1章
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石造りの廊下は夕方の光に染まり始めていた。
重厚な壁に沿う窓から差し込む橙の光が淡く広がり、床や柱の影を長く伸ばしている。
昼の熱をわずかに残す大気に、どこか黄昏の寂しさが混じり、廊下にはしんとした静けさが漂っていた。
アランは胸にノートを抱き、足音を細く響かせながら歩いていた。
図書館で必死にまとめたページの重みが、かすかに腕にのしかかる。
そのとき、背後から急に響く足音が近づいてきた。軽快で、それでいてほんの少し乱暴な靴音。
「アラン!」
呼び止められて振り向くと、そこにはシリウス・ブラックが立っていた。
乱れた黒髪には一日の疲れがにじんでいるはずなのに、その笑みはまるで少年のままの無邪気さを保っていた。
灰色の瞳は夕陽を映してきらきらと輝き、光を自ら発しているかのように見える。
「こんなところで何してんだよ」
不意に問いかけられ、アランはノートを軽く抱きしめ直した。
「図書館から戻るところなの」
声音はできるかぎり落ち着いていたが、胸の奥では鼓動が早鐘のように響いていた。
ただ名前を呼ばれた。ほんのそれだけで、心臓は勝手に走り出してしまう。
シリウスはにやりと唇を緩め、廊下の端を指差した。
「外行こうぜ。裏庭のほう。湖に夕陽が落ちるの、見たことあるか?」
呼吸が止まるのをアランは感じた。
彼はいつもそうだった。屋敷でも、学校でも。決められた枠や古びた規則を軽々と飛び越え、まるでそこに扉など最初から存在しないかのように誘ってくる。
「見たいなら行こう」
それは命令ではない。ただの軽やかな誘い。
けれど、その一言が、どれほど自分の心を揺さぶるかを、彼は知らない。
「……でも、課題が」
抵抗を試みた声は、小さく震えた。
ノートの重みが急に現実へ引き戻し、義務と不安が背中を押しとどめる。
しかし、シリウスは躊躇わなかった。歪んだ唇を楽しげに吊り上げ、肩を軽く竦めて応える。
「そんなもん、後にすりゃいいだろ。今は今しかないんだから」
明るく、陽光のように放たれる声。
影に沈もうとする心を、一息に照らし出す強さがあった。
——レギュラスがくれる「落ち着ける隣」。
その静かな安らぎとは、まるで正反対だった。
シリウスは迷いなく、自分を手に取って引き上げるように、真っ直ぐな光で包み込んでくる。
暖かくて、強すぎて、抗えないほどに。
胸が大きく鳴る。
迷いを抱え込みながらも、次の瞬間には足が動いていた。
——この人となら、扉の向こうに行けるかもしれない。
そう思えた。
自然に伸ばされたシリウスの手。
アランは一瞬だけためらい、けれど結局その温もりを受け取ってしまった。
触れた瞬間、胸の奥から熱が広がり、夕日の中まで溶けていくような感覚が走る。
橙に染まる階段を二人で駆け降りる。足音が軽く弾み、風が頬を撫で抜ける。
湖の向こうに広がる真紅の陽がゆっくりと沈んでいく。
——こんな誘い方をするのは、きっとシリウスだけ。
心の中で思う。
そしてそれこそが、自分をどうしようもなく惹きつける理由なのだと。
石畳を抜け、シリウスに導かれるまま歩を進めていくと、視界の先に水面の輝きが広がった。
一面に広がる湖は、夕陽を受けて橙と金に染まり、波に揺れるたび煌めきを散らしている。
その手前の芝生の広場には、数人の少年たちが腰を下ろしていた。
賑やかな声と笑いが、緩やかに風へと解けていく。
その光景を目にした瞬間、アランの体はぴたりと強張った。
普段、隣に寄り添うのはいつもレギュラス。
言葉を交わすのも、せいぜい同じ寮の女子生徒たち。
「知らない寮の男子」という存在は、彼女にとって長く厚い壁のようで、近づくことさえ畏れを伴った。
胸に抱えたノートを思わずきゅっと押し当て、背筋を伸ばして立ち尽くす。
緊張で心拍が乱れ、呼吸が浅くなる。
しかし、隣に立つシリウスは迷いなく笑っていた。
子供のように無鉄砲で、それでいて人を安心させる光を帯びて。
「アラン、みんなすげぇいい奴らなんだ。安心しな」
屈託のないその一言に、張り詰めていた胸の縄が少しだけ緩んだ。
そのとき、輪の中からひとりが先に立ち上がった。
黒髪に丸眼鏡を掛け、端正な顔立ちに快活な笑みを浮かべている少年。
彼は迷いなく手を差し出し、明るい声で言った。
「こんにちは、セシール嬢。僕はジェームズ・ポッターだ」
軽やかな声音には気取りがなく、ただ真っ直ぐに相手を迎える力に満ちていた。
続いて、柔らかな雰囲気を纏った少年が一歩前に出る。
やや静かな声色だが、その調子にはあたたかい人懐こさがにじんでいた。
「僕はリーマス。リーマス・ルーピンだ」
アランは喉がひくりと鳴るのを自覚した。
胸の奥から押し上げてくる緊張を息で抑え込み、小さく礼をした。
「…… アラン・セシールです」
かしこまった仕草に、ジェームズがにやりと笑う。
「堅苦しいのはいいよ。気楽にしてくれ」
悪戯っぽい声音に輪の空気が和らぐ。
リーマスもまた、穏やかな微笑みを見せ、言葉を添えた。
「会えて嬉しい」
その真摯な響きに、アランは小さく瞬きを繰り返しながら視線を落とした。
まだ胸は速く脈打っていたが、どこか中心に温かなものが広がっていく。
シリウスが満足げに笑い、傍らから軽く肩を叩いた。
「な、言ったろ? 大丈夫だ」
その一言に頬が熱を帯びる。
緊張の奥にあった緩やかな喜びが、じわりと胸に溢れた。
この人たちは、シリウスが心から信じている仲間なのだ。
その仲間たちへ、今、自分も紹介されたのだ。
湖面には沈みかけた太陽の光が滲み、橙一色に染まりゆく。
その輝きがアランの翡翠の瞳に入り込み、柔らかに反射していた。
彼女の心にも、その光が確かに届いていた。
湖畔からさらに奥へと歩みを進める道は、まだ人の気配の少ない細い小径だった。
ジェームズが両手を大げさに広げ、「冒険だ」と得意げに宣言すると、背中で笑いがこぼれる。
リーマスは半ば呆れたように苦笑を浮かべながらも、その言葉に逆らいはせず後を追った。
そのすぐ後ろで、シリウスが振り返り、アランの手を掴んだ。
「行こうぜ」
ためらいなど微塵もない。
伸ばされた手は温かく、それ自体が強い意志を帯びていた。
掴まれた瞬間、アランは胸の奥が大きく震えるのを感じた。
心臓が、早鐘のように鳴る。
芝生を駆け抜ける足音。
夕暮れの風を切り裂く声と笑い。
指先に伝わる熱は、あの日——冷たい雨に濡れたときに触れたものよりもずっと鮮明に焼きつき、確かさとなって彼女を包んだ。
やがて、視界が一気に拓けた。
岩肌を抜けた先、夕陽が空を黄金に染め、眼下へと広がる世界が一枚の絵画となって広がっていた。
森は遥か果てまで続き、湖は夕日の光を映して揺れ、無限に広がる自由の大地が眼前に現れる。
「ほら、見ろ、アラン!」
シリウスの声が響く。
輝くような瞳で、まるで自分が発見した宝を見せる子供のように指差していた。
「……すごい……」
自然に零れた声は、微かに震えていた。
その震えは景色の美しさだけではなかった。
目の前の光景は、未来そのものを示唆するかのようだった。
——この世界は閉じられてなんかいない。
自分の歩む道は、この光景のようにどこまでも果てしなく続き、広がっている。その感覚が胸を揺さぶった。
背後から、唐突に声が飛んだ。
「へえ……君が、シリウスが惚れてる女の子なんだな?」
振り向けば、ジェームズが快活な笑みを浮かべてにやにやとこちらを見ていた。隣のリーマスが小さく眉を寄せながらも、目尻を和ませている。
「うるせえよ、ジェームズ!」
シリウスは照れ隠しのように肩で押し返す。その仕草すらも、彼の真っ直ぐさを隠しきれない。
アランの頬が一気に熱を帯びた。
胸の鼓動はさらに速まり、声を失ってただ息を整えることしかできなかった。
けれど——その瞬間、心を満たしたのは羞恥だけではない。
シリウスが。
彼が、自分の存在をこうして仲間へと伝えている。
からかい混じりの笑いの中で、それでも確かな事実は残っている。
彼が自分を「特別」だと心に抱いていること。
その真っ直ぐな感情が、不器用ながらも仲間たちの前に言葉として浮かび上がった。
夕陽が湖面で揺れ、橙の光がアランの翡翠の瞳へと差し込んだ。
その輝きに景色はかすかに滲み、胸の奥で温かさが広がっていく。
それは風のせいではなかった。
自分の中から溢れる、揺るぎない幸福のせいだった。
冒険の途中、ひとつの岩場に腰を下ろして小さな休憩が始まった。
夕風が湖面を渡り、涼やかな波紋を砂浜へと打ち寄せてゆく。
その風はアランの髪の細やかな繊維をそよぎ、額の横をやさしく撫でた。
日が落ち始めた空は紅と橙をまじえ、湖面の揺らぎとともに黄金の粒を散らしている。
リーマスが静かに腰を落ち着け、鞄から本を取り出した。表紙を撫でる仕草は癖のように穏やかなもので、静かな息づかいが夕刻の音と溶け合う。
その横でジェームズは小さな石を拾い、渾身の力で湖へと投げ放った。水面に当たった石が軽やかに跳ね、何度も円を描きながら沈んでゆくたび、彼は声を上げてはしゃぐ。
シリウスはその様子をからかうように笑みを浮かべ、無造作に肘を膝に乗せながら仲間の姿を面白そうに眺めていた。
その、なんでもない時間。
笑いと風の音に包まれた静けさの中で、唐突にジェームズがにやりと顔をこちらへ向けた。
「そういえばさ。シリウスはいつか——君と一緒になりたいって、いつも言ってるんだよ」
その瞬間、大気ごと固まった気がした。
アランの胸が、どくん、と大きく鳴り響き、翡翠の瞳は思わずシリウスへと向いた。
視界の端で夕陽が揺らぎ、心臓の鼓動のせいで光景そのものが微かにぶれた。
「やめてくれジェームズ……!」
慌てた声が飛ぶ。
シリウスは耳まで赤く染めながら顔をしかめ、少年らしい必死さで否を示す。
「まだ俺でさえ言ってないんだぞ」
「なんだ、僕が先に言っちゃったのか?」
肩を竦めるジェームズは、得意げというよりも愉快そうに笑っていた。
その悪戯っぽい鮮やかな笑みは、彼とシリウスの友情の気安さをそのまま物語っていた。
「それは申し訳ない」
リーマスが半ばあきれたように首を振り、けれど穏やかな苦笑を滲ませた。
そのやり取りに、周囲はやさしい笑いで包まれていく。
だがアランの胸の内は嵐のようだった。
——「一緒になりたい」
ジェームズが軽い響きで告げたそのひと言。
それは彼の仲間にとって「冗談」めいた茶化しであっても、それを否定しきれない空気がそこにあった。
むしろ、皆が「当然のこと」と知っているかのような自然さ。
シリウス自身は言葉にしていなくても、きっと日々の行動や視線の端々に、彼の想いはこぼれ落ちているのだろう。
隠しきれぬ真っ直ぐさが、仲間にとっても当たり前の事実として語られている。
胸に焼き付いたのは、むしろそのことだった。
彼の心の奥に自分がいて。
仲間たちにもそれを隠そうとはせず、むしろ当たり前に「知識」として承認されているという真実。
彼の輪の中は明るかった。
ジェームズ、リーマス、そしてシリウスを中心に、いつもまばゆい光を放っている。
その輪は太陽のように眩しく、誰もを引き寄せる。
そして——今、その中に自分が迎え入れられている。
そう感じられるだけで、胸の奥がふんわりと熱を帯び、じんわりと幸福感が広がった。
胸に手をあてるように視線を落とし、翡翠の瞳を細める。
思わず頬に浮かぶ笑みは抑えようがなく、不思議なほど自然に零れていく。
——これが、シリウスと共にある世界。
未来を想像してしまう。
木漏れ日のように明るい談笑の中、彼と共に歩む日々。
その光景を思い描いただけで、頬を染める熱はさらに深まり、夕陽の橙と重なっていった。
夕風は湖面を渡り、確かに冷たいのに、胸の奥はひどく温かく燃えていた。
スリザリンの談話室は、いつもどこか水に沈んでいるような雰囲気を纏っていた。
湖底から差し込む薄青い光が窓の奥で揺らぎ、深い緑のカーテンは冷ややかな影を落としている。
けれど、部屋の中央に据えられた暖炉からはぱちぱちと炎の音が絶えずに響き、そのゆらめく光と熱が、閉ざされた地下室にわずかな温もりを滲ませていた。
周囲では談笑やささやき声が重なり、誰もがそれぞれの居場所で小さな世界を広げている。
アランが重たい扉を押して入った瞬間、まず目に入ったのは壁際の一角。
そこに腰かけていたのはレギュラスだった。姿勢は乱れず、淡い光を受けて落ち着き払った横顔が際立つ。彼は一度視線を上げ、すぐにこちらに柔らかい声を投げかけた。
「…… アラン。また図書室ですか?」
その声はいつも変わらぬ穏やかさを帯びていた。
一言で叱るわけでもなく、けれど見逃さずに気づいているのだと知らせる声。
アランの足は思わず止まりかけた。
胸の奥で少しひやりとした感覚が広がる。
けれどすぐに微笑を作り、自然に響く声で答える。
「……ええ。課題を終わらせたところです」
口からこぼれた言葉は、驚くほど淀みなく。
けれど内心には痛みが走っていた。
——今日のことは、言えない。決して。
夕暮れの湖畔で見た自由の光景。
シリウスと、その仲間たちと笑い合った時間は、心の奥の宝石のような記憶だった。
だが、あの出来事をレギュラスに告げるわけにはいかない。
もし耳にしたなら、きっと彼はあの真剣な声で「もっと考えて行動すべきだ」と告げるだろうと想像できるから。
叱責ではなく心配だと知ってはいても、それが今は怖かった。
その時、不意に近くで別の声が響いた。
「君たち、本当に仲がいいんだね」
近くの下級生らしきスリザリン生が、軽い調子で声を投げたのだ。
思わぬ言葉に、アランの胸が揺れる。
——仲がいい。
口にすればそれで足りるはず。
けれど「主人」との関係に「仲がいい」という言葉をそのまま乗せることが、あまりに越権に思えてしまう。
咄嗟に声が詰まり、喉が乾いたように動かなかった。
その沈黙の隙を、レギュラスがやわらかく埋めた。
「……ええ、幼馴染ですから」
穏やかな笑みを浮かべ、言葉を受け取るようにそう答えた。
アランの心臓がじんわり熱を持つ。
彼はそうなのだ。
主人と使用人という冷たい分け隔ての言葉で線を引いたことなど、一度だってなかった。
人前でも、彼女を必ず「幼馴染」と紹介してくれる。
その一言が、どれほどの救いであっただろう。
どんなに孤独に沈みかけても、その呼び方に「ひとりの人間」として見てもらえている安心があった。
翡翠の瞳がかすかに揺れ、自然に笑みがこぼれる。
「……ありがとう、レギュラス」
その囁きに返されたのは、僅かな頷き。
それはごく当たり前で、何気ない仕草。
けれど不思議なほどに温かく胸に残る。
湖底の光に揺れる談話室の片隅。
ざわつく声や炎の音に混じりながらも、二人のやり取りだけはどこか異なる深さを持って胸に刻まれていた。
まるでその瞬間だけ、静かな青緑の光がアランの心を包み、影を薄らぎへと変えていた。
長い休暇が始まった。
ホグワーツの城門を後にすれば、アランとレギュラスを待っていたのは、馴染み深くも心を重くするあの場所――ブラック家の屋敷だった。
高々とそびえる鉄の門、冷たく威圧的な石の壁。魔法界の名家として誇りを示す象徴であるはずの佇まいは、アランの心にとって「戻ってしまった」という重苦しい鎖の手触りでもあった。
門をくぐり、重厚な扉を通り抜ければ、身体は自然と覚えた動きを始めてしまう。
食卓に出す銀器を、布で磨く手。
煌びやかであるはずの輝きが、彼女には同じ動作の繰り返しの鏡に映る。
大広間を整え、椅子を並べ、石の床に自分の影と足音を漂わせる足取り。
庭に出れば、日陰の枝を剪定する鋏をあてがい、落とした葉が土に散る音を知覚する。
幼い頃から繰り返してきた動作は、血に刻み込まれたかのように抜け落ちない。ホグワーツで「生徒」という新しい呼吸を覚えたはずなのに、屋敷に戻った途端、使用人としての習慣が体を支配する。
「アラン、手伝いましょう」
背から静かな声。
振り返ると、そこにはレギュラスが立っていた。
整った制服姿も、真剣な灰色の瞳も、彼がこの屋敷の嫡子であることを揺るぎなく示している。それなのに、彼の手は己の体面を顧みることなく、すぐ目の前の小さなバケツへと伸びようとしていた。
「だめ……!」
アランわは思わず制止の声をあげた。咄嗟に彼の前へ出て、その手を止める。
「いいの、いいの。あなたにはこんなことさせられないわ」
本来ならば、ブラック家の跡取りが務めるべきことではない。
もしオリオンやヴァルブルガの目に映れば、きっと「恥」として厳しい言葉が飛んでくるに違いない。
レギュラスに一つの汚れ仕事もさせるわけにはいかない。
しかし彼は小首を傾げ、灰色の目にさざ波のような意志を宿しながら口を開いた。
「では……水換えだけは、僕がします」
静かな声音だった。
けれどその奥に流れる決意は、石の壁のように揺るぎなく。
アランの胸が小さく震える。
彼はいつもそうだった。
どんな場であっても、自身の立場を越えて、彼女の負担を減らそうとする。
ただ「見ている」だけではなく、必ず「手を添える」ことを選んでくれる。
「レギュラス……お願いだから、無理はしないで」
言葉は震えていた。願いと命令が混ざり合った声。
「無理ではありません。……僕がしたいのです」
その答えは迷いなく、はっきりとしていた。
言い切る彼の真摯さに、一瞬アランは言葉を失った。
本当は――彼には何もしてほしくはない。
この屋敷の主に怪しまれたり、冷たい目を向けられるようなことは避けたい。
けれど、彼の差し伸べる手はいつだって純粋で、彼本人の心から出た願いで。
その厚意は重苦しい日々の中で唯一、胸を温めてくれる炎でもあった。
翡翠色の瞳は、彼の真剣な眼差しを映し込む。
嬉しさと、後ろめたさ。
屋敷の重石と、温かな救い。
相反するそれらすべてを抱きしめるように現れるのは、レギュラスという存在。
彼の言葉、彼の行動のひとつひとつが、自分を支えてくれる。
だからこそ時に苦しくもあり、時に救いでもあった。
炎の影が床の上で揺れ、湖底から届く薄青い光と静かに溶け合っていく。
アランの胸の中で交差する思いもまた、その光と影のように、複雑に絡まり合いながら深く沈んでいった。
屋敷の食堂は、いつものように重苦しい闇の色に満ちていた。
長大なテーブルには暗色の布が掛けられ、その上にずらりと銀の燭台が並び立っている。蝋の火がかすかに揺らめくたび、石壁には長い影が射し込み、室内はますます冷たい息苦しさを帯びていた。
ここは名家ブラックの威厳を誇るはずの場所——けれどアランにとっては、輝きよりも枷の方を痛感させられる場所だった。
その夜、低く乾いた空気を裂くように、ヴァルブルガの声が鋭く響いた。
「シリウス。あなたがグリフィンドールなどという愚かな寮に入ったせいで……本来なら結ばれるはずだった名門の娘との縁談は破談になったのですよ。わかっているのですか?」
冷たい声色は刃のようで、ぴたりと場の空気が止まった。
一瞬の凍結ののち、椅子を激しく軋ませながらシリウスが身を乗り出した。灰色の瞳に烈火のような光を宿し、口を開く。
「うるせえ、ババア。勝手に決めんな!」
その荒々しい反駁に、ヴァルブルガの顔色がぎらぎらと怒気で染まり、瞳は獲物を睨む猛獣のように爛々と光った。
「まあ、なんて口を利くの! 親に向かって——」
言葉と言葉が鋭くぶつかりあう。
それはいつものことだった。シリウスと母の口論は火花のように容易く燃え上がり、始まったが最後、互いの声が重なり合い収拾の目途を失う。
その場に居合わせる者たちは黙り込むしかなかった。
テーブルの片隅に座るアランもまた、翡翠の瞳を伏せ、俯いたまま小さく息をつめる。
胸が痛んだ。
シリウスは自由を愛している。それこそが彼の生き方であり、誇りだった。
だがその自由を求め続けるほどに、この家の「枠」や「価値観」からはみ出し、彼はどんどん居場所を失っていく。
名家の象徴であるこの屋敷も、この重厚な食堂でさえ——彼にとってはもう「帰る場所」ではないのかもしれない。
考えるだけで恐ろしくなった。
いずれ彼はここを完全に捨て去ってしまうのではないかと。
そして自分は、その時どうなってしまうのか。
だが、ヴァルブルガの怒声の中で語られた「破談」という言葉に、アランの胸には別の感情が芽生えていた。
——縁談は潰えた。
つまり、シリウスの未来はまだ、誰の手によっても約束されていない。
許されざる感情だとわかっていた。それでも、胸の奥でひそやかな安堵が広がってしまった。
あの雨の日に耳許で囁かれた言葉が甦る。
「俺が連れ出してやる」
シリウスの心臓から直接溢れるような、あの真っ直ぐな声。
今もなお、胸に埋め込まれている大切な宝物だった。
その未来はまだ閉ざされていないのだ。
夢であったとしても、幻想でしかなかったとしても、その可能性だけで救われる。
口に出すことなどできない。
心に抱いてはならぬ願いだともわかっている。
けれど、どうしても——その想いを止めることはできなかった。
アランはそっと胸元に手を当てた。
誰にも悟られぬよう、深く隠すために。
溢れ出しそうな感情を押しとどめるように。
シリウスとヴァルブルガの怒声が飛び交う食堂の喧騒の中、アランだけは別の世界に立っていた。
胸を占めるのはただ一つ、切実な願い。
——いつか、彼と一緒にここを出たい。
たとえその言葉が誰にも許されぬものであったとしても。
彼女の心は今もなお、その願いだけで強く満たされていた。
食堂に鋭い声が弾けた。
ヴァルブルガの声は、今夜はひときわ苛烈である。
相手を打ち据えるために鍛えられた刃のごとく、一言一言が突き刺さる。
それに応じるシリウスの声は炎の塊のように荒々しく燃え上がり、椅子の軋む音が火花のように響いた。
銀食器が小さく擦れる。
だが、それ以上に食卓全体を支配していたのは、折れそうなほど張り詰めた緊張だった。
テーブルに置かれた葡萄酒の液面さえ震えて見える。
この空気がいつ破裂してもおかしくはない。
レギュラスは皿に視線を落とし、整えられた料理に手を伸ばした。
あくまで普段と変わらぬ仕草で、妹のような存在に心配を悟られてはならぬかのように。
だが、その灰色の瞳はちらりと兄と母を見据えていた。
——まただ。
何度も、何度も繰り返されてきた光景。
ヴァルブルガとシリウスは毎度同じように火花を散らし、言葉で斬り合いを演じる。
そして父は、無言で食器を置き、黙して傍観するだけ。
その果て、いつも傷を負うのは兄シリウス。
彼はまた孤独を募らせ、この屋敷に自分の居場所を失ってゆく——。
そう理解できているからこそ、レギュラスは冷静さを手放せなかった。
だがその時。
視界の片隅に映り込んだ光景が、彼の胸を強く締め付けた。
シリウスに向けられた翡翠の瞳。
端正な顔立ちを俯かせ、卓の隅でひっそりと座っていたはずのアランが、今、誰よりも鮮やかに彼を見つめている。
それはただの観客の瞳ではなかった。
痛みを宿し、未来を案じ、すべてを背負わんとする確かな光がそこにあった。
言葉は一言も発していないのに。
その眼差しはあまりに雄弁だった。
心の内を曝け出されたように、容赦なく胸へ食い込んでくる。
冷たいものが胸に広がってゆく。
自分はアランを守ってきた。
「幼馴染」と呼び、ただの使用人としてではなく人として彼女を扱い、どんな場でも均しい存在として隣に座らせてきた。
彼女が肩を落とせば声をかけ、傷を負えば庇い、その笑顔をできるだけ長く保たせるよう心を尽くしてきた。
それなのに。
その瞳が追うのは、自分ではなかった。
一切のためらいなくシリウスを映し込んでいる。
その痛々しくも真剣なまなざしが、どれほど自分の胸をえぐったことか。
「……」
レギュラスは小さな吐息を漏らした。
気づけば、手にしていたフォークを皿に静かに置いていた。
母と兄の怒声はもう聞こえていなかった。
耳に届くのは、自分の胸に宿った冷たい痛みの音だけ。
それは裏切られたかのような苦い感覚。
じわりじわりと広がり、やがて影となって心の底に沈殿してゆく。
アランの瞳に映るのは——決して自分ではない。
その事実が、何よりも重く、痛かった。
そしてその痛みは、決して誰にも明かされぬまま、レギュラスの胸の奥深くで冷たい炎となり、静かに燃えはじめていた。
その夜、屋敷は深い静寂に包まれていた。
いつもなら遠くまで響くヴァルブルガの甲高い怒声も、シリウスの荒い反駁も、今は分厚い壁の奥に沈み、ただ冷たい夜風の音が窓を細かく揺らしているだけだった。長い一日がようやく幕を下ろし、屋敷そのものが小さな眠りの中に沈んでいるかのようだった。
アランはランプの下に腰を下ろし、膝に広げた布のほつれを針で縫っていた。
小さな灯は薄暗い個室を柔らかに照らし、彼女の白い指先を淡く浮かび上がらせる。
けれど、その動きには落ち着きが欠けていた。針先が何度か布を外れ、細い糸が無駄に揺れる。胸の奥に残っているのは、夕食の席で交わされた声の裂け目。粗暴に荒れ狂うシリウスの声、氷の刃のようなヴァルブルガの怒気、そのすべてがまだ消え残り、胸の奥でざわめいていた。
「…… アラン」
扉の方から声がして、彼女はびくりと肩を震わせた。
振り返ると、レギュラスがそこに立っていた。
姿勢は整い、声も穏やか。けれどその瞳は、いつにも増して深い影を湛えているように見えた。
「まだ起きていたんですか」
努めて笑顔を作ろうとしたアランに、レギュラスは短く頷いた。そのまま一歩部屋へ入ると、机の上に置かれている布へと視線を落とす。
「食卓で……兄のことを心配そうに見ていましたね」
唐突な言葉が静かに落ちた。
アランの胸が跳ね、指に持った針がわずかに震えた。
咄嗟に否定の言葉を口にしようとする。だが、声は喉の奥で掠れ、形になる前に消えてしまった。
レギュラスは淡々と、けれど決して淡泊ではなく、静かな熱を秘めた声で続けた。
「目に映るものは、全部、僕にはわかります。——ずっとあなたを見てきたから」
翡翠の瞳が揺れた。
その言葉に逃げ場を失ったようで、何も返せないまま、心臓の鼓動だけが激しく胸を打つ。
「…… アラン。兄のことを——」
レギュラスの唇がその名を告げようと形を作る。
けれど、最後の刹那に彼は言葉を飲み込んだ。
二人の間に冷たい沈黙が落ちる。
その沈黙は問い詰めるためのものではなく、彼女を追いつめたくないと願うためのものだった。
否定を引き出すような真似はしたくない。ただ、それでも胸を押し潰すほどの痛みは消えない。
じわじわと広がる苦い感覚は、影のように彼の内に沈殿してゆく。
レギュラスは視線を伏せ、深く息を落とすと、最後に短く言葉を残した。
「……夜更かしは体に障ります。今日はもう休んでください」
それだけを告げると、彼は扉を静かに閉ざした。
残されたアランは、針を握ったままの手にぎゅっと力を込めた。
唇は何も語らずとも、胸の奥では答えは明らかだった。
問いかけられるはずだった名。
それを告げる前に遮られた沈黙の奥で、彼女の心はすでにひとつの響きを隠し持っていた。
——シリウス。
胸の鼓動は、誰よりも雄弁にその名を告げていた。
そしてその音を押し殺すように、アランはただ深く息を吐き、揺れるランプの炎を見つめ続けていた。
夜も更け、屋敷は深い沈黙の中に沈んでいた。
重々しい廊下の奥、アランの小部屋だけに小さな灯火が残り、ランプの炎が机の上で揺れている。
その薄明りの下で彼女は布を縫い、ようやく最後の糸を引き結んだ。針を持つ指先から緊張が抜け、ふっと息を吐く。その呼吸と一緒に、一日の疲れが少し漏れ出した。
「……終わった」
小さく呟き、背を椅子に預ける。
このまま食事でも、と立ち上がりかけたその時だった。
「……おい、アラン」
扉の外から低く抑えた声が響いた。
思わず振り向く。心臓が跳ねる。
扉口には、シリウス・ブラックが立っていた。
影を引きながらも灰色の瞳は明るく、どこか悪戯めいた笑みを浮かべている。
「まだ食ってねぇんだろ」
「……えっ?」
咄嗟に返した声は掠れていた。
確かに、まだ夕食を取っていなかった。縫い物に夢中になり、どうせ後で一人で簡単に済ませばいいと考えていた。
そんな自分の習慣を、どうして彼が知っているのだろう。
シリウスは答えを言葉にする前に、にやりと笑いながら両腕を差し出した。
次の瞬間、机の上に次々と皿が並べられていく。
焼きたてのパンの香ばしい匂い。まだ湯気をかすかに立たせるスープ。果物の鮮やかな色合い、小皿に盛られた肉や温野菜。
普段ならこの机の上に運ばれるはずのない料理の数々が、シリウスの手から自然に広がり、目の前を彩っていった。
アランの胸に驚きが走り、それと同時にじんわりと温もりが広がった。
「……ありがとう、シリウス」
呟けば、彼はあっけらかんと肩を竦める。
「気にすんなよ」
そう言って椅子を引き寄せ、当然のようにアランの隣に腰かける。その仕草は軽く、しかし不思議な勇敢さを宿していた。
「普段、一緒に食えることってほとんどねぇからな」
その一言に、アランの瞳が揺れた。
この屋敷では、主人と使用人が並んで食事を取ることなど決して許されない。
ありえないことだと割り切ってきた。
だからこそ、ホグワーツに行ってからは「もしここでは自由に隣に座れるなら」という思いが、心の奥で何度も芽吹いていた。
だが寮を隔てられ、時間も合わず、その願いはそう簡単に叶うものではなかった。
だからこそ。
今この瞬間が、あまりに特別だった。
「いっぱい食えよ」
シリウスが皿を押しやる。その笑顔は屈託なく、夜の闇の中でひときわ明るかった。
アランは小さく頷き、パンをちぎって口に運んだ。
噛みしめるたび、単なる食事のはずの温もりが心に沁み渡っていく。
翡翠の瞳が音もなく潤み、思わず細く笑みがこぼれた。
——こんなふうに、誰かと食事を取るのはどれほど久しぶりだろう。
この屋敷での食事といえば、冷めた皿を一人きりで黙々と片づけるのが常だった。
温かさなど感じる暇もなく、ただ務めを繰り返す作業の一部。
けれど今は違った。
目の前にはシリウスがいて、笑顔を向けてくれる。
同じ味わいでも、彼と共に口にすれば全く別のものへ変わっていく。
焼きたてのパンも、ぬるくなりかけたスープも、不思議と輝きをまとい、胸の真ん中まで温かくしてくれた。
胸に宿ったものは、言葉にするには危うすぎるほどの願い。
——この時間が、ずっと続けばいい。
淡い灯に照らされ、アランは小さく目を伏せた。
彼の横で感じる温度が、どれほど自分を支えているかを悟りながら。
その夜の机は、豪奢さも規律も失い、ただ二人だけの小さな食卓に変わっていた。
レギュラスは、静まり返った階下の食堂に足を運んでいた。
大広間の喧噪はとっくに消え、そこに残されていたのは、片隅に置かれた幾皿かの料理だけだった。
パンと、少しの肉や野菜。
彩りは地味で、宴を飾る華やぎとはほど遠い。
けれどアランなら、それでもきっと「ありがとう」と微笑うだろう。あの翡翠の瞳を細めて、ひと匙の温もりとして受け取ってくれるに違いない。
自分が、先ほど彼女を問い詰めるような言葉を投げてしまったことを思い返し、胸の底にずしりと影が沈んでいた。
あのような言い方をしたのは初めてだった。
困らせることこそ望まぬことだというのに、自分は彼女を追い詰める側に立ってしまった。
——せめて今夜ぐらいは。
その償いのように、レギュラスは残された料理をトレーに載せ、そっと両手で抱えた。足音を立てぬよう暗い廊下を進む。
どうせ彼女は、まだ縫い物に夢中で食事を後回しにしているに違いない。
だったら自分が持っていけばいい。幼い頃からそうであったように、ささやかな助けとなればいい。
そう思って近づいた扉。
けれど、隙間から漏れ出たのは、耳に馴染みすぎている声だった。
「いっぱい食えよ」
軽やかで、自由そのものの声音。
そしてそれに応じる、かすかに弾む笑い声。
—— アランの声。
レギュラスの足は無意識に止まった。
視線をそっと隙間へ寄せる。
灯の下の机には、彩り豊かな皿が並んでいた。
その傍らに寄り添うように腰掛ける二人。
肩を揺らし、楽しげに笑い合い、アランの翡翠の瞳は細やかな光を湛えていた。
それは、自分に向けられるときとは違う色に見えた。
胸の奥で何かがざらりと擦れる。
抱えていたトレーの重みが急に増したようだった。
そこに並んだパンも、よく見ずに選んだ野菜も、この瞬間にはただ空虚なものにしか思えない。
自分の思いやり。それはすでに、兄の手によって先に与えられていた。
熱が冷め、香りも鈍る料理を抱えながら、レギュラスは音を立てぬよう後ずさった。
扉から離れ、背を向けて廊下の暗がりに足を運ぶ。
冷たい影が胸の内を満たす。
拭いきれないざらつきが心に絡みつき、静かに蝕んでいく。
彼女を想い運んだはずの温もりは、今やただ重く、己の胸を締め付けるだけの異物となっていた。
廊下の先は暗く、冷たく、まるで心の底の影そのもののようにどこまでも続いていた。
重厚な壁に沿う窓から差し込む橙の光が淡く広がり、床や柱の影を長く伸ばしている。
昼の熱をわずかに残す大気に、どこか黄昏の寂しさが混じり、廊下にはしんとした静けさが漂っていた。
アランは胸にノートを抱き、足音を細く響かせながら歩いていた。
図書館で必死にまとめたページの重みが、かすかに腕にのしかかる。
そのとき、背後から急に響く足音が近づいてきた。軽快で、それでいてほんの少し乱暴な靴音。
「アラン!」
呼び止められて振り向くと、そこにはシリウス・ブラックが立っていた。
乱れた黒髪には一日の疲れがにじんでいるはずなのに、その笑みはまるで少年のままの無邪気さを保っていた。
灰色の瞳は夕陽を映してきらきらと輝き、光を自ら発しているかのように見える。
「こんなところで何してんだよ」
不意に問いかけられ、アランはノートを軽く抱きしめ直した。
「図書館から戻るところなの」
声音はできるかぎり落ち着いていたが、胸の奥では鼓動が早鐘のように響いていた。
ただ名前を呼ばれた。ほんのそれだけで、心臓は勝手に走り出してしまう。
シリウスはにやりと唇を緩め、廊下の端を指差した。
「外行こうぜ。裏庭のほう。湖に夕陽が落ちるの、見たことあるか?」
呼吸が止まるのをアランは感じた。
彼はいつもそうだった。屋敷でも、学校でも。決められた枠や古びた規則を軽々と飛び越え、まるでそこに扉など最初から存在しないかのように誘ってくる。
「見たいなら行こう」
それは命令ではない。ただの軽やかな誘い。
けれど、その一言が、どれほど自分の心を揺さぶるかを、彼は知らない。
「……でも、課題が」
抵抗を試みた声は、小さく震えた。
ノートの重みが急に現実へ引き戻し、義務と不安が背中を押しとどめる。
しかし、シリウスは躊躇わなかった。歪んだ唇を楽しげに吊り上げ、肩を軽く竦めて応える。
「そんなもん、後にすりゃいいだろ。今は今しかないんだから」
明るく、陽光のように放たれる声。
影に沈もうとする心を、一息に照らし出す強さがあった。
——レギュラスがくれる「落ち着ける隣」。
その静かな安らぎとは、まるで正反対だった。
シリウスは迷いなく、自分を手に取って引き上げるように、真っ直ぐな光で包み込んでくる。
暖かくて、強すぎて、抗えないほどに。
胸が大きく鳴る。
迷いを抱え込みながらも、次の瞬間には足が動いていた。
——この人となら、扉の向こうに行けるかもしれない。
そう思えた。
自然に伸ばされたシリウスの手。
アランは一瞬だけためらい、けれど結局その温もりを受け取ってしまった。
触れた瞬間、胸の奥から熱が広がり、夕日の中まで溶けていくような感覚が走る。
橙に染まる階段を二人で駆け降りる。足音が軽く弾み、風が頬を撫で抜ける。
湖の向こうに広がる真紅の陽がゆっくりと沈んでいく。
——こんな誘い方をするのは、きっとシリウスだけ。
心の中で思う。
そしてそれこそが、自分をどうしようもなく惹きつける理由なのだと。
石畳を抜け、シリウスに導かれるまま歩を進めていくと、視界の先に水面の輝きが広がった。
一面に広がる湖は、夕陽を受けて橙と金に染まり、波に揺れるたび煌めきを散らしている。
その手前の芝生の広場には、数人の少年たちが腰を下ろしていた。
賑やかな声と笑いが、緩やかに風へと解けていく。
その光景を目にした瞬間、アランの体はぴたりと強張った。
普段、隣に寄り添うのはいつもレギュラス。
言葉を交わすのも、せいぜい同じ寮の女子生徒たち。
「知らない寮の男子」という存在は、彼女にとって長く厚い壁のようで、近づくことさえ畏れを伴った。
胸に抱えたノートを思わずきゅっと押し当て、背筋を伸ばして立ち尽くす。
緊張で心拍が乱れ、呼吸が浅くなる。
しかし、隣に立つシリウスは迷いなく笑っていた。
子供のように無鉄砲で、それでいて人を安心させる光を帯びて。
「アラン、みんなすげぇいい奴らなんだ。安心しな」
屈託のないその一言に、張り詰めていた胸の縄が少しだけ緩んだ。
そのとき、輪の中からひとりが先に立ち上がった。
黒髪に丸眼鏡を掛け、端正な顔立ちに快活な笑みを浮かべている少年。
彼は迷いなく手を差し出し、明るい声で言った。
「こんにちは、セシール嬢。僕はジェームズ・ポッターだ」
軽やかな声音には気取りがなく、ただ真っ直ぐに相手を迎える力に満ちていた。
続いて、柔らかな雰囲気を纏った少年が一歩前に出る。
やや静かな声色だが、その調子にはあたたかい人懐こさがにじんでいた。
「僕はリーマス。リーマス・ルーピンだ」
アランは喉がひくりと鳴るのを自覚した。
胸の奥から押し上げてくる緊張を息で抑え込み、小さく礼をした。
「…… アラン・セシールです」
かしこまった仕草に、ジェームズがにやりと笑う。
「堅苦しいのはいいよ。気楽にしてくれ」
悪戯っぽい声音に輪の空気が和らぐ。
リーマスもまた、穏やかな微笑みを見せ、言葉を添えた。
「会えて嬉しい」
その真摯な響きに、アランは小さく瞬きを繰り返しながら視線を落とした。
まだ胸は速く脈打っていたが、どこか中心に温かなものが広がっていく。
シリウスが満足げに笑い、傍らから軽く肩を叩いた。
「な、言ったろ? 大丈夫だ」
その一言に頬が熱を帯びる。
緊張の奥にあった緩やかな喜びが、じわりと胸に溢れた。
この人たちは、シリウスが心から信じている仲間なのだ。
その仲間たちへ、今、自分も紹介されたのだ。
湖面には沈みかけた太陽の光が滲み、橙一色に染まりゆく。
その輝きがアランの翡翠の瞳に入り込み、柔らかに反射していた。
彼女の心にも、その光が確かに届いていた。
湖畔からさらに奥へと歩みを進める道は、まだ人の気配の少ない細い小径だった。
ジェームズが両手を大げさに広げ、「冒険だ」と得意げに宣言すると、背中で笑いがこぼれる。
リーマスは半ば呆れたように苦笑を浮かべながらも、その言葉に逆らいはせず後を追った。
そのすぐ後ろで、シリウスが振り返り、アランの手を掴んだ。
「行こうぜ」
ためらいなど微塵もない。
伸ばされた手は温かく、それ自体が強い意志を帯びていた。
掴まれた瞬間、アランは胸の奥が大きく震えるのを感じた。
心臓が、早鐘のように鳴る。
芝生を駆け抜ける足音。
夕暮れの風を切り裂く声と笑い。
指先に伝わる熱は、あの日——冷たい雨に濡れたときに触れたものよりもずっと鮮明に焼きつき、確かさとなって彼女を包んだ。
やがて、視界が一気に拓けた。
岩肌を抜けた先、夕陽が空を黄金に染め、眼下へと広がる世界が一枚の絵画となって広がっていた。
森は遥か果てまで続き、湖は夕日の光を映して揺れ、無限に広がる自由の大地が眼前に現れる。
「ほら、見ろ、アラン!」
シリウスの声が響く。
輝くような瞳で、まるで自分が発見した宝を見せる子供のように指差していた。
「……すごい……」
自然に零れた声は、微かに震えていた。
その震えは景色の美しさだけではなかった。
目の前の光景は、未来そのものを示唆するかのようだった。
——この世界は閉じられてなんかいない。
自分の歩む道は、この光景のようにどこまでも果てしなく続き、広がっている。その感覚が胸を揺さぶった。
背後から、唐突に声が飛んだ。
「へえ……君が、シリウスが惚れてる女の子なんだな?」
振り向けば、ジェームズが快活な笑みを浮かべてにやにやとこちらを見ていた。隣のリーマスが小さく眉を寄せながらも、目尻を和ませている。
「うるせえよ、ジェームズ!」
シリウスは照れ隠しのように肩で押し返す。その仕草すらも、彼の真っ直ぐさを隠しきれない。
アランの頬が一気に熱を帯びた。
胸の鼓動はさらに速まり、声を失ってただ息を整えることしかできなかった。
けれど——その瞬間、心を満たしたのは羞恥だけではない。
シリウスが。
彼が、自分の存在をこうして仲間へと伝えている。
からかい混じりの笑いの中で、それでも確かな事実は残っている。
彼が自分を「特別」だと心に抱いていること。
その真っ直ぐな感情が、不器用ながらも仲間たちの前に言葉として浮かび上がった。
夕陽が湖面で揺れ、橙の光がアランの翡翠の瞳へと差し込んだ。
その輝きに景色はかすかに滲み、胸の奥で温かさが広がっていく。
それは風のせいではなかった。
自分の中から溢れる、揺るぎない幸福のせいだった。
冒険の途中、ひとつの岩場に腰を下ろして小さな休憩が始まった。
夕風が湖面を渡り、涼やかな波紋を砂浜へと打ち寄せてゆく。
その風はアランの髪の細やかな繊維をそよぎ、額の横をやさしく撫でた。
日が落ち始めた空は紅と橙をまじえ、湖面の揺らぎとともに黄金の粒を散らしている。
リーマスが静かに腰を落ち着け、鞄から本を取り出した。表紙を撫でる仕草は癖のように穏やかなもので、静かな息づかいが夕刻の音と溶け合う。
その横でジェームズは小さな石を拾い、渾身の力で湖へと投げ放った。水面に当たった石が軽やかに跳ね、何度も円を描きながら沈んでゆくたび、彼は声を上げてはしゃぐ。
シリウスはその様子をからかうように笑みを浮かべ、無造作に肘を膝に乗せながら仲間の姿を面白そうに眺めていた。
その、なんでもない時間。
笑いと風の音に包まれた静けさの中で、唐突にジェームズがにやりと顔をこちらへ向けた。
「そういえばさ。シリウスはいつか——君と一緒になりたいって、いつも言ってるんだよ」
その瞬間、大気ごと固まった気がした。
アランの胸が、どくん、と大きく鳴り響き、翡翠の瞳は思わずシリウスへと向いた。
視界の端で夕陽が揺らぎ、心臓の鼓動のせいで光景そのものが微かにぶれた。
「やめてくれジェームズ……!」
慌てた声が飛ぶ。
シリウスは耳まで赤く染めながら顔をしかめ、少年らしい必死さで否を示す。
「まだ俺でさえ言ってないんだぞ」
「なんだ、僕が先に言っちゃったのか?」
肩を竦めるジェームズは、得意げというよりも愉快そうに笑っていた。
その悪戯っぽい鮮やかな笑みは、彼とシリウスの友情の気安さをそのまま物語っていた。
「それは申し訳ない」
リーマスが半ばあきれたように首を振り、けれど穏やかな苦笑を滲ませた。
そのやり取りに、周囲はやさしい笑いで包まれていく。
だがアランの胸の内は嵐のようだった。
——「一緒になりたい」
ジェームズが軽い響きで告げたそのひと言。
それは彼の仲間にとって「冗談」めいた茶化しであっても、それを否定しきれない空気がそこにあった。
むしろ、皆が「当然のこと」と知っているかのような自然さ。
シリウス自身は言葉にしていなくても、きっと日々の行動や視線の端々に、彼の想いはこぼれ落ちているのだろう。
隠しきれぬ真っ直ぐさが、仲間にとっても当たり前の事実として語られている。
胸に焼き付いたのは、むしろそのことだった。
彼の心の奥に自分がいて。
仲間たちにもそれを隠そうとはせず、むしろ当たり前に「知識」として承認されているという真実。
彼の輪の中は明るかった。
ジェームズ、リーマス、そしてシリウスを中心に、いつもまばゆい光を放っている。
その輪は太陽のように眩しく、誰もを引き寄せる。
そして——今、その中に自分が迎え入れられている。
そう感じられるだけで、胸の奥がふんわりと熱を帯び、じんわりと幸福感が広がった。
胸に手をあてるように視線を落とし、翡翠の瞳を細める。
思わず頬に浮かぶ笑みは抑えようがなく、不思議なほど自然に零れていく。
——これが、シリウスと共にある世界。
未来を想像してしまう。
木漏れ日のように明るい談笑の中、彼と共に歩む日々。
その光景を思い描いただけで、頬を染める熱はさらに深まり、夕陽の橙と重なっていった。
夕風は湖面を渡り、確かに冷たいのに、胸の奥はひどく温かく燃えていた。
スリザリンの談話室は、いつもどこか水に沈んでいるような雰囲気を纏っていた。
湖底から差し込む薄青い光が窓の奥で揺らぎ、深い緑のカーテンは冷ややかな影を落としている。
けれど、部屋の中央に据えられた暖炉からはぱちぱちと炎の音が絶えずに響き、そのゆらめく光と熱が、閉ざされた地下室にわずかな温もりを滲ませていた。
周囲では談笑やささやき声が重なり、誰もがそれぞれの居場所で小さな世界を広げている。
アランが重たい扉を押して入った瞬間、まず目に入ったのは壁際の一角。
そこに腰かけていたのはレギュラスだった。姿勢は乱れず、淡い光を受けて落ち着き払った横顔が際立つ。彼は一度視線を上げ、すぐにこちらに柔らかい声を投げかけた。
「…… アラン。また図書室ですか?」
その声はいつも変わらぬ穏やかさを帯びていた。
一言で叱るわけでもなく、けれど見逃さずに気づいているのだと知らせる声。
アランの足は思わず止まりかけた。
胸の奥で少しひやりとした感覚が広がる。
けれどすぐに微笑を作り、自然に響く声で答える。
「……ええ。課題を終わらせたところです」
口からこぼれた言葉は、驚くほど淀みなく。
けれど内心には痛みが走っていた。
——今日のことは、言えない。決して。
夕暮れの湖畔で見た自由の光景。
シリウスと、その仲間たちと笑い合った時間は、心の奥の宝石のような記憶だった。
だが、あの出来事をレギュラスに告げるわけにはいかない。
もし耳にしたなら、きっと彼はあの真剣な声で「もっと考えて行動すべきだ」と告げるだろうと想像できるから。
叱責ではなく心配だと知ってはいても、それが今は怖かった。
その時、不意に近くで別の声が響いた。
「君たち、本当に仲がいいんだね」
近くの下級生らしきスリザリン生が、軽い調子で声を投げたのだ。
思わぬ言葉に、アランの胸が揺れる。
——仲がいい。
口にすればそれで足りるはず。
けれど「主人」との関係に「仲がいい」という言葉をそのまま乗せることが、あまりに越権に思えてしまう。
咄嗟に声が詰まり、喉が乾いたように動かなかった。
その沈黙の隙を、レギュラスがやわらかく埋めた。
「……ええ、幼馴染ですから」
穏やかな笑みを浮かべ、言葉を受け取るようにそう答えた。
アランの心臓がじんわり熱を持つ。
彼はそうなのだ。
主人と使用人という冷たい分け隔ての言葉で線を引いたことなど、一度だってなかった。
人前でも、彼女を必ず「幼馴染」と紹介してくれる。
その一言が、どれほどの救いであっただろう。
どんなに孤独に沈みかけても、その呼び方に「ひとりの人間」として見てもらえている安心があった。
翡翠の瞳がかすかに揺れ、自然に笑みがこぼれる。
「……ありがとう、レギュラス」
その囁きに返されたのは、僅かな頷き。
それはごく当たり前で、何気ない仕草。
けれど不思議なほどに温かく胸に残る。
湖底の光に揺れる談話室の片隅。
ざわつく声や炎の音に混じりながらも、二人のやり取りだけはどこか異なる深さを持って胸に刻まれていた。
まるでその瞬間だけ、静かな青緑の光がアランの心を包み、影を薄らぎへと変えていた。
長い休暇が始まった。
ホグワーツの城門を後にすれば、アランとレギュラスを待っていたのは、馴染み深くも心を重くするあの場所――ブラック家の屋敷だった。
高々とそびえる鉄の門、冷たく威圧的な石の壁。魔法界の名家として誇りを示す象徴であるはずの佇まいは、アランの心にとって「戻ってしまった」という重苦しい鎖の手触りでもあった。
門をくぐり、重厚な扉を通り抜ければ、身体は自然と覚えた動きを始めてしまう。
食卓に出す銀器を、布で磨く手。
煌びやかであるはずの輝きが、彼女には同じ動作の繰り返しの鏡に映る。
大広間を整え、椅子を並べ、石の床に自分の影と足音を漂わせる足取り。
庭に出れば、日陰の枝を剪定する鋏をあてがい、落とした葉が土に散る音を知覚する。
幼い頃から繰り返してきた動作は、血に刻み込まれたかのように抜け落ちない。ホグワーツで「生徒」という新しい呼吸を覚えたはずなのに、屋敷に戻った途端、使用人としての習慣が体を支配する。
「アラン、手伝いましょう」
背から静かな声。
振り返ると、そこにはレギュラスが立っていた。
整った制服姿も、真剣な灰色の瞳も、彼がこの屋敷の嫡子であることを揺るぎなく示している。それなのに、彼の手は己の体面を顧みることなく、すぐ目の前の小さなバケツへと伸びようとしていた。
「だめ……!」
アランわは思わず制止の声をあげた。咄嗟に彼の前へ出て、その手を止める。
「いいの、いいの。あなたにはこんなことさせられないわ」
本来ならば、ブラック家の跡取りが務めるべきことではない。
もしオリオンやヴァルブルガの目に映れば、きっと「恥」として厳しい言葉が飛んでくるに違いない。
レギュラスに一つの汚れ仕事もさせるわけにはいかない。
しかし彼は小首を傾げ、灰色の目にさざ波のような意志を宿しながら口を開いた。
「では……水換えだけは、僕がします」
静かな声音だった。
けれどその奥に流れる決意は、石の壁のように揺るぎなく。
アランの胸が小さく震える。
彼はいつもそうだった。
どんな場であっても、自身の立場を越えて、彼女の負担を減らそうとする。
ただ「見ている」だけではなく、必ず「手を添える」ことを選んでくれる。
「レギュラス……お願いだから、無理はしないで」
言葉は震えていた。願いと命令が混ざり合った声。
「無理ではありません。……僕がしたいのです」
その答えは迷いなく、はっきりとしていた。
言い切る彼の真摯さに、一瞬アランは言葉を失った。
本当は――彼には何もしてほしくはない。
この屋敷の主に怪しまれたり、冷たい目を向けられるようなことは避けたい。
けれど、彼の差し伸べる手はいつだって純粋で、彼本人の心から出た願いで。
その厚意は重苦しい日々の中で唯一、胸を温めてくれる炎でもあった。
翡翠色の瞳は、彼の真剣な眼差しを映し込む。
嬉しさと、後ろめたさ。
屋敷の重石と、温かな救い。
相反するそれらすべてを抱きしめるように現れるのは、レギュラスという存在。
彼の言葉、彼の行動のひとつひとつが、自分を支えてくれる。
だからこそ時に苦しくもあり、時に救いでもあった。
炎の影が床の上で揺れ、湖底から届く薄青い光と静かに溶け合っていく。
アランの胸の中で交差する思いもまた、その光と影のように、複雑に絡まり合いながら深く沈んでいった。
屋敷の食堂は、いつものように重苦しい闇の色に満ちていた。
長大なテーブルには暗色の布が掛けられ、その上にずらりと銀の燭台が並び立っている。蝋の火がかすかに揺らめくたび、石壁には長い影が射し込み、室内はますます冷たい息苦しさを帯びていた。
ここは名家ブラックの威厳を誇るはずの場所——けれどアランにとっては、輝きよりも枷の方を痛感させられる場所だった。
その夜、低く乾いた空気を裂くように、ヴァルブルガの声が鋭く響いた。
「シリウス。あなたがグリフィンドールなどという愚かな寮に入ったせいで……本来なら結ばれるはずだった名門の娘との縁談は破談になったのですよ。わかっているのですか?」
冷たい声色は刃のようで、ぴたりと場の空気が止まった。
一瞬の凍結ののち、椅子を激しく軋ませながらシリウスが身を乗り出した。灰色の瞳に烈火のような光を宿し、口を開く。
「うるせえ、ババア。勝手に決めんな!」
その荒々しい反駁に、ヴァルブルガの顔色がぎらぎらと怒気で染まり、瞳は獲物を睨む猛獣のように爛々と光った。
「まあ、なんて口を利くの! 親に向かって——」
言葉と言葉が鋭くぶつかりあう。
それはいつものことだった。シリウスと母の口論は火花のように容易く燃え上がり、始まったが最後、互いの声が重なり合い収拾の目途を失う。
その場に居合わせる者たちは黙り込むしかなかった。
テーブルの片隅に座るアランもまた、翡翠の瞳を伏せ、俯いたまま小さく息をつめる。
胸が痛んだ。
シリウスは自由を愛している。それこそが彼の生き方であり、誇りだった。
だがその自由を求め続けるほどに、この家の「枠」や「価値観」からはみ出し、彼はどんどん居場所を失っていく。
名家の象徴であるこの屋敷も、この重厚な食堂でさえ——彼にとってはもう「帰る場所」ではないのかもしれない。
考えるだけで恐ろしくなった。
いずれ彼はここを完全に捨て去ってしまうのではないかと。
そして自分は、その時どうなってしまうのか。
だが、ヴァルブルガの怒声の中で語られた「破談」という言葉に、アランの胸には別の感情が芽生えていた。
——縁談は潰えた。
つまり、シリウスの未来はまだ、誰の手によっても約束されていない。
許されざる感情だとわかっていた。それでも、胸の奥でひそやかな安堵が広がってしまった。
あの雨の日に耳許で囁かれた言葉が甦る。
「俺が連れ出してやる」
シリウスの心臓から直接溢れるような、あの真っ直ぐな声。
今もなお、胸に埋め込まれている大切な宝物だった。
その未来はまだ閉ざされていないのだ。
夢であったとしても、幻想でしかなかったとしても、その可能性だけで救われる。
口に出すことなどできない。
心に抱いてはならぬ願いだともわかっている。
けれど、どうしても——その想いを止めることはできなかった。
アランはそっと胸元に手を当てた。
誰にも悟られぬよう、深く隠すために。
溢れ出しそうな感情を押しとどめるように。
シリウスとヴァルブルガの怒声が飛び交う食堂の喧騒の中、アランだけは別の世界に立っていた。
胸を占めるのはただ一つ、切実な願い。
——いつか、彼と一緒にここを出たい。
たとえその言葉が誰にも許されぬものであったとしても。
彼女の心は今もなお、その願いだけで強く満たされていた。
食堂に鋭い声が弾けた。
ヴァルブルガの声は、今夜はひときわ苛烈である。
相手を打ち据えるために鍛えられた刃のごとく、一言一言が突き刺さる。
それに応じるシリウスの声は炎の塊のように荒々しく燃え上がり、椅子の軋む音が火花のように響いた。
銀食器が小さく擦れる。
だが、それ以上に食卓全体を支配していたのは、折れそうなほど張り詰めた緊張だった。
テーブルに置かれた葡萄酒の液面さえ震えて見える。
この空気がいつ破裂してもおかしくはない。
レギュラスは皿に視線を落とし、整えられた料理に手を伸ばした。
あくまで普段と変わらぬ仕草で、妹のような存在に心配を悟られてはならぬかのように。
だが、その灰色の瞳はちらりと兄と母を見据えていた。
——まただ。
何度も、何度も繰り返されてきた光景。
ヴァルブルガとシリウスは毎度同じように火花を散らし、言葉で斬り合いを演じる。
そして父は、無言で食器を置き、黙して傍観するだけ。
その果て、いつも傷を負うのは兄シリウス。
彼はまた孤独を募らせ、この屋敷に自分の居場所を失ってゆく——。
そう理解できているからこそ、レギュラスは冷静さを手放せなかった。
だがその時。
視界の片隅に映り込んだ光景が、彼の胸を強く締め付けた。
シリウスに向けられた翡翠の瞳。
端正な顔立ちを俯かせ、卓の隅でひっそりと座っていたはずのアランが、今、誰よりも鮮やかに彼を見つめている。
それはただの観客の瞳ではなかった。
痛みを宿し、未来を案じ、すべてを背負わんとする確かな光がそこにあった。
言葉は一言も発していないのに。
その眼差しはあまりに雄弁だった。
心の内を曝け出されたように、容赦なく胸へ食い込んでくる。
冷たいものが胸に広がってゆく。
自分はアランを守ってきた。
「幼馴染」と呼び、ただの使用人としてではなく人として彼女を扱い、どんな場でも均しい存在として隣に座らせてきた。
彼女が肩を落とせば声をかけ、傷を負えば庇い、その笑顔をできるだけ長く保たせるよう心を尽くしてきた。
それなのに。
その瞳が追うのは、自分ではなかった。
一切のためらいなくシリウスを映し込んでいる。
その痛々しくも真剣なまなざしが、どれほど自分の胸をえぐったことか。
「……」
レギュラスは小さな吐息を漏らした。
気づけば、手にしていたフォークを皿に静かに置いていた。
母と兄の怒声はもう聞こえていなかった。
耳に届くのは、自分の胸に宿った冷たい痛みの音だけ。
それは裏切られたかのような苦い感覚。
じわりじわりと広がり、やがて影となって心の底に沈殿してゆく。
アランの瞳に映るのは——決して自分ではない。
その事実が、何よりも重く、痛かった。
そしてその痛みは、決して誰にも明かされぬまま、レギュラスの胸の奥深くで冷たい炎となり、静かに燃えはじめていた。
その夜、屋敷は深い静寂に包まれていた。
いつもなら遠くまで響くヴァルブルガの甲高い怒声も、シリウスの荒い反駁も、今は分厚い壁の奥に沈み、ただ冷たい夜風の音が窓を細かく揺らしているだけだった。長い一日がようやく幕を下ろし、屋敷そのものが小さな眠りの中に沈んでいるかのようだった。
アランはランプの下に腰を下ろし、膝に広げた布のほつれを針で縫っていた。
小さな灯は薄暗い個室を柔らかに照らし、彼女の白い指先を淡く浮かび上がらせる。
けれど、その動きには落ち着きが欠けていた。針先が何度か布を外れ、細い糸が無駄に揺れる。胸の奥に残っているのは、夕食の席で交わされた声の裂け目。粗暴に荒れ狂うシリウスの声、氷の刃のようなヴァルブルガの怒気、そのすべてがまだ消え残り、胸の奥でざわめいていた。
「…… アラン」
扉の方から声がして、彼女はびくりと肩を震わせた。
振り返ると、レギュラスがそこに立っていた。
姿勢は整い、声も穏やか。けれどその瞳は、いつにも増して深い影を湛えているように見えた。
「まだ起きていたんですか」
努めて笑顔を作ろうとしたアランに、レギュラスは短く頷いた。そのまま一歩部屋へ入ると、机の上に置かれている布へと視線を落とす。
「食卓で……兄のことを心配そうに見ていましたね」
唐突な言葉が静かに落ちた。
アランの胸が跳ね、指に持った針がわずかに震えた。
咄嗟に否定の言葉を口にしようとする。だが、声は喉の奥で掠れ、形になる前に消えてしまった。
レギュラスは淡々と、けれど決して淡泊ではなく、静かな熱を秘めた声で続けた。
「目に映るものは、全部、僕にはわかります。——ずっとあなたを見てきたから」
翡翠の瞳が揺れた。
その言葉に逃げ場を失ったようで、何も返せないまま、心臓の鼓動だけが激しく胸を打つ。
「…… アラン。兄のことを——」
レギュラスの唇がその名を告げようと形を作る。
けれど、最後の刹那に彼は言葉を飲み込んだ。
二人の間に冷たい沈黙が落ちる。
その沈黙は問い詰めるためのものではなく、彼女を追いつめたくないと願うためのものだった。
否定を引き出すような真似はしたくない。ただ、それでも胸を押し潰すほどの痛みは消えない。
じわじわと広がる苦い感覚は、影のように彼の内に沈殿してゆく。
レギュラスは視線を伏せ、深く息を落とすと、最後に短く言葉を残した。
「……夜更かしは体に障ります。今日はもう休んでください」
それだけを告げると、彼は扉を静かに閉ざした。
残されたアランは、針を握ったままの手にぎゅっと力を込めた。
唇は何も語らずとも、胸の奥では答えは明らかだった。
問いかけられるはずだった名。
それを告げる前に遮られた沈黙の奥で、彼女の心はすでにひとつの響きを隠し持っていた。
——シリウス。
胸の鼓動は、誰よりも雄弁にその名を告げていた。
そしてその音を押し殺すように、アランはただ深く息を吐き、揺れるランプの炎を見つめ続けていた。
夜も更け、屋敷は深い沈黙の中に沈んでいた。
重々しい廊下の奥、アランの小部屋だけに小さな灯火が残り、ランプの炎が机の上で揺れている。
その薄明りの下で彼女は布を縫い、ようやく最後の糸を引き結んだ。針を持つ指先から緊張が抜け、ふっと息を吐く。その呼吸と一緒に、一日の疲れが少し漏れ出した。
「……終わった」
小さく呟き、背を椅子に預ける。
このまま食事でも、と立ち上がりかけたその時だった。
「……おい、アラン」
扉の外から低く抑えた声が響いた。
思わず振り向く。心臓が跳ねる。
扉口には、シリウス・ブラックが立っていた。
影を引きながらも灰色の瞳は明るく、どこか悪戯めいた笑みを浮かべている。
「まだ食ってねぇんだろ」
「……えっ?」
咄嗟に返した声は掠れていた。
確かに、まだ夕食を取っていなかった。縫い物に夢中になり、どうせ後で一人で簡単に済ませばいいと考えていた。
そんな自分の習慣を、どうして彼が知っているのだろう。
シリウスは答えを言葉にする前に、にやりと笑いながら両腕を差し出した。
次の瞬間、机の上に次々と皿が並べられていく。
焼きたてのパンの香ばしい匂い。まだ湯気をかすかに立たせるスープ。果物の鮮やかな色合い、小皿に盛られた肉や温野菜。
普段ならこの机の上に運ばれるはずのない料理の数々が、シリウスの手から自然に広がり、目の前を彩っていった。
アランの胸に驚きが走り、それと同時にじんわりと温もりが広がった。
「……ありがとう、シリウス」
呟けば、彼はあっけらかんと肩を竦める。
「気にすんなよ」
そう言って椅子を引き寄せ、当然のようにアランの隣に腰かける。その仕草は軽く、しかし不思議な勇敢さを宿していた。
「普段、一緒に食えることってほとんどねぇからな」
その一言に、アランの瞳が揺れた。
この屋敷では、主人と使用人が並んで食事を取ることなど決して許されない。
ありえないことだと割り切ってきた。
だからこそ、ホグワーツに行ってからは「もしここでは自由に隣に座れるなら」という思いが、心の奥で何度も芽吹いていた。
だが寮を隔てられ、時間も合わず、その願いはそう簡単に叶うものではなかった。
だからこそ。
今この瞬間が、あまりに特別だった。
「いっぱい食えよ」
シリウスが皿を押しやる。その笑顔は屈託なく、夜の闇の中でひときわ明るかった。
アランは小さく頷き、パンをちぎって口に運んだ。
噛みしめるたび、単なる食事のはずの温もりが心に沁み渡っていく。
翡翠の瞳が音もなく潤み、思わず細く笑みがこぼれた。
——こんなふうに、誰かと食事を取るのはどれほど久しぶりだろう。
この屋敷での食事といえば、冷めた皿を一人きりで黙々と片づけるのが常だった。
温かさなど感じる暇もなく、ただ務めを繰り返す作業の一部。
けれど今は違った。
目の前にはシリウスがいて、笑顔を向けてくれる。
同じ味わいでも、彼と共に口にすれば全く別のものへ変わっていく。
焼きたてのパンも、ぬるくなりかけたスープも、不思議と輝きをまとい、胸の真ん中まで温かくしてくれた。
胸に宿ったものは、言葉にするには危うすぎるほどの願い。
——この時間が、ずっと続けばいい。
淡い灯に照らされ、アランは小さく目を伏せた。
彼の横で感じる温度が、どれほど自分を支えているかを悟りながら。
その夜の机は、豪奢さも規律も失い、ただ二人だけの小さな食卓に変わっていた。
レギュラスは、静まり返った階下の食堂に足を運んでいた。
大広間の喧噪はとっくに消え、そこに残されていたのは、片隅に置かれた幾皿かの料理だけだった。
パンと、少しの肉や野菜。
彩りは地味で、宴を飾る華やぎとはほど遠い。
けれどアランなら、それでもきっと「ありがとう」と微笑うだろう。あの翡翠の瞳を細めて、ひと匙の温もりとして受け取ってくれるに違いない。
自分が、先ほど彼女を問い詰めるような言葉を投げてしまったことを思い返し、胸の底にずしりと影が沈んでいた。
あのような言い方をしたのは初めてだった。
困らせることこそ望まぬことだというのに、自分は彼女を追い詰める側に立ってしまった。
——せめて今夜ぐらいは。
その償いのように、レギュラスは残された料理をトレーに載せ、そっと両手で抱えた。足音を立てぬよう暗い廊下を進む。
どうせ彼女は、まだ縫い物に夢中で食事を後回しにしているに違いない。
だったら自分が持っていけばいい。幼い頃からそうであったように、ささやかな助けとなればいい。
そう思って近づいた扉。
けれど、隙間から漏れ出たのは、耳に馴染みすぎている声だった。
「いっぱい食えよ」
軽やかで、自由そのものの声音。
そしてそれに応じる、かすかに弾む笑い声。
—— アランの声。
レギュラスの足は無意識に止まった。
視線をそっと隙間へ寄せる。
灯の下の机には、彩り豊かな皿が並んでいた。
その傍らに寄り添うように腰掛ける二人。
肩を揺らし、楽しげに笑い合い、アランの翡翠の瞳は細やかな光を湛えていた。
それは、自分に向けられるときとは違う色に見えた。
胸の奥で何かがざらりと擦れる。
抱えていたトレーの重みが急に増したようだった。
そこに並んだパンも、よく見ずに選んだ野菜も、この瞬間にはただ空虚なものにしか思えない。
自分の思いやり。それはすでに、兄の手によって先に与えられていた。
熱が冷め、香りも鈍る料理を抱えながら、レギュラスは音を立てぬよう後ずさった。
扉から離れ、背を向けて廊下の暗がりに足を運ぶ。
冷たい影が胸の内を満たす。
拭いきれないざらつきが心に絡みつき、静かに蝕んでいく。
彼女を想い運んだはずの温もりは、今やただ重く、己の胸を締め付けるだけの異物となっていた。
廊下の先は暗く、冷たく、まるで心の底の影そのもののようにどこまでも続いていた。
