3章
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魔法省の行政棟──五階、対闇勢力監査課と騎士団管理局の接する長い回廊。
ここは常に人の往来が多く、紙束を抱えた書記や、書類を浮かせて運ぶ魔法使いたちの足音が絶えない。
だがそのざわめきの中で、レギュラス・ブラックは珍しく人波の中を足早に歩いていた。
ローブの裾が床を掠めるたびに、革靴が石畳に乾いた音を立てる。
焦っているようには見えないが、誰の目にも「立ち止まりたくない」という意思が滲んでいた。
その時、前方から軽い調子の声が響く。
「やあ、こんなところで君に会うとは。」
振り返るまでもなく、レギュラスは声の主を悟った。
ジェームズ・ポッター。
騎士団所属の魔法使いであり、グリフィンドールの出身。
ホグワーツの頃から、彼の軽薄とも取れる明るさが苦手だった。
「忙しいので失礼します。」
立ち止まらず、会釈だけを返して通り過ぎようとする。
だが、ジェームズは足を緩めず並び歩く。
軽い笑みを浮かべながら、まるで古い友人と再会したかのような距離の詰め方だった。
「マグルの街の爆破事故だけど……アラン・ブラックはどこまで関与しているんだい?」
――その瞬間。
レギュラスの足が、ぴたりと止まった。
わずかに靴音が途切れる。
静寂が二人の間を切り裂くように流れた。
彼はゆっくりと振り返り、ジェームズを見据えた。
その視線の奥には、研ぎ澄まされた警戒と怒りが潜んでいる。
まんまと策に嵌った自覚があった。
あえてアランの名を口にして、自分を立ち止まらせようとしたのだ。
なんて小賢しい。
「わざわざ足を止めて話を聞いてくれるとは、ご親切にありがたいよ。」
ジェームズは唇の端を持ち上げ、軽口を叩く。
「……何の話でしょう。」
抑揚のない声。
だがその瞳には氷の刃のような冷たさが宿っていた。
「ちょうどあの日、アラン・ブラックをこの目で見たんだ。」
ジェームズの声色が変わる。冗談めかしていたはずの口調が、次第に鋭さを帯びる。
「数日後にあの爆破事件だろう? 偶然にしては出来すぎている。彼女の関与を疑う者もいるらしい。」
「事故として片付いていると聞いています。」
レギュラスは短く返した。声に一切の揺らぎを許さない。
ジェームズは笑う。
「ほう、わざわざマグルの街のニュースをお忙しいはずの君がご存じとは。驚いたよ。」
言葉の刃が交わるたび、空気が張り詰めていく。
廊下を行き交う職員たちの視線が、どこか遠巻きに二人を避けた。
誰もがこの張り詰めた空気の中に足を踏み入れることをためらっている。
レギュラスのこめかみが脈打つ。
完璧に作り上げたはずの“シナリオ”に、わずかな綻びが見え始めている。
ジェームズ・ポッターの探るような視線が、その隙間を的確に刺してくる。
「……くだらない詮索はおやめください。お互い、立場があるでしょう。」
吐き捨てるように言い、再び歩き出す。
だが、背中に刺さるようにジェームズの声が追いかけてきた。
「立場を守るために、何かを犠牲にしていないといいけどね。」
足が止まりかける。
だが、レギュラスは振り向かない。
ただ一言も返さず、無言のまま長い廊下の奥へと消えていった。
魔法省の天井を伝っていた魔法灯の光が、二人の間の影を長く伸ばす。
ジェームズはその背中を見送りながら、微かに眉を寄せた。
レギュラスはそのとき、自分の中に燃え広がる苛立ちを
抑えきれなくなっていた。
完璧に塗り固めたはずの世界を、あの男の無遠慮な一言が
いとも簡単にひび割らせていく。
――ジェームズ・ポッター。
この男は、昔から嫌いだった。
笑顔の下に鋭い真実の刃を隠している。
そして、それを惜しみなく人の仮面に突き立ててくる。
屋敷の玄関をくぐった瞬間、レギュラスの中にこびりついていた苛立ちが、
まるで身体の奥でまだ燻る煤のように揺らめいた。
魔法省の一室でのジェームズ・ポッターとのやり取りが、頭の中で何度も反芻される。
あの男の、にやにやとした挑発的な笑み、そしてアランの名を軽々しく口にした瞬間のあの無遠慮さ。
思い出すたびに、胸の奥で何かが軋んだ。
「おかえりなさいませ、お早いですね。」
エントランスホールの奥から、カサンドラが微笑みながら姿を見せる。
腹部は少し膨らみ、淡いアイボリーのドレスがその輪郭をやわらかく包みこんでいた。
彼女の言葉には、どこか“妻としての務め”を果たそうという張り詰めた音があった。
「ええ、たまたま、きりのいいところで上がれましたから。」
淡々と答える声は、どこか冷えていた。
「今日は検診がありましたの。お写真もいただきましたのよ。」
カサンドラが嬉しげに話を続けようとする。
小さな羊皮紙を胸元から取り出しかけたが、レギュラスはその手の動きより早く、静かに口を挟んだ。
「すみません、後でゆっくり聞かせてください。」
それ以上、言葉を重ねる余裕はなかった。
彼女の目に、わずかな戸惑いの影が浮かんだが、レギュラスはそれに気づかぬふりをした。
話を遮った罪悪感など、今の彼には存在しなかった。
今はただ、アランの顔が見たかった。
足早に階段を上る。
絨毯の上を進む靴音が、焦燥をそのまま刻んでいく。
二階の廊下には、昼の光が高い窓から差し込み、静謐な明るさで満ちていた。
扉を開けた瞬間、
柔らかなハーブの香りと、揺らめくカーテン越しの陽光が迎えた。
アランは寝台の上で体を起こしていた。
淡い生成りのドレス、緩やかに結った髪。
顔色はまだ完全ではないが、その翡翠の瞳は澄んでいた。
「早いですね。」
驚いたように微笑む声。
「ええ、やってられなくて。」
短い返答に、抑えきれない疲弊と苛立ちが滲む。
アランは目を丸くして彼を見つめた。
レギュラスは、その視線に少しだけ息を吐く。
アランの前では、もう取り繕う必要がなかった。
どれだけ醜くても、感情を晒せる場所はこの世にここしかなかった。
ソファの背にジャケットを無造作に放り投げる。
そして、吸い寄せられるようにアランの傍へ。
「どうしました?」
まんまるな瞳が、不安と優しさの入り混じった色をしていた。
その問いに答えようとして、言葉が喉の奥でほどける。
話せば長くなる。
話せばまた、怒りが蘇ってしまう。
代わりに、彼はアランの唇に触れた。
一瞬の戸惑いのあと、アランの体が小さく震える。
次の瞬間、寝台の上にその身を沈め、覆い被さるように抱きしめた。
「まだ……お昼です。」
息の合間に、アランが囁く。
「では、夜を前借りします。」
レギュラスの声は低く、喉の奥で微かに笑っていた。
窓辺から溢れる陽光が、二人の体を照らしていく。
カーテンの隙間から差す光が、アランの白い肌を縁取る。
まるで柔らかな絹の上に金糸を垂らしたような美しさ。
その美しさは、もはや人を壊す毒に近かった。
レギュラスは、触れるたびに胸が満たされていくのを感じた。
瞼の裏にあった苛立ちも、焦燥も、ジェームズの顔も、
すべてが霞んでいく。
指先が髪を、頬を、肩を辿る。
どこを触れても熱を持っている。
彼女が息を詰め、まつ毛が揺れた瞬間、その吐息さえも愛おしかった。
昼の光に包まれながら、
彼はふと、思う。
――この女を抱くたびに、罪も怒りもすべて浄化されていく気がする。
だが同時に、それは救いではなく、
どこか底なしの沼のようでもあった。
アランを抱けば抱くほど、
彼女に縋らずにはいられなくなる自分を、
レギュラスは、静かに恐れていた。
行為が終わったあと、静寂が戻る。
部屋の中にはまだ、昼の光が柔らかく残っていた。
カーテン越しに射す金色の光が、乱れた寝具を照らしている。
アランは深く息をつき、傍らのタオルを手に取った。
体を起こすと、胸元に湿った感覚が広がる。
衣服の上からもじんわりと滲み出して、肌に張りつくようだった。
慌ててタオルで押さえる。
布の内側に、じわりと温かい湿りが広がっていく。
レギュラスの視線がそこに落ちた。
彼は、どこか不思議そうな表情を浮かべている。
「……どうして、こんなに出るんです?」
率直な問い。
まったく悪気のない声音。
それがかえって可笑しくて、アランは思わず小さく息を漏らした。
ああ、この人は本当に知らないのだ――
授乳の仕組みも、母体の反応も、そういう生理的な現象のことも。
「ついさっきまで、アルタイルの授乳の時間でしたから。」
淡々と答える。
ほんの少しだけ、抗議の色を滲ませて。
どこか呆れも交じっていた。
レギュラスは一瞬、困ったように眉を下げた。
「……すみません。」
その声音が、しょんぼりと沈む。
ほんのわずかな言葉の中に、彼の素直さが滲んでいた。
アランは胸元を押さえながらも、ふと笑みをこぼしそうになる。
ベッドの上、まだ乱れたシーツの上に座る二人。
レギュラスは、胸を抑えていない方のアランの手をそっと取った。
指先に触れる手は、驚くほど熱かった。
つい先ほどまで激情の中にあった男とは思えないほど、
その仕草はあまりにも子供っぽく、あどけなさすら感じさせた。
「……どうしたんですか?」
アランは囁くように問う。
だが、レギュラスはただ、首を小さく横に振る。
目を合わせたまま、何も言わない。
まるで、言葉にしてしまえば壊れてしまう何かを抱えているように。
彼はただその手を離さず、指先を絡めていた。
静寂の中で、風がカーテンを揺らす。
窓の外では、午後の日差しがまだ淡く残っている。
遠くで時計の針が刻む音が、やけに鮮明に聞こえた。
アランは、彼が今どんな気持ちを抱えているのか、
ほんの少しだけ分かる気がした。
怒りも焦りも、言葉にできない苦しみも、
この静かな仕草の中に全て沈めているのだろう。
だからアランも、それ以上は何も聞かなかった。
ただ手を握り返し、沈黙を受け入れた。
二人の間に流れるその沈黙は、
どこか祈りのようで、
そして、痛みをそっと包み込むように穏やかだった。
広間の奥にある応接間──昼下がりの陽が差し込むその部屋は、静けさと温もりに包まれていた。
天井の高い空間に、古い時計の針の音がゆっくりと響く。
レギュラスは窓辺近くのソファに腰を下ろし、腕の中のアルタイルをあやしていた。
陽光がカーテンの隙間からこぼれ、柔らかく彼の頬を照らす。
赤子の髪に光が落ちるたび、淡い金色が瞬くように見えた。
アルタイルは眠たげに小さく身じろぎし、父の胸元に顔を埋める。
その温もりを感じているうちに、レギュラスの瞼にもゆるやかに眠気が差し込んでくる。
さきほどの行為の余韻がまだ体の奥に残っていた。
どこか気だるく、けれど穏やかで、ほんの一瞬だけ何もかもを忘れてしまえそうな静けさだった。
乳母が言っていた言葉を思い出す。
――「アルタイル様は、他の者に抱かれている時と、ご両親に抱かれている時とで全く表情が違われます」
その言葉が妙に嬉しくて、レギュラスは思わず口元を緩める。
この小さな命が、自分を父と認識しているのだとしたら。
それだけで、世界が許されるような気がした。
アルタイルの頬に手を添え、そっと指先で撫でる。
かつて心の奥にあった“あの男”の影――
アルタイルがシリウスの血を引いているという事実は、もう遠い過去の霞の中に沈んでいた。
嘘も、時間をかけて塗り重ねれば、それはいつしか真実に変わる。
この子は、もう完全に自分の息子だ。
そう言い聞かせながら、レギュラスは微笑んだ。
――その時だった。
「みっともないですよ、こんな時間から。」
母・ヴァルブルガの冷たい声が、広間の静寂を切り裂いた。
彼女は音もなく入ってきて、レギュラスの向かいの椅子に腰を下ろす。
手には杖。
彼女が一振りすると、レギュラスのシャツのかけ違えたボタンが、ひとりでに整った。
「……すみません。」
短く詫びる声には、わずかな体裁の悪さが滲んだ。
だが正直、もうそんなことはどうでもよかった。
母の視線の下で生きる窮屈さよりも、
アランとアルタイルが自分のもとにいるという事実の方が、
はるかに価値があると感じていた。
ヴァルブルガは脚を組み、じっと息子を見据えた。
「カサンドラの子が男児であったなら、当主は代わります。」
声は冷ややかで、まるで刃のように鋭かった。
「……産まれてから考えましょう。女児だったら、どうする気です?」
静かな返答。
挑発するでもなく、ただ淡々とした声。
それがかえってヴァルブルガの怒りを煽った。
彼女の表情がわずかに歪み、頬が引きつる。
怒りを隠そうともせず、息を荒くした。
それでも、レギュラスは何も言わなかった。
アルタイルを胸に抱いたまま、
瞼をゆっくりと閉じ、再び眠りに落ちようとする。
まるで言葉で争う価値すらないとでも言うように。
母の視線が突き刺さる中、
彼の唇にはかすかな微笑が浮かんでいた。
怒りも、権力も、家のしがらみも、
すべてを包み込むように眠る赤子の重み。
――この子のぬくもりさえあれば、それでいい。
そんな静かな確信が、
レギュラスの心をゆっくりと満たしていた。
広間の隅、厚手の柱の陰に身を寄せながら、カサンドラは息を潜めていた。
絹の裾が石の床を擦る音さえ、いまは憚られるほどに。
扉の向こうで聞こえるのは、母ヴァルブルガとレギュラスの低い声。
男たちの領域に踏み入ることは慎むべきだと知りながらも、
その言葉の一つ一つに、どうしようもなく心が縛られてしまう。
部屋の中では、陽の光が斜めに差し込んでいた。
レギュラスはソファに腰を掛け、アルタイルを抱いたまま微睡んでいる。
揺らぐ金の光が、彼の髪の上に柔らかく落ちていた。
その姿は、まるで絵画の中の父子のように美しく、穏やかだった。
――ただし、その絵の中に、自分という人物は存在していない。
胸の奥に、小さな痛みが走る。
昼過ぎに彼が屋敷へ戻ってきた時のことを思い出す。
帰宅してすぐ、アランの部屋へと消えていった。
誰の目にも明らかだった。
そして数時間後、アルタイルを抱いて階下に現れたとき――
その頬に浮かぶ、わずかな安らぎと満ち足りた表情が、
彼がどんな時間を過ごしていたのかを雄弁に物語っていた。
ヴァルブルガが杖を一振りし、レギュラスのシャツのボタンを直す。
「みっともないですよ、こんな時間から。」
その一言が、刃のように刺さった。
やはり――彼女も察しているのだ。
息子が誰の部屋で何をして過ごしていたのかを。
カサンドラは唇を噛んだ。
痛みが走るほど強く噛んでも、
胸の奥に湧き上がる焦燥と劣等感は消えてくれなかった。
いつだって彼の視線の先にいるのは、自分ではない。
副妃に過ぎぬあの女。
かつての使用人。
それでも、あの女の腕の中で眠ることを選ぶ男。
「カサンドラの子が男児であったなら、当主は代わります。」
ヴァルブルガの声が響く。
それに対して、レギュラスの静かな声が返る。
「産まれてから考えましょう。女児だったらどうする気です?」
――その瞬間、心臓を掴まれたような感覚に襲われた。
彼は、もし女児だった場合のことを“当然のように”想定している。
つまり、彼自身もそれを恐れているのだ。
自分が産む子が女であれば、
その存在は何の意味も持たない――そう言われたも同然だった。
カサンドラは両腕で、自らの腹を包み込んだ。
まだ小さくしか膨らんでいないその中に、
自分の存在理由が全て詰まっている。
どうか、男の子でありますように。
この家を正当に継げる、強く気高い子でありますように。
そうでなければ、わたくしは――
この家において、ただの「飾り」で終わってしまう。
レギュラスの穏やかな寝顔が、
まるで別の世界のもののように遠かった。
陽光に包まれて眠る彼の姿を見ながら、
カサンドラは静かに胸に誓う。
――たとえ愛されなくとも、
この家の頂点に立つ母としての誇りだけは、
決して奪わせはしない。
その祈りは、甘美な微笑の裏に隠れた、
決意にも似た狂気を帯びていた。
執務室には重々しい空気が流れていた。
壁際には古い地球儀と数冊の分厚い書物、そしてオリオン・ブラックが愛用する黒檀の杖が置かれている。
外では冬の冷たい風が吹き荒れていたが、暖炉の炎が室内にだけは穏やかな光を落としていた。
レギュラスは父の机の前に立ち、静かに報告を終える。
オリオンは椅子に深く腰をかけ、眼鏡越しに息子を見据えていた。
老いてなお、その瞳にはかつて魔法界で恐れられた貴族の威圧が宿っている。
「――闇の帝王はここ最近、裏切りを殊のほか恐れておられる。」
低く、重たい声だった。
「内部で密告が出たらしい。裏切り者を炙り出すために、あの方は“忠誠の印”を再び確かめておられる。疑わしき者は、容赦なく焼かれるそうだ。」
暖炉の薪が弾ける音が、ひときわ大きく響く。
レギュラスは無言で頷いた。
脳裏に浮かぶのは、闇の帝王――ヴォルデモートの冷ややかな声。
忠誠を問うその声が、呪文のように耳にこびりついて離れない。
「今はあの方は神経質になっておられる。失敗は許されない。」
オリオンの言葉は警告というより、もはや命令に近かった。
レギュラスは姿勢を正し、短く答える。
「心しておきます。」
彼の声には、わずかに緊張が混じっていた。
この屋敷の中でも、父の前だけは常に鎧を纏うようにしていなければならない。
――確かに、闇の帝王の様子は近頃、異常なほどに研ぎ澄まされている。
レギュラスは思い返す。
以前は命令を下すたびに余裕の笑みを浮かべていたヴォルデモートが、最近では頻繁に沈黙を挟むようになった。
誰かが不用意に口を開けば、その視線が鋭く突き刺さる。
まるで相手の心の奥を覗き込むかのように――いや、実際、覗いているのだ。
先日の集会でもそうだった。
闇の帝王は一人ひとりの名を呼び、腕の印を確かめるたびに、呪文のような囁きを重ねていた。
「裏切りは、己の肉の上で証明される。」
その言葉と共に、印が焼けるように疼いた。
誰もが顔を上げられなかった。
オリオンが椅子の肘掛けを軽く叩いた。
「お前はまだ若い。だが、“信頼される者”は、同時に“疑われる者”にもなる。それを忘れるな。」
「……はい。」
レギュラスの喉が、わずかに動いた。
父の忠告が胸の奥に沈む。
あの方の視線の中では、どんな忠誠も一瞬で試される。
たとえ完璧に振る舞ったとしても、心のどこかで揺らぎがあれば、それを見透かされる。
暖炉の火が静かに揺れ、赤い光がレギュラスの横顔を照らす。
その光は、彼の内に潜む焦燥と恐れを一瞬だけ浮かび上がらせた。
そしてまた、闇に溶けていく。
――忠誠を誓うほどに、己の自由は削がれていく。
けれど、それが今の彼に許された唯一の生き方だった。
神秘部の奥、光の届かない石造りの回廊に、足音が低く響いていた。
そこは魔法省の中でも最も静寂が支配する場所──時間の流れさえ、他とは違うように感じられる。
その奥の円卓で、報告がなされた。
「――裏切り者が出た。デスイーターの中からだ。」
重く低い声で、情報局の魔法使いが告げる。
レギュラスの手が書類の上で止まった。
「名は、アーサー・ダンウィック。」
彼の名が口にされた瞬間、部屋の温度が一気に下がったように感じた。
若くしてデスイーターの列に加わった男。
闇の帝王への忠誠を誓ったはずが、騎士団の一員に密告していたという。
どうやら彼は、数度にわたり任務の情報を外部に漏らしていたらしい。
先日の襲撃が失敗に終わったのも、そのせいだという。
「任務は筒抜けでした。
到着した瞬間、待ち伏せを受けました。結界が張られ、仲間が三人……戻りませんでした。」
報告を続ける声は淡々としていたが、空気の中には血の匂いがまだ残っていた。
レギュラスの胸中で、何かがざわめく。
騎士団の奴らは、ただの勘ではなく、確実に内部からの情報を掴んで動いている。
しかも、それが“あの方”にまだ知られていない段階でここに届いているということは、
魔法省の内部にも、もう何層かの裏があるということだ。
アーサー・ダンウィックの裏切りが公になれば、次に疑われるのは「近しい者」だ。
ヴォルデモートの疑念は、常に連鎖して広がる。
ひとたび誰かの信頼が崩れれば、その隣に立つ者も同時に呑み込まれる。
そして――
マグルの街での爆撃事故。
あれを完璧に処理したはずだった。
証拠も痕跡も、すべて闇の中に葬り去った。
だが、ジェームズ・ポッターが“薄らと”気づき始めている。
その名を思い出しただけで、レギュラスは無意識に拳を握りしめた。
あの男の洞察力は侮れない。
もしこのタイミングで何かが漏れれば──
「裏切り者」は、自分ということになる。
暖炉の炎が低く揺れる。
赤い光が、石壁に映りこみ、まるで血のような模様を描いた。
レギュラスは静かに目を閉じる。
――慎重に動け。
今は一手の誤りが、命取りになる。
息を吐いた。
その吐息が白く揺らめき、重たい闇の中に溶けていった。
まるで嵐の前触れのような不気味な静けさが、神秘部の廊下を包み込んでいた。
魔法界に不穏な風が吹き始めていた。
レギュラスたちが闇に身を置いて動いているその裏側で、騎士団の側でも小さな亀裂が生じていた。
――アーサー・ダンウィック。
デスイーターの中から、命を懸けて情報を送ってくれていた男。
その彼からの連絡が、ある日を境に途絶えた。
最後の報告は短かった。
「ヴォルデモートが“予言”を探している。」
それが、彼の残した最後の言葉だった。
その後、彼の姿を見た者はいない。
おそらく、動向が露見し、闇の主の手で“粛清”されたのだろう。
彼の名が闇の帝王の前で呼ばれた瞬間、どれほどの恐怖が走ったのか――想像するだけで背筋が冷たくなった。
ヴォルデモートは今、用心深くなっている。
かつてのように見せしめのような殺戮ではなく、
静かに、緻密に、裏切り者を炙り出す。
その冷徹さが、むしろ恐ろしかった。
アーサーが命を賭して伝えた“予言”は、騎士団に衝撃を与えた。
それは未来の断片――やがてヴォルデモートを倒す「予言の子」の存在を示していた。
生まれるのは七月。
その子は、闇の帝王の力を滅ぼす運命を持つ。
騎士団の面々は、皆その話に息を呑んだ。
「それが本当なら、我々にとって希望の光だ。」
そう言ったのは、ダンブルドアだった。
だが、同時にその“希望”は、ヴォルデモートにとって最大の“脅威”でもある。
そして、彼がその“子”を探し始めているという事実は――つまり、誰かの命が狙われているということだった。
シリウス・ブラックは、その夜、暖炉の前で頭を抱えていた。
焔の光が、憔悴した横顔を照らしている。
「……もし、その子がジェームズの子だったら。」
呟いた声が、誰に届くこともなく消えていく。
親友の家では、まもなく子が生まれる。
七月の予定だ。
予言が指す“七月に生まれる子”が、まさか――。
胸の奥が焼けるようだった。
かつてアランを失った時のように、
また、自分の大切な人を闇が奪っていくのではないか。
そんな恐怖が押し寄せてきた。
ジェームズも、同じ思いでいた。
いつになく眉間に皺を寄せながら、
地図を広げ、屋敷の防衛呪文の見直しをしている。
「心配すんな。ぜってぇお前たちのことは、俺が守る。」
そう言ったシリウスの声には、強い決意が滲んでいた。
焔の前で交わした約束――それは二人にとって、
もう後戻りのできない運命の宣誓のようでもあった。
ジェームズはふっと笑みを浮かべる。
「君がいると、本当に心強いよ、親友。」
その言葉が、心の奥に沈んでいく。
――アランに引き続き、今度は親友まで闇に奪われるわけにはいかない。
シリウスの胸の奥で、静かに燃える炎があった。
それは復讐でもなく、義務でもなく――ただ純粋な“愛”の形だった。
闇の夜が迫る中で、その炎だけが、確かに彼の魂を照らしていた。
広間には穏やかな昼下がりの光が差し込んでいた。
磨き上げられた大理石の床に、レースのカーテン越しの陽光がやわらかに揺れている。
アランは、窓際のソファに腰かけながらアルタイルを腕に抱いていた。
ラジオからは古びたノイズ混じりの声が流れている。
「――闇の帝王を滅ぼす“予言の子”が現れる。
一方が生きる限り、他方は生きられぬ。」
その言葉を耳にした瞬間、アランの胸に小さな震えが走った。
予言の内容は恐ろしくもあり、どこかで希望のような光を含んでいる。
闇の時代の終焉を予見するようなその言葉は、誰もが望み、誰もが恐れる未来そのものだった。
腕の中で眠るアルタイルの小さな頬に指先をそっと触れる。
やわらかく温かい命の重みが、現実に引き戻してくれる。
「あなたが大人になる頃、この世界はどんな姿をしているのでしょうね……」
アランは小さく呟いた。
この子の未来に、シリウスが望んでいたような自由があってほしい。
血や家柄や、純血という鎖に縛られず、
誰もが同じように息をして笑える世界。
差別のない、太陽のように明るい世界を――。
予言の子は“希望”だ。
その存在がたとえ他の誰かであっても、
この魔法界に再び光をもたらすなら、それでいい。
アランの心には、そんな静かな祈りが芽生えていた。
背後から足音がした。
「不穏な予言ですわね。」
振り返れば、カサンドラ・ロズィエがゆるやかに入ってくる。
ゆったりとした深緑のドレスを身に纏い、大きく膨らんだ腹を両手で支えていた。
歩くたびに、絹の裾が床を擦る音が広間に響く。
「魔法界に混乱が起きそうです。」
アランがそう応じると、カサンドラは微笑みながらソファに腰を下ろした。
「お体の具合はいかがですか?」
「ええ、落ち着いていますの。」
その返答は穏やかだったが、
腹を撫でる手にはわずかな緊張が宿っていた。
「お腹の出方が大きいから、男児ではないかと言われているのよ。」
そう言って微笑むカサンドラ。
アランは静かに礼をし、
「それはおめでたいことでございます。」と口にした。
けれど、カサンドラの視線が鋭くアランを射抜く。
まるでその祝福の言葉が本心かどうかを、試すように。
一瞬、広間の空気が張りつめた。
アランは微笑みを崩さず、視線を落とす。
――彼女もまた、男児を望んでいる。
腹の中の子が男であるなら、ブラック家の未来はカサンドラのものとなる。
だが、アランは違った。
アルタイルにその座を望んでいない。
この屋敷に流れる血の誇りも、権力も、
そのどれもが呪いのように重たく見えた。
「この家は、光よりも闇が濃すぎる……」
心の中でそう呟く。
富も名声も、愛する人を奪い、真実を歪める。
そんなものに縛られない世界で、
アルタイルが息をして生きていけるのなら――
それが、アランの唯一の願いだった。
遠く、ラジオから再び声が流れる。
「やがてその子は、闇を裂き、魔法界に新たな光をもたらすでしょう。」
アランは瞼を閉じた。
揺れる子守唄のような声が、心の奥で響く。
まるで、希望という名の予言が、
この広間にも静かに降り注いでいるようだった。
広間の朝は、いつもより重たく沈んでいた。
窓から差し込む陽光さえ、まるで灰を纏ったように鈍く感じられる。テーブルの中央に置かれた銀のポットから湯気が立ちのぼる音だけが、やけに耳についた。
ラジオも新聞も、どれもが同じ話題で埋め尽くされていた。
“予言の子”――
それは昨夜から、瞬く間に魔法界中を駆け巡った言葉。
朝刊の一面はもちろん、『デイリー・プロフェット』だけでなく、『ウィッチ・ウィークリー』や地方の小紙、さらにはマグル界にも波及しかけているという噂まであった。
どの媒体も、見出しは似たり寄ったりだった。
「闇を滅ぼす子、七月に誕生か」
「予言者トレローニーが語る“運命の二人”」
「ヴォルデモート卿、次なる標的を探す」軽薄な推測と誇張された恐怖が入り混じり、朝から魔法界の空気をざわめかせていた。
オリオン・ブラックは、そんな見出しを睨みつけながら、苛立ちを隠そうともせずに新聞をテーブルの上に叩きつけた。銀の食器がわずかに揺れ、ティーカップがカタリと音を立てる。
「馬鹿げている……この予言騒ぎときたら。」
低く吐き捨てるような声。
誰もその言葉に反応しようとはしなかった。
一族の朝食の席に漂うのは、まるで冷気のような緊張感だった。オリオンが苛立っているときに、軽々しく何かを言う者などいない。
長い沈黙のあと、オリオンは静かに新聞を折り、レギュラスの方へと顔を向けた。
「レギュラス、このあと少し話そう。」
短い一言。だがその声音には、確かな圧があった。「はい。」
レギュラスの声は冷静だった。
それでも、広間の空気が一段と張り詰めていくのが誰の耳にもわかった。
この父と子のあいだに交わされる“話”が、決して柔らかなものではないことを、皆が知っていた。
アランは、黙ったまま紅茶に口をつけた。
カップの表面がわずかに震えている。
カサンドラもまた、視線を新聞の上に落としたまま、なにかを計算するようにゆっくりと息を吐いた。
食事が終わる頃、オリオンが椅子を引き立ち上がる。彼のローブの裾が床を払う音だけが響いた。
その背中を、無言のままレギュラスが追う。
去る前に、レギュラスはほんの一瞬だけ振り返り
アランの腕の中にいるアルタイルへと視線を落とした。
赤子はパンの欠片を掴もうとするように、短い腕をのばしている。
「あとで遊びましょう、アルタイル。」
レギュラスは微笑んだ。
それは一瞬だけ陽が差したように優しい微笑だった。アランは、アルタイルの腕をそっと押さえながら小さく首を振る。
「今はだめよ。」
声に出さずに、ただ唇の動きだけで伝える。
レギュラスはアランの視線を受け止めた。
その眼差しには、言葉にできない思いが交錯していた。そして彼は静かに頷き、父の後を追って広間を出ていった。
扉が閉じると、残された空気が一気に沈みこむ。
アルタイルが不満げに小さな声を上げた。
アランは微笑んで、幼い頬を撫でる。
――嵐の前の静けさ。
そんな言葉が脳裏を過った。この朝の光が、やがて訪れる暗雲を予感させるように鈍く揺らめいていた。
父の書斎には、いつもと変わらぬ静寂が満ちていた。
だがその日は、その静けさが妙に耳に痛かった。
壁一面を覆う古い書物の香り、燭台の炎が僅かに揺れる音――
そのどれもが、これから交わされる“重い話”の前兆のように感じられた。
レギュラスは、父オリオンの机の前に立ったまま沈黙していた。
何を切り出されるのかなど、もう分かっている。
予言の子の話――
魔法界の至るところで囁かれている、不穏でありながらも希望を帯びたあの言葉だ。
「予言の子のことだ。」
低く落とされた声が、書斎の空気を震わせる。
「闇の帝王に三度挑んだ者で、七月に生まれる子を探せ。
その情報を――あの方に渡すのだ。」
沈黙が落ちた。
重く、長く、息苦しい沈黙だった。
レギュラスは、机の上の羽ペンを見つめながら、わずかに眉をひそめる。
「……本気ですか。」
抑えた声だった。だがその奥には明確な疑念があった。
「たかだか予言に。」
その言葉に、オリオンの目が細められた。
だが、息子の反抗を咎めるような怒気はなかった。
むしろ、息を呑むほど冷静で――その分、恐ろしかった。
レギュラスは、学生時代から“予言”という曖昧な学問を信用したことがなかった。
ホグワーツでも占い学の授業は取らなかった。
未来を読むなどという、不確かな幻を信じることほど愚かしいことはないと思っていた。
水晶球を覗きこみ、夢見がちな言葉を並べ立てる者たちを、
どこか遠い世界の住人のように眺めていた。
――そして今、
その“くだらないもの”を、闇の帝王自らが追い求めているというのか。
笑い話にもならない。
「闇の帝王ともあろう方が、
そんな子供じみた予言を信じているのですか。」
吐き捨てるように言った。
オリオンは微動だにしない。
整えられた白髪に、歳月の刻んだ深い皺。
だがその瞳だけは、いつまでも若いままだ。鋭く、研ぎ澄まされた刃のように。
「――あの方は、脅威の火種となるものをすべて排除したいとお考えなのだ。」
静かな声。
しかしその言葉の裏には、命令以上の“意志”があった。
レギュラスは短く息を呑み、
やがて小さく頷く。
「……探しましょう。」
声は落ち着いていたが、胸の奥では何重にも疑問符が渦巻いていた。
未来を定めるなどという曖昧なもののために、
無辜の命を探し出し、差し出すという愚行。
それが“秩序”のため、“血統”のためだと言い聞かせても、
理性の奥で小さく疼く良心が、静かに抗っていた。
父の机の上では、黒檀の羽ペンが燭火を反射している。
その光が、まるで血のように赤く見えた。
レギュラスは無言のままそれを見つめ、
胸の奥に、冷たい不安の影を落とした。
――闇は、もうとっくに世界を覆い尽くしている。
なのに、人々はまだ“未来”を探している。
それがどんな犠牲を生むのかも知らぬままに。
オリオンの書斎を後にしたレギュラスの足取りは、いつになく重かった。
父の言葉が、ひとつひとつ胸に残響のようにこびりついている。
「もうすぐ出産を迎えるカサンドラを、もう少し気にかけろ。」
その一言が、まるで心の奥を突かれたように痛んだ。
確かに、彼女の存在をあまりにも放置していた。
妊娠を知らされた当初は、それなりに気を使い、好物を取り寄せたり、贈り物を送ったりもした。
けれど、時が経つにつれ、アランの存在が彼の思考を独占していった。
気づけば、カサンドラの部屋を訪ねることもなくなっていた。
正妻――
ブラック家の当主の座を支える、正式な妻。
ロズィエ家の令嬢であり、格式も家系も申し分ない女。
それなのに、自分はどこまで不義理を働いているのか。
廊下を歩くたび、カーペットに沈む足音が、罪の意識のように重く響いた。
燭台に揺れる金色の灯りが、壁に長く伸びた影を作る。
その影の中を抜けるようにして、レギュラスはカサンドラの部屋の扉を叩いた。
「レギュラス様……?」
驚きに満ちた声。
久しく訪ねてこなかった夫の姿を目にして、カサンドラは一瞬言葉を失った。
けれどすぐに、微笑みを取り戻す。
その表情には、わずかに安堵の色さえ滲んでいた。
「体調はいかがです? 医務魔女からは順調だと聞いていますが。」
まるで常日頃から気にかけていたかのような口ぶりで、レギュラスは言った。
自分でも、滑稽な嘘だと分かっている。
それでも、何か言葉をかけなければこの場が耐えられなかった。
「ええ、あとは陣痛を待つばかりです。」
カサンドラの声は穏やかだった。
だがその穏やかさは、長い孤独の末に得た静けさのようでもあった。
「何か必要なものがあれば何でも言ってください。取り寄せます。」
「……いいえ。あなたが来てくださっただけで、十分ですわ。」
そう言って、カサンドラはそっと手を伸ばし、レギュラスの太ももに触れた。
その仕草は、愛を求めるというよりも、確かめるような慎ましさに満ちていた。
「ひとつ、お願いがありますの。」
「何でしょう。なんなりと。」
その瞬間、レギュラスの胸の奥に、鋭い痛みが走る。
――アラン。
どうしても、彼女が頭を離れない。
カサンドラを目の前にしても、心の中心にいるのはいつだってあの翡翠の瞳だった。
正妻を差し置いて、想いを向けることの背徳を理解していながら、
それでも、理性を押しのけるほどにアランを愛している自分がいた。
「これから生まれてくる子は、ブラック家とロズィエ家の誇りを継ぐ子です。」
カサンドラの瞳はまっすぐで、曇りがなかった。
その純粋さが、逆に胸を締めつける。
「どうか……この子が、蔑ろにされることのない人生を歩めるよう、
あなたが導いてあげてください。」
――ああ、やはり。
レギュラスは悟る。
彼女が言いたいことは、あまりにも痛いほど理解できた。
正妻の子が、副妃の子の影になるなど、あってはならない。
だが、その現実が、今まさに形を成し始めていることもわかっている。
アルタイルという存在。
あの翡翠の瞳。
誰よりも愛した女が産んだ息子――
血の真実を知らずとも、レギュラスの心はその子を本当の息子のように感じていた。
その矛盾こそが、自分を最も苦しめている。
「できる限り、あなたの望むような決定をしたいと思っています。」
それが、今の彼に言える精一杯の言葉だった。
確実な約束などできない。
生まれてくる子が男児であれば、ブラック家の正統な後継ぎとなる。
だが、もし女児であれば――
どんなに愛しても、どんなに誇り高くとも、
この家の玉座に座ることは許されない。
それが純血社会の残酷な秩序だった。
「ありがとう、レギュラス様。」
カサンドラの微笑みは、どこまでも静かで、優しかった。
その笑みを見て、レギュラスはようやく少しだけ息を吐く。
――この微笑みを裏切り続けている自分が、どれほど罪深いか。
それでもなお、アランを愛しているという現実を、
いったいどうすれば否定できるというのか。
書斎を出るときよりも、心はずっと重たくなっていた。
背後でカサンドラが腹を撫でる気配がした。
その中で芽吹こうとしている新しい命の鼓動が、
静まり返った空気に淡く響いていた。
――この家の未来は、また一つ、複雑に絡み合っていく。
レギュラスは扉を閉め、
ほんのわずかに頭を垂れた。
アルタイルがこの世に生を受けてから、もうすぐ一年が経とうとしていた。
月日とはどうしてこうも早く過ぎていくのだろう。
ついこの前まで、掌の中で泣きじゃくっていた命が、今ではひとりで座り、
静かに窓の外の景色を眺めている。
冬の光が薄く差し込む寝室。
レギュラスは寝台の脇に腰を下ろし、
じっとその小さな背中を見つめていた。
アルタイルは窓辺に置かれた木の積み木を手にして、
時折、不思議そうに光を追っている。
その仕草――
まるでアランがふと物思いに沈むときの、あの柔らかな佇まいに酷似していた。
ときどき、首を少し傾けて何かを考え込むような表情をする。
微かな鼻歌のような声を出しては、自分の世界に沈み込む。
その横顔の線が、光を受けて透き通るように浮かび上がると、
胸の奥が締め付けられるほどに愛おしくなった。
――なぜ、これほどまでに。
この子を抱き上げるたび、理由のない愛しさが込み上げてくる。
血の真実を知る自分にとって、それはある意味、罰のようでもあった。
だがそれでも、アルタイルはレギュラスにとって息子以外の何者でもなかった。
どんな真実が隠れていようと、この手で守り抜くことだけは疑いようもない事実だった。
しかし、ふと未来を思うたび、胸がざわめく。
――この子が、カサンドラの産む子と争う日が来るのだろうか。
その想像は、あまりにも恐ろしかった。
かつて自分が兄と対立し、憎しみのまま袂を分かったように、
血を分けた兄弟が杖を向け合う――
その惨劇を再び繰り返すことなど、想像するだけで吐き気がした。
アルタイルをどう導けばいいのか。
カサンドラの子をどの位置に据えてやるのが正しいのか。
考えれば考えるほど、答えは遠のいていった。
もし、カサンドラの子が男児であったなら――
それは即ち、アルタイルがこの家の玉座に座る未来が絶たれるということ。
正妻の子であるというだけで、その子が後継ぎになるのは当然の理。
だがそうなれば、アルタイルの居場所はどこにあるのだろう。
かつて兄がそうであったように、
この屋敷から追われ、孤独のうちに去っていく未来が待っているのではないか。
アルタイルが去るということは、アランもまた、この家を離れるということだ。
それを想像するだけで、息が詰まった。
彼らを失うくらいなら、全ての秩序を壊してでも――と、一瞬考えてしまう自分がいた。
しかしもし、カサンドラの子が女児であれば――
その時、アルタイルはこのブラック家の新たな当主として名を刻む。
それは喜ばしい未来であるはずなのに、
レギュラスの胸には、別の恐怖が巣くっていた。
権力と嫉妬の渦の中で、またアランが狙われるのではないか。
かつて、あの毒のような悪夢を思い出す。
産後の彼女を苦しめ続けた体の不調。
医務魔女の口から告げられた“毒物の反応”という言葉。
――おそらく、母か、妻か。
どちらかの手によるもの。
レギュラスはそれを悟っていながら、声を上げることができなかった。
自分が選んだ立場と血筋の呪いが、真実を押し殺した。
けれど、あんなことが二度と繰り返されてはならない。
アランの苦痛も、アルタイルの未来も、
今度こそ、自分の手で守らねばならない。
窓の外で、冬の陽光が雪を照らす。
アルタイルはそれを見つめながら、小さな指を光にかざしていた。
レギュラスはそっと腕を伸ばし、その細い肩を包み込む。
子どもの体温が掌に広がると、
胸の奥に固く結ばれた決意が、静かに形を持ちはじめた。
――この子だけは、絶対に守る。
たとえ、世界のすべてを敵に回しても。
夜の空気は、ひどく冷えていた。
デスイーターたちが集う古の館の奥、黒い焔がゆらめく広間。
その中心に立つのは、闇の帝王――ヴォルデモート卿。
彼の周囲を取り巻く黒衣の影が、静かに膝をついている。
燭台の火が、その不気味な沈黙を照らし出していた。
レギュラスはその列の中にいた。
顔を上げることなく、ただその声を待つ。
闇の帝王の声は、冷ややかでありながらも陶酔を誘う魔力を孕んでいた。
「……七月に生まれる子がいる。」
ざわりと空気が揺れる。
ヴォルデモートの蛇のような瞳が、ゆっくりと左右を見渡した。
「その子が――我が脅威となる。
だが、まだ芽の段階だ。芽は、潰しておかねばならぬ。」
その言葉に、広間の空気が一層濃密になる。
誰もが息を潜め、次の一言を待った。
「騎士団の中にいる。」
ヴォルデモートの声が落ちる。
「ポッター――ジェームズ・ポッター。その妻リリーの腹にいる子だ。」
その名が響いた瞬間、レギュラスの胸にざらりとした快感が走った。
あの男。
ホグワーツ時代から何かと鼻につく存在だった。
あの軽薄な笑みも、正義を気取った立ち居振る舞いも、すべてが癪に障った。
――まさか、あの男の家に予言の子が生まれるとは。
皮肉な運命だ。
何と都合のいいことか。
己の手で討つに足る理由が、これほどまでに完璧に整うとは。
レギュラスは内心で嗤った。
拍手をして祝いたいほどの出来事だった。
闇の帝王は続けた。
「ポッターの血統を断て。
妻も子も、すべてこの世から消し去るのだ。」
その命が下された瞬間、
黒衣の者たちの間に狂気じみた興奮が広がった。
歓喜にも似たざわめきが、広間の隅々まで満ちていく。
だがレギュラスだけは、その渦の中で静かだった。
唇の端をわずかに上げ、目を細める。
――これでいい。
これで、長年の胸の澱がようやく晴れる。
「芽は潰しておかねばならぬ。」
ヴォルデモートの言葉が、耳の奥で繰り返される。
それは呪文のように、ゆっくりと彼の脳裏に焼きついた。
ここは常に人の往来が多く、紙束を抱えた書記や、書類を浮かせて運ぶ魔法使いたちの足音が絶えない。
だがそのざわめきの中で、レギュラス・ブラックは珍しく人波の中を足早に歩いていた。
ローブの裾が床を掠めるたびに、革靴が石畳に乾いた音を立てる。
焦っているようには見えないが、誰の目にも「立ち止まりたくない」という意思が滲んでいた。
その時、前方から軽い調子の声が響く。
「やあ、こんなところで君に会うとは。」
振り返るまでもなく、レギュラスは声の主を悟った。
ジェームズ・ポッター。
騎士団所属の魔法使いであり、グリフィンドールの出身。
ホグワーツの頃から、彼の軽薄とも取れる明るさが苦手だった。
「忙しいので失礼します。」
立ち止まらず、会釈だけを返して通り過ぎようとする。
だが、ジェームズは足を緩めず並び歩く。
軽い笑みを浮かべながら、まるで古い友人と再会したかのような距離の詰め方だった。
「マグルの街の爆破事故だけど……アラン・ブラックはどこまで関与しているんだい?」
――その瞬間。
レギュラスの足が、ぴたりと止まった。
わずかに靴音が途切れる。
静寂が二人の間を切り裂くように流れた。
彼はゆっくりと振り返り、ジェームズを見据えた。
その視線の奥には、研ぎ澄まされた警戒と怒りが潜んでいる。
まんまと策に嵌った自覚があった。
あえてアランの名を口にして、自分を立ち止まらせようとしたのだ。
なんて小賢しい。
「わざわざ足を止めて話を聞いてくれるとは、ご親切にありがたいよ。」
ジェームズは唇の端を持ち上げ、軽口を叩く。
「……何の話でしょう。」
抑揚のない声。
だがその瞳には氷の刃のような冷たさが宿っていた。
「ちょうどあの日、アラン・ブラックをこの目で見たんだ。」
ジェームズの声色が変わる。冗談めかしていたはずの口調が、次第に鋭さを帯びる。
「数日後にあの爆破事件だろう? 偶然にしては出来すぎている。彼女の関与を疑う者もいるらしい。」
「事故として片付いていると聞いています。」
レギュラスは短く返した。声に一切の揺らぎを許さない。
ジェームズは笑う。
「ほう、わざわざマグルの街のニュースをお忙しいはずの君がご存じとは。驚いたよ。」
言葉の刃が交わるたび、空気が張り詰めていく。
廊下を行き交う職員たちの視線が、どこか遠巻きに二人を避けた。
誰もがこの張り詰めた空気の中に足を踏み入れることをためらっている。
レギュラスのこめかみが脈打つ。
完璧に作り上げたはずの“シナリオ”に、わずかな綻びが見え始めている。
ジェームズ・ポッターの探るような視線が、その隙間を的確に刺してくる。
「……くだらない詮索はおやめください。お互い、立場があるでしょう。」
吐き捨てるように言い、再び歩き出す。
だが、背中に刺さるようにジェームズの声が追いかけてきた。
「立場を守るために、何かを犠牲にしていないといいけどね。」
足が止まりかける。
だが、レギュラスは振り向かない。
ただ一言も返さず、無言のまま長い廊下の奥へと消えていった。
魔法省の天井を伝っていた魔法灯の光が、二人の間の影を長く伸ばす。
ジェームズはその背中を見送りながら、微かに眉を寄せた。
レギュラスはそのとき、自分の中に燃え広がる苛立ちを
抑えきれなくなっていた。
完璧に塗り固めたはずの世界を、あの男の無遠慮な一言が
いとも簡単にひび割らせていく。
――ジェームズ・ポッター。
この男は、昔から嫌いだった。
笑顔の下に鋭い真実の刃を隠している。
そして、それを惜しみなく人の仮面に突き立ててくる。
屋敷の玄関をくぐった瞬間、レギュラスの中にこびりついていた苛立ちが、
まるで身体の奥でまだ燻る煤のように揺らめいた。
魔法省の一室でのジェームズ・ポッターとのやり取りが、頭の中で何度も反芻される。
あの男の、にやにやとした挑発的な笑み、そしてアランの名を軽々しく口にした瞬間のあの無遠慮さ。
思い出すたびに、胸の奥で何かが軋んだ。
「おかえりなさいませ、お早いですね。」
エントランスホールの奥から、カサンドラが微笑みながら姿を見せる。
腹部は少し膨らみ、淡いアイボリーのドレスがその輪郭をやわらかく包みこんでいた。
彼女の言葉には、どこか“妻としての務め”を果たそうという張り詰めた音があった。
「ええ、たまたま、きりのいいところで上がれましたから。」
淡々と答える声は、どこか冷えていた。
「今日は検診がありましたの。お写真もいただきましたのよ。」
カサンドラが嬉しげに話を続けようとする。
小さな羊皮紙を胸元から取り出しかけたが、レギュラスはその手の動きより早く、静かに口を挟んだ。
「すみません、後でゆっくり聞かせてください。」
それ以上、言葉を重ねる余裕はなかった。
彼女の目に、わずかな戸惑いの影が浮かんだが、レギュラスはそれに気づかぬふりをした。
話を遮った罪悪感など、今の彼には存在しなかった。
今はただ、アランの顔が見たかった。
足早に階段を上る。
絨毯の上を進む靴音が、焦燥をそのまま刻んでいく。
二階の廊下には、昼の光が高い窓から差し込み、静謐な明るさで満ちていた。
扉を開けた瞬間、
柔らかなハーブの香りと、揺らめくカーテン越しの陽光が迎えた。
アランは寝台の上で体を起こしていた。
淡い生成りのドレス、緩やかに結った髪。
顔色はまだ完全ではないが、その翡翠の瞳は澄んでいた。
「早いですね。」
驚いたように微笑む声。
「ええ、やってられなくて。」
短い返答に、抑えきれない疲弊と苛立ちが滲む。
アランは目を丸くして彼を見つめた。
レギュラスは、その視線に少しだけ息を吐く。
アランの前では、もう取り繕う必要がなかった。
どれだけ醜くても、感情を晒せる場所はこの世にここしかなかった。
ソファの背にジャケットを無造作に放り投げる。
そして、吸い寄せられるようにアランの傍へ。
「どうしました?」
まんまるな瞳が、不安と優しさの入り混じった色をしていた。
その問いに答えようとして、言葉が喉の奥でほどける。
話せば長くなる。
話せばまた、怒りが蘇ってしまう。
代わりに、彼はアランの唇に触れた。
一瞬の戸惑いのあと、アランの体が小さく震える。
次の瞬間、寝台の上にその身を沈め、覆い被さるように抱きしめた。
「まだ……お昼です。」
息の合間に、アランが囁く。
「では、夜を前借りします。」
レギュラスの声は低く、喉の奥で微かに笑っていた。
窓辺から溢れる陽光が、二人の体を照らしていく。
カーテンの隙間から差す光が、アランの白い肌を縁取る。
まるで柔らかな絹の上に金糸を垂らしたような美しさ。
その美しさは、もはや人を壊す毒に近かった。
レギュラスは、触れるたびに胸が満たされていくのを感じた。
瞼の裏にあった苛立ちも、焦燥も、ジェームズの顔も、
すべてが霞んでいく。
指先が髪を、頬を、肩を辿る。
どこを触れても熱を持っている。
彼女が息を詰め、まつ毛が揺れた瞬間、その吐息さえも愛おしかった。
昼の光に包まれながら、
彼はふと、思う。
――この女を抱くたびに、罪も怒りもすべて浄化されていく気がする。
だが同時に、それは救いではなく、
どこか底なしの沼のようでもあった。
アランを抱けば抱くほど、
彼女に縋らずにはいられなくなる自分を、
レギュラスは、静かに恐れていた。
行為が終わったあと、静寂が戻る。
部屋の中にはまだ、昼の光が柔らかく残っていた。
カーテン越しに射す金色の光が、乱れた寝具を照らしている。
アランは深く息をつき、傍らのタオルを手に取った。
体を起こすと、胸元に湿った感覚が広がる。
衣服の上からもじんわりと滲み出して、肌に張りつくようだった。
慌ててタオルで押さえる。
布の内側に、じわりと温かい湿りが広がっていく。
レギュラスの視線がそこに落ちた。
彼は、どこか不思議そうな表情を浮かべている。
「……どうして、こんなに出るんです?」
率直な問い。
まったく悪気のない声音。
それがかえって可笑しくて、アランは思わず小さく息を漏らした。
ああ、この人は本当に知らないのだ――
授乳の仕組みも、母体の反応も、そういう生理的な現象のことも。
「ついさっきまで、アルタイルの授乳の時間でしたから。」
淡々と答える。
ほんの少しだけ、抗議の色を滲ませて。
どこか呆れも交じっていた。
レギュラスは一瞬、困ったように眉を下げた。
「……すみません。」
その声音が、しょんぼりと沈む。
ほんのわずかな言葉の中に、彼の素直さが滲んでいた。
アランは胸元を押さえながらも、ふと笑みをこぼしそうになる。
ベッドの上、まだ乱れたシーツの上に座る二人。
レギュラスは、胸を抑えていない方のアランの手をそっと取った。
指先に触れる手は、驚くほど熱かった。
つい先ほどまで激情の中にあった男とは思えないほど、
その仕草はあまりにも子供っぽく、あどけなさすら感じさせた。
「……どうしたんですか?」
アランは囁くように問う。
だが、レギュラスはただ、首を小さく横に振る。
目を合わせたまま、何も言わない。
まるで、言葉にしてしまえば壊れてしまう何かを抱えているように。
彼はただその手を離さず、指先を絡めていた。
静寂の中で、風がカーテンを揺らす。
窓の外では、午後の日差しがまだ淡く残っている。
遠くで時計の針が刻む音が、やけに鮮明に聞こえた。
アランは、彼が今どんな気持ちを抱えているのか、
ほんの少しだけ分かる気がした。
怒りも焦りも、言葉にできない苦しみも、
この静かな仕草の中に全て沈めているのだろう。
だからアランも、それ以上は何も聞かなかった。
ただ手を握り返し、沈黙を受け入れた。
二人の間に流れるその沈黙は、
どこか祈りのようで、
そして、痛みをそっと包み込むように穏やかだった。
広間の奥にある応接間──昼下がりの陽が差し込むその部屋は、静けさと温もりに包まれていた。
天井の高い空間に、古い時計の針の音がゆっくりと響く。
レギュラスは窓辺近くのソファに腰を下ろし、腕の中のアルタイルをあやしていた。
陽光がカーテンの隙間からこぼれ、柔らかく彼の頬を照らす。
赤子の髪に光が落ちるたび、淡い金色が瞬くように見えた。
アルタイルは眠たげに小さく身じろぎし、父の胸元に顔を埋める。
その温もりを感じているうちに、レギュラスの瞼にもゆるやかに眠気が差し込んでくる。
さきほどの行為の余韻がまだ体の奥に残っていた。
どこか気だるく、けれど穏やかで、ほんの一瞬だけ何もかもを忘れてしまえそうな静けさだった。
乳母が言っていた言葉を思い出す。
――「アルタイル様は、他の者に抱かれている時と、ご両親に抱かれている時とで全く表情が違われます」
その言葉が妙に嬉しくて、レギュラスは思わず口元を緩める。
この小さな命が、自分を父と認識しているのだとしたら。
それだけで、世界が許されるような気がした。
アルタイルの頬に手を添え、そっと指先で撫でる。
かつて心の奥にあった“あの男”の影――
アルタイルがシリウスの血を引いているという事実は、もう遠い過去の霞の中に沈んでいた。
嘘も、時間をかけて塗り重ねれば、それはいつしか真実に変わる。
この子は、もう完全に自分の息子だ。
そう言い聞かせながら、レギュラスは微笑んだ。
――その時だった。
「みっともないですよ、こんな時間から。」
母・ヴァルブルガの冷たい声が、広間の静寂を切り裂いた。
彼女は音もなく入ってきて、レギュラスの向かいの椅子に腰を下ろす。
手には杖。
彼女が一振りすると、レギュラスのシャツのかけ違えたボタンが、ひとりでに整った。
「……すみません。」
短く詫びる声には、わずかな体裁の悪さが滲んだ。
だが正直、もうそんなことはどうでもよかった。
母の視線の下で生きる窮屈さよりも、
アランとアルタイルが自分のもとにいるという事実の方が、
はるかに価値があると感じていた。
ヴァルブルガは脚を組み、じっと息子を見据えた。
「カサンドラの子が男児であったなら、当主は代わります。」
声は冷ややかで、まるで刃のように鋭かった。
「……産まれてから考えましょう。女児だったら、どうする気です?」
静かな返答。
挑発するでもなく、ただ淡々とした声。
それがかえってヴァルブルガの怒りを煽った。
彼女の表情がわずかに歪み、頬が引きつる。
怒りを隠そうともせず、息を荒くした。
それでも、レギュラスは何も言わなかった。
アルタイルを胸に抱いたまま、
瞼をゆっくりと閉じ、再び眠りに落ちようとする。
まるで言葉で争う価値すらないとでも言うように。
母の視線が突き刺さる中、
彼の唇にはかすかな微笑が浮かんでいた。
怒りも、権力も、家のしがらみも、
すべてを包み込むように眠る赤子の重み。
――この子のぬくもりさえあれば、それでいい。
そんな静かな確信が、
レギュラスの心をゆっくりと満たしていた。
広間の隅、厚手の柱の陰に身を寄せながら、カサンドラは息を潜めていた。
絹の裾が石の床を擦る音さえ、いまは憚られるほどに。
扉の向こうで聞こえるのは、母ヴァルブルガとレギュラスの低い声。
男たちの領域に踏み入ることは慎むべきだと知りながらも、
その言葉の一つ一つに、どうしようもなく心が縛られてしまう。
部屋の中では、陽の光が斜めに差し込んでいた。
レギュラスはソファに腰を掛け、アルタイルを抱いたまま微睡んでいる。
揺らぐ金の光が、彼の髪の上に柔らかく落ちていた。
その姿は、まるで絵画の中の父子のように美しく、穏やかだった。
――ただし、その絵の中に、自分という人物は存在していない。
胸の奥に、小さな痛みが走る。
昼過ぎに彼が屋敷へ戻ってきた時のことを思い出す。
帰宅してすぐ、アランの部屋へと消えていった。
誰の目にも明らかだった。
そして数時間後、アルタイルを抱いて階下に現れたとき――
その頬に浮かぶ、わずかな安らぎと満ち足りた表情が、
彼がどんな時間を過ごしていたのかを雄弁に物語っていた。
ヴァルブルガが杖を一振りし、レギュラスのシャツのボタンを直す。
「みっともないですよ、こんな時間から。」
その一言が、刃のように刺さった。
やはり――彼女も察しているのだ。
息子が誰の部屋で何をして過ごしていたのかを。
カサンドラは唇を噛んだ。
痛みが走るほど強く噛んでも、
胸の奥に湧き上がる焦燥と劣等感は消えてくれなかった。
いつだって彼の視線の先にいるのは、自分ではない。
副妃に過ぎぬあの女。
かつての使用人。
それでも、あの女の腕の中で眠ることを選ぶ男。
「カサンドラの子が男児であったなら、当主は代わります。」
ヴァルブルガの声が響く。
それに対して、レギュラスの静かな声が返る。
「産まれてから考えましょう。女児だったらどうする気です?」
――その瞬間、心臓を掴まれたような感覚に襲われた。
彼は、もし女児だった場合のことを“当然のように”想定している。
つまり、彼自身もそれを恐れているのだ。
自分が産む子が女であれば、
その存在は何の意味も持たない――そう言われたも同然だった。
カサンドラは両腕で、自らの腹を包み込んだ。
まだ小さくしか膨らんでいないその中に、
自分の存在理由が全て詰まっている。
どうか、男の子でありますように。
この家を正当に継げる、強く気高い子でありますように。
そうでなければ、わたくしは――
この家において、ただの「飾り」で終わってしまう。
レギュラスの穏やかな寝顔が、
まるで別の世界のもののように遠かった。
陽光に包まれて眠る彼の姿を見ながら、
カサンドラは静かに胸に誓う。
――たとえ愛されなくとも、
この家の頂点に立つ母としての誇りだけは、
決して奪わせはしない。
その祈りは、甘美な微笑の裏に隠れた、
決意にも似た狂気を帯びていた。
執務室には重々しい空気が流れていた。
壁際には古い地球儀と数冊の分厚い書物、そしてオリオン・ブラックが愛用する黒檀の杖が置かれている。
外では冬の冷たい風が吹き荒れていたが、暖炉の炎が室内にだけは穏やかな光を落としていた。
レギュラスは父の机の前に立ち、静かに報告を終える。
オリオンは椅子に深く腰をかけ、眼鏡越しに息子を見据えていた。
老いてなお、その瞳にはかつて魔法界で恐れられた貴族の威圧が宿っている。
「――闇の帝王はここ最近、裏切りを殊のほか恐れておられる。」
低く、重たい声だった。
「内部で密告が出たらしい。裏切り者を炙り出すために、あの方は“忠誠の印”を再び確かめておられる。疑わしき者は、容赦なく焼かれるそうだ。」
暖炉の薪が弾ける音が、ひときわ大きく響く。
レギュラスは無言で頷いた。
脳裏に浮かぶのは、闇の帝王――ヴォルデモートの冷ややかな声。
忠誠を問うその声が、呪文のように耳にこびりついて離れない。
「今はあの方は神経質になっておられる。失敗は許されない。」
オリオンの言葉は警告というより、もはや命令に近かった。
レギュラスは姿勢を正し、短く答える。
「心しておきます。」
彼の声には、わずかに緊張が混じっていた。
この屋敷の中でも、父の前だけは常に鎧を纏うようにしていなければならない。
――確かに、闇の帝王の様子は近頃、異常なほどに研ぎ澄まされている。
レギュラスは思い返す。
以前は命令を下すたびに余裕の笑みを浮かべていたヴォルデモートが、最近では頻繁に沈黙を挟むようになった。
誰かが不用意に口を開けば、その視線が鋭く突き刺さる。
まるで相手の心の奥を覗き込むかのように――いや、実際、覗いているのだ。
先日の集会でもそうだった。
闇の帝王は一人ひとりの名を呼び、腕の印を確かめるたびに、呪文のような囁きを重ねていた。
「裏切りは、己の肉の上で証明される。」
その言葉と共に、印が焼けるように疼いた。
誰もが顔を上げられなかった。
オリオンが椅子の肘掛けを軽く叩いた。
「お前はまだ若い。だが、“信頼される者”は、同時に“疑われる者”にもなる。それを忘れるな。」
「……はい。」
レギュラスの喉が、わずかに動いた。
父の忠告が胸の奥に沈む。
あの方の視線の中では、どんな忠誠も一瞬で試される。
たとえ完璧に振る舞ったとしても、心のどこかで揺らぎがあれば、それを見透かされる。
暖炉の火が静かに揺れ、赤い光がレギュラスの横顔を照らす。
その光は、彼の内に潜む焦燥と恐れを一瞬だけ浮かび上がらせた。
そしてまた、闇に溶けていく。
――忠誠を誓うほどに、己の自由は削がれていく。
けれど、それが今の彼に許された唯一の生き方だった。
神秘部の奥、光の届かない石造りの回廊に、足音が低く響いていた。
そこは魔法省の中でも最も静寂が支配する場所──時間の流れさえ、他とは違うように感じられる。
その奥の円卓で、報告がなされた。
「――裏切り者が出た。デスイーターの中からだ。」
重く低い声で、情報局の魔法使いが告げる。
レギュラスの手が書類の上で止まった。
「名は、アーサー・ダンウィック。」
彼の名が口にされた瞬間、部屋の温度が一気に下がったように感じた。
若くしてデスイーターの列に加わった男。
闇の帝王への忠誠を誓ったはずが、騎士団の一員に密告していたという。
どうやら彼は、数度にわたり任務の情報を外部に漏らしていたらしい。
先日の襲撃が失敗に終わったのも、そのせいだという。
「任務は筒抜けでした。
到着した瞬間、待ち伏せを受けました。結界が張られ、仲間が三人……戻りませんでした。」
報告を続ける声は淡々としていたが、空気の中には血の匂いがまだ残っていた。
レギュラスの胸中で、何かがざわめく。
騎士団の奴らは、ただの勘ではなく、確実に内部からの情報を掴んで動いている。
しかも、それが“あの方”にまだ知られていない段階でここに届いているということは、
魔法省の内部にも、もう何層かの裏があるということだ。
アーサー・ダンウィックの裏切りが公になれば、次に疑われるのは「近しい者」だ。
ヴォルデモートの疑念は、常に連鎖して広がる。
ひとたび誰かの信頼が崩れれば、その隣に立つ者も同時に呑み込まれる。
そして――
マグルの街での爆撃事故。
あれを完璧に処理したはずだった。
証拠も痕跡も、すべて闇の中に葬り去った。
だが、ジェームズ・ポッターが“薄らと”気づき始めている。
その名を思い出しただけで、レギュラスは無意識に拳を握りしめた。
あの男の洞察力は侮れない。
もしこのタイミングで何かが漏れれば──
「裏切り者」は、自分ということになる。
暖炉の炎が低く揺れる。
赤い光が、石壁に映りこみ、まるで血のような模様を描いた。
レギュラスは静かに目を閉じる。
――慎重に動け。
今は一手の誤りが、命取りになる。
息を吐いた。
その吐息が白く揺らめき、重たい闇の中に溶けていった。
まるで嵐の前触れのような不気味な静けさが、神秘部の廊下を包み込んでいた。
魔法界に不穏な風が吹き始めていた。
レギュラスたちが闇に身を置いて動いているその裏側で、騎士団の側でも小さな亀裂が生じていた。
――アーサー・ダンウィック。
デスイーターの中から、命を懸けて情報を送ってくれていた男。
その彼からの連絡が、ある日を境に途絶えた。
最後の報告は短かった。
「ヴォルデモートが“予言”を探している。」
それが、彼の残した最後の言葉だった。
その後、彼の姿を見た者はいない。
おそらく、動向が露見し、闇の主の手で“粛清”されたのだろう。
彼の名が闇の帝王の前で呼ばれた瞬間、どれほどの恐怖が走ったのか――想像するだけで背筋が冷たくなった。
ヴォルデモートは今、用心深くなっている。
かつてのように見せしめのような殺戮ではなく、
静かに、緻密に、裏切り者を炙り出す。
その冷徹さが、むしろ恐ろしかった。
アーサーが命を賭して伝えた“予言”は、騎士団に衝撃を与えた。
それは未来の断片――やがてヴォルデモートを倒す「予言の子」の存在を示していた。
生まれるのは七月。
その子は、闇の帝王の力を滅ぼす運命を持つ。
騎士団の面々は、皆その話に息を呑んだ。
「それが本当なら、我々にとって希望の光だ。」
そう言ったのは、ダンブルドアだった。
だが、同時にその“希望”は、ヴォルデモートにとって最大の“脅威”でもある。
そして、彼がその“子”を探し始めているという事実は――つまり、誰かの命が狙われているということだった。
シリウス・ブラックは、その夜、暖炉の前で頭を抱えていた。
焔の光が、憔悴した横顔を照らしている。
「……もし、その子がジェームズの子だったら。」
呟いた声が、誰に届くこともなく消えていく。
親友の家では、まもなく子が生まれる。
七月の予定だ。
予言が指す“七月に生まれる子”が、まさか――。
胸の奥が焼けるようだった。
かつてアランを失った時のように、
また、自分の大切な人を闇が奪っていくのではないか。
そんな恐怖が押し寄せてきた。
ジェームズも、同じ思いでいた。
いつになく眉間に皺を寄せながら、
地図を広げ、屋敷の防衛呪文の見直しをしている。
「心配すんな。ぜってぇお前たちのことは、俺が守る。」
そう言ったシリウスの声には、強い決意が滲んでいた。
焔の前で交わした約束――それは二人にとって、
もう後戻りのできない運命の宣誓のようでもあった。
ジェームズはふっと笑みを浮かべる。
「君がいると、本当に心強いよ、親友。」
その言葉が、心の奥に沈んでいく。
――アランに引き続き、今度は親友まで闇に奪われるわけにはいかない。
シリウスの胸の奥で、静かに燃える炎があった。
それは復讐でもなく、義務でもなく――ただ純粋な“愛”の形だった。
闇の夜が迫る中で、その炎だけが、確かに彼の魂を照らしていた。
広間には穏やかな昼下がりの光が差し込んでいた。
磨き上げられた大理石の床に、レースのカーテン越しの陽光がやわらかに揺れている。
アランは、窓際のソファに腰かけながらアルタイルを腕に抱いていた。
ラジオからは古びたノイズ混じりの声が流れている。
「――闇の帝王を滅ぼす“予言の子”が現れる。
一方が生きる限り、他方は生きられぬ。」
その言葉を耳にした瞬間、アランの胸に小さな震えが走った。
予言の内容は恐ろしくもあり、どこかで希望のような光を含んでいる。
闇の時代の終焉を予見するようなその言葉は、誰もが望み、誰もが恐れる未来そのものだった。
腕の中で眠るアルタイルの小さな頬に指先をそっと触れる。
やわらかく温かい命の重みが、現実に引き戻してくれる。
「あなたが大人になる頃、この世界はどんな姿をしているのでしょうね……」
アランは小さく呟いた。
この子の未来に、シリウスが望んでいたような自由があってほしい。
血や家柄や、純血という鎖に縛られず、
誰もが同じように息をして笑える世界。
差別のない、太陽のように明るい世界を――。
予言の子は“希望”だ。
その存在がたとえ他の誰かであっても、
この魔法界に再び光をもたらすなら、それでいい。
アランの心には、そんな静かな祈りが芽生えていた。
背後から足音がした。
「不穏な予言ですわね。」
振り返れば、カサンドラ・ロズィエがゆるやかに入ってくる。
ゆったりとした深緑のドレスを身に纏い、大きく膨らんだ腹を両手で支えていた。
歩くたびに、絹の裾が床を擦る音が広間に響く。
「魔法界に混乱が起きそうです。」
アランがそう応じると、カサンドラは微笑みながらソファに腰を下ろした。
「お体の具合はいかがですか?」
「ええ、落ち着いていますの。」
その返答は穏やかだったが、
腹を撫でる手にはわずかな緊張が宿っていた。
「お腹の出方が大きいから、男児ではないかと言われているのよ。」
そう言って微笑むカサンドラ。
アランは静かに礼をし、
「それはおめでたいことでございます。」と口にした。
けれど、カサンドラの視線が鋭くアランを射抜く。
まるでその祝福の言葉が本心かどうかを、試すように。
一瞬、広間の空気が張りつめた。
アランは微笑みを崩さず、視線を落とす。
――彼女もまた、男児を望んでいる。
腹の中の子が男であるなら、ブラック家の未来はカサンドラのものとなる。
だが、アランは違った。
アルタイルにその座を望んでいない。
この屋敷に流れる血の誇りも、権力も、
そのどれもが呪いのように重たく見えた。
「この家は、光よりも闇が濃すぎる……」
心の中でそう呟く。
富も名声も、愛する人を奪い、真実を歪める。
そんなものに縛られない世界で、
アルタイルが息をして生きていけるのなら――
それが、アランの唯一の願いだった。
遠く、ラジオから再び声が流れる。
「やがてその子は、闇を裂き、魔法界に新たな光をもたらすでしょう。」
アランは瞼を閉じた。
揺れる子守唄のような声が、心の奥で響く。
まるで、希望という名の予言が、
この広間にも静かに降り注いでいるようだった。
広間の朝は、いつもより重たく沈んでいた。
窓から差し込む陽光さえ、まるで灰を纏ったように鈍く感じられる。テーブルの中央に置かれた銀のポットから湯気が立ちのぼる音だけが、やけに耳についた。
ラジオも新聞も、どれもが同じ話題で埋め尽くされていた。
“予言の子”――
それは昨夜から、瞬く間に魔法界中を駆け巡った言葉。
朝刊の一面はもちろん、『デイリー・プロフェット』だけでなく、『ウィッチ・ウィークリー』や地方の小紙、さらにはマグル界にも波及しかけているという噂まであった。
どの媒体も、見出しは似たり寄ったりだった。
「闇を滅ぼす子、七月に誕生か」
「予言者トレローニーが語る“運命の二人”」
「ヴォルデモート卿、次なる標的を探す」軽薄な推測と誇張された恐怖が入り混じり、朝から魔法界の空気をざわめかせていた。
オリオン・ブラックは、そんな見出しを睨みつけながら、苛立ちを隠そうともせずに新聞をテーブルの上に叩きつけた。銀の食器がわずかに揺れ、ティーカップがカタリと音を立てる。
「馬鹿げている……この予言騒ぎときたら。」
低く吐き捨てるような声。
誰もその言葉に反応しようとはしなかった。
一族の朝食の席に漂うのは、まるで冷気のような緊張感だった。オリオンが苛立っているときに、軽々しく何かを言う者などいない。
長い沈黙のあと、オリオンは静かに新聞を折り、レギュラスの方へと顔を向けた。
「レギュラス、このあと少し話そう。」
短い一言。だがその声音には、確かな圧があった。「はい。」
レギュラスの声は冷静だった。
それでも、広間の空気が一段と張り詰めていくのが誰の耳にもわかった。
この父と子のあいだに交わされる“話”が、決して柔らかなものではないことを、皆が知っていた。
アランは、黙ったまま紅茶に口をつけた。
カップの表面がわずかに震えている。
カサンドラもまた、視線を新聞の上に落としたまま、なにかを計算するようにゆっくりと息を吐いた。
食事が終わる頃、オリオンが椅子を引き立ち上がる。彼のローブの裾が床を払う音だけが響いた。
その背中を、無言のままレギュラスが追う。
去る前に、レギュラスはほんの一瞬だけ振り返り
アランの腕の中にいるアルタイルへと視線を落とした。
赤子はパンの欠片を掴もうとするように、短い腕をのばしている。
「あとで遊びましょう、アルタイル。」
レギュラスは微笑んだ。
それは一瞬だけ陽が差したように優しい微笑だった。アランは、アルタイルの腕をそっと押さえながら小さく首を振る。
「今はだめよ。」
声に出さずに、ただ唇の動きだけで伝える。
レギュラスはアランの視線を受け止めた。
その眼差しには、言葉にできない思いが交錯していた。そして彼は静かに頷き、父の後を追って広間を出ていった。
扉が閉じると、残された空気が一気に沈みこむ。
アルタイルが不満げに小さな声を上げた。
アランは微笑んで、幼い頬を撫でる。
――嵐の前の静けさ。
そんな言葉が脳裏を過った。この朝の光が、やがて訪れる暗雲を予感させるように鈍く揺らめいていた。
父の書斎には、いつもと変わらぬ静寂が満ちていた。
だがその日は、その静けさが妙に耳に痛かった。
壁一面を覆う古い書物の香り、燭台の炎が僅かに揺れる音――
そのどれもが、これから交わされる“重い話”の前兆のように感じられた。
レギュラスは、父オリオンの机の前に立ったまま沈黙していた。
何を切り出されるのかなど、もう分かっている。
予言の子の話――
魔法界の至るところで囁かれている、不穏でありながらも希望を帯びたあの言葉だ。
「予言の子のことだ。」
低く落とされた声が、書斎の空気を震わせる。
「闇の帝王に三度挑んだ者で、七月に生まれる子を探せ。
その情報を――あの方に渡すのだ。」
沈黙が落ちた。
重く、長く、息苦しい沈黙だった。
レギュラスは、机の上の羽ペンを見つめながら、わずかに眉をひそめる。
「……本気ですか。」
抑えた声だった。だがその奥には明確な疑念があった。
「たかだか予言に。」
その言葉に、オリオンの目が細められた。
だが、息子の反抗を咎めるような怒気はなかった。
むしろ、息を呑むほど冷静で――その分、恐ろしかった。
レギュラスは、学生時代から“予言”という曖昧な学問を信用したことがなかった。
ホグワーツでも占い学の授業は取らなかった。
未来を読むなどという、不確かな幻を信じることほど愚かしいことはないと思っていた。
水晶球を覗きこみ、夢見がちな言葉を並べ立てる者たちを、
どこか遠い世界の住人のように眺めていた。
――そして今、
その“くだらないもの”を、闇の帝王自らが追い求めているというのか。
笑い話にもならない。
「闇の帝王ともあろう方が、
そんな子供じみた予言を信じているのですか。」
吐き捨てるように言った。
オリオンは微動だにしない。
整えられた白髪に、歳月の刻んだ深い皺。
だがその瞳だけは、いつまでも若いままだ。鋭く、研ぎ澄まされた刃のように。
「――あの方は、脅威の火種となるものをすべて排除したいとお考えなのだ。」
静かな声。
しかしその言葉の裏には、命令以上の“意志”があった。
レギュラスは短く息を呑み、
やがて小さく頷く。
「……探しましょう。」
声は落ち着いていたが、胸の奥では何重にも疑問符が渦巻いていた。
未来を定めるなどという曖昧なもののために、
無辜の命を探し出し、差し出すという愚行。
それが“秩序”のため、“血統”のためだと言い聞かせても、
理性の奥で小さく疼く良心が、静かに抗っていた。
父の机の上では、黒檀の羽ペンが燭火を反射している。
その光が、まるで血のように赤く見えた。
レギュラスは無言のままそれを見つめ、
胸の奥に、冷たい不安の影を落とした。
――闇は、もうとっくに世界を覆い尽くしている。
なのに、人々はまだ“未来”を探している。
それがどんな犠牲を生むのかも知らぬままに。
オリオンの書斎を後にしたレギュラスの足取りは、いつになく重かった。
父の言葉が、ひとつひとつ胸に残響のようにこびりついている。
「もうすぐ出産を迎えるカサンドラを、もう少し気にかけろ。」
その一言が、まるで心の奥を突かれたように痛んだ。
確かに、彼女の存在をあまりにも放置していた。
妊娠を知らされた当初は、それなりに気を使い、好物を取り寄せたり、贈り物を送ったりもした。
けれど、時が経つにつれ、アランの存在が彼の思考を独占していった。
気づけば、カサンドラの部屋を訪ねることもなくなっていた。
正妻――
ブラック家の当主の座を支える、正式な妻。
ロズィエ家の令嬢であり、格式も家系も申し分ない女。
それなのに、自分はどこまで不義理を働いているのか。
廊下を歩くたび、カーペットに沈む足音が、罪の意識のように重く響いた。
燭台に揺れる金色の灯りが、壁に長く伸びた影を作る。
その影の中を抜けるようにして、レギュラスはカサンドラの部屋の扉を叩いた。
「レギュラス様……?」
驚きに満ちた声。
久しく訪ねてこなかった夫の姿を目にして、カサンドラは一瞬言葉を失った。
けれどすぐに、微笑みを取り戻す。
その表情には、わずかに安堵の色さえ滲んでいた。
「体調はいかがです? 医務魔女からは順調だと聞いていますが。」
まるで常日頃から気にかけていたかのような口ぶりで、レギュラスは言った。
自分でも、滑稽な嘘だと分かっている。
それでも、何か言葉をかけなければこの場が耐えられなかった。
「ええ、あとは陣痛を待つばかりです。」
カサンドラの声は穏やかだった。
だがその穏やかさは、長い孤独の末に得た静けさのようでもあった。
「何か必要なものがあれば何でも言ってください。取り寄せます。」
「……いいえ。あなたが来てくださっただけで、十分ですわ。」
そう言って、カサンドラはそっと手を伸ばし、レギュラスの太ももに触れた。
その仕草は、愛を求めるというよりも、確かめるような慎ましさに満ちていた。
「ひとつ、お願いがありますの。」
「何でしょう。なんなりと。」
その瞬間、レギュラスの胸の奥に、鋭い痛みが走る。
――アラン。
どうしても、彼女が頭を離れない。
カサンドラを目の前にしても、心の中心にいるのはいつだってあの翡翠の瞳だった。
正妻を差し置いて、想いを向けることの背徳を理解していながら、
それでも、理性を押しのけるほどにアランを愛している自分がいた。
「これから生まれてくる子は、ブラック家とロズィエ家の誇りを継ぐ子です。」
カサンドラの瞳はまっすぐで、曇りがなかった。
その純粋さが、逆に胸を締めつける。
「どうか……この子が、蔑ろにされることのない人生を歩めるよう、
あなたが導いてあげてください。」
――ああ、やはり。
レギュラスは悟る。
彼女が言いたいことは、あまりにも痛いほど理解できた。
正妻の子が、副妃の子の影になるなど、あってはならない。
だが、その現実が、今まさに形を成し始めていることもわかっている。
アルタイルという存在。
あの翡翠の瞳。
誰よりも愛した女が産んだ息子――
血の真実を知らずとも、レギュラスの心はその子を本当の息子のように感じていた。
その矛盾こそが、自分を最も苦しめている。
「できる限り、あなたの望むような決定をしたいと思っています。」
それが、今の彼に言える精一杯の言葉だった。
確実な約束などできない。
生まれてくる子が男児であれば、ブラック家の正統な後継ぎとなる。
だが、もし女児であれば――
どんなに愛しても、どんなに誇り高くとも、
この家の玉座に座ることは許されない。
それが純血社会の残酷な秩序だった。
「ありがとう、レギュラス様。」
カサンドラの微笑みは、どこまでも静かで、優しかった。
その笑みを見て、レギュラスはようやく少しだけ息を吐く。
――この微笑みを裏切り続けている自分が、どれほど罪深いか。
それでもなお、アランを愛しているという現実を、
いったいどうすれば否定できるというのか。
書斎を出るときよりも、心はずっと重たくなっていた。
背後でカサンドラが腹を撫でる気配がした。
その中で芽吹こうとしている新しい命の鼓動が、
静まり返った空気に淡く響いていた。
――この家の未来は、また一つ、複雑に絡み合っていく。
レギュラスは扉を閉め、
ほんのわずかに頭を垂れた。
アルタイルがこの世に生を受けてから、もうすぐ一年が経とうとしていた。
月日とはどうしてこうも早く過ぎていくのだろう。
ついこの前まで、掌の中で泣きじゃくっていた命が、今ではひとりで座り、
静かに窓の外の景色を眺めている。
冬の光が薄く差し込む寝室。
レギュラスは寝台の脇に腰を下ろし、
じっとその小さな背中を見つめていた。
アルタイルは窓辺に置かれた木の積み木を手にして、
時折、不思議そうに光を追っている。
その仕草――
まるでアランがふと物思いに沈むときの、あの柔らかな佇まいに酷似していた。
ときどき、首を少し傾けて何かを考え込むような表情をする。
微かな鼻歌のような声を出しては、自分の世界に沈み込む。
その横顔の線が、光を受けて透き通るように浮かび上がると、
胸の奥が締め付けられるほどに愛おしくなった。
――なぜ、これほどまでに。
この子を抱き上げるたび、理由のない愛しさが込み上げてくる。
血の真実を知る自分にとって、それはある意味、罰のようでもあった。
だがそれでも、アルタイルはレギュラスにとって息子以外の何者でもなかった。
どんな真実が隠れていようと、この手で守り抜くことだけは疑いようもない事実だった。
しかし、ふと未来を思うたび、胸がざわめく。
――この子が、カサンドラの産む子と争う日が来るのだろうか。
その想像は、あまりにも恐ろしかった。
かつて自分が兄と対立し、憎しみのまま袂を分かったように、
血を分けた兄弟が杖を向け合う――
その惨劇を再び繰り返すことなど、想像するだけで吐き気がした。
アルタイルをどう導けばいいのか。
カサンドラの子をどの位置に据えてやるのが正しいのか。
考えれば考えるほど、答えは遠のいていった。
もし、カサンドラの子が男児であったなら――
それは即ち、アルタイルがこの家の玉座に座る未来が絶たれるということ。
正妻の子であるというだけで、その子が後継ぎになるのは当然の理。
だがそうなれば、アルタイルの居場所はどこにあるのだろう。
かつて兄がそうであったように、
この屋敷から追われ、孤独のうちに去っていく未来が待っているのではないか。
アルタイルが去るということは、アランもまた、この家を離れるということだ。
それを想像するだけで、息が詰まった。
彼らを失うくらいなら、全ての秩序を壊してでも――と、一瞬考えてしまう自分がいた。
しかしもし、カサンドラの子が女児であれば――
その時、アルタイルはこのブラック家の新たな当主として名を刻む。
それは喜ばしい未来であるはずなのに、
レギュラスの胸には、別の恐怖が巣くっていた。
権力と嫉妬の渦の中で、またアランが狙われるのではないか。
かつて、あの毒のような悪夢を思い出す。
産後の彼女を苦しめ続けた体の不調。
医務魔女の口から告げられた“毒物の反応”という言葉。
――おそらく、母か、妻か。
どちらかの手によるもの。
レギュラスはそれを悟っていながら、声を上げることができなかった。
自分が選んだ立場と血筋の呪いが、真実を押し殺した。
けれど、あんなことが二度と繰り返されてはならない。
アランの苦痛も、アルタイルの未来も、
今度こそ、自分の手で守らねばならない。
窓の外で、冬の陽光が雪を照らす。
アルタイルはそれを見つめながら、小さな指を光にかざしていた。
レギュラスはそっと腕を伸ばし、その細い肩を包み込む。
子どもの体温が掌に広がると、
胸の奥に固く結ばれた決意が、静かに形を持ちはじめた。
――この子だけは、絶対に守る。
たとえ、世界のすべてを敵に回しても。
夜の空気は、ひどく冷えていた。
デスイーターたちが集う古の館の奥、黒い焔がゆらめく広間。
その中心に立つのは、闇の帝王――ヴォルデモート卿。
彼の周囲を取り巻く黒衣の影が、静かに膝をついている。
燭台の火が、その不気味な沈黙を照らし出していた。
レギュラスはその列の中にいた。
顔を上げることなく、ただその声を待つ。
闇の帝王の声は、冷ややかでありながらも陶酔を誘う魔力を孕んでいた。
「……七月に生まれる子がいる。」
ざわりと空気が揺れる。
ヴォルデモートの蛇のような瞳が、ゆっくりと左右を見渡した。
「その子が――我が脅威となる。
だが、まだ芽の段階だ。芽は、潰しておかねばならぬ。」
その言葉に、広間の空気が一層濃密になる。
誰もが息を潜め、次の一言を待った。
「騎士団の中にいる。」
ヴォルデモートの声が落ちる。
「ポッター――ジェームズ・ポッター。その妻リリーの腹にいる子だ。」
その名が響いた瞬間、レギュラスの胸にざらりとした快感が走った。
あの男。
ホグワーツ時代から何かと鼻につく存在だった。
あの軽薄な笑みも、正義を気取った立ち居振る舞いも、すべてが癪に障った。
――まさか、あの男の家に予言の子が生まれるとは。
皮肉な運命だ。
何と都合のいいことか。
己の手で討つに足る理由が、これほどまでに完璧に整うとは。
レギュラスは内心で嗤った。
拍手をして祝いたいほどの出来事だった。
闇の帝王は続けた。
「ポッターの血統を断て。
妻も子も、すべてこの世から消し去るのだ。」
その命が下された瞬間、
黒衣の者たちの間に狂気じみた興奮が広がった。
歓喜にも似たざわめきが、広間の隅々まで満ちていく。
だがレギュラスだけは、その渦の中で静かだった。
唇の端をわずかに上げ、目を細める。
――これでいい。
これで、長年の胸の澱がようやく晴れる。
「芽は潰しておかねばならぬ。」
ヴォルデモートの言葉が、耳の奥で繰り返される。
それは呪文のように、ゆっくりと彼の脳裏に焼きついた。
