3章
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アランは、胸のあたりに違和感を覚えた。
アルタイルが遊びながら引っ張ったせいで、細いリボン紐がほどけていた。
そのことを思い出し、そっと指先で結び直す。
だが、その瞬間、気づいてしまう。
――以前よりも、少しだけ服がきつい。
「アラン、少し……ふっくらしましたか?」
柔らかな声が降ってくる。
驚いて顔を上げると、レギュラスがこちらを見ていた。
まるで心を読まれたようで、アランは咄嗟に言葉を詰まらせる。
「す、すみません。節制します……」
レギュラスは小さく首を振った。
「いえ、そういう意味ではなくて。いいことです。」
微笑みながら、穏やかに続ける。
「前の痩せすぎていた頃より、ずっと健康的です。」
その言葉に、胸の奥が微かに疼いた。
優しい言葉だった。
けれど、その優しさが痛い。
どれほど彼が穏やかに振る舞っても、その中に宿るのは“夫”としての愛情であり、アランの心が求めているものとは違うのだ。
レギュラスはアルタイルを片腕に抱いたまま、もう片方の手でアランの腰を引き寄せた。
まるで家族の形を確かめるように。
その仕草は自然で、穏やかで――だからこそ、アランには苦しかった。
レギュラスの頭がアランの胸元に寄りかかる。
彼の髪が肌をかすめ、体温が伝わる。
その一瞬、息が詰まりそうになった。
ベッドの上では、アルタイルが嬉しそうに手を伸ばし、二人の間に小さな声を立てて笑っている。
その瞳――灰色の瞳が、まるでシリウスのものと重なった。
アランは思わず目を閉じる。
その光景は、あまりにも残酷に美しかった。
幸福のようでいて、罪の象徴のようでもある。
――あなたの瞳の前で、私は他の男に抱かれている。
言葉にならない思いが胸をかきむしった。
愛しい息子の笑顔の中に、最愛の人の面影を見ながら、
アランは静かに耐えた。
幸福を装いながら、その内側で、心は静かに軋みを上げていた。
レギュラスの指が、静かにアランの胸元へと伸びた。
彼女の胸に頭を預けたとき、ふと気づく。
以前よりも、そこに確かな重みがあった。
出産を経て、授乳を重ねている――当然の変化。
理屈ではわかっている。けれど、理屈など役に立たなかった。
香り立つような肌の温もり。
胸の奥を締めつけるような、禁欲の日々の苦しさ。
アランが命懸けで子を産んでからというもの、レギュラスは一度もその体を求めていない。
医務魔女たちは一様に「まだ完全ではありません」と答えるばかりだった。
触れてはいけない。
わかっているのに、彼女を目にするたびに欲望は膨れ上がる。
特に――授乳の時。
アルタイルを抱いて乳を与えるアランの姿は、神聖な母性と同時に、男の理性を試すような残酷さがあった。
彼女の体のラインは柔らかくなり、細い首筋から胸元へ流れる曲線が、どこまでも優雅だった。
かつて見慣れた少女の面影はそこにはない。
母となったアランは、ひときわ美しく、そして――危うかった。
レギュラスは、彼女の首元に指をかけた。
リボンで結ばれた細い紐。
さきほど結び直したばかりのその結び目を、静かに解く。
「レギュラス……待って……」
アランのか細い声が、空気を震わせた。
それでも彼は手を止めなかった。
あまりにも長く、彼女を抱くことを禁じてきた。
触れたくて、触れてはいけなくて――その葛藤が理性を蝕んでいく。
紐がほどけ、胸元の布が静かに滑り落ちる。
柔らかな白い肌が月の光に照らされた。
その瞬間、胸の奥で何かが弾けるようだった。
彼女の腰に添えていた手が自然と上がり、掌が温もりを掴む。
手のひらにあふれるほどの柔らかさ――
記憶にあるそれとは違っていた。
年月を経て、命を育てた体は、しっとりとした重みを帯びていた。
「……」
言葉にならない息が漏れる。
彼の髪がアランの鎖骨をかすめ、静かな熱が二人を包んだ。
だが、その時。
アルタイルの小さな手が、レギュラスの髪をぐいと引いた。
「……!」
痛みに顔を上げると、無邪気な瞳がこちらを見つめていた。
その仕草に、張り詰めていた空気がふっと崩れる。
「小さな王に怒られちゃいましたね。」
レギュラスが苦笑まじりに呟く。
アランも、安堵したように微笑んだ。
「おいで、アルタイル。」
赤子が母の胸を求めるように手を伸ばす。
まるで、これから授乳の時間だとでも思ったかのように。
その自然な動作が、レギュラスの欲を静かに鎮めた。
「……本当に、よくできた子だ。」
レギュラスはアルタイルの頭を撫でながら呟いた。
アランは、その姿を見つめながら、胸の奥がじんと痛んだ。
あの手は、かつてシリウスの肩を抱いた手と同じ血を引いている。
父と子。
愛と罪。
そのすべてが、この小さな空間に詰め込まれていた。
レギュラスは、もう一度アランの方を見た。
触れたい。
けれど、今はこの穏やかな時間のままでいたいと思った。
ベッドの上で笑うアルタイルを見つめながら、
彼はふと、胸の奥に静かな幸福を感じていた。
触れることよりも、今はこの温もりのそばにいられることが――
なによりも、愛しいと思えた。
アルタイルが寝静まり、部屋の中にはランプの淡い光と規則的な寝息だけが満ちていた。
アランは毛布の端を整え、そっとベッドの脇に腰を下ろす。
一日の終わりの静けさ――それがようやく心を休ませてくれる瞬間だった。
その背後から、ぬくもりが寄り添ってくる。
レギュラスの腕が、音もなくアランの身体を包み込んだ。
「……っ」
驚きに体が跳ねる。
逃げようとしたわけではない。けれど、抗えない。
彼の腕の力は、優しいのにどこまでも確かなものだった。
背中に触れる体温。
首筋をかすめる吐息。
そのすべてが、逃げ場を奪っていくようだった。
胸の奥がざわついた。
――もう、逃げ場も、救いの手もない。
そんな実感が静かに落ちてくる。
「さっきは……すみません。」
耳元で囁かれる声。
拍子抜けするほど素直な謝罪だった。
アランは振り返れないまま、ただ小さく頷く。
レギュラスの声にはいつもの冷静さがなく、少しの戸惑いが混ざっていた。
その不器用な誠実さに、心がわずかに揺れる。
やがて彼に促されるまま、ベッドの端に並んで座らされた。
静寂が二人の間に降りる。
レギュラスは少し俯き、何かを言い出すのをためらっているようだった。
「アラン、一つ……お願いを聞いてもらえませんか。」
改まった口調。
アランは息を飲む。
叱責か、懇願か、どちらにしても重い言葉が続く予感がした。
けれど、彼の言葉は意外すぎた。
「……キスをしてくれませんか。あなたから。」
「え……?」
間の抜けた声が漏れる。
「あなたからされたいんです。」
レギュラスの瞳がまっすぐにこちらを見ていた。
そこに偽りはない。
ただ、少年のような不器用な願いがあった。
その真摯さに、アランは戸惑う。
かつて、自分から誰かにキスをしたことがあっただろうか。
いや、そんな記憶はない。
彼を拒む理由は山ほどあった。
それでも――
この夜、彼の孤独に触れた気がして、心の奥が小さく疼いた。
「……わかりました。」
震える声でそう告げ、アランはそっと顔を寄せた。
まるで扉を開くように、慎重に距離を詰める。
レギュラスの瞳が静かに閉じられた。
唇が触れる。
ほんの数秒。
触れるだけのキス。
頭の中で、秒を数えた。
「……もういいかもしれない」そう思って離れかけたその瞬間――
レギュラスの手がアランの頬を包む。
次の瞬間、彼の唇が再び重なった。
先ほどのそれとは違う。
熱を帯び、深く、溶け合うような口付け。
互いの境界が曖昧になっていく。
静かな夜に、息づかいだけが重なり合った。
どれほどの時間が経ったのか分からない。
唇を離した時、アランの胸は早鐘のように高鳴っていた。
呼吸が乱れ、指先まで震える。
レギュラスの瞳の中には、抑えきれない情欲の色が宿っていた。
それを見た瞬間、アランは慌てて目を逸らした。
まだ――何も癒えていない。
産後の体も、心も。
そして何より、シリウスへの想いは、未だ胸の奥に棘のように刺さっている。
だからどうか、これ以上は――。
「……レギュラス。」
かすれる声で名を呼ぶ。
彼は、まるでそれを理解したかのように、ただ穏やかに微笑んだ。
その笑みは、満足げで、そしてどこか少年のように無邪気だった。
アランは曖昧な微笑みで返した。
心の奥に沈む痛みを隠すように。
互いの呼吸が落ち着くまで、しばし、静寂が二人を包んだ。
ランプの光がゆらめき、影が重なって溶け合う。
けれど、心の距離だけは――
まだどうしても、埋まらなかった。
冷たい闇が、石造りの廊下を這うように流れていた。
ロンドン郊外の廃れた屋敷――そこが、今夜の“集会所”だった。
長いテーブルの上には黒い蝋燭がいくつも並び、灯された火は風もないのに揺らめいている。
その場にいたのは、ヴォルデモート卿を中心とした十数人のデスイーターたち。
その一角に、レギュラス・ブラックの姿もあった。
「――マグルの町を襲撃する。だが、ただの破壊ではない。」
闇の帝王の声は、冷たい蛇のように室内を這った。
命令の内容は明確だった。
魔法省に協力していたマグル生まれの魔法使い――彼らを炙り出し、見せしめとして一族ごと処刑せよというもの。
村を焼き、跡形も残さず消せ。
抵抗する者は、誰であれ許すな。
「これは清浄の儀だ。」
ヴォルデモートの声が、陶酔したように響く。
「汚れた血を削ぎ落とすことで、真の魔法界の秩序が生まれる。」
部屋の隅にいた誰かが歓喜の声を上げる。
その熱に満ちた空気の中で、レギュラスは一歩も動けなかった。
正しいのか。
本当に――これが、正しいことなのか。
胸の奥に、かすかな警鐘が鳴った。
それは、アランが時折口にしていた言葉の断片――「純血も、マグルも、同じ人なのだ」という柔らかな声だった。
その記憶が、心のどこかで疼く。
けれど、レギュラスはすぐにその思考を押し殺した。
――考えるな。
――感じるな。
ここで異議を唱えれば、ブラック家は一瞬で地に堕ちる。
自分ひとりが罰せられるのではない。
アランも、アルタイルも――守れなくなる。
それだけは、絶対に避けなければならなかった。
だから、正義も倫理も、全部まとめて闇の奥に沈めるしかなかった。
レギュラスは、無言のまま頭を垂れた。
「……御意に。」
その言葉は氷のように冷たく、どこか遠くの誰かの声のようだった。
任務の帰り道。
外は霧が立ち込め、街灯の光さえぼやけている。
レギュラスは、濃い闇の中で自らの影を見つめていた。
手のひらには、焼け落ちた家の煤がこびりついている。
それを見て、胸の奥がわずかに疼いた。
その痛みを打ち消すように、彼は思い出す。
――昨夜のこと。
アランの唇が、恐る恐る自分に触れたあの瞬間。
まるで迷子の子どもが扉を開くような、慎ましい口付け。
ほんの数秒の接触が、あの夜はひどく長く感じられた。
それだけで、胸の奥が温かく満たされた。
彼女は拒絶しなかった。
恐れながらも、自分の求めに応じてくれた。
それがどれほど嬉しかったか――言葉にならない。
闇の帝王の命に従い、血と死を背負いながらも、
レギュラスの中では、あの短いキスだけが確かな救いとして光っていた。
冷えきった夜気の中、彼は胸の奥で小さく呟いた。
「……あの人の笑顔さえ守れるなら、それでいい。」
そう信じることでしか、もはや自分を正当化できなかった。
けれど――
その祈りのような言葉さえ、どこか遠くで崩れていくような気がした。
夜の静寂は、まるで厚い絹のように屋敷を包み込んでいた。
カーテンの隙間から洩れる月光が、薄くアランの頬を照らしている。
痛みの波が再び襲ってきて、思わずシーツを握りしめた。
せっかく歩けるようになり、少しずつ体力も戻ってきていたのに――
それがまるで幻だったかのように、ここ数日は再び伏せりがちになっていた。
授乳もままならない。
アルタイルの泣き声が聞こえるたび、胸の奥で焦りが滲む。
けれど、体は思うように動かない。
薬を飲み、痛みに耐え、ただ夜が明けるのを待つ。
そのたびに、レギュラスがそっと背中をさすってくれた。
何度も、何度も。
指先が触れるたび、痛みが少し和らぐ気がした。
「……すみません。やはり、部屋を分けた方が……」
息も途切れ途切れに、アランはようやく声を出す。
レギュラスは首を横に振った。
「構いません。部屋を分けた方が、今度は心配で眠れません。」
その声は驚くほど穏やかで、迷いがなかった。
彼の方こそ神秘部で働き詰めなのに、夜はこうして一晩中付き添ってくれる。
アランは、申し訳なさで胸が締めつけられるのを感じた。
自分は日中、痛みの合間に眠ることができる。
けれど彼は――いつ休むのだろう。
いつ、心の安らぎを得ているのだろう。
そう考えると、涙がこぼれそうになった。
痛みに耐えながら、ふと疑問が浮かぶ。
なぜ、たった一人産んだだけで、ここまで体が朽ちていくのだろう。
母のときは、こんなことはなかった。
医務魔女からは「長期間、服用していた薬などありませんか」と問われたが、そんなものはない。
原因のわからない不調が、じわじわと体を蝕んでいく。
背後で、レギュラスの手が腹を撫でている。
その手の温かさが、わずかな痛みを溶かしてくれるようだった。
やがて、その動きが止まった。
見ると、彼はそのまま眠りに落ちていた。
アランはそっと寝返りを打つ。
月明かりの中で眠る彼の横顔を見つめた。
眉間の皺も、固く結ばれた唇も、日中の彼とは違って柔らかい。
穏やかな寝息が、まるで安心の証のように胸に染みた。
――ありがとう。
声には出せなかったけれど、心の中でそう呟く。
レギュラスは、アルタイルを真に大切に育ててくれている。
そしてセシール家――父の名を、あの人は守ろうとしてくれている。
そのことを思うたび、アランの胸は熱くなる。
自分が手放したもの。
愛した人、過去、そして自由。
それらすべてを失っても、いま目の前にいるこの人が、確かに守ってくれている。
それならば――それでいいのだと思えた。
「……どうか、この人が、少しでも安らげますように。」
眠るレギュラスの手を、そっと自分の掌で包み込む。
起こしたくはなかった。
彼の眠りを乱すことだけはしたくない。
アランは、静かに目を閉じた。
痛みが消えぬままでも、心は少しだけ穏やかだった。
月光が二人の間に降り注ぎ、夜は静かに、やさしく流れていった。
深夜、神秘部の報告書を片付けていた手が、途中で止まった。
レギュラスは窓辺に立ち、冷たい月の光を受けながら眉間を押さえた。
――どうして、こんなにも回復が遅いのか。
アランの体は、まるで一進一退の波に呑まれているようだった。
数日間は歩けるようになり、声にも力が戻る。
けれど翌日には、痛みで寝返りすら打てなくなる。
また数日経てば回復の兆しを見せ、次には再び伏してしまう。
それを幾度も繰り返していた。
ホグワーツにいた頃のアランを思い出す。
病弱ではなかった。むしろ、勤勉で、たとえ疲れていても他人の前では弱音を見せない少女だった。
妊娠中も異常はなく、医務魔女の診察でも常に「経過良好」の文字が並んでいた。
それなのに――。
レギュラスは息を吐き、指先でこめかみを押さえる。
どこか腑に落ちなかった。
出産という命の営みがここまで彼女の体を奪うものだとは思えない。
なにかが、狂っている。
そして、その“なにか”が明るみに出るのは突然だった。
医務魔女が沈痛な面持ちで報告に現れた。
「……出血の中に、魔法毒薬の反応が見られました。」
レギュラスの胸が凍りついた。
「魔法毒薬……?」
「はい。出産時に流れ出た血液を精査したところ、強い作用を持つ毒性反応が検出されました。長期にわたって体に残留するもので、解毒は――」
「できないと?」
「……はい。分量がもう少し多ければ、確実に命を落としていたでしょう。」
頭を抱えた。
耳鳴りがして、しばらく何も聞こえなかった。
その毒が、自然に体に入ることなどあり得ない。
誰かが――意図的に、アランにそれを与えたのだ。
目を閉じれば、屋敷の顔がいくつも浮かぶ。
カサンドラ。
そしてヴァルブルガ。
どちらもあり得る。
いや、どちらもだとしても不思議ではない。
だが、誰が真実の犯人であっても、この家の均衡を崩すわけにはいかなかった。
ヴァルブルガは現当主夫人として屋敷を支える女。
カサンドラは正妻として名誉を背負っている。
その二人を公に糾弾すれば、ブラック家の名は瞬く間に地に堕ちる。
――そうなれば、アランも、アルタイルも、守れない。
レギュラスはゆっくりと椅子に腰を下ろした。
書斎の蝋燭の炎が、波のように揺れる。
火が灯るたびに、影が机の上で蠢いた。
己の手が震えていることに気づき、指を組んで押さえつけた。
怒りではない。
絶望でもない。
それは、罪悪感だった。
「……すべて、僕のせいだ。」
妊娠を理由にアランを屋敷に留め、正式な妻として引き上げた。
それで全てが救われると思い込んでいた。
だが、それが彼女に毒を飲ませるほどの嫉妬を生む結果になった。
あまりにも、狭い視野だった。
自分は、アランを守ったのではなく、
彼女を檻の中に閉じ込めたのかもしれない。
闇の奥で、炎がひとつ、静かに消えた。
レギュラスはその暗闇の中、ただ無言で立ち尽くしていた。
胸の奥で、冷たい怒りと後悔だけが渦を巻いていた。
その朝、屋敷の食卓はいつもよりも落ち着かない空気に包まれていた。
窓の外は霧が薄く漂い、淡い光が長いテーブルクロスをぼんやりと照らしている。
銀器が触れ合う音だけが響く中、アルタイルの泣き声が絶え間なく廊下の向こうから流れ込んできた。
赤子特有の熱だと医務魔女は言っていた。
大事には至らない。ただの発熱。数日で下がるものだと。
けれど、アルタイルは泣きやまない。乳母があやしても、ミルクを与えても、泣き声は細く、途切れることなく続いていた。
「先にお食事をされてくださいませ、レギュラス様。」
乳母の声には焦りと疲労が滲んでいた。
しかしレギュラスは静かに首を振る。
「構いません。こちらに。」
彼は椅子を引き、乳母の腕からアルタイルをそっと抱き取った。
熱のこもった小さな体が腕の中で震えている。
まだ言葉を持たない命が、痛みや不安をどう伝えればよいのかもわからず泣き続ける――その無垢な叫びが、胸を締めつけた。
レギュラスは片腕でアルタイルをしっかりと支え、もう片方の手で朝食のプレートを取る。
冷めかけたパンを口に運び、半ば味も分からぬまま噛み砕いた。
それを数口で終わらせ、プレートを流し台に置く。
「ほら、見てごらん。」
彼は抱いたまま窓辺へと歩いた。
カーテンを少し開くと、曇り空の向こうに柔らかな光が滲んでいた。
木々の枝を渡るカラスの影が、ぼんやりと庭を横切っていく。
レギュラスはその景色をアルタイルに見せるようにして、ゆっくりと揺らした。
不思議なことに、泣き声が少しずつ弱まっていく。
目を真っ赤に腫らしたアルタイルが、光を追うように小さく手を伸ばした。
その仕草に、レギュラスの胸がきゅうと痛む。
――この子から、母親を永遠に奪うところだった。
あの夜、ほんの少しでも毒の量が多ければ、アランは命を落としていた。
その事実が、脳裏から離れない。
彼女が息をしている。それは奇跡であり、彼の罪そのものでもあった。
アルタイルの頬に手を添える。
小さな鼓動が、掌に伝わってくる。
この命はあの人の命の延長なのだ。
もし、アランを失っていたら――この子はきっと二度と笑わなかっただろう。
レギュラスは小さく息を吸い込み、幼子の髪に唇を寄せた。
「……ごめんなさい。」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
息子に対してか、アランに対してか、それとも――自分自身に対してか。
彼はしばらく窓辺に立ち、腕の中で再び眠りについたアルタイルを見下ろしていた。
その温もりは、あまりにも儚く、けれど確かだった。
だからこそ、いっそう胸の奥に重たい痛みが積もっていった。
レギュラスはゆっくりと呟いた。
「……君の母を、守ります、今度こそ。」
霧が晴れ、淡い朝の光が二人を包み込んでいった。
その光はあまりにも静かで、まるで赦しのように柔らかかった。
朝の光は淡く、部屋の中を白く溶かしていた。
アランはベッド脇のテーブルに置かれた朝刊を、何気なく手に取った。
紙面の匂い――インクと埃の混じる独特の香りが鼻をくすぐる。
いつもなら政治や魔法省の動向など、どれも自分とは無縁に思えて流し読みしてしまうところだった。
けれど、その日の紙面に並んだ見出しの中に、ひとつの名前があった。
――シリウス・ブラック。
その瞬間、心臓が強く跳ねた。
視線がその名前の上に釘付けになる。
呼吸が浅くなる。
記事は、騎士団がマグルの街で行う慈善活動について書かれていた。
孤児院を訪ね、魔法をまだ知らぬマグル生まれの子どもたちに、小さな魔法のショーを見せるという。
その筆頭に名を連ねていたのが、シリウス・ブラックだった。
「……シリウスが……」
アランは小さく呟いた。
それだけで胸がいっぱいになる。
かつて二人で訪れたマグルの街を思い出す。
見上げるビル群、カラフルなショーウィンドウ、街角のカフェの甘い香り。
どれもが魔法界にはないきらめきを放っていて、彼と手を繋いで歩いた時間は、まるで夢のようだった。
あの頃、何もかもが美しく見えた。
彼の横顔も、笑い声も、何気ない仕草さえも。
そのシリウスが、今もどこかで笑っている。
子どもたちの前で魔法を見せ、あのまっすぐな瞳で未来を信じている。
その想像だけで、涙が滲みそうになった。
――会いたい。
その想いが胸の奥からせり上がってくる。
無理だと分かっていても、どうしても押さえ込めなかった。
彼が立つその場所に、もう一度足を運びたい。
どんなに遠くても、どんなに危うくても。
あの人の姿を、ほんの一瞬でもいいから見たい。
アランは新聞をそっと折り畳み、引き出しの奥へしまった。
レギュラスが決して開けない引き出し。
その中なら、誰にも見つからない。
胸の奥が熱く、どこか懐かしく疼いていた。
数日後に開催されるというその催しを思うと、不思議と体の奥から力が湧いてくる。
久しく忘れていた感情だった。
――希望。
痛みや毒や後悔に沈んでいた心の中で、
久しぶりに、小さな灯がともった気がした。
屋敷の中は、まるで深く眠っているように静まり返っていた。
廊下を満たす空気にはまだ夜の冷たさが残り、窓から射し込む朝の光は淡く白んでいる。
レギュラスは早朝から外出していた。神秘部の任務か、闇の帝王の召集か――詳しいことは知らないが、
それがアランにとってこの上なく都合のよい状況であることだけは、はっきりしていた。
この部屋を訪ねてくる者はいない。
今もなお「体調が戻らず伏せっている」と屋敷中が思っている。
乳母はアルタイルの世話に追われ、ヴァルブルガも朝食の準備で忙しい。
誰にも気づかれずに外に出られる――奇跡のような隙間。
アランはゆっくりと寝台から身を起こした。
久しぶりに上体を起こすと、全身の骨が軋むようだった。
それでも、胸の奥には奇妙な熱があった。
それは痛みではない。
――高揚。
鏡の前に立ち、久しく袖を通していなかった外出用の服に手を伸ばす。
淡い灰色のドレス。
腰のあたりを紐で軽く結ぶ。
布の擦れる音さえ、心臓の鼓動と同じテンポで響いていた。
「……会えるかもしれない。」
新聞の紙面に記されていた、あの人の名。
――シリウス・ブラック。
孤児院で開かれる小さな魔法のショー。
マグルの子どもたちの前で、きっとあの人は笑っている。
屈託のない、太陽のような笑みで。
その姿を、どうしても見たかった。
一目でいい。
ほんの数秒でも、彼がこの世に存在している証を、自分の目で確かめたかった。
胸の奥で、もう一人の自分が囁く。
――もし彼が、別の誰かといたら?
――もし、彼の隣に新しい恋人がいたら?
――その光景を見たあなたは、壊れてしまうかもしれない。
頭では分かっている。
その可能性を考えるだけで息苦しくなる。
けれど、それでも構わなかった。
痛みに焼かれてでもいい、彼に会いたい。
それだけが、アランを生かしている理由のように思えた。
髪をゆるくまとめ、マントの裾を整える。
体の奥では、まだ何かが軋んでいた。
出産で弱りきった骨盤も、痛みが走る腰も、
まるで「やめろ」と訴えているようだった。
だが、その声を無視してでも動かずにはいられない。
今この瞬間、彼女を突き動かしているのは理性ではなく――恋心の残響。
ドアノブに手をかける。
扉の向こうに広がる冷たい空気が、肌に触れる。
その冷たささえも、彼へと続く道の始まりのように思えた。
「……待ってて、シリウス。」
誰にも聞こえぬように、かすれた声で呟く。
その声は微かな震えとともに空気へと溶け、
アランはゆっくりと屋敷の外へ歩き出した。
胸の奥で高鳴る鼓動だけが、
彼女がまだ生きていることを確かに告げていた。
その日の空は、鉛のように重かった。
雲の奥で雷鳴が鈍く転がり、風はざらついた灰を運んでくる。
レギュラスは黒いローブの裾を翻しながら、黙って街を見下ろしていた。
マグルの世界。鉄とガラスでできた無機質な建物たち。
そして、その中心に小さな孤児院があった。
――「マグルどもが純血を拒むなど、滑稽なことだ。」
闇の帝王の声が脳裏を過る。
この街を襲撃せよ。火種を潰せ。
レギュラスは命令に従うしかなかった。
彼に逆らえば、ブラック家の名は地に堕ちる。
アランも、アルタイルも、守れなくなる。
忠誠心と恐怖の境目で、レギュラスは己を押し殺すように息を整えた。
足元でデスイーターの仲間が数人、仮面の奥で囁き合っている。
魔法の杖を構え、空気が張り詰めた瞬間――
「……あれは?」
部下の一人が低く呟いた。
視線の先、街の中心――孤児院の前の広場に、人だかりができていた。
淡い旗と笑い声。子どもたちの歓声。
その中に、ひときわ目立つ黒髪の青年の姿がある。
シリウス・ブラック。
レギュラスの心臓がどくりと跳ねた。
忌まわしいほどに懐かしい名。
あの男は、今や不死鳥の騎士団の英雄として、世間から称えられている。
孤児院の前で、杖を軽やかに振り、小さな光の鳥を飛ばしていた。
子どもたちが歓声を上げる。
陽光を受けて笑う横顔は、昔と少しも変わらない。
――「最悪だ。」
レギュラスは頭を押さえた。
この状況では襲撃など到底無理だ。
騎士団の連中がこれほど集まっているなど、聞いていない。
手を出せば全面戦争になる。
「一旦引きましょう。この状況では不利です。」
低い声で仲間に指示を飛ばす。
デスイーターたちは互いに頷き、煙のように退避の準備を始めた。
だが、その時だった。
群衆の後ろに――見覚えのあるシルエット。
レギュラスの呼吸が止まる。
群衆を避けるようにゆっくりと歩く女。
淡いドレスに、薄い外套を羽織り、両手で胸を押さえるようにして歩いている。
その指先の震えを、遠くからでもはっきりと感じ取れた。
アラン。
どうして――。
彼女は、明らかに具合の悪い身体を無理に支えているようだった。
血の気の薄い唇。化粧で隠そうとしても隠し切れない顔色。
けれど、その瞳だけは何かに焦がれるように輝いている。
その視線の先にいるのは、シリウス・ブラック。
レギュラスの喉が焼けるように痛んだ。
なぜここに?
なぜ、彼女はまだあの男に会おうとする?
何を確かめにきた?
――まさか。
彼は息を呑んだ。
アルタイル。
あの子がシリウスとの子であることを、伝えに来たのか?
それとも、すでにシリウスは知っているのか?
頭の中で何かが崩れ落ちる音がした。
理性が揺らぐ。
胸の奥に押し込めていた黒い感情が一気に暴れ出す。
愛なのか、嫉妬なのか、怒りなのか――もう分からない。
ただ一つ分かるのは、アランがまだシリウスを見ているという事実。
それだけで全てが壊れそうだった。
「レギュラス様?」
仲間のデスイーターが声をかける。
我に返ったレギュラスは、冷えた声で命じた。
「……撤退です。すぐに。」
だがその目は、最後までアランを追い続けていた。
シリウスの笑みを見上げる彼女の横顔――
その光景は、胸を抉るほどに美しく、そして耐え難いほどに残酷だった。
風が冷たい。
マグルの街の空は、どこまでも白く霞んでいて、
どこか遠い世界に足を踏み入れてしまったような心地だった。
アランは人混みの外れに立ち、
息を殺すようにその光景を見つめていた。
胸の奥で鼓動が高鳴っている。
何かが壊れそうなほどに、胸が痛かった。
――シリウス。
そこにいた。
太陽のような男。
かつて彼が見せてくれた、あの明るさと温もりのままで。
子どもたちの歓声が街に響く。
彼は笑っていた。
孤児院の前の広場で、小さな杖を振り、空に金色の蝶を生み出していた。
蝶は群れとなって舞い上がり、子どもたちの手の中で光の粒となって弾ける。
歓声が一層大きくなる。
その中心で、シリウスは笑っていた。
子どもたちの目線に合わせ、膝を折り、
ひとりひとりの笑顔に応えるように、柔らかな言葉をかけている。
その姿があまりにもまぶしくて、アランの瞳から涙が溢れそうになった。
――「あなたは、やっぱり太陽みたいな人ね。」
心の中で呟く。
あの日もそうだった。
マグルの街のカフェで笑い合ったときも、
彼の傍にいるだけで世界が色づいて見えた。
アルタイルとシリウスが一緒に暮らせたなら――
どれほど幸せだっただろう。
きっと彼は、息子を宝物のように抱きしめ、
毎日その笑顔を見守ってくれただろう。
けれど、それは叶わぬ幻想。
墓場まで持っていくべき事実。
それでも、伝えたかった。
――この子は、あなたの子です。
その言葉が胸の奥で何度もこだまする。
叫び出したいほどの衝動を、アランは必死に押し殺した。
代わりに、下腹の奥がずきんと痛む。
呼吸をひとつするたびに、内臓が軋むようだった。
出産の痛みが再び蘇るような感覚。
けれど、それ以上に胸の痛みのほうが強かった。
――「帰らなければ。」
分かっていた。
ここに長くいてはいけない。
体はもう限界に近い。
姿くらましの呪文を使い、
さらに境界結界を越えるための呪文を唱えたせいで、体中の魔力が削られている。
血の気が引いていく。
それでも足を止めたくなかった。
ほんの一目でいいと思っていたのに、
いざ見てしまえば、どうしても離れがたい。
もう二度と、こんな機会はないかもしれない。
「……愛しているのに。」
声にならない声が喉の奥で消えた。
何度も唇が震える。
愛している――今も。
きっとこれから先もずっと。
たとえこの身がどんな運命に飲み込まれようとも。
背を向ける。
その瞬間、全ての痛みが押し寄せてきた。
骨の髄まで冷たくなる。
それでも歩かなければならない。
何度も、何度も振り返る。
シリウスはまだ笑っていた。
子どもたちに囲まれて、あの頃と同じ光を放っていた。
――気づかないで。
――でも、できれば気づいて。
相反する願いが、胸の奥でねじれた。
彼に見つけられなくてよかったと思う一方で、
どうしようもなく、彼の視線を求めてしまう自分がいた。
涙が頬を伝う。
風がその涙を冷たく奪っていく。
帰らなければ。
自分には守るべき命がある。
アルタイル。
愛した人と同じ瞳を持つ、小さな命。
その子を、悲しみの中に置いていくことはできない。
アランは小さく息を吐き、
震える足で、一歩を踏み出した。
遠ざかる街の喧騒。
笑い声が、光が、
まるで夢の終わりのように遠のいていく。
それでも胸の奥には、
シリウスへの愛が静かに燃えていた。
決して消えない、灰の下の炎のように。
屋敷に戻ると、空気がやけに重く感じられた。
アランはすぐに扉を閉め、背中を預けたまま深く息を吐く。
心臓の鼓動がまだ荒い。
胸の奥では、さっきまで見ていたシリウスの笑顔が、焼きついたように消えなかった。
急いでドレスを脱ぎ、鏡台の前に立つ。
外出の痕跡――髪の乱れ、靴の埃、頬に触れた風の冷たさ――
それらすべてを洗い流すように、アランは慌ただしく身なりを整える。
香油を少し多めに手に取り、肌に馴染ませた。
その香りが、罪を覆うための薄い幕のように思えた。
机の上には、誰かが運んだ朝食が冷えたまま置かれていた。
パンは固く、スープには薄い膜が張っている。
けれど、アランはそのどれにも手をつけられなかった。
食欲などあるはずがない。
「アルタイルを……連れてきてください。」
乳母にそう頼むと、すぐに小さな寝息が部屋に戻ってきた。
腕の中に抱かれたアルタイルは、穏やかに眠っている。
その頬にそっと触れる。
ああ――この子がいつか、あの人のように太陽のような笑顔を見せてくれたなら。
その想像だけで、胸の奥の痛みがほんの少しだけ和らいだ。
だが、その束の間の安堵を切り裂くように、
ドアが軋んだ。
「……戻りました。」
レギュラスの声だった。
思わず息が詰まる。
「お早いんですね……」
無理に笑みを作りながらそう言うと、彼は短く「ええ、まあ」とだけ返した。
その声には、いつもと違う湿り気があった。
何かを押し殺すような、低い響き。
ジャケットを脱ぎ、無造作にソファの背に掛ける。
動作はゆっくりだが、どこか苛立ちを孕んでいる。
アランの背筋が自然と伸びた。
彼はそのまま、音もなく隣に腰を下ろした。
距離が近い。息づかいがかすかに触れるほどの。
「……食事、取らなかったそうですね。」
穏やかな口調。しかし、その奥には静かな圧があった。
「……食欲がなくって。」
「そうですか。」
沈黙が落ちる。
暖炉の火の音だけが微かに響く。
アランはアルタイルの髪を撫でながら、視線を逸らした。
「――外出されました?」
心臓が一瞬止まる。
指先が震えた。
「え?」
声が裏返る。
「今日。外に出られたのでは?」
彼の視線が刺さる。
まるで、深層まで覗き込まれるような目だった。
「……いえ。眠気がひどくて……朝もあなたを見送りたかったのに、起きられなかったみたいです。ごめんなさい。」
嘘と本当を少しずつ混ぜながら言葉を紡ぐ。
声が震えているのを悟られないように、
アルタイルの頬に目を落とした。
「そうですか。」
レギュラスの口角が、微かに動いた。
笑っているのか、見下ろしているのか分からない。
「奇妙ですね。」
「え……?」
「あなたの杖を確認したのですが――」
彼は杖を指先で弄ぶ。
その仕草が、やけに静かで恐ろしい。
「あなたの杖。今日、魔法の痕跡が残っていたんです。
しかも、《ディスアパレート》と《コンシール・アプローチ》。
……どちらも、屋敷の外でしか使わない呪文でしょう?」
世界が、凍りついたようだった。
アランは口を開けない。
喉が張りつくように乾いて、声が出ない。
「あなたが外出していないのなら、誰があなたの杖を使ったんでしょうね。」
言葉の刃が、皮膚の上を滑るようだった。
静かなのに、逃げ道を塞ぐほど鋭い。
「……レギュラス……私……」
「言い訳は結構です。」
その声は優しげでいて、どこまでも冷たい。
アランは何度も息を吸い込んだが、
空気が肺に届かない。
「ごめんなさい……」
ようやく搾り出した声は、涙に濡れていた。
レギュラスは、何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと視線を落とす。
アルタイルを見ているのか、アランを見ているのか――分からない。
けれど、その沈黙こそが、最も恐ろしかった。
アランは悟った。
もう、逃げ場はない。
レギュラスはすべてを知っている。
そして――愛の裏側に潜む、冷たい牙を今まさに見せようとしていた。
部屋の扉を開けた瞬間、レギュラスの鼻をくすぐったのは甘く馴染んだ香油の匂いだった。
まるで外の気配を完全に消そうとでもしているように、香りは濃く、壁の隙間にまで染み渡っている。
落ち着き払った空間。整然とした寝具。机の上には、開けられてもいない食事の皿が並んでいた。
アランはソファの上でアルタイルを抱いていた。
その姿は一見、慈愛そのものだった。
腕の中の幼子を優しくあやす母の姿――けれどレギュラスの目には、それがまるで嘘で塗り固められた絵画のように見えた。
外出の痕跡を消すために整えられた髪、整然とした衣装。
「私は何もしていません」と語るその静けさこそ、何よりも胡散臭かった。
「……外出を、されました?」
たった一言の問いに、アランの指先がわずかに震えた。
上ずった声で「いいえ」と答える。
その瞬間、レギュラスの胸の奥にある冷たい笑いがこみ上げた。
演技が下手だ。
小細工をするより、もう少し演技力を磨くべきだった。
彼女が外出を否定する声を聞きながら、レギュラスはゆっくりとソファに腰を下ろした。
杖を指先で軽く回す。
その仕草ひとつにさえ、抑えた怒りの色が滲んでいた。
「奇妙ですね。」
静かに放たれたその言葉に、アランがびくりと肩を揺らす。
「今日、あなたの杖を確認しました。……魔法省の記録に、痕跡が残っていましてね。
《ディスアパレート》と《コンシール・アプローチ》。
どちらも屋敷の中では使いませんよね。」
淡々とした口調。だが、言葉の端々に潜む圧力は冷ややかな刃のようだった。
アランの瞳が揺れる。
彼女の沈黙は、罪を認めるよりも雄弁だった。
「……シリウスに、会ったんですか?」
アランの唇が震えた。
けれど言葉は出てこない。
沈黙――それが何よりも雄弁だった。
「もう一度聞きます。シリウスに会いましたか?」
低い声が、部屋の空気を震わせる。
アランは首を振る。
けれど、その動きがあまりに遅い。
レギュラスの眉間に、深い皺が刻まれた。
「……会いに行ったのでしょう?」
再び首を振る。
拒絶ではなく、恐怖の反射のように。
その姿を見た瞬間、レギュラスの中の何かがぷつりと切れた。
怒鳴ることもできた。
杖を叩きつけることもできた。
だが、腕の中のアルタイルが彼女に抱かれている――その一点だけが、彼の理性を辛うじて繋ぎ止めていた。
「質問を変えましょうか。」
レギュラスの声が低く落ちる。
「何を話したんです? ――シリウス・ブラックと。」
アランの喉が小さく鳴る。
そして、震える声で言葉を搾り出した。
「……遠くから見ただけ。目も合わせていないわ。何も話していません。」
レギュラスの口元に、乾いた笑いが浮かんだ。
その笑みには、怒りも哀しみも、すべてが混ざっていた。
「……遠くから見ただけ?」
まるでその言葉を何度も噛みしめるように、低く繰り返す。
「あなたは……そのために、壊れた身体を引きずってまで、マグルの街まで行ったんですか?
ただ、見るために? “満たされた”とでも言いたいんですか?」
静かに、しかし一言ごとに温度を失っていく声。
「あなたの言葉がどれほど僕を愚弄しているのか、分かりますか。」
アランの視界が滲む。
抱いているアルタイルの体温だけが、かろうじて現実と彼女をつなぎ止めていた。
「ごめんなさい……」
ようやくこぼれた言葉は、涙に濡れて掠れていた。
レギュラスはその声に、しばらく何の反応も見せなかった。
ただ、無言のまま視線を落とし、アルタイルの頬を見つめる。
小さな寝息が部屋に響く。
その音だけが、崩壊寸前の二人をかろうじて現実に繋ぎ止めていた。
怒りも哀れみも、嫉妬も――
全てを呑み込むように、レギュラスは静かに息を吐いた。
ここまで追い詰められたことは、かつて一度もなかった。
レギュラスの叱責は、怒号ではなく、まるで蛇の牙のように静かで鋭い。
声を荒げることもなく、焦点を定め、じわじわと心の奥に毒を回してくる。
それが彼らしかった。冷静で、狡猾で、容赦がない。
逃げ場などどこにもなかった。
綺麗に並べられた証拠の前では、言い訳は無力だった。
杖の呪文の痕跡、外出の時間、香油の香り――どれもが「嘘」を裏切っていた。
アランの中で、希望という名の光が、ひとつずつ砕け落ちていく音がした。
「……ごめんなさい、レギュラス……」
声は掠れて震え、言葉の輪郭が涙に溶けた。
ひたすらに詫びるしかなかった。
もしこの怒りが、彼の掌を離れてアルタイルに向かってしまえば――
それだけでこの子の未来は潰えてしまう。
一族も、父も、全て巻き添えになる。
そうなれば、アランがこの屋敷に残る意味など一つもなくなる。
かつてこの屋敷に留まり、レギュラスの隣を生きると決めた少女の決意が、
一瞬で灰になるのを感じた。
アランはアルタイルを抱いたまま、ゆっくりと跪いた。
体のあちこちで疼く痛みは、もはやどこから来ているのかさえ分からない。
それでも頭を下げるしかなかった。
レギュラスの声が降る。
「……なんの真似です?」
「ごめんなさい……なんでもするわ……」
哀願というよりも、懇願に近かった。
それでも、レギュラスの瞳は微動だにしない。
「むしろ、何ができるんです?」
冷ややかに放たれた言葉。
笑いにも似た鼻息が混じっていた。
その嘲りが、アランの胸の奥に深く突き刺さる。
「僕の信頼を裏切っておいて、いったい何を差し出せるつもりです?」
その声は怒鳴りではなかった。
静かに、しかし容赦なく心臓を締め付ける音色をしていた。
アルタイルが泣いた。
母親の震えを感じ取ったのか、寝息の代わりに小さな泣き声が部屋を満たす。
その声が唯一、レギュラスの怒りの熱を一瞬だけ冷ました。
「……どうぞ。」
扉の外に立っていた乳母が、ためらいがちに中へ入る。
その目に映った光景――ソファに足を組んで座るレギュラスと、
その足元に跪くアランの姿――
あまりの異様さに、彼女は息を呑んだ。
「アルタイルをあやしてあげてください。外で。」
レギュラスの穏やかな声が、逆に命令として響く。
乳母はすぐに赤子を抱き上げ、深く頭を下げて部屋を後にした。
扉が閉まる音が、やけに重たく響く。
静寂。
その沈黙の中で、レギュラスがひとつ深い息を吐いた。
その吐息はため息というよりも、長い祈りのようだった。
アランの膝の下で、床の冷たさがじわじわと伝わる。
けれど、心臓の奥の冷えの方がずっと堪えた。
彼の怒りの熱と、言葉の冷たさの間で、心がひび割れていく。
やがて、レギュラスが低く呟いた。
「あなたが泣いても、僕の怒りは消えません。」
その声音には、哀しみとも愛情ともつかぬ何かが滲んでいた。
アランは唇を噛み締めた。
血の味が広がる。
赦しを乞うことすら許されない沈黙が、部屋を覆っていた。
炎の明かりがゆらめき、影が二人の間をゆっくりと分断していく。
その光の境界に、アランは膝をついたまま、
ただ震える手を胸に当て、嗚咽をこらえていた。
アルタイルが遊びながら引っ張ったせいで、細いリボン紐がほどけていた。
そのことを思い出し、そっと指先で結び直す。
だが、その瞬間、気づいてしまう。
――以前よりも、少しだけ服がきつい。
「アラン、少し……ふっくらしましたか?」
柔らかな声が降ってくる。
驚いて顔を上げると、レギュラスがこちらを見ていた。
まるで心を読まれたようで、アランは咄嗟に言葉を詰まらせる。
「す、すみません。節制します……」
レギュラスは小さく首を振った。
「いえ、そういう意味ではなくて。いいことです。」
微笑みながら、穏やかに続ける。
「前の痩せすぎていた頃より、ずっと健康的です。」
その言葉に、胸の奥が微かに疼いた。
優しい言葉だった。
けれど、その優しさが痛い。
どれほど彼が穏やかに振る舞っても、その中に宿るのは“夫”としての愛情であり、アランの心が求めているものとは違うのだ。
レギュラスはアルタイルを片腕に抱いたまま、もう片方の手でアランの腰を引き寄せた。
まるで家族の形を確かめるように。
その仕草は自然で、穏やかで――だからこそ、アランには苦しかった。
レギュラスの頭がアランの胸元に寄りかかる。
彼の髪が肌をかすめ、体温が伝わる。
その一瞬、息が詰まりそうになった。
ベッドの上では、アルタイルが嬉しそうに手を伸ばし、二人の間に小さな声を立てて笑っている。
その瞳――灰色の瞳が、まるでシリウスのものと重なった。
アランは思わず目を閉じる。
その光景は、あまりにも残酷に美しかった。
幸福のようでいて、罪の象徴のようでもある。
――あなたの瞳の前で、私は他の男に抱かれている。
言葉にならない思いが胸をかきむしった。
愛しい息子の笑顔の中に、最愛の人の面影を見ながら、
アランは静かに耐えた。
幸福を装いながら、その内側で、心は静かに軋みを上げていた。
レギュラスの指が、静かにアランの胸元へと伸びた。
彼女の胸に頭を預けたとき、ふと気づく。
以前よりも、そこに確かな重みがあった。
出産を経て、授乳を重ねている――当然の変化。
理屈ではわかっている。けれど、理屈など役に立たなかった。
香り立つような肌の温もり。
胸の奥を締めつけるような、禁欲の日々の苦しさ。
アランが命懸けで子を産んでからというもの、レギュラスは一度もその体を求めていない。
医務魔女たちは一様に「まだ完全ではありません」と答えるばかりだった。
触れてはいけない。
わかっているのに、彼女を目にするたびに欲望は膨れ上がる。
特に――授乳の時。
アルタイルを抱いて乳を与えるアランの姿は、神聖な母性と同時に、男の理性を試すような残酷さがあった。
彼女の体のラインは柔らかくなり、細い首筋から胸元へ流れる曲線が、どこまでも優雅だった。
かつて見慣れた少女の面影はそこにはない。
母となったアランは、ひときわ美しく、そして――危うかった。
レギュラスは、彼女の首元に指をかけた。
リボンで結ばれた細い紐。
さきほど結び直したばかりのその結び目を、静かに解く。
「レギュラス……待って……」
アランのか細い声が、空気を震わせた。
それでも彼は手を止めなかった。
あまりにも長く、彼女を抱くことを禁じてきた。
触れたくて、触れてはいけなくて――その葛藤が理性を蝕んでいく。
紐がほどけ、胸元の布が静かに滑り落ちる。
柔らかな白い肌が月の光に照らされた。
その瞬間、胸の奥で何かが弾けるようだった。
彼女の腰に添えていた手が自然と上がり、掌が温もりを掴む。
手のひらにあふれるほどの柔らかさ――
記憶にあるそれとは違っていた。
年月を経て、命を育てた体は、しっとりとした重みを帯びていた。
「……」
言葉にならない息が漏れる。
彼の髪がアランの鎖骨をかすめ、静かな熱が二人を包んだ。
だが、その時。
アルタイルの小さな手が、レギュラスの髪をぐいと引いた。
「……!」
痛みに顔を上げると、無邪気な瞳がこちらを見つめていた。
その仕草に、張り詰めていた空気がふっと崩れる。
「小さな王に怒られちゃいましたね。」
レギュラスが苦笑まじりに呟く。
アランも、安堵したように微笑んだ。
「おいで、アルタイル。」
赤子が母の胸を求めるように手を伸ばす。
まるで、これから授乳の時間だとでも思ったかのように。
その自然な動作が、レギュラスの欲を静かに鎮めた。
「……本当に、よくできた子だ。」
レギュラスはアルタイルの頭を撫でながら呟いた。
アランは、その姿を見つめながら、胸の奥がじんと痛んだ。
あの手は、かつてシリウスの肩を抱いた手と同じ血を引いている。
父と子。
愛と罪。
そのすべてが、この小さな空間に詰め込まれていた。
レギュラスは、もう一度アランの方を見た。
触れたい。
けれど、今はこの穏やかな時間のままでいたいと思った。
ベッドの上で笑うアルタイルを見つめながら、
彼はふと、胸の奥に静かな幸福を感じていた。
触れることよりも、今はこの温もりのそばにいられることが――
なによりも、愛しいと思えた。
アルタイルが寝静まり、部屋の中にはランプの淡い光と規則的な寝息だけが満ちていた。
アランは毛布の端を整え、そっとベッドの脇に腰を下ろす。
一日の終わりの静けさ――それがようやく心を休ませてくれる瞬間だった。
その背後から、ぬくもりが寄り添ってくる。
レギュラスの腕が、音もなくアランの身体を包み込んだ。
「……っ」
驚きに体が跳ねる。
逃げようとしたわけではない。けれど、抗えない。
彼の腕の力は、優しいのにどこまでも確かなものだった。
背中に触れる体温。
首筋をかすめる吐息。
そのすべてが、逃げ場を奪っていくようだった。
胸の奥がざわついた。
――もう、逃げ場も、救いの手もない。
そんな実感が静かに落ちてくる。
「さっきは……すみません。」
耳元で囁かれる声。
拍子抜けするほど素直な謝罪だった。
アランは振り返れないまま、ただ小さく頷く。
レギュラスの声にはいつもの冷静さがなく、少しの戸惑いが混ざっていた。
その不器用な誠実さに、心がわずかに揺れる。
やがて彼に促されるまま、ベッドの端に並んで座らされた。
静寂が二人の間に降りる。
レギュラスは少し俯き、何かを言い出すのをためらっているようだった。
「アラン、一つ……お願いを聞いてもらえませんか。」
改まった口調。
アランは息を飲む。
叱責か、懇願か、どちらにしても重い言葉が続く予感がした。
けれど、彼の言葉は意外すぎた。
「……キスをしてくれませんか。あなたから。」
「え……?」
間の抜けた声が漏れる。
「あなたからされたいんです。」
レギュラスの瞳がまっすぐにこちらを見ていた。
そこに偽りはない。
ただ、少年のような不器用な願いがあった。
その真摯さに、アランは戸惑う。
かつて、自分から誰かにキスをしたことがあっただろうか。
いや、そんな記憶はない。
彼を拒む理由は山ほどあった。
それでも――
この夜、彼の孤独に触れた気がして、心の奥が小さく疼いた。
「……わかりました。」
震える声でそう告げ、アランはそっと顔を寄せた。
まるで扉を開くように、慎重に距離を詰める。
レギュラスの瞳が静かに閉じられた。
唇が触れる。
ほんの数秒。
触れるだけのキス。
頭の中で、秒を数えた。
「……もういいかもしれない」そう思って離れかけたその瞬間――
レギュラスの手がアランの頬を包む。
次の瞬間、彼の唇が再び重なった。
先ほどのそれとは違う。
熱を帯び、深く、溶け合うような口付け。
互いの境界が曖昧になっていく。
静かな夜に、息づかいだけが重なり合った。
どれほどの時間が経ったのか分からない。
唇を離した時、アランの胸は早鐘のように高鳴っていた。
呼吸が乱れ、指先まで震える。
レギュラスの瞳の中には、抑えきれない情欲の色が宿っていた。
それを見た瞬間、アランは慌てて目を逸らした。
まだ――何も癒えていない。
産後の体も、心も。
そして何より、シリウスへの想いは、未だ胸の奥に棘のように刺さっている。
だからどうか、これ以上は――。
「……レギュラス。」
かすれる声で名を呼ぶ。
彼は、まるでそれを理解したかのように、ただ穏やかに微笑んだ。
その笑みは、満足げで、そしてどこか少年のように無邪気だった。
アランは曖昧な微笑みで返した。
心の奥に沈む痛みを隠すように。
互いの呼吸が落ち着くまで、しばし、静寂が二人を包んだ。
ランプの光がゆらめき、影が重なって溶け合う。
けれど、心の距離だけは――
まだどうしても、埋まらなかった。
冷たい闇が、石造りの廊下を這うように流れていた。
ロンドン郊外の廃れた屋敷――そこが、今夜の“集会所”だった。
長いテーブルの上には黒い蝋燭がいくつも並び、灯された火は風もないのに揺らめいている。
その場にいたのは、ヴォルデモート卿を中心とした十数人のデスイーターたち。
その一角に、レギュラス・ブラックの姿もあった。
「――マグルの町を襲撃する。だが、ただの破壊ではない。」
闇の帝王の声は、冷たい蛇のように室内を這った。
命令の内容は明確だった。
魔法省に協力していたマグル生まれの魔法使い――彼らを炙り出し、見せしめとして一族ごと処刑せよというもの。
村を焼き、跡形も残さず消せ。
抵抗する者は、誰であれ許すな。
「これは清浄の儀だ。」
ヴォルデモートの声が、陶酔したように響く。
「汚れた血を削ぎ落とすことで、真の魔法界の秩序が生まれる。」
部屋の隅にいた誰かが歓喜の声を上げる。
その熱に満ちた空気の中で、レギュラスは一歩も動けなかった。
正しいのか。
本当に――これが、正しいことなのか。
胸の奥に、かすかな警鐘が鳴った。
それは、アランが時折口にしていた言葉の断片――「純血も、マグルも、同じ人なのだ」という柔らかな声だった。
その記憶が、心のどこかで疼く。
けれど、レギュラスはすぐにその思考を押し殺した。
――考えるな。
――感じるな。
ここで異議を唱えれば、ブラック家は一瞬で地に堕ちる。
自分ひとりが罰せられるのではない。
アランも、アルタイルも――守れなくなる。
それだけは、絶対に避けなければならなかった。
だから、正義も倫理も、全部まとめて闇の奥に沈めるしかなかった。
レギュラスは、無言のまま頭を垂れた。
「……御意に。」
その言葉は氷のように冷たく、どこか遠くの誰かの声のようだった。
任務の帰り道。
外は霧が立ち込め、街灯の光さえぼやけている。
レギュラスは、濃い闇の中で自らの影を見つめていた。
手のひらには、焼け落ちた家の煤がこびりついている。
それを見て、胸の奥がわずかに疼いた。
その痛みを打ち消すように、彼は思い出す。
――昨夜のこと。
アランの唇が、恐る恐る自分に触れたあの瞬間。
まるで迷子の子どもが扉を開くような、慎ましい口付け。
ほんの数秒の接触が、あの夜はひどく長く感じられた。
それだけで、胸の奥が温かく満たされた。
彼女は拒絶しなかった。
恐れながらも、自分の求めに応じてくれた。
それがどれほど嬉しかったか――言葉にならない。
闇の帝王の命に従い、血と死を背負いながらも、
レギュラスの中では、あの短いキスだけが確かな救いとして光っていた。
冷えきった夜気の中、彼は胸の奥で小さく呟いた。
「……あの人の笑顔さえ守れるなら、それでいい。」
そう信じることでしか、もはや自分を正当化できなかった。
けれど――
その祈りのような言葉さえ、どこか遠くで崩れていくような気がした。
夜の静寂は、まるで厚い絹のように屋敷を包み込んでいた。
カーテンの隙間から洩れる月光が、薄くアランの頬を照らしている。
痛みの波が再び襲ってきて、思わずシーツを握りしめた。
せっかく歩けるようになり、少しずつ体力も戻ってきていたのに――
それがまるで幻だったかのように、ここ数日は再び伏せりがちになっていた。
授乳もままならない。
アルタイルの泣き声が聞こえるたび、胸の奥で焦りが滲む。
けれど、体は思うように動かない。
薬を飲み、痛みに耐え、ただ夜が明けるのを待つ。
そのたびに、レギュラスがそっと背中をさすってくれた。
何度も、何度も。
指先が触れるたび、痛みが少し和らぐ気がした。
「……すみません。やはり、部屋を分けた方が……」
息も途切れ途切れに、アランはようやく声を出す。
レギュラスは首を横に振った。
「構いません。部屋を分けた方が、今度は心配で眠れません。」
その声は驚くほど穏やかで、迷いがなかった。
彼の方こそ神秘部で働き詰めなのに、夜はこうして一晩中付き添ってくれる。
アランは、申し訳なさで胸が締めつけられるのを感じた。
自分は日中、痛みの合間に眠ることができる。
けれど彼は――いつ休むのだろう。
いつ、心の安らぎを得ているのだろう。
そう考えると、涙がこぼれそうになった。
痛みに耐えながら、ふと疑問が浮かぶ。
なぜ、たった一人産んだだけで、ここまで体が朽ちていくのだろう。
母のときは、こんなことはなかった。
医務魔女からは「長期間、服用していた薬などありませんか」と問われたが、そんなものはない。
原因のわからない不調が、じわじわと体を蝕んでいく。
背後で、レギュラスの手が腹を撫でている。
その手の温かさが、わずかな痛みを溶かしてくれるようだった。
やがて、その動きが止まった。
見ると、彼はそのまま眠りに落ちていた。
アランはそっと寝返りを打つ。
月明かりの中で眠る彼の横顔を見つめた。
眉間の皺も、固く結ばれた唇も、日中の彼とは違って柔らかい。
穏やかな寝息が、まるで安心の証のように胸に染みた。
――ありがとう。
声には出せなかったけれど、心の中でそう呟く。
レギュラスは、アルタイルを真に大切に育ててくれている。
そしてセシール家――父の名を、あの人は守ろうとしてくれている。
そのことを思うたび、アランの胸は熱くなる。
自分が手放したもの。
愛した人、過去、そして自由。
それらすべてを失っても、いま目の前にいるこの人が、確かに守ってくれている。
それならば――それでいいのだと思えた。
「……どうか、この人が、少しでも安らげますように。」
眠るレギュラスの手を、そっと自分の掌で包み込む。
起こしたくはなかった。
彼の眠りを乱すことだけはしたくない。
アランは、静かに目を閉じた。
痛みが消えぬままでも、心は少しだけ穏やかだった。
月光が二人の間に降り注ぎ、夜は静かに、やさしく流れていった。
深夜、神秘部の報告書を片付けていた手が、途中で止まった。
レギュラスは窓辺に立ち、冷たい月の光を受けながら眉間を押さえた。
――どうして、こんなにも回復が遅いのか。
アランの体は、まるで一進一退の波に呑まれているようだった。
数日間は歩けるようになり、声にも力が戻る。
けれど翌日には、痛みで寝返りすら打てなくなる。
また数日経てば回復の兆しを見せ、次には再び伏してしまう。
それを幾度も繰り返していた。
ホグワーツにいた頃のアランを思い出す。
病弱ではなかった。むしろ、勤勉で、たとえ疲れていても他人の前では弱音を見せない少女だった。
妊娠中も異常はなく、医務魔女の診察でも常に「経過良好」の文字が並んでいた。
それなのに――。
レギュラスは息を吐き、指先でこめかみを押さえる。
どこか腑に落ちなかった。
出産という命の営みがここまで彼女の体を奪うものだとは思えない。
なにかが、狂っている。
そして、その“なにか”が明るみに出るのは突然だった。
医務魔女が沈痛な面持ちで報告に現れた。
「……出血の中に、魔法毒薬の反応が見られました。」
レギュラスの胸が凍りついた。
「魔法毒薬……?」
「はい。出産時に流れ出た血液を精査したところ、強い作用を持つ毒性反応が検出されました。長期にわたって体に残留するもので、解毒は――」
「できないと?」
「……はい。分量がもう少し多ければ、確実に命を落としていたでしょう。」
頭を抱えた。
耳鳴りがして、しばらく何も聞こえなかった。
その毒が、自然に体に入ることなどあり得ない。
誰かが――意図的に、アランにそれを与えたのだ。
目を閉じれば、屋敷の顔がいくつも浮かぶ。
カサンドラ。
そしてヴァルブルガ。
どちらもあり得る。
いや、どちらもだとしても不思議ではない。
だが、誰が真実の犯人であっても、この家の均衡を崩すわけにはいかなかった。
ヴァルブルガは現当主夫人として屋敷を支える女。
カサンドラは正妻として名誉を背負っている。
その二人を公に糾弾すれば、ブラック家の名は瞬く間に地に堕ちる。
――そうなれば、アランも、アルタイルも、守れない。
レギュラスはゆっくりと椅子に腰を下ろした。
書斎の蝋燭の炎が、波のように揺れる。
火が灯るたびに、影が机の上で蠢いた。
己の手が震えていることに気づき、指を組んで押さえつけた。
怒りではない。
絶望でもない。
それは、罪悪感だった。
「……すべて、僕のせいだ。」
妊娠を理由にアランを屋敷に留め、正式な妻として引き上げた。
それで全てが救われると思い込んでいた。
だが、それが彼女に毒を飲ませるほどの嫉妬を生む結果になった。
あまりにも、狭い視野だった。
自分は、アランを守ったのではなく、
彼女を檻の中に閉じ込めたのかもしれない。
闇の奥で、炎がひとつ、静かに消えた。
レギュラスはその暗闇の中、ただ無言で立ち尽くしていた。
胸の奥で、冷たい怒りと後悔だけが渦を巻いていた。
その朝、屋敷の食卓はいつもよりも落ち着かない空気に包まれていた。
窓の外は霧が薄く漂い、淡い光が長いテーブルクロスをぼんやりと照らしている。
銀器が触れ合う音だけが響く中、アルタイルの泣き声が絶え間なく廊下の向こうから流れ込んできた。
赤子特有の熱だと医務魔女は言っていた。
大事には至らない。ただの発熱。数日で下がるものだと。
けれど、アルタイルは泣きやまない。乳母があやしても、ミルクを与えても、泣き声は細く、途切れることなく続いていた。
「先にお食事をされてくださいませ、レギュラス様。」
乳母の声には焦りと疲労が滲んでいた。
しかしレギュラスは静かに首を振る。
「構いません。こちらに。」
彼は椅子を引き、乳母の腕からアルタイルをそっと抱き取った。
熱のこもった小さな体が腕の中で震えている。
まだ言葉を持たない命が、痛みや不安をどう伝えればよいのかもわからず泣き続ける――その無垢な叫びが、胸を締めつけた。
レギュラスは片腕でアルタイルをしっかりと支え、もう片方の手で朝食のプレートを取る。
冷めかけたパンを口に運び、半ば味も分からぬまま噛み砕いた。
それを数口で終わらせ、プレートを流し台に置く。
「ほら、見てごらん。」
彼は抱いたまま窓辺へと歩いた。
カーテンを少し開くと、曇り空の向こうに柔らかな光が滲んでいた。
木々の枝を渡るカラスの影が、ぼんやりと庭を横切っていく。
レギュラスはその景色をアルタイルに見せるようにして、ゆっくりと揺らした。
不思議なことに、泣き声が少しずつ弱まっていく。
目を真っ赤に腫らしたアルタイルが、光を追うように小さく手を伸ばした。
その仕草に、レギュラスの胸がきゅうと痛む。
――この子から、母親を永遠に奪うところだった。
あの夜、ほんの少しでも毒の量が多ければ、アランは命を落としていた。
その事実が、脳裏から離れない。
彼女が息をしている。それは奇跡であり、彼の罪そのものでもあった。
アルタイルの頬に手を添える。
小さな鼓動が、掌に伝わってくる。
この命はあの人の命の延長なのだ。
もし、アランを失っていたら――この子はきっと二度と笑わなかっただろう。
レギュラスは小さく息を吸い込み、幼子の髪に唇を寄せた。
「……ごめんなさい。」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
息子に対してか、アランに対してか、それとも――自分自身に対してか。
彼はしばらく窓辺に立ち、腕の中で再び眠りについたアルタイルを見下ろしていた。
その温もりは、あまりにも儚く、けれど確かだった。
だからこそ、いっそう胸の奥に重たい痛みが積もっていった。
レギュラスはゆっくりと呟いた。
「……君の母を、守ります、今度こそ。」
霧が晴れ、淡い朝の光が二人を包み込んでいった。
その光はあまりにも静かで、まるで赦しのように柔らかかった。
朝の光は淡く、部屋の中を白く溶かしていた。
アランはベッド脇のテーブルに置かれた朝刊を、何気なく手に取った。
紙面の匂い――インクと埃の混じる独特の香りが鼻をくすぐる。
いつもなら政治や魔法省の動向など、どれも自分とは無縁に思えて流し読みしてしまうところだった。
けれど、その日の紙面に並んだ見出しの中に、ひとつの名前があった。
――シリウス・ブラック。
その瞬間、心臓が強く跳ねた。
視線がその名前の上に釘付けになる。
呼吸が浅くなる。
記事は、騎士団がマグルの街で行う慈善活動について書かれていた。
孤児院を訪ね、魔法をまだ知らぬマグル生まれの子どもたちに、小さな魔法のショーを見せるという。
その筆頭に名を連ねていたのが、シリウス・ブラックだった。
「……シリウスが……」
アランは小さく呟いた。
それだけで胸がいっぱいになる。
かつて二人で訪れたマグルの街を思い出す。
見上げるビル群、カラフルなショーウィンドウ、街角のカフェの甘い香り。
どれもが魔法界にはないきらめきを放っていて、彼と手を繋いで歩いた時間は、まるで夢のようだった。
あの頃、何もかもが美しく見えた。
彼の横顔も、笑い声も、何気ない仕草さえも。
そのシリウスが、今もどこかで笑っている。
子どもたちの前で魔法を見せ、あのまっすぐな瞳で未来を信じている。
その想像だけで、涙が滲みそうになった。
――会いたい。
その想いが胸の奥からせり上がってくる。
無理だと分かっていても、どうしても押さえ込めなかった。
彼が立つその場所に、もう一度足を運びたい。
どんなに遠くても、どんなに危うくても。
あの人の姿を、ほんの一瞬でもいいから見たい。
アランは新聞をそっと折り畳み、引き出しの奥へしまった。
レギュラスが決して開けない引き出し。
その中なら、誰にも見つからない。
胸の奥が熱く、どこか懐かしく疼いていた。
数日後に開催されるというその催しを思うと、不思議と体の奥から力が湧いてくる。
久しく忘れていた感情だった。
――希望。
痛みや毒や後悔に沈んでいた心の中で、
久しぶりに、小さな灯がともった気がした。
屋敷の中は、まるで深く眠っているように静まり返っていた。
廊下を満たす空気にはまだ夜の冷たさが残り、窓から射し込む朝の光は淡く白んでいる。
レギュラスは早朝から外出していた。神秘部の任務か、闇の帝王の召集か――詳しいことは知らないが、
それがアランにとってこの上なく都合のよい状況であることだけは、はっきりしていた。
この部屋を訪ねてくる者はいない。
今もなお「体調が戻らず伏せっている」と屋敷中が思っている。
乳母はアルタイルの世話に追われ、ヴァルブルガも朝食の準備で忙しい。
誰にも気づかれずに外に出られる――奇跡のような隙間。
アランはゆっくりと寝台から身を起こした。
久しぶりに上体を起こすと、全身の骨が軋むようだった。
それでも、胸の奥には奇妙な熱があった。
それは痛みではない。
――高揚。
鏡の前に立ち、久しく袖を通していなかった外出用の服に手を伸ばす。
淡い灰色のドレス。
腰のあたりを紐で軽く結ぶ。
布の擦れる音さえ、心臓の鼓動と同じテンポで響いていた。
「……会えるかもしれない。」
新聞の紙面に記されていた、あの人の名。
――シリウス・ブラック。
孤児院で開かれる小さな魔法のショー。
マグルの子どもたちの前で、きっとあの人は笑っている。
屈託のない、太陽のような笑みで。
その姿を、どうしても見たかった。
一目でいい。
ほんの数秒でも、彼がこの世に存在している証を、自分の目で確かめたかった。
胸の奥で、もう一人の自分が囁く。
――もし彼が、別の誰かといたら?
――もし、彼の隣に新しい恋人がいたら?
――その光景を見たあなたは、壊れてしまうかもしれない。
頭では分かっている。
その可能性を考えるだけで息苦しくなる。
けれど、それでも構わなかった。
痛みに焼かれてでもいい、彼に会いたい。
それだけが、アランを生かしている理由のように思えた。
髪をゆるくまとめ、マントの裾を整える。
体の奥では、まだ何かが軋んでいた。
出産で弱りきった骨盤も、痛みが走る腰も、
まるで「やめろ」と訴えているようだった。
だが、その声を無視してでも動かずにはいられない。
今この瞬間、彼女を突き動かしているのは理性ではなく――恋心の残響。
ドアノブに手をかける。
扉の向こうに広がる冷たい空気が、肌に触れる。
その冷たささえも、彼へと続く道の始まりのように思えた。
「……待ってて、シリウス。」
誰にも聞こえぬように、かすれた声で呟く。
その声は微かな震えとともに空気へと溶け、
アランはゆっくりと屋敷の外へ歩き出した。
胸の奥で高鳴る鼓動だけが、
彼女がまだ生きていることを確かに告げていた。
その日の空は、鉛のように重かった。
雲の奥で雷鳴が鈍く転がり、風はざらついた灰を運んでくる。
レギュラスは黒いローブの裾を翻しながら、黙って街を見下ろしていた。
マグルの世界。鉄とガラスでできた無機質な建物たち。
そして、その中心に小さな孤児院があった。
――「マグルどもが純血を拒むなど、滑稽なことだ。」
闇の帝王の声が脳裏を過る。
この街を襲撃せよ。火種を潰せ。
レギュラスは命令に従うしかなかった。
彼に逆らえば、ブラック家の名は地に堕ちる。
アランも、アルタイルも、守れなくなる。
忠誠心と恐怖の境目で、レギュラスは己を押し殺すように息を整えた。
足元でデスイーターの仲間が数人、仮面の奥で囁き合っている。
魔法の杖を構え、空気が張り詰めた瞬間――
「……あれは?」
部下の一人が低く呟いた。
視線の先、街の中心――孤児院の前の広場に、人だかりができていた。
淡い旗と笑い声。子どもたちの歓声。
その中に、ひときわ目立つ黒髪の青年の姿がある。
シリウス・ブラック。
レギュラスの心臓がどくりと跳ねた。
忌まわしいほどに懐かしい名。
あの男は、今や不死鳥の騎士団の英雄として、世間から称えられている。
孤児院の前で、杖を軽やかに振り、小さな光の鳥を飛ばしていた。
子どもたちが歓声を上げる。
陽光を受けて笑う横顔は、昔と少しも変わらない。
――「最悪だ。」
レギュラスは頭を押さえた。
この状況では襲撃など到底無理だ。
騎士団の連中がこれほど集まっているなど、聞いていない。
手を出せば全面戦争になる。
「一旦引きましょう。この状況では不利です。」
低い声で仲間に指示を飛ばす。
デスイーターたちは互いに頷き、煙のように退避の準備を始めた。
だが、その時だった。
群衆の後ろに――見覚えのあるシルエット。
レギュラスの呼吸が止まる。
群衆を避けるようにゆっくりと歩く女。
淡いドレスに、薄い外套を羽織り、両手で胸を押さえるようにして歩いている。
その指先の震えを、遠くからでもはっきりと感じ取れた。
アラン。
どうして――。
彼女は、明らかに具合の悪い身体を無理に支えているようだった。
血の気の薄い唇。化粧で隠そうとしても隠し切れない顔色。
けれど、その瞳だけは何かに焦がれるように輝いている。
その視線の先にいるのは、シリウス・ブラック。
レギュラスの喉が焼けるように痛んだ。
なぜここに?
なぜ、彼女はまだあの男に会おうとする?
何を確かめにきた?
――まさか。
彼は息を呑んだ。
アルタイル。
あの子がシリウスとの子であることを、伝えに来たのか?
それとも、すでにシリウスは知っているのか?
頭の中で何かが崩れ落ちる音がした。
理性が揺らぐ。
胸の奥に押し込めていた黒い感情が一気に暴れ出す。
愛なのか、嫉妬なのか、怒りなのか――もう分からない。
ただ一つ分かるのは、アランがまだシリウスを見ているという事実。
それだけで全てが壊れそうだった。
「レギュラス様?」
仲間のデスイーターが声をかける。
我に返ったレギュラスは、冷えた声で命じた。
「……撤退です。すぐに。」
だがその目は、最後までアランを追い続けていた。
シリウスの笑みを見上げる彼女の横顔――
その光景は、胸を抉るほどに美しく、そして耐え難いほどに残酷だった。
風が冷たい。
マグルの街の空は、どこまでも白く霞んでいて、
どこか遠い世界に足を踏み入れてしまったような心地だった。
アランは人混みの外れに立ち、
息を殺すようにその光景を見つめていた。
胸の奥で鼓動が高鳴っている。
何かが壊れそうなほどに、胸が痛かった。
――シリウス。
そこにいた。
太陽のような男。
かつて彼が見せてくれた、あの明るさと温もりのままで。
子どもたちの歓声が街に響く。
彼は笑っていた。
孤児院の前の広場で、小さな杖を振り、空に金色の蝶を生み出していた。
蝶は群れとなって舞い上がり、子どもたちの手の中で光の粒となって弾ける。
歓声が一層大きくなる。
その中心で、シリウスは笑っていた。
子どもたちの目線に合わせ、膝を折り、
ひとりひとりの笑顔に応えるように、柔らかな言葉をかけている。
その姿があまりにもまぶしくて、アランの瞳から涙が溢れそうになった。
――「あなたは、やっぱり太陽みたいな人ね。」
心の中で呟く。
あの日もそうだった。
マグルの街のカフェで笑い合ったときも、
彼の傍にいるだけで世界が色づいて見えた。
アルタイルとシリウスが一緒に暮らせたなら――
どれほど幸せだっただろう。
きっと彼は、息子を宝物のように抱きしめ、
毎日その笑顔を見守ってくれただろう。
けれど、それは叶わぬ幻想。
墓場まで持っていくべき事実。
それでも、伝えたかった。
――この子は、あなたの子です。
その言葉が胸の奥で何度もこだまする。
叫び出したいほどの衝動を、アランは必死に押し殺した。
代わりに、下腹の奥がずきんと痛む。
呼吸をひとつするたびに、内臓が軋むようだった。
出産の痛みが再び蘇るような感覚。
けれど、それ以上に胸の痛みのほうが強かった。
――「帰らなければ。」
分かっていた。
ここに長くいてはいけない。
体はもう限界に近い。
姿くらましの呪文を使い、
さらに境界結界を越えるための呪文を唱えたせいで、体中の魔力が削られている。
血の気が引いていく。
それでも足を止めたくなかった。
ほんの一目でいいと思っていたのに、
いざ見てしまえば、どうしても離れがたい。
もう二度と、こんな機会はないかもしれない。
「……愛しているのに。」
声にならない声が喉の奥で消えた。
何度も唇が震える。
愛している――今も。
きっとこれから先もずっと。
たとえこの身がどんな運命に飲み込まれようとも。
背を向ける。
その瞬間、全ての痛みが押し寄せてきた。
骨の髄まで冷たくなる。
それでも歩かなければならない。
何度も、何度も振り返る。
シリウスはまだ笑っていた。
子どもたちに囲まれて、あの頃と同じ光を放っていた。
――気づかないで。
――でも、できれば気づいて。
相反する願いが、胸の奥でねじれた。
彼に見つけられなくてよかったと思う一方で、
どうしようもなく、彼の視線を求めてしまう自分がいた。
涙が頬を伝う。
風がその涙を冷たく奪っていく。
帰らなければ。
自分には守るべき命がある。
アルタイル。
愛した人と同じ瞳を持つ、小さな命。
その子を、悲しみの中に置いていくことはできない。
アランは小さく息を吐き、
震える足で、一歩を踏み出した。
遠ざかる街の喧騒。
笑い声が、光が、
まるで夢の終わりのように遠のいていく。
それでも胸の奥には、
シリウスへの愛が静かに燃えていた。
決して消えない、灰の下の炎のように。
屋敷に戻ると、空気がやけに重く感じられた。
アランはすぐに扉を閉め、背中を預けたまま深く息を吐く。
心臓の鼓動がまだ荒い。
胸の奥では、さっきまで見ていたシリウスの笑顔が、焼きついたように消えなかった。
急いでドレスを脱ぎ、鏡台の前に立つ。
外出の痕跡――髪の乱れ、靴の埃、頬に触れた風の冷たさ――
それらすべてを洗い流すように、アランは慌ただしく身なりを整える。
香油を少し多めに手に取り、肌に馴染ませた。
その香りが、罪を覆うための薄い幕のように思えた。
机の上には、誰かが運んだ朝食が冷えたまま置かれていた。
パンは固く、スープには薄い膜が張っている。
けれど、アランはそのどれにも手をつけられなかった。
食欲などあるはずがない。
「アルタイルを……連れてきてください。」
乳母にそう頼むと、すぐに小さな寝息が部屋に戻ってきた。
腕の中に抱かれたアルタイルは、穏やかに眠っている。
その頬にそっと触れる。
ああ――この子がいつか、あの人のように太陽のような笑顔を見せてくれたなら。
その想像だけで、胸の奥の痛みがほんの少しだけ和らいだ。
だが、その束の間の安堵を切り裂くように、
ドアが軋んだ。
「……戻りました。」
レギュラスの声だった。
思わず息が詰まる。
「お早いんですね……」
無理に笑みを作りながらそう言うと、彼は短く「ええ、まあ」とだけ返した。
その声には、いつもと違う湿り気があった。
何かを押し殺すような、低い響き。
ジャケットを脱ぎ、無造作にソファの背に掛ける。
動作はゆっくりだが、どこか苛立ちを孕んでいる。
アランの背筋が自然と伸びた。
彼はそのまま、音もなく隣に腰を下ろした。
距離が近い。息づかいがかすかに触れるほどの。
「……食事、取らなかったそうですね。」
穏やかな口調。しかし、その奥には静かな圧があった。
「……食欲がなくって。」
「そうですか。」
沈黙が落ちる。
暖炉の火の音だけが微かに響く。
アランはアルタイルの髪を撫でながら、視線を逸らした。
「――外出されました?」
心臓が一瞬止まる。
指先が震えた。
「え?」
声が裏返る。
「今日。外に出られたのでは?」
彼の視線が刺さる。
まるで、深層まで覗き込まれるような目だった。
「……いえ。眠気がひどくて……朝もあなたを見送りたかったのに、起きられなかったみたいです。ごめんなさい。」
嘘と本当を少しずつ混ぜながら言葉を紡ぐ。
声が震えているのを悟られないように、
アルタイルの頬に目を落とした。
「そうですか。」
レギュラスの口角が、微かに動いた。
笑っているのか、見下ろしているのか分からない。
「奇妙ですね。」
「え……?」
「あなたの杖を確認したのですが――」
彼は杖を指先で弄ぶ。
その仕草が、やけに静かで恐ろしい。
「あなたの杖。今日、魔法の痕跡が残っていたんです。
しかも、《ディスアパレート》と《コンシール・アプローチ》。
……どちらも、屋敷の外でしか使わない呪文でしょう?」
世界が、凍りついたようだった。
アランは口を開けない。
喉が張りつくように乾いて、声が出ない。
「あなたが外出していないのなら、誰があなたの杖を使ったんでしょうね。」
言葉の刃が、皮膚の上を滑るようだった。
静かなのに、逃げ道を塞ぐほど鋭い。
「……レギュラス……私……」
「言い訳は結構です。」
その声は優しげでいて、どこまでも冷たい。
アランは何度も息を吸い込んだが、
空気が肺に届かない。
「ごめんなさい……」
ようやく搾り出した声は、涙に濡れていた。
レギュラスは、何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと視線を落とす。
アルタイルを見ているのか、アランを見ているのか――分からない。
けれど、その沈黙こそが、最も恐ろしかった。
アランは悟った。
もう、逃げ場はない。
レギュラスはすべてを知っている。
そして――愛の裏側に潜む、冷たい牙を今まさに見せようとしていた。
部屋の扉を開けた瞬間、レギュラスの鼻をくすぐったのは甘く馴染んだ香油の匂いだった。
まるで外の気配を完全に消そうとでもしているように、香りは濃く、壁の隙間にまで染み渡っている。
落ち着き払った空間。整然とした寝具。机の上には、開けられてもいない食事の皿が並んでいた。
アランはソファの上でアルタイルを抱いていた。
その姿は一見、慈愛そのものだった。
腕の中の幼子を優しくあやす母の姿――けれどレギュラスの目には、それがまるで嘘で塗り固められた絵画のように見えた。
外出の痕跡を消すために整えられた髪、整然とした衣装。
「私は何もしていません」と語るその静けさこそ、何よりも胡散臭かった。
「……外出を、されました?」
たった一言の問いに、アランの指先がわずかに震えた。
上ずった声で「いいえ」と答える。
その瞬間、レギュラスの胸の奥にある冷たい笑いがこみ上げた。
演技が下手だ。
小細工をするより、もう少し演技力を磨くべきだった。
彼女が外出を否定する声を聞きながら、レギュラスはゆっくりとソファに腰を下ろした。
杖を指先で軽く回す。
その仕草ひとつにさえ、抑えた怒りの色が滲んでいた。
「奇妙ですね。」
静かに放たれたその言葉に、アランがびくりと肩を揺らす。
「今日、あなたの杖を確認しました。……魔法省の記録に、痕跡が残っていましてね。
《ディスアパレート》と《コンシール・アプローチ》。
どちらも屋敷の中では使いませんよね。」
淡々とした口調。だが、言葉の端々に潜む圧力は冷ややかな刃のようだった。
アランの瞳が揺れる。
彼女の沈黙は、罪を認めるよりも雄弁だった。
「……シリウスに、会ったんですか?」
アランの唇が震えた。
けれど言葉は出てこない。
沈黙――それが何よりも雄弁だった。
「もう一度聞きます。シリウスに会いましたか?」
低い声が、部屋の空気を震わせる。
アランは首を振る。
けれど、その動きがあまりに遅い。
レギュラスの眉間に、深い皺が刻まれた。
「……会いに行ったのでしょう?」
再び首を振る。
拒絶ではなく、恐怖の反射のように。
その姿を見た瞬間、レギュラスの中の何かがぷつりと切れた。
怒鳴ることもできた。
杖を叩きつけることもできた。
だが、腕の中のアルタイルが彼女に抱かれている――その一点だけが、彼の理性を辛うじて繋ぎ止めていた。
「質問を変えましょうか。」
レギュラスの声が低く落ちる。
「何を話したんです? ――シリウス・ブラックと。」
アランの喉が小さく鳴る。
そして、震える声で言葉を搾り出した。
「……遠くから見ただけ。目も合わせていないわ。何も話していません。」
レギュラスの口元に、乾いた笑いが浮かんだ。
その笑みには、怒りも哀しみも、すべてが混ざっていた。
「……遠くから見ただけ?」
まるでその言葉を何度も噛みしめるように、低く繰り返す。
「あなたは……そのために、壊れた身体を引きずってまで、マグルの街まで行ったんですか?
ただ、見るために? “満たされた”とでも言いたいんですか?」
静かに、しかし一言ごとに温度を失っていく声。
「あなたの言葉がどれほど僕を愚弄しているのか、分かりますか。」
アランの視界が滲む。
抱いているアルタイルの体温だけが、かろうじて現実と彼女をつなぎ止めていた。
「ごめんなさい……」
ようやくこぼれた言葉は、涙に濡れて掠れていた。
レギュラスはその声に、しばらく何の反応も見せなかった。
ただ、無言のまま視線を落とし、アルタイルの頬を見つめる。
小さな寝息が部屋に響く。
その音だけが、崩壊寸前の二人をかろうじて現実に繋ぎ止めていた。
怒りも哀れみも、嫉妬も――
全てを呑み込むように、レギュラスは静かに息を吐いた。
ここまで追い詰められたことは、かつて一度もなかった。
レギュラスの叱責は、怒号ではなく、まるで蛇の牙のように静かで鋭い。
声を荒げることもなく、焦点を定め、じわじわと心の奥に毒を回してくる。
それが彼らしかった。冷静で、狡猾で、容赦がない。
逃げ場などどこにもなかった。
綺麗に並べられた証拠の前では、言い訳は無力だった。
杖の呪文の痕跡、外出の時間、香油の香り――どれもが「嘘」を裏切っていた。
アランの中で、希望という名の光が、ひとつずつ砕け落ちていく音がした。
「……ごめんなさい、レギュラス……」
声は掠れて震え、言葉の輪郭が涙に溶けた。
ひたすらに詫びるしかなかった。
もしこの怒りが、彼の掌を離れてアルタイルに向かってしまえば――
それだけでこの子の未来は潰えてしまう。
一族も、父も、全て巻き添えになる。
そうなれば、アランがこの屋敷に残る意味など一つもなくなる。
かつてこの屋敷に留まり、レギュラスの隣を生きると決めた少女の決意が、
一瞬で灰になるのを感じた。
アランはアルタイルを抱いたまま、ゆっくりと跪いた。
体のあちこちで疼く痛みは、もはやどこから来ているのかさえ分からない。
それでも頭を下げるしかなかった。
レギュラスの声が降る。
「……なんの真似です?」
「ごめんなさい……なんでもするわ……」
哀願というよりも、懇願に近かった。
それでも、レギュラスの瞳は微動だにしない。
「むしろ、何ができるんです?」
冷ややかに放たれた言葉。
笑いにも似た鼻息が混じっていた。
その嘲りが、アランの胸の奥に深く突き刺さる。
「僕の信頼を裏切っておいて、いったい何を差し出せるつもりです?」
その声は怒鳴りではなかった。
静かに、しかし容赦なく心臓を締め付ける音色をしていた。
アルタイルが泣いた。
母親の震えを感じ取ったのか、寝息の代わりに小さな泣き声が部屋を満たす。
その声が唯一、レギュラスの怒りの熱を一瞬だけ冷ました。
「……どうぞ。」
扉の外に立っていた乳母が、ためらいがちに中へ入る。
その目に映った光景――ソファに足を組んで座るレギュラスと、
その足元に跪くアランの姿――
あまりの異様さに、彼女は息を呑んだ。
「アルタイルをあやしてあげてください。外で。」
レギュラスの穏やかな声が、逆に命令として響く。
乳母はすぐに赤子を抱き上げ、深く頭を下げて部屋を後にした。
扉が閉まる音が、やけに重たく響く。
静寂。
その沈黙の中で、レギュラスがひとつ深い息を吐いた。
その吐息はため息というよりも、長い祈りのようだった。
アランの膝の下で、床の冷たさがじわじわと伝わる。
けれど、心臓の奥の冷えの方がずっと堪えた。
彼の怒りの熱と、言葉の冷たさの間で、心がひび割れていく。
やがて、レギュラスが低く呟いた。
「あなたが泣いても、僕の怒りは消えません。」
その声音には、哀しみとも愛情ともつかぬ何かが滲んでいた。
アランは唇を噛み締めた。
血の味が広がる。
赦しを乞うことすら許されない沈黙が、部屋を覆っていた。
炎の明かりがゆらめき、影が二人の間をゆっくりと分断していく。
その光の境界に、アランは膝をついたまま、
ただ震える手を胸に当て、嗚咽をこらえていた。
