3章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
玄関の扉が閉じる音がした。
夜風がすうっと吹き込み、蝋燭の火を揺らす。
レギュラスが外套を翻して去っていく姿を、アランは胸の奥がざわめくのを抑えきれずに見送っていた。
その足取りは迷いがなく、まるで何か確信を得た者のそれだった。
直感で分かった――何かが動いたのだ。
そして今夜、レギュラスは“それ”を闇の帝王に伝えに行く。
つまり、誰かが犠牲になる夜。
「……シリウス。」
胸の奥から押し上げるように名を呟く。
悪い予感が、喉の奥でひとつの塊となってせり上がってくる。
どうにかして止めなければ。
「レギュラス、どちらへ?」
声を出したときには、もう震えが混じっていた。
彼は一瞬だけ振り返った。
その瞳には、まるで嵐の前の静けさのような影がある。
少し、今夜は遅くなります。先に寝ていてください。」
そう言って、彼はアランの頬に軽く唇を寄せた。
その仕草があまりにも優しくて、アランの胸が裂けそうになった。
――これから悪魔のような所業をしに行くというのに。
その手が、その唇が、これほどまでに温かいなんて。
扉が閉じる。
静寂が戻る。
アランはすぐに立ち上がり、机の引き出しから小さな瓶を取り出した。
医務魔女サラから受け取っていた、例の薬。
指先が震える。
だが、ためらっている時間はなかった。
栓を開けると、甘い香りとともに薬液が光を放った。
そのまま一息に飲み干す。
喉を滑り落ちる感覚のあと、すぐに全身を光が駆け抜けた。
痛みが消える。
重さが消える。
まるで誰かに新しい体を与えられたように。
「……これでいい。」
鏡に映る自分の瞳が、翡翠の奥に新しい輝きを宿していた。
体が自由になると、心まで晴れていくようだった。
今なら、どこへでも行ける気がした。
外套を羽織り、杖を握りしめる。
扉を開けると、夜風が頬を打つ。
冷たい空気の中に立つと、空には満ちかけの月が浮かんでいた。
灰色の光が屋敷を包み込み、静かに世界を見下ろしている。
「……行かなくちゃ。」
アランは姿くらましの呪文を唱えた。
――ホグワーツ。
光が弾け、景色がねじれる。
瞬きをした次の瞬間、彼女は懐かしい石造りの門の前に立っていた。
校門には見張りのフクロウが何羽もとまっている。
夜の校舎は静かで、湖面に映る月が穏やかに揺れていた。
風が吹き抜け、あの頃と同じ匂いを運んでくる――
インクと古い本、そして松の香り。
足が勝手に動く。
体が覚えている。
学生時代、シリウスと並んで駆け抜けた中庭。
図書室の窓。
満月の夜に二人で見上げた天文塔の屋根。
どの記憶も胸を締めつける。
(先生に会わなきゃ……ダンブルドア先生に……)
校舎の中は薄暗く、廊下に灯る燭台が静かに揺れていた。
杖先に小さな光をともす。
「ルーモス……」
柔らかな光が石の床を照らす。
一歩、また一歩。
足音が反響するたびに、心臓が早鐘のように鳴った。
校長室の前に辿り着くと、扉の前の石像が彼女を見下ろす。
「ダンブルドア先生に……お会いしたいの。」
声をかけると、石像はゆっくりと動いた。
「合言葉を。」
少し考えて、アランは微笑む。
「レモン・キャンディ。」
がしゃり、と音を立てて扉が開いた。
螺旋階段を登ると、見慣れた青い光が揺れている。
天井の星のようなランプ、机の上に積まれた本。
そして――窓際に立つ白髭の老人が振り向いた。
「久しいのぉ、アラン・セシール。」
その声に、涙が込み上げた。
懐かしい響きだった。
あの頃と変わらぬ温かさを持つ声。
アランはその場に跪いた。
もう、涙を止めることはできなかった。
「先生……お願いです。シリウスを……シリウスを闇から救ってください。
嗚咽まじりに言葉を絞り出す。
頭を深く下げ、床に額をつける。
「どうか、あの人だけは――」
その声は細く、震えていた。
まるで命の最後の灯を振り絞るように。
ダンブルドアは静かに歩み寄り、アランの肩に手を置いた。
「……分かっておる。君がここに来たということが、何よりの証じゃ」
窓の外では、夜風が鳴っていた。
遠くで、運命の歯車が音を立てて回り始めている。
光と闇の境界線が、今まさに交わろうとしていた。
ダンブルドアの表情が、明滅する蝋燭の光に照らされて厳しくなった。
その瞳の奥に、冷たい確信の光が宿る。
「……つまり、デスイーターどもがポッター家の居場所を掴みかけておる、ということじゃな?」
アランはうなずくことしかできなかった。
声を出せば、喉が潰れて泣き出してしまいそうだった。
それでも、胸の内の焦燥が言葉よりも雄弁に伝わっていた。
ダンブルドアは一拍だけ沈黙したのち、立ち上がる。
ローブの裾が床を払う音が、夜の静寂を裂いた。
「急がねばならんな。」
老いた声に宿る力は、まるで雷鳴のようだった。
その瞬間、空気が変わった。
魔力が満ち、室内の光が揺らめく。
「掴まるのじゃ、アラン。」
差し出された片腕に、アランは縋りつくように手を伸ばした。
その掌に触れた途端、足元の大理石が溶け、世界がねじれた。
――ダンブルドア流の姿くらまし。
まるで世界の座標ごと捻じ曲げるかのような、強烈な魔法だった。
耳を裂くような風。光の奔流。
目を開けていられないほどの圧が全身を包み、次の瞬間、アランは荒れた地面に膝をついていた。
夜の空気が焦げていた。
魔力が渦を巻き、空が震えている。
彼らが辿り着いたのは、ゴドリックの谷。
ポッター家の隠れ家の前だった。
けれど――もう遅かった。
家は崩れ落ち、瓦礫の間から閃光が飛び交っている。
シリウスの怒声と、ヴォルデモートの笑い声が響く。
泣き叫ぶ幼子の声が夜気を震わせ、地の底にまで響いた。
「……リリー!」
「ジェームズ、逃げろ!」
シリウスの声が絶望に掠れる。
レギュラスではない。
本物の“死”が、今、そこにいた。
闇の帝王――ヴォルデモート。
人の形をしていながら、人ではない。
白磁のような肌。爬虫類のように裂けた瞳孔。
その異形の姿に、アランは息を飲んだ。
生きたまま氷に閉じ込められたように、体が動かない。
「トム……やめるんじゃ。」
ダンブルドアの声が轟く。
杖を振ると、黄金の光が夜空を裂いた。
「このおいぼれめ!」
ヴォルデモートの声が鋭く響く。
漆黒の魔法が放たれる。
ダンブルドアは《プロテゴ・マキシマ》でそれを受け流す。
光と闇がぶつかり合い、雷鳴のような衝撃が地面を割った。
「彼らは子を抱えておる! 無関係な命を奪ってはならん!」
「無関係? 奴らは“脅威”だ!」
闇の帝王の杖先から、緑の閃光が走る。
《アバダ・ケダブラ》。
死の呪文。
ダンブルドアは反射的に横へ飛ぶ。
光がすぐ脇を掠め、背後の壁が爆ぜた。
その隙を縫ってシリウスが飛び込む。
「リリー! ジェームズ!」
シリウスは倒れたジェームズの体を庇いながら、ヴォルデモートへ杖を構える。
「お前を……二度と……許さない!」
《ステューピファイ!》
《インペディメンタ!》
シリウスの放つ光の弾がいくつも闇を裂いたが、ヴォルデモートの反撃は異常なほど早かった。
《クラシアトゥス!》
悲鳴が上がる。
リリーが泣き叫び、幼いハリーの泣き声が重なる。
アランはその場から動けなかった。
目の前に広がる光景が、まるで地獄そのものに見えた。
――これが、闇の帝王。
言葉で聞くよりもはるかに恐ろしい。
その存在感だけで世界が歪む。
アランの体は震え続けていた。
杖を握る手に力を込めても、まるで無力だった。
(どうして……)
愛する人が、あの闇と対峙している。
命を賭して、家族を守ろうとしている。
「シリウス……」
唇がかすかに動いた。
呼びかけの声は、風に溶けて消えた。
目の前で、愛しい人が――焼けつく光の中で、闇と戦っていた。
胸が張り裂けそうだった。
もし、あの薬を飲んでいなければ。
体が動かせないこの現実に押し潰されて、倒れていたかもしれない。
だが今だけは、立っていなければ。
目を逸らしてはならない。
この夜を、決して忘れてはいけない。
――光と闇がぶつかり合う、その中心で。
アランは、すべての終わりの始まりを見ていた。
報せは夜半に届いた。
デスイーターの一人が駆け込み、青ざめた顔で息を荒げながら告げた。
「――闇の帝王は……ポッター家を仕留め損ねました」
その言葉を聞いた瞬間、レギュラスの思考は止まった。
耳の奥でざらつく音が鳴り、空気が重く沈む。
「……なんですと?」
「リリー・ポッターが……赤子に守護の呪文を。
その呪いが跳ね返り、あのお方の肉体を――」
男の声は震えていた。
レギュラスはゆっくりと顔を覆った。
掌の中で息が詰まる。
冷たい汗が背筋を伝った。
「なんてことなんです……」
たった一歩、たった一つの誤算。
それだけで、世界が音を立てて崩れていく。
ピーター・ペティグリューを追い詰め、彼の口から確かに場所を吐かせた。
闇の帝王がそこへ赴けば、すべては終わるはずだった。
ポッター家は滅び、予言は未然に防がれる。
それが――どうして。
「どうなっているんです……」
声が震える。
怒りとも、恐怖ともつかない感情が胸を灼いた。
沈黙ののち、もう一人のデスイーターが躊躇いがちに口を開く。
「……レギュラス様。お耳に入れにくいのですが……」
「何です。」
「アラン・ブラックが……ダンブルドアと共にいた、との報告が。」
その瞬間、時間が止まった。
呼吸が詰まり、全身の血が逆流する。
頭の奥で何かが切れる音がした。
「……何を、言いました?」
「目撃情報です。神秘部の一部隊が確認を――」
言葉を最後まで聞くことはできなかった。
レギュラスは勢いよく立ち上がり、杖を握ると同時に姿を消した。
――姿くらまし。
次の瞬間、彼はゴドリックの谷に立っていた。
夜風が、焼け焦げた木片の間を抜けていく。
煙が立ち込め、あたりは灰に染まっていた。
瓦礫、割れた皿、裂けたカーテン、焦げた写真立て。
温もりのあった家が、無惨に散乱している。
その中心に――彼らがいた。
泣き崩れるリリー・ポッターが赤子を抱きしめ、
ジェームズが血に染まった床にうずくまり、
その傍らに、兄・シリウスが座り込んでいた。
そして、その背後に――アラン。
蒼白な顔。
レギュラスを見るなり、息を飲んだ。
恐怖と哀しみがないまぜになった瞳。
レギュラスは何も言わず、歩み寄った。
靴底が瓦礫を踏むたび、音が夜を裂く。
アランは一歩退いたが、レギュラスの手が彼女の手首を掴んだ。
「レギュラス……」
震える声を無視して、そのまま外へ引きずり出す。
力が強すぎて、アランの身体がよろけ、壁に肩をぶつけた。
「待つんじゃ、レギュラス!」
鋭い声が背後から飛ぶ。
ダンブルドアの声だ。
その声を聞いて、レギュラスの奥底から怒りがこみ上げた。
――この男が。
――この男が、闇の均衡を壊した。
振り返る。
そこに立つのは、杖を構えた老魔法使い。
長い白髭が血と煙に汚れている。
「お久しぶりです、ダンブルドア校長。」
皮肉を滲ませながらも、口調は冷ややかだった。
「君かね……この場所をヤツに教えたのは。」
ダンブルドアの瞳には怒りと哀しみが混じっていた。
レギュラスはその視線を正面から受け止めるが、
何も答えなかった。
ただ、代わりに淡々と告げる。
「そんなことより、シリウス・ブラックを匿うならお早めに。
魔法省の職員がすぐにやって来ます。
ピーター・ペティグリュー殺害容疑がかかっているようです。」
冷ややかに、まるで他人事のように。
けれど、その裏で確かに動かしていた。
来る途中、レギュラスはすでに“細工”をしていた。
ピーターの姿を消し、小指だけを残す。
そして、シリウスが放った強力な呪文が
ピーターを殺したかのように見せかけるシナリオを作り上げた。
魔法警察部隊には匿名で通報済み。
――抜かりはない。
これで兄は終わる。
「違うわ、レギュラス!」
アランの声が震える。
「この人は……そんなことしない!」
レギュラスはその言葉に、ようやく視線を向けた。
その瞳の奥に、何かが揺れた。
怒りか、哀しみか、それとも――恐怖か。
「……ひとまず帰りましょうか、アラン。」
柔らかい声だった。
けれど、その響きの底には鋭い怒気が潜んでいた。
アランは、掴まれた手首を振りほどけなかった。
その指先の冷たさに、心の奥が凍りつく。
――この人はもう、帰ってこない。
そう直感した。
この人の中の何かが、完全に闇に沈んでしまったのだと。
崩れた家の中で、幼子が泣いていた。
その泣き声が、遠ざかる二人の背を追いかけて響いていた。
屋敷へ戻るまでの道のりが、果てしなく遠く感じられた。
レギュラスの手は冷たく、鉄の枷のように強かった。
掴まれた手首が痛む。だがアランは抵抗できなかった。
魔法戦の余韻が、まだ肌に残っている。
服はところどころ焦げ、袖口には裂け目が走っていた。
頬には煤がこびりつき、指先には乾いた血。
髪も乱れ、夜気に晒された身体はひどく冷えている。
闇の帝王が放った《アバダ・ケダブラ》の緑の閃光が、今も網膜に焼きついて離れなかった。
あのときの幼子の泣き声。リリーの叫び。
ジェームズの、家族を庇うために立ちはだかるその姿。
――あれほどまでに理不尽な闇を、どうして世界は許しているのだろう。
屋敷の扉が閉じられた瞬間、重苦しい沈黙が落ちた。
暖炉の火がぱちぱちと弾ける音が、痛いほど鮮明に聞こえる。
レギュラスは部屋の中央まで歩き、背を向けたまま椅子に沈み込んだ。
片肘をつき、視線を天井に彷徨わせている。
その横顔に、感情はなかった。怒りなのか、悲嘆なのかも分からない。
アランはただ立ち尽くしていた。
喉の奥が焼けるように痛くて、息をするのも苦しい。
――これから、責められるのだ。
わかっている。覚悟している。
けれど、それでも言わなければならないことがあった。
「……シリウスは、無実です。」
声が震えた。
だがその言葉は、彼女の最後の矜持でもあった。
沈黙ののち、レギュラスの口から乾いた笑いが零れた。
皮肉でも嘲りでもなく、ただ虚ろな笑い。
「……初めに出てくる言葉が、それですか。」
アランは唇を噛み締めた。
胸の奥が冷えきっていく。
「無実の人に罪を着せるような真似は、やめて。」
レギュラスの視線が、静かに彼女を射抜いた。
その瞳には、氷のような光が宿っていた。
「あなた……どこまで人をコケにしてくれるつもりです?」
低い声。
抑えつけた怒りが、床を這うように響いた。
まるで一言一言が刃のようにアランの胸を切り裂く。
「責任は、どうとでも取ります。」
アランは絞り出すように言った。
「だから、シリウスを――」
「あなたに何の責任が取れるんです?」
レギュラスの声が重なり、遮った。
その声は低く、鋭く、容赦がなかった。
「闇の帝王に命を差し出しますか? それで全て解決だと?
……アルタイルはどうします。まだ一歳になったばかりの子を、どうするつもりです。」
次第にその言葉は熱を帯び、怒りと哀しみがないまぜになっていく。
アランの胸が締めつけられた。
彼が言っていることは正しい。
けれど、正しさがいつも正義とは限らない。
「私は……」
何かを言い返そうとしたが、声が途切れた。
喉が塞がり、言葉が音にならない。
レギュラスは立ち上がる。
長い影がアランを覆い、彼の影の中に飲み込まれそうになる。
燃える暖炉の光が彼の頬を照らす。怒りと疲弊が、その整った顔を歪めていた。
「あなたが見たものは“現実”です。
あなたは今日戦場にいた。ダンブルドアと並んで、僕の任務を妨げた。
その事実をどう弁明するおつもりです?」
声が冷たく突き刺さる。
アランは震える手で胸を押さえた。
「私は、あの人を……救いたかっただけ。」
その言葉に、レギュラスの眉がかすかに動いた。
一瞬だけ、沈黙が落ちる。
だがその一瞬の優しさも、すぐに怒りの波に飲み込まれた。
「……救いたかった、ですか。」
レギュラスは低く呟く。
「その“救い”が、どれだけの人を危険に晒したと思っているんです。」
アランは顔を上げられなかった。
唇が震え、視界が滲む。
暖炉の火が、ふたりの間に揺れていた。
赤い炎の中に、まるで消えかけた希望のように、光が脈打っている。
世界がゆっくりと崩れていく音がした。
燃える火の粉が、ふたりの間に散り、消えていく。
その夜、屋敷を包んだ沈黙は、永遠にも似ていた。
静まり返った屋敷の空気は、まるで重い鉛を溶かして飲み込んだようだった。
暖炉の火は小さくなり、壁に映る影が不安定に揺らいでいる。
外では風が鳴り、窓の外の月が雲に呑まれようとしていた。
レギュラスは立ち上がることもできず、ただ深く椅子に沈み込んでいた。
額に手を当て、目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、闇の帝王の顔だった。
あの冷たい蛇のような瞳、笑い声。
「裏切り者を許すことはない」という、低く凍てつく声。
今回の襲撃失敗――ポッター家の悲劇。
あの混乱の裏で、情報が漏れていた。
闇の帝王がそれを察知するのは時間の問題だ。
いや、もう気づいているだろう。
あの方の知略の前では、隠せることなど何一つない。
そして、その“漏れ”の根源が――
レギュラス・ブラックの妻、アラン・ブラックであると知られたとき。
全てが終わる。
闇の帝王の怒りは、燃え上がる業火のように、家族も家名も呑み尽くすだろう。
レギュラスはその光景を思い浮かべただけで、胃の奥が灼けるように痛んだ。
(どうすれば……どうすれば、アランを守れる。)
もはや懺悔も誓いも通用しない。
必要なのは、“取引”だ。
自分の命か、立場か、あるいは――ブラック家そのものか。
あの方に差し出せる何かを見つけなければ、彼女の命は長くない。
父・オリオンが政治的な取引で魔法界を渡っていたのとは訳が違う。
レギュラスの前にいるのは、神ではなく“死”そのものだった。
そんな思考の渦中で、足元に声が落ちた。
「……お願いです、シリウスを、救ってください。」
アランだった。
彼女は床に膝をつき、涙をこぼしながら訴えていた。
煤と血で汚れた頬が、痛々しいほどだった。
レギュラスは息を呑んだ。
胸の奥で何かが軋む。
しかし、その次の瞬間、怒りがこみ上げた。
――シリウスを、シリウスを。
何度この女の口から、あの名を聞かされただろう。
今も、未来も、全てを賭けて守らねばならない自分の立場をよそに。
彼女はまだ、あの男の名を呼ぶ。
「……少し、黙れませんか。」
その声は氷のように冷たかった。
部屋の空気が凍りつく。
アランの肩がびくりと震える。
レギュラスはゆっくりと立ち上がり、視線を落とした。
炎の反射がその瞳に揺れている。
「僕が今、何を考えているか分かりますか?」
アランは答えられなかった。
ただ、膝をついたまま、息を詰めるようにして彼を見上げている。
「この状況を、どう取り繕うか。
どう名誉を取り戻すか。どうすれば“妻が裏切り者”ではなく済むのか。
それだけを考えているんです」
レギュラスの声が、静かに、しかし刃のように鋭く響く。
「それなのに、あなたは……」
言葉を切り、拳を握る。
「シリウスを、救ってくれ、ですか。」
アランの瞳が潤んだ。
その涙が、床に一滴、落ちる音がした。
「あなたが口にするその名のたびに、僕は心を抉られている。
愛しているからこそ、許せないんです。あなたがまだ、やつを想っていることが。」
その声には、怒りだけではなく、深い絶望が滲んでいた。
アランは言葉を失う。
(愛している……? この人が、私を?)
その実感さえ、もう遠くに霞んでいた。
視線が合っても、心はまるで違う方向を向いている。
二人の間にあるのは、愛ではなく、疑念と罪悪感の深い裂け目だけ。
暖炉の火が一際大きく弾け、火の粉が舞い上がる。
その光の中で、レギュラスは顔を背けた。
「……シリウスのことは、もう口にしないでください。」
低く押し殺した声だった。
「彼を庇えば、あなたが死ぬ。」
アランの唇が震える。
それでも、彼女は呟いた。
「……それでも、救いたい。」
レギュラスの瞳が、微かに揺れた。
怒りか、悲しみか、あるいは――敗北の色。
「本当に……厄介な女だ。」
そう呟いた声が、悲鳴のように静かに響いた。
外では風が唸り、屋敷の古びた窓が軋む。
ふたりの間にあった絆は、今、確かに音を立てて崩れ始めていた。
入浴を終えた浴室には、湯気がまだ漂っていた。
鏡の前で、アランはタオルを肩に掛けながら自らの身体を見下ろす。
白い肌の随所に、紅く線を引いたような切り傷。浅いものもあれば、深くえぐれたものもある。
袖を通すたびに生地が擦れ、ピリ、と痛みが走るはずだった――けれど、不思議とそれがない。
薬が効いているのだろう、とアランは思った。
医務魔女サラから受け取った、あの琥珀色の薬液。
ほんの一口、舌の上で甘く、後から鋭く痺れる。
そのあと、身体の中の痛みが一つずつ消えていく。
まるで、痛みという感覚そのものが存在しなかったかのように。
洗面台の上には、まだガラス片が二、三、肌色に貼りついて光っていた。
指先でそれをつまみ取ろうとするが、皮膚に沈み込んでいる。
血がにじむ。けれど――痛くない。
それがむしろ、怖かった。
けれど、恐怖よりも安堵のほうが勝った。
痛みを感じないことが、こんなにも心地いいなんて。
痛みも苦しみも、悲しみさえも感じなくて済むのなら。
いっそこのまま、ずっとこの薬に身を預けてしまいたかった。
ナイトドレスを纏い、寝台の縁に腰掛ける。
薬瓶を手のひらで転がす。
「これさえあれば……」
誰に言うでもなく呟くと、迷うことなく再び蓋を開けた。
琥珀色の液体を喉に流し込む。
今夜は、二度目。
苦味とともに、世界が少しずつ淡く霞んでいく。
扉が軋む音。
振り返ると、レギュラスが入ってきた。
彼の顔には、まだ怒りと疲労の影が残っている。
「手を。」
アランは一瞬、躊躇った。
けれど逆らうこともできず、片方の腕を差し出した。
レギュラスは眉を寄せる。
「両方です。」
静かに命じる声。
アランはもう片方の腕も差し出す。
レギュラスはナイトドレスの袖をまくり上げた。
露わになった腕は、痛々しいほどに傷だらけだった。
包帯がずれ、血の滲んだ跡。
中には浅い火傷のようなものも混じっている。
「……傷だらけじゃないですか。」
レギュラスの声は低く、震えていた。
叱責なのか、心配なのか。
そのどちらにも聞こえた。
アランは唇を噛む。
言い訳の言葉が出てこない。
「体の具合はどうです。無理をしたんでしょう、どうせ。」
「平気です。」
かすれた声で答える。
本当にそう思っていた。
体が軽く、痛みもない――平気に決まっている。
けれどレギュラスは、鋭い眼差しでアランを見据えた。
「……それ、今たまたまいいだけですからね。油断しないようにしてください。」
アランは静かに頷いた。
その瞳には、どこか遠くを見ているような霞がかかっていた。
レギュラスは何か言いかけたが、口を閉ざした。
沈黙が落ちる。
二人の間を、蝋燭の灯がゆらりと照らす。
アランの呼吸は穏やかだった。
しかしその肌の下では、異様な静寂が広がっていた。
痛みも苦しみも、もう何も感じない――それがどれほど危ういことなのかを、まだ誰も知らなかった。
夜明けの空が淡く白みはじめるころ、レギュラスはふと目を覚ました。
寝台の隣ではアランが静かに眠っている。
頬はわずかに紅潮し、胸の上下は穏やかで、まるで子どものように安らかだった。
昨夜あれほど荒んでいた心が、この寝顔を見ただけで少しだけ和らいでいく。
──こんなにも穏やかに眠っている。
ようやく痛みも和らいできたのかもしれない。
そう思うと、胸の奥に温い安堵が生まれた。
まだ知らなかったのだ。
それが“快復”ではなく、薬によって鈍らされた感覚の果てであることを。
アランの髪をそっと撫でてから、レギュラスは静かに寝室を出た。
その顔には、決意と不安が交錯していた。
今日、彼は闇の帝王のもとへ出向かなければならない。
釈明のために。
いや、もはやそれだけでは済まないだろう。
どう取り繕えばいいのか――そればかりを考え続けていた。
だが、いくら頭を巡らせても、言い訳も理由も浮かばない。
あの方の怒りを鎮められる言葉など、この世に存在しないのだ。
それでも、行かなければならなかった。
命を繋ぎとめるために。
そして、アランを守るために。
闇の帝王の屋敷――。
かつては貴族の別邸であったとされるその建物は、今や空気そのものが禍々しい魔力で満ちていた。
黒ずんだ天井、ねじれた柱。
天井の隙間から垂れる黒煙のような魔力が、まるで意思を持って蠢いている。
扉を押し開くと、冷気が顔を打った。
奥の広間では、デスイーターたちが円陣を組むように立ち並び、その中心に闇の帝王がいた。
長いローブを引きずりながら、蛇のような瞳がレギュラスを見据える。
「よく来た……レギュラス・ブラック。」
その声は、柔らかく響きながらも、氷の刃のように冷たかった。
「先日は……申し訳ございませんでした。」
レギュラスはすぐに跪いた。
頭を深く垂れ、床に手をつける。
額に触れる石の冷たさが、恐怖を現実に引き戻す。
「お前ほどの部下を、私は手放したくはないのだ。」
ヴォルデモートの声が低く響いた。
それは一見、慈悲のように聞こえる。
だが、そこに温情など一欠片もないことをレギュラスは知っていた。
「光栄に存じます。」
喉が震え、声が掠れた。
「……アラン・ブラックと言ったか。」
その名が出た瞬間、心臓がひとつ跳ねた。
背筋に冷たい汗が流れる。
「は、はい。」
レギュラスは息を詰めた。
まさか、そこに話が及ぶとは思っていなかった。
しかし、それも当然だ。
闇の帝王が負傷し、作戦が失敗した――原因を探るのは当然の流れ。
その矛先が、アランに向かうことも。
「見てのとおり、吾輩は傷を負ってしまった。」
ヴォルデモートは指先で、自らの袖口をわずかに捲る。
蒼白の肌に焦げ跡のような黒い筋が走っていた。
それは呪詛返しによる損傷――リリーポッターがかけた愛の守護魔法の痕だ。
「……手となり、足となり動きましょう。」
レギュラスは言葉を選びながら頭を下げる。
「いや、お前はもう十分に働いている。」
ヴォルデモートの声は甘く、そして残酷だった。
「私が欲しいのは……そうではない。」
レギュラスは顔を上げられなかった。
息をするたび、肺が痛む。
その一瞬の沈黙のあと、ヴォルデモートが静かに続けた。
「お前の妻――アラン・ブラック。
彼女の“忠誠”を、この手で確かめねばならない。」
レギュラスの喉が詰まる。
その意図を問うまでもない。
“忠誠の証”という名のもとに、彼女を差し出せということだ。
「まさか……」
声が震えた。
「簡単なことだ、レギュラス。」
ヴォルデモートの瞳が細くなる。
「妻を連れて来い。
そして私の前で、彼女が“お前を裏切っていない”ことを示せ。
もし、それが証明されぬなら――」
言葉は最後まで続かなかった。
代わりに、指先がゆるりと宙を描く。
その動作だけで、空気が凍りつく。
レギュラスは咄嗟に頭を垂れた。
心臓が荒く脈打つ。
この場での反論は死を意味する。
それでも――アランを差し出すなど、考えることさえできなかった。
(どうすれば……どうすれば、守れる。)
闇の帝王の影が、ゆっくりとレギュラスの背に伸びていく。
その闇は、彼の忠誠と愛、そして理性を、少しずつ飲み込んでいった。
闇の帝王の館は、沈黙そのものが息をしているかのようだった。
黒曜石のように冷たく艶めく床が蝋燭の光を歪め、壁にはゆらめく影が生き物のように蠢いている。
その中心に立つのは、ヴォルデモート。
薄い唇が歪んだ笑みを形づくり、その眼差しは氷の刃にも似ていた。
その前に、アランがいた。
レギュラスに手を引かれ、震える足取りで進み出る。
床の黒が彼女のドレスの裾を飲み込み、まるで奈落の淵に引きずられていくようだった。
レギュラスの掌は冷たく、しかし離せば彼女が崩れ落ちそうなほどに固く握られていた。
一歩ごとに、その指先がわずかに震える。
何をどう“忠誠”として示せば、この場を無事に終えられるのか。
それがわからない。
「アラン・ブラック――お前があのリシェル・ブラウンの娘だそうだな。」
その名が出た瞬間、場の空気が凍りついた。
母の名。それはこの魔法界において決して口にしてはならぬ血脈の烙印。
アランの背筋が凍りつく。
レギュラスがそっと促すように視線を送る。
彼女はわずかに頷き、静かに膝をついた。
硬い石床に両手をつき、頭を垂れる。
「……よく参った。」
ヴォルデモートの声は甘く響いたが、その底には深い冷たさが潜んでいた。
「アラン・ブラックよ。お前は夫を――ひいては我が軍勢を裏切らぬことを、ここで誓えるか?」
その問いに、アランは息を詰めた。
胸の奥にある鼓動がやけに大きく響く。
答えようとしても、声が出ない。
レギュラスは一瞬、焦りを隠せなかった。
(なぜ黙る……。なぜ今、何も言えない……。)
頭を下げたまま、アランの肩が小さく震えている。
「申し訳ありません、我が君。妻は緊張しております。」
レギュラスは慌てて頭を下げ、必死に取り繕う。
だが、ヴォルデモートの瞳は細まり、蛇のような冷笑を浮かべた。
「どうだ、アラン・ブラック。誓えぬのか?」
空気がひときわ重くなる。
魔力が空間を圧し潰し、肺がきしむほどの圧迫感にアランの肩が沈む。
その威圧に耐え切れず、アランは小さく頷いた。
「……誓います。」
その声は風に消えるほどにかすかで、泣き出しそうなほど弱々しかった。
だが、その一言にヴォルデモートは満足げに笑みを浮かべた。
「良いだろう。」
そして、ゆるやかに手を上げる。
黒い杖の先が、ゆらりとアランの胸元に向けられた。
冷気が空間を走る。
「だが――口だけの忠誠に、意味はない。」
ヴォルデモートの声が低く響く。
「レギュラス。お前の妻の忠誠を、“行動”で示してもらおう。」
「……行動、でございますか。」
喉が震え、声が掠れた。
「そうだ。」
闇の帝王はゆるりと手を振り、背後に控えていたひとりの男を前に出させた。
捕えられたマグル――恐怖に震える初老の男だった。
顔には泥と血がこびりつき、縄で縛られた手が震えている。
「この男は、マグルだ。」
ヴォルデモートの声が広間に冷たく響く。
「我らが純血の理想を汚す存在。お前が真に忠誠を誓うのなら――その杖で、この男を殺せ。」
レギュラスの息が止まった。
隣で、アランの肩が硬直する。
「……我が君、それは……」
思わず言葉が漏れる。
「妻の忠誠を、夫の口で代弁する必要はない。」
ヴォルデモートの声が鋭く切り裂いた。
視線がアランに戻る。
その瞳は、蛇が獲物を見据えるような冷たい光を放っていた。
「アラン・ブラック。誓いの証を立てよ。
その手で、この無価値なマグルを葬るのだ。」
アランの手が震える。
杖を握る指先に、血が引いて白くなっていく。
足元の石が冷たく、凍りつくようだった。
レギュラスは見ていられなかった。
けれど止めることもできなかった。
止めれば、次に命を奪われるのは彼女自身だ。
「……アラン。」
掠れた声で名を呼ぶ。
アランはゆっくりと顔を上げた。
涙で濡れた翡翠の瞳が、彼を見た。
――助けて、と言っているようだった。
けれどレギュラスは、ただ静かに首を振るしかできなかった。
声にならぬ悲鳴が、胸の奥で燃え上がる。
ヴォルデモートは冷笑を浮かべ、囁く。
「さあ――お前の“忠誠”を、私に見せてみせよ。」
広間の蝋燭が、ひときわ大きく燃え上がった。
アランの震える指先が、杖をゆるやかに持ち上げる。
その先には、怯えたマグルの男。
そしてその向こうには、地獄のような沈黙を見つめるレギュラスの灰色の瞳があった。
闇の広間には、どこまでも深い静寂が落ちていた。
燭台の炎が細く揺れ、石壁に映る影がゆらりと踊る。
焦げた鉄と血の匂いが鼻を刺し、空気は重く淀んでいた。
その中心で、アランは立ち尽くしていた。
目の前に突き出されたのは、縄で縛られ、震えながらうずくまるマグルの男。
年老いたその顔は怯えと痛みに歪み、唇がわずかに震えている。
何も知らずに巻き込まれ、ただ「そこにいた」というだけの理由で命を差し出さねばならぬ哀れな存在。
ヴォルデモートの声が、冷たい刃となって空気を裂いた。
「さあ――やれ。」
アランの指先がかすかに震えた。
杖を握る手は汗で濡れ、血が通わぬほどに冷たくなっていた。
唇が乾く。喉の奥が焼けるように痛い。
──出来るわけがない。
目の前のこの男が、どんな過去を持ち、どんな家族を残しているのかなど知らない。
それでも確信できた。
この人もまた、誰かの大切な存在であるということを。
屋敷で待つアルタイルを思い浮かべる。
あの小さな手、笑顔、体温。
そのどれもが命の輝きそのものだ。
きっと、この男も誰かにとっては同じように――かけがえのない存在だったはずだ。
それを奪うことなど、自分には出来ない。
命の価値を秤にかける権利など、誰にもない。
魔法使いだろうと、闇の帝王だろうと。
アランの瞳から、静かに涙が零れ落ちた。
(この人たちは、神にでもなったつもりなの?)
唇を噛みしめる。
この軍団に夫が属しているのだと思うと、全身を寒気が走った。
レギュラス――。
あの人も、この手で誰かを殺めたのだろうか。
その手でアルタイルを抱き、自分を愛すると囁いてきたのだろうか。
胸が痛くて、呼吸ができなかった。
「どうした。できぬのか?」
ヴォルデモートの声が、冷ややかに響く。
アランは目を閉じ、深く息を吸い込む。
震える手が、ゆっくりと杖を下ろした。
「……できません。」
その瞬間、広間の空気が鋭く切り裂かれた。
「アラン!」
レギュラスの叫びが響く。
その声には焦燥と恐怖が滲んでいた。
だがアランの耳には、もう何も届かなかった。
ヴォルデモートは静かに笑った。
「そうか……それは残念だ。」
その言葉の後、杖の先がわずかに揺れる。
「ロドリゴ。」
呼ばれた名に、黒衣のデスイーターが一歩前に出る。
「はい、我が君。」
「アラン・ブラックを――地下へ。」
その一言が落ちた瞬間、空気が凍りついた。
デスイーターたちの誰もが、その意味を知っていた。
“地下”――それは、生きて戻れぬ場所。
拷問と死が待つ場所だった。
アランの手から杖が滑り落ちる。
石床にあたって乾いた音を立てた。
「お待ちください、我が君!」
レギュラスの声が震えた。
それは懇願というより、もはや悲鳴に近かった。
「レギュラス、やめろ!」
ルシウスが叫ぶ。
「やめるんだ、レギュラス!」
セブルスの低い声が重なる。
それでもレギュラスは止まらなかった。
彼の声が、背後で必死に響いている。
何を言っているのかは分からない。
けれど、それが“自分を救おうとしている”のだとだけは感じ取れた。
──ああ、なんて皮肉なのだろう。
愛してくれた人に、最後は見送られて終わるのか。
アランの視界が滲む。
連れて行かれる先で、どんな苦痛が待っているのかは分かっていた。
けれど、不思議なことに恐怖はなかった。
あまりにも現実離れしていて、自分の身に起こっていることとは思えなかったのだ。
ただ、最後にひとつだけ願った。
どうか、アルタイルだけは――闇に飲まれませんように。
その祈りだけを胸に、アランは静かに連れ去られていった。
残されたレギュラスの叫びが、冷たい石壁に何度も反響していた。
夜風がすうっと吹き込み、蝋燭の火を揺らす。
レギュラスが外套を翻して去っていく姿を、アランは胸の奥がざわめくのを抑えきれずに見送っていた。
その足取りは迷いがなく、まるで何か確信を得た者のそれだった。
直感で分かった――何かが動いたのだ。
そして今夜、レギュラスは“それ”を闇の帝王に伝えに行く。
つまり、誰かが犠牲になる夜。
「……シリウス。」
胸の奥から押し上げるように名を呟く。
悪い予感が、喉の奥でひとつの塊となってせり上がってくる。
どうにかして止めなければ。
「レギュラス、どちらへ?」
声を出したときには、もう震えが混じっていた。
彼は一瞬だけ振り返った。
その瞳には、まるで嵐の前の静けさのような影がある。
少し、今夜は遅くなります。先に寝ていてください。」
そう言って、彼はアランの頬に軽く唇を寄せた。
その仕草があまりにも優しくて、アランの胸が裂けそうになった。
――これから悪魔のような所業をしに行くというのに。
その手が、その唇が、これほどまでに温かいなんて。
扉が閉じる。
静寂が戻る。
アランはすぐに立ち上がり、机の引き出しから小さな瓶を取り出した。
医務魔女サラから受け取っていた、例の薬。
指先が震える。
だが、ためらっている時間はなかった。
栓を開けると、甘い香りとともに薬液が光を放った。
そのまま一息に飲み干す。
喉を滑り落ちる感覚のあと、すぐに全身を光が駆け抜けた。
痛みが消える。
重さが消える。
まるで誰かに新しい体を与えられたように。
「……これでいい。」
鏡に映る自分の瞳が、翡翠の奥に新しい輝きを宿していた。
体が自由になると、心まで晴れていくようだった。
今なら、どこへでも行ける気がした。
外套を羽織り、杖を握りしめる。
扉を開けると、夜風が頬を打つ。
冷たい空気の中に立つと、空には満ちかけの月が浮かんでいた。
灰色の光が屋敷を包み込み、静かに世界を見下ろしている。
「……行かなくちゃ。」
アランは姿くらましの呪文を唱えた。
――ホグワーツ。
光が弾け、景色がねじれる。
瞬きをした次の瞬間、彼女は懐かしい石造りの門の前に立っていた。
校門には見張りのフクロウが何羽もとまっている。
夜の校舎は静かで、湖面に映る月が穏やかに揺れていた。
風が吹き抜け、あの頃と同じ匂いを運んでくる――
インクと古い本、そして松の香り。
足が勝手に動く。
体が覚えている。
学生時代、シリウスと並んで駆け抜けた中庭。
図書室の窓。
満月の夜に二人で見上げた天文塔の屋根。
どの記憶も胸を締めつける。
(先生に会わなきゃ……ダンブルドア先生に……)
校舎の中は薄暗く、廊下に灯る燭台が静かに揺れていた。
杖先に小さな光をともす。
「ルーモス……」
柔らかな光が石の床を照らす。
一歩、また一歩。
足音が反響するたびに、心臓が早鐘のように鳴った。
校長室の前に辿り着くと、扉の前の石像が彼女を見下ろす。
「ダンブルドア先生に……お会いしたいの。」
声をかけると、石像はゆっくりと動いた。
「合言葉を。」
少し考えて、アランは微笑む。
「レモン・キャンディ。」
がしゃり、と音を立てて扉が開いた。
螺旋階段を登ると、見慣れた青い光が揺れている。
天井の星のようなランプ、机の上に積まれた本。
そして――窓際に立つ白髭の老人が振り向いた。
「久しいのぉ、アラン・セシール。」
その声に、涙が込み上げた。
懐かしい響きだった。
あの頃と変わらぬ温かさを持つ声。
アランはその場に跪いた。
もう、涙を止めることはできなかった。
「先生……お願いです。シリウスを……シリウスを闇から救ってください。
嗚咽まじりに言葉を絞り出す。
頭を深く下げ、床に額をつける。
「どうか、あの人だけは――」
その声は細く、震えていた。
まるで命の最後の灯を振り絞るように。
ダンブルドアは静かに歩み寄り、アランの肩に手を置いた。
「……分かっておる。君がここに来たということが、何よりの証じゃ」
窓の外では、夜風が鳴っていた。
遠くで、運命の歯車が音を立てて回り始めている。
光と闇の境界線が、今まさに交わろうとしていた。
ダンブルドアの表情が、明滅する蝋燭の光に照らされて厳しくなった。
その瞳の奥に、冷たい確信の光が宿る。
「……つまり、デスイーターどもがポッター家の居場所を掴みかけておる、ということじゃな?」
アランはうなずくことしかできなかった。
声を出せば、喉が潰れて泣き出してしまいそうだった。
それでも、胸の内の焦燥が言葉よりも雄弁に伝わっていた。
ダンブルドアは一拍だけ沈黙したのち、立ち上がる。
ローブの裾が床を払う音が、夜の静寂を裂いた。
「急がねばならんな。」
老いた声に宿る力は、まるで雷鳴のようだった。
その瞬間、空気が変わった。
魔力が満ち、室内の光が揺らめく。
「掴まるのじゃ、アラン。」
差し出された片腕に、アランは縋りつくように手を伸ばした。
その掌に触れた途端、足元の大理石が溶け、世界がねじれた。
――ダンブルドア流の姿くらまし。
まるで世界の座標ごと捻じ曲げるかのような、強烈な魔法だった。
耳を裂くような風。光の奔流。
目を開けていられないほどの圧が全身を包み、次の瞬間、アランは荒れた地面に膝をついていた。
夜の空気が焦げていた。
魔力が渦を巻き、空が震えている。
彼らが辿り着いたのは、ゴドリックの谷。
ポッター家の隠れ家の前だった。
けれど――もう遅かった。
家は崩れ落ち、瓦礫の間から閃光が飛び交っている。
シリウスの怒声と、ヴォルデモートの笑い声が響く。
泣き叫ぶ幼子の声が夜気を震わせ、地の底にまで響いた。
「……リリー!」
「ジェームズ、逃げろ!」
シリウスの声が絶望に掠れる。
レギュラスではない。
本物の“死”が、今、そこにいた。
闇の帝王――ヴォルデモート。
人の形をしていながら、人ではない。
白磁のような肌。爬虫類のように裂けた瞳孔。
その異形の姿に、アランは息を飲んだ。
生きたまま氷に閉じ込められたように、体が動かない。
「トム……やめるんじゃ。」
ダンブルドアの声が轟く。
杖を振ると、黄金の光が夜空を裂いた。
「このおいぼれめ!」
ヴォルデモートの声が鋭く響く。
漆黒の魔法が放たれる。
ダンブルドアは《プロテゴ・マキシマ》でそれを受け流す。
光と闇がぶつかり合い、雷鳴のような衝撃が地面を割った。
「彼らは子を抱えておる! 無関係な命を奪ってはならん!」
「無関係? 奴らは“脅威”だ!」
闇の帝王の杖先から、緑の閃光が走る。
《アバダ・ケダブラ》。
死の呪文。
ダンブルドアは反射的に横へ飛ぶ。
光がすぐ脇を掠め、背後の壁が爆ぜた。
その隙を縫ってシリウスが飛び込む。
「リリー! ジェームズ!」
シリウスは倒れたジェームズの体を庇いながら、ヴォルデモートへ杖を構える。
「お前を……二度と……許さない!」
《ステューピファイ!》
《インペディメンタ!》
シリウスの放つ光の弾がいくつも闇を裂いたが、ヴォルデモートの反撃は異常なほど早かった。
《クラシアトゥス!》
悲鳴が上がる。
リリーが泣き叫び、幼いハリーの泣き声が重なる。
アランはその場から動けなかった。
目の前に広がる光景が、まるで地獄そのものに見えた。
――これが、闇の帝王。
言葉で聞くよりもはるかに恐ろしい。
その存在感だけで世界が歪む。
アランの体は震え続けていた。
杖を握る手に力を込めても、まるで無力だった。
(どうして……)
愛する人が、あの闇と対峙している。
命を賭して、家族を守ろうとしている。
「シリウス……」
唇がかすかに動いた。
呼びかけの声は、風に溶けて消えた。
目の前で、愛しい人が――焼けつく光の中で、闇と戦っていた。
胸が張り裂けそうだった。
もし、あの薬を飲んでいなければ。
体が動かせないこの現実に押し潰されて、倒れていたかもしれない。
だが今だけは、立っていなければ。
目を逸らしてはならない。
この夜を、決して忘れてはいけない。
――光と闇がぶつかり合う、その中心で。
アランは、すべての終わりの始まりを見ていた。
報せは夜半に届いた。
デスイーターの一人が駆け込み、青ざめた顔で息を荒げながら告げた。
「――闇の帝王は……ポッター家を仕留め損ねました」
その言葉を聞いた瞬間、レギュラスの思考は止まった。
耳の奥でざらつく音が鳴り、空気が重く沈む。
「……なんですと?」
「リリー・ポッターが……赤子に守護の呪文を。
その呪いが跳ね返り、あのお方の肉体を――」
男の声は震えていた。
レギュラスはゆっくりと顔を覆った。
掌の中で息が詰まる。
冷たい汗が背筋を伝った。
「なんてことなんです……」
たった一歩、たった一つの誤算。
それだけで、世界が音を立てて崩れていく。
ピーター・ペティグリューを追い詰め、彼の口から確かに場所を吐かせた。
闇の帝王がそこへ赴けば、すべては終わるはずだった。
ポッター家は滅び、予言は未然に防がれる。
それが――どうして。
「どうなっているんです……」
声が震える。
怒りとも、恐怖ともつかない感情が胸を灼いた。
沈黙ののち、もう一人のデスイーターが躊躇いがちに口を開く。
「……レギュラス様。お耳に入れにくいのですが……」
「何です。」
「アラン・ブラックが……ダンブルドアと共にいた、との報告が。」
その瞬間、時間が止まった。
呼吸が詰まり、全身の血が逆流する。
頭の奥で何かが切れる音がした。
「……何を、言いました?」
「目撃情報です。神秘部の一部隊が確認を――」
言葉を最後まで聞くことはできなかった。
レギュラスは勢いよく立ち上がり、杖を握ると同時に姿を消した。
――姿くらまし。
次の瞬間、彼はゴドリックの谷に立っていた。
夜風が、焼け焦げた木片の間を抜けていく。
煙が立ち込め、あたりは灰に染まっていた。
瓦礫、割れた皿、裂けたカーテン、焦げた写真立て。
温もりのあった家が、無惨に散乱している。
その中心に――彼らがいた。
泣き崩れるリリー・ポッターが赤子を抱きしめ、
ジェームズが血に染まった床にうずくまり、
その傍らに、兄・シリウスが座り込んでいた。
そして、その背後に――アラン。
蒼白な顔。
レギュラスを見るなり、息を飲んだ。
恐怖と哀しみがないまぜになった瞳。
レギュラスは何も言わず、歩み寄った。
靴底が瓦礫を踏むたび、音が夜を裂く。
アランは一歩退いたが、レギュラスの手が彼女の手首を掴んだ。
「レギュラス……」
震える声を無視して、そのまま外へ引きずり出す。
力が強すぎて、アランの身体がよろけ、壁に肩をぶつけた。
「待つんじゃ、レギュラス!」
鋭い声が背後から飛ぶ。
ダンブルドアの声だ。
その声を聞いて、レギュラスの奥底から怒りがこみ上げた。
――この男が。
――この男が、闇の均衡を壊した。
振り返る。
そこに立つのは、杖を構えた老魔法使い。
長い白髭が血と煙に汚れている。
「お久しぶりです、ダンブルドア校長。」
皮肉を滲ませながらも、口調は冷ややかだった。
「君かね……この場所をヤツに教えたのは。」
ダンブルドアの瞳には怒りと哀しみが混じっていた。
レギュラスはその視線を正面から受け止めるが、
何も答えなかった。
ただ、代わりに淡々と告げる。
「そんなことより、シリウス・ブラックを匿うならお早めに。
魔法省の職員がすぐにやって来ます。
ピーター・ペティグリュー殺害容疑がかかっているようです。」
冷ややかに、まるで他人事のように。
けれど、その裏で確かに動かしていた。
来る途中、レギュラスはすでに“細工”をしていた。
ピーターの姿を消し、小指だけを残す。
そして、シリウスが放った強力な呪文が
ピーターを殺したかのように見せかけるシナリオを作り上げた。
魔法警察部隊には匿名で通報済み。
――抜かりはない。
これで兄は終わる。
「違うわ、レギュラス!」
アランの声が震える。
「この人は……そんなことしない!」
レギュラスはその言葉に、ようやく視線を向けた。
その瞳の奥に、何かが揺れた。
怒りか、哀しみか、それとも――恐怖か。
「……ひとまず帰りましょうか、アラン。」
柔らかい声だった。
けれど、その響きの底には鋭い怒気が潜んでいた。
アランは、掴まれた手首を振りほどけなかった。
その指先の冷たさに、心の奥が凍りつく。
――この人はもう、帰ってこない。
そう直感した。
この人の中の何かが、完全に闇に沈んでしまったのだと。
崩れた家の中で、幼子が泣いていた。
その泣き声が、遠ざかる二人の背を追いかけて響いていた。
屋敷へ戻るまでの道のりが、果てしなく遠く感じられた。
レギュラスの手は冷たく、鉄の枷のように強かった。
掴まれた手首が痛む。だがアランは抵抗できなかった。
魔法戦の余韻が、まだ肌に残っている。
服はところどころ焦げ、袖口には裂け目が走っていた。
頬には煤がこびりつき、指先には乾いた血。
髪も乱れ、夜気に晒された身体はひどく冷えている。
闇の帝王が放った《アバダ・ケダブラ》の緑の閃光が、今も網膜に焼きついて離れなかった。
あのときの幼子の泣き声。リリーの叫び。
ジェームズの、家族を庇うために立ちはだかるその姿。
――あれほどまでに理不尽な闇を、どうして世界は許しているのだろう。
屋敷の扉が閉じられた瞬間、重苦しい沈黙が落ちた。
暖炉の火がぱちぱちと弾ける音が、痛いほど鮮明に聞こえる。
レギュラスは部屋の中央まで歩き、背を向けたまま椅子に沈み込んだ。
片肘をつき、視線を天井に彷徨わせている。
その横顔に、感情はなかった。怒りなのか、悲嘆なのかも分からない。
アランはただ立ち尽くしていた。
喉の奥が焼けるように痛くて、息をするのも苦しい。
――これから、責められるのだ。
わかっている。覚悟している。
けれど、それでも言わなければならないことがあった。
「……シリウスは、無実です。」
声が震えた。
だがその言葉は、彼女の最後の矜持でもあった。
沈黙ののち、レギュラスの口から乾いた笑いが零れた。
皮肉でも嘲りでもなく、ただ虚ろな笑い。
「……初めに出てくる言葉が、それですか。」
アランは唇を噛み締めた。
胸の奥が冷えきっていく。
「無実の人に罪を着せるような真似は、やめて。」
レギュラスの視線が、静かに彼女を射抜いた。
その瞳には、氷のような光が宿っていた。
「あなた……どこまで人をコケにしてくれるつもりです?」
低い声。
抑えつけた怒りが、床を這うように響いた。
まるで一言一言が刃のようにアランの胸を切り裂く。
「責任は、どうとでも取ります。」
アランは絞り出すように言った。
「だから、シリウスを――」
「あなたに何の責任が取れるんです?」
レギュラスの声が重なり、遮った。
その声は低く、鋭く、容赦がなかった。
「闇の帝王に命を差し出しますか? それで全て解決だと?
……アルタイルはどうします。まだ一歳になったばかりの子を、どうするつもりです。」
次第にその言葉は熱を帯び、怒りと哀しみがないまぜになっていく。
アランの胸が締めつけられた。
彼が言っていることは正しい。
けれど、正しさがいつも正義とは限らない。
「私は……」
何かを言い返そうとしたが、声が途切れた。
喉が塞がり、言葉が音にならない。
レギュラスは立ち上がる。
長い影がアランを覆い、彼の影の中に飲み込まれそうになる。
燃える暖炉の光が彼の頬を照らす。怒りと疲弊が、その整った顔を歪めていた。
「あなたが見たものは“現実”です。
あなたは今日戦場にいた。ダンブルドアと並んで、僕の任務を妨げた。
その事実をどう弁明するおつもりです?」
声が冷たく突き刺さる。
アランは震える手で胸を押さえた。
「私は、あの人を……救いたかっただけ。」
その言葉に、レギュラスの眉がかすかに動いた。
一瞬だけ、沈黙が落ちる。
だがその一瞬の優しさも、すぐに怒りの波に飲み込まれた。
「……救いたかった、ですか。」
レギュラスは低く呟く。
「その“救い”が、どれだけの人を危険に晒したと思っているんです。」
アランは顔を上げられなかった。
唇が震え、視界が滲む。
暖炉の火が、ふたりの間に揺れていた。
赤い炎の中に、まるで消えかけた希望のように、光が脈打っている。
世界がゆっくりと崩れていく音がした。
燃える火の粉が、ふたりの間に散り、消えていく。
その夜、屋敷を包んだ沈黙は、永遠にも似ていた。
静まり返った屋敷の空気は、まるで重い鉛を溶かして飲み込んだようだった。
暖炉の火は小さくなり、壁に映る影が不安定に揺らいでいる。
外では風が鳴り、窓の外の月が雲に呑まれようとしていた。
レギュラスは立ち上がることもできず、ただ深く椅子に沈み込んでいた。
額に手を当て、目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、闇の帝王の顔だった。
あの冷たい蛇のような瞳、笑い声。
「裏切り者を許すことはない」という、低く凍てつく声。
今回の襲撃失敗――ポッター家の悲劇。
あの混乱の裏で、情報が漏れていた。
闇の帝王がそれを察知するのは時間の問題だ。
いや、もう気づいているだろう。
あの方の知略の前では、隠せることなど何一つない。
そして、その“漏れ”の根源が――
レギュラス・ブラックの妻、アラン・ブラックであると知られたとき。
全てが終わる。
闇の帝王の怒りは、燃え上がる業火のように、家族も家名も呑み尽くすだろう。
レギュラスはその光景を思い浮かべただけで、胃の奥が灼けるように痛んだ。
(どうすれば……どうすれば、アランを守れる。)
もはや懺悔も誓いも通用しない。
必要なのは、“取引”だ。
自分の命か、立場か、あるいは――ブラック家そのものか。
あの方に差し出せる何かを見つけなければ、彼女の命は長くない。
父・オリオンが政治的な取引で魔法界を渡っていたのとは訳が違う。
レギュラスの前にいるのは、神ではなく“死”そのものだった。
そんな思考の渦中で、足元に声が落ちた。
「……お願いです、シリウスを、救ってください。」
アランだった。
彼女は床に膝をつき、涙をこぼしながら訴えていた。
煤と血で汚れた頬が、痛々しいほどだった。
レギュラスは息を呑んだ。
胸の奥で何かが軋む。
しかし、その次の瞬間、怒りがこみ上げた。
――シリウスを、シリウスを。
何度この女の口から、あの名を聞かされただろう。
今も、未来も、全てを賭けて守らねばならない自分の立場をよそに。
彼女はまだ、あの男の名を呼ぶ。
「……少し、黙れませんか。」
その声は氷のように冷たかった。
部屋の空気が凍りつく。
アランの肩がびくりと震える。
レギュラスはゆっくりと立ち上がり、視線を落とした。
炎の反射がその瞳に揺れている。
「僕が今、何を考えているか分かりますか?」
アランは答えられなかった。
ただ、膝をついたまま、息を詰めるようにして彼を見上げている。
「この状況を、どう取り繕うか。
どう名誉を取り戻すか。どうすれば“妻が裏切り者”ではなく済むのか。
それだけを考えているんです」
レギュラスの声が、静かに、しかし刃のように鋭く響く。
「それなのに、あなたは……」
言葉を切り、拳を握る。
「シリウスを、救ってくれ、ですか。」
アランの瞳が潤んだ。
その涙が、床に一滴、落ちる音がした。
「あなたが口にするその名のたびに、僕は心を抉られている。
愛しているからこそ、許せないんです。あなたがまだ、やつを想っていることが。」
その声には、怒りだけではなく、深い絶望が滲んでいた。
アランは言葉を失う。
(愛している……? この人が、私を?)
その実感さえ、もう遠くに霞んでいた。
視線が合っても、心はまるで違う方向を向いている。
二人の間にあるのは、愛ではなく、疑念と罪悪感の深い裂け目だけ。
暖炉の火が一際大きく弾け、火の粉が舞い上がる。
その光の中で、レギュラスは顔を背けた。
「……シリウスのことは、もう口にしないでください。」
低く押し殺した声だった。
「彼を庇えば、あなたが死ぬ。」
アランの唇が震える。
それでも、彼女は呟いた。
「……それでも、救いたい。」
レギュラスの瞳が、微かに揺れた。
怒りか、悲しみか、あるいは――敗北の色。
「本当に……厄介な女だ。」
そう呟いた声が、悲鳴のように静かに響いた。
外では風が唸り、屋敷の古びた窓が軋む。
ふたりの間にあった絆は、今、確かに音を立てて崩れ始めていた。
入浴を終えた浴室には、湯気がまだ漂っていた。
鏡の前で、アランはタオルを肩に掛けながら自らの身体を見下ろす。
白い肌の随所に、紅く線を引いたような切り傷。浅いものもあれば、深くえぐれたものもある。
袖を通すたびに生地が擦れ、ピリ、と痛みが走るはずだった――けれど、不思議とそれがない。
薬が効いているのだろう、とアランは思った。
医務魔女サラから受け取った、あの琥珀色の薬液。
ほんの一口、舌の上で甘く、後から鋭く痺れる。
そのあと、身体の中の痛みが一つずつ消えていく。
まるで、痛みという感覚そのものが存在しなかったかのように。
洗面台の上には、まだガラス片が二、三、肌色に貼りついて光っていた。
指先でそれをつまみ取ろうとするが、皮膚に沈み込んでいる。
血がにじむ。けれど――痛くない。
それがむしろ、怖かった。
けれど、恐怖よりも安堵のほうが勝った。
痛みを感じないことが、こんなにも心地いいなんて。
痛みも苦しみも、悲しみさえも感じなくて済むのなら。
いっそこのまま、ずっとこの薬に身を預けてしまいたかった。
ナイトドレスを纏い、寝台の縁に腰掛ける。
薬瓶を手のひらで転がす。
「これさえあれば……」
誰に言うでもなく呟くと、迷うことなく再び蓋を開けた。
琥珀色の液体を喉に流し込む。
今夜は、二度目。
苦味とともに、世界が少しずつ淡く霞んでいく。
扉が軋む音。
振り返ると、レギュラスが入ってきた。
彼の顔には、まだ怒りと疲労の影が残っている。
「手を。」
アランは一瞬、躊躇った。
けれど逆らうこともできず、片方の腕を差し出した。
レギュラスは眉を寄せる。
「両方です。」
静かに命じる声。
アランはもう片方の腕も差し出す。
レギュラスはナイトドレスの袖をまくり上げた。
露わになった腕は、痛々しいほどに傷だらけだった。
包帯がずれ、血の滲んだ跡。
中には浅い火傷のようなものも混じっている。
「……傷だらけじゃないですか。」
レギュラスの声は低く、震えていた。
叱責なのか、心配なのか。
そのどちらにも聞こえた。
アランは唇を噛む。
言い訳の言葉が出てこない。
「体の具合はどうです。無理をしたんでしょう、どうせ。」
「平気です。」
かすれた声で答える。
本当にそう思っていた。
体が軽く、痛みもない――平気に決まっている。
けれどレギュラスは、鋭い眼差しでアランを見据えた。
「……それ、今たまたまいいだけですからね。油断しないようにしてください。」
アランは静かに頷いた。
その瞳には、どこか遠くを見ているような霞がかかっていた。
レギュラスは何か言いかけたが、口を閉ざした。
沈黙が落ちる。
二人の間を、蝋燭の灯がゆらりと照らす。
アランの呼吸は穏やかだった。
しかしその肌の下では、異様な静寂が広がっていた。
痛みも苦しみも、もう何も感じない――それがどれほど危ういことなのかを、まだ誰も知らなかった。
夜明けの空が淡く白みはじめるころ、レギュラスはふと目を覚ました。
寝台の隣ではアランが静かに眠っている。
頬はわずかに紅潮し、胸の上下は穏やかで、まるで子どものように安らかだった。
昨夜あれほど荒んでいた心が、この寝顔を見ただけで少しだけ和らいでいく。
──こんなにも穏やかに眠っている。
ようやく痛みも和らいできたのかもしれない。
そう思うと、胸の奥に温い安堵が生まれた。
まだ知らなかったのだ。
それが“快復”ではなく、薬によって鈍らされた感覚の果てであることを。
アランの髪をそっと撫でてから、レギュラスは静かに寝室を出た。
その顔には、決意と不安が交錯していた。
今日、彼は闇の帝王のもとへ出向かなければならない。
釈明のために。
いや、もはやそれだけでは済まないだろう。
どう取り繕えばいいのか――そればかりを考え続けていた。
だが、いくら頭を巡らせても、言い訳も理由も浮かばない。
あの方の怒りを鎮められる言葉など、この世に存在しないのだ。
それでも、行かなければならなかった。
命を繋ぎとめるために。
そして、アランを守るために。
闇の帝王の屋敷――。
かつては貴族の別邸であったとされるその建物は、今や空気そのものが禍々しい魔力で満ちていた。
黒ずんだ天井、ねじれた柱。
天井の隙間から垂れる黒煙のような魔力が、まるで意思を持って蠢いている。
扉を押し開くと、冷気が顔を打った。
奥の広間では、デスイーターたちが円陣を組むように立ち並び、その中心に闇の帝王がいた。
長いローブを引きずりながら、蛇のような瞳がレギュラスを見据える。
「よく来た……レギュラス・ブラック。」
その声は、柔らかく響きながらも、氷の刃のように冷たかった。
「先日は……申し訳ございませんでした。」
レギュラスはすぐに跪いた。
頭を深く垂れ、床に手をつける。
額に触れる石の冷たさが、恐怖を現実に引き戻す。
「お前ほどの部下を、私は手放したくはないのだ。」
ヴォルデモートの声が低く響いた。
それは一見、慈悲のように聞こえる。
だが、そこに温情など一欠片もないことをレギュラスは知っていた。
「光栄に存じます。」
喉が震え、声が掠れた。
「……アラン・ブラックと言ったか。」
その名が出た瞬間、心臓がひとつ跳ねた。
背筋に冷たい汗が流れる。
「は、はい。」
レギュラスは息を詰めた。
まさか、そこに話が及ぶとは思っていなかった。
しかし、それも当然だ。
闇の帝王が負傷し、作戦が失敗した――原因を探るのは当然の流れ。
その矛先が、アランに向かうことも。
「見てのとおり、吾輩は傷を負ってしまった。」
ヴォルデモートは指先で、自らの袖口をわずかに捲る。
蒼白の肌に焦げ跡のような黒い筋が走っていた。
それは呪詛返しによる損傷――リリーポッターがかけた愛の守護魔法の痕だ。
「……手となり、足となり動きましょう。」
レギュラスは言葉を選びながら頭を下げる。
「いや、お前はもう十分に働いている。」
ヴォルデモートの声は甘く、そして残酷だった。
「私が欲しいのは……そうではない。」
レギュラスは顔を上げられなかった。
息をするたび、肺が痛む。
その一瞬の沈黙のあと、ヴォルデモートが静かに続けた。
「お前の妻――アラン・ブラック。
彼女の“忠誠”を、この手で確かめねばならない。」
レギュラスの喉が詰まる。
その意図を問うまでもない。
“忠誠の証”という名のもとに、彼女を差し出せということだ。
「まさか……」
声が震えた。
「簡単なことだ、レギュラス。」
ヴォルデモートの瞳が細くなる。
「妻を連れて来い。
そして私の前で、彼女が“お前を裏切っていない”ことを示せ。
もし、それが証明されぬなら――」
言葉は最後まで続かなかった。
代わりに、指先がゆるりと宙を描く。
その動作だけで、空気が凍りつく。
レギュラスは咄嗟に頭を垂れた。
心臓が荒く脈打つ。
この場での反論は死を意味する。
それでも――アランを差し出すなど、考えることさえできなかった。
(どうすれば……どうすれば、守れる。)
闇の帝王の影が、ゆっくりとレギュラスの背に伸びていく。
その闇は、彼の忠誠と愛、そして理性を、少しずつ飲み込んでいった。
闇の帝王の館は、沈黙そのものが息をしているかのようだった。
黒曜石のように冷たく艶めく床が蝋燭の光を歪め、壁にはゆらめく影が生き物のように蠢いている。
その中心に立つのは、ヴォルデモート。
薄い唇が歪んだ笑みを形づくり、その眼差しは氷の刃にも似ていた。
その前に、アランがいた。
レギュラスに手を引かれ、震える足取りで進み出る。
床の黒が彼女のドレスの裾を飲み込み、まるで奈落の淵に引きずられていくようだった。
レギュラスの掌は冷たく、しかし離せば彼女が崩れ落ちそうなほどに固く握られていた。
一歩ごとに、その指先がわずかに震える。
何をどう“忠誠”として示せば、この場を無事に終えられるのか。
それがわからない。
「アラン・ブラック――お前があのリシェル・ブラウンの娘だそうだな。」
その名が出た瞬間、場の空気が凍りついた。
母の名。それはこの魔法界において決して口にしてはならぬ血脈の烙印。
アランの背筋が凍りつく。
レギュラスがそっと促すように視線を送る。
彼女はわずかに頷き、静かに膝をついた。
硬い石床に両手をつき、頭を垂れる。
「……よく参った。」
ヴォルデモートの声は甘く響いたが、その底には深い冷たさが潜んでいた。
「アラン・ブラックよ。お前は夫を――ひいては我が軍勢を裏切らぬことを、ここで誓えるか?」
その問いに、アランは息を詰めた。
胸の奥にある鼓動がやけに大きく響く。
答えようとしても、声が出ない。
レギュラスは一瞬、焦りを隠せなかった。
(なぜ黙る……。なぜ今、何も言えない……。)
頭を下げたまま、アランの肩が小さく震えている。
「申し訳ありません、我が君。妻は緊張しております。」
レギュラスは慌てて頭を下げ、必死に取り繕う。
だが、ヴォルデモートの瞳は細まり、蛇のような冷笑を浮かべた。
「どうだ、アラン・ブラック。誓えぬのか?」
空気がひときわ重くなる。
魔力が空間を圧し潰し、肺がきしむほどの圧迫感にアランの肩が沈む。
その威圧に耐え切れず、アランは小さく頷いた。
「……誓います。」
その声は風に消えるほどにかすかで、泣き出しそうなほど弱々しかった。
だが、その一言にヴォルデモートは満足げに笑みを浮かべた。
「良いだろう。」
そして、ゆるやかに手を上げる。
黒い杖の先が、ゆらりとアランの胸元に向けられた。
冷気が空間を走る。
「だが――口だけの忠誠に、意味はない。」
ヴォルデモートの声が低く響く。
「レギュラス。お前の妻の忠誠を、“行動”で示してもらおう。」
「……行動、でございますか。」
喉が震え、声が掠れた。
「そうだ。」
闇の帝王はゆるりと手を振り、背後に控えていたひとりの男を前に出させた。
捕えられたマグル――恐怖に震える初老の男だった。
顔には泥と血がこびりつき、縄で縛られた手が震えている。
「この男は、マグルだ。」
ヴォルデモートの声が広間に冷たく響く。
「我らが純血の理想を汚す存在。お前が真に忠誠を誓うのなら――その杖で、この男を殺せ。」
レギュラスの息が止まった。
隣で、アランの肩が硬直する。
「……我が君、それは……」
思わず言葉が漏れる。
「妻の忠誠を、夫の口で代弁する必要はない。」
ヴォルデモートの声が鋭く切り裂いた。
視線がアランに戻る。
その瞳は、蛇が獲物を見据えるような冷たい光を放っていた。
「アラン・ブラック。誓いの証を立てよ。
その手で、この無価値なマグルを葬るのだ。」
アランの手が震える。
杖を握る指先に、血が引いて白くなっていく。
足元の石が冷たく、凍りつくようだった。
レギュラスは見ていられなかった。
けれど止めることもできなかった。
止めれば、次に命を奪われるのは彼女自身だ。
「……アラン。」
掠れた声で名を呼ぶ。
アランはゆっくりと顔を上げた。
涙で濡れた翡翠の瞳が、彼を見た。
――助けて、と言っているようだった。
けれどレギュラスは、ただ静かに首を振るしかできなかった。
声にならぬ悲鳴が、胸の奥で燃え上がる。
ヴォルデモートは冷笑を浮かべ、囁く。
「さあ――お前の“忠誠”を、私に見せてみせよ。」
広間の蝋燭が、ひときわ大きく燃え上がった。
アランの震える指先が、杖をゆるやかに持ち上げる。
その先には、怯えたマグルの男。
そしてその向こうには、地獄のような沈黙を見つめるレギュラスの灰色の瞳があった。
闇の広間には、どこまでも深い静寂が落ちていた。
燭台の炎が細く揺れ、石壁に映る影がゆらりと踊る。
焦げた鉄と血の匂いが鼻を刺し、空気は重く淀んでいた。
その中心で、アランは立ち尽くしていた。
目の前に突き出されたのは、縄で縛られ、震えながらうずくまるマグルの男。
年老いたその顔は怯えと痛みに歪み、唇がわずかに震えている。
何も知らずに巻き込まれ、ただ「そこにいた」というだけの理由で命を差し出さねばならぬ哀れな存在。
ヴォルデモートの声が、冷たい刃となって空気を裂いた。
「さあ――やれ。」
アランの指先がかすかに震えた。
杖を握る手は汗で濡れ、血が通わぬほどに冷たくなっていた。
唇が乾く。喉の奥が焼けるように痛い。
──出来るわけがない。
目の前のこの男が、どんな過去を持ち、どんな家族を残しているのかなど知らない。
それでも確信できた。
この人もまた、誰かの大切な存在であるということを。
屋敷で待つアルタイルを思い浮かべる。
あの小さな手、笑顔、体温。
そのどれもが命の輝きそのものだ。
きっと、この男も誰かにとっては同じように――かけがえのない存在だったはずだ。
それを奪うことなど、自分には出来ない。
命の価値を秤にかける権利など、誰にもない。
魔法使いだろうと、闇の帝王だろうと。
アランの瞳から、静かに涙が零れ落ちた。
(この人たちは、神にでもなったつもりなの?)
唇を噛みしめる。
この軍団に夫が属しているのだと思うと、全身を寒気が走った。
レギュラス――。
あの人も、この手で誰かを殺めたのだろうか。
その手でアルタイルを抱き、自分を愛すると囁いてきたのだろうか。
胸が痛くて、呼吸ができなかった。
「どうした。できぬのか?」
ヴォルデモートの声が、冷ややかに響く。
アランは目を閉じ、深く息を吸い込む。
震える手が、ゆっくりと杖を下ろした。
「……できません。」
その瞬間、広間の空気が鋭く切り裂かれた。
「アラン!」
レギュラスの叫びが響く。
その声には焦燥と恐怖が滲んでいた。
だがアランの耳には、もう何も届かなかった。
ヴォルデモートは静かに笑った。
「そうか……それは残念だ。」
その言葉の後、杖の先がわずかに揺れる。
「ロドリゴ。」
呼ばれた名に、黒衣のデスイーターが一歩前に出る。
「はい、我が君。」
「アラン・ブラックを――地下へ。」
その一言が落ちた瞬間、空気が凍りついた。
デスイーターたちの誰もが、その意味を知っていた。
“地下”――それは、生きて戻れぬ場所。
拷問と死が待つ場所だった。
アランの手から杖が滑り落ちる。
石床にあたって乾いた音を立てた。
「お待ちください、我が君!」
レギュラスの声が震えた。
それは懇願というより、もはや悲鳴に近かった。
「レギュラス、やめろ!」
ルシウスが叫ぶ。
「やめるんだ、レギュラス!」
セブルスの低い声が重なる。
それでもレギュラスは止まらなかった。
彼の声が、背後で必死に響いている。
何を言っているのかは分からない。
けれど、それが“自分を救おうとしている”のだとだけは感じ取れた。
──ああ、なんて皮肉なのだろう。
愛してくれた人に、最後は見送られて終わるのか。
アランの視界が滲む。
連れて行かれる先で、どんな苦痛が待っているのかは分かっていた。
けれど、不思議なことに恐怖はなかった。
あまりにも現実離れしていて、自分の身に起こっていることとは思えなかったのだ。
ただ、最後にひとつだけ願った。
どうか、アルタイルだけは――闇に飲まれませんように。
その祈りだけを胸に、アランは静かに連れ去られていった。
残されたレギュラスの叫びが、冷たい石壁に何度も反響していた。
