2章
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ミカエル・フォレストとその父の死は、瞬く間に不死鳥の騎士団の耳に届いた。
彼らの死を巡っては、明らかに闇の魔法使いの影が疑われている。現場に残されたわずかな魔力の残滓――それは、凍りつくような気配を孕み、あまりにも強烈な闇の呪術の痕跡を物語っていた。
さらに、その上から幾重にも重ねられた「後消し」の呪文が痕跡を曖昧にしており、どの杖から放たれた呪文であったのか、特定することは困難を極めていた。
それは、闇の陣営の周到さと、冷酷な計画性を示すにほかならなかった。
騎士団の本部では、夜は更け、ランプの炎が壁にゆらゆらと影を描き出す。
しんとした空気の中で、誰もが沈黙を守っていたが、やがてジェームズが重たげに口を開いた。
「……ホグワーツで殺人事件なんて。物騒になったものだよ」
その声には、怒りと諦めとが複雑に絡み合っていた。守られるべき学び舎――ダンブルドアの存在が絶対の保証だと信じて疑わなかった場所で、血が流れたのだ。
シリウスは拳を握りしめ、低く応じた。
「……アランが心配だ」
その一言には、彼女への思いと、己の無力感とが滲んでいた。
かつては盤石と思われたダンブルドアの加護も、もはや揺らいでいるのだと示された事件。それでも、屈するわけにはいかなかった。
――ホグワーツの生徒だけではない。マグルも、マグル生まれの魔法使いたちも。すべての者が平等に、平和に生きるべきなのだ。
純血こそが至高と信じる、歪んだ思想に支配された闇の魔法使いたちに、この世界を好き勝手にさせていいはずがない。
その信念を、ダンブルドアもまた胸に抱いていた。
フォレスト家は、マグル生まれの魔法使いたちのために孤児院を建て、その運営を魔法界全体で支えていこうと計画していた。あまりにも公平で、あまりにも理想的であるがゆえに、闇の勢力の目に留まるのは時間の問題だったのかもしれない。
彼らは、その理想のために、命を賭したのだ。
重苦しい沈黙を破ったのは、リーマスの声だった。
「……ホグワーツに、どうやって忍び込んだんだろう」
声は低く、しかし疑念の色がにじんでいた。
その問いに、ジェームズが静かに首を振る。
「忍び込んだかどうかは……怪しいね」
シリウスはその言葉に反応し、ちらりとジェームズを見やった。ジェームズの意図を理解したのだ。
ランプの炎が、彼らの表情に陰影を落とす。
やがてジェームズが、重く、禁忌のように口を開いた。
「もし……犯人がホグワーツの生徒だとしたら。犯行は、とても簡単だ」
その瞬間、空気が凍りついた。
全員の胸に、冷たいものが走り抜ける。誰もが心のどこかで抱いていた可能性を、ジェームズが言葉にしてしまったのだ。
しん、と静まり返る。ランプの灯の揺らぎだけが、音のように感じられるほどに。
その場の全員が息を詰めていた。
口にしてはならない言葉――それを今、ジェームズが放ってしまった。
その重さが、部屋を圧し潰すように覆い尽くした。
張りつめた静寂の中、吐息すらためらわれるような重圧が漂っていた。
ジェームズの言葉――「犯人がホグワーツの生徒だとしたら」。
その響きは、皆が心のどこかで避け続けていた考えを、強引に引きずり出してしまった。
シリウスの眉間には深い皺が刻まれた。
彼は声を荒げたい衝動を抑えながらも、拳を固く握りしめる。
「……そんなこと、あってたまるか」
怒りと恐怖が入り混じった声。
けれど否定の強さが、そのまま不安の裏返しであることを、誰もが感じ取っていた。
彼の脳裏にはアランの姿が浮かんでいた。あまりにも無防備で、あまりにも真っ直ぐで。もしもその彼女のすぐ傍に、闇に染まった同級生が潜んでいるのだとしたら――その想像だけで、胃の奥が焼けつくように痛んだ。
「……論理的に考えれば、可能性は否定できない」
静かに言葉を継いだのはリーマスだった。
彼の声は冷静で、淡々としているように聞こえた。けれどその裏には、凍りつくような恐怖が潜んでいる。
「もし校内に入り込んでいないなら……犯行は内部から。しかも、学校の構造を熟知している者だ。廊下の巡回、教師たちの行動の癖、隠し通路の存在……外部の者に把握できるはずがない」
淡々と事実を積み上げながら、声はどこか震えていた。まるで口にすればするほど、自分の想像を現実にしてしまうのではないかと恐れるように。
ピーターは小さな肩を震わせながら、身を縮めていた。
「……でも……でも、まさか。そんなの、考えたくないよ……!」
声は上ずり、今にも泣き出しそうだった。
彼の言葉は、全員の胸に潜む本音でもあった。――考えたくない。信じたくない。だが、否定の言葉は空虚に響くだけで、誰の心も慰めはしなかった。
ジェームズは唇を強く結び、鋭い眼差しで仲間たちを見渡した。
「僕だって考えたくない。でも……見て見ぬふりなんてできないんだ」
その声には怒りと決意が宿っていた。
「もし本当に、ホグワーツの誰かが闇に与しているのだとしたら……必ず暴き出さなきゃならない。放っておけば、また犠牲が出る」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
暖炉の火がぱちりと爆ぜる音だけが、静まり返った空間に響いた。
それは、張り詰めた空気をより一層際立たせる音にしかならなかった。
やがて、シリウスが低く呟いた。
「……なら、まずアランを守る。彼女を狙うようなことがあったら、俺は絶対に許さない」
灰色の瞳に宿るのは、激しい怒りと焦燥。
それは同時に、脆くもろい心の叫びでもあった。
四人の間に流れる空気は、もはやいつもの笑いに満ちた友情のそれではなかった。
疑念、恐怖、そして決意が絡まり合い、彼らを互いに縛りつけていた。
ジェームズの言葉が落とした影は、重く長い余韻を残し、誰もがすぐには息を整えられなかった。
騎士団に加わった以上、彼らはもう子供ではない。見たくない現実から目を逸らすことは許されないのだ。
「……生徒が、闇の陣営に?」
ピーターが小さく呟く。声はかすれ、手は膝の上で固く握られていた。
「そんな……まだ子供だぞ。信じられない……」
「信じたくはないさ」
リーマスの低い声が返る。
「でも、僕たちは今、信じられることだけで戦ってはいられない。現場に残された痕跡は、あまりに徹底していた。大人の魔法使いでもそこまで消し去るのは難しい。……逆に言えば、校内に出入りできる立場でなければ成立しない仕事だ」
淡々とした言葉の奥に、深い憂慮がにじむ。
シリウスは椅子の背に乱暴に身を投げ出し、天井を仰いだ。
「冗談じゃない。ホグワーツは唯一の安息の場所だったんだぞ。俺たちにとっても、あいつら後輩にとっても……。なのに、その中で仲間同士を疑わなきゃならないなんて」
言葉は吐き捨てるようだったが、その拳は震えていた。怒りだけではない。守るべき者を失うかもしれないという、底なしの恐怖がそこにあった。
ジェームズは深く息を吸い、言葉を選ぶように口を開いた。
「だからこそ、俺たちが動くんだ。騎士団の使命は、外の世界だけじゃない。ホグワーツに潜む闇を暴くことだって同じだろう」
彼の眼差しは炎のごとく燃え立っていた。
「ミカエル・フォレストとその父の死は、無意味じゃない。あの二人が目指したのは、マグル生まれが平等に生きられる世界だ。それを闇に潰させていいわけがない」
しんとした沈黙が再び落ちる。
窓の外では冷たい風が木々を揺らし、遠くでフクロウの声が響いた。
やがて、シリウスが低く呟いた。
「……アランを、ひとりにするわけにはいかないな」
その声は誰よりも鋭く、固く、強い意志を帯びていた。
「もし本当に生徒が関わっているなら、彼女のすぐ隣に敵がいることになる。俺は絶対に――絶対に、あいつを闇に渡さない」
その瞳には、かつてホグワーツで笑い合っていた少年の面影はなかった。
代わりに宿っていたのは、命を懸けてでも守ろうとする戦士の光。
ジェームズ、リーマス、ピーター。
誰もが頷き、視線を交わす。
もはや彼らに後戻りの道はない。
ホグワーツを守ること。
次なる犠牲を出さないこと。
そして――大切な仲間を決して闇に奪わせないこと。
蝋燭の炎が揺らめき、壁に伸びる影は、決意のように揺れ動いた。
その静かな部屋の中で、四人はそれぞれの胸に誓いを刻んでいた。
――ホグワーツの石造りの廊下は、夕刻の陽光を受けて長い影を落としていた。窓越しに差し込む光は柔らかくも冷たく、そこに漂う空気は、どこか張り詰めた緊張の色を帯びている。
事件以来、不死鳥の騎士団の出入りは格段に増えた。
彼らが黒いマントを翻して歩くたびに、校内の雰囲気は重くなる。
生徒たちはざわめき、教師たちは眉を曇らせ、静けさが支配していたはずの廊下に、よそ者の気配が満ちていく。
その光景は、レギュラス・ブラックにとって何よりも不快だった。
後消しの呪文を完璧にかけ、痕跡を徹底的に消したはずだ。
杖の記録にしても、誰も突き止められるはずがない。
理性はそう告げている。だが、不死鳥の騎士団の中には油断ならぬ頭脳の持ち主がいる。わずかな綻びから真実を暴かれる可能性を考えるたび、胃の奥がじりじりと灼けるように痛む。
――だが、それ以上に耐えがたいのは。
シリウス・ブラック。
あの兄が、この校舎に再び足を踏み入れているという事実だった。
事件の調査と称して、黒犬のように自由に駆け回る姿。
アランの隣に自然と並び立ち、笑い合う光景。
レギュラスの胸を締め付けるのは、恐れでも焦りでもなく、烈火のような嫉妬だった。
シリウスが卒業してからようやく訪れた安堵――あの息苦しい影が消えたと感じた日々。だがそれも長くは続かず、今や再び目の前に現れ、アランの横を当然の顔で歩く。
「やあ、レギュラス・ブラックくん。」
その声に、レギュラスは眉をわずかにひそめた。
振り返れば、そこに立っていたのはジェームズ・ポッター。夕陽を背にしているせいか、逆光の中に浮かび上がるその輪郭は、どこか不遜で、そして――いやに堂々として見える。
「君に少し、話を聞きたくてね。」
軽い調子だった。だがその目は決して軽くはない。
レギュラスは静かに息を吐き、形だけの笑みを浮かべた。
「……なんでしょう。手短にお願いします。」
唇から漏れる言葉は冷ややかだった。だが内心では、わずかに脈が速まっているのを感じる。
ジェームズ・ポッター。
シリウスと共に常に騒ぎを巻き起こしていた男。派手に、奔放に、けれども驚くほどの才覚を持ち合わせていた。レギュラスはその名を嫌というほど耳にしてきた。
そして何より――この男の視線を、忘れることができなかった。
アランの隣に居続ける自分を見つめるその眼差し。
あれはただの観察ではなかった。鋭利な刃物のように、人の心の奥に潜む歪みを切り裂くような視線だった。
証拠などない。ただの思い過ごしかもしれない。
けれど本能は告げていた。この男は、シリウスですら気づかぬものを嗅ぎ取っていた、と。
――アランと自分の関係性に漂う、微かな影。
それを最初に見抜いたのは、おそらくこの男だった。
だからこそ、嫌悪が募る。
自分の隠したいものを暴く可能性を持つ存在。
それが、ジェームズ・ポッターだった。
レギュラスは視線を逸らさず、冷ややかに相手を見返す。
「僕が答えられる範囲のことなら……ですが。」
言葉の端には棘が混じる。
その棘をジェームズが受け取るのか、あるいは笑い飛ばすのか――レギュラスはその瞬間を待ちながら、胸の奥でわずかに歯を食いしばった。
古い石造りの廊下を、二人の足音がゆっくりと響いていた。
窓から射し込む光は淡く白く、埃の粒が空気の中でゆらゆらと舞っている。かすかな風がカーテンを揺らし、古びた鎧の肩飾りがわずかに軋む音を立てた。
不死鳥の騎士団の紋章を胸に付けたジェームズ・ポッターは、隣を歩く青年を横目に見やった。
レギュラス・ブラック。
その名は何度となく耳にしてきた。
シリウスの弟――そう呼ばれることを、本人はどれほど嫌っているだろうか。
同じ「ブラック家」の血を引きながら、兄とはまるで違う。
歩く姿勢一つとっても、レギュラスは寸分の隙も見せない。背筋をまっすぐに伸ばし、足音すら整っている。だがその完璧さが、かえって異様なまでの静けさを纏わせていた。
彼の灰色の瞳は、光を反射しながらも奥底まで覗けない。深く、冷たく、まるで夜の湖面のように――その水底には何が沈んでいるのか、誰にも掴めない。
ジェームズは無言のまま数歩、並んで歩いた。
石畳の上で、足音だけが二人の間に淡々と響く。
やがて、軽く口を開いた。
「君は――ミカエル・フォレストと交流はあったのかい?」
問いかけた瞬間、レギュラスはほとんど間を置かずに答えた。
「いいえ。寮が違いますから。」
その反応はあまりにも早すぎた。
言葉の温度も、表情の揺らぎもない。まるで予め用意していた答えを口にしたかのようだった。
ジェームズは眉をひそめ、歩く速度をわざと落とす。
そのわずかな間合いの変化の中で、レギュラスの背中を観察した。
整った肩の線。無駄のない歩幅。だが、ほんの一瞬――呼吸の乱れのような揺らぎが見えた気がした。
「デスイーターの関与が疑われているんだ。」
ジェームズの声は、穏やかだった。だが、その穏やかさの奥に、研ぎ澄まされた鋭さが潜んでいた。
「君は……どこまで手引きしている?」
その言葉が廊下に落ちた瞬間。
前を歩くレギュラスの背中が、ぴくりと止まった。
静寂が訪れた。
窓の外では風が木々を鳴らしている。けれど、この廊下だけは時間が止まったようだった。
ややあって、レギュラスが静かに口を開く。
その声は低く、氷のように冷たい。
「兄の周りの人間は……どこまでも無礼なんですね。」
その声音の奥には、かすかな怒りと、深い警戒の色が混じっていた。
ジェームズはその反応に満足げに小さく息を吐いた。
「……気を害してしまったのなら、失礼。」
その一言を残して、彼はそれ以上追及しなかった。
言葉よりも雄弁なのは、一瞬の沈黙と、わずかな動揺――それだけで十分だった。
レギュラス・ブラック。
彼は間違いなく、何かを隠している。
あるいは、自分の背後にうごめく“闇”と、確かな繋がりを持っている。
ジェームズは確信を胸に、踵を返した。
長い廊下を一人歩くその背に、冷たい風が吹き抜けていく。
まだ証拠はない。
けれど、今見た一瞬の揺らぎ――それがいつか真実を引きずり出す導線になると、彼は確信していた。
石壁に反響する自分の足音を聞きながら、ジェームズは心の中で苦いものを噛みしめる。
もしこの予感が正しかったなら。
いつかその時が来たとき――あの親友に、どう伝えればいいのだろう。
シリウス。
お前の弟が、闇に堕ちているかもしれない。
その言葉を口にする日を想像するだけで、胸の奥が重く沈んだ。
彼は歩みを止めず、廊下の端へと消えていった。
背後では、レギュラスが静かに振り返り、ほんの一瞬だけその背中を見送っていた。
灰色の瞳に映るのは、去っていく光の中の黒い影。
――それがいつか、確実に自分を追い詰める存在になることを、彼自身もどこかで理解していた。
レギュラスの中に、抑えきれぬ苛立ちが燃え盛っていた。
あのジェームズ・ポッターの眼差し――。
一見、柔和なようでいて、その奥に潜む観察者の鋭さ。
何もかもを見透かしているような、あの視線が頭から離れなかった。
「デスイーターの関与が疑われているんだ」
その言葉の響きが、今も鼓膜の奥にこびりついている。
あの男は確信していた。間違いなく。
問いかけに偽りの笑みを浮かべた時点で、すでに自分は“泳がされていた”のだと理解していた。
――忌々しい。
喉の奥から押し殺した声が漏れる。
レギュラスは足早に廊下を歩いた。
ホグワーツの夜の空気は冷えきっており、壁を照らす松明の炎が静かに揺れている。
足音が石畳に響くたび、胸の奥の苛立ちが波紋のように広がっていく。
自室の扉を開けるなり、彼は荒々しく中へ入った。
整然と並んだ机の上には、開きかけの本と、魔法薬学のノート、そして羽根ペンが几帳面に置かれている。
それらが視界に入るや否や、彼の手は勝手に動いていた。
――ドンッ。
木製のテーブルが鈍く響く。
その瞬間、机の上のインク壺がわずかに傾き、黒い液が一滴だけ飛び散った。
冷たいインクのしずくが、紙の上に黒いしみを作る。
その模様が、彼の胸中に巣食う“闇”の象徴のように見えて、ますます苛立ちを煽った。
「……クソッ」
低く呟く。
奥歯を強く噛み締めすぎて、顎の筋がぴくりと震えた。
レギュラスは目を閉じた。
深呼吸をしても、胸の奥のざらつきは消えない。
あの男たちの声、視線、探るような言葉――
すべてが耳の奥にこだまのように残り、思考を濁らせていく。
この怒りを、どこへ向ければいいのか。
誰を責めれば、自分の心は静まるのか。
――アラン。
その名が、ふと脳裏を過った。
冷たい闇の底で、たったひとつ柔らかく灯る光のような存在。
彼女の声を思い出すだけで、荒んだ心の奥がわずかに緩む。
今、会いたい。
彼女の顔を見たい。
あの穏やかな瞳の色に触れたい。
理由はどうでもよかった。
ただ、アランのそばに行けば、この爆発的な怒りはきっと別の感情に変換できる気がした。
それが赦しなのか、依存なのか、もはや自分でも分からない。
ただ、アランという存在だけが、彼の中の“闇”を一時的に鎮めることができる。
レギュラスは勢いよく立ち上がった。
ローブの裾が空気を裂くように揺れる。
扉を開けると、冷たい夜風が頬を打った。
ホグワーツの廊下は、今やほとんど人影がない。
遠くで、誰かが灯を消す音がした。
静まり返った校舎の中を、彼はただひたすら歩く。
杖の灯りが床に長い影を落とし、石壁の上を滑っていく。
その歩みのひとつひとつに、焦燥が滲む。
怒りの熱が冷めぬまま、心のどこかではすでに“彼女の名”を繰り返し呼んでいた。
――アラン。
今すぐ、彼女に触れたい。
その思いだけが、彼を闇の夜の中で突き動かしていた。
石畳の上を渡る風が、秋の匂いを運んでいた。
中庭を囲む古いアーチの影が、午後の光に長く伸びている。
その一角――ホグワーツの広間を抜けた先の、静かな回廊のベンチに、アランとシリウスが並んで腰を下ろしていた。
久しぶりに会うシリウスは、どこか大人びて見えた。
少年の頃の無鉄砲さを残しながらも、その眼差しの奥に、戦う者の静かな覚悟が宿っている。
胸元にはフェニックスの騎士団のバッジが輝き、陽の光を受けてきらりと瞬いた。
それはまるで、彼がもう“子ども”ではなく、“戦う側”に立った証のようだった。
アランはそのバッジから目を離せなかった。
誇らしさと、寂しさと、胸の奥をかすめる言葉にならない痛み。
彼女の中で、いくつもの感情が複雑に絡み合っていく。
「アラン、危ねぇことに近づくなよ。」
シリウスが低く言った。
その声は、いつになく真剣で、彼女の胸の奥にじんわりと響いた。
「……ええ、わかってるわ。」
微笑んで答えながら、アランはその目の奥にある“心配”を見逃さなかった。
彼の優しさが嬉しかった。
本気で自分を案じてくれる人がいるということ――それだけで、胸がじんわりと温かくなる。
けれど同時に、アランの心の奥底では、何かざらついた感情が小さく疼いていた。
それは、シリウスの言葉の裏に隠された、もうひとつの意図を感じ取ってしまったからだった。
――レギュラスのことを、探っている。
シリウスは兄として、弟のことを案じているのだ。
けれどその「案じる」の中には、恐れと怒り、そして絶望が入り混じっている。
それを痛いほど理解できてしまう自分が、アランは嫌だった。
彼女自身も、レギュラスの中にある“闇”を見てしまっている。
けれど、それを誰かに告げることはできなかった。
庇っているわけではない。
レギュラスの思想を肯定する気も、彼の選んだ道を受け入れる気もない。
それでも――彼を“突き放す”ことだけは、どうしてもできなかった。
彼の心の奥に潜む孤独を、誰よりも知っているから。
彼が求めてやまない何かを、ほんの少しだけ理解してしまっているから。
――情なのか、それとも、それ以上のものなのか。
自分でもわからない。
ただひとつ、確かなのは。
どうか、彼がもうこれ以上、闇に飲まれていかないでほしいという祈りだけだった。
「アラン、もし……もしもだ。何か知ってることとか、あったら……」
シリウスの声が揺れた。
彼にしては珍しく、歯切れが悪い。
言葉を選びながら、それでも踏み込まずにはいられない――そんな葛藤が滲んでいる。
アランはそっと彼を見た。
少年の面影を残したまま、今は立派な男の顔つきになったシリウス。
その真剣な眼差しを見て、心が締めつけられるように痛んだ。
「……ええ、あなたには何でも言うわ。」
微笑みながら、アランはそう言った。
それは、優しい嘘だった。
けれど、その嘘の奥にあったのは裏切りではない。
むしろ――“誰も傷つけたくない”という不器用な祈りだった。
次の瞬間、シリウスがふいに腕を伸ばした。
アランは驚く間もなく、彼の胸に抱き寄せられていた。
その抱擁は、強くて、あたたかくて、そしてどこまでも真っ直ぐだった。
守るということを、言葉ではなく行動で証明するように。
シリウスの腕が彼女の背中を包み込むたび、アランの胸の奥に溜まっていた不安が少しずつ溶けていった。
だが同時に、どうしようもない悲しみが胸に込み上げる。
この腕の温もりの向こうに、レギュラスがいる。
同じ血を分けた兄弟が、それぞれ違う道を歩いている。
その道の果てで、もしも――互いに杖を向け合う日が来るとしたら。
その想像が、アランの喉を詰まらせた。
涙が出そうになり、彼女はシリウスの胸に顔をうずめた。
どうか。
どうか、この兄弟が、決して敵になりませんように。
憎しみではなく、愛で終われますように。
夕暮れの光が、石畳に金色の筋を落としていた。
アランの頬をかすめた風が、どこか遠い場所で誰かの名を呼ぶように吹き抜けていった。
夕暮れの光が中庭を柔らかく染める頃、アランはシリウスと何気ない話を交わしていた。
話題は、ホグワーツの外の世界に広がる冒険譚や、騎士団での日常、魔法界の奇妙な噂話、マグル界での小さな出来事に至るまで、どれも穏やかで安全な話題ばかりだった。
「昨日、魔法省で新しい呪文の実験を見たんだ。ほら、例の光を反射させるやつ。」
シリウスは目を輝かせ、手振りを交えながら語る。
アランは笑いながら、思わず大げさに目を見開いたり、驚きの声を上げたりした。
「えっ、本当に?それ、うまくいったの?」
「うん、うまくいったんだけど……あ、でも爆発の可能性もあったんだ。」
「爆発⁉︎それ、危なすぎるでしょ!」
声のひとつひとつが弾むたびに、アランの胸も踊った。
まるで昔、シリウスがよく語ってくれた、無邪気で無茶な冒険の続きを聞いているようだった。
ホグワーツの塔や湖のほとり、秘密の通路での小さな騒動を思い出し、胸が高鳴る。
そして何より、シリウスの瞳――太陽のように輝く瞳を、アランはじっと見つめていた。
その瞳の光に触れるたび、心の奥が温かく満たされる。憧れ、愛しさ、守られている安心感。
どれもが混ざり合い、ただひたすらに胸を満たしていった。
けれど、そんな幸福の余韻は、背後からの足音によって一瞬で凍りついた。
足音の主は、予想通り――レギュラスだった。
細く整った影が夕陽に伸び、アランの心を一気に覆い尽くす。
深い湖の底のような灰色の瞳が、静かに、しかし確実にアランを貫いていく。
その冷たさに、胸の奥の暖かさがすべて引き裂かれたようだった。
「アラン、あまり感心できないですよ。」
声は低く、鋭く、余裕すら漂わせている。
「レギュラス……」
言葉が唇に触れる前に、シリウスが立ち上がった。
「おい、お前、関わってねぇだろうな。」
その直球な問いかけに、場の空気は一瞬にして張り詰めた。
シリウスらしい真っ直ぐさ。けれど、アランにとっては、その言葉が痛みと緊張を伴って胸に突き刺さる。
目の前で静かに鼻で笑うレギュラスの姿が、さらにその痛みを強める。
「相変わらず、あなたはどこまででも無礼なんですね。」
吐き捨てるようなその言葉には、苛立ちと軽蔑が混ざっていた。
「俺は、お前が何も関わってねぇって信じてぇ。けど……本当のところはどうなんだ?」
シリウスの声には、問いかけ以上の何か――祈りに似たものが含まれていた。
アランは、その声色に胸を締めつけられる。
向かい合う兄弟――同じ色の瞳を持つのに、そこに宿る光は正反対だった。
片方は太陽のように暖かく、心を包む光。
もう片方は、深い湖の底のように冷たく、すべてを飲み込む光。
アランの視線は、迷いながらも、どちらにも注がれていた。
心の中で願うのはただ一つ――どうか、互いの光が交わるその日まで、争わずに済みますように。
けれど、現実はそう簡単にはいかないことを、胸の奥のざわめきが告げていた。
スリザリンの寮へと続く長い石造りの廊下を、アランはレギュラスの後ろ姿を見つめながら歩いていた。
背中を少しだけ丸め、腕を緩やかに振るその影は、押し黙ったまま苛立ちを滲ませていた。床に反射する松明の炎が、彼の輪郭を淡く揺らす。歩くたびに、微かな影が壁を走り、まるで彼の内面の荒れた波紋を映しているかのようだった。
「レギュラス……」
声をかけてみる。震えは否応なく声に現れ、柔らかな響きに混じった不安が自分でも情けなく思えた。
しかし、レギュラスは振り向かない。足取りを止めることもなく、ただ前方を見据え、静かに歩き続ける。
アランの胸の奥に、焦燥と苛立ちが入り混じった複雑な感情が渦巻いた。
シリウスと並んで過ごしていたという記憶が、彼の心の琴線を震わせたのだろう。アランには、それが痛いほどわかる。
自由に、何ものにも縛られず振る舞うシリウス。
一方で、家と血の誇りに縛られ、忠実に従順であろうとするレギュラス。
比べられることを嫌うはずの彼が、それでもシリウスと自分を無意識に重ね、苛立ちを募らせる――その構図は、アランの胸を締めつける。
沈黙だけが支配する長い廊下。二人の間に言葉はなく、ただ石の冷たさと松明の暖かさ、そして自分の鼓動だけが確かに感じられる。
時間はゆっくり、しかし容赦なく流れていく。永遠のように長く、息をひそめたままの瞬間の連続だった。
やがて、レギュラスがふいに立ち止まった。その間、わずかな風が廊下を通り抜け、松明の炎を揺らす。
アランも自然に立ち止まり、少し距離を置いたまま彼の後ろ姿を見つめる。
「何を話したんです?」
低く、少し尖った声が背中越しに届いた。問いかけそのものに苛立ちや警戒が滲む。
「新しい呪文の開発だとか、他愛もないことです」
アランは咄嗟に答え、声に明るさを意識して混ぜた。無理にでも平穏さを装う。
しかし、レギュラスは何も返さない。わずかな沈黙が、逆に重く二人の間にのしかかる。
アランには、彼が何を探ろうとしているのか、なんとなくわかる気がした。
探られたのは、シリウスとのやり取りや自分との関係のほんの一端。
そして、何を聞き出したくて、どんな反応を引き出そうとしているのか。
その静かな対峙の中で、アランは胸の奥がじりじりと熱くなるのを感じた。
言葉には出せない、理解されぬままの心の揺れ。
互いの視線はまだ交わっていないのに、存在そのものが圧を帯び、互いの気配だけで呼吸を乱す。
廊下の長い石の床に反響する二人の足音。
その静寂の中で、アランは息を整えながら、レギュラスの一瞬の動揺や微細な表情の揺れを見逃さないよう、じっと背中を追い続けていた。
苛立ち、警戒、期待――複雑な色を帯びた彼の背中のすべてが、アランの胸を深く打ち続けていた。
レギュラスは心の安寧を求めて歩き続けていた。
夜気の張り詰めた校内を、まるで何かに取り憑かれたように早足で。
談話室の灯りを覗き込み、図書室の扉をそっと開け、大広間の奥の長卓を見渡し、人気のないテラスにも足を運ぶ。
それでも、あの翡翠の瞳を見つけることはできなかった。
胸の奥のざらついた感情が少しずつ膨らみ、呼吸のひとつひとつが痛みに変わっていく。
ようやく見つけたその瞬間、安堵が胸に広がるよりも先に、喉の奥が焼け付くような衝撃が走った。
アランの隣に、シリウスがいた。
夕暮れの光が二人をやわらかく包み、アランの笑顔を照らしていた。
その穏やかで柔らかな微笑みが、よりによって兄の隣で向けられているという現実が、レギュラスの心を荒々しく掻き乱す。
──なぜ彼女があんな顔をしているのか。
その笑顔を、なぜ自分ではなくシリウスが見ているのか。
一度静まったはずの怒りが、再び胸の奥から沸き立つ。
抑え込んでも抑え込んでも、熱は喉元までせり上がってくる。
烈火の如く嫉妬が燃え上がり、心の奥底を焼き尽くす。
アランの心がシリウスへと傾き、そのまま戻ってこなくなるかもしれない。
気づけばもう、彼女は遠くへ攫われてしまうかもしれない。
そんな不安が、全身を締めつける。
シリウスよりも自分の方が優れている部分はいくつもある──そう信じてきた。
理性、誇り、立ち振る舞い、そして何より忠誠。
だが幼い頃から影のように寄り添って離れなかった劣等感が、また顔を出す。
兄の自由さに勝てない。兄の眩しさには届かない。
どれだけ努力しても、誰かの目に映る自分はいつも「シリウスの弟」なのだ。
「何を話していたんですか」
声が思ったよりも硬く、低く響いた。
アランは少し驚いたように目を瞬かせ、そして穏やかに微笑んだ。
「他愛のない話をしていただけです」
その答えが、かえって胸の奥をざわつかせた。
「他愛のない」という曖昧さが、逆に想像を掻き立てる。
何を聞かれた? どんな風に笑った?
どんな言葉を交わし、どんな表情を見せた?
一言一句すべてを問いただしたくなる衝動を、レギュラスは喉の奥で必死に飲み込んだ。
このままではきっと、言わなくていいことまで口にしてしまう。
怒りに任せた言葉は、必ずアランを傷つける。
それだけはしたくなかった。
深く息を吸い、胸の奥の熱を押し殺すように小さく吐き出す。
「アラン、探したんですよ」
「……ごめんなさい。心配をかけてしまったわ」
「校内も、最近は少し物騒ですから。……いなくならないでください」
その言葉には、咎める響きも、責める響きもなかった。
それでも、自分でも驚くほどに切実で、祈りにも似た重さがこもっていた。
アランがそっと視線を伏せる。
長いまつ毛の影が頬をかすめ、表情にかすかな翳りが差す。
──そんな顔を、させたくなかった。
レギュラスはそっと腕を伸ばし、アランを抱き寄せた。
小さくて、柔らかくて、けれど確かな温もり。
か細い身体が、自分の胸の中にすっぽりと収まる。
その瞬間、こわばっていた全身の筋肉がゆっくりとほどけていく。
触れ合う部分から、冷たくなっていた心が溶かされるようだった。
「アラン……何かあったら、僕に一番に教えてください。
怖い思いも、危ないものも、何もかも……あなたから遠ざけます」
囁くように言うと、アランは小さく頷いた。
胸の中で、彼女の髪がそっと揺れる。
やがてレギュラスは腕をほどき、彼女の顔を覗き込む。
その瞳に映るのは、静けさと、少しの戸惑い、そして確かな信頼。
レギュラスはゆっくりと身を寄せ、アランの唇に口づけた。
その瞬間、時間が止まる。
肌に伝わるぬくもりと、心に流れ込む安堵。
それは確かに「自分だけが許される権利」だという確信とともにあった。
唇を重ねるたび、胸の奥に渦巻いていた怒りが静かに消えていく。
深く、少しずつ、互いの呼吸を感じながら、感情の波が穏やかに戻っていく。
怒り、嫉妬、焦燥──
それらを鎮めるこの方法が、レギュラスにとってはひとつの“救い”であり、同時に“毒”でもあった。
一瞬で満たされる感覚に、心が酔う。
触れ合うたびに、理性が溶けていく。
それがどれほど危ういものであっても、彼にはもう、ほかの鎮め方を知らなかった。
アランを抱きしめながら、レギュラスは静かに瞳を閉じた。
──この瞬間だけは、誰にも奪わせない。
その思いだけが、彼のすべてだった。
夜のホグワーツは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
廊下の石壁は冷たく、月明かりが高い窓から差し込んで床に長い影を落としている。
ジェームズ・ポッターは、不死鳥の騎士団の任務の一環として、ひとり校内を巡回していた。
何度も通った懐かしい廊下、あの頃の笑い声がまだどこかに残っているような錯覚を覚える。
それでも、今はもう生徒ではない。ここに漂うのは懐かしさではなく、戦いの気配だった。
──その時だった。
月明かりの差すテラスの奥、影と影の間にふと人の気配を感じた。
何気なく視線を向けた瞬間、息が詰まる。
そこにいたのは、レギュラス・ブラック。そして、その腕の中にいるのはアラン・セシール。
レギュラスが彼女を引き寄せ、迷いのない動作でその唇を奪うのを、ジェームズはただ呆然と見つめるしかなかった。
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
理屈ではない。感情の棘が、深く心臓を突いたような痛みだった。
ほんの少し前、自分はこのレギュラスに対して、騎士団としての立場から揺さぶりをかけたばかりだった。
──ミカエル・フォレストの事件、君はどこまで関与している?
そう問い詰めた。あの冷ややかで、どこかすべてを見透かすような瞳を思い出す。
彼の中に潜む闇を見逃すわけにはいかない。それが自分の役割だった。
けれど、そのわずか数時間後に見たこの光景は、ジェームズの胸に複雑な苦味を残した。
レギュラスは、親友が長年想い続けた女性──アラン・セシールを、完全に手にしていたのだ。
シリウス。
あの誰よりも強く、誰よりも真っ直ぐな男。
光のように正義を貫こうとする彼が、どれほどのものを失いながら歩いてきたかをジェームズは知っている。
家族を捨て、名を捨て、血の呪縛から逃れようとした。
その果てに今度は、たった一人の弟と、愛した人までも──失わなければならないのか。
その理不尽さに、胸が締めつけられた。
ジェームズは壁にもたれ、唇を噛みしめる。
「……どうして、こんなことに」
声にならない声が、喉の奥で消えていった。
彼はかつて、親友から何度となく聞かされたことを思い出す。
「アランが卒業したら、俺は彼女と一緒になるつもりなんだ」
その言葉を聞いたとき、ジェームズは心から祝福してやりたいと思った。
シリウスには幸福が似合う。
どんなに闇に包まれても、彼の笑顔は誰よりも人を照らすから。
──だが、現実は違った。
目の前の光景は、残酷なまでに真実を突きつけてくる。
アランの髪が月光を受けて淡く輝き、レギュラスの腕の中で静かに揺れている。
その顔は、恐れも戸惑いもない。
まるで、そこが彼女の居場所だと知っているように。
ジェームズは息を飲んだ。
ホグワーツ在学中から、この二人の関係に何かしら特別なものを感じていた。
屋敷で暮らす主人と従者──それだけではない絆。
言葉にしなくても、互いの存在が互いを必要としているのが見えた。
天文台で見たあの日のことを思い出す。
夜風に吹かれながら寄り添っていた二人の背中。
あのとき、なんとなく確信してしまったのだ。
この二人の間に、誰も入り込むことはできないのだと。
年月を経て、それはさらに深く、強く結ばれていったのだろう。
自分たちがホグワーツを去ってからも、二人は幾度となく夜を共に過ごし、静かに絆を積み重ねてきたのだ。
もう、その関係は誰にもほどけない。
ましてや、シリウスが割って入る余地など、どこにも残されてはいない。
──だが、それでも。
ジェームズは親友を想う気持ちを抑えきれなかった。
シリウスにこれ以上傷ついてほしくない。
彼には、もっと光の中で笑っていてほしい。
アラン・セシールという女性が、美しく、気高く、誰もが惹かれる存在であることは認める。
けれど、レギュラス・ブラックの傍にあることでしか生きられない彼女を、兄が奪い取ることなどできるはずもない。
それはあまりにも現実的でなく、そして残酷すぎる未来だ。
レギュラスから彼女を奪えば、アランはブラック家の名も、立場も、務めも、すべてを失う。
シリウスもまた、再び家族を敵に回すことになる。
その先に待つのは、幸福ではなく、破滅だ。
ジェームズは拳を握りしめ、静かに夜空を仰いだ。
満月の光が、廊下の奥まで届いている。
「……シリウスには、もっといい相手がいるはずだ」
心の中で呟く。
シリウスのような男を、まっすぐに見つめ、何も奪わず、何も犠牲にさせずに愛せる人が、きっとどこかにいる。
そう信じたかった。
その瞬間、遠くで扉の閉まる音が響いた。
ジェームズはもう一度、テラスの方へと目をやる。
そこにはもう、誰の姿もなかった。
ただ、夜風が残り香のように、かすかにアランの髪の香りを運んでいった。
ジェームズはその香りを胸に受け、深く息を吐いた。
心の奥に残った痛みは、夜の静けさの中でも消えなかった。
──彼はただ、親友の幸せを願っている。
それだけなのに、世界はあまりにも非情だった。
彼らの死を巡っては、明らかに闇の魔法使いの影が疑われている。現場に残されたわずかな魔力の残滓――それは、凍りつくような気配を孕み、あまりにも強烈な闇の呪術の痕跡を物語っていた。
さらに、その上から幾重にも重ねられた「後消し」の呪文が痕跡を曖昧にしており、どの杖から放たれた呪文であったのか、特定することは困難を極めていた。
それは、闇の陣営の周到さと、冷酷な計画性を示すにほかならなかった。
騎士団の本部では、夜は更け、ランプの炎が壁にゆらゆらと影を描き出す。
しんとした空気の中で、誰もが沈黙を守っていたが、やがてジェームズが重たげに口を開いた。
「……ホグワーツで殺人事件なんて。物騒になったものだよ」
その声には、怒りと諦めとが複雑に絡み合っていた。守られるべき学び舎――ダンブルドアの存在が絶対の保証だと信じて疑わなかった場所で、血が流れたのだ。
シリウスは拳を握りしめ、低く応じた。
「……アランが心配だ」
その一言には、彼女への思いと、己の無力感とが滲んでいた。
かつては盤石と思われたダンブルドアの加護も、もはや揺らいでいるのだと示された事件。それでも、屈するわけにはいかなかった。
――ホグワーツの生徒だけではない。マグルも、マグル生まれの魔法使いたちも。すべての者が平等に、平和に生きるべきなのだ。
純血こそが至高と信じる、歪んだ思想に支配された闇の魔法使いたちに、この世界を好き勝手にさせていいはずがない。
その信念を、ダンブルドアもまた胸に抱いていた。
フォレスト家は、マグル生まれの魔法使いたちのために孤児院を建て、その運営を魔法界全体で支えていこうと計画していた。あまりにも公平で、あまりにも理想的であるがゆえに、闇の勢力の目に留まるのは時間の問題だったのかもしれない。
彼らは、その理想のために、命を賭したのだ。
重苦しい沈黙を破ったのは、リーマスの声だった。
「……ホグワーツに、どうやって忍び込んだんだろう」
声は低く、しかし疑念の色がにじんでいた。
その問いに、ジェームズが静かに首を振る。
「忍び込んだかどうかは……怪しいね」
シリウスはその言葉に反応し、ちらりとジェームズを見やった。ジェームズの意図を理解したのだ。
ランプの炎が、彼らの表情に陰影を落とす。
やがてジェームズが、重く、禁忌のように口を開いた。
「もし……犯人がホグワーツの生徒だとしたら。犯行は、とても簡単だ」
その瞬間、空気が凍りついた。
全員の胸に、冷たいものが走り抜ける。誰もが心のどこかで抱いていた可能性を、ジェームズが言葉にしてしまったのだ。
しん、と静まり返る。ランプの灯の揺らぎだけが、音のように感じられるほどに。
その場の全員が息を詰めていた。
口にしてはならない言葉――それを今、ジェームズが放ってしまった。
その重さが、部屋を圧し潰すように覆い尽くした。
張りつめた静寂の中、吐息すらためらわれるような重圧が漂っていた。
ジェームズの言葉――「犯人がホグワーツの生徒だとしたら」。
その響きは、皆が心のどこかで避け続けていた考えを、強引に引きずり出してしまった。
シリウスの眉間には深い皺が刻まれた。
彼は声を荒げたい衝動を抑えながらも、拳を固く握りしめる。
「……そんなこと、あってたまるか」
怒りと恐怖が入り混じった声。
けれど否定の強さが、そのまま不安の裏返しであることを、誰もが感じ取っていた。
彼の脳裏にはアランの姿が浮かんでいた。あまりにも無防備で、あまりにも真っ直ぐで。もしもその彼女のすぐ傍に、闇に染まった同級生が潜んでいるのだとしたら――その想像だけで、胃の奥が焼けつくように痛んだ。
「……論理的に考えれば、可能性は否定できない」
静かに言葉を継いだのはリーマスだった。
彼の声は冷静で、淡々としているように聞こえた。けれどその裏には、凍りつくような恐怖が潜んでいる。
「もし校内に入り込んでいないなら……犯行は内部から。しかも、学校の構造を熟知している者だ。廊下の巡回、教師たちの行動の癖、隠し通路の存在……外部の者に把握できるはずがない」
淡々と事実を積み上げながら、声はどこか震えていた。まるで口にすればするほど、自分の想像を現実にしてしまうのではないかと恐れるように。
ピーターは小さな肩を震わせながら、身を縮めていた。
「……でも……でも、まさか。そんなの、考えたくないよ……!」
声は上ずり、今にも泣き出しそうだった。
彼の言葉は、全員の胸に潜む本音でもあった。――考えたくない。信じたくない。だが、否定の言葉は空虚に響くだけで、誰の心も慰めはしなかった。
ジェームズは唇を強く結び、鋭い眼差しで仲間たちを見渡した。
「僕だって考えたくない。でも……見て見ぬふりなんてできないんだ」
その声には怒りと決意が宿っていた。
「もし本当に、ホグワーツの誰かが闇に与しているのだとしたら……必ず暴き出さなきゃならない。放っておけば、また犠牲が出る」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
暖炉の火がぱちりと爆ぜる音だけが、静まり返った空間に響いた。
それは、張り詰めた空気をより一層際立たせる音にしかならなかった。
やがて、シリウスが低く呟いた。
「……なら、まずアランを守る。彼女を狙うようなことがあったら、俺は絶対に許さない」
灰色の瞳に宿るのは、激しい怒りと焦燥。
それは同時に、脆くもろい心の叫びでもあった。
四人の間に流れる空気は、もはやいつもの笑いに満ちた友情のそれではなかった。
疑念、恐怖、そして決意が絡まり合い、彼らを互いに縛りつけていた。
ジェームズの言葉が落とした影は、重く長い余韻を残し、誰もがすぐには息を整えられなかった。
騎士団に加わった以上、彼らはもう子供ではない。見たくない現実から目を逸らすことは許されないのだ。
「……生徒が、闇の陣営に?」
ピーターが小さく呟く。声はかすれ、手は膝の上で固く握られていた。
「そんな……まだ子供だぞ。信じられない……」
「信じたくはないさ」
リーマスの低い声が返る。
「でも、僕たちは今、信じられることだけで戦ってはいられない。現場に残された痕跡は、あまりに徹底していた。大人の魔法使いでもそこまで消し去るのは難しい。……逆に言えば、校内に出入りできる立場でなければ成立しない仕事だ」
淡々とした言葉の奥に、深い憂慮がにじむ。
シリウスは椅子の背に乱暴に身を投げ出し、天井を仰いだ。
「冗談じゃない。ホグワーツは唯一の安息の場所だったんだぞ。俺たちにとっても、あいつら後輩にとっても……。なのに、その中で仲間同士を疑わなきゃならないなんて」
言葉は吐き捨てるようだったが、その拳は震えていた。怒りだけではない。守るべき者を失うかもしれないという、底なしの恐怖がそこにあった。
ジェームズは深く息を吸い、言葉を選ぶように口を開いた。
「だからこそ、俺たちが動くんだ。騎士団の使命は、外の世界だけじゃない。ホグワーツに潜む闇を暴くことだって同じだろう」
彼の眼差しは炎のごとく燃え立っていた。
「ミカエル・フォレストとその父の死は、無意味じゃない。あの二人が目指したのは、マグル生まれが平等に生きられる世界だ。それを闇に潰させていいわけがない」
しんとした沈黙が再び落ちる。
窓の外では冷たい風が木々を揺らし、遠くでフクロウの声が響いた。
やがて、シリウスが低く呟いた。
「……アランを、ひとりにするわけにはいかないな」
その声は誰よりも鋭く、固く、強い意志を帯びていた。
「もし本当に生徒が関わっているなら、彼女のすぐ隣に敵がいることになる。俺は絶対に――絶対に、あいつを闇に渡さない」
その瞳には、かつてホグワーツで笑い合っていた少年の面影はなかった。
代わりに宿っていたのは、命を懸けてでも守ろうとする戦士の光。
ジェームズ、リーマス、ピーター。
誰もが頷き、視線を交わす。
もはや彼らに後戻りの道はない。
ホグワーツを守ること。
次なる犠牲を出さないこと。
そして――大切な仲間を決して闇に奪わせないこと。
蝋燭の炎が揺らめき、壁に伸びる影は、決意のように揺れ動いた。
その静かな部屋の中で、四人はそれぞれの胸に誓いを刻んでいた。
――ホグワーツの石造りの廊下は、夕刻の陽光を受けて長い影を落としていた。窓越しに差し込む光は柔らかくも冷たく、そこに漂う空気は、どこか張り詰めた緊張の色を帯びている。
事件以来、不死鳥の騎士団の出入りは格段に増えた。
彼らが黒いマントを翻して歩くたびに、校内の雰囲気は重くなる。
生徒たちはざわめき、教師たちは眉を曇らせ、静けさが支配していたはずの廊下に、よそ者の気配が満ちていく。
その光景は、レギュラス・ブラックにとって何よりも不快だった。
後消しの呪文を完璧にかけ、痕跡を徹底的に消したはずだ。
杖の記録にしても、誰も突き止められるはずがない。
理性はそう告げている。だが、不死鳥の騎士団の中には油断ならぬ頭脳の持ち主がいる。わずかな綻びから真実を暴かれる可能性を考えるたび、胃の奥がじりじりと灼けるように痛む。
――だが、それ以上に耐えがたいのは。
シリウス・ブラック。
あの兄が、この校舎に再び足を踏み入れているという事実だった。
事件の調査と称して、黒犬のように自由に駆け回る姿。
アランの隣に自然と並び立ち、笑い合う光景。
レギュラスの胸を締め付けるのは、恐れでも焦りでもなく、烈火のような嫉妬だった。
シリウスが卒業してからようやく訪れた安堵――あの息苦しい影が消えたと感じた日々。だがそれも長くは続かず、今や再び目の前に現れ、アランの横を当然の顔で歩く。
「やあ、レギュラス・ブラックくん。」
その声に、レギュラスは眉をわずかにひそめた。
振り返れば、そこに立っていたのはジェームズ・ポッター。夕陽を背にしているせいか、逆光の中に浮かび上がるその輪郭は、どこか不遜で、そして――いやに堂々として見える。
「君に少し、話を聞きたくてね。」
軽い調子だった。だがその目は決して軽くはない。
レギュラスは静かに息を吐き、形だけの笑みを浮かべた。
「……なんでしょう。手短にお願いします。」
唇から漏れる言葉は冷ややかだった。だが内心では、わずかに脈が速まっているのを感じる。
ジェームズ・ポッター。
シリウスと共に常に騒ぎを巻き起こしていた男。派手に、奔放に、けれども驚くほどの才覚を持ち合わせていた。レギュラスはその名を嫌というほど耳にしてきた。
そして何より――この男の視線を、忘れることができなかった。
アランの隣に居続ける自分を見つめるその眼差し。
あれはただの観察ではなかった。鋭利な刃物のように、人の心の奥に潜む歪みを切り裂くような視線だった。
証拠などない。ただの思い過ごしかもしれない。
けれど本能は告げていた。この男は、シリウスですら気づかぬものを嗅ぎ取っていた、と。
――アランと自分の関係性に漂う、微かな影。
それを最初に見抜いたのは、おそらくこの男だった。
だからこそ、嫌悪が募る。
自分の隠したいものを暴く可能性を持つ存在。
それが、ジェームズ・ポッターだった。
レギュラスは視線を逸らさず、冷ややかに相手を見返す。
「僕が答えられる範囲のことなら……ですが。」
言葉の端には棘が混じる。
その棘をジェームズが受け取るのか、あるいは笑い飛ばすのか――レギュラスはその瞬間を待ちながら、胸の奥でわずかに歯を食いしばった。
古い石造りの廊下を、二人の足音がゆっくりと響いていた。
窓から射し込む光は淡く白く、埃の粒が空気の中でゆらゆらと舞っている。かすかな風がカーテンを揺らし、古びた鎧の肩飾りがわずかに軋む音を立てた。
不死鳥の騎士団の紋章を胸に付けたジェームズ・ポッターは、隣を歩く青年を横目に見やった。
レギュラス・ブラック。
その名は何度となく耳にしてきた。
シリウスの弟――そう呼ばれることを、本人はどれほど嫌っているだろうか。
同じ「ブラック家」の血を引きながら、兄とはまるで違う。
歩く姿勢一つとっても、レギュラスは寸分の隙も見せない。背筋をまっすぐに伸ばし、足音すら整っている。だがその完璧さが、かえって異様なまでの静けさを纏わせていた。
彼の灰色の瞳は、光を反射しながらも奥底まで覗けない。深く、冷たく、まるで夜の湖面のように――その水底には何が沈んでいるのか、誰にも掴めない。
ジェームズは無言のまま数歩、並んで歩いた。
石畳の上で、足音だけが二人の間に淡々と響く。
やがて、軽く口を開いた。
「君は――ミカエル・フォレストと交流はあったのかい?」
問いかけた瞬間、レギュラスはほとんど間を置かずに答えた。
「いいえ。寮が違いますから。」
その反応はあまりにも早すぎた。
言葉の温度も、表情の揺らぎもない。まるで予め用意していた答えを口にしたかのようだった。
ジェームズは眉をひそめ、歩く速度をわざと落とす。
そのわずかな間合いの変化の中で、レギュラスの背中を観察した。
整った肩の線。無駄のない歩幅。だが、ほんの一瞬――呼吸の乱れのような揺らぎが見えた気がした。
「デスイーターの関与が疑われているんだ。」
ジェームズの声は、穏やかだった。だが、その穏やかさの奥に、研ぎ澄まされた鋭さが潜んでいた。
「君は……どこまで手引きしている?」
その言葉が廊下に落ちた瞬間。
前を歩くレギュラスの背中が、ぴくりと止まった。
静寂が訪れた。
窓の外では風が木々を鳴らしている。けれど、この廊下だけは時間が止まったようだった。
ややあって、レギュラスが静かに口を開く。
その声は低く、氷のように冷たい。
「兄の周りの人間は……どこまでも無礼なんですね。」
その声音の奥には、かすかな怒りと、深い警戒の色が混じっていた。
ジェームズはその反応に満足げに小さく息を吐いた。
「……気を害してしまったのなら、失礼。」
その一言を残して、彼はそれ以上追及しなかった。
言葉よりも雄弁なのは、一瞬の沈黙と、わずかな動揺――それだけで十分だった。
レギュラス・ブラック。
彼は間違いなく、何かを隠している。
あるいは、自分の背後にうごめく“闇”と、確かな繋がりを持っている。
ジェームズは確信を胸に、踵を返した。
長い廊下を一人歩くその背に、冷たい風が吹き抜けていく。
まだ証拠はない。
けれど、今見た一瞬の揺らぎ――それがいつか真実を引きずり出す導線になると、彼は確信していた。
石壁に反響する自分の足音を聞きながら、ジェームズは心の中で苦いものを噛みしめる。
もしこの予感が正しかったなら。
いつかその時が来たとき――あの親友に、どう伝えればいいのだろう。
シリウス。
お前の弟が、闇に堕ちているかもしれない。
その言葉を口にする日を想像するだけで、胸の奥が重く沈んだ。
彼は歩みを止めず、廊下の端へと消えていった。
背後では、レギュラスが静かに振り返り、ほんの一瞬だけその背中を見送っていた。
灰色の瞳に映るのは、去っていく光の中の黒い影。
――それがいつか、確実に自分を追い詰める存在になることを、彼自身もどこかで理解していた。
レギュラスの中に、抑えきれぬ苛立ちが燃え盛っていた。
あのジェームズ・ポッターの眼差し――。
一見、柔和なようでいて、その奥に潜む観察者の鋭さ。
何もかもを見透かしているような、あの視線が頭から離れなかった。
「デスイーターの関与が疑われているんだ」
その言葉の響きが、今も鼓膜の奥にこびりついている。
あの男は確信していた。間違いなく。
問いかけに偽りの笑みを浮かべた時点で、すでに自分は“泳がされていた”のだと理解していた。
――忌々しい。
喉の奥から押し殺した声が漏れる。
レギュラスは足早に廊下を歩いた。
ホグワーツの夜の空気は冷えきっており、壁を照らす松明の炎が静かに揺れている。
足音が石畳に響くたび、胸の奥の苛立ちが波紋のように広がっていく。
自室の扉を開けるなり、彼は荒々しく中へ入った。
整然と並んだ机の上には、開きかけの本と、魔法薬学のノート、そして羽根ペンが几帳面に置かれている。
それらが視界に入るや否や、彼の手は勝手に動いていた。
――ドンッ。
木製のテーブルが鈍く響く。
その瞬間、机の上のインク壺がわずかに傾き、黒い液が一滴だけ飛び散った。
冷たいインクのしずくが、紙の上に黒いしみを作る。
その模様が、彼の胸中に巣食う“闇”の象徴のように見えて、ますます苛立ちを煽った。
「……クソッ」
低く呟く。
奥歯を強く噛み締めすぎて、顎の筋がぴくりと震えた。
レギュラスは目を閉じた。
深呼吸をしても、胸の奥のざらつきは消えない。
あの男たちの声、視線、探るような言葉――
すべてが耳の奥にこだまのように残り、思考を濁らせていく。
この怒りを、どこへ向ければいいのか。
誰を責めれば、自分の心は静まるのか。
――アラン。
その名が、ふと脳裏を過った。
冷たい闇の底で、たったひとつ柔らかく灯る光のような存在。
彼女の声を思い出すだけで、荒んだ心の奥がわずかに緩む。
今、会いたい。
彼女の顔を見たい。
あの穏やかな瞳の色に触れたい。
理由はどうでもよかった。
ただ、アランのそばに行けば、この爆発的な怒りはきっと別の感情に変換できる気がした。
それが赦しなのか、依存なのか、もはや自分でも分からない。
ただ、アランという存在だけが、彼の中の“闇”を一時的に鎮めることができる。
レギュラスは勢いよく立ち上がった。
ローブの裾が空気を裂くように揺れる。
扉を開けると、冷たい夜風が頬を打った。
ホグワーツの廊下は、今やほとんど人影がない。
遠くで、誰かが灯を消す音がした。
静まり返った校舎の中を、彼はただひたすら歩く。
杖の灯りが床に長い影を落とし、石壁の上を滑っていく。
その歩みのひとつひとつに、焦燥が滲む。
怒りの熱が冷めぬまま、心のどこかではすでに“彼女の名”を繰り返し呼んでいた。
――アラン。
今すぐ、彼女に触れたい。
その思いだけが、彼を闇の夜の中で突き動かしていた。
石畳の上を渡る風が、秋の匂いを運んでいた。
中庭を囲む古いアーチの影が、午後の光に長く伸びている。
その一角――ホグワーツの広間を抜けた先の、静かな回廊のベンチに、アランとシリウスが並んで腰を下ろしていた。
久しぶりに会うシリウスは、どこか大人びて見えた。
少年の頃の無鉄砲さを残しながらも、その眼差しの奥に、戦う者の静かな覚悟が宿っている。
胸元にはフェニックスの騎士団のバッジが輝き、陽の光を受けてきらりと瞬いた。
それはまるで、彼がもう“子ども”ではなく、“戦う側”に立った証のようだった。
アランはそのバッジから目を離せなかった。
誇らしさと、寂しさと、胸の奥をかすめる言葉にならない痛み。
彼女の中で、いくつもの感情が複雑に絡み合っていく。
「アラン、危ねぇことに近づくなよ。」
シリウスが低く言った。
その声は、いつになく真剣で、彼女の胸の奥にじんわりと響いた。
「……ええ、わかってるわ。」
微笑んで答えながら、アランはその目の奥にある“心配”を見逃さなかった。
彼の優しさが嬉しかった。
本気で自分を案じてくれる人がいるということ――それだけで、胸がじんわりと温かくなる。
けれど同時に、アランの心の奥底では、何かざらついた感情が小さく疼いていた。
それは、シリウスの言葉の裏に隠された、もうひとつの意図を感じ取ってしまったからだった。
――レギュラスのことを、探っている。
シリウスは兄として、弟のことを案じているのだ。
けれどその「案じる」の中には、恐れと怒り、そして絶望が入り混じっている。
それを痛いほど理解できてしまう自分が、アランは嫌だった。
彼女自身も、レギュラスの中にある“闇”を見てしまっている。
けれど、それを誰かに告げることはできなかった。
庇っているわけではない。
レギュラスの思想を肯定する気も、彼の選んだ道を受け入れる気もない。
それでも――彼を“突き放す”ことだけは、どうしてもできなかった。
彼の心の奥に潜む孤独を、誰よりも知っているから。
彼が求めてやまない何かを、ほんの少しだけ理解してしまっているから。
――情なのか、それとも、それ以上のものなのか。
自分でもわからない。
ただひとつ、確かなのは。
どうか、彼がもうこれ以上、闇に飲まれていかないでほしいという祈りだけだった。
「アラン、もし……もしもだ。何か知ってることとか、あったら……」
シリウスの声が揺れた。
彼にしては珍しく、歯切れが悪い。
言葉を選びながら、それでも踏み込まずにはいられない――そんな葛藤が滲んでいる。
アランはそっと彼を見た。
少年の面影を残したまま、今は立派な男の顔つきになったシリウス。
その真剣な眼差しを見て、心が締めつけられるように痛んだ。
「……ええ、あなたには何でも言うわ。」
微笑みながら、アランはそう言った。
それは、優しい嘘だった。
けれど、その嘘の奥にあったのは裏切りではない。
むしろ――“誰も傷つけたくない”という不器用な祈りだった。
次の瞬間、シリウスがふいに腕を伸ばした。
アランは驚く間もなく、彼の胸に抱き寄せられていた。
その抱擁は、強くて、あたたかくて、そしてどこまでも真っ直ぐだった。
守るということを、言葉ではなく行動で証明するように。
シリウスの腕が彼女の背中を包み込むたび、アランの胸の奥に溜まっていた不安が少しずつ溶けていった。
だが同時に、どうしようもない悲しみが胸に込み上げる。
この腕の温もりの向こうに、レギュラスがいる。
同じ血を分けた兄弟が、それぞれ違う道を歩いている。
その道の果てで、もしも――互いに杖を向け合う日が来るとしたら。
その想像が、アランの喉を詰まらせた。
涙が出そうになり、彼女はシリウスの胸に顔をうずめた。
どうか。
どうか、この兄弟が、決して敵になりませんように。
憎しみではなく、愛で終われますように。
夕暮れの光が、石畳に金色の筋を落としていた。
アランの頬をかすめた風が、どこか遠い場所で誰かの名を呼ぶように吹き抜けていった。
夕暮れの光が中庭を柔らかく染める頃、アランはシリウスと何気ない話を交わしていた。
話題は、ホグワーツの外の世界に広がる冒険譚や、騎士団での日常、魔法界の奇妙な噂話、マグル界での小さな出来事に至るまで、どれも穏やかで安全な話題ばかりだった。
「昨日、魔法省で新しい呪文の実験を見たんだ。ほら、例の光を反射させるやつ。」
シリウスは目を輝かせ、手振りを交えながら語る。
アランは笑いながら、思わず大げさに目を見開いたり、驚きの声を上げたりした。
「えっ、本当に?それ、うまくいったの?」
「うん、うまくいったんだけど……あ、でも爆発の可能性もあったんだ。」
「爆発⁉︎それ、危なすぎるでしょ!」
声のひとつひとつが弾むたびに、アランの胸も踊った。
まるで昔、シリウスがよく語ってくれた、無邪気で無茶な冒険の続きを聞いているようだった。
ホグワーツの塔や湖のほとり、秘密の通路での小さな騒動を思い出し、胸が高鳴る。
そして何より、シリウスの瞳――太陽のように輝く瞳を、アランはじっと見つめていた。
その瞳の光に触れるたび、心の奥が温かく満たされる。憧れ、愛しさ、守られている安心感。
どれもが混ざり合い、ただひたすらに胸を満たしていった。
けれど、そんな幸福の余韻は、背後からの足音によって一瞬で凍りついた。
足音の主は、予想通り――レギュラスだった。
細く整った影が夕陽に伸び、アランの心を一気に覆い尽くす。
深い湖の底のような灰色の瞳が、静かに、しかし確実にアランを貫いていく。
その冷たさに、胸の奥の暖かさがすべて引き裂かれたようだった。
「アラン、あまり感心できないですよ。」
声は低く、鋭く、余裕すら漂わせている。
「レギュラス……」
言葉が唇に触れる前に、シリウスが立ち上がった。
「おい、お前、関わってねぇだろうな。」
その直球な問いかけに、場の空気は一瞬にして張り詰めた。
シリウスらしい真っ直ぐさ。けれど、アランにとっては、その言葉が痛みと緊張を伴って胸に突き刺さる。
目の前で静かに鼻で笑うレギュラスの姿が、さらにその痛みを強める。
「相変わらず、あなたはどこまででも無礼なんですね。」
吐き捨てるようなその言葉には、苛立ちと軽蔑が混ざっていた。
「俺は、お前が何も関わってねぇって信じてぇ。けど……本当のところはどうなんだ?」
シリウスの声には、問いかけ以上の何か――祈りに似たものが含まれていた。
アランは、その声色に胸を締めつけられる。
向かい合う兄弟――同じ色の瞳を持つのに、そこに宿る光は正反対だった。
片方は太陽のように暖かく、心を包む光。
もう片方は、深い湖の底のように冷たく、すべてを飲み込む光。
アランの視線は、迷いながらも、どちらにも注がれていた。
心の中で願うのはただ一つ――どうか、互いの光が交わるその日まで、争わずに済みますように。
けれど、現実はそう簡単にはいかないことを、胸の奥のざわめきが告げていた。
スリザリンの寮へと続く長い石造りの廊下を、アランはレギュラスの後ろ姿を見つめながら歩いていた。
背中を少しだけ丸め、腕を緩やかに振るその影は、押し黙ったまま苛立ちを滲ませていた。床に反射する松明の炎が、彼の輪郭を淡く揺らす。歩くたびに、微かな影が壁を走り、まるで彼の内面の荒れた波紋を映しているかのようだった。
「レギュラス……」
声をかけてみる。震えは否応なく声に現れ、柔らかな響きに混じった不安が自分でも情けなく思えた。
しかし、レギュラスは振り向かない。足取りを止めることもなく、ただ前方を見据え、静かに歩き続ける。
アランの胸の奥に、焦燥と苛立ちが入り混じった複雑な感情が渦巻いた。
シリウスと並んで過ごしていたという記憶が、彼の心の琴線を震わせたのだろう。アランには、それが痛いほどわかる。
自由に、何ものにも縛られず振る舞うシリウス。
一方で、家と血の誇りに縛られ、忠実に従順であろうとするレギュラス。
比べられることを嫌うはずの彼が、それでもシリウスと自分を無意識に重ね、苛立ちを募らせる――その構図は、アランの胸を締めつける。
沈黙だけが支配する長い廊下。二人の間に言葉はなく、ただ石の冷たさと松明の暖かさ、そして自分の鼓動だけが確かに感じられる。
時間はゆっくり、しかし容赦なく流れていく。永遠のように長く、息をひそめたままの瞬間の連続だった。
やがて、レギュラスがふいに立ち止まった。その間、わずかな風が廊下を通り抜け、松明の炎を揺らす。
アランも自然に立ち止まり、少し距離を置いたまま彼の後ろ姿を見つめる。
「何を話したんです?」
低く、少し尖った声が背中越しに届いた。問いかけそのものに苛立ちや警戒が滲む。
「新しい呪文の開発だとか、他愛もないことです」
アランは咄嗟に答え、声に明るさを意識して混ぜた。無理にでも平穏さを装う。
しかし、レギュラスは何も返さない。わずかな沈黙が、逆に重く二人の間にのしかかる。
アランには、彼が何を探ろうとしているのか、なんとなくわかる気がした。
探られたのは、シリウスとのやり取りや自分との関係のほんの一端。
そして、何を聞き出したくて、どんな反応を引き出そうとしているのか。
その静かな対峙の中で、アランは胸の奥がじりじりと熱くなるのを感じた。
言葉には出せない、理解されぬままの心の揺れ。
互いの視線はまだ交わっていないのに、存在そのものが圧を帯び、互いの気配だけで呼吸を乱す。
廊下の長い石の床に反響する二人の足音。
その静寂の中で、アランは息を整えながら、レギュラスの一瞬の動揺や微細な表情の揺れを見逃さないよう、じっと背中を追い続けていた。
苛立ち、警戒、期待――複雑な色を帯びた彼の背中のすべてが、アランの胸を深く打ち続けていた。
レギュラスは心の安寧を求めて歩き続けていた。
夜気の張り詰めた校内を、まるで何かに取り憑かれたように早足で。
談話室の灯りを覗き込み、図書室の扉をそっと開け、大広間の奥の長卓を見渡し、人気のないテラスにも足を運ぶ。
それでも、あの翡翠の瞳を見つけることはできなかった。
胸の奥のざらついた感情が少しずつ膨らみ、呼吸のひとつひとつが痛みに変わっていく。
ようやく見つけたその瞬間、安堵が胸に広がるよりも先に、喉の奥が焼け付くような衝撃が走った。
アランの隣に、シリウスがいた。
夕暮れの光が二人をやわらかく包み、アランの笑顔を照らしていた。
その穏やかで柔らかな微笑みが、よりによって兄の隣で向けられているという現実が、レギュラスの心を荒々しく掻き乱す。
──なぜ彼女があんな顔をしているのか。
その笑顔を、なぜ自分ではなくシリウスが見ているのか。
一度静まったはずの怒りが、再び胸の奥から沸き立つ。
抑え込んでも抑え込んでも、熱は喉元までせり上がってくる。
烈火の如く嫉妬が燃え上がり、心の奥底を焼き尽くす。
アランの心がシリウスへと傾き、そのまま戻ってこなくなるかもしれない。
気づけばもう、彼女は遠くへ攫われてしまうかもしれない。
そんな不安が、全身を締めつける。
シリウスよりも自分の方が優れている部分はいくつもある──そう信じてきた。
理性、誇り、立ち振る舞い、そして何より忠誠。
だが幼い頃から影のように寄り添って離れなかった劣等感が、また顔を出す。
兄の自由さに勝てない。兄の眩しさには届かない。
どれだけ努力しても、誰かの目に映る自分はいつも「シリウスの弟」なのだ。
「何を話していたんですか」
声が思ったよりも硬く、低く響いた。
アランは少し驚いたように目を瞬かせ、そして穏やかに微笑んだ。
「他愛のない話をしていただけです」
その答えが、かえって胸の奥をざわつかせた。
「他愛のない」という曖昧さが、逆に想像を掻き立てる。
何を聞かれた? どんな風に笑った?
どんな言葉を交わし、どんな表情を見せた?
一言一句すべてを問いただしたくなる衝動を、レギュラスは喉の奥で必死に飲み込んだ。
このままではきっと、言わなくていいことまで口にしてしまう。
怒りに任せた言葉は、必ずアランを傷つける。
それだけはしたくなかった。
深く息を吸い、胸の奥の熱を押し殺すように小さく吐き出す。
「アラン、探したんですよ」
「……ごめんなさい。心配をかけてしまったわ」
「校内も、最近は少し物騒ですから。……いなくならないでください」
その言葉には、咎める響きも、責める響きもなかった。
それでも、自分でも驚くほどに切実で、祈りにも似た重さがこもっていた。
アランがそっと視線を伏せる。
長いまつ毛の影が頬をかすめ、表情にかすかな翳りが差す。
──そんな顔を、させたくなかった。
レギュラスはそっと腕を伸ばし、アランを抱き寄せた。
小さくて、柔らかくて、けれど確かな温もり。
か細い身体が、自分の胸の中にすっぽりと収まる。
その瞬間、こわばっていた全身の筋肉がゆっくりとほどけていく。
触れ合う部分から、冷たくなっていた心が溶かされるようだった。
「アラン……何かあったら、僕に一番に教えてください。
怖い思いも、危ないものも、何もかも……あなたから遠ざけます」
囁くように言うと、アランは小さく頷いた。
胸の中で、彼女の髪がそっと揺れる。
やがてレギュラスは腕をほどき、彼女の顔を覗き込む。
その瞳に映るのは、静けさと、少しの戸惑い、そして確かな信頼。
レギュラスはゆっくりと身を寄せ、アランの唇に口づけた。
その瞬間、時間が止まる。
肌に伝わるぬくもりと、心に流れ込む安堵。
それは確かに「自分だけが許される権利」だという確信とともにあった。
唇を重ねるたび、胸の奥に渦巻いていた怒りが静かに消えていく。
深く、少しずつ、互いの呼吸を感じながら、感情の波が穏やかに戻っていく。
怒り、嫉妬、焦燥──
それらを鎮めるこの方法が、レギュラスにとってはひとつの“救い”であり、同時に“毒”でもあった。
一瞬で満たされる感覚に、心が酔う。
触れ合うたびに、理性が溶けていく。
それがどれほど危ういものであっても、彼にはもう、ほかの鎮め方を知らなかった。
アランを抱きしめながら、レギュラスは静かに瞳を閉じた。
──この瞬間だけは、誰にも奪わせない。
その思いだけが、彼のすべてだった。
夜のホグワーツは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
廊下の石壁は冷たく、月明かりが高い窓から差し込んで床に長い影を落としている。
ジェームズ・ポッターは、不死鳥の騎士団の任務の一環として、ひとり校内を巡回していた。
何度も通った懐かしい廊下、あの頃の笑い声がまだどこかに残っているような錯覚を覚える。
それでも、今はもう生徒ではない。ここに漂うのは懐かしさではなく、戦いの気配だった。
──その時だった。
月明かりの差すテラスの奥、影と影の間にふと人の気配を感じた。
何気なく視線を向けた瞬間、息が詰まる。
そこにいたのは、レギュラス・ブラック。そして、その腕の中にいるのはアラン・セシール。
レギュラスが彼女を引き寄せ、迷いのない動作でその唇を奪うのを、ジェームズはただ呆然と見つめるしかなかった。
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
理屈ではない。感情の棘が、深く心臓を突いたような痛みだった。
ほんの少し前、自分はこのレギュラスに対して、騎士団としての立場から揺さぶりをかけたばかりだった。
──ミカエル・フォレストの事件、君はどこまで関与している?
そう問い詰めた。あの冷ややかで、どこかすべてを見透かすような瞳を思い出す。
彼の中に潜む闇を見逃すわけにはいかない。それが自分の役割だった。
けれど、そのわずか数時間後に見たこの光景は、ジェームズの胸に複雑な苦味を残した。
レギュラスは、親友が長年想い続けた女性──アラン・セシールを、完全に手にしていたのだ。
シリウス。
あの誰よりも強く、誰よりも真っ直ぐな男。
光のように正義を貫こうとする彼が、どれほどのものを失いながら歩いてきたかをジェームズは知っている。
家族を捨て、名を捨て、血の呪縛から逃れようとした。
その果てに今度は、たった一人の弟と、愛した人までも──失わなければならないのか。
その理不尽さに、胸が締めつけられた。
ジェームズは壁にもたれ、唇を噛みしめる。
「……どうして、こんなことに」
声にならない声が、喉の奥で消えていった。
彼はかつて、親友から何度となく聞かされたことを思い出す。
「アランが卒業したら、俺は彼女と一緒になるつもりなんだ」
その言葉を聞いたとき、ジェームズは心から祝福してやりたいと思った。
シリウスには幸福が似合う。
どんなに闇に包まれても、彼の笑顔は誰よりも人を照らすから。
──だが、現実は違った。
目の前の光景は、残酷なまでに真実を突きつけてくる。
アランの髪が月光を受けて淡く輝き、レギュラスの腕の中で静かに揺れている。
その顔は、恐れも戸惑いもない。
まるで、そこが彼女の居場所だと知っているように。
ジェームズは息を飲んだ。
ホグワーツ在学中から、この二人の関係に何かしら特別なものを感じていた。
屋敷で暮らす主人と従者──それだけではない絆。
言葉にしなくても、互いの存在が互いを必要としているのが見えた。
天文台で見たあの日のことを思い出す。
夜風に吹かれながら寄り添っていた二人の背中。
あのとき、なんとなく確信してしまったのだ。
この二人の間に、誰も入り込むことはできないのだと。
年月を経て、それはさらに深く、強く結ばれていったのだろう。
自分たちがホグワーツを去ってからも、二人は幾度となく夜を共に過ごし、静かに絆を積み重ねてきたのだ。
もう、その関係は誰にもほどけない。
ましてや、シリウスが割って入る余地など、どこにも残されてはいない。
──だが、それでも。
ジェームズは親友を想う気持ちを抑えきれなかった。
シリウスにこれ以上傷ついてほしくない。
彼には、もっと光の中で笑っていてほしい。
アラン・セシールという女性が、美しく、気高く、誰もが惹かれる存在であることは認める。
けれど、レギュラス・ブラックの傍にあることでしか生きられない彼女を、兄が奪い取ることなどできるはずもない。
それはあまりにも現実的でなく、そして残酷すぎる未来だ。
レギュラスから彼女を奪えば、アランはブラック家の名も、立場も、務めも、すべてを失う。
シリウスもまた、再び家族を敵に回すことになる。
その先に待つのは、幸福ではなく、破滅だ。
ジェームズは拳を握りしめ、静かに夜空を仰いだ。
満月の光が、廊下の奥まで届いている。
「……シリウスには、もっといい相手がいるはずだ」
心の中で呟く。
シリウスのような男を、まっすぐに見つめ、何も奪わず、何も犠牲にさせずに愛せる人が、きっとどこかにいる。
そう信じたかった。
その瞬間、遠くで扉の閉まる音が響いた。
ジェームズはもう一度、テラスの方へと目をやる。
そこにはもう、誰の姿もなかった。
ただ、夜風が残り香のように、かすかにアランの髪の香りを運んでいった。
ジェームズはその香りを胸に受け、深く息を吐いた。
心の奥に残った痛みは、夜の静けさの中でも消えなかった。
──彼はただ、親友の幸せを願っている。
それだけなのに、世界はあまりにも非情だった。
