3章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
レギュラスは重い扉を押し開けた。
その向こうには、まるで嵐のような空気が満ちていた。
絹のカーテンが静かに揺れる広間。そこに立つヴァルブルガの姿は、氷の彫像のように凛とし、そして恐ろしく美しかった。
その横には、椅子に深く腰を下ろしたオリオンがいる。無言のままパイプを手にしていたが、その静けさの裏には確かな重圧が潜んでいた。
「お呼びでしょうか、母上。」
レギュラスが一礼すると、ヴァルブルガはすぐに声を上げた。
その声音は、冷ややかな怒りを隠しきれていなかった。
「何を考えているのです、レギュラス。」
一言一言が刃のように鋭く、空気を切り裂いていく。
「正妻を差し置いて、使用人が先に身籠るなど――ブラック家の恥です。」
その言葉に、レギュラスはゆっくりと息を吸った。
怒りに燃える母の前では、どんな正論も反論も意味をなさないことを、彼はもう何度も経験してきている。
それでも、黙っていることだけはしたくなかった。
「申し訳ありません、母上。」
レギュラスは静かに口を開いた。
「ですが……血を継ぐ者は、多ければ多いほど良いのではないかと思います。」
一瞬、室内の空気が凍りついた。
ヴァルブルガの目が見開かれ、唇が震える。怒りが一気に噴き上がる。
「最初に生まれるべきは、カサンドラとの子でなければなりません!」
その声には、怒号に似た響きがあった。
「あなたはブラック家の跡継ぎなのですよ、レギュラス。血の序列を乱すようなことは、決して許されません!」
ヴァルブルガの白い手がテーブルを打つ。
水の入ったグラスが小さく震え、その揺れがまるで彼女の怒りの震源を示しているかのようだった。
レギュラスは眉をわずかに寄せた。
――母は変わらない。どれほどの時を経ても、血と名誉の話ばかりだ。
疲労が胸の奥にじわりと滲む。
彼の瞳は静かに伏せられた。
「そのうち、できるだろう。」
低く響くオリオンの声が、室内に重く落ちる。
「心配はいらん。」
父の言葉は、ヴァルブルガを宥めるためのものにも聞こえたが、同時に――
“お前もそろそろ正妻を蔑ろにするな”
という無言の圧力を含んでいた。
レギュラスはわずかに背筋を伸ばす。
その一瞬、父の視線が突き刺さるように感じた。
――叱責ではない。ただの釘を刺すような静かな力。
だが、それがかえって効いた。
「承知しました。」
レギュラスは深く頭を下げた。
沈黙が流れる。
火の灯った暖炉がぱちぱちと音を立てるだけだった。
ヴァルブルガは腕を組んだまま、遠い天井を見つめている。
オリオンは再びパイプを口に運び、煙の輪を静かに吐き出した。
レギュラスは視線を床に落としながら、自分に言い聞かせるように思う。
――カサンドラとのことを、もうそろそろ本気で考えなければならない。
あれほど聡明で、誇り高い女をどれだけ待たせているのか。
彼女の瞳に宿る孤独と諦めの色を、見て見ぬふりをしてきた。
それでも、どうしても足が向かなかった。
ほんの数回、彼女の部屋を訪れて、夫としての務めを果たしたという「事実」さえあれば――
母の怒りも、世間の噂も、少しは鎮まるのかもしれない。
けれど、その“ほんの数回”が、どうしてもできなかった。
扉の外に出ると、廊下の空気が冷たく肌を撫でた。
レギュラスはふと天井を仰ぐ。
屋敷の古びたランプが、淡い灯を揺らしている。
――愛されたいと願う相手は、別の人間だった。
それを知っているからこそ、カサンドラの部屋の扉が、あまりにも重く見えた。
彼は静かに息を吐く。
その吐息が、心の底に沈んだ“諦め”という泥を少しだけ攪拌させた。
そしてその夜も、結局カサンドラの扉を叩くことはなかった。
屋敷の空気は、いつになく重たかった。
アラン・セシールの懐妊という報せは、まるで静寂の湖面に落とされた黒い石のように、波紋を広げながらブラック家の隅々にまで動揺を走らせていた。
ヴァルブルガは、書斎で背筋を伸ばしたまま椅子に腰掛けていた。
けれど、その優美な姿勢の下で、彼女の内側は怒りと焦燥に燃えている。
「何を考えているのです、レギュラス!」
あの朝以来、何度この言葉を繰り返しただろう。
カサンドラという正妻がいながら、使用人である女に手を出した――
それだけでもヴァルブルガの誇りを深く傷つけたというのに、今やその女が身籠っているというのだ。
それも、ブラック家の名の下に。
彼女の白い指が、机の上の銀のペンを握りつぶさんばかりに強張る。
怒りを抑えきれず、紅を引いた唇が震えた。
「いつになったら、あの子は正妻の部屋へ行くの……。あれではロズィエ家に顔向けができません。」
傍らに控えていた侍女が息を呑む。
ヴァルブルガの怒りは烈火のように燃え上がりながらも、しかしその炎の底には、恐れにも似た陰があった。
確かに、オリオンの言うとおりだった。
「血を継ぐものは、多ければ多いほどよい。」
その思想は、古くからブラック家に根づくもの。
純血の継承こそが、何よりも価値を持つ――それがこの家の絶対的な信念だった。
もしアランが産む子が男であれば、それは確かに“跡取り”たりえる。
私生児であろうと、間違いなくブラックの血を引いている。
その事実を理屈では否定できない。
けれど――ヴァルブルガにとって、理屈などどうでもよかった。
心が拒絶していた。
「……あの女の血が、この家の中心に混じるというの?」
低く押し殺した声が、まるで毒のように空気を濁らせた。
どれほど完璧に磨き上げた床も、金糸で縫われたカーテンも、今はすべてが薄汚れて見える。
“穢される”という感覚が、彼女の全身を蝕んでいた。
そんなとき、窓の外に目をやると、長い廊下の先にアラン・セシールの姿が見えた。
陽光の差し込む床を、膝をついて静かに磨いている。
彼女の動きは柔らかく、どこまでも優雅だった。
長い髪が肩にかかり、光に透けて金の糸のように揺れる。
その横顔を見た瞬間、ヴァルブルガの胸がざわめいた。
――リシェル・セシール。
脳裏に、あの名がよぎる。
かつて王宮を混乱に陥れ結果として処刑された女。
その娘が、いま再びこの屋敷に立っている。
母と同じ、深い緑の瞳。
見る者を吸い込むような美貌。
そして、何よりも人を惑わせる“静かな炎”のような気配。
「……あの女は、リシェルの生き写し。」
思わずヴァルブルガは呟いた。
声がかすかに震える。
恐怖なのか、怒りなのか、自分でもわからない。
彼女は息を呑み、背後に控えていた侍女を振り返った。
「見なさい。あれが、あの家の血よ。
どれほど貴族らしく装っても、あの瞳の奥に宿るのは“野心”なの。母親と同じ。」
廊下の遠くで、アランがふと顔を上げた。
光を受けて、その瞳が翡翠のように輝く。
穏やかな微笑を浮かべている――それはまるで、何も知らぬ天使のようでありながら、ヴァルブルガには“魔”の光にしか見えなかった。
「レギュラスは、きっと……」
言葉を飲み込む。喉の奥で苦いものが滲んだ。
「このままでは、あの女に飲み込まれる。あの子の誇りも、血も、未来までも。」
レギュラスは、自分がどれほど危うい道に立っているか分かっていないのだ。
ヴァルブルガは胸を押さえ、深く息をついた。
廊下の向こうで働くアランの姿が、幻のように揺らいで見える。
彼女はもう、ただの使用人ではなかった。
ブラック家の均衡を狂わせる“運命の女”として、屋敷全体を静かに包み込みつつあった。
そしてヴァルブルガは、知っていた。
いずれこの家を守るために――
“あの女”を排除しなければならない時が来るということを。
薄曇りの午後。静かな部屋の中に、低く魔力の揺らめく音だけが響いていた。
アランはレギュラスのローブを丁寧にテーブルへ広げ、杖の先から流れる微かな蒸気を撫でるように滑らせていた。
布地は深い黒に銀糸が織り込まれており、光を受けてほのかに輝く。魔法の熱で皺が消えていくたびに、まるで時間の中で凝り固まった何かを解いていくような感覚が胸をかすめた。
その仕草は慣れたもので、手つきには静けさと慎重さが宿っていた。
だが、心の内では波が静まらなかった。
――シリウス。
その名を思うだけで、胸の奥が軋むように痛む。
短い期間だった。けれどあの数ヶ月は、人生のすべてが詰まっていたような幸福だった。
彼が任務から戻ってくる夜、アランは同じようにローブを手にしていた。
泥にまみれ、戦いの痕跡を残した黒い布を、夜更けまで黙って磨いた。
アイロンをかけるたびに、彼の笑い声や、暖炉の火の音、微かな煙草の香りが蘇ってくる。
そして、明け方に彼が「ありがとう」と微笑む。
その言葉だけで胸が満たされた。
――あの人は今、どこで、どんな顔をしているのだろう。
きっと、自分のことなどもう忘れてしまったのだろう。
新しい人生を歩き、別の誰かの隣で笑っているのかもしれない。
そう考えると、アランの喉の奥が熱くなった。
涙が込み上げそうになる。けれどそれを必死に堪える。
泣く資格なんて、自分にはないのだ。
彼の伸ばしてくれた手を取らなかった。
自らその幸福を手放したのは、自分自身だった。
あのとき選んだのは、シリウスではなく、レギュラスのいるこの屋敷だった。
ローブの襟を整えながら、アランはふとレギュラスの顔を思い浮かべた。
いつも穏やかな眼差し。
何も問わず、ただ“今”の自分を受け入れてくれる人。
シリウスの名を一度も口にせず、過去を責めることもなく、ただ体を気遣ってくれる。
「無理をしないでください」
「寒くはありませんか」
そのひとつひとつの言葉が、まるで自分の罪を覆い隠す柔らかな布のように胸に沁みていく。
どうしてこんなにも優しいのだろう。
裏切られたはずの人なのに。
アランはローブに指を滑らせながら、そっと目を閉じた。
――もうこれ以上の許しなど、世の中に存在しないのかもしれない。
レギュラスは約束してくれた。
「その子は、僕の子として育てます」と。
その言葉を聞いた瞬間、心が崩れそうになった。
シリウスの子を、自分の誇りを削ってまで守るという決意――それは愛の形をしていながら、あまりにも痛ましい犠牲だった。
アランは、息を整えるように魔法を止めた。
静まり返った部屋の中で、ローブがわずかに揺れる。
黒の中に映り込む自分の姿が、小さく震えて見えた。
これからは、レギュラスが与えてくれる愛に応えていかなければならない。
彼が向ける真っ直ぐな思いに、同じ深さで応えたい。
それがせめてもの償いになるのなら。
お腹の中の子は、きっとシリウスとの日々の記憶を宿した“証”になる。
失われた時間の結晶であり、あの愛の名残。
けれど、これから生まれてくる命を守るためには――自分は過去を手放さなければならない。
「……大切にします」
小さく呟いた声が、誰もいない部屋に溶けた。
レギュラスのローブを胸に抱くようにして、アランは目を閉じた。
シリウスへの愛と、レギュラスへの感謝が、同じ重さで心の中に共存していた。
それは苦しく、悲しく、けれど確かに――美しい矛盾だった。
神秘部の地下は、いつにも増して静寂に沈んでいた。
ただ、魔力の微かなうねりだけが空気の奥底で蠢いている。
古びた燭台にともされた淡い光が、石壁に歪な影を落としては消える。
時間の感覚を奪うその空間に、レギュラス・ブラックはひとり立っていた。
彼の目の前の机には、金属光沢を鈍く放つ銀のゴブレットが置かれている。
見た目はただの古い杯。
しかし、漂う気配は明らかに異質だった。
その杯の周囲だけ、空気がどこか重たく、冷たい。肌に触れる魔力の感触がまるで――血と魂が混ざり合ったような、不快な脈動をしていた。
「……これが、騎士団が持ち込んだという“魔法具”か。」
低く呟いた声が、石の壁にわずかに反響した。
レギュラスは白い手袋をはめた手で杖を持ち、慎重にゴブレットへと向ける。
杖の先端に光が宿り、静かに呪文が紡がれた。
「Revelio Arcanum…」
ふわりと空気が震え、杯の表面に淡い紫の光が浮かび上がる。
無数の古代文字と、絡み合う鎖のような模様――それがゆらりと蠢き、まるで生きているかのように光の糸が杯の内部へと吸い込まれていった。
その光景を見た瞬間、レギュラスの心臓がひとつ、強く脈打つ。
「……これは、闇の呪術だ。」
それもただの闇の魔法ではない。
何か――誰かの“魂”を代償にした呪術。
対象の命を喰らい、その存在を永遠に封じ込める類のもの。
背筋を冷たいものが走った。
この魔法の構造は、レギュラスが神秘部で数えきれないほどの禁呪を研究してきた中でも、見たことのない形だった。
明らかに常軌を逸している。――そして、その底に潜む魔力の“色”を、彼は知っていた。
(この魔力……まさか)
喉が渇く。唇が自然と固く結ばれる。
それでも、彼は杖を手にしたまま、さらに解析呪文を重ねた。
解析魔法陣が床に展開し、浮かび上がる膨大な情報の中から、術式の発動源――つまり、魔法を放った杖の波長を特定していく。
「後消しの呪文……。完璧すぎる。」
誰かが意図的に、自らの足跡を完全に消した。
通常なら、ここで調査は打ち切られる。
しかしレギュラスは、息を殺すように杖を構え、さらに深層へと魔力を潜らせる。
その瞬間、視界の中に、まるで黒い火のような光が瞬いた。
――杖の記録波長、特定完了。
浮かび上がった文字列を見たレギュラスの手が震えた。
杖登録番号、そして持ち主の名。
そこに記されていたのは、誰もが恐れ、そして決して口にしてはならない存在の名前だった。
“トム・マールヴォロ・リドル”
――ヴォルデモート卿。
「……まさか……そんな……」
息が詰まる。
胸の奥で冷たい恐怖が広がっていく。
神秘部の闇の奥底で、その名が公式な記録として浮かび上がるなどありえない。
この結果を報告すれば、魔法省は動揺し、純血社会は崩壊の火種を抱えるだろう。
そして、その混乱の中で最初に標的にされるのは――ブラック家。
父オリオン、母ヴァルブルガ、そして……アラン。
彼の脳裏に、アランの穏やかな笑顔が過った。
彼女の白い指がローブを整えていた夜の光景が、ふいに蘇る。
(この報告を出せば……あの人も巻き込まれる。絶対に、そんなことは――)
「レギュラス様、こちらの波形が出ました。術者の杖は――」
立ち会っていた若い調査官が声を上げた。
レギュラスは瞬時に表情を整える。
わずかな逡巡のあと、低く穏やかに答える。
「……ああ、それで結構です。もう一度、杖管理部の記録と照合をお願いします。」
「かしこまりました」
若い調査官が退室した瞬間、レギュラスは静かに息を吐き、杖先を動かした。
魔法陣が光り、記録の一部が書き換えられる。
本来そこに記されていた“ヴォルデモート卿”の名が消え、代わりに見知らぬ魔法使いの登録情報が浮かび上がる。
彼はそれを見届けて、ほんのわずかに目を伏せた。
「……許されざることを、している。」
だが、それでも構わない。
誰にも知られてはならない。
この真実だけは、墓まで持っていく。
静まり返った神秘部の空間で、レギュラスの呪文の光がひとつ、ゆっくりと消えていった。
冷たい沈黙だけが残り、魔法具――あの禍々しいゴブレットが、まるで微笑むように光を反射していた。
冬の初め、神秘部の空は常に曇っていた。
地下深く、時間の流れを忘れさせるほど静まり返ったその場所で、レギュラス・ブラックは机に広げた新聞をじっと見つめていた。
――いや、正確には“見つめようとして、見なかった”。
机の端に置かれた新聞の一面には、黒々とした大きな見出しが踊っている。
「闇の魔術使用者、ついに逮捕――不死鳥の騎士団、偉業を成す」
その下には、誇らしげに笑う魔法省高官たちの姿、そして捕縛されたひとりの魔法使いの写真があった。
名も知らぬその男は、記者に囲まれ、怯えたような目をしていた。
「好奇心から、闇の魔術を試しただけだった」と語ったと、記事には小さく添えられている。
レギュラスは目を伏せ、新聞を音もなく閉じた。
視界の端に浮かんだ文字が、心に焼き付いて離れない。
――“無実の魔法使い”。
その言葉が、胸の奥に沈殿していく。
ゆっくりと、毒のように広がって。
自分がその“無実”を作り上げた。
罪のない男に、罪を着せた。
理由はただひとつ――ブラック家を、そして愛する者を守るためだった。
それでも、心が痛まないわけがない。
机の上のランプの灯が、かすかに揺れた。
淡い光がレギュラスの頬の陰を強く映し出し、その瞳の奥の疲弊を照らす。
神秘部の空気は冷たく、紙の匂いと古い魔力の匂いが混じり合っている。
「……彼の命と引き換えに、どれほどのものを守ったというんでしょうね、僕は。」
その呟きは誰にも届かない。
返す声もないまま、レギュラスは視線をゴブレットへ向けた。
闇の帝王の魔力が封じられた、あの忌まわしい杯。
調査を終えた今は神秘部の奥深く、結界で覆われた金庫に封印されている。
けれどレギュラスは、解析の際に僅かに溢れ出した魔力の欠片を――あの光の断片を――小瓶に封じ、今も手元に保管していた。
淡く蠢く黒い魔力のかけら。
それは、まるで生きているかのように瓶の中でゆらりと波打ち、ときおり低く唸るような音を立てた。
レギュラスは椅子に深く腰を下ろし、その瓶をそっと掌の中で転がす。
指先から冷たい気配が伝わってくる。
まるでその闇が、自分の血にまで溶け込んでいくような錯覚に陥る。
「何を……求めていたんだ、あなたは。」
闇の帝王。
ヴォルデモート卿。
その名を口にするたび、胸の奥が締め付けられる。
彼は確かに理想を掲げていた。
魔法族の尊厳を守り、マグルの支配から脱するために。
魔法族の誇りを取り戻す――その理念に、若きレギュラスは魅了された。
マグルと魔法使いは、同じではない。
それは幼い頃から教え込まれ、信じて疑わなかった真理。
魔法を持たぬ者が、持つ者の上に立つことなどあってはならない。
それは屈辱であり、愚行であり、何より“世界の理”に反している。
――だが、それだけではなかったのだ。
レギュラスの指先が瓶の蓋に触れる。
その瞬間、微かに響いた声。
魂が泣くような、どこか遠くから響く音。
古い魔導書を何冊も読み漁り、ついにたどり着いた言葉。
それは禁書の奥深くに刻まれていた。
“Horcrux(ホークラックス)”
魂を引き裂き、他の物質に封じ込めることで不死を得る――禁断の術。
人が踏み入れてはならない領域。
その文字を目にしたとき、レギュラスの呼吸は止まった。
(魂を分ける……? 不死になるために?)
あのゴブレットが、魂の一部を宿しているというのなら。
ヴォルデモートは確かに、自らの“死”そのものを拒絶していた。
「純血社会の秩序を守るため……? いや、違う。」
レギュラスは声を震わせ、頁を握りしめる。
「これはただの理想なんかじゃない。支配でもない。――狂気だ。」
魔法族の誇りを守るために、魂まで削り取るというのか。
永遠の命を得るために、無数の命を犠牲にするというのか。
灯の下で読むその文献の字が滲む。
涙ではない。疲れでもない。
それは、心の奥に宿る絶望の滲みだった。
彼は知っていた。
この真実を暴けば、自分の命も、家も、そしてアランの未来さえも潰える。
――だから、沈黙するしかない。
小瓶を見つめたまま、レギュラスはゆっくりと目を閉じた。
静寂の中、瓶の中の黒い光が微かに明滅を繰り返す。
それは、まるでレギュラス自身の“罪”が、そこに封じられているようだった。
屋敷の廊下には、夜の香りが沈み込んでいた。
磨き上げられた黒曜石の床が、ランプの灯りを映し出し、揺らめく光が長い影を壁に伸ばしている。
レギュラスが扉を押し開けると、そこにいたのは――カサンドラだった。
「おかえりなさいませ、レギュラス様。」
穏やかで、それでいてどこか張りつめた声。
ナイトドレス姿ではあったが、その立ち姿は気品を失っていなかった。
背筋をすっと伸ばし、まるで儀式のように優雅に微笑んでいる。
その微笑みの奥に、緊張と焦燥が混じっていることをレギュラスはすぐに感じ取った。
「戻りました」
レギュラスは短く礼を返す。
彼女が近づき、彼の肩からローブを受け取る。
その指先がわずかに震え、布越しに温もりが伝わる。
そのまま、カサンドラはそっとレギュラスの背中に手を添えた。
白い手が、遠慮がちに、それでいて確かに“触れてほしい”という願いを帯びていた。
「……レギュラス様、今夜は――」
その言葉の続きを、レギュラスは聞くまでもなかった。
彼女の声音に含まれるためらいと決意。
そのどちらもが痛いほどに伝わってくる。
ヴァルブルガの指示だろう。
息子夫婦に早く跡継ぎを――そう言われ続けてきた彼女の姿が脳裏をよぎる。
あるいは、アランの懐妊を耳にして焦りが押し寄せてきたのかもしれない。
無理もない。
正妻である彼女が一番に産むべきだったのだ。
(わかっている。分かってはいるんだ。)
父オリオンからも忠告された。
“いつまでも避けているわけにはいかない。
カサンドラを疎かにすることは、家の信頼を失うことになる”と。
レギュラスもその言葉を理解していた。
理解していて――実行できなかった。
あまりにも疲れ果てていたのだ。
ゴブレットの解析、証拠の捏造、神秘部での嘘の報告。
ほんの一つの綻びも許されない作業を終えた後の、骨の髄まで削られるような疲労。
そして、闇の帝王の“真実”を知ってしまったという絶望。
心が、すでに限界に近かった。
「カサンドラ……すみません。今日は、少し疲れていて。」
静かに振り返り、彼女の手を握る。
その手はひどく冷たかった。
それでも、レギュラスは優しく指をほどいて、そっと降ろした。
「……ごめんなさい。私の方こそ。ですが――ヴァルブルガ様が……」
目を伏せながら言葉を紡ぐカサンドラの声は、小さく震えていた。
その瞳には、責める色はなかった。
ただ、哀しみと不安が混じっていた。
完璧であろうとする女性が、その鎧を脱ぎ捨て、ただ一人の妻として夫に縋ろうとしている。
その姿が、痛かった。
「わかっています。」
レギュラスは短く答えた。
「近いうちに伺います。少し……時間をください。」
それ以上は、もう言えなかった。
カサンドラの返事を待たずに、レギュラスはゆっくりと背を向けた。
廊下の奥に向かって歩く足音が、やけに響く。
胸の中で、重く沈む何かがあった。
彼女の視線を背に受けながら、レギュラスは唇を噛む。
あの瞳の奥に映っていたのは――自分の罪。
正妻を愛せず、他の女を想い、そしてその女の懐妊を隠しもせず放置している自分。
彼女の姿を見るたび、自分の“裏切り”を突きつけられるようで、息が詰まる。
彼女を傷つけている。
アランを巻き込んでいる。
そして、何よりも――ブラック家の理想を、自らの手で穢している。
廊下の角に差しかかり、レギュラスは一度だけ立ち止まった。
背後から、カサンドラの小さな嗚咽のような音が聞こえた気がした。
けれど、振り返らなかった。
振り返れば、彼女の悲しみを真正面から見なければならない。
その勇気が、今の彼にはなかった。
ただ静かに、自室の扉を開ける。
扉が閉まる音が、まるで罪の蓋を閉めるように重く響いた。
その夜、レギュラスはランプの灯をつけぬまま、暗闇の中で長い間立ち尽くしていた。
目を閉じるたび、カサンドラの瞳と、アランの微笑と、そして――己の犯した嘘の重みが、静かに胸の底で絡まり合っていった。
アランの部屋の扉が、静かな音を立てて開いた。
夜気がすっと流れ込み、ランプの炎がわずかに揺らめく。
その光の中に立っていたのは、蒼白な顔のレギュラスだった。
闇色のローブの裾が床をかすめ、長い影が部屋の奥まで伸びている。
まるで光と闇の境界を歩いて戻ってきた人のように、その姿には生気と疲弊が混在していた。
「レギュラス……どうしました?」
アランは椅子から立ち上がり、静かに彼へと歩み寄る。
問いかけた声は柔らかく、それでもどこか震えていた。
レギュラスは何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと、まるで何かを決意するように一歩ずつ距離を詰め、アランの目の前に立つ。
そして次の瞬間、何の前触れもなくその細い体を抱きしめた。
アランの胸の中に、冷たい体温が沈み込んでくる。
レギュラスの指が、まるで掴まなければ自分が崩れてしまうとでも言うように、アランの背に縋る。
力強く、けれど痛いほどに弱々しく。
「……レギュラス?」
アランの声が囁きとなって夜気に溶ける。
答えはない。ただ、レギュラスの肩がかすかに震えた。
部屋の中は静まり返っていた。
外では風が屋敷の壁をなでるように吹いている。
ランプの炎がまた小さく揺れ、彼らの影が壁に寄り添うように映った。
「どうしたのです……?」
アランは再び問いかけ、レギュラスの背に両腕を回した。
その指先が、疲れ切った背筋の震えを伝える。
長い夜を独りで抱えてきた彼の心が、ようやく少しだけほどけたのだとわかる。
「……すみません……」
かすれた声がアランの胸のあたりに落ちる。
「色々と……重なってしまって……」
その言葉はあまりにも小さく、吐息に紛れるほどだった。
しかしアランには、それで十分だった。
その一言に込められた疲労、後悔、孤独、そしてどうしようもない悲しみが伝わってきた。
何を背負っているのか、アランにはまだ知らされていない。
けれど、それを問うことはしなかった。
今、必要なのは言葉ではないと本能的に理解していた。
彼はただ、そっとレギュラスの髪に指を滑らせた。
微かに汗の匂いがする。
外の冷気で冷え切った髪は、触れると氷のようだった。
アランはそのまま、あやすように彼の背を撫でる。
「大丈夫です……」
囁くように言うと、レギュラスの指先がさらに強く背中を握る。
まるでその言葉だけを頼りに、今を踏みとどまろうとしているようだった。
どれほどの時間が流れたのだろう。
レギュラスの震えは次第におさまり、代わりに彼の呼吸がゆっくりと穏やかになっていく。
アランはただ、彼の頭を胸に抱き寄せたまま、静かに夜の音を聞いていた。
この人はどれほどの孤独を抱えているのだろう。
その孤独の深さが、アランの胸を締め付ける。
お腹の中の子に、父であろうとしてくれるこの人が、どれほどの苦悩の上に立っているのかを伝えられるだろうか。
この人を支えられるほど、自分は強くなれるだろうか。
アランは息を吸い、そっと目を閉じた。
レギュラスの重さを、罪も哀しみも、丸ごとその腕の中に抱きしめるように。
「……少し、休んでください」
そう告げた声は、祈りのように静かでやさしかった。
その夜、屋敷の中で灯っていたのは、ただ一つの小さなランプの光だけだった。
それはまるで、深い闇の中でまだ消えぬ希望のように、微かに揺れていた。
その夜、レギュラスはアランの部屋で夜を明かした。
カサンドラの誘いを袖にして、そのまま静かに廊下を抜けてここまで来た。
自分がどんな立場にあるのかも、誰の目がどこに潜んでいるのかも分かっていた。
だが、もうそんなことはどうでもよかった。
母ヴァルブルガが翌朝どれほどの罵声を浴びせようと、耳にする気も起きなかった。
この夜、自分が求めていたのはただひとつ――アランのそばにいること、それだけだった。
扉を閉めた瞬間、外の世界は消えた。
蝋燭の小さな灯が揺れるたび、オレンジ色の光がアランの頬をやわらかく照らす。
その光景を見ただけで、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
ああ、ようやく帰ってきたのだと、心の奥で誰かが呟いた。
アランが屋敷に戻ってから、ずっと距離を置いていた。
彼女が母リシェルを亡くした痛みからまだ抜け出せずにいると知っていたから。
彼女に寄り添いたい気持ちはあっても、そっとしておくことが最善だと、何度も自分に言い聞かせた。
それでも夜になると、眠れぬまま、彼の部屋の灯りが消えるのを廊下の影から見つめたこともあった。
――触れてはいけない。
その理性を、いつも最後の一線で保っていた。
けれど、時が経ち、やっと少しずつ心を寄せ合えると思った頃――
アランの腹の中に命が宿っていることを知った。
その知らせを受けた瞬間、胸の奥を走ったのは、祝福とは程遠い感情だった。
血が沸騰するような怒り。
喉の奥が焼けるような嫉妬。
何もかもを壊してしまいそうなほどの激情。
アランがシリウスと過ごした時間。
あの時間の中で生まれた命。
理性では分かっていた――彼女に罪はない。
けれど感情は、そんな簡単に納得できるものではなかった。
自分の中に渦巻く憎悪と愛情の境界線が溶けていく。
どちらが自分の本心なのか分からなくなり、息が詰まりそうだった。
それでも、アランがこの屋敷に戻ってきたというただそれだけの事実が、
その心の暴風を静めてくれた。
――愛しているのなら、受け入れるしかない。
どれほど残酷な現実であっても。
それが愛のかたちだと信じた。
父と母に、アランの懐妊を告げたとき。
母ヴァルブルガは烈火のように怒り狂った。
純血の誇りが汚されたと、声を震わせながら叫んだ。
だが、父オリオンは黙って聞いていた。
そして静かに言ったのだ――「それでも、ブラック家の血を継ぐ者として迎える」と。
その瞬間、レギュラスの心にわずかな安堵が広がった。
これでいい。
これで、アランにも、これから生まれてくる子にも、この屋敷での居場所ができる。
それを与えられるのは、自分だけだ。
だからこそ、自分が呑み込まなければならない。
痛みも、嘘も、愛も。
夜。
アランと同じ寝台に身を横たえた。
彼女の部屋の寝台は、自分のものよりずっと小さい。
だが、それがかえっていい。
アランの温もりが近く、呼吸の音さえも感じられる距離だった。
「……眠れそうですか」
囁くように問いかけると、アランは目を閉じたまま、わずかに頷いた。
その仕草が愛おしくて、レギュラスはそっと彼の髪を指先ですくい、唇を寄せた。
小さなキス。
頬に、額に、そして唇に。
最初はそのたびにアランが目を開けた。
けれど、やがてまぶたは完全に閉じられ、静かな寝息が落ち着いたリズムで響き始めた。
レギュラスはその寝顔を見つめながら、胸の奥の痛みがゆっくりと溶けていくのを感じていた。
この人の中に、兄の血を引く子がいる――
そう思えば胸が締めつけられるのに、
それでも、今はただ幸福だった。
アランの吐息が自分の頬を撫でる。
そのたびに、心の奥に小さな灯がともる。
眠りに落ちる前、レギュラスはもう一度だけアランの唇に口づけた。
何の反応も返ってこない。
それでも、構わなかった。
反応などいらない。
この沈黙の中にある静かな安らぎこそが、今の自分を救っている。
――この瞬間、心は確かに満たされていた。
外では、夜の雨が静かに降り始めていた。
小さな寝台の上で、二つの呼吸がひとつになるように、穏やかな時間が流れていた。
白く磨かれた大理石の廊下を歩く音が、静まり返った屋敷の中にやわらかく響く。
午前の光がレースのカーテンを透かして、薄金のように診療室の床を照らしていた。
淡い光に包まれる中、アランはベッドに腰掛け、そっと膨らみ始めたお腹に手を添えていた。
その傍らには、いつものようにレギュラスが立っていた。
彼は、白衣を纏った医務魔女が杖を振り、淡い光をアランの腹部に滑らせる様子を、息を潜めて見守っていた。
呪文が終わると同時に、診療室に漂っていた緊張がふっと和らぐ。
「母子ともに、順調です。特に問題は見られませんよ。」
その一言に、アランは安堵の息をもらし、ほっと肩を落とした。
レギュラスも思わず瞳を閉じ、小さく息を吐き出した。
それまで張りつめていた心の糸が、ようやくほどけていくようだった。
「ありがとうございます。本当によかった……」
アランの声は涙を堪えるように震えていて、それを聞くレギュラスの胸の奥もじんと熱くなる。
それでも、レギュラスは落ち着いた表情を保ったまま、医務魔女に尋ねた。
「少し……軽い運動などを取り入れても問題ないでしょうか?」
その問いに、医務魔女はちらりとレギュラスを見やった。
ほんの一瞬、彼女の唇にかすかな笑みが浮かぶ。
「……ええ、もちろん。ですが――」
彼女は手元の書類に視線を落としながら、さらりと言葉を続けた。
「そろそろ、夫婦の営みを再開しても差し支えありません。ただし、避妊具をお使いになることをお勧めします。妊娠中は感染症のリスクが高まりますからね。」
その瞬間、レギュラスの耳の先まで赤く染まった。
彼が「運動」と言った言葉の裏を見透かされたようで、どこか針のむしろに座らされた気分だった。
その横でアランが小さく吹き出すように笑ったのを見て、レギュラスはさらに視線の置き場を失う。
「……承知しました。ご助言、感謝いたします。」
丁寧に礼を言いながらも、声の端にはかすかな照れが滲んでいた。
医務魔女が去り、扉が静かに閉じられると、診療室には二人だけが残った。
窓の外では秋風が木々の枝を揺らし、葉擦れの音が遠くでざわめいている。
レギュラスは、ようやく呼吸を整えるように一つ息を吐いた。
「……よかったですね。本当に、安心しました。」
そう言いながら、アランの手をそっと握る。
その掌は温かく、脈が静かに打っていた。
「あなたのおかげです。」
アランは優しく微笑んだ。
その声には深い感謝と、どこか懐かしいほどの穏やかさがあった。
レギュラスはその笑みに視線を奪われる。
あの夜、あの温もり。
一度触れてしまえば、もう離れられないことを知ってしまった自分を思い出す。
彼の胸の奥に、複雑な安堵が広がっていく。
母子ともに健康であるということ――それが何よりも嬉しい。
だが同時に、医務魔女の言葉が頭から離れなかった。
――そろそろ夫婦の行為を始めても大丈夫です。
あまりにも率直なその言葉が、心の奥の深いところを静かに揺らす。
聞きたかった。
彼女の口から、許されたのだと、そう言われたかった。
だが、あまりにもあからさまに尋ねることができなかった。
だから「運動」という婉曲な言葉を選んだのに――
こうもあっさり見抜かれるとは思ってもみなかった。
アランの指先を包み込みながら、レギュラスは小さく微笑む。
「……あの医務魔女は、鋭い方ですね。」
「ふふ、そうかもしれませんね。」
アランは笑いながら、少しだけ顔を伏せた。
その頬がわずかに赤く染まっているのを見て、レギュラスの胸に甘い痛みが広がる。
互いに何も言わずとも、空気が変わっていくのが分かる。
窓辺に漂う午後の光が、二人の間をやわらかく染める。
レギュラスはゆっくりとアランの髪を撫で、囁いた。
「本当に……よかった。あなたと、この子が無事で。」
アランはただ小さく頷き、握られた手を強く握り返した。
沈黙が降りる。
それは不安のための沈黙ではなく、互いの呼吸が溶け合うような、静かな幸福の沈黙だった。
その向こうには、まるで嵐のような空気が満ちていた。
絹のカーテンが静かに揺れる広間。そこに立つヴァルブルガの姿は、氷の彫像のように凛とし、そして恐ろしく美しかった。
その横には、椅子に深く腰を下ろしたオリオンがいる。無言のままパイプを手にしていたが、その静けさの裏には確かな重圧が潜んでいた。
「お呼びでしょうか、母上。」
レギュラスが一礼すると、ヴァルブルガはすぐに声を上げた。
その声音は、冷ややかな怒りを隠しきれていなかった。
「何を考えているのです、レギュラス。」
一言一言が刃のように鋭く、空気を切り裂いていく。
「正妻を差し置いて、使用人が先に身籠るなど――ブラック家の恥です。」
その言葉に、レギュラスはゆっくりと息を吸った。
怒りに燃える母の前では、どんな正論も反論も意味をなさないことを、彼はもう何度も経験してきている。
それでも、黙っていることだけはしたくなかった。
「申し訳ありません、母上。」
レギュラスは静かに口を開いた。
「ですが……血を継ぐ者は、多ければ多いほど良いのではないかと思います。」
一瞬、室内の空気が凍りついた。
ヴァルブルガの目が見開かれ、唇が震える。怒りが一気に噴き上がる。
「最初に生まれるべきは、カサンドラとの子でなければなりません!」
その声には、怒号に似た響きがあった。
「あなたはブラック家の跡継ぎなのですよ、レギュラス。血の序列を乱すようなことは、決して許されません!」
ヴァルブルガの白い手がテーブルを打つ。
水の入ったグラスが小さく震え、その揺れがまるで彼女の怒りの震源を示しているかのようだった。
レギュラスは眉をわずかに寄せた。
――母は変わらない。どれほどの時を経ても、血と名誉の話ばかりだ。
疲労が胸の奥にじわりと滲む。
彼の瞳は静かに伏せられた。
「そのうち、できるだろう。」
低く響くオリオンの声が、室内に重く落ちる。
「心配はいらん。」
父の言葉は、ヴァルブルガを宥めるためのものにも聞こえたが、同時に――
“お前もそろそろ正妻を蔑ろにするな”
という無言の圧力を含んでいた。
レギュラスはわずかに背筋を伸ばす。
その一瞬、父の視線が突き刺さるように感じた。
――叱責ではない。ただの釘を刺すような静かな力。
だが、それがかえって効いた。
「承知しました。」
レギュラスは深く頭を下げた。
沈黙が流れる。
火の灯った暖炉がぱちぱちと音を立てるだけだった。
ヴァルブルガは腕を組んだまま、遠い天井を見つめている。
オリオンは再びパイプを口に運び、煙の輪を静かに吐き出した。
レギュラスは視線を床に落としながら、自分に言い聞かせるように思う。
――カサンドラとのことを、もうそろそろ本気で考えなければならない。
あれほど聡明で、誇り高い女をどれだけ待たせているのか。
彼女の瞳に宿る孤独と諦めの色を、見て見ぬふりをしてきた。
それでも、どうしても足が向かなかった。
ほんの数回、彼女の部屋を訪れて、夫としての務めを果たしたという「事実」さえあれば――
母の怒りも、世間の噂も、少しは鎮まるのかもしれない。
けれど、その“ほんの数回”が、どうしてもできなかった。
扉の外に出ると、廊下の空気が冷たく肌を撫でた。
レギュラスはふと天井を仰ぐ。
屋敷の古びたランプが、淡い灯を揺らしている。
――愛されたいと願う相手は、別の人間だった。
それを知っているからこそ、カサンドラの部屋の扉が、あまりにも重く見えた。
彼は静かに息を吐く。
その吐息が、心の底に沈んだ“諦め”という泥を少しだけ攪拌させた。
そしてその夜も、結局カサンドラの扉を叩くことはなかった。
屋敷の空気は、いつになく重たかった。
アラン・セシールの懐妊という報せは、まるで静寂の湖面に落とされた黒い石のように、波紋を広げながらブラック家の隅々にまで動揺を走らせていた。
ヴァルブルガは、書斎で背筋を伸ばしたまま椅子に腰掛けていた。
けれど、その優美な姿勢の下で、彼女の内側は怒りと焦燥に燃えている。
「何を考えているのです、レギュラス!」
あの朝以来、何度この言葉を繰り返しただろう。
カサンドラという正妻がいながら、使用人である女に手を出した――
それだけでもヴァルブルガの誇りを深く傷つけたというのに、今やその女が身籠っているというのだ。
それも、ブラック家の名の下に。
彼女の白い指が、机の上の銀のペンを握りつぶさんばかりに強張る。
怒りを抑えきれず、紅を引いた唇が震えた。
「いつになったら、あの子は正妻の部屋へ行くの……。あれではロズィエ家に顔向けができません。」
傍らに控えていた侍女が息を呑む。
ヴァルブルガの怒りは烈火のように燃え上がりながらも、しかしその炎の底には、恐れにも似た陰があった。
確かに、オリオンの言うとおりだった。
「血を継ぐものは、多ければ多いほどよい。」
その思想は、古くからブラック家に根づくもの。
純血の継承こそが、何よりも価値を持つ――それがこの家の絶対的な信念だった。
もしアランが産む子が男であれば、それは確かに“跡取り”たりえる。
私生児であろうと、間違いなくブラックの血を引いている。
その事実を理屈では否定できない。
けれど――ヴァルブルガにとって、理屈などどうでもよかった。
心が拒絶していた。
「……あの女の血が、この家の中心に混じるというの?」
低く押し殺した声が、まるで毒のように空気を濁らせた。
どれほど完璧に磨き上げた床も、金糸で縫われたカーテンも、今はすべてが薄汚れて見える。
“穢される”という感覚が、彼女の全身を蝕んでいた。
そんなとき、窓の外に目をやると、長い廊下の先にアラン・セシールの姿が見えた。
陽光の差し込む床を、膝をついて静かに磨いている。
彼女の動きは柔らかく、どこまでも優雅だった。
長い髪が肩にかかり、光に透けて金の糸のように揺れる。
その横顔を見た瞬間、ヴァルブルガの胸がざわめいた。
――リシェル・セシール。
脳裏に、あの名がよぎる。
かつて王宮を混乱に陥れ結果として処刑された女。
その娘が、いま再びこの屋敷に立っている。
母と同じ、深い緑の瞳。
見る者を吸い込むような美貌。
そして、何よりも人を惑わせる“静かな炎”のような気配。
「……あの女は、リシェルの生き写し。」
思わずヴァルブルガは呟いた。
声がかすかに震える。
恐怖なのか、怒りなのか、自分でもわからない。
彼女は息を呑み、背後に控えていた侍女を振り返った。
「見なさい。あれが、あの家の血よ。
どれほど貴族らしく装っても、あの瞳の奥に宿るのは“野心”なの。母親と同じ。」
廊下の遠くで、アランがふと顔を上げた。
光を受けて、その瞳が翡翠のように輝く。
穏やかな微笑を浮かべている――それはまるで、何も知らぬ天使のようでありながら、ヴァルブルガには“魔”の光にしか見えなかった。
「レギュラスは、きっと……」
言葉を飲み込む。喉の奥で苦いものが滲んだ。
「このままでは、あの女に飲み込まれる。あの子の誇りも、血も、未来までも。」
レギュラスは、自分がどれほど危うい道に立っているか分かっていないのだ。
ヴァルブルガは胸を押さえ、深く息をついた。
廊下の向こうで働くアランの姿が、幻のように揺らいで見える。
彼女はもう、ただの使用人ではなかった。
ブラック家の均衡を狂わせる“運命の女”として、屋敷全体を静かに包み込みつつあった。
そしてヴァルブルガは、知っていた。
いずれこの家を守るために――
“あの女”を排除しなければならない時が来るということを。
薄曇りの午後。静かな部屋の中に、低く魔力の揺らめく音だけが響いていた。
アランはレギュラスのローブを丁寧にテーブルへ広げ、杖の先から流れる微かな蒸気を撫でるように滑らせていた。
布地は深い黒に銀糸が織り込まれており、光を受けてほのかに輝く。魔法の熱で皺が消えていくたびに、まるで時間の中で凝り固まった何かを解いていくような感覚が胸をかすめた。
その仕草は慣れたもので、手つきには静けさと慎重さが宿っていた。
だが、心の内では波が静まらなかった。
――シリウス。
その名を思うだけで、胸の奥が軋むように痛む。
短い期間だった。けれどあの数ヶ月は、人生のすべてが詰まっていたような幸福だった。
彼が任務から戻ってくる夜、アランは同じようにローブを手にしていた。
泥にまみれ、戦いの痕跡を残した黒い布を、夜更けまで黙って磨いた。
アイロンをかけるたびに、彼の笑い声や、暖炉の火の音、微かな煙草の香りが蘇ってくる。
そして、明け方に彼が「ありがとう」と微笑む。
その言葉だけで胸が満たされた。
――あの人は今、どこで、どんな顔をしているのだろう。
きっと、自分のことなどもう忘れてしまったのだろう。
新しい人生を歩き、別の誰かの隣で笑っているのかもしれない。
そう考えると、アランの喉の奥が熱くなった。
涙が込み上げそうになる。けれどそれを必死に堪える。
泣く資格なんて、自分にはないのだ。
彼の伸ばしてくれた手を取らなかった。
自らその幸福を手放したのは、自分自身だった。
あのとき選んだのは、シリウスではなく、レギュラスのいるこの屋敷だった。
ローブの襟を整えながら、アランはふとレギュラスの顔を思い浮かべた。
いつも穏やかな眼差し。
何も問わず、ただ“今”の自分を受け入れてくれる人。
シリウスの名を一度も口にせず、過去を責めることもなく、ただ体を気遣ってくれる。
「無理をしないでください」
「寒くはありませんか」
そのひとつひとつの言葉が、まるで自分の罪を覆い隠す柔らかな布のように胸に沁みていく。
どうしてこんなにも優しいのだろう。
裏切られたはずの人なのに。
アランはローブに指を滑らせながら、そっと目を閉じた。
――もうこれ以上の許しなど、世の中に存在しないのかもしれない。
レギュラスは約束してくれた。
「その子は、僕の子として育てます」と。
その言葉を聞いた瞬間、心が崩れそうになった。
シリウスの子を、自分の誇りを削ってまで守るという決意――それは愛の形をしていながら、あまりにも痛ましい犠牲だった。
アランは、息を整えるように魔法を止めた。
静まり返った部屋の中で、ローブがわずかに揺れる。
黒の中に映り込む自分の姿が、小さく震えて見えた。
これからは、レギュラスが与えてくれる愛に応えていかなければならない。
彼が向ける真っ直ぐな思いに、同じ深さで応えたい。
それがせめてもの償いになるのなら。
お腹の中の子は、きっとシリウスとの日々の記憶を宿した“証”になる。
失われた時間の結晶であり、あの愛の名残。
けれど、これから生まれてくる命を守るためには――自分は過去を手放さなければならない。
「……大切にします」
小さく呟いた声が、誰もいない部屋に溶けた。
レギュラスのローブを胸に抱くようにして、アランは目を閉じた。
シリウスへの愛と、レギュラスへの感謝が、同じ重さで心の中に共存していた。
それは苦しく、悲しく、けれど確かに――美しい矛盾だった。
神秘部の地下は、いつにも増して静寂に沈んでいた。
ただ、魔力の微かなうねりだけが空気の奥底で蠢いている。
古びた燭台にともされた淡い光が、石壁に歪な影を落としては消える。
時間の感覚を奪うその空間に、レギュラス・ブラックはひとり立っていた。
彼の目の前の机には、金属光沢を鈍く放つ銀のゴブレットが置かれている。
見た目はただの古い杯。
しかし、漂う気配は明らかに異質だった。
その杯の周囲だけ、空気がどこか重たく、冷たい。肌に触れる魔力の感触がまるで――血と魂が混ざり合ったような、不快な脈動をしていた。
「……これが、騎士団が持ち込んだという“魔法具”か。」
低く呟いた声が、石の壁にわずかに反響した。
レギュラスは白い手袋をはめた手で杖を持ち、慎重にゴブレットへと向ける。
杖の先端に光が宿り、静かに呪文が紡がれた。
「Revelio Arcanum…」
ふわりと空気が震え、杯の表面に淡い紫の光が浮かび上がる。
無数の古代文字と、絡み合う鎖のような模様――それがゆらりと蠢き、まるで生きているかのように光の糸が杯の内部へと吸い込まれていった。
その光景を見た瞬間、レギュラスの心臓がひとつ、強く脈打つ。
「……これは、闇の呪術だ。」
それもただの闇の魔法ではない。
何か――誰かの“魂”を代償にした呪術。
対象の命を喰らい、その存在を永遠に封じ込める類のもの。
背筋を冷たいものが走った。
この魔法の構造は、レギュラスが神秘部で数えきれないほどの禁呪を研究してきた中でも、見たことのない形だった。
明らかに常軌を逸している。――そして、その底に潜む魔力の“色”を、彼は知っていた。
(この魔力……まさか)
喉が渇く。唇が自然と固く結ばれる。
それでも、彼は杖を手にしたまま、さらに解析呪文を重ねた。
解析魔法陣が床に展開し、浮かび上がる膨大な情報の中から、術式の発動源――つまり、魔法を放った杖の波長を特定していく。
「後消しの呪文……。完璧すぎる。」
誰かが意図的に、自らの足跡を完全に消した。
通常なら、ここで調査は打ち切られる。
しかしレギュラスは、息を殺すように杖を構え、さらに深層へと魔力を潜らせる。
その瞬間、視界の中に、まるで黒い火のような光が瞬いた。
――杖の記録波長、特定完了。
浮かび上がった文字列を見たレギュラスの手が震えた。
杖登録番号、そして持ち主の名。
そこに記されていたのは、誰もが恐れ、そして決して口にしてはならない存在の名前だった。
“トム・マールヴォロ・リドル”
――ヴォルデモート卿。
「……まさか……そんな……」
息が詰まる。
胸の奥で冷たい恐怖が広がっていく。
神秘部の闇の奥底で、その名が公式な記録として浮かび上がるなどありえない。
この結果を報告すれば、魔法省は動揺し、純血社会は崩壊の火種を抱えるだろう。
そして、その混乱の中で最初に標的にされるのは――ブラック家。
父オリオン、母ヴァルブルガ、そして……アラン。
彼の脳裏に、アランの穏やかな笑顔が過った。
彼女の白い指がローブを整えていた夜の光景が、ふいに蘇る。
(この報告を出せば……あの人も巻き込まれる。絶対に、そんなことは――)
「レギュラス様、こちらの波形が出ました。術者の杖は――」
立ち会っていた若い調査官が声を上げた。
レギュラスは瞬時に表情を整える。
わずかな逡巡のあと、低く穏やかに答える。
「……ああ、それで結構です。もう一度、杖管理部の記録と照合をお願いします。」
「かしこまりました」
若い調査官が退室した瞬間、レギュラスは静かに息を吐き、杖先を動かした。
魔法陣が光り、記録の一部が書き換えられる。
本来そこに記されていた“ヴォルデモート卿”の名が消え、代わりに見知らぬ魔法使いの登録情報が浮かび上がる。
彼はそれを見届けて、ほんのわずかに目を伏せた。
「……許されざることを、している。」
だが、それでも構わない。
誰にも知られてはならない。
この真実だけは、墓まで持っていく。
静まり返った神秘部の空間で、レギュラスの呪文の光がひとつ、ゆっくりと消えていった。
冷たい沈黙だけが残り、魔法具――あの禍々しいゴブレットが、まるで微笑むように光を反射していた。
冬の初め、神秘部の空は常に曇っていた。
地下深く、時間の流れを忘れさせるほど静まり返ったその場所で、レギュラス・ブラックは机に広げた新聞をじっと見つめていた。
――いや、正確には“見つめようとして、見なかった”。
机の端に置かれた新聞の一面には、黒々とした大きな見出しが踊っている。
「闇の魔術使用者、ついに逮捕――不死鳥の騎士団、偉業を成す」
その下には、誇らしげに笑う魔法省高官たちの姿、そして捕縛されたひとりの魔法使いの写真があった。
名も知らぬその男は、記者に囲まれ、怯えたような目をしていた。
「好奇心から、闇の魔術を試しただけだった」と語ったと、記事には小さく添えられている。
レギュラスは目を伏せ、新聞を音もなく閉じた。
視界の端に浮かんだ文字が、心に焼き付いて離れない。
――“無実の魔法使い”。
その言葉が、胸の奥に沈殿していく。
ゆっくりと、毒のように広がって。
自分がその“無実”を作り上げた。
罪のない男に、罪を着せた。
理由はただひとつ――ブラック家を、そして愛する者を守るためだった。
それでも、心が痛まないわけがない。
机の上のランプの灯が、かすかに揺れた。
淡い光がレギュラスの頬の陰を強く映し出し、その瞳の奥の疲弊を照らす。
神秘部の空気は冷たく、紙の匂いと古い魔力の匂いが混じり合っている。
「……彼の命と引き換えに、どれほどのものを守ったというんでしょうね、僕は。」
その呟きは誰にも届かない。
返す声もないまま、レギュラスは視線をゴブレットへ向けた。
闇の帝王の魔力が封じられた、あの忌まわしい杯。
調査を終えた今は神秘部の奥深く、結界で覆われた金庫に封印されている。
けれどレギュラスは、解析の際に僅かに溢れ出した魔力の欠片を――あの光の断片を――小瓶に封じ、今も手元に保管していた。
淡く蠢く黒い魔力のかけら。
それは、まるで生きているかのように瓶の中でゆらりと波打ち、ときおり低く唸るような音を立てた。
レギュラスは椅子に深く腰を下ろし、その瓶をそっと掌の中で転がす。
指先から冷たい気配が伝わってくる。
まるでその闇が、自分の血にまで溶け込んでいくような錯覚に陥る。
「何を……求めていたんだ、あなたは。」
闇の帝王。
ヴォルデモート卿。
その名を口にするたび、胸の奥が締め付けられる。
彼は確かに理想を掲げていた。
魔法族の尊厳を守り、マグルの支配から脱するために。
魔法族の誇りを取り戻す――その理念に、若きレギュラスは魅了された。
マグルと魔法使いは、同じではない。
それは幼い頃から教え込まれ、信じて疑わなかった真理。
魔法を持たぬ者が、持つ者の上に立つことなどあってはならない。
それは屈辱であり、愚行であり、何より“世界の理”に反している。
――だが、それだけではなかったのだ。
レギュラスの指先が瓶の蓋に触れる。
その瞬間、微かに響いた声。
魂が泣くような、どこか遠くから響く音。
古い魔導書を何冊も読み漁り、ついにたどり着いた言葉。
それは禁書の奥深くに刻まれていた。
“Horcrux(ホークラックス)”
魂を引き裂き、他の物質に封じ込めることで不死を得る――禁断の術。
人が踏み入れてはならない領域。
その文字を目にしたとき、レギュラスの呼吸は止まった。
(魂を分ける……? 不死になるために?)
あのゴブレットが、魂の一部を宿しているというのなら。
ヴォルデモートは確かに、自らの“死”そのものを拒絶していた。
「純血社会の秩序を守るため……? いや、違う。」
レギュラスは声を震わせ、頁を握りしめる。
「これはただの理想なんかじゃない。支配でもない。――狂気だ。」
魔法族の誇りを守るために、魂まで削り取るというのか。
永遠の命を得るために、無数の命を犠牲にするというのか。
灯の下で読むその文献の字が滲む。
涙ではない。疲れでもない。
それは、心の奥に宿る絶望の滲みだった。
彼は知っていた。
この真実を暴けば、自分の命も、家も、そしてアランの未来さえも潰える。
――だから、沈黙するしかない。
小瓶を見つめたまま、レギュラスはゆっくりと目を閉じた。
静寂の中、瓶の中の黒い光が微かに明滅を繰り返す。
それは、まるでレギュラス自身の“罪”が、そこに封じられているようだった。
屋敷の廊下には、夜の香りが沈み込んでいた。
磨き上げられた黒曜石の床が、ランプの灯りを映し出し、揺らめく光が長い影を壁に伸ばしている。
レギュラスが扉を押し開けると、そこにいたのは――カサンドラだった。
「おかえりなさいませ、レギュラス様。」
穏やかで、それでいてどこか張りつめた声。
ナイトドレス姿ではあったが、その立ち姿は気品を失っていなかった。
背筋をすっと伸ばし、まるで儀式のように優雅に微笑んでいる。
その微笑みの奥に、緊張と焦燥が混じっていることをレギュラスはすぐに感じ取った。
「戻りました」
レギュラスは短く礼を返す。
彼女が近づき、彼の肩からローブを受け取る。
その指先がわずかに震え、布越しに温もりが伝わる。
そのまま、カサンドラはそっとレギュラスの背中に手を添えた。
白い手が、遠慮がちに、それでいて確かに“触れてほしい”という願いを帯びていた。
「……レギュラス様、今夜は――」
その言葉の続きを、レギュラスは聞くまでもなかった。
彼女の声音に含まれるためらいと決意。
そのどちらもが痛いほどに伝わってくる。
ヴァルブルガの指示だろう。
息子夫婦に早く跡継ぎを――そう言われ続けてきた彼女の姿が脳裏をよぎる。
あるいは、アランの懐妊を耳にして焦りが押し寄せてきたのかもしれない。
無理もない。
正妻である彼女が一番に産むべきだったのだ。
(わかっている。分かってはいるんだ。)
父オリオンからも忠告された。
“いつまでも避けているわけにはいかない。
カサンドラを疎かにすることは、家の信頼を失うことになる”と。
レギュラスもその言葉を理解していた。
理解していて――実行できなかった。
あまりにも疲れ果てていたのだ。
ゴブレットの解析、証拠の捏造、神秘部での嘘の報告。
ほんの一つの綻びも許されない作業を終えた後の、骨の髄まで削られるような疲労。
そして、闇の帝王の“真実”を知ってしまったという絶望。
心が、すでに限界に近かった。
「カサンドラ……すみません。今日は、少し疲れていて。」
静かに振り返り、彼女の手を握る。
その手はひどく冷たかった。
それでも、レギュラスは優しく指をほどいて、そっと降ろした。
「……ごめんなさい。私の方こそ。ですが――ヴァルブルガ様が……」
目を伏せながら言葉を紡ぐカサンドラの声は、小さく震えていた。
その瞳には、責める色はなかった。
ただ、哀しみと不安が混じっていた。
完璧であろうとする女性が、その鎧を脱ぎ捨て、ただ一人の妻として夫に縋ろうとしている。
その姿が、痛かった。
「わかっています。」
レギュラスは短く答えた。
「近いうちに伺います。少し……時間をください。」
それ以上は、もう言えなかった。
カサンドラの返事を待たずに、レギュラスはゆっくりと背を向けた。
廊下の奥に向かって歩く足音が、やけに響く。
胸の中で、重く沈む何かがあった。
彼女の視線を背に受けながら、レギュラスは唇を噛む。
あの瞳の奥に映っていたのは――自分の罪。
正妻を愛せず、他の女を想い、そしてその女の懐妊を隠しもせず放置している自分。
彼女の姿を見るたび、自分の“裏切り”を突きつけられるようで、息が詰まる。
彼女を傷つけている。
アランを巻き込んでいる。
そして、何よりも――ブラック家の理想を、自らの手で穢している。
廊下の角に差しかかり、レギュラスは一度だけ立ち止まった。
背後から、カサンドラの小さな嗚咽のような音が聞こえた気がした。
けれど、振り返らなかった。
振り返れば、彼女の悲しみを真正面から見なければならない。
その勇気が、今の彼にはなかった。
ただ静かに、自室の扉を開ける。
扉が閉まる音が、まるで罪の蓋を閉めるように重く響いた。
その夜、レギュラスはランプの灯をつけぬまま、暗闇の中で長い間立ち尽くしていた。
目を閉じるたび、カサンドラの瞳と、アランの微笑と、そして――己の犯した嘘の重みが、静かに胸の底で絡まり合っていった。
アランの部屋の扉が、静かな音を立てて開いた。
夜気がすっと流れ込み、ランプの炎がわずかに揺らめく。
その光の中に立っていたのは、蒼白な顔のレギュラスだった。
闇色のローブの裾が床をかすめ、長い影が部屋の奥まで伸びている。
まるで光と闇の境界を歩いて戻ってきた人のように、その姿には生気と疲弊が混在していた。
「レギュラス……どうしました?」
アランは椅子から立ち上がり、静かに彼へと歩み寄る。
問いかけた声は柔らかく、それでもどこか震えていた。
レギュラスは何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと、まるで何かを決意するように一歩ずつ距離を詰め、アランの目の前に立つ。
そして次の瞬間、何の前触れもなくその細い体を抱きしめた。
アランの胸の中に、冷たい体温が沈み込んでくる。
レギュラスの指が、まるで掴まなければ自分が崩れてしまうとでも言うように、アランの背に縋る。
力強く、けれど痛いほどに弱々しく。
「……レギュラス?」
アランの声が囁きとなって夜気に溶ける。
答えはない。ただ、レギュラスの肩がかすかに震えた。
部屋の中は静まり返っていた。
外では風が屋敷の壁をなでるように吹いている。
ランプの炎がまた小さく揺れ、彼らの影が壁に寄り添うように映った。
「どうしたのです……?」
アランは再び問いかけ、レギュラスの背に両腕を回した。
その指先が、疲れ切った背筋の震えを伝える。
長い夜を独りで抱えてきた彼の心が、ようやく少しだけほどけたのだとわかる。
「……すみません……」
かすれた声がアランの胸のあたりに落ちる。
「色々と……重なってしまって……」
その言葉はあまりにも小さく、吐息に紛れるほどだった。
しかしアランには、それで十分だった。
その一言に込められた疲労、後悔、孤独、そしてどうしようもない悲しみが伝わってきた。
何を背負っているのか、アランにはまだ知らされていない。
けれど、それを問うことはしなかった。
今、必要なのは言葉ではないと本能的に理解していた。
彼はただ、そっとレギュラスの髪に指を滑らせた。
微かに汗の匂いがする。
外の冷気で冷え切った髪は、触れると氷のようだった。
アランはそのまま、あやすように彼の背を撫でる。
「大丈夫です……」
囁くように言うと、レギュラスの指先がさらに強く背中を握る。
まるでその言葉だけを頼りに、今を踏みとどまろうとしているようだった。
どれほどの時間が流れたのだろう。
レギュラスの震えは次第におさまり、代わりに彼の呼吸がゆっくりと穏やかになっていく。
アランはただ、彼の頭を胸に抱き寄せたまま、静かに夜の音を聞いていた。
この人はどれほどの孤独を抱えているのだろう。
その孤独の深さが、アランの胸を締め付ける。
お腹の中の子に、父であろうとしてくれるこの人が、どれほどの苦悩の上に立っているのかを伝えられるだろうか。
この人を支えられるほど、自分は強くなれるだろうか。
アランは息を吸い、そっと目を閉じた。
レギュラスの重さを、罪も哀しみも、丸ごとその腕の中に抱きしめるように。
「……少し、休んでください」
そう告げた声は、祈りのように静かでやさしかった。
その夜、屋敷の中で灯っていたのは、ただ一つの小さなランプの光だけだった。
それはまるで、深い闇の中でまだ消えぬ希望のように、微かに揺れていた。
その夜、レギュラスはアランの部屋で夜を明かした。
カサンドラの誘いを袖にして、そのまま静かに廊下を抜けてここまで来た。
自分がどんな立場にあるのかも、誰の目がどこに潜んでいるのかも分かっていた。
だが、もうそんなことはどうでもよかった。
母ヴァルブルガが翌朝どれほどの罵声を浴びせようと、耳にする気も起きなかった。
この夜、自分が求めていたのはただひとつ――アランのそばにいること、それだけだった。
扉を閉めた瞬間、外の世界は消えた。
蝋燭の小さな灯が揺れるたび、オレンジ色の光がアランの頬をやわらかく照らす。
その光景を見ただけで、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
ああ、ようやく帰ってきたのだと、心の奥で誰かが呟いた。
アランが屋敷に戻ってから、ずっと距離を置いていた。
彼女が母リシェルを亡くした痛みからまだ抜け出せずにいると知っていたから。
彼女に寄り添いたい気持ちはあっても、そっとしておくことが最善だと、何度も自分に言い聞かせた。
それでも夜になると、眠れぬまま、彼の部屋の灯りが消えるのを廊下の影から見つめたこともあった。
――触れてはいけない。
その理性を、いつも最後の一線で保っていた。
けれど、時が経ち、やっと少しずつ心を寄せ合えると思った頃――
アランの腹の中に命が宿っていることを知った。
その知らせを受けた瞬間、胸の奥を走ったのは、祝福とは程遠い感情だった。
血が沸騰するような怒り。
喉の奥が焼けるような嫉妬。
何もかもを壊してしまいそうなほどの激情。
アランがシリウスと過ごした時間。
あの時間の中で生まれた命。
理性では分かっていた――彼女に罪はない。
けれど感情は、そんな簡単に納得できるものではなかった。
自分の中に渦巻く憎悪と愛情の境界線が溶けていく。
どちらが自分の本心なのか分からなくなり、息が詰まりそうだった。
それでも、アランがこの屋敷に戻ってきたというただそれだけの事実が、
その心の暴風を静めてくれた。
――愛しているのなら、受け入れるしかない。
どれほど残酷な現実であっても。
それが愛のかたちだと信じた。
父と母に、アランの懐妊を告げたとき。
母ヴァルブルガは烈火のように怒り狂った。
純血の誇りが汚されたと、声を震わせながら叫んだ。
だが、父オリオンは黙って聞いていた。
そして静かに言ったのだ――「それでも、ブラック家の血を継ぐ者として迎える」と。
その瞬間、レギュラスの心にわずかな安堵が広がった。
これでいい。
これで、アランにも、これから生まれてくる子にも、この屋敷での居場所ができる。
それを与えられるのは、自分だけだ。
だからこそ、自分が呑み込まなければならない。
痛みも、嘘も、愛も。
夜。
アランと同じ寝台に身を横たえた。
彼女の部屋の寝台は、自分のものよりずっと小さい。
だが、それがかえっていい。
アランの温もりが近く、呼吸の音さえも感じられる距離だった。
「……眠れそうですか」
囁くように問いかけると、アランは目を閉じたまま、わずかに頷いた。
その仕草が愛おしくて、レギュラスはそっと彼の髪を指先ですくい、唇を寄せた。
小さなキス。
頬に、額に、そして唇に。
最初はそのたびにアランが目を開けた。
けれど、やがてまぶたは完全に閉じられ、静かな寝息が落ち着いたリズムで響き始めた。
レギュラスはその寝顔を見つめながら、胸の奥の痛みがゆっくりと溶けていくのを感じていた。
この人の中に、兄の血を引く子がいる――
そう思えば胸が締めつけられるのに、
それでも、今はただ幸福だった。
アランの吐息が自分の頬を撫でる。
そのたびに、心の奥に小さな灯がともる。
眠りに落ちる前、レギュラスはもう一度だけアランの唇に口づけた。
何の反応も返ってこない。
それでも、構わなかった。
反応などいらない。
この沈黙の中にある静かな安らぎこそが、今の自分を救っている。
――この瞬間、心は確かに満たされていた。
外では、夜の雨が静かに降り始めていた。
小さな寝台の上で、二つの呼吸がひとつになるように、穏やかな時間が流れていた。
白く磨かれた大理石の廊下を歩く音が、静まり返った屋敷の中にやわらかく響く。
午前の光がレースのカーテンを透かして、薄金のように診療室の床を照らしていた。
淡い光に包まれる中、アランはベッドに腰掛け、そっと膨らみ始めたお腹に手を添えていた。
その傍らには、いつものようにレギュラスが立っていた。
彼は、白衣を纏った医務魔女が杖を振り、淡い光をアランの腹部に滑らせる様子を、息を潜めて見守っていた。
呪文が終わると同時に、診療室に漂っていた緊張がふっと和らぐ。
「母子ともに、順調です。特に問題は見られませんよ。」
その一言に、アランは安堵の息をもらし、ほっと肩を落とした。
レギュラスも思わず瞳を閉じ、小さく息を吐き出した。
それまで張りつめていた心の糸が、ようやくほどけていくようだった。
「ありがとうございます。本当によかった……」
アランの声は涙を堪えるように震えていて、それを聞くレギュラスの胸の奥もじんと熱くなる。
それでも、レギュラスは落ち着いた表情を保ったまま、医務魔女に尋ねた。
「少し……軽い運動などを取り入れても問題ないでしょうか?」
その問いに、医務魔女はちらりとレギュラスを見やった。
ほんの一瞬、彼女の唇にかすかな笑みが浮かぶ。
「……ええ、もちろん。ですが――」
彼女は手元の書類に視線を落としながら、さらりと言葉を続けた。
「そろそろ、夫婦の営みを再開しても差し支えありません。ただし、避妊具をお使いになることをお勧めします。妊娠中は感染症のリスクが高まりますからね。」
その瞬間、レギュラスの耳の先まで赤く染まった。
彼が「運動」と言った言葉の裏を見透かされたようで、どこか針のむしろに座らされた気分だった。
その横でアランが小さく吹き出すように笑ったのを見て、レギュラスはさらに視線の置き場を失う。
「……承知しました。ご助言、感謝いたします。」
丁寧に礼を言いながらも、声の端にはかすかな照れが滲んでいた。
医務魔女が去り、扉が静かに閉じられると、診療室には二人だけが残った。
窓の外では秋風が木々の枝を揺らし、葉擦れの音が遠くでざわめいている。
レギュラスは、ようやく呼吸を整えるように一つ息を吐いた。
「……よかったですね。本当に、安心しました。」
そう言いながら、アランの手をそっと握る。
その掌は温かく、脈が静かに打っていた。
「あなたのおかげです。」
アランは優しく微笑んだ。
その声には深い感謝と、どこか懐かしいほどの穏やかさがあった。
レギュラスはその笑みに視線を奪われる。
あの夜、あの温もり。
一度触れてしまえば、もう離れられないことを知ってしまった自分を思い出す。
彼の胸の奥に、複雑な安堵が広がっていく。
母子ともに健康であるということ――それが何よりも嬉しい。
だが同時に、医務魔女の言葉が頭から離れなかった。
――そろそろ夫婦の行為を始めても大丈夫です。
あまりにも率直なその言葉が、心の奥の深いところを静かに揺らす。
聞きたかった。
彼女の口から、許されたのだと、そう言われたかった。
だが、あまりにもあからさまに尋ねることができなかった。
だから「運動」という婉曲な言葉を選んだのに――
こうもあっさり見抜かれるとは思ってもみなかった。
アランの指先を包み込みながら、レギュラスは小さく微笑む。
「……あの医務魔女は、鋭い方ですね。」
「ふふ、そうかもしれませんね。」
アランは笑いながら、少しだけ顔を伏せた。
その頬がわずかに赤く染まっているのを見て、レギュラスの胸に甘い痛みが広がる。
互いに何も言わずとも、空気が変わっていくのが分かる。
窓辺に漂う午後の光が、二人の間をやわらかく染める。
レギュラスはゆっくりとアランの髪を撫で、囁いた。
「本当に……よかった。あなたと、この子が無事で。」
アランはただ小さく頷き、握られた手を強く握り返した。
沈黙が降りる。
それは不安のための沈黙ではなく、互いの呼吸が溶け合うような、静かな幸福の沈黙だった。
