3章
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重厚な刺繍糸で織り上げられた、ブラック家の家系図のタペストリー。
深い緑と黒の布地には、幾世代にもわたる高貴な名が黄金の糸で刻まれている。
そこに新たな一行――「アラン・ブラック」という名が加わった。
その瞬間、ヴァルブルガ・ブラックの胸を突き上げたのは、誇りではなく、屈辱だった。
静まり返った広間の空気の中、針のような沈黙が落ちる。
重々しい燭台の火が揺れ、タペストリーの表面に光を走らせた。
まるで、そこに縫い込まれた新しい名が、古い血の歴史を嘲笑うかのように輝いていた。
ヴァルブルガは、その光景から目を背けた。
手袋をはめた指先で額を押さえ、唇を硬く結ぶ。
――まさか、この名をここに刻む日が来るとは。
アラン・セシール。
たしかにあの女は男児を産んだ。
それだけは認めざるを得ない。
だが、ブラック家の名を与えるなど、決して認められぬことだった。
純血の誇り、格式、そして歴史。
それらが積み上げてきたこの家の重みを、たかが二代の浅い家系の娘が汚してしまったのだ。
ロイク・セシール――元はただの使用人に過ぎない。
彼がこの屋敷に仕えていた時代、ヴァルブルガは何度もオリオンに告げた。
「彼とその娘を屋敷に置くべきではない」と。
だが、オリオンは耳を貸さなかった。
信頼できる男だ、誠実な娘だ――そう言って笑っていた。
結果がこれだ。
ロイクの娘は主の妻となり、その名をこの家の壁に刻ませた。
「この家の血に、泥を塗るような真似を……」
ヴァルブルガの声は震えていた。怒りと屈辱とで、胸が煮えたぎっていた。
たとえ副妃とはいえ、“ブラック”の名を持つことは、この家に認められたことを意味する。
そして、男児を産んだ今、その地位は誰にも揺るがせぬものとなった。
ヴァルブルガは爪が食い込むほどに拳を握りしめた。
――今に見ていなさい。
この女が手にした“奇跡”を、すぐに塗り潰してやる。
医務魔女たちの報告が頭をよぎる。
アランの体は出産の影響で衰弱が激しく、回復には長い時間が必要だという。
さらに、薬の影響もあって次の懐妊は望めぬ可能性が高いと。
それを聞いたとき、ヴァルブルガの胸の奥で、冷たい喜びが灯った。
死には至らなかったものの、子を産めぬ身体となったのなら、それは“神の与えた均衡”だ。
今こそ、動く時だ。
カサンドラ――ロズィエ家の娘。正統なるブラック家の正妻。
あの女に子を産ませなければならない。
それも、必ず男児を。
このままでは、家の名が穢れる。
副妃の子が当主の座に就くなど、考えるだけで吐き気がした。
暖炉の火が爆ぜる音が響いた。
その橙の光の中で、ヴァルブルガの瞳は鋭く光る。
高貴なる血の炎が、静かに復讐の形をとって燃え上がるように。
「この家の後継は、正妻の腹から出る者のみ。
それ以外は、決して認めない。」
彼女のその決意は、やがて屋敷全体を包む冷たい嵐のように、静かに広がっていった。
アランが産後の衰弱から立ち直ることはなかった。
昼夜を問わず寝台に伏し、薄いカーテン越しの光の中で、静かに息をしていた。
笑うことも、長く話すこともできず、食事もほとんど喉を通らない。
屋敷の者たちはそれを「回復が遅れている」と口を揃えたが、
誰よりもわかっていた――彼女の心がもう、ここにないということを。
そんな日々の中、カサンドラの部屋を訪れるレギュラスの足音が、次第に増えていった。
最初はほんの短い時間だった。
報告のような会話を交わし、手を取るだけで終わる夜もあった。
けれど、いつしかその手は頬を撫で、指先は髪を梳き、唇は彼女の名を呼んだ。
レギュラスの吐息が頬に触れるたび、カサンドラの胸に熱が広がる。
長い間、彼にとって「正妻」でありながら、名ばかりの存在でしかなかった。
彼の心はいつも、別の女――アラン・セシールにあった。
それを知りながら、何もできずに笑っていた日々がどれほど屈辱だったか。
けれど今、彼は自らの意思でここに来ている。
誰に命じられたわけでもない。
彼の手が、彼の唇が、自分を求めている。
それがどれほど偽りに満ちていようとも、構わなかった。
触れられるたびに、カサンドラの中で失われていた自尊心が静かに息を吹き返していく。
彼の綺麗な手が、背中を、腰を、指先でなぞる。
その度に「選ばれた」という錯覚が、心の隅々まで染み込んでいく。
彼の腕の中にいる間だけは、アランの影を忘れられる。
重なり合う夜が増えるたび、彼の吐息の重さが変わっていく気がした。
初めはただの衝動、やがて癒し、そして――。
その変化を信じたくて、カサンドラはすがるように彼を受け入れた。
レギュラスの名を呼ぶ声が、夜気に吸い込まれていく。
その声の震えを彼は愛しげに受け止め、唇で塞ぐ。
カーテンの向こうでは冬の風が吹いていた。
けれど、二人の間には熱だけが満ちていた。
――今、この瞬間に孕まなければ。
カサンドラは心の中でそう呟く。
焦りと願いが混ざり合って、体の奥で熱を灯す。
彼を求めることが、愛なのか、それとも打算なのか。
もうわからなかった。
ただ確かなのは、彼を失えば、今度こそ自分が壊れてしまうということ。
唇が離れ、レギュラスが低く息を吐く。
その腕の中で、カサンドラは目を閉じた。
彼の温もりがまだ体の奥に残っているうちに、
どうか――この命を宿せますようにと、
声にならない祈りを胸の底で呟いた。
アランの回復があまりにも遅かった。
それはレギュラスが想定していた以上の時間だった。
出産という命の極限を経た後なのだから、ある程度の静養は必要だと理解していた。
だが、日に日に彼女の体が痩せていくのを見ていると、心の奥に黒い不安が巣食っていった。
焦りに似た感情が、夜になると強くなった。
静まり返った寝室の中、アランが息をするたびに胸が締め付けられる。
彼女の呼吸の浅さ、時折もらす痛みに耐える声――そのひとつひとつが刃のように突き刺さった。
“このまま、また失ってしまうのではないか。”
その恐れは、かつて味わったどんな恐怖よりも冷たく、重かった。
救いを求めるように、レギュラスは夜ごと自分の心の逃げ場を探した。
そして、気づけば――そこにいたのはカサンドラだった。
彼女は何も問わなかった。
ただ、そっと寄り添い、レギュラスの沈黙を受け入れた。
その優しさが、あまりにも都合のいい慰めに思えても、拒むことはできなかった。
重なる夜の回数が増えるごとに、行為はただの習慣になっていった。
心がそこにあるわけではない。
けれど、それでも良かった。
今のレギュラスには、誰かの温もりが必要だった。
カサンドラを求めるたびに、ほんのわずかでも孤独が薄らぐ気がした。
しかし、その後に訪れる虚しさはいつも決まっていた。
彼女の体温が消えたあとの夜の冷たさに、レギュラスは打ちのめされる。
そして祈るように思うのだ――どうか、カサンドラが懐妊してくれればと。
そうでなければ、ロズィエ家には顔向けができない。
正妻の務めを果たせぬ夫と見られれば、家としての面子も立たない。
それに、父オリオンと母ヴァルブルガからの圧力も、日に日に強まっていた。
彼らの期待に応えるためにも、何としてでもカサンドラの子を得ねばならなかった。
それでも、レギュラスの心の中心にいるのは、アランただ一人だった。
医務魔女の忠告を無視し、彼はついに決断する。
アランを、自分の寝室に移すのだ。
「夜中に痛みで目を覚ますこともあるでしょう。
共同の寝室は、おすすめいたしません。」
医務魔女は静かにそう告げた。
しかし、レギュラスは首を振る。
「それでも構いません。――彼女の傍にいたいのです。」
その声音は柔らかかったが、揺るぎなかった。
寝室の灯が落とされ、静かな夜が訪れる。
アランはまだ眠ったままで、白い頬にかすかな熱が残っていた。
レギュラスはその寝台の傍に腰を下ろす。
触れることはしない。
ただ、隣で呼吸を感じていたかった。
彼女が小さく呻くたびに、レギュラスはそっと手を伸ばし、冷えた額を撫でた。
痛みがあるなら、共に寄り添いたい。
苦しいのなら、自分も同じ痛みを抱きたい。
それが赦しであり、罰でもあった。
――触れなくていい。
ただ、同じ空の下で眠ることができれば、それでいい。
レギュラスはそう思いながら、静かに目を閉じた。
隣で微かに揺れるアランの息遣いが、夜の闇の中で唯一確かな“生”の音として響いていた。
アランは、眠る前に運ばれてきた書籍の山を見つめていた。
いつも自室の枕元に置いていたそれらが、今はすべてレギュラスの寝室の棚に並んでいる。
薬の瓶も、読みかけの本も、鈍い月光の中で他人の部屋のもののように見えた。
「今日から、ここに。」
それだけ告げられ、何の相談もなく決められていた。
その言葉が頭の奥で何度も繰り返される。
彼の意図は理解できる。正式にブラックの名を与えられた身として、同じ寝室を共にするのは当然のこと。
けれど、アランの胸の奥にはどうしようもない居心地の悪さが残っていた。
夜更け、アルタイルの泣き声が上がった。
アランは慣れた手つきで体を起こし、胸元を開こうとしたが、視線を感じて手が止まる。
レギュラスの存在が、いつもより近い。
寝台の隣で身を起こし、静かに様子を見ていた。
ぎこちなく腕を動かすアランの焦りが伝わったのか、アルタイルはますますぐずりだす。
眉をひそめて困り果てていると、レギュラスがそっと手を伸ばした。
「僕が。」
そう言って赤子を抱き上げる。
その仕草に、無駄な動きがひとつもなかった。
片腕で自然に体を支え、もう一方の手で背をとんとんと優しく叩く。
アルタイルは、あっという間に泣き止んだ。
アランは息を呑んだ。
知らなかった――彼がこんなふうに、迷いなく赤子をあやせるようになっていたなんて。
その姿を見つめるうちに、胸の奥がきゅっと痛んだ。
もしかしたら、彼の方が自分よりもアルタイルと過ごす時間が長いのかもしれない。
自分はただの器でしかなかったのではないか。
命を懸けて産んだというのに。
愛した人との最後のつながりであるこの子を、いつか自分の手から取り上げられるのではないか――
そんな恐れが心の隅でじわじわと膨らんでいく。
「アラン、落ち着いたようですよ。」
レギュラスの声がやわらかく響く。
差し出されたアルタイルを受け取る手が少し震えた。
胸元を整え、再び授乳を始める。
温かな重みが腕に戻ってきて、わずかに心が安らぐ。
けれど、レギュラスの視線が気になって仕方がなかった。
静かな寝室に、彼の呼吸音まで聞こえる。
恥ずかしさと緊張とが入り混じり、胸の奥で鼓動が荒くなる。
「……そんなに見られると……」
掠れた声でそう呟くと、レギュラスははっとして目を逸らした。
「あ、すみません。」
彼は背を向け、窓の方を見た。
外の闇を見つめる彼の肩が、月光の中で少し寂しげに見える。
アランはそっと息を吐いた。
気まずさと、恥ずかしさと、それでも確かに胸の奥で温かく灯るもの。
その全てが、夜の静けさの中でゆっくりと混ざり合っていった。
アルタイルの口元が離れ、小さく息をつく。
その音がやけに大きく聞こえた。
レギュラスの背中越しに見える月は、薄く霞んでいた――まるでこの関係の行く末を、ぼんやりと映しているかのように。
授乳を終えたとき、アルタイルはすでに静かな寝息を立てていた。
小さな胸が上下するたびに、薄布の上にやわらかな影が揺れる。
アランはその様子を確かめるように見つめながら、そっと息を吐いた。
けれど安心も束の間、寝台の反対側で気配が動いた。
レギュラスが体の向きを変え、こちらを見ている。
静寂の中でその視線は熱を帯びて、空気を震わせていた。
思わず視線をやれば、かちりと交わった。
瞬間、胸がぎゅっと固まる。
目を逸らせば、それだけで何かを拒絶してしまう気がして、ただ息を飲むしかなかった。
ゆっくりと近づく影。
唇が近づくのを見た瞬間、もう避けられないと悟った。
思っていた通り――いや、思っていたよりもずっと優しく、彼の唇が触れた。
アランの胸に、複雑な感情が幾重にも波を立てて押し寄せる。
拒絶ではない、けれど受け入れでもない。
この寝室に移されたことが何を意味するのか、理解していた。
正式にブラック家の副妃とされた以上、彼が求めるのは“妻”としての役目。
だが、アランの体はまだあまりにも脆かった。
出産の痛みが残る下腹に、微かな疼きが走る。
医務魔女は「回復には時間がかかるでしょう」と穏やかに言っていた。
その言葉は正しかった。
立ち上がることも、長く座っていることも辛い日が続いている。
にもかかわらず、今――彼の求めるものが何なのか、痛いほど伝わってきた。
アランは恐る恐る視線を逸らし、話題を探すように唇を開いた。
「アルタイル、最近よく笑うようになりました……
この前も、あなたが抱いた時に、少し――」
意図的に話題を赤子に向ける。
日々の些細な変化、笑い声、泣き声。
そんな報告に集中していれば、二人の間に漂う空気を変えられる気がした。
だが、レギュラスはただ静かに微笑んだだけだった。
その微笑みには、言葉以上の熱がこもっていた。
最近、カサンドラの部屋を訪れているという話を聞いていた。
アランにとって、それはむしろ救いだった。
その関係が深まり、カサンドラが懐妊でもすれば、
自分が背負う罪悪感も少しは軽くなるのではないかと――そう思っていた。
そうなれば、シリウスへの思いを胸の奥にしまったまま、
この屋敷で母として、アルタイルと静かに生きていける。
「アラン……」
名前を呼ばれた瞬間、空気が張り詰めた。
その声には、確かに情の熱があった。
ぞわりと背筋に震えが走る。
恐れと混乱とが、喉の奥で絡まり合う。
「……ごめんなさい、レギュラス。」
かすれた声で告げると、レギュラスの瞳が僅かに揺れた。
「ええ、分かっています。」
穏やかにそう言って、彼は一歩引いた。
だが、次の瞬間にはまた唇が触れた。
短く、何度も。
まるで、断りの言葉など聞かなかったかのように。
アランは息を詰めた。
胸の奥に冷たい不安が広がっていく。
――本当に、これ以上のことはしないでくれるのだろうか。
アルタイルの小さな寝息が、二人の間の静寂に混じる。
その音だけが、現実をつなぎ止めていた。
アランは目を閉じ、唇を噛みしめる。
心の奥で、愛した人の名を思い浮かべながら。
この夜が、どうか長く続かないでほしい――
そんな祈りを胸に、彼女は静かに涙をこぼした。
カサンドラは、寝室の扉が閉じる音を聞いた夜から、胸の奥が燃えるように痛んでいた。
レギュラスがアランと寝室を合わせた――その事実だけで、頭の中の理性という理性がすべて焼き切れていく気がした。
彼が誰とどこで眠るかなど、夫としての権利だ。
分かっている。そう自分に言い聞かせても、胸の奥では別の何かが叫んでいた。
“あの人は私を選び始めていたはずなのに”
“あの夜のぬくもりは、偽りだったの?”
夜を重ねるごとに、レギュラスがほんの少しずつ心を開いてくれていると錯覚していた。
彼が指先で頬を撫でたあの瞬間も、名を囁かれた時も、たしかにあった微笑は、あの人なりの愛のかたちだと思っていた。
だからこそ、それを粉々に打ち砕かれた気がした。
自惚れだった。
全ては、自分が勝手に信じた幻想にすぎなかった。
いまだに訪れない懐妊の兆しが、さらに焦りを煽る。
毎月、わずかな期待を抱いては、何も変わらないままに終わる。
そのたび、鏡に映る自分の姿を睨みつけた。
なぜ、自分は選ばれないのか。
なぜ、何も生み出せないのか。
薬草の香りに満ちた寝室は、夜ごと冷たさを増していく。
レギュラスの訪れが減っていくのを、肌で感じていた。
彼の視線はすでに別の部屋――アランのいる寝室に向けられている。
その現実を突きつけられるたび、喉の奥が詰まり、息がうまくできなくなった。
「私は、何のためにこの屋敷にいるの……?」
小さく呟いた声は、壁に吸い込まれていった。
かつて誇り高く育てられたロズィエ家の娘が、今やひとつの屋敷の中でただ“必要とされない女”として存在している。
その惨めさが、全身を切り刻んでいく。
父と母の期待を背負い、純血の誇りを胸にこの家に嫁いだはずだった。
けれど現実は――
彼女の手の中にあるのは、夫の温もりではなく、冷えた孤独だけだった。
レギュラスの声が恋しかった。
彼の手が恋しかった。
愛を乞うような自分が、何よりも惨めだった。
それでもカサンドラは思う。
“もし私が懐妊できれば、全ては変わる”
子を成せば、この屋敷における自分の立場は再び確固たるものになる。
レギュラスの隣に立つ資格を、再び取り戻せる。
そう信じなければ、心が壊れてしまいそうだった。
その夜、カサンドラは薄闇の中で掌を強く握りしめた。
爪が皮膚に食い込み、赤い線が浮かぶ。
痛みを感じて、やっと少しだけ生きている心地がした。
彼の心を、取り戻さなければ――
たとえそれが、どんな手段であっても。
レギュラスの瞼の裏には、あの夜の薄闇がまだ残っていた。
寝不足というより、眠るという行為そのものを体が拒んでいるようだった。
アランは、アルタイルよりも頻繁に夜中に目を覚ました。
痛みに耐え、薬を口にする回数が増えている。
そのたびにレギュラスも一緒に起きて、背中を撫でた。
ただその細い肩に触れているだけで、彼の中の張りつめた糸が少しだけ緩む。
「共にいる」という確かな実感が、眠りよりも甘い安堵をもたらしていた。
後悔など、あるはずがなかった。
寝不足の朝も、重たい瞼の下でアランの寝息を聞く瞬間こそが、唯一心の奥を満たしてくれた。
神秘部の奥、淡い燭光の中。
古びた書棚と分厚い報告書の山に囲まれて、レギュラスは椅子に腰かけたまま微睡んでいた。
闇の帝王の影も、部下のざわめきも届かない静寂のひととき。
それを破ったのは、いつもの軽薄な声だった。
「おやおや、君が居眠りだなんて、これは雪でも降る前触れだな。」
バーテミウス。
変わらない軽やかな調子に、レギュラスの眠気は一瞬で引き剥がされた。
眉をわずかにひそめ、不機嫌を隠そうともしない。
「……なんの用でしょうか。」
「君が先日動いてくれた件さ。例のマリウス・フレイ一家惨殺事件、無事に“犯人”が上がった。
マグル出身の魔法使いらしい。神秘部も胸をなでおろしてる。」
差し出された資料を受け取り、レギュラスはぱらぱらとページをめくった。
粗末な装丁の報告書には、青年の名が記されている。
〈コリン・ファーウッド 年齢十九 ホグワーツ・マグル生まれ〉
自宅の地下室に血痕が見つかった、杖には生体反応の痕跡――
証拠は完璧すぎるほど整えられていた。
レギュラスは短く息を吐き、無造作に資料を机へ戻した。
「そうですか。片付いたようで何よりです。」
「で、寝不足の原因は?」
バーテミウスがわざとらしくニヤリとする。
「子が生まれたばかりですから。夜泣きが多くて。」
貴族の屋敷では、乳母が世話をするのが常だ。
主人が寝不足に悩まされるなど、あり得ない。
その理屈を知り尽くしているバーテミウスは、眉を大袈裟に上げて見せた。
「へぇ、そんな雑な言い訳を君がするとは。らしくない。」
レギュラスは軽くため息をついた。
この男の軽口は、昔から変わらない。
ホグワーツ時代もそうだった。
他人の秘密を嗅ぎ回り、噂を蒐集しながら、決して決定的なところまでは踏み込まない。
その絶妙な距離感を、レギュラスは嫌いではなかった。
「そういえば、ついに“セシール嬢”を妻にしたそうじゃないか。」
一瞬、時が止まった。
久しく聞かれなかったその呼び名。
アランはもう“ブラック”の名を冠している。
“セシール嬢”と呼ぶのは、かつての学友たち、ほんの数人だけだ。
「……ええ、まあ。」
「正妻より先に男児を産ませるとは、大したやり手だ。」
あけすけな物言いに、レギュラスの喉の奥で小さな笑いが漏れた。
バーテミウスは軽く肩をすくめ、満足げに椅子の背にもたれかかる。
「君が昔、ホグワーツ特急の中で語っていた夢――
“セシールを妻にして、ブラック家を変える”って、あれを覚えてるよ。」
懐かしい記憶が蘇る。
夜更けのホグワーツ特急の個室、二人で窓の外の雨を見ながら語り合った野望。
若かった。無謀だった。
だが、それでも今の自分を形づくっているのは、あの頃の願いだ。
「……後悔はしていません。」
「でしょうね」
バーテミウスはからかうように笑った。
その軽薄な笑みの奥に、ほんのわずかな敬意の色が見えた気がした。
神秘部の地下で、蝋燭がゆらりと揺れる。
その光が、レギュラスの頬を照らし、微かな疲労と誇りを同時に浮かび上がらせた。
「さて、もう少し眠っておけばよかったですね。」
「いや、君に“隙”があるなんて、貴族たちの間で噂になりそうだ。」
軽口を残して去っていくバーテミウスの背を見送りながら、
レギュラスはふと微笑んだ。
――人は皆、誰かの前では眠るふりをする。
それが赦される相手がいることは、案外悪くない。
闇の帝王の前に立つとき、レギュラス・ブラックの瞳は、いつもの冷ややかな灰色に静かな炎を宿していた。
マリウス・フレイ一家惨殺事件。
魔法界を騒がせたこの凄惨な事件の背後に、闇の魔法使いたちの影があると噂されていた。
だが――その“影”を完全に消し去ったのは、他でもないレギュラス自身だった。
彼は綿密に、完璧な嘘を構築した。
それは真実よりも整然として美しく、信じるしかないほどに緻密だった。
魔法省の報告書には、若きマグル生まれの魔法使い、〈コリン・ファーウッド〉の名が記されている。
彼の杖からは《アバダ・ケダブラ》の痕跡が検出され、家屋の地下室からは乾いた血痕。
さらに決定的だったのは、彼がマリウス・フレイの娘に恋慕していたという噂。
叶わぬ愛に心を病み、嫉妬の末に一家を殺した――という、誰もが納得する“動機”が丁寧に付け足されていた。
動機、証拠、背景。
すべてが完璧に揃っている。
どれ一つとして綻びのないその報告書は、まるで“真実”の皮を被った芸術作品のようだった。
闇の帝王は深く満足げに頷き、レギュラスに信頼の印として新たな任務を託した。
この若き貴公子が、帝王の忠実なる右腕であることを、魔法界の誰もが改めて知ることとなる。
そんな彼の姿を、バーテミウス・クラウチJr.は楽しげに眺めていた。
彼にとってレギュラス・ブラックという存在は、完璧という言葉そのものだった。
才知、冷徹、計画性――どれを取っても非の打ちどころがない。
だが同時に、バーテミウスは知っている。
この完璧な男の唯一の“ほころび”を。
それは――アラン・セシール。
彼女の名前を聞くたび、バーテミウスの口角は自然と上がった。
「やっと、夢を叶えたな」と思う。
かつてホグワーツの談話室で、レギュラスは何度も語っていた。
“いつかアラン・セシールをブラック家の妻に迎える。
使用人の娘でも、彼女でなければならない”
その夢が、今、現実になった。
ただし、その代償はあまりに大きい。
格式高いブラック家に、使用人の娘を副妃として迎え入れるなど、常識では到底あり得ないことだった。
だが彼はそれをやってのけた。
しかも、男児まで産ませて。
「まったく、やり手だよな。油断も隙もない。」
バーテミウスはひとりごちて笑った。
同時に、胸の奥に冷たいものがざらりと走る。
完璧な男ほど、崩れる瞬間は壮絶だ。
その引き金がアランであることを、バーテミウスは本能的に理解していた。
そして彼女――アラン・セシールの血筋。
それを思うと、笑いと共に薄ら寒さも覚えた。
アランの母、リシェル・ブラウン。
かつて王宮を混乱に陥れた“悪魔の女”。
その美しさは、罪だった。
ひとりの国王を狂わせ、国を滅ぼしかけた。
彼女の名は、いまも魔法史の中で“魅惑の呪い”と並んで語られている。
そしてその血を継ぐ娘――アラン。
リシェルのように、また男を狂わせるのだろうか。
バーテミウスはそう考えずにはいられなかった。
闇の帝王さえ欺き、国家の裁きを捻じ曲げ、完璧に生きるレギュラス・ブラック。
だが、その完璧さを最も乱すのは、誰でもない。
“リシェルの娘”であり、“レギュラスの愛した女”――アラン・セシール・ブラック。
王を惑わせた女の血が、今また貴族の屋敷で蠢いている。
歴史は、静かに同じ悲劇を繰り返そうとしていた。
闇の印が燻る夜空の下、古の石造りの屋敷には黒衣の者たちが集っていた。
長い円卓の中央にはヴォルデモート卿が座し、その蛇のような瞳が一人ひとりを静かに見渡している。
空気は粘つくように重く、沈黙の中に狂信と緊張が混ざり合っていた。
レギュラス・ブラックは、その中心からわずかに離れた位置に立っていた。
漆黒のローブの襟元を正し、完璧に無駄のない所作で一礼する。
その姿は貴族としての品位を保ちながらも、デスイーターとしての忠誠を示すものだった。
「お前は実に見事な働きをした。」
冷ややかな声が、広間の奥から響く。
ヴォルデモートの瞳が、蛇の舌のようにレギュラスを絡め取る。
「マリウス・フレイの件――あの混乱をここまで整然と片付けた者など、他におらぬ。
お前ほど頭の切れるやつは、そうはいない。」
レギュラスは深く頭を下げた。
「勿体ないお言葉です、我が主。」
声は落ち着き払っていたが、胸の奥で小さな鼓動が早まっているのを感じていた。
この場で称賛されることは、誇りであると同時に、鎖をより深く締められることでもある。
だが、それでもよかった。
アランとアルタイルの未来を守るためなら、どんな汚泥にも膝を沈める覚悟はある。
レギュラスはわずかに瞳を伏せ、その闇に決意を沈めた。
やがて、集会は終わりを迎えた。
次々に消える姿の中、レギュラスが外へ出ようとしたその時――背後から鋭い声が響いた。
「まぁ、見違えたわね。いつもシリウスの影のように後ろを歩いていた坊やが、こんなにも立派になって。」
その声に振り返ると、ベラトリックス・レストレンジが立っていた。
黒曜石のように艶めく髪が揺れ、狂気と誇りを帯びた笑みがその唇に浮かんでいる。
「お久しぶりです、ベラトリックス。」
レギュラスは静かに一礼した。
「聞いたわよ。使用人の女を妻にしたんですって?」
声は甘く、しかしその奥に毒が混じっていた。
予想していた問いだった。
この女は無駄に絡んではこない。
いつも、釘を刺すためだけに現れる。
レギュラスは表情ひとつ変えず、頭を垂れる。
「はい。」
肯定の意を込めたその一言に、ベラトリックスの唇がわずかに吊り上がった。
「ふふ……あんまりブラックの名に傷をつけるようなことはしないことね。」
その声音には、親族としての忠告と、貴族としての侮蔑とが綯い交ぜになっていた。
レギュラスは視線を落としたまま答える。
「心しておきます。」
その瞬間、どこかで蛇が這うような風が吹き抜けた。
ベラトリックスの瞳が、わずかに愉悦に揺れる。
彼女は満足げにレギュラスの肩を軽く叩き、闇に溶けるように去っていった。
石畳を歩きながら、レギュラスはふと空を見上げた。
闇の印がまだ空に残っている。
血と誓いの匂いが混じる夜気の中、胸の奥がひどく冷たかった。
使用人の女。
そう呼ばれるたびに、アランの笑顔が心に浮かぶ。
彼女のかすかな息遣い、眠りの中で小さく動く指先。
その一つひとつが、名誉や血統よりもはるかに重いものに思えた。
ベラトリックスの言葉が耳の奥に残る。
「名に傷をつけるな」――
ならば、自らの手でその“名”を変えてみせよう。
そう心の奥で、誰にも聞こえぬように呟いた。
そして彼は、闇の印を背にして、ゆっくりと夜の中へと歩み出した。
柔らかな午後の光が、屋敷の庭に満ちていた。
アランはゆっくりと歩いていた。
腕の中にはアルタイル。小さな体は彼女の鼓動と同じリズムで呼吸をしている。
まだ体の痛みは完全には癒えていなかった。
歩くたびに下腹部に鈍い痛みが走り、筋肉が張る。
それでも、こうして歩かねばならないと自分に言い聞かせていた。
――動けば回復は早まる。医務魔女がそう言ったから。
けれど本当の理由は、それだけではなかった。
部屋の中にじっと閉じこもっていると、心が腐ってしまいそうだった。
広い屋敷の中には、彼女の存在を疎ましく思う者もいる。
だからアランは、できるだけ人の目を避けて歩く道を選んだ。
裏庭、東棟の廊下、温室の裏。
昔から彼女が掃除を任されていた場所ばかり。
どこも懐かしく、そして少しだけ切なかった。
アルタイルの小さな手が彼女の服を掴んだ。
「アルタイル……」
名を呼ぶ声は自然と優しくなる。
シリウスと同じ灰銀の瞳が、自分を見上げてくる。
その視線に、胸の奥のどこかがじんわりと温かくなる。
「あなたはどんな未来を生きるのでしょうね。」
アランは囁くように呟いた。
「きっと、太陽のような少年になるわ。あなたの父親のように……」
シリウス。
彼の名を心の中で呼ぶだけで、胸が疼く。
あの自由で、まっすぐで、誰よりも明るい笑顔。
彼は常に“空”を見ていた。どんな時も縛られず、枷を嫌い、自由を求めて生きていた。
アルタイルも、そんな強さを持つ子に育ってほしい。
どんな世界でも、自らの手で未来を切り開くことのできる子に。
愛する人が選んだ生き方を、この子にも継がせてやりたい。
アランはそっと額をアルタイルの頬に寄せた。
この小さな命の中に、確かにシリウスの温もりが生きている。
腕の中で息をするたびに、愛した人の面影が甦る。
――まるで、彼が自分の腕の中に帰ってきたようだった。
「いつか……あなたに話せる日が来るかしら。
本当の父のことを。
そして、あなたをどれほど愛していたかを。」
その瞬間、胸の奥が締めつけられた。
話すことの叶わない未来を思うのは、拷問のようだった。
けれど、願わずにはいられなかった。
ほんの一瞬でもいい。
シリウスに、アルタイルを抱かせてあげたい。
二人が、父と子として触れ合う姿を――自分の目で見てみたい。
「アラン。」
背後から静かな声がした。
振り返ると、レギュラスが立っていた。
深緑のローブを羽織り、いつものように穏やかだが、どこか表情に疲労の影が見える。
「出歩いて平気ですか?」
「ええ。少しは動かないと、筋力が落ちてしまうと医務魔女が言っていました。」
「無理は禁物です。」
その声に、アランは微笑んで頷いた。
レギュラスがそっと手を伸ばし、アルタイルを抱き取る。
彼の動きは自然で、迷いがなかった。
まるで、もう長い間父親をしてきたかのように慣れた手つきだった。
けれど――アランの胸の奥に、痛みが走った。
腕の中から離れていく息子の体温が、風のように消えていく。
その瞬間、何かを失ってしまったような気がした。
“離さないで。”
そう叫びたかった。
だが、唇は動かず、声も出なかった。
シリウスの手を取れなかったあの日が、脳裏に焼き戻る。
あの時の後悔が、今も心に巣くっている。
だからこそ――
今度こそ、アルタイルの手だけは離さない。
この子の未来を、絶対に奪わせはしない。
たとえ自分の命がどうなろうとも。
レギュラスの腕に抱かれ、安心しきったように眠るアルタイルを見つめながら、
アランはそっと拳を握りしめた。
その指先が白くなるほど、強く。
光が差し込む庭の中、母の微笑みは、涙の匂いを含んでいた。
朝の光がゆるやかに差し込む回廊を、レギュラスは静かに歩いていた。
腕の中にはアルタイル。
その小さな体の温もりが、彼の胸に確かな命の感触を残していた。
思っていたよりもずっと自然に――いや、驚くほどに穏やかに、彼はこの子を受け入れていた。
初めて抱き上げた時、恐れや違和感があると思っていた。
だが実際は違った。
生まれたばかりのその掌の小ささ、無垢な瞳の深さに触れた瞬間、心のどこかが柔らかくほどけていくのを感じたのだ。
「……アルタイル。」
名を呼ぶ声が、思わず優しさを帯びた。
自分でも信じられないほど、自然に。
なぜこれほどまでに、この子を愛おしく感じるのか。
理由は分からなかった。
アランが命を懸けて産み落とした子だからだろうか。
それとも――この子がいたからこそ、アランをこの屋敷に繋ぎ止めておけたからだろうか。
愛とは、こんなにも複雑なものだったのか。
それが“理由ある愛”なのか、“無償の想い”なのかさえ、今のレギュラスには判然としなかった。
しかし、アルタイルの瞳を見つめていると、そんな理屈などどうでもよくなってしまう。
その灰色の瞳――。
それは、かつて兄シリウスが持っていた色。
だが、同時に、鏡のように自分と同じ色でもあった。
その事実に、レギュラスは時折、ほっと胸をなでおろす。
シリウスの影を見ているようでいて、それでいて自分の血の継承をも錯覚させる色。
この子を抱いていると、まるでアランと自分の血を分けて生まれた子のような錯覚に陥るのだ。
「アルタイル――あなたはブラック家の希望です。」
小さく囁いた声が、静かな回廊に吸い込まれていく。
アランが振り返った。
彼女の顔はまだどこか青白く、疲れの色を残しているが、それでも穏やかな笑みがあった。
その笑みを見るたびに、レギュラスの心の奥に満ちていくものがある。
それが幸福なのか、贖罪なのか、自分でも判断がつかない。
アルタイルを抱いたまま、彼はアランの隣を歩いた。
柔らかな風が二人の間を通り抜け、アランの髪を揺らす。
レギュラスはふと、その横顔を盗み見る。
こうして並んで歩く時間――それは、彼がかつて幾度も夢に描いた構図だった。
“家族”というものを、彼はどこか遠い幻のようにしか思っていなかった。
だが今、この瞬間、確かにそれが形になっている。
アランの隣を歩き、腕の中に息づくアルタイルを抱いている――それだけで十分だった。
もはや、アルタイルがシリウスとの子である事実などどうでもよかった。
過去など、いくらでも書き換えられる。
真実など、語り方ひとつで形を変えるものだ。
この世界で、アランとアルタイルと共に生きているのは自分であり、
これから先もアランの隣に立つのは自分だ。
アルタイルを導き、守り、育て上げるのも――間違いなく、自分だ。
それがたとえ嘘であっても構わない。
信じ続ければ、それはやがて“現実”になる。
レギュラスは歩みを止め、そっとアルタイルの頬に唇を寄せた。
その瞬間、腕の中の小さな命が微かに動いた。
その重みが、心の奥に沁み渡っていく。
アランが横にいる。
アルタイルが胸の中にいる。
――この二人こそが、自分の世界そのものだった。
どこまでも穏やかで、どこまでも危うい幸福の只中で、
レギュラスは静かに、己の幻を現実だと信じ込もうとしていた。
銀の食器が光を返す。
長いテーブルの上には温かな湯気を立てるスープと、香ばしいパン、そして果実酒の瓶。
いつもならアランはその支度を整える側にいた。
だが今朝は違う。
彼女の前には、白磁の皿と金縁のカップが置かれていた。
ブラック家の人間と肩を並べて座る。
その現実をまだ受け入れられずにいた。
アランは慎ましく姿勢を正し、緊張にこわばった手を膝の上で組む。
使用人だった身が、この食卓の一角に座るなど――あり得ないことだった。
息をひそめるたびに、周囲の空気が肌に刺さるように冷たく感じられた。
向かいの席ではヴァルブルガがナイフを静かに動かしている。
何も言わない。
だがその沈黙の奥に、確かな棘がある。
視線が刺すように痛い。
それだけで喉の奥が焼けるように苦しかった。
隣ではレギュラスが、まるで何事もないように穏やかにスープを口にしている。
彼の中では、この光景こそ“当然の形”なのだろう。
その余裕の笑みが、アランにはどこか遠い。
「アルタイル、泣きませんね。いい子です。」
レギュラスの声が柔らかく響いた。
アランの隣、乳母の腕の中で揺られているアルタイルは上機嫌に指を動かしていた。
小さな笑みが浮かぶ。
その姿に、ほんの少しだけ心が和らぐ。
「お前もあまり泣かない子だった。」
オリオンがふと、懐かしむように呟いた。
その言葉に、アランの背筋がぴんと伸びる。
――アルタイルはレギュラスに似ている。
そう言われたような気がして、どきりと胸が鳴った。
露呈してはいけない真実が、ほんのわずかでも表に出てしまうような気がして怖かった。
「ええ、僕に似るのは当然です。」
レギュラスが穏やかに返す。
その言葉の裏に、どれほどの祈りと偽りが潜んでいるのかを、アランだけが知っていた。
「似なくていいところまで似ないことを祈りますわ。」
ヴァルブルガが、葡萄の皮を器用に剥きながら冷ややかに言う。
その声は穏やかだが、どこか毒を含んでいた。
アランは笑うこともできず、ただ静かに視線を落とした。
その時だった。
カサンドラが、音を立てずに匙を置いた。
まるで一枚の幕が張り替わるように、食卓の空気が変わる。
「みなさま……ご報告がございます。」
かすかに震える声。
しかし、その瞳の奥には自信が宿っていた。
「どうした。」とオリオン。
「おめでとうございます、レギュラス様。……身ごもりました。」
その一言で、静寂が崩れた。
「本当ですか?」とレギュラスが驚きを隠せずに尋ねる。
「ええ、本当です。」とカサンドラはしっかりと頷いた。
ヴァルブルガの口元に、ゆっくりと笑みが広がる。
オリオンも深く頷き、満足げに息をついた。
「よくやった、カサンドラ。」
屋敷の重い空気が一瞬にして華やいでいく。
期待、誇り、そして安堵――。
家の未来を担う新たな命。
彼らにとって、それは祝福以外の何ものでもなかった。
アランは小さく頭を下げる。
「おめでとうございます、カサンドラ様。」
声が震えた。
けれど、それは嫉妬のせいではなかった。
むしろ胸の奥で、静かな安堵が広がっていた。
――これで、レギュラスの心が少しでもカサンドラとその子へ向かうのなら。
自分の存在に向けられていた愛情の重さが薄れてくれるのなら。
きっと、この息苦しさから少しは解放される。
そう思うと、肩の力がふっと抜けた。
アルタイルの小さな指が乳母の胸元をつかむ。
アランはその姿を見つめながら、胸の内でそっと願った。
どうか――この屋敷の中で、静かに生きられるように。
そして、あなたとの時間だけは、誰にも奪われませんように。
その祈りは、湯気のように消えていった。
祝福の笑い声が響く食卓の中で、アランだけがひとり、
淡く孤独な微笑みを浮かべていた。
朝靄が薄く漂う中、カサンドラは寝台の上で身を起こした。
胸の奥がふわりと熱く、指先まで幸福の余韻が満ちていた。
――命を授かった。
その事実が、夢のように信じられなかった。
「ついに……」
そっと掌を下腹部にあてる。
まだ膨らみなどない。けれど、その下に確かに小さな命がある。
それを思うだけで、頬が熱くなった。
天にも昇るような気持ちだった。
昨日、朝食の席で告げた瞬間の光景が脳裏に浮かぶ。
レギュラスの驚いた表情。
あの常に冷静で、何を言われても動じぬ男が、ほんの一瞬見せた素の顔。
それを思い出すだけで胸が高鳴った。
オリオンの力強い言葉。
ヴァルブルガの、めずらしく柔らかい笑み。
どれもが、自分という存在を認め、称え、尊重してくれた。
長い間、ロズィエ家の娘として背負ってきた誇りが、ようやく報われたのだ。
「私は……やっと、正妻としての役目を果たせた。」
カサンドラは静かに呟きながら、腹を撫でる。
その動きには、祈りにも似た必死さがこもっていた。
――男児を。どうか、男児を。
この家では、血筋を継ぐ者は常に男でなければならない。
女児では、アランブラックの息子アルタイルに勝てない。
だからこそ、祈りは深く、願いは鋭くなる。
撫でる手のひらにこもる想いは、母性というよりも焦燥に近かった。
少しずつ、アランを超えられる――そんな実感が生まれていく。
これまでどれほどの屈辱を飲み込んできただろう。
自分が正妻でありながら、レギュラスの隣にはいつもアランアランがいた。
けれど、今は違う。
この腹の中に宿る命こそが、彼女よりも上に立つ資格を与えてくれる。
数日後、カサンドラのもとへ次々と贈り物が届いた。
すべてレギュラスからのものだという。
上質なラベンダーとカモミールをブレンドしたハーブティー。
香りのよいベルガモットオイルとサンダルウッドの香油。
吐き気を抑えるための薬草が練り込まれた練香。
そして、上等な絹のショールと、柔らかい羽毛のクッション。
どれもが「気遣い」を形にしたものだった。
けれど、肝心のレギュラス本人が彼女の部屋を訪れることはなかった。
贈り物は多いのに、彼は遠い。
それが、何よりも胸を刺した。
「……私が欲しいのは、ものではなく、あなたなのに。」
夜更け、ランプの光がカサンドラの頬を淡く照らしていた。
贈られたオイルの香りが部屋に満ちている。
指先に香油を少しとり、手の甲にすり込む。
その温もりが、まるでレギュラスの手のように錯覚できれば――。
そんな幻想を抱く自分が惨めで、唇を噛んだ。
一方で、彼は帰宅するたびにアランとアルタイルの部屋へ直行する。
その事実を、使用人たちの小さな噂話で知るたび、胸の奥にざらりとした痛みが走った。
アランは病後でまだ弱っている。
だから気遣うのは当然。
そう言い聞かせても、納得できるものではなかった。
誇らしさと切なさ――そのふたつが、日ごとに胸の中でせめぎ合う。
それでも、カサンドラは諦めなかった。
もし、この身に宿る子が男児であるなら。
アルタイルがブラック家を継ぐのではなく、
自分の子こそが“正統な後継者”となる。
そのときこそ、屋敷のすべては自分の掌中に落ちる。
レギュラスの愛が手に入らないのなら、
この家のすべて――名声も、富も、権力も――
ロズィエ家の血で塗り替えてしまえばいい。
静かに息を吐く。
その瞳に宿る光は、祈りではなく決意だった。
夜風がカーテンを揺らし、蝋燭の火が小さく揺れる。
その炎のように、カサンドラの心も揺らめいていた。
愛と野望。
女としての幸福と、母としての闘争。
すべてを手に入れるために――
カサンドラは再び、まだ平らな腹を撫でた。
まるでそこに、未来そのものが眠っているかのように。
レギュラスは、アランの予想に反してカサンドラのもとへ向かうことはなかった。
あれほどの吉報を聞いたのだから、彼がしばらくは正妻のもとで過ごすのだろうと、アランは思っていた。
けれど、実際には違った。
日ごと、レギュラスは屋敷に戻ると真っ先にアルタイルのもとへ行く。
まだ小さな首が少しずつしっかりしてきたその子を、慎重に抱き上げてはベッドの上であやしてやるのだ。
彼の膝の上で、アルタイルはころころと笑い声を立てる。
その音が屋敷の廊下にまで響き、どこまでも柔らかく、幸福の象徴のように感じられた。
それは、誰が見ても温かい光景だった。
父と子。
血のつながりを知らぬまま、二人は確かに絆を結んでいる。
だが、アランには――胸が苦しかった。
その光景の中にあるべき人は、レギュラスではなく、シリウスだった。
腕の中で笑うアルタイルの表情が、時折、彼に似て見える。
そのたびに、かつて置き去りにしたはずの思いが、往生際悪く蘇ってくる。
忘れたつもりでいた。諦めたつもりでいた。
けれど、心は未だに、彼を探してしまう。
深い緑と黒の布地には、幾世代にもわたる高貴な名が黄金の糸で刻まれている。
そこに新たな一行――「アラン・ブラック」という名が加わった。
その瞬間、ヴァルブルガ・ブラックの胸を突き上げたのは、誇りではなく、屈辱だった。
静まり返った広間の空気の中、針のような沈黙が落ちる。
重々しい燭台の火が揺れ、タペストリーの表面に光を走らせた。
まるで、そこに縫い込まれた新しい名が、古い血の歴史を嘲笑うかのように輝いていた。
ヴァルブルガは、その光景から目を背けた。
手袋をはめた指先で額を押さえ、唇を硬く結ぶ。
――まさか、この名をここに刻む日が来るとは。
アラン・セシール。
たしかにあの女は男児を産んだ。
それだけは認めざるを得ない。
だが、ブラック家の名を与えるなど、決して認められぬことだった。
純血の誇り、格式、そして歴史。
それらが積み上げてきたこの家の重みを、たかが二代の浅い家系の娘が汚してしまったのだ。
ロイク・セシール――元はただの使用人に過ぎない。
彼がこの屋敷に仕えていた時代、ヴァルブルガは何度もオリオンに告げた。
「彼とその娘を屋敷に置くべきではない」と。
だが、オリオンは耳を貸さなかった。
信頼できる男だ、誠実な娘だ――そう言って笑っていた。
結果がこれだ。
ロイクの娘は主の妻となり、その名をこの家の壁に刻ませた。
「この家の血に、泥を塗るような真似を……」
ヴァルブルガの声は震えていた。怒りと屈辱とで、胸が煮えたぎっていた。
たとえ副妃とはいえ、“ブラック”の名を持つことは、この家に認められたことを意味する。
そして、男児を産んだ今、その地位は誰にも揺るがせぬものとなった。
ヴァルブルガは爪が食い込むほどに拳を握りしめた。
――今に見ていなさい。
この女が手にした“奇跡”を、すぐに塗り潰してやる。
医務魔女たちの報告が頭をよぎる。
アランの体は出産の影響で衰弱が激しく、回復には長い時間が必要だという。
さらに、薬の影響もあって次の懐妊は望めぬ可能性が高いと。
それを聞いたとき、ヴァルブルガの胸の奥で、冷たい喜びが灯った。
死には至らなかったものの、子を産めぬ身体となったのなら、それは“神の与えた均衡”だ。
今こそ、動く時だ。
カサンドラ――ロズィエ家の娘。正統なるブラック家の正妻。
あの女に子を産ませなければならない。
それも、必ず男児を。
このままでは、家の名が穢れる。
副妃の子が当主の座に就くなど、考えるだけで吐き気がした。
暖炉の火が爆ぜる音が響いた。
その橙の光の中で、ヴァルブルガの瞳は鋭く光る。
高貴なる血の炎が、静かに復讐の形をとって燃え上がるように。
「この家の後継は、正妻の腹から出る者のみ。
それ以外は、決して認めない。」
彼女のその決意は、やがて屋敷全体を包む冷たい嵐のように、静かに広がっていった。
アランが産後の衰弱から立ち直ることはなかった。
昼夜を問わず寝台に伏し、薄いカーテン越しの光の中で、静かに息をしていた。
笑うことも、長く話すこともできず、食事もほとんど喉を通らない。
屋敷の者たちはそれを「回復が遅れている」と口を揃えたが、
誰よりもわかっていた――彼女の心がもう、ここにないということを。
そんな日々の中、カサンドラの部屋を訪れるレギュラスの足音が、次第に増えていった。
最初はほんの短い時間だった。
報告のような会話を交わし、手を取るだけで終わる夜もあった。
けれど、いつしかその手は頬を撫で、指先は髪を梳き、唇は彼女の名を呼んだ。
レギュラスの吐息が頬に触れるたび、カサンドラの胸に熱が広がる。
長い間、彼にとって「正妻」でありながら、名ばかりの存在でしかなかった。
彼の心はいつも、別の女――アラン・セシールにあった。
それを知りながら、何もできずに笑っていた日々がどれほど屈辱だったか。
けれど今、彼は自らの意思でここに来ている。
誰に命じられたわけでもない。
彼の手が、彼の唇が、自分を求めている。
それがどれほど偽りに満ちていようとも、構わなかった。
触れられるたびに、カサンドラの中で失われていた自尊心が静かに息を吹き返していく。
彼の綺麗な手が、背中を、腰を、指先でなぞる。
その度に「選ばれた」という錯覚が、心の隅々まで染み込んでいく。
彼の腕の中にいる間だけは、アランの影を忘れられる。
重なり合う夜が増えるたび、彼の吐息の重さが変わっていく気がした。
初めはただの衝動、やがて癒し、そして――。
その変化を信じたくて、カサンドラはすがるように彼を受け入れた。
レギュラスの名を呼ぶ声が、夜気に吸い込まれていく。
その声の震えを彼は愛しげに受け止め、唇で塞ぐ。
カーテンの向こうでは冬の風が吹いていた。
けれど、二人の間には熱だけが満ちていた。
――今、この瞬間に孕まなければ。
カサンドラは心の中でそう呟く。
焦りと願いが混ざり合って、体の奥で熱を灯す。
彼を求めることが、愛なのか、それとも打算なのか。
もうわからなかった。
ただ確かなのは、彼を失えば、今度こそ自分が壊れてしまうということ。
唇が離れ、レギュラスが低く息を吐く。
その腕の中で、カサンドラは目を閉じた。
彼の温もりがまだ体の奥に残っているうちに、
どうか――この命を宿せますようにと、
声にならない祈りを胸の底で呟いた。
アランの回復があまりにも遅かった。
それはレギュラスが想定していた以上の時間だった。
出産という命の極限を経た後なのだから、ある程度の静養は必要だと理解していた。
だが、日に日に彼女の体が痩せていくのを見ていると、心の奥に黒い不安が巣食っていった。
焦りに似た感情が、夜になると強くなった。
静まり返った寝室の中、アランが息をするたびに胸が締め付けられる。
彼女の呼吸の浅さ、時折もらす痛みに耐える声――そのひとつひとつが刃のように突き刺さった。
“このまま、また失ってしまうのではないか。”
その恐れは、かつて味わったどんな恐怖よりも冷たく、重かった。
救いを求めるように、レギュラスは夜ごと自分の心の逃げ場を探した。
そして、気づけば――そこにいたのはカサンドラだった。
彼女は何も問わなかった。
ただ、そっと寄り添い、レギュラスの沈黙を受け入れた。
その優しさが、あまりにも都合のいい慰めに思えても、拒むことはできなかった。
重なる夜の回数が増えるごとに、行為はただの習慣になっていった。
心がそこにあるわけではない。
けれど、それでも良かった。
今のレギュラスには、誰かの温もりが必要だった。
カサンドラを求めるたびに、ほんのわずかでも孤独が薄らぐ気がした。
しかし、その後に訪れる虚しさはいつも決まっていた。
彼女の体温が消えたあとの夜の冷たさに、レギュラスは打ちのめされる。
そして祈るように思うのだ――どうか、カサンドラが懐妊してくれればと。
そうでなければ、ロズィエ家には顔向けができない。
正妻の務めを果たせぬ夫と見られれば、家としての面子も立たない。
それに、父オリオンと母ヴァルブルガからの圧力も、日に日に強まっていた。
彼らの期待に応えるためにも、何としてでもカサンドラの子を得ねばならなかった。
それでも、レギュラスの心の中心にいるのは、アランただ一人だった。
医務魔女の忠告を無視し、彼はついに決断する。
アランを、自分の寝室に移すのだ。
「夜中に痛みで目を覚ますこともあるでしょう。
共同の寝室は、おすすめいたしません。」
医務魔女は静かにそう告げた。
しかし、レギュラスは首を振る。
「それでも構いません。――彼女の傍にいたいのです。」
その声音は柔らかかったが、揺るぎなかった。
寝室の灯が落とされ、静かな夜が訪れる。
アランはまだ眠ったままで、白い頬にかすかな熱が残っていた。
レギュラスはその寝台の傍に腰を下ろす。
触れることはしない。
ただ、隣で呼吸を感じていたかった。
彼女が小さく呻くたびに、レギュラスはそっと手を伸ばし、冷えた額を撫でた。
痛みがあるなら、共に寄り添いたい。
苦しいのなら、自分も同じ痛みを抱きたい。
それが赦しであり、罰でもあった。
――触れなくていい。
ただ、同じ空の下で眠ることができれば、それでいい。
レギュラスはそう思いながら、静かに目を閉じた。
隣で微かに揺れるアランの息遣いが、夜の闇の中で唯一確かな“生”の音として響いていた。
アランは、眠る前に運ばれてきた書籍の山を見つめていた。
いつも自室の枕元に置いていたそれらが、今はすべてレギュラスの寝室の棚に並んでいる。
薬の瓶も、読みかけの本も、鈍い月光の中で他人の部屋のもののように見えた。
「今日から、ここに。」
それだけ告げられ、何の相談もなく決められていた。
その言葉が頭の奥で何度も繰り返される。
彼の意図は理解できる。正式にブラックの名を与えられた身として、同じ寝室を共にするのは当然のこと。
けれど、アランの胸の奥にはどうしようもない居心地の悪さが残っていた。
夜更け、アルタイルの泣き声が上がった。
アランは慣れた手つきで体を起こし、胸元を開こうとしたが、視線を感じて手が止まる。
レギュラスの存在が、いつもより近い。
寝台の隣で身を起こし、静かに様子を見ていた。
ぎこちなく腕を動かすアランの焦りが伝わったのか、アルタイルはますますぐずりだす。
眉をひそめて困り果てていると、レギュラスがそっと手を伸ばした。
「僕が。」
そう言って赤子を抱き上げる。
その仕草に、無駄な動きがひとつもなかった。
片腕で自然に体を支え、もう一方の手で背をとんとんと優しく叩く。
アルタイルは、あっという間に泣き止んだ。
アランは息を呑んだ。
知らなかった――彼がこんなふうに、迷いなく赤子をあやせるようになっていたなんて。
その姿を見つめるうちに、胸の奥がきゅっと痛んだ。
もしかしたら、彼の方が自分よりもアルタイルと過ごす時間が長いのかもしれない。
自分はただの器でしかなかったのではないか。
命を懸けて産んだというのに。
愛した人との最後のつながりであるこの子を、いつか自分の手から取り上げられるのではないか――
そんな恐れが心の隅でじわじわと膨らんでいく。
「アラン、落ち着いたようですよ。」
レギュラスの声がやわらかく響く。
差し出されたアルタイルを受け取る手が少し震えた。
胸元を整え、再び授乳を始める。
温かな重みが腕に戻ってきて、わずかに心が安らぐ。
けれど、レギュラスの視線が気になって仕方がなかった。
静かな寝室に、彼の呼吸音まで聞こえる。
恥ずかしさと緊張とが入り混じり、胸の奥で鼓動が荒くなる。
「……そんなに見られると……」
掠れた声でそう呟くと、レギュラスははっとして目を逸らした。
「あ、すみません。」
彼は背を向け、窓の方を見た。
外の闇を見つめる彼の肩が、月光の中で少し寂しげに見える。
アランはそっと息を吐いた。
気まずさと、恥ずかしさと、それでも確かに胸の奥で温かく灯るもの。
その全てが、夜の静けさの中でゆっくりと混ざり合っていった。
アルタイルの口元が離れ、小さく息をつく。
その音がやけに大きく聞こえた。
レギュラスの背中越しに見える月は、薄く霞んでいた――まるでこの関係の行く末を、ぼんやりと映しているかのように。
授乳を終えたとき、アルタイルはすでに静かな寝息を立てていた。
小さな胸が上下するたびに、薄布の上にやわらかな影が揺れる。
アランはその様子を確かめるように見つめながら、そっと息を吐いた。
けれど安心も束の間、寝台の反対側で気配が動いた。
レギュラスが体の向きを変え、こちらを見ている。
静寂の中でその視線は熱を帯びて、空気を震わせていた。
思わず視線をやれば、かちりと交わった。
瞬間、胸がぎゅっと固まる。
目を逸らせば、それだけで何かを拒絶してしまう気がして、ただ息を飲むしかなかった。
ゆっくりと近づく影。
唇が近づくのを見た瞬間、もう避けられないと悟った。
思っていた通り――いや、思っていたよりもずっと優しく、彼の唇が触れた。
アランの胸に、複雑な感情が幾重にも波を立てて押し寄せる。
拒絶ではない、けれど受け入れでもない。
この寝室に移されたことが何を意味するのか、理解していた。
正式にブラック家の副妃とされた以上、彼が求めるのは“妻”としての役目。
だが、アランの体はまだあまりにも脆かった。
出産の痛みが残る下腹に、微かな疼きが走る。
医務魔女は「回復には時間がかかるでしょう」と穏やかに言っていた。
その言葉は正しかった。
立ち上がることも、長く座っていることも辛い日が続いている。
にもかかわらず、今――彼の求めるものが何なのか、痛いほど伝わってきた。
アランは恐る恐る視線を逸らし、話題を探すように唇を開いた。
「アルタイル、最近よく笑うようになりました……
この前も、あなたが抱いた時に、少し――」
意図的に話題を赤子に向ける。
日々の些細な変化、笑い声、泣き声。
そんな報告に集中していれば、二人の間に漂う空気を変えられる気がした。
だが、レギュラスはただ静かに微笑んだだけだった。
その微笑みには、言葉以上の熱がこもっていた。
最近、カサンドラの部屋を訪れているという話を聞いていた。
アランにとって、それはむしろ救いだった。
その関係が深まり、カサンドラが懐妊でもすれば、
自分が背負う罪悪感も少しは軽くなるのではないかと――そう思っていた。
そうなれば、シリウスへの思いを胸の奥にしまったまま、
この屋敷で母として、アルタイルと静かに生きていける。
「アラン……」
名前を呼ばれた瞬間、空気が張り詰めた。
その声には、確かに情の熱があった。
ぞわりと背筋に震えが走る。
恐れと混乱とが、喉の奥で絡まり合う。
「……ごめんなさい、レギュラス。」
かすれた声で告げると、レギュラスの瞳が僅かに揺れた。
「ええ、分かっています。」
穏やかにそう言って、彼は一歩引いた。
だが、次の瞬間にはまた唇が触れた。
短く、何度も。
まるで、断りの言葉など聞かなかったかのように。
アランは息を詰めた。
胸の奥に冷たい不安が広がっていく。
――本当に、これ以上のことはしないでくれるのだろうか。
アルタイルの小さな寝息が、二人の間の静寂に混じる。
その音だけが、現実をつなぎ止めていた。
アランは目を閉じ、唇を噛みしめる。
心の奥で、愛した人の名を思い浮かべながら。
この夜が、どうか長く続かないでほしい――
そんな祈りを胸に、彼女は静かに涙をこぼした。
カサンドラは、寝室の扉が閉じる音を聞いた夜から、胸の奥が燃えるように痛んでいた。
レギュラスがアランと寝室を合わせた――その事実だけで、頭の中の理性という理性がすべて焼き切れていく気がした。
彼が誰とどこで眠るかなど、夫としての権利だ。
分かっている。そう自分に言い聞かせても、胸の奥では別の何かが叫んでいた。
“あの人は私を選び始めていたはずなのに”
“あの夜のぬくもりは、偽りだったの?”
夜を重ねるごとに、レギュラスがほんの少しずつ心を開いてくれていると錯覚していた。
彼が指先で頬を撫でたあの瞬間も、名を囁かれた時も、たしかにあった微笑は、あの人なりの愛のかたちだと思っていた。
だからこそ、それを粉々に打ち砕かれた気がした。
自惚れだった。
全ては、自分が勝手に信じた幻想にすぎなかった。
いまだに訪れない懐妊の兆しが、さらに焦りを煽る。
毎月、わずかな期待を抱いては、何も変わらないままに終わる。
そのたび、鏡に映る自分の姿を睨みつけた。
なぜ、自分は選ばれないのか。
なぜ、何も生み出せないのか。
薬草の香りに満ちた寝室は、夜ごと冷たさを増していく。
レギュラスの訪れが減っていくのを、肌で感じていた。
彼の視線はすでに別の部屋――アランのいる寝室に向けられている。
その現実を突きつけられるたび、喉の奥が詰まり、息がうまくできなくなった。
「私は、何のためにこの屋敷にいるの……?」
小さく呟いた声は、壁に吸い込まれていった。
かつて誇り高く育てられたロズィエ家の娘が、今やひとつの屋敷の中でただ“必要とされない女”として存在している。
その惨めさが、全身を切り刻んでいく。
父と母の期待を背負い、純血の誇りを胸にこの家に嫁いだはずだった。
けれど現実は――
彼女の手の中にあるのは、夫の温もりではなく、冷えた孤独だけだった。
レギュラスの声が恋しかった。
彼の手が恋しかった。
愛を乞うような自分が、何よりも惨めだった。
それでもカサンドラは思う。
“もし私が懐妊できれば、全ては変わる”
子を成せば、この屋敷における自分の立場は再び確固たるものになる。
レギュラスの隣に立つ資格を、再び取り戻せる。
そう信じなければ、心が壊れてしまいそうだった。
その夜、カサンドラは薄闇の中で掌を強く握りしめた。
爪が皮膚に食い込み、赤い線が浮かぶ。
痛みを感じて、やっと少しだけ生きている心地がした。
彼の心を、取り戻さなければ――
たとえそれが、どんな手段であっても。
レギュラスの瞼の裏には、あの夜の薄闇がまだ残っていた。
寝不足というより、眠るという行為そのものを体が拒んでいるようだった。
アランは、アルタイルよりも頻繁に夜中に目を覚ました。
痛みに耐え、薬を口にする回数が増えている。
そのたびにレギュラスも一緒に起きて、背中を撫でた。
ただその細い肩に触れているだけで、彼の中の張りつめた糸が少しだけ緩む。
「共にいる」という確かな実感が、眠りよりも甘い安堵をもたらしていた。
後悔など、あるはずがなかった。
寝不足の朝も、重たい瞼の下でアランの寝息を聞く瞬間こそが、唯一心の奥を満たしてくれた。
神秘部の奥、淡い燭光の中。
古びた書棚と分厚い報告書の山に囲まれて、レギュラスは椅子に腰かけたまま微睡んでいた。
闇の帝王の影も、部下のざわめきも届かない静寂のひととき。
それを破ったのは、いつもの軽薄な声だった。
「おやおや、君が居眠りだなんて、これは雪でも降る前触れだな。」
バーテミウス。
変わらない軽やかな調子に、レギュラスの眠気は一瞬で引き剥がされた。
眉をわずかにひそめ、不機嫌を隠そうともしない。
「……なんの用でしょうか。」
「君が先日動いてくれた件さ。例のマリウス・フレイ一家惨殺事件、無事に“犯人”が上がった。
マグル出身の魔法使いらしい。神秘部も胸をなでおろしてる。」
差し出された資料を受け取り、レギュラスはぱらぱらとページをめくった。
粗末な装丁の報告書には、青年の名が記されている。
〈コリン・ファーウッド 年齢十九 ホグワーツ・マグル生まれ〉
自宅の地下室に血痕が見つかった、杖には生体反応の痕跡――
証拠は完璧すぎるほど整えられていた。
レギュラスは短く息を吐き、無造作に資料を机へ戻した。
「そうですか。片付いたようで何よりです。」
「で、寝不足の原因は?」
バーテミウスがわざとらしくニヤリとする。
「子が生まれたばかりですから。夜泣きが多くて。」
貴族の屋敷では、乳母が世話をするのが常だ。
主人が寝不足に悩まされるなど、あり得ない。
その理屈を知り尽くしているバーテミウスは、眉を大袈裟に上げて見せた。
「へぇ、そんな雑な言い訳を君がするとは。らしくない。」
レギュラスは軽くため息をついた。
この男の軽口は、昔から変わらない。
ホグワーツ時代もそうだった。
他人の秘密を嗅ぎ回り、噂を蒐集しながら、決して決定的なところまでは踏み込まない。
その絶妙な距離感を、レギュラスは嫌いではなかった。
「そういえば、ついに“セシール嬢”を妻にしたそうじゃないか。」
一瞬、時が止まった。
久しく聞かれなかったその呼び名。
アランはもう“ブラック”の名を冠している。
“セシール嬢”と呼ぶのは、かつての学友たち、ほんの数人だけだ。
「……ええ、まあ。」
「正妻より先に男児を産ませるとは、大したやり手だ。」
あけすけな物言いに、レギュラスの喉の奥で小さな笑いが漏れた。
バーテミウスは軽く肩をすくめ、満足げに椅子の背にもたれかかる。
「君が昔、ホグワーツ特急の中で語っていた夢――
“セシールを妻にして、ブラック家を変える”って、あれを覚えてるよ。」
懐かしい記憶が蘇る。
夜更けのホグワーツ特急の個室、二人で窓の外の雨を見ながら語り合った野望。
若かった。無謀だった。
だが、それでも今の自分を形づくっているのは、あの頃の願いだ。
「……後悔はしていません。」
「でしょうね」
バーテミウスはからかうように笑った。
その軽薄な笑みの奥に、ほんのわずかな敬意の色が見えた気がした。
神秘部の地下で、蝋燭がゆらりと揺れる。
その光が、レギュラスの頬を照らし、微かな疲労と誇りを同時に浮かび上がらせた。
「さて、もう少し眠っておけばよかったですね。」
「いや、君に“隙”があるなんて、貴族たちの間で噂になりそうだ。」
軽口を残して去っていくバーテミウスの背を見送りながら、
レギュラスはふと微笑んだ。
――人は皆、誰かの前では眠るふりをする。
それが赦される相手がいることは、案外悪くない。
闇の帝王の前に立つとき、レギュラス・ブラックの瞳は、いつもの冷ややかな灰色に静かな炎を宿していた。
マリウス・フレイ一家惨殺事件。
魔法界を騒がせたこの凄惨な事件の背後に、闇の魔法使いたちの影があると噂されていた。
だが――その“影”を完全に消し去ったのは、他でもないレギュラス自身だった。
彼は綿密に、完璧な嘘を構築した。
それは真実よりも整然として美しく、信じるしかないほどに緻密だった。
魔法省の報告書には、若きマグル生まれの魔法使い、〈コリン・ファーウッド〉の名が記されている。
彼の杖からは《アバダ・ケダブラ》の痕跡が検出され、家屋の地下室からは乾いた血痕。
さらに決定的だったのは、彼がマリウス・フレイの娘に恋慕していたという噂。
叶わぬ愛に心を病み、嫉妬の末に一家を殺した――という、誰もが納得する“動機”が丁寧に付け足されていた。
動機、証拠、背景。
すべてが完璧に揃っている。
どれ一つとして綻びのないその報告書は、まるで“真実”の皮を被った芸術作品のようだった。
闇の帝王は深く満足げに頷き、レギュラスに信頼の印として新たな任務を託した。
この若き貴公子が、帝王の忠実なる右腕であることを、魔法界の誰もが改めて知ることとなる。
そんな彼の姿を、バーテミウス・クラウチJr.は楽しげに眺めていた。
彼にとってレギュラス・ブラックという存在は、完璧という言葉そのものだった。
才知、冷徹、計画性――どれを取っても非の打ちどころがない。
だが同時に、バーテミウスは知っている。
この完璧な男の唯一の“ほころび”を。
それは――アラン・セシール。
彼女の名前を聞くたび、バーテミウスの口角は自然と上がった。
「やっと、夢を叶えたな」と思う。
かつてホグワーツの談話室で、レギュラスは何度も語っていた。
“いつかアラン・セシールをブラック家の妻に迎える。
使用人の娘でも、彼女でなければならない”
その夢が、今、現実になった。
ただし、その代償はあまりに大きい。
格式高いブラック家に、使用人の娘を副妃として迎え入れるなど、常識では到底あり得ないことだった。
だが彼はそれをやってのけた。
しかも、男児まで産ませて。
「まったく、やり手だよな。油断も隙もない。」
バーテミウスはひとりごちて笑った。
同時に、胸の奥に冷たいものがざらりと走る。
完璧な男ほど、崩れる瞬間は壮絶だ。
その引き金がアランであることを、バーテミウスは本能的に理解していた。
そして彼女――アラン・セシールの血筋。
それを思うと、笑いと共に薄ら寒さも覚えた。
アランの母、リシェル・ブラウン。
かつて王宮を混乱に陥れた“悪魔の女”。
その美しさは、罪だった。
ひとりの国王を狂わせ、国を滅ぼしかけた。
彼女の名は、いまも魔法史の中で“魅惑の呪い”と並んで語られている。
そしてその血を継ぐ娘――アラン。
リシェルのように、また男を狂わせるのだろうか。
バーテミウスはそう考えずにはいられなかった。
闇の帝王さえ欺き、国家の裁きを捻じ曲げ、完璧に生きるレギュラス・ブラック。
だが、その完璧さを最も乱すのは、誰でもない。
“リシェルの娘”であり、“レギュラスの愛した女”――アラン・セシール・ブラック。
王を惑わせた女の血が、今また貴族の屋敷で蠢いている。
歴史は、静かに同じ悲劇を繰り返そうとしていた。
闇の印が燻る夜空の下、古の石造りの屋敷には黒衣の者たちが集っていた。
長い円卓の中央にはヴォルデモート卿が座し、その蛇のような瞳が一人ひとりを静かに見渡している。
空気は粘つくように重く、沈黙の中に狂信と緊張が混ざり合っていた。
レギュラス・ブラックは、その中心からわずかに離れた位置に立っていた。
漆黒のローブの襟元を正し、完璧に無駄のない所作で一礼する。
その姿は貴族としての品位を保ちながらも、デスイーターとしての忠誠を示すものだった。
「お前は実に見事な働きをした。」
冷ややかな声が、広間の奥から響く。
ヴォルデモートの瞳が、蛇の舌のようにレギュラスを絡め取る。
「マリウス・フレイの件――あの混乱をここまで整然と片付けた者など、他におらぬ。
お前ほど頭の切れるやつは、そうはいない。」
レギュラスは深く頭を下げた。
「勿体ないお言葉です、我が主。」
声は落ち着き払っていたが、胸の奥で小さな鼓動が早まっているのを感じていた。
この場で称賛されることは、誇りであると同時に、鎖をより深く締められることでもある。
だが、それでもよかった。
アランとアルタイルの未来を守るためなら、どんな汚泥にも膝を沈める覚悟はある。
レギュラスはわずかに瞳を伏せ、その闇に決意を沈めた。
やがて、集会は終わりを迎えた。
次々に消える姿の中、レギュラスが外へ出ようとしたその時――背後から鋭い声が響いた。
「まぁ、見違えたわね。いつもシリウスの影のように後ろを歩いていた坊やが、こんなにも立派になって。」
その声に振り返ると、ベラトリックス・レストレンジが立っていた。
黒曜石のように艶めく髪が揺れ、狂気と誇りを帯びた笑みがその唇に浮かんでいる。
「お久しぶりです、ベラトリックス。」
レギュラスは静かに一礼した。
「聞いたわよ。使用人の女を妻にしたんですって?」
声は甘く、しかしその奥に毒が混じっていた。
予想していた問いだった。
この女は無駄に絡んではこない。
いつも、釘を刺すためだけに現れる。
レギュラスは表情ひとつ変えず、頭を垂れる。
「はい。」
肯定の意を込めたその一言に、ベラトリックスの唇がわずかに吊り上がった。
「ふふ……あんまりブラックの名に傷をつけるようなことはしないことね。」
その声音には、親族としての忠告と、貴族としての侮蔑とが綯い交ぜになっていた。
レギュラスは視線を落としたまま答える。
「心しておきます。」
その瞬間、どこかで蛇が這うような風が吹き抜けた。
ベラトリックスの瞳が、わずかに愉悦に揺れる。
彼女は満足げにレギュラスの肩を軽く叩き、闇に溶けるように去っていった。
石畳を歩きながら、レギュラスはふと空を見上げた。
闇の印がまだ空に残っている。
血と誓いの匂いが混じる夜気の中、胸の奥がひどく冷たかった。
使用人の女。
そう呼ばれるたびに、アランの笑顔が心に浮かぶ。
彼女のかすかな息遣い、眠りの中で小さく動く指先。
その一つひとつが、名誉や血統よりもはるかに重いものに思えた。
ベラトリックスの言葉が耳の奥に残る。
「名に傷をつけるな」――
ならば、自らの手でその“名”を変えてみせよう。
そう心の奥で、誰にも聞こえぬように呟いた。
そして彼は、闇の印を背にして、ゆっくりと夜の中へと歩み出した。
柔らかな午後の光が、屋敷の庭に満ちていた。
アランはゆっくりと歩いていた。
腕の中にはアルタイル。小さな体は彼女の鼓動と同じリズムで呼吸をしている。
まだ体の痛みは完全には癒えていなかった。
歩くたびに下腹部に鈍い痛みが走り、筋肉が張る。
それでも、こうして歩かねばならないと自分に言い聞かせていた。
――動けば回復は早まる。医務魔女がそう言ったから。
けれど本当の理由は、それだけではなかった。
部屋の中にじっと閉じこもっていると、心が腐ってしまいそうだった。
広い屋敷の中には、彼女の存在を疎ましく思う者もいる。
だからアランは、できるだけ人の目を避けて歩く道を選んだ。
裏庭、東棟の廊下、温室の裏。
昔から彼女が掃除を任されていた場所ばかり。
どこも懐かしく、そして少しだけ切なかった。
アルタイルの小さな手が彼女の服を掴んだ。
「アルタイル……」
名を呼ぶ声は自然と優しくなる。
シリウスと同じ灰銀の瞳が、自分を見上げてくる。
その視線に、胸の奥のどこかがじんわりと温かくなる。
「あなたはどんな未来を生きるのでしょうね。」
アランは囁くように呟いた。
「きっと、太陽のような少年になるわ。あなたの父親のように……」
シリウス。
彼の名を心の中で呼ぶだけで、胸が疼く。
あの自由で、まっすぐで、誰よりも明るい笑顔。
彼は常に“空”を見ていた。どんな時も縛られず、枷を嫌い、自由を求めて生きていた。
アルタイルも、そんな強さを持つ子に育ってほしい。
どんな世界でも、自らの手で未来を切り開くことのできる子に。
愛する人が選んだ生き方を、この子にも継がせてやりたい。
アランはそっと額をアルタイルの頬に寄せた。
この小さな命の中に、確かにシリウスの温もりが生きている。
腕の中で息をするたびに、愛した人の面影が甦る。
――まるで、彼が自分の腕の中に帰ってきたようだった。
「いつか……あなたに話せる日が来るかしら。
本当の父のことを。
そして、あなたをどれほど愛していたかを。」
その瞬間、胸の奥が締めつけられた。
話すことの叶わない未来を思うのは、拷問のようだった。
けれど、願わずにはいられなかった。
ほんの一瞬でもいい。
シリウスに、アルタイルを抱かせてあげたい。
二人が、父と子として触れ合う姿を――自分の目で見てみたい。
「アラン。」
背後から静かな声がした。
振り返ると、レギュラスが立っていた。
深緑のローブを羽織り、いつものように穏やかだが、どこか表情に疲労の影が見える。
「出歩いて平気ですか?」
「ええ。少しは動かないと、筋力が落ちてしまうと医務魔女が言っていました。」
「無理は禁物です。」
その声に、アランは微笑んで頷いた。
レギュラスがそっと手を伸ばし、アルタイルを抱き取る。
彼の動きは自然で、迷いがなかった。
まるで、もう長い間父親をしてきたかのように慣れた手つきだった。
けれど――アランの胸の奥に、痛みが走った。
腕の中から離れていく息子の体温が、風のように消えていく。
その瞬間、何かを失ってしまったような気がした。
“離さないで。”
そう叫びたかった。
だが、唇は動かず、声も出なかった。
シリウスの手を取れなかったあの日が、脳裏に焼き戻る。
あの時の後悔が、今も心に巣くっている。
だからこそ――
今度こそ、アルタイルの手だけは離さない。
この子の未来を、絶対に奪わせはしない。
たとえ自分の命がどうなろうとも。
レギュラスの腕に抱かれ、安心しきったように眠るアルタイルを見つめながら、
アランはそっと拳を握りしめた。
その指先が白くなるほど、強く。
光が差し込む庭の中、母の微笑みは、涙の匂いを含んでいた。
朝の光がゆるやかに差し込む回廊を、レギュラスは静かに歩いていた。
腕の中にはアルタイル。
その小さな体の温もりが、彼の胸に確かな命の感触を残していた。
思っていたよりもずっと自然に――いや、驚くほどに穏やかに、彼はこの子を受け入れていた。
初めて抱き上げた時、恐れや違和感があると思っていた。
だが実際は違った。
生まれたばかりのその掌の小ささ、無垢な瞳の深さに触れた瞬間、心のどこかが柔らかくほどけていくのを感じたのだ。
「……アルタイル。」
名を呼ぶ声が、思わず優しさを帯びた。
自分でも信じられないほど、自然に。
なぜこれほどまでに、この子を愛おしく感じるのか。
理由は分からなかった。
アランが命を懸けて産み落とした子だからだろうか。
それとも――この子がいたからこそ、アランをこの屋敷に繋ぎ止めておけたからだろうか。
愛とは、こんなにも複雑なものだったのか。
それが“理由ある愛”なのか、“無償の想い”なのかさえ、今のレギュラスには判然としなかった。
しかし、アルタイルの瞳を見つめていると、そんな理屈などどうでもよくなってしまう。
その灰色の瞳――。
それは、かつて兄シリウスが持っていた色。
だが、同時に、鏡のように自分と同じ色でもあった。
その事実に、レギュラスは時折、ほっと胸をなでおろす。
シリウスの影を見ているようでいて、それでいて自分の血の継承をも錯覚させる色。
この子を抱いていると、まるでアランと自分の血を分けて生まれた子のような錯覚に陥るのだ。
「アルタイル――あなたはブラック家の希望です。」
小さく囁いた声が、静かな回廊に吸い込まれていく。
アランが振り返った。
彼女の顔はまだどこか青白く、疲れの色を残しているが、それでも穏やかな笑みがあった。
その笑みを見るたびに、レギュラスの心の奥に満ちていくものがある。
それが幸福なのか、贖罪なのか、自分でも判断がつかない。
アルタイルを抱いたまま、彼はアランの隣を歩いた。
柔らかな風が二人の間を通り抜け、アランの髪を揺らす。
レギュラスはふと、その横顔を盗み見る。
こうして並んで歩く時間――それは、彼がかつて幾度も夢に描いた構図だった。
“家族”というものを、彼はどこか遠い幻のようにしか思っていなかった。
だが今、この瞬間、確かにそれが形になっている。
アランの隣を歩き、腕の中に息づくアルタイルを抱いている――それだけで十分だった。
もはや、アルタイルがシリウスとの子である事実などどうでもよかった。
過去など、いくらでも書き換えられる。
真実など、語り方ひとつで形を変えるものだ。
この世界で、アランとアルタイルと共に生きているのは自分であり、
これから先もアランの隣に立つのは自分だ。
アルタイルを導き、守り、育て上げるのも――間違いなく、自分だ。
それがたとえ嘘であっても構わない。
信じ続ければ、それはやがて“現実”になる。
レギュラスは歩みを止め、そっとアルタイルの頬に唇を寄せた。
その瞬間、腕の中の小さな命が微かに動いた。
その重みが、心の奥に沁み渡っていく。
アランが横にいる。
アルタイルが胸の中にいる。
――この二人こそが、自分の世界そのものだった。
どこまでも穏やかで、どこまでも危うい幸福の只中で、
レギュラスは静かに、己の幻を現実だと信じ込もうとしていた。
銀の食器が光を返す。
長いテーブルの上には温かな湯気を立てるスープと、香ばしいパン、そして果実酒の瓶。
いつもならアランはその支度を整える側にいた。
だが今朝は違う。
彼女の前には、白磁の皿と金縁のカップが置かれていた。
ブラック家の人間と肩を並べて座る。
その現実をまだ受け入れられずにいた。
アランは慎ましく姿勢を正し、緊張にこわばった手を膝の上で組む。
使用人だった身が、この食卓の一角に座るなど――あり得ないことだった。
息をひそめるたびに、周囲の空気が肌に刺さるように冷たく感じられた。
向かいの席ではヴァルブルガがナイフを静かに動かしている。
何も言わない。
だがその沈黙の奥に、確かな棘がある。
視線が刺すように痛い。
それだけで喉の奥が焼けるように苦しかった。
隣ではレギュラスが、まるで何事もないように穏やかにスープを口にしている。
彼の中では、この光景こそ“当然の形”なのだろう。
その余裕の笑みが、アランにはどこか遠い。
「アルタイル、泣きませんね。いい子です。」
レギュラスの声が柔らかく響いた。
アランの隣、乳母の腕の中で揺られているアルタイルは上機嫌に指を動かしていた。
小さな笑みが浮かぶ。
その姿に、ほんの少しだけ心が和らぐ。
「お前もあまり泣かない子だった。」
オリオンがふと、懐かしむように呟いた。
その言葉に、アランの背筋がぴんと伸びる。
――アルタイルはレギュラスに似ている。
そう言われたような気がして、どきりと胸が鳴った。
露呈してはいけない真実が、ほんのわずかでも表に出てしまうような気がして怖かった。
「ええ、僕に似るのは当然です。」
レギュラスが穏やかに返す。
その言葉の裏に、どれほどの祈りと偽りが潜んでいるのかを、アランだけが知っていた。
「似なくていいところまで似ないことを祈りますわ。」
ヴァルブルガが、葡萄の皮を器用に剥きながら冷ややかに言う。
その声は穏やかだが、どこか毒を含んでいた。
アランは笑うこともできず、ただ静かに視線を落とした。
その時だった。
カサンドラが、音を立てずに匙を置いた。
まるで一枚の幕が張り替わるように、食卓の空気が変わる。
「みなさま……ご報告がございます。」
かすかに震える声。
しかし、その瞳の奥には自信が宿っていた。
「どうした。」とオリオン。
「おめでとうございます、レギュラス様。……身ごもりました。」
その一言で、静寂が崩れた。
「本当ですか?」とレギュラスが驚きを隠せずに尋ねる。
「ええ、本当です。」とカサンドラはしっかりと頷いた。
ヴァルブルガの口元に、ゆっくりと笑みが広がる。
オリオンも深く頷き、満足げに息をついた。
「よくやった、カサンドラ。」
屋敷の重い空気が一瞬にして華やいでいく。
期待、誇り、そして安堵――。
家の未来を担う新たな命。
彼らにとって、それは祝福以外の何ものでもなかった。
アランは小さく頭を下げる。
「おめでとうございます、カサンドラ様。」
声が震えた。
けれど、それは嫉妬のせいではなかった。
むしろ胸の奥で、静かな安堵が広がっていた。
――これで、レギュラスの心が少しでもカサンドラとその子へ向かうのなら。
自分の存在に向けられていた愛情の重さが薄れてくれるのなら。
きっと、この息苦しさから少しは解放される。
そう思うと、肩の力がふっと抜けた。
アルタイルの小さな指が乳母の胸元をつかむ。
アランはその姿を見つめながら、胸の内でそっと願った。
どうか――この屋敷の中で、静かに生きられるように。
そして、あなたとの時間だけは、誰にも奪われませんように。
その祈りは、湯気のように消えていった。
祝福の笑い声が響く食卓の中で、アランだけがひとり、
淡く孤独な微笑みを浮かべていた。
朝靄が薄く漂う中、カサンドラは寝台の上で身を起こした。
胸の奥がふわりと熱く、指先まで幸福の余韻が満ちていた。
――命を授かった。
その事実が、夢のように信じられなかった。
「ついに……」
そっと掌を下腹部にあてる。
まだ膨らみなどない。けれど、その下に確かに小さな命がある。
それを思うだけで、頬が熱くなった。
天にも昇るような気持ちだった。
昨日、朝食の席で告げた瞬間の光景が脳裏に浮かぶ。
レギュラスの驚いた表情。
あの常に冷静で、何を言われても動じぬ男が、ほんの一瞬見せた素の顔。
それを思い出すだけで胸が高鳴った。
オリオンの力強い言葉。
ヴァルブルガの、めずらしく柔らかい笑み。
どれもが、自分という存在を認め、称え、尊重してくれた。
長い間、ロズィエ家の娘として背負ってきた誇りが、ようやく報われたのだ。
「私は……やっと、正妻としての役目を果たせた。」
カサンドラは静かに呟きながら、腹を撫でる。
その動きには、祈りにも似た必死さがこもっていた。
――男児を。どうか、男児を。
この家では、血筋を継ぐ者は常に男でなければならない。
女児では、アランブラックの息子アルタイルに勝てない。
だからこそ、祈りは深く、願いは鋭くなる。
撫でる手のひらにこもる想いは、母性というよりも焦燥に近かった。
少しずつ、アランを超えられる――そんな実感が生まれていく。
これまでどれほどの屈辱を飲み込んできただろう。
自分が正妻でありながら、レギュラスの隣にはいつもアランアランがいた。
けれど、今は違う。
この腹の中に宿る命こそが、彼女よりも上に立つ資格を与えてくれる。
数日後、カサンドラのもとへ次々と贈り物が届いた。
すべてレギュラスからのものだという。
上質なラベンダーとカモミールをブレンドしたハーブティー。
香りのよいベルガモットオイルとサンダルウッドの香油。
吐き気を抑えるための薬草が練り込まれた練香。
そして、上等な絹のショールと、柔らかい羽毛のクッション。
どれもが「気遣い」を形にしたものだった。
けれど、肝心のレギュラス本人が彼女の部屋を訪れることはなかった。
贈り物は多いのに、彼は遠い。
それが、何よりも胸を刺した。
「……私が欲しいのは、ものではなく、あなたなのに。」
夜更け、ランプの光がカサンドラの頬を淡く照らしていた。
贈られたオイルの香りが部屋に満ちている。
指先に香油を少しとり、手の甲にすり込む。
その温もりが、まるでレギュラスの手のように錯覚できれば――。
そんな幻想を抱く自分が惨めで、唇を噛んだ。
一方で、彼は帰宅するたびにアランとアルタイルの部屋へ直行する。
その事実を、使用人たちの小さな噂話で知るたび、胸の奥にざらりとした痛みが走った。
アランは病後でまだ弱っている。
だから気遣うのは当然。
そう言い聞かせても、納得できるものではなかった。
誇らしさと切なさ――そのふたつが、日ごとに胸の中でせめぎ合う。
それでも、カサンドラは諦めなかった。
もし、この身に宿る子が男児であるなら。
アルタイルがブラック家を継ぐのではなく、
自分の子こそが“正統な後継者”となる。
そのときこそ、屋敷のすべては自分の掌中に落ちる。
レギュラスの愛が手に入らないのなら、
この家のすべて――名声も、富も、権力も――
ロズィエ家の血で塗り替えてしまえばいい。
静かに息を吐く。
その瞳に宿る光は、祈りではなく決意だった。
夜風がカーテンを揺らし、蝋燭の火が小さく揺れる。
その炎のように、カサンドラの心も揺らめいていた。
愛と野望。
女としての幸福と、母としての闘争。
すべてを手に入れるために――
カサンドラは再び、まだ平らな腹を撫でた。
まるでそこに、未来そのものが眠っているかのように。
レギュラスは、アランの予想に反してカサンドラのもとへ向かうことはなかった。
あれほどの吉報を聞いたのだから、彼がしばらくは正妻のもとで過ごすのだろうと、アランは思っていた。
けれど、実際には違った。
日ごと、レギュラスは屋敷に戻ると真っ先にアルタイルのもとへ行く。
まだ小さな首が少しずつしっかりしてきたその子を、慎重に抱き上げてはベッドの上であやしてやるのだ。
彼の膝の上で、アルタイルはころころと笑い声を立てる。
その音が屋敷の廊下にまで響き、どこまでも柔らかく、幸福の象徴のように感じられた。
それは、誰が見ても温かい光景だった。
父と子。
血のつながりを知らぬまま、二人は確かに絆を結んでいる。
だが、アランには――胸が苦しかった。
その光景の中にあるべき人は、レギュラスではなく、シリウスだった。
腕の中で笑うアルタイルの表情が、時折、彼に似て見える。
そのたびに、かつて置き去りにしたはずの思いが、往生際悪く蘇ってくる。
忘れたつもりでいた。諦めたつもりでいた。
けれど、心は未だに、彼を探してしまう。
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