2章
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アランは静かにシリウスの顔を覗き込んだ。
言葉が詰まってしまっている彼を案じ、思わずそうしたのだろう。
「どうしたの、シリウス?」
その問いかけに、彼はもじもじと口を開く。
「もし……お前が大丈夫なら……したいなって……思った……」
伝えたい言葉が溢れかえり、どう紡げばいいのかわからず、熱を持て余す胸の内を包み隠すこともできなかった。
そのままの自分を晒すしかなかったのだ。
まったくの飾り気なく、無様なくらいに素直で真っ直ぐな気持ち。
言葉にするやいなや、穴があったら入りたいという気持ちに襲われた。
アランの答えを聞く心の準備もできず、沈黙の時間が永遠と感じられた。
一瞬のことだったのに、もっと良い言い方があったのではないかと、後悔の念が次々に湧き上がる。
それでも、もう口にしてしまった言葉は取り戻せなかった。
ちらりとアランの顔を見れば、翡翠の瞳がまんまるに見開かれて自分を見つめていた。
「そんな目で見るなよ……」
シリウスは小さく呟き、声が萎み、余計なことをしてしまったとの思いが胸に膨らんだ。
「違うのよ、シリウス」
アランの手がそっとシリウスの大腿に添えられた。
そのほんの一瞬で、シリウスの体は反応し、彼女を求めていることを認めざるを得なかった。
紛れもなく本能が叫んでいた。
けれど、アランからの答えを聞くことは、とても怖かった。
か細く、俯きながら、その声はこぼれた。
「私も……あなたとしたいです……」
その小さな言葉に、シリウスの胸は震え、深い愛しさが溢れてきた。
彼女なりに精一杯の気持ちの表現であることが伝わり、その愛おしさに触れた。
やがて二人は離れた時間の空白を埋めるように、深く、強く結び合った。
絡み合う指先で幾度もキスを交わし、何度も体位を変えながら、お互いが最も心地よい瞬間を探し求めた。
狭いソファの上での行為は、むしろここが彼らにとってはちょうど良い空間となっていた。
アランが吐息混じりにシリウスの名前を繰り返し呼ぶ。
彼はその声に包まれながら、身体中が幸福で満たされるような感覚に浸っていた。
愛する人をこの手に抱き、彼女の最も深いところへ辿り着くことができるのは、絶頂感と耐え難いほどの心地よさであることを知った。
「アラン、好きだ」
シリウスは自然と何度も何度も口からこぼしていた。
無意識に溢れる言葉は形を変えずにそのまま伝わり、アランもまた同じ言葉を紡ぎ出す。
呼吸と同じように自然に流れる愛の言葉に、シリウスは酔いしれていた。
この夜、これほどまでに幸せで、愛おしくて、泣きそうになるほどの感情を抱いたことはなかった。
もしもこれが世界の終わりの夜だとしても構わないとさえ思えるような、深い絶頂へと沈み込んでいった。
アランは腕の中のシリウスに身をゆだね、静かに幸福の海に沈んでいた。
その幸福感は深く、満ち足りていて、この瞬間、自分がこの世界で一番幸せな人間なのではないかと思わせるほどだった。
もし、この人とともに生きていくために、手放さなければならないものがあるとしても。
それが両親であり、一族の未来であったとしても、もはや仕方のないことなのだと、アランは受け入れる心の準備ができているかもしれなかった。
失うことで感じる喪失感に苛まれるより、
失ったものをシリウスと共に歩む未来の光で満たしていけばいい。
その思いが、胸の内にふわりと浮かんだ。
何が正しい選択なのかはわからなかった。
だが、この腕の中で、シリウスに抱かれている今、ただひとつ確かなのは、
このまま彼と生きていきたいという真っ直ぐな気持ちだけだった。
「シリウス……愛してるわ……」
胸の奥から溢れる、かすかな震えを帯びた言葉。
学生の自分には少し背伸びさえ感じる言葉。
けれど、この言葉が、自分の想いを伝えるのに一番しっくりくる気がしていた。
「好きだ」という言葉よりも、もっと深く熱い愛を伝えたい。
一緒に生きていく決意を、
大切なものを手放す覚悟を示すには、
「愛している」という言葉が最も相応しいと、アランは信じていた。
「俺もだよ、アラン。愛してる」
シリウスは絡み合った指先にぎゅっと力を込めた。
その分、胸の奥が一層ぎゅっと締め付けられる感覚があった。
それは切なさなのか、深い愛しさなのか。
幸福なのか、不安なのか。
あるいはその両方なのか。
区別はつかなかった。
だが唯一確かなのは、
「愛している」というこの強い思いだけだった。
シリウスを見送り、アランは深い寂しさに包まれていた。
去っていく背中を見送ることが、これほどに辛く、胸を締め付けるものだとは思わなかった。
彼のいない空間があまりにも広く感じられ、孤独がじんわりと染み込んでくる。
早く二人が同じ場所を「帰る場所」として共有できる未来を生きたい――アランの心はそう強く願っていた。
その後、朝食の支度をしていると、黒い長髪をたなびかせたオリオンがレギュラスと共に帰宅した。
オリオンの表情は苛立ちを隠せず、重苦しい空気をまとっていた。
その後に続くレギュラスもまた、深刻な面持ちでオリオンのあとを追い、書斎へと進んでいった。
一気に屋敷に張りつめる緊張感が高まる。
直感が告げていた。
屋敷が荒れる、その兆しを。
闇の陣営が集う集会において、何か重大なことが起きたのだろう。
朝食を整えたが、席に姿を現したのはヴァルブルガだけだった。
「奥様、ご主人様とレギュラス様をお呼びいたしますか」
アランは静かに尋ねる。
「そうね、そうしてちょうだい」
ヴァルブルガは淡々と答えた。
アランは黙ってヴァルブルガの命令に従い、重い足取りで書斎へと向かった。
普段、オリオンの書斎にはほとんど近づかないアランは、その扉に差し掛かると指先が震えてしまいそうなほどに恐怖を感じた。
必死に震えを隠すよう、拳を強く握り締めた。
扉をノックし、外から声をかける。
「オリオン様、レギュラス様、朝食の支度が整っております」
返事はない。
それでも扉はすぐに開けられ、顔を覗かせたのはレギュラスだった。
「すみません、母と先に食べていていただけますか」
彼の声はいつもより低く、言葉の端々から緊張が滲んでいた。
「かしこまりました」
アランは深く頭を下げ、部屋を後にした。
書斎の奥にいるオリオンの様子までは見えなかったが、レギュラスの表情から、今まさに何かとてつもなく大きな事が始まろうとしている気配がした。
その予感は恐ろしく、アランの胸を圧迫した。
それがシリウスとの未来にも影響を及ぼすものなのだとしたら……考えるだけで震えが走る。
闇の陣営と不死鳥の騎士団は対立し、互いが杖を向け合い命を奪い合う宿敵同士であった。
戦争が起きるのかもしれない――そうなれば、シリウスは必ずその戦いに赴くのだろう。
アランはそのことを考えると、胸が痛くてたまらなかった。
どうか行かないでほしい。傷つかないでほしい。
その願いは、どんなに現実離れしていても消すことができなかった。
だが、戦いの現実がその夢を容易く打ち砕くことも、彼女は痛いほどに知っていた。
それでも、どうしようもなく、深く強く祈った。
魔法界とマグル界の境目には、まるで堅牢な関所のような部署が存在した。
そこは「国境監理局」と呼ばれ、両界の接点を監視し、異変を察知する最前線の要所であった。
しかし、その国境監理局においてマグル側の犯した犯罪や魔法使いとの衝突を、意図的に揉み消し、マグルに対する魔法界全体の印象を良く見せようと画策している魔法使いがいた。
彼はグリフィンドールに属する若き俊英ミカエル・フォレストの父親であった。名前はルシアン・フォレスト。
そして息子のミカエルもまた、父の跡を継ぎ、身寄りのないマグル生まれの魔法使いを集めた孤児院で魔法の基礎を教えているという。
彼らのその行動は、たしかに正義を名乗るにふさわしいものだ。
純血魔法使いたちに虐げられないために、必要な魔法の才能を研ぎ澄まし、いざという時は自らを守る術を教える。
それは正義の名の下に行われているのだ。
だがレギュラスにとっての正義は、違った。
尊き純血魔法使いが、マグルのような低俗な存在に長らく迫害されてきた悲劇の歴史に終止符を打ち、堂々と魔法使いとして存在を誇示し、威厳を保って生きていくことだった。
彼はマグルを無差別に攻撃して回ろうとは思わないが、少なくとも、魔法使いと争いを起こしたマグルを厚遇し、隠蔽し、保護する意味は理解できなかった。
それはもはや、我々魔法使い全員の裏切りに等しい行為だと信じて疑わなかった。
そんなルシアン・フォレストを闇の帝王は暗殺するよう命じた。
帰宅したレギュラスに、オリオンが厳しい瞳で問いかける。
「レギュラス、ミカエル・フォレストの件はお前に任せられるか」
「ええ、そうします」
レギュラスは力強く応じた。
「フォレスト家の思想が広まり、不死鳥の騎士団のような組織が立ち上がる前に、芽となるものは必ず潰さねばならぬ。わかっているな」
父の言葉は、学舎という学生たちが学ぶ場であってもミカエルを始末せよ、と明確に命じられたに等しかった。
学生生活の中で、殺人を命じられる日が訪れるなど夢にも思わなかったが、レギュラスは己たちの掲げる正義の前に退くことはできなかった。
怯めば弱さと見なされ、闇の帝王からの信頼を失い、父の顔に泥を塗ることになる。
ブラック家の名を背負う者が、それを許されるはずもなかった。
胸に防ぎがたい重みを抱えながらも、レギュラスは決然と歩みを進めた。
レギュラスは遅れて朝食の席についた。
闇の帝王から命じられた任務の重さは、オリオンからも「しくじるな」と念を押され、彼の心は押しつぶされそうなほどの重圧を抱えていた。
空になったグラスへ、アランは静かに水を注いだ。
その細やかな気遣いに、レギュラスは自然と視線を落とす。
繊細な細い指先がくるくると動く様子をずっと見つめていた。
アランを自分の傍に置き続けたい。
その唯一の望みを叶えるためにも、今回の任務を絶対に失敗するわけにはいかなかった。
「思い詰めているようですね」とアランは柔らかな声で言った。
「少し重大な仕事を任されたので、そうですね」と、レギュラスは短く答えた。
任務の全貌をアランに話すつもりはなかった。
彼女には、その大義名分を理解しようとする姿勢さえも期待していなかった。
むしろ聞けば非難が返ってくることしか想像できなかった。
だからアランの言葉にも、レギュラスの返答は曖昧で、心ここにあらずのようだった。
理解を求めることは望んでいなかった。
ただ、こうして当然のように一緒に生きていく未来が約束されていてほしい。
それが、レギュラスの変わることのない願いであり、望みであった。
テーブルの向こうで、アランは静かに微笑み、しかしどこか複雑な表情で彼を見つめていた。
重く沈む心の底で揺れ動く想い。それぞれの胸に秘められたものは、言葉では容易く語り尽くせない深い繋がりを示していた。
休暇の終わりよりも前に、レギュラスはホグワーツへ戻る決断をしていた。
インターンへの申し込みと資格取得のためで、その理由は確かに納得できるものだった。
しかしアランの胸には、どこか引っかかりが不穏に残っていた。
キングスクロス駅。
レギュラスを送り出すため、アランもそこにいた。
彼女の心は次第に重く沈み込んでいった。
「ホグワーツで会いましょう」
レギュラスはいつもの落ち着いた声音で告げる。
「ええ、あまり無理なさらないでくださいね」
アランは必死に振り絞るように言い返した。
だが次の瞬間、レギュラスは彼女を強く引き寄せ、腕でぎゅっと抱きしめた。
その腕の温もりは確かだったが、彼がなぜホグワーツに戻ろうとしているのか、アランは不安を抑えきれなかった。
闇の陣営の集会以来、オリオンもレギュラスも頻繁に外出を重ね、不穏な空気が身の回りに漂っていた。
アランは覚悟を決め、レギュラスの胸に手を当てて彼を押しのけた。
灰色の瞳を真っ直ぐ見上げて、彼女は静かに告げた。
「レギュラス、危ないことはしないでくださいね」
「信じています」
その瞳はシリウスのものに似ていながらも、彼よりも遥かに深く暗い灰色を湛えていた。
レギュラスは優しく微笑み、言葉を返す。
「心配はいりません。あなたこそ、早くホグワーツに来てくださいね」
アランの「信じている」という言葉の本心が、どこまで彼に届いているのかは分からなかった。
だが彼女は、失望させるような残酷なことを何も起こさないでほしい。
人として持っていなければならないものを失わず、決して倫理の一線を超えないでほしいと、切なる願いを込めてそう告げていた。
ホグワーツ特急が動き出し、その車両が遠ざかっていく。
たとえすぐ側にいなくなったとしても、不安はまるで影のようにつきまとう。
隣にいても、いなくても、心には重しがずっしりと乗せられているようだった。
いつからだろう。
レギュラスの隣という存在が、こんなにも息苦しく、重く、そして深く沈み込むような思いに満ちてしまったのは。
レギュラスが先に屋敷を去ったことで、屋敷の空気はアランにとって、まるで重たい鉛の塊が胸を締めつけるかのように感じられた。
「アラン、あなたに渡したいものがあるのよ」
声と共に現れたのは、麗しいドレスに身を包んだヴァルブルガ。
掃除をしていたアランのもとへ、優雅な足取りで近づいてくる。
その気配を察し、アランは掃除道具を魔法で瞬時に片付け、すぐに立ち上がった。
無言のまま彼女を追い、広間へ向かう。
心の奥のどこかがざわついた。
この先に、いい話が待っているとは思えなかった。
ヴァルブルガは、いつもアランとレギュラスの距離感を監視しているような、鋭くも冷たい視線を投げかけていた。
その視線の恐ろしさに、アランはいつも縮こまってしまい、背筋が凍る思いだった。
表向きはオリオンが認めたことで、レギュラスとアランの関係も一歩は確かなものになったはずだった。
それを受け入れがたいヴァルブルガの苛立ちは深く、溜まる一方であった。
もし、今日この場で何か問い詰められたら、アランはどう答えればいいのか分からなかった。
シリウスこそが愛している相手であること。
レギュラスと一緒になるつもりはないこと。
しかし、それを口にすれば、それはブラック家そのものへの裏切りを暴くことになり、ヒリヒリと自分の心を傷つけることだと分かっていた。
逆に、レギュラスとの関係を認めることもできなかった。
震える足取りでヴァルブルガの前に立ち、アランは必死に心を静めた。
「アラン、あなたは自分の母親、リシェル・ブラウンについてどこまで知っているのかしら」
ヴァルブルガは予想外の言葉を投げかけた。
その名を聞いて、アランの身体が一瞬こわばった。
「母のことと申しますと……」
答える声は震えていた。
純粋に彼女には、ヴァルブルガの言葉の本意が読み取れなかった。
母が何か大きな問題を起こしたのだろうか、と漠然と頭をよぎった。
けれどリシェル・ブラウンはいつも控えめで、欲を望まぬ女性だった。
そんな人がヴァルブルガの機嫌を損ねることなど到底想像できなかった。
次に放たれた言葉は、理解を越えた衝撃だった。
「リシェル・ブラウンは、かつて王宮を混乱に陥れた大罪で死罪を宣告されていたことを知っていますか?」
ヴァルブルガの言葉がアランの頭の中で幾度も反響した。
意識がふらつくほどに響き、言葉が喉につかえた。
そんなはずは、ありません――と、声にならない声がこぼれる。
「ロイク・セシールがリシェル・ブラウンを妻に望んだからこそ、命は救われたのです」
ヴァルブルガの冷ややかな表情が一層深まり、そこに冷酷な真実が刻まれていた。
アランの目の前にそっと差し出されたのは、当時の魔法新聞の切り抜きだった。
「王宮の侍女が国王に色目をつかった」
「国王を惑わせ政治を混乱させた魔女」
記事の見出しは、リシェル・ブラウンを暴力的に、そして酷薄に罵詈雑言で塗りつぶしていた。
アランは震える唇に手を当て、込み上げる嗚咽を堪えた。
そんな彼女を、冷酷に見据えるヴァルブルガの眼差しは鋭かった。
母がこれほど苦しい過去を背負っていたことなど、アランは何も知らなかった。
父と母の間には、普通の夫婦以上に言葉で言い表せない距離があるように感じていた。
時折交わされる冷たい沈黙や、どこか心の隔たりを示すような振る舞いが、アランの胸に暗い影を落としていたのだ。
もしかしたら、父の一方的な思いだけで母は嫁いだのかもしれない。
「死罪を受け入れるか、婚姻を受け入れるか」――母にとって、選択肢はそれしかなかったのではないか。
仕方なく父の元へ嫁ぎ、己の運命を呪いながら耐えてきたのかもしれない。
そんな想像が、抑えようもなく膨れ上がり、アランは自分自身の存在すらも否定したくなった。
もし母にとって自分が望まれていない子であったなら、逆に自分が母の自由を縛る存在ならば、生きていること自体が罪なのではないか――そんな恐ろしい思いが胸を締めつけた。
アランはそれが耐えきれず、ヴァルブルガの前であることも忘れて両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。
これまでに知りたくなかった、真実がいかに自分の心を切り裂いていくのか。
けれど、現実を突きつけられた後の自分は、ずっと父と母はただ節度を保ち、礼節を重んじる、そんな夫婦でいてほしかったのだと気づいた。
「アラン、なぜ私がこんな話をしたか、わかりますか?」
ヴァルブルガの声は凛として冷たく、アランの耳にいつまでも残った。
アランはただ、母の生き様を想い、涙をこぼすことしかできなかった。
「もし、レギュラスとの間に子をもうけたら、その子は今のあなたと同じような思いをします。
婚姻も出産も、望まれるべき相手と、望まれるべき場所にあるべきなのです。
私が言いたいこと、わかるでしょう?」
その言葉が胸を鋭く刺した。
しかし、ようやく理解が腑に落ち、ヴァルブルガの言わんとする真意がレギュラスとアランの「慕情」や男女の情ではないことに気づいた。
問題は、もし世継ぎが生まれた時、その子が自分の存在を知ったらどうなるか。
ロズィエ家のカサンドラとの間に生まれた子が、もしそれを知れば、その幼い心はズタズタに引き裂かれてしまうだろう。
万が一自分が子を孕んでしまったとしても、母がレギュラスを愛していたわけではないと知れば、傷つくのは避けられない。
今の自分ほどに心が張り裂ける思いを、その子も味わうはずだ。
傷は当人同士だけで終わらず、次の世代にまで深く及ぶ。
それがヴァルブルガの伝えたいことだった。
しかし、そのあまりの残酷な事実に、アランの胸は苛まれた。
自分の人生は、母の人生の犠牲の上に築かれてきたように思え、苦しくて、泣き叫びたくなるほどだった。
胸の奥で悲鳴がこだまし、嗚咽に変わる。
涙は止まらず、止めどなく溢れ出した。
冷たい目を細めて、ヴァルブルガはその様をただ静かに見据えていた。
静謐な書斎の奥深く、ヴァルブルガは一人で残された魔法写真を静かに見つめていた。
その写真には、かつての数多の家族の中で、今やこの屋敷に唯一残りし者――レギュラスの姿が映し出されている。
無垢な幼き瞳から精悍な青年の目へと変わりつつあるその姿は、ヴァルブルガの心に一種の重責を再認識させていた。
レギュラスには、ただ一つの道を歩んでほしい。
誇り高き、この高貴な血筋を未来へ継ぎ、ブラック家の名を地に落とすことなく、魔法界全体の象徴の如くあり続けてほしい。
そのために、アラン・セシールの存在にはここで断固として杭を打たねばならない。
かつて王宮を混乱に陥れた過ちを、レギュラスに繰り返させてはならないのだ。
レギュラス・ブラックはもっとも輝かしい、ブラック家の唯一の光である。
その光が、アランのような一介の使用人の娘によって掻き曇らせられては決してならない。
ブラック家は強く、美しく、誇り高く、そして未来永劫に富と権力の象徴であり続けなければならない。
しかし、ヴァルブルガは息子のアランに対する執着に漠然とした恐れを抱いていた。
まるでかつての王宮の混乱がこの屋敷の中で再び始まっているかのようだった。
今やレギュラスは、オリオンの許しを盾に、母の前でも隠そうともせずにアランを追い続けている。
たかだか使用人の出でしかない女を――
王宮の過去の罪人――処刑されるはずだったあのリシェル・セシールの娘を。
それはブラック家の者としてあってはならない恥辱だった。
いくらヴァルブルガが叱責しても、今さらレギュラスに響くはずもない。
だからこそ、彼女はアラン本人に直接言い聞かせる道を選んだのだった。
魔法写真の中で揺れるレギュラスの瞳を、母は見つめながら、静かな決意と共に深い溜息を吐いた。
レギュラスは、静かにミカエル・フォレストの動向を探っていた。
デスイーターたちの噂話の中で、ミカエルが休暇も家に戻らず、ホグワーツからマグルの孤児院へ通って魔法の授業をしていることを知っていた。
しかも彼は、卒業後はマグル生まれの子供たちに魔法を教える機関を立ち上げる進路を掲げているそうだ。
いかにも「グリフィンドールのプリンス」と呼ばれる生徒らしい、正義感と理想に満ちた選択。
その高潔さすら反ってレギュラスには苛立ちを呼び起こすものだった。
思い返せば、魔法決闘の授業で最終戦まで競り合ったことがある。
あの時の互いの魔法の軌跡と、両者に醸し出されていた空気。
あの瞬間から、レギュラスはミカエル・フォレストという男が自分には合わない人間だと実感していた。
価値観も信じるものも正反対、目指す未来も遠く離れていた。
マグルとの融合を推し進めようとするミカエルの考えを、今更看過するわけにはいかなかった。
他のデスイーターは、すでにミカエルの父・ルシアン・フォレストの周りを固めていた。
いつでも命を奪える状態。
けれどミカエル自身は、まだホグワーツの生徒であり、強力なダンブルドアの庇護下にいる限り、外部のデスイーターは軽々しく手を出すことが叶わない。
だからこそ、ホグワーツに在学するレギュラスにこの任務が与えられたのだ。
家族への期待。
闇の帝王からの監視。
父オリオンからの念押し。
想像以上の重圧を、レギュラスは静かに噛みしめていた。
大広間は朝日の差す穏やかな空気に包まれていた。
生徒たちの笑い声や給仕の音が響く中、レギュラスは何気ない顔でミカエルを追い続けている。
隙を探している。
どこに入り込む余地があるのか、どこで孤立する瞬間があるのか。
その隙を見つければ、その中に滑り込み、機会を狙い、すべてを終わらせるつもりだった。
「君が休暇をここで過ごすとは珍しいな」
ミカエルが先に声をかけてきた。
「ええ、インターンを早めに始めたいので、家でゆっくりしている時間はありませんから」
レギュラスは淡々と応じた。
「さすがはブラックだよ。抜かりがなくて、見習わなきゃならないところが多すぎる」
素直に人を称え、努力することを肯定するその姿勢。
その善良そうな瞳に、反射的に反感が湧く自分をレギュラスはすぐに押し込める。
善意であろうが、理想であろうが、今のレギュラスにとってそれは重荷でしかなかった。
自分とは相容れぬもの。
どんなに平静を装っても、心の奥底では苛立ちや葛藤が絶え間なく渦巻いている。
ミカエルの明るさとは裏腹に、レギュラスの胸の中には冷たく粘りつく使命感が焦げ付いていた。
大広間の光とざわめきの中で――
レギュラスはただ一人、背負わされた重荷に押し潰されそうな思いで、ミカエルを見つめ続けていた。
ミカエル・フォレストが孤児院から帰ってきたと思われる夕刻のこと、レギュラスは偶然を装い、その帰路を塞いだ。
西陽が校舎と森の端を淡く染め上げている時分だった。
「偶然ですね」
声をかけるレギュラスの言葉は、どこか自然体を装っていた。
「これはこれは。こんな時間までインターンを?」
ミカエルが屈託なく返す。
「ええ。出来る限り良い印象を残したいと思っていたら、定時ではなかなか帰りにくくて」
苦笑気味にレギュラスが応じると、ミカエルは無邪気に笑った。
「それは就職してからも残業続きとなりそうだ」
なんでもない話題を口にしながら、二人はゆっくりと校舎と外の世界を結ぶ長い石橋へと歩を進めた。
たったそれだけのことなのに、レギュラスの内心は強く波打っていた。
決して悟られてはならない心の奥に、重く冷えた覚悟が沈んでいた。
橋を渡ろうとするその手前、レギュラスは足を止めた。
「少し、話しませんか」
ふいに呼び止める。
「君にそう言われるとは驚きだ」
ミカエルは意外そうに、そしてどこか嬉しそうに笑った。
出来れば校舎からもっと離れたかった。
レギュラスは意図的に、橋を横切ることなく、敢えて反対側の土の道へと足を進める。
森へと続くその道は、夕闇が迫り、空気が静まりかえっている。
「陽がもう落ちそうだが、大丈夫か?」
ミカエルが一応気遣う。
「僕らは監督生ですから。多少のことは許されます」
レギュラスは肩をすくめてみせた。
「職権濫用だな」
ふざけながらも、ミカエルの声には油断のない明るさがあった。
二人の間には、微妙な距離が流れていた。
一定の間を互いに保ちつつ、あたかも偶然そこに寄り添っただけのように見せかけて。
陽はどんどん落ちていく。
淡い橙色の残照が、二人の形を長く地面に落としていた。
草を踏む音、かすかな鳥の羽ばたき、そのすべてが静寂の中に吸い込まれてゆく。
禁じられた森がすぐ傍に広がり、木々の間から冷たい風が二人の頬を撫でた。
校舎との距離、周囲の人気のなさ、遠ざかる生徒たちの声。
何かが決定的に切り離されていくような、張り詰めた緊張がレギュラスの中を走っていた。
さりげない会話をしながら、彼は冷静を装い、すべてを計算しながら歩いている。
いつ、どうやって機会を得ればいいのか。どんな偶然を装えば、失われるはずの未来を消せるのか。
その思考の水底には、自分でも思いもよらなかった感情が渦巻いていた。
こんな形で人と歩く夕暮れが、これほど胸を締め付けるものだとは――
レギュラスは自分の強張った指先を見つめ、小さく息を吐いた。
薄暮の空が闇に溶け込もうとする中、ミカエル・フォレストはふと立ち止まった。
彼の背後を歩いていたレギュラスは、ローブの内側で小さく硬く握られた杖の感触を確かめていた。
「僕は何か、君の気に障ることをしたのだろうか?」
ミカエルが振り返り、鋭くもどこか何かを察しているような澄んだ瞳でレギュラスを見つめた。
「どうしてです?」
レギュラスは冷静を装いながらも、胸の奥では緊張が波となって押し寄せていた。
「君が普段は僕と話そうとしないのに、わざわざこんな場所へ呼び出す。
何か理由があるのだろう、と感じた」
ミカエルの声音には、静かな怒りと失望が滲み出ていた。
限りなく綺麗事ばかりを追い求めている、光に取り憑かれた男だと思っていたが、
意外にも迫り来る闇の気配を察知する能力だけはあるようだ。
皮肉にも似たその言葉に、レギュラスはわずかに唇をひきつらせた。
「すみません、ミカエル。僕たちはあなたたち家族を決して看過できない」
レギュラスは言い放ち、杖を取り出してミカエルに真っすぐと向けた。
ミカエルは両手を大きく挙げ、抵抗の意思がないことを示した。
しかし、レギュラスの胸には、それが何の意味も持たなかった。
「話そう、ブラック。こんなことはホグワーツでやるべきではない」
ミカエルの声は静かだが鋭く、どこか諦観を含んでいた。
「むしろホグワーツだからこそ、できるのです」
レギュラスは揺るぎなく答え、躊躇なく死の呪文を放った。
緑の発光を放つ呪文は静かに、だが確実にミカエルの胸を貫いた。
胸を貫かれた瞬間、彼の体は一瞬だけ強く震えた。
そのまま、静かに柔らかく、息を引き取るように膝から崩れ落ちた。
周囲は一瞬の静寂に包まれる。
鳥の鳴き声も、風のそよぎもどこか遠くに感じられた。
しかしレギュラスは即座に後消しの呪文を唱え、周囲の魔力の痕跡を慎重に改竄していった。
あたかも、自分がその場にいた事実さえも削り取るかのように。
すべてが消え去ったことを確かめると、レギュラスは静かに踵を返し、足音を忍ばせるように校舎の方へと歩いていった。
消えゆく背中には、深く刻まれた決意と闇の重圧が揺れていた。
ホグワーツの敷地内で起きたミカエル・フォレストの不審死は、瞬く間に魔法界の話題をさらった。
時を同じくして、ミカエルの父ルシアン・フォレストもデスイーターにより殺害されたと報じられた。
鮮烈なニュースは、まだ新学期すら始まっていないホグワーツの敷地に、連日魔法新聞の記者たちを押し寄せさせていた。
華やかな報道の空気とは打って変わって、校内には慌ただしさを帯びた緊張感が満ちていた。
魔法捜査官の精鋭たちがホグワーツの出入りを自由にし、魔法部の闇の調査局から派遣された捜査員たちは異変の痕跡を丹念に洗い出していた。
さらに事件の重大性とデスイーターの関与が濃厚であるとされ、校内に複数のディメンターが配置されるなど、厳重な警備態勢が敷かれた。
それでもレギュラスは何も知らないかのように平静を装い、周囲に疑問を抱かせることなく振舞った。
内なる胸の中では、難しい感情が渦巻いているにもかかわらず。
やがて新学期が始まり、休暇明けでアランをはじめとした生徒たちが戻ってきた。
教室の窓からは、校舎に差し込む柔らかな朝の光。
しかし、学び舎の明るさはどこか陰を帯び、来るべき日常への不安を隠せぬものだった。
ミカエル・フォレストの追悼議が校内で開かれ、多くの生徒と教職員がその死を悼んだ。
喪失と恐怖の混じった微かなざわつきがホグワーツを覆っていた。
そのような中、レギュラスはただひたすらに「何も知らない」という態度を通し、誰の目にも透けて見えぬようにした。
彼の顔は冷静で、まるで嵐の中心にいながら穏やかな湖面を装うかのようだった。
しかし胸の奥底では、思わず血が冷たく引いていくような予感と次に来るべき、逃れられぬ波乱を予感していた。
視線を交わすアランの横顔を見つめる時、レギュラスは強く自らに言い聞かせていた。
この表の平穏と裏の真実が交錯する状況の中で、決して揺るがずに生き抜かなければならない――と。
ミカエル・フォレストの死。
そして、レギュラスがひと足早くホグワーツへ戻ったこと。
この二つがどうして無関係でいられるだろう、とアランは思っていた。
ミカエルの父、ルシアン・フォレストまでが同じ時期にデスイーターに暗殺された事実。
すべての線が、否応なしに一つに結ばれていくように感じられた。
レギュラスが、その中心に立っているに違いなかった。
ミカエルの追悼の意を示す厳粛な議の最中、レギュラスはアランのすぐ隣に静かに座っていた。
その横顔は澄み切った水面のように凪いでいて、何一つ取り乱した色もなく、
順当に大切な仲間を失った生徒の一人の顔であった。
周囲に溶け込み、誰の目からも不自然には映らぬような穏やかな仕草と穏やかな表情。
その「何もない」風を装った仮面の裏に、いったいどんな残酷な影を隠しているのだろう。
どんな目でミカエルの最期を見届け、どんな声色で彼の心臓を射抜く呪文を唱えたのだろうか。
想像すれば、レギュラス・ブラックという男の奥底に沈殿している残忍さや、
握った手の内に隠した恐ろしさに、ぞっとして身が震えそうだった。
かつて、シリウスとレギュラスと3人で無邪気に笑っていた日々が、冷たい霧の向こう側に遠ざかっていくのがわかる。
もう、あの頃のレギュラスはいない。
「愛している」と囁いてみせながら、純血主義の最後の牙城を自分の中で守り続けて、
その思想に反するものたちは、一切の情けもなく切り捨てていく。
アランは、そんなレギュラスがどんどん信じられなくなっていた。
――レギュラス、私に隠していることはありますか?
ほんの僅かな希望を託して問うても、当然のように彼はすぐに首を振る。
「いえ、なにも」
きっと何も語らないだろうとは分かっていた。
案の定、予想していた言葉が紡がれる。
墓場までも持って行くつもりなのだろう。
むしろ、そうしてくれた方が救われる気さえした。
――何も知らない、という白々しい嘘。
だが、それを信じきれるほど、レギュラス・ブラックという人間を知らないわけでもない。
この期に及んでもなお、レギュラスは良心の呵責より、自らの「正義」を選ぶそのことを、どこか誇らしげにさえ思っている気がした。
アランは、静かに自分の中の何かが剥がれ落ちていくのを感じた。
この人をこれ以上、傷つけまいとしてきた気持ちが薄れていく。
たとえレギュラスが何を思い、何を感じようと、もう構わない。
彼の元を去って、ただ自由に好きな人を愛して生きていける世界へと、羽ばたいてしまいたい――そう、心の奥底で切実に願い始めていた。
レギュラスは、アランがすでに何かを勘付いていること、そして真相を探ろうとしていることに気づいていた。
だが、認めるわけには決していかない。
何も知らない者として、徹底して沈黙し続けるしかなかった。
広間の重苦しい空気の中、アランはひっそりと、ミカエルとその父親の死を悼む面持ちで俯いていた。
彼女の細い背中にそっと手を添えたレギュラスもまた、内心の渦を隠しながら淡々と声をかける。
「本当に悲しい事件です」
アランはちらりとレギュラスの顔を見上げたが、何も答えなかった。
レギュラスも、それ以上口を開くことはできなかった。
言葉にすれば、薄い仮面が剥がれてしまいそうで。
やがて広間からアランが席を立ち、一人になろうとする。
その後ろ姿に、レギュラスは強い不安を覚えた。
今、距離を取れば、積み重なった疑念はやがて深く取り返しのつかない溝となるだろう。
一緒にいることでしか、その溝を埋められる術はないような気がした。
「物騒な事件が多いですから」
廊下に出るアランを追いながら、少し声を震わせて同行する理由を述べる。
アランは何も答えなかった。
言葉を交わすよりも、とにかく傍にいること、それだけがレギュラスにとって意味を持っていた。
息を潜めるような静けさが二人の間に流れる。
廊下の高い窓から漏れる淡い光は、空気を切り分けて冷たい模様を床に描いていた。
時折、誰かの話し声や足音が遠くで響くが、二人の沈黙は凍った水の層のように厚く固かった。
レギュラスは迷いながらも、静かにアランの手を取った。
その手は一瞬びくっと震えた。
振り払われることはなかったが、許容や肯定というよりは、諦めにも近い静かな受け入れ方だった。
「アラン、あなたが何を思っているのかは分かりませんが。
僕はあなたを悲しませるようなことはしません――」
本当は、ミカエルの事件への自分の関与を問われ、すべてを打ち明けたくなる気持ちもあった。
けれども、その一線を必死に抑えて、最後まで言葉を選んだ。
アランは静かに小さく頷いた。
その仕草は、信頼というより、今はただ流れに身を任せているだけのように見えた。
二人の歩みは緩やかに廊下を進み、
薄い光の下で、重い沈黙だけがいつまでも尾を引いていった。
レギュラスの指が自分の手を包み込む、その感触がひどく重く感じられた。
アランは、思わずその手を振り払ってしまいたい衝動に駆られる。
けれども、できなかった。
それは彼から向けられる純粋な想いを理解していたからなのか。
それとも、従者としての立場を本能的に思い出してしまったからなのか。
あるいは、両肩に重荷を背負いながら、それでも微笑もうとする彼に、どうしようもなく同情してしまったからなのか。
自分の胸の奥を覗いても、その答えは霞のようにぼやけていた。
握られた手は、暖かいのに、鎖のように重かった。
ミカエルを殺したのか、と問い詰めたい思いが喉を焼くのに、言葉は情けないほど奥に詰まったまま形にならない。
なぜ、そんな残酷なことができるのか――そう問いたいのに、彼が返してくるであろう答えが、恐ろしくて仕方がない。
矛盾する思いが、いくつもの層となって胸に重く積み重なる。
あまりにも重たく、息を吸い込むたびに胸郭が軋むようだった。
石造りの廊下は冷たく、外の光は冬の朝のように淡く白い。
高い窓から差し込む光が床に冷たい幾何学模様を描き、二人の影だけがその中に濃く落ちている。
遠くで人々の話し声や足音がかすかに響くが、ここはまるで音のない世界のようだった。
微かな風が廊下を抜け、アランの黒髪を揺らすたび、胸の奥で絡まった感情がまたざわめく。
「レギュラス、……私もあなたを信じたいわ」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど細く、揺れていた。
レギュラスはその言葉に、少しだけ表情を緩める。
「ええ、僕はあなたを裏切るようなことはしません」
その声音は穏やかで、まるで祈りのようだった。
アランは目を伏せる。
――信じたいという言葉は、本心だった。
けれど、きっともう、彼と同じ方向を向いて歩いていくことはできない。
胸の奥に浮かぶその確信は、薄氷のように冷たく、しかし割れることなく張り詰めている。
レギュラスが良しとする世界。
その世界を同じように美しいと思う心を、どう足掻いても自分は持ち合わせていない。
お互いの根底にある価値観が、あまりにも違いすぎるのだ。
彼は高貴な純血の血筋のもとに生まれ、歩むべき道を生まれた瞬間から定められてきた。
その血筋と魔法の才覚に誇りを持つ一族の子として、純血こそがもっとも尊いという思想を受け入れるのは、ある意味当然のことだったのだろう。
レギュラスが悪いわけではない。
むしろ彼は、両親からの重圧に耐え、理想の息子としてあり続ける、未来の当主にふさわしい人物だ。
きっと彼は、シリウスのようにブラック家に背を向けることも、純血一族の思想や血筋を裏切ることも、これから先もしないだろう。
それを踏み躙ろうとしているのは、むしろ自分の方だ――。
ホグワーツを卒業したら、必ずシリウスと共にブラック家の屋敷を出ていく。
そのために払わなければならない犠牲は、シリウスと二人で生きていく未来の中で、共に償っていきたい。
そんなことを考えられるくらいには、アランは自分の中の方向性がようやく定まりつつあることを感じていた。
レギュラスの視線の中に、揺るぎない愛情が込められているのを、アランははっきりと感じる。
けれど、同じように見つめ返すことはしなかった。
見返してしまえば、鎖がより強く締まってしまう気がした。
そして何より、自分自身の心が、その視線の重さに耐えられない気がしたのだ。
沈黙の廊下に、二人の吐息だけが、白く、淡く溶けていった。
言葉が詰まってしまっている彼を案じ、思わずそうしたのだろう。
「どうしたの、シリウス?」
その問いかけに、彼はもじもじと口を開く。
「もし……お前が大丈夫なら……したいなって……思った……」
伝えたい言葉が溢れかえり、どう紡げばいいのかわからず、熱を持て余す胸の内を包み隠すこともできなかった。
そのままの自分を晒すしかなかったのだ。
まったくの飾り気なく、無様なくらいに素直で真っ直ぐな気持ち。
言葉にするやいなや、穴があったら入りたいという気持ちに襲われた。
アランの答えを聞く心の準備もできず、沈黙の時間が永遠と感じられた。
一瞬のことだったのに、もっと良い言い方があったのではないかと、後悔の念が次々に湧き上がる。
それでも、もう口にしてしまった言葉は取り戻せなかった。
ちらりとアランの顔を見れば、翡翠の瞳がまんまるに見開かれて自分を見つめていた。
「そんな目で見るなよ……」
シリウスは小さく呟き、声が萎み、余計なことをしてしまったとの思いが胸に膨らんだ。
「違うのよ、シリウス」
アランの手がそっとシリウスの大腿に添えられた。
そのほんの一瞬で、シリウスの体は反応し、彼女を求めていることを認めざるを得なかった。
紛れもなく本能が叫んでいた。
けれど、アランからの答えを聞くことは、とても怖かった。
か細く、俯きながら、その声はこぼれた。
「私も……あなたとしたいです……」
その小さな言葉に、シリウスの胸は震え、深い愛しさが溢れてきた。
彼女なりに精一杯の気持ちの表現であることが伝わり、その愛おしさに触れた。
やがて二人は離れた時間の空白を埋めるように、深く、強く結び合った。
絡み合う指先で幾度もキスを交わし、何度も体位を変えながら、お互いが最も心地よい瞬間を探し求めた。
狭いソファの上での行為は、むしろここが彼らにとってはちょうど良い空間となっていた。
アランが吐息混じりにシリウスの名前を繰り返し呼ぶ。
彼はその声に包まれながら、身体中が幸福で満たされるような感覚に浸っていた。
愛する人をこの手に抱き、彼女の最も深いところへ辿り着くことができるのは、絶頂感と耐え難いほどの心地よさであることを知った。
「アラン、好きだ」
シリウスは自然と何度も何度も口からこぼしていた。
無意識に溢れる言葉は形を変えずにそのまま伝わり、アランもまた同じ言葉を紡ぎ出す。
呼吸と同じように自然に流れる愛の言葉に、シリウスは酔いしれていた。
この夜、これほどまでに幸せで、愛おしくて、泣きそうになるほどの感情を抱いたことはなかった。
もしもこれが世界の終わりの夜だとしても構わないとさえ思えるような、深い絶頂へと沈み込んでいった。
アランは腕の中のシリウスに身をゆだね、静かに幸福の海に沈んでいた。
その幸福感は深く、満ち足りていて、この瞬間、自分がこの世界で一番幸せな人間なのではないかと思わせるほどだった。
もし、この人とともに生きていくために、手放さなければならないものがあるとしても。
それが両親であり、一族の未来であったとしても、もはや仕方のないことなのだと、アランは受け入れる心の準備ができているかもしれなかった。
失うことで感じる喪失感に苛まれるより、
失ったものをシリウスと共に歩む未来の光で満たしていけばいい。
その思いが、胸の内にふわりと浮かんだ。
何が正しい選択なのかはわからなかった。
だが、この腕の中で、シリウスに抱かれている今、ただひとつ確かなのは、
このまま彼と生きていきたいという真っ直ぐな気持ちだけだった。
「シリウス……愛してるわ……」
胸の奥から溢れる、かすかな震えを帯びた言葉。
学生の自分には少し背伸びさえ感じる言葉。
けれど、この言葉が、自分の想いを伝えるのに一番しっくりくる気がしていた。
「好きだ」という言葉よりも、もっと深く熱い愛を伝えたい。
一緒に生きていく決意を、
大切なものを手放す覚悟を示すには、
「愛している」という言葉が最も相応しいと、アランは信じていた。
「俺もだよ、アラン。愛してる」
シリウスは絡み合った指先にぎゅっと力を込めた。
その分、胸の奥が一層ぎゅっと締め付けられる感覚があった。
それは切なさなのか、深い愛しさなのか。
幸福なのか、不安なのか。
あるいはその両方なのか。
区別はつかなかった。
だが唯一確かなのは、
「愛している」というこの強い思いだけだった。
シリウスを見送り、アランは深い寂しさに包まれていた。
去っていく背中を見送ることが、これほどに辛く、胸を締め付けるものだとは思わなかった。
彼のいない空間があまりにも広く感じられ、孤独がじんわりと染み込んでくる。
早く二人が同じ場所を「帰る場所」として共有できる未来を生きたい――アランの心はそう強く願っていた。
その後、朝食の支度をしていると、黒い長髪をたなびかせたオリオンがレギュラスと共に帰宅した。
オリオンの表情は苛立ちを隠せず、重苦しい空気をまとっていた。
その後に続くレギュラスもまた、深刻な面持ちでオリオンのあとを追い、書斎へと進んでいった。
一気に屋敷に張りつめる緊張感が高まる。
直感が告げていた。
屋敷が荒れる、その兆しを。
闇の陣営が集う集会において、何か重大なことが起きたのだろう。
朝食を整えたが、席に姿を現したのはヴァルブルガだけだった。
「奥様、ご主人様とレギュラス様をお呼びいたしますか」
アランは静かに尋ねる。
「そうね、そうしてちょうだい」
ヴァルブルガは淡々と答えた。
アランは黙ってヴァルブルガの命令に従い、重い足取りで書斎へと向かった。
普段、オリオンの書斎にはほとんど近づかないアランは、その扉に差し掛かると指先が震えてしまいそうなほどに恐怖を感じた。
必死に震えを隠すよう、拳を強く握り締めた。
扉をノックし、外から声をかける。
「オリオン様、レギュラス様、朝食の支度が整っております」
返事はない。
それでも扉はすぐに開けられ、顔を覗かせたのはレギュラスだった。
「すみません、母と先に食べていていただけますか」
彼の声はいつもより低く、言葉の端々から緊張が滲んでいた。
「かしこまりました」
アランは深く頭を下げ、部屋を後にした。
書斎の奥にいるオリオンの様子までは見えなかったが、レギュラスの表情から、今まさに何かとてつもなく大きな事が始まろうとしている気配がした。
その予感は恐ろしく、アランの胸を圧迫した。
それがシリウスとの未来にも影響を及ぼすものなのだとしたら……考えるだけで震えが走る。
闇の陣営と不死鳥の騎士団は対立し、互いが杖を向け合い命を奪い合う宿敵同士であった。
戦争が起きるのかもしれない――そうなれば、シリウスは必ずその戦いに赴くのだろう。
アランはそのことを考えると、胸が痛くてたまらなかった。
どうか行かないでほしい。傷つかないでほしい。
その願いは、どんなに現実離れしていても消すことができなかった。
だが、戦いの現実がその夢を容易く打ち砕くことも、彼女は痛いほどに知っていた。
それでも、どうしようもなく、深く強く祈った。
魔法界とマグル界の境目には、まるで堅牢な関所のような部署が存在した。
そこは「国境監理局」と呼ばれ、両界の接点を監視し、異変を察知する最前線の要所であった。
しかし、その国境監理局においてマグル側の犯した犯罪や魔法使いとの衝突を、意図的に揉み消し、マグルに対する魔法界全体の印象を良く見せようと画策している魔法使いがいた。
彼はグリフィンドールに属する若き俊英ミカエル・フォレストの父親であった。名前はルシアン・フォレスト。
そして息子のミカエルもまた、父の跡を継ぎ、身寄りのないマグル生まれの魔法使いを集めた孤児院で魔法の基礎を教えているという。
彼らのその行動は、たしかに正義を名乗るにふさわしいものだ。
純血魔法使いたちに虐げられないために、必要な魔法の才能を研ぎ澄まし、いざという時は自らを守る術を教える。
それは正義の名の下に行われているのだ。
だがレギュラスにとっての正義は、違った。
尊き純血魔法使いが、マグルのような低俗な存在に長らく迫害されてきた悲劇の歴史に終止符を打ち、堂々と魔法使いとして存在を誇示し、威厳を保って生きていくことだった。
彼はマグルを無差別に攻撃して回ろうとは思わないが、少なくとも、魔法使いと争いを起こしたマグルを厚遇し、隠蔽し、保護する意味は理解できなかった。
それはもはや、我々魔法使い全員の裏切りに等しい行為だと信じて疑わなかった。
そんなルシアン・フォレストを闇の帝王は暗殺するよう命じた。
帰宅したレギュラスに、オリオンが厳しい瞳で問いかける。
「レギュラス、ミカエル・フォレストの件はお前に任せられるか」
「ええ、そうします」
レギュラスは力強く応じた。
「フォレスト家の思想が広まり、不死鳥の騎士団のような組織が立ち上がる前に、芽となるものは必ず潰さねばならぬ。わかっているな」
父の言葉は、学舎という学生たちが学ぶ場であってもミカエルを始末せよ、と明確に命じられたに等しかった。
学生生活の中で、殺人を命じられる日が訪れるなど夢にも思わなかったが、レギュラスは己たちの掲げる正義の前に退くことはできなかった。
怯めば弱さと見なされ、闇の帝王からの信頼を失い、父の顔に泥を塗ることになる。
ブラック家の名を背負う者が、それを許されるはずもなかった。
胸に防ぎがたい重みを抱えながらも、レギュラスは決然と歩みを進めた。
レギュラスは遅れて朝食の席についた。
闇の帝王から命じられた任務の重さは、オリオンからも「しくじるな」と念を押され、彼の心は押しつぶされそうなほどの重圧を抱えていた。
空になったグラスへ、アランは静かに水を注いだ。
その細やかな気遣いに、レギュラスは自然と視線を落とす。
繊細な細い指先がくるくると動く様子をずっと見つめていた。
アランを自分の傍に置き続けたい。
その唯一の望みを叶えるためにも、今回の任務を絶対に失敗するわけにはいかなかった。
「思い詰めているようですね」とアランは柔らかな声で言った。
「少し重大な仕事を任されたので、そうですね」と、レギュラスは短く答えた。
任務の全貌をアランに話すつもりはなかった。
彼女には、その大義名分を理解しようとする姿勢さえも期待していなかった。
むしろ聞けば非難が返ってくることしか想像できなかった。
だからアランの言葉にも、レギュラスの返答は曖昧で、心ここにあらずのようだった。
理解を求めることは望んでいなかった。
ただ、こうして当然のように一緒に生きていく未来が約束されていてほしい。
それが、レギュラスの変わることのない願いであり、望みであった。
テーブルの向こうで、アランは静かに微笑み、しかしどこか複雑な表情で彼を見つめていた。
重く沈む心の底で揺れ動く想い。それぞれの胸に秘められたものは、言葉では容易く語り尽くせない深い繋がりを示していた。
休暇の終わりよりも前に、レギュラスはホグワーツへ戻る決断をしていた。
インターンへの申し込みと資格取得のためで、その理由は確かに納得できるものだった。
しかしアランの胸には、どこか引っかかりが不穏に残っていた。
キングスクロス駅。
レギュラスを送り出すため、アランもそこにいた。
彼女の心は次第に重く沈み込んでいった。
「ホグワーツで会いましょう」
レギュラスはいつもの落ち着いた声音で告げる。
「ええ、あまり無理なさらないでくださいね」
アランは必死に振り絞るように言い返した。
だが次の瞬間、レギュラスは彼女を強く引き寄せ、腕でぎゅっと抱きしめた。
その腕の温もりは確かだったが、彼がなぜホグワーツに戻ろうとしているのか、アランは不安を抑えきれなかった。
闇の陣営の集会以来、オリオンもレギュラスも頻繁に外出を重ね、不穏な空気が身の回りに漂っていた。
アランは覚悟を決め、レギュラスの胸に手を当てて彼を押しのけた。
灰色の瞳を真っ直ぐ見上げて、彼女は静かに告げた。
「レギュラス、危ないことはしないでくださいね」
「信じています」
その瞳はシリウスのものに似ていながらも、彼よりも遥かに深く暗い灰色を湛えていた。
レギュラスは優しく微笑み、言葉を返す。
「心配はいりません。あなたこそ、早くホグワーツに来てくださいね」
アランの「信じている」という言葉の本心が、どこまで彼に届いているのかは分からなかった。
だが彼女は、失望させるような残酷なことを何も起こさないでほしい。
人として持っていなければならないものを失わず、決して倫理の一線を超えないでほしいと、切なる願いを込めてそう告げていた。
ホグワーツ特急が動き出し、その車両が遠ざかっていく。
たとえすぐ側にいなくなったとしても、不安はまるで影のようにつきまとう。
隣にいても、いなくても、心には重しがずっしりと乗せられているようだった。
いつからだろう。
レギュラスの隣という存在が、こんなにも息苦しく、重く、そして深く沈み込むような思いに満ちてしまったのは。
レギュラスが先に屋敷を去ったことで、屋敷の空気はアランにとって、まるで重たい鉛の塊が胸を締めつけるかのように感じられた。
「アラン、あなたに渡したいものがあるのよ」
声と共に現れたのは、麗しいドレスに身を包んだヴァルブルガ。
掃除をしていたアランのもとへ、優雅な足取りで近づいてくる。
その気配を察し、アランは掃除道具を魔法で瞬時に片付け、すぐに立ち上がった。
無言のまま彼女を追い、広間へ向かう。
心の奥のどこかがざわついた。
この先に、いい話が待っているとは思えなかった。
ヴァルブルガは、いつもアランとレギュラスの距離感を監視しているような、鋭くも冷たい視線を投げかけていた。
その視線の恐ろしさに、アランはいつも縮こまってしまい、背筋が凍る思いだった。
表向きはオリオンが認めたことで、レギュラスとアランの関係も一歩は確かなものになったはずだった。
それを受け入れがたいヴァルブルガの苛立ちは深く、溜まる一方であった。
もし、今日この場で何か問い詰められたら、アランはどう答えればいいのか分からなかった。
シリウスこそが愛している相手であること。
レギュラスと一緒になるつもりはないこと。
しかし、それを口にすれば、それはブラック家そのものへの裏切りを暴くことになり、ヒリヒリと自分の心を傷つけることだと分かっていた。
逆に、レギュラスとの関係を認めることもできなかった。
震える足取りでヴァルブルガの前に立ち、アランは必死に心を静めた。
「アラン、あなたは自分の母親、リシェル・ブラウンについてどこまで知っているのかしら」
ヴァルブルガは予想外の言葉を投げかけた。
その名を聞いて、アランの身体が一瞬こわばった。
「母のことと申しますと……」
答える声は震えていた。
純粋に彼女には、ヴァルブルガの言葉の本意が読み取れなかった。
母が何か大きな問題を起こしたのだろうか、と漠然と頭をよぎった。
けれどリシェル・ブラウンはいつも控えめで、欲を望まぬ女性だった。
そんな人がヴァルブルガの機嫌を損ねることなど到底想像できなかった。
次に放たれた言葉は、理解を越えた衝撃だった。
「リシェル・ブラウンは、かつて王宮を混乱に陥れた大罪で死罪を宣告されていたことを知っていますか?」
ヴァルブルガの言葉がアランの頭の中で幾度も反響した。
意識がふらつくほどに響き、言葉が喉につかえた。
そんなはずは、ありません――と、声にならない声がこぼれる。
「ロイク・セシールがリシェル・ブラウンを妻に望んだからこそ、命は救われたのです」
ヴァルブルガの冷ややかな表情が一層深まり、そこに冷酷な真実が刻まれていた。
アランの目の前にそっと差し出されたのは、当時の魔法新聞の切り抜きだった。
「王宮の侍女が国王に色目をつかった」
「国王を惑わせ政治を混乱させた魔女」
記事の見出しは、リシェル・ブラウンを暴力的に、そして酷薄に罵詈雑言で塗りつぶしていた。
アランは震える唇に手を当て、込み上げる嗚咽を堪えた。
そんな彼女を、冷酷に見据えるヴァルブルガの眼差しは鋭かった。
母がこれほど苦しい過去を背負っていたことなど、アランは何も知らなかった。
父と母の間には、普通の夫婦以上に言葉で言い表せない距離があるように感じていた。
時折交わされる冷たい沈黙や、どこか心の隔たりを示すような振る舞いが、アランの胸に暗い影を落としていたのだ。
もしかしたら、父の一方的な思いだけで母は嫁いだのかもしれない。
「死罪を受け入れるか、婚姻を受け入れるか」――母にとって、選択肢はそれしかなかったのではないか。
仕方なく父の元へ嫁ぎ、己の運命を呪いながら耐えてきたのかもしれない。
そんな想像が、抑えようもなく膨れ上がり、アランは自分自身の存在すらも否定したくなった。
もし母にとって自分が望まれていない子であったなら、逆に自分が母の自由を縛る存在ならば、生きていること自体が罪なのではないか――そんな恐ろしい思いが胸を締めつけた。
アランはそれが耐えきれず、ヴァルブルガの前であることも忘れて両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。
これまでに知りたくなかった、真実がいかに自分の心を切り裂いていくのか。
けれど、現実を突きつけられた後の自分は、ずっと父と母はただ節度を保ち、礼節を重んじる、そんな夫婦でいてほしかったのだと気づいた。
「アラン、なぜ私がこんな話をしたか、わかりますか?」
ヴァルブルガの声は凛として冷たく、アランの耳にいつまでも残った。
アランはただ、母の生き様を想い、涙をこぼすことしかできなかった。
「もし、レギュラスとの間に子をもうけたら、その子は今のあなたと同じような思いをします。
婚姻も出産も、望まれるべき相手と、望まれるべき場所にあるべきなのです。
私が言いたいこと、わかるでしょう?」
その言葉が胸を鋭く刺した。
しかし、ようやく理解が腑に落ち、ヴァルブルガの言わんとする真意がレギュラスとアランの「慕情」や男女の情ではないことに気づいた。
問題は、もし世継ぎが生まれた時、その子が自分の存在を知ったらどうなるか。
ロズィエ家のカサンドラとの間に生まれた子が、もしそれを知れば、その幼い心はズタズタに引き裂かれてしまうだろう。
万が一自分が子を孕んでしまったとしても、母がレギュラスを愛していたわけではないと知れば、傷つくのは避けられない。
今の自分ほどに心が張り裂ける思いを、その子も味わうはずだ。
傷は当人同士だけで終わらず、次の世代にまで深く及ぶ。
それがヴァルブルガの伝えたいことだった。
しかし、そのあまりの残酷な事実に、アランの胸は苛まれた。
自分の人生は、母の人生の犠牲の上に築かれてきたように思え、苦しくて、泣き叫びたくなるほどだった。
胸の奥で悲鳴がこだまし、嗚咽に変わる。
涙は止まらず、止めどなく溢れ出した。
冷たい目を細めて、ヴァルブルガはその様をただ静かに見据えていた。
静謐な書斎の奥深く、ヴァルブルガは一人で残された魔法写真を静かに見つめていた。
その写真には、かつての数多の家族の中で、今やこの屋敷に唯一残りし者――レギュラスの姿が映し出されている。
無垢な幼き瞳から精悍な青年の目へと変わりつつあるその姿は、ヴァルブルガの心に一種の重責を再認識させていた。
レギュラスには、ただ一つの道を歩んでほしい。
誇り高き、この高貴な血筋を未来へ継ぎ、ブラック家の名を地に落とすことなく、魔法界全体の象徴の如くあり続けてほしい。
そのために、アラン・セシールの存在にはここで断固として杭を打たねばならない。
かつて王宮を混乱に陥れた過ちを、レギュラスに繰り返させてはならないのだ。
レギュラス・ブラックはもっとも輝かしい、ブラック家の唯一の光である。
その光が、アランのような一介の使用人の娘によって掻き曇らせられては決してならない。
ブラック家は強く、美しく、誇り高く、そして未来永劫に富と権力の象徴であり続けなければならない。
しかし、ヴァルブルガは息子のアランに対する執着に漠然とした恐れを抱いていた。
まるでかつての王宮の混乱がこの屋敷の中で再び始まっているかのようだった。
今やレギュラスは、オリオンの許しを盾に、母の前でも隠そうともせずにアランを追い続けている。
たかだか使用人の出でしかない女を――
王宮の過去の罪人――処刑されるはずだったあのリシェル・セシールの娘を。
それはブラック家の者としてあってはならない恥辱だった。
いくらヴァルブルガが叱責しても、今さらレギュラスに響くはずもない。
だからこそ、彼女はアラン本人に直接言い聞かせる道を選んだのだった。
魔法写真の中で揺れるレギュラスの瞳を、母は見つめながら、静かな決意と共に深い溜息を吐いた。
レギュラスは、静かにミカエル・フォレストの動向を探っていた。
デスイーターたちの噂話の中で、ミカエルが休暇も家に戻らず、ホグワーツからマグルの孤児院へ通って魔法の授業をしていることを知っていた。
しかも彼は、卒業後はマグル生まれの子供たちに魔法を教える機関を立ち上げる進路を掲げているそうだ。
いかにも「グリフィンドールのプリンス」と呼ばれる生徒らしい、正義感と理想に満ちた選択。
その高潔さすら反ってレギュラスには苛立ちを呼び起こすものだった。
思い返せば、魔法決闘の授業で最終戦まで競り合ったことがある。
あの時の互いの魔法の軌跡と、両者に醸し出されていた空気。
あの瞬間から、レギュラスはミカエル・フォレストという男が自分には合わない人間だと実感していた。
価値観も信じるものも正反対、目指す未来も遠く離れていた。
マグルとの融合を推し進めようとするミカエルの考えを、今更看過するわけにはいかなかった。
他のデスイーターは、すでにミカエルの父・ルシアン・フォレストの周りを固めていた。
いつでも命を奪える状態。
けれどミカエル自身は、まだホグワーツの生徒であり、強力なダンブルドアの庇護下にいる限り、外部のデスイーターは軽々しく手を出すことが叶わない。
だからこそ、ホグワーツに在学するレギュラスにこの任務が与えられたのだ。
家族への期待。
闇の帝王からの監視。
父オリオンからの念押し。
想像以上の重圧を、レギュラスは静かに噛みしめていた。
大広間は朝日の差す穏やかな空気に包まれていた。
生徒たちの笑い声や給仕の音が響く中、レギュラスは何気ない顔でミカエルを追い続けている。
隙を探している。
どこに入り込む余地があるのか、どこで孤立する瞬間があるのか。
その隙を見つければ、その中に滑り込み、機会を狙い、すべてを終わらせるつもりだった。
「君が休暇をここで過ごすとは珍しいな」
ミカエルが先に声をかけてきた。
「ええ、インターンを早めに始めたいので、家でゆっくりしている時間はありませんから」
レギュラスは淡々と応じた。
「さすがはブラックだよ。抜かりがなくて、見習わなきゃならないところが多すぎる」
素直に人を称え、努力することを肯定するその姿勢。
その善良そうな瞳に、反射的に反感が湧く自分をレギュラスはすぐに押し込める。
善意であろうが、理想であろうが、今のレギュラスにとってそれは重荷でしかなかった。
自分とは相容れぬもの。
どんなに平静を装っても、心の奥底では苛立ちや葛藤が絶え間なく渦巻いている。
ミカエルの明るさとは裏腹に、レギュラスの胸の中には冷たく粘りつく使命感が焦げ付いていた。
大広間の光とざわめきの中で――
レギュラスはただ一人、背負わされた重荷に押し潰されそうな思いで、ミカエルを見つめ続けていた。
ミカエル・フォレストが孤児院から帰ってきたと思われる夕刻のこと、レギュラスは偶然を装い、その帰路を塞いだ。
西陽が校舎と森の端を淡く染め上げている時分だった。
「偶然ですね」
声をかけるレギュラスの言葉は、どこか自然体を装っていた。
「これはこれは。こんな時間までインターンを?」
ミカエルが屈託なく返す。
「ええ。出来る限り良い印象を残したいと思っていたら、定時ではなかなか帰りにくくて」
苦笑気味にレギュラスが応じると、ミカエルは無邪気に笑った。
「それは就職してからも残業続きとなりそうだ」
なんでもない話題を口にしながら、二人はゆっくりと校舎と外の世界を結ぶ長い石橋へと歩を進めた。
たったそれだけのことなのに、レギュラスの内心は強く波打っていた。
決して悟られてはならない心の奥に、重く冷えた覚悟が沈んでいた。
橋を渡ろうとするその手前、レギュラスは足を止めた。
「少し、話しませんか」
ふいに呼び止める。
「君にそう言われるとは驚きだ」
ミカエルは意外そうに、そしてどこか嬉しそうに笑った。
出来れば校舎からもっと離れたかった。
レギュラスは意図的に、橋を横切ることなく、敢えて反対側の土の道へと足を進める。
森へと続くその道は、夕闇が迫り、空気が静まりかえっている。
「陽がもう落ちそうだが、大丈夫か?」
ミカエルが一応気遣う。
「僕らは監督生ですから。多少のことは許されます」
レギュラスは肩をすくめてみせた。
「職権濫用だな」
ふざけながらも、ミカエルの声には油断のない明るさがあった。
二人の間には、微妙な距離が流れていた。
一定の間を互いに保ちつつ、あたかも偶然そこに寄り添っただけのように見せかけて。
陽はどんどん落ちていく。
淡い橙色の残照が、二人の形を長く地面に落としていた。
草を踏む音、かすかな鳥の羽ばたき、そのすべてが静寂の中に吸い込まれてゆく。
禁じられた森がすぐ傍に広がり、木々の間から冷たい風が二人の頬を撫でた。
校舎との距離、周囲の人気のなさ、遠ざかる生徒たちの声。
何かが決定的に切り離されていくような、張り詰めた緊張がレギュラスの中を走っていた。
さりげない会話をしながら、彼は冷静を装い、すべてを計算しながら歩いている。
いつ、どうやって機会を得ればいいのか。どんな偶然を装えば、失われるはずの未来を消せるのか。
その思考の水底には、自分でも思いもよらなかった感情が渦巻いていた。
こんな形で人と歩く夕暮れが、これほど胸を締め付けるものだとは――
レギュラスは自分の強張った指先を見つめ、小さく息を吐いた。
薄暮の空が闇に溶け込もうとする中、ミカエル・フォレストはふと立ち止まった。
彼の背後を歩いていたレギュラスは、ローブの内側で小さく硬く握られた杖の感触を確かめていた。
「僕は何か、君の気に障ることをしたのだろうか?」
ミカエルが振り返り、鋭くもどこか何かを察しているような澄んだ瞳でレギュラスを見つめた。
「どうしてです?」
レギュラスは冷静を装いながらも、胸の奥では緊張が波となって押し寄せていた。
「君が普段は僕と話そうとしないのに、わざわざこんな場所へ呼び出す。
何か理由があるのだろう、と感じた」
ミカエルの声音には、静かな怒りと失望が滲み出ていた。
限りなく綺麗事ばかりを追い求めている、光に取り憑かれた男だと思っていたが、
意外にも迫り来る闇の気配を察知する能力だけはあるようだ。
皮肉にも似たその言葉に、レギュラスはわずかに唇をひきつらせた。
「すみません、ミカエル。僕たちはあなたたち家族を決して看過できない」
レギュラスは言い放ち、杖を取り出してミカエルに真っすぐと向けた。
ミカエルは両手を大きく挙げ、抵抗の意思がないことを示した。
しかし、レギュラスの胸には、それが何の意味も持たなかった。
「話そう、ブラック。こんなことはホグワーツでやるべきではない」
ミカエルの声は静かだが鋭く、どこか諦観を含んでいた。
「むしろホグワーツだからこそ、できるのです」
レギュラスは揺るぎなく答え、躊躇なく死の呪文を放った。
緑の発光を放つ呪文は静かに、だが確実にミカエルの胸を貫いた。
胸を貫かれた瞬間、彼の体は一瞬だけ強く震えた。
そのまま、静かに柔らかく、息を引き取るように膝から崩れ落ちた。
周囲は一瞬の静寂に包まれる。
鳥の鳴き声も、風のそよぎもどこか遠くに感じられた。
しかしレギュラスは即座に後消しの呪文を唱え、周囲の魔力の痕跡を慎重に改竄していった。
あたかも、自分がその場にいた事実さえも削り取るかのように。
すべてが消え去ったことを確かめると、レギュラスは静かに踵を返し、足音を忍ばせるように校舎の方へと歩いていった。
消えゆく背中には、深く刻まれた決意と闇の重圧が揺れていた。
ホグワーツの敷地内で起きたミカエル・フォレストの不審死は、瞬く間に魔法界の話題をさらった。
時を同じくして、ミカエルの父ルシアン・フォレストもデスイーターにより殺害されたと報じられた。
鮮烈なニュースは、まだ新学期すら始まっていないホグワーツの敷地に、連日魔法新聞の記者たちを押し寄せさせていた。
華やかな報道の空気とは打って変わって、校内には慌ただしさを帯びた緊張感が満ちていた。
魔法捜査官の精鋭たちがホグワーツの出入りを自由にし、魔法部の闇の調査局から派遣された捜査員たちは異変の痕跡を丹念に洗い出していた。
さらに事件の重大性とデスイーターの関与が濃厚であるとされ、校内に複数のディメンターが配置されるなど、厳重な警備態勢が敷かれた。
それでもレギュラスは何も知らないかのように平静を装い、周囲に疑問を抱かせることなく振舞った。
内なる胸の中では、難しい感情が渦巻いているにもかかわらず。
やがて新学期が始まり、休暇明けでアランをはじめとした生徒たちが戻ってきた。
教室の窓からは、校舎に差し込む柔らかな朝の光。
しかし、学び舎の明るさはどこか陰を帯び、来るべき日常への不安を隠せぬものだった。
ミカエル・フォレストの追悼議が校内で開かれ、多くの生徒と教職員がその死を悼んだ。
喪失と恐怖の混じった微かなざわつきがホグワーツを覆っていた。
そのような中、レギュラスはただひたすらに「何も知らない」という態度を通し、誰の目にも透けて見えぬようにした。
彼の顔は冷静で、まるで嵐の中心にいながら穏やかな湖面を装うかのようだった。
しかし胸の奥底では、思わず血が冷たく引いていくような予感と次に来るべき、逃れられぬ波乱を予感していた。
視線を交わすアランの横顔を見つめる時、レギュラスは強く自らに言い聞かせていた。
この表の平穏と裏の真実が交錯する状況の中で、決して揺るがずに生き抜かなければならない――と。
ミカエル・フォレストの死。
そして、レギュラスがひと足早くホグワーツへ戻ったこと。
この二つがどうして無関係でいられるだろう、とアランは思っていた。
ミカエルの父、ルシアン・フォレストまでが同じ時期にデスイーターに暗殺された事実。
すべての線が、否応なしに一つに結ばれていくように感じられた。
レギュラスが、その中心に立っているに違いなかった。
ミカエルの追悼の意を示す厳粛な議の最中、レギュラスはアランのすぐ隣に静かに座っていた。
その横顔は澄み切った水面のように凪いでいて、何一つ取り乱した色もなく、
順当に大切な仲間を失った生徒の一人の顔であった。
周囲に溶け込み、誰の目からも不自然には映らぬような穏やかな仕草と穏やかな表情。
その「何もない」風を装った仮面の裏に、いったいどんな残酷な影を隠しているのだろう。
どんな目でミカエルの最期を見届け、どんな声色で彼の心臓を射抜く呪文を唱えたのだろうか。
想像すれば、レギュラス・ブラックという男の奥底に沈殿している残忍さや、
握った手の内に隠した恐ろしさに、ぞっとして身が震えそうだった。
かつて、シリウスとレギュラスと3人で無邪気に笑っていた日々が、冷たい霧の向こう側に遠ざかっていくのがわかる。
もう、あの頃のレギュラスはいない。
「愛している」と囁いてみせながら、純血主義の最後の牙城を自分の中で守り続けて、
その思想に反するものたちは、一切の情けもなく切り捨てていく。
アランは、そんなレギュラスがどんどん信じられなくなっていた。
――レギュラス、私に隠していることはありますか?
ほんの僅かな希望を託して問うても、当然のように彼はすぐに首を振る。
「いえ、なにも」
きっと何も語らないだろうとは分かっていた。
案の定、予想していた言葉が紡がれる。
墓場までも持って行くつもりなのだろう。
むしろ、そうしてくれた方が救われる気さえした。
――何も知らない、という白々しい嘘。
だが、それを信じきれるほど、レギュラス・ブラックという人間を知らないわけでもない。
この期に及んでもなお、レギュラスは良心の呵責より、自らの「正義」を選ぶそのことを、どこか誇らしげにさえ思っている気がした。
アランは、静かに自分の中の何かが剥がれ落ちていくのを感じた。
この人をこれ以上、傷つけまいとしてきた気持ちが薄れていく。
たとえレギュラスが何を思い、何を感じようと、もう構わない。
彼の元を去って、ただ自由に好きな人を愛して生きていける世界へと、羽ばたいてしまいたい――そう、心の奥底で切実に願い始めていた。
レギュラスは、アランがすでに何かを勘付いていること、そして真相を探ろうとしていることに気づいていた。
だが、認めるわけには決していかない。
何も知らない者として、徹底して沈黙し続けるしかなかった。
広間の重苦しい空気の中、アランはひっそりと、ミカエルとその父親の死を悼む面持ちで俯いていた。
彼女の細い背中にそっと手を添えたレギュラスもまた、内心の渦を隠しながら淡々と声をかける。
「本当に悲しい事件です」
アランはちらりとレギュラスの顔を見上げたが、何も答えなかった。
レギュラスも、それ以上口を開くことはできなかった。
言葉にすれば、薄い仮面が剥がれてしまいそうで。
やがて広間からアランが席を立ち、一人になろうとする。
その後ろ姿に、レギュラスは強い不安を覚えた。
今、距離を取れば、積み重なった疑念はやがて深く取り返しのつかない溝となるだろう。
一緒にいることでしか、その溝を埋められる術はないような気がした。
「物騒な事件が多いですから」
廊下に出るアランを追いながら、少し声を震わせて同行する理由を述べる。
アランは何も答えなかった。
言葉を交わすよりも、とにかく傍にいること、それだけがレギュラスにとって意味を持っていた。
息を潜めるような静けさが二人の間に流れる。
廊下の高い窓から漏れる淡い光は、空気を切り分けて冷たい模様を床に描いていた。
時折、誰かの話し声や足音が遠くで響くが、二人の沈黙は凍った水の層のように厚く固かった。
レギュラスは迷いながらも、静かにアランの手を取った。
その手は一瞬びくっと震えた。
振り払われることはなかったが、許容や肯定というよりは、諦めにも近い静かな受け入れ方だった。
「アラン、あなたが何を思っているのかは分かりませんが。
僕はあなたを悲しませるようなことはしません――」
本当は、ミカエルの事件への自分の関与を問われ、すべてを打ち明けたくなる気持ちもあった。
けれども、その一線を必死に抑えて、最後まで言葉を選んだ。
アランは静かに小さく頷いた。
その仕草は、信頼というより、今はただ流れに身を任せているだけのように見えた。
二人の歩みは緩やかに廊下を進み、
薄い光の下で、重い沈黙だけがいつまでも尾を引いていった。
レギュラスの指が自分の手を包み込む、その感触がひどく重く感じられた。
アランは、思わずその手を振り払ってしまいたい衝動に駆られる。
けれども、できなかった。
それは彼から向けられる純粋な想いを理解していたからなのか。
それとも、従者としての立場を本能的に思い出してしまったからなのか。
あるいは、両肩に重荷を背負いながら、それでも微笑もうとする彼に、どうしようもなく同情してしまったからなのか。
自分の胸の奥を覗いても、その答えは霞のようにぼやけていた。
握られた手は、暖かいのに、鎖のように重かった。
ミカエルを殺したのか、と問い詰めたい思いが喉を焼くのに、言葉は情けないほど奥に詰まったまま形にならない。
なぜ、そんな残酷なことができるのか――そう問いたいのに、彼が返してくるであろう答えが、恐ろしくて仕方がない。
矛盾する思いが、いくつもの層となって胸に重く積み重なる。
あまりにも重たく、息を吸い込むたびに胸郭が軋むようだった。
石造りの廊下は冷たく、外の光は冬の朝のように淡く白い。
高い窓から差し込む光が床に冷たい幾何学模様を描き、二人の影だけがその中に濃く落ちている。
遠くで人々の話し声や足音がかすかに響くが、ここはまるで音のない世界のようだった。
微かな風が廊下を抜け、アランの黒髪を揺らすたび、胸の奥で絡まった感情がまたざわめく。
「レギュラス、……私もあなたを信じたいわ」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど細く、揺れていた。
レギュラスはその言葉に、少しだけ表情を緩める。
「ええ、僕はあなたを裏切るようなことはしません」
その声音は穏やかで、まるで祈りのようだった。
アランは目を伏せる。
――信じたいという言葉は、本心だった。
けれど、きっともう、彼と同じ方向を向いて歩いていくことはできない。
胸の奥に浮かぶその確信は、薄氷のように冷たく、しかし割れることなく張り詰めている。
レギュラスが良しとする世界。
その世界を同じように美しいと思う心を、どう足掻いても自分は持ち合わせていない。
お互いの根底にある価値観が、あまりにも違いすぎるのだ。
彼は高貴な純血の血筋のもとに生まれ、歩むべき道を生まれた瞬間から定められてきた。
その血筋と魔法の才覚に誇りを持つ一族の子として、純血こそがもっとも尊いという思想を受け入れるのは、ある意味当然のことだったのだろう。
レギュラスが悪いわけではない。
むしろ彼は、両親からの重圧に耐え、理想の息子としてあり続ける、未来の当主にふさわしい人物だ。
きっと彼は、シリウスのようにブラック家に背を向けることも、純血一族の思想や血筋を裏切ることも、これから先もしないだろう。
それを踏み躙ろうとしているのは、むしろ自分の方だ――。
ホグワーツを卒業したら、必ずシリウスと共にブラック家の屋敷を出ていく。
そのために払わなければならない犠牲は、シリウスと二人で生きていく未来の中で、共に償っていきたい。
そんなことを考えられるくらいには、アランは自分の中の方向性がようやく定まりつつあることを感じていた。
レギュラスの視線の中に、揺るぎない愛情が込められているのを、アランははっきりと感じる。
けれど、同じように見つめ返すことはしなかった。
見返してしまえば、鎖がより強く締まってしまう気がした。
そして何より、自分自身の心が、その視線の重さに耐えられない気がしたのだ。
沈黙の廊下に、二人の吐息だけが、白く、淡く溶けていった。
