3章
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夜の静寂が、重たい闇のように屋敷を包み込んでいた。
アランは、扉が閉まったその瞬間に、世界が二つに裂けてしまったような感覚に襲われた。
振り返れば、そこにはもうシリウスの姿はなかった。
彼の残した温もりだけが、まだ掌にわずかに残っている。
けれどその温もりすら、時間とともに消えていく。
――手を離してしまった。
あの瞬間、彼との未来を、自分で断ち切ってしまったのだ。
胸の奥に焼けるような痛みが広がる。
どうしても涙が止まらない。
何度拭っても溢れ出すそれは、まるで堰を切ったように頬を伝い落ちた。
本当に、心の底から愛していた。
シリウス・ブラックは、彼女にとって光そのものだった。
ホグワーツの湖畔で見上げた星空の下でも、授業の合間に交わした小さな笑いの中でも、彼がいるだけで世界が輝いて見えた。
幼い頃からずっと、彼と共に生きる未来だけを夢見ていた。
それがアラン・セシールという少女の、人生のすべてだった。
だが、夢は夢のまま終わった。
現実の中で彼女が選んだのは、冷たく静まり返ったこの屋敷の中で生きること。
重圧と義務、そして沈黙に支配された日々を受け入れることだった。
この場所で笑うことは許されず、心を自由にすることも叶わない。
それでも、母の生きた意味を、セシール家の名を守るためには、そうするしかなかった。
「……私、どうすればいいの」
小さな声が、誰もいない廊下に溶けて消えた。
これから彼女は、レギュラスの隣で生きることになる。
優しく、静かな少年。彼は決してシリウスのように光をまとう人ではない。
けれど、彼なりに真剣に彼女を想ってくれているのだと分かっている。
──けれど、どうすればいいのだろう。
どんなふうにレギュラスを愛せばいいのか。
どんなふうに想いを返せば、彼の心を満たしてあげられるのか。
自分の中にある愛という形が、まだシリウスの面影でできていることが苦しかった。
「シリウスを想う心を、そのままレギュラスに向けられたら……」
呟きながら、アランは首を振った。
そんなこと、できるはずがない。
誰かを忘れるということは、息をすることをやめるのと同じくらい難しい。
冷たい石造りの廊下を歩きながら、アランは手にした布で床を磨いた。
かつて使用人として過ごしていた頃のように、ひとつひとつの装飾や床の模様に丁寧に手をかける。
これが自分の“罰”なのだと思った。
愛を貫けなかった自分への、静かな償い。
ふと、光が指先に反射した。
そこにはシリウスから贈られた銀の指輪があった。
優しい陽光のようにきらめいていたその輝きが、今は胸を締めつける。
アランは立ち止まり、しばらく指輪を見つめた。
あの日、彼が少し照れたように笑いながらこの指輪をはめてくれた光景がよみがえる。
あの時は永遠を信じていた。
永遠など存在しないことを、今になってようやく知る。
彼の名を、心の中でそっと呼んだ。
けれど声にはしなかった。
呼べば崩れてしまいそうだった。
「……もう、しまっておこう」
小さく息を吸い込み、アランは指輪を外した。
冷たい金属が指から離れると同時に、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような感覚に襲われる。
それでも、これが自分の選んだ道なのだと自分に言い聞かせる。
涙が再びこぼれた。
それを見る者はもう誰もいない。
屋敷の廊下を吹き抜ける風が、彼女の髪を揺らし、遠くで燭台の炎が小さく瞬いた。
アラン・セシールは、愛を胸に封じ込めたまま、
静かに、冷たいこの屋敷の中へと戻っていった。
まるで自らを闇に閉じ込めるように──
それでもその瞳の奥には、微かに消えない光があった。
それはきっと、シリウス・ブラックという名の“過去の星”の残り火だった。
朝の光が重厚なカーテンの隙間から細く差し込み、長い影をテーブルの上に落としていた。
ブラック邸の食堂はいつもと変わらぬ荘厳さを湛えているはずなのに、今朝はその空気がどこか張り詰めていた。
銀器のひとつひとつにまで神経が行き届いた長卓の中央に、ヴァルブルガが優雅に腰掛けている。
完璧に整えられた黒髪と冷ややかな瞳。その顔に貼り付いているのは、薄く凍った不機嫌さだった。
わずかな眉の吊り上がりさえ、家中の空気を容易に支配してしまう。
アランは、緊張に肩をすくめながら皿を運んでいた。
小さな音を一つでも立てれば、砕けそうな静寂がピンと張り詰めた糸のように切れてしまいそうで、指先まで強張る。
スープ皿を置くたびに、鼓動の音が自分だけに響いているかのようだった。
「……レギュラス。何を考えているのです?」
ヴァルブルガの声は、まるでナイフの刃先のように鋭く静寂を裂いた。
その視線は正面に座るレギュラスと、その隣に控えるカサンドラに真っ直ぐ向けられていた。
銀の匙がそっとテーブルに置かれる。
レギュラスは、まるで一枚の氷の仮面でも被ったかのような表情でグラスを置き、母を正面から見つめた。
その横顔には、息苦しいほどの緊張が宿っているのに、それを決して表に出さない強さがある。
「……すみません、母上。少し任務が立て込んでいまして。」
穏やかで、どこまでも整った声だった。
息を呑むような静寂のなか、カサンドラがそっと身を乗り出す。
「きっと……お疲れのようですわ、ヴァルブルガ様」
その声は優しく、けれど慎重で、母の怒りを鎮めるための一言として計算し尽くされていた。
「あなたたちの責務を忘れてはいけませんわ。」
ヴァルブルガの唇が、冷たくも美しい線を描く。
「この高貴な血を絶やさずに次いでいくことこそ、純血一族の定めです。」
まるで朝食の席ではなく、裁きの場で宣言を下しているようだった。
アランの手が、思わず震える。皿がかすかに揺れて、銀器の音がチンと鳴った。
一瞬でその視線が自分に向けられた気がして、背筋が凍る。
レギュラスは深く息を吸い込み、吐き出すことを我慢するように顎を引いた。
ため息をつきたい衝動を喉の奥に押し込み、涼しげな顔を保つ。
母が言いたいことは分かっていた。
アランがこの屋敷に戻ったことを、ヴァルブルガが快く思っていないことも。
それどころか、彼女の存在をカサンドラの地位を揺るがす「不安要素」として睨みつけている。
アランはあくまで“使用人”であるはずなのに、その名を聞くだけで母の機嫌が変わるほどに、彼女はこの屋敷にとって異物なのだ。
事実、レギュラスは結婚以来、まだ一度もカサンドラと夜を共にしてはいなかった。
夜ごと彼が足を運ぶのは、別の部屋――アランのいる廊下の先。
それは無意識のようで、意図的でもあった。
カサンドラは何も言わない。
その瞳には小さな寂しさが滲んでいるものの、純血の妻として、それを表に出すことはない。
彼女の優雅な微笑みが、かえって痛々しく見えるほどだった。
アランは、二人の間に流れる空気を敏感に感じ取っていた。
静かな怒り、押し殺した諦め、冷たい期待――それらが絡み合って、この朝の食堂は息が詰まるほど重く濁っている。
皿を運ぶたび、アランの足音がやけに響いた。
目を合わせることはできない。けれど、レギュラスの横顔が視界の端に映る。
彼の黒い瞳は一点を見据えて、微かに硬く結ばれていた。
ヴァルブルガの言葉は、呪いのように響く。
「この血を絶やすわけにはいかないのです。あなたも理解しているでしょう?」
レギュラスは、ゆっくりと目を伏せた。
本当ならこの場から立ち去りたい。
冷たい血の話よりも、温もりを感じられるアランの存在を選びたかった。
けれどそれは、この家に生まれ落ちた時点で、許されない道なのだ。
朝の光は、淡く食堂を照らしているのに――
誰の心も温めることなく、冷たい影だけがゆっくりと伸びていた。
朝食が終わり、食堂を出るころには、まだヴァルブルガの冷たい声が耳の奥に残響のようにこびりついていた。
食器が触れ合うわずかな音さえ張りつめた空気に吸い込まれていくようで、アランは一刻も早くこの空間から離れたかった。
けれど、廊下に出てすぐ――
「アラン。」
背後から呼ばれたその声に、アランの足は思わず止まった。
振り返る間もなく、手首を掴まれた。
温かい掌。けれどその強さは、逃げることを許さない。
「少し付き合ってくれませんか。」
レギュラスの声は柔らかく、それでいて逆らえないほどの静かな強さを含んでいた。
アランは瞬きをした。
「……え?」
混乱がそのまま声になった。
つい先ほど、ヴァルブルガに痛いほど詰められたばかりだ。
あの刺すような視線、ひとつひとつの言葉の冷たさが、まだ肌に残っているというのに――
まるで何もなかったかのように、彼は穏やかに微笑んでいる。
そのことが、アランには理解できなかった。
どうして彼は、あんなにも母の言葉を軽く受け流せるのだろう。
どうして、自分の中に渦巻く恐怖と緊張を分かっていながら、それを無視して手を取るのだろう。
「レギュラス、ヴァルブルガ様は今……お怒りなんですよ。」
アランは戸惑いを隠せずに言った。
それでもレギュラスは、まるでその言葉が風に流れたかのように軽く微笑んだ。
「ええ。でも気にしなくて構いません。」
その一言に、アランの胸がきゅっと締め付けられた。
気にしなくて構わない――
けれど、それは彼にとっての世界の話であって、アランにとっては違う。
彼女にとってヴァルブルガは、この屋敷で呼吸をするたびに意識せざるを得ない存在だった。
一度でも逆らえば、命さえも簡単に奪えるほどの権力を持つ女だ。
レギュラスとアランの間にある「ヴァルブルガ」という存在の重さは、決して同じではない。
その温度差が、二人の間の距離を見えない壁のように生んでいた。
「……レギュラス、私は……」
アランは言葉を探すように、そっと自分の手を引いた。
けれど、抜いたその手をレギュラスは再び掴み、今度はそのまま自分の胸元へと引き寄せた。
「あ……」
息がこぼれる。
レギュラスの胸に押し当てられた瞬間、彼の体温が自分の中にまで流れ込んでくるようだった。
彼の心臓の鼓動が伝わる――落ち着いた、確かな音。
それがかえって苦しい。
「アラン……」
低く名前を呼ばれるたびに、胸の奥で何かがざわめいた。
どうして、この人はいつもこうなのだろう。
愛情をまっすぐに注いでくる。
その真っ直ぐさは、美しくて、けれど残酷だった。
アランの中では、愛情がもはや“重さ”としてしか感じられなかった。
抱えきれないほどの温もりが、逆に痛みになる。
どこに置けばいいのかわからない。
受け止めるには、自分の心があまりにも壊れかけている。
「……そんなふうにされたら、困ります。」
アランは絞り出すように言った。
けれど、レギュラスの腕は緩まない。
彼の瞳が、静かに、優しくアランを見つめている。
その瞳の中に、自分の姿が映る。
悲しみに満ちた瞳を見て、アランは何も言えなくなった。
レギュラスは、きっとこの沈黙を「肯定」として受け取るのだろう。
拒まれなかったから、許されたと思うのだろう。
彼にとって、愛とはそういうものだ。
全てを注ぎ、全てを得ようとする。
けれどアランにとって、愛はすでに痛みであり、鎖だった。
その腕の中にいることは、安らぎと同時に、逃れられない檻でもあった。
廊下の奥では、朝の光がゆっくりと差し込み始めている。
二人の影が床に並んで伸びていた。
寄り添っているようでいて――どこまでも遠い。
カサンドラは息を呑んだ。
長い回廊の影の中、燭台の淡い明かりが揺れている。
その先、レギュラスがアランを抱きしめていた。
彼の手が、あの女の腰にまわっていた。アランの黒髪が肩に流れ落ち、まるで夜そのものがレギュラスの腕の中に溶け込んでいくようだった。
カサンドラはその光景を、凍りついたまま見ていた。心臓が音を立てて割れるような痛みを覚えながら。
彼があの女を見つめるときの目——。
かつて自分に向けられたことなど、一度もなかった。
冷ややかで整然とした青年の中に、確かに「生」が灯るのを、カサンドラは初めて見た。
それが自分に向けられたものではないことが、何よりも残酷だった。
正式にブラック家に嫁いでから今日まで、レギュラスは一度としてカサンドラの部屋を訪れなかった。
結婚式の日、彼は礼儀正しく微笑み、「よろしくお願いします、カサンドラ」と穏やかに言ったきりだった。
それからの毎夜、彼の足音は廊下の先で消えた。
寝室の扉が開く音は、一度も聞こえなかった。
そして今日——彼が初めて抱いたのは、妻ではなく、使用人の女だった。
惨めさに胸が潰れそうだった。
けれど涙は出なかった。
貴族としての誇りが、涙を許さなかった。
ただ、息を吸うたびに心臓の奥が焼けるように痛んだ。
カサンドラは静かに扉の陰から離れた。
足音を殺して廊下を歩きながら、自分の指に嵌められたリングを見つめる。
それはヴァルブルガが婚約の証として渡した、ブラック家の古い家紋入りの指輪。
これを嵌めた瞬間、カサンドラは誇りに満ちていた。
フランスの純血の名家の娘として、あのブラック家に嫁ぐという栄誉。
それが今では、冷たい鎖のように指に食い込んでいた。
「アランセシールが戻ったのですって?」
低い声が背後から響いた。
ヴァルブルガだった。
彼女はゆっくりと近づき、黒いローブの裾を引きずるようにしてカサンドラの横に並んだ。
燭光が彼女の顔を照らす。年老いてなお、その目は鋭く、息子の行く末を睨み据えていた。
「辛いのは承知の上です。ですが、カサンドラ、どうかお忘れにならないで。この家の名誉、この血の純潔を守るのは、あなたの務めです」
その言葉は柔らかく聞こえた。だが、その実、刃物のように鋭かった。
カサンドラは膝を折り、静かに頭を下げた。
「……承知しております、ヴァルブルガ様」
口にした瞬間、喉の奥が震えた。
わかっていた。これは命令だ。
「男児を産め」という無言の圧。
だがその前提として、レギュラスが自分に触れることさえないのだ。
その現実が、あまりにも重かった。
夜、カサンドラは寝室の鏡の前に立った。
青白い月明かりが窓から差し込み、頬の線を淡く照らしていた。
鏡の中の自分は、完璧だった。
白い肌、整った鼻筋、長く波打つ金髪。どこから見ても高貴な令嬢だった。
——なのに、心はこんなにも惨め。
「アランセシールさえ、いなければ……」
思わず声が零れた。
その言葉は、部屋の静寂に吸い込まれ、夜気の中で細く消えた。
彼女がこの屋敷に戻った日から、レギュラスの目が確かに変わった。
冷たくも静かだった青年が、あの女を見るたびに柔らかく、優しくなっていった。
その光を見るたびに、カサンドラの心は闇に沈んでいった。
——奪われた。
愛も、名誉も、存在の意味も。
フランスで過ごした少女時代、あれほど誇りに思っていた自分の家名さえ、今では惨めな響きを持って聞こえた。
鏡の前で指輪を外そうとした。だが、外れなかった。
細い指に食い込んだまま、まるで「この家から逃げられぬ」と告げるように。
カサンドラは瞼を閉じた。
胸の奥に、黒い炎が灯った。
それは嫉妬という名の業火。
静かに、しかし確実に、彼女の中の何かを変えていく火だった。
レギュラスは、アランの部屋の前でしばらく立ち尽くしていた。
扉の向こうからは、微かに燭台の火が揺れる音がする。
静かな夜だった。屋敷の大時計の針が、まるで時間の存在を忘れたかのように、鈍く一秒ずつを刻んでいる。
彼は小さく息を整えてから、ゆっくりと扉を開けた。
アランは窓辺にいた。
薄い寝衣の上から ショールを羽織り、夜風に吹かれるカーテンの向こうに、月の光を眺めている。
振り返った瞬間、レギュラスの胸の奥で何かが震えた。
帰ってきてからというもの、彼女は屋敷の中で確かに生きているはずなのに、どこか遠くにいるようだった。
笑わなくなった。瞳の奥に翡翠色の深淵だけを宿して、まるで夢の中に囚われているようだった。
「アラン」
名前を呼ぶと、彼女は少し驚いたように振り向いた。
その顔に、灯火の明かりがやさしく落ちる。
それだけで、レギュラスは息が詰まりそうになる。
もう、何度彼女の名前を胸の中で呼んだだろう。
あの離別のあと、あの沈黙の月日の中で。
ようやく戻ってきた彼女に、ただ「触れる」ことさえ躊躇していた。
彼女がリシェルのことで負った傷を思うと、自分の欲を優先することが恐ろしくてできなかった。
けれど、今夜は違った。
彼女の傍にいたいと、強く思った。
触れて、確かに「今ここにいる」ことを伝えたかった。
生理的な衝動だけではない。
心の奥底、魂の深くから湧き上がるような欲求だった。
彼女の心に、自分の想いを直接、深く刻みたかった。
——この愛が、届くなら。
「アラン」
もう一度、名を呼びながら彼はそっと近づいた。
アランの頬に手を伸ばし、指先でその肌の温度を確かめる。
柔らかく、細い肩が震える。
レギュラスの灰色の瞳に、翡翠色が映り込む。
それだけで胸が熱くなった。
「あなたがここにいてくれることが、どれほど救いだったか……」
低く、静かに、祈るように言葉を落とす。
彼女の頬を包み、唇を寄せようとした——その瞬間だった。
「うっ……」
アランが小さく呻いた。
眉をひそめ、口元を押さえ、前屈みになる。
「アラン?」
彼の声に返るのは、喉の奥で詰まるような苦しげな呼吸。
「うっ……うぇ……」
その声は震え、彼女の肩が小刻みに震える。
顔色が見る間に白くなり、冷や汗がこめかみを伝って落ちていった。
「どうしました、アラン……!」
レギュラスは慌てて彼女の肩を支える。
その手の中の体が、信じられないほど軽い。
まるで風にさらわれてしまいそうなほどに、弱々しい。
アランは震える手で、何かを言おうとした。
「ま、って……レギュラス……」
か細い声。
けれどレギュラスには聞き取れない。
「待っていてください、すぐに医務魔女を——」
彼は扉に向かって声を張り上げた。
「屋敷しもべを! 医務魔女を呼んでください!」
アランは首を振った。
「……いらない……」
かすれた声でそう言いながら、彼の袖を弱く掴む。
その小さな抵抗が、レギュラスの胸を刺した。
「何を言っているんです。そんな状態で放っておけるわけが——」
必死に言葉を繋ぐ。
けれど、アランはその間にも肩で息をしていた。
胸の奥から何かを吐き出そうとして、しかし吐けず、苦しみに震えている。
部屋の空気が一瞬で張り詰めた。
燭台の火が揺れ、月の光が床に落ちて、レギュラスの影と重なる。
彼の瞳の中に焦燥が広がる。
——どうして。
どうしてこんなにも、彼女の体は儚いのか。
彼は自分の無力さに打たれるように唇を噛んだ。
せめて抱きしめたいのに、それさえ叶わない。
扉の向こうで、足音が聞こえた。
しもべ妖精が駆けてくる。
アランはそれを止めようと、もう一度、弱々しく彼の袖を引いた。
「レギュラス……行かないで……」
その声は、震えていた。
泣きそうに、苦しそうに、そしてどこかで——懇願のように。
レギュラスは一瞬、呼吸を止めた。
この夜、彼の胸の中で、恐怖と愛が混ざり合って燃えた。
それは、これまで知らなかった種類の痛みだった。
彼はそっとアランの頬を撫でながら、ただその小さな命の震えを受け止めた。
何となく、そうではないかという予感があった。
身体の奥底で小さな違和感が芽を出していた。吐き気も、熱のような倦怠も、それらが単なる疲労ではないことを、アランはどこかで感じ取っていた。
だからこそ、レギュラスが医務魔女を呼ぼうとしたとき、必死に止めたかったのだ。
まだ確かめたくなかった。
真実というものは、知ってしまえば後戻りができなくなる。
知らないふりをしていられる時間だけが、かろうじて彼女を守っていた。
――けれど。
目を覚ますと、そこは見慣れた自室の天蓋付きの寝台だった。
月明かりがカーテンの隙間から差し込み、淡く白い影を床に落としている。
しんとした夜の静寂。
遠くの時計が、鈍く二時を告げた。
頭の芯がぼんやりとしている。
先ほどまで身体を支配していた吐き気は、嘘のようにおさまっていた。
喉の渇きを覚えて、横のテーブルに目をやると、銀のトレイの上にグラスが置かれていた。
冷たく曇ったその表面が、淡い光を反射している。
――きっと、医務魔女が来たのだ。
胸の奥が、ずしりと重くなる。
診察の結果がどうだったのか。
レギュラスは、その結果をもう聞かされたのだろうか。
そう考えた瞬間、恐怖が全身を駆け抜けた。
毛布を胸元まで引き上げる。
まるでそれで、迫りくる現実を隠せるような気がして。
そのとき、ノックの音がした。
静かな夜に、乾いた音が二度。
心臓が跳ねた。
誰かなど考えるまでもない。
この時間に訪れるのは、レギュラスしかいない。
「……アラン、少しは楽になりましたか?」
扉越しに、静かで穏やかな声が響く。
まるで氷のように澄んでいて、それでいて痛いほど優しい声。
アランは、こくりと小さく頷いた。
声を出すと震えてしまいそうだったから。
扉が開き、レギュラスがゆっくりと入ってくる。
白い寝間着の上からローブを羽織っていて、その端が月明かりに淡く照らされる。
彼は一言も発せず、アランアランの元へ歩み寄ると、ベッドの端に腰を下ろした。
柔らかく沈む寝台の感触が伝わる。
心臓がバクバクと音を立てて、息が詰まりそうになる。
「アラン」
彼がその名を呼ぶたびに、胸が軋む。
レギュラスはゆっくりと息を吸い、短く言った。
「……妊娠しているようです」
時間が止まった。
その言葉が部屋の中を静かに漂い、アランの耳に届くまで、永遠のように長く感じた。
遠くで誰かが話しているように聞こえる。
音がすべて遠のいて、心臓の音だけがやけに大きく響いた。
妊娠。
やはり――そうなのだ。
薄々、わかっていた。
それでも、言葉として聞かされることが、これほどまでに衝撃なのか。
目の前の現実が、容赦なく突きつけられる。
――どう考えても、その子はシリウスの子供だ。
冷たい汗が背筋を伝う。
喉の奥が焼けつくように痛い。
罪悪感が波のように押し寄せてきて、呼吸が浅くなる。
レギュラスの目を見られなかった。
彼の灰色の瞳の奥には、どんな思いが宿っているのだろう。
怒りだろうか。失望だろうか。それとも、哀れみなのだろうか。
いずれにしても、彼の正しさの前では、どんな言い訳も意味を成さない。
――裏切りの中でも、最も深く、最も醜い裏切り方をしてしまった。
アランは唇を噛み、震える指先をシーツの中に隠した。
涙が出そうになる。
けれど、それを見せてしまえば、あまりにも卑怯だと思った。
レギュラスは静かに、ただ彼女を見つめていた。
責める言葉も、詰問もない。
その沈黙がかえって、胸を切り裂くほど痛かった。
アランはそっと首を垂れた。
「……ごめんなさい」
かすれた声が、夜の静寂に吸い込まれていった。
レギュラスはしばらく何も言わなかった。
ただ、彼女の手の上にそっと自分の手を重ねる。
冷たい指先が、少しずつ温もりを取り戻していく。
月明かりの中で、二人の影が静かに重なった。
けれどその距離は、どれほど近くに見えても、決して交わることはなかった。
レギュラスの中に燃える想いと、アランの中に沈む罪とが、同じ夜の光の下で、ただ静かに佇んでいた。
想像さえしていなかった事実を、医務魔女から告げられた瞬間、レギュラスの言葉は喉の奥で止まった。
まるで空気ごと凍りついたかのように、思考が硬直する。
胸の奥を冷たい何かが締め上げ、瞬間的に世界が歪んだ。
医務魔女も、顔に微かに苦悶の色を浮かべていた。
言いにくそうに言葉を選びながら、レギュラスの動揺を察してか、余計な詮索を避けて丁寧に事実だけを伝えている。
――ここで自分があからさまに動揺など見せてはならない。
誇り高くあろうとする自分の気持ちが、静かに鋭く立ち上がる。
「そうですか。どのくらいなんです?」
レギュラスの声は、普段の低く整った響きを保っていた。
「8週間ほどです」
医務魔女の言葉は、柔らかくも無慈悲に響く。
「なるほど……気をつけるべきことは何でしょう。初めてなもので」
レギュラスの問いに、医務魔女は丁寧に今後のこと、日常生活の注意点、体調に関わる詳細を語り出す。
言葉は落ち着いていたが、レギュラスの胸中は荒れ狂う嵐のようだった。
聞いているふりをしているその顔の裏で、レギュラスの心は渦を巻いていた。
――これは、間違いなくシリウスとの間の子なのだろう。
頭では理解していても、胸の奥がざわつき、痛みが波のように押し寄せる。
アランが屋敷を出て行き、戻らなかった期間、彼女がどこで何をしていたか、どんな日々を過ごしていたか。
そのすべてを聞こうとしなかった自分。
流した時間と積み重なった日々を、目を背けるように封じ込めたのだ。
――これから先の未来だけを見ようと、決めていたから。
しかし、こうして現実を突きつけられることは、あまりにも残酷だった。
小さな生命の存在は、無言のままレギュラスの心を抉る。許し、受け入れようとする自分がいる一方で、憎しみや怒りも同じだけ胸の中で渦巻いていた。
――果たして、アランが産む子供を、自分はどう扱えばいいのだろう。
愛せるのか、受け入れられるのか。
答えは見つからない。未来を考えれば考えるほど、心の奥底で小さな声が叫び、理性と感情が引き裂かれる。
窓の外では夜風がそっと屋敷を吹き抜け、月明かりが床に淡い影を落としている。
その冷たい光の中で、レギュラスはただ静かに椅子に腰かけ、揺れる胸の奥に生まれた複雑な感情を抱え込むしかなかった。
愛したい。
受け入れたい。
でも、憎しみも怒りも消せない。
――どうすれば、未来を選べるのだろうか。
夜の静寂に、レギュラスの葛藤だけが、ひそやかに広がっていった。
アランは何事もなかったかのように、日々の使用人としての仕事に没頭していた。
胸の奥でずっしりとした体の重さを感じながらも、弱音を吐くことは許されないと自分に言い聞かせる。
使用人として、配慮を求めるなどという甘えは許されない。だから、どれほど体がだるくとも、顔には出さず、動作一つ一つに気を配る日々を続けていた。
朝の光が差し込む食堂。アランは慎重に皿を持ち、手が震えそうになるのを必死に抑えながら、レギュラスの前に食事を置く。
その視線が自身の体調を気遣うかのように向けられるたび、胸の奥に刺さる罪悪感が小さな波紋のように広がった。
あの日から、レギュラスは何も詰問するようなことは言わなかった。ただ、静かに、穏やかに体調を気遣うだけだった。
その沈黙が、逆にアランの胸を締めつける。
食事が進む中、レギュラスはゆっくりと匙を置き、ナプキンで口元を拭った。その動作は静かで、しかし確かな重みを帯びていた。
「ご報告が」
低く響くその声に、食卓の空気が一瞬にして止まった。オリオンもヴァルブルガも、カサンドラも、すべての動作を止めてレギュラスの言葉に耳を傾ける。
「どうした?」とオリオンが尋ねる。
「アランが身ごもりました。間違いなく、このブラック家の血筋です」と、レギュラスは冷静に告げた。
空気が震えた。ヴァルブルガの目は見開かれ、怒りと衝撃の色が混じる。カサンドラは動けずに固まり、アラン自身も、レギュラスの言葉の意味を理解するのに時間を要した。
なぜ、今この場で、こんなことを言うのか。
レギュラスとの子ではないという事実を知っているのに。
しかも、正妻であるカサンドラの目の前で告げるとは、波紋を立てずにはいられない大胆な発言だった。
「そうか、それは喜ばしい知らせだ」とオリオンが重ねるように言う。
その直後、ヴァルブルガの金切り声が食卓に響き渡る。
「どこがいいのです? ロズィエ家に何と伝えるべきか!」
「申し訳ございません、奥様」とアランはひそやかに頭を下げ、カサンドラも沈黙する。
「血を継ぐものは多いほうが良いことに変わりはない」とオリオンは淡々と続ける。
オリオンの価値観は明確だった。
母親の地位や格式は問わず、とにかくブラック家の血筋が確実に続くことが最優先なのだ。
しかしヴァルブルガは違う。
格式ある家の娘とブラック家の血が混じることこそ、純血としての究極の理想であると信じて疑わない。
その思想と現実の間で、朝食の席は異常な緊張感を帯び、言葉の刃が飛び交う戦場のようだった。
それでも、レギュラスは微動だにせず、ヴァルブルガの怒声に怯むこともなく、ただオリオンの言葉だけを受け取っているかのように静かに座していた。その静謐さは、逆に周囲の動揺を一層際立たせ、食卓に緊張の糸を張り巡らせていた。
アランはそっと息を整え、震える手で皿を抱えながら、自分がこの場に存在する意味と、これから背負うであろう重圧を思い知らされる。胸の奥で、罪悪感と恐怖、そして一縷の覚悟が混ざり合い、澱のように重く沈んでいった。
この朝食の席は、ただの食事の場ではなかった。権力と血筋、愛と欲望、そして人々の思惑が入り乱れる舞台であり、アランはその中心に立たされる存在として、重く、深く息をつくしかなかった。
アランは食事を終えたレギュラスの背を追っていた。
広い屋敷の廊下には、静まり返った空気が漂っている。陽光が長い絨毯の上に淡く影を落とし、その先を歩くレギュラスの姿を細く照らしていた。アランの胸は早鐘のように打ち、声をかけようとしても、喉が強張ってうまく息が通らなかった。
それでも、黙っていることはできなかった。
――あの発言を聞いてしまった以上、問いたださずにはいられない。
「レギュラス、何を考えているのですか?」
アランの声は震えていた。けれど確かに、レギュラスの背を止めた。
レギュラスはゆっくりと振り向いた。その表情には怒りも驚きもなく、ただ静かな光を湛えている。
「何を、とはどういう意味です?」
その声音は穏やかだった。だが、その穏やかさがアランの胸をさらにざわつかせた。
――どういう意味、だなんて。
どうしてそんな風に平然としていられるのだろう。
アランは息を詰め、言葉を選ぶように口を開いた。
「お腹の子を……ブラック家の人間として認めるということなのですか?あなたの誇りを、家の名を傷つけることだというのに……」
レギュラスの瞳が一瞬だけ陰を落とした。けれど、すぐにいつもの静けさに戻る。
「お腹の子供はシリウスとの子なのですよね?」と、確かめるようにレギュラスが言う。
アランは小さくうなずいた。胸が張り裂けそうだった。
「でしたら――その子は間違いなくブラック家の血です。」
その言葉が、アランの鼓膜の奥で鈍い音を立てた。
まるで、彼のすべての理性がそう言っているかのように。
「でも……」とアランが言いかけると、レギュラスは一歩近づき、穏やかに遮った。
「心配しないでください。無事に産んでください。その子は――僕の子として育てます。」
アランは言葉を失った。
信じられないという思いと、理解が追いつかない混乱とが一気に押し寄せてくる。
レギュラスは何を考えているのか。
何を目的としているのか。
この男は、何を犠牲にしてでも何を守ろうとしているのか。
アランの唇が震え、何かを言おうとした瞬間、レギュラスがそっと手を伸ばし、アランを抱き寄せた。
その腕の中はあたたかく、しかし逃げ場のないほどに静かだった。
「約束します。」
耳元で落とされたその言葉は、まるで誓いのように重かった。
「あなたの産んだ子を、必ずブラック家の当主として育て上げます。身の安全も、将来も、すべてを保証します。」
アランの心臓が激しく鳴った。
――代わりに、何を差し出せばいいのだろう。
何か、恐ろしい代償を求められるのではないか。
息が詰まる。
レギュラスの声が少し震えた。
「その代わり……」
アランの鼓動が耳の奥で爆ぜた。
どんな言葉が続くのか――怖くてたまらなかった。
沈黙が流れる。長い、永遠にも似た沈黙。
やがてレギュラスはアランの肩に額を預けるようにして、かすれた声で言った。
「ちゃんと……あなたから愛されたいんです。」
その言葉は、刃ではなかった。
罰でも、脅しでもなかった。
ただ、壊れそうなほどに真っすぐな願いだった。
アランの胸の奥に、じんわりと熱が広がっていく。
――もっと恐ろしい要求をされると思っていた。
血の契約か、自由の剥奪か、何か取り返しのつかない命令を。
けれどレギュラスが求めたのは、ただ「愛」だった。
それは条件というよりも、祈りに近かった。
赦しを乞うでもなく、支配を望むでもなく、ただ「愛してほしい」と告げるその姿に、アランは言葉を失った。
その朝の廊下は深い静寂に包まれ、レギュラスの抱擁の中で、アランの胸に渦巻く罪悪感と切なさが、ひとつの痛みとなって溶けていった。
アランは、扉が閉まったその瞬間に、世界が二つに裂けてしまったような感覚に襲われた。
振り返れば、そこにはもうシリウスの姿はなかった。
彼の残した温もりだけが、まだ掌にわずかに残っている。
けれどその温もりすら、時間とともに消えていく。
――手を離してしまった。
あの瞬間、彼との未来を、自分で断ち切ってしまったのだ。
胸の奥に焼けるような痛みが広がる。
どうしても涙が止まらない。
何度拭っても溢れ出すそれは、まるで堰を切ったように頬を伝い落ちた。
本当に、心の底から愛していた。
シリウス・ブラックは、彼女にとって光そのものだった。
ホグワーツの湖畔で見上げた星空の下でも、授業の合間に交わした小さな笑いの中でも、彼がいるだけで世界が輝いて見えた。
幼い頃からずっと、彼と共に生きる未来だけを夢見ていた。
それがアラン・セシールという少女の、人生のすべてだった。
だが、夢は夢のまま終わった。
現実の中で彼女が選んだのは、冷たく静まり返ったこの屋敷の中で生きること。
重圧と義務、そして沈黙に支配された日々を受け入れることだった。
この場所で笑うことは許されず、心を自由にすることも叶わない。
それでも、母の生きた意味を、セシール家の名を守るためには、そうするしかなかった。
「……私、どうすればいいの」
小さな声が、誰もいない廊下に溶けて消えた。
これから彼女は、レギュラスの隣で生きることになる。
優しく、静かな少年。彼は決してシリウスのように光をまとう人ではない。
けれど、彼なりに真剣に彼女を想ってくれているのだと分かっている。
──けれど、どうすればいいのだろう。
どんなふうにレギュラスを愛せばいいのか。
どんなふうに想いを返せば、彼の心を満たしてあげられるのか。
自分の中にある愛という形が、まだシリウスの面影でできていることが苦しかった。
「シリウスを想う心を、そのままレギュラスに向けられたら……」
呟きながら、アランは首を振った。
そんなこと、できるはずがない。
誰かを忘れるということは、息をすることをやめるのと同じくらい難しい。
冷たい石造りの廊下を歩きながら、アランは手にした布で床を磨いた。
かつて使用人として過ごしていた頃のように、ひとつひとつの装飾や床の模様に丁寧に手をかける。
これが自分の“罰”なのだと思った。
愛を貫けなかった自分への、静かな償い。
ふと、光が指先に反射した。
そこにはシリウスから贈られた銀の指輪があった。
優しい陽光のようにきらめいていたその輝きが、今は胸を締めつける。
アランは立ち止まり、しばらく指輪を見つめた。
あの日、彼が少し照れたように笑いながらこの指輪をはめてくれた光景がよみがえる。
あの時は永遠を信じていた。
永遠など存在しないことを、今になってようやく知る。
彼の名を、心の中でそっと呼んだ。
けれど声にはしなかった。
呼べば崩れてしまいそうだった。
「……もう、しまっておこう」
小さく息を吸い込み、アランは指輪を外した。
冷たい金属が指から離れると同時に、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような感覚に襲われる。
それでも、これが自分の選んだ道なのだと自分に言い聞かせる。
涙が再びこぼれた。
それを見る者はもう誰もいない。
屋敷の廊下を吹き抜ける風が、彼女の髪を揺らし、遠くで燭台の炎が小さく瞬いた。
アラン・セシールは、愛を胸に封じ込めたまま、
静かに、冷たいこの屋敷の中へと戻っていった。
まるで自らを闇に閉じ込めるように──
それでもその瞳の奥には、微かに消えない光があった。
それはきっと、シリウス・ブラックという名の“過去の星”の残り火だった。
朝の光が重厚なカーテンの隙間から細く差し込み、長い影をテーブルの上に落としていた。
ブラック邸の食堂はいつもと変わらぬ荘厳さを湛えているはずなのに、今朝はその空気がどこか張り詰めていた。
銀器のひとつひとつにまで神経が行き届いた長卓の中央に、ヴァルブルガが優雅に腰掛けている。
完璧に整えられた黒髪と冷ややかな瞳。その顔に貼り付いているのは、薄く凍った不機嫌さだった。
わずかな眉の吊り上がりさえ、家中の空気を容易に支配してしまう。
アランは、緊張に肩をすくめながら皿を運んでいた。
小さな音を一つでも立てれば、砕けそうな静寂がピンと張り詰めた糸のように切れてしまいそうで、指先まで強張る。
スープ皿を置くたびに、鼓動の音が自分だけに響いているかのようだった。
「……レギュラス。何を考えているのです?」
ヴァルブルガの声は、まるでナイフの刃先のように鋭く静寂を裂いた。
その視線は正面に座るレギュラスと、その隣に控えるカサンドラに真っ直ぐ向けられていた。
銀の匙がそっとテーブルに置かれる。
レギュラスは、まるで一枚の氷の仮面でも被ったかのような表情でグラスを置き、母を正面から見つめた。
その横顔には、息苦しいほどの緊張が宿っているのに、それを決して表に出さない強さがある。
「……すみません、母上。少し任務が立て込んでいまして。」
穏やかで、どこまでも整った声だった。
息を呑むような静寂のなか、カサンドラがそっと身を乗り出す。
「きっと……お疲れのようですわ、ヴァルブルガ様」
その声は優しく、けれど慎重で、母の怒りを鎮めるための一言として計算し尽くされていた。
「あなたたちの責務を忘れてはいけませんわ。」
ヴァルブルガの唇が、冷たくも美しい線を描く。
「この高貴な血を絶やさずに次いでいくことこそ、純血一族の定めです。」
まるで朝食の席ではなく、裁きの場で宣言を下しているようだった。
アランの手が、思わず震える。皿がかすかに揺れて、銀器の音がチンと鳴った。
一瞬でその視線が自分に向けられた気がして、背筋が凍る。
レギュラスは深く息を吸い込み、吐き出すことを我慢するように顎を引いた。
ため息をつきたい衝動を喉の奥に押し込み、涼しげな顔を保つ。
母が言いたいことは分かっていた。
アランがこの屋敷に戻ったことを、ヴァルブルガが快く思っていないことも。
それどころか、彼女の存在をカサンドラの地位を揺るがす「不安要素」として睨みつけている。
アランはあくまで“使用人”であるはずなのに、その名を聞くだけで母の機嫌が変わるほどに、彼女はこの屋敷にとって異物なのだ。
事実、レギュラスは結婚以来、まだ一度もカサンドラと夜を共にしてはいなかった。
夜ごと彼が足を運ぶのは、別の部屋――アランのいる廊下の先。
それは無意識のようで、意図的でもあった。
カサンドラは何も言わない。
その瞳には小さな寂しさが滲んでいるものの、純血の妻として、それを表に出すことはない。
彼女の優雅な微笑みが、かえって痛々しく見えるほどだった。
アランは、二人の間に流れる空気を敏感に感じ取っていた。
静かな怒り、押し殺した諦め、冷たい期待――それらが絡み合って、この朝の食堂は息が詰まるほど重く濁っている。
皿を運ぶたび、アランの足音がやけに響いた。
目を合わせることはできない。けれど、レギュラスの横顔が視界の端に映る。
彼の黒い瞳は一点を見据えて、微かに硬く結ばれていた。
ヴァルブルガの言葉は、呪いのように響く。
「この血を絶やすわけにはいかないのです。あなたも理解しているでしょう?」
レギュラスは、ゆっくりと目を伏せた。
本当ならこの場から立ち去りたい。
冷たい血の話よりも、温もりを感じられるアランの存在を選びたかった。
けれどそれは、この家に生まれ落ちた時点で、許されない道なのだ。
朝の光は、淡く食堂を照らしているのに――
誰の心も温めることなく、冷たい影だけがゆっくりと伸びていた。
朝食が終わり、食堂を出るころには、まだヴァルブルガの冷たい声が耳の奥に残響のようにこびりついていた。
食器が触れ合うわずかな音さえ張りつめた空気に吸い込まれていくようで、アランは一刻も早くこの空間から離れたかった。
けれど、廊下に出てすぐ――
「アラン。」
背後から呼ばれたその声に、アランの足は思わず止まった。
振り返る間もなく、手首を掴まれた。
温かい掌。けれどその強さは、逃げることを許さない。
「少し付き合ってくれませんか。」
レギュラスの声は柔らかく、それでいて逆らえないほどの静かな強さを含んでいた。
アランは瞬きをした。
「……え?」
混乱がそのまま声になった。
つい先ほど、ヴァルブルガに痛いほど詰められたばかりだ。
あの刺すような視線、ひとつひとつの言葉の冷たさが、まだ肌に残っているというのに――
まるで何もなかったかのように、彼は穏やかに微笑んでいる。
そのことが、アランには理解できなかった。
どうして彼は、あんなにも母の言葉を軽く受け流せるのだろう。
どうして、自分の中に渦巻く恐怖と緊張を分かっていながら、それを無視して手を取るのだろう。
「レギュラス、ヴァルブルガ様は今……お怒りなんですよ。」
アランは戸惑いを隠せずに言った。
それでもレギュラスは、まるでその言葉が風に流れたかのように軽く微笑んだ。
「ええ。でも気にしなくて構いません。」
その一言に、アランの胸がきゅっと締め付けられた。
気にしなくて構わない――
けれど、それは彼にとっての世界の話であって、アランにとっては違う。
彼女にとってヴァルブルガは、この屋敷で呼吸をするたびに意識せざるを得ない存在だった。
一度でも逆らえば、命さえも簡単に奪えるほどの権力を持つ女だ。
レギュラスとアランの間にある「ヴァルブルガ」という存在の重さは、決して同じではない。
その温度差が、二人の間の距離を見えない壁のように生んでいた。
「……レギュラス、私は……」
アランは言葉を探すように、そっと自分の手を引いた。
けれど、抜いたその手をレギュラスは再び掴み、今度はそのまま自分の胸元へと引き寄せた。
「あ……」
息がこぼれる。
レギュラスの胸に押し当てられた瞬間、彼の体温が自分の中にまで流れ込んでくるようだった。
彼の心臓の鼓動が伝わる――落ち着いた、確かな音。
それがかえって苦しい。
「アラン……」
低く名前を呼ばれるたびに、胸の奥で何かがざわめいた。
どうして、この人はいつもこうなのだろう。
愛情をまっすぐに注いでくる。
その真っ直ぐさは、美しくて、けれど残酷だった。
アランの中では、愛情がもはや“重さ”としてしか感じられなかった。
抱えきれないほどの温もりが、逆に痛みになる。
どこに置けばいいのかわからない。
受け止めるには、自分の心があまりにも壊れかけている。
「……そんなふうにされたら、困ります。」
アランは絞り出すように言った。
けれど、レギュラスの腕は緩まない。
彼の瞳が、静かに、優しくアランを見つめている。
その瞳の中に、自分の姿が映る。
悲しみに満ちた瞳を見て、アランは何も言えなくなった。
レギュラスは、きっとこの沈黙を「肯定」として受け取るのだろう。
拒まれなかったから、許されたと思うのだろう。
彼にとって、愛とはそういうものだ。
全てを注ぎ、全てを得ようとする。
けれどアランにとって、愛はすでに痛みであり、鎖だった。
その腕の中にいることは、安らぎと同時に、逃れられない檻でもあった。
廊下の奥では、朝の光がゆっくりと差し込み始めている。
二人の影が床に並んで伸びていた。
寄り添っているようでいて――どこまでも遠い。
カサンドラは息を呑んだ。
長い回廊の影の中、燭台の淡い明かりが揺れている。
その先、レギュラスがアランを抱きしめていた。
彼の手が、あの女の腰にまわっていた。アランの黒髪が肩に流れ落ち、まるで夜そのものがレギュラスの腕の中に溶け込んでいくようだった。
カサンドラはその光景を、凍りついたまま見ていた。心臓が音を立てて割れるような痛みを覚えながら。
彼があの女を見つめるときの目——。
かつて自分に向けられたことなど、一度もなかった。
冷ややかで整然とした青年の中に、確かに「生」が灯るのを、カサンドラは初めて見た。
それが自分に向けられたものではないことが、何よりも残酷だった。
正式にブラック家に嫁いでから今日まで、レギュラスは一度としてカサンドラの部屋を訪れなかった。
結婚式の日、彼は礼儀正しく微笑み、「よろしくお願いします、カサンドラ」と穏やかに言ったきりだった。
それからの毎夜、彼の足音は廊下の先で消えた。
寝室の扉が開く音は、一度も聞こえなかった。
そして今日——彼が初めて抱いたのは、妻ではなく、使用人の女だった。
惨めさに胸が潰れそうだった。
けれど涙は出なかった。
貴族としての誇りが、涙を許さなかった。
ただ、息を吸うたびに心臓の奥が焼けるように痛んだ。
カサンドラは静かに扉の陰から離れた。
足音を殺して廊下を歩きながら、自分の指に嵌められたリングを見つめる。
それはヴァルブルガが婚約の証として渡した、ブラック家の古い家紋入りの指輪。
これを嵌めた瞬間、カサンドラは誇りに満ちていた。
フランスの純血の名家の娘として、あのブラック家に嫁ぐという栄誉。
それが今では、冷たい鎖のように指に食い込んでいた。
「アランセシールが戻ったのですって?」
低い声が背後から響いた。
ヴァルブルガだった。
彼女はゆっくりと近づき、黒いローブの裾を引きずるようにしてカサンドラの横に並んだ。
燭光が彼女の顔を照らす。年老いてなお、その目は鋭く、息子の行く末を睨み据えていた。
「辛いのは承知の上です。ですが、カサンドラ、どうかお忘れにならないで。この家の名誉、この血の純潔を守るのは、あなたの務めです」
その言葉は柔らかく聞こえた。だが、その実、刃物のように鋭かった。
カサンドラは膝を折り、静かに頭を下げた。
「……承知しております、ヴァルブルガ様」
口にした瞬間、喉の奥が震えた。
わかっていた。これは命令だ。
「男児を産め」という無言の圧。
だがその前提として、レギュラスが自分に触れることさえないのだ。
その現実が、あまりにも重かった。
夜、カサンドラは寝室の鏡の前に立った。
青白い月明かりが窓から差し込み、頬の線を淡く照らしていた。
鏡の中の自分は、完璧だった。
白い肌、整った鼻筋、長く波打つ金髪。どこから見ても高貴な令嬢だった。
——なのに、心はこんなにも惨め。
「アランセシールさえ、いなければ……」
思わず声が零れた。
その言葉は、部屋の静寂に吸い込まれ、夜気の中で細く消えた。
彼女がこの屋敷に戻った日から、レギュラスの目が確かに変わった。
冷たくも静かだった青年が、あの女を見るたびに柔らかく、優しくなっていった。
その光を見るたびに、カサンドラの心は闇に沈んでいった。
——奪われた。
愛も、名誉も、存在の意味も。
フランスで過ごした少女時代、あれほど誇りに思っていた自分の家名さえ、今では惨めな響きを持って聞こえた。
鏡の前で指輪を外そうとした。だが、外れなかった。
細い指に食い込んだまま、まるで「この家から逃げられぬ」と告げるように。
カサンドラは瞼を閉じた。
胸の奥に、黒い炎が灯った。
それは嫉妬という名の業火。
静かに、しかし確実に、彼女の中の何かを変えていく火だった。
レギュラスは、アランの部屋の前でしばらく立ち尽くしていた。
扉の向こうからは、微かに燭台の火が揺れる音がする。
静かな夜だった。屋敷の大時計の針が、まるで時間の存在を忘れたかのように、鈍く一秒ずつを刻んでいる。
彼は小さく息を整えてから、ゆっくりと扉を開けた。
アランは窓辺にいた。
薄い寝衣の上から ショールを羽織り、夜風に吹かれるカーテンの向こうに、月の光を眺めている。
振り返った瞬間、レギュラスの胸の奥で何かが震えた。
帰ってきてからというもの、彼女は屋敷の中で確かに生きているはずなのに、どこか遠くにいるようだった。
笑わなくなった。瞳の奥に翡翠色の深淵だけを宿して、まるで夢の中に囚われているようだった。
「アラン」
名前を呼ぶと、彼女は少し驚いたように振り向いた。
その顔に、灯火の明かりがやさしく落ちる。
それだけで、レギュラスは息が詰まりそうになる。
もう、何度彼女の名前を胸の中で呼んだだろう。
あの離別のあと、あの沈黙の月日の中で。
ようやく戻ってきた彼女に、ただ「触れる」ことさえ躊躇していた。
彼女がリシェルのことで負った傷を思うと、自分の欲を優先することが恐ろしくてできなかった。
けれど、今夜は違った。
彼女の傍にいたいと、強く思った。
触れて、確かに「今ここにいる」ことを伝えたかった。
生理的な衝動だけではない。
心の奥底、魂の深くから湧き上がるような欲求だった。
彼女の心に、自分の想いを直接、深く刻みたかった。
——この愛が、届くなら。
「アラン」
もう一度、名を呼びながら彼はそっと近づいた。
アランの頬に手を伸ばし、指先でその肌の温度を確かめる。
柔らかく、細い肩が震える。
レギュラスの灰色の瞳に、翡翠色が映り込む。
それだけで胸が熱くなった。
「あなたがここにいてくれることが、どれほど救いだったか……」
低く、静かに、祈るように言葉を落とす。
彼女の頬を包み、唇を寄せようとした——その瞬間だった。
「うっ……」
アランが小さく呻いた。
眉をひそめ、口元を押さえ、前屈みになる。
「アラン?」
彼の声に返るのは、喉の奥で詰まるような苦しげな呼吸。
「うっ……うぇ……」
その声は震え、彼女の肩が小刻みに震える。
顔色が見る間に白くなり、冷や汗がこめかみを伝って落ちていった。
「どうしました、アラン……!」
レギュラスは慌てて彼女の肩を支える。
その手の中の体が、信じられないほど軽い。
まるで風にさらわれてしまいそうなほどに、弱々しい。
アランは震える手で、何かを言おうとした。
「ま、って……レギュラス……」
か細い声。
けれどレギュラスには聞き取れない。
「待っていてください、すぐに医務魔女を——」
彼は扉に向かって声を張り上げた。
「屋敷しもべを! 医務魔女を呼んでください!」
アランは首を振った。
「……いらない……」
かすれた声でそう言いながら、彼の袖を弱く掴む。
その小さな抵抗が、レギュラスの胸を刺した。
「何を言っているんです。そんな状態で放っておけるわけが——」
必死に言葉を繋ぐ。
けれど、アランはその間にも肩で息をしていた。
胸の奥から何かを吐き出そうとして、しかし吐けず、苦しみに震えている。
部屋の空気が一瞬で張り詰めた。
燭台の火が揺れ、月の光が床に落ちて、レギュラスの影と重なる。
彼の瞳の中に焦燥が広がる。
——どうして。
どうしてこんなにも、彼女の体は儚いのか。
彼は自分の無力さに打たれるように唇を噛んだ。
せめて抱きしめたいのに、それさえ叶わない。
扉の向こうで、足音が聞こえた。
しもべ妖精が駆けてくる。
アランはそれを止めようと、もう一度、弱々しく彼の袖を引いた。
「レギュラス……行かないで……」
その声は、震えていた。
泣きそうに、苦しそうに、そしてどこかで——懇願のように。
レギュラスは一瞬、呼吸を止めた。
この夜、彼の胸の中で、恐怖と愛が混ざり合って燃えた。
それは、これまで知らなかった種類の痛みだった。
彼はそっとアランの頬を撫でながら、ただその小さな命の震えを受け止めた。
何となく、そうではないかという予感があった。
身体の奥底で小さな違和感が芽を出していた。吐き気も、熱のような倦怠も、それらが単なる疲労ではないことを、アランはどこかで感じ取っていた。
だからこそ、レギュラスが医務魔女を呼ぼうとしたとき、必死に止めたかったのだ。
まだ確かめたくなかった。
真実というものは、知ってしまえば後戻りができなくなる。
知らないふりをしていられる時間だけが、かろうじて彼女を守っていた。
――けれど。
目を覚ますと、そこは見慣れた自室の天蓋付きの寝台だった。
月明かりがカーテンの隙間から差し込み、淡く白い影を床に落としている。
しんとした夜の静寂。
遠くの時計が、鈍く二時を告げた。
頭の芯がぼんやりとしている。
先ほどまで身体を支配していた吐き気は、嘘のようにおさまっていた。
喉の渇きを覚えて、横のテーブルに目をやると、銀のトレイの上にグラスが置かれていた。
冷たく曇ったその表面が、淡い光を反射している。
――きっと、医務魔女が来たのだ。
胸の奥が、ずしりと重くなる。
診察の結果がどうだったのか。
レギュラスは、その結果をもう聞かされたのだろうか。
そう考えた瞬間、恐怖が全身を駆け抜けた。
毛布を胸元まで引き上げる。
まるでそれで、迫りくる現実を隠せるような気がして。
そのとき、ノックの音がした。
静かな夜に、乾いた音が二度。
心臓が跳ねた。
誰かなど考えるまでもない。
この時間に訪れるのは、レギュラスしかいない。
「……アラン、少しは楽になりましたか?」
扉越しに、静かで穏やかな声が響く。
まるで氷のように澄んでいて、それでいて痛いほど優しい声。
アランは、こくりと小さく頷いた。
声を出すと震えてしまいそうだったから。
扉が開き、レギュラスがゆっくりと入ってくる。
白い寝間着の上からローブを羽織っていて、その端が月明かりに淡く照らされる。
彼は一言も発せず、アランアランの元へ歩み寄ると、ベッドの端に腰を下ろした。
柔らかく沈む寝台の感触が伝わる。
心臓がバクバクと音を立てて、息が詰まりそうになる。
「アラン」
彼がその名を呼ぶたびに、胸が軋む。
レギュラスはゆっくりと息を吸い、短く言った。
「……妊娠しているようです」
時間が止まった。
その言葉が部屋の中を静かに漂い、アランの耳に届くまで、永遠のように長く感じた。
遠くで誰かが話しているように聞こえる。
音がすべて遠のいて、心臓の音だけがやけに大きく響いた。
妊娠。
やはり――そうなのだ。
薄々、わかっていた。
それでも、言葉として聞かされることが、これほどまでに衝撃なのか。
目の前の現実が、容赦なく突きつけられる。
――どう考えても、その子はシリウスの子供だ。
冷たい汗が背筋を伝う。
喉の奥が焼けつくように痛い。
罪悪感が波のように押し寄せてきて、呼吸が浅くなる。
レギュラスの目を見られなかった。
彼の灰色の瞳の奥には、どんな思いが宿っているのだろう。
怒りだろうか。失望だろうか。それとも、哀れみなのだろうか。
いずれにしても、彼の正しさの前では、どんな言い訳も意味を成さない。
――裏切りの中でも、最も深く、最も醜い裏切り方をしてしまった。
アランは唇を噛み、震える指先をシーツの中に隠した。
涙が出そうになる。
けれど、それを見せてしまえば、あまりにも卑怯だと思った。
レギュラスは静かに、ただ彼女を見つめていた。
責める言葉も、詰問もない。
その沈黙がかえって、胸を切り裂くほど痛かった。
アランはそっと首を垂れた。
「……ごめんなさい」
かすれた声が、夜の静寂に吸い込まれていった。
レギュラスはしばらく何も言わなかった。
ただ、彼女の手の上にそっと自分の手を重ねる。
冷たい指先が、少しずつ温もりを取り戻していく。
月明かりの中で、二人の影が静かに重なった。
けれどその距離は、どれほど近くに見えても、決して交わることはなかった。
レギュラスの中に燃える想いと、アランの中に沈む罪とが、同じ夜の光の下で、ただ静かに佇んでいた。
想像さえしていなかった事実を、医務魔女から告げられた瞬間、レギュラスの言葉は喉の奥で止まった。
まるで空気ごと凍りついたかのように、思考が硬直する。
胸の奥を冷たい何かが締め上げ、瞬間的に世界が歪んだ。
医務魔女も、顔に微かに苦悶の色を浮かべていた。
言いにくそうに言葉を選びながら、レギュラスの動揺を察してか、余計な詮索を避けて丁寧に事実だけを伝えている。
――ここで自分があからさまに動揺など見せてはならない。
誇り高くあろうとする自分の気持ちが、静かに鋭く立ち上がる。
「そうですか。どのくらいなんです?」
レギュラスの声は、普段の低く整った響きを保っていた。
「8週間ほどです」
医務魔女の言葉は、柔らかくも無慈悲に響く。
「なるほど……気をつけるべきことは何でしょう。初めてなもので」
レギュラスの問いに、医務魔女は丁寧に今後のこと、日常生活の注意点、体調に関わる詳細を語り出す。
言葉は落ち着いていたが、レギュラスの胸中は荒れ狂う嵐のようだった。
聞いているふりをしているその顔の裏で、レギュラスの心は渦を巻いていた。
――これは、間違いなくシリウスとの間の子なのだろう。
頭では理解していても、胸の奥がざわつき、痛みが波のように押し寄せる。
アランが屋敷を出て行き、戻らなかった期間、彼女がどこで何をしていたか、どんな日々を過ごしていたか。
そのすべてを聞こうとしなかった自分。
流した時間と積み重なった日々を、目を背けるように封じ込めたのだ。
――これから先の未来だけを見ようと、決めていたから。
しかし、こうして現実を突きつけられることは、あまりにも残酷だった。
小さな生命の存在は、無言のままレギュラスの心を抉る。許し、受け入れようとする自分がいる一方で、憎しみや怒りも同じだけ胸の中で渦巻いていた。
――果たして、アランが産む子供を、自分はどう扱えばいいのだろう。
愛せるのか、受け入れられるのか。
答えは見つからない。未来を考えれば考えるほど、心の奥底で小さな声が叫び、理性と感情が引き裂かれる。
窓の外では夜風がそっと屋敷を吹き抜け、月明かりが床に淡い影を落としている。
その冷たい光の中で、レギュラスはただ静かに椅子に腰かけ、揺れる胸の奥に生まれた複雑な感情を抱え込むしかなかった。
愛したい。
受け入れたい。
でも、憎しみも怒りも消せない。
――どうすれば、未来を選べるのだろうか。
夜の静寂に、レギュラスの葛藤だけが、ひそやかに広がっていった。
アランは何事もなかったかのように、日々の使用人としての仕事に没頭していた。
胸の奥でずっしりとした体の重さを感じながらも、弱音を吐くことは許されないと自分に言い聞かせる。
使用人として、配慮を求めるなどという甘えは許されない。だから、どれほど体がだるくとも、顔には出さず、動作一つ一つに気を配る日々を続けていた。
朝の光が差し込む食堂。アランは慎重に皿を持ち、手が震えそうになるのを必死に抑えながら、レギュラスの前に食事を置く。
その視線が自身の体調を気遣うかのように向けられるたび、胸の奥に刺さる罪悪感が小さな波紋のように広がった。
あの日から、レギュラスは何も詰問するようなことは言わなかった。ただ、静かに、穏やかに体調を気遣うだけだった。
その沈黙が、逆にアランの胸を締めつける。
食事が進む中、レギュラスはゆっくりと匙を置き、ナプキンで口元を拭った。その動作は静かで、しかし確かな重みを帯びていた。
「ご報告が」
低く響くその声に、食卓の空気が一瞬にして止まった。オリオンもヴァルブルガも、カサンドラも、すべての動作を止めてレギュラスの言葉に耳を傾ける。
「どうした?」とオリオンが尋ねる。
「アランが身ごもりました。間違いなく、このブラック家の血筋です」と、レギュラスは冷静に告げた。
空気が震えた。ヴァルブルガの目は見開かれ、怒りと衝撃の色が混じる。カサンドラは動けずに固まり、アラン自身も、レギュラスの言葉の意味を理解するのに時間を要した。
なぜ、今この場で、こんなことを言うのか。
レギュラスとの子ではないという事実を知っているのに。
しかも、正妻であるカサンドラの目の前で告げるとは、波紋を立てずにはいられない大胆な発言だった。
「そうか、それは喜ばしい知らせだ」とオリオンが重ねるように言う。
その直後、ヴァルブルガの金切り声が食卓に響き渡る。
「どこがいいのです? ロズィエ家に何と伝えるべきか!」
「申し訳ございません、奥様」とアランはひそやかに頭を下げ、カサンドラも沈黙する。
「血を継ぐものは多いほうが良いことに変わりはない」とオリオンは淡々と続ける。
オリオンの価値観は明確だった。
母親の地位や格式は問わず、とにかくブラック家の血筋が確実に続くことが最優先なのだ。
しかしヴァルブルガは違う。
格式ある家の娘とブラック家の血が混じることこそ、純血としての究極の理想であると信じて疑わない。
その思想と現実の間で、朝食の席は異常な緊張感を帯び、言葉の刃が飛び交う戦場のようだった。
それでも、レギュラスは微動だにせず、ヴァルブルガの怒声に怯むこともなく、ただオリオンの言葉だけを受け取っているかのように静かに座していた。その静謐さは、逆に周囲の動揺を一層際立たせ、食卓に緊張の糸を張り巡らせていた。
アランはそっと息を整え、震える手で皿を抱えながら、自分がこの場に存在する意味と、これから背負うであろう重圧を思い知らされる。胸の奥で、罪悪感と恐怖、そして一縷の覚悟が混ざり合い、澱のように重く沈んでいった。
この朝食の席は、ただの食事の場ではなかった。権力と血筋、愛と欲望、そして人々の思惑が入り乱れる舞台であり、アランはその中心に立たされる存在として、重く、深く息をつくしかなかった。
アランは食事を終えたレギュラスの背を追っていた。
広い屋敷の廊下には、静まり返った空気が漂っている。陽光が長い絨毯の上に淡く影を落とし、その先を歩くレギュラスの姿を細く照らしていた。アランの胸は早鐘のように打ち、声をかけようとしても、喉が強張ってうまく息が通らなかった。
それでも、黙っていることはできなかった。
――あの発言を聞いてしまった以上、問いたださずにはいられない。
「レギュラス、何を考えているのですか?」
アランの声は震えていた。けれど確かに、レギュラスの背を止めた。
レギュラスはゆっくりと振り向いた。その表情には怒りも驚きもなく、ただ静かな光を湛えている。
「何を、とはどういう意味です?」
その声音は穏やかだった。だが、その穏やかさがアランの胸をさらにざわつかせた。
――どういう意味、だなんて。
どうしてそんな風に平然としていられるのだろう。
アランは息を詰め、言葉を選ぶように口を開いた。
「お腹の子を……ブラック家の人間として認めるということなのですか?あなたの誇りを、家の名を傷つけることだというのに……」
レギュラスの瞳が一瞬だけ陰を落とした。けれど、すぐにいつもの静けさに戻る。
「お腹の子供はシリウスとの子なのですよね?」と、確かめるようにレギュラスが言う。
アランは小さくうなずいた。胸が張り裂けそうだった。
「でしたら――その子は間違いなくブラック家の血です。」
その言葉が、アランの鼓膜の奥で鈍い音を立てた。
まるで、彼のすべての理性がそう言っているかのように。
「でも……」とアランが言いかけると、レギュラスは一歩近づき、穏やかに遮った。
「心配しないでください。無事に産んでください。その子は――僕の子として育てます。」
アランは言葉を失った。
信じられないという思いと、理解が追いつかない混乱とが一気に押し寄せてくる。
レギュラスは何を考えているのか。
何を目的としているのか。
この男は、何を犠牲にしてでも何を守ろうとしているのか。
アランの唇が震え、何かを言おうとした瞬間、レギュラスがそっと手を伸ばし、アランを抱き寄せた。
その腕の中はあたたかく、しかし逃げ場のないほどに静かだった。
「約束します。」
耳元で落とされたその言葉は、まるで誓いのように重かった。
「あなたの産んだ子を、必ずブラック家の当主として育て上げます。身の安全も、将来も、すべてを保証します。」
アランの心臓が激しく鳴った。
――代わりに、何を差し出せばいいのだろう。
何か、恐ろしい代償を求められるのではないか。
息が詰まる。
レギュラスの声が少し震えた。
「その代わり……」
アランの鼓動が耳の奥で爆ぜた。
どんな言葉が続くのか――怖くてたまらなかった。
沈黙が流れる。長い、永遠にも似た沈黙。
やがてレギュラスはアランの肩に額を預けるようにして、かすれた声で言った。
「ちゃんと……あなたから愛されたいんです。」
その言葉は、刃ではなかった。
罰でも、脅しでもなかった。
ただ、壊れそうなほどに真っすぐな願いだった。
アランの胸の奥に、じんわりと熱が広がっていく。
――もっと恐ろしい要求をされると思っていた。
血の契約か、自由の剥奪か、何か取り返しのつかない命令を。
けれどレギュラスが求めたのは、ただ「愛」だった。
それは条件というよりも、祈りに近かった。
赦しを乞うでもなく、支配を望むでもなく、ただ「愛してほしい」と告げるその姿に、アランは言葉を失った。
その朝の廊下は深い静寂に包まれ、レギュラスの抱擁の中で、アランの胸に渦巻く罪悪感と切なさが、ひとつの痛みとなって溶けていった。
