3章
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ロンドンの夜は深く静まり返り、煉瓦造りの建物の外壁を冷たい霧が包んでいた。
薄明かりの中、シリウス・ブラックは机の上に散らばる便箋の束を前にして、動けずにいた。
アランからの便りが、途絶えて久しい。
どれほど待っても、どれほど願っても、フクロウは帰ってこない。
何かが起きたのだろうか。――屋敷で、レギュラスにでも見つかったのか。
自分との関わりを責められ、罰を受けているのではないか。
そんな想像が夜ごと胸を締めつける。
何度も書きかけては破った手紙の残骸が、机の端に積もっていた。
「アラン、元気でいるか?」――ただその一言すら、もう書けない。
もし彼女が自分の手紙を読むことで、さらに追い詰められてしまうのなら。
その罪を、彼女に背負わせるわけにはいかなかった。
シリウスはペンを握り直す。
もう一度だけ、書いてみようか――
それとも、この沈黙こそが彼女の選んだ答えなのだろうか。
ため息が静かに落ちた、その時だった。
「おい、シリウス。」
ドアが開いて、ジェームズ・ポッターが顔を覗かせた。
明るい声が重い空気を一瞬で破る。
「……便りがないってことは、元気にやってる証拠さ。」
まるで心の中を読まれたようで、シリウスははっと顔を上げた。
手の中のペンを無意識に机に置く。
何も言わずにいたが、その沈黙が全てを物語っていた。
「お前……見てたのか?」
「見なくても分かるさ。長年の付き合いだろ?」
ジェームズの笑みには優しさが滲んでいた。
だがシリウスは苦笑を浮かべ、乱れた黒髪をかきあげる。
誤魔化すように、肩をすくめた。
「……なんでもない。考え事だ。」
ジェームズはそんな言い訳に構わず、椅子の背に腰を預けた。
「週末、マールーン街で集まりがあるんだ。ヒルダとマリア、それにレベッカも来る。
ヒルダは聖マンゴでヒーラー見習い、マリアは変身術の教師になった。
レベッカは――まあ、君がいた頃から君のファンだったよな。」
シリウスは眉をひそめ、片手をひらりと振る。
「パスだ。そういうのはお前が行け。」
「まったく、君は相変わらずだな。
少しくらい息抜きしてもいいだろ? 君がいた方が華がある。」
「華なんか要らない。……お前が行けばいい。」
ジェームズは苦笑して、わざとらしく肩をすくめた。
「リリーがいるんだから、僕一人で行けるわけないさ。
君が行かないなら、僕もやめとく。」
ずるい言い方だ、とシリウスは思った。
けれど分かっている。
これは親友なりの気遣い――
沈黙の底から、自分を少しでも引き上げようとしてくれているのだと。
「……相変わらずお節介だな。」
ぼやきながらも、シリウスの口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
ジェームズが去ったあと、部屋に再び静寂が戻る。
ランプの光に照らされた便箋の白さが、やけにまぶしく見えた。
世の中には「いい女」と呼ばれる女が山ほどいる。
強く、美しく、才ある女たち。
けれど、どれだけの名を思い浮かべても、
――シリウスの心に浮かぶのは、アランただ一人だった。
あの穏やかな声、揺れる黒髪、そして、自分の名を呼ぶときのあの瞳。
それだけが、彼の中でいまだに生き続けていた。
シリウスはもう一度、ペンを取る。
インク壺の中の黒が、深夜の空のように重たく光っていた。
「元気でいてくれ、アラン。」
声にならない言葉が、心の奥で静かにこぼれ落ちた。
薄曇りの朝、神秘部の宿舎を改装した古い一軒家の窓から、
ジェームズ・ポッターはぼんやりと煙草の煙を空に流していた。
外では街のざわめきが遠く響き、木漏れ日が机の上の新聞を淡く照らしている。
机の向こうでは、シリウス・ブラックが腕を組んで座っていた。
気だるげに背をもたれ、視線だけが宙を彷徨っている。
その眼差しの奥には、抜け出せない影があった。
――アラン・セシール。
あの女が去ってから、もうどれほどの月日が経っただろう。
彼女はシリウスと暮らしたあの家を出て行き、そして戻ることはなかった。
それが二人の終着点。
そう理解していたはずだった。
だが、後になって知った。
二人は互いに文を交わし合っていたのだ。
ジェームズはその事実を耳にしたとき、盛大にため息をついたものだった。
「往生際の悪い奴だ」と。
それでも、彼の胸の奥では痛みが共鳴した。
親友が、紙切れ一枚の繋がりにすがりつくほどの孤独を抱えている――
そのことが、たまらなく切なかった。
アラン・セシールという女にも事情はあるのだろう。
レギュラスと共に生きると決めた理由も、きっと純粋な愛だけではない。
家柄、義務、そして何より彼女自身の弱さ。
それらが複雑に絡み合い、あの屋敷に彼女を縛りつけている。
けれど、ジェームズにとってそんなことはどうでもよかった。
大切なのは――シリウスがもう苦しまないこと。
彼が誰よりも誇り高く、自由な魂を持つ男であることを、誰よりも知っているから。
不憫さなんて、彼には似合わない。
それだけが、ジェームズの願いだった。
事実、シリウスを慕う女たちは後を絶たなかった。
聖マンゴで働くヒーラーの見習いも、
魔法生物管理部の秘書も、
果ては日刊予言者新聞の記者までもが――
皆、彼に一目惚れし、食事の席を設けてくれとジェームズに頼み込むのだ。
「彼ほどの男、放っておく女はいないさ」とジェームズはいつも笑っていた。
それでも、シリウスは頑なに首を振る。
どんなに綺麗な笑顔を向けられても、どんなに香り立つ唇が近づいても、
彼の瞳にはアラン・セシールの面影しか映らなかった。
だからジェームズは考えた。
ならば強引にでも連れ出してやろう、と。
「君は本当に、見た目はホグワーツ一だったんだからな。」
冗談めかして言うと、シリウスが顔をしかめて返す。
「見た目はってなんだ、それは。」
ジェームズは笑いながら肩をすくめる。
「いや、事実だろう? あの頃、女子の三分の二はお前に夢中だった。
……もう少し自分の魅力を思い出せ。」
「そんなもの、どうでもいい。」
「どうでもよくなんかないさ。」
ジェームズの声が少しだけ低くなる。
「アラン・セシールなんかのために、
未来永劫とらわれるような男じゃない。
君は――もっと広い空を飛ぶために生まれた奴だろう。」
静かな沈黙が落ちた。
シリウスは言葉を返さない。
ただ、ジェームズの言葉が胸の奥にゆっくり染み込んでいくのを感じていた。
外では夕陽が沈み、金色の光が部屋の壁を焼く。
ジェームズは立ち上がり、シリウスの背を軽く叩いた。
「週末の集まり、来いよ。お前がいなきゃ面白くない。」
その背中に、かつて共に笑った若き日の記憶がよみがえる。
戦火の中でも、暗闇の中でも、彼らは笑っていた。
だから今も――この親友を、もう一度笑わせたかった。
シリウスは、少しだけ口角を上げた。
ほんの一瞬だけ、あの頃の輝きが戻った気がした。
ジェームズはそれを見逃さなかった。
それで十分だった。
今はまだ、それで。
魔法省の地下深く、湿った石壁の向こうに続く長い回廊。
その最奥、神秘部・危険物管理局の一室で、レギュラス・ブラックは机に広げられた分厚い報告書を静かに読み進めていた。
部屋は薄暗く、天井から吊るされた魔法灯が僅かな光を落とすのみ。
紙をめくるたび、古びたインクの匂いと、血のような鉄錆の臭いが混じって鼻を刺した。
報告書の表紙には、黒々とした筆跡でこう記されている。
「マリウス・フレイおよびその一族 殲滅事件」。
ページを開いた瞬間、レギュラスの胸に重い息がつまる。
目を背けたくなるような文字が並んでいた。
――一家全員、惨殺。
男も女も、子どもまでも。逃げ惑う間もなく、跡形もなく焼かれたと。
薄紙のような報告書を指先で押さえながら、レギュラスは無意識に唇を噛んでいた。
彼自身がこの事の発端を作ったのだ。
マリウス・フレイの存在を、別のデスイーターに告げた――それが引き金だった。
思い出すのは、あの夜のこと。
フレイが教会で演説していた。
マグル生まれの魔法使いたちを前に、「平等」という理想を掲げていた。
純血も混血も、マグルも――皆が一つの世界で生きられる未来。
その声は確かに美しかった。だが、美しさが愚かさに変わる瞬間を、レギュラスは知っていた。
――平等など存在しない。
マグルが魔法族を恐れた。
恐怖ゆえに、彼らは火を放ち、銃を手に取った。
鉄の弾丸が飛び交う中で、何人の魔法使いが血を流して倒れたか。
あの記憶が、レギュラスの心から消えることはなかった。
魔法の血は、守られなければならない。
だからこそ、マリウス・フレイの「融合」という思想は、破滅の始まりに思えた。
彼を排除することは正しかった。
――そのはずだった。
だが今、報告書に記された事実を目にすると、正義と信念の境界が崩れていく。
「一族、皆殺し」
その一文を見た瞬間、指が震えた。
たしかに、彼自身の手で殺したわけではない。
命を下したのは別の者だ。
けれど、命令の根を植えたのは自分――その事実だけで、十分に罪深かった。
ページの隅には、魔法省の印章が押され、最後にこう記されていた。
『闇の魔法使いによる犯行の可能性が高く、騎士団が捜査を開始した。』
レギュラスは息を吐いた。
「やはり、そうなるか……。」
騎士団――不死鳥の名を掲げる者たち。
彼らの捜査の目が闇の勢力に向けられたとき、真っ先に疑われるのは自分たちだ。
この事件をどう「片付ける」か。
それが今、レギュラスの最大の懸念だった。
彼は机の端に置かれた万年筆を手に取り、報告書に何かを書き加えようとして、手を止めた。
インクの黒が滲んで広がる。
頭の中に浮かぶのは、アランの横顔だった。
――こんな世界に、彼女と子を置いてはいけない。
静寂の中、灯の炎がふっと揺れる。
レギュラスは深く目を閉じ、椅子の背にもたれた。
報告書の上には、彼の指の跡が残っている。
それは罪の重さそのもののように、紙の上で黒く滲んでいた。
神秘部の奥は、いつもながら薄暗く、空気がどこか重たかった。
壁一面に刻まれた古代文字が、淡い青光を放ちながら脈動している。
まるで、この部屋そのものが何かを呼吸しているようだった。
レギュラス・ブラックはその中心の執務机に座り、報告書の束を指で静かに整えていた。
紙の端を滑らせるその仕草までが、冷ややかに整っている。
若くしてこの部局に配属され、危険物の管理と記録を任されている彼は、同僚たちから「神秘部の白鴉」と呼ばれていた。
その白さは、穢れなきものではなく――何かを深く隠し、静かに沈殿させたような白だった。
そこへ、扉が音もなく開く。
黒い杖を軽く突きながら現れたのは、ルシウス・マルフォイ。
月光のような銀髪を背に流し、冷笑を携えて立つ姿は、まるで社交の場の一幕のように隙がない。
「久しいな、レギュラス。」
「お久しぶりです、ルシウス。」
レギュラスは立ち上がることもなく、軽く会釈した。
机の上に置かれていた報告書を、さりげなく裏返す。
その一瞬の動作に、ルシウスの唇がわずかに上がった。
――この男は何もかもを見抜く。若いが、軽率ではない。
「どうかね、最近は。」
「ええ。騎士団をどう欺くか、策を練っているところです。」
その返答に、ルシウスは声を立てて笑いそうになった。
まるでこちらの目的を初めから理解していたかのように、核心を突く。
この洞察力、この肝の据わりよう。
やはりこの男は只者ではない――闇の帝王が気に入るのも当然だと、ルシウスは思った。
神秘部の奥に漂う魔法薬の匂いが、会話の合間に静かに流れる。
遠くで試験管がはじけるような音がした。
「お前に任せたい、とあの方も言っておられる。」
ルシウスの声は、いつものように落ち着いている。だが、その響きの奥には命令の冷たさがあった。
レギュラスはすぐに答えなかった。
沈黙の中で、報告書の端に指を滑らせる。
ページの下には、まだ乾ききらぬ赤インクの印章があった。
マリウス・フレイの粛清報告。
思わず、胸の奥にざらついた痛みが走る。
「少し……猶予をいただきたいと、お伝えください。」
穏やかに、しかし確かな声でレギュラスは言った。
「今動けば、あまりにも目立ちます。
不死鳥の騎士団が動き出している今は、静かに観察する方が得策です。」
ルシウスはわずかに片眉を上げた。
この若さで、即断せず冷静に駒を読む――。
その姿に、己の若き日を重ねる一瞬の郷愁を覚えた。
「……さすがだな、レギュラス・ブラック。」
「ご期待には必ず応えます。」
ルシウスは杖の先で床を軽く叩き、立ち上がった。
その音が、石壁に反響して長く尾を引く。
「この若さで、この胆力。
さすがはブラック家の血だ。」
残されたレギュラスは、ルシウスの足音が遠ざかるのを聞きながら、静かに息を吐いた。
机の上の報告書をもう一度開く。
マリウス・フレイ――彼の死が、ほんとうに必要だったのか。
ページを見つめる瞳に、一瞬だけ人間らしい苦悩の色が宿る。
神秘部の夜は深く、静まり返っていた。
魔法省の石造りの廊下を包む薄闇の中、レギュラス・ブラックはほとんど音も立てずに歩いていた。
その手には封印を解いたばかりの封筒と、わずかに魔力のこもる羊皮紙がある。
――「情報の種」。
真実を覆い隠すための、巧妙な偽りの断片。
彼は、マリウス・フレイの一族の虐殺事件に「闇の勢力が関与していない」と思わせるための仕掛けを組み立てていた。
直接的に不死鳥の騎士団の誰かと接触することは危険すぎる。
だから、いくつかの情報を「自然な流れ」で散布する。
闇の帝王の名も、デスイーターの影も――誰にも掴ませない。
まずは、偽装された目撃証言の作成だ。
魔法省の下層で働く記録係に匿名で差し出す。
「事件の夜、現場近くで不審な男を見た。
闇の印はなかった。むしろ、マグルの銃器のようなものを持っていた」
という一文。
それを、あたかも民間魔法使いが恐怖のあまり報告したかのように見せかける。
次に、呪文残留痕の改ざん。
現場から回収された焦げた壁の破片に、レギュラスは魔力の痕跡を上書きした。
純血の魔法使いが使うような呪文ではなく、混血やマグル出身の魔法使いが誤って暴発させる初級の火系呪文。
「Incendio Maxima」の揺らぎを少し残すことで、あたかも訓練不足の若い魔法使いが暴走させたような痕跡に変える。
ほんの数度の杖の動きで、真実が塗り替えられていく。
さらに、闇の商人の記録を一部改ざんする。
密輸品の流通台帳に、「フレイ家の従者が違法魔法薬を買い付けていた」と書き加えた。
それだけで世間は勝手に想像を膨らませる。
「薬物が原因で暴発したのではないか」「家族内の不和が引き金になったのではないか」と。
人は真実より、もっともらしい嘘を好むものだ。
あとは放っておけばよかった。
情報は雪崩のように拡散し、報告書が積み重なり、やがて誰も真実を探さなくなる。
――翌朝。
屋敷の食卓には静かな陽が差し込んでいた。
カーテンの隙間から射し込む光が、白いテーブルクロスの上で淡く揺れる。
銀のカトラリーが整然と並び、琥珀色の紅茶が湯気を立てている。
アランがパンを温めながら「今日は晴れそうですね」と声をかけた。
レギュラスは短く頷き、折りたたまれた朝刊に目を落とす。
その一面には、黒々とした見出しが踊っていた。
『フレイ家惨殺事件 ― 犯人像いまだ不明、内部抗争の可能性も』
レギュラスの指先が紙を強く押さえる。
食卓に広がる紅茶の香りが、一瞬にして遠のく。
穏やかな朝の空気が、音を立てて崩れ去るようだった。
――また、現実に引き戻された。
屋敷という場所は、本来ならば彼にとって唯一の安息の地であるはずだった。
アランの微笑みや、カサンドラの静かな気配。
そんなものに囲まれているときだけ、彼は闇の帝王の影から一時的に解放される気がしていた。
だが今、新聞の見出しの黒がまるで闇の印のように彼の胸を締め付ける。
罪の重さは、いくら偽りの情報で塗り固めても消えはしない。
紅茶の表面に映る己の顔が、ひどく遠くに見えた。
「……すべて、上手く運んでいるはずだ。」
そう呟きながらも、声の奥には確かな震えがあった。
その朝刊を畳み、ゆっくりと椅子を立つと、
レギュラスはまるで逃げるように、再び神秘部の闇へと戻っていった。
――真実は、彼の手で静かに塗り潰された。
けれど、消えたわけではない。
むしろその闇は、ますます深く、静かに彼自身を飲み込んでいこうとしていた。
屋敷の午前は、いつもより静かだった。
薄曇りの光がカーテンの隙間から差し込み、長いテーブルの上を柔らかく照らしている。
銀器の縁に反射する光がきらめくたびに、カサンドラ・ブラックの心の奥では、ざらついた不安と焦りが交互に波を立てた。
シリウス・ブラックからの手紙をレギュラスに突きつけたあの日から――。
彼に、変化はなかった。
怒りも、疑いも、冷淡な拒絶さえも見せない。
まるで何も知らないかのように、アラン・セシールに向ける視線は以前と変わらず穏やかで、優しかった。
その優しさが、カサンドラを蝕んだ。
彼女は理解していた。
シリウスとの繋がりは、レギュラスにとって決して許されぬ裏切りであるはずだった。
それでも――彼はアランを責めなかった。
それどころか、ますます彼女を守るように振る舞っている。
その現実が、カサンドラの胸を焼いた。
アランの腹は日に日に大きくなり、歩く姿も苦しげだった。
もうすぐ、新しい命が生まれる。
その事実が、カサンドラをより深く追い詰めた。
――自分は、妻であるのに。
彼の心にも、彼の子にも、届かない。
思い返せば、レギュラスと関係を持った夜は、二度きり。
一度は緊張に満ちた初夜、もう一度は怒りと酒に濁った夜。
それきり、彼は自室に戻らなくなった。
夜更けに一人、広すぎる寝台で目を閉じるたび、カサンドラの胸を締めつけるのは、孤独という名の氷のような痛みだった。
その痛みを紛らわすように、彼女は小瓶を取り出した。
手の中で揺れるそれは、ヴァルブルガから渡された“毒”――
アラン・セシールをこの世から葬るためのもの。
透明な液体が、微かに青い光を放つ。
カサンドラは深呼吸をした。
そして、その液体を紅茶のカップへと数滴垂らす。
かすかに甘い香りが立ち上がったが、毒の存在を匂わせるものは何もなかった。
ただ、美しい琥珀色の紅茶が一杯。
やがて、足音が近づく。
アランが現れた。
いつものように、少し疲れた微笑みを浮かべている。
母になる身体を支えるように、両手で腹を抱えながら歩く姿が痛々しいほどに儚い。
「少しはゆっくりした方がいいわ。動きすぎよ。」
カサンドラの声は、驚くほど柔らかかった。
「いえ、このくらいは平気です。」
アランはいつものように、頭を下げる。
「一息ついてちょうだい。お腹の子はブラック家の子だもの。
母親が無理をして、子どもになにかあったら――大変だわ。」
そう言って、カサンドラは紅茶を差し出した。
その手は震えていなかった。
決意を超えた静寂が、彼女の心を支配していた。
アランはしばらくためらい、そして微笑んだ。
「……お言葉に甘えて、いただきます。」
紅茶の表面が、わずかに波打つ。
アランが唇を寄せる瞬間、カサンドラは息を止めた。
その一口が、すべてを終わらせる。
アランの未来も、そして自分の苦しみも――。
琥珀色の液体がアランの唇を濡らした。
香りが空気を満たす。
時間が、止まったかのように静かだった。
カサンドラの瞳が、その瞬間を逃さず見つめる。
指先が冷たくなり、心臓の鼓動が耳の奥で痛いほど響いた。
――もう、後戻りはできない。
その言葉が、音もなく胸の奥に沈んでいった。
その夜の屋敷は、珍しくすべての家族がそろっていた。
長いテーブルに並ぶ銀器と燭台が、ゆらめく光を反射して、暖かな金色の空気を漂わせている。
普段はオリオンが省庁での会議に出ていたり、レギュラスが神秘部の仕事で遅く帰ることも多かったが、
今夜は――ブラック家の血が一堂に会する夜だった。
アランは腹を抱えるようにして、ひと皿ひと皿を運んでいた。
スープの入った器が手の中で揺れるたびに、
下腹部の奥から張りつめるような痛みが、波のように押し寄せてくる。
深く息を吸っては吐き、笑みを保とうとするが、頬の血の気はすでに薄くなっていた。
料理はどれも豪華だった。
ローストした肉、焼き立てのパン、香草の香りを纏ったスープ――
彼女がその一つひとつを用意した。
いつもなら誇らしい気持ちになる仕事だったが、
今夜ばかりは、腕を伸ばすたびに腹の重みが辛く、息が上がる。
「アラン、どうあるのです?」
レギュラスの低く落ち着いた声が、食卓のざわめきを断ち切った。
銀のスプーンを置いた彼の視線が、
皿を差し出そうとしているアランの手に気づく――
震えていた。
アランは微笑みでそれを誤魔化そうとした。
「いえ、なんでも……」
だがその声はか細く、言葉の途中で息が詰まる。
次の瞬間、アランの顔から色が引いた。
手にしていた皿がかすかに揺れ、彼女の体がふらりと傾ぐ。
「顔色が悪いようです。」
レギュラスが立ち上がり、瞬時に彼女の体を支えた。
「いえ……」とアランは言いかけたが、
そのまま、糸が切れたように膝を折り、座り込んでしまった。
床にこぼれたスープが金の模様を描き、
温かな香りが一瞬で冷たい不安へと変わる。
「アラン!」
レギュラスはためらうことなく彼女を抱き上げた。
その動きは鋭く、しかし驚くほど優しかった。
腕の中でアランの体温が伝わる。
胸の奥で、恐怖と焦燥が同時に脈打つ。
「父上、医務魔女への連絡をお願いします!」
オリオンは椅子を鳴らして立ち上がる。
「そうしよう、すぐに呼ぶ。」
カサンドラも立ち上がったが、
その顔は何かを隠すように蒼白で、
唇を噛み締めている。
屋敷の廊下に、レギュラスの足音が響く。
その腕に抱かれたアランは、かすかに眉を寄せ、
腹を押さえながら浅い呼吸を繰り返していた。
「もう少しです、すぐに医務魔女が来ます。」
レギュラスは彼女の耳元で囁いた。
焦燥を押し殺すように、静かに、落ち着いた声で。
彼の額には滲む汗。
アランの髪が彼の胸に触れ、
その重みが、恐ろしく愛おしかった。
階段を上がり、寝室の扉が開く。
そこに横たえられた瞬間、アランの腹が再び強く張った。
その小さな呻き声が、屋敷全体の空気を震わせる。
――そういえば、医務魔女は言っていた。
「産み月はもうすぐだ」と。
レギュラスの喉がひくりと鳴った。
つい先ほどまで静かだった夜が、
いまや一瞬にして緊迫した舞台へと変わる。
彼は彼女の手を握りしめた。
その指先は冷たく、震えている。
「大丈夫です、アラン。」
自分に言い聞かせるように、
レギュラスはもう一度その手を強く握った。
屋敷の外では、
闇に包まれた夜空の彼方で、
遠く雷のような音が小さく鳴った。
まるで、新しい命が――
世界のどこかで産声を上げる準備を始めたかのように。
夜の屋敷には、重く湿った空気が漂っていた。
階下では、駆けつけた医務魔女と助産魔女たちの声が忙しなく響き、
薬草の匂いと血の気配が廊下の隅々まで滲んでいた。
カサンドラは、階段の上からその光景を見下ろしていた。
冷たい手すりに指を添え、微動だにせず。
彼女の瞳の奥には、焦燥と安堵がないまぜになったような静かな光が宿っている。
その傍らに立つヴァルブルガが、細い声で問う。
「使ったのですか?」
カサンドラはわずかに息を詰め、ゆっくりと頷いた。
「……はい。」
老女の顔に浮かぶのは、満足にも似た笑みだった。
「そう。――あとは祈るだけね。」
ヴァルブルガの言葉は氷のように冷たく、それでいてどこか甘美でもあった。
カサンドラの胸の奥で、何かが音を立てて崩れる。
もう、引き返せない。
祈りとは何か。
彼女の願いは、祝福ではなかった。
アラン・セシールだけでなく、その腹に宿る子さえ――
一緒に消えてくれればいい、とさえ思っていた。
そうすれば、すべてが“正しい形”に戻る。
レギュラスの妻として、もう一度一から始められる。
不幸な出来事として屋敷の記録に残り、
「夫の一時の気の迷い」として葬られるだけ。
すべてが、整然と片付くはずだった。
――そのはずだった。
アランの部屋の前には、医務魔女たちだけが入っていく。
扉の向こうからは、時折短い指示の声と、アランの押し殺したような呻きが聞こえた。
血と薬草の匂いが漂う廊下に、レギュラスは立ち尽くしていた。
出産に男が立ち会うことは禁じられている。
それは女だけの戦場であり、男はそこに踏み込む資格を持たない。
それでもレギュラスは、その扉の前から動こうとしなかった。
背筋を伸ばし、拳を固く握りしめ、ただじっと――
その中にいるアランを想うように。
カサンドラは、その横顔を見つめていた。
胸の奥が、焼けるように痛い。
自分が愛している男の、そのひたむきな眼差しが、
他の女の命を見守っている。
「レギュラス様、あちらで……オリオン様もヴァルブルガ様もお待ちです。」
声をかけながらも、わずかに震える声を抑えきれない。
「すみませんが、ここで待ちます。」
短く返す声。
レギュラスの視線は扉に釘付けのままだった。
カサンドラの言葉は、もう届いていない。
「お体、冷やしますわ……」
それでも返事はなかった。
聞こえていないのか、それとも意図的に無視されたのか。
どちらでもよかった。
ただ、その背中が――あまりにも遠く見えた。
廊下の明かりがレギュラスの頬を照らし、
その影が長く床を伸びていく。
まるで、扉の向こうにいるアランへと続く道のように。
カサンドラは唇を噛んだ。
喉の奥が焼けるように熱い。
自分の手で運命を動かしたはずなのに、
この男の心は、いまだに――あの女のもとにある。
遠くで、産声にも似た悲鳴が聞こえた。
魔女たちの声が交錯し、命の境目を行き来するような緊迫が廊下を包む。
カサンドラは思わず目を閉じた。
祈るでもなく、願うでもなく。
ただ――この静寂がすべてを呑み込むのを、待っていた。
どれほどの時が過ぎたのか、もうわからなかった。
屋敷の廊下は静まり返っていたが、アランの部屋の扉の向こうでは絶えず命の音が鳴っていた。
呻き声、叫び、指示を出す医務魔女たちの声。
その全てが、レギュラスの胸を何度も貫いた。
扉の前で、彼は何度も同じ言葉を繰り返していた。
「少しくらい、顔を見ることはできないでしょうか……?」
「様子は? 進展はありましたか?」
返ってくるのは、決まりきった返答だけだった。
「まだです、レギュラス様。もう少しだけお待ちを。」
何度尋ねても、それしか言われなかった。
時計の針の音すら、残酷なほどゆっくりと進んでいるように思えた。
扉が開くたび、助産魔女たちが桶とタオルを抱えて出てくる。
その桶の水は――赤かった。
どの桶も、どの布も。
真紅のしずくが床に落ち、木目の隙間に吸い込まれていく。
レギュラスは視線を逸らせなかった。
アランのか弱い体の、いったいどこからこれほどまでに血が流れ出ているのか。
考えるたびに、喉が詰まりそうになる。
震えが全身を襲った。
「時間がかかるだろう。ヴァルブルガもそうだった。」
後ろからオリオンの声がした。
いつの間にか、父が傍に来ていた。
その低い声が、廊下の冷気に混じって響く。
「……そうなのかもしれませんが。」
レギュラスは、声を震わせた。
「待つしかできないというのは……こんなにも、苦しいものなのですね。」
父の表情は変わらなかった。
彼の言葉には、同情の色も慰めの気配もなかった。
それが余計に、レギュラスの胸を締めつけた。
扉が音を立てて開いた。
血の匂いが濃く漂う。
医務魔女の一人が、深刻な面持ちで出てきた。
白衣の袖口には赤黒い染みが広がっている。
「ブラック様……母体の容態が芳しくありません。」
その一言で、世界が静止した。
「どういうことです?」
レギュラスの声は低く、掠れていた。
医務魔女は一瞬ためらい、そして言葉を続けた。
「出血が止まりません。魔法でも止血が追いつかず、意識も途切れがちです。
命を繋ぐには……どちらかを、選ばねばなりません。」
その言葉の意味を理解するまでに、しばらく時間がかかった。
どちらか――それは、母か、子か。
「子を優先するのだ。」
オリオンの声が響いた。
あまりにも即答だった。
レギュラスは父の方を振り返った。
「……父上?」
「それが正しい判断だ。ブラック家の血を継ぐ命を優先する。
それが、我々の責務だ。」
レギュラスの喉が焼けるように痛んだ。
怒りでも涙でもない、胸の奥に沈む絶望の熱。
「父上……子は、また望めます。」
言葉を吐き出すように、震える声で言った。
これまで一度も、父に反抗したことなどなかった。
しかし、この瞬間だけは、譲れなかった。
「子が第一優先だ。」
オリオンの瞳は鋭く光る。
「今までアラン・セシールのことも、お前の意思を尊重して許してきた。
だが、これだけは譲れん。ブラック家の人間としての責務を忘れるな。」
その言葉は、鋭利な刃物のようだった。
静かに、しかし確実に、レギュラスの心を切り裂く。
アランを失う――。
それが、父にとっては“家の秩序”を守るための当然の判断だった。
だがレギュラスにとって、それは世界の崩壊に等しかった。
目の前の扉の向こうで、愛する人が命を削っている。
自分には助ける力も、許される権利もない。
ただ、立ち尽くすことしかできない。
その苦しみが、息をすることさえも難しくした。
廊下のランプが微かに揺れ、
赤く染まった桶の水面が、わずかに波打つ。
その波が、レギュラスの胸の奥に沈んでいた希望を――
静かに、しかし確実に、飲み込んでいった。
オリオンが重い足音を響かせて去っていったあと、廊下には再び静寂が訪れた。
それは安堵の静けさではなく、嵐の前の張りつめた静けさだった。
レギュラスは深く息を吐き、しばらく動けなかった。
拳を握るたびに、指の節が白くなる。
父の残した言葉が、まだ耳の奥で反響している。
「子を優先しろ」――その一言が、胸を締め上げるように重たく響いていた。
だが、あの言葉に従うことだけはできなかった。
もはやブラック家の掟も、血統の名誉も、彼にとってはどうでもよかった。
扉の向こうから、再び小さな悲鳴が響いた。
その声に心臓を握られたようにレギュラスは体を震わせ、
医務魔女に歩み寄る。
「……母体を優先してください。」
静かに、けれど明確な意志を宿した声だった。
医務魔女はその言葉に一瞬息をのむ。
彼女の表情には、どう答えるべきか迷う影が浮かんでいた。
「しかし、旦那様――」
「いいのです。」
レギュラスは言葉を遮った。
「必ず、アランを……母体を守ってください。」
その声音は震えていたが、確固たる命令としての響きを持っていた。
医務魔女は深く頭を下げ、重い足取りで再び扉の向こうに消えていく。
廊下には再びレギュラスだけが残された。
彼は扉に手を添えた。
その先にアランがいる。
痛みに耐え、命を削りながら戦っている。
自分はただ――何もできずにここに立つだけ。
「アラン……耐えてください。必ず、大丈夫です。」
震える声で叫ぶ。
声が掠れ、言葉が途切れる。
それでも必死に続けた。
「アラン、聞こえていますか……? あなたは強い。きっと、乗り越えられる。」
返事はなかった。
扉の向こうの音は、息を殺すように静まり返っている。
それが余計に恐ろしかった。
静けさが、まるで死の気配のように廊下を包んでいた。
自分の声が震えていることに気づいた瞬間、
その情けなさに喉が詰まる。
魔法省の神秘部で数々の闇を見てきた。
命が奪われる瞬間さえ、冷静に見届けてきた。
それなのに、今ほど恐ろしいと感じたことは一度もなかった。
父は知らないのだ。
アランの腹に宿る子が――シリウスの子であることを。
その事実を知っていれば、あの冷徹な父が「子を優先せよ」などと言うはずもない。
ブラック家の血を引くとはいえ、それは自分の子ではないのだ。
この家のために、アランを“第二の妻”として迎え入れることを正当化するため、
レギュラスは真実を伏せ続けてきた。
その選択が、今、彼自身を地獄に突き落としている。
――いっそのこと、父に告げてしまおうか。
“あの子は自分の子ではない。だから、アランを助けてくれ。”
そう言えば、父はもう一度考え直してくれるだろうか。
あるいは、それでも冷徹に「不要な命だ」と切り捨てるだろうか。
答えは出なかった。
ただ、胸の奥で、静かに何かが崩れ落ちていく音がした。
レギュラスは壁にもたれ、顔を覆った。
爪が掌に食い込み、血が滲む。
心の中で繰り返したのは、ただひとつの願い。
――どうか、生きてくれ。
どんな罰を受けても構わない。
すべての真実が暴かれようとも構わない。
ただ、アランが息をしてさえいてくれれば、それでいい。
扉の向こうでは、再び短い悲鳴と、魔女たちの声が上がった。
そのたびにレギュラスの心臓が軋む。
彼の世界は、あの扉の一枚の向こうに全てを握られていた。
――それが、どんな終わりを迎えようとしているのかを、
彼だけがまだ知らなかった。
レギュラスは、もう立っていられなかった。
力が抜けたように、その場に崩れ落ちる。
重たい足音を響かせて何度も往復していた床に、
今は膝をつき、手で顔を覆っている。
いつもは背筋を伸ばし、冷静で隙のない男。
神秘部の職員として、そしてブラック家の後継として、
決して弱さを見せることなどなかった人が――
今、愛する女ひとりの命のために、子どものように震えていた。
その姿を見つめるカサンドラの胸は、張り裂けそうだった。
彼が崩れ落ちる音が、心臓の奥まで響くようで。
もはや何時間この光景が続いているのかわからない。
ろうそくの炎は何度も短くなり、
夜が深まり、また少しずつ白んでいくのが見えた。
それでも、まだ終わらない。
「もう……早く、どうか……」
そう祈る声が、カサンドラの喉の奥で震えた。
「レギュラス様……どうか、気を確かにお持ちください。」
そう言いながら、彼の隣に膝をつく。
冷たい床の感触がスカート越しに伝わってきた。
彼の肩に手を置くと、驚くほど冷たかった。
レギュラスは顔を覆ったまま、
小さく、掠れた声で言った。
「……すごく、怖いんです。
アランを失いそうで……。」
震えが、彼の体を伝ってカサンドラの指先へと届いた。
それはまるで、氷のように細かく震える哀しみの鼓動。
彼の震えが、自分の胸の奥まで移っていく。
カサンドラはその震えを鎮めたくて、
彼の体にそっと腕を回した。
「きっと大丈夫です……」
自分でも、何を根拠にそう言っているのかわからなかった。
それでも言わずにはいられなかった。
そうしなければ、彼が崩れ落ちてしまいそうで。
彼の肩に額を寄せると、
息の熱さと冷たさが交じる。
それがひどく痛々しかった。
だが、心の奥底では、
この状況を――この苦しみを――
どこかで望んでしまった自分がいた。
アラン・セシールが死ねば、
この腕の中にいる男は自分のものになる。
そんな思考が一瞬でも脳裏をよぎったことが、
恐ろしくてたまらなかった。
「……私、なんてことを考えているの……」
心の中で叫びながらも、
その声は誰にも届かない。
レギュラスの肩に回した手に力を込める。
彼を支えたかった。
けれど、支えているようでいて――
自分こそ、彼の苦しみに寄り添うふりをして、
その苦しみの上に居座っている悪魔だった。
アラン・セシールの死を、
どこかで願ってしまった瞬間から、
カサンドラの魂はもう光の側には戻れなかった。
扉の向こうから再び悲鳴が上がる。
そのたびにレギュラスの体が硬直し、
震えが強くなる。
「アラン……!」
彼のかすれた叫びが廊下に響く。
それは愛でも、絶望でもなく――
ただ“命”を呼び戻そうとする、本能そのものの声だった。
カサンドラは目を閉じた。
熱い涙が頬を伝い落ちる。
その涙は誰のためのものなのか、自分でもわからなかった。
愛する男のためなのか。
それとも、自ら堕ちていく自分への嘆きなのか。
レギュラスの肩越しに見える扉は、
微動だにせず、暗く沈黙していた。
その向こうで、愛も罪も、静かに命を削りながら――
夜が、明けようとしていた。
夜がようやく白み始めていた。
長い長い暗闇を越えて差し込む薄明かりは、
希望ではなく、残酷な現実を照らし出す光のようだった。
医務魔女が廊下に出てくる。
その表情は沈痛で、疲弊の色が濃い。
「……母体の衰弱が著しいのです。」
たったそれだけの言葉が、刃のように胸へ突き刺さる。
レギュラスはふらりと体を揺らした。
頭の奥がぼんやりと霞み、目の前が歪んでいく。
世界の輪郭が崩れ落ちるような眩暈。
「入れますか……?」
呟くように問うと、医務魔女が制止の言葉を口にするより早く、
レギュラスの足は扉の中へと踏み込んでいた。
「レギュラス様!」
制止の声が響く。
けれど、その声など、もはや耳には届いていなかった。
扉の向こう――そこは、地獄だった。
むせ返るような血の匂い。
その匂いが一瞬で肺を焼き、吐き気を覚える。
それでも一歩、また一歩と近づいた。
寝台の上、アランがぐったりと横たわっている。
額には汗が滲み、唇は青ざめ、頬は透けるほどに白い。
薄いタオルがかけられ、
その下から、血の混じった液体がぼたぼたと桶に落ちていく。
赤黒い雫が木の床を汚し、鉄のような匂いが立ち込めていた。
レギュラスは一瞬、呼吸を忘れた。
視界が滲む。
それでも――この現実から目を逸らせなかった。
「アラン……聞こえますか。」
喉の奥から、掠れた声が漏れる。
返事はない。
アランはまるで、深い眠りに落ちているかのように目を閉じたまま。
長時間に及ぶ苦痛と戦い、力尽きて意識を手放しているのだろう。
「いまだに赤子の頭が出てきません。」
助産魔女の声が、冷静すぎて残酷に響いた。
「いきむ力も、そろそろ尽きているようです。」
つまり――決断を迫られている。
“どちらを助けるのか”。
母か、子か。
レギュラスはその意味を理解した瞬間、全身が凍りついた。
呼吸ができない。
目の前が暗くなる。
今ここで、“母体を諦める”と告げれば、
医務魔女たちはすぐに子だけを救うための処置を始めるだろう。
それがブラック家の常であり、
それが“正しい判断”とされてきた。
けれど――そんな言葉、言えるはずがなかった。
唇が震える。
言葉が出ない。
喉の奥で、ただ息が擦れるだけだった。
「アラン……しっかりしてください……」
彼女の手を取る。
細く、冷たく、まるで氷のようだった。
その手を何度もさすり、温もりを戻そうとする。
「頼む……頼むから……」
声が震え、涙が零れた。
抑えようとしても、どうしても止まらない。
アランの瞼が、かすかに動く。
ほんの少しだけ、翡翠の瞳が開かれた。
焦点の合わないその目に、自分の姿が映った瞬間――
胸が張り裂けそうになった。
「……レギュラス……」
かすかな唇の動き。
声にはならなかった。
それでも、確かに自分の名を呼んだように見えた。
涙が落ちる。
その雫がアランの頬に落ちて、小さな光を残した。
「もう少しだけ……耐えてください。」
そう言いながら、彼は心の中で叫んでいた。
――酷なことを言っているのはわかっている。
――それでも、お願いだから、生きてほしい。
部屋の隅では、助産魔女たちが静かに魔法の準備を進めている。
床を這う赤い光、冷たい器具の輝き。
すべてが遠くの世界のように見えた。
レギュラスはただ、アランの手を握りしめ、
その命の鼓動を探すように耳を澄ませた。
かすかに、弱く――
まだ、そこにあった。
夜明けの光が窓を満たしていく。
血の匂いに満ちた部屋の中、
わずかな希望だけが、まだ消えずに揺れていた。
とにかく眠たかった。
まぶたが重く、世界がゆらゆらと波のように遠のいていく。
何もかもを手放して、ただ深く眠ってしまいたかった。
そうすればこの痛みも、体を貫く恐怖も、すべて忘れられる気がした。
「少しだけ……少しだけ眠らせて……」
心の中でそう願った瞬間、肩を揺さぶられた。
「アラン! だめだ、目を開けて!」
低く震える声。
その声が現実へと引き戻す。
重たいまぶたを開けると、視界が滲んだ。
そこにあったのは、顔を歪めたレギュラスだった。
いつも凛として、恐れなど知らぬ男。
鋭い灰色の瞳には、常に静かな決意と誇りが宿っていた。
けれど今の彼は、まるで別人だった。
顔色は蒼白で、瞳は焦りに濁り、唇が震えていた。
「なんて顔を……」
心の奥でそう思った。
こんなにも強い人が、こんなにも壊れそうな顔をするなんて。
――怖いものなどない人だと思っていた。
でも今、彼は確かに“恐れている”。
何を? ――たぶん、私を失うことを。
遠くの方で、助産魔女たちの声が聞こえる。
「血圧が下がっています!」
「魔法陣を再調整して!」
声がざわめき、光が揺れる。
それでも、アランの意識は少しずつ遠のいていった。
そのとき――
心の奥に、懐かしい声が響いた。
『頑張れ、アラン! 負けるな! 俺がついてる!』
シリウス。
彼の声だった。
胸の奥で、温かいものが弾ける。
懐かしい笑い声と、手のぬくもりがよみがえる。
「……シリウス……」
唇がかすかに動く。
涙が頬を伝った。
――そうだ、眠っている場合じゃない。
まだ、この子に会っていない。
あの人の血を継いだ子。
彼と自分の、たったひとつの永遠。
もう二度と共に生きていけない人との、叶わぬ約束の結晶。
“この子に、会いたい。”
その一念が、朦朧とした意識を引き戻した。
全身が痛みに軋み、呼吸をするたびに胸が焼ける。
それでも、アランはわずかに体を起こそうとする。
「アラン、無理をしないで!」
レギュラスが手を伸ばす。
その手が頬に触れた。冷たく、優しい手だった。
「大丈夫……まだ、頑張れます……」
声にならない声を絞り出す。
体の奥で、微かに何かが動いた。
痛みではなく、確かな生命の反応――子の鼓動。
その瞬間、アランの中に再び力が灯った。
「頑張ります……この子に……会うまで。」
レギュラスの瞳が揺れた。
何かを言おうと口を開き、けれど言葉が出てこない。
代わりに、震える手でアランの額の汗を拭う。
アランはその手の温もりを感じながら、
もう一度、深く息を吸い込んだ。
――痛みを超えてでも、生きたい。
――あの人にもう一度、胸を張って会いたい。
遠くで、またシリウスの声がする。
『お前ならできる。お前は、強い。』
その声を胸に抱いて、アランは最後の力を振り絞った。
夜の終わり、
薄明かりが産室を満たしはじめるころ――
アランの瞳の奥に、もう一度、生の光が宿った。
薄明かりの中、シリウス・ブラックは机の上に散らばる便箋の束を前にして、動けずにいた。
アランからの便りが、途絶えて久しい。
どれほど待っても、どれほど願っても、フクロウは帰ってこない。
何かが起きたのだろうか。――屋敷で、レギュラスにでも見つかったのか。
自分との関わりを責められ、罰を受けているのではないか。
そんな想像が夜ごと胸を締めつける。
何度も書きかけては破った手紙の残骸が、机の端に積もっていた。
「アラン、元気でいるか?」――ただその一言すら、もう書けない。
もし彼女が自分の手紙を読むことで、さらに追い詰められてしまうのなら。
その罪を、彼女に背負わせるわけにはいかなかった。
シリウスはペンを握り直す。
もう一度だけ、書いてみようか――
それとも、この沈黙こそが彼女の選んだ答えなのだろうか。
ため息が静かに落ちた、その時だった。
「おい、シリウス。」
ドアが開いて、ジェームズ・ポッターが顔を覗かせた。
明るい声が重い空気を一瞬で破る。
「……便りがないってことは、元気にやってる証拠さ。」
まるで心の中を読まれたようで、シリウスははっと顔を上げた。
手の中のペンを無意識に机に置く。
何も言わずにいたが、その沈黙が全てを物語っていた。
「お前……見てたのか?」
「見なくても分かるさ。長年の付き合いだろ?」
ジェームズの笑みには優しさが滲んでいた。
だがシリウスは苦笑を浮かべ、乱れた黒髪をかきあげる。
誤魔化すように、肩をすくめた。
「……なんでもない。考え事だ。」
ジェームズはそんな言い訳に構わず、椅子の背に腰を預けた。
「週末、マールーン街で集まりがあるんだ。ヒルダとマリア、それにレベッカも来る。
ヒルダは聖マンゴでヒーラー見習い、マリアは変身術の教師になった。
レベッカは――まあ、君がいた頃から君のファンだったよな。」
シリウスは眉をひそめ、片手をひらりと振る。
「パスだ。そういうのはお前が行け。」
「まったく、君は相変わらずだな。
少しくらい息抜きしてもいいだろ? 君がいた方が華がある。」
「華なんか要らない。……お前が行けばいい。」
ジェームズは苦笑して、わざとらしく肩をすくめた。
「リリーがいるんだから、僕一人で行けるわけないさ。
君が行かないなら、僕もやめとく。」
ずるい言い方だ、とシリウスは思った。
けれど分かっている。
これは親友なりの気遣い――
沈黙の底から、自分を少しでも引き上げようとしてくれているのだと。
「……相変わらずお節介だな。」
ぼやきながらも、シリウスの口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
ジェームズが去ったあと、部屋に再び静寂が戻る。
ランプの光に照らされた便箋の白さが、やけにまぶしく見えた。
世の中には「いい女」と呼ばれる女が山ほどいる。
強く、美しく、才ある女たち。
けれど、どれだけの名を思い浮かべても、
――シリウスの心に浮かぶのは、アランただ一人だった。
あの穏やかな声、揺れる黒髪、そして、自分の名を呼ぶときのあの瞳。
それだけが、彼の中でいまだに生き続けていた。
シリウスはもう一度、ペンを取る。
インク壺の中の黒が、深夜の空のように重たく光っていた。
「元気でいてくれ、アラン。」
声にならない言葉が、心の奥で静かにこぼれ落ちた。
薄曇りの朝、神秘部の宿舎を改装した古い一軒家の窓から、
ジェームズ・ポッターはぼんやりと煙草の煙を空に流していた。
外では街のざわめきが遠く響き、木漏れ日が机の上の新聞を淡く照らしている。
机の向こうでは、シリウス・ブラックが腕を組んで座っていた。
気だるげに背をもたれ、視線だけが宙を彷徨っている。
その眼差しの奥には、抜け出せない影があった。
――アラン・セシール。
あの女が去ってから、もうどれほどの月日が経っただろう。
彼女はシリウスと暮らしたあの家を出て行き、そして戻ることはなかった。
それが二人の終着点。
そう理解していたはずだった。
だが、後になって知った。
二人は互いに文を交わし合っていたのだ。
ジェームズはその事実を耳にしたとき、盛大にため息をついたものだった。
「往生際の悪い奴だ」と。
それでも、彼の胸の奥では痛みが共鳴した。
親友が、紙切れ一枚の繋がりにすがりつくほどの孤独を抱えている――
そのことが、たまらなく切なかった。
アラン・セシールという女にも事情はあるのだろう。
レギュラスと共に生きると決めた理由も、きっと純粋な愛だけではない。
家柄、義務、そして何より彼女自身の弱さ。
それらが複雑に絡み合い、あの屋敷に彼女を縛りつけている。
けれど、ジェームズにとってそんなことはどうでもよかった。
大切なのは――シリウスがもう苦しまないこと。
彼が誰よりも誇り高く、自由な魂を持つ男であることを、誰よりも知っているから。
不憫さなんて、彼には似合わない。
それだけが、ジェームズの願いだった。
事実、シリウスを慕う女たちは後を絶たなかった。
聖マンゴで働くヒーラーの見習いも、
魔法生物管理部の秘書も、
果ては日刊予言者新聞の記者までもが――
皆、彼に一目惚れし、食事の席を設けてくれとジェームズに頼み込むのだ。
「彼ほどの男、放っておく女はいないさ」とジェームズはいつも笑っていた。
それでも、シリウスは頑なに首を振る。
どんなに綺麗な笑顔を向けられても、どんなに香り立つ唇が近づいても、
彼の瞳にはアラン・セシールの面影しか映らなかった。
だからジェームズは考えた。
ならば強引にでも連れ出してやろう、と。
「君は本当に、見た目はホグワーツ一だったんだからな。」
冗談めかして言うと、シリウスが顔をしかめて返す。
「見た目はってなんだ、それは。」
ジェームズは笑いながら肩をすくめる。
「いや、事実だろう? あの頃、女子の三分の二はお前に夢中だった。
……もう少し自分の魅力を思い出せ。」
「そんなもの、どうでもいい。」
「どうでもよくなんかないさ。」
ジェームズの声が少しだけ低くなる。
「アラン・セシールなんかのために、
未来永劫とらわれるような男じゃない。
君は――もっと広い空を飛ぶために生まれた奴だろう。」
静かな沈黙が落ちた。
シリウスは言葉を返さない。
ただ、ジェームズの言葉が胸の奥にゆっくり染み込んでいくのを感じていた。
外では夕陽が沈み、金色の光が部屋の壁を焼く。
ジェームズは立ち上がり、シリウスの背を軽く叩いた。
「週末の集まり、来いよ。お前がいなきゃ面白くない。」
その背中に、かつて共に笑った若き日の記憶がよみがえる。
戦火の中でも、暗闇の中でも、彼らは笑っていた。
だから今も――この親友を、もう一度笑わせたかった。
シリウスは、少しだけ口角を上げた。
ほんの一瞬だけ、あの頃の輝きが戻った気がした。
ジェームズはそれを見逃さなかった。
それで十分だった。
今はまだ、それで。
魔法省の地下深く、湿った石壁の向こうに続く長い回廊。
その最奥、神秘部・危険物管理局の一室で、レギュラス・ブラックは机に広げられた分厚い報告書を静かに読み進めていた。
部屋は薄暗く、天井から吊るされた魔法灯が僅かな光を落とすのみ。
紙をめくるたび、古びたインクの匂いと、血のような鉄錆の臭いが混じって鼻を刺した。
報告書の表紙には、黒々とした筆跡でこう記されている。
「マリウス・フレイおよびその一族 殲滅事件」。
ページを開いた瞬間、レギュラスの胸に重い息がつまる。
目を背けたくなるような文字が並んでいた。
――一家全員、惨殺。
男も女も、子どもまでも。逃げ惑う間もなく、跡形もなく焼かれたと。
薄紙のような報告書を指先で押さえながら、レギュラスは無意識に唇を噛んでいた。
彼自身がこの事の発端を作ったのだ。
マリウス・フレイの存在を、別のデスイーターに告げた――それが引き金だった。
思い出すのは、あの夜のこと。
フレイが教会で演説していた。
マグル生まれの魔法使いたちを前に、「平等」という理想を掲げていた。
純血も混血も、マグルも――皆が一つの世界で生きられる未来。
その声は確かに美しかった。だが、美しさが愚かさに変わる瞬間を、レギュラスは知っていた。
――平等など存在しない。
マグルが魔法族を恐れた。
恐怖ゆえに、彼らは火を放ち、銃を手に取った。
鉄の弾丸が飛び交う中で、何人の魔法使いが血を流して倒れたか。
あの記憶が、レギュラスの心から消えることはなかった。
魔法の血は、守られなければならない。
だからこそ、マリウス・フレイの「融合」という思想は、破滅の始まりに思えた。
彼を排除することは正しかった。
――そのはずだった。
だが今、報告書に記された事実を目にすると、正義と信念の境界が崩れていく。
「一族、皆殺し」
その一文を見た瞬間、指が震えた。
たしかに、彼自身の手で殺したわけではない。
命を下したのは別の者だ。
けれど、命令の根を植えたのは自分――その事実だけで、十分に罪深かった。
ページの隅には、魔法省の印章が押され、最後にこう記されていた。
『闇の魔法使いによる犯行の可能性が高く、騎士団が捜査を開始した。』
レギュラスは息を吐いた。
「やはり、そうなるか……。」
騎士団――不死鳥の名を掲げる者たち。
彼らの捜査の目が闇の勢力に向けられたとき、真っ先に疑われるのは自分たちだ。
この事件をどう「片付ける」か。
それが今、レギュラスの最大の懸念だった。
彼は机の端に置かれた万年筆を手に取り、報告書に何かを書き加えようとして、手を止めた。
インクの黒が滲んで広がる。
頭の中に浮かぶのは、アランの横顔だった。
――こんな世界に、彼女と子を置いてはいけない。
静寂の中、灯の炎がふっと揺れる。
レギュラスは深く目を閉じ、椅子の背にもたれた。
報告書の上には、彼の指の跡が残っている。
それは罪の重さそのもののように、紙の上で黒く滲んでいた。
神秘部の奥は、いつもながら薄暗く、空気がどこか重たかった。
壁一面に刻まれた古代文字が、淡い青光を放ちながら脈動している。
まるで、この部屋そのものが何かを呼吸しているようだった。
レギュラス・ブラックはその中心の執務机に座り、報告書の束を指で静かに整えていた。
紙の端を滑らせるその仕草までが、冷ややかに整っている。
若くしてこの部局に配属され、危険物の管理と記録を任されている彼は、同僚たちから「神秘部の白鴉」と呼ばれていた。
その白さは、穢れなきものではなく――何かを深く隠し、静かに沈殿させたような白だった。
そこへ、扉が音もなく開く。
黒い杖を軽く突きながら現れたのは、ルシウス・マルフォイ。
月光のような銀髪を背に流し、冷笑を携えて立つ姿は、まるで社交の場の一幕のように隙がない。
「久しいな、レギュラス。」
「お久しぶりです、ルシウス。」
レギュラスは立ち上がることもなく、軽く会釈した。
机の上に置かれていた報告書を、さりげなく裏返す。
その一瞬の動作に、ルシウスの唇がわずかに上がった。
――この男は何もかもを見抜く。若いが、軽率ではない。
「どうかね、最近は。」
「ええ。騎士団をどう欺くか、策を練っているところです。」
その返答に、ルシウスは声を立てて笑いそうになった。
まるでこちらの目的を初めから理解していたかのように、核心を突く。
この洞察力、この肝の据わりよう。
やはりこの男は只者ではない――闇の帝王が気に入るのも当然だと、ルシウスは思った。
神秘部の奥に漂う魔法薬の匂いが、会話の合間に静かに流れる。
遠くで試験管がはじけるような音がした。
「お前に任せたい、とあの方も言っておられる。」
ルシウスの声は、いつものように落ち着いている。だが、その響きの奥には命令の冷たさがあった。
レギュラスはすぐに答えなかった。
沈黙の中で、報告書の端に指を滑らせる。
ページの下には、まだ乾ききらぬ赤インクの印章があった。
マリウス・フレイの粛清報告。
思わず、胸の奥にざらついた痛みが走る。
「少し……猶予をいただきたいと、お伝えください。」
穏やかに、しかし確かな声でレギュラスは言った。
「今動けば、あまりにも目立ちます。
不死鳥の騎士団が動き出している今は、静かに観察する方が得策です。」
ルシウスはわずかに片眉を上げた。
この若さで、即断せず冷静に駒を読む――。
その姿に、己の若き日を重ねる一瞬の郷愁を覚えた。
「……さすがだな、レギュラス・ブラック。」
「ご期待には必ず応えます。」
ルシウスは杖の先で床を軽く叩き、立ち上がった。
その音が、石壁に反響して長く尾を引く。
「この若さで、この胆力。
さすがはブラック家の血だ。」
残されたレギュラスは、ルシウスの足音が遠ざかるのを聞きながら、静かに息を吐いた。
机の上の報告書をもう一度開く。
マリウス・フレイ――彼の死が、ほんとうに必要だったのか。
ページを見つめる瞳に、一瞬だけ人間らしい苦悩の色が宿る。
神秘部の夜は深く、静まり返っていた。
魔法省の石造りの廊下を包む薄闇の中、レギュラス・ブラックはほとんど音も立てずに歩いていた。
その手には封印を解いたばかりの封筒と、わずかに魔力のこもる羊皮紙がある。
――「情報の種」。
真実を覆い隠すための、巧妙な偽りの断片。
彼は、マリウス・フレイの一族の虐殺事件に「闇の勢力が関与していない」と思わせるための仕掛けを組み立てていた。
直接的に不死鳥の騎士団の誰かと接触することは危険すぎる。
だから、いくつかの情報を「自然な流れ」で散布する。
闇の帝王の名も、デスイーターの影も――誰にも掴ませない。
まずは、偽装された目撃証言の作成だ。
魔法省の下層で働く記録係に匿名で差し出す。
「事件の夜、現場近くで不審な男を見た。
闇の印はなかった。むしろ、マグルの銃器のようなものを持っていた」
という一文。
それを、あたかも民間魔法使いが恐怖のあまり報告したかのように見せかける。
次に、呪文残留痕の改ざん。
現場から回収された焦げた壁の破片に、レギュラスは魔力の痕跡を上書きした。
純血の魔法使いが使うような呪文ではなく、混血やマグル出身の魔法使いが誤って暴発させる初級の火系呪文。
「Incendio Maxima」の揺らぎを少し残すことで、あたかも訓練不足の若い魔法使いが暴走させたような痕跡に変える。
ほんの数度の杖の動きで、真実が塗り替えられていく。
さらに、闇の商人の記録を一部改ざんする。
密輸品の流通台帳に、「フレイ家の従者が違法魔法薬を買い付けていた」と書き加えた。
それだけで世間は勝手に想像を膨らませる。
「薬物が原因で暴発したのではないか」「家族内の不和が引き金になったのではないか」と。
人は真実より、もっともらしい嘘を好むものだ。
あとは放っておけばよかった。
情報は雪崩のように拡散し、報告書が積み重なり、やがて誰も真実を探さなくなる。
――翌朝。
屋敷の食卓には静かな陽が差し込んでいた。
カーテンの隙間から射し込む光が、白いテーブルクロスの上で淡く揺れる。
銀のカトラリーが整然と並び、琥珀色の紅茶が湯気を立てている。
アランがパンを温めながら「今日は晴れそうですね」と声をかけた。
レギュラスは短く頷き、折りたたまれた朝刊に目を落とす。
その一面には、黒々とした見出しが踊っていた。
『フレイ家惨殺事件 ― 犯人像いまだ不明、内部抗争の可能性も』
レギュラスの指先が紙を強く押さえる。
食卓に広がる紅茶の香りが、一瞬にして遠のく。
穏やかな朝の空気が、音を立てて崩れ去るようだった。
――また、現実に引き戻された。
屋敷という場所は、本来ならば彼にとって唯一の安息の地であるはずだった。
アランの微笑みや、カサンドラの静かな気配。
そんなものに囲まれているときだけ、彼は闇の帝王の影から一時的に解放される気がしていた。
だが今、新聞の見出しの黒がまるで闇の印のように彼の胸を締め付ける。
罪の重さは、いくら偽りの情報で塗り固めても消えはしない。
紅茶の表面に映る己の顔が、ひどく遠くに見えた。
「……すべて、上手く運んでいるはずだ。」
そう呟きながらも、声の奥には確かな震えがあった。
その朝刊を畳み、ゆっくりと椅子を立つと、
レギュラスはまるで逃げるように、再び神秘部の闇へと戻っていった。
――真実は、彼の手で静かに塗り潰された。
けれど、消えたわけではない。
むしろその闇は、ますます深く、静かに彼自身を飲み込んでいこうとしていた。
屋敷の午前は、いつもより静かだった。
薄曇りの光がカーテンの隙間から差し込み、長いテーブルの上を柔らかく照らしている。
銀器の縁に反射する光がきらめくたびに、カサンドラ・ブラックの心の奥では、ざらついた不安と焦りが交互に波を立てた。
シリウス・ブラックからの手紙をレギュラスに突きつけたあの日から――。
彼に、変化はなかった。
怒りも、疑いも、冷淡な拒絶さえも見せない。
まるで何も知らないかのように、アラン・セシールに向ける視線は以前と変わらず穏やかで、優しかった。
その優しさが、カサンドラを蝕んだ。
彼女は理解していた。
シリウスとの繋がりは、レギュラスにとって決して許されぬ裏切りであるはずだった。
それでも――彼はアランを責めなかった。
それどころか、ますます彼女を守るように振る舞っている。
その現実が、カサンドラの胸を焼いた。
アランの腹は日に日に大きくなり、歩く姿も苦しげだった。
もうすぐ、新しい命が生まれる。
その事実が、カサンドラをより深く追い詰めた。
――自分は、妻であるのに。
彼の心にも、彼の子にも、届かない。
思い返せば、レギュラスと関係を持った夜は、二度きり。
一度は緊張に満ちた初夜、もう一度は怒りと酒に濁った夜。
それきり、彼は自室に戻らなくなった。
夜更けに一人、広すぎる寝台で目を閉じるたび、カサンドラの胸を締めつけるのは、孤独という名の氷のような痛みだった。
その痛みを紛らわすように、彼女は小瓶を取り出した。
手の中で揺れるそれは、ヴァルブルガから渡された“毒”――
アラン・セシールをこの世から葬るためのもの。
透明な液体が、微かに青い光を放つ。
カサンドラは深呼吸をした。
そして、その液体を紅茶のカップへと数滴垂らす。
かすかに甘い香りが立ち上がったが、毒の存在を匂わせるものは何もなかった。
ただ、美しい琥珀色の紅茶が一杯。
やがて、足音が近づく。
アランが現れた。
いつものように、少し疲れた微笑みを浮かべている。
母になる身体を支えるように、両手で腹を抱えながら歩く姿が痛々しいほどに儚い。
「少しはゆっくりした方がいいわ。動きすぎよ。」
カサンドラの声は、驚くほど柔らかかった。
「いえ、このくらいは平気です。」
アランはいつものように、頭を下げる。
「一息ついてちょうだい。お腹の子はブラック家の子だもの。
母親が無理をして、子どもになにかあったら――大変だわ。」
そう言って、カサンドラは紅茶を差し出した。
その手は震えていなかった。
決意を超えた静寂が、彼女の心を支配していた。
アランはしばらくためらい、そして微笑んだ。
「……お言葉に甘えて、いただきます。」
紅茶の表面が、わずかに波打つ。
アランが唇を寄せる瞬間、カサンドラは息を止めた。
その一口が、すべてを終わらせる。
アランの未来も、そして自分の苦しみも――。
琥珀色の液体がアランの唇を濡らした。
香りが空気を満たす。
時間が、止まったかのように静かだった。
カサンドラの瞳が、その瞬間を逃さず見つめる。
指先が冷たくなり、心臓の鼓動が耳の奥で痛いほど響いた。
――もう、後戻りはできない。
その言葉が、音もなく胸の奥に沈んでいった。
その夜の屋敷は、珍しくすべての家族がそろっていた。
長いテーブルに並ぶ銀器と燭台が、ゆらめく光を反射して、暖かな金色の空気を漂わせている。
普段はオリオンが省庁での会議に出ていたり、レギュラスが神秘部の仕事で遅く帰ることも多かったが、
今夜は――ブラック家の血が一堂に会する夜だった。
アランは腹を抱えるようにして、ひと皿ひと皿を運んでいた。
スープの入った器が手の中で揺れるたびに、
下腹部の奥から張りつめるような痛みが、波のように押し寄せてくる。
深く息を吸っては吐き、笑みを保とうとするが、頬の血の気はすでに薄くなっていた。
料理はどれも豪華だった。
ローストした肉、焼き立てのパン、香草の香りを纏ったスープ――
彼女がその一つひとつを用意した。
いつもなら誇らしい気持ちになる仕事だったが、
今夜ばかりは、腕を伸ばすたびに腹の重みが辛く、息が上がる。
「アラン、どうあるのです?」
レギュラスの低く落ち着いた声が、食卓のざわめきを断ち切った。
銀のスプーンを置いた彼の視線が、
皿を差し出そうとしているアランの手に気づく――
震えていた。
アランは微笑みでそれを誤魔化そうとした。
「いえ、なんでも……」
だがその声はか細く、言葉の途中で息が詰まる。
次の瞬間、アランの顔から色が引いた。
手にしていた皿がかすかに揺れ、彼女の体がふらりと傾ぐ。
「顔色が悪いようです。」
レギュラスが立ち上がり、瞬時に彼女の体を支えた。
「いえ……」とアランは言いかけたが、
そのまま、糸が切れたように膝を折り、座り込んでしまった。
床にこぼれたスープが金の模様を描き、
温かな香りが一瞬で冷たい不安へと変わる。
「アラン!」
レギュラスはためらうことなく彼女を抱き上げた。
その動きは鋭く、しかし驚くほど優しかった。
腕の中でアランの体温が伝わる。
胸の奥で、恐怖と焦燥が同時に脈打つ。
「父上、医務魔女への連絡をお願いします!」
オリオンは椅子を鳴らして立ち上がる。
「そうしよう、すぐに呼ぶ。」
カサンドラも立ち上がったが、
その顔は何かを隠すように蒼白で、
唇を噛み締めている。
屋敷の廊下に、レギュラスの足音が響く。
その腕に抱かれたアランは、かすかに眉を寄せ、
腹を押さえながら浅い呼吸を繰り返していた。
「もう少しです、すぐに医務魔女が来ます。」
レギュラスは彼女の耳元で囁いた。
焦燥を押し殺すように、静かに、落ち着いた声で。
彼の額には滲む汗。
アランの髪が彼の胸に触れ、
その重みが、恐ろしく愛おしかった。
階段を上がり、寝室の扉が開く。
そこに横たえられた瞬間、アランの腹が再び強く張った。
その小さな呻き声が、屋敷全体の空気を震わせる。
――そういえば、医務魔女は言っていた。
「産み月はもうすぐだ」と。
レギュラスの喉がひくりと鳴った。
つい先ほどまで静かだった夜が、
いまや一瞬にして緊迫した舞台へと変わる。
彼は彼女の手を握りしめた。
その指先は冷たく、震えている。
「大丈夫です、アラン。」
自分に言い聞かせるように、
レギュラスはもう一度その手を強く握った。
屋敷の外では、
闇に包まれた夜空の彼方で、
遠く雷のような音が小さく鳴った。
まるで、新しい命が――
世界のどこかで産声を上げる準備を始めたかのように。
夜の屋敷には、重く湿った空気が漂っていた。
階下では、駆けつけた医務魔女と助産魔女たちの声が忙しなく響き、
薬草の匂いと血の気配が廊下の隅々まで滲んでいた。
カサンドラは、階段の上からその光景を見下ろしていた。
冷たい手すりに指を添え、微動だにせず。
彼女の瞳の奥には、焦燥と安堵がないまぜになったような静かな光が宿っている。
その傍らに立つヴァルブルガが、細い声で問う。
「使ったのですか?」
カサンドラはわずかに息を詰め、ゆっくりと頷いた。
「……はい。」
老女の顔に浮かぶのは、満足にも似た笑みだった。
「そう。――あとは祈るだけね。」
ヴァルブルガの言葉は氷のように冷たく、それでいてどこか甘美でもあった。
カサンドラの胸の奥で、何かが音を立てて崩れる。
もう、引き返せない。
祈りとは何か。
彼女の願いは、祝福ではなかった。
アラン・セシールだけでなく、その腹に宿る子さえ――
一緒に消えてくれればいい、とさえ思っていた。
そうすれば、すべてが“正しい形”に戻る。
レギュラスの妻として、もう一度一から始められる。
不幸な出来事として屋敷の記録に残り、
「夫の一時の気の迷い」として葬られるだけ。
すべてが、整然と片付くはずだった。
――そのはずだった。
アランの部屋の前には、医務魔女たちだけが入っていく。
扉の向こうからは、時折短い指示の声と、アランの押し殺したような呻きが聞こえた。
血と薬草の匂いが漂う廊下に、レギュラスは立ち尽くしていた。
出産に男が立ち会うことは禁じられている。
それは女だけの戦場であり、男はそこに踏み込む資格を持たない。
それでもレギュラスは、その扉の前から動こうとしなかった。
背筋を伸ばし、拳を固く握りしめ、ただじっと――
その中にいるアランを想うように。
カサンドラは、その横顔を見つめていた。
胸の奥が、焼けるように痛い。
自分が愛している男の、そのひたむきな眼差しが、
他の女の命を見守っている。
「レギュラス様、あちらで……オリオン様もヴァルブルガ様もお待ちです。」
声をかけながらも、わずかに震える声を抑えきれない。
「すみませんが、ここで待ちます。」
短く返す声。
レギュラスの視線は扉に釘付けのままだった。
カサンドラの言葉は、もう届いていない。
「お体、冷やしますわ……」
それでも返事はなかった。
聞こえていないのか、それとも意図的に無視されたのか。
どちらでもよかった。
ただ、その背中が――あまりにも遠く見えた。
廊下の明かりがレギュラスの頬を照らし、
その影が長く床を伸びていく。
まるで、扉の向こうにいるアランへと続く道のように。
カサンドラは唇を噛んだ。
喉の奥が焼けるように熱い。
自分の手で運命を動かしたはずなのに、
この男の心は、いまだに――あの女のもとにある。
遠くで、産声にも似た悲鳴が聞こえた。
魔女たちの声が交錯し、命の境目を行き来するような緊迫が廊下を包む。
カサンドラは思わず目を閉じた。
祈るでもなく、願うでもなく。
ただ――この静寂がすべてを呑み込むのを、待っていた。
どれほどの時が過ぎたのか、もうわからなかった。
屋敷の廊下は静まり返っていたが、アランの部屋の扉の向こうでは絶えず命の音が鳴っていた。
呻き声、叫び、指示を出す医務魔女たちの声。
その全てが、レギュラスの胸を何度も貫いた。
扉の前で、彼は何度も同じ言葉を繰り返していた。
「少しくらい、顔を見ることはできないでしょうか……?」
「様子は? 進展はありましたか?」
返ってくるのは、決まりきった返答だけだった。
「まだです、レギュラス様。もう少しだけお待ちを。」
何度尋ねても、それしか言われなかった。
時計の針の音すら、残酷なほどゆっくりと進んでいるように思えた。
扉が開くたび、助産魔女たちが桶とタオルを抱えて出てくる。
その桶の水は――赤かった。
どの桶も、どの布も。
真紅のしずくが床に落ち、木目の隙間に吸い込まれていく。
レギュラスは視線を逸らせなかった。
アランのか弱い体の、いったいどこからこれほどまでに血が流れ出ているのか。
考えるたびに、喉が詰まりそうになる。
震えが全身を襲った。
「時間がかかるだろう。ヴァルブルガもそうだった。」
後ろからオリオンの声がした。
いつの間にか、父が傍に来ていた。
その低い声が、廊下の冷気に混じって響く。
「……そうなのかもしれませんが。」
レギュラスは、声を震わせた。
「待つしかできないというのは……こんなにも、苦しいものなのですね。」
父の表情は変わらなかった。
彼の言葉には、同情の色も慰めの気配もなかった。
それが余計に、レギュラスの胸を締めつけた。
扉が音を立てて開いた。
血の匂いが濃く漂う。
医務魔女の一人が、深刻な面持ちで出てきた。
白衣の袖口には赤黒い染みが広がっている。
「ブラック様……母体の容態が芳しくありません。」
その一言で、世界が静止した。
「どういうことです?」
レギュラスの声は低く、掠れていた。
医務魔女は一瞬ためらい、そして言葉を続けた。
「出血が止まりません。魔法でも止血が追いつかず、意識も途切れがちです。
命を繋ぐには……どちらかを、選ばねばなりません。」
その言葉の意味を理解するまでに、しばらく時間がかかった。
どちらか――それは、母か、子か。
「子を優先するのだ。」
オリオンの声が響いた。
あまりにも即答だった。
レギュラスは父の方を振り返った。
「……父上?」
「それが正しい判断だ。ブラック家の血を継ぐ命を優先する。
それが、我々の責務だ。」
レギュラスの喉が焼けるように痛んだ。
怒りでも涙でもない、胸の奥に沈む絶望の熱。
「父上……子は、また望めます。」
言葉を吐き出すように、震える声で言った。
これまで一度も、父に反抗したことなどなかった。
しかし、この瞬間だけは、譲れなかった。
「子が第一優先だ。」
オリオンの瞳は鋭く光る。
「今までアラン・セシールのことも、お前の意思を尊重して許してきた。
だが、これだけは譲れん。ブラック家の人間としての責務を忘れるな。」
その言葉は、鋭利な刃物のようだった。
静かに、しかし確実に、レギュラスの心を切り裂く。
アランを失う――。
それが、父にとっては“家の秩序”を守るための当然の判断だった。
だがレギュラスにとって、それは世界の崩壊に等しかった。
目の前の扉の向こうで、愛する人が命を削っている。
自分には助ける力も、許される権利もない。
ただ、立ち尽くすことしかできない。
その苦しみが、息をすることさえも難しくした。
廊下のランプが微かに揺れ、
赤く染まった桶の水面が、わずかに波打つ。
その波が、レギュラスの胸の奥に沈んでいた希望を――
静かに、しかし確実に、飲み込んでいった。
オリオンが重い足音を響かせて去っていったあと、廊下には再び静寂が訪れた。
それは安堵の静けさではなく、嵐の前の張りつめた静けさだった。
レギュラスは深く息を吐き、しばらく動けなかった。
拳を握るたびに、指の節が白くなる。
父の残した言葉が、まだ耳の奥で反響している。
「子を優先しろ」――その一言が、胸を締め上げるように重たく響いていた。
だが、あの言葉に従うことだけはできなかった。
もはやブラック家の掟も、血統の名誉も、彼にとってはどうでもよかった。
扉の向こうから、再び小さな悲鳴が響いた。
その声に心臓を握られたようにレギュラスは体を震わせ、
医務魔女に歩み寄る。
「……母体を優先してください。」
静かに、けれど明確な意志を宿した声だった。
医務魔女はその言葉に一瞬息をのむ。
彼女の表情には、どう答えるべきか迷う影が浮かんでいた。
「しかし、旦那様――」
「いいのです。」
レギュラスは言葉を遮った。
「必ず、アランを……母体を守ってください。」
その声音は震えていたが、確固たる命令としての響きを持っていた。
医務魔女は深く頭を下げ、重い足取りで再び扉の向こうに消えていく。
廊下には再びレギュラスだけが残された。
彼は扉に手を添えた。
その先にアランがいる。
痛みに耐え、命を削りながら戦っている。
自分はただ――何もできずにここに立つだけ。
「アラン……耐えてください。必ず、大丈夫です。」
震える声で叫ぶ。
声が掠れ、言葉が途切れる。
それでも必死に続けた。
「アラン、聞こえていますか……? あなたは強い。きっと、乗り越えられる。」
返事はなかった。
扉の向こうの音は、息を殺すように静まり返っている。
それが余計に恐ろしかった。
静けさが、まるで死の気配のように廊下を包んでいた。
自分の声が震えていることに気づいた瞬間、
その情けなさに喉が詰まる。
魔法省の神秘部で数々の闇を見てきた。
命が奪われる瞬間さえ、冷静に見届けてきた。
それなのに、今ほど恐ろしいと感じたことは一度もなかった。
父は知らないのだ。
アランの腹に宿る子が――シリウスの子であることを。
その事実を知っていれば、あの冷徹な父が「子を優先せよ」などと言うはずもない。
ブラック家の血を引くとはいえ、それは自分の子ではないのだ。
この家のために、アランを“第二の妻”として迎え入れることを正当化するため、
レギュラスは真実を伏せ続けてきた。
その選択が、今、彼自身を地獄に突き落としている。
――いっそのこと、父に告げてしまおうか。
“あの子は自分の子ではない。だから、アランを助けてくれ。”
そう言えば、父はもう一度考え直してくれるだろうか。
あるいは、それでも冷徹に「不要な命だ」と切り捨てるだろうか。
答えは出なかった。
ただ、胸の奥で、静かに何かが崩れ落ちていく音がした。
レギュラスは壁にもたれ、顔を覆った。
爪が掌に食い込み、血が滲む。
心の中で繰り返したのは、ただひとつの願い。
――どうか、生きてくれ。
どんな罰を受けても構わない。
すべての真実が暴かれようとも構わない。
ただ、アランが息をしてさえいてくれれば、それでいい。
扉の向こうでは、再び短い悲鳴と、魔女たちの声が上がった。
そのたびにレギュラスの心臓が軋む。
彼の世界は、あの扉の一枚の向こうに全てを握られていた。
――それが、どんな終わりを迎えようとしているのかを、
彼だけがまだ知らなかった。
レギュラスは、もう立っていられなかった。
力が抜けたように、その場に崩れ落ちる。
重たい足音を響かせて何度も往復していた床に、
今は膝をつき、手で顔を覆っている。
いつもは背筋を伸ばし、冷静で隙のない男。
神秘部の職員として、そしてブラック家の後継として、
決して弱さを見せることなどなかった人が――
今、愛する女ひとりの命のために、子どものように震えていた。
その姿を見つめるカサンドラの胸は、張り裂けそうだった。
彼が崩れ落ちる音が、心臓の奥まで響くようで。
もはや何時間この光景が続いているのかわからない。
ろうそくの炎は何度も短くなり、
夜が深まり、また少しずつ白んでいくのが見えた。
それでも、まだ終わらない。
「もう……早く、どうか……」
そう祈る声が、カサンドラの喉の奥で震えた。
「レギュラス様……どうか、気を確かにお持ちください。」
そう言いながら、彼の隣に膝をつく。
冷たい床の感触がスカート越しに伝わってきた。
彼の肩に手を置くと、驚くほど冷たかった。
レギュラスは顔を覆ったまま、
小さく、掠れた声で言った。
「……すごく、怖いんです。
アランを失いそうで……。」
震えが、彼の体を伝ってカサンドラの指先へと届いた。
それはまるで、氷のように細かく震える哀しみの鼓動。
彼の震えが、自分の胸の奥まで移っていく。
カサンドラはその震えを鎮めたくて、
彼の体にそっと腕を回した。
「きっと大丈夫です……」
自分でも、何を根拠にそう言っているのかわからなかった。
それでも言わずにはいられなかった。
そうしなければ、彼が崩れ落ちてしまいそうで。
彼の肩に額を寄せると、
息の熱さと冷たさが交じる。
それがひどく痛々しかった。
だが、心の奥底では、
この状況を――この苦しみを――
どこかで望んでしまった自分がいた。
アラン・セシールが死ねば、
この腕の中にいる男は自分のものになる。
そんな思考が一瞬でも脳裏をよぎったことが、
恐ろしくてたまらなかった。
「……私、なんてことを考えているの……」
心の中で叫びながらも、
その声は誰にも届かない。
レギュラスの肩に回した手に力を込める。
彼を支えたかった。
けれど、支えているようでいて――
自分こそ、彼の苦しみに寄り添うふりをして、
その苦しみの上に居座っている悪魔だった。
アラン・セシールの死を、
どこかで願ってしまった瞬間から、
カサンドラの魂はもう光の側には戻れなかった。
扉の向こうから再び悲鳴が上がる。
そのたびにレギュラスの体が硬直し、
震えが強くなる。
「アラン……!」
彼のかすれた叫びが廊下に響く。
それは愛でも、絶望でもなく――
ただ“命”を呼び戻そうとする、本能そのものの声だった。
カサンドラは目を閉じた。
熱い涙が頬を伝い落ちる。
その涙は誰のためのものなのか、自分でもわからなかった。
愛する男のためなのか。
それとも、自ら堕ちていく自分への嘆きなのか。
レギュラスの肩越しに見える扉は、
微動だにせず、暗く沈黙していた。
その向こうで、愛も罪も、静かに命を削りながら――
夜が、明けようとしていた。
夜がようやく白み始めていた。
長い長い暗闇を越えて差し込む薄明かりは、
希望ではなく、残酷な現実を照らし出す光のようだった。
医務魔女が廊下に出てくる。
その表情は沈痛で、疲弊の色が濃い。
「……母体の衰弱が著しいのです。」
たったそれだけの言葉が、刃のように胸へ突き刺さる。
レギュラスはふらりと体を揺らした。
頭の奥がぼんやりと霞み、目の前が歪んでいく。
世界の輪郭が崩れ落ちるような眩暈。
「入れますか……?」
呟くように問うと、医務魔女が制止の言葉を口にするより早く、
レギュラスの足は扉の中へと踏み込んでいた。
「レギュラス様!」
制止の声が響く。
けれど、その声など、もはや耳には届いていなかった。
扉の向こう――そこは、地獄だった。
むせ返るような血の匂い。
その匂いが一瞬で肺を焼き、吐き気を覚える。
それでも一歩、また一歩と近づいた。
寝台の上、アランがぐったりと横たわっている。
額には汗が滲み、唇は青ざめ、頬は透けるほどに白い。
薄いタオルがかけられ、
その下から、血の混じった液体がぼたぼたと桶に落ちていく。
赤黒い雫が木の床を汚し、鉄のような匂いが立ち込めていた。
レギュラスは一瞬、呼吸を忘れた。
視界が滲む。
それでも――この現実から目を逸らせなかった。
「アラン……聞こえますか。」
喉の奥から、掠れた声が漏れる。
返事はない。
アランはまるで、深い眠りに落ちているかのように目を閉じたまま。
長時間に及ぶ苦痛と戦い、力尽きて意識を手放しているのだろう。
「いまだに赤子の頭が出てきません。」
助産魔女の声が、冷静すぎて残酷に響いた。
「いきむ力も、そろそろ尽きているようです。」
つまり――決断を迫られている。
“どちらを助けるのか”。
母か、子か。
レギュラスはその意味を理解した瞬間、全身が凍りついた。
呼吸ができない。
目の前が暗くなる。
今ここで、“母体を諦める”と告げれば、
医務魔女たちはすぐに子だけを救うための処置を始めるだろう。
それがブラック家の常であり、
それが“正しい判断”とされてきた。
けれど――そんな言葉、言えるはずがなかった。
唇が震える。
言葉が出ない。
喉の奥で、ただ息が擦れるだけだった。
「アラン……しっかりしてください……」
彼女の手を取る。
細く、冷たく、まるで氷のようだった。
その手を何度もさすり、温もりを戻そうとする。
「頼む……頼むから……」
声が震え、涙が零れた。
抑えようとしても、どうしても止まらない。
アランの瞼が、かすかに動く。
ほんの少しだけ、翡翠の瞳が開かれた。
焦点の合わないその目に、自分の姿が映った瞬間――
胸が張り裂けそうになった。
「……レギュラス……」
かすかな唇の動き。
声にはならなかった。
それでも、確かに自分の名を呼んだように見えた。
涙が落ちる。
その雫がアランの頬に落ちて、小さな光を残した。
「もう少しだけ……耐えてください。」
そう言いながら、彼は心の中で叫んでいた。
――酷なことを言っているのはわかっている。
――それでも、お願いだから、生きてほしい。
部屋の隅では、助産魔女たちが静かに魔法の準備を進めている。
床を這う赤い光、冷たい器具の輝き。
すべてが遠くの世界のように見えた。
レギュラスはただ、アランの手を握りしめ、
その命の鼓動を探すように耳を澄ませた。
かすかに、弱く――
まだ、そこにあった。
夜明けの光が窓を満たしていく。
血の匂いに満ちた部屋の中、
わずかな希望だけが、まだ消えずに揺れていた。
とにかく眠たかった。
まぶたが重く、世界がゆらゆらと波のように遠のいていく。
何もかもを手放して、ただ深く眠ってしまいたかった。
そうすればこの痛みも、体を貫く恐怖も、すべて忘れられる気がした。
「少しだけ……少しだけ眠らせて……」
心の中でそう願った瞬間、肩を揺さぶられた。
「アラン! だめだ、目を開けて!」
低く震える声。
その声が現実へと引き戻す。
重たいまぶたを開けると、視界が滲んだ。
そこにあったのは、顔を歪めたレギュラスだった。
いつも凛として、恐れなど知らぬ男。
鋭い灰色の瞳には、常に静かな決意と誇りが宿っていた。
けれど今の彼は、まるで別人だった。
顔色は蒼白で、瞳は焦りに濁り、唇が震えていた。
「なんて顔を……」
心の奥でそう思った。
こんなにも強い人が、こんなにも壊れそうな顔をするなんて。
――怖いものなどない人だと思っていた。
でも今、彼は確かに“恐れている”。
何を? ――たぶん、私を失うことを。
遠くの方で、助産魔女たちの声が聞こえる。
「血圧が下がっています!」
「魔法陣を再調整して!」
声がざわめき、光が揺れる。
それでも、アランの意識は少しずつ遠のいていった。
そのとき――
心の奥に、懐かしい声が響いた。
『頑張れ、アラン! 負けるな! 俺がついてる!』
シリウス。
彼の声だった。
胸の奥で、温かいものが弾ける。
懐かしい笑い声と、手のぬくもりがよみがえる。
「……シリウス……」
唇がかすかに動く。
涙が頬を伝った。
――そうだ、眠っている場合じゃない。
まだ、この子に会っていない。
あの人の血を継いだ子。
彼と自分の、たったひとつの永遠。
もう二度と共に生きていけない人との、叶わぬ約束の結晶。
“この子に、会いたい。”
その一念が、朦朧とした意識を引き戻した。
全身が痛みに軋み、呼吸をするたびに胸が焼ける。
それでも、アランはわずかに体を起こそうとする。
「アラン、無理をしないで!」
レギュラスが手を伸ばす。
その手が頬に触れた。冷たく、優しい手だった。
「大丈夫……まだ、頑張れます……」
声にならない声を絞り出す。
体の奥で、微かに何かが動いた。
痛みではなく、確かな生命の反応――子の鼓動。
その瞬間、アランの中に再び力が灯った。
「頑張ります……この子に……会うまで。」
レギュラスの瞳が揺れた。
何かを言おうと口を開き、けれど言葉が出てこない。
代わりに、震える手でアランの額の汗を拭う。
アランはその手の温もりを感じながら、
もう一度、深く息を吸い込んだ。
――痛みを超えてでも、生きたい。
――あの人にもう一度、胸を張って会いたい。
遠くで、またシリウスの声がする。
『お前ならできる。お前は、強い。』
その声を胸に抱いて、アランは最後の力を振り絞った。
夜の終わり、
薄明かりが産室を満たしはじめるころ――
アランの瞳の奥に、もう一度、生の光が宿った。
