2章
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レギュラスの真摯な誠意は、アランの胸を締めつけるほど重く響いた。
彼が必死に自分へ注ぐ愛情の大きさに、アランはかえって息苦しさを覚えた。
肩身の狭さからではない。
ただ、その大きな愛に応えるべき自分の心は、決して同じ方向を向いていないという事実があった。
それどころか、アランの心の中にはシリウスとの未来への儚い夢が揺らめき続けていた。
その秘密がレギュラスに知られることを、常に恐れている。
レギュラスが誠実に思いを届けてくれるほどに、自分の裏切りが露わになるようで、身を引き裂かれるような苦しみを覚えた。
レギュラスの真っ直ぐな視線と情熱が、幼い頃から変わらず胸に宿るシリウスへの愛を、まるで浮ついた罪のように映し出してしまう。
それは自分の人生そのものだったのに、その愛を貫くことが、何よりもつらい道のりだと気づかされてしまう。
「明日は試合を応援してもらえたら……頑張れそうです」
レギュラスが静かに告げた。
アランはゆっくりと数回頷いた。
ホグワーツの生徒として、同じ寮のクラスメイトとして、友として、そして仕える従者として。
彼を応援したいという気持ちは確かにあった。
振り解いた手は、いつの間にかレギュラスの手に再び重なっていた。
その手をじっと見つめながら、心の中に渦巻く思いを押し込める。
お願いだから、愛そうとしないでほしい。
愛だと錯覚していることに、どうか気づいてほしい。
フランスの純血一族ロズィエ家の令嬢との婚姻が決まり、すべてを手に入れようとしているブラック家の次期当主。
勉学も魔法の才覚も兼ね備えるレギュラスが、愛の真似事で誤った道へ迷わないでほしい。
目を醒まして。
本当に大切にすべきものを、見誤ってほしくない――。
揺れる翡翠の瞳と、穏やかな灰色の瞳。
二つの視線が絡み合い、しかし見つめる先は決して重ならないまま。
夜の闇に包まれて、アランの内なる叫びは誰にも届かず、静かに消えていった。
ホグワーツとカンブリス魔法学校の間で熱戦の火蓋が切って落とされたクィディッチの試合は、澄み渡る秋空の下で繰り広げられていた。
スリザリンのシーカーの座に立つのは、今なお魔法界の耀きでありながら多くの影を纏うレギュラス・ブラックだ。
ホグワーツの四つの寮を超えた熱い応援が、広大な競技場に満ちていた。
色とりどりの寮章を背負う者たちが、ひとつの心となってレギュラスの名を叫んでいる。
その中で、アランもまた、静かにしかし確かな意志を込めて声援を送った。
彼女の視線の先には、自由自在に、しなやかに、大空を切り裂く彼の姿があった。
箒の上で軽やかにバランスをとりながら、素早く旋回し、スピードを自在に操る。
彼の動きは飛翔する鳥そのものであり、まるで自身の翼を手に入れたかのように生き生きとしていた。
綿菓子のように青く澄んだ空に、その黒衣が躍動し、少年のような輝きを放っている――そう、幼い頃の彼の姿が霞んで蘇るようだった。
過去のレギュラスは、もっと伸び伸びと自由で、眩しい光に包まれていた。
彼はシリウス・ブラックの影に隠れるようでありながらも、シリウスとは異なる輝きと可能性をもっていたはず。
だが今は彼の内に潜む深い闇が、あのかつてあったはずの純粋な光を静かに覆い尽くしていっているように思えた。
今の彼の中には、あんなふうに自由に笑い、楽しそうに飛び回る少年の姿など、もうどこにも存在しないのだ。
試合は接戦の様相を呈していた。
両チームのビーターたちは手強く、巧みに攻防を繰り返しながら加点を重ね、得点は互いに拮抗している。
空高く舞うスナッチを見つけたレギュラスとカンブリス校のシーカーが2人、必死の形相で追いかけ続ける。
声援はますます激しさを増し、応援席の熱気も最高潮に達していた。
想像を絶する速さで高空を縦横無尽に飛び回り、くるりと宙返りをしては急加速するスナッチ。
まるで、挑発するかのように彼らの手の届かぬ場所を次々と逃げていく。
その間にもビーターたちの攻撃は続き、双方に得点が入り続けている。
レギュラスは、箒の上で驚異的なバランス感覚を保ちつつ、必死にスナッチに手を伸ばした。
一歩でも崩れれば、地に叩きつけられる危険があるはずなのに、彼はその恐怖をまるで知らないかのように、全身全霊で小さな金色の玉を追いかけた。
その姿は、かつてアランに向けていた強い思いと重なった。
折れそうにもならず、決して諦めず、ひたむきに愛を貫こうとする彼の姿勢そのものだった。
彼の飛翔と闘志は、誰よりもまっすぐで痛いほどに切なく、美しかった。
レギュラスは見事にスニッチを掴み取り、ホグワーツに栄光の勝利をもたらした。
小さな黄金色の玉をしっかりと握りしめ、箒の上で優雅に宙を舞う彼の姿は、まるで空を切り裂く白鳥のように美しかった。
その飛び方は自信に満ち溢れていて、堂々としながらも軽やかに輝いていた。
歓声が渦巻く全校生徒の前で、勝利の証を高らかに掲げるレギュラスの表情は、まさに今この瞬間、誰よりも眩しい光を放っていた。
アランは遠くの観客席から、その彼の姿を静かに見守っていた。
心は複雑で揺れていたけれど、目に映るあの勝者の風格と輝きは、確かなものだった。
今のレギュラスは、やはりシリウスにどこか酷似している。
外見だけでなく、その堂々とした立ち振る舞い、空を舞う自由さ。兄弟としての共通の何かが確かに息づいているのだ。
本人はきっと認めたがらないだろうが、その似ている部分を否定することは誰にもできない。
しかし、もし昔ながらの変わらぬ彼が隣にいてくれて、あの愛情を向けてくれたなら、自分は同じだけのものを返せたのだろうか。
それとも、いかに彼が輝いていても、やはり心はシリウスに惹かれ、レギュラスの姿を正視できずにいるのだろうか。
答えの見えない問いが胸の奥に重く沈み込む。
勝利の歓喜の空間の中、アランの想いだけは孤独と共に静かに揺れていた。
クィディッチの劇的な勝利に、ホグワーツは歓喜の渦に包まれていた。
四寮の壁はこの日ばかりは完全に消えて、生徒たちは互いの肩を叩き、拳を突き上げ、あらゆるところで歓声と笑い声が上がった。
大広間では、眩い無数のキャンドルが宙に浮かび、天井には星空のような魔法の演出が施されていた。
ローストビーフや焼きたてのパイ、色とりどりの野菜、山盛りのプディングやシュガー菓子、炭酸バタービールの入った大きな樽が並ぶ。
ホグワーツの生徒たちも、カンブリス校の生徒たちも、そして各寮や学年といった枠組みすら忘れ、入り交じって歓談し、ダンスの輪がいくつもできていた。
その中心で、称賛の言葉がレギュラスに惜しみなく降り注ぐ。
「レギュラス様、さすがですわ。素晴らしい活躍っぷりでしたわね」
カサンドラが麗しい微笑みを浮かべて声をかける。
「光栄です、カサンドラ」
レギュラスは形式どおりに答えながらも、どこかよそよそしく微笑んでみせた。
その隣に立つカサンドラは、まるで当然のように彼の横に並ぶ。
周囲も夫婦然とした二人の並びに違和感を抱かず、初めからそうあるべきだと当然のように受け止めている。
祝福の言葉が次から次へと届けられ、「おめでとう!」「かっこよかったぞ!」と上級生も下級生も隔てなく声をかけた。
本当は、アランに自分の勝利を、一番に――純粋な気持ちで祝ってほしかった。
だが重厚なテーブルを挟んでカサンドラの隣にいなければならない現実が、レギュラスには息苦しく、心に重い影を落としていた。
料理の上に美しく盛り付けられたご馳走も、バタービールの泡も、耳に届く称賛の喧騒も、どこか上滑りして感じられた。
一息ついたとき、カサンドラがそっと尋ねる。
「食べていらっしゃいますか?」
「あっ、ええ、まあ、適当に……」
常であればアランが皿に料理を盛り付けてくれる。それがないだけで、まるで食べること自体を忘れてしまいそうだった。
カサンドラは一瞬静かにレギュラスを見つめ、手元の料理を取り分けて彼の皿へと差し出す。
「さあ、召し上がってください。こんなに豪勢な夕食ですから」
「ええ、ありがとうございます」
礼儀正しく取り皿を受け取るレギュラスだが、そのやりとりの全てが、胸の奥で何かがこすれる違和感を生み出していく。
笑顔のまま無意識にアランの姿を探してしまう――彼女はきっと気を遣い、宴の場から距離を置いているのだろう。
だが、その配慮こそが、レギュラスにとっては焦りと苛立ちの種でもあった。
アランが気を遣って身を引いてくれるほど、彼女の不在が心の空白となって広がっていくのを、どうすることもできなかった。
大広間の片隅、アランはハッフルパフ生のリディア・ヘンリー、グリフィンドールのミカエル・フォレストとともに食卓を囲んでいた。
レギュラスからは遠く離れた席。ダンスの輪がいくつも広がる喧噪の間に隠れて、今の自分の場所は彼の視線からも死角になっている。
アランはそっと胸を撫で下ろした。
監視されるような鋭い視線も、意思を押さえつけるような重圧もなく、ただ自由に自分の選んだ場所で、友人たちと語り合うことができる。
そんな、ありふれたようでいて、ずっと遠ざかっていた当たり前の瞬間。
解放感に満ちた空気の中、ひとときの幸せがひそやかに満ちていった。
「レギュラス・ブラックは本当に、何もかもが完璧だな」
ミカエルは素直な口調で賛辞を口にする。
グリフィンドールの生徒でありながら、宿敵とも言えるスリザリン生のレギュラスを素直に感服して称賛できるその心根、アランにはそれがとても眩しく思えた。誰にでもできることではない。
「あなたこそ、素晴らしい活躍ぶりだったわ」
アランは褒め返す。
「本当よ。私はレギュラス・ブラックよりミカエルを応援してたの」
リディアも笑顔を見せてミカエルに言う。
ミカエルは少し照れくさそうな笑顔をこぼした。
その素朴で純粋な反応に、胸がじんわりと温かくなる。自由で屈託なく、光を浴びるように輝くその姿を、アランはいい友人だと心から思った。
レギュラスの隣を離れて見える世界は、こんなにも大きく広がっている。
自分の意思で選び、決めることができる。自分の思いを信じて、未来へ向かって進める。
幼い頃から「従わなければならない」と染みついていた性分も、今は少しだけ薄れているような気がした。
誰の目も気にせず、自由に笑い、話し、好きな人たちと時間を分かち合える――そんな当たり前の幸福が、今夜はことさら美しく感じられた。
誰もがレギュラス・ブラックの隣にいるカサンドラ・ロズィエを、まるで理想の令嬢だと称えた。
ホグワーツに招かれた時も、この華やかな宴の最中も、甲高い声やざわめきが絶えず、彼女を讃える言葉が飛び交っていた。
「レギュラス・ブラックの美しい婚約者」
「ブラック家に嫁ぐ名門ロズィエ家の令嬢」
「魔法界が憧れる理想の婚約者像」
「未来の魔法界を率いる最高の二人」
そんな輝かしい言葉たちが、彼女の名に重く載せられては嬌声のように謳われていた。
レギュラスはその世辞を綺麗な笑顔で受け流す。
その笑みはまるで完璧に調律されたピアノの調べのように清楚で美しい。
カサンドラはその隣で静かに心地よさを感じていた。
けれど、冷静に彼を観察している彼女だけが気づいた。
レギュラスは、やはり自分のことを真剣に見てはいない。
その視線は常に何か遠くを漂い、時に曇り、時に影を落とすことがあった。
カサンドラの記憶は一瞬、ブラック家の屋敷でのあの場面に飛んだ。
そこでレギュラスの視線の先にいたのは、使用人ながら並外れた美貌を持つアラン・セシールだった。
純血ではあるが代々ブラック家に仕え、身分も高くはない、むしろ卑しいとすら思われる職に就いている。
あの少女を、レギュラスはまるで夢中で見つめていた。
その時のレギュラスの瞳は、普段は見せない何かを映し出していた。
それはまるで秘密の光のようであり、ただ一人の女性へ向けられた純粋で強い情感だった。
その光景がカサンドラの胸を締め付ける。
名門に育ち、尊厳を守るために大切にされてきた自分が、あの使用人の娘にすべてを掻っ攫われてしまう気がする。
「レギュラス様、皆様本当にレギュラス様を称えていらっしゃいますわ」
カサンドラが、必死に言葉を紡ぐ。
「ええ、恐縮ですね」
レギュラスは淡々と短く答えるだけで、話は弾まなかった。
「私の学校の子たちもレギュラス様の箒さばきを目を見張っておりましたのよ」
カサンドラが続ける。
「照れますね」
レギュラスは控えめに応じ、また微かな笑みを浮かべる。
カサンドラの必死な会話の試みは次第に空回りし、言葉は途切れがちになり、やがて消え入るように萎れていった。
今も目の前にいるレギュラスは、おそらく上の空だろう。
話しかけても彼は適当に相槌を打ち、顔には貼り付けたように整った微笑みだけが浮かんでいる。
その様子にカサンドラは深い孤独と惨めさを感じずにいられなかった。
レギュラスは皿の上の料理を適当につまむと、ナイフとフォークを音もなく静かにテーブルに置いた。
丁寧に紙ナプキンを膝から外し、そのままテーブルの端に置く所作から、この場所を去ろうとする意図が手に取るように分かった。
その一連の動きを見つめていたカサンドラの胸には、言いようのない寂しさがじわりと広がった。
「レギュラス様、お食事はもう終わりですか?」
声に出した言葉は穏やかだったが、その裏に隠された切ない思いを完全に抑えることはできなかった。
「ええ、そろそろ寮に戻ろうかと」
レギュラスは椅子を後ろに引き、ゆっくりと立ち上がった。
それを見てカサンドラも慌てるように立ち上がる。
「私もそろそろ戻りますわ。少し夜のホグワーツを案内してくださいませんか?」
その言葉は、彼女の精一杯の努力だった。
直接的に引き止めることは、プライドが許さない。だからこそ、できるだけ自然に、彼との時間を少しでも延ばそうとする切ない試みだった。
「すみません、カサンドラ。今日は久しぶりのクィディッチで予想以上に疲れたようです。
また明日、お時間をいただけますか?」
レギュラスの言葉は丁寧で、完全な拒絶ではなく「明日また時間をくれないか」という形で包まれていた。
その配慮は、カサンドラのプライドを守ろうとする温かな意図が込められているように思えた。
けれど、どのような言い回しであろうとも、断りは断りだった。
その現実が生み出す痛みは、どんな優しい言葉でも和らげることはできなかった。
「そうですわね……また明日、楽しみにしておりますわ」
カサンドラは必死に自然な笑みを作り、声が震えないよう細心の注意を払いながら答えた。
「それでは、失礼します」
そう言い残して、レギュラスは足早に大広間から去っていく。
その後ろ姿は、どれほど追いかけても決して振り返ることのない冷たさを物語っていた。
彼女がどれほど必死に微笑み、どれほど優雅に振る舞おうとも、その視線が自分に向けられることは決してない。
絶対に自分を見ようとしない男と結ばれなければならない運命を、カサンドラは心の底から憎んだ。
名門の血筋に生まれ、完璧な令嬢として育てられてきた自分が、こんなにも孤独で惨めな思いを抱かなければならないとは。
宴の華やかさが続く大広間で、一人取り残されたカサンドラの心には、深い絶望だけが静かに沈んでいった。
レギュラスは校舎の広がる空間を何度も見渡したが、アランの姿はまったく見つからなかった。
想像できるあらゆる場所を探っても、彼女を見つけ出すことは叶わない。
そこで、彼は慎重にローブの中から小さな指輪を取り出した。
それは、アランに贈った指輪と対になる特別な指輪だった。
通常はアランのみが身に着けるものだが、レギュラスも自分の指に嵌める用に用意していた。
普段はつけることを避けていたが、それはオリオンやヴァルブルガに見咎められ、面倒ごとに巻き込まれないためにローブのポケットに忍ばせてあったのだった。
この指輪には、後からかけられた特殊な呪文が秘められていた。
それは「共鳴手繰り寄せの呪文」と呼ばれ、指輪の片方がもう片方の位置を遠く離れていても感知し、手繰り寄せようとする魔法だった。
指輪をそっと握り呪文を唱えると、魔力が指に流れ込む。
やがて、不意に空間の中に微かな光の糸がほのかに映り、どこにアランがいるのかを示し始めた。
その糸に導かれ、レギュラスは中庭の噴水のほとりへと歩みを進める。
そこには、アランが他寮の生徒たちと共にいる姿があった。
彼女の隣には、以前四寮合同の魔法決闘授業で共にしたハッフルパフのリディア・ヘンリーとグリフィンドールのミカエル・フォレストがいた。
彼らは自然に親しげに語り合い、アランは屈託のない笑顔を見せていた。
レギュラスはそれを見て、これまで知らなかった彼女の新たな一面を垣間見た気がして、胸の奥にざわつくものを感じた。
一緒に育ち、恋をして、すべてを共有してきたはずの自分でさえも知らなかった顔が、そこにあったことが恐ろしく、理解の及ばぬものに思えた。
距離を保ちながら、レギュラスは静かに呼びかけた。
「アラン」
彼に気づき、アランは振り返る。驚きがその顔を一瞬覆った。
ミカエルとリディアも同じく驚きの表情でレギュラスを見つめる。
アランの視線だけならばさほどの動揺ではなかったかもしれない。だが他の二人の視線は、レギュラスの胸に苛立ちを呼び覚ました。
「レギュラス……宴は大丈夫ですか?」
アランは気遣うように問う。
「ええ、疲れましたから」
簡潔で冷静な言葉だ。
ミカエルは手を差し伸べ、笑顔で言った。
「見事だったよ、ブラック。君のおかげで素晴らしい勝利だった」
彼の言葉には心からの尊敬と友愛があふれていた。
しかしレギュラスの返答は掠れた苛立ちを含んだものだった。
「光栄です。あなたの守備が優れていたから、安心してスニッチを追うことができましたよ」
確かにミカエルのビータ―としての腕は、レギュラスに集中の余裕を与えたのだった。
しかしその冷静な言葉の下に、かすかな不満が隠されていた。
「ブラックにそう言われると照れますよ」
ミカエルは屈託なく笑った。
アランはリディアと顔を合わせてにこにこと微笑んでいた。
だがその姿を見つめながら、レギュラスの胸に焦りに似たどろりとした感情がゆっくりと湧き上がるのを彼自身も感じていた。
「行きましょう、アラン。少し話したいことがあります」
レギュラスは口調を変えず、アランの手を取ると寮へと向かい始めた。
静かに頷くアランは、リディアとミカエルの方を振り返り、名残惜しそうに見つめた。
そのしぐさに、レギュラスは微かな緊張を覚え、表情を強ばらせた。
レギュラスは無意識のうちにアランの手を弾き、歩幅を大きくし早足で歩き始めていた。
冷たい夜風の中、アランは息が上がり、急速な彼の足取りに我に返る。
「すみません、早かったですね」
レギュラスは申し訳なさそうに言った。
アランはそれでも首を振ったが、確かに彼のペースにはついていけず、呼吸が少し乱れかけていた。
それでも、彼女は微笑みをたたえ、小さな声で告げた。
「おめでとうございます、レギュラス。素晴らしい試合でした」
本来ならば、この勝利の言葉はカサンドラでもミカエルでもなく、最初にアランから聴かれるべきだったはずだった。
しかし、今のその祝福の言葉は、漂うわずかな気まずさを打ち消そうとするかのようなもので、重みを持つことはなかった。
レギュラスの胸の中には言葉にできないもやもやが渦巻いていた。
何か言いたい。しかし、口を開けば感じの悪い言葉ばかりが溢れ出しそうで、恐ろしくてたまらなかった。
カサンドラがずっと隣に居た宴の時から漂っていた不快な苛立ちが、今も彼の全身に纏わりついていた。
つい先ほど見てしまった彼女の知らない交友関係や広がる世界が、レギュラスの胸にずしりと重くのしかかる。
アランの心の世界が広がれば広がるほど、自分の隣に置きたいという願いから遠のいてしまうのではないかという恐怖が彼を苛んだ。
様々な感情が絡み合い、それらはひとつの巨大な苛立ちの塊となってレギュラスの内側でうごめいていた。
だが、そんな沈黙をアランは疲労のせいだと解釈したのか、柔らかく声をかけた。
「寮に戻って、休みましょう」
レギュラスは短く頷き、湧き上がる負の感情を必死に押し殺した。
彼は掴んでいたアランの手首をそっと放し、代わりに優しくその手を握り直した。
自分が彼女に贈った指輪を感じ取り、アランが今も変わらず自分のものだという証しを確かに手で感じる。
それだけが、レギュラスの心をほんのわずかに落ち着かせるのだった。
静かな談話室のソファに腰を下ろし、アランはふと気づいた。
レギュラスの指に、あの指輪が輝いていることに。
彼が自分に贈った指輪と対になるその品は、明確に同じものだと彼女には見抜けた。
胸の奥からざわつく感情が波紋のように広がった。
もしこの指輪がシリウスの手にあったならば――それは甘く切なく、温かな幸福の象徴となっただろう。
しかし、レギュラスの身につけるそれはどこか支配の色が混じり、心を締めつけて苦しくさせた。
それに加えて、彼がこの指輪をカサンドラ・ロズィエがホグワーツに訪れている状況にも構わず身に着けているという事実は、アランの心をさらに窮地に押し込める苦しみを容赦なく植え付けていった。
もしあの気高く美しい令嬢がこれを目にしたなら、彼女をどれほど蔑ろにし、どれほどの屈辱を与えることになるのか。
考えただけで恐ろしく、背負いきれぬ重荷に思えた。
「レギュラス……指輪……」
その言葉を続けることはできなかったが、その声には自然と外してほしいという意図が込められていた。
「ああ、これですね。どうです、似合いますか?」
レギュラスは小さく指を広げ、誇らしげにアランの方へ見せてくる。
「似合うとか、似合わないとかじゃないんです」
アランの心は戸惑い、切なさに震えた。
レギュラスにはそれが伝わらず、意図がずれてしまうことに苦しんだ。
「カサンドラ様が目にすれば、いい気持ちにはなりませんわ」
アランは畳みかけた。
ようやくレギュラスはアランの言葉の意味を理解したようで、少しばつが悪そうな表情をした。
「でもご安心を。カサンドラは理解してくれているようです」
レギュラスは涼やかに言い切る。
その「理解」とは何を意味するのか、アランにはまったく分からなかった。
だからこそ恐怖を感じた。
彼がカサンドラを軽んじようとしたり、蔑ろにするような残酷さを持ち、
それに関して良心の呵責や罪悪感を一切見せないことが、彼女にとって最大の恐怖の源だった。
「レギュラス、ロズィエ家の令嬢を第一に考えるべきです。彼女はあなたの婚約者なのですから」
アランは信じられない思いで言った。
これほど当たり前のことを、今さら言わねばならない自分の無力さに胸を締めつけられながら。
だがレギュラスは、そんな誰の目にも明らかな事実を受け止めようとせず、
「大丈夫です。父も母ももうあなたのことを認めていますから」と自信たっぷりに答えた。
しかし、違う。
彼女にとって問題なのはそこではない。
互いに認め合ったところで、見ている未来や考え方が大きくずれていること。
その隔たりこそが、もはや凡そ埋めがたい壁となり、2人の間に暗く広がってしまっていた。
談話室の静かな灯りの下、言葉と沈黙、そして思いは交錯し続ける。
レギュラスの手が自然とアランの背中に回った。
そのまま引き寄せられるようにして、彼女の顔は彼の胸に触れ、恋人同士の暖かな抱擁がそこに生まれた。
けれど、その温もりが彼女の内臓を締め付けるように苦しく響いた。
レギュラスに包まれた腕の中で感じるのは、いつだって戸惑いと恐れ、そして逃れられない苦しさばかりだった。
「レギュラス……ここは談話室よ……」
アランの声は微かに震え、視線は周囲の広い空間を恐るようにさまよっていた。
ここは誰がどこからやってくるかわからない、あまりにも開かれた場所だった。
こんな場所でこんな行為をすることの苛立ちと不安が、胸を絶えずざわつかせていた。
「今日一日、ずっと離れていましたから……」
レギュラスの声には飢えたような寂しさが混じり、今その寂しさを埋めようとしているのだと強く伝わってきた。
けれどアランはどこまで応じ、どこから線を引くべきか、いつも分からなくなる。
そうした求められる愛情は、婚約者であるカサンドラに向けるべきものであって、使用人として生きる自分に注がれるものではない。
一方的に与えられるだけの愛に、刃のような痛みとして胸が裂かれていく。
その感覚に、心は静かに、しかし確実にすり減っていくのを感じていた。
その夜の静かな談話室で、二人の温もりの間に交錯する心の迷いと痛みが、かすかな震えとなって長く続いていた。
昼の柔らかな陽光が差し込む中、カンブリス魔法学校の生徒たちを見送るための最後の宴が華やかに催されていた。
親睦を深めるためのダンスが始まり、熟練の奏者たちによる心地よい演奏が大広間に響き渡っている。
その中央で、レギュラスは形式的に婚約者であるカサンドラ・ロズィエをダンスに誘った。
魔法界中に知られたブラック家とロズィエ家の結びつきは、名門同士の理想の結婚であると周囲は認めている。
いかに政略的な婚姻であっても、この宴の場でカサンドラに対して何の振る舞いもしないわけにはいかなかった。
彼は静かにカサンドラの手を取り、丁寧に挨拶するように微笑みかけた。
「レギュラス様からお誘いいただけるなんて、光栄ですわ」
カサンドラは優雅に目を輝かせ、言葉を返す。
「当然のことですから」
レギュラスは淡い口調ながらも、確固たる責任感を宿した言葉を返した。
音楽は優雅に流れ、レギュラスとカサンドラは旋律に合わせて寸分の狂いなく踊り出す。
その動きはまるで緻密な機械のように正確で美しく、観る者の目を釘付けにした。
周囲の視線がふたりに注がれているのを、二人は十分に知っていた。
お互いの顔はわずかな距離に近づき、息遣いさえも聞こえてくるほどに接近している。
だが、その一瞬一瞬が、カサンドラに対してレギュラスの胸に何の感情も呼び起こさなかったという事実は、冷たくも痛い現実だった。
もしも、彼が目の前のこの令嬢に対して、アランに抱くような感情の一滴でも抱けていたなら、
今この瞬間、完璧に正しいステップを踏むだけとなってしまった踊りも、胸を躍らせる何かを生み出していただろう。
しかし、彼の内心はただ、義務と形式の中に閉じ込められ、無機的な彩りでこの場を飾っているだけに過ぎなかった。
静かな笑顔の裏に隠された、凍てつくような無情な空気が、宴の華やかな灯りの中で微かに漂っていた。
「カサンドラ様、美しいわ」
「お似合いのお二人ね」
「レギュラス様と踊れるだなんて、羨ましい限りです」
そんな声が大広間に響き渡り、ふたりの周りに湧き起こった。
レギュラスはダンスの旋律に合わせてカサンドラにささやいた。
「皆があなたを称えていますね」
それに対し、カサンドラは微笑んで返す。
「レギュラス様のお美しさに、みなさま釘付けですわ」
だがレギュラスは心の中で、別にこのまま無言でいてもいいのではないかと感じていた。
それでも、世間話でも何でも、とりあえず何か言わなければならないと思い、言葉を選びながら話題を探した。
しかし会話はぎこちなく途切れがちで、次に何を言うべきかもわからずに戸惑った。
思い返せば、アラン・セシール以外の女性とまともに話すことすら、レギュラスにはほとんどなかった。
カサンドラに対して近づこうとするのは、自らの意思というよりは家同士の政略婚約を結んだ責任感や礼儀から動かされているのだった。
これから先、卒業後の未来を共に過ごすことになるのだが、うまくやっていけるのか不安は確かに胸にあった。
長年共にしてきたアランだけが、レギュラスの心の拠り所だった。
ほかの誰かに生理的な欲求を抱いたことすらなく、初めての感情ばかりで戸惑っているのだ。
純血一族としての宿命、ロズィエ家との婚姻で子を成しブラック家の跡取りを増やすという責務を果たさねばならない。
だが、そのためにはこの目の前にいる女性と深く関わり合うことが必須だ。
頭で理解してはいても、自分にそれが果たしてできるのかどうか――疑念が燻り続けていた。
なぜ世継ぎというものは男女の肉体的な結合からしか生まれないのか。
こんな場面で、人類の根本的な営みについて無意味な疑問が浮かぶことがあまりに馬鹿馬鹿しく、我ながら笑ってしまいたくなった。
それでも、この運命から逃れられないのが自分なのだと痛感し、皮肉な現実に呆れ返った。
ようやく華やかなダンスの旋律が途切れ、レギュラスはカサンドラの手を静かに離した。
その手が空を切った瞬間、体の奥深くに重い疲労がどっと押し寄せてきた。
「ありがとうございました、レギュラス様」
カサンドラは礼儀正しく微笑み、言葉を送った。
「こちらこそ」
レギュラスは慣れた返事を淡々と返す。
社交界で何度も叩き込まれた立ち振る舞い、会話の仕方、仕草や笑顔――。
そのどれもが、今となっては当たり前すぎて何の感慨も湧かない。
けれど、この宴の中で何か見えないものが静かに削られていくような気がした。
こんなにも豪勢な宴などなくていい。
煌びやかな衣装も不要で、音楽に合わせて決められたステップを踏むだけの機械的なダンスにも何の意味も感じない。
もし、アランがそこにいてくれさえすれば、他に何もなくても心の中が満たされたのに。
カサンドラの隣で、すべての条件が整えられた完璧な未来を手に入れたとしても、レギュラスの胸を満たすものは何もなく、ただ虚無が広がるばかりだった。
それが「虚無」だなどと考える時点で、自分はまだ精神的に未熟なのだと、レギュラスは心の中で律した。
これはあくまで家と家の繋がりを守るためのものであり、誇り高き純血の血統を繋ぐための役割なのだ。
愛や恋や、そういった個人的な感情は、本来であれば混ぜてはならないものだ。
理想的な跡取りとして、家のために自分の感情を抑え込まなければならない。
華やかに飾られた大広間で、響き渡る拍手や星のような灯りの下に佇みながら、レギュラスの心は静かに孤独と虚しさを抱え込んでいた。
踊りを終えたレギュラスは、静かに大広間を抜けスリザリン生の席へと歩を進めた。
ほっと息をつける、この瞬間の静けさが心地よかった。
「見事でしたよ」
バーテミウスが軽やかに声をかける。
「それはどうも」
レギュラスは淡々と答えた。
バーテミウスの隣では、肩肘を張らずに自然体でいられる。
彼はアランセシールとの関係も理解してくれていて、もう隠したり取り繕ったりする必要がない気楽さがあった。
「ロズィエ家の令嬢も、セシール嬢に引けを取らない美しさじゃないですか」
バーテミウスは笑いながら、少し皮肉を込めて言った。
その言葉には暗に「足るを知れ」と諭すような響きが混ざっていた。
レギュラスは小さくため息をつく。
側から見れば、カサンドラは十分すぎるほどに美しく、理想的な令嬢なのだろう。
しかし、その美しさに何も感じられない自分自身に、時折疲れを覚える。
「美人に囲まれて羨ましい限りですよ」
バーテミウスは呑気にそう続けた。
「呑気ですね、ほんとに」
レギュラスは苦笑しながら返す。
バーテミウスのような男こそが、家の責務を淡々と果たしていけるのだろう――そう思った。
感情を巧妙に切り離し、見た目の美しさや立場を素直に称え、楽しむ度量を持つなら、こんなややこしい葛藤からは遠ざかれるのかもしれない。
自分はどうしても気持ちが入り混じり、家の事情も、恋愛も、個人的な感情を無視することなどできない。
だが、バーテミウスのような軽やかな会話に触れるひとときだけは、複雑な思考から解き放たれ、気持ちが穏やかになるのだった。
煌びやかな宴の陰にひそやかに並ぶ、気心知れた席でかわす本音と安堵。
その時間だけが、レギュラスの心をやさしく慰めてくれた。
レギュラス・ブラックは、その端正な顔立ちを微塵も揺るがすことなく、完璧すぎるまでに貼り付けた美しい笑顔を浮かべ、カサンドラの手を取った。
近づき寄るふたりの顔。吐息さえも交わるほどの距離でありながら、レギュラスは最後まで彼女の瞳を見ることはなかった。
ほんのすぐ傍にいるのに、心の距離だけはどうしても埋まることなく、二人の間には静かな沈黙が流れる。
交わされる言葉はなく、むしろ外野の歓声や話し声のほうが耳に届く始末だった。
カサンドラは自分の胸に刻んだ誓いを思い返していた。
ブラック家に嫁ぐロズィエ家の令嬢として、羨望されるほどの地位も、富も、美しさも、すべてこの身に備えて凛と立つことを決めた。
せめてレギュラスと踊るこの時間だけは、美しい姿であることに意味があると信じて。
心が張り裂けそうな思いは確かにあった。
だが、この眩い広間の中心で、自分を称える声をあげてくれる人々の前で、みっともない姿を晒すことだけはカサンドラのプライドが強く許さなかった。
どれほど孤独に苛まれようとも、誇りを手放すつもりはなかった。
「レギュラス様、ありがとうございました」
踊り終わり、カサンドラはかすかに微笑んで言った。
「こちらこそ」
レギュラスも、まるで義務を果たすかのような抑えた声で答える。
その短いやり取りは、やがて夫婦として結ばれるはずの二人とは到底思えないほど、形式的でそっけなかった。
レギュラスの瞳には、この自分という存在が決して映ることはない――そんな事実を、踊った後にはっきりと思い知らされた。
テーブルに戻ると、カンブリス校から来た生徒たちが温かい声をかけてくれる。
「カサンドラ、本当に美しかった!」
「誇らしい姿だったわ!」
けれど、その温もりすらも、今の彼女には胸を少し締めつけてしまう。
ロズィエ家の令嬢として育てられてきた自分は、こんなことで涙を流すほど弱い女ではない。
美しいと称えられるこの顔に、涙や弱音など一切似合わない。
だからこそ、カサンドラは美しい口元を持ち上げて、カンブリスの同級生たちの励ましや声援に華やかに応えてみせる。
それが、誇り高いロズィエ家の令嬢としての、自分が守れる最後の美しさなのだと信じて。
カサンドラ・ロズィエは心の底に棘のように刺さる違和感を拭いきれず、密かに侍女に命じてアラン・セシールの素性を調べさせていた。
レギュラス・ブラックが特別に目をかけ、ブラック家の邸宅で大切に囲われているという従者――。
アラン・セシールという少女は、見目麗しく、ただの従者という立場でなければ、どこかの純血一族、いや、ブラック家当主の正妻として迎え入れられてもおかしくないほどの美しさを持ち合わせていた。
そして何より、あの翡翠色に澄んだ瞳――カサンドラはそれに、言葉にならない違和感を覚えていた。
だから彼女のルーツを探らせるのは、ごく自然な流れだった。
──やがて明らかになった事実。
アラン・セシールの母リディア・ブラウンは、かつてイングランド王宮で仕えていた稀に見る美貌の侍女だった。
その美しさは、王妃さえ圧倒し、王の寵愛を独占するほどに。
だが王を惑わせた罪、王妃の名誉を損ねた罪によって、リディアは宮廷を追われることとなる。
破滅の淵にあった彼女に救いの手を差し伸べたのが、当時ブラック家に仕えていたロイク・セシールであった。
ロイクはオリオン・ブラックに強く懇願し、ついにはリディアを妻として迎え入れる許しを得る。
処罰を免れ、ブラック家の従者の地位に落ち着いたリディアのもとに生まれた娘――それこそが、翡翠色の瞳をもつアラン・セシールだった。
つまり、アランはかつて「罪人」の娘。
レギュラス・ブラックは、はたしてどこまでこの過去を知っているのだろうか。
カサンドラはホグワーツの校舎でアラン・セシールを見かける。
レギュラスからいくらか距離を置いているのは、自分への遠慮や気遣いゆえなのだろうか――そう考えれば理解もできる。
だがレギュラスは、周囲も露骨に気づくほどに、視線でアランの存在を追い続けていた。
自分の存在を慮った控えめな態度よりも、むしろ見せつけられる一方のレギュラスの視線こそが、カサンドラの誇りを激しく傷つけていく。
見たいものではない感情を、これでもかと見せつけられる痛み――
いっそ、隣同士で並んでいればよかったものを。遠慮深い距離感でしか関われない現実の方が、よほどみじめだった。
名門ロズィエ家の令嬢として、どれほど気高く立ち続けていても、どうすることもできない孤独と嫉妬が静かに心を蝕んでいく。
カサンドラは、翡翠の秘密にたどりついたその夜、仮面の微笑みの奥で、焼け付くような屈辱を人知れず噛み締めていた。
カンブリス校の生徒たちがホグワーツを去り、静かな日常が戻った。
アランは息をつくように胸を撫で下ろした。
カサンドラが招かれている間は、以前ブラック家の屋敷で彼女にレギュラスとの関係を鋭く問われた記憶が甦り、気持ちを張り詰めて過ごさねばならなかった。
二度と、あのときのように問い詰められる事がないように。
そして、できる限りレギュラスから距離を取り、カサンドラからも自分が視界に入らぬように細心の注意を払っていた。
「アラン、つれないですね。何か気に触ることでもしました?」
レギュラスは呑気な口調で問いかけてくる。
たった今、婚約者のカサンドラを見送ってきた男とは思えないほど、一心にアランだけを見つめる瞳。
その不誠実なまでのまっすぐさが、アランには息苦しくて仕方なかった。
「レギュラス……ブラック家の誇りを守り続けるためにも、カサンドラ様ときちんと向き合うべきです」
アランの声音には抑えきれない本音が滲む。
かつて、シリウスがいなくなった心の隙間を埋めようと、アランは縋るようにレギュラスに求めてしまった。
きっとレギュラスも、背負いきれない重責から逃げたくて、生理的な感情に身を委ねた。
たまたまそこにいた異性が自分だっただけ――きっと、そういうことなのだ。
でも、ホグワーツに来て六年。
もう幼さや逃げを正当化できるほど、子供でいることは許されないと気付いていた。
真剣な話をしようとするアランの意志を、レギュラスはまるで理解する気もなく、ただ髪にそっと手を滑らせ、その感触を楽しむような余裕の表情を浮かべていた。
「レギュラス……」
話を聞いてほしい、と祈るような視線で彼を見つめるアラン。
次の瞬間、視界がそっと暗くなったかと思うと、唇が突然覆われた。
きちんと話をし、ずっと曖昧だった境界線に自分の手で線を引こうという決意は、レギュラスの行動一つでたやすく呑み込まれていく。
やわらかく閉じていた唇は、彼の熱に抗えずに開き、伸びてくるレギュラスの舌に絡め取られる。
自分のものはまるで捉えられた獲物のようにおずおずと縮こまり、思考も溶けて消えていく。
互いの距離も、きっと守るべきはずだった境界線も、やがて曖昧になって頭がくらくらする。
冷静に抱いていた強い決意も、次第に熱に溶かされ、流されてしまった。
これが愛なのか、情なのか、それとも単なる生理的なものなのか。
アランにはもう、その区別すらつけられなくなっていた。
彼が必死に自分へ注ぐ愛情の大きさに、アランはかえって息苦しさを覚えた。
肩身の狭さからではない。
ただ、その大きな愛に応えるべき自分の心は、決して同じ方向を向いていないという事実があった。
それどころか、アランの心の中にはシリウスとの未来への儚い夢が揺らめき続けていた。
その秘密がレギュラスに知られることを、常に恐れている。
レギュラスが誠実に思いを届けてくれるほどに、自分の裏切りが露わになるようで、身を引き裂かれるような苦しみを覚えた。
レギュラスの真っ直ぐな視線と情熱が、幼い頃から変わらず胸に宿るシリウスへの愛を、まるで浮ついた罪のように映し出してしまう。
それは自分の人生そのものだったのに、その愛を貫くことが、何よりもつらい道のりだと気づかされてしまう。
「明日は試合を応援してもらえたら……頑張れそうです」
レギュラスが静かに告げた。
アランはゆっくりと数回頷いた。
ホグワーツの生徒として、同じ寮のクラスメイトとして、友として、そして仕える従者として。
彼を応援したいという気持ちは確かにあった。
振り解いた手は、いつの間にかレギュラスの手に再び重なっていた。
その手をじっと見つめながら、心の中に渦巻く思いを押し込める。
お願いだから、愛そうとしないでほしい。
愛だと錯覚していることに、どうか気づいてほしい。
フランスの純血一族ロズィエ家の令嬢との婚姻が決まり、すべてを手に入れようとしているブラック家の次期当主。
勉学も魔法の才覚も兼ね備えるレギュラスが、愛の真似事で誤った道へ迷わないでほしい。
目を醒まして。
本当に大切にすべきものを、見誤ってほしくない――。
揺れる翡翠の瞳と、穏やかな灰色の瞳。
二つの視線が絡み合い、しかし見つめる先は決して重ならないまま。
夜の闇に包まれて、アランの内なる叫びは誰にも届かず、静かに消えていった。
ホグワーツとカンブリス魔法学校の間で熱戦の火蓋が切って落とされたクィディッチの試合は、澄み渡る秋空の下で繰り広げられていた。
スリザリンのシーカーの座に立つのは、今なお魔法界の耀きでありながら多くの影を纏うレギュラス・ブラックだ。
ホグワーツの四つの寮を超えた熱い応援が、広大な競技場に満ちていた。
色とりどりの寮章を背負う者たちが、ひとつの心となってレギュラスの名を叫んでいる。
その中で、アランもまた、静かにしかし確かな意志を込めて声援を送った。
彼女の視線の先には、自由自在に、しなやかに、大空を切り裂く彼の姿があった。
箒の上で軽やかにバランスをとりながら、素早く旋回し、スピードを自在に操る。
彼の動きは飛翔する鳥そのものであり、まるで自身の翼を手に入れたかのように生き生きとしていた。
綿菓子のように青く澄んだ空に、その黒衣が躍動し、少年のような輝きを放っている――そう、幼い頃の彼の姿が霞んで蘇るようだった。
過去のレギュラスは、もっと伸び伸びと自由で、眩しい光に包まれていた。
彼はシリウス・ブラックの影に隠れるようでありながらも、シリウスとは異なる輝きと可能性をもっていたはず。
だが今は彼の内に潜む深い闇が、あのかつてあったはずの純粋な光を静かに覆い尽くしていっているように思えた。
今の彼の中には、あんなふうに自由に笑い、楽しそうに飛び回る少年の姿など、もうどこにも存在しないのだ。
試合は接戦の様相を呈していた。
両チームのビーターたちは手強く、巧みに攻防を繰り返しながら加点を重ね、得点は互いに拮抗している。
空高く舞うスナッチを見つけたレギュラスとカンブリス校のシーカーが2人、必死の形相で追いかけ続ける。
声援はますます激しさを増し、応援席の熱気も最高潮に達していた。
想像を絶する速さで高空を縦横無尽に飛び回り、くるりと宙返りをしては急加速するスナッチ。
まるで、挑発するかのように彼らの手の届かぬ場所を次々と逃げていく。
その間にもビーターたちの攻撃は続き、双方に得点が入り続けている。
レギュラスは、箒の上で驚異的なバランス感覚を保ちつつ、必死にスナッチに手を伸ばした。
一歩でも崩れれば、地に叩きつけられる危険があるはずなのに、彼はその恐怖をまるで知らないかのように、全身全霊で小さな金色の玉を追いかけた。
その姿は、かつてアランに向けていた強い思いと重なった。
折れそうにもならず、決して諦めず、ひたむきに愛を貫こうとする彼の姿勢そのものだった。
彼の飛翔と闘志は、誰よりもまっすぐで痛いほどに切なく、美しかった。
レギュラスは見事にスニッチを掴み取り、ホグワーツに栄光の勝利をもたらした。
小さな黄金色の玉をしっかりと握りしめ、箒の上で優雅に宙を舞う彼の姿は、まるで空を切り裂く白鳥のように美しかった。
その飛び方は自信に満ち溢れていて、堂々としながらも軽やかに輝いていた。
歓声が渦巻く全校生徒の前で、勝利の証を高らかに掲げるレギュラスの表情は、まさに今この瞬間、誰よりも眩しい光を放っていた。
アランは遠くの観客席から、その彼の姿を静かに見守っていた。
心は複雑で揺れていたけれど、目に映るあの勝者の風格と輝きは、確かなものだった。
今のレギュラスは、やはりシリウスにどこか酷似している。
外見だけでなく、その堂々とした立ち振る舞い、空を舞う自由さ。兄弟としての共通の何かが確かに息づいているのだ。
本人はきっと認めたがらないだろうが、その似ている部分を否定することは誰にもできない。
しかし、もし昔ながらの変わらぬ彼が隣にいてくれて、あの愛情を向けてくれたなら、自分は同じだけのものを返せたのだろうか。
それとも、いかに彼が輝いていても、やはり心はシリウスに惹かれ、レギュラスの姿を正視できずにいるのだろうか。
答えの見えない問いが胸の奥に重く沈み込む。
勝利の歓喜の空間の中、アランの想いだけは孤独と共に静かに揺れていた。
クィディッチの劇的な勝利に、ホグワーツは歓喜の渦に包まれていた。
四寮の壁はこの日ばかりは完全に消えて、生徒たちは互いの肩を叩き、拳を突き上げ、あらゆるところで歓声と笑い声が上がった。
大広間では、眩い無数のキャンドルが宙に浮かび、天井には星空のような魔法の演出が施されていた。
ローストビーフや焼きたてのパイ、色とりどりの野菜、山盛りのプディングやシュガー菓子、炭酸バタービールの入った大きな樽が並ぶ。
ホグワーツの生徒たちも、カンブリス校の生徒たちも、そして各寮や学年といった枠組みすら忘れ、入り交じって歓談し、ダンスの輪がいくつもできていた。
その中心で、称賛の言葉がレギュラスに惜しみなく降り注ぐ。
「レギュラス様、さすがですわ。素晴らしい活躍っぷりでしたわね」
カサンドラが麗しい微笑みを浮かべて声をかける。
「光栄です、カサンドラ」
レギュラスは形式どおりに答えながらも、どこかよそよそしく微笑んでみせた。
その隣に立つカサンドラは、まるで当然のように彼の横に並ぶ。
周囲も夫婦然とした二人の並びに違和感を抱かず、初めからそうあるべきだと当然のように受け止めている。
祝福の言葉が次から次へと届けられ、「おめでとう!」「かっこよかったぞ!」と上級生も下級生も隔てなく声をかけた。
本当は、アランに自分の勝利を、一番に――純粋な気持ちで祝ってほしかった。
だが重厚なテーブルを挟んでカサンドラの隣にいなければならない現実が、レギュラスには息苦しく、心に重い影を落としていた。
料理の上に美しく盛り付けられたご馳走も、バタービールの泡も、耳に届く称賛の喧騒も、どこか上滑りして感じられた。
一息ついたとき、カサンドラがそっと尋ねる。
「食べていらっしゃいますか?」
「あっ、ええ、まあ、適当に……」
常であればアランが皿に料理を盛り付けてくれる。それがないだけで、まるで食べること自体を忘れてしまいそうだった。
カサンドラは一瞬静かにレギュラスを見つめ、手元の料理を取り分けて彼の皿へと差し出す。
「さあ、召し上がってください。こんなに豪勢な夕食ですから」
「ええ、ありがとうございます」
礼儀正しく取り皿を受け取るレギュラスだが、そのやりとりの全てが、胸の奥で何かがこすれる違和感を生み出していく。
笑顔のまま無意識にアランの姿を探してしまう――彼女はきっと気を遣い、宴の場から距離を置いているのだろう。
だが、その配慮こそが、レギュラスにとっては焦りと苛立ちの種でもあった。
アランが気を遣って身を引いてくれるほど、彼女の不在が心の空白となって広がっていくのを、どうすることもできなかった。
大広間の片隅、アランはハッフルパフ生のリディア・ヘンリー、グリフィンドールのミカエル・フォレストとともに食卓を囲んでいた。
レギュラスからは遠く離れた席。ダンスの輪がいくつも広がる喧噪の間に隠れて、今の自分の場所は彼の視線からも死角になっている。
アランはそっと胸を撫で下ろした。
監視されるような鋭い視線も、意思を押さえつけるような重圧もなく、ただ自由に自分の選んだ場所で、友人たちと語り合うことができる。
そんな、ありふれたようでいて、ずっと遠ざかっていた当たり前の瞬間。
解放感に満ちた空気の中、ひとときの幸せがひそやかに満ちていった。
「レギュラス・ブラックは本当に、何もかもが完璧だな」
ミカエルは素直な口調で賛辞を口にする。
グリフィンドールの生徒でありながら、宿敵とも言えるスリザリン生のレギュラスを素直に感服して称賛できるその心根、アランにはそれがとても眩しく思えた。誰にでもできることではない。
「あなたこそ、素晴らしい活躍ぶりだったわ」
アランは褒め返す。
「本当よ。私はレギュラス・ブラックよりミカエルを応援してたの」
リディアも笑顔を見せてミカエルに言う。
ミカエルは少し照れくさそうな笑顔をこぼした。
その素朴で純粋な反応に、胸がじんわりと温かくなる。自由で屈託なく、光を浴びるように輝くその姿を、アランはいい友人だと心から思った。
レギュラスの隣を離れて見える世界は、こんなにも大きく広がっている。
自分の意思で選び、決めることができる。自分の思いを信じて、未来へ向かって進める。
幼い頃から「従わなければならない」と染みついていた性分も、今は少しだけ薄れているような気がした。
誰の目も気にせず、自由に笑い、話し、好きな人たちと時間を分かち合える――そんな当たり前の幸福が、今夜はことさら美しく感じられた。
誰もがレギュラス・ブラックの隣にいるカサンドラ・ロズィエを、まるで理想の令嬢だと称えた。
ホグワーツに招かれた時も、この華やかな宴の最中も、甲高い声やざわめきが絶えず、彼女を讃える言葉が飛び交っていた。
「レギュラス・ブラックの美しい婚約者」
「ブラック家に嫁ぐ名門ロズィエ家の令嬢」
「魔法界が憧れる理想の婚約者像」
「未来の魔法界を率いる最高の二人」
そんな輝かしい言葉たちが、彼女の名に重く載せられては嬌声のように謳われていた。
レギュラスはその世辞を綺麗な笑顔で受け流す。
その笑みはまるで完璧に調律されたピアノの調べのように清楚で美しい。
カサンドラはその隣で静かに心地よさを感じていた。
けれど、冷静に彼を観察している彼女だけが気づいた。
レギュラスは、やはり自分のことを真剣に見てはいない。
その視線は常に何か遠くを漂い、時に曇り、時に影を落とすことがあった。
カサンドラの記憶は一瞬、ブラック家の屋敷でのあの場面に飛んだ。
そこでレギュラスの視線の先にいたのは、使用人ながら並外れた美貌を持つアラン・セシールだった。
純血ではあるが代々ブラック家に仕え、身分も高くはない、むしろ卑しいとすら思われる職に就いている。
あの少女を、レギュラスはまるで夢中で見つめていた。
その時のレギュラスの瞳は、普段は見せない何かを映し出していた。
それはまるで秘密の光のようであり、ただ一人の女性へ向けられた純粋で強い情感だった。
その光景がカサンドラの胸を締め付ける。
名門に育ち、尊厳を守るために大切にされてきた自分が、あの使用人の娘にすべてを掻っ攫われてしまう気がする。
「レギュラス様、皆様本当にレギュラス様を称えていらっしゃいますわ」
カサンドラが、必死に言葉を紡ぐ。
「ええ、恐縮ですね」
レギュラスは淡々と短く答えるだけで、話は弾まなかった。
「私の学校の子たちもレギュラス様の箒さばきを目を見張っておりましたのよ」
カサンドラが続ける。
「照れますね」
レギュラスは控えめに応じ、また微かな笑みを浮かべる。
カサンドラの必死な会話の試みは次第に空回りし、言葉は途切れがちになり、やがて消え入るように萎れていった。
今も目の前にいるレギュラスは、おそらく上の空だろう。
話しかけても彼は適当に相槌を打ち、顔には貼り付けたように整った微笑みだけが浮かんでいる。
その様子にカサンドラは深い孤独と惨めさを感じずにいられなかった。
レギュラスは皿の上の料理を適当につまむと、ナイフとフォークを音もなく静かにテーブルに置いた。
丁寧に紙ナプキンを膝から外し、そのままテーブルの端に置く所作から、この場所を去ろうとする意図が手に取るように分かった。
その一連の動きを見つめていたカサンドラの胸には、言いようのない寂しさがじわりと広がった。
「レギュラス様、お食事はもう終わりですか?」
声に出した言葉は穏やかだったが、その裏に隠された切ない思いを完全に抑えることはできなかった。
「ええ、そろそろ寮に戻ろうかと」
レギュラスは椅子を後ろに引き、ゆっくりと立ち上がった。
それを見てカサンドラも慌てるように立ち上がる。
「私もそろそろ戻りますわ。少し夜のホグワーツを案内してくださいませんか?」
その言葉は、彼女の精一杯の努力だった。
直接的に引き止めることは、プライドが許さない。だからこそ、できるだけ自然に、彼との時間を少しでも延ばそうとする切ない試みだった。
「すみません、カサンドラ。今日は久しぶりのクィディッチで予想以上に疲れたようです。
また明日、お時間をいただけますか?」
レギュラスの言葉は丁寧で、完全な拒絶ではなく「明日また時間をくれないか」という形で包まれていた。
その配慮は、カサンドラのプライドを守ろうとする温かな意図が込められているように思えた。
けれど、どのような言い回しであろうとも、断りは断りだった。
その現実が生み出す痛みは、どんな優しい言葉でも和らげることはできなかった。
「そうですわね……また明日、楽しみにしておりますわ」
カサンドラは必死に自然な笑みを作り、声が震えないよう細心の注意を払いながら答えた。
「それでは、失礼します」
そう言い残して、レギュラスは足早に大広間から去っていく。
その後ろ姿は、どれほど追いかけても決して振り返ることのない冷たさを物語っていた。
彼女がどれほど必死に微笑み、どれほど優雅に振る舞おうとも、その視線が自分に向けられることは決してない。
絶対に自分を見ようとしない男と結ばれなければならない運命を、カサンドラは心の底から憎んだ。
名門の血筋に生まれ、完璧な令嬢として育てられてきた自分が、こんなにも孤独で惨めな思いを抱かなければならないとは。
宴の華やかさが続く大広間で、一人取り残されたカサンドラの心には、深い絶望だけが静かに沈んでいった。
レギュラスは校舎の広がる空間を何度も見渡したが、アランの姿はまったく見つからなかった。
想像できるあらゆる場所を探っても、彼女を見つけ出すことは叶わない。
そこで、彼は慎重にローブの中から小さな指輪を取り出した。
それは、アランに贈った指輪と対になる特別な指輪だった。
通常はアランのみが身に着けるものだが、レギュラスも自分の指に嵌める用に用意していた。
普段はつけることを避けていたが、それはオリオンやヴァルブルガに見咎められ、面倒ごとに巻き込まれないためにローブのポケットに忍ばせてあったのだった。
この指輪には、後からかけられた特殊な呪文が秘められていた。
それは「共鳴手繰り寄せの呪文」と呼ばれ、指輪の片方がもう片方の位置を遠く離れていても感知し、手繰り寄せようとする魔法だった。
指輪をそっと握り呪文を唱えると、魔力が指に流れ込む。
やがて、不意に空間の中に微かな光の糸がほのかに映り、どこにアランがいるのかを示し始めた。
その糸に導かれ、レギュラスは中庭の噴水のほとりへと歩みを進める。
そこには、アランが他寮の生徒たちと共にいる姿があった。
彼女の隣には、以前四寮合同の魔法決闘授業で共にしたハッフルパフのリディア・ヘンリーとグリフィンドールのミカエル・フォレストがいた。
彼らは自然に親しげに語り合い、アランは屈託のない笑顔を見せていた。
レギュラスはそれを見て、これまで知らなかった彼女の新たな一面を垣間見た気がして、胸の奥にざわつくものを感じた。
一緒に育ち、恋をして、すべてを共有してきたはずの自分でさえも知らなかった顔が、そこにあったことが恐ろしく、理解の及ばぬものに思えた。
距離を保ちながら、レギュラスは静かに呼びかけた。
「アラン」
彼に気づき、アランは振り返る。驚きがその顔を一瞬覆った。
ミカエルとリディアも同じく驚きの表情でレギュラスを見つめる。
アランの視線だけならばさほどの動揺ではなかったかもしれない。だが他の二人の視線は、レギュラスの胸に苛立ちを呼び覚ました。
「レギュラス……宴は大丈夫ですか?」
アランは気遣うように問う。
「ええ、疲れましたから」
簡潔で冷静な言葉だ。
ミカエルは手を差し伸べ、笑顔で言った。
「見事だったよ、ブラック。君のおかげで素晴らしい勝利だった」
彼の言葉には心からの尊敬と友愛があふれていた。
しかしレギュラスの返答は掠れた苛立ちを含んだものだった。
「光栄です。あなたの守備が優れていたから、安心してスニッチを追うことができましたよ」
確かにミカエルのビータ―としての腕は、レギュラスに集中の余裕を与えたのだった。
しかしその冷静な言葉の下に、かすかな不満が隠されていた。
「ブラックにそう言われると照れますよ」
ミカエルは屈託なく笑った。
アランはリディアと顔を合わせてにこにこと微笑んでいた。
だがその姿を見つめながら、レギュラスの胸に焦りに似たどろりとした感情がゆっくりと湧き上がるのを彼自身も感じていた。
「行きましょう、アラン。少し話したいことがあります」
レギュラスは口調を変えず、アランの手を取ると寮へと向かい始めた。
静かに頷くアランは、リディアとミカエルの方を振り返り、名残惜しそうに見つめた。
そのしぐさに、レギュラスは微かな緊張を覚え、表情を強ばらせた。
レギュラスは無意識のうちにアランの手を弾き、歩幅を大きくし早足で歩き始めていた。
冷たい夜風の中、アランは息が上がり、急速な彼の足取りに我に返る。
「すみません、早かったですね」
レギュラスは申し訳なさそうに言った。
アランはそれでも首を振ったが、確かに彼のペースにはついていけず、呼吸が少し乱れかけていた。
それでも、彼女は微笑みをたたえ、小さな声で告げた。
「おめでとうございます、レギュラス。素晴らしい試合でした」
本来ならば、この勝利の言葉はカサンドラでもミカエルでもなく、最初にアランから聴かれるべきだったはずだった。
しかし、今のその祝福の言葉は、漂うわずかな気まずさを打ち消そうとするかのようなもので、重みを持つことはなかった。
レギュラスの胸の中には言葉にできないもやもやが渦巻いていた。
何か言いたい。しかし、口を開けば感じの悪い言葉ばかりが溢れ出しそうで、恐ろしくてたまらなかった。
カサンドラがずっと隣に居た宴の時から漂っていた不快な苛立ちが、今も彼の全身に纏わりついていた。
つい先ほど見てしまった彼女の知らない交友関係や広がる世界が、レギュラスの胸にずしりと重くのしかかる。
アランの心の世界が広がれば広がるほど、自分の隣に置きたいという願いから遠のいてしまうのではないかという恐怖が彼を苛んだ。
様々な感情が絡み合い、それらはひとつの巨大な苛立ちの塊となってレギュラスの内側でうごめいていた。
だが、そんな沈黙をアランは疲労のせいだと解釈したのか、柔らかく声をかけた。
「寮に戻って、休みましょう」
レギュラスは短く頷き、湧き上がる負の感情を必死に押し殺した。
彼は掴んでいたアランの手首をそっと放し、代わりに優しくその手を握り直した。
自分が彼女に贈った指輪を感じ取り、アランが今も変わらず自分のものだという証しを確かに手で感じる。
それだけが、レギュラスの心をほんのわずかに落ち着かせるのだった。
静かな談話室のソファに腰を下ろし、アランはふと気づいた。
レギュラスの指に、あの指輪が輝いていることに。
彼が自分に贈った指輪と対になるその品は、明確に同じものだと彼女には見抜けた。
胸の奥からざわつく感情が波紋のように広がった。
もしこの指輪がシリウスの手にあったならば――それは甘く切なく、温かな幸福の象徴となっただろう。
しかし、レギュラスの身につけるそれはどこか支配の色が混じり、心を締めつけて苦しくさせた。
それに加えて、彼がこの指輪をカサンドラ・ロズィエがホグワーツに訪れている状況にも構わず身に着けているという事実は、アランの心をさらに窮地に押し込める苦しみを容赦なく植え付けていった。
もしあの気高く美しい令嬢がこれを目にしたなら、彼女をどれほど蔑ろにし、どれほどの屈辱を与えることになるのか。
考えただけで恐ろしく、背負いきれぬ重荷に思えた。
「レギュラス……指輪……」
その言葉を続けることはできなかったが、その声には自然と外してほしいという意図が込められていた。
「ああ、これですね。どうです、似合いますか?」
レギュラスは小さく指を広げ、誇らしげにアランの方へ見せてくる。
「似合うとか、似合わないとかじゃないんです」
アランの心は戸惑い、切なさに震えた。
レギュラスにはそれが伝わらず、意図がずれてしまうことに苦しんだ。
「カサンドラ様が目にすれば、いい気持ちにはなりませんわ」
アランは畳みかけた。
ようやくレギュラスはアランの言葉の意味を理解したようで、少しばつが悪そうな表情をした。
「でもご安心を。カサンドラは理解してくれているようです」
レギュラスは涼やかに言い切る。
その「理解」とは何を意味するのか、アランにはまったく分からなかった。
だからこそ恐怖を感じた。
彼がカサンドラを軽んじようとしたり、蔑ろにするような残酷さを持ち、
それに関して良心の呵責や罪悪感を一切見せないことが、彼女にとって最大の恐怖の源だった。
「レギュラス、ロズィエ家の令嬢を第一に考えるべきです。彼女はあなたの婚約者なのですから」
アランは信じられない思いで言った。
これほど当たり前のことを、今さら言わねばならない自分の無力さに胸を締めつけられながら。
だがレギュラスは、そんな誰の目にも明らかな事実を受け止めようとせず、
「大丈夫です。父も母ももうあなたのことを認めていますから」と自信たっぷりに答えた。
しかし、違う。
彼女にとって問題なのはそこではない。
互いに認め合ったところで、見ている未来や考え方が大きくずれていること。
その隔たりこそが、もはや凡そ埋めがたい壁となり、2人の間に暗く広がってしまっていた。
談話室の静かな灯りの下、言葉と沈黙、そして思いは交錯し続ける。
レギュラスの手が自然とアランの背中に回った。
そのまま引き寄せられるようにして、彼女の顔は彼の胸に触れ、恋人同士の暖かな抱擁がそこに生まれた。
けれど、その温もりが彼女の内臓を締め付けるように苦しく響いた。
レギュラスに包まれた腕の中で感じるのは、いつだって戸惑いと恐れ、そして逃れられない苦しさばかりだった。
「レギュラス……ここは談話室よ……」
アランの声は微かに震え、視線は周囲の広い空間を恐るようにさまよっていた。
ここは誰がどこからやってくるかわからない、あまりにも開かれた場所だった。
こんな場所でこんな行為をすることの苛立ちと不安が、胸を絶えずざわつかせていた。
「今日一日、ずっと離れていましたから……」
レギュラスの声には飢えたような寂しさが混じり、今その寂しさを埋めようとしているのだと強く伝わってきた。
けれどアランはどこまで応じ、どこから線を引くべきか、いつも分からなくなる。
そうした求められる愛情は、婚約者であるカサンドラに向けるべきものであって、使用人として生きる自分に注がれるものではない。
一方的に与えられるだけの愛に、刃のような痛みとして胸が裂かれていく。
その感覚に、心は静かに、しかし確実にすり減っていくのを感じていた。
その夜の静かな談話室で、二人の温もりの間に交錯する心の迷いと痛みが、かすかな震えとなって長く続いていた。
昼の柔らかな陽光が差し込む中、カンブリス魔法学校の生徒たちを見送るための最後の宴が華やかに催されていた。
親睦を深めるためのダンスが始まり、熟練の奏者たちによる心地よい演奏が大広間に響き渡っている。
その中央で、レギュラスは形式的に婚約者であるカサンドラ・ロズィエをダンスに誘った。
魔法界中に知られたブラック家とロズィエ家の結びつきは、名門同士の理想の結婚であると周囲は認めている。
いかに政略的な婚姻であっても、この宴の場でカサンドラに対して何の振る舞いもしないわけにはいかなかった。
彼は静かにカサンドラの手を取り、丁寧に挨拶するように微笑みかけた。
「レギュラス様からお誘いいただけるなんて、光栄ですわ」
カサンドラは優雅に目を輝かせ、言葉を返す。
「当然のことですから」
レギュラスは淡い口調ながらも、確固たる責任感を宿した言葉を返した。
音楽は優雅に流れ、レギュラスとカサンドラは旋律に合わせて寸分の狂いなく踊り出す。
その動きはまるで緻密な機械のように正確で美しく、観る者の目を釘付けにした。
周囲の視線がふたりに注がれているのを、二人は十分に知っていた。
お互いの顔はわずかな距離に近づき、息遣いさえも聞こえてくるほどに接近している。
だが、その一瞬一瞬が、カサンドラに対してレギュラスの胸に何の感情も呼び起こさなかったという事実は、冷たくも痛い現実だった。
もしも、彼が目の前のこの令嬢に対して、アランに抱くような感情の一滴でも抱けていたなら、
今この瞬間、完璧に正しいステップを踏むだけとなってしまった踊りも、胸を躍らせる何かを生み出していただろう。
しかし、彼の内心はただ、義務と形式の中に閉じ込められ、無機的な彩りでこの場を飾っているだけに過ぎなかった。
静かな笑顔の裏に隠された、凍てつくような無情な空気が、宴の華やかな灯りの中で微かに漂っていた。
「カサンドラ様、美しいわ」
「お似合いのお二人ね」
「レギュラス様と踊れるだなんて、羨ましい限りです」
そんな声が大広間に響き渡り、ふたりの周りに湧き起こった。
レギュラスはダンスの旋律に合わせてカサンドラにささやいた。
「皆があなたを称えていますね」
それに対し、カサンドラは微笑んで返す。
「レギュラス様のお美しさに、みなさま釘付けですわ」
だがレギュラスは心の中で、別にこのまま無言でいてもいいのではないかと感じていた。
それでも、世間話でも何でも、とりあえず何か言わなければならないと思い、言葉を選びながら話題を探した。
しかし会話はぎこちなく途切れがちで、次に何を言うべきかもわからずに戸惑った。
思い返せば、アラン・セシール以外の女性とまともに話すことすら、レギュラスにはほとんどなかった。
カサンドラに対して近づこうとするのは、自らの意思というよりは家同士の政略婚約を結んだ責任感や礼儀から動かされているのだった。
これから先、卒業後の未来を共に過ごすことになるのだが、うまくやっていけるのか不安は確かに胸にあった。
長年共にしてきたアランだけが、レギュラスの心の拠り所だった。
ほかの誰かに生理的な欲求を抱いたことすらなく、初めての感情ばかりで戸惑っているのだ。
純血一族としての宿命、ロズィエ家との婚姻で子を成しブラック家の跡取りを増やすという責務を果たさねばならない。
だが、そのためにはこの目の前にいる女性と深く関わり合うことが必須だ。
頭で理解してはいても、自分にそれが果たしてできるのかどうか――疑念が燻り続けていた。
なぜ世継ぎというものは男女の肉体的な結合からしか生まれないのか。
こんな場面で、人類の根本的な営みについて無意味な疑問が浮かぶことがあまりに馬鹿馬鹿しく、我ながら笑ってしまいたくなった。
それでも、この運命から逃れられないのが自分なのだと痛感し、皮肉な現実に呆れ返った。
ようやく華やかなダンスの旋律が途切れ、レギュラスはカサンドラの手を静かに離した。
その手が空を切った瞬間、体の奥深くに重い疲労がどっと押し寄せてきた。
「ありがとうございました、レギュラス様」
カサンドラは礼儀正しく微笑み、言葉を送った。
「こちらこそ」
レギュラスは慣れた返事を淡々と返す。
社交界で何度も叩き込まれた立ち振る舞い、会話の仕方、仕草や笑顔――。
そのどれもが、今となっては当たり前すぎて何の感慨も湧かない。
けれど、この宴の中で何か見えないものが静かに削られていくような気がした。
こんなにも豪勢な宴などなくていい。
煌びやかな衣装も不要で、音楽に合わせて決められたステップを踏むだけの機械的なダンスにも何の意味も感じない。
もし、アランがそこにいてくれさえすれば、他に何もなくても心の中が満たされたのに。
カサンドラの隣で、すべての条件が整えられた完璧な未来を手に入れたとしても、レギュラスの胸を満たすものは何もなく、ただ虚無が広がるばかりだった。
それが「虚無」だなどと考える時点で、自分はまだ精神的に未熟なのだと、レギュラスは心の中で律した。
これはあくまで家と家の繋がりを守るためのものであり、誇り高き純血の血統を繋ぐための役割なのだ。
愛や恋や、そういった個人的な感情は、本来であれば混ぜてはならないものだ。
理想的な跡取りとして、家のために自分の感情を抑え込まなければならない。
華やかに飾られた大広間で、響き渡る拍手や星のような灯りの下に佇みながら、レギュラスの心は静かに孤独と虚しさを抱え込んでいた。
踊りを終えたレギュラスは、静かに大広間を抜けスリザリン生の席へと歩を進めた。
ほっと息をつける、この瞬間の静けさが心地よかった。
「見事でしたよ」
バーテミウスが軽やかに声をかける。
「それはどうも」
レギュラスは淡々と答えた。
バーテミウスの隣では、肩肘を張らずに自然体でいられる。
彼はアランセシールとの関係も理解してくれていて、もう隠したり取り繕ったりする必要がない気楽さがあった。
「ロズィエ家の令嬢も、セシール嬢に引けを取らない美しさじゃないですか」
バーテミウスは笑いながら、少し皮肉を込めて言った。
その言葉には暗に「足るを知れ」と諭すような響きが混ざっていた。
レギュラスは小さくため息をつく。
側から見れば、カサンドラは十分すぎるほどに美しく、理想的な令嬢なのだろう。
しかし、その美しさに何も感じられない自分自身に、時折疲れを覚える。
「美人に囲まれて羨ましい限りですよ」
バーテミウスは呑気にそう続けた。
「呑気ですね、ほんとに」
レギュラスは苦笑しながら返す。
バーテミウスのような男こそが、家の責務を淡々と果たしていけるのだろう――そう思った。
感情を巧妙に切り離し、見た目の美しさや立場を素直に称え、楽しむ度量を持つなら、こんなややこしい葛藤からは遠ざかれるのかもしれない。
自分はどうしても気持ちが入り混じり、家の事情も、恋愛も、個人的な感情を無視することなどできない。
だが、バーテミウスのような軽やかな会話に触れるひとときだけは、複雑な思考から解き放たれ、気持ちが穏やかになるのだった。
煌びやかな宴の陰にひそやかに並ぶ、気心知れた席でかわす本音と安堵。
その時間だけが、レギュラスの心をやさしく慰めてくれた。
レギュラス・ブラックは、その端正な顔立ちを微塵も揺るがすことなく、完璧すぎるまでに貼り付けた美しい笑顔を浮かべ、カサンドラの手を取った。
近づき寄るふたりの顔。吐息さえも交わるほどの距離でありながら、レギュラスは最後まで彼女の瞳を見ることはなかった。
ほんのすぐ傍にいるのに、心の距離だけはどうしても埋まることなく、二人の間には静かな沈黙が流れる。
交わされる言葉はなく、むしろ外野の歓声や話し声のほうが耳に届く始末だった。
カサンドラは自分の胸に刻んだ誓いを思い返していた。
ブラック家に嫁ぐロズィエ家の令嬢として、羨望されるほどの地位も、富も、美しさも、すべてこの身に備えて凛と立つことを決めた。
せめてレギュラスと踊るこの時間だけは、美しい姿であることに意味があると信じて。
心が張り裂けそうな思いは確かにあった。
だが、この眩い広間の中心で、自分を称える声をあげてくれる人々の前で、みっともない姿を晒すことだけはカサンドラのプライドが強く許さなかった。
どれほど孤独に苛まれようとも、誇りを手放すつもりはなかった。
「レギュラス様、ありがとうございました」
踊り終わり、カサンドラはかすかに微笑んで言った。
「こちらこそ」
レギュラスも、まるで義務を果たすかのような抑えた声で答える。
その短いやり取りは、やがて夫婦として結ばれるはずの二人とは到底思えないほど、形式的でそっけなかった。
レギュラスの瞳には、この自分という存在が決して映ることはない――そんな事実を、踊った後にはっきりと思い知らされた。
テーブルに戻ると、カンブリス校から来た生徒たちが温かい声をかけてくれる。
「カサンドラ、本当に美しかった!」
「誇らしい姿だったわ!」
けれど、その温もりすらも、今の彼女には胸を少し締めつけてしまう。
ロズィエ家の令嬢として育てられてきた自分は、こんなことで涙を流すほど弱い女ではない。
美しいと称えられるこの顔に、涙や弱音など一切似合わない。
だからこそ、カサンドラは美しい口元を持ち上げて、カンブリスの同級生たちの励ましや声援に華やかに応えてみせる。
それが、誇り高いロズィエ家の令嬢としての、自分が守れる最後の美しさなのだと信じて。
カサンドラ・ロズィエは心の底に棘のように刺さる違和感を拭いきれず、密かに侍女に命じてアラン・セシールの素性を調べさせていた。
レギュラス・ブラックが特別に目をかけ、ブラック家の邸宅で大切に囲われているという従者――。
アラン・セシールという少女は、見目麗しく、ただの従者という立場でなければ、どこかの純血一族、いや、ブラック家当主の正妻として迎え入れられてもおかしくないほどの美しさを持ち合わせていた。
そして何より、あの翡翠色に澄んだ瞳――カサンドラはそれに、言葉にならない違和感を覚えていた。
だから彼女のルーツを探らせるのは、ごく自然な流れだった。
──やがて明らかになった事実。
アラン・セシールの母リディア・ブラウンは、かつてイングランド王宮で仕えていた稀に見る美貌の侍女だった。
その美しさは、王妃さえ圧倒し、王の寵愛を独占するほどに。
だが王を惑わせた罪、王妃の名誉を損ねた罪によって、リディアは宮廷を追われることとなる。
破滅の淵にあった彼女に救いの手を差し伸べたのが、当時ブラック家に仕えていたロイク・セシールであった。
ロイクはオリオン・ブラックに強く懇願し、ついにはリディアを妻として迎え入れる許しを得る。
処罰を免れ、ブラック家の従者の地位に落ち着いたリディアのもとに生まれた娘――それこそが、翡翠色の瞳をもつアラン・セシールだった。
つまり、アランはかつて「罪人」の娘。
レギュラス・ブラックは、はたしてどこまでこの過去を知っているのだろうか。
カサンドラはホグワーツの校舎でアラン・セシールを見かける。
レギュラスからいくらか距離を置いているのは、自分への遠慮や気遣いゆえなのだろうか――そう考えれば理解もできる。
だがレギュラスは、周囲も露骨に気づくほどに、視線でアランの存在を追い続けていた。
自分の存在を慮った控えめな態度よりも、むしろ見せつけられる一方のレギュラスの視線こそが、カサンドラの誇りを激しく傷つけていく。
見たいものではない感情を、これでもかと見せつけられる痛み――
いっそ、隣同士で並んでいればよかったものを。遠慮深い距離感でしか関われない現実の方が、よほどみじめだった。
名門ロズィエ家の令嬢として、どれほど気高く立ち続けていても、どうすることもできない孤独と嫉妬が静かに心を蝕んでいく。
カサンドラは、翡翠の秘密にたどりついたその夜、仮面の微笑みの奥で、焼け付くような屈辱を人知れず噛み締めていた。
カンブリス校の生徒たちがホグワーツを去り、静かな日常が戻った。
アランは息をつくように胸を撫で下ろした。
カサンドラが招かれている間は、以前ブラック家の屋敷で彼女にレギュラスとの関係を鋭く問われた記憶が甦り、気持ちを張り詰めて過ごさねばならなかった。
二度と、あのときのように問い詰められる事がないように。
そして、できる限りレギュラスから距離を取り、カサンドラからも自分が視界に入らぬように細心の注意を払っていた。
「アラン、つれないですね。何か気に触ることでもしました?」
レギュラスは呑気な口調で問いかけてくる。
たった今、婚約者のカサンドラを見送ってきた男とは思えないほど、一心にアランだけを見つめる瞳。
その不誠実なまでのまっすぐさが、アランには息苦しくて仕方なかった。
「レギュラス……ブラック家の誇りを守り続けるためにも、カサンドラ様ときちんと向き合うべきです」
アランの声音には抑えきれない本音が滲む。
かつて、シリウスがいなくなった心の隙間を埋めようと、アランは縋るようにレギュラスに求めてしまった。
きっとレギュラスも、背負いきれない重責から逃げたくて、生理的な感情に身を委ねた。
たまたまそこにいた異性が自分だっただけ――きっと、そういうことなのだ。
でも、ホグワーツに来て六年。
もう幼さや逃げを正当化できるほど、子供でいることは許されないと気付いていた。
真剣な話をしようとするアランの意志を、レギュラスはまるで理解する気もなく、ただ髪にそっと手を滑らせ、その感触を楽しむような余裕の表情を浮かべていた。
「レギュラス……」
話を聞いてほしい、と祈るような視線で彼を見つめるアラン。
次の瞬間、視界がそっと暗くなったかと思うと、唇が突然覆われた。
きちんと話をし、ずっと曖昧だった境界線に自分の手で線を引こうという決意は、レギュラスの行動一つでたやすく呑み込まれていく。
やわらかく閉じていた唇は、彼の熱に抗えずに開き、伸びてくるレギュラスの舌に絡め取られる。
自分のものはまるで捉えられた獲物のようにおずおずと縮こまり、思考も溶けて消えていく。
互いの距離も、きっと守るべきはずだった境界線も、やがて曖昧になって頭がくらくらする。
冷静に抱いていた強い決意も、次第に熱に溶かされ、流されてしまった。
これが愛なのか、情なのか、それとも単なる生理的なものなのか。
アランにはもう、その区別すらつけられなくなっていた。
