3章
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やがて、ポッター夫妻とその子を狙う作戦が立てられた。
しかし、どうやら騎士団側も予言を掴んでいるようだった。
ポッター家は忽然と姿を消し、どこかに雲隠れしたらしい。
一歩遅かった――そう言うべきか。
だが、逃げ切れると思うな。
闇の帝王の眼は、この世のどこまでも届くのだから。
レギュラスは、冷たい笑みを浮かべた。
捕獲網の中心に、小さな光が蠢いている。
それを捉えるのは、もはや時間の問題だ。
闇は、光を愛する者を逃がしはしない。
いずれ、ポッターの血も、あの生まれたばかりの子も、
この世界の理に飲み込まれる。
――蜘蛛の巣にかかった獲物を、ただ待つように。
レギュラスは静かに眼を閉じた。
己の中で燃え上がる憎悪と興奮が、ゆっくりと冷たい愉悦に変わっていく。
闇の焔が揺らめく中、
その影の中にいる若きブラック家の当主は、
自らの中で新しい“正義”を作り上げていった。
アランはその朝、珍しく体のだるさがいくぶん軽かった。
窓の外に射し込む光が、春先のやわらかさを帯びている。
アルタイルの頬に当たるその光が、金色の繭のように見えて、
――今日は外へ出よう、と思い立った。
屋敷に籠もる日々が続けば、息が詰まってしまう。
この屋敷はあまりにも「闇」を抱えすぎていた。
壁に染みついた古い呪文の残り香も、静けさを守るために仕込まれた結界の音も、
すべてが息苦しいほど重たかった。
アルタイルをこの闇に慣れさせてはいけない。
まだ柔らかい心に、光の世界を教えてやらねば――。
そう思い、アランは慎重に外套を羽織り、
アルタイルを胸に抱いて屋敷の門をくぐった。
街に出ると、空気が一変した。
石畳を行き交う人々の足音。
露店から漂う焼き菓子の匂い。
笑い声、呼び声、鳥のさえずり――
どれもが、屋敷では感じられない生命のざわめきだった。
アランは息を吸い込んだ。
少しだけ胸が軽くなる。
抱いたアルタイルの髪を撫でながら、
「ほら、風が気持ちいいね」と小さく呟いた。
しかし、穏やかな街のざわめきの中に、ふと不穏な言葉が混じる。
通りすがりの人々の会話が、風に乗って耳に届いた。
「ポッター家の子が、あの“予言の子”なんですって」
「闇の帝王が狙っているらしいわ」
「一家ごと姿を消したんですって。どこかに隠れているとか――」
一瞬で、胸の奥が冷たくなった。
ジェームズ・ポッター。
――あの名を耳にした瞬間、シリウスの顔が脳裏に浮かんだ。
彼の唯一無二の親友。
ホグワーツの頃、二人は常に肩を並べ、
笑い合い、悪戯を仕掛け、世界を恐れずに生きていた。
陽と影のように、いつも並んでいた。
そんなジェームズの子が、“予言の子”。
もしそれが真実なら、シリウスは――
あの人は、命を懸けてでも彼らを守るだろう。
「シリウス……」
その名を唇の裏で転がした瞬間、
胸の奥がざわりと波立った。
彼に、何かあってはならない。
彼は自分の光だった。
世界が崩れても、唯一の希望として生きる理由であり続けた人。
アルタイルを見下ろす。
その小さな瞳の奥に、父と同じ銀の光が宿っている。
アランの喉が詰まった。
――この子の本当の父を、どうか、奪わないでほしい。
胸の奥で、誰にも聞かれぬ祈りを捧げる。
シリウスがこの世界のどこかで、まだ生きているのなら。
たとえ手が届かなくても、幸せであってほしい。
そしてどうか、闇に囚われないでほしい。
風が吹いた。
街のざわめきの中に、遠く鐘の音が混じる。
アランはアルタイルを抱き寄せると、
その温もりに確かな命を感じた。
――私が守らなければ。
この子を。
そして、彼が残した光を。
その決意を胸に、アランはゆっくりと歩き出した。
夕陽が傾き、影が長く伸びていく。
その影の向こうで、まだ知らぬ運命が静かに動き始めていることを、
彼女はまだ知らなかった。
夜の帳が落ちたブラック家の屋敷。
書斎の扉が静かに閉まる音が響いた。
分厚い絨毯に沈む足音と、揺らめく蝋燭の灯。
重厚な机の上には、地図と数枚の書簡、そしていくつもの印が記された巻物が広げられている。
その部屋には、レギュラスともう一人の影がいた。
灰色の外套を纏い、黒い仮面を外したデスイーターのひとり――
アドリアン・モークロフト。
魔法省闇祓い課出身という経歴を持つ男で、闇の帝王に忠誠を誓ってからは、
情報と潜入の両面で暗躍してきた人物だった。
「……ポッター夫妻の居場所はいまだ掴めません。」
アドリアンは報告書を机の上に置き、眉をひそめた。
「人員を分散させましたが、成果はなし。痕跡さえ残していません。」
レギュラスは椅子に深く腰を下ろし、指先で唇をなぞる。
その動作は、思考の渦に沈む彼特有の癖だった。
机上に置かれた地図には、魔法界とマグル界を繋ぐ複数の通路が赤い線で引かれている。
ポッター家が姿を消したとされる日を中心に、動線を何度もなぞっては印を付けていた。
「……彼らを匿っている人間がいるはずです。」
レギュラスは低く呟いた。
「しかも、並の魔法使いではない。強力な防護呪文が張られているようです。
おそらく二重、いや三重結界……時間をかけても突破できないほどの。」
「番人、ということですか?」とアドリアン。
「ええ。」
レギュラスの灰色の瞳が細められる。
「その番人を排除しなければ、我々は一歩も先に進めません。」
沈黙が落ちる。
蝋燭の炎が揺れ、レギュラスの影が壁に伸びた。
やがて、彼は一枚の古びた羊皮紙を指先で弾く。
「……シリウス・ブラック。名前に覚えはありますか?」
アドリアンが目を見開いた。
「まさか……あの反逆者が?」
「そうです。」
レギュラスは微かに笑った。
その笑みには、兄への感情が複雑に絡み合っていた。
「ホグワーツ時代、ジェームズ・ポッターと兄は常に共に行動していました。
二人は同じ理想を掲げ、同じ愚かさを共有しています。彼らが築く絆は、我々の常識では測れないほど強固なものです。」
アドリアンは息をのむ。
「つまり、兄上が……ポッター家を守っていると?」
「その可能性が高い。」
レギュラスは立ち上がり、地図を指でなぞる。
「兄は家を捨て、名を捨てた。
だが、友情だけは捨てられなかったのです。
彼ならば、ジェームズとリリーを守るために己の命を差し出すでしょう。」
室内の空気がひんやりと冷たくなる。
レギュラスの声には、怒りとも哀しみともつかぬ感情が混じっていた。
「愚かです。純血の名を穢し、闇に背を向けた兄が、
今度は光を守る側に立っている。滑稽なことだとは思いませんか?」
アドリアンは慎重に頷いた。
「では、その線で動くと。」
レギュラスは手を組み、深く息を吐いた。
「ええ。兄が番人であるなら、いずれ尻尾を出すはず。
魔法の痕跡を辿れば、結界の一端が見えるでしょう。
あとは……そこから糸を引く。」
「了解しました。探りを入れてみましょう。」
アドリアンが立ち上がり、一礼して部屋を出ていく。
扉が閉じると、静寂が戻った。
燭台の火が、静かに揺らめく。
炎の影が壁に踊り、まるで兄の笑う幻影のように見えた。
レギュラスは目を閉じ、呟く。
「あなたを、もう一度――この手で終わらせねばならない。」
彼の中で、静かな決意が黒く燃え始めていた。
屋敷の夜は、ひどく長い。
壁にかけられた時計の針が、静かに時を刻むたびに、アランの胸の奥に沈む不安も音を立てて膨らんでいく。
今宵もまた、書斎の扉の向こうから低い声が漏れていた。
レギュラスの声――そして、聞き覚えのない男の声。
アランは廊下の影に身を潜め、心臓が軋むのを必死に抑えた。
書斎の扉の隙間から、ちらりと光が洩れている。
蝋燭の灯が、床に伸びた影を揺らしていた。
「……彼らを匿っている人間は、おそらく相当の腕の持ち主です。」
レギュラスの声が、冷静に響く。
「例えば、シリウス・ブラックとかですね。」
――その名が出た瞬間、アランの呼吸が止まった。
頭の中が真っ白になる。
鼓動の音だけが耳の奥に反響する。
一つ扉を隔てた向こう側で交わされている会話は、あまりにも冷ややかで――
そこに“人”の温度はなかった。
レギュラスが……シリウスを、殺そうとしている。
喉が焼けるように乾く。
足元がふらりと揺れた。
その場に膝から崩れ落ちそうになるのを、壁に手をついて堪える。
指先が震えた。
どうして、そんなことが言えるの。
あの優しかったレギュラスが――。
「では、その線で動きますか?」
「ええ。その番人を突き止めねばなりません。」
会話が終わりに近づいているのを察したアランは、慌てて立ち上がった。
深呼吸をして、震える手を押さえる。
このままでは“聞いていた”と悟られてしまう。
足音を殺し、食卓へ向かう。
杖を手に取り、無言の呪文を唱える。
瞬時にティーカップとティーポットが宙に浮かび、銀の盆の上に整然と並んだ。
静寂の中で立てた音一つも許されない。
使用人として過ごした頃に身についた癖が、いま命を救っている気がした。
階段を降りてくる足音が聞こえた。
二人――レギュラスと、あの部下らしき男。
アランは笑顔を作り、震える声を必死に抑えて言葉を紡ぐ。
「もうお帰りですか?」
あくまで、たった今お茶を運ぼうと思っていたという“演技”で。
レギュラスが少し目を丸くする。
「アラン、起きていたのですか。」
「お客様がいらしていると気づかず、遅くなりました。失礼いたしました。」
完璧な口調で。
しかし手のひらの中では、カップを乗せた銀盆が微かに震えていた。
「気にしなくて構いません。先に休んでいてください。」
レギュラスは穏やかに言い、アランの肩に視線を落とした。
その表情の柔らかさが、かえって恐ろしい。
つい先ほどまで兄を殺す話をしていたその口が、今こうして“優しい夫”として微笑んでいる。
それが――何よりも、恐ろしかった。
「奥方ですか?」と、デスイーターの男が問う。
「ええ。」とレギュラスが答える。
「お噂通り、麗しいお方だ。」
アドリアンの口元が歪むように笑う。
レギュラスは満足げに口角を上げた。
「そう言っていただけるとは光栄です。」
アランはその瞬間、もう一度心臓を締め付けられるような感覚に襲われた。
その笑み――あまりにも自然で、あまりにも冷たい。
まるで人の皮を被った“別の何か”のようだった。
ティーカップを静かに片付けながら、アランは微笑みの裏にある“本心”を見ないふりをした。
恐怖は声を奪い、心の奥を冷たく満たしていく。
この人を、信じていいのだろうか。
アルタイルを、守れるのだろうか。
夜風が窓を鳴らした。
その音が、まるで遠い誰かの警鐘のように響いた。
デスイーターを見送ったあと、屋敷の廊下には静寂だけが残った。
扉が閉まる音が、やけに冷たく響く。
アランは寝室のベッドの中で、息を潜めていた。
寝息を偽るほどの余裕はもうない。
頭の中では、さっきまで書斎で交わされていた会話が何度も何度も反響していた。
――「シリウス・ブラックを排除する。」
その一言が胸に刺さったまま抜けない。
息を吸うたびに、喉の奥が焼けるように痛い。
心臓が早鐘のように鳴って、呼吸が浅くなる。
やがて、足音。
聞き慣れた、あの人の足音。
レギュラスが戻ってきた。
扉が開き、ランプの柔らかな光が室内に差し込む。
彼は静かに上着を脱ぎ、ベッドの片側に滑り込んだ。
シーツがわずかに沈み、冷えた空気が揺れる。
次の瞬間、腕がアランの体を包み込んだ。
「アラン……気を遣わせてしまって、すみません。」
低く優しい声だった。
その声だけを聞いていれば、何もかも夢のように優しい人に思える。
けれど――もう信じられなかった。
「いえ……」
掠れるような声でそう答えるのがやっとだった。
その手が、背を撫でる。
いつもと同じ仕草。
けれど、今は違う。
優しさのはずの指先が、肌に触れるたびに恐怖が走る。
――その手が、いずれシリウスを殺す。
愛した人を、あの人を、この手で。
耐え難い思いが胸を焼いた。
息が詰まるほどの憎しみと悲しみが入り混じる。
どうして、よりによってこの人なの。
どうして、誰も止められないの。
守られているのは自分だ。
アルタイルの命も、この屋敷も、父の安寧も、彼の庇護があるからこそ保たれている。
恩を受けているのはわかっている。
彼を拒む資格など、自分にはない。
それでも――許せなかった。
愛と殺意を同じ胸に抱いて眠る男を、もう信じられなかった。
「アラン。」
彼が小さく名を呼ぶ。
その声が、心の底まで震わせる。
レギュラスの手が顎を持ち上げ、顔の向きを変えた。
気づけば向かい合っていた。
灰色の瞳と翡翠の瞳が、静かに交わる。
そのまま、唇が重なった。
――泣きたくなった。
唇の熱が心に沁みて、胸の奥で音もなく涙が溢れた。
このまま、また流れるように始まってしまう。
いつものように。
求められたら応えるのが自分の役目。
それが愛だと信じていた。
誠意だと思い込んでいた。
けれど今は違う。
もう何も差し出したくなかった。
この腕の中で、これ以上、何かを失いたくなかった。
レギュラスの指が頬をなぞる。
その優しさが、刃物のように痛い。
彼は知らない――この胸の奥に、どれほどの恐怖と葛藤が渦巻いているのかを。
アランは瞼を閉じた。
心の奥で叫びながら、唇を閉ざした。
――どうか、今夜だけは。
何も感じないふりをさせて。
ベッドの上で、二人の影が絡み合う。
その静寂の中に、愛と恐怖がゆっくりと溶けていった。
夜明け前、冷たい霧が屋敷を包み込んでいた。
ロズィエ家から取り寄せた香油の匂いが、産室にかすかに残っている。
産声が上がったのは、夜が完全に明けきる少し前――
空に薄い光が滲みはじめた時だった。
女児だった。
その知らせは、屋敷中に重たい沈黙を落とした。
誰も口には出さなかったが、落胆の色は隠しきれなかった。
召使いたちは視線を交わすことさえ恐れ、足音を忍ばせて立ち働いている。
ベッドの上で、カサンドラ・ブラックは汗に濡れた髪を額に貼りつけたまま、
小さな命を腕の中に受け取った。
赤子は小鳥のような声で泣き続けている。
その泣き声が、あまりにも澄んでいて、あまりにも美しかった。
それなのに――涙が止まらなかった。
(負けたのだわ)
その言葉が、胸の奥に重たく沈んだ。
アラン・ブラック。
あの女は、また勝った。
正妻である自分を差し置いて、彼の心を掴んで離さない。
自分がどれほど努力しても、どれほど血を誇っても。
彼の視線の先には、いつもあの女がいた。
今も――来てくれない。
アランの出産のとき、レギュラスはあの部屋の扉の前で何時間も座り込み、
中の悲鳴に耳を塞ぎながら、涙をこらえていた。
けれど、今は違う。
自分が命を懸けて産んだというのに、その足音はどこにもない。
カサンドラは泣きながら、傍らに寝かされた娘を見つめた。
柔らかな頬、まだ赤い小さな唇。
愛らしい。愛おしい。
けれど――この子は、望まれて生まれてきたのだろうか。
この家で、母と同じように冷たい視線を受けるのではないか。
扉が静かに開いた。
ヴァルブルガが入ってくる。
黒い喪服のようなローブに身を包み、手には銀の杖を携えていた。
顔には微笑が浮かんでいる。だが、それは温もりのない微笑だった。
「……体を起こしては駄目よ。」
立ち上がろうとするカサンドラを制するように、ヴァルブルガは近づき、
ベッド脇の椅子に腰を下ろした。
「よく頑張ったわ。」
その言葉は優しかった。
けれど、その優しさが、今の彼女には痛かった。
「申し訳ございません、奥様……」
嗚咽がこみ上げてくる。
ヴァルブルガは首を振る。
「チャンスはまだあるわ。」
それ以上、何も言わなかった。
だが、その一言に全てが込められていた。
この子が女であること。
それが、どれほど“損失”であるか。
その事実を誰よりもカサンドラ自身が理解していた。
ヴァルブルガが去った後、部屋は静まり返った。
乳母が赤子をあやし、淡い子守唄を口ずさむ。
カサンドラは枕の上で拳を握った。
手のひらが爪で痛む。
(もう一度……彼に抱かれなければならないのね)
そう思った瞬間、胸が締めつけられるように苦しかった。
あの人の瞳は、もう自分を見ていない。
アラン・ブラック――ただひとりの女を、あの人は永遠に手放さないだろう。
産室の窓の外では、夜明けの光がようやく空を照らし始めていた。
その柔らかな光の中で、カサンドラの娘が小さく指を動かす。
泣き止み、穏やかな寝息を立てるその姿は、まるで希望そのもののようだった。
けれど――その希望を抱きしめる腕の中で、
カサンドラの涙は、まだ止まらなかった。
夜の帳が静かに降りていた。
屋敷の廊下には、いつもなら聞こえる給仕たちの足音さえもなく、
しんとした冷気がただ漂っているだけだった。
その冷たさの中を、レギュラスは一人歩いていた。
胸の奥には、言葉にならない重苦しさが広がっていた。
落胆するべきなのか、それとも安堵すべきなのか――。
カサンドラが産んだのは女児だと聞いたとき、
胸に浮かんだのは、安堵と痛みの入り混じった奇妙な感情だった。
(この子が女児であったことが、アランとアルタイルを守ることになるのか……)
もし男児であったなら、アルタイルの未来は奪われていたかもしれない。
けれど女児である以上、カサンドラは再び子を望まれるだろう。
そうなれば、アランへの憎悪はさらに深まる。
そしてまた、あの“毒”の悲劇が繰り返されるかもしれない。
今のアランの体は、もうあのときのまま――完全には戻っていないのだから。
医務魔女の言葉が胸に刺さるように蘇る。
「快復の見込みは薄いでしょう」
扉の前で立ち止まり、軽くノックをする。
中から、かすかな声が返ってきた。
「お入りください。」
レギュラスは深く息を吸い、扉を開けた。
部屋には柔らかな灯がともり、
淡いベージュのカーテンが夜風にわずかに揺れている。
その中央に、カサンドラがいた。
枕元には生まれたばかりの赤子が、静かに寝息を立てている。
頬は薔薇のように紅く、まだこの世の何も知らない無垢な表情だった。
「……遅くなって、すみません。」
レギュラスが静かに言うと、カサンドラは上体を少し起こし、
枕元に背を預けながら微笑んだ。
「お忙しいのに、わざわざ……申し訳ございません。」
「謝らないでください。」
彼は首を振る。
「赤子が、不憫です。」
その言葉に、カサンドラの瞳が一瞬揺れた。
生まれてきた子には、何の罪もない。
男であろうと女であろうと――この世に望まれて生まれてきたはずの命だ。
それだけは、誰にも踏みにじらせてはいけない。
レギュラスはベッドの端に腰を下ろし、
静かにカサンドラの手の上に自分の手を重ねた。
指先が触れた瞬間、カサンドラは驚いたように目を上げた。
その瞳を真っ直ぐに見つめながら、
レギュラスはしばし言葉を選ぶように沈黙した。
この話をすべきではない――そう思いながらも、
言わなければならないと思った。
アランを守るために。
「……アラン・ブラックは、出産時に毒物を摂っていたようなんです。」
その言葉が、重たく部屋に落ちた。
一瞬、空気が止まる。
カサンドラの瞳が大きく見開かれる。
唇が震え、言葉を探しているようだった。
レギュラスは続けた。
「長く体調が戻らなかったのは、その影響だと医務魔女が言っていました。」
淡々と告げながらも、声が震えていた。
目の前の妻が、心のどこかで何かを知っている――そう感じていた。
それでも問い詰めることはしなかった。
誰が毒を混ぜたのか、その追及をするつもりはない。
「毒を混ぜた者を、これ以上追うつもりはありません。」
沈黙が降りる。
しばしの間、赤子の寝息だけが部屋を満たしていた。
やがて、カサンドラが小さく問う。
「それを……なぜ、私に?」
レギュラスは目を伏せ、深く息を吐いた。
「脅したいわけではありません。」
「ただ――お願いなのです。」
その声は、懇願のように掠れていた。
「アランを……攻撃しないでください。
もう、あの人の体は持たない。
誰よりも脆く、何の後ろ盾もなく生きている人です。
母にはきっと、話しても通じません。
だから……あなたにしか頼めないのです。」
彼はカサンドラの手をもう一度握り、力を込めた。
その指の温もりに、彼女はただ黙っていた。
どれほどの思惑が胸の中にあるのか、レギュラスには読めない。
けれど――彼は信じたかった。
この夜の言葉が、少しでも誰かを救うきっかけになることを。
静まり返った部屋で、
赤子が小さく寝返りを打った。
その音に、二人はふと目を向ける。
新しい命は、何も知らずに夢の中で呼吸をしている。
レギュラスはその姿を見つめながら、
心の奥で、そっと呟いた。
――どうか、誰もこれ以上、傷つかないでくれ。
屋敷の窓の外は薄曇りで、光の色まで鈍っていた。
空の灰色がそのまま心に降り積もるような、そんな日だった。
アランは寝台に身を横たえたまま、胸の上で組んだ手を見つめていた。
動かなければ。
そう思えば思うほど、体は鉛のように重たく、どこもかしこも軋んで悲鳴を上げた。
息を吸うたび、肋骨の奥に鈍い痛みが走る。
それでも――行かなくてはならない。
レギュラスは、ポッター夫妻を狙っている。
その夫妻を守る「番人」は、きっとシリウス。
彼の行動の裏を読むように、レギュラスは冷徹に動いている。
このままではシリウスは殺される。
(会わなければ……どうにかして、警告を伝えなければ……)
思考ははっきりしているのに、体だけが動かない。
呪縛のように重たい自分の肉体が、これほどまでに憎らしいと思ったことはない。
焦りが喉を詰まらせ、涙がにじんだ。
アランは枕元の鈴を鳴らした。
ほどなくして、扉の向こうから足音が近づく。
医務魔女のサラ・モーリンが、薬瓶の入ったトレイを抱えて入ってきた。
痩せた肩と、薄紫のローブ。忠実だが、融通はきかない。
「お呼びでしょうか、奥様。」
アランは上体を起こしながら、荒い息を整えた。
「……あなたに、お願いがあるの。」
「何なりと。」
アランは、唇を噛んでから言った。
「“モルティフィカス・ドラウト”という薬を知っている?」
その名を聞いた瞬間、サラの顔が強張った。
「奥様……それは……」
アランはかすかに笑う。
「ええ、知ってるわ。兵士たちが、戦場に戻る前に使っていたという薬。
体の痛みも、重さも、一時的に全部奪ってくれるんでしょう?」
サラは動揺を隠せなかった。
「奥様、本来その薬は、瀕死の兵を一時的に立たせるためのものです。
痛みを“癒す”のではなく、“感じなくさせる”だけ。
筋肉や神経への負担は計り知れません。心臓が耐えきれずに止まる例もあるのです。」
アランはその言葉を聞きながらも、もう心は決まっていた。
「分かっているわ。」
彼女は静かに言い、サラの手を取った。
「でも、お願い。今の体では……何もできないの。」
「出せません。お考え直しください。」
サラの声が震えた。
忠誠と良心のはざまで揺れている。
アランはゆっくりと寝台の隅にある小箱を開いた。
中には、レギュラスから贈られた宝石がいくつも並んでいた。
月光を閉じ込めたようなダイヤ、深海のように澄んだサファイア。
その一つひとつが、彼からの愛の証であり――今は、罪の道具だった。
「これを……」
アランはサラの掌に宝石を握らせた。
光が、彼女の細い指の隙間からこぼれる。
「奥様……何をなさるおつもりですか。」
「あなたしか頼れないの。お願いします。」
声は震えていた。
懇願というより、祈りに近かった。
サラはしばらくの間、アランの瞳を見つめていた。
その翡翠の瞳には、決意と絶望が同居していた。
やがてサラは、ゆっくりと頷く。
「……奥様、このことは、決して口外なさいませんように。」
「ええ、約束する。」
サラは宝石を袖の中に忍ばせ、深く息を吐いた。
その吐息が、部屋の冷たい空気に溶けて消える。
アランの胸に、かすかな安堵が広がった。
ほんの一時でも、この体を動かせるなら。
レギュラスの目をかいくぐり、シリウスのもとへ行けるなら。
命を削ることになっても構わない。
その思いだけが、弱り切った心を支えていた。
夜の窓の向こうでは、雲の切れ間から一瞬だけ月が顔を出した。
それはまるで、誰かが遠くで見守っているような光だった。
神秘部の奥――そこはいつ来ても、空気が重く澱んでいる。
石造りの壁は黒曜石のように冷たく、歩くたびに靴音が深く響く。
この場所には、光というものが存在していないのかもしれない。
蝋燭の明かりでさえ、まるで闇に吸い込まれるように、輪郭を曖昧にしていた。
その最深部にある監視室。
魔法省が秘匿している呪文監視台――「杖の記録庫」。
そこでは、登録されたすべての魔法使いの杖の履歴が、無機質な水晶盤に記録され続けている。
杖が放った呪文の痕跡、魔力の強度、日付、座標――
一つひとつが淡い青光を帯びて、水面のようにゆらめいていた。
レギュラスはその前に立ち、腕を組んでいた。
目の前の盤面には「Sirius Black」と記された杖の記録が浮かんでいる。
細かい数字が流れていき、魔力波形が時間の経過とともに現れては消えていく。
だが、そこに“あるはずのもの”がない。
「……なぜだ。」
低く吐き出した声が、静かな部屋に反響する。
この数週間、彼は執拗に兄の杖の軌跡を追っていた。
ポッター夫妻を守るために使われているであろう結界呪文――
《プロテゴ・マキシマ》や《フィデリウス》の痕跡を探すために。
しかし、どの記録にもそれらしい痕跡はない。
杖は確かに活動している。
簡単な照明呪文、短距離転移、守護霊の召喚――だがそれだけだった。
結界の魔力は確かに感じられる。
それも、上級者が構築した強固なものだ。
空気の粒が微かに弾かれるような、あの独特の“抵抗”が確かにある。
にもかかわらず、杖の記録に一切の痕跡がない。
レギュラスは眉間を押さえた。
頭が割れそうだった。
「おかしい……この推理は正しいはずなんだ。」
指先が水晶盤の表面をなぞる。
兄の名が揺らぎ、波紋のように広がる。
その背後で、魔法省の時計塔が、乾いた音をひとつ鳴らした。
時だけが過ぎていく。
ジェームズ・ポッター夫妻はいまだ行方をくらましたまま。
闇の帝王は苛立ちを募らせ、次々と部下を罰している。
レギュラス自身も、そろそろ疑念の目を向けられる頃だった。
(焦るな……冷静に考えろ。兄は保護呪文を唱えていない――ならば、代わりに誰が?)
その可能性を考えた瞬間、冷たい予感が背筋を這い上がる。
もしシリウスではないとしたら。
もし、ポッター夫妻を匿っている番人が別の者だとしたら。
「……いや、ありえない。」
レギュラスは頭を振る。
それでも胸の奥で、疑念がしつこく囁き続けた。
――兄ではない。誰か別の者が、あの家を隠している。
水晶盤の光が、彼の瞳に反射して滲む。
深夜の静けさの中で、レギュラスはひとり呟いた。
「頼む……間違っていてくれ。」
その声は、ほとんど祈りのようだった。
だが神秘部の奥深くでは、祈りなど届くはずもない。
あるのはただ、冷たい記録と、沈黙だけだった。
薬瓶の中の液体は、薄い琥珀色をしていた。
手に取ると、微かに花の香りがした。
けれどその香りの奥に、どこか金属のような匂い――命の危うさを孕んだ気配がある。
アランは机の上に置かれた瓶を見つめながら、しばらく迷っていた。
サラが告げた副作用の説明は、耳には届いていたはずなのに、頭の中ではもう遠く霞んでいた。
「奥様、これは常用するものではありません。
痛みを奪うかわりに、体の限界を感じなくさせるのです。
神経が焼き切れるほど使い続けた兵士もいたと――」
その声を遮るように、アランは微笑んだ。
「……ええ、分かっているわ。」
けれどその笑顔の裏で、彼女はもう決めていた。
恐怖よりも、好奇心が勝っていた。
どんな薬なのだろう。どんな感覚なのだろう。
もし本当に、この体を“動かせる”ようになるのなら――。
細い指が栓を外す。
液体は少しとろみを帯びていて、口に含むとほのかな苦味と熱が喉を焼いた。
瞬間、全身に広がる。
血の巡りが急に速くなったように、鼓動が力強く脈打つ。
胸の奥まで光が差し込んだような、眩しい感覚。
重く沈んでいた体がふわりと軽くなり、まるで枷が外れたようだった。
「……すごいわ……」
アランは思わず声を漏らした。
肩も、足も、かつてのように動かせる。
あれほど痛みを覚えていた背骨のあたりも嘘のように軽い。
心の中まで明るく晴れていくようだった。
鏡に映る自分の姿は、血色を取り戻したかのように見えた。
頬は上気し、目元に少し光が戻っている。
思わず笑みが零れる。
(アルタイルに、遊んでやれる……)
そう思った瞬間、胸の奥が温かくなった。
この屋敷に響く子の笑い声ほど、救いになる音はない。
アランは廊下を歩いた。
久しぶりに軽やかな足取りだった。
乳母が中庭でアルタイルと遊んでいる姿が見える。
小さな手がボールを追いかけ、ころころと笑いながら転げ回っていた。
「まあ、元気ですね。」
アランが声をかけると、アルタイルが振り向いた。
「ママ!」
と舌足らずな声が弾む。
アランは裾を掴んで駆け寄り、息子を抱き上げる。
その体温が腕の中に広がる。
「ほら、ボール。上手に投げてごらんなさい。」
アルタイルは嬉しそうに両手を広げ、ころころ転がるボールを追う。
アランは笑いながらその後を追った。
まるで昔、まだ何も背負っていなかった少女の頃に戻ったように。
走る風が頬を撫で、長い髪が光を帯びて揺れる。
「まあまあ……随分と賑やかですね。」
突然、背後から低い声がした。
アランは振り返る。
レギュラスが玄関の方から歩いてきていた。
いつもより早い帰宅に、アランは少し驚く。
「……早かったのですね。」
「ええ、今日は仕事が早く片づきまして。」
レギュラスが穏やかに微笑む。
アルタイルが父を見つけるなり、キャッキャと笑いながら手を伸ばした。
「パパ!」
レギュラスは腕を広げ、息子を抱き上げる。
そのまま、額に口づけを落とす。
「今日は調子がいいんですか?」
一瞬、アランの胸がどきりと跳ねた。
薬のことが露見したかと思い、息が詰まりそうになる。
けれど、レギュラスの眼差しはただの心配に満ちていた。
「ええ……すごく。」
アランは微笑んで答えた。
「それはよかった。」
レギュラスはアルタイルを抱いたまま、優しく頬を撫でる。
「ママが元気でよかったですね、アルタイル。」
アルタイルはキャッキャと笑い、両手で父の髪を掴もうとする。
レギュラスは軽く笑いながら、子どもの指をそっと外した。
アランはその光景を見つめながら、胸の奥に複雑な思いを抱いた。
――この穏やかな時間が、永遠に続けばいい。
そう願いながらも、同時に知っている。
この軽やかさも、幸福も、すべては“薬”の上に成り立っている儚い幻なのだということを。
それでも。
ほんの今だけは――この幻に身を委ねたかった。
帰宅の瞬間、目の前に広がった光景に、レギュラスは思わず息を止めた。
夕陽の光が窓辺から射し込み、柔らかく揺らぐ橙の粒が部屋の中を染めている。
その光の中で、アランが笑っていた。
笑いながら、アルタイルを高く抱き上げ、頬に口づけを落としている。
赤子の笑い声が部屋中に弾け、その度にアランの髪がふわりと揺れた。
――まるで、絵画のようだった。
あの長く伏せがちだった女が、今こうして頬を染め、息子と戯れている。
その光景が信じられなくて、ただ立ち尽くしてしまった。
「……何だ、これは。」
胸の奥で呟きが零れる。
幸せ――その一言に尽きた。
こんな瞬間を見せられたら、もうこの世のすべてを敵に回したとしても構わないと思えた。
この記憶を、決して褪せないように脳に焼きつけたい。
どんな闇の中にいても、思い出せば光が差すように。
「おかえりなさい。」
アランの声が、穏やかに響く。
その声に、レギュラスの胸がじんわりと満たされた。
アルタイルが小さな手を伸ばし、父の胸に抱かれる。
家族というものの形が、そこに確かにあった。
――その夜。
レギュラスは、アランを抱いた。
拒まれないどころか、彼女の方から腕を絡めてきた。
その積極さに、思わず動きを止める。
「……アラン?」
驚きに満ちた声を出したが、アランは答えず、代わりに彼の唇を探した。
幾度も幾度も、キスを求めてくる。
その熱が、まるで夢の中のように甘くて、現実味を失わせた。
唇の隙間から零れる吐息が、微かに震えて耳を打つ。
その音に、体の奥が痺れた。
――愛されるとは、こんなにも幸福なものだったのか。
今まで、どれほど彼女を抱いても埋められなかった虚しさがあった。
触れているのに、どこか遠い。
それがこの夜は違った。
彼女が自ら近づき、腕を回し、指先で彼の頬をなぞる。
その仕草ひとつひとつが、優しさであり、官能であり、救いだった。
「アラン……今日は随分と大胆なんですね。」
レギュラスが囁くと、アランはただ微笑んだ。
その笑みが、いつもより柔らかく、どこか妖艶で。
目を奪われるほどに美しかった。
その笑み一つで、理性のすべてが崩れていく。
けれど、本当は気づくべきだった。
この夜の彼女は、どこか“普通”ではなかった。
熱を帯びすぎた頬、早すぎる鼓動、瞳の奥に潜む光――。
どれも、見慣れたアランの穏やかさとは違っていた。
だが、レギュラスはその異変を見逃した。
ただ、嬉しかったのだ。
求められることが。
愛を向けられていることが。
それがどれほどに自分を満たしてくれるかを、初めて知った夜だった。
外では風が吹き抜け、遠くで木々のざわめきが微かに響いている。
屋敷の中は静まり返り、息づくのは二人の熱と、寝台の軋みだけ。
ポッター夫妻の件はまだ進展がない。
闇の帝王の苛立ちは日に日に増している。
その渦中にあって、レギュラスの心を繋ぎとめていたのは、今この女だけだった。
アランの細い指が、彼の髪を撫でる。
その瞬間、世界のすべての憂いが遠のいた気がした。
――どうかこの夜だけは、忘れさせてほしい。
闇の底で蠢く現実を、ほんの束の間でも。
アランの体温が、何もかもを赦してくれる気がした。
幸福という幻に溺れることが、今の彼にとって唯一の救いだった。
レギュラスは、暗い執務室で机に突っ伏していた。
蝋燭の炎が書類の端を照らし、無数の呪文記録が乱雑に並べられている。
一枚、また一枚と、水晶板に映し出される魔力波形を確認しては、ため息を吐く。
(違う。これも違う……)
彼はこの数日、神秘部の記録庫に籠もりきりだった。
ポッター夫妻を匿う“番人”――その存在を突き止めるために。
闇の帝王の怒りが日に日に増していく中、成果を出せぬ部下は次々と見せしめにされていた。
次は自分だ――そんな圧が、息をするたびに喉を締め上げていた。
当初、レギュラスの視線はシリウスに注がれていた。
兄の杖は記録上、頻繁に呪文を放っている。
だが、その内容は護りの魔法ではなく、ただの幻影や照明呪文ばかりだった。
まるで誰かに見せるための“演技”のように思えた。
(兄上が番人ではない……? では、誰が……)
書類の束をめくる手が止まる。
そこに、一つの名があった。
――Peter Pettigrew。
読み上げた瞬間、息が止まった。
あまりに意外すぎて、今まで目にも留めなかった名。
在学中も、騎士団の中でも常に誰かの後ろに隠れていた臆病な男。
あのような小者が、守り人に選ばれるはずがない。
だから誰も、彼を疑おうとすらしなかった。
(……だが、もし本当に“そこ”が盲点だとしたら?)
胸の奥で、冷たい光が瞬いた。
レギュラスはすぐに呪文記録を呼び出す。
水晶盤の表面に波紋が走り、ピーターの杖の記録が浮かび上がる。
「……まさか。」
息を呑んだ。
そこには、膨大な回数の《プロテゴ》《フィデリウス》《サイレンティオ》――
ありとあらゆる保護呪文の履歴が残っていた。
しかも、その頻度は異常だった。
毎日のように、ほとんど狂気的なまでに、同じ結界が上書きされ続けている。
「……これだ。」
乾いた唇から声が漏れた。
長い探索の果てに、ようやく手がかりを掴んだのだ。
レギュラスの目が冷たく光る。
この男を追えば、必ずポッター家に辿り着く。
兄の手の届かないところに潜む“影”。
まさか、そんな小物がすべての鍵を握っていたとは。
レギュラスは立ち上がると、外套を羽織り、杖を掴む。
部屋の灯りが消える瞬間、彼の姿は音もなく掻き消えた。
――姿くらまし。
湿った夜の空気を切り裂くように、レギュラスは暗闇の中に現れた。
そこは、郊外の外れの寂れた通りだった。
レンガ造りの家々が沈黙に包まれ、月光だけが石畳を照らしている。
通りの奥、小さな家の前で一人の男が慌ただしく何かを確認していた。
ピーター・ペティグリュー。
おどおどと辺りを見回し、杖を両手で握りしめている。
その仕草に臆病さが滲んでいた。
(……やはり、あなたでしたか。)
レギュラスは闇の中に身を潜め、冷ややかにその姿を見つめる。
魔力の波が微かに揺らめき、結界が形成されるのを感じ取る。
その呪文の精度は拙い。
だが確かに、守りの術式だった。
「滑稽だな……。」
低く呟く。
レギュラスの魔力が周囲の空気を震わせた。
杖を向ければ、この男など瞬時に塵となるだろう。
だが、それでは意味がない。
この先にあるのは、ただの個人的な憎しみではない。
「お前は“贄”になる。」
その声は、夜風に消えるほどの静けさで呟かれた。
これ以上の動きは無用。
この鼠を闇の帝王に差し出せば、ポッター家も、兄も――すべて終わる。
レギュラスの瞳が、氷のように光った。
捕獲のための魔法陣が、彼の足元で静かに描かれていく。
夜は深く、星は遠い。
そしてこの瞬間、静かに世界の運命の歯車が音を立てて回り始めた。
しかし、どうやら騎士団側も予言を掴んでいるようだった。
ポッター家は忽然と姿を消し、どこかに雲隠れしたらしい。
一歩遅かった――そう言うべきか。
だが、逃げ切れると思うな。
闇の帝王の眼は、この世のどこまでも届くのだから。
レギュラスは、冷たい笑みを浮かべた。
捕獲網の中心に、小さな光が蠢いている。
それを捉えるのは、もはや時間の問題だ。
闇は、光を愛する者を逃がしはしない。
いずれ、ポッターの血も、あの生まれたばかりの子も、
この世界の理に飲み込まれる。
――蜘蛛の巣にかかった獲物を、ただ待つように。
レギュラスは静かに眼を閉じた。
己の中で燃え上がる憎悪と興奮が、ゆっくりと冷たい愉悦に変わっていく。
闇の焔が揺らめく中、
その影の中にいる若きブラック家の当主は、
自らの中で新しい“正義”を作り上げていった。
アランはその朝、珍しく体のだるさがいくぶん軽かった。
窓の外に射し込む光が、春先のやわらかさを帯びている。
アルタイルの頬に当たるその光が、金色の繭のように見えて、
――今日は外へ出よう、と思い立った。
屋敷に籠もる日々が続けば、息が詰まってしまう。
この屋敷はあまりにも「闇」を抱えすぎていた。
壁に染みついた古い呪文の残り香も、静けさを守るために仕込まれた結界の音も、
すべてが息苦しいほど重たかった。
アルタイルをこの闇に慣れさせてはいけない。
まだ柔らかい心に、光の世界を教えてやらねば――。
そう思い、アランは慎重に外套を羽織り、
アルタイルを胸に抱いて屋敷の門をくぐった。
街に出ると、空気が一変した。
石畳を行き交う人々の足音。
露店から漂う焼き菓子の匂い。
笑い声、呼び声、鳥のさえずり――
どれもが、屋敷では感じられない生命のざわめきだった。
アランは息を吸い込んだ。
少しだけ胸が軽くなる。
抱いたアルタイルの髪を撫でながら、
「ほら、風が気持ちいいね」と小さく呟いた。
しかし、穏やかな街のざわめきの中に、ふと不穏な言葉が混じる。
通りすがりの人々の会話が、風に乗って耳に届いた。
「ポッター家の子が、あの“予言の子”なんですって」
「闇の帝王が狙っているらしいわ」
「一家ごと姿を消したんですって。どこかに隠れているとか――」
一瞬で、胸の奥が冷たくなった。
ジェームズ・ポッター。
――あの名を耳にした瞬間、シリウスの顔が脳裏に浮かんだ。
彼の唯一無二の親友。
ホグワーツの頃、二人は常に肩を並べ、
笑い合い、悪戯を仕掛け、世界を恐れずに生きていた。
陽と影のように、いつも並んでいた。
そんなジェームズの子が、“予言の子”。
もしそれが真実なら、シリウスは――
あの人は、命を懸けてでも彼らを守るだろう。
「シリウス……」
その名を唇の裏で転がした瞬間、
胸の奥がざわりと波立った。
彼に、何かあってはならない。
彼は自分の光だった。
世界が崩れても、唯一の希望として生きる理由であり続けた人。
アルタイルを見下ろす。
その小さな瞳の奥に、父と同じ銀の光が宿っている。
アランの喉が詰まった。
――この子の本当の父を、どうか、奪わないでほしい。
胸の奥で、誰にも聞かれぬ祈りを捧げる。
シリウスがこの世界のどこかで、まだ生きているのなら。
たとえ手が届かなくても、幸せであってほしい。
そしてどうか、闇に囚われないでほしい。
風が吹いた。
街のざわめきの中に、遠く鐘の音が混じる。
アランはアルタイルを抱き寄せると、
その温もりに確かな命を感じた。
――私が守らなければ。
この子を。
そして、彼が残した光を。
その決意を胸に、アランはゆっくりと歩き出した。
夕陽が傾き、影が長く伸びていく。
その影の向こうで、まだ知らぬ運命が静かに動き始めていることを、
彼女はまだ知らなかった。
夜の帳が落ちたブラック家の屋敷。
書斎の扉が静かに閉まる音が響いた。
分厚い絨毯に沈む足音と、揺らめく蝋燭の灯。
重厚な机の上には、地図と数枚の書簡、そしていくつもの印が記された巻物が広げられている。
その部屋には、レギュラスともう一人の影がいた。
灰色の外套を纏い、黒い仮面を外したデスイーターのひとり――
アドリアン・モークロフト。
魔法省闇祓い課出身という経歴を持つ男で、闇の帝王に忠誠を誓ってからは、
情報と潜入の両面で暗躍してきた人物だった。
「……ポッター夫妻の居場所はいまだ掴めません。」
アドリアンは報告書を机の上に置き、眉をひそめた。
「人員を分散させましたが、成果はなし。痕跡さえ残していません。」
レギュラスは椅子に深く腰を下ろし、指先で唇をなぞる。
その動作は、思考の渦に沈む彼特有の癖だった。
机上に置かれた地図には、魔法界とマグル界を繋ぐ複数の通路が赤い線で引かれている。
ポッター家が姿を消したとされる日を中心に、動線を何度もなぞっては印を付けていた。
「……彼らを匿っている人間がいるはずです。」
レギュラスは低く呟いた。
「しかも、並の魔法使いではない。強力な防護呪文が張られているようです。
おそらく二重、いや三重結界……時間をかけても突破できないほどの。」
「番人、ということですか?」とアドリアン。
「ええ。」
レギュラスの灰色の瞳が細められる。
「その番人を排除しなければ、我々は一歩も先に進めません。」
沈黙が落ちる。
蝋燭の炎が揺れ、レギュラスの影が壁に伸びた。
やがて、彼は一枚の古びた羊皮紙を指先で弾く。
「……シリウス・ブラック。名前に覚えはありますか?」
アドリアンが目を見開いた。
「まさか……あの反逆者が?」
「そうです。」
レギュラスは微かに笑った。
その笑みには、兄への感情が複雑に絡み合っていた。
「ホグワーツ時代、ジェームズ・ポッターと兄は常に共に行動していました。
二人は同じ理想を掲げ、同じ愚かさを共有しています。彼らが築く絆は、我々の常識では測れないほど強固なものです。」
アドリアンは息をのむ。
「つまり、兄上が……ポッター家を守っていると?」
「その可能性が高い。」
レギュラスは立ち上がり、地図を指でなぞる。
「兄は家を捨て、名を捨てた。
だが、友情だけは捨てられなかったのです。
彼ならば、ジェームズとリリーを守るために己の命を差し出すでしょう。」
室内の空気がひんやりと冷たくなる。
レギュラスの声には、怒りとも哀しみともつかぬ感情が混じっていた。
「愚かです。純血の名を穢し、闇に背を向けた兄が、
今度は光を守る側に立っている。滑稽なことだとは思いませんか?」
アドリアンは慎重に頷いた。
「では、その線で動くと。」
レギュラスは手を組み、深く息を吐いた。
「ええ。兄が番人であるなら、いずれ尻尾を出すはず。
魔法の痕跡を辿れば、結界の一端が見えるでしょう。
あとは……そこから糸を引く。」
「了解しました。探りを入れてみましょう。」
アドリアンが立ち上がり、一礼して部屋を出ていく。
扉が閉じると、静寂が戻った。
燭台の火が、静かに揺らめく。
炎の影が壁に踊り、まるで兄の笑う幻影のように見えた。
レギュラスは目を閉じ、呟く。
「あなたを、もう一度――この手で終わらせねばならない。」
彼の中で、静かな決意が黒く燃え始めていた。
屋敷の夜は、ひどく長い。
壁にかけられた時計の針が、静かに時を刻むたびに、アランの胸の奥に沈む不安も音を立てて膨らんでいく。
今宵もまた、書斎の扉の向こうから低い声が漏れていた。
レギュラスの声――そして、聞き覚えのない男の声。
アランは廊下の影に身を潜め、心臓が軋むのを必死に抑えた。
書斎の扉の隙間から、ちらりと光が洩れている。
蝋燭の灯が、床に伸びた影を揺らしていた。
「……彼らを匿っている人間は、おそらく相当の腕の持ち主です。」
レギュラスの声が、冷静に響く。
「例えば、シリウス・ブラックとかですね。」
――その名が出た瞬間、アランの呼吸が止まった。
頭の中が真っ白になる。
鼓動の音だけが耳の奥に反響する。
一つ扉を隔てた向こう側で交わされている会話は、あまりにも冷ややかで――
そこに“人”の温度はなかった。
レギュラスが……シリウスを、殺そうとしている。
喉が焼けるように乾く。
足元がふらりと揺れた。
その場に膝から崩れ落ちそうになるのを、壁に手をついて堪える。
指先が震えた。
どうして、そんなことが言えるの。
あの優しかったレギュラスが――。
「では、その線で動きますか?」
「ええ。その番人を突き止めねばなりません。」
会話が終わりに近づいているのを察したアランは、慌てて立ち上がった。
深呼吸をして、震える手を押さえる。
このままでは“聞いていた”と悟られてしまう。
足音を殺し、食卓へ向かう。
杖を手に取り、無言の呪文を唱える。
瞬時にティーカップとティーポットが宙に浮かび、銀の盆の上に整然と並んだ。
静寂の中で立てた音一つも許されない。
使用人として過ごした頃に身についた癖が、いま命を救っている気がした。
階段を降りてくる足音が聞こえた。
二人――レギュラスと、あの部下らしき男。
アランは笑顔を作り、震える声を必死に抑えて言葉を紡ぐ。
「もうお帰りですか?」
あくまで、たった今お茶を運ぼうと思っていたという“演技”で。
レギュラスが少し目を丸くする。
「アラン、起きていたのですか。」
「お客様がいらしていると気づかず、遅くなりました。失礼いたしました。」
完璧な口調で。
しかし手のひらの中では、カップを乗せた銀盆が微かに震えていた。
「気にしなくて構いません。先に休んでいてください。」
レギュラスは穏やかに言い、アランの肩に視線を落とした。
その表情の柔らかさが、かえって恐ろしい。
つい先ほどまで兄を殺す話をしていたその口が、今こうして“優しい夫”として微笑んでいる。
それが――何よりも、恐ろしかった。
「奥方ですか?」と、デスイーターの男が問う。
「ええ。」とレギュラスが答える。
「お噂通り、麗しいお方だ。」
アドリアンの口元が歪むように笑う。
レギュラスは満足げに口角を上げた。
「そう言っていただけるとは光栄です。」
アランはその瞬間、もう一度心臓を締め付けられるような感覚に襲われた。
その笑み――あまりにも自然で、あまりにも冷たい。
まるで人の皮を被った“別の何か”のようだった。
ティーカップを静かに片付けながら、アランは微笑みの裏にある“本心”を見ないふりをした。
恐怖は声を奪い、心の奥を冷たく満たしていく。
この人を、信じていいのだろうか。
アルタイルを、守れるのだろうか。
夜風が窓を鳴らした。
その音が、まるで遠い誰かの警鐘のように響いた。
デスイーターを見送ったあと、屋敷の廊下には静寂だけが残った。
扉が閉まる音が、やけに冷たく響く。
アランは寝室のベッドの中で、息を潜めていた。
寝息を偽るほどの余裕はもうない。
頭の中では、さっきまで書斎で交わされていた会話が何度も何度も反響していた。
――「シリウス・ブラックを排除する。」
その一言が胸に刺さったまま抜けない。
息を吸うたびに、喉の奥が焼けるように痛い。
心臓が早鐘のように鳴って、呼吸が浅くなる。
やがて、足音。
聞き慣れた、あの人の足音。
レギュラスが戻ってきた。
扉が開き、ランプの柔らかな光が室内に差し込む。
彼は静かに上着を脱ぎ、ベッドの片側に滑り込んだ。
シーツがわずかに沈み、冷えた空気が揺れる。
次の瞬間、腕がアランの体を包み込んだ。
「アラン……気を遣わせてしまって、すみません。」
低く優しい声だった。
その声だけを聞いていれば、何もかも夢のように優しい人に思える。
けれど――もう信じられなかった。
「いえ……」
掠れるような声でそう答えるのがやっとだった。
その手が、背を撫でる。
いつもと同じ仕草。
けれど、今は違う。
優しさのはずの指先が、肌に触れるたびに恐怖が走る。
――その手が、いずれシリウスを殺す。
愛した人を、あの人を、この手で。
耐え難い思いが胸を焼いた。
息が詰まるほどの憎しみと悲しみが入り混じる。
どうして、よりによってこの人なの。
どうして、誰も止められないの。
守られているのは自分だ。
アルタイルの命も、この屋敷も、父の安寧も、彼の庇護があるからこそ保たれている。
恩を受けているのはわかっている。
彼を拒む資格など、自分にはない。
それでも――許せなかった。
愛と殺意を同じ胸に抱いて眠る男を、もう信じられなかった。
「アラン。」
彼が小さく名を呼ぶ。
その声が、心の底まで震わせる。
レギュラスの手が顎を持ち上げ、顔の向きを変えた。
気づけば向かい合っていた。
灰色の瞳と翡翠の瞳が、静かに交わる。
そのまま、唇が重なった。
――泣きたくなった。
唇の熱が心に沁みて、胸の奥で音もなく涙が溢れた。
このまま、また流れるように始まってしまう。
いつものように。
求められたら応えるのが自分の役目。
それが愛だと信じていた。
誠意だと思い込んでいた。
けれど今は違う。
もう何も差し出したくなかった。
この腕の中で、これ以上、何かを失いたくなかった。
レギュラスの指が頬をなぞる。
その優しさが、刃物のように痛い。
彼は知らない――この胸の奥に、どれほどの恐怖と葛藤が渦巻いているのかを。
アランは瞼を閉じた。
心の奥で叫びながら、唇を閉ざした。
――どうか、今夜だけは。
何も感じないふりをさせて。
ベッドの上で、二人の影が絡み合う。
その静寂の中に、愛と恐怖がゆっくりと溶けていった。
夜明け前、冷たい霧が屋敷を包み込んでいた。
ロズィエ家から取り寄せた香油の匂いが、産室にかすかに残っている。
産声が上がったのは、夜が完全に明けきる少し前――
空に薄い光が滲みはじめた時だった。
女児だった。
その知らせは、屋敷中に重たい沈黙を落とした。
誰も口には出さなかったが、落胆の色は隠しきれなかった。
召使いたちは視線を交わすことさえ恐れ、足音を忍ばせて立ち働いている。
ベッドの上で、カサンドラ・ブラックは汗に濡れた髪を額に貼りつけたまま、
小さな命を腕の中に受け取った。
赤子は小鳥のような声で泣き続けている。
その泣き声が、あまりにも澄んでいて、あまりにも美しかった。
それなのに――涙が止まらなかった。
(負けたのだわ)
その言葉が、胸の奥に重たく沈んだ。
アラン・ブラック。
あの女は、また勝った。
正妻である自分を差し置いて、彼の心を掴んで離さない。
自分がどれほど努力しても、どれほど血を誇っても。
彼の視線の先には、いつもあの女がいた。
今も――来てくれない。
アランの出産のとき、レギュラスはあの部屋の扉の前で何時間も座り込み、
中の悲鳴に耳を塞ぎながら、涙をこらえていた。
けれど、今は違う。
自分が命を懸けて産んだというのに、その足音はどこにもない。
カサンドラは泣きながら、傍らに寝かされた娘を見つめた。
柔らかな頬、まだ赤い小さな唇。
愛らしい。愛おしい。
けれど――この子は、望まれて生まれてきたのだろうか。
この家で、母と同じように冷たい視線を受けるのではないか。
扉が静かに開いた。
ヴァルブルガが入ってくる。
黒い喪服のようなローブに身を包み、手には銀の杖を携えていた。
顔には微笑が浮かんでいる。だが、それは温もりのない微笑だった。
「……体を起こしては駄目よ。」
立ち上がろうとするカサンドラを制するように、ヴァルブルガは近づき、
ベッド脇の椅子に腰を下ろした。
「よく頑張ったわ。」
その言葉は優しかった。
けれど、その優しさが、今の彼女には痛かった。
「申し訳ございません、奥様……」
嗚咽がこみ上げてくる。
ヴァルブルガは首を振る。
「チャンスはまだあるわ。」
それ以上、何も言わなかった。
だが、その一言に全てが込められていた。
この子が女であること。
それが、どれほど“損失”であるか。
その事実を誰よりもカサンドラ自身が理解していた。
ヴァルブルガが去った後、部屋は静まり返った。
乳母が赤子をあやし、淡い子守唄を口ずさむ。
カサンドラは枕の上で拳を握った。
手のひらが爪で痛む。
(もう一度……彼に抱かれなければならないのね)
そう思った瞬間、胸が締めつけられるように苦しかった。
あの人の瞳は、もう自分を見ていない。
アラン・ブラック――ただひとりの女を、あの人は永遠に手放さないだろう。
産室の窓の外では、夜明けの光がようやく空を照らし始めていた。
その柔らかな光の中で、カサンドラの娘が小さく指を動かす。
泣き止み、穏やかな寝息を立てるその姿は、まるで希望そのもののようだった。
けれど――その希望を抱きしめる腕の中で、
カサンドラの涙は、まだ止まらなかった。
夜の帳が静かに降りていた。
屋敷の廊下には、いつもなら聞こえる給仕たちの足音さえもなく、
しんとした冷気がただ漂っているだけだった。
その冷たさの中を、レギュラスは一人歩いていた。
胸の奥には、言葉にならない重苦しさが広がっていた。
落胆するべきなのか、それとも安堵すべきなのか――。
カサンドラが産んだのは女児だと聞いたとき、
胸に浮かんだのは、安堵と痛みの入り混じった奇妙な感情だった。
(この子が女児であったことが、アランとアルタイルを守ることになるのか……)
もし男児であったなら、アルタイルの未来は奪われていたかもしれない。
けれど女児である以上、カサンドラは再び子を望まれるだろう。
そうなれば、アランへの憎悪はさらに深まる。
そしてまた、あの“毒”の悲劇が繰り返されるかもしれない。
今のアランの体は、もうあのときのまま――完全には戻っていないのだから。
医務魔女の言葉が胸に刺さるように蘇る。
「快復の見込みは薄いでしょう」
扉の前で立ち止まり、軽くノックをする。
中から、かすかな声が返ってきた。
「お入りください。」
レギュラスは深く息を吸い、扉を開けた。
部屋には柔らかな灯がともり、
淡いベージュのカーテンが夜風にわずかに揺れている。
その中央に、カサンドラがいた。
枕元には生まれたばかりの赤子が、静かに寝息を立てている。
頬は薔薇のように紅く、まだこの世の何も知らない無垢な表情だった。
「……遅くなって、すみません。」
レギュラスが静かに言うと、カサンドラは上体を少し起こし、
枕元に背を預けながら微笑んだ。
「お忙しいのに、わざわざ……申し訳ございません。」
「謝らないでください。」
彼は首を振る。
「赤子が、不憫です。」
その言葉に、カサンドラの瞳が一瞬揺れた。
生まれてきた子には、何の罪もない。
男であろうと女であろうと――この世に望まれて生まれてきたはずの命だ。
それだけは、誰にも踏みにじらせてはいけない。
レギュラスはベッドの端に腰を下ろし、
静かにカサンドラの手の上に自分の手を重ねた。
指先が触れた瞬間、カサンドラは驚いたように目を上げた。
その瞳を真っ直ぐに見つめながら、
レギュラスはしばし言葉を選ぶように沈黙した。
この話をすべきではない――そう思いながらも、
言わなければならないと思った。
アランを守るために。
「……アラン・ブラックは、出産時に毒物を摂っていたようなんです。」
その言葉が、重たく部屋に落ちた。
一瞬、空気が止まる。
カサンドラの瞳が大きく見開かれる。
唇が震え、言葉を探しているようだった。
レギュラスは続けた。
「長く体調が戻らなかったのは、その影響だと医務魔女が言っていました。」
淡々と告げながらも、声が震えていた。
目の前の妻が、心のどこかで何かを知っている――そう感じていた。
それでも問い詰めることはしなかった。
誰が毒を混ぜたのか、その追及をするつもりはない。
「毒を混ぜた者を、これ以上追うつもりはありません。」
沈黙が降りる。
しばしの間、赤子の寝息だけが部屋を満たしていた。
やがて、カサンドラが小さく問う。
「それを……なぜ、私に?」
レギュラスは目を伏せ、深く息を吐いた。
「脅したいわけではありません。」
「ただ――お願いなのです。」
その声は、懇願のように掠れていた。
「アランを……攻撃しないでください。
もう、あの人の体は持たない。
誰よりも脆く、何の後ろ盾もなく生きている人です。
母にはきっと、話しても通じません。
だから……あなたにしか頼めないのです。」
彼はカサンドラの手をもう一度握り、力を込めた。
その指の温もりに、彼女はただ黙っていた。
どれほどの思惑が胸の中にあるのか、レギュラスには読めない。
けれど――彼は信じたかった。
この夜の言葉が、少しでも誰かを救うきっかけになることを。
静まり返った部屋で、
赤子が小さく寝返りを打った。
その音に、二人はふと目を向ける。
新しい命は、何も知らずに夢の中で呼吸をしている。
レギュラスはその姿を見つめながら、
心の奥で、そっと呟いた。
――どうか、誰もこれ以上、傷つかないでくれ。
屋敷の窓の外は薄曇りで、光の色まで鈍っていた。
空の灰色がそのまま心に降り積もるような、そんな日だった。
アランは寝台に身を横たえたまま、胸の上で組んだ手を見つめていた。
動かなければ。
そう思えば思うほど、体は鉛のように重たく、どこもかしこも軋んで悲鳴を上げた。
息を吸うたび、肋骨の奥に鈍い痛みが走る。
それでも――行かなくてはならない。
レギュラスは、ポッター夫妻を狙っている。
その夫妻を守る「番人」は、きっとシリウス。
彼の行動の裏を読むように、レギュラスは冷徹に動いている。
このままではシリウスは殺される。
(会わなければ……どうにかして、警告を伝えなければ……)
思考ははっきりしているのに、体だけが動かない。
呪縛のように重たい自分の肉体が、これほどまでに憎らしいと思ったことはない。
焦りが喉を詰まらせ、涙がにじんだ。
アランは枕元の鈴を鳴らした。
ほどなくして、扉の向こうから足音が近づく。
医務魔女のサラ・モーリンが、薬瓶の入ったトレイを抱えて入ってきた。
痩せた肩と、薄紫のローブ。忠実だが、融通はきかない。
「お呼びでしょうか、奥様。」
アランは上体を起こしながら、荒い息を整えた。
「……あなたに、お願いがあるの。」
「何なりと。」
アランは、唇を噛んでから言った。
「“モルティフィカス・ドラウト”という薬を知っている?」
その名を聞いた瞬間、サラの顔が強張った。
「奥様……それは……」
アランはかすかに笑う。
「ええ、知ってるわ。兵士たちが、戦場に戻る前に使っていたという薬。
体の痛みも、重さも、一時的に全部奪ってくれるんでしょう?」
サラは動揺を隠せなかった。
「奥様、本来その薬は、瀕死の兵を一時的に立たせるためのものです。
痛みを“癒す”のではなく、“感じなくさせる”だけ。
筋肉や神経への負担は計り知れません。心臓が耐えきれずに止まる例もあるのです。」
アランはその言葉を聞きながらも、もう心は決まっていた。
「分かっているわ。」
彼女は静かに言い、サラの手を取った。
「でも、お願い。今の体では……何もできないの。」
「出せません。お考え直しください。」
サラの声が震えた。
忠誠と良心のはざまで揺れている。
アランはゆっくりと寝台の隅にある小箱を開いた。
中には、レギュラスから贈られた宝石がいくつも並んでいた。
月光を閉じ込めたようなダイヤ、深海のように澄んだサファイア。
その一つひとつが、彼からの愛の証であり――今は、罪の道具だった。
「これを……」
アランはサラの掌に宝石を握らせた。
光が、彼女の細い指の隙間からこぼれる。
「奥様……何をなさるおつもりですか。」
「あなたしか頼れないの。お願いします。」
声は震えていた。
懇願というより、祈りに近かった。
サラはしばらくの間、アランの瞳を見つめていた。
その翡翠の瞳には、決意と絶望が同居していた。
やがてサラは、ゆっくりと頷く。
「……奥様、このことは、決して口外なさいませんように。」
「ええ、約束する。」
サラは宝石を袖の中に忍ばせ、深く息を吐いた。
その吐息が、部屋の冷たい空気に溶けて消える。
アランの胸に、かすかな安堵が広がった。
ほんの一時でも、この体を動かせるなら。
レギュラスの目をかいくぐり、シリウスのもとへ行けるなら。
命を削ることになっても構わない。
その思いだけが、弱り切った心を支えていた。
夜の窓の向こうでは、雲の切れ間から一瞬だけ月が顔を出した。
それはまるで、誰かが遠くで見守っているような光だった。
神秘部の奥――そこはいつ来ても、空気が重く澱んでいる。
石造りの壁は黒曜石のように冷たく、歩くたびに靴音が深く響く。
この場所には、光というものが存在していないのかもしれない。
蝋燭の明かりでさえ、まるで闇に吸い込まれるように、輪郭を曖昧にしていた。
その最深部にある監視室。
魔法省が秘匿している呪文監視台――「杖の記録庫」。
そこでは、登録されたすべての魔法使いの杖の履歴が、無機質な水晶盤に記録され続けている。
杖が放った呪文の痕跡、魔力の強度、日付、座標――
一つひとつが淡い青光を帯びて、水面のようにゆらめいていた。
レギュラスはその前に立ち、腕を組んでいた。
目の前の盤面には「Sirius Black」と記された杖の記録が浮かんでいる。
細かい数字が流れていき、魔力波形が時間の経過とともに現れては消えていく。
だが、そこに“あるはずのもの”がない。
「……なぜだ。」
低く吐き出した声が、静かな部屋に反響する。
この数週間、彼は執拗に兄の杖の軌跡を追っていた。
ポッター夫妻を守るために使われているであろう結界呪文――
《プロテゴ・マキシマ》や《フィデリウス》の痕跡を探すために。
しかし、どの記録にもそれらしい痕跡はない。
杖は確かに活動している。
簡単な照明呪文、短距離転移、守護霊の召喚――だがそれだけだった。
結界の魔力は確かに感じられる。
それも、上級者が構築した強固なものだ。
空気の粒が微かに弾かれるような、あの独特の“抵抗”が確かにある。
にもかかわらず、杖の記録に一切の痕跡がない。
レギュラスは眉間を押さえた。
頭が割れそうだった。
「おかしい……この推理は正しいはずなんだ。」
指先が水晶盤の表面をなぞる。
兄の名が揺らぎ、波紋のように広がる。
その背後で、魔法省の時計塔が、乾いた音をひとつ鳴らした。
時だけが過ぎていく。
ジェームズ・ポッター夫妻はいまだ行方をくらましたまま。
闇の帝王は苛立ちを募らせ、次々と部下を罰している。
レギュラス自身も、そろそろ疑念の目を向けられる頃だった。
(焦るな……冷静に考えろ。兄は保護呪文を唱えていない――ならば、代わりに誰が?)
その可能性を考えた瞬間、冷たい予感が背筋を這い上がる。
もしシリウスではないとしたら。
もし、ポッター夫妻を匿っている番人が別の者だとしたら。
「……いや、ありえない。」
レギュラスは頭を振る。
それでも胸の奥で、疑念がしつこく囁き続けた。
――兄ではない。誰か別の者が、あの家を隠している。
水晶盤の光が、彼の瞳に反射して滲む。
深夜の静けさの中で、レギュラスはひとり呟いた。
「頼む……間違っていてくれ。」
その声は、ほとんど祈りのようだった。
だが神秘部の奥深くでは、祈りなど届くはずもない。
あるのはただ、冷たい記録と、沈黙だけだった。
薬瓶の中の液体は、薄い琥珀色をしていた。
手に取ると、微かに花の香りがした。
けれどその香りの奥に、どこか金属のような匂い――命の危うさを孕んだ気配がある。
アランは机の上に置かれた瓶を見つめながら、しばらく迷っていた。
サラが告げた副作用の説明は、耳には届いていたはずなのに、頭の中ではもう遠く霞んでいた。
「奥様、これは常用するものではありません。
痛みを奪うかわりに、体の限界を感じなくさせるのです。
神経が焼き切れるほど使い続けた兵士もいたと――」
その声を遮るように、アランは微笑んだ。
「……ええ、分かっているわ。」
けれどその笑顔の裏で、彼女はもう決めていた。
恐怖よりも、好奇心が勝っていた。
どんな薬なのだろう。どんな感覚なのだろう。
もし本当に、この体を“動かせる”ようになるのなら――。
細い指が栓を外す。
液体は少しとろみを帯びていて、口に含むとほのかな苦味と熱が喉を焼いた。
瞬間、全身に広がる。
血の巡りが急に速くなったように、鼓動が力強く脈打つ。
胸の奥まで光が差し込んだような、眩しい感覚。
重く沈んでいた体がふわりと軽くなり、まるで枷が外れたようだった。
「……すごいわ……」
アランは思わず声を漏らした。
肩も、足も、かつてのように動かせる。
あれほど痛みを覚えていた背骨のあたりも嘘のように軽い。
心の中まで明るく晴れていくようだった。
鏡に映る自分の姿は、血色を取り戻したかのように見えた。
頬は上気し、目元に少し光が戻っている。
思わず笑みが零れる。
(アルタイルに、遊んでやれる……)
そう思った瞬間、胸の奥が温かくなった。
この屋敷に響く子の笑い声ほど、救いになる音はない。
アランは廊下を歩いた。
久しぶりに軽やかな足取りだった。
乳母が中庭でアルタイルと遊んでいる姿が見える。
小さな手がボールを追いかけ、ころころと笑いながら転げ回っていた。
「まあ、元気ですね。」
アランが声をかけると、アルタイルが振り向いた。
「ママ!」
と舌足らずな声が弾む。
アランは裾を掴んで駆け寄り、息子を抱き上げる。
その体温が腕の中に広がる。
「ほら、ボール。上手に投げてごらんなさい。」
アルタイルは嬉しそうに両手を広げ、ころころ転がるボールを追う。
アランは笑いながらその後を追った。
まるで昔、まだ何も背負っていなかった少女の頃に戻ったように。
走る風が頬を撫で、長い髪が光を帯びて揺れる。
「まあまあ……随分と賑やかですね。」
突然、背後から低い声がした。
アランは振り返る。
レギュラスが玄関の方から歩いてきていた。
いつもより早い帰宅に、アランは少し驚く。
「……早かったのですね。」
「ええ、今日は仕事が早く片づきまして。」
レギュラスが穏やかに微笑む。
アルタイルが父を見つけるなり、キャッキャと笑いながら手を伸ばした。
「パパ!」
レギュラスは腕を広げ、息子を抱き上げる。
そのまま、額に口づけを落とす。
「今日は調子がいいんですか?」
一瞬、アランの胸がどきりと跳ねた。
薬のことが露見したかと思い、息が詰まりそうになる。
けれど、レギュラスの眼差しはただの心配に満ちていた。
「ええ……すごく。」
アランは微笑んで答えた。
「それはよかった。」
レギュラスはアルタイルを抱いたまま、優しく頬を撫でる。
「ママが元気でよかったですね、アルタイル。」
アルタイルはキャッキャと笑い、両手で父の髪を掴もうとする。
レギュラスは軽く笑いながら、子どもの指をそっと外した。
アランはその光景を見つめながら、胸の奥に複雑な思いを抱いた。
――この穏やかな時間が、永遠に続けばいい。
そう願いながらも、同時に知っている。
この軽やかさも、幸福も、すべては“薬”の上に成り立っている儚い幻なのだということを。
それでも。
ほんの今だけは――この幻に身を委ねたかった。
帰宅の瞬間、目の前に広がった光景に、レギュラスは思わず息を止めた。
夕陽の光が窓辺から射し込み、柔らかく揺らぐ橙の粒が部屋の中を染めている。
その光の中で、アランが笑っていた。
笑いながら、アルタイルを高く抱き上げ、頬に口づけを落としている。
赤子の笑い声が部屋中に弾け、その度にアランの髪がふわりと揺れた。
――まるで、絵画のようだった。
あの長く伏せがちだった女が、今こうして頬を染め、息子と戯れている。
その光景が信じられなくて、ただ立ち尽くしてしまった。
「……何だ、これは。」
胸の奥で呟きが零れる。
幸せ――その一言に尽きた。
こんな瞬間を見せられたら、もうこの世のすべてを敵に回したとしても構わないと思えた。
この記憶を、決して褪せないように脳に焼きつけたい。
どんな闇の中にいても、思い出せば光が差すように。
「おかえりなさい。」
アランの声が、穏やかに響く。
その声に、レギュラスの胸がじんわりと満たされた。
アルタイルが小さな手を伸ばし、父の胸に抱かれる。
家族というものの形が、そこに確かにあった。
――その夜。
レギュラスは、アランを抱いた。
拒まれないどころか、彼女の方から腕を絡めてきた。
その積極さに、思わず動きを止める。
「……アラン?」
驚きに満ちた声を出したが、アランは答えず、代わりに彼の唇を探した。
幾度も幾度も、キスを求めてくる。
その熱が、まるで夢の中のように甘くて、現実味を失わせた。
唇の隙間から零れる吐息が、微かに震えて耳を打つ。
その音に、体の奥が痺れた。
――愛されるとは、こんなにも幸福なものだったのか。
今まで、どれほど彼女を抱いても埋められなかった虚しさがあった。
触れているのに、どこか遠い。
それがこの夜は違った。
彼女が自ら近づき、腕を回し、指先で彼の頬をなぞる。
その仕草ひとつひとつが、優しさであり、官能であり、救いだった。
「アラン……今日は随分と大胆なんですね。」
レギュラスが囁くと、アランはただ微笑んだ。
その笑みが、いつもより柔らかく、どこか妖艶で。
目を奪われるほどに美しかった。
その笑み一つで、理性のすべてが崩れていく。
けれど、本当は気づくべきだった。
この夜の彼女は、どこか“普通”ではなかった。
熱を帯びすぎた頬、早すぎる鼓動、瞳の奥に潜む光――。
どれも、見慣れたアランの穏やかさとは違っていた。
だが、レギュラスはその異変を見逃した。
ただ、嬉しかったのだ。
求められることが。
愛を向けられていることが。
それがどれほどに自分を満たしてくれるかを、初めて知った夜だった。
外では風が吹き抜け、遠くで木々のざわめきが微かに響いている。
屋敷の中は静まり返り、息づくのは二人の熱と、寝台の軋みだけ。
ポッター夫妻の件はまだ進展がない。
闇の帝王の苛立ちは日に日に増している。
その渦中にあって、レギュラスの心を繋ぎとめていたのは、今この女だけだった。
アランの細い指が、彼の髪を撫でる。
その瞬間、世界のすべての憂いが遠のいた気がした。
――どうかこの夜だけは、忘れさせてほしい。
闇の底で蠢く現実を、ほんの束の間でも。
アランの体温が、何もかもを赦してくれる気がした。
幸福という幻に溺れることが、今の彼にとって唯一の救いだった。
レギュラスは、暗い執務室で机に突っ伏していた。
蝋燭の炎が書類の端を照らし、無数の呪文記録が乱雑に並べられている。
一枚、また一枚と、水晶板に映し出される魔力波形を確認しては、ため息を吐く。
(違う。これも違う……)
彼はこの数日、神秘部の記録庫に籠もりきりだった。
ポッター夫妻を匿う“番人”――その存在を突き止めるために。
闇の帝王の怒りが日に日に増していく中、成果を出せぬ部下は次々と見せしめにされていた。
次は自分だ――そんな圧が、息をするたびに喉を締め上げていた。
当初、レギュラスの視線はシリウスに注がれていた。
兄の杖は記録上、頻繁に呪文を放っている。
だが、その内容は護りの魔法ではなく、ただの幻影や照明呪文ばかりだった。
まるで誰かに見せるための“演技”のように思えた。
(兄上が番人ではない……? では、誰が……)
書類の束をめくる手が止まる。
そこに、一つの名があった。
――Peter Pettigrew。
読み上げた瞬間、息が止まった。
あまりに意外すぎて、今まで目にも留めなかった名。
在学中も、騎士団の中でも常に誰かの後ろに隠れていた臆病な男。
あのような小者が、守り人に選ばれるはずがない。
だから誰も、彼を疑おうとすらしなかった。
(……だが、もし本当に“そこ”が盲点だとしたら?)
胸の奥で、冷たい光が瞬いた。
レギュラスはすぐに呪文記録を呼び出す。
水晶盤の表面に波紋が走り、ピーターの杖の記録が浮かび上がる。
「……まさか。」
息を呑んだ。
そこには、膨大な回数の《プロテゴ》《フィデリウス》《サイレンティオ》――
ありとあらゆる保護呪文の履歴が残っていた。
しかも、その頻度は異常だった。
毎日のように、ほとんど狂気的なまでに、同じ結界が上書きされ続けている。
「……これだ。」
乾いた唇から声が漏れた。
長い探索の果てに、ようやく手がかりを掴んだのだ。
レギュラスの目が冷たく光る。
この男を追えば、必ずポッター家に辿り着く。
兄の手の届かないところに潜む“影”。
まさか、そんな小物がすべての鍵を握っていたとは。
レギュラスは立ち上がると、外套を羽織り、杖を掴む。
部屋の灯りが消える瞬間、彼の姿は音もなく掻き消えた。
――姿くらまし。
湿った夜の空気を切り裂くように、レギュラスは暗闇の中に現れた。
そこは、郊外の外れの寂れた通りだった。
レンガ造りの家々が沈黙に包まれ、月光だけが石畳を照らしている。
通りの奥、小さな家の前で一人の男が慌ただしく何かを確認していた。
ピーター・ペティグリュー。
おどおどと辺りを見回し、杖を両手で握りしめている。
その仕草に臆病さが滲んでいた。
(……やはり、あなたでしたか。)
レギュラスは闇の中に身を潜め、冷ややかにその姿を見つめる。
魔力の波が微かに揺らめき、結界が形成されるのを感じ取る。
その呪文の精度は拙い。
だが確かに、守りの術式だった。
「滑稽だな……。」
低く呟く。
レギュラスの魔力が周囲の空気を震わせた。
杖を向ければ、この男など瞬時に塵となるだろう。
だが、それでは意味がない。
この先にあるのは、ただの個人的な憎しみではない。
「お前は“贄”になる。」
その声は、夜風に消えるほどの静けさで呟かれた。
これ以上の動きは無用。
この鼠を闇の帝王に差し出せば、ポッター家も、兄も――すべて終わる。
レギュラスの瞳が、氷のように光った。
捕獲のための魔法陣が、彼の足元で静かに描かれていく。
夜は深く、星は遠い。
そしてこの瞬間、静かに世界の運命の歯車が音を立てて回り始めた。
