるなど。
あまりに明瞭な拒絶が、脈打つように胸の内で繰り返される。
「レギュラス?」
父の声に、現実へと引き戻された。
「……はい」
辛うじて息を飲み込み、唇を乾かせながら小さく頷く。
背筋は伸ばしたまま。だが震えは、指先まで伝わっていた。
燃え上がる暖炉の音が、黙り込んだ若き声を包み隠す。
家を継ぐ重責と、叶わぬと知りながらも燃え続ける願い。
その二つが鋭くねじれ、彼の心に深く刻まれていく。
——背負わねばならぬ「ブラックとしての宿命」と、絶対に手放せぬと囁く「アランへの想い」。
それはもう彼の中で切り離せぬ傷となって燃え続けていた。
重たい扉を背にして、レギュラスは静かに息を吐いた。
父の書斎を出れば寒気の残る廊下が延び、その冷たさはまるで心の奥をも硬く締め付けにくるようだった。重圧をまとった空気の中、一歩を踏み出した瞬間、視界の先に立つ影に気づく。
黒髪を乱したまま、壁に無造作にもたれかかる男。
その姿を目にしただけで、胸の奥に鋭い波紋が走った。
——シリウス。
目が合った瞬間、兄は舌打ちを響かせる。
「……チッ」
その音が、冷えた廊下に鋭く刻まれた。
苛立ちが胸から喉へ突き上げる。だがレギュラスもまた衝動を抑え込むことはできず、小さく息を吐き出す。互いに言葉を持たない無言の応戦。冷たい廊下の空気は、瞬く間に刃のように張り詰めていく。
やがて、沈黙を破ったのは兄の方だった。
「テメェがいずれ当主になるなら、さっさとどっかの令嬢と縁談決めやがれ。うだうだされてると迷惑なんだよ」
その声は荒く、容赦のない棘をぶつけつけるようだった。
レギュラスの灰色の瞳が細く瞬き、わずかに揺れる影を帯びる。
「……あなたの方こそ」
抑揚を極限まで削った声で返す。冷ややかな響きの奥に、鋭い刃が潜む。
「中途半端にこの家の名を語っていないで、やりたい事とやらがあるのなら、ご自身で自立されてからなさったらどうです」
シリウスの瞳が瞬間、燃えるような光を宿す。
唇が僅かに吊り上がった。
「……なんだと?」
いつもシリウスが語る夢。
自由と平等。血の差なく、マグルも魔法使いも垣根を越えて交じり合える社会。過去の束縛に縛られず、新しい世界をつくるのだと彼は力強く叫んでいた。
だが——レギュラスの胸には矛盾が重なって響いていた。
「ブラック」の名を嫌悪し、呪いのように蔑むその口で、自由の旗を振りかざす。
しかし、その声を世に通じさせているのは何か。結局「ブラック家の子」であるという看板。
その名を使わずに、どうやって世の耳へ届くというのか。
正義を語る姿は確かに眩しい。けれど、その背は最後まで「この家の名」に頼らざるを得ないことに、彼は気づいているのか。
それとも気づかぬふりで突き進んでいるのか。
——滑稽だ。
レギュラスには、兄のその姿がそうとしか映らなかった。
「自由だの、融合だの、立派な理念はご立派です。けれど」
声を放つとき、内に隠した激情が刹那、表面を震わせた。
「この名を、あなたはもう嫌っているのでしょう? ならば語ることをやめてください。名を捨て、独りで証明してみせてはどうです」
言葉は低く、しかし鋭く突き刺さる刃へと変わる。
シリウスはほんの短く笑った。
その笑みには怒りも嘲笑も混じり、何よりも「恐れぬ不敵さ」が宿っている。
「……」
次の瞬間、兄弟の視線が真っ直ぐにぶつかりあった。
廊下の空気が、さらに深く冷え込む。
若き灰の瞳と、炎のごとき光を帯びた瞳。
同じ血を分けながら、その視線は決して交わらず、互いを拒絶する炎と氷の矛盾そのものだった。
深い沈黙の果てに、二人が歩むのは完全に異なる道。
双子座のように同じ空に生まれながら、進むべき軌道は逆へと反っていた。
それだけが、痛々しいほど明晰に、二人の間に存在していた。
廊下の石壁は昼間の熱気を冷ややかに手放し、夜気を溜め込んでいた。
背をもたせかけると、冷たさが衣服を透って背骨に届く。
屋敷の奥からは誰の声も響かず、重苦しい静寂に包まれた空気の中で、ただランプの炎だけがゆらめき、二人の影を淡く壁に揺らしていた。
アランは小さな息を吐き、隣に座るシリウスを見上げた。
彼の黒髪は夜気に少し乱れ、その横顔はいつものように強気を崩さぬまま。だが灯りに照らされたその輪郭には、不思議なほど深い孤独の色が差して見えた。
胸の奥に刺さるその姿に、言葉は抑えきれなくなった。
「……シリウス。あなたが、どんどん一人になろうとしているように見えるの」
声は震えていた。
「このまま、あなたの帰る場所がどこにもなくなってしまったらって思うと、すごく……恐ろしいの」
沈黙。ほんの刹那。
次いで返ってきたのは、いつもの軽やかさを装った、けれど確かに芯を持つ声だった。
「お前は心配しすぎだ」
わざと笑みを浮かべ、肩をすくめる。
そして真っ直ぐな眼差しで言い切る。
「大丈夫だ。俺は負けねぇ」
その言葉は強かった。
強さはアランの胸を安堵させた。けれど同時に、その強さは危うさと紙一重でもあった。
——ブラックという名は、この魔法界でとてつもない重みを持つ。
そして彼は、その名から逸脱しようとしている。
もし本気で「光」の道を進むなら、この家は全力で潰しにくるだろう。そのとき、彼は……。
胸が痛んだ。
「……シリウス。私、不安だわ。あなたが……何かされてしまうんじゃないかって」
声が細く途切れる。
だが彼は躊躇わなかった。
「心配すんな」
目を細め、力強さを増した声が夜の冷気を押しのける。
「俺は負けねぇ」
また同じ言葉。
それは彼の矜持であり、彼の孤独であり、同時に脆さを隠す盾のようでもあった。
眩しい光に翳が差す。その相反の姿があまりに危うく、アランの胸をつかんで離さない。
思わず彼女は拳を握りしめ、小さな声を震わせた。
「……シリウス。私、本当は……あなたを守りたいのに」
それは真実だった。
けれど情けないほどの乏しい力しか持たない自分にできることはない。
強大な名門の魔法や政治力でもなく、偉大な魔力でもなく。
この翡翠の瞳ができるのは、ただ彼の背を追い、支えたいと願うことだけ。
その無力感に胸が詰まり、せめて何かが欲しい、彼を支える力が欲しいと切実に願ってしまう。
そんな翳りを追い払うように、シリウスは唐突に笑い声を上げた。
黒髪を乱しながら、いつもの奔放さで。
「俺がお前を守るんだから、それでいいんだよ!」
笑いながら言い放つその一言は、年若い少年の無鉄砲な約束に過ぎないのかもしれなかった。
「守る」という言葉が、彼にとってどれほど重いものかを、きっとまだ知らない。
だが、だからこそ。
その声はアランにとって魔法だった。
力を持たない彼女に、未来を信じさせる呪文。
孤独と恐怖で揺れる胸をあたためる光。
翡翠の瞳がかすかに潤んだ。
そのきらめきはランプの炎に反射し、夜の冷たい廊下をほのかに照らす。
胸の奥からこぼれた想いを必死に抱きとめ、アランはその声ごと未来を信じようとした。
彼が口にした「守る」という言葉を。
あまりにも幼く、けれどあまりにも強い、その輝きを。
学年が上がるごとに、課題は格段に複雑さを増していた。
魔法薬学ではほんの一匙の計量を誤れば、数時間をかけて煮込んだ調合が泡と共に霧散する。
呪文学の呪文は舌の僅かな揺らぎひとつで不発に終わり、時に振り下ろす杖の角度がすべてを左右した。
アランは必死だった。
机にかじりつき、背筋を固め、眠気に何度も打ち勝ちながら羽ペンを動かした。
インクの染みが幾度も手指を汚し、ノートの隅には修正の跡が溢れている。
それでも、一夜を重ね、また夜を越えて努力を積み重ねていくうちに、変化は確かに現れた。
順位表。
そこに初めて自分の名が上位にあるのを見たとき、胸に驚きと小さな誇りが同時に芽生えた。
けれど——そのすぐ上にある名前は、いつも決まって同じだった。
「Regulus Black」
主席。
魔法薬学も、呪文学も、闇の護身術も、どの分野においても最高評価を揺るぎなく獲得し、教授や生徒からの絶対の信頼を集めている存在。
それでいて決して傲らず、誰よりも穏やかに、静かな自信を纏うように振る舞う。
その姿は、届くはずのない高嶺の星を思わせた。
「……あなたは、本当にすごいわ」
翡翠の瞳を伏せたまま、アランは言葉を抑えきれずに洩らしていた。
机に並んだノートの隅、ふと零れ落ちるように。
レギュラスは小さく瞬く。その後すぐに柔らかな笑みを返す。
「あなたも、随分と努力されていましたね」
その声音は優しく、淡く包むようだった。
胸の奥がほんのりと熱を帯びる。
確かに、アランは努力をした。
毎晩遅くまでノートを開き、震える声で呪文を繰り返し、書き損じをいくつも赤で囲みながら学び続けた。
その果てにようやく、彼の数個下の順位へ食い込むことができたのだ。
——それでも、背中には届かなかった。
差を突きつけられ、その才の大きさに舌を巻く。
けれど彼は、そこに立っていることを誇示するような態度を一度も見せない。
静かに隣に座り、ノートを差し出し、自分の見逃した誤りを指先で示す。
励ますでも驕るでもなく、ただ自然にそこにいてくれる。
清廉で、完璧さに傲気を纏わぬ人柄。
それが溶け合ったとき、胸の奥を思わず打たれるのだった。
「……なんだか、とても遠い人みたいです」
抑えきれずに呟きとなる。
その言葉に、レギュラスはほんの少しだけ首を傾けた。
そして、意外なほどあどけない笑みを浮かべた。
年相応の青年にだけ見える、柔らかな笑顔。
「なんでです。こんなに一緒に過ごしてきたのに」
思わず心臓が鳴る。
その端正な顔立ち。
ブラック家に脈々と流れる誇りと鋭さを湛えながらも、今はただ穏やかで美しい輝きを纏っている眼差し。
周囲の女子生徒がひそひそと憧れを語るのも当然だと、心のどこかで認めざるを得なかった。
……それどころか、自分自身が見惚れてしまう。
「だって……あなたって、こんなに凄いんだもの」
俯くようにして、言葉が途切れ途切れに溢れる。
次の瞬間、迷いなく返された言葉。
「あなたの目に映る僕がそうであるなら……それが一番嬉しいです」
さらりと。
微塵の照れもなく、ためらいもなく。
胸の奥に熱が広がる。
——この人もまた、シリウスと同じだ。
強く、率直な言葉を投げかけてくる。惜しげもなく。
聞く側の方が恥ずかしくなるほど真っ直ぐに。
だからこそ、忘れられぬほど胸に刻まれる。
アランは小さくくすりと笑ってしまう。
「……この兄弟は、女をハマらせる術でも持っているのかしら」
ふいに浮かんだくだらない思いが、照れと共に口許に滲んだ。
ランプの光が二人を柔らかに包み込み、ノートの上に落ちる影が寄り添うように重なっていた。
静かな空気の中で、確かな温度を帯びた時間がゆるやかに流れていった。
更衣室の隅。
アランはひとり、小さな個室に身を潜めていた。
周囲には衣擦れの音、軽やかに弾む笑い声、石の壁に漂う香水の甘やかな匂いが混じっている。
何気ない日常の片鱗のはずだった。
けれど、その扉一枚隔てた向こうから聞こえてきた言葉は、彼女の心臓を一瞬で釘付けにした。
「ねえ、今度のダンスパーティ……レギュラス・ブラックを誘いたいんだけど」
その声に翡翠の瞳がかっと見開かれる。
続いて別の少女の囁きが、弾む調子で返ってきた。
「え、ほんとに? どうやって?」
軽やかな語り口。
けれどアランには、それがなぜか刃物のように鋭く思えた。
そして、不意に自分の名が上がる。
「でも……アラン・セシールがいるもの」
呼吸が止んだ。
聞き間違いではない。確かに、はっきりと自分の名だった。
一拍の沈黙の後、また別の声が笑い混じりに響く。
「でもあの子、婚約者でもなんでもないんでしょ? だったら誘ってもいいわよ」
その楽しげな調子は、深い意味など込められていないのかもしれない。無邪気ですらあった。
だがアランの胸の裏側に、それはまるで針の先で突かれたような鋭い痛みを残した。
小さな個室の中で、アランは震える両手をぎゅっと握りしめた。
出るに出られない。
今ここで扉を開けば、自分が彼女たちの会話を耳にしていたと知られてしまう。
それ以上に、足が動かなかった。冷え切った石床に縫い止められたように。
——確かに彼女たちの言う通りだ。
自分はレギュラスの婚約者ではない。
誇るべき血筋も、与えられた立場もない。
ただの、屋敷に仕えてきた使用人の娘に過ぎないのだ。
それなのに。
授業で隣に座ること。
食堂で笑みを交わすこと。
そのすべてを「当たり前」のことだと思い込み始めていた。
扉の向こうから響く何気ない言葉が、今その思い上がりを鋭く打ち砕く。
胸の奥に、氷の針を突き立てられたかのような痛みが広がっていく。
「……」
呼吸が詰まりそうだった。
頬がじんわりと熱を帯びる。
それが羞恥なのか、悲しみなのか。もはや自分でもわからなかった。
レギュラスほどの人気があれば、彼と踊りたいと望む女子が多いのも当然なのだ。
その光のもとに集う人々から見れば、自分のような平凡で何も持たない者が、彼の隣に居座ること自体がおかしい。
瞳を伏せ、唇を強く噛みしめる。
小さな音でさえ、人目に晒されるのをおそれて。
——自分はやはり「一緒にいる資格などない」のではないか。
心の底から、冷たい影のような思いが立ち昇ってきた。
華やかな声と香水の甘い香りが漂う更衣室の片隅で、アランは孤独の深淵に閉じ込められるようにじっと小さく身を縮めていた。
更衣室を後にした時も、アランの胸にはざわめきが残っていた。
石の壁に反響する少女たちの笑い声がまだ消えず、耳の奥を離れない。
「レギュラスを誘いたい」
「婚約者でもなんでもないんでしょ?」
その一言、一言が、胸の奥深くまで棘のように沈み込んでいる気がした。
翡翠の瞳の奥で、鋭くきらめく残響。
どんなに顔を整え直しても、それは消えることなく視界にちらついていた。
午後の授業。
いつものように教室へと足を踏み入れると、そこには見慣れた光景があった。
左手の席。
レギュラスがいつも自分のために空けてくれている場所。
薄い光に照らされた机の上で、彼はノートの端に片手を置き、こちらを振り返って微笑んだ。
「ここ」と示す仕草は、ごく自然で当たり前のもの。
それだけのことなのに、アランの胸はぎゅっと熱を帯びた。
けれど同時に、重たい影のような痛みが沁みてくる。
——私が、本当に隣に座っていいの?
彼は名門ブラック家の次代を担う人。
自分はただの、屋敷に仕えていた娘。
たとえ努力で手にした今の学び舎があっても、婚約者でもなんでもない自分が、彼の隣に「当然」のように居ることは、間違った甘えではないのか。
胸が冷たくなりそうな時、レギュラスの声が静かに落ちてきた。
「アラン。今日の講義ですが、昨日の復習が役立つと思います」
自然で、穏やかで、揺らぎのない声音。
それはずっと昔から変わらない距離感——「幼馴染」として寄り添う言葉。
隔たりも差別もなく、ごく普通の友として、隣に居ることを肯定してくれる。
「……ええ、そうですね」
必死に笑みをかたどり、指先で椅子を引いた。
腰を下ろすとき、黒のインクが目の前に滲んで揺れた。
ページをめくる音。
滑らかな指が書物の一節を指し示し、間違えやすい箇所を控えめに指摘してくれる。
その白い指先に見とれてしまいそうになり、すぐに視線を伏せた。
彼の声はいつだって深い湖のように穏やかで、胸の奥を温めてくれる。
けれど。
温かさに包まれるその陰で、「私にはここに居る資格はない」という思いが鈍く疼いていた。
「アラン?」
ふいに名前を呼ばれ、心臓がはねた。
はっと顔を上げると、灰色の瞳が静かにこちらを見つめている。
「大丈夫ですか」
短く問う声に、必死に笑みを繕う。
「……ええ、大丈夫」
少しだけ強張った声。
それでも、隣から注がれる視線はそれを責めることなく、ただ淡く見守る。
胸が鳴る。しまい込むほどに強く、苦しく。
——やっぱり、彼は遠い人。
その完璧さに触れれば触れるほど、己はただ「影」にすぎないと思い知らされる。
けれど、それでも隣に座れる今この時間は何よりも温かかった。
奪いがたい幸福と、破けそうな痛み。
二つの感情が胸の奥でせめぎ合い、翡翠の瞳を揺らす。
その眼差しが映しているのは、完璧で穏やかな彼の横顔。
遠く、遠い人でありながら、今この瞬間、どうしても手を放したくない人だった。
授業が終わり、ざわめきの残響を背にして教室を出たときも、アランの心は重く沈んでいた。
耳の奥には、さきほど更衣室で聞いた女子たちの声が棘のように突き刺さっている。
——「アラン・セシールがいるもの。でも婚約者じゃないんでしょ?」
その一言が頭の中で何度も甦り、抜こうとしても抜けない棘のように痛みを残す。
歩幅は自然と小さくなり、視線も落ちて、石畳の床に影が淡く揺れている。
そんな小さな変化ですら、隣にいるレギュラスは敏感に気づいていた。
「…… アラン」
低く、静かに名前を呼ばれる。廊下にはもう人は少なく、石壁に反射する声は二人だけのもののように響いた。
「今日の授業、少し疲れましたか?」
柔らかそうに聞こえるその声音。けれど目を向ければ、灰色の瞳にはただ心配する以上の深さが宿っていた。
慌てて首を横に振る。
「ええ……大丈夫。少し考え事をしていただけ」
なんとかそう取り繕ったが、その奥には言えない言葉が隠れていた。
——誰かの視線が怖かったこと。
——「自分は彼の隣にいる資格がない」と責められたように感じたこと。
そんな痛いほどの胸の内を、どうして本人に打ち明けられるだろう。
レギュラスはふと足を止め、まっすぐにアランを振り返った。
長い睫毛の影から注がれる視線に、思わず呼吸が浅くなる。
「……あなたは、僕の隣にいればいいのです」
その声は、いつもの穏やかさではなかった。
柔らかな響きに隠されている鋼。
まるで一語ごとアランの胸に刻み込むような強さを帯びていた。
心臓が高鳴る。
「……でも、私は……」
言葉を紡ごうとした瞬間、レギュラスの硬質な声が短く遮った。
「いいえ」
その一言には迷いがなく、拒む余地を与えない圧があった。
「あなたが何者であろうと、周りがどう言おうと、僕にとっては変わらない。ずっと、一緒にいるのはあなたなんです」
翡翠色の瞳が大きく揺れた。
見つめ返せば、そこに映るのは透き通る灰色の瞳。
まっすぐで、逃げ場がなく、ひとつの確信だけで構築されたような視線。
その熱に、アランは抗う術もなく飲み込まれていく。
胸の奥に広がるのは、温かさと切なさの入り混じった痛みだった。
彼の優しさはいつだって救いであった。
けれど時に、それは逃げ場を与えないほど濃く、独占する意志の色を帯びて見えることもある。
——これはきっと、優しさであると同時に、独占欲に近い愛情。
それを感じながら、それでも心は強く震えていた。
「……ありがとう、レギュラス」
やっとの思いで零した声は震えていた。
その響きに彼はただ穏やかに微笑む。
けれど、その微笑みの底には、何か固い決意の色が潜んでいた。
柔らかさと硬さを併せ持つ笑顔。
アランはその笑顔を見上げながら、また胸の奥でどうしようもなく複雑な熱に囚われていった。
分厚い石の壁に反射するその光は冷たく重々しいはずなのに、壁際に並んだランプや差し出される料理の香りが、そこにかすかな温もりを与えていた。
長机には焼きたてのパンが香ばしい匂いを漂わせ、果物は瑞々しい色を放ち、銀食器の触れ合う音や談笑が複雑に溶け合って大広間全体を賑わしている。
その喧噪に少し遅れて、アランがやってくる。
翡翠の瞳にはまだ淡い疲れの色が滲んでいる。だがそれ以上に、彼女の表情には昨夜とは違う柔らかさが宿っていた。
静かに灯り続けている小さな炎のような微笑。それは、きっと「秘密の食卓」が胸の奥に残した温もりの余韻だった。
孤独な夜の中で温かさを分け合った時間。その記憶が、彼女をひそかに優しく照らしていた。
「アラン」
隣に腰を下ろす声。
顔を上げれば、レギュラスがいつもの穏やかな面差しでこちらを見ていた。
「朝食は……きちんと取らないといけませんよ」
「ええ……ありがとうございます」
アランは自然に微笑みながらパンを手に取る。
その仕草に、レギュラスは静かに頷いた。
声も、態度も、互いにとっては慣れ親しんだ〈日常のやりとり〉。
けれどレギュラスの灰色の瞳の奥には、昨夜の光景が色濃く残っていた。
——静まり返った廊下の扉の隙間から垣間見てしまったもの。
机に並んだ皿を挟んで、並んで座る二人。
シリウスの灰色の瞳と、彼に向けられるアランの笑顔。
その瞬間の彼女の光は、自分が知っているものとは違って見えた。
翡翠の瞳がやわらかに細められ、頬を染めながら笑っていた。
「ああ、こんな笑い方をするのだ」と、胸に焼きついてしまうほどの色だった。
耳にはまだ残響がこびりついている。
「ありがとう、シリウス」という彼女の声。
それは思いやりの礼ではなく、心から零れ出ていた温もりを抱いた響きだった。
レギュラスは手元の皿にパンを移しながら、短く吐息を飲み込み、口を開いた。
「…… アラン」
「はい?」
「昨夜は……きちんと食事をとれましたか」
抑えた声の調子は、あくまで穏やかだった。
だがアランは一瞬だけ手を止め、その翡翠の瞳を小さく揺らした。
すぐに笑顔を戻し、「ええ」と答える。
それは嘘ではない。だが、真実のすべてでもない。
胸に残している温もりの相手を語ることはできないから。
レギュラスはそれ以上追及はしなかった。
パンを一口ちぎり、淡々と口へ運ぶふりをする。
表情は微笑を保っている。
だがその灰色の瞳の奥底は、硬い氷のように冷えたままだった。
——自分が彼女に差し出したかった温もり。
それを兄は、何の躊躇もなく先に与えてしまった。
その事実は胸をざらつかせ、鋭い棘のように残滓を刺し続ける。
そしてその冷たい影は、朝靄を透かす光では溶けることなく、彼の中に静かに沈み込みながら広がっていった。
食卓のざわめきは変わらず続いていた。
けれどアランの胸に残るのは、優しい夜の余韻。
そしてレギュラスの胸に沈むのは、消えぬ冷たい影。
相反する二つの色が、長いテーブルを挟んで、誰にも見えないほど静かに絡み合っていた。
レギュラスが父オリオンの書斎に足を踏み入れた瞬間、空気は一層濃淡を増した。
壁一面を覆う魔法書の背表紙は黒と深紅に並び、古代文字の金の箔押しが陰鬱に輝いている。
その下には、羊皮紙へ幾世代も遡る血脈を記す家系図の巻物が幾本も重ねられ、まるでこの部屋の空気そのものに「古き誇り」を刻み込んでいた。
暖炉では小さな火の魔法が燃え盛り、パチパチと木を弾く音が静寂の裂け目を繕っている。それすらも、この部屋の重圧を和らげることはなかった。
扉を閉じると同時に、父の灰色の瞳が静かに持ち上がる。
低い声が落ち、刃のように胸を突いた。
「レギュラス。……縁談のことを、そろそろ考えなければならない」
心臓が跳ね、背筋が硬直する。
父の言葉は常に静謐で無駄がない。その静かさこそが、かえって絶対の命令として響く。
「……縁談、ですか」
声が震えぬよう心の奥で必死に踏ん張った。
「シリウスは、あの有様だ」
オリオンの声音は冷たく切り捨てるもの。
「グリフィンドールに入り、縁談を潰し、この家をも軽んじる。あれを跡継ぎに据えることはもはや望めぬ」
黙り込むレギュラスに、父はさらに言葉を重ねる。
「このままいけば、このブラック家を継ぐのはお前だ。ゆえに、相応しい令嬢を妻に迎えよ」
その言葉は雷が石壁にこだまするほどの重みを持ってのしかかってきた。
理解できる。頭では。
自らが純血の子息として背負うべき義務。その重大さを軽んじることはしない。
だが——胸の奥底では、全く別の声が必死に叫んでいた。
——アラン。
鮮やかな翡翠の瞳が思い浮かぶ。
課題に向かって机に座る姿。縫い物に没頭する静かな横顔。
不意に笑みを零す瞬間、心細げに瞳を伏せる姿。
記憶の一つ一つが息をのむほど鮮明に胸を焦がす。
(あの人以外に、誰を想うことができるというのか)
けれど、口には決してできない。
彼女は使用人の娘。セシールの血を引いていても「令嬢」とは呼べず、妻として迎えるなど父が認めるはずもない。
ならば、自分はその現実を唯々諾々と受け入れ、彼女をこの屋敷に「使用人」として置き続ければいいのだろうか。
——いや。胸の奥が拒絶した。
その未来の光景が脳裏に浮かぶ。
彼女が誰かの妻として遠くへ嫁ぎ、翡翠の瞳を別の男に向ける日。
やがて腕に抱く子どもが生まれ、その子がまた「仕える者」としてこの家に立つ未来。
それはつまり、自分が今この屋敷で受け継いできた血の理を繰り返すということ。
父オリオンがロイクにそうしたように。
愛する者を「褒美」として与え、望まぬ宿命を当然の如く強いた、あの理不尽を。
思い描くだけで、胸の奥に鋭い痛みが刻まれた。
(耐えられない)
彼女を誰かに渡すなど。
彼女が自分の隣から消えるなど。
あまりに明瞭な拒絶が、脈打つように胸の内で繰り返される。
「レギュラス?」
父の声に、現実へと引き戻された。
「……はい」
辛うじて息を飲み込み、唇を乾かせながら小さく頷く。
背筋は伸ばしたまま。だが震えは、指先まで伝わっていた。
燃え上がる暖炉の音が、黙り込んだ若き声を包み隠す。
家を継ぐ重責と、叶わぬと知りながらも燃え続ける願い。
その二つが鋭くねじれ、彼の心に深く刻まれていく。
——背負わねばならぬ「ブラックとしての宿命」と、絶対に手放せぬと囁く「アランへの想い」。
それはもう彼の中で切り離せぬ傷となって燃え続けていた。
重たい扉を背にして、レギュラスは静かに息を吐いた。
父の書斎を出れば寒気の残る廊下が延び、その冷たさはまるで心の奥をも硬く締め付けにくるようだった。重圧をまとった空気の中、一歩を踏み出した瞬間、視界の先に立つ影に気づく。
黒髪を乱したまま、壁に無造作にもたれかかる男。
その姿を目にしただけで、胸の奥に鋭い波紋が走った。
——シリウス。
目が合った瞬間、兄は舌打ちを響かせる。
「……チッ」
その音が、冷えた廊下に鋭く刻まれた。
苛立ちが胸から喉へ突き上げる。だがレギュラスもまた衝動を抑え込むことはできず、小さく息を吐き出す。互いに言葉を持たない無言の応戦。冷たい廊下の空気は、瞬く間に刃のように張り詰めていく。
やがて、沈黙を破ったのは兄の方だった。
「テメェがいずれ当主になるなら、さっさとどっかの令嬢と縁談決めやがれ。うだうだされてると迷惑なんだよ」
その声は荒く、容赦のない棘をぶつけつけるようだった。
レギュラスの灰色の瞳が細く瞬き、わずかに揺れる影を帯びる。
「……あなたの方こそ」
抑揚を極限まで削った声で返す。冷ややかな響きの奥に、鋭い刃が潜む。
「中途半端にこの家の名を語っていないで、やりたい事とやらがあるのなら、ご自身で自立されてからなさったらどうです」
シリウスの瞳が瞬間、燃えるような光を宿す。
唇が僅かに吊り上がった。
「……なんだと?」
いつもシリウスが語る夢。
自由と平等。血の差なく、マグルも魔法使いも垣根を越えて交じり合える社会。過去の束縛に縛られず、新しい世界をつくるのだと彼は力強く叫んでいた。
だが——レギュラスの胸には矛盾が重なって響いていた。
「ブラック」の名を嫌悪し、呪いのように蔑むその口で、自由の旗を振りかざす。
しかし、その声を世に通じさせているのは何か。結局「ブラック家の子」であるという看板。
その名を使わずに、どうやって世の耳へ届くというのか。
正義を語る姿は確かに眩しい。けれど、その背は最後まで「この家の名」に頼らざるを得ないことに、彼は気づいているのか。
それとも気づかぬふりで突き進んでいるのか。
——滑稽だ。
レギュラスには、兄のその姿がそうとしか映らなかった。
「自由だの、融合だの、立派な理念はご立派です。けれど」
声を放つとき、内に隠した激情が刹那、表面を震わせた。
「この名を、あなたはもう嫌っているのでしょう? ならば語ることをやめてください。名を捨て、独りで証明してみせてはどうです」
言葉は低く、しかし鋭く突き刺さる刃へと変わる。
シリウスはほんの短く笑った。
その笑みには怒りも嘲笑も混じり、何よりも「恐れぬ不敵さ」が宿っている。
「……」
次の瞬間、兄弟の視線が真っ直ぐにぶつかりあった。
廊下の空気が、さらに深く冷え込む。
若き灰の瞳と、炎のごとき光を帯びた瞳。
同じ血を分けながら、その視線は決して交わらず、互いを拒絶する炎と氷の矛盾そのものだった。
深い沈黙の果てに、二人が歩むのは完全に異なる道。
双子座のように同じ空に生まれながら、進むべき軌道は逆へと反っていた。
それだけが、痛々しいほど明晰に、二人の間に存在していた。
廊下の石壁は昼間の熱気を冷ややかに手放し、夜気を溜め込んでいた。
背をもたせかけると、冷たさが衣服を透って背骨に届く。
屋敷の奥からは誰の声も響かず、重苦しい静寂に包まれた空気の中で、ただランプの炎だけがゆらめき、二人の影を淡く壁に揺らしていた。
アランは小さな息を吐き、隣に座るシリウスを見上げた。
彼の黒髪は夜気に少し乱れ、その横顔はいつものように強気を崩さぬまま。だが灯りに照らされたその輪郭には、不思議なほど深い孤独の色が差して見えた。
胸の奥に刺さるその姿に、言葉は抑えきれなくなった。
「……シリウス。あなたが、どんどん一人になろうとしているように見えるの」
声は震えていた。
「このまま、あなたの帰る場所がどこにもなくなってしまったらって思うと、すごく……恐ろしいの」
沈黙。ほんの刹那。
次いで返ってきたのは、いつもの軽やかさを装った、けれど確かに芯を持つ声だった。
「お前は心配しすぎだ」
わざと笑みを浮かべ、肩をすくめる。
そして真っ直ぐな眼差しで言い切る。
「大丈夫だ。俺は負けねぇ」
その言葉は強かった。
強さはアランの胸を安堵させた。けれど同時に、その強さは危うさと紙一重でもあった。
——ブラックという名は、この魔法界でとてつもない重みを持つ。
そして彼は、その名から逸脱しようとしている。
もし本気で「光」の道を進むなら、この家は全力で潰しにくるだろう。そのとき、彼は……。
胸が痛んだ。
「……シリウス。私、不安だわ。あなたが……何かされてしまうんじゃないかって」
声が細く途切れる。
だが彼は躊躇わなかった。
「心配すんな」
目を細め、力強さを増した声が夜の冷気を押しのける。
「俺は負けねぇ」
また同じ言葉。
それは彼の矜持であり、彼の孤独であり、同時に脆さを隠す盾のようでもあった。
眩しい光に翳が差す。その相反の姿があまりに危うく、アランの胸をつかんで離さない。
思わず彼女は拳を握りしめ、小さな声を震わせた。
「……シリウス。私、本当は……あなたを守りたいのに」
それは真実だった。
けれど情けないほどの乏しい力しか持たない自分にできることはない。
強大な名門の魔法や政治力でもなく、偉大な魔力でもなく。
この翡翠の瞳ができるのは、ただ彼の背を追い、支えたいと願うことだけ。
その無力感に胸が詰まり、せめて何かが欲しい、彼を支える力が欲しいと切実に願ってしまう。
そんな翳りを追い払うように、シリウスは唐突に笑い声を上げた。
黒髪を乱しながら、いつもの奔放さで。
「俺がお前を守るんだから、それでいいんだよ!」
笑いながら言い放つその一言は、年若い少年の無鉄砲な約束に過ぎないのかもしれなかった。
「守る」という言葉が、彼にとってどれほど重いものかを、きっとまだ知らない。
だが、だからこそ。
その声はアランにとって魔法だった。
力を持たない彼女に、未来を信じさせる呪文。
孤独と恐怖で揺れる胸をあたためる光。
翡翠の瞳がかすかに潤んだ。
そのきらめきはランプの炎に反射し、夜の冷たい廊下をほのかに照らす。
胸の奥からこぼれた想いを必死に抱きとめ、アランはその声ごと未来を信じようとした。
彼が口にした「守る」という言葉を。
あまりにも幼く、けれどあまりにも強い、その輝きを。
学年が上がるごとに、課題は格段に複雑さを増していた。
魔法薬学ではほんの一匙の計量を誤れば、数時間をかけて煮込んだ調合が泡と共に霧散する。
呪文学の呪文は舌の僅かな揺らぎひとつで不発に終わり、時に振り下ろす杖の角度がすべてを左右した。
アランは必死だった。
机にかじりつき、背筋を固め、眠気に何度も打ち勝ちながら羽ペンを動かした。
インクの染みが幾度も手指を汚し、ノートの隅には修正の跡が溢れている。
それでも、一夜を重ね、また夜を越えて努力を積み重ねていくうちに、変化は確かに現れた。
順位表。
そこに初めて自分の名が上位にあるのを見たとき、胸に驚きと小さな誇りが同時に芽生えた。
けれど——そのすぐ上にある名前は、いつも決まって同じだった。
「Regulus Black」
主席。
魔法薬学も、呪文学も、闇の護身術も、どの分野においても最高評価を揺るぎなく獲得し、教授や生徒からの絶対の信頼を集めている存在。
それでいて決して傲らず、誰よりも穏やかに、静かな自信を纏うように振る舞う。
その姿は、届くはずのない高嶺の星を思わせた。
「……あなたは、本当にすごいわ」
翡翠の瞳を伏せたまま、アランは言葉を抑えきれずに洩らしていた。
机に並んだノートの隅、ふと零れ落ちるように。
レギュラスは小さく瞬く。その後すぐに柔らかな笑みを返す。
「あなたも、随分と努力されていましたね」
その声音は優しく、淡く包むようだった。
胸の奥がほんのりと熱を帯びる。
確かに、アランは努力をした。
毎晩遅くまでノートを開き、震える声で呪文を繰り返し、書き損じをいくつも赤で囲みながら学び続けた。
その果てにようやく、彼の数個下の順位へ食い込むことができたのだ。
——それでも、背中には届かなかった。
差を突きつけられ、その才の大きさに舌を巻く。
けれど彼は、そこに立っていることを誇示するような態度を一度も見せない。
静かに隣に座り、ノートを差し出し、自分の見逃した誤りを指先で示す。
励ますでも驕るでもなく、ただ自然にそこにいてくれる。
清廉で、完璧さに傲気を纏わぬ人柄。
それが溶け合ったとき、胸の奥を思わず打たれるのだった。
「……なんだか、とても遠い人みたいです」
抑えきれずに呟きとなる。
その言葉に、レギュラスはほんの少しだけ首を傾けた。
そして、意外なほどあどけない笑みを浮かべた。
年相応の青年にだけ見える、柔らかな笑顔。
「なんでです。こんなに一緒に過ごしてきたのに」
思わず心臓が鳴る。
その端正な顔立ち。
ブラック家に脈々と流れる誇りと鋭さを湛えながらも、今はただ穏やかで美しい輝きを纏っている眼差し。
周囲の女子生徒がひそひそと憧れを語るのも当然だと、心のどこかで認めざるを得なかった。
……それどころか、自分自身が見惚れてしまう。
「だって……あなたって、こんなに凄いんだもの」
俯くようにして、言葉が途切れ途切れに溢れる。
次の瞬間、迷いなく返された言葉。
「あなたの目に映る僕がそうであるなら……それが一番嬉しいです」
さらりと。
微塵の照れもなく、ためらいもなく。
胸の奥に熱が広がる。
——この人もまた、シリウスと同じだ。
強く、率直な言葉を投げかけてくる。惜しげもなく。
聞く側の方が恥ずかしくなるほど真っ直ぐに。
だからこそ、忘れられぬほど胸に刻まれる。
アランは小さくくすりと笑ってしまう。
「……この兄弟は、女をハマらせる術でも持っているのかしら」
ふいに浮かんだくだらない思いが、照れと共に口許に滲んだ。
ランプの光が二人を柔らかに包み込み、ノートの上に落ちる影が寄り添うように重なっていた。
静かな空気の中で、確かな温度を帯びた時間がゆるやかに流れていった。
更衣室の隅。
アランはひとり、小さな個室に身を潜めていた。
周囲には衣擦れの音、軽やかに弾む笑い声、石の壁に漂う香水の甘やかな匂いが混じっている。
何気ない日常の片鱗のはずだった。
けれど、その扉一枚隔てた向こうから聞こえてきた言葉は、彼女の心臓を一瞬で釘付けにした。
「ねえ、今度のダンスパーティ……レギュラス・ブラックを誘いたいんだけど」
その声に翡翠の瞳がかっと見開かれる。
続いて別の少女の囁きが、弾む調子で返ってきた。
「え、ほんとに? どうやって?」
軽やかな語り口。
けれどアランには、それがなぜか刃物のように鋭く思えた。
そして、不意に自分の名が上がる。
「でも……アラン・セシールがいるもの」
呼吸が止んだ。
聞き間違いではない。確かに、はっきりと自分の名だった。
一拍の沈黙の後、また別の声が笑い混じりに響く。
「でもあの子、婚約者でもなんでもないんでしょ? だったら誘ってもいいわよ」
その楽しげな調子は、深い意味など込められていないのかもしれない。無邪気ですらあった。
だがアランの胸の裏側に、それはまるで針の先で突かれたような鋭い痛みを残した。
小さな個室の中で、アランは震える両手をぎゅっと握りしめた。
出るに出られない。
今ここで扉を開けば、自分が彼女たちの会話を耳にしていたと知られてしまう。
それ以上に、足が動かなかった。冷え切った石床に縫い止められたように。
——確かに彼女たちの言う通りだ。
自分はレギュラスの婚約者ではない。
誇るべき血筋も、与えられた立場もない。
ただの、屋敷に仕えてきた使用人の娘に過ぎないのだ。
それなのに。
授業で隣に座ること。
食堂で笑みを交わすこと。
そのすべてを「当たり前」のことだと思い込み始めていた。
扉の向こうから響く何気ない言葉が、今その思い上がりを鋭く打ち砕く。
胸の奥に、氷の針を突き立てられたかのような痛みが広がっていく。
「……」
呼吸が詰まりそうだった。
頬がじんわりと熱を帯びる。
それが羞恥なのか、悲しみなのか。もはや自分でもわからなかった。
レギュラスほどの人気があれば、彼と踊りたいと望む女子が多いのも当然なのだ。
その光のもとに集う人々から見れば、自分のような平凡で何も持たない者が、彼の隣に居座ること自体がおかしい。
瞳を伏せ、唇を強く噛みしめる。
小さな音でさえ、人目に晒されるのをおそれて。
——自分はやはり「一緒にいる資格などない」のではないか。
心の底から、冷たい影のような思いが立ち昇ってきた。
華やかな声と香水の甘い香りが漂う更衣室の片隅で、アランは孤独の深淵に閉じ込められるようにじっと小さく身を縮めていた。
更衣室を後にした時も、アランの胸にはざわめきが残っていた。
石の壁に反響する少女たちの笑い声がまだ消えず、耳の奥を離れない。
「レギュラスを誘いたい」
「婚約者でもなんでもないんでしょ?」
その一言、一言が、胸の奥深くまで棘のように沈み込んでいる気がした。
翡翠の瞳の奥で、鋭くきらめく残響。
どんなに顔を整え直しても、それは消えることなく視界にちらついていた。
午後の授業。
いつものように教室へと足を踏み入れると、そこには見慣れた光景があった。
左手の席。
レギュラスがいつも自分のために空けてくれている場所。
薄い光に照らされた机の上で、彼はノートの端に片手を置き、こちらを振り返って微笑んだ。
「ここ」と示す仕草は、ごく自然で当たり前のもの。
それだけのことなのに、アランの胸はぎゅっと熱を帯びた。
けれど同時に、重たい影のような痛みが沁みてくる。
——私が、本当に隣に座っていいの?
彼は名門ブラック家の次代を担う人。
自分はただの、屋敷に仕えていた娘。
たとえ努力で手にした今の学び舎があっても、婚約者でもなんでもない自分が、彼の隣に「当然」のように居ることは、間違った甘えではないのか。
胸が冷たくなりそうな時、レギュラスの声が静かに落ちてきた。
「アラン。今日の講義ですが、昨日の復習が役立つと思います」
自然で、穏やかで、揺らぎのない声音。
それはずっと昔から変わらない距離感——「幼馴染」として寄り添う言葉。
隔たりも差別もなく、ごく普通の友として、隣に居ることを肯定してくれる。
「……ええ、そうですね」
必死に笑みをかたどり、指先で椅子を引いた。
腰を下ろすとき、黒のインクが目の前に滲んで揺れた。
ページをめくる音。
滑らかな指が書物の一節を指し示し、間違えやすい箇所を控えめに指摘してくれる。
その白い指先に見とれてしまいそうになり、すぐに視線を伏せた。
彼の声はいつだって深い湖のように穏やかで、胸の奥を温めてくれる。
けれど。
温かさに包まれるその陰で、「私にはここに居る資格はない」という思いが鈍く疼いていた。
「アラン?」
ふいに名前を呼ばれ、心臓がはねた。
はっと顔を上げると、灰色の瞳が静かにこちらを見つめている。
「大丈夫ですか」
短く問う声に、必死に笑みを繕う。
「……ええ、大丈夫」
少しだけ強張った声。
それでも、隣から注がれる視線はそれを責めることなく、ただ淡く見守る。
胸が鳴る。しまい込むほどに強く、苦しく。
——やっぱり、彼は遠い人。
その完璧さに触れれば触れるほど、己はただ「影」にすぎないと思い知らされる。
けれど、それでも隣に座れる今この時間は何よりも温かかった。
奪いがたい幸福と、破けそうな痛み。
二つの感情が胸の奥でせめぎ合い、翡翠の瞳を揺らす。
その眼差しが映しているのは、完璧で穏やかな彼の横顔。
遠く、遠い人でありながら、今この瞬間、どうしても手を放したくない人だった。
授業が終わり、ざわめきの残響を背にして教室を出たときも、アランの心は重く沈んでいた。
耳の奥には、さきほど更衣室で聞いた女子たちの声が棘のように突き刺さっている。
——「アラン・セシールがいるもの。でも婚約者じゃないんでしょ?」
その一言が頭の中で何度も甦り、抜こうとしても抜けない棘のように痛みを残す。
歩幅は自然と小さくなり、視線も落ちて、石畳の床に影が淡く揺れている。
そんな小さな変化ですら、隣にいるレギュラスは敏感に気づいていた。
「…… アラン」
低く、静かに名前を呼ばれる。廊下にはもう人は少なく、石壁に反射する声は二人だけのもののように響いた。
「今日の授業、少し疲れましたか?」
柔らかそうに聞こえるその声音。けれど目を向ければ、灰色の瞳にはただ心配する以上の深さが宿っていた。
慌てて首を横に振る。
「ええ……大丈夫。少し考え事をしていただけ」
なんとかそう取り繕ったが、その奥には言えない言葉が隠れていた。
——誰かの視線が怖かったこと。
——「自分は彼の隣にいる資格がない」と責められたように感じたこと。
そんな痛いほどの胸の内を、どうして本人に打ち明けられるだろう。
レギュラスはふと足を止め、まっすぐにアランを振り返った。
長い睫毛の影から注がれる視線に、思わず呼吸が浅くなる。
「……あなたは、僕の隣にいればいいのです」
その声は、いつもの穏やかさではなかった。
柔らかな響きに隠されている鋼。
まるで一語ごとアランの胸に刻み込むような強さを帯びていた。
心臓が高鳴る。
「……でも、私は……」
言葉を紡ごうとした瞬間、レギュラスの硬質な声が短く遮った。
「いいえ」
その一言には迷いがなく、拒む余地を与えない圧があった。
「あなたが何者であろうと、周りがどう言おうと、僕にとっては変わらない。ずっと、一緒にいるのはあなたなんです」
翡翠色の瞳が大きく揺れた。
見つめ返せば、そこに映るのは透き通る灰色の瞳。
まっすぐで、逃げ場がなく、ひとつの確信だけで構築されたような視線。
その熱に、アランは抗う術もなく飲み込まれていく。
胸の奥に広がるのは、温かさと切なさの入り混じった痛みだった。
彼の優しさはいつだって救いであった。
けれど時に、それは逃げ場を与えないほど濃く、独占する意志の色を帯びて見えることもある。
——これはきっと、優しさであると同時に、独占欲に近い愛情。
それを感じながら、それでも心は強く震えていた。
「……ありがとう、レギュラス」
やっとの思いで零した声は震えていた。
その響きに彼はただ穏やかに微笑む。
けれど、その微笑みの底には、何か固い決意の色が潜んでいた。
柔らかさと硬さを併せ持つ笑顔。
アランはその笑顔を見上げながら、また胸の奥でどうしようもなく複雑な熱に囚われていった。
