3章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
夜の帳が屋敷を包み込む中、アランは静かにレギュラスを迎え入れた。
月光が窓から差し込み、床に淡く揺れる影を作る。
寝室の空気はひんやりと静まり返り、互いの呼吸だけがかすかに響いていた。
その夜、アランが差し出したのは、ただ静かで、穏やかな愛情だった。
シリウスと交わしたような燃え上がる情熱ではなく、腹の中に宿る命を気遣い、互いを慈しむための、落ち着いた営み。
レギュラスの求めに応じるために、アランは自分を差し出した。
愛を確かめるだけの行為ではない。
だがそれでも、今自分にできる最大限の返しであることは確かだった。
アランの体にせり上がる快楽は、久しぶりすぎてどう受け止めればいいのか、戸惑いと甘美が混ざり合う。
ゆっくりとしたリズムに身を委ねるうちに、自然と小さな声が漏れる。
それを聞き、レギュラスは間を置きながらも優しく声をかける。
「アラン……きつくないですか?」
その問いに、声で答えることはできず、アランはただかすかに頷く。
彼の優しさに触れながら、ゆっくりと、しかし確実に自らの身体は高みへと導かれていく。
この感覚は、かつて学生時代、シリウスを失った直後に知ったものだった。
失った悲しみを埋めるため、誰かに抱きしめてもらい、手を伸ばして慰めを求めていたあの夜の自分――
弱く、情けなく、どうしようもないほどに脆かった自分を思い出す。
そして今、その同じ行為を、腹の中にシリウスの子を宿した状態で、レギュラスに委ねようとしている自分を想う。
何も変わっていない自分の弱さを突きつけられるようで、胸がきしむ。
涙がこぼれそうになり、心の奥が熱く張り裂けそうになる。
けれど、レギュラスの背中にしがみつき、腕に抱かれることで、すべての苦しみは甘い沈黙に溶けていく。
与えられる快楽はただの慰めではなく、抱えきれない感情を少しずつ癒してくれる薬のようだった。
身体が震え、心が解けていくその瞬間、アランは自分の弱さも、情けなさも、すべて包み込んでくれる人がここにいることを実感する。
彼の温もりに身を預けながら、アランは小さな吐息と共に、心の奥底で静かに誓う。
この命も、これからの時間も、レギュラスと共に生きる――
その想いが、夜の静寂と月光の中で、二人を優しく包み込んでいた。
朝の光は薄い金のように屋敷の広間へと差し込み、食卓に並ぶ銀器の縁を静かに照らしていた。
空気は穏やかで、昨夜までの重苦しさが嘘のように澄み切っている。
レギュラスはその中央に座り、湯気を上げる紅茶の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。いつもなら食事の味など感じる余裕もなく、義務のように口へ運んでいたが、この朝は違った。
夜の深みに溶けるようにアランと重なり合った記憶が、まだ肌の奥で微かに熱を残していた。
そのぬくもりが胸の奥を満たし、これまで張り詰めていた心の糸を静かにほどいていく。
ようやく――本当の意味で彼女と結ばれた。
深いところで繋がり合えたという確信が、どんな栄誉や勲章よりも重たく、尊いものに思えた。
ゴブレットに施された闇の魔術の解析。
ホークラックスという禁忌の呪文に触れたときの震え。
闇の帝王が抱える不死の願望。
そして、義務のように背負わされたカサンドラとの婚姻。
全てが重くのしかかっていたはずの心が、昨夜のアランとの一夜でふっと浄化されたように軽かった。
まるで胸の奥に絡まっていた黒い糸が、月明かりの中で一本ずつほどけていったようだった。
スプーンが皿に当たる小さな音だけが響く食卓で、レギュラスは珍しくゆっくりと朝食を味わった。
いつも通りの寡黙な表情のまま、けれどその顔にはわずかな血色が戻っていた。
アランの笑みを思い出す。
あの穏やかなまなざしが、今も心のどこかに灯りのように残っている。
その光だけで今日を生きられる気がした。
「レギュラス、今夜こそ……」
ヴァルブルガの声が空気を裂く。
その声音には焦りと苛立ち、そして母としての執念が宿っていた。
いつものように息子を追い詰めるような圧。
しかしレギュラスは、その声を静かに受け止め、穏やかに微笑んだ。
「ええ。今夜は伺わせていただきます。」
ヴァルブルガの言葉に被せるように、きっぱりと告げる。
その瞬間、食卓の空気がわずかに変わった。
ヴァルブルガは一瞬、言葉を失い、眉間に皺を寄せながらも、息子の決意を察したのか、それ以上は何も言わなかった。
対面に座るカサンドラが、驚いたように顔を上げた。
その瞳の奥で、抑えきれぬほどの喜びが瞬いた。
長い間、夫としての彼の足が自室へと向かうことを夢見続けていた彼女にとって、その言葉は祈りが叶ったも同然だった。
唇が震え、けれど必死に気品を保ちながら、彼女はただ静かに微笑んだ。
その様子を横目に見ながら、レギュラスは静かにカップを持ち上げる。
琥珀色の液面に映る自分の瞳は、どこか遠くを見ていた。
彼の胸の内では、昨夜の柔らかな記憶と、これから向かう義務の狭間で、複雑な感情がせめぎ合っていた。
――アランの笑顔と、カサンドラの微笑。
どちらにも嘘はない。だが、真実は一つしか選べない。
レギュラスは静かに目を伏せ、口元にわずかな笑みを浮かべた。
それは満ち足りた男の微笑みでありながら、どこか遠くに消えていく光を見送る者の微笑でもあった。
朝の光は再び差し込み、屋敷の壁を淡く染めていた。
幸福と罪の境界が、ぼやけた光の中でゆっくりと混ざり合っていく。
レギュラスの穏やかな顔に、微かな影が落ちた。
その影は、まだ誰にも知られていない小さな歪みのように、静かに彼の心の奥に沈んでいった。
神秘部の長い廊下を渡るとき、いつもより空気が柔らかく感じられた。
レギュラスの足取りは軽い。
彼の胸の内に、前夜の静かなぬくもりがまだ微かに残っていた。
闇の帝王の野心も、ゴブレットに秘められた忌まわしい魔力も――
それらは今も彼の背後で静かに渦を巻いているはずだったが、
それでも今日に限っては、まるで遠い出来事のように感じられた。
机に向かい、羽根ペンを取る。
羊皮紙の上で文字が並んでいく音がやけに心地よい。
この数か月、緊張に張りつめていた神経がようやくほぐれ、
頭の中の雑音がすっと消えていくようだった。
思えば、久しくこんな穏やかな気分で日中を過ごせたことはなかった。
「手伝いますよ」
声が自然に出た。
隣の机で苦戦していた若い同僚が顔を上げる。
「助かります、ミスター・ブラック」
笑みを返され、レギュラスはわずかに頷いた。
今までの彼ならば、自分の職務以外に首を突っ込むことなどなかっただろう。
しかし、今日は違った。
他人の抱える小さな重荷にも、少しだけ手を貸してやりたいと思えた。
その変化に、自分でも驚いていた。
書庫から差し込む光が、古びた魔術書の背表紙を照らしている。
埃の匂いと紙の乾いた手触りが、彼の感覚を穏やかに包み込んだ。
ページの隙間に指を滑らせながら、レギュラスは小さく息を吐く。
思考を現実に引き戻すこの作業が、今の彼には心地よかった。
夜にはまた、屋敷での「義務」が待っている。
カサンドラの部屋を訪れねばならない――
それを思うと、胸の奥にわずかな憂鬱が沈殿していく。
だが、今朝アランが見せたあの柔らかな笑顔を思い出すと、
ほんの少しだけ心が浮かび上がる気がした。
机に肘をつき、ふと窓の外を見る。
陽が傾き始め、光が淡く金色に変わっていた。
この一瞬の静けさだけは、誰にも奪わせたくない。
そう思いながら、彼は再びペンを取った。
今このときだけは、
闇も罪も、遠い場所に置いておける気がした。
そしてその感覚が、彼にとって何よりの救いだった。
午前の光が、広間の大理石の床を淡く照らしていた。
アランは腹を庇いながら、ゆっくりと魔法で床を磨いていた。
水の粒が光を反射して踊るたびに、彼女の動きは慎ましく止まる。
ふと、昨夜の記憶が胸の奥に浮かび上がった。
レギュラスの手の温もり。静かな声。寄り添うように交わした夜。
それが愛だったのか、それとも罪を覆い隠すための祈りだったのか――
答えの出ない思いが胸の奥で渦を巻いている。
愛を差し出したい。
そう思うのは、もはや義務ではなく、彼の優しさに応えたいという一心だった。
シリウスの影はまだ心に根を張っている。
けれど、その痛みを抱えたままでは、レギュラスに顔向けできない。
この子を守るためには、彼の信頼に報いなければ。
それが、自分に残された唯一の贖いのような気がしていた。
そのとき、静寂を切り裂くようにヒールの音が響いた。
アランは反射的に振り向く。
陽光を背に立つヴァルブルガの姿が、黒い影のように床に長く伸びていた。
「ヴァルブルガ様……」
慌てて立ち上がり、アランは深く頭を下げた。
手にしていた雑巾が床に落ち、乾いた音を立てた。
「今日は――レギュラスがカサンドラの部屋に行きます。」
その声は、硬質なガラスのように冷たく響いた。
アランは息を呑み、顔を上げられずにいる。
ヴァルブルガの瞳は氷のように冷え切っていた。
だが、その奥には焦りと苛立ちが混ざり合っているようにも見えた。
「この意味が分かりますね?」
言葉を選びながら、アランは小さく頷いた。
わかっている。――「空気になれ」と言っているのだ。
息を潜め、存在を消し、レギュラスの視界にさえ入らないように。
それがヴァルブルガの命令であり、暗黙の支配だった。
「はい、ヴァルブルガ様……」
か細い声がようやく喉から零れる。
ヴァルブルガはしばらく無言のままアランを見下ろしていた。
その視線の重さに、アランの胸が押し潰されそうになる。
彼女の中で何かが軋むように、腹の奥がひりついた。
お腹を守るように手を添える。
自分の中にいる小さな命は、まだ知らない――
この屋敷に渦巻く憎悪と誇りと嫉妬の冷たい空気を。
ヴァルブルガは踵を返し、裾を揺らして去っていく。
残されたのは、微かな香水の香りと、重苦しい沈黙。
アランは俯いたまま、ゆっくりと深呼吸をした。
掃除用の布を拾い上げ、魔法で再び床を磨く。
けれど、もう手元は震えていた。
視界の端で光る床が、滲んで見えた。
――姿を消せ。
その命令が、まるで呪いのように胸に染みついて離れなかった。
夕暮れが屋敷の高い窓を淡く染めていた。
長い一日が静かに終わりを迎えようとしている。
夜になれば、レギュラスが戻ってくる。
今夜は――ヴァルブルガの言葉を思えば、部屋に篭るのが最も賢明なのだろう。
何も見ず、何も聞かず、ただ息を潜めていれば、嵐は通り過ぎる。
そう分かっていながら、胸の奥に小さなざわめきが消えなかった。
アランは早めに厨房へ向かった。
夜のうちに済ませておけば、誰にも気を遣わずにいられる。
けれど、扉を開いた瞬間、思わず足を止めた。
そこにはカサンドラがいた。
艶やかな金の髪を後ろでゆるくまとめ、柔らかな表情を浮かべながら、
まるで少女のように上機嫌で鍋をかき回している。
その姿には、レギュラスの妻としての気品と誇り、
そして何より“愛されたい”と願う一人の女性の温度があった。
湯気が立ちのぼる。
香ばしい香りと共に、漂ってくるのは彼女の幸福の気配。
アランはその光景を、遠くから眺めることしかできなかった。
――きっと、レギュラスのために料理をしているのだろう。
そう思うと、胸の奥がきゅっと痛んだ。
完璧だった。
彼女はフランスの名門の娘で、美しく、優雅で、
どこを切り取っても非の打ちどころがない。
純血の家に相応しい、まさに理想の令嬢。
そんな彼女が、夫を想って自ら厨房に立つ。
それは、この屋敷に似つかわしくないほど、
ひたむきで、ひどく人間らしい光景だった。
アランの心に、かつての自分の姿が重なる。
シリウスが任務から戻る夜、
彼のために小さな夕食を整えて待っていた。
魔法鍋の中でスープをかき回しながら、
帰りを待つ時間の甘やかで切ない孤独を味わっていた、
あの夜の匂いと光景が一瞬で蘇る。
――もし、レギュラスが本当にカサンドラと心を通わせるようになれたなら。
それはどれほど美しいことだろう。
カサンドラの想いがレギュラスに届き、
レギュラスの愛が彼女へと向かう。
本来あるべき愛が、本来あるべき場所に戻る。
それが叶えば、きっと世界は正しい形を取り戻す。
そしてそのときこそ、自分はようやく――
シリウスへの想いを赦せるのかもしれない。
アランは息をひとつ吐き、静かに踵を返した。
鍋の中から漂う温かな香りが、背中を刺すように痛かった。
足音を忍ばせ、厨房をあとにする。
階段を上る途中、胸の奥で微かな胎動が揺れた。
その感覚に手を添えながら、アランは小さく囁いた。
「……あなたは、愛の中で生まれてほしいの」
その言葉は、誰に届くでもなく、
ただ夜の廊下に静かに溶けていった。
屋敷の玄関をくぐると、燭台の灯が静かに揺れていた。
冷えた夜気の中、柔らかな香りが漂ってくる。
出迎えたのは――アランではなかった。
「おかえりなさいませ、レギュラス様」
その声には張りつめた優雅さがあった。
白いドレスに包まれたカサンドラが、控えめな笑みを浮かべて立っている。
整えられた髪の毛先が光を受けて金糸のように輝いていた。
その美しさは、純血貴族の令嬢という肩書きに恥じない完璧さだった。
レギュラスは一瞬、言葉を選ぶ間もなく口を開いた。
「戻りました」
彼女が差し出す微笑には、長い間待ち続けてきた切実な期待が滲んでいる。
そのことを悟った瞬間、胸の奥が重く沈んだ。
――今夜のことを、覚悟しているのだ。
母ヴァルブルガの忠告も、父の視線も、すべて彼の背中を押している。
逃げ道など、もうどこにもなかった。
食堂に入ると、テーブルの上には整然と並ぶ皿の数々。
香草の香り、バターの光沢、白い皿に映える赤いソース。
そのすべてが、彼女の手によるものだった。
見た瞬間に分かった。
完璧で、慎重で、そして――彼女なりの「愛」が形を取った料理たち。
カサンドラは緊張したように、けれどもどこか嬉しそうに彼の向かいに座った。
「いかがですか、レギュラス様」
レギュラスはスプーンを取った。
一口、二口と運ぶ。
味は悪くない。
だが――どれほど丁寧に作られた料理でも、アランが作る食事とは違う。
アランの料理は決して豪奢ではなかった。
むしろ質素で、どこか温かく、日々の暮らしに寄り添うような味がした。
それを思い出してしまった瞬間、胸の奥に淡い痛みが走った。
カサンドラの瞳は期待に満ちていた。
「お口に合いましたか?」
レギュラスは微笑みを作る。
完璧に整えられた表情の裏で、僅かな疲労が滲む。
「ええ、とても美味しいです」
その一言に、カサンドラの頬が赤く染まる。
嬉しさと安堵が混ざった笑みが咲く。
それを見て、レギュラスは胸の奥がさらに苦しくなった。
――もし、彼女が誰か別の男を想っていたとしても。
それを責める気にはなれない。
むしろ、自分の手でその道を整えてやりたいと思うほどだった。
互いに表向きは理想の夫婦を演じ、
その裏で、別の誰かを心に抱く――
そういう形のほうが、きっとずっと楽だった。
だが現実のカサンドラは、あまりに真っ直ぐで純粋だった。
夫としての彼にすべてを向けようとしている。
その想いが、痛かった。
「お気に召してよかった……」
カサンドラはほっとしたように微笑む。
その微笑を見つめながら、レギュラスは静かにグラスを傾けた。
ワインの赤が灯の光を受け、ゆらりと揺れる。
その色が、まるで心の中に沈んでいく罪のように見えた。
笑みの奥で、レギュラスは小さく息を吐く。
この家のために、家名のために、
そして――アランのために。
自分はどれほどの嘘を積み上げて生きていくのだろう。
夜が更けていく。
食卓の上の灯が、静かに二人の影を溶かしていった。
レギュラスは、静まり返った屋敷の廊下を歩いていた。
足音がやけに響く。
それはまるで、自分の罪を刻む音のようだった。
母の言葉が頭の奥で繰り返される。
――「今夜は、カサンドラの部屋へ行きなさい」
その命令は呪文のように重く、拒む余地などなかった。
覚悟を決めなければならない。
自分はブラック家の後継であり、義務を果たす存在なのだ。
感情ではなく、血筋が命じるままに。
ドアをノックすると、すぐに内側から扉が開いた。
ライラックの香りが、ふわりと流れ出てくる。
上品で柔らかい香り――カサンドラのものだ。
優雅なドレスの肩口からこぼれる白い肌、
金糸のような髪が灯りを受けて揺れていた。
「お待ちしておりました、レギュラス様」
その声音はかすかに震えていたが、笑みは崩れなかった。
純血の令嬢らしい、完璧な礼節。
それでも、彼女の胸の奥には少女のような緊張と期待が滲んでいた。
レギュラスは一歩踏み入れ、扉が音を立てて閉じる。
途端に、外の世界が遮断されたような静寂が訪れた。
「すみません、緊張していて……」
自分でも何を言っているのか分からなかった。
口数が少ない理由を誤魔化すように、そう言葉を漏らした。
「いえ……来てくださって嬉しいです」
カサンドラは少し頬を染め、手を胸に当てた。
その仕草に、アランの面影がちらつく。
――いけない。比べるな。
アランの香りはもっと甘く、柔らかく、
彼の心を撫でるように穏やかだった。
カサンドラの香りは美しい。だが、冷ややかに整いすぎている。
この違いを意識してしまった瞬間、胸の奥にざらついた痛みが走る。
彼女の肩に手を置いた。
震えるような手。
そっと押し沈めると、シーツが静かにしわを寄せた。
息が詰まる。
手が震えそうだった。
キスをした。
正式に夫婦になってから、初めて交わした口付け。
その温もりは優しかったが、どこか遠い。
心が追いつかないまま、行為は静かに進んでいく。
「レギュラス様……怖くはありません……」
彼女の声が囁くように落ちた。
それは恐れを宥める言葉というより、
“そのまま来てください”という許しのように聞こえた。
だが、身体は応えなかった。
焦りが波のように押し寄せる。
額に汗が滲む。
――なぜ、こんなにも冷たい?
なぜ、心が拒む?
必死に目を閉じる。
思い浮かんだのは――昨夜のアランだった。
月明かりの下、儚く揺れる睫毛。
触れるたびに、震えながら自分の名を呼ぶ声。
その記憶を追うようにして、熱が戻ってくる。
ようやく、行為は果たされた。
けれど、それは愛ではなかった。
彼の中で燃えていたのは、別の女の残像だった。
終わった後、カサンドラは静かに彼の胸に頬を寄せた。
「嬉しいです……」と小さく囁く声が、罪悪感をえぐった。
レギュラスは動けなかった。
腕の中の彼女は、何も知らずに安らいでいる。
その無垢さが、刃のように胸を裂いた。
――自分は、罪に罪を重ねている。
アランを裏切り、カサンドラをも欺き、
そして自分自身すら裏切っている。
天蓋のカーテンが揺れる。
夜風がほんの少し入り、蝋燭の炎が揺らめいた。
その光が、まるで自分の心のように、今にも消え入りそうに揺れていた。
翌朝の屋敷は、珍しく穏やかな空気に包まれていた。
ヴァルブルガの上機嫌な声が、いつもの冷たい朝食の時間に柔らかな波紋を落としている。
――ようやく、息子とその正妻が夫婦の契りを果たした。
その事実が、彼女の誇りをくすぐり、長年胸に溜まっていた澱のような焦りを洗い流してくれたのだろう。
満足げな笑み。
その笑みを見た瞬間、レギュラスは吐き気に似たものを覚えた。
母の喜びが、自分にとっては苦痛の象徴でしかない。
それは「正しさ」という名の檻だった。
ヴァルブルガが機嫌よくカップを傾ける。
その所作ひとつひとつが、「我が家はこれでまた完全に整った」と言わんばかりだった。
――どうか何も聞かないでくれ。
そう心の中で祈りながら、レギュラスはナイフとフォークを動かす。
まさか「昨夜はどうだったのか」などと問われるのでは、と一瞬不安が胸をよぎったが、幸いにも彼女は何も言わなかった。
ただその沈黙が、かえって痛々しかった。
アランはいつもと変わらぬ動作で、食卓を回って皿を配っていた。
何一つ乱れもない。
けれど、レギュラスの目には、彼女の動きのひとつひとつが幻のように淡く滲んで見えた。
静かに、けれど確実に彼女を目で追ってしまう。
手元のスプーンに映る彼女の姿を見つけた瞬間、心臓がわずかに跳ねた。
――彼女は、どう思っているのだろうか。
自分がカサンドラの部屋で夜を明かしたことを。
そのことを、どこか寂しいと感じてくれているだろうか。
それとも、安堵しているのだろうか。
アランの横顔には、いつも通りの静けさがあった。
笑いも、怒りも、悲しみも映っていない。
ただ、何も感じていないように見えた。
それが、何よりも辛かった。
食事が終わる頃、アランは皿を浮かせて厨房へと下げた。
魔法の水音が食堂の静けさを満たす。
レギュラスはその音に引き寄せられるように、彼女のもとへ足を運んだ。
「アラン、体調はどうです?」
問いかけながら、彼女の手元を見つめる。
透明な水の中に、皿がくるくると回っている。
「ええ、調子はいいです」
振り返った彼女の表情は穏やかで、どこまでも平静だった。
「昨夜は、よく眠れました?」
「はい、とても」
短い返事。
それきり沈黙が落ちる。
水音だけが、規則正しく響く。
――本当は、そんなことが聞きたいわけではなかった。
聞きたかったのは、「あなたは何を思っていたのですか」ということ。
自分が別の女のもとで夜を過ごしたとき、
ほんの少しでも胸が痛んだだろうか。
寂しいと感じた瞬間があっただろうか。
だが、アランの横顔には何も映っていなかった。
その沈黙が答えなのだと悟る。
胸の奥で、静かな絶望が広がっていく。
レギュラスは息を吸い込む。
鼻腔をくすぐるのは、カサンドラのライラックではなく――
アランがいつも使う、柔らかなラベンダーの香りだった。
それがかえって心を締めつけた。
――まだ、シリウスなのだろう。
彼女の心には今も、兄シリウス・ブラックの影が消えずにいる。
だから、レギュラスがどんなに近づいても、
別の女のもとで夜を明かそうとも、
アランは何も感じない。
寂しさと、どうしようもない苛立ちが、同時に胸を満たした。
静かな朝の光が、銀のスプーンの先で揺れていた。
その光が、痛みを閉じ込めるように彼の瞳の奥で震えた。
屋敷の中は深い眠りに包まれていた。
廊下のランプはひとつだけ灯っており、淡い光が絨毯の上に長い影を落としている。
レギュラスはその光の中を、音を立てぬように歩いた。
指先で扉を押すと、わずかに軋む音。
寝息の聞こえる方へ視線を向けると、アランがいた。
白い寝間着の裾が布団の端から少しだけ覗いている。
大きくなった腹を庇うように横を向き、柔らかく眉を下げたまま眠っていた。
髪は枕に散らばり、月明かりを受けて銀糸のように光っている。
頬の線が以前より少しふっくらとして見えた。
命を宿すということが、これほどまでに人を変えるのか――そんなことを思いながら、レギュラスは静かに息を吸った。
そっと近づき、膝をつく。
その寝顔を目の前にすると、胸の奥で何かが熱くなった。
彼女の頬に落ちる一筋の髪を指で払い、滑らかな肌をなぞる。
瞼の形に沿って、親指で優しく触れた。
触れた部分から、彼女の体温がゆっくりと伝わってくる。
――この人は、すべて自分のものだ。
そう思いたかった。
けれど、頭の中には別の現実がこびりついて離れない。
カサンドラから渡された、あの手紙。
兄の名で綴られた文面。
アランの名を呼び、体を案じ、「愛している」と書かれた言葉。
読んだ瞬間、心の奥で音を立てて崩れ落ちた何かが、今も形を失わずに残っている。
なぜ――なぜ、まだシリウスと繋がっているのか。
自分の腕の中にいながら、心は別のところにあるというのか。
怒りと悲しみが入り混じって、胸の奥で渦を巻く。
今すぐにでも問い詰めてしまえばいい。
目を覚まさせて、すべてを吐かせればいい。
そうすれば、この胸を締めつける疑念も少しは楽になるかもしれない。
だが、レギュラスは動けなかった。
アランの寝顔はあまりにも穏やかで、無防備だった。
目を閉じたまま、唇が微かに動く。
夢の中で誰かの名を呼んでいるのだろうか。
その誰かがシリウスであったとしても、今この瞬間だけは知りたくなかった。
彼女の頬に触れていた指先を、そっと髪へと移す。
香りがした。
柔らかく甘い香り――それは昔、ホグワーツで過ごしていた頃と同じだった。
自分たちはどこで間違ったのだろう。
純血の名に縛られ、家のために闇に身を置き、愛する者さえ正しく抱けなくなった。
それでも、いま目の前にいる彼女だけは、すべての汚れを浄化してくれるように思える。
レギュラスは、そっとアランの髪に唇を寄せた。
小さな音が夜の静寂に溶けていく。
問い詰めたい。
けれど、それ以上に――今はただ、彼女を見ていたかった。
彼女の胸の上下に合わせて、レギュラスの呼吸もゆるやかに落ち着いていく。
明け方の薄明がカーテンの隙間から差し込み、アランの頬を照らした。
光の中で、レギュラスは微かに微笑む。
怒りも嫉妬も、今だけは遠くへ追いやって。
愛しているという言葉を、声に出せぬまま胸の奥に閉じ込めて。
レギュラス・ブラックは、ただ静かに、彼女の眠りを見守り続けた。
朝の光が広間のステンドグラスを通して差し込み、床に色とりどりの影を落としていた。
屋敷には珍しく外の客が訪れていた。
アランの父、ロイク・セシール――その姿を見た瞬間、アランの胸は小さく震えた。
レギュラスが招いたのだという。
そして父オリオン・ブラックも、長い付き合いのある友人の来訪に上機嫌だった。
「娘がブラック家の子を産むことになるとは……」
ロイクは深い声でそう言い、どこか誇らしげに微笑んだ。
その笑みに滲むのは、父としての感情よりも――名家の血と名を繋ぐことへの高揚だった。
「これも我々の縁なのだろう。」
オリオンが朗らかに応じる。
貴族同士の挨拶は上辺だけでも品位があり、まるで舞踏のような滑らかさがあった。
けれどアランは、二人の会話を聞きながら胸の奥に冷たい影が落ちていくのを感じていた。
母・リシェルを亡くしてからというもの、父の瞳の中には以前の優しさがなかった。
そこに宿るのは、欲と野心の炎――それが彼を別の人間に変えてしまった。
その昔、アランがまだ少女だった頃。
ロイクは言ったのだ。
「レギュラス・ブラックの子を宿せ。そうすれば、お前はこの家の女王になれる」と。
あの時は冗談めいて笑っていた。
けれど、今ではその言葉が現実になっている。
そして父がどんな顔でその現実を見ているか――アランには、恐ろしくてたまらなかった。
もし母を失った悲しみを埋める代わりに、父が「権力」を生きる糧にしているのだとしたら。
この先、父はどこまで堕ちていくのだろう。
「お父様……お元気そうで何よりです。」
アランは努めて微笑んだ。
父の頬には年齢よりも深い皺が刻まれていた。
だがその目には、出世を果たした男の鋭い光が宿っていた。
ロイクは今や魔法省・魔法法規局の上級監督官という地位にある。
リシェルの死の弔いが、出世という形で償われる――それが現実だった。
その裏で、レギュラスとオリオンが父を引き上げたことを、アランは知っていた。
父の出世が自分の腹にいる子によって成されたことも。
「アラン、その体はもう一人のものではないんだ。
十分に用心して過ごすんだ。」
優しい言葉。
だがその優しさが、娘への愛情ではなく「未来の資産」への気遣いなのだとしたら――
胸が軋んだ。
それでもアランは微笑んで頷く。
信じたい。せめてこの一言だけは、純粋に父の心から出たものだと。
食卓の上には金の皿に並べられた果実と、ブラック家の紋章が刻まれたティーセット。
静かに香る紅茶の湯気の向こうで、父たちの声が交わる。
「魔法法規局の上級監督官などという大役を頂いて……
何と礼を申し上げればよいか。」
ロイクの声は深く、どこか芝居がかっていた。
オリオンが微笑み、レギュラスに視線を送る。
「構わんよ。娘君がそれだけのことを、この家にしてくれているのだからな」
その言葉に、レギュラスも静かに頷いた。
「ええ、アランはよく尽くしてくれています。」
柔らかな声だった。
けれど、その奥には鋭い針のような響きがあった。
――それだけのことを、我々にしてくれている。
その一言がアランの胸を締めつけた。
それは褒め言葉ではなく、契約の確認のように聞こえた。
「お前がこの屋敷に従順である限り、セシール家は安泰だ」と。
それは無言の圧力であり、警告だった。
――二度と、シリウスのような過ちを犯すな。
アランは膝の上で手を固く握りしめた。
小さく震えるその指先を、誰も見ていなかった。
父は誇らしげに笑い、オリオンは満足げに頷き、
そしてレギュラスは――黙って紅茶を口にした。
その音が、静かな広間にわずかに響いた。
それは祝福の席というよりも、
誰かの未来を静かに鎖で縛りつける儀式のように思えた。
午後の陽が傾き、屋敷の中庭に差し込む光が金色に変わり始めていた。
静かな空気の中に、先ほどまでの来客の余韻だけが漂っている。
アランの父――ロイク・セシールが帰ったあと、屋敷には再び静寂が訪れていた。
客人が帰った後の広間の香り、紅茶の残り香、整えられた椅子の並び。
すべてが整然としているのに、どこか重たかった。
その静けさを破るように、レギュラスが現れる。
彼の表情には穏やかさがあったが、その奥には計算された意図が潜んでいた。
――詰問はしない。
シリウスの手紙の件を問いただす代わりに、もっと確実な方法を選んだ。
アランに理解させるのだ。
セシール家の未来が、この屋敷の中での彼女の行動ひとつにかかっていることを。
父も一族も、自分の一言で救いも滅びも決まるという現実を。
「アラン、久しぶりにお父様に会われて……いかがでした?」
静かに問いかける声には、どこか柔らかい響きがあった。
アランは驚いたように顔を上げた。
先ほどまでの緊張が残っているのか、声はかすかに震えていた。
「ええ……母のことで塞ぎ込んでいないか心配でしたから。顔を見れて安心しました。」
その言葉を聞いたレギュラスは、わずかに微笑む。
「そうですね。魔法省でも、かなりよく働いてくださっていると聞きます。」
その言葉にアランは息を飲んだ。
「……あなたの計らいですね。すみません、父のためにまで。」
「いいえ。」
レギュラスは穏やかに首を振りながら、アランの手を取った。
彼の手はいつも通り冷たくも、しっかりと力を宿している。
癖のように、親指でアランの手の甲をなぞる。
その仕草には、優しさと同時に――支配の意識が滲んでいた。
「ロイク様のためではありません。」
低く、けれどはっきりとした声で言う。
「あなたのためにしたのです。」
一瞬、アランの呼吸が止まった。
視線を合わせることができなかった。
彼の言葉が優しいほど、その奥にある意図が鋭く胸に突き刺さる。
――父のためではなく、自分のため。
その言葉は、まるで甘い毒だった。
ロイク・セシールが魔法省で安定した地位を得ていられるのは、アランがこの屋敷にいるから。
そして、レギュラスの意に沿って行動するから。
それを彼は今、静かに、けれど確実に伝えたのだ。
アランはうつむき、そっと手を握り返す。
その仕草が「従順」である証として、レギュラスの胸に沁みた。
「……ありがとう、レギュラス。」
かすかに震える声でアランが言う。
レギュラスはその声を聞いて、満足げに微笑んだ。
アランの頬にかかる髪をそっと指で払う。
その仕草はまるで恋人を愛でるように優しかったが、
その奥にあるのは――確固たる支配欲。
窓の外では、風がカーテンを揺らしていた。
夕暮れの光が二人の姿を包み、影を重ねる。
レギュラスは静かに思う。
問い詰める必要などない。
真実を暴かずとも、彼女はもう自分の掌の中にある。
それで十分だった。
アランは気づいていた。
その「優しさ」こそが最も冷たい檻であることを。
けれど、父の未来を守るため――逃げることはできなかった。
二人の手が重なったまま、沈黙が長く流れる。
その沈黙こそが、何よりも雄弁に二人の関係を語っていた。
屋敷の二階、重厚なカーテンを閉め切った応接間に、ヴァルブルガ・ブラックは静かに座っていた。
レースのカーテン越しに差し込む光はほとんど遮られ、部屋は薄闇に沈んでいる。
香のように漂う薔薇の匂いが、どこか張り詰めた空気をさらに重たくしていた。
その唇には、笑みとも嘲りともつかぬものが浮かんでいる。
彼女は聞いたのだ――レギュラスが、あのロイクセシールを屋敷に招いたと。
「またあの男を……」
ヴァルブルガの声は冷ややかで、まるで氷を割るような響きをもっていた。
確かにロイクセシールは純血の血統をもって生まれた。
だが――純血であることと、高貴であることは決して同義ではない。
ヴァルブルガにとって、彼はあくまで「ブラック家に仕える者」にすぎなかった。
それが今や、主人と対等に言葉を交わし、魔法省の役職を授かるなど――笑止千万。
思い出す。
あの男が望んだのは、ただの褒美ではなかった。
王宮の罪を一身に背負った女リシェルを妻にと望んだのだ。
罪を共有し、恥を家に迎え入れる愚かな選択。
その女が産んだのが、アラン・セシール。
ヴァルブルガは、アランが屋敷に迎え入れられた日のことを今でも鮮明に覚えている。
細い体、儚げな眼差し。
オリオンは「ロイクの娘だから」と言って、彼女を使用人として雇い入れた。
ヴァルブルガは即座に反対した。
だが、夫は聞き入れなかった。
結果、どうだ。
――あの娘は、レギュラスを狂わせた。
家に忠誠を誓って育ったはずの息子が、いつの間にか一人の使用人に心を奪われている。
あの穢れた血の娘に。
それはまるで、かつての王宮の悲劇が再び繰り返されているようだった。
リシェル・ブラウンが国王を惑わせ、王妃を狂気に陥れたあの忌まわしい夜の再演。
「レギュラスが……王ではなく、家を壊すつもりなのね。」
呟きながら、ヴァルブルガはワイングラスの縁をなぞる。
紅い液体が光を受けて揺れ、その色がまるで血のように濃く見えた。
それだけではない。
レギュラスとオリオンは、ロイクを魔法省の魔法法規局・上級監督官に据えたのだという。
笑いが込み上げてくる。
あの男にそんな責務が務まるわけがない。
出世の影にあるのは、娘を差し出して得た醜い取引。
ヴァルブルガの視線が、窓辺に飾られた家系図へと向かう。
漆黒の枝葉を伸ばすように描かれた血統の線。
その末端にある「レギュラス・ブラック」の名を見つめながら、彼女は指先を軽く叩いた。
「ロイクセシール……娘を使い、息子を惑わせ、我が家を乗っ取る気なのね。」
その囁きは、まるで呪いのように静かで冷たかった。
もともと彼はこの家の使用人でしかなかった。
それが今では、魔法省の貴族たちに囲まれ、己を高貴だと錯覚している。
ヴァルブルガにはそれが滑稽でならなかった。
「使用人が貴族の真似事をしても、所詮は泥の上に王冠を被せただけのこと。」
グラスの中のワインを一気に飲み干す。
その瞬間、ヴァルブルガの瞳に鋭い光が宿った。
息子の未来、ブラック家の名誉――すべてを守るためならば、
穢れた枝は早いうちに切り落とさねばならない。
「アラン・セシールも、ロイク・セシールも……
この家には不要ね。」
その呟きが、広い部屋に静かに溶けていった。
まるで、遠い昔に滅びた王妃の怨嗟が、再び形を取り戻したかのように。
月光が窓から差し込み、床に淡く揺れる影を作る。
寝室の空気はひんやりと静まり返り、互いの呼吸だけがかすかに響いていた。
その夜、アランが差し出したのは、ただ静かで、穏やかな愛情だった。
シリウスと交わしたような燃え上がる情熱ではなく、腹の中に宿る命を気遣い、互いを慈しむための、落ち着いた営み。
レギュラスの求めに応じるために、アランは自分を差し出した。
愛を確かめるだけの行為ではない。
だがそれでも、今自分にできる最大限の返しであることは確かだった。
アランの体にせり上がる快楽は、久しぶりすぎてどう受け止めればいいのか、戸惑いと甘美が混ざり合う。
ゆっくりとしたリズムに身を委ねるうちに、自然と小さな声が漏れる。
それを聞き、レギュラスは間を置きながらも優しく声をかける。
「アラン……きつくないですか?」
その問いに、声で答えることはできず、アランはただかすかに頷く。
彼の優しさに触れながら、ゆっくりと、しかし確実に自らの身体は高みへと導かれていく。
この感覚は、かつて学生時代、シリウスを失った直後に知ったものだった。
失った悲しみを埋めるため、誰かに抱きしめてもらい、手を伸ばして慰めを求めていたあの夜の自分――
弱く、情けなく、どうしようもないほどに脆かった自分を思い出す。
そして今、その同じ行為を、腹の中にシリウスの子を宿した状態で、レギュラスに委ねようとしている自分を想う。
何も変わっていない自分の弱さを突きつけられるようで、胸がきしむ。
涙がこぼれそうになり、心の奥が熱く張り裂けそうになる。
けれど、レギュラスの背中にしがみつき、腕に抱かれることで、すべての苦しみは甘い沈黙に溶けていく。
与えられる快楽はただの慰めではなく、抱えきれない感情を少しずつ癒してくれる薬のようだった。
身体が震え、心が解けていくその瞬間、アランは自分の弱さも、情けなさも、すべて包み込んでくれる人がここにいることを実感する。
彼の温もりに身を預けながら、アランは小さな吐息と共に、心の奥底で静かに誓う。
この命も、これからの時間も、レギュラスと共に生きる――
その想いが、夜の静寂と月光の中で、二人を優しく包み込んでいた。
朝の光は薄い金のように屋敷の広間へと差し込み、食卓に並ぶ銀器の縁を静かに照らしていた。
空気は穏やかで、昨夜までの重苦しさが嘘のように澄み切っている。
レギュラスはその中央に座り、湯気を上げる紅茶の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。いつもなら食事の味など感じる余裕もなく、義務のように口へ運んでいたが、この朝は違った。
夜の深みに溶けるようにアランと重なり合った記憶が、まだ肌の奥で微かに熱を残していた。
そのぬくもりが胸の奥を満たし、これまで張り詰めていた心の糸を静かにほどいていく。
ようやく――本当の意味で彼女と結ばれた。
深いところで繋がり合えたという確信が、どんな栄誉や勲章よりも重たく、尊いものに思えた。
ゴブレットに施された闇の魔術の解析。
ホークラックスという禁忌の呪文に触れたときの震え。
闇の帝王が抱える不死の願望。
そして、義務のように背負わされたカサンドラとの婚姻。
全てが重くのしかかっていたはずの心が、昨夜のアランとの一夜でふっと浄化されたように軽かった。
まるで胸の奥に絡まっていた黒い糸が、月明かりの中で一本ずつほどけていったようだった。
スプーンが皿に当たる小さな音だけが響く食卓で、レギュラスは珍しくゆっくりと朝食を味わった。
いつも通りの寡黙な表情のまま、けれどその顔にはわずかな血色が戻っていた。
アランの笑みを思い出す。
あの穏やかなまなざしが、今も心のどこかに灯りのように残っている。
その光だけで今日を生きられる気がした。
「レギュラス、今夜こそ……」
ヴァルブルガの声が空気を裂く。
その声音には焦りと苛立ち、そして母としての執念が宿っていた。
いつものように息子を追い詰めるような圧。
しかしレギュラスは、その声を静かに受け止め、穏やかに微笑んだ。
「ええ。今夜は伺わせていただきます。」
ヴァルブルガの言葉に被せるように、きっぱりと告げる。
その瞬間、食卓の空気がわずかに変わった。
ヴァルブルガは一瞬、言葉を失い、眉間に皺を寄せながらも、息子の決意を察したのか、それ以上は何も言わなかった。
対面に座るカサンドラが、驚いたように顔を上げた。
その瞳の奥で、抑えきれぬほどの喜びが瞬いた。
長い間、夫としての彼の足が自室へと向かうことを夢見続けていた彼女にとって、その言葉は祈りが叶ったも同然だった。
唇が震え、けれど必死に気品を保ちながら、彼女はただ静かに微笑んだ。
その様子を横目に見ながら、レギュラスは静かにカップを持ち上げる。
琥珀色の液面に映る自分の瞳は、どこか遠くを見ていた。
彼の胸の内では、昨夜の柔らかな記憶と、これから向かう義務の狭間で、複雑な感情がせめぎ合っていた。
――アランの笑顔と、カサンドラの微笑。
どちらにも嘘はない。だが、真実は一つしか選べない。
レギュラスは静かに目を伏せ、口元にわずかな笑みを浮かべた。
それは満ち足りた男の微笑みでありながら、どこか遠くに消えていく光を見送る者の微笑でもあった。
朝の光は再び差し込み、屋敷の壁を淡く染めていた。
幸福と罪の境界が、ぼやけた光の中でゆっくりと混ざり合っていく。
レギュラスの穏やかな顔に、微かな影が落ちた。
その影は、まだ誰にも知られていない小さな歪みのように、静かに彼の心の奥に沈んでいった。
神秘部の長い廊下を渡るとき、いつもより空気が柔らかく感じられた。
レギュラスの足取りは軽い。
彼の胸の内に、前夜の静かなぬくもりがまだ微かに残っていた。
闇の帝王の野心も、ゴブレットに秘められた忌まわしい魔力も――
それらは今も彼の背後で静かに渦を巻いているはずだったが、
それでも今日に限っては、まるで遠い出来事のように感じられた。
机に向かい、羽根ペンを取る。
羊皮紙の上で文字が並んでいく音がやけに心地よい。
この数か月、緊張に張りつめていた神経がようやくほぐれ、
頭の中の雑音がすっと消えていくようだった。
思えば、久しくこんな穏やかな気分で日中を過ごせたことはなかった。
「手伝いますよ」
声が自然に出た。
隣の机で苦戦していた若い同僚が顔を上げる。
「助かります、ミスター・ブラック」
笑みを返され、レギュラスはわずかに頷いた。
今までの彼ならば、自分の職務以外に首を突っ込むことなどなかっただろう。
しかし、今日は違った。
他人の抱える小さな重荷にも、少しだけ手を貸してやりたいと思えた。
その変化に、自分でも驚いていた。
書庫から差し込む光が、古びた魔術書の背表紙を照らしている。
埃の匂いと紙の乾いた手触りが、彼の感覚を穏やかに包み込んだ。
ページの隙間に指を滑らせながら、レギュラスは小さく息を吐く。
思考を現実に引き戻すこの作業が、今の彼には心地よかった。
夜にはまた、屋敷での「義務」が待っている。
カサンドラの部屋を訪れねばならない――
それを思うと、胸の奥にわずかな憂鬱が沈殿していく。
だが、今朝アランが見せたあの柔らかな笑顔を思い出すと、
ほんの少しだけ心が浮かび上がる気がした。
机に肘をつき、ふと窓の外を見る。
陽が傾き始め、光が淡く金色に変わっていた。
この一瞬の静けさだけは、誰にも奪わせたくない。
そう思いながら、彼は再びペンを取った。
今このときだけは、
闇も罪も、遠い場所に置いておける気がした。
そしてその感覚が、彼にとって何よりの救いだった。
午前の光が、広間の大理石の床を淡く照らしていた。
アランは腹を庇いながら、ゆっくりと魔法で床を磨いていた。
水の粒が光を反射して踊るたびに、彼女の動きは慎ましく止まる。
ふと、昨夜の記憶が胸の奥に浮かび上がった。
レギュラスの手の温もり。静かな声。寄り添うように交わした夜。
それが愛だったのか、それとも罪を覆い隠すための祈りだったのか――
答えの出ない思いが胸の奥で渦を巻いている。
愛を差し出したい。
そう思うのは、もはや義務ではなく、彼の優しさに応えたいという一心だった。
シリウスの影はまだ心に根を張っている。
けれど、その痛みを抱えたままでは、レギュラスに顔向けできない。
この子を守るためには、彼の信頼に報いなければ。
それが、自分に残された唯一の贖いのような気がしていた。
そのとき、静寂を切り裂くようにヒールの音が響いた。
アランは反射的に振り向く。
陽光を背に立つヴァルブルガの姿が、黒い影のように床に長く伸びていた。
「ヴァルブルガ様……」
慌てて立ち上がり、アランは深く頭を下げた。
手にしていた雑巾が床に落ち、乾いた音を立てた。
「今日は――レギュラスがカサンドラの部屋に行きます。」
その声は、硬質なガラスのように冷たく響いた。
アランは息を呑み、顔を上げられずにいる。
ヴァルブルガの瞳は氷のように冷え切っていた。
だが、その奥には焦りと苛立ちが混ざり合っているようにも見えた。
「この意味が分かりますね?」
言葉を選びながら、アランは小さく頷いた。
わかっている。――「空気になれ」と言っているのだ。
息を潜め、存在を消し、レギュラスの視界にさえ入らないように。
それがヴァルブルガの命令であり、暗黙の支配だった。
「はい、ヴァルブルガ様……」
か細い声がようやく喉から零れる。
ヴァルブルガはしばらく無言のままアランを見下ろしていた。
その視線の重さに、アランの胸が押し潰されそうになる。
彼女の中で何かが軋むように、腹の奥がひりついた。
お腹を守るように手を添える。
自分の中にいる小さな命は、まだ知らない――
この屋敷に渦巻く憎悪と誇りと嫉妬の冷たい空気を。
ヴァルブルガは踵を返し、裾を揺らして去っていく。
残されたのは、微かな香水の香りと、重苦しい沈黙。
アランは俯いたまま、ゆっくりと深呼吸をした。
掃除用の布を拾い上げ、魔法で再び床を磨く。
けれど、もう手元は震えていた。
視界の端で光る床が、滲んで見えた。
――姿を消せ。
その命令が、まるで呪いのように胸に染みついて離れなかった。
夕暮れが屋敷の高い窓を淡く染めていた。
長い一日が静かに終わりを迎えようとしている。
夜になれば、レギュラスが戻ってくる。
今夜は――ヴァルブルガの言葉を思えば、部屋に篭るのが最も賢明なのだろう。
何も見ず、何も聞かず、ただ息を潜めていれば、嵐は通り過ぎる。
そう分かっていながら、胸の奥に小さなざわめきが消えなかった。
アランは早めに厨房へ向かった。
夜のうちに済ませておけば、誰にも気を遣わずにいられる。
けれど、扉を開いた瞬間、思わず足を止めた。
そこにはカサンドラがいた。
艶やかな金の髪を後ろでゆるくまとめ、柔らかな表情を浮かべながら、
まるで少女のように上機嫌で鍋をかき回している。
その姿には、レギュラスの妻としての気品と誇り、
そして何より“愛されたい”と願う一人の女性の温度があった。
湯気が立ちのぼる。
香ばしい香りと共に、漂ってくるのは彼女の幸福の気配。
アランはその光景を、遠くから眺めることしかできなかった。
――きっと、レギュラスのために料理をしているのだろう。
そう思うと、胸の奥がきゅっと痛んだ。
完璧だった。
彼女はフランスの名門の娘で、美しく、優雅で、
どこを切り取っても非の打ちどころがない。
純血の家に相応しい、まさに理想の令嬢。
そんな彼女が、夫を想って自ら厨房に立つ。
それは、この屋敷に似つかわしくないほど、
ひたむきで、ひどく人間らしい光景だった。
アランの心に、かつての自分の姿が重なる。
シリウスが任務から戻る夜、
彼のために小さな夕食を整えて待っていた。
魔法鍋の中でスープをかき回しながら、
帰りを待つ時間の甘やかで切ない孤独を味わっていた、
あの夜の匂いと光景が一瞬で蘇る。
――もし、レギュラスが本当にカサンドラと心を通わせるようになれたなら。
それはどれほど美しいことだろう。
カサンドラの想いがレギュラスに届き、
レギュラスの愛が彼女へと向かう。
本来あるべき愛が、本来あるべき場所に戻る。
それが叶えば、きっと世界は正しい形を取り戻す。
そしてそのときこそ、自分はようやく――
シリウスへの想いを赦せるのかもしれない。
アランは息をひとつ吐き、静かに踵を返した。
鍋の中から漂う温かな香りが、背中を刺すように痛かった。
足音を忍ばせ、厨房をあとにする。
階段を上る途中、胸の奥で微かな胎動が揺れた。
その感覚に手を添えながら、アランは小さく囁いた。
「……あなたは、愛の中で生まれてほしいの」
その言葉は、誰に届くでもなく、
ただ夜の廊下に静かに溶けていった。
屋敷の玄関をくぐると、燭台の灯が静かに揺れていた。
冷えた夜気の中、柔らかな香りが漂ってくる。
出迎えたのは――アランではなかった。
「おかえりなさいませ、レギュラス様」
その声には張りつめた優雅さがあった。
白いドレスに包まれたカサンドラが、控えめな笑みを浮かべて立っている。
整えられた髪の毛先が光を受けて金糸のように輝いていた。
その美しさは、純血貴族の令嬢という肩書きに恥じない完璧さだった。
レギュラスは一瞬、言葉を選ぶ間もなく口を開いた。
「戻りました」
彼女が差し出す微笑には、長い間待ち続けてきた切実な期待が滲んでいる。
そのことを悟った瞬間、胸の奥が重く沈んだ。
――今夜のことを、覚悟しているのだ。
母ヴァルブルガの忠告も、父の視線も、すべて彼の背中を押している。
逃げ道など、もうどこにもなかった。
食堂に入ると、テーブルの上には整然と並ぶ皿の数々。
香草の香り、バターの光沢、白い皿に映える赤いソース。
そのすべてが、彼女の手によるものだった。
見た瞬間に分かった。
完璧で、慎重で、そして――彼女なりの「愛」が形を取った料理たち。
カサンドラは緊張したように、けれどもどこか嬉しそうに彼の向かいに座った。
「いかがですか、レギュラス様」
レギュラスはスプーンを取った。
一口、二口と運ぶ。
味は悪くない。
だが――どれほど丁寧に作られた料理でも、アランが作る食事とは違う。
アランの料理は決して豪奢ではなかった。
むしろ質素で、どこか温かく、日々の暮らしに寄り添うような味がした。
それを思い出してしまった瞬間、胸の奥に淡い痛みが走った。
カサンドラの瞳は期待に満ちていた。
「お口に合いましたか?」
レギュラスは微笑みを作る。
完璧に整えられた表情の裏で、僅かな疲労が滲む。
「ええ、とても美味しいです」
その一言に、カサンドラの頬が赤く染まる。
嬉しさと安堵が混ざった笑みが咲く。
それを見て、レギュラスは胸の奥がさらに苦しくなった。
――もし、彼女が誰か別の男を想っていたとしても。
それを責める気にはなれない。
むしろ、自分の手でその道を整えてやりたいと思うほどだった。
互いに表向きは理想の夫婦を演じ、
その裏で、別の誰かを心に抱く――
そういう形のほうが、きっとずっと楽だった。
だが現実のカサンドラは、あまりに真っ直ぐで純粋だった。
夫としての彼にすべてを向けようとしている。
その想いが、痛かった。
「お気に召してよかった……」
カサンドラはほっとしたように微笑む。
その微笑を見つめながら、レギュラスは静かにグラスを傾けた。
ワインの赤が灯の光を受け、ゆらりと揺れる。
その色が、まるで心の中に沈んでいく罪のように見えた。
笑みの奥で、レギュラスは小さく息を吐く。
この家のために、家名のために、
そして――アランのために。
自分はどれほどの嘘を積み上げて生きていくのだろう。
夜が更けていく。
食卓の上の灯が、静かに二人の影を溶かしていった。
レギュラスは、静まり返った屋敷の廊下を歩いていた。
足音がやけに響く。
それはまるで、自分の罪を刻む音のようだった。
母の言葉が頭の奥で繰り返される。
――「今夜は、カサンドラの部屋へ行きなさい」
その命令は呪文のように重く、拒む余地などなかった。
覚悟を決めなければならない。
自分はブラック家の後継であり、義務を果たす存在なのだ。
感情ではなく、血筋が命じるままに。
ドアをノックすると、すぐに内側から扉が開いた。
ライラックの香りが、ふわりと流れ出てくる。
上品で柔らかい香り――カサンドラのものだ。
優雅なドレスの肩口からこぼれる白い肌、
金糸のような髪が灯りを受けて揺れていた。
「お待ちしておりました、レギュラス様」
その声音はかすかに震えていたが、笑みは崩れなかった。
純血の令嬢らしい、完璧な礼節。
それでも、彼女の胸の奥には少女のような緊張と期待が滲んでいた。
レギュラスは一歩踏み入れ、扉が音を立てて閉じる。
途端に、外の世界が遮断されたような静寂が訪れた。
「すみません、緊張していて……」
自分でも何を言っているのか分からなかった。
口数が少ない理由を誤魔化すように、そう言葉を漏らした。
「いえ……来てくださって嬉しいです」
カサンドラは少し頬を染め、手を胸に当てた。
その仕草に、アランの面影がちらつく。
――いけない。比べるな。
アランの香りはもっと甘く、柔らかく、
彼の心を撫でるように穏やかだった。
カサンドラの香りは美しい。だが、冷ややかに整いすぎている。
この違いを意識してしまった瞬間、胸の奥にざらついた痛みが走る。
彼女の肩に手を置いた。
震えるような手。
そっと押し沈めると、シーツが静かにしわを寄せた。
息が詰まる。
手が震えそうだった。
キスをした。
正式に夫婦になってから、初めて交わした口付け。
その温もりは優しかったが、どこか遠い。
心が追いつかないまま、行為は静かに進んでいく。
「レギュラス様……怖くはありません……」
彼女の声が囁くように落ちた。
それは恐れを宥める言葉というより、
“そのまま来てください”という許しのように聞こえた。
だが、身体は応えなかった。
焦りが波のように押し寄せる。
額に汗が滲む。
――なぜ、こんなにも冷たい?
なぜ、心が拒む?
必死に目を閉じる。
思い浮かんだのは――昨夜のアランだった。
月明かりの下、儚く揺れる睫毛。
触れるたびに、震えながら自分の名を呼ぶ声。
その記憶を追うようにして、熱が戻ってくる。
ようやく、行為は果たされた。
けれど、それは愛ではなかった。
彼の中で燃えていたのは、別の女の残像だった。
終わった後、カサンドラは静かに彼の胸に頬を寄せた。
「嬉しいです……」と小さく囁く声が、罪悪感をえぐった。
レギュラスは動けなかった。
腕の中の彼女は、何も知らずに安らいでいる。
その無垢さが、刃のように胸を裂いた。
――自分は、罪に罪を重ねている。
アランを裏切り、カサンドラをも欺き、
そして自分自身すら裏切っている。
天蓋のカーテンが揺れる。
夜風がほんの少し入り、蝋燭の炎が揺らめいた。
その光が、まるで自分の心のように、今にも消え入りそうに揺れていた。
翌朝の屋敷は、珍しく穏やかな空気に包まれていた。
ヴァルブルガの上機嫌な声が、いつもの冷たい朝食の時間に柔らかな波紋を落としている。
――ようやく、息子とその正妻が夫婦の契りを果たした。
その事実が、彼女の誇りをくすぐり、長年胸に溜まっていた澱のような焦りを洗い流してくれたのだろう。
満足げな笑み。
その笑みを見た瞬間、レギュラスは吐き気に似たものを覚えた。
母の喜びが、自分にとっては苦痛の象徴でしかない。
それは「正しさ」という名の檻だった。
ヴァルブルガが機嫌よくカップを傾ける。
その所作ひとつひとつが、「我が家はこれでまた完全に整った」と言わんばかりだった。
――どうか何も聞かないでくれ。
そう心の中で祈りながら、レギュラスはナイフとフォークを動かす。
まさか「昨夜はどうだったのか」などと問われるのでは、と一瞬不安が胸をよぎったが、幸いにも彼女は何も言わなかった。
ただその沈黙が、かえって痛々しかった。
アランはいつもと変わらぬ動作で、食卓を回って皿を配っていた。
何一つ乱れもない。
けれど、レギュラスの目には、彼女の動きのひとつひとつが幻のように淡く滲んで見えた。
静かに、けれど確実に彼女を目で追ってしまう。
手元のスプーンに映る彼女の姿を見つけた瞬間、心臓がわずかに跳ねた。
――彼女は、どう思っているのだろうか。
自分がカサンドラの部屋で夜を明かしたことを。
そのことを、どこか寂しいと感じてくれているだろうか。
それとも、安堵しているのだろうか。
アランの横顔には、いつも通りの静けさがあった。
笑いも、怒りも、悲しみも映っていない。
ただ、何も感じていないように見えた。
それが、何よりも辛かった。
食事が終わる頃、アランは皿を浮かせて厨房へと下げた。
魔法の水音が食堂の静けさを満たす。
レギュラスはその音に引き寄せられるように、彼女のもとへ足を運んだ。
「アラン、体調はどうです?」
問いかけながら、彼女の手元を見つめる。
透明な水の中に、皿がくるくると回っている。
「ええ、調子はいいです」
振り返った彼女の表情は穏やかで、どこまでも平静だった。
「昨夜は、よく眠れました?」
「はい、とても」
短い返事。
それきり沈黙が落ちる。
水音だけが、規則正しく響く。
――本当は、そんなことが聞きたいわけではなかった。
聞きたかったのは、「あなたは何を思っていたのですか」ということ。
自分が別の女のもとで夜を過ごしたとき、
ほんの少しでも胸が痛んだだろうか。
寂しいと感じた瞬間があっただろうか。
だが、アランの横顔には何も映っていなかった。
その沈黙が答えなのだと悟る。
胸の奥で、静かな絶望が広がっていく。
レギュラスは息を吸い込む。
鼻腔をくすぐるのは、カサンドラのライラックではなく――
アランがいつも使う、柔らかなラベンダーの香りだった。
それがかえって心を締めつけた。
――まだ、シリウスなのだろう。
彼女の心には今も、兄シリウス・ブラックの影が消えずにいる。
だから、レギュラスがどんなに近づいても、
別の女のもとで夜を明かそうとも、
アランは何も感じない。
寂しさと、どうしようもない苛立ちが、同時に胸を満たした。
静かな朝の光が、銀のスプーンの先で揺れていた。
その光が、痛みを閉じ込めるように彼の瞳の奥で震えた。
屋敷の中は深い眠りに包まれていた。
廊下のランプはひとつだけ灯っており、淡い光が絨毯の上に長い影を落としている。
レギュラスはその光の中を、音を立てぬように歩いた。
指先で扉を押すと、わずかに軋む音。
寝息の聞こえる方へ視線を向けると、アランがいた。
白い寝間着の裾が布団の端から少しだけ覗いている。
大きくなった腹を庇うように横を向き、柔らかく眉を下げたまま眠っていた。
髪は枕に散らばり、月明かりを受けて銀糸のように光っている。
頬の線が以前より少しふっくらとして見えた。
命を宿すということが、これほどまでに人を変えるのか――そんなことを思いながら、レギュラスは静かに息を吸った。
そっと近づき、膝をつく。
その寝顔を目の前にすると、胸の奥で何かが熱くなった。
彼女の頬に落ちる一筋の髪を指で払い、滑らかな肌をなぞる。
瞼の形に沿って、親指で優しく触れた。
触れた部分から、彼女の体温がゆっくりと伝わってくる。
――この人は、すべて自分のものだ。
そう思いたかった。
けれど、頭の中には別の現実がこびりついて離れない。
カサンドラから渡された、あの手紙。
兄の名で綴られた文面。
アランの名を呼び、体を案じ、「愛している」と書かれた言葉。
読んだ瞬間、心の奥で音を立てて崩れ落ちた何かが、今も形を失わずに残っている。
なぜ――なぜ、まだシリウスと繋がっているのか。
自分の腕の中にいながら、心は別のところにあるというのか。
怒りと悲しみが入り混じって、胸の奥で渦を巻く。
今すぐにでも問い詰めてしまえばいい。
目を覚まさせて、すべてを吐かせればいい。
そうすれば、この胸を締めつける疑念も少しは楽になるかもしれない。
だが、レギュラスは動けなかった。
アランの寝顔はあまりにも穏やかで、無防備だった。
目を閉じたまま、唇が微かに動く。
夢の中で誰かの名を呼んでいるのだろうか。
その誰かがシリウスであったとしても、今この瞬間だけは知りたくなかった。
彼女の頬に触れていた指先を、そっと髪へと移す。
香りがした。
柔らかく甘い香り――それは昔、ホグワーツで過ごしていた頃と同じだった。
自分たちはどこで間違ったのだろう。
純血の名に縛られ、家のために闇に身を置き、愛する者さえ正しく抱けなくなった。
それでも、いま目の前にいる彼女だけは、すべての汚れを浄化してくれるように思える。
レギュラスは、そっとアランの髪に唇を寄せた。
小さな音が夜の静寂に溶けていく。
問い詰めたい。
けれど、それ以上に――今はただ、彼女を見ていたかった。
彼女の胸の上下に合わせて、レギュラスの呼吸もゆるやかに落ち着いていく。
明け方の薄明がカーテンの隙間から差し込み、アランの頬を照らした。
光の中で、レギュラスは微かに微笑む。
怒りも嫉妬も、今だけは遠くへ追いやって。
愛しているという言葉を、声に出せぬまま胸の奥に閉じ込めて。
レギュラス・ブラックは、ただ静かに、彼女の眠りを見守り続けた。
朝の光が広間のステンドグラスを通して差し込み、床に色とりどりの影を落としていた。
屋敷には珍しく外の客が訪れていた。
アランの父、ロイク・セシール――その姿を見た瞬間、アランの胸は小さく震えた。
レギュラスが招いたのだという。
そして父オリオン・ブラックも、長い付き合いのある友人の来訪に上機嫌だった。
「娘がブラック家の子を産むことになるとは……」
ロイクは深い声でそう言い、どこか誇らしげに微笑んだ。
その笑みに滲むのは、父としての感情よりも――名家の血と名を繋ぐことへの高揚だった。
「これも我々の縁なのだろう。」
オリオンが朗らかに応じる。
貴族同士の挨拶は上辺だけでも品位があり、まるで舞踏のような滑らかさがあった。
けれどアランは、二人の会話を聞きながら胸の奥に冷たい影が落ちていくのを感じていた。
母・リシェルを亡くしてからというもの、父の瞳の中には以前の優しさがなかった。
そこに宿るのは、欲と野心の炎――それが彼を別の人間に変えてしまった。
その昔、アランがまだ少女だった頃。
ロイクは言ったのだ。
「レギュラス・ブラックの子を宿せ。そうすれば、お前はこの家の女王になれる」と。
あの時は冗談めいて笑っていた。
けれど、今ではその言葉が現実になっている。
そして父がどんな顔でその現実を見ているか――アランには、恐ろしくてたまらなかった。
もし母を失った悲しみを埋める代わりに、父が「権力」を生きる糧にしているのだとしたら。
この先、父はどこまで堕ちていくのだろう。
「お父様……お元気そうで何よりです。」
アランは努めて微笑んだ。
父の頬には年齢よりも深い皺が刻まれていた。
だがその目には、出世を果たした男の鋭い光が宿っていた。
ロイクは今や魔法省・魔法法規局の上級監督官という地位にある。
リシェルの死の弔いが、出世という形で償われる――それが現実だった。
その裏で、レギュラスとオリオンが父を引き上げたことを、アランは知っていた。
父の出世が自分の腹にいる子によって成されたことも。
「アラン、その体はもう一人のものではないんだ。
十分に用心して過ごすんだ。」
優しい言葉。
だがその優しさが、娘への愛情ではなく「未来の資産」への気遣いなのだとしたら――
胸が軋んだ。
それでもアランは微笑んで頷く。
信じたい。せめてこの一言だけは、純粋に父の心から出たものだと。
食卓の上には金の皿に並べられた果実と、ブラック家の紋章が刻まれたティーセット。
静かに香る紅茶の湯気の向こうで、父たちの声が交わる。
「魔法法規局の上級監督官などという大役を頂いて……
何と礼を申し上げればよいか。」
ロイクの声は深く、どこか芝居がかっていた。
オリオンが微笑み、レギュラスに視線を送る。
「構わんよ。娘君がそれだけのことを、この家にしてくれているのだからな」
その言葉に、レギュラスも静かに頷いた。
「ええ、アランはよく尽くしてくれています。」
柔らかな声だった。
けれど、その奥には鋭い針のような響きがあった。
――それだけのことを、我々にしてくれている。
その一言がアランの胸を締めつけた。
それは褒め言葉ではなく、契約の確認のように聞こえた。
「お前がこの屋敷に従順である限り、セシール家は安泰だ」と。
それは無言の圧力であり、警告だった。
――二度と、シリウスのような過ちを犯すな。
アランは膝の上で手を固く握りしめた。
小さく震えるその指先を、誰も見ていなかった。
父は誇らしげに笑い、オリオンは満足げに頷き、
そしてレギュラスは――黙って紅茶を口にした。
その音が、静かな広間にわずかに響いた。
それは祝福の席というよりも、
誰かの未来を静かに鎖で縛りつける儀式のように思えた。
午後の陽が傾き、屋敷の中庭に差し込む光が金色に変わり始めていた。
静かな空気の中に、先ほどまでの来客の余韻だけが漂っている。
アランの父――ロイク・セシールが帰ったあと、屋敷には再び静寂が訪れていた。
客人が帰った後の広間の香り、紅茶の残り香、整えられた椅子の並び。
すべてが整然としているのに、どこか重たかった。
その静けさを破るように、レギュラスが現れる。
彼の表情には穏やかさがあったが、その奥には計算された意図が潜んでいた。
――詰問はしない。
シリウスの手紙の件を問いただす代わりに、もっと確実な方法を選んだ。
アランに理解させるのだ。
セシール家の未来が、この屋敷の中での彼女の行動ひとつにかかっていることを。
父も一族も、自分の一言で救いも滅びも決まるという現実を。
「アラン、久しぶりにお父様に会われて……いかがでした?」
静かに問いかける声には、どこか柔らかい響きがあった。
アランは驚いたように顔を上げた。
先ほどまでの緊張が残っているのか、声はかすかに震えていた。
「ええ……母のことで塞ぎ込んでいないか心配でしたから。顔を見れて安心しました。」
その言葉を聞いたレギュラスは、わずかに微笑む。
「そうですね。魔法省でも、かなりよく働いてくださっていると聞きます。」
その言葉にアランは息を飲んだ。
「……あなたの計らいですね。すみません、父のためにまで。」
「いいえ。」
レギュラスは穏やかに首を振りながら、アランの手を取った。
彼の手はいつも通り冷たくも、しっかりと力を宿している。
癖のように、親指でアランの手の甲をなぞる。
その仕草には、優しさと同時に――支配の意識が滲んでいた。
「ロイク様のためではありません。」
低く、けれどはっきりとした声で言う。
「あなたのためにしたのです。」
一瞬、アランの呼吸が止まった。
視線を合わせることができなかった。
彼の言葉が優しいほど、その奥にある意図が鋭く胸に突き刺さる。
――父のためではなく、自分のため。
その言葉は、まるで甘い毒だった。
ロイク・セシールが魔法省で安定した地位を得ていられるのは、アランがこの屋敷にいるから。
そして、レギュラスの意に沿って行動するから。
それを彼は今、静かに、けれど確実に伝えたのだ。
アランはうつむき、そっと手を握り返す。
その仕草が「従順」である証として、レギュラスの胸に沁みた。
「……ありがとう、レギュラス。」
かすかに震える声でアランが言う。
レギュラスはその声を聞いて、満足げに微笑んだ。
アランの頬にかかる髪をそっと指で払う。
その仕草はまるで恋人を愛でるように優しかったが、
その奥にあるのは――確固たる支配欲。
窓の外では、風がカーテンを揺らしていた。
夕暮れの光が二人の姿を包み、影を重ねる。
レギュラスは静かに思う。
問い詰める必要などない。
真実を暴かずとも、彼女はもう自分の掌の中にある。
それで十分だった。
アランは気づいていた。
その「優しさ」こそが最も冷たい檻であることを。
けれど、父の未来を守るため――逃げることはできなかった。
二人の手が重なったまま、沈黙が長く流れる。
その沈黙こそが、何よりも雄弁に二人の関係を語っていた。
屋敷の二階、重厚なカーテンを閉め切った応接間に、ヴァルブルガ・ブラックは静かに座っていた。
レースのカーテン越しに差し込む光はほとんど遮られ、部屋は薄闇に沈んでいる。
香のように漂う薔薇の匂いが、どこか張り詰めた空気をさらに重たくしていた。
その唇には、笑みとも嘲りともつかぬものが浮かんでいる。
彼女は聞いたのだ――レギュラスが、あのロイクセシールを屋敷に招いたと。
「またあの男を……」
ヴァルブルガの声は冷ややかで、まるで氷を割るような響きをもっていた。
確かにロイクセシールは純血の血統をもって生まれた。
だが――純血であることと、高貴であることは決して同義ではない。
ヴァルブルガにとって、彼はあくまで「ブラック家に仕える者」にすぎなかった。
それが今や、主人と対等に言葉を交わし、魔法省の役職を授かるなど――笑止千万。
思い出す。
あの男が望んだのは、ただの褒美ではなかった。
王宮の罪を一身に背負った女リシェルを妻にと望んだのだ。
罪を共有し、恥を家に迎え入れる愚かな選択。
その女が産んだのが、アラン・セシール。
ヴァルブルガは、アランが屋敷に迎え入れられた日のことを今でも鮮明に覚えている。
細い体、儚げな眼差し。
オリオンは「ロイクの娘だから」と言って、彼女を使用人として雇い入れた。
ヴァルブルガは即座に反対した。
だが、夫は聞き入れなかった。
結果、どうだ。
――あの娘は、レギュラスを狂わせた。
家に忠誠を誓って育ったはずの息子が、いつの間にか一人の使用人に心を奪われている。
あの穢れた血の娘に。
それはまるで、かつての王宮の悲劇が再び繰り返されているようだった。
リシェル・ブラウンが国王を惑わせ、王妃を狂気に陥れたあの忌まわしい夜の再演。
「レギュラスが……王ではなく、家を壊すつもりなのね。」
呟きながら、ヴァルブルガはワイングラスの縁をなぞる。
紅い液体が光を受けて揺れ、その色がまるで血のように濃く見えた。
それだけではない。
レギュラスとオリオンは、ロイクを魔法省の魔法法規局・上級監督官に据えたのだという。
笑いが込み上げてくる。
あの男にそんな責務が務まるわけがない。
出世の影にあるのは、娘を差し出して得た醜い取引。
ヴァルブルガの視線が、窓辺に飾られた家系図へと向かう。
漆黒の枝葉を伸ばすように描かれた血統の線。
その末端にある「レギュラス・ブラック」の名を見つめながら、彼女は指先を軽く叩いた。
「ロイクセシール……娘を使い、息子を惑わせ、我が家を乗っ取る気なのね。」
その囁きは、まるで呪いのように静かで冷たかった。
もともと彼はこの家の使用人でしかなかった。
それが今では、魔法省の貴族たちに囲まれ、己を高貴だと錯覚している。
ヴァルブルガにはそれが滑稽でならなかった。
「使用人が貴族の真似事をしても、所詮は泥の上に王冠を被せただけのこと。」
グラスの中のワインを一気に飲み干す。
その瞬間、ヴァルブルガの瞳に鋭い光が宿った。
息子の未来、ブラック家の名誉――すべてを守るためならば、
穢れた枝は早いうちに切り落とさねばならない。
「アラン・セシールも、ロイク・セシールも……
この家には不要ね。」
その呟きが、広い部屋に静かに溶けていった。
まるで、遠い昔に滅びた王妃の怨嗟が、再び形を取り戻したかのように。
