3章
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ここまでアランを追い詰めたことは、かつて一度もなかった。
普段のレギュラスは冷静沈着で、怒りを露わにすることなど滅多にない。
だが――一度、たがが外れた。
その瞬間から、すべての理性は砂のようにこぼれ落ちていった。
怒りが胸の内で泡立ち、彼自身を焼く。
もはや、何を差し出されれば赦せるのかもわからなかった。
何を奪い取れば、この憎悪が静まるのかも見当がつかない。
レギュラスは、机の引き出しに手を伸ばす。
そこにはずっと――渡す機会を逃していたものがあった。
封の切られた手紙の束。
淡い青の封筒には見覚えがある。
差出人は、シリウス・ブラック。
「……そうだ、思い出しました。」
彼の声は氷のように冷たかった。
「いつか渡してやろうと思っていたんです。
でも――今が一番いいでしょうね。」
レギュラスはそれらを、アランの目の前にパラパラと落とした。
音を立てて、床に散らばる封筒。
宛名に記された筆跡を見た瞬間、アランの血の気が引いた。
「……これは……」
彼女の指先が震えながら、手紙の一つに触れる。
封を開けなくとも、彼には内容がわかっていた。
“愛している”
“君の体を気遣っている”
“いつか迎えに行く”
そんな歯の浮くような言葉が、どの手紙にも踊っていた。
「どうです?」
レギュラスの声が低く響く。
「幸せですか?」
アランの喉が鳴った。
唇が震え、言葉を搾り出す。
「……ごめんなさい……本当に……軽率でした……」
手紙を胸に抱くように握り締め、俯いたまま涙をこぼす。
その姿は懺悔のようでいて、レギュラスの目には滑稽に映った。
「シリウスからの手紙ですよ。読めばいい。
僕の前だと読めませんか?」
その声音は柔らかいのに、突き刺さるほど冷ややかだった。
もう止めようとしても、止まらなかった。
アランの震え、息づかい、怯えた眼差し――
その全てが癇に障った。
怒りに身を委ねたまま、レギュラスはアランを見下ろした。
だが、胸の奥に微かに残るものがあった。
情けないほどに消えない、愛情だった。
――なぜ、ここまで踏みにじられてもまだ愛せるのか。
――どうして、この女ひとりを許せないのに、見放せもしないのか。
自分でも理解できない。
理解したくもない。
アランはひたすら、手をつき、詫びを重ねた。
言葉のたびに涙が床に落ち、広がっていく。
それはまるで、懺悔の雨のようだった。
レギュラスは静かに息を吐く。
彼女の肩は小刻みに震え、髪が涙に濡れて頬に張りついていた。
冷たい石床の上で跪く姿が、見ていられないほど痛々しかった。
――もうやめろ。
頭の奥で声がした。
このままでは、彼女の身体がまた壊れてしまう。
そうなれば、結局苦しむのは自分だ。
分かっている。
それでも、赦しの言葉は喉の奥で凍りついたままだった。
「……立ってください」
ようやく絞り出した声は、怒りではなく、疲弊に満ちていた。
アランは顔を上げられず、ただ涙を落とし続ける。
レギュラスは瞼を閉じ、拳を強く握り締めた。
赦したい。
だが――まだ、赦せない。
冷たい床の上、二人の間には、
もう愛とも怒りとも呼べない沈黙だけが、
ゆっくりと積もっていった。
その夜、二人の間に会話はなかった。
息づかいさえ、互いの存在を拒むように静かだった。
レギュラスは書を広げ、淡い灯りの下でページをめくっている。
その仕草はいつも通り落ち着いて見えたが、ページを繰る指先はわずかに震えていた。
アランはその音を数えるように聞きながら、胸の奥に沈んでいく不安を掻き消す術を探していた。
――どうすれば、この空気を和らげられるのだろう。
頭の中で幾度も思考が巡る。けれど、答えは出なかった。
ただ一つだけ思い浮かんだ行動があった。
それはあまりにも浅はかで、哀れな方法。
女であるという最後の武器を差し出すやり方だった。
もし、拒まれたなら。
もう本当に、何もできなくなる。
そう思うと、恐怖で胸が締め付けられた。
それでも――動いた。
ベッドに入る。
レギュラスの体温の届く場所まで、そっと滲むように近づく。
指先を伸ばす。
その手が震えているのが、自分でもわかる。
空気の重みが、肌にまとわりつくようだった。
レギュラスが視線を上げた。
読んでいた書を閉じ、静かにアランの方へ目を向ける。
その灰色の瞳が、炎の光を受けて深く揺れた。
「……なんです?」
低く、淡々とした声。
問われても、答えられない。
言葉ではなく、ただ視線で、想いを伝えようとした。
伸ばした指先を、そっと彼の肩に置く。
冷たい感触。
だが、その手を振り払われることはなかった。
それだけで、胸の奥にかすかな安堵が灯った。
沈黙。
時計の音すら遠のくほどの沈黙が続いた。
やがて――レギュラスが、ゆっくりとアランの手首を取る。
引き寄せられる力は、拒絶ではなく、決意のように確かなものだった。
唇が触れた。
触れた瞬間、アランの心臓が跳ねた。
痛みではない。救いのような熱だった。
拒まれなかったことに、涙が出そうなほどの安堵を覚える。
息が触れ合う距離で、ようやく張り詰めていた糸が緩んでいく。
――この人に許されたい。
――この人の中に、まだ自分が存在していたい。
それだけの想いで、アランは彼を受け入れた。
けれど体は本調子ではなかった。
今日外に出たせいか、痛みが深く滲むように広がっていた。
それでも構わなかった。
もし、この痛みの先に、彼の赦しがあるのなら。
レギュラスの指が髪をほどき、背をなぞる。
そのたびに、アランの呼吸が浅くなっていく。
産後初めて触れ合うその行為は、
出産の際に裂けた痛みの記憶を呼び起こした。
体の奥で軋む感覚に、反射的にレギュラスの体にしがみつく。
「……怖いんですか?」
耳元で、彼が囁く。
その声が優しいほど、胸が痛んだ。
「いいえ……違うの……」
言葉にならない吐息がこぼれる。
痛みと赦しと愛情が、ひとつに混じり合っていた。
こんな形でしか繋がれないのなら、それでも構わない。
アルタイルのために。
父のために。
一族のために。
そのすべてを護るために――
アランは、壊れかけた体のまま、
レギュラスにすべてを差し出した。
彼女の涙が枕を濡らし、灯火がゆらめく。
その光の中で、二人の影が静かに重なっていった。
久しぶりにアランを抱いた夜、レギュラスは自分の内に渦巻いていた激しい怒りが、まるで潮が引くように静まっていくのを感じていた。
あの昼間、冷たい言葉を浴びせ、詰め、突き放したのは他でもない自分だ。
それなのに、今こうして触れているだけで、全ての苛立ちが、雪解けのように消えていく。
人の心とは、なんと脆く、残酷にできているのだろう。
アランの体温が肌に伝わる。
彼女は怯えていた。
それでも逃げなかった。
触れられるたび、ひとつひとつ息を詰め、細い肩を震わせていた。
その震えに、罪悪感と、どうしようもない愛しさが混ざって胸を掴む。
長いこと抱いていなかった。
アランにとっても、久しぶりの交わりだったはずだ。
翡翠色の瞳が、不安げに揺れながらも真っ直ぐにこちらを見ている。
その眼差しの奥に、拒絶ではなく、赦しがあった。
言葉にできないほどに、愛おしかった。
レギュラスは彼女の手を取り、指先を絡める。
そして唇を合わせた。
唇が触れるたびに、世界が静かになる。
まるで互いの存在だけが、この夜のすべてであるかのように。
アランの呼吸は浅く、熱を帯びていた。
長い髪が枕に散り、白い喉が仄暗い灯りの中で震える。
その姿に、理性が溶けていく。
レギュラスは彼女を深く抱きしめた。
至るところで繋がっていたかった。
最奥で、指先で、唇で。
触れられる場所すべてで、互いの温度を確かめ合いたかった。
溢れるような切なさと渇望が入り混じり、言葉にならない吐息が重なっていく。
「……好きです、アラン。」
その一言に、あらゆる感情が詰まっていた。
赦しも、悔いも、愛しさも、全部。
昼間、冷酷な言葉をぶつけた。
詰め、傷つけ、泣かせた。
それでも――彼女を抱きしめた今、
心の奥に残っていた黒い感情が、少しずつ光に溶けていくのを感じた。
アランは何も言わず、ただ小さく頷いた。
その頷きが、どんな言葉よりも重たく響いた。
恐怖も、不安も、全てを呑み込んで、
ただこの瞬間だけ、彼のために自分を差し出すその強さ。
その愚かで、美しい覚悟を――レギュラスは心の底から愛していた。
やがて、夜が静まり返る。
炎が小さく揺れ、二人の影を壁に映す。
汗と涙が交わり、呼吸が重なり、
その境界さえ曖昧になっていく。
この夜、赦しも愛も、罪も全部ひとつになった。
そしてレギュラスは、彼女の名を何度も呼んだ。
まるでその声で、互いの罪を洗い流すように。
――アラン。
君を愛している。
それが、どうしようもなく痛いほどに真実だった。
再びその街に降り立ったとき、レギュラスの胸の内には、かつてのためらいの欠片も残ってはいなかった。
あの日、騎士団が割り込み、計画が頓挫した失態――。
今度こそ、完璧に終わらせなければならない。
「今度はしくじるわけにはいかないぞ、レギュラス。」
ルシウス・マルフォイの冷ややかな声が夜気を裂く。
「ええ。騎士団の巡回も、結界の抜け道も、すでに確認済みです。」
レギュラスの声は揺れなかった。
黒い外套の裾を翻し、数人のデスイーターたちが静かに動き出す。
街の上空には薄い霧が漂い、月は鈍い金色の光を落としている。
もはやこの場所に生者の温もりがあるとは思えなかった。
標的は――街そのものだった。
孤児院も、商店も、家々も、すべてを燃やし尽くす。
純血主義の秩序を脅かす芽を、一つ残らず摘み取るために。
「後始末は僕がやります。」
レギュラスは淡々と告げた。
彼の指先から放たれた呪文が、夜空を赤く染める。
炎は波のように広がり、建物の影を飲み込んでいった。
逃げ惑う悲鳴が遠くで響くが、彼の表情は微動だにしない。
それが誰の声であろうと、もはや耳に届かない。
燃え尽きた街の上に、静寂が戻る。
レギュラスは杖を構え、冷静にアリバイ工作のための呪文を繋げていく。
一つは《Confundus Maxima》――大規模混乱の呪文。
生き残った者たちの記憶に「魔法使いの襲撃」という概念を残さないよう、
事故や爆発にすり替えるための記憶操作だ。
さらに《Obliviate Chain》を使い、街の周辺にいたマグル全員の記憶を連鎖的に消去していく。
証拠として残る魔力痕跡も、《Evanesco Core》で完全に蒸発させた。
痕跡のひとつひとつを丹念に消していく姿は、まるで学術実験のように精密だった。
最後に、デスイーターたちの出入り口として使った姿くらましの地点には、
《Reversum Illusio》――幻影逆転の呪文を展開する。
現場に残る転移痕跡を、あたかも“マグルの爆発物による誤作動”として見せかける。
これで、どんな魔法捜査官が嗅ぎつけても、真実には辿り着けない。
「……完璧だ。」
レギュラスは杖を下ろし、冷えきった空を見上げた。
赤く揺れる炎の残滓が、夜風に溶けていく。
あれほど罪悪感に苛まれていたはずの行為なのに、
今は胸の奥が不気味なほどに静かだった。
――これでいい。
闇の帝王の望む世界のため。
ブラック家の名誉のため。
アランとアルタイルを守るため。
そう言い聞かせる。
冷静に、徹底的に。
全てを終えられたのは、あの夜アランと交わったからだと思った。
彼女の体の奥で感じた鼓動。
赦しと涙にまみれた唇の感触。
それが、どんな薬よりも彼の神経を鎮めていた。
――男という生き物は、つくづく単純だ。
あれほどの怒りも、疑念も、
吐き出した体液と共に静まり果てた。
夜の闇の中、レギュラスは外套の内で拳を握る。
その手には、まだアランの体温が残っていた。
それが唯一、彼の正気を繋ぎとめているものだった。
ジェームズ・ポッターは、焼け落ちたマグルの街の現場を見下ろしていた。
灰と煙の残り香が鼻を刺す。
一見すれば、ただの火災――それも不運な爆発事故のように見える。
だが、騎士団の一員として幾多の現場を見てきた彼の目は、そこに説明のつかない違和感を見出していた。
報告書をめくる。
目撃者の証言はすべて整然と並び、辻褄が完璧に合っている。
まるで一つの脚本でもあるかのように、誰もが同じ時間、同じ方向、同じ炎の流れを語っていた。
「偶然」――それで片付けるには、あまりに出来すぎていた。
火の手が最初に上がったのは街の外れの孤児院。
そこから燃え広がり、あっという間に街全体が炎に包まれたという。
しかし、ジェームズの目が止まったのは、瓦礫の間に残された焦げ跡の“形”だった。
普通の火災では説明がつかない、円形の焼痕。
それはまるで、魔法陣を逆流させた跡のように見えた。
――消滅呪文だ。
だが報告書には、その可能性すら触れられていない。
それどころか、鑑定部の報告には「自然発火による事故」と断定されている。
まるで誰かが、最初から魔法の痕跡を抹消したような跡の残らなさ。
それが唯一、完璧な脚本の中に残された“矛盾”だった。
ジェームズの胸に、冷たいものが走る。
――闇の帝王の手が動いたのではないか?
その可能性を考えざるを得なかった。
だが、確たる証拠はない。
闇の帝王の名を軽々しく出せば、それだけで無用な混乱を招く。
それでも、彼の直感は告げていた。
この事件は――ただの火災ではない。
脳裏に浮かぶ、ひとりの女の姿。
アラン・ブラック。
あの日、マグルの街で行われた騎士団の催し。
子供たちに魔法を披露する壇上のシリウスの姿を、
群衆の中から見つめていた女。
翡翠のような瞳に宿る光は、
まるで今でも彼を愛していると言わんばかりの真摯な熱を帯びていた。
その瞬間、ジェームズは悟った。
シリウスはまだ――彼女を忘れていない。
そして彼女もまた、シリウスの中で生き続けている。
だが、それがどれほど美しい愛でも、
もはや遅いのだ。
彼女は“レギュラス・ブラック”を選んだ。
愛ではなく、宿命を選んだ女。
どんな理由があろうと、
ジェームズには理解できなかった。
彼の大切な親友を惑わせ、今なお心を握り続ける
そんな存在を、危険と呼ばずして何と呼ぶ。
だから、あの日ジェームズは細工をした。
壇上に立つシリウスの周囲に、
《Visum Obscura》――視界を遮る小規模な幻影呪文を張ったのだ。
彼の視線が群衆の中の“あの女”を見つけないように。
そうでもしなければ、シリウスは確実に彼女に気づき、
また過去へと引きずられてしまっただろう。
そして――その数日後に、街が焼けた。
偶然と呼ぶには、出来すぎている。
アランがあの街に現れていたという事実。
その背後に、彼女の夫でありデスイーターの一人であるレギュラス・ブラックがいなかったと、
誰が断言できるだろう。
だとすれば――。
この街の消滅は、闇の帝王による“粛清”の一端なのかもしれない。
だが、ジェームズの手元にあるのは、
小さな焦げ跡の写しと、幻のような女の影だけ。
それは証拠とは呼べない。
もしこの疑念を掘り起こして再捜査を望むなら、
組織を動かせるだけの確かな証が要る。
けれど彼は、知ってしまっていた。
この闇の奥には――確かにレギュラスの影が潜んでいる。
そしてそのさらに奥で、
アラン・ブラックという女が、
運命の糸を静かに絡め取りながら、
すべての悲劇の中心に座しているのだと。
カサンドラの指先は、いつの間にか膨らんだ自分の腹を無意識に撫でていた。薄手のドレスの布地の下に確かに宿るものを、まだ誰にも確定されない未来を、指先で確かめるように。そこには言葉にならない満足があった――長いあいだ心の隅でくすぶっていた空洞が、ゆっくりと満たされていく感覚。正妻として、ロズィエ家の一人娘として、そして何より女としての誇りが戻ってくるのを感じていた。
「お体の調子はいかがです?」と、食卓の向こう側から柔らかな声が届く。レギュラスはいつものように控えめな礼をしながらカサンドラの手元へと視線を向ける。彼女は微笑んで答えた。贈られたハーブティーを毎晩飲んでいること、夜ごとに身体をいたわる習慣を作っていること。そうした些細な会話が、今回は殊更に暖かく、確かな慰めになった。レギュラスの微かな笑みがそれに応えると、胸の奥がほのかに温かくなるのをカサンドラは感じた。
だが視線はすぐに逸れる。レギュラスが席を立ち、アルタイルを抱いているアランの方へと向かうたび、胸の中の満たされた余白が遠のいていく。夕刻の光が窓辺を斜めに染める中で、レギュラスはときおりアランの髪を掬ったり、乳母の手から赤子を受け取りあやしたり、皿をさっと取って食卓を整えたりする。ささやかな所作のすべてが、アランとアルタイルへの気配りとしてあまりにも自然に見える。隣でその光景を見つめるカサンドラの胸には、小さな棘がいくつも刺さるように疼いた。
「生まれてくる子が男児ならば、全てはきっと……」ヴァルブルガが低く囁く。声は外面では慈愛を含んでいるが、たしかに冷たさを帯びている。カサンドラは繰り返し自分の腹に手を当てた。男児を、と念じるたびに指先がぎゅっと強張る。ヴァルブルガの言葉は計算された安心を与える一方で、同時に重い責務を突きつける。家の秩序、名誉、体裁——それらすべてが、自分の中で結晶化していくようだった。
夜、部屋に戻るとレギュラスから届いた手紙や小さな包みが置かれていた。ハーブのほか、肌をいたわるオイルや、安眠を促す湯剤の小袋――レギュラスは言葉ではなく物で気遣いを示そうとしている。そうした贈り物を彼女は一つ一つ指で愛でながら、胸の内に渦巻く複雑な感情を抑え込んだ。どれほど誠実に扱われても、彼が夜の多くをアランの傍で過ごす事実は覆らない。自分の手に届くのは、贈り物と紙の上の約束だけなのだろうか。ふいに不安が広がる。
ある朝、カサンドラは庭先で一人、薄くなった風を背に受けながら決意を固める。ヴァルブルガの期待を裏切るわけにはいかない。ロズィエ家の名誉を取り戻すのだ――言葉は厳しく、冷たくもあったが、その中に確かな覚悟が籠もっていた。アランを葬ることができなかった過去の挫折は、今度は「正当な立場と手段」で覆す、そう考えると胸の中に静かな計算が巡るのを感じる。正妻の座で、当主を産み育てることで、すべてを塗り替える――それが彼女の目に映る唯一の解決策に思えた。
その夜、カサンドラは枕元で腹を撫でながら、ふと小さく呟いた。――あなたは私の誇りになるのだと。外側は冷静で整っていても、内側では炎がゆらめいている。誇りと欲望と焦りとが混じり合った複雑な感情が、彼女の胸を満たしていた。だが同時に、アルタイルの笑顔、アランの儚い姿、そしてレギュラスのささやかな柔らかさが、許されない嫉妬と苛立ちをカサンドラに植え付けていく。彼女は自分がどこまで堕ちうるのか、どこまで強くなれるのか、その境界をそっと見定めながら、手の中の小さな命の未来を思い描いた。
レギュラスは、あの夜を境に何かが変わっていた。
心のどこかで、アランに触れることへの罪悪感も、ためらいも、もうとっくに剥がれ落ちていた。
あの夜の彼女は、贖罪の代わりに身を差し出してきた――そんな気配があった。
だが今は違う。
何気ない日常の中で、静かに触れ、そっと求めた時に彼女が拒まず応じた。
それだけで、満たされ方がまるで違った。
アランは少しずつ怯えるような素振りを見せなくなっていた。
視線を合わせれば、逃げることなくその瞳がこちらを受け止める。
かつては触れただけで身を強ばらせていた肩が、いまは微かに緩む。
それが愛おしかった。
その変化を導いたのが自分であるという優越感――それが、奇妙に甘い陶酔を伴って胸の奥に広がる。
指先で彼女の頬を撫でながら、レギュラスは思う。
自分はもしかすると、愛されるよりも、支配することによって安心を得る人間なのかもしれない。
その柔らかな髪の感触を確かめながら、彼女の中に自分の存在を刻みつけるたびに、胸の内のざらつきが少しずつ削がれていく。
かつて、義務のようにカサンドラの寝所を訪れた頃とはまるで違う。
あの時の身体の交わりは、血の通わない儀式のようだった。
正妻として果たさねばならない義務。
子を成すための、冷えた行為。
そこには、呼吸の合う瞬間などひとつもなかった。
今は違う。
アランといる時、彼女の息づかいが、まるで魔法の詠唱のように空気を揺らす。
胸の鼓動が重なり、静かな夜気の中に二人の温度だけが浮かび上がる。
触れるたびに、かつての少年時代の熱――見境なく求め、愛の意味など知らぬまま夢中で抱きしめた頃の自分が蘇ってくる。
やがてすべてが静まり返り、
アランは疲れたように息を整え、瞼を閉じた。
レギュラスはその隣に体を預けながら、低く囁く。
「アラン、具合はどうです?」
彼女は薄く瞳を開き、焦点の合わぬまま小さく笑った。
「……大丈夫、です……」
その声があまりに柔らかく、
まるで自分の存在を赦されたような錯覚を覚えた。
レギュラスはそのまま、彼女の頬に髪を落とす。
そして、眠りに落ちる直前の彼女の顔を見つめ続けた。
呼吸がゆっくりと整い、唇から微かな寝息が漏れる。
そのたびに胸の奥が満たされていく。
心を掻き乱していた激情も、渦巻く疑念も、全てがこの静寂に溶けていくようだった。
――この瞬間だけでいい。
彼女がこうして傍にいてくれるのなら、それでいい。
夜の静けさの中で、レギュラスはアランの髪を撫でた。
翡翠色の夢を見ているかのようなその寝顔を見つめながら、
どうしようもなく、幸福だった。
オリオン・ブラックが当主の座を息子レギュラスへと譲る――その報せに、ブラック家の屋敷は久しぶりに賑わいを見せていた。
晩餐の間には煌びやかなシャンデリアがいくつも灯され、銀細工の燭台には光が踊る。漆黒の天蓋には夜空を模した魔法が施され、まるで星々が屋内に降り注いでいるかのようだった。
それは、まさしく“ブラック家の威光”を象徴する宴だった。
純血の名門たちが次々と姿を現す。マルフォイ家、ロズィエ家、レストレンジ家――いずれも誇り高く、血統に一点の曇りもない一族たち。
彼らの口から次々に祝辞が述べられていく。
「若き当主の誕生を祝して、ブラック家の繁栄が末永く続かんことを」
「貴家の英知と魔力が、魔法界を正しき方向へ導くと信じております」
「ヴォルデモート卿の御意を継ぐに相応しいお方だ」
言葉のひとつひとつが、甘くも重たい鎖のようにレギュラスの肩に絡みつく。
レギュラスは、完璧な貴族の面持ちでそれらを受けた。
姿勢も微笑も、言葉の抑揚も、まるで生まれながらに舞台に立つことを宿命づけられたような、非の打ちどころのない所作。
ただ、その端正な仮面の裏では、心が別の場所にあった。
彼の隣には、緩やかなドレスを纏ったカサンドラ。
腹のふくらみが目立ち始めたことで、その装いはふだんよりも布が多く、身体をいたわる柔らかな仕立てだった。
レギュラスは彼女の腕を取り、来賓の間を静かに歩く。
完璧な当主の姿を演じるには、隣に正妻を伴うのが最も望ましい――それは理解している。
それでも、苦痛だった。
「お疲れではありませんか?」
「いいえ、平気ですわ」
「ずっと立っているのは体に障ります」
「夫が当主の座に就く日ですもの。妻として隣に立たせてください」
そのやりとりは模範的で、誰が聞いても美しいものに違いなかった。
だがレギュラスの胸の奥では、苛立ちが小さく泡立っていた。
――休ませて、一人になりたかった。
ほんの数分でもいい。
アランの元へ行くための口実がほしかった。
アランは今夜、寝室で伏せっている。
昨夜から体調を崩し、食事もまともに取れていないと聞いた。
何度も彼女の部屋に足を運ぼうとしたが、客人が絶え間なくやってきては言葉を交わさねばならず、逃げ出す隙がない。
人々の笑い声とグラスの触れ合う音の中で、胸の奥だけが冷えきっていた。
「おめでとうございます、レギュラス卿。ブラック家の未来は安泰ですな」
「奥方もご懐妊と伺いました。二重の慶びですな!」
「お生まれになるのはきっと男児に違いありません。名門ブラック家にまた一つ星が増える」
客人たちの言葉が次々と飛び交う。
レギュラスは微笑み、杯を掲げる。
しかし、耳に入ってくる祝福の響きが、遠い世界のもののように感じられた。
アランの頬の色はどうだろう。
熱は下がったのか。
アルタイルは泣いていないか。
気がつけば、目の前にいるはずのカサンドラの声が霞んでいた。
笑顔を作る顔の筋肉が重く、冷めたワインの味が、喉の奥で金属のように鈍く響く。
レギュラスの意識は、宴のざわめきの中にあっても、まるで別の部屋――静寂の中で眠るアランの寝台へと引き寄せられていた。
豪奢な宴の中心で、レギュラス・ブラックは微笑んでいた。
だが、その微笑みの裏にある心の在処を知る者は、誰一人としていなかった。
大広間の中心に設えられた壇上で、オリオン・ブラックがゆっくりと立ち上がった。
彼の声は低く、よく通る。
歳を重ねてもなおその眼光は鋭く、まるで長年にわたりこの家を支えてきた誇りと責務そのものが人の形を取って立っているかのようだった。
「――この家は代々、血の純潔と誇りをもって魔法界を導いてきた。
そして今日、その意志を新たに継ぐ者がここにいる。レギュラス・ブラック。
彼こそが、これからの魔法界を支えるに相応しい男だ。」
重々しい声が大理石の壁に反響する。
集まった貴族たちは一斉に拍手を送り、シャンデリアの光がその掌の動きに合わせて煌めいた。
長い歴史の中でも特別な夜――そう言わんばかりの厳かな空気。
レギュラスは静かに頭を垂れ、父の言葉を黙って聴いていた。
胸の奥では何かが音を立てて揺れていた。
誇りか、重圧か、それとも――アランの名を心の中で呼んだときに覚える微かな痛みか。
その時、背後から肩越しに小さな気配が近づく。
低い声が耳元で囁いた。
「君の噂の奥方はいずこです?」
バーテミウスだった。
この場の喧噪にも溶け込むような軽口でありながら、妙に核心を突く声。
レギュラスはほんのわずかに顔を後ろへ向け、囁くように答える。
「上で、寝込んでいます。」
「それは……気が気でないでしょうに。」
唇の端を上げたバーテミウスは、冗談めかした声で言う。
笑いを含んだその眼差しには、どこか探るような光が宿っていた。
レギュラスは答えず、ただじとりとした視線だけを返す。
その視線だけで“今は放っておけ”と語っていた。
だが、バーテミウスは相変わらずにやりと笑っている。
まるで相手の心の奥にまで見透かして楽しんでいるかのようだった。
本当のところ、バーテミウスの言葉は図星だった。
気が気でなかった。
アランの体調は昨日から芳しくない。
熱もあると乳母が報告していた。
そんな中で、この豪奢な宴の最中に自分は祝福を受け、笑みを作っている――その事実が堪らなく空虚だった。
「……悪趣味な冗談ですね。」
かろうじてそう返すと、バーテミウスは肩をすくめて去っていった。
その背を見送った瞬間、レギュラスの胸の奥に鋭い痛みが走る。
大理石の床を踏みしめる靴音、銀食器の触れ合う音、客たちの笑い声。
どれもが遠くに聞こえた。
彼の耳が捉えたい音はただひとつ――
アランの息遣いだった。
その夜、煌びやかに飾られた大広間の中心で、
新たな当主レギュラス・ブラックは微笑みを絶やさぬまま、
心だけを静かに、屋敷の上階に置いてきた女のもとへと彷徨わせていた。
屋敷の下階では、夜も更けてなお祝宴の音が響いていた。
金属が触れ合う澄んだ音、グラスが満たされる液体の音、貴族たちの笑い声。
そのすべてが遠い世界の音のように、アランの耳にはぼんやりと届いていた。
上階の寝室は、まるで異なる世界だった。
蝋燭の炎が揺らめくたび、淡い影が壁を撫でていく。
静寂の中に響くのは、アルタイルの寝息だけ。
その穏やかさが、かえって胸を締めつけた。
――ようやく自由だった。
久方ぶりに訪れた誰の目にも触れない夜。
この屋敷にいる限り、常に視線を感じる。
レギュラスのもの、ヴァルブルガのもの、あるいは使用人たちのもの。
今宵だけはそれらが一切届かない。
ほんのひととき、ただ“自分”でいられる時間だった。
それが、どれほど貴重なことか。
アランは寝台の隣に眠るアルタイルを見つめた。
小さな胸がゆっくりと上下している。
安らかに眠るその顔には、シリウスの面影がはっきりと宿っていた。
瞳の色も、笑うときの口角の上がり方も。
どれもが愛おしくて、同時に痛かった。
ここ最近、レギュラスに応じる回数が増えていた。
求められるたび、拒む理由を見つけられなかった。
――赦されている。守られている。
そう思うたび、心の奥が軋んだ。
アルタイルの小さな手が、隣で眠りながらも無邪気に動く。
その無垢な指先の横で、別の男の熱を受け入れることが、どれほどの罰か。
それでも、彼を怒らせることはできなかった。
レギュラスの寛大さがあったからこそ、今も父も一族も、生きていられる。
求めに応じることで差し出せるのならば――それでいいと思った。
それでも、アルタイルの前でだけは。
この子の前でだけは、それをしたくなかった。
アランはそっとアルタイルを抱き上げ、バルコニーへ出た。
夜風が肌を撫でる。
熱を帯びた体にその冷たさが心地よい。
月明かりが白い頬を照らす。
まるで誰かに赦されているような、束の間の静けさだった。
――そのとき、背後から声がした。
「お久しぶりです、セシール嬢。」
アランは驚いて振り返る。
その男の顔を見た瞬間、心臓が跳ねた。
どこかで見たことのある顔。だが、名が出てこない。
男は微笑を浮かべながら、ゆっくりと頭を下げた。
「ホグワーツ時代、同じ寮でしたが……あまり関わりはありませんでしたね。
――バーテミウス・クラウチですよ。」
その名を聞いた瞬間、アランの背筋がこわばる。
長い時を経ても忘れようがない。
在学中、誰よりも洞察の鋭い男だった。
シリウスと交わす視線ひとつ、手の触れ方ひとつで、
二人の間に流れる空気を見抜いていた。
アランは慌てて、胸元をショールで隠した。
ナイトドレスの薄布越しに、夜風が冷たく通り抜ける。
それでも心臓の鼓動だけが熱を帯びて止まらなかった。
なぜ、今――この場所に。
バーテミウスの瞳には、懐かしさでも、好奇でもなく、
計算された興味の光が宿っていた。
まるで、誰よりもこの屋敷の秘密を知っているとでも言いたげに。
静寂を切り裂くように、遠くの階下から笑い声が響いた。
アランは、腕の中のアルタイルを抱き締める力をほんの少し強めた。
冷たい夜気が、その肌を撫でていく。
――危ういものが、音もなく忍び寄ってきている気がした。
彼の笑みは、あまりにも人当たりがよかった。
しかし、その柔らかさの奥にある鋭利な観察眼を、アランは覚えていた。
「男の子をお産みになったそうですね。」
まるで挨拶のような軽さで口にされたその言葉に、アランの喉が詰まった。
答えようとしたが、声が出なかった。
ただ、腕の中のアルタイルを抱き締める力が強くなる。
「おや、沈黙とはまた慎ましい。」
バーテミウスは微笑みを絶やさぬまま、ひと歩き、またひと歩きとアランに近づく。
月明かりが彼の頬を照らし、氷のような光を宿していた。
「幸運の女神が微笑んでいるようだ。」
そう言いながら、彼は大げさに両手を広げてみせた。
その仕草が妙に滑稽でありながら、どこか鳥肌が立つような不気味さを孕んでいた。
アランは本能的に半歩、後ずさる。
――この男。
ホグワーツの頃から、どんなに遠回しでも核心を突く。
何気ない会話の中に棘を潜ませ、他人の心を試すような真似を平然とする。
「シリウス・ブラックの件は、完全にお諦めになったのですね。賢明な選択です。」
思ったとおり、切り込んできた。
その名前が空気を震わせた瞬間、胸の奥にしまっていた何かが微かに疼いた。
けれど、アランは動じなかった。
むしろ、来ると分かっていた一撃だったからこそ、静かに受け止めることができた。
「昔の話ですから。」
かろうじて絞り出すように言うと、バーテミウスは愉快そうに笑った。
「そうですね。遠い昔の話です。」
ゆっくりと首を傾げる。
「ですが今やあなたは、ブラック家の未来の当主をお産みになった。
――ロズィエ家の令嬢を、引きずり下ろすことさえできるのでは?」
彼の声は柔らかかったが、言葉は鋭かった。
まるで刃物を花束に包んで差し出すような、そんな残酷さがあった。
アランは息を呑む。
喉が詰まり、胸の奥が焼けるように熱い。
人に聞かれれば大事になる。
この男はわざと、そういう際どい言葉を選んでいる。
――彼は試しているのだ。
自分がどこまで動揺するかを、静かに観察している。
アルタイルが微かに身じろぎし、アランの胸元に顔を埋めた。
その小さな温もりが、彼女の唯一の拠り所だった。
「久しぶりにお会いしたのに、やはり貴女はお美しい。」
バーテミウスの声はどこまでも穏やかだが、瞳の奥は一切笑っていなかった。
「本当に……昔と変わらない。」
アランはショールを握り締め、逃げ場を探すように月を見上げた。
この男は変わらない。
――どこまでも、かつてのまま。
嘘と真実の境を愉しみながら、人の心をじわりと削っていく。
その笑みを見ているだけで、胸の奥の古傷が疼いた。
今にも過去が、音を立てて目を覚ましそうだった。
バルコニーを去っていくアラン・ブラック――いや、かつてのアラン・セシールの背中を、バーテミウス・クラウチは長く目で追っていた。
薄絹のショールが風に揺れるたび、月光を受けて淡く光る。
その横顔には、ホグワーツ時代から変わらぬ品と哀愁が宿っていた。
「相変わらず、見事なものだ…」
誰に言うでもなく呟き、唇の端に笑みを浮かべる。
フランスの名門、ロズィエ家の令嬢カサンドラがこの女に心を乱さぬはずがない。
嫉妬も憎悪も当然の報いだ。
だが――それをすべて受け止め、なお生き延びているあたり、この女は実にしたたかだ。
先ほど“シリウス・ブラック”という名を口にしたときの、あの翡翠の瞳の揺らぎを思い出す。
ほんの一瞬。
けれど、確かにそこには懐かしさでも愛惜でもない、もっと深い、痛みのような色が走った。
それが彼女の中に今も残る火種なのだろう。
かつてグリフィンドールの不良貴族に恋をした、愚かで、しかし眩しいほど真っすぐだった少女の名残。
バーテミウスは小さく鼻で笑う。
「あれほど無謀で、勇敢さを履き違えた少女が――いまやブラック家の正統な妻、か。」
未来というものは、皮肉だ。
あの頃、彼女はレギュラスの視線を避け続け、ただ兄シリウスを追い続けていた。
レギュラスの愛を受け取れば、安泰な未来が手に入ると誰もが思っていたのに、彼女はそれを拒んだ。
自分の心に嘘をつけない、愚かで誇り高い娘だった。
――だが今、彼女はそのレギュラスの妻として、男児を産んでいる。
皮肉にも、あの頃よりもずっと高い地位に。
石畳の上を風が滑る。
バーテミウスは手袋越しに顎をなぞりながら、夜空を見上げた。
月は静かに満ちている。
彼の目には、その光の下で確かにうごめく人間たちの欲望と策略が、美しくさえ見えていた。
――リシェル・ブラウン。
アランの母。王宮を混乱に陥れ、国を傾かせた魔性の女。
美と知略と愛欲で男たちを狂わせ、最期は処刑台の上でその首を落とされた。
それでもなお、人々は彼女の名を恐れ、崇めた。
「娘は……母を超えるかもしれないな。」
バーテミウスは呟いた。
その声には、軽蔑ではなく、純粋な興味と愉悦が混じっている。
血の宿命か、あるいは再演か。
リシェル・ブラウンが王宮を混沌に陥れたように、
アラン・ブラックはこの魔法界の秩序を微かに揺るがせる存在になるのかもしれない。
彼女が微笑むだけで、誰かが破滅する――
その予感を想像するだけで、バーテミウスの胸はぞくりと震えた。
「面白くなりそうだ。まるで舞台の幕が上がるように。」
下階の宴の音が微かに響く。
だがバーテミウスにとって、真の“祝祭”はこれからだった。
アラン・ブラックという女の生が、再び世界を乱し始める――
その瞬間を見届けるために。
ヴァルブルガ・ブラックの胸中は、煮え立つような焦燥で満たされていた。
夜の屋敷を照らす燭台の光の下、彼女の指は落ち着きなく指輪を弄び続けている。
先日の宴のざわめきが、まだ耳の奥でこだまするようだった。
――あの場にいた誰もが、まるで面白い玩具を見つけたかのように「副妃」の話題を口にしていた。
「ブラック家の若き当主には、もう男児が生まれたそうだ」
「奥方はどこに?」「その子は見られぬのか?」
笑顔の裏にある探るような好奇の視線、貴族特有の残酷な品定め。
ヴァルブルガは、あの夜ほど自らの血が沸き立つのを感じたことはなかった。
オリオンは呑気に「アルタイルだけでも出せばよい」と言っていたが、
そんな愚かな真似ができるものか。
ロズィエ家の人間が同席している宴の場に――
副妃の産んだ子を、未来の当主として披露するなど、
ブラック家の名を貶めるにもほどがある。
ヴァルブルガは、扇を膝に置き、深く息を吐いた。
最近では、レギュラスがアランと寝室を共にするようになった。
その報せを聞いた夜、彼女は怒りのあまり食事も喉を通らなかった。
抗議したときの息子の冷たい瞳を、今も忘れられない。
――「正式にブラックの名を持つ妻だから」。
たったその一言で、彼は母の言葉を遮った。
あれほど従順で、何よりも家の名誉を重んじていた息子が。
いつから、あの女に心を明け渡すようになってしまったのか。
レギュラスは最近、露骨にアランを気にかける。
朝食の席では、彼女の体調を気遣い、使用人より先に水差しを手に取る。
廊下ですれ違えば、何気なく肩に触れる。
外出の支度を整えるアランの髪を、
「後ろの留め具が緩い」と言って自ら整える。
そんな些細な仕草一つひとつが、
周囲の目にはどれほど親密に映っているか、本人だけが分かっていない。
アルタイルを抱いているアランを見ると、
必ず彼は歩み寄り、その子を優しく抱き上げる。
――まるで、本物の当主の息子を愛でるように。
それがヴァルブルガには耐え難かった。
「このままでは……」
独りごちる声が、部屋の中で冷たく響く。
もし、カサンドラが男児を産んだとしても――
あの愚かな息子は、きっとアルタイルを“長子”として
当主に据えようと主張し始めるだろう。
それは、ブラック家の崩壊を意味する。
セシール家――
なんの歴史も、名誉も、富もない。
ただ“純血”という一語を楯にして、
辛うじて貴族の末席に名を連ねていた家系。
そんな家の娘の血が、ブラック家の頂に立つなど――
それは、純血主義の終焉であり、ヴァルブルガにとっては悪夢だった。
「……あの女を、この家から追い出さねば。」
震える唇で、呪いのようにその言葉を吐き出す。
彼女の胸の奥で、
古くからの誇りと憎悪が、静かに一つになっていく。
その夜、窓の外に見えた満月が、
まるでヴァルブルガの決意を嘲笑うかのように、
冷たく輝いていた。
普段のレギュラスは冷静沈着で、怒りを露わにすることなど滅多にない。
だが――一度、たがが外れた。
その瞬間から、すべての理性は砂のようにこぼれ落ちていった。
怒りが胸の内で泡立ち、彼自身を焼く。
もはや、何を差し出されれば赦せるのかもわからなかった。
何を奪い取れば、この憎悪が静まるのかも見当がつかない。
レギュラスは、机の引き出しに手を伸ばす。
そこにはずっと――渡す機会を逃していたものがあった。
封の切られた手紙の束。
淡い青の封筒には見覚えがある。
差出人は、シリウス・ブラック。
「……そうだ、思い出しました。」
彼の声は氷のように冷たかった。
「いつか渡してやろうと思っていたんです。
でも――今が一番いいでしょうね。」
レギュラスはそれらを、アランの目の前にパラパラと落とした。
音を立てて、床に散らばる封筒。
宛名に記された筆跡を見た瞬間、アランの血の気が引いた。
「……これは……」
彼女の指先が震えながら、手紙の一つに触れる。
封を開けなくとも、彼には内容がわかっていた。
“愛している”
“君の体を気遣っている”
“いつか迎えに行く”
そんな歯の浮くような言葉が、どの手紙にも踊っていた。
「どうです?」
レギュラスの声が低く響く。
「幸せですか?」
アランの喉が鳴った。
唇が震え、言葉を搾り出す。
「……ごめんなさい……本当に……軽率でした……」
手紙を胸に抱くように握り締め、俯いたまま涙をこぼす。
その姿は懺悔のようでいて、レギュラスの目には滑稽に映った。
「シリウスからの手紙ですよ。読めばいい。
僕の前だと読めませんか?」
その声音は柔らかいのに、突き刺さるほど冷ややかだった。
もう止めようとしても、止まらなかった。
アランの震え、息づかい、怯えた眼差し――
その全てが癇に障った。
怒りに身を委ねたまま、レギュラスはアランを見下ろした。
だが、胸の奥に微かに残るものがあった。
情けないほどに消えない、愛情だった。
――なぜ、ここまで踏みにじられてもまだ愛せるのか。
――どうして、この女ひとりを許せないのに、見放せもしないのか。
自分でも理解できない。
理解したくもない。
アランはひたすら、手をつき、詫びを重ねた。
言葉のたびに涙が床に落ち、広がっていく。
それはまるで、懺悔の雨のようだった。
レギュラスは静かに息を吐く。
彼女の肩は小刻みに震え、髪が涙に濡れて頬に張りついていた。
冷たい石床の上で跪く姿が、見ていられないほど痛々しかった。
――もうやめろ。
頭の奥で声がした。
このままでは、彼女の身体がまた壊れてしまう。
そうなれば、結局苦しむのは自分だ。
分かっている。
それでも、赦しの言葉は喉の奥で凍りついたままだった。
「……立ってください」
ようやく絞り出した声は、怒りではなく、疲弊に満ちていた。
アランは顔を上げられず、ただ涙を落とし続ける。
レギュラスは瞼を閉じ、拳を強く握り締めた。
赦したい。
だが――まだ、赦せない。
冷たい床の上、二人の間には、
もう愛とも怒りとも呼べない沈黙だけが、
ゆっくりと積もっていった。
その夜、二人の間に会話はなかった。
息づかいさえ、互いの存在を拒むように静かだった。
レギュラスは書を広げ、淡い灯りの下でページをめくっている。
その仕草はいつも通り落ち着いて見えたが、ページを繰る指先はわずかに震えていた。
アランはその音を数えるように聞きながら、胸の奥に沈んでいく不安を掻き消す術を探していた。
――どうすれば、この空気を和らげられるのだろう。
頭の中で幾度も思考が巡る。けれど、答えは出なかった。
ただ一つだけ思い浮かんだ行動があった。
それはあまりにも浅はかで、哀れな方法。
女であるという最後の武器を差し出すやり方だった。
もし、拒まれたなら。
もう本当に、何もできなくなる。
そう思うと、恐怖で胸が締め付けられた。
それでも――動いた。
ベッドに入る。
レギュラスの体温の届く場所まで、そっと滲むように近づく。
指先を伸ばす。
その手が震えているのが、自分でもわかる。
空気の重みが、肌にまとわりつくようだった。
レギュラスが視線を上げた。
読んでいた書を閉じ、静かにアランの方へ目を向ける。
その灰色の瞳が、炎の光を受けて深く揺れた。
「……なんです?」
低く、淡々とした声。
問われても、答えられない。
言葉ではなく、ただ視線で、想いを伝えようとした。
伸ばした指先を、そっと彼の肩に置く。
冷たい感触。
だが、その手を振り払われることはなかった。
それだけで、胸の奥にかすかな安堵が灯った。
沈黙。
時計の音すら遠のくほどの沈黙が続いた。
やがて――レギュラスが、ゆっくりとアランの手首を取る。
引き寄せられる力は、拒絶ではなく、決意のように確かなものだった。
唇が触れた。
触れた瞬間、アランの心臓が跳ねた。
痛みではない。救いのような熱だった。
拒まれなかったことに、涙が出そうなほどの安堵を覚える。
息が触れ合う距離で、ようやく張り詰めていた糸が緩んでいく。
――この人に許されたい。
――この人の中に、まだ自分が存在していたい。
それだけの想いで、アランは彼を受け入れた。
けれど体は本調子ではなかった。
今日外に出たせいか、痛みが深く滲むように広がっていた。
それでも構わなかった。
もし、この痛みの先に、彼の赦しがあるのなら。
レギュラスの指が髪をほどき、背をなぞる。
そのたびに、アランの呼吸が浅くなっていく。
産後初めて触れ合うその行為は、
出産の際に裂けた痛みの記憶を呼び起こした。
体の奥で軋む感覚に、反射的にレギュラスの体にしがみつく。
「……怖いんですか?」
耳元で、彼が囁く。
その声が優しいほど、胸が痛んだ。
「いいえ……違うの……」
言葉にならない吐息がこぼれる。
痛みと赦しと愛情が、ひとつに混じり合っていた。
こんな形でしか繋がれないのなら、それでも構わない。
アルタイルのために。
父のために。
一族のために。
そのすべてを護るために――
アランは、壊れかけた体のまま、
レギュラスにすべてを差し出した。
彼女の涙が枕を濡らし、灯火がゆらめく。
その光の中で、二人の影が静かに重なっていった。
久しぶりにアランを抱いた夜、レギュラスは自分の内に渦巻いていた激しい怒りが、まるで潮が引くように静まっていくのを感じていた。
あの昼間、冷たい言葉を浴びせ、詰め、突き放したのは他でもない自分だ。
それなのに、今こうして触れているだけで、全ての苛立ちが、雪解けのように消えていく。
人の心とは、なんと脆く、残酷にできているのだろう。
アランの体温が肌に伝わる。
彼女は怯えていた。
それでも逃げなかった。
触れられるたび、ひとつひとつ息を詰め、細い肩を震わせていた。
その震えに、罪悪感と、どうしようもない愛しさが混ざって胸を掴む。
長いこと抱いていなかった。
アランにとっても、久しぶりの交わりだったはずだ。
翡翠色の瞳が、不安げに揺れながらも真っ直ぐにこちらを見ている。
その眼差しの奥に、拒絶ではなく、赦しがあった。
言葉にできないほどに、愛おしかった。
レギュラスは彼女の手を取り、指先を絡める。
そして唇を合わせた。
唇が触れるたびに、世界が静かになる。
まるで互いの存在だけが、この夜のすべてであるかのように。
アランの呼吸は浅く、熱を帯びていた。
長い髪が枕に散り、白い喉が仄暗い灯りの中で震える。
その姿に、理性が溶けていく。
レギュラスは彼女を深く抱きしめた。
至るところで繋がっていたかった。
最奥で、指先で、唇で。
触れられる場所すべてで、互いの温度を確かめ合いたかった。
溢れるような切なさと渇望が入り混じり、言葉にならない吐息が重なっていく。
「……好きです、アラン。」
その一言に、あらゆる感情が詰まっていた。
赦しも、悔いも、愛しさも、全部。
昼間、冷酷な言葉をぶつけた。
詰め、傷つけ、泣かせた。
それでも――彼女を抱きしめた今、
心の奥に残っていた黒い感情が、少しずつ光に溶けていくのを感じた。
アランは何も言わず、ただ小さく頷いた。
その頷きが、どんな言葉よりも重たく響いた。
恐怖も、不安も、全てを呑み込んで、
ただこの瞬間だけ、彼のために自分を差し出すその強さ。
その愚かで、美しい覚悟を――レギュラスは心の底から愛していた。
やがて、夜が静まり返る。
炎が小さく揺れ、二人の影を壁に映す。
汗と涙が交わり、呼吸が重なり、
その境界さえ曖昧になっていく。
この夜、赦しも愛も、罪も全部ひとつになった。
そしてレギュラスは、彼女の名を何度も呼んだ。
まるでその声で、互いの罪を洗い流すように。
――アラン。
君を愛している。
それが、どうしようもなく痛いほどに真実だった。
再びその街に降り立ったとき、レギュラスの胸の内には、かつてのためらいの欠片も残ってはいなかった。
あの日、騎士団が割り込み、計画が頓挫した失態――。
今度こそ、完璧に終わらせなければならない。
「今度はしくじるわけにはいかないぞ、レギュラス。」
ルシウス・マルフォイの冷ややかな声が夜気を裂く。
「ええ。騎士団の巡回も、結界の抜け道も、すでに確認済みです。」
レギュラスの声は揺れなかった。
黒い外套の裾を翻し、数人のデスイーターたちが静かに動き出す。
街の上空には薄い霧が漂い、月は鈍い金色の光を落としている。
もはやこの場所に生者の温もりがあるとは思えなかった。
標的は――街そのものだった。
孤児院も、商店も、家々も、すべてを燃やし尽くす。
純血主義の秩序を脅かす芽を、一つ残らず摘み取るために。
「後始末は僕がやります。」
レギュラスは淡々と告げた。
彼の指先から放たれた呪文が、夜空を赤く染める。
炎は波のように広がり、建物の影を飲み込んでいった。
逃げ惑う悲鳴が遠くで響くが、彼の表情は微動だにしない。
それが誰の声であろうと、もはや耳に届かない。
燃え尽きた街の上に、静寂が戻る。
レギュラスは杖を構え、冷静にアリバイ工作のための呪文を繋げていく。
一つは《Confundus Maxima》――大規模混乱の呪文。
生き残った者たちの記憶に「魔法使いの襲撃」という概念を残さないよう、
事故や爆発にすり替えるための記憶操作だ。
さらに《Obliviate Chain》を使い、街の周辺にいたマグル全員の記憶を連鎖的に消去していく。
証拠として残る魔力痕跡も、《Evanesco Core》で完全に蒸発させた。
痕跡のひとつひとつを丹念に消していく姿は、まるで学術実験のように精密だった。
最後に、デスイーターたちの出入り口として使った姿くらましの地点には、
《Reversum Illusio》――幻影逆転の呪文を展開する。
現場に残る転移痕跡を、あたかも“マグルの爆発物による誤作動”として見せかける。
これで、どんな魔法捜査官が嗅ぎつけても、真実には辿り着けない。
「……完璧だ。」
レギュラスは杖を下ろし、冷えきった空を見上げた。
赤く揺れる炎の残滓が、夜風に溶けていく。
あれほど罪悪感に苛まれていたはずの行為なのに、
今は胸の奥が不気味なほどに静かだった。
――これでいい。
闇の帝王の望む世界のため。
ブラック家の名誉のため。
アランとアルタイルを守るため。
そう言い聞かせる。
冷静に、徹底的に。
全てを終えられたのは、あの夜アランと交わったからだと思った。
彼女の体の奥で感じた鼓動。
赦しと涙にまみれた唇の感触。
それが、どんな薬よりも彼の神経を鎮めていた。
――男という生き物は、つくづく単純だ。
あれほどの怒りも、疑念も、
吐き出した体液と共に静まり果てた。
夜の闇の中、レギュラスは外套の内で拳を握る。
その手には、まだアランの体温が残っていた。
それが唯一、彼の正気を繋ぎとめているものだった。
ジェームズ・ポッターは、焼け落ちたマグルの街の現場を見下ろしていた。
灰と煙の残り香が鼻を刺す。
一見すれば、ただの火災――それも不運な爆発事故のように見える。
だが、騎士団の一員として幾多の現場を見てきた彼の目は、そこに説明のつかない違和感を見出していた。
報告書をめくる。
目撃者の証言はすべて整然と並び、辻褄が完璧に合っている。
まるで一つの脚本でもあるかのように、誰もが同じ時間、同じ方向、同じ炎の流れを語っていた。
「偶然」――それで片付けるには、あまりに出来すぎていた。
火の手が最初に上がったのは街の外れの孤児院。
そこから燃え広がり、あっという間に街全体が炎に包まれたという。
しかし、ジェームズの目が止まったのは、瓦礫の間に残された焦げ跡の“形”だった。
普通の火災では説明がつかない、円形の焼痕。
それはまるで、魔法陣を逆流させた跡のように見えた。
――消滅呪文だ。
だが報告書には、その可能性すら触れられていない。
それどころか、鑑定部の報告には「自然発火による事故」と断定されている。
まるで誰かが、最初から魔法の痕跡を抹消したような跡の残らなさ。
それが唯一、完璧な脚本の中に残された“矛盾”だった。
ジェームズの胸に、冷たいものが走る。
――闇の帝王の手が動いたのではないか?
その可能性を考えざるを得なかった。
だが、確たる証拠はない。
闇の帝王の名を軽々しく出せば、それだけで無用な混乱を招く。
それでも、彼の直感は告げていた。
この事件は――ただの火災ではない。
脳裏に浮かぶ、ひとりの女の姿。
アラン・ブラック。
あの日、マグルの街で行われた騎士団の催し。
子供たちに魔法を披露する壇上のシリウスの姿を、
群衆の中から見つめていた女。
翡翠のような瞳に宿る光は、
まるで今でも彼を愛していると言わんばかりの真摯な熱を帯びていた。
その瞬間、ジェームズは悟った。
シリウスはまだ――彼女を忘れていない。
そして彼女もまた、シリウスの中で生き続けている。
だが、それがどれほど美しい愛でも、
もはや遅いのだ。
彼女は“レギュラス・ブラック”を選んだ。
愛ではなく、宿命を選んだ女。
どんな理由があろうと、
ジェームズには理解できなかった。
彼の大切な親友を惑わせ、今なお心を握り続ける
そんな存在を、危険と呼ばずして何と呼ぶ。
だから、あの日ジェームズは細工をした。
壇上に立つシリウスの周囲に、
《Visum Obscura》――視界を遮る小規模な幻影呪文を張ったのだ。
彼の視線が群衆の中の“あの女”を見つけないように。
そうでもしなければ、シリウスは確実に彼女に気づき、
また過去へと引きずられてしまっただろう。
そして――その数日後に、街が焼けた。
偶然と呼ぶには、出来すぎている。
アランがあの街に現れていたという事実。
その背後に、彼女の夫でありデスイーターの一人であるレギュラス・ブラックがいなかったと、
誰が断言できるだろう。
だとすれば――。
この街の消滅は、闇の帝王による“粛清”の一端なのかもしれない。
だが、ジェームズの手元にあるのは、
小さな焦げ跡の写しと、幻のような女の影だけ。
それは証拠とは呼べない。
もしこの疑念を掘り起こして再捜査を望むなら、
組織を動かせるだけの確かな証が要る。
けれど彼は、知ってしまっていた。
この闇の奥には――確かにレギュラスの影が潜んでいる。
そしてそのさらに奥で、
アラン・ブラックという女が、
運命の糸を静かに絡め取りながら、
すべての悲劇の中心に座しているのだと。
カサンドラの指先は、いつの間にか膨らんだ自分の腹を無意識に撫でていた。薄手のドレスの布地の下に確かに宿るものを、まだ誰にも確定されない未来を、指先で確かめるように。そこには言葉にならない満足があった――長いあいだ心の隅でくすぶっていた空洞が、ゆっくりと満たされていく感覚。正妻として、ロズィエ家の一人娘として、そして何より女としての誇りが戻ってくるのを感じていた。
「お体の調子はいかがです?」と、食卓の向こう側から柔らかな声が届く。レギュラスはいつものように控えめな礼をしながらカサンドラの手元へと視線を向ける。彼女は微笑んで答えた。贈られたハーブティーを毎晩飲んでいること、夜ごとに身体をいたわる習慣を作っていること。そうした些細な会話が、今回は殊更に暖かく、確かな慰めになった。レギュラスの微かな笑みがそれに応えると、胸の奥がほのかに温かくなるのをカサンドラは感じた。
だが視線はすぐに逸れる。レギュラスが席を立ち、アルタイルを抱いているアランの方へと向かうたび、胸の中の満たされた余白が遠のいていく。夕刻の光が窓辺を斜めに染める中で、レギュラスはときおりアランの髪を掬ったり、乳母の手から赤子を受け取りあやしたり、皿をさっと取って食卓を整えたりする。ささやかな所作のすべてが、アランとアルタイルへの気配りとしてあまりにも自然に見える。隣でその光景を見つめるカサンドラの胸には、小さな棘がいくつも刺さるように疼いた。
「生まれてくる子が男児ならば、全てはきっと……」ヴァルブルガが低く囁く。声は外面では慈愛を含んでいるが、たしかに冷たさを帯びている。カサンドラは繰り返し自分の腹に手を当てた。男児を、と念じるたびに指先がぎゅっと強張る。ヴァルブルガの言葉は計算された安心を与える一方で、同時に重い責務を突きつける。家の秩序、名誉、体裁——それらすべてが、自分の中で結晶化していくようだった。
夜、部屋に戻るとレギュラスから届いた手紙や小さな包みが置かれていた。ハーブのほか、肌をいたわるオイルや、安眠を促す湯剤の小袋――レギュラスは言葉ではなく物で気遣いを示そうとしている。そうした贈り物を彼女は一つ一つ指で愛でながら、胸の内に渦巻く複雑な感情を抑え込んだ。どれほど誠実に扱われても、彼が夜の多くをアランの傍で過ごす事実は覆らない。自分の手に届くのは、贈り物と紙の上の約束だけなのだろうか。ふいに不安が広がる。
ある朝、カサンドラは庭先で一人、薄くなった風を背に受けながら決意を固める。ヴァルブルガの期待を裏切るわけにはいかない。ロズィエ家の名誉を取り戻すのだ――言葉は厳しく、冷たくもあったが、その中に確かな覚悟が籠もっていた。アランを葬ることができなかった過去の挫折は、今度は「正当な立場と手段」で覆す、そう考えると胸の中に静かな計算が巡るのを感じる。正妻の座で、当主を産み育てることで、すべてを塗り替える――それが彼女の目に映る唯一の解決策に思えた。
その夜、カサンドラは枕元で腹を撫でながら、ふと小さく呟いた。――あなたは私の誇りになるのだと。外側は冷静で整っていても、内側では炎がゆらめいている。誇りと欲望と焦りとが混じり合った複雑な感情が、彼女の胸を満たしていた。だが同時に、アルタイルの笑顔、アランの儚い姿、そしてレギュラスのささやかな柔らかさが、許されない嫉妬と苛立ちをカサンドラに植え付けていく。彼女は自分がどこまで堕ちうるのか、どこまで強くなれるのか、その境界をそっと見定めながら、手の中の小さな命の未来を思い描いた。
レギュラスは、あの夜を境に何かが変わっていた。
心のどこかで、アランに触れることへの罪悪感も、ためらいも、もうとっくに剥がれ落ちていた。
あの夜の彼女は、贖罪の代わりに身を差し出してきた――そんな気配があった。
だが今は違う。
何気ない日常の中で、静かに触れ、そっと求めた時に彼女が拒まず応じた。
それだけで、満たされ方がまるで違った。
アランは少しずつ怯えるような素振りを見せなくなっていた。
視線を合わせれば、逃げることなくその瞳がこちらを受け止める。
かつては触れただけで身を強ばらせていた肩が、いまは微かに緩む。
それが愛おしかった。
その変化を導いたのが自分であるという優越感――それが、奇妙に甘い陶酔を伴って胸の奥に広がる。
指先で彼女の頬を撫でながら、レギュラスは思う。
自分はもしかすると、愛されるよりも、支配することによって安心を得る人間なのかもしれない。
その柔らかな髪の感触を確かめながら、彼女の中に自分の存在を刻みつけるたびに、胸の内のざらつきが少しずつ削がれていく。
かつて、義務のようにカサンドラの寝所を訪れた頃とはまるで違う。
あの時の身体の交わりは、血の通わない儀式のようだった。
正妻として果たさねばならない義務。
子を成すための、冷えた行為。
そこには、呼吸の合う瞬間などひとつもなかった。
今は違う。
アランといる時、彼女の息づかいが、まるで魔法の詠唱のように空気を揺らす。
胸の鼓動が重なり、静かな夜気の中に二人の温度だけが浮かび上がる。
触れるたびに、かつての少年時代の熱――見境なく求め、愛の意味など知らぬまま夢中で抱きしめた頃の自分が蘇ってくる。
やがてすべてが静まり返り、
アランは疲れたように息を整え、瞼を閉じた。
レギュラスはその隣に体を預けながら、低く囁く。
「アラン、具合はどうです?」
彼女は薄く瞳を開き、焦点の合わぬまま小さく笑った。
「……大丈夫、です……」
その声があまりに柔らかく、
まるで自分の存在を赦されたような錯覚を覚えた。
レギュラスはそのまま、彼女の頬に髪を落とす。
そして、眠りに落ちる直前の彼女の顔を見つめ続けた。
呼吸がゆっくりと整い、唇から微かな寝息が漏れる。
そのたびに胸の奥が満たされていく。
心を掻き乱していた激情も、渦巻く疑念も、全てがこの静寂に溶けていくようだった。
――この瞬間だけでいい。
彼女がこうして傍にいてくれるのなら、それでいい。
夜の静けさの中で、レギュラスはアランの髪を撫でた。
翡翠色の夢を見ているかのようなその寝顔を見つめながら、
どうしようもなく、幸福だった。
オリオン・ブラックが当主の座を息子レギュラスへと譲る――その報せに、ブラック家の屋敷は久しぶりに賑わいを見せていた。
晩餐の間には煌びやかなシャンデリアがいくつも灯され、銀細工の燭台には光が踊る。漆黒の天蓋には夜空を模した魔法が施され、まるで星々が屋内に降り注いでいるかのようだった。
それは、まさしく“ブラック家の威光”を象徴する宴だった。
純血の名門たちが次々と姿を現す。マルフォイ家、ロズィエ家、レストレンジ家――いずれも誇り高く、血統に一点の曇りもない一族たち。
彼らの口から次々に祝辞が述べられていく。
「若き当主の誕生を祝して、ブラック家の繁栄が末永く続かんことを」
「貴家の英知と魔力が、魔法界を正しき方向へ導くと信じております」
「ヴォルデモート卿の御意を継ぐに相応しいお方だ」
言葉のひとつひとつが、甘くも重たい鎖のようにレギュラスの肩に絡みつく。
レギュラスは、完璧な貴族の面持ちでそれらを受けた。
姿勢も微笑も、言葉の抑揚も、まるで生まれながらに舞台に立つことを宿命づけられたような、非の打ちどころのない所作。
ただ、その端正な仮面の裏では、心が別の場所にあった。
彼の隣には、緩やかなドレスを纏ったカサンドラ。
腹のふくらみが目立ち始めたことで、その装いはふだんよりも布が多く、身体をいたわる柔らかな仕立てだった。
レギュラスは彼女の腕を取り、来賓の間を静かに歩く。
完璧な当主の姿を演じるには、隣に正妻を伴うのが最も望ましい――それは理解している。
それでも、苦痛だった。
「お疲れではありませんか?」
「いいえ、平気ですわ」
「ずっと立っているのは体に障ります」
「夫が当主の座に就く日ですもの。妻として隣に立たせてください」
そのやりとりは模範的で、誰が聞いても美しいものに違いなかった。
だがレギュラスの胸の奥では、苛立ちが小さく泡立っていた。
――休ませて、一人になりたかった。
ほんの数分でもいい。
アランの元へ行くための口実がほしかった。
アランは今夜、寝室で伏せっている。
昨夜から体調を崩し、食事もまともに取れていないと聞いた。
何度も彼女の部屋に足を運ぼうとしたが、客人が絶え間なくやってきては言葉を交わさねばならず、逃げ出す隙がない。
人々の笑い声とグラスの触れ合う音の中で、胸の奥だけが冷えきっていた。
「おめでとうございます、レギュラス卿。ブラック家の未来は安泰ですな」
「奥方もご懐妊と伺いました。二重の慶びですな!」
「お生まれになるのはきっと男児に違いありません。名門ブラック家にまた一つ星が増える」
客人たちの言葉が次々と飛び交う。
レギュラスは微笑み、杯を掲げる。
しかし、耳に入ってくる祝福の響きが、遠い世界のもののように感じられた。
アランの頬の色はどうだろう。
熱は下がったのか。
アルタイルは泣いていないか。
気がつけば、目の前にいるはずのカサンドラの声が霞んでいた。
笑顔を作る顔の筋肉が重く、冷めたワインの味が、喉の奥で金属のように鈍く響く。
レギュラスの意識は、宴のざわめきの中にあっても、まるで別の部屋――静寂の中で眠るアランの寝台へと引き寄せられていた。
豪奢な宴の中心で、レギュラス・ブラックは微笑んでいた。
だが、その微笑みの裏にある心の在処を知る者は、誰一人としていなかった。
大広間の中心に設えられた壇上で、オリオン・ブラックがゆっくりと立ち上がった。
彼の声は低く、よく通る。
歳を重ねてもなおその眼光は鋭く、まるで長年にわたりこの家を支えてきた誇りと責務そのものが人の形を取って立っているかのようだった。
「――この家は代々、血の純潔と誇りをもって魔法界を導いてきた。
そして今日、その意志を新たに継ぐ者がここにいる。レギュラス・ブラック。
彼こそが、これからの魔法界を支えるに相応しい男だ。」
重々しい声が大理石の壁に反響する。
集まった貴族たちは一斉に拍手を送り、シャンデリアの光がその掌の動きに合わせて煌めいた。
長い歴史の中でも特別な夜――そう言わんばかりの厳かな空気。
レギュラスは静かに頭を垂れ、父の言葉を黙って聴いていた。
胸の奥では何かが音を立てて揺れていた。
誇りか、重圧か、それとも――アランの名を心の中で呼んだときに覚える微かな痛みか。
その時、背後から肩越しに小さな気配が近づく。
低い声が耳元で囁いた。
「君の噂の奥方はいずこです?」
バーテミウスだった。
この場の喧噪にも溶け込むような軽口でありながら、妙に核心を突く声。
レギュラスはほんのわずかに顔を後ろへ向け、囁くように答える。
「上で、寝込んでいます。」
「それは……気が気でないでしょうに。」
唇の端を上げたバーテミウスは、冗談めかした声で言う。
笑いを含んだその眼差しには、どこか探るような光が宿っていた。
レギュラスは答えず、ただじとりとした視線だけを返す。
その視線だけで“今は放っておけ”と語っていた。
だが、バーテミウスは相変わらずにやりと笑っている。
まるで相手の心の奥にまで見透かして楽しんでいるかのようだった。
本当のところ、バーテミウスの言葉は図星だった。
気が気でなかった。
アランの体調は昨日から芳しくない。
熱もあると乳母が報告していた。
そんな中で、この豪奢な宴の最中に自分は祝福を受け、笑みを作っている――その事実が堪らなく空虚だった。
「……悪趣味な冗談ですね。」
かろうじてそう返すと、バーテミウスは肩をすくめて去っていった。
その背を見送った瞬間、レギュラスの胸の奥に鋭い痛みが走る。
大理石の床を踏みしめる靴音、銀食器の触れ合う音、客たちの笑い声。
どれもが遠くに聞こえた。
彼の耳が捉えたい音はただひとつ――
アランの息遣いだった。
その夜、煌びやかに飾られた大広間の中心で、
新たな当主レギュラス・ブラックは微笑みを絶やさぬまま、
心だけを静かに、屋敷の上階に置いてきた女のもとへと彷徨わせていた。
屋敷の下階では、夜も更けてなお祝宴の音が響いていた。
金属が触れ合う澄んだ音、グラスが満たされる液体の音、貴族たちの笑い声。
そのすべてが遠い世界の音のように、アランの耳にはぼんやりと届いていた。
上階の寝室は、まるで異なる世界だった。
蝋燭の炎が揺らめくたび、淡い影が壁を撫でていく。
静寂の中に響くのは、アルタイルの寝息だけ。
その穏やかさが、かえって胸を締めつけた。
――ようやく自由だった。
久方ぶりに訪れた誰の目にも触れない夜。
この屋敷にいる限り、常に視線を感じる。
レギュラスのもの、ヴァルブルガのもの、あるいは使用人たちのもの。
今宵だけはそれらが一切届かない。
ほんのひととき、ただ“自分”でいられる時間だった。
それが、どれほど貴重なことか。
アランは寝台の隣に眠るアルタイルを見つめた。
小さな胸がゆっくりと上下している。
安らかに眠るその顔には、シリウスの面影がはっきりと宿っていた。
瞳の色も、笑うときの口角の上がり方も。
どれもが愛おしくて、同時に痛かった。
ここ最近、レギュラスに応じる回数が増えていた。
求められるたび、拒む理由を見つけられなかった。
――赦されている。守られている。
そう思うたび、心の奥が軋んだ。
アルタイルの小さな手が、隣で眠りながらも無邪気に動く。
その無垢な指先の横で、別の男の熱を受け入れることが、どれほどの罰か。
それでも、彼を怒らせることはできなかった。
レギュラスの寛大さがあったからこそ、今も父も一族も、生きていられる。
求めに応じることで差し出せるのならば――それでいいと思った。
それでも、アルタイルの前でだけは。
この子の前でだけは、それをしたくなかった。
アランはそっとアルタイルを抱き上げ、バルコニーへ出た。
夜風が肌を撫でる。
熱を帯びた体にその冷たさが心地よい。
月明かりが白い頬を照らす。
まるで誰かに赦されているような、束の間の静けさだった。
――そのとき、背後から声がした。
「お久しぶりです、セシール嬢。」
アランは驚いて振り返る。
その男の顔を見た瞬間、心臓が跳ねた。
どこかで見たことのある顔。だが、名が出てこない。
男は微笑を浮かべながら、ゆっくりと頭を下げた。
「ホグワーツ時代、同じ寮でしたが……あまり関わりはありませんでしたね。
――バーテミウス・クラウチですよ。」
その名を聞いた瞬間、アランの背筋がこわばる。
長い時を経ても忘れようがない。
在学中、誰よりも洞察の鋭い男だった。
シリウスと交わす視線ひとつ、手の触れ方ひとつで、
二人の間に流れる空気を見抜いていた。
アランは慌てて、胸元をショールで隠した。
ナイトドレスの薄布越しに、夜風が冷たく通り抜ける。
それでも心臓の鼓動だけが熱を帯びて止まらなかった。
なぜ、今――この場所に。
バーテミウスの瞳には、懐かしさでも、好奇でもなく、
計算された興味の光が宿っていた。
まるで、誰よりもこの屋敷の秘密を知っているとでも言いたげに。
静寂を切り裂くように、遠くの階下から笑い声が響いた。
アランは、腕の中のアルタイルを抱き締める力をほんの少し強めた。
冷たい夜気が、その肌を撫でていく。
――危ういものが、音もなく忍び寄ってきている気がした。
彼の笑みは、あまりにも人当たりがよかった。
しかし、その柔らかさの奥にある鋭利な観察眼を、アランは覚えていた。
「男の子をお産みになったそうですね。」
まるで挨拶のような軽さで口にされたその言葉に、アランの喉が詰まった。
答えようとしたが、声が出なかった。
ただ、腕の中のアルタイルを抱き締める力が強くなる。
「おや、沈黙とはまた慎ましい。」
バーテミウスは微笑みを絶やさぬまま、ひと歩き、またひと歩きとアランに近づく。
月明かりが彼の頬を照らし、氷のような光を宿していた。
「幸運の女神が微笑んでいるようだ。」
そう言いながら、彼は大げさに両手を広げてみせた。
その仕草が妙に滑稽でありながら、どこか鳥肌が立つような不気味さを孕んでいた。
アランは本能的に半歩、後ずさる。
――この男。
ホグワーツの頃から、どんなに遠回しでも核心を突く。
何気ない会話の中に棘を潜ませ、他人の心を試すような真似を平然とする。
「シリウス・ブラックの件は、完全にお諦めになったのですね。賢明な選択です。」
思ったとおり、切り込んできた。
その名前が空気を震わせた瞬間、胸の奥にしまっていた何かが微かに疼いた。
けれど、アランは動じなかった。
むしろ、来ると分かっていた一撃だったからこそ、静かに受け止めることができた。
「昔の話ですから。」
かろうじて絞り出すように言うと、バーテミウスは愉快そうに笑った。
「そうですね。遠い昔の話です。」
ゆっくりと首を傾げる。
「ですが今やあなたは、ブラック家の未来の当主をお産みになった。
――ロズィエ家の令嬢を、引きずり下ろすことさえできるのでは?」
彼の声は柔らかかったが、言葉は鋭かった。
まるで刃物を花束に包んで差し出すような、そんな残酷さがあった。
アランは息を呑む。
喉が詰まり、胸の奥が焼けるように熱い。
人に聞かれれば大事になる。
この男はわざと、そういう際どい言葉を選んでいる。
――彼は試しているのだ。
自分がどこまで動揺するかを、静かに観察している。
アルタイルが微かに身じろぎし、アランの胸元に顔を埋めた。
その小さな温もりが、彼女の唯一の拠り所だった。
「久しぶりにお会いしたのに、やはり貴女はお美しい。」
バーテミウスの声はどこまでも穏やかだが、瞳の奥は一切笑っていなかった。
「本当に……昔と変わらない。」
アランはショールを握り締め、逃げ場を探すように月を見上げた。
この男は変わらない。
――どこまでも、かつてのまま。
嘘と真実の境を愉しみながら、人の心をじわりと削っていく。
その笑みを見ているだけで、胸の奥の古傷が疼いた。
今にも過去が、音を立てて目を覚ましそうだった。
バルコニーを去っていくアラン・ブラック――いや、かつてのアラン・セシールの背中を、バーテミウス・クラウチは長く目で追っていた。
薄絹のショールが風に揺れるたび、月光を受けて淡く光る。
その横顔には、ホグワーツ時代から変わらぬ品と哀愁が宿っていた。
「相変わらず、見事なものだ…」
誰に言うでもなく呟き、唇の端に笑みを浮かべる。
フランスの名門、ロズィエ家の令嬢カサンドラがこの女に心を乱さぬはずがない。
嫉妬も憎悪も当然の報いだ。
だが――それをすべて受け止め、なお生き延びているあたり、この女は実にしたたかだ。
先ほど“シリウス・ブラック”という名を口にしたときの、あの翡翠の瞳の揺らぎを思い出す。
ほんの一瞬。
けれど、確かにそこには懐かしさでも愛惜でもない、もっと深い、痛みのような色が走った。
それが彼女の中に今も残る火種なのだろう。
かつてグリフィンドールの不良貴族に恋をした、愚かで、しかし眩しいほど真っすぐだった少女の名残。
バーテミウスは小さく鼻で笑う。
「あれほど無謀で、勇敢さを履き違えた少女が――いまやブラック家の正統な妻、か。」
未来というものは、皮肉だ。
あの頃、彼女はレギュラスの視線を避け続け、ただ兄シリウスを追い続けていた。
レギュラスの愛を受け取れば、安泰な未来が手に入ると誰もが思っていたのに、彼女はそれを拒んだ。
自分の心に嘘をつけない、愚かで誇り高い娘だった。
――だが今、彼女はそのレギュラスの妻として、男児を産んでいる。
皮肉にも、あの頃よりもずっと高い地位に。
石畳の上を風が滑る。
バーテミウスは手袋越しに顎をなぞりながら、夜空を見上げた。
月は静かに満ちている。
彼の目には、その光の下で確かにうごめく人間たちの欲望と策略が、美しくさえ見えていた。
――リシェル・ブラウン。
アランの母。王宮を混乱に陥れ、国を傾かせた魔性の女。
美と知略と愛欲で男たちを狂わせ、最期は処刑台の上でその首を落とされた。
それでもなお、人々は彼女の名を恐れ、崇めた。
「娘は……母を超えるかもしれないな。」
バーテミウスは呟いた。
その声には、軽蔑ではなく、純粋な興味と愉悦が混じっている。
血の宿命か、あるいは再演か。
リシェル・ブラウンが王宮を混沌に陥れたように、
アラン・ブラックはこの魔法界の秩序を微かに揺るがせる存在になるのかもしれない。
彼女が微笑むだけで、誰かが破滅する――
その予感を想像するだけで、バーテミウスの胸はぞくりと震えた。
「面白くなりそうだ。まるで舞台の幕が上がるように。」
下階の宴の音が微かに響く。
だがバーテミウスにとって、真の“祝祭”はこれからだった。
アラン・ブラックという女の生が、再び世界を乱し始める――
その瞬間を見届けるために。
ヴァルブルガ・ブラックの胸中は、煮え立つような焦燥で満たされていた。
夜の屋敷を照らす燭台の光の下、彼女の指は落ち着きなく指輪を弄び続けている。
先日の宴のざわめきが、まだ耳の奥でこだまするようだった。
――あの場にいた誰もが、まるで面白い玩具を見つけたかのように「副妃」の話題を口にしていた。
「ブラック家の若き当主には、もう男児が生まれたそうだ」
「奥方はどこに?」「その子は見られぬのか?」
笑顔の裏にある探るような好奇の視線、貴族特有の残酷な品定め。
ヴァルブルガは、あの夜ほど自らの血が沸き立つのを感じたことはなかった。
オリオンは呑気に「アルタイルだけでも出せばよい」と言っていたが、
そんな愚かな真似ができるものか。
ロズィエ家の人間が同席している宴の場に――
副妃の産んだ子を、未来の当主として披露するなど、
ブラック家の名を貶めるにもほどがある。
ヴァルブルガは、扇を膝に置き、深く息を吐いた。
最近では、レギュラスがアランと寝室を共にするようになった。
その報せを聞いた夜、彼女は怒りのあまり食事も喉を通らなかった。
抗議したときの息子の冷たい瞳を、今も忘れられない。
――「正式にブラックの名を持つ妻だから」。
たったその一言で、彼は母の言葉を遮った。
あれほど従順で、何よりも家の名誉を重んじていた息子が。
いつから、あの女に心を明け渡すようになってしまったのか。
レギュラスは最近、露骨にアランを気にかける。
朝食の席では、彼女の体調を気遣い、使用人より先に水差しを手に取る。
廊下ですれ違えば、何気なく肩に触れる。
外出の支度を整えるアランの髪を、
「後ろの留め具が緩い」と言って自ら整える。
そんな些細な仕草一つひとつが、
周囲の目にはどれほど親密に映っているか、本人だけが分かっていない。
アルタイルを抱いているアランを見ると、
必ず彼は歩み寄り、その子を優しく抱き上げる。
――まるで、本物の当主の息子を愛でるように。
それがヴァルブルガには耐え難かった。
「このままでは……」
独りごちる声が、部屋の中で冷たく響く。
もし、カサンドラが男児を産んだとしても――
あの愚かな息子は、きっとアルタイルを“長子”として
当主に据えようと主張し始めるだろう。
それは、ブラック家の崩壊を意味する。
セシール家――
なんの歴史も、名誉も、富もない。
ただ“純血”という一語を楯にして、
辛うじて貴族の末席に名を連ねていた家系。
そんな家の娘の血が、ブラック家の頂に立つなど――
それは、純血主義の終焉であり、ヴァルブルガにとっては悪夢だった。
「……あの女を、この家から追い出さねば。」
震える唇で、呪いのようにその言葉を吐き出す。
彼女の胸の奥で、
古くからの誇りと憎悪が、静かに一つになっていく。
その夜、窓の外に見えた満月が、
まるでヴァルブルガの決意を嘲笑うかのように、
冷たく輝いていた。
