3章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
赤子の泣き声が響いた。
それは、長く続いた戦いの終わりを告げるような、かすかで確かな産声だった。
その瞬間、アランの全身から一気に力が抜けた。
まるで張りつめていた糸がぷつりと切れたように、胸の奥まで脱力が広がっていく。
「旦那様、男の子でございます。おめでとうございます。」
助産魔女の声が響いた。
その言葉が遠くに聞こえた。
耳の奥に届いているのに、現実感がなかった。
――男の子。
生まれたのだ。
アランは必死にまぶたを開けようとした。
どんな子なのだろう。
一目でいい、見たかった。
彼の瞳はシリウスと同じ色をしているのだろうか。
それとも、自分と同じ翡翠色なのだろうか。
髪の色は、声は、息づかいは――。
愛した人の面影を、どこに宿しているのだろう。
「見せて……」
唇が震える。
けれど声にはならなかった。
喉が焼けついたように動かず、息だけが空を掻いた。
助産魔女は赤子をタオルでくるみ、手際よく抱き上げる。
温もりを残したまま、アランの傍を通り過ぎていった。
「待って……お願い、会わせて……」
心で叫んだ。
けれどその声は届かない。
扉が閉じる音だけが、静寂の中に響いた。
すぐに別の声がした。
「血が止まりません!」
慌ただしい足音。
魔法具が床に落ちて転がる音。
布の擦れる音と、焦りを押し殺した低い呪文の詠唱が重なった。
アランは、股の間を忙しなく動き回る医務魔女たちの気配を感じていた。
だが、もう自分の体は思うように動かない。
腕も足も鉛のように重く、何一つ力が入らなかった。
ただ、冷たくなっていく感覚だけが確かにあった。
「アラン、よくやりました。」
レギュラスの声が震えていた。
彼の言葉は確かに優しく、必死で、どこまでも真摯だった。
けれど、その声すらもう遠く霞んでいく。
耳の奥で、水の底から響いてくるようにぼやけていく。
――レギュラス、あなたは優しい。
そう思いながらも、アランの心に残っていたのは、
この世界にたった一つ残した“絆”が、
自分の手の届かないところへ運ばれていくという事実だった。
シリウスとの唯一の繋がり。
ふたりの永遠を形にした、たったひとつの命。
その子が今、見知らぬ誰かの腕に抱かれ、
この胸を離れていく。
その瞬間、世界が崩れていくようだった。
――どうかあの子を守って。
――どうか、誰かが愛してくれますように。
そう祈りながら、アランは静かに目を閉じた。
心の奥では、まだ赤子の泣き声が響いていた。
けれど、その音はもう遠く、
どこか別の世界へと連れていかれてしまったようだった。
広間に響いた赤子の泣き声は、屋敷全体を震わせるように澄み切っていた。
その小さな命の声を耳にした瞬間、オリオンは椅子を蹴るようにして立ち上がった。
白銀の髪が揺れ、深い皺の刻まれた顔に一瞬で血が通う。
老いた当主の瞳には、長年失われていた輝きが宿っていた。
「男の子でございます!」
助産魔女が息を弾ませながら報告する。
腕の中の布の包みが、かすかに蠢いた。
「……ほんとうか。」
低く呟いたオリオンの声は、歓喜と信じ難さとが入り混じっていた。
「はい、旦那様。まごうことなき男児でございます。」
沈黙。
その一瞬、時間が止まったようだった。
そして次の瞬間、オリオンの喉の奥から笑いが漏れた。
それはいつ以来の笑いだったか、誰も思い出せないほどに久しく聞いていなかった音だった。
「ついに……ついに、我が家の血を継ぐ者が。」
オリオンは歩み寄り、助産魔女の腕から赤子を受け取った。
恐る恐る、しかし確かに抱き寄せる。
薄い布越しに伝わる、小さくも確かな温もり。
その命の重みが、老いた腕にずしりと沁みた。
赤子は泣くのをやめ、静かに瞬きをした。
その瞳――
深い灰色。
夜明け前の空のような、静謐で深淵な色。
ブラック家の者にのみ流れる、特有の血の証。
「……ああ、間違いない。この子は我が家の血を引いている。」
オリオンの声は震えていた。
彼はゆっくりと顔を寄せ、額に口づけを落とす。
「強くあれ。何があろうとも、誇り高く生きよ。」
隣にいたヴァルブルガが、静かに頷いた。
その目には、冷たい光と誇りが宿っている。
「立派に育つわ。この子はきっと、ブラック家を継ぐ器になる。」
オリオンの胸に抱かれた赤子が、かすかに手を動かした。
その小さな指先を見た瞬間、オリオンは目頭を押さえる。
長く閉ざされていた心の奥が、ほんの一瞬だけ柔らかくほどけた。
「アランセシール……」
低く、名を呼ぶ。
リシェル・ブラウンの面影を持つあの娘。
ロイクの娘でありながら、長年この屋敷に仕え、決して驕ることのなかった女。
思い返せば、初めてロイクが屋敷に連れてきたときの、まだ幼い少女の姿が脳裏をよぎる。
あの小さな背に、今は新しい命を宿し、こうしてブラック家に血を残したのだ。
――女として、母として、これほどまでに尽くした者が他にいただろうか。
「大した女だった。」
オリオンは誰に言うでもなく呟いた。
ロイクの妻に欲しいと望んだリシェル・ブラウンに似た、あの目と輪郭。
品があり、しなやかで、どこまでも強い。
その娘が今、我が家に新たな世代をもたらした。
レギュラスが夢中になるのも無理はない――
そう思うと、微かな笑みが唇に浮かんだ。
「アランセシールには、褒美を与えねばなるまい。」
オリオンの声には、支配者としての威厳と同時に、珍しく温かみが滲んでいた。
「彼女の尽くしに、報いを与えるのが我が責務だ。」
広間には、赤子のかすかな寝息と、燭台の炎が揺らめく音だけが残った。
新しい命が、その場の空気すら変えていく。
それはまるで――
長く続いた冬の闇に、一筋の光が差し込んだような、そんな夜明けの兆しだった。
レギュラスは医務魔女の前に立っていた。
白い光が差し込む病室の中、薬品の匂いが淡く漂う。
どれほどの時間が経ったのかも分からない。
ただ、耳に届く魔女の説明を、彼はまるで遠い世界の出来事のように聞いていた。
「出血の量が非常に多く、母体の体力が限界に近い状態でした。
赤子が産道を通る際に、膣の組織が深く裂けてしまい……損傷が激しかったのです。
止血は施しましたが、完全な回復にはかなりの時間を要します。
おそらく、次のご懐妊は――難しいかと。」
医務魔女の言葉が、刃のようにひとつひとつ胸に刺さっていく。
“次の妊娠は難しい”
それは単なる医学的な報告ではなく、アランという女性の未来を閉ざすような響きに聞こえた。
「……わかりました。」
声がかすれる。
言葉を発するたびに、胸の奥で何かが軋む。
「とにかく……」
レギュラスはゆっくりと息を吐いた。
「痛みを……できる限り、感じさせないであげてください。お願いします。」
医務魔女が静かに頷き、魔法薬を調合する音だけが部屋に響いた。
レギュラスはその場に留まり、寝台に横たわるアランの傍へ歩み寄った。
白いシーツの上に横たわる彼女の顔は、まるで蝋細工のように青白かった。
額には汗が滲み、長いまつ毛の影が頬にかかっている。
かすかに上下する胸元が、生きている証だった。
「アラン……」
呼びかけながら、彼はその髪をそっと撫でた。
柔らかな黒髪が、指の間を静かにすり抜けていく。
あの小さな体で、命を生み出したのだ。
幾度も死にかけながら、己の全てをかけて。
彼女は奇跡を成し遂げた――そう思うと、胸の奥が締め付けられた。
「本当に……よく頑張りましたね。」
レギュラスはそう言って、アランの額に口づけを落とした。
返事はなかった。
けれど、彼女の指先がわずかに動いた気がして、息を詰める。
父のオリオンも、母のヴァルブルガも、広間では今ごろ歓喜の渦に包まれているだろう。
この屋敷に新しい命――男児が生まれたのだ。
ブラック家にとって、それは誇りと繁栄の象徴だった。
だが、レギュラスにとっては、それよりもただ一つの事実が重かった。
この子が、アランの命を削って生まれたということ。
光に照らされる彼女の横顔は、穏やかで、痛々しく、そしてどこまでも美しかった。
レギュラスは膝をつき、額をベッドの縁に押し当てた。
「アラン……どうか……どうか戻ってきてください。」
声が震え、言葉の最後が涙に溶けた。
その祈りは静かな部屋の中で、ただ彼女の眠る胸の上を漂うように消えていった。
広間の扉を押し開けた瞬間、眩しいほどの光が差し込んだ。
その光の中心にいたのは、オリオンとヴァルブルガ――そして、腕の中に小さな包みを抱いた助産魔女だった。
赤子の泣き声はすでに止み、広間の空気には安堵と興奮が入り混じっていた。
「レギュラス、よくやった。」
父の声が響く。
誇らしげな笑みを浮かべたオリオンが、腕に抱いた赤子の包みをそっと差し出してきた。
レギュラスは小さく礼をして、両手でその命を受け取る。
その瞬間、包みの中から伝わる温もりと重みが、静かに胸の奥へと沈んでいく。
初めての対面だった。
小さな顔を覗き込むと、灰色の瞳がゆっくりと開かれ、真っすぐに彼を見つめ返してくる。
――その色。
それは、まぎれもなくブラック家の血の証。
けれど同時に、あの男――シリウスの瞳でもあった。
ぞくりと背筋に冷たいものが走る。
血の繋がりの真実が、何よりも雄弁に告げられているようで、胸が締め付けられた。
それでも、誰にも告げはしない。
この事実は墓場まで持っていく。
この子は、レギュラス・ブラックの息子として――堂々と育て上げるのだ。
「アランセシールを正式に副妃に添えよ。」
オリオンの声が、重々しく広間に響いた。
「この家に男児をもたらした。赤子のためにも、ブラック家の名を与えるべきだ。」
その言葉を聞いた瞬間、レギュラスの胸の奥で何かが音を立てた。
長い年月、夢のように描き続けてきた瞬間が、ついに訪れたのだ。
「……はい、父上。」
穏やかに微笑む。
唇の端がわずかに震えていた。
この屋敷の中で、アランを正式に“妻”と呼べる未来を、どれほど待ち望んでいたことだろう。
シリウスの子を孕んでいると知ったときの、あの屈辱と狂おしいほどの苦しみは消えはしない。
それでも――今この瞬間だけは、全てが報われた気がした。
愛した女が、正式にこの屋敷の“妻”として名を刻む。
それだけで、これまでの闇が少しだけ遠のいた。
「あなた、あの子は使用人の出なのですよ。」
ヴァルブルガの冷たい声が空気を裂いた。
香水の匂いが広間に漂い、氷のような視線が息子を射抜く。
「承知の上だ。」とオリオンが答えた。
「だが――この家に男児をもたらした。この偉業を、どう評価すれば妥当か。」
母の口が、そこで閉じられる。
長年、オリオンに逆らうことを知らない女の沈黙。
広間の空気が凍りつくような静寂に包まれた。
燭台の炎がかすかに揺れ、赤子の小さな寝息が響く。
その音だけが、この瞬間の現実を確かにしていた。
オリオンは威厳ある声で告げる。
「本日をもって、アランセシールを正式に副妃として迎える。
その名をアラン・ブラックと改め、家系図に記すことを許可する。」
広間の空気が動いた。
魔法で封じられていた古い羊皮紙が、ふわりと宙に舞い上がる。
そこに金色の羽ペンが滑り込み、新たな名が刻まれた。
レギュラスは赤子を抱いたまま、その光景を見つめていた。
胸が熱くなり、言葉が出なかった。
アランがこの家に生きることを許された。
愛した女が、ついに“ブラック”の名を得た。
――これは、幸福のはじまりなのか、それとも終焉の予兆なのか。
赤子の小さな指が、レギュラスの指をぎゅっと掴んだ。
その温もりだけが、彼を現実に引き戻していた。
胸の奥に込み上げるものを押し殺しながら、彼は静かに誓う。
「この命も、この名も、必ず守り抜きます。」
それが、彼に残された唯一の救いのように思えた。
広間には祝福のざわめきが満ちていた。
燭台の炎が揺らめき、赤子の産声が遠くに微かに響いていた。
カサンドラはその光景の中で、ただ立ち尽くしていた。
――アラン・セシールに、ブラックの名が与えられた。
その瞬間、胸の奥で何かが砕ける音がした。
それは痛みとも悲鳴ともつかぬ音で、体の奥深くから響いてくる。
「副妃として迎える」「アラン・ブラックとして記す」――その言葉が、何度も何度も頭の中で反響した。
信じられなかった。
薬を使ったのに、なぜ。
量が足りなかったのか、それとも、彼女は――本当に運命に守られているのか。
どちらにしても、自分は見放されたのだと悟った。
祝福の声が上がる。
オリオンは誇らしげに笑い、ヴァルブルガでさえ静かに頷いている。
そんな中、レギュラスが赤子を抱いていた。
その姿はまるで聖母の像を抱く聖人のようで、穏やかで、満ち足りて見えた。
――ああ、あんな顔をするのね。
胸の奥が焼ける。
あれほど冷たく、誇り高く、決して誰にも心を見せなかった男が。
今、あの女とその子を見つめながら、あんなにも優しく笑っている。
「おめでとうございます、レギュラス様。」
自分の声が震えているのが分かった。
なんとか微笑んでみせる。
レギュラスは一瞬こちらを見て、静かに頷いた。
「ありがとうございます、カサンドラ。」
その声音はいつもと変わらない。
けれど、そこにあの日、床で震える彼の姿を抱きしめた夜の温度はもうなかった。
たった数時間前まで、自分の腕の中で崩れ落ちていたというのに――
今の彼は、まるで別の世界にいるようだった。
その距離が恐ろしく遠く感じた。
どれだけ呼んでも、もう届かない場所にいる。
あの人の“隣”は、もう永遠にアランのものなのだと痛感した。
レギュラスの腕の中で眠る赤子を見つめることができなかった。
自分がその命の死を願った。
その小さな息が止まるように祈った。
そんな自分を、まともな人間だと思いたくても思えなかった。
――自分は、もう完全に壊れてしまったのだ。
アランは死ななかった。
赤子も生きている。
そして彼女は“アラン・ブラック”となった。
全ての計画は崩れ去った。
努力も、祈りも、涙も、何ひとつ報われない。
それでもレギュラスは幸福そうに微笑んでいる。
「……お似合いですわね。」
誰にも聞こえない声で、カサンドラは呟いた。
それは嫉妬の言葉でもあり、愛の終焉を告げる鎮魂でもあった。
遠くで、赤子の泣き声が再び上がる。
その声が、彼女の胸に突き刺さる刃のように響いた。
笑い声と祝福の中で、カサンドラはただ一人、静かに微笑みながら――
心の奥で、音を立てて崩れていった。
ブラック家に待望の男児が誕生したという知らせは、翌朝には魔法界全土を駆け巡っていた。
新聞の一面には大きな見出しで「ブラック家、後継誕生」と記され、魔法省の掲示板や町の張り出し紙には祝いの言葉が躍った。
通りでは老いも若きもこの名家の新たな世代の誕生を称え、まるで王の誕生を祝うように笑い声が響き渡っていた。
レギュラスは、広間でその光景を目にしながら、胸の奥が誇りで満たされていくのを感じていた。
父オリオンの名も、母ヴァルブルガの誇りも、この瞬間ばかりは自分の中に確かに息づいているようだった。
――この家を継ぐのは自分だ。
そして、この子が未来を受け継ぐ。
その思いに、深い達成感があった。
だが、その日の午後。
執務室の机に置かれた一通の封書が、誇らしい心を冷たく凍らせた。
封蝋には金の百合の紋章。
フランス、ロズィエ家からの手紙だった。
“我が家の娘カサンドラ・ロズィエの尊厳が踏みにじられたことを遺憾に思う。
正妻でありながら、夫の子ではない者が男児を産み、家の名を継ぐとは前代未聞の屈辱だ。”
文面には、怒りと失望とが鮮明に滲んでいた。
レギュラスは静かにその手紙を畳む。
わずかに手が震えているのを、自分でも気づいていた。
――当然のことだ。
正妻を差し置いて、屋敷に仕える女を副妃にし、子を授かるなど。
世界のどこを探しても、これほど体裁を失うことはない。
ロズィエ家が声を上げるのは、むしろ当然だった。
だが、事実をどう取り繕おうとも、アランを手放す気にはなれなかった。
今さら彼女を切り捨てるくらいなら、自らの名を汚すほうがましだ。
そう思いながら、レギュラスは立ち上がり、静かに廊下を歩いた。
いつもなら訪れない部屋の前で足を止める。
カサンドラの部屋だった。
扉をノックする音が、やけに響いた。
「レギュラス様……?」
驚いたような声。
扉が開き、淡い香水の香りが漂う。
薄い青のドレスをまとったカサンドラが、少し戸惑った表情で立っていた。
「少し、話をしませんか。」
彼は穏やかに言った。
ふたりの間に、重たい沈黙が落ちた。
カーテンの隙間から午後の光が差し込み、床に淡い金色の影を落とす。
何から話し始めてよいのか、互いに探り合っているようだった。
先に口を開いたのはカサンドラだった。
「……父と母から手紙が届いたそうですね。気を悪くなさらないでください。」
彼女は気丈に微笑んでみせたが、その瞳の奥には不安と哀しみが隠しきれなかった。
レギュラスは静かに頷いた。
「いえ、配慮が足りなかった自覚はあります。
ロズィエ家に出向こうかと考えています。直接お詫びを申し上げた方がいいでしょう。」
カサンドラの瞳がかすかに揺れた。
それが“夫としての誠意”なのか、それとも“体裁を繕うため”の発言なのか、彼女には分からなかった。
けれど、その言葉の響きだけで、少しだけ救われる気がした。
レギュラスは続けた。
「この件で、あなたが辱めを受けることはあってはなりません。
僕なりに、償いを――考えています。」
――体裁を保つために。
そう思いながら、レギュラスは冷静さを保とうとした。
アランは医務魔女の診立てどおり、回復には長い時間を要する。
その間、男である自分がどう感情を処理すべきか――その捌け口として、カサンドラの部屋を訪ねる機会を増やすことになるのだろう。
それは誠意ではなく、打算だった。
自分でもわかっている。
あまりにも卑しい考えだ。
それでも、欲しかった。
静けさと、温もりと、赦しを。
そのすべてを、彼女の中に求めていた。
「カサンドラ。」
レギュラスは彼女の名を呼んだ。
その声音は穏やかだったが、どこか遠くを見つめるような響きをしていた。
彼女はただ頷き、椅子をすすめる。
「……どうぞ。」
彼が腰を下ろすと、ふたりの間を沈黙がまた包んだ。
その沈黙の奥で、カサンドラの胸の奥に、かすかな予感が芽生えていた。
――この人は、もうどこか壊れている。
そして、その壊れた場所を埋めるために、自分を必要としているのだと。
その哀しい現実が、彼女には痛いほどわかってしまっていた。
アランがまぶたをゆっくりと開いたとき、窓の外では柔らかな朝の光が揺れていた。
どこからか人々の笑い声や乾杯の音が微かに聞こえる。
屋敷の廊下はざわめきに満ち、使用人たちが忙しなく行き交っていた。
どうやら、ここ数日は祝宴が続いているらしい。
――何を、祝っているのだろう。
まだ霞む意識の中で、アランはゆっくりと状況を思い出していく。
あの夜。痛みと恐怖の果てに、すべての力を使い果たしたこと。
そして、泣き声。
赤子の泣き声を聞いたところまでで、記憶は途切れていた。
「お目覚めですか、アラン様。」
部屋に入ってきた侍女が、安堵の笑みを浮かべた。
「お身体の具合はいかがですか? 皆さま、奥様が目を覚まされるのを心待ちにしておりました。」
「……子は?」
声は掠れていた。
喉が乾ききっているのに、焦りが勝ってしまう。
「旦那様が広間で抱いておられます。男の子ですよ。
その言葉に、アランの胸が震えた。
生きている――。
それだけで涙が滲んだ。
命懸けで守った小さな灯火が、まだこの世界で息をしている。
それだけでいい。それだけで、報われる。
しばらくして、静かに扉が開いた。
入ってきたのはレギュラスだった。
腕には小さな包みを抱いている。
白い布に包まれた命が、ほんのりと動いた。
「……あなたが、目を覚ますのを待っていました。」
レギュラスの声はいつになく穏やかだった。
「この子の名は、父が決めました。――アルタイル・ブラック。
“飛翔する者”という意味だそうです。」
アルタイル。
夜空にひときわ明るく輝く星。
それは、遠い空の彼――シリウスが見守る場所にある星でもあった。
アランはその名を心の中で繰り返した。
アルタイル。
美しく、強く、そして――遠い。
手を伸ばしても届かない夜空のような名。
「……抱いても、いいですか。」
アランが小さな声で問うと、レギュラスは静かに頷いた。
腕の中に渡された瞬間、ふわりと温もりが広がる。
軽い。けれど、確かに“生きている”重みがあった。
布の隙間から覗いた瞳を見た瞬間、息が止まる。
――シリウス。
まるで、彼がそこにいるかのようだった。
深く透き通った灰青の瞳。
その目が、自分をまっすぐに見つめている。
アランの頬を涙が伝う。
声を出すこともできないほどの感情が込み上げてきた。
愛した人の面影が、確かにここに生きている。
どんな運命が待ち受けていようと、この瞬間だけは幸福だった。
「あなたは――生きているのね。」
震える指で頬を撫でる。
赤子は小さくあくびをした。
その仕草に、胸がほどけていく。
レギュラスはその光景を静かに見つめていた。
彼女の頬を伝う涙が、祝福のようにも、痛みのようにも見える。
アランが抱くその子は、彼女が愛した男――兄シリウスの影を宿す。
けれど、それでもいい。
この家の未来を繋ぐ星として、この手で育てていくと決めたのだから。
アランは赤子を胸に抱きしめ、目を閉じた。
心の奥でそっと呟く。
「あなたの魂が、この子に宿っているのなら……どうか、この子だけは幸せであってほしい。」
屋敷の外では、祝福の鐘が鳴っていた。
新たな星――アルタイル・ブラックの誕生を告げる音が、澄み渡る空へと響いていった。
アランは、自分の体の異変に驚いていた。
ただ寝台から身を起こすだけの動作が、まるで骨の奥から裂けるような痛みを伴う。
背中に力を込めようとすると、鋭い痛みが腰を貫いた。
まるでまだ出産が終わっていないかのように、体の内側は熱を帯び、疼き、悲鳴を上げていた。
数時間おきに、赤子の泣き声が小さく部屋に響く。
その声に呼ばれるたび、アランは眠りの底から引きずり出されるようにして目を開ける。
小さな命が乳を求めて口を動かしているのを見ると、痛みを押してでも腕を伸ばした。
胸に抱き寄せると、赤子の温もりが体に伝わる。
かすかに震えるその掌に、自分の命の一部が確かに宿っていると感じた。
けれど、授乳の姿勢を保つことさえ難しかった。
胸を押し当てるたび、腹の奥が鈍く波打つように痛む。
額には汗が滲み、背筋に冷たいものが流れた。
それでも顔には微笑みを作る。
この子にだけは、不安を見せたくなかった。
レギュラスに弱音を吐くこともできなかった。
ここまで手厚く守られ、屋敷に留められ、命懸けで産ませてもらった。
その恩を裏切るような言葉は、どうしても言えない。
自分の体がどれほど悲鳴を上げていようと、彼の前では気丈でありたかった。
その日も、寝台のそばで授乳を終えたアランの姿を見て、レギュラスが静かに部屋へ入ってきた。
「回復には時間がかかるそうですから。無理は禁物です。」
そう言いながら、彼はアランのそばに膝をつく。
その目には優しさと憂いが入り混じっていた。
アランは、赤子をあやしながら微笑もうとした。
「もう大丈夫です。少しずつ慣れてきましたから。」
その声は、痛みを押し殺した気丈な響きを帯びていた。
レギュラスはそんな彼女の肩をそっと抱き寄せた。
赤子ごと、彼女の体を包み込むように。
「……よく頑張りましたね。」
その低い声が耳元に落ちる。
彼の指が髪を撫で、頬をなぞる。
唇が額に触れた。軽く、けれど確かに。
その一瞬、アランは息を呑んだ。
まるで、彼の温もりが痛みのすべてを覆い隠していくようだった。
胸の奥が震えた。
彼の腕の中にいるこの穏やかさは、現実なのだろうか。
けれどその安堵の裏には、ひとつの影があった。
彼が抱きしめているのは、母と子の温もりを包むためか――
それとも、自分の名誉と家の誇りを守るためなのか。
アランは胸の奥で問いながら、赤子を抱き締め直した。
その瞬間、小さな体がもぞりと動いた。
小鳥のような声が、ふっと部屋の空気を震わせる。
レギュラスはその動きに微笑みを零した。
「……この子が、あなたを支えてくれるでしょう。」
アランはその言葉に、黙って頷いた。
痛みの奥で、赤子の温もりだけが確かな希望のように灯っていた。
たとえこの身が壊れても、この命を腕に抱く限り――
アランはまだ、生きていけると思えた。
ブラック家に男児が誕生したという知らせは、魔法界中を駆け巡った。
その報せは瞬く間に不死鳥の騎士団の間にも届き、囁きは尾ひれをつけて広がっていく。
誰もが祝福の声を上げたわけではなかった。
「フランスのロズィエ家から迎えた正妻を差し置いて、別の女が副妃となり男児を産んだらしい」――
それが魔法新聞の見出しであり、誰もが囁く一番の話題だった。
「まるでシンデレラの物語のようだ」と笑う者がいる一方で、
「正妻があまりにも哀れだ」と眉をひそめる者もいた。
噂は甘くもあり、残酷でもあった。
シリウスは、新聞を読んだ瞬間に手が止まった。
インクの匂いが強く鼻につく。
そこに印刷された「ブラック家の後継誕生」の文字が滲んで見えた。
――アランが、子を産んだ。
信じられなかった。
あの屋敷に残った彼女が、レギュラスの子を。
そんなはずがあるものか。
胸の奥に渦を巻く感情の正体は、怒りとも悲しみともつかない。
頭の中が真っ白になり、思考が止まる。
「まさか、無理やり……?」
その言葉が喉まで出かかった。
もしあの屋敷で、弟に何かされたのだとしたら――。
拳が震えた。
レギュラスを、許せない。
どんな事情があろうと、あの人に手を出すことだけは許せない。
彼女の体はどうなっているのだろう。
無事に出産を終えたのだろうか。
あれほど細くて、儚くて、風に吹かれただけで壊れてしまいそうな体で。
想像するだけで、胸が軋んだ。
息を吸うことさえ苦しい。
「……一つ屋根の下にいれば、そういうことは時間の問題だろう。」
ジェームズの声が、沈黙を裂いた。
彼なりの励ましだということはわかっている。
アランがあの屋敷に留まった以上、そうなる運命だった。
それを責めても、どうにもならない。
「お前が悪いわけじゃない。……気を落とすな。」
ジェームズの手が、静かに肩を叩いた。
けれど、理屈ではわかっていても、心が拒絶する。
どうしても受け入れられなかった。
あれほど愛した人が、別の男の腕に抱かれ、子を成したのだ。
自分が守りたかったものを、弟が手に入れてしまった。
胸の奥で何かが軋み、壊れる音がした。
夜になり、シリウスはグラスを手にした。
透明な液体が喉を焼く。
けれど痛みは薄れない。
ただ酔うことで、意識の輪郭をぼやかしていくしかなかった。
「付き合うさ。」
そう言ってジェームズは静かに隣に座った。
何も言わず、空になったグラスを見つけるたびに酒を注いでくれる。
二人の間には言葉がなかった。
沈黙だけが、互いの痛みを知っていた。
蝋燭の炎が揺れ、酒瓶の中の光が波打つ。
シリウスはただ、過ぎ去った日々を思い出していた。
アランの笑顔。手の温もり。風にほどけた髪。
そして、二人で語った未来。
その未来はもう、どこにもない。
酒が喉を滑り落ちるたびに、彼女への想いが少しずつ胸の奥で溶けていく。
けれど、完全に消えてくれることはなかった。
むしろ、酒の中で形を変えて、静かに疼き続ける。
ジェームズは何も言わなかった。
ただ、親友の沈黙の意味を理解していた。
シリウスの視線の先には、もうアランはいない。
それでも、彼女の幻が、どこまでも美しくそこにいた。
