2章
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レギュラスは、息を詰めるような焦燥を胸に抱えながら、屋敷の廊下を足早に進んでいた。
冷たく磨かれた黒曜石の床が、彼の靴音を鋭く反響させる。
重厚なシャンデリアが灯す光が、静まり返った屋敷の空気を淡く照らしていたが、その光はどこか鈍く、どんな明かりも心のざわめきを消してはくれなかった。
――アランが戻った。
しもべの報せが耳に届いた瞬間、胸の奥が焼け付くように熱くなった。
あの名を聞いただけで、全身を満たすこの感情は何なのか。
安堵なのか、恐れなのか、それとも、再び彼女を失うかもしれないという狂おしい不安なのか。
レギュラスには分からなかった。ただひとつ確かなのは、会いたいという衝動が、理性を超えて彼を動かしていた。
父の書斎の前で立ち止まり、静かに扉を押し開ける。
柔らかな木の軋みとともに視界に飛び込んできたのは、懐かしい横顔だった。
――アラン。
彼女はそこにいた。
翡翠の瞳はあの頃のまま、けれど、その奥に宿る光は少し翳っているように見えた。
漆黒の髪は肩を超え、光を受けてやわらかく波打っていた。
彼女がこちらに気づいて顔を上げた瞬間、時間が止まったようだった。
喉の奥から自然と名前がこぼれる。
「アラン……心配したんです。」
震える声が静かな部屋に溶けていく。
その声に、彼女は小さく唇を震わせて応えた。
「……レギュラス。」
その名を呼ぶ声は、掠れていた。
涙をこらえているのか、それとも恐れからか――判別できなかった。
それでも彼女の唇が、自分の名を確かに呼んでくれたこと。
ただそれだけで、胸の奥に熱い痛みが走り、同時にどうしようもない幸福が溢れた。
彼女の視線の先では、オリオンが椅子に腰掛けていた。
背もたれに深く身を預け、あの人特有の冷静さと支配的な威厳を漂わせながら、ゆっくりと口を開く。
「レギュラス。アランから、リシェル・セシールの釈放を懇願されている。……私が王室に直談判してみようと思うが、どうだろうか。」
その言葉を聞いた瞬間、レギュラスの胸の内で何かが静かに軋んだ。
数週間前から広まっていた、アランの母リシェルに対する風評。
王室を揺るがした魔女として囚われたという噂。
彼女の名が貼り出された張り紙を、レギュラス自身、街角で目にしていた。
その時感じた不快感――そして今、すべての点が線として繋がる。
あれは偶然ではなかった。
全て、父が仕組んだことだった。
アランが“戻る”ための、あまりにも残酷な導線。
書斎の中央で、アランは膝をついていた。
涙で濡れた頬、赤くなった膝。
どれほど長くこの姿勢でいたのか、彼女の指先は震え、声は掠れていた。
その姿を見て、レギュラスの胸の奥に、痛みとも怒りともつかない感情が渦を巻いた。
彼女が苦しむ姿を、父は平然と見つめている。
だが、彼自身の中にも否定できない事実があった。
――自分もまた、彼女を取り戻したいと願っていたのだ。
たとえどんな形であっても。
そのために必要な代償があるのなら、受け入れても構わないと。
あの夜、父の言葉を思い出す。
「何かを得たいのなら、多少の代償は仕方がない。」
そのときはただの冷徹な言葉に聞こえた。
だが今、その意味が、痛いほど胸に突き刺さる。
アランを再びこの屋敷に戻した――その事実の裏にある、彼女の涙と絶望。
それを代償として支払ったのは、父だけではない。
自分もまた、同じ罪の中にいるのだ。
アランが顔を上げ、懇願するような瞳でオリオンを見つめる。
その翡翠の瞳には、祈りにも似た光が宿っていた。
その光があまりにも美しくて、レギュラスは息を飲む。
どうか――彼女の望みを叶えてほしい。
そう願いながらも、同時に胸の奥では、得体の知れない恐怖が囁いた。
――もし、これが終わったあとに、アランが再び自分の前から消えてしまったら?
レギュラスは拳を握り締めた。
彼女の母を助けたいという気持ちと、彼女を二度と離したくないという我欲が、心の中で絡み合い、喉の奥で息を詰まらせる。
父の策略に心を痛めながらも、その冷徹な計算によって、彼は今、彼女と同じ空間にいる。
それが事実である以上、彼は父を憎みきれなかった。
罪と救いが、同じ手の中にある。
そしてレギュラスはその手を、震えながらも離せずにいた。
オリオンが王宮から戻ってきたのは、夜が更けきったころだった。
重く閉ざされた屋敷の扉が開く音を聞いた瞬間、アランは顔を上げた。
その瞳には、わずかな希望の光が宿っていた。
だが、オリオンの表情を見た瞬間、その光は脆く砕け散った。
静まり返った空間に、彼の低い声が響く。
「……すまない、間に合わなかった。」
その言葉が、どれほどの痛みを孕んでいたかを、レギュラスは想像することさえできなかった。
アランの口から小さな嗚咽が漏れた。
それは悲鳴にも似た、心の奥底を切り裂くような音だった。
彼女はその場に崩れ落ち、床に両手をつき、震える肩を必死に押さえていた。
リシェルは――もういない。
そう思った瞬間、レギュラスの胸の奥を、冷たい風が貫いた。
それは心臓を凍らせるような冷たさで、呼吸を忘れるほどだった。
自分のせいだ。
その言葉が、耳の奥で何度も反響した。
彼は知っている。
父がこの状況を作り出したことを。
母親の処刑を「時間の問題」にまで追い込んだのが、父の策略の一環だったことを。
そして、自分もまた――その結果を、望んでしまっていたことを。
アランを取り戻したい。
ただ、その一心だった。
どんな犠牲を払ってでも。
たとえ彼女の心が傷つくことになっても。
それがどれほど愚かで残酷な願いだったのか、今ようやく思い知らされる。
泣き崩れるアランの姿を見つめながら、レギュラスは唇を噛んだ。
血の味がした。
彼女を慰める資格など、自分にはない。
何を言っても、その言葉は嘘のように響くだろう。
それでも――放ってはおけなかった。
レギュラスは静かに彼女の傍にしゃがみ、震える肩にそっと手を添えた。
「……アラン、少し休んでください。」
その声は、まるで壊れものに触れるように優しかった。
アランは何も言わなかった。
ただ、泣き腫らした瞳で彼を見つめ、力なく頷いた。
その頬には涙の跡が幾筋も伝い、光を反射して淡く輝いていた。
悲しみに濡れたその姿は痛ましく、それでも――レギュラスには息をのむほど美しく見えた。
彼女の中のすべてが崩れていく瞬間でさえ、彼女は気高く、美しかった。
その事実が、また彼の心を締め付ける。
レギュラスはアランの隣に腰を下ろした。
暖炉の火が静かに揺れ、オレンジ色の光が二人の影を壁に映し出す。
炎の揺らめきがアランの涙を照らし、まるでその悲しみさえも美しい彫刻のように際立たせていた。
何を言えばいいのか分からない。
慰めの言葉は、どれも空虚に思えた。
「大丈夫」などと、どうして言えるだろう。
彼女の世界は、今まさに崩れ落ちたばかりなのに。
だから、彼は言葉を選ばなかった。
ただ、黙って隣にいた。
アランの肩に回した腕に、彼女の体温がわずかに伝わる。
冷たくなった指先が震えている。
その震えが、まるで自分の心そのもののように感じられた。
どれほどの沈黙が続いたのか分からない。
外では風が鳴り、遠くで夜の鳥が一声啼いた。
その音さえも、深い悲しみの中に吸い込まれていくようだった。
レギュラスはそっと目を閉じた。
この痛みから逃げるように。
アランを抱き寄せた腕の中で、自分の心もまた、少しずつ削れていくのを感じながら――
それでも彼は、ただその温もりを手放さなかった。
彼女を取り戻すために失ったもの。
彼女を抱くために犯した罪。
それらすべてを胸に抱えたまま、レギュラスはただ静かに、燃える暖炉の音を聞いていた。
アランの胸の奥には、終わりの見えない葛藤が渦を巻いていた。
重たく澱んだ空気が屋敷の中を満たし、息をするたびにその苦しさが肺の奥に沈んでいくようだった。
夜の静けさが、かえって彼女の心を締め付ける。
この屋敷に戻ってからというもの、ずっと胸の奥では同じ言葉が繰り返されていた。
――シリウスが、待っている。
そう思うたび、胸の奥が熱くなる。
彼の笑顔、あの自由な声、真っ直ぐで、何ものにも縛られない瞳。
思い出すだけで、涙が滲んだ。
どうして自分はここにいるのだろう。
どうして彼のもとへ帰らないのだろう。
一刻も早く、この重い屋敷から逃げ出したかった。
息を吸うたびに過去の影が背中に絡みつくようで、まるで自分自身が鎖に繋がれているようだった。
しかし、外に出れば――セシール家の残された一族がどうなるか分からない。
この国では「血」は罪にもなる。
母のように、無実のまま処刑台へと連れて行かれることだってある。
アランは膝の上で拳を握りしめた。
それでも、シリウスと生きていけるなら、それでいいと思っていたはずだった。
たとえどんな罰を受けようと、愛する人と共にいられるなら。
だが――実際に母の命が奪われた現実を目の当たりにして、彼女の心は音を立てて崩れた。
「わたしの選んだ道が……」
小さく呟く声が震えた。
「こんなにも多くの人を犠牲にしてしまうなんて……」
胸が締め付けられ、息ができなかった。
喉の奥で言葉が溶け、嗚咽になって漏れ出す。
息を吸うたびに、罪の重さが肺の奥に沈んでいくようだった。
その隣で、レギュラスは黙っていた。
暖炉の火の色が彼の横顔を照らしている。
影と光の間に浮かぶその表情は、静かすぎて、かえって痛ましかった。
彼は何も聞こうとしなかった。
どこにいたのか。
誰といたのか。
どれも問われることはなかった。
まるでそれを知ってしまえば、彼自身の心が壊れてしまうことを恐れているかのようだった。
――その沈黙が、怖かった。
アランは小さく息を吸い、震える唇で言葉を紡いだ。
「レギュラス……ごめんなさい……」
声が掠れていた。
何を、どこから詫びればいいのかも分からない。
けれど、今この瞬間、胸の奥から出てくる言葉はそれしかなかった。
謝ることしか、できなかった。
レギュラスの瞳が、静かに揺れた。
言葉を返さず、彼はそっとアランの肩を抱いた。
優しく、しかし確かな力で。
その手は温かかった。
けれど――違っていた。
シリウスの抱擁とは違う。
彼の腕には荒削りな力があり、そこに生きる鼓動があった。
自由の香り、陽だまりのような匂い。
レギュラスの抱擁は、静謐で整っていて、どこまでも穏やかだった。
けれど、まるで絹のように滑らかなその温もりが、かえって息苦しかった。
アランの心はふたつに裂かれていた。
レギュラスから伝わる真っ直ぐで純粋な愛情――
それを確かに感じているのに、心の奥でなお、別の人を求めている自分がいる。
どうして。
どうして、こんなにも苦しいのだろう。
嗚咽を押し殺しながら、アランはレギュラスの胸に額を押し当てた。
その胸の鼓動は静かで、整っていた。
優しいのに、どこか遠い。
その距離が、余計に痛かった。
レギュラスの指先が、彼女の髪をそっと撫でた。
「もういいんです、アラン。何も言わなくていい。」
その声が静かに空気を震わせた。
アランは目を閉じた。
涙がひと筋、頬を伝い落ちる。
もう、この屋敷には笑い声も、明日を語る言葉もない。
あるのはただ、重く沈んだ沈黙と、互いに背負った罪の重さだけ。
それでも――レギュラスの腕の中で、アランは小さく呼吸を整えた。
ほんの少しだけ、その温もりに縋るように。
自分の罪を見つめ続ける勇気が、今の彼女にはもう残っていなかった。
――リシェル・セシールの処刑は、まるで冷たい刃が騎士団の中を音もなく走り抜けるようにして、瞬く間に知れ渡った。
誰もが口を閉ざした。
彼女の名を出すことすら、まるで禁句のように避けるようになった。
その知らせを聞いた瞬間、シリウスは息を呑んだ。
胸の奥を、熱と冷たさが同時に駆け抜けた。
信じたくなかった。
けれど、確かな情報源からの報告だと聞いた時、足元の世界が崩れていくような感覚に襲われた。
アラン――彼女は、今、どんな顔をしているのだろう。
あの静かで優しい瞳が、どんな絶望を映しているのだろう。
考えれば考えるほど、胸が締め付けられた。
アランの優しさを、シリウスは誰よりも知っていた。
母の死を、きっと自分のせいだと感じているはずだった。
――彼女は一人きりで、夜明けのない場所で自分を責めている。
そして、奇妙な話を耳にした。
処刑の当日、オリオン・ブラックが王宮に嘆願に行ったという。
王室の前に立ち、たった一人で、元使用人のために嘆願をした――。
「……信じられない」
シリウスは呟いた。
オリオンがそんなことをするなど、常識ではあり得ない。
だが――そうか、と彼は息を呑んだ。
もしかすると、すべては「計算」だったのかもしれない。
リシェルが王宮に引き出されることは、彼らにとって想定の範囲内。
そうすることで、彼女は自然とブラック家の庇護を求めるしかなくなる。
つまり――オリオンは息子レギュラスのために、すべてを仕組んでいたのだ。
「……あの男らしいな」
皮肉とも諦めともつかぬ笑みを浮かべながら、シリウスは息を吐いた。
血の冷たさと、家の恐ろしさが、改めて骨身に染みた。
目的のためにはどんな犠牲もいとわない――それがブラック家の流儀。
それでも、アランが今、泣いていると思うと、居ても立ってもいられなかった。
彼女の細い肩を抱きしめ、泣いていいのだと伝えてやりたかった。
自分の胸の中で思いきり泣かせてやりたかった。
そして、どんな形であれ、この喪失を二人で分け合いたかった。
夜の騎士団本部。
静まり返った廊下を、シリウスは足早に歩いた。
その姿を見て、ジェームズはすぐに立ち上がった。
彼の目には、シリウスがどこへ向かおうとしているのか、痛いほど分かっていた。
「待て、シリウス」
ジェームズの声が、重く響いた。
「……行ってどうする気なんだい?」
シリウスは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
ランプの光が彼の横顔を照らす。瞳は燃えるように赤く、苦しみに濡れていた。
「どうするもこうするもねぇよ」
シリウスの声は低く掠れていた。
「アランを連れ戻す。あんな場所に置いとけるか」
その言葉に、ジェームズの眉がわずかに歪んだ。
彼は一歩、近づいた。
「ブラック家の屋敷に行ってから、彼女は戻ってきていない。
それが答えだとは思わないのか?」
その一言が、シリウスの心を鋭く貫いた。
親友だからこそ言える、容赦のない真実。
それを聞いた瞬間、胸の奥で何かが砕ける音がした。
ジェームズの顔には、怒りではなく悲しみが浮かんでいた。
「お前が傷つくのを、見たくないんだ」
その声は震えていた。
「もしアランが――自分の意思でそこにいるのなら……。それが、彼女の選んだ道なんだとしたら……」
「そんなはずがねぇ!」
シリウスは叫んだ。
拳を握りしめ、唇を噛む。
胸の中の感情が爆ぜるように、抑えきれずこぼれ出した。
だが、ジェームズはそれ以上何も言わなかった。
沈黙が二人の間に流れる。
遠くで時計の針の音だけが響いていた。
シリウスは息を荒げながらも、ジェームズの瞳を見返した。
その中に、哀しみと祈りが混じっているのを見て、何も言えなくなった。
彼はゆっくりと視線を逸らし、通路を抜ける。
「……止めるな、ジェームズ」
それだけを残して。
外に出た瞬間、夜風が頬を打った。
冷たいはずの空気が、逆に熱い。
胸の奥の焦燥と痛みが、彼を突き動かす。
たとえ、どんな結末が待っていようとも――
アランを、このまま放っておくことだけはできなかった。
黒い外套を翻し、シリウスは闇の中へと消えていった。
その背中を見送りながら、ジェームズはただ、祈るように呟いた。
「……どうか、間に合ってくれ」
――夜は深く、静かに、そして痛いほど長く続いていった。
レギュラスは静かな夜の廊下を、足音を立てぬように歩いていた。
屋敷は広すぎるほど静まり返っていて、風の通る音と蝋燭の炎の揺れるわずかな気配だけが、かろうじて時の流れを感じさせていた。
アランの部屋の前で立ち止まる。
扉は閉ざされたままだ。
その奥で彼女が息をしていることだけが、今の彼にとっての救いだった。
アランが屋敷を出て行ってからというもの、レギュラスは屋敷しもべたちに命じていた。
「この部屋だけは、埃を溜めるな。花は絶やさずに」
その命令の裏には、言葉にできない願いが込められていた。
――彼女がいつか戻ってきても、何も変わっていないように。
あのまま時間が止まっているように見せかけておきたかった。
だが、彼女が戻った今、レギュラスは自分が作った“その空間”に耐えられなくなっていた。
戻ってきたはずなのに、アランはまるで戻ってきていないようだった。
リシェルの処刑から、もう数日が経っている。
けれどアランは、部屋にこもったままだった。
昼も夜も区別なく、薄暗いカーテンの奥で、ただ眠るように、沈むように時間を過ごしていた。
レギュラスが夜、任務から戻るたびに、ようやく彼女の顔を見る。
その瞬間だけは、心がかすかに緩む。
彼女がここにいて、息をしている――その事実だけで、いまはもう十分だと感じた。
しかし、日中。
神秘部の無機質な石造りの廊下を歩きながら、彼はどうしても抑えきれない思考に囚われていく。
――あの間、彼女はどこで、誰と、何をしていたのか。
思考は、刃のように鋭く彼自身を傷つける。
シリウス・ブラック。
その名を思い出すたび、心臓の奥が焼けつくように痛んだ。
二人で過ごした日々があったのだろう。
彼女が逃げた夜、彼と共に行動していたのは確実だった。
では――その間に、どんな言葉を交わし、どんな時間を過ごしたのか。
知りたくない。
だが、知りたい。
彼女がどれほど彼を想い、どれほどの愛を交わしたのか。
その深さを測ることなど、恐ろしくて仕方がないのに、確かめたくてたまらない。
そんな矛盾が、日々の任務中も心の隙間から顔を覗かせる。
魔法文書を読みながらも、目の前の言葉が意味を持たなくなる瞬間が幾度となく訪れた。
――自分は、何をしてしまったのだろう。
アランを取り戻すために、彼はあまりにも酷い手段を取った。
リシェル・セシール――アランの母親。
その命を、彼は“駒”として扱ってしまった。
どれほど正当な理由を並べても、それが取り返しのつかない罪であることを、レギュラスは痛いほど理解していた。
アランに真実を打ち明けられるはずもない。
だが、彼女はきっとすべてを察している。
母の死が、ブラック家の策略の中で起きたものであることを――。
だからこそ、レギュラスはそれ以上彼女を詰めることができなかった。
罪悪感が喉に絡みついて、言葉を奪う。
慰めることも、励ますことも、どちらも浅はかに思えた。
彼にできることはただ一つ。
それでも、どんなに罪を背負っていても、変わらない想いを伝えることだけだった。
夜。
灯りを絞ったアランの部屋。
ベッドの傍らに腰を下ろし、レギュラスは静かに息を吐いた。
アランは横たわっていた。
その頬には色がなく、長い黒髪が枕に散らばっている。
目を閉じていても、彼女が眠っているのか、ただ深く沈んでいるのか、判別がつかない。
レギュラスはそっと手を伸ばした。
髪に触れると、冷たい。けれど、その感触が、懐かしくて、涙が込み上げそうになった。
「……アラン」
低く、静かな声が部屋の空気に溶けた。
返事はない。
それでも、構わず言葉を続ける。
「愛しています」
その言葉を言うとき、彼の指先がわずかに震えた。
それは誓いでも祈りでもなく、懺悔に近かった。
詰めることも、慰めることも、彼にはできない。
ただ、この想いだけは伝えずにいられなかった。
「……離れていた間も、一時も忘れたことはありません」
声が掠れる。胸の奥が痛い。
「どんな場所にいても、あなたを想っていました。ずっと」
アランは動かなかった。
まるで眠り続ける人形のように、表情の影ひとつ変えない。
けれど、レギュラスは構わず、彼女の髪を撫で続けた。
愛している――
その言葉しか、彼にはもう残されていなかった。
窓の外では夜の風が庭を渡っていく。
黒いカーテンの隙間から、月の光が細く差し込み、アランの頬を淡く照らした。
その光が涙のように見えて、レギュラスは息を止めた。
彼女が本当に泣いていたのかどうか、それは分からなかった。
ただ、その沈黙の中に、すべての痛みと、すべての愛が、確かに存在していた。
窓を打つ小さな音が、夜の静寂を破った。
最初は風かと思った。だが、その音は確かに、ためらいながらも何かを訴えるように、二度、三度と繰り返された。
アランは顔を上げた。
胸の奥がざわつく。
分かってしまう。――この音が誰のものか。
震える指でカーテンをそっと開いた。
そこにいたのは、やはり彼だった。
シリウス。
月明かりを背にしたその姿は、あの頃と何も変わらなかった。
風に乱れる黒髪、まっすぐにこちらを見つめる銀灰色の瞳。
長い夜の間、何度も夢に見た人がそこにいた。
胸が痛いほど高鳴り、同時に、息が詰まるような苦しさが喉を締めつけた。
会いたかった。
何度も願ってきた。
ただ、もう一度、この目で彼を見たいと。
けれど、同時に――その願いが叶ってしまうことが怖かった。
母を失ってからというもの、心の奥にある「愛」の意味が分からなくなっていた。
シリウスと共に生きる未来を描いていたはずだった。
キラキラと輝くような日々を信じて疑わなかった。
けれど、その夢の裏で、どれほどのものを犠牲にしてきたのか。
あの現実を前にして、自分の覚悟がどれほど浅はかだったかを思い知らされた。
「……アラン、帰ろう。」
窓越しに聞こえてきたシリウスの声は、懐かしく、そして痛かった。
低くて、真っ直ぐで、いつだって彼の言葉は人の心を引き戻してしまう。
その力強さに、アランは何度も救われてきた。
――この人と一緒にいれば、自分の人生も光を持てる。
そう思っていた。
どんな闇の中にいても、彼は必ず光を見せてくれる人だった。
その眩しさに、憧れに似た想いを抱きながら、ずっと惹かれてきた。
けれど今、その光があまりにも遠い。
まぶしすぎて、手を伸ばすことができない。
アランは小さく首を振った。
「……シリウス、ごめんなさい……行けないの。」
言葉を口にした瞬間、現実の重さが全身にのしかかった。
喉の奥が焼けつくように苦しくて、涙がこぼれそうだった。
シリウスは一歩、窓の向こうから踏み出そうとした。
「一緒に乗り越えよう。もうお前から、何も奪わせない。」
その声に、かすかに怒りと焦りが混ざっているのが分かった。
彼は本気で、自分を救おうとしている――それが分かるからこそ、余計に苦しい。
アランは再び、静かに首を振った。
「違うの……そういうことじゃないの。」
シリウスの力だけでは、どうにもならないことがある。
それは、彼の勇敢さや優しさを否定することではない。
ただ、ブラック家という名が持つ圧倒的な力――
それは個人の想いなど容易く踏み潰してしまうほどの重さだった。
「アラン……全部、この家が仕組んだんだ。絶対にそうだ。」
シリウスの声が震えた。
「オリオンが、お前を戻すために……リシェルを……!」
怒りに満ちたその言葉の裏に、彼のやり場のない悲しみが透けて見えた。
アランの心の奥で、痛みが鈍く波打った。
シリウスの言うことは正しい。
オリオンが手を回していたのだろうということは、薄々分かっていた。
それでも、母を救いたくて――跪いて懇願した。
自分には、富も、名声も、何もなかったから。
あの時、縋るしかなかった。
「……分かってるの、シリウス。」
アランはかすれた声で言った。
「でも……私は、もうこれ以上、誰かを犠牲にしてまで生きたくないの。」
シリウスの瞳が揺れた。
彼の手が窓越しに伸ばされる。
その手を取れば、すべてを捨ててでも彼と共に生きられたかもしれない。
でも、その未来は――また誰かの涙の上に築かれるのだ。
アランは震える手を胸の前で握りしめ、ただ首を振った。
「母を失うような苦しみを、もう二度と味わいたくないの。」
「だから……私は、ここに残る。」
シリウスの表情が苦悩に歪んだ。
唇が震え、言葉にならない息がこぼれる。
それでも、彼は最後までアランの目を見ていた。
窓の外、夜風が彼の髪を揺らす。
月の光が二人のあいだに淡く落ち、触れられない距離を照らしていた。
その距離が、どれほど残酷なものかを、二人とも知っていた。
それでも――アランは、手を伸ばさなかった。
愛しているからこそ、届かないままでいた。
夜が静かに沈み込んでいた。
屋敷の広間には、古い時計の針が刻む音だけが響いている。
その音が、やけに重たく、痛々しいほどにゆっくりと感じられた。
ジェームズは暖炉の前に立ち、親友の背を見つめていた。
炎の赤がシリウスの輪郭を照らし出す。
黒曜石のような髪が揺れ、頬をかすめる影が、燃え盛る光に切り取られる。
その背中はいつもよりもずっと広く、そして痛々しいほどに孤独だった。
あの日──ブラック家の門を叩き、アラン・セシールを迎えに行った親友の姿が脳裏に蘇る。
「連れて帰る」と言い切った彼の瞳は、決意に満ちていた。
誰にも止められないほどの光を宿していた。
だが、戻ってきたのはシリウスただ一人だった。
何も言わなくても分かった。
アラン・セシールは彼と共に行くことを選ばなかったのだ。
彼女は、あの屋敷に、あの鎖の中に、留まることを選んだ。
そこにどんな苦しみがあったのか、どれほどの涙を押し殺したのか──彼女の表情を見なくても分かってしまう。
彼女は、きっと自分の中の何かを犠牲にした。
それが心か、誇りか、未来への希望だったのかは分からない。
けれど確かに、彼女は愛よりも“責務”を選んだのだ。
そして、シリウスを愛するがゆえに、彼を手放したのだろう。
ジェームズは唇を噛みしめた。
もし彼女がその選択をしたのなら、もう二度と──シリウスの前に現れないでほしい。
中途半端なままでは、親友は前に進めない。
心のどこかで彼女を想い続けたまま、他の誰を愛そうとしたって、きっと叶わないのだ。
ホグワーツの頃からずっと、シリウスの目は彼女だけを追っていた。
授業中も、食堂でも、談話室でも。
アランが笑えば彼も笑い、アランが俯けば彼の眉も曇った。
その心のすべてが、たった一人の少女のために存在していた。
そんな親友を見てきたからこそ、ジェームズは思う。
──シリウスには、もっと光をまとった女性がふさわしい。
闇を恐れず、自由に羽ばたける強さを持つ人。
鎖に縛られた少女ではなく、自らの意志で空を選ぶ女性。
それこそが、シリウス・ブラックという名に似つかわしい隣人だと。
「……何も言わないでくれ」
炎の前で、シリウスがぽつりと呟いた。
低く、かすれた声だった。
彼の瞳はどこにも焦点を合わせていない。
目の奥に映るのは、もう存在しない面影だけ。
ジェームズは小さく息を吐いた。
「……ああ、言わないさ」
短くそう答えると、棚の上からウイスキーの瓶を取り、二つのグラスに注いだ。
琥珀色の液体がゆらめき、炎の光を受けてまるで涙のように煌めいた。
「今夜は、付き合う」
それだけ言って、静かにグラスを差し出した。
シリウスは無言でそれを受け取り、二人のグラスがかすかに触れ合う音が、静寂を破った。
会話はいらなかった。
ただ、燃え盛る炎の前で、ふたりの影だけが並んで揺れ続けた。
その夜、外では冷たい風が吹き荒れていた。
けれど暖炉の火のそばでは、沈黙がすべてを包み込み、
まるで失われた愛の名残を、静かに弔うように時間が流れていった。
冷たく磨かれた黒曜石の床が、彼の靴音を鋭く反響させる。
重厚なシャンデリアが灯す光が、静まり返った屋敷の空気を淡く照らしていたが、その光はどこか鈍く、どんな明かりも心のざわめきを消してはくれなかった。
――アランが戻った。
しもべの報せが耳に届いた瞬間、胸の奥が焼け付くように熱くなった。
あの名を聞いただけで、全身を満たすこの感情は何なのか。
安堵なのか、恐れなのか、それとも、再び彼女を失うかもしれないという狂おしい不安なのか。
レギュラスには分からなかった。ただひとつ確かなのは、会いたいという衝動が、理性を超えて彼を動かしていた。
父の書斎の前で立ち止まり、静かに扉を押し開ける。
柔らかな木の軋みとともに視界に飛び込んできたのは、懐かしい横顔だった。
――アラン。
彼女はそこにいた。
翡翠の瞳はあの頃のまま、けれど、その奥に宿る光は少し翳っているように見えた。
漆黒の髪は肩を超え、光を受けてやわらかく波打っていた。
彼女がこちらに気づいて顔を上げた瞬間、時間が止まったようだった。
喉の奥から自然と名前がこぼれる。
「アラン……心配したんです。」
震える声が静かな部屋に溶けていく。
その声に、彼女は小さく唇を震わせて応えた。
「……レギュラス。」
その名を呼ぶ声は、掠れていた。
涙をこらえているのか、それとも恐れからか――判別できなかった。
それでも彼女の唇が、自分の名を確かに呼んでくれたこと。
ただそれだけで、胸の奥に熱い痛みが走り、同時にどうしようもない幸福が溢れた。
彼女の視線の先では、オリオンが椅子に腰掛けていた。
背もたれに深く身を預け、あの人特有の冷静さと支配的な威厳を漂わせながら、ゆっくりと口を開く。
「レギュラス。アランから、リシェル・セシールの釈放を懇願されている。……私が王室に直談判してみようと思うが、どうだろうか。」
その言葉を聞いた瞬間、レギュラスの胸の内で何かが静かに軋んだ。
数週間前から広まっていた、アランの母リシェルに対する風評。
王室を揺るがした魔女として囚われたという噂。
彼女の名が貼り出された張り紙を、レギュラス自身、街角で目にしていた。
その時感じた不快感――そして今、すべての点が線として繋がる。
あれは偶然ではなかった。
全て、父が仕組んだことだった。
アランが“戻る”ための、あまりにも残酷な導線。
書斎の中央で、アランは膝をついていた。
涙で濡れた頬、赤くなった膝。
どれほど長くこの姿勢でいたのか、彼女の指先は震え、声は掠れていた。
その姿を見て、レギュラスの胸の奥に、痛みとも怒りともつかない感情が渦を巻いた。
彼女が苦しむ姿を、父は平然と見つめている。
だが、彼自身の中にも否定できない事実があった。
――自分もまた、彼女を取り戻したいと願っていたのだ。
たとえどんな形であっても。
そのために必要な代償があるのなら、受け入れても構わないと。
あの夜、父の言葉を思い出す。
「何かを得たいのなら、多少の代償は仕方がない。」
そのときはただの冷徹な言葉に聞こえた。
だが今、その意味が、痛いほど胸に突き刺さる。
アランを再びこの屋敷に戻した――その事実の裏にある、彼女の涙と絶望。
それを代償として支払ったのは、父だけではない。
自分もまた、同じ罪の中にいるのだ。
アランが顔を上げ、懇願するような瞳でオリオンを見つめる。
その翡翠の瞳には、祈りにも似た光が宿っていた。
その光があまりにも美しくて、レギュラスは息を飲む。
どうか――彼女の望みを叶えてほしい。
そう願いながらも、同時に胸の奥では、得体の知れない恐怖が囁いた。
――もし、これが終わったあとに、アランが再び自分の前から消えてしまったら?
レギュラスは拳を握り締めた。
彼女の母を助けたいという気持ちと、彼女を二度と離したくないという我欲が、心の中で絡み合い、喉の奥で息を詰まらせる。
父の策略に心を痛めながらも、その冷徹な計算によって、彼は今、彼女と同じ空間にいる。
それが事実である以上、彼は父を憎みきれなかった。
罪と救いが、同じ手の中にある。
そしてレギュラスはその手を、震えながらも離せずにいた。
オリオンが王宮から戻ってきたのは、夜が更けきったころだった。
重く閉ざされた屋敷の扉が開く音を聞いた瞬間、アランは顔を上げた。
その瞳には、わずかな希望の光が宿っていた。
だが、オリオンの表情を見た瞬間、その光は脆く砕け散った。
静まり返った空間に、彼の低い声が響く。
「……すまない、間に合わなかった。」
その言葉が、どれほどの痛みを孕んでいたかを、レギュラスは想像することさえできなかった。
アランの口から小さな嗚咽が漏れた。
それは悲鳴にも似た、心の奥底を切り裂くような音だった。
彼女はその場に崩れ落ち、床に両手をつき、震える肩を必死に押さえていた。
リシェルは――もういない。
そう思った瞬間、レギュラスの胸の奥を、冷たい風が貫いた。
それは心臓を凍らせるような冷たさで、呼吸を忘れるほどだった。
自分のせいだ。
その言葉が、耳の奥で何度も反響した。
彼は知っている。
父がこの状況を作り出したことを。
母親の処刑を「時間の問題」にまで追い込んだのが、父の策略の一環だったことを。
そして、自分もまた――その結果を、望んでしまっていたことを。
アランを取り戻したい。
ただ、その一心だった。
どんな犠牲を払ってでも。
たとえ彼女の心が傷つくことになっても。
それがどれほど愚かで残酷な願いだったのか、今ようやく思い知らされる。
泣き崩れるアランの姿を見つめながら、レギュラスは唇を噛んだ。
血の味がした。
彼女を慰める資格など、自分にはない。
何を言っても、その言葉は嘘のように響くだろう。
それでも――放ってはおけなかった。
レギュラスは静かに彼女の傍にしゃがみ、震える肩にそっと手を添えた。
「……アラン、少し休んでください。」
その声は、まるで壊れものに触れるように優しかった。
アランは何も言わなかった。
ただ、泣き腫らした瞳で彼を見つめ、力なく頷いた。
その頬には涙の跡が幾筋も伝い、光を反射して淡く輝いていた。
悲しみに濡れたその姿は痛ましく、それでも――レギュラスには息をのむほど美しく見えた。
彼女の中のすべてが崩れていく瞬間でさえ、彼女は気高く、美しかった。
その事実が、また彼の心を締め付ける。
レギュラスはアランの隣に腰を下ろした。
暖炉の火が静かに揺れ、オレンジ色の光が二人の影を壁に映し出す。
炎の揺らめきがアランの涙を照らし、まるでその悲しみさえも美しい彫刻のように際立たせていた。
何を言えばいいのか分からない。
慰めの言葉は、どれも空虚に思えた。
「大丈夫」などと、どうして言えるだろう。
彼女の世界は、今まさに崩れ落ちたばかりなのに。
だから、彼は言葉を選ばなかった。
ただ、黙って隣にいた。
アランの肩に回した腕に、彼女の体温がわずかに伝わる。
冷たくなった指先が震えている。
その震えが、まるで自分の心そのもののように感じられた。
どれほどの沈黙が続いたのか分からない。
外では風が鳴り、遠くで夜の鳥が一声啼いた。
その音さえも、深い悲しみの中に吸い込まれていくようだった。
レギュラスはそっと目を閉じた。
この痛みから逃げるように。
アランを抱き寄せた腕の中で、自分の心もまた、少しずつ削れていくのを感じながら――
それでも彼は、ただその温もりを手放さなかった。
彼女を取り戻すために失ったもの。
彼女を抱くために犯した罪。
それらすべてを胸に抱えたまま、レギュラスはただ静かに、燃える暖炉の音を聞いていた。
アランの胸の奥には、終わりの見えない葛藤が渦を巻いていた。
重たく澱んだ空気が屋敷の中を満たし、息をするたびにその苦しさが肺の奥に沈んでいくようだった。
夜の静けさが、かえって彼女の心を締め付ける。
この屋敷に戻ってからというもの、ずっと胸の奥では同じ言葉が繰り返されていた。
――シリウスが、待っている。
そう思うたび、胸の奥が熱くなる。
彼の笑顔、あの自由な声、真っ直ぐで、何ものにも縛られない瞳。
思い出すだけで、涙が滲んだ。
どうして自分はここにいるのだろう。
どうして彼のもとへ帰らないのだろう。
一刻も早く、この重い屋敷から逃げ出したかった。
息を吸うたびに過去の影が背中に絡みつくようで、まるで自分自身が鎖に繋がれているようだった。
しかし、外に出れば――セシール家の残された一族がどうなるか分からない。
この国では「血」は罪にもなる。
母のように、無実のまま処刑台へと連れて行かれることだってある。
アランは膝の上で拳を握りしめた。
それでも、シリウスと生きていけるなら、それでいいと思っていたはずだった。
たとえどんな罰を受けようと、愛する人と共にいられるなら。
だが――実際に母の命が奪われた現実を目の当たりにして、彼女の心は音を立てて崩れた。
「わたしの選んだ道が……」
小さく呟く声が震えた。
「こんなにも多くの人を犠牲にしてしまうなんて……」
胸が締め付けられ、息ができなかった。
喉の奥で言葉が溶け、嗚咽になって漏れ出す。
息を吸うたびに、罪の重さが肺の奥に沈んでいくようだった。
その隣で、レギュラスは黙っていた。
暖炉の火の色が彼の横顔を照らしている。
影と光の間に浮かぶその表情は、静かすぎて、かえって痛ましかった。
彼は何も聞こうとしなかった。
どこにいたのか。
誰といたのか。
どれも問われることはなかった。
まるでそれを知ってしまえば、彼自身の心が壊れてしまうことを恐れているかのようだった。
――その沈黙が、怖かった。
アランは小さく息を吸い、震える唇で言葉を紡いだ。
「レギュラス……ごめんなさい……」
声が掠れていた。
何を、どこから詫びればいいのかも分からない。
けれど、今この瞬間、胸の奥から出てくる言葉はそれしかなかった。
謝ることしか、できなかった。
レギュラスの瞳が、静かに揺れた。
言葉を返さず、彼はそっとアランの肩を抱いた。
優しく、しかし確かな力で。
その手は温かかった。
けれど――違っていた。
シリウスの抱擁とは違う。
彼の腕には荒削りな力があり、そこに生きる鼓動があった。
自由の香り、陽だまりのような匂い。
レギュラスの抱擁は、静謐で整っていて、どこまでも穏やかだった。
けれど、まるで絹のように滑らかなその温もりが、かえって息苦しかった。
アランの心はふたつに裂かれていた。
レギュラスから伝わる真っ直ぐで純粋な愛情――
それを確かに感じているのに、心の奥でなお、別の人を求めている自分がいる。
どうして。
どうして、こんなにも苦しいのだろう。
嗚咽を押し殺しながら、アランはレギュラスの胸に額を押し当てた。
その胸の鼓動は静かで、整っていた。
優しいのに、どこか遠い。
その距離が、余計に痛かった。
レギュラスの指先が、彼女の髪をそっと撫でた。
「もういいんです、アラン。何も言わなくていい。」
その声が静かに空気を震わせた。
アランは目を閉じた。
涙がひと筋、頬を伝い落ちる。
もう、この屋敷には笑い声も、明日を語る言葉もない。
あるのはただ、重く沈んだ沈黙と、互いに背負った罪の重さだけ。
それでも――レギュラスの腕の中で、アランは小さく呼吸を整えた。
ほんの少しだけ、その温もりに縋るように。
自分の罪を見つめ続ける勇気が、今の彼女にはもう残っていなかった。
――リシェル・セシールの処刑は、まるで冷たい刃が騎士団の中を音もなく走り抜けるようにして、瞬く間に知れ渡った。
誰もが口を閉ざした。
彼女の名を出すことすら、まるで禁句のように避けるようになった。
その知らせを聞いた瞬間、シリウスは息を呑んだ。
胸の奥を、熱と冷たさが同時に駆け抜けた。
信じたくなかった。
けれど、確かな情報源からの報告だと聞いた時、足元の世界が崩れていくような感覚に襲われた。
アラン――彼女は、今、どんな顔をしているのだろう。
あの静かで優しい瞳が、どんな絶望を映しているのだろう。
考えれば考えるほど、胸が締め付けられた。
アランの優しさを、シリウスは誰よりも知っていた。
母の死を、きっと自分のせいだと感じているはずだった。
――彼女は一人きりで、夜明けのない場所で自分を責めている。
そして、奇妙な話を耳にした。
処刑の当日、オリオン・ブラックが王宮に嘆願に行ったという。
王室の前に立ち、たった一人で、元使用人のために嘆願をした――。
「……信じられない」
シリウスは呟いた。
オリオンがそんなことをするなど、常識ではあり得ない。
だが――そうか、と彼は息を呑んだ。
もしかすると、すべては「計算」だったのかもしれない。
リシェルが王宮に引き出されることは、彼らにとって想定の範囲内。
そうすることで、彼女は自然とブラック家の庇護を求めるしかなくなる。
つまり――オリオンは息子レギュラスのために、すべてを仕組んでいたのだ。
「……あの男らしいな」
皮肉とも諦めともつかぬ笑みを浮かべながら、シリウスは息を吐いた。
血の冷たさと、家の恐ろしさが、改めて骨身に染みた。
目的のためにはどんな犠牲もいとわない――それがブラック家の流儀。
それでも、アランが今、泣いていると思うと、居ても立ってもいられなかった。
彼女の細い肩を抱きしめ、泣いていいのだと伝えてやりたかった。
自分の胸の中で思いきり泣かせてやりたかった。
そして、どんな形であれ、この喪失を二人で分け合いたかった。
夜の騎士団本部。
静まり返った廊下を、シリウスは足早に歩いた。
その姿を見て、ジェームズはすぐに立ち上がった。
彼の目には、シリウスがどこへ向かおうとしているのか、痛いほど分かっていた。
「待て、シリウス」
ジェームズの声が、重く響いた。
「……行ってどうする気なんだい?」
シリウスは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
ランプの光が彼の横顔を照らす。瞳は燃えるように赤く、苦しみに濡れていた。
「どうするもこうするもねぇよ」
シリウスの声は低く掠れていた。
「アランを連れ戻す。あんな場所に置いとけるか」
その言葉に、ジェームズの眉がわずかに歪んだ。
彼は一歩、近づいた。
「ブラック家の屋敷に行ってから、彼女は戻ってきていない。
それが答えだとは思わないのか?」
その一言が、シリウスの心を鋭く貫いた。
親友だからこそ言える、容赦のない真実。
それを聞いた瞬間、胸の奥で何かが砕ける音がした。
ジェームズの顔には、怒りではなく悲しみが浮かんでいた。
「お前が傷つくのを、見たくないんだ」
その声は震えていた。
「もしアランが――自分の意思でそこにいるのなら……。それが、彼女の選んだ道なんだとしたら……」
「そんなはずがねぇ!」
シリウスは叫んだ。
拳を握りしめ、唇を噛む。
胸の中の感情が爆ぜるように、抑えきれずこぼれ出した。
だが、ジェームズはそれ以上何も言わなかった。
沈黙が二人の間に流れる。
遠くで時計の針の音だけが響いていた。
シリウスは息を荒げながらも、ジェームズの瞳を見返した。
その中に、哀しみと祈りが混じっているのを見て、何も言えなくなった。
彼はゆっくりと視線を逸らし、通路を抜ける。
「……止めるな、ジェームズ」
それだけを残して。
外に出た瞬間、夜風が頬を打った。
冷たいはずの空気が、逆に熱い。
胸の奥の焦燥と痛みが、彼を突き動かす。
たとえ、どんな結末が待っていようとも――
アランを、このまま放っておくことだけはできなかった。
黒い外套を翻し、シリウスは闇の中へと消えていった。
その背中を見送りながら、ジェームズはただ、祈るように呟いた。
「……どうか、間に合ってくれ」
――夜は深く、静かに、そして痛いほど長く続いていった。
レギュラスは静かな夜の廊下を、足音を立てぬように歩いていた。
屋敷は広すぎるほど静まり返っていて、風の通る音と蝋燭の炎の揺れるわずかな気配だけが、かろうじて時の流れを感じさせていた。
アランの部屋の前で立ち止まる。
扉は閉ざされたままだ。
その奥で彼女が息をしていることだけが、今の彼にとっての救いだった。
アランが屋敷を出て行ってからというもの、レギュラスは屋敷しもべたちに命じていた。
「この部屋だけは、埃を溜めるな。花は絶やさずに」
その命令の裏には、言葉にできない願いが込められていた。
――彼女がいつか戻ってきても、何も変わっていないように。
あのまま時間が止まっているように見せかけておきたかった。
だが、彼女が戻った今、レギュラスは自分が作った“その空間”に耐えられなくなっていた。
戻ってきたはずなのに、アランはまるで戻ってきていないようだった。
リシェルの処刑から、もう数日が経っている。
けれどアランは、部屋にこもったままだった。
昼も夜も区別なく、薄暗いカーテンの奥で、ただ眠るように、沈むように時間を過ごしていた。
レギュラスが夜、任務から戻るたびに、ようやく彼女の顔を見る。
その瞬間だけは、心がかすかに緩む。
彼女がここにいて、息をしている――その事実だけで、いまはもう十分だと感じた。
しかし、日中。
神秘部の無機質な石造りの廊下を歩きながら、彼はどうしても抑えきれない思考に囚われていく。
――あの間、彼女はどこで、誰と、何をしていたのか。
思考は、刃のように鋭く彼自身を傷つける。
シリウス・ブラック。
その名を思い出すたび、心臓の奥が焼けつくように痛んだ。
二人で過ごした日々があったのだろう。
彼女が逃げた夜、彼と共に行動していたのは確実だった。
では――その間に、どんな言葉を交わし、どんな時間を過ごしたのか。
知りたくない。
だが、知りたい。
彼女がどれほど彼を想い、どれほどの愛を交わしたのか。
その深さを測ることなど、恐ろしくて仕方がないのに、確かめたくてたまらない。
そんな矛盾が、日々の任務中も心の隙間から顔を覗かせる。
魔法文書を読みながらも、目の前の言葉が意味を持たなくなる瞬間が幾度となく訪れた。
――自分は、何をしてしまったのだろう。
アランを取り戻すために、彼はあまりにも酷い手段を取った。
リシェル・セシール――アランの母親。
その命を、彼は“駒”として扱ってしまった。
どれほど正当な理由を並べても、それが取り返しのつかない罪であることを、レギュラスは痛いほど理解していた。
アランに真実を打ち明けられるはずもない。
だが、彼女はきっとすべてを察している。
母の死が、ブラック家の策略の中で起きたものであることを――。
だからこそ、レギュラスはそれ以上彼女を詰めることができなかった。
罪悪感が喉に絡みついて、言葉を奪う。
慰めることも、励ますことも、どちらも浅はかに思えた。
彼にできることはただ一つ。
それでも、どんなに罪を背負っていても、変わらない想いを伝えることだけだった。
夜。
灯りを絞ったアランの部屋。
ベッドの傍らに腰を下ろし、レギュラスは静かに息を吐いた。
アランは横たわっていた。
その頬には色がなく、長い黒髪が枕に散らばっている。
目を閉じていても、彼女が眠っているのか、ただ深く沈んでいるのか、判別がつかない。
レギュラスはそっと手を伸ばした。
髪に触れると、冷たい。けれど、その感触が、懐かしくて、涙が込み上げそうになった。
「……アラン」
低く、静かな声が部屋の空気に溶けた。
返事はない。
それでも、構わず言葉を続ける。
「愛しています」
その言葉を言うとき、彼の指先がわずかに震えた。
それは誓いでも祈りでもなく、懺悔に近かった。
詰めることも、慰めることも、彼にはできない。
ただ、この想いだけは伝えずにいられなかった。
「……離れていた間も、一時も忘れたことはありません」
声が掠れる。胸の奥が痛い。
「どんな場所にいても、あなたを想っていました。ずっと」
アランは動かなかった。
まるで眠り続ける人形のように、表情の影ひとつ変えない。
けれど、レギュラスは構わず、彼女の髪を撫で続けた。
愛している――
その言葉しか、彼にはもう残されていなかった。
窓の外では夜の風が庭を渡っていく。
黒いカーテンの隙間から、月の光が細く差し込み、アランの頬を淡く照らした。
その光が涙のように見えて、レギュラスは息を止めた。
彼女が本当に泣いていたのかどうか、それは分からなかった。
ただ、その沈黙の中に、すべての痛みと、すべての愛が、確かに存在していた。
窓を打つ小さな音が、夜の静寂を破った。
最初は風かと思った。だが、その音は確かに、ためらいながらも何かを訴えるように、二度、三度と繰り返された。
アランは顔を上げた。
胸の奥がざわつく。
分かってしまう。――この音が誰のものか。
震える指でカーテンをそっと開いた。
そこにいたのは、やはり彼だった。
シリウス。
月明かりを背にしたその姿は、あの頃と何も変わらなかった。
風に乱れる黒髪、まっすぐにこちらを見つめる銀灰色の瞳。
長い夜の間、何度も夢に見た人がそこにいた。
胸が痛いほど高鳴り、同時に、息が詰まるような苦しさが喉を締めつけた。
会いたかった。
何度も願ってきた。
ただ、もう一度、この目で彼を見たいと。
けれど、同時に――その願いが叶ってしまうことが怖かった。
母を失ってからというもの、心の奥にある「愛」の意味が分からなくなっていた。
シリウスと共に生きる未来を描いていたはずだった。
キラキラと輝くような日々を信じて疑わなかった。
けれど、その夢の裏で、どれほどのものを犠牲にしてきたのか。
あの現実を前にして、自分の覚悟がどれほど浅はかだったかを思い知らされた。
「……アラン、帰ろう。」
窓越しに聞こえてきたシリウスの声は、懐かしく、そして痛かった。
低くて、真っ直ぐで、いつだって彼の言葉は人の心を引き戻してしまう。
その力強さに、アランは何度も救われてきた。
――この人と一緒にいれば、自分の人生も光を持てる。
そう思っていた。
どんな闇の中にいても、彼は必ず光を見せてくれる人だった。
その眩しさに、憧れに似た想いを抱きながら、ずっと惹かれてきた。
けれど今、その光があまりにも遠い。
まぶしすぎて、手を伸ばすことができない。
アランは小さく首を振った。
「……シリウス、ごめんなさい……行けないの。」
言葉を口にした瞬間、現実の重さが全身にのしかかった。
喉の奥が焼けつくように苦しくて、涙がこぼれそうだった。
シリウスは一歩、窓の向こうから踏み出そうとした。
「一緒に乗り越えよう。もうお前から、何も奪わせない。」
その声に、かすかに怒りと焦りが混ざっているのが分かった。
彼は本気で、自分を救おうとしている――それが分かるからこそ、余計に苦しい。
アランは再び、静かに首を振った。
「違うの……そういうことじゃないの。」
シリウスの力だけでは、どうにもならないことがある。
それは、彼の勇敢さや優しさを否定することではない。
ただ、ブラック家という名が持つ圧倒的な力――
それは個人の想いなど容易く踏み潰してしまうほどの重さだった。
「アラン……全部、この家が仕組んだんだ。絶対にそうだ。」
シリウスの声が震えた。
「オリオンが、お前を戻すために……リシェルを……!」
怒りに満ちたその言葉の裏に、彼のやり場のない悲しみが透けて見えた。
アランの心の奥で、痛みが鈍く波打った。
シリウスの言うことは正しい。
オリオンが手を回していたのだろうということは、薄々分かっていた。
それでも、母を救いたくて――跪いて懇願した。
自分には、富も、名声も、何もなかったから。
あの時、縋るしかなかった。
「……分かってるの、シリウス。」
アランはかすれた声で言った。
「でも……私は、もうこれ以上、誰かを犠牲にしてまで生きたくないの。」
シリウスの瞳が揺れた。
彼の手が窓越しに伸ばされる。
その手を取れば、すべてを捨ててでも彼と共に生きられたかもしれない。
でも、その未来は――また誰かの涙の上に築かれるのだ。
アランは震える手を胸の前で握りしめ、ただ首を振った。
「母を失うような苦しみを、もう二度と味わいたくないの。」
「だから……私は、ここに残る。」
シリウスの表情が苦悩に歪んだ。
唇が震え、言葉にならない息がこぼれる。
それでも、彼は最後までアランの目を見ていた。
窓の外、夜風が彼の髪を揺らす。
月の光が二人のあいだに淡く落ち、触れられない距離を照らしていた。
その距離が、どれほど残酷なものかを、二人とも知っていた。
それでも――アランは、手を伸ばさなかった。
愛しているからこそ、届かないままでいた。
夜が静かに沈み込んでいた。
屋敷の広間には、古い時計の針が刻む音だけが響いている。
その音が、やけに重たく、痛々しいほどにゆっくりと感じられた。
ジェームズは暖炉の前に立ち、親友の背を見つめていた。
炎の赤がシリウスの輪郭を照らし出す。
黒曜石のような髪が揺れ、頬をかすめる影が、燃え盛る光に切り取られる。
その背中はいつもよりもずっと広く、そして痛々しいほどに孤独だった。
あの日──ブラック家の門を叩き、アラン・セシールを迎えに行った親友の姿が脳裏に蘇る。
「連れて帰る」と言い切った彼の瞳は、決意に満ちていた。
誰にも止められないほどの光を宿していた。
だが、戻ってきたのはシリウスただ一人だった。
何も言わなくても分かった。
アラン・セシールは彼と共に行くことを選ばなかったのだ。
彼女は、あの屋敷に、あの鎖の中に、留まることを選んだ。
そこにどんな苦しみがあったのか、どれほどの涙を押し殺したのか──彼女の表情を見なくても分かってしまう。
彼女は、きっと自分の中の何かを犠牲にした。
それが心か、誇りか、未来への希望だったのかは分からない。
けれど確かに、彼女は愛よりも“責務”を選んだのだ。
そして、シリウスを愛するがゆえに、彼を手放したのだろう。
ジェームズは唇を噛みしめた。
もし彼女がその選択をしたのなら、もう二度と──シリウスの前に現れないでほしい。
中途半端なままでは、親友は前に進めない。
心のどこかで彼女を想い続けたまま、他の誰を愛そうとしたって、きっと叶わないのだ。
ホグワーツの頃からずっと、シリウスの目は彼女だけを追っていた。
授業中も、食堂でも、談話室でも。
アランが笑えば彼も笑い、アランが俯けば彼の眉も曇った。
その心のすべてが、たった一人の少女のために存在していた。
そんな親友を見てきたからこそ、ジェームズは思う。
──シリウスには、もっと光をまとった女性がふさわしい。
闇を恐れず、自由に羽ばたける強さを持つ人。
鎖に縛られた少女ではなく、自らの意志で空を選ぶ女性。
それこそが、シリウス・ブラックという名に似つかわしい隣人だと。
「……何も言わないでくれ」
炎の前で、シリウスがぽつりと呟いた。
低く、かすれた声だった。
彼の瞳はどこにも焦点を合わせていない。
目の奥に映るのは、もう存在しない面影だけ。
ジェームズは小さく息を吐いた。
「……ああ、言わないさ」
短くそう答えると、棚の上からウイスキーの瓶を取り、二つのグラスに注いだ。
琥珀色の液体がゆらめき、炎の光を受けてまるで涙のように煌めいた。
「今夜は、付き合う」
それだけ言って、静かにグラスを差し出した。
シリウスは無言でそれを受け取り、二人のグラスがかすかに触れ合う音が、静寂を破った。
会話はいらなかった。
ただ、燃え盛る炎の前で、ふたりの影だけが並んで揺れ続けた。
その夜、外では冷たい風が吹き荒れていた。
けれど暖炉の火のそばでは、沈黙がすべてを包み込み、
まるで失われた愛の名残を、静かに弔うように時間が流れていった。
