2章
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アランは、シリウスの温もりがまだ胸の奥で静かに脈打つのを感じながら、ひっそりと城の影のように寮へ戻ってきた。
湖畔での幸福は、指先に触れれば壊れてしまいそうなほど儚く甘い。
その余韻を誰にも悟られぬよう、大切に抱えながら、廊下を歩く足音さえ吸い込むように消していく。
深夜の寮は、静寂そのものだった。
ひんやりとした石造りの空気が肌を撫で、わずかな灯りが廊下に揺らぐ影を落とす。
談話室の扉の前でアランは深く息をつき、そっと取っ手を押した。
──その瞬間。
彼女は、扉の影に潜んでいた気配に気づき、心臓がひやりと跳ねた。
ゆっくり視線を向けると、そこには薄い闇の中、壁にもたれかかり腕を組んで立つレギュラスがいた。
「どちらへ行ってらしたんです?」
穏やかな口調。
けれど、その横顔は張り詰めた冷ややかさを帯びていた。
薄闇の中でも、彼の瞳には鋭く光る疑念が宿り、アランの胸を貫いてきた。
「レギュラス……」
その名を呼ぶ声は震え、驚きと気まずさと、小さく隠しきれない罪悪感が混じっていた。
まさか待ち伏せされているとは思わなかった。
幸福の余韻が一気に引き、現実が冷水のように襲ってくる。
レギュラスはゆっくりと顔を向けた。
その表情は一見落ち着いているように見えるが、彼の声の温度は明らかに低かった。
「ルームメイトにあなたを呼び出してほしいと頼んだら、いないと言われましてね。驚きました」
低い声。
静かだが、底には圧力があった。
彼の中の怒りを押し隠しているが、その沈黙は刃のように鋭利だった。
アランは思わず視線を落とし、小さく肩をすぼめた。
まるで叱られる幼い子どものように。
「どこに行ってたんです?」
少し強められた声音。
追及の色を帯びて、逃がすまいとする影がそこにあった。
アランは息をのんだ。
湖畔での甘美な時間が、胸の奥でひりつくように痛む。
嘘をつくことはしたくない。
でも、真実を言えば彼を傷つけ、また何もかもが崩れてしまう。
その葛藤が痛々しく胸に広がり、言葉が出てこない。
「レギュラス……」
名前を呼ぶだけでただ精いっぱい。
その瞳は切なく震え、哀願するように彼を見上げていた。
どうか追わないで。
今だけは――今夜の幸福だけは奪わないで。
言葉にはしない願いが、翡翠の瞳の揺れとなって静かに伝わっていく。
レギュラスはその表情を見て、微かに眉を寄せた。
疑念と怒りと、彼女を失うかもしれないという恐怖が、理性の奥で複雑に絡まり合っている。
静まり返った談話室に、二人の呼吸だけがふわりと交差していた。
月明かりが窓辺から差し込み、アランの頬を淡く照らす。
その影の揺れまでも、今の緊張と痛みを映し出しているようだった。
アランは胸を押しつぶされるような切なさに包まれながら、ただレギュラスの視線を受け止めていた。
幸福の余韻と罪悪感が入り混じる、ほろ苦く壊れやすい均衡の中で――
二人は夜の静けさに閉じ込められたように、動けずにいた。
レギュラスは、ゆっくりと微笑んでいた。
月光を背にしたその顔は、どこか神秘的で、優雅で、他の誰よりも美しく見えるはずなのに――
今のアランには、その微笑みがどうしようもなく「恐ろしいもの」に感じられた。
唇は柔らかく上がっているのに、瞳だけが氷のように冷たい。
その静かな冷気は、彼の笑みの奥に沈殿する怒りと疑念を隠しきれず、見る者の胸を強く締め付けた。
笑っているのに、胸の奥がひりつくような威圧を帯びている。
「じゃあ、質問を変えましょうか」
穏やかな声。
けれど、その柔らかさはまるで、鋭い刃に薄絹をかぶせただけのようだった。
「誰と会っていたんですか?」
その一言で、アランの呼吸は一気に浅くなった。
たったそれだけで、胸が焼けるように痛くなる。
どうしてこの人は、ひとつの言葉で人の心をここまで追い詰めることができるのか――
その疑問が何度も、胸の奥で反響した。
レギュラスの瞳は、暗がりの中できらりと光る。
鋭い灰色の光は、どんな嘘も逃さない。
その視線は、かつてアランが湖畔で感じたシリウスの温もりとは、あまりにも正反対だった。
シリウスは抱きしめれば心臓の音が聞こえてくるようで、
触れただけで安心と喜びが胸の奥から溢れた。
だが――レギュラスの視線は違う。
切っ先のように細く鋭く、
アランの柔らかな心の奥へ突き刺さり、
秘密を無理やり抉り出そうとする。
その冷たい美しさは、今ほど恐ろしく見えたことがなかった。
「……散歩していただけなの」
息を呑むほど脆く、小さな声。
アランは俯いたまま、震える声を絞り出した。
苦し紛れの言い訳だ
レギュラスは、そっとアランの手を取った。
その手は、まるで氷に触れたように冷たかった。
触れた瞬間、あの背筋がびくりと震え、胸の奥に小さな警鐘が鳴る。
強くも弱くもない、けれど決して逃れられない力で握られたその手は、
言葉よりも雄弁に、彼の“意志”を告げていた。
「レギュラス……?」
返事はない。
ただ静かに、けれど揺るぎなくアランの手を引いて、寮の外へと歩み出す。
石畳の廊下は薄暗く、足音が吸い込まれるように静かだった。
夜風が窓の隙間を抜け、わずかな揺らぎがアランの髪をかすめる。
「レギュラス……減点、されちゃうわ……」
囁くように言ったその声は、震え、どこか縋るような弱さが滲む。
「僕は監督生ですから、平気ですよ」
柔らかな声。
しかし、その柔らかさにこそ、残酷なほどの冷静さが宿っていた。
“あなたが恐れる必要はない。僕がいるのだから”――
そんな静かな支配が、言葉の奥にひそんでいる。
アランの胸で、不安が静かに泡立ち始めた。
どこへ向かっているのか。
――いや、本当は気づいている。
監督生だけが使える専用の部屋。
そこへ向かう足取りは迷いなく、夜の影の中にも確かな目的を刻んでいた。
アランの心はふっと沈んだ。
湖畔でシリウスに抱きしめられたあの温もりが、胸の奥でまだ灯り続けているのに、
それがひとつずつ、冷たい風に吹き消されていくような感覚がした。
「レギュラス……もう遅いわ。戻りましょう……」
か細く訴える。
けれど彼は歩みを止めない。
言い返しもせず、手の力も緩めない。
それが答えだった。
暗い部屋へ入ると、レギュラスは静かに扉を閉めた。
魔法で鍵がかかる、淡い音が響く。
彼は何も言わず、アランの肩に触れ、ベッドの縁へと座らせた。
その動きひとつひとつに、ためらいはなかった。
見上げた瞬間、影が落ちるように唇が降りてくる。
アランの体は強張り、呼吸が浅くなる。
レギュラスの瞳は、冷たく光っていた。
そこに隠された感情は――怒りか、不安か、所有欲か、
それともただ“確かめたい”という孤独なのか。
どれも正解で、どれも間違いなのだとアランは思った。
その口づけは、湖畔でシリウスと交わした柔らかな光を
まるで上から塗りつぶすように冷たかった。
胸の奥の大切な場所を、静かに、確実に曇らせていく。
「最近、ゆっくりできませんでしたから……」
レギュラスの声は優しくさえあった。
だがその優しさは、アランの願うものとは違う。
彼の求める“近さ”が、いまアランの心に刺さるように痛かった。
アランはただ、小さく頷いた。
拒めば問い詰められる。
逃げればもっと深く追われる。
その未来が、彼女の胸に影のように張り付いていた。
レギュラスの手が服の上からそっと触れる。
それだけで、アランの心はふるふると揺れ、
湖畔で灯った光が、ひとつ、またひとつ消えていく。
――どうか、これ以上奪わないで。
――いまだけは、あの温もりを守らせて。
胸の奥でそう叫ぶ声は、夜の暗がりに溶けて誰にも届かない。
アランはひっそりと瞳を伏せ、
冷たい愛情の鎖が肩に絡まる音を、
ただ静かに、痛みと一緒に受け入れた。
夜は深く、
そこにあるのは、
誰にも見えない光と影の二重奏。
シリウスの光と、レギュラスの影――
その狭間で揺れるアランの心は、
壊れそうなほど繊細に震え続けていた。
レギュラスは、アランの小さな肯定を聞いた瞬間、緊張の糸がほどけたように表情を和らげた。
その微笑には、優しさとも支配ともつかぬ不思議な影が落ちていて、アランの胸の奥をざわつかせる。
彼がベッドの縁に腰を下ろすと、マットレスがわずかに沈み、静かな部屋にきしむ音が広がった。
ほんの数センチほどの沈み込みなのに、その音はアランの心を引きずり込む鎖のように感じられた。
いつもなら、レギュラスは迷いを見せずにアランの身体を押し伏せ、その衣服に手を伸ばす。
彼の手が触れると、そこに逆らえない運命のようなものが宿っていると、アランは知っている。
けれど今日のレギュラスは違った。
自ら黒いローブを滑らせるように脱ぎ、白いシャツの前で動きを止めた。
そして、ゆっくりとボタンに触れながら、低く静かな声で告げた。
「アラン。──自分で、脱いでみせてください」
その言葉の意味を理解するまで、一瞬時間が止まった。
耳に届いた音と、その内容が一致せず、世界が揺れるような錯覚さえ覚えた。
自分で……?
この手で……?
彼の前で?
全身に、熱いものが一気に駆け巡った。
羞恥という名の炎が、頬から首筋まで焼き尽くすように広がっていく。
「……嫌です」
小さく、しかしはっきりと首を振る。
拒絶の意思を示したのに、声はどこか掠れて震えていた。
レギュラスは、そのわずかな震えさえ計算していたかのように、眉を静かにひそめる。
「楽しませてくれると言いましたよね?」
その声音には、優しさの皮をかぶった命令が宿っていた。
心の奥にずしりと落ち、動く余地を奪われていく。
抵抗を許さないと告げるには、言葉よりもずっと雄弁だった。
アランは喉を鳴らした。
逃げ場のない羞恥が、胸と腹のあたりで膨れ続け、呼吸を苦しくする。
それでも、彼の視線から目をそらすことはできなかった。
黒曜石のような瞳に捕まったら、もう後戻りできないと知っているのに。
震える指先が、ブラウスの第1ボタンに触れた。
金具がわずかに触れ合う“カチリ”という微かな音だけが、静寂を裂いた。
一つ、
また一つ。
外すたびに、心臓が痛くなるほど脈打つ。
羞恥と恐れと、言葉にできない曖昧な感情が胸の奥で渦を巻き、身体じゅうを締めつける。
どこを見ていいのか分からず、アランは目をきつく閉じた。
視界を閉ざすことでしか自分を守れなかった。
やがて、最後のボタンが外れた。
その瞬間、空気が肌に触れるようなひやりとした感覚が背筋を走り、思わず肩が震える。
レギュラスが立ち上がり、音もなくアランに近づいた。
そして、彼女の肩にそっと手を置く。
ブラウスの布が、すうっと滑り落ちる。
まるで、抵抗の最後の砦が崩れ落ちる音が聞こえたかのようだった。
アランは、その場に立っていることさえ痛みに感じるほどの羞恥に押しつぶされそうになった。
両手を胸元に寄せ、必死に呼吸を整えようとするのに、胸の鼓動が速すぎて追いつかない。
レギュラスの指が顎に触れ、彼女の顔を上向かせる。
逃げたくても、逃げられない。
──この屈辱もまた、彼の愛情の形なのだ。
それを理解したくないのに、アランの心はその事実から目をそらすことができなかった。
愛という名の鎖は、時に甘く、時に残酷で、彼女はそのどれからも逃げ出せない。
アランは息を震わせながら、ただ静かに目を伏せた。
そうするしか、自分を守れる術がなかった。
羞恥に頬を染め、うつむいたまま微動だにしないアランの姿は、
レギュラスの胸の奥に、痛みとも昂ぶりともつかぬ衝動を喚起させた。
守りたい。
傷つけたい。
泣かせたい。
救いたい。
互いに矛盾するはずの感情が、不思議なほど滑らかに混ざり合っていく。
誰にも語れぬこの倒錯の悦びは、アランの存在によってしか呼び覚まされない。
レギュラスは小さく息を吐き、静かに頭を垂れた。
「……アラン。ごめんなさい。言いすぎました」
怯えたように肩をすくませるアランを見ているだけで、胸がぎゅっと縮こまる。
両手でそっと彼女の頬を挟み、顔を上向かせると、翡翠の瞳が揺れながらこちらを見返した。
その宝石のような色に触れた途端、胸の奥の何かが溶けて落ちていく。
優しい衝動と、独占欲の混じり合う甘い痛みがゆっくりと広がった。
自然に身体が近づき、唇が触れ合った。
触れた瞬間、すべてのざわめきが遠のき、世界が二人だけのものに変わる。
アランの息は小さく震え、レギュラスはその震えを飲み込むように、深く、長くキスを続けた。
彼はアランの肩に手を添えながら、ゆっくりとベッドへ導く。
普段のような強引さは微塵もなく、触れる手は驚くほど穏やかで、
まるで薄氷を割らぬよう配慮しながらそっと押し留めるような優しさだった。
唇を離すたび、アランの頬に柔らかな息がかかる。
そのたびに、彼女の胸が小さく波打ち、白い喉がかすかに動いた。
レギュラスは片手でアランの頬を撫で、もう片方の手で彼女の手を包み込む。
その手のひらに伝わる細い震えが、愛しさと同時に胸を締めつける。
「大丈夫です。今は……何も考えないで」
言葉に宿るのは命令ではなく、静かな祈り。
怯えも羞恥も、自分のことも彼のことも、いっそすべてを忘れてしまえるように。
レギュラスの視線は、アランの瞳の奥に潜む影を探る。
恐怖、戸惑い、かすかな信頼。
そして――抗いがたい引力。
そのすべてが彼にとっては甘美な麻薬のようで、
胸の奥に満ちていた荒ぶる衝動は、次第に形を変えていく。
触れ合うたび、心の奥のしこりが解けていく。
呼吸が重なるたび、不安が静かに沈んでいく。
指先が絡まるたび、確かに「救われている」のは自分の方だと気づかされる。
アランが小さく眉を寄せると、レギュラスはすぐに額を寄せた。
唇で触れ、囁きで宥め、両腕で囲い込む。
まるで傷ついた小鳥を抱くように、そっと、しかし離す気配は欠片もなく。
重なる体温の中で、赦しも愛も境界を失っていく。
言葉にならぬ想いが呼吸の合間に溶け、ふたりの間の空気を静かに震わせた。
この夜、感情はただ沈み、ほどけ、寄り添い、満たされていくばかり。
疑念も痛みも遠い彼方へ消え失せ、
残ったのは――互いの存在が触れ合うことそのものが生み出す、
密やかで深い安らぎだけだった。
すべての熱が静かに引いていったあと、
アランはまるで糸が切れた人形のように、ベッドの上で四肢を投げ出していた。
肩でゆっくり呼吸を繰り返すたび、胸のあたりが上下に揺れ、
彼女の体に残る余韻の「かすかな震え」が、まだ完全には消えていないことを伝えている。
レギュラスはそんなアランを横目に、深く静かな満足に包まれていた。
奪い尽くしたという感覚ではない。
むしろ――
“満たし尽くし、満たされる”
そんな、奇妙に純度の高い充足。
ただ静かで、あたたかく、ひどく穏やかな夜だった。
「アラン、どうぞ」
かすかに息の残る声で、彼はベッドの端に落ちていた下着を拾い上げ、差し出した。
アランはゆっくりと身を起こし、肩を落としながらそれを受け取った。
指先はまだ頼りなく、力が戻っていないのが一目でわかる。
「後ろ、向いてくれれば……付けますよ」
レギュラスが静かに言うと、アランはわずかに頷き、背を向けた。
肩紐の片側だけを腕に通した状態で身を任せるその姿は、
言葉にならないほど無防備で、儚く、
そして彼にとってはどんな宝石よりも尊いものだった。
レギュラスは指先でそっと肩紐を拾い上げ、軽く捻れを直すように整えながら、
アランの肩へ優しく添えた。
その触れ方一つさえ、慈しみに満ちていた。
制服を手に取ったアランが、ひとつひとつ丁寧に着込んでいく。
その間、レギュラスも自身の散らばった服を拾い上げ、順々に身にまとっていく。
シャツを羽織り、袖を通しながらふと視線を向けると、
アランの細い指が必死にボタンを留めようとして震えているのが見えた。
その瞬間、胸の奥に浮かんだのは、
怒りでも、支配でも、欲でもない――
ただ純粋な愛情だけだった。
レギュラスは無言でアランの背後へ立ち、そっと腕を回した。
アランの身体はまだわずかに熱を帯びていて、
触れた瞬間、彼女が静かに息を呑む気配が伝わってくる。
その弱々しい反応さえ、レギュラスには胸の奥深いところをくすぐる幸福そのものだった。
「レギュラス……服をちゃんと着ないと……」
アランは自分のセーターを抱えたまま、気遣うように差し出した。
彼がまだシャツの前を乱したままなのを見かねたのだろう。
そんな些細な優しさすら、彼には眩しいほどだった。
レギュラスは柔らかに微笑んだ。
「ええ。あなたもね」
そう囁き、アランの肩を軽く引き寄せる。
そして彼女の震える手からそっとシャツの端を預かり、一つずつボタンを留めていった。
小さな布に触れるたび、
アランの呼吸が胸の奥で静かに揺れる。
その気配を感じながら、レギュラスは丁寧に、丁寧に、
まるで儀式のように整えていく。
「自分で……できます……」
アランが弱々しく抗議しても、レギュラスは首を振る。
「いいえ。今夜は……僕にさせてください」
その言葉と一緒に、最後のボタンが音もなく留まる。
ふたりの間には、言語化できない温度だけが満ちていた。
触れ合う指先、寄り添う体温、
静かにふくらむ安堵――
何も語らずとも伝わる情愛が、夜の静けさにゆるやかに溶けていく。
こうして過ぎゆく時間が、
誰にも触れられないほど繊細で、
そして何より幸福だった。
シリウスと交わしたばかりの、胸の奥まであたためられるような優しいふれ合いは、
ほんの一瞬で、レギュラスの冷たい影に覆い隠されてしまった。
つい先ほどまでアランの胸を満たしていた柔らかな光――
未来を信じていいのだと思わせてくれる、あの穏やかで温かい希望は、
レギュラスのほんの一瞥だけで押し潰され、
まるで灯火を靴底でひねり消すように、跡形もなく闇の底へ沈んでいった。
どれほど心の中でシリウスを思い、
彼の隣に立つ未来だけを信じようとしても、
レギュラスが冷えた瞳で問いかけてくると、
アランは急に声を失ってしまう。
――なぜ言えないのだろう。
逃げ出したいはずなのに、足が縫い付けられたように動かない。
抗いたいはずなのに、喉が凍りついたように声が出ない。
まるで、逃げ道の一つひとつを蛇のように塞がれていく感覚。
彼の視線は、網のようにアランの心の奥まで絡みつき、
どんな反論も動揺も、すべて見透かす。
そんな自分が弱くて、情けなくて、
獲物として追い詰められた小動物のように思えて、胸がきゅっと痛んだ。
――この屋敷を出られるのだろうか。
――レギュラスのこの愛情に抗ってまで、シリウスの方へ歩めるのだろうか。
その問いが、アラン自身を深く抉る。
逃げるべきなのはわかっている。
自分の願いは、ずっと前から決まっていたはずなのに。
レギュラスの影に触れた瞬間、
その願いはゆっくりと形を失い、
薄い雲のように歪んで崩れ、どこへ向かうべきか分からなくなっていく。
そんな混乱の渦の中で、レギュラスはふと息をつき、
ほんの少し眉尻を下げ、優しく腕を伸ばしてきた。
「アラン……きつく言いすぎましたね。すみません」
その声は、驚くほど穏やかだった。
冷たさも鋭さも消え、ただ静かな温度だけを帯びている。
先ほどまで胸を締めつけていた威圧の影は、
その柔らかな声に触れた途端、薄らいでいく。
レギュラスがそっと抱き寄せる。
その腕の中に沈むと、アランは思わず小さく息を漏らした。
あまりにも安堵してしまう自分が、怖かった。
許された気がして、
抱きしめられただけで胸が緩む。
さっきまで逃れようとしていた相手なのに、
その手に触れると、心が静かにほどけていく。
彼の隣にいると、緊張が張り詰めた糸のように精神を締めつけ、
次の瞬間にはその糸が急に緩んでしまう。
その反復の中で、アランの意思は曖昧になり、
気づけば自分の輪郭が薄れていく。
レギュラスの胸に寄り添うたび、
自分の未来はどこへ向かうのか――
答えが分からなくなる。
光に満ちた希望と、
闇に絡め取られる絶望。
そのどちらにも踏み出せず、
ただ揺れ続ける自分がいる。
レギュラスの抱擁は、甘く、やさしくて――そして底知れない。
愛なのか束縛なのか、救いなのか監禁なのか、
その境界が曖昧になるほどに、アランは彼に呑み込まれていく。
夜は深まり、静寂が降りる。
許しと屈服、希望と闇、願いと迷い――
すべてが渦のように胸の内で混ざり合い、
アランはその狭間で小さく震えていた。
魔法学校対抗のクィディッチ試合が開催されると発表されたその日、
ホグワーツ全体が浮き立つようなざわめきに包まれていた。
廊下を行き交う生徒たちは皆、色とりどりのマフラーを揺らしながら、
「誰が出場するらしい」「どの学校が強い」などと噂を囁き合っている。
そんな中、アランは寮の共用室でレギュラスの姿を見つけた。
他の生徒たちとは異なる静かな佇まいを保ちつつ、
しかしどこか懐かしい光を瞳に宿し、金のスニッチの模型を指で弄んでいる。
「応援しています、レギュラス」
アランがそっと声をかけると、
レギュラスはほんの少し肩を揺らし、柔らかな笑みを向けた。
「練習はもう全然してませんからね。腕、鈍ってると思いますよ」
言葉とは裏腹に、有り余る自信がその声の底に潜んでいる。
かつて名シーカーとして名を馳せた彼ならば、
ブランクがあっても、必ず結果を残すだろう――
アランはそう信じて疑わなかった。
「怪我だけはしないでくださいね。ほんとに」
アランの言葉は、気遣いというより願いに近かった。
レギュラスが高く飛び、その身を風に晒す光景を思い浮かべるだけで、
胸がきゅっと締めつけられる。
「ええ。心配はかけないようなプレーをします」
レギュラスは彼女の不安をそっと包み込むように答え、
手にしていたスニッチの模型を机に置いた。
その瞳には、かつてグラウンドを支配した選手の誇りが静かに宿っていた。
だが――試合当日。
スタンドに現れたのは、絹のように光る金髪と、
冷ややかな青い瞳を持つ少女。
カサンドラ・ロズィエ。
レギュラスの婚約者。
アランの心臓は、ひゅっと細く縮んだ。
遠目にもわかる気品と、自信と、そして警戒心。
彼女がほんの少し視線をアランへ向けた瞬間、
その空気は刺すように冷たく張り詰めた。
――あの日。
「レギュラス様に近づきすぎませんように」
と、暗に牽制された記憶が鮮やかによみがえる。
アランは唇を噛みしめ、胸の奥がかすかに疼く。
レギュラスへの想いは違う。
自分が心から愛しているのはシリウス・ブラック――
それは揺るぎない真実なのに、
外から見れば、レギュラスがアランに向ける特別な眼差しは
“そうは見えない”のだろう。
たとえ自分にそのつもりがなくても。
たとえ想いを隠し通していたとしても。
誰かの婚約者の目に宿る不安や嫉妬は、
理屈では消えない。
胸の奥でゆっくりと広がっていく焦げるような痛み。
その苦しさは、口に出せば崩れてしまいそうで、
アランはただ静かに手を胸元に当てる。
試合前の空は晴れ渡り、
スタンドには歓声が渦巻く。
箒の影が高く飛び、
風が旗を大きく翻す。
そんな喧騒の中で、
アランはただひとり、
“無事に終わること”だけを祈っていた。
レギュラスの雄姿が少しでも誰かを傷つけず、
誰からも誤解されず、
何も乱さずに終わるように――。
胸にしまった切なさと、
誰にも言えない想いと一緒に、
彼女はひっそりと両手を組んだ。
空に舞う選手たちの影の下で、
アランひとりの小さな祈りだけが、
静かに風に溶けていった。
ホグワーツの城門がゆっくりと開き、
冷たく澄んだ夜気の中へ滑り込むようにして、
他校からの来賓一行が姿を現した。
金の刺繍が施された深青のローブ。
優雅な歩みと洗練された所作。
――フランスの名門、カンブリス魔法学校の生徒たち。
彼らが大広間へ足を踏み入れると、
まるで古い絵画の一場面が動き出したかのような、
気品と華やぎが場の空気に混ざり合った。
大広間では歓迎の宴が開かれていた。
天井のシャンデリアは無数の光を散らし、
ゆらめくキャンドルが長いテーブルを柔らかく照らす。
銀器はきらめき、
色鮮やかな料理が隙間なく並べられ、
グラス同士が軽やかに触れ合う音が
あちこちで小さく響いていた。
その華やかな景色の中で――
アランは胸の奥に、小さな不安の影を感じていた。
レギュラスの隣に立つのはいつものこと。
しかし今は、彼との距離をほんの数歩だけ空けていた。
外から見れば、気を遣う従者のように自然な距離。
だがそれは、意識して作った距離だった。
レギュラスはすぐにその違和感を察し、
細い瞳を少しだけ細めると、
静かに一歩、また一歩と横へ寄り添ってくる。
まるで、
「離れなくていい」
と、言葉なく語りかけるかのように。
「レギュラス……近すぎるのはいけません」
アランは小声で囁いた。
宴の喧騒の中でも、彼にだけ聞こえるような控えめな声。
レギュラスは、耳元でそっと問い返す。
「なぜです?」
その声は低く、甘く、
アランの心をくすぐるように柔らかいのに、
一方でどこか狂いようのない頑なさがあった。
アランは無意識のうちに視線を動かした。
――カサンドラ・ロズィエ。
レギュラスの婚約者。
強い眼差しを持つ、あの少女。
人混みの隙間からいつこちらを向いているか、
その視線が突き刺さっていないか……
そんな不安ばかりが胸を締めつける。
「あなたの婚約者がいらっしゃるのよ。
私が隣にいては、言い訳の余地もありません」
アランは必死に訴えた。
声は小さいのに、その裏には切実な願いがにじんでいた。
しかし――
レギュラスは、気にも留めないように淡々と言った。
「いいんです。ちゃんと父を認めさせたんですから」
アランの胸がきゅっと痛んだ。
――そういう話じゃないのに。
声には出さなかったが、心の奥で呟く。
レギュラスはいつも、肝心な部分だけを見ない。
アランの心がどこで傷つき、どこで震えているのかを
決して正確には掴んでくれない。
彼の世界は正しさと義務、忠誠と誇りで形作られている。
その中心にあるのはいつも「ブラック家」であり、
アランではなかった。
華やかに煌めく大広間。
笑い声と音楽が混ざり合い、
祝宴の空気が堂々と広がっている。
しかしその中で、
レギュラスとアランの間には
わずかな、しかし決して埋まらぬ溝が揺れていた。
すぐ隣に立っているのに、近いはずなのに、
心の距離はまるで違う方向へ伸びていくようで――
ふたりの間には、
目に見えない小さな戦いのような緊張が
静かに張り詰めていた。
光の中で揺れる影のように、
互いに離れたくても離れられず、
寄り添おうとしても噛み合わない。
その不協和音だけが、
煌びやかな夜の中で静かに響き続けていた。
大広間で開かれている歓迎の宴は、色とりどりの魔法灯や輝くシャンデリアに照らされ、華やかな空気に満ちていた。
そのなか、カサンドラ・ロズィエは堂々とした姿でレギュラスのもとへ歩み寄った。
「こんばんは、レギュラス様。ご挨拶を」
制服姿のカサンドラは満面の笑みを浮かべ、媚びるようでも気品に満ちたその言葉を丁寧に紡いだ。
レギュラスは淡い光のように貼り付けた綺麗な笑みを浮かべ、応じる。
「お久しぶりです。遠路はるばるご苦労様です」
会話は柔らかな調子で続いた。
「ホグワーツはとても素敵なところですね」
「カンブリスも噂にはフランス一の豪勢さだと聞いております」
他愛ない言葉のやりとりは、まるで長い友達同士のように和やかだった。
その傍らで、アランは気づかれぬよう静かにレギュラスから数歩距離を置いた。
彼らの会話の中に混ざることは許されず、それを望んでいないことも知っていたから。
カサンドラがレギュラスとの距離に関する不自然さを察知し、自分への問い詰めるような視線を向けることを、アランは激しく恐れていた。
一度でもカサンドラに自分たちの関係を鋭く見破られた経験は、心に深い影を落としていた。
その記憶は屋敷での冷たい空気と同じような怖さを、ホグワーツの騒がしい大広間のなかでさえ感じさせた。
けれども、ブラック家の屋敷を離れてしまえば、自分はもうカサンドラとの直接的な関係を断ち切れるのだと、心をなんとか説得していた。
これは「今だけの辛抱」だと自分に言い聞かせ、耐え続けるしかなかった。
やがて宴の喧騒から離れ、アランは静かな寮の廊下へと歩みを進める。
薄暗い灯りが点在するその時間と場所は、ほっと息をつけるわずかな慰めとなった。
大広間の煌めきから一歩出口を抜ければ、胸の痛みと戦う孤独な影だけが静かに寄り添っていた。
寮へと戻る途中、アランはふと前方に見覚えのある姿を見つけた。
四寮合同の魔法決闘の授業で一度共に戦った、グリフィンドールのミカエル・フォレストだった。
「アラン、久しぶりだね。元気だった?」
彼はにこやかに微笑みかける。
「ミカエル、あなたこそ。久しぶりね。相変わらずの活躍ぶりを聞いているわ」
アランは自然な唇の動きで答えた。
ミカエル・フォレストは、あの魔法決闘の授業で、レギュラスに一度敗れたものの、次席の強さを誇っていた。
彼は卓越した戦闘の腕前だけでなく、学業においても常に首席を争うレギュラスと肩を並べている。
まさにグリフィンドールのプリンスたる存在感を放っていた。
彼の眩いばかりの輝きは、アランにとってかつてのシリウス・ブラックと重なる瞬間だった。
-けれど、今はもう、あの輝きはホグワーツから消えていた。
そのことが彼女の胸にぽっかりと穴をあけ、塞ぎ込む日も少なくなかった。
だが、ミカエルの明るい瞳を見つめるたびに、焦がれていた光の輪郭の一端に触れているようで、慰められている気がしていた。
二人は並んでゆっくりと廊下を歩き始める。
「宴には出ないの?あなたの不在はきっとグリフィンドールの女の子たちをがっかりさせるわよ」
アランの言葉に、ミカエルは軽やかに返した。
「そう言うなら、君の不在はスリザリンの男たちの肩を落とすだろうね」
二人は見つめ合い、やがて笑みを交わす。
張り詰めていた心の緊張が、ゆっくりと和らぎ、まるで降り積もった雪が溶けていくように、その空気が柔らかく変化していくのを感じた。
ひと時の穏やかさ、そして、忘れかけていた日常の温もりに触れながら。
大広間は賑わいに満ちていた。煌びやかな魔法灯の明かりが揺れ動き、歓声や談笑が絶え間なく響き渡る。
そんな中、レギュラスの隣でカサンドラは饒舌に話を続けていた。
ふと気づくと、アランの姿は宴のどこを探しても見当たらなかった。
おそらくは寮へ戻ったのだろう。
自分自身もアランの後を追いかけたい気持ちに駆られたが、学校対抗クィディッチの選手であり、他校からの来賓を歓迎する立場ではあったため、その場を離れる正当な理由が見つけられなかった。
「ブラック家とロズィエ家は安泰ですわね」
どこからともなくそんな声が上がった。
イギリス魔法界の名門、ブラック家とフランスの名家、ロズィエ家が結びつくことは、周囲にとっても一大事だった。
魔法界きっての純血一族同士の婚約であるという噂は、長く囁かれ続けていた。
「イギリスへは何度か参りましたが、そのたびにブラック家の誇り高い噂は耳にしますわ」
カサンドラは優雅に微笑みながら続ける。
レギュラスは口角をかすかに上げて頷いたが、次第にその頬が引き攣りそうになるのを感じていた。
鮮やかな笑顔を保ちながら会話を続けることに、少しずつ体力を削られていく思いだった。
「美しい令嬢を妻にできるなんて、レギュラスはやっぱり最高だな」
「お似合いの二人だ」
「ブラック家と渡り合える貴族はロズィエ家しかいない」
そんな賛辞が周囲から飛び交い、宴の中心はまるでレギュラスとカサンドラだけのようだった。
「みなさま、私たちの話ばかりですね」
カサンドラが笑いながら言う。
「ええ、そうですね」
レギュラスは淡々と返しつつも、その心の深奥では微かな疎外感がわき上がっていた。
いくらカサンドラが外見も立ち居振る舞いも美しい令嬢だとしても、レギュラスの心における美しさの基準はただただアラン・セシール一人だった。
どれほど周囲が騒ごうとも、カサンドラを心底から美しいと讃える感情は湧かない。
彼が隣に立つのは、この婚約を受け入れた家の次期当主としての義務感であり、ロズィエ家の娘に対して持つべき礼節からのものだった。
表面には優雅な笑みをたたえ、華やかな場の演じ手を務める。
しかし、胸の奥底では複雑に絡み合う感情に揺れていた。
広間の煌めきの中、二人の姿は真っ直ぐに輝いていた。
けれど、そこに横たわる感情の重みは静かに、誰にも見えぬまま深く沈んでいた。
寮に戻ったレギュラスは、談話室にひとり静かに佇むアランの元へと歩み寄った。
「先に帰ったんですね」
その言葉に、責める意図は微塵もなかったが、心配が滲んでいるのを隠せなかった。
あはふと視線を上げ、冷たく微かに棘を含んだ声で答える。
「ごめんなさい。私は、あの場所には不釣り合いでしたから」
その言葉が、レギュラスには鋭い刺のように感じられた。
今の世間において、魔法界において、愛するアラン・セシールがブラック家当主の妻としてふさわしいとは決して言えなかった。
彼女はまだ家柄も品位も十分ではなく、カサンドラ・ロズィエと並ぶには程遠いのが現実だった。
愛情だけがすべてではない。
それを証明する様々な壁が、レギュラスの胸を打ちつけた。
愛するがゆえにもどかしく、切なく、胸が痛む思いでいっぱいだった。
「肩身の狭い思いをさせたみたいですね。すみません、アラン」
レギュラスは静かに彼女の手を取り、その翡翠の瞳を真っ直ぐに見つめて誠実を伝えた。
「違うんです、レギュラス。そういう意味で言ったわけじゃないの」
アランはその手をそっと離すと、少し俯きながら手を振る。
痛みや葛藤の影のあるその動作の裏に、かすかな反発や悲しみが宿っているのが見て取れた。
レギュラスの胸の奥には強烈な願いが燃えていた。
アランの存在を、誰からも非難されず、後ろ指を刺されることなく、そばに置けるだけの確かな正当性を手にしたい。
カサンドラに比べて家柄が劣るなどと嘲笑われず、名家の娘ではないという烙印を押されず、使用人の家系の血筋であることを蔑まれたりもしないように――。
そんな思いが深く、熱く、彼の魂を焦がす。
湖畔での幸福は、指先に触れれば壊れてしまいそうなほど儚く甘い。
その余韻を誰にも悟られぬよう、大切に抱えながら、廊下を歩く足音さえ吸い込むように消していく。
深夜の寮は、静寂そのものだった。
ひんやりとした石造りの空気が肌を撫で、わずかな灯りが廊下に揺らぐ影を落とす。
談話室の扉の前でアランは深く息をつき、そっと取っ手を押した。
──その瞬間。
彼女は、扉の影に潜んでいた気配に気づき、心臓がひやりと跳ねた。
ゆっくり視線を向けると、そこには薄い闇の中、壁にもたれかかり腕を組んで立つレギュラスがいた。
「どちらへ行ってらしたんです?」
穏やかな口調。
けれど、その横顔は張り詰めた冷ややかさを帯びていた。
薄闇の中でも、彼の瞳には鋭く光る疑念が宿り、アランの胸を貫いてきた。
「レギュラス……」
その名を呼ぶ声は震え、驚きと気まずさと、小さく隠しきれない罪悪感が混じっていた。
まさか待ち伏せされているとは思わなかった。
幸福の余韻が一気に引き、現実が冷水のように襲ってくる。
レギュラスはゆっくりと顔を向けた。
その表情は一見落ち着いているように見えるが、彼の声の温度は明らかに低かった。
「ルームメイトにあなたを呼び出してほしいと頼んだら、いないと言われましてね。驚きました」
低い声。
静かだが、底には圧力があった。
彼の中の怒りを押し隠しているが、その沈黙は刃のように鋭利だった。
アランは思わず視線を落とし、小さく肩をすぼめた。
まるで叱られる幼い子どものように。
「どこに行ってたんです?」
少し強められた声音。
追及の色を帯びて、逃がすまいとする影がそこにあった。
アランは息をのんだ。
湖畔での甘美な時間が、胸の奥でひりつくように痛む。
嘘をつくことはしたくない。
でも、真実を言えば彼を傷つけ、また何もかもが崩れてしまう。
その葛藤が痛々しく胸に広がり、言葉が出てこない。
「レギュラス……」
名前を呼ぶだけでただ精いっぱい。
その瞳は切なく震え、哀願するように彼を見上げていた。
どうか追わないで。
今だけは――今夜の幸福だけは奪わないで。
言葉にはしない願いが、翡翠の瞳の揺れとなって静かに伝わっていく。
レギュラスはその表情を見て、微かに眉を寄せた。
疑念と怒りと、彼女を失うかもしれないという恐怖が、理性の奥で複雑に絡まり合っている。
静まり返った談話室に、二人の呼吸だけがふわりと交差していた。
月明かりが窓辺から差し込み、アランの頬を淡く照らす。
その影の揺れまでも、今の緊張と痛みを映し出しているようだった。
アランは胸を押しつぶされるような切なさに包まれながら、ただレギュラスの視線を受け止めていた。
幸福の余韻と罪悪感が入り混じる、ほろ苦く壊れやすい均衡の中で――
二人は夜の静けさに閉じ込められたように、動けずにいた。
レギュラスは、ゆっくりと微笑んでいた。
月光を背にしたその顔は、どこか神秘的で、優雅で、他の誰よりも美しく見えるはずなのに――
今のアランには、その微笑みがどうしようもなく「恐ろしいもの」に感じられた。
唇は柔らかく上がっているのに、瞳だけが氷のように冷たい。
その静かな冷気は、彼の笑みの奥に沈殿する怒りと疑念を隠しきれず、見る者の胸を強く締め付けた。
笑っているのに、胸の奥がひりつくような威圧を帯びている。
「じゃあ、質問を変えましょうか」
穏やかな声。
けれど、その柔らかさはまるで、鋭い刃に薄絹をかぶせただけのようだった。
「誰と会っていたんですか?」
その一言で、アランの呼吸は一気に浅くなった。
たったそれだけで、胸が焼けるように痛くなる。
どうしてこの人は、ひとつの言葉で人の心をここまで追い詰めることができるのか――
その疑問が何度も、胸の奥で反響した。
レギュラスの瞳は、暗がりの中できらりと光る。
鋭い灰色の光は、どんな嘘も逃さない。
その視線は、かつてアランが湖畔で感じたシリウスの温もりとは、あまりにも正反対だった。
シリウスは抱きしめれば心臓の音が聞こえてくるようで、
触れただけで安心と喜びが胸の奥から溢れた。
だが――レギュラスの視線は違う。
切っ先のように細く鋭く、
アランの柔らかな心の奥へ突き刺さり、
秘密を無理やり抉り出そうとする。
その冷たい美しさは、今ほど恐ろしく見えたことがなかった。
「……散歩していただけなの」
息を呑むほど脆く、小さな声。
アランは俯いたまま、震える声を絞り出した。
苦し紛れの言い訳だ
レギュラスは、そっとアランの手を取った。
その手は、まるで氷に触れたように冷たかった。
触れた瞬間、あの背筋がびくりと震え、胸の奥に小さな警鐘が鳴る。
強くも弱くもない、けれど決して逃れられない力で握られたその手は、
言葉よりも雄弁に、彼の“意志”を告げていた。
「レギュラス……?」
返事はない。
ただ静かに、けれど揺るぎなくアランの手を引いて、寮の外へと歩み出す。
石畳の廊下は薄暗く、足音が吸い込まれるように静かだった。
夜風が窓の隙間を抜け、わずかな揺らぎがアランの髪をかすめる。
「レギュラス……減点、されちゃうわ……」
囁くように言ったその声は、震え、どこか縋るような弱さが滲む。
「僕は監督生ですから、平気ですよ」
柔らかな声。
しかし、その柔らかさにこそ、残酷なほどの冷静さが宿っていた。
“あなたが恐れる必要はない。僕がいるのだから”――
そんな静かな支配が、言葉の奥にひそんでいる。
アランの胸で、不安が静かに泡立ち始めた。
どこへ向かっているのか。
――いや、本当は気づいている。
監督生だけが使える専用の部屋。
そこへ向かう足取りは迷いなく、夜の影の中にも確かな目的を刻んでいた。
アランの心はふっと沈んだ。
湖畔でシリウスに抱きしめられたあの温もりが、胸の奥でまだ灯り続けているのに、
それがひとつずつ、冷たい風に吹き消されていくような感覚がした。
「レギュラス……もう遅いわ。戻りましょう……」
か細く訴える。
けれど彼は歩みを止めない。
言い返しもせず、手の力も緩めない。
それが答えだった。
暗い部屋へ入ると、レギュラスは静かに扉を閉めた。
魔法で鍵がかかる、淡い音が響く。
彼は何も言わず、アランの肩に触れ、ベッドの縁へと座らせた。
その動きひとつひとつに、ためらいはなかった。
見上げた瞬間、影が落ちるように唇が降りてくる。
アランの体は強張り、呼吸が浅くなる。
レギュラスの瞳は、冷たく光っていた。
そこに隠された感情は――怒りか、不安か、所有欲か、
それともただ“確かめたい”という孤独なのか。
どれも正解で、どれも間違いなのだとアランは思った。
その口づけは、湖畔でシリウスと交わした柔らかな光を
まるで上から塗りつぶすように冷たかった。
胸の奥の大切な場所を、静かに、確実に曇らせていく。
「最近、ゆっくりできませんでしたから……」
レギュラスの声は優しくさえあった。
だがその優しさは、アランの願うものとは違う。
彼の求める“近さ”が、いまアランの心に刺さるように痛かった。
アランはただ、小さく頷いた。
拒めば問い詰められる。
逃げればもっと深く追われる。
その未来が、彼女の胸に影のように張り付いていた。
レギュラスの手が服の上からそっと触れる。
それだけで、アランの心はふるふると揺れ、
湖畔で灯った光が、ひとつ、またひとつ消えていく。
――どうか、これ以上奪わないで。
――いまだけは、あの温もりを守らせて。
胸の奥でそう叫ぶ声は、夜の暗がりに溶けて誰にも届かない。
アランはひっそりと瞳を伏せ、
冷たい愛情の鎖が肩に絡まる音を、
ただ静かに、痛みと一緒に受け入れた。
夜は深く、
そこにあるのは、
誰にも見えない光と影の二重奏。
シリウスの光と、レギュラスの影――
その狭間で揺れるアランの心は、
壊れそうなほど繊細に震え続けていた。
レギュラスは、アランの小さな肯定を聞いた瞬間、緊張の糸がほどけたように表情を和らげた。
その微笑には、優しさとも支配ともつかぬ不思議な影が落ちていて、アランの胸の奥をざわつかせる。
彼がベッドの縁に腰を下ろすと、マットレスがわずかに沈み、静かな部屋にきしむ音が広がった。
ほんの数センチほどの沈み込みなのに、その音はアランの心を引きずり込む鎖のように感じられた。
いつもなら、レギュラスは迷いを見せずにアランの身体を押し伏せ、その衣服に手を伸ばす。
彼の手が触れると、そこに逆らえない運命のようなものが宿っていると、アランは知っている。
けれど今日のレギュラスは違った。
自ら黒いローブを滑らせるように脱ぎ、白いシャツの前で動きを止めた。
そして、ゆっくりとボタンに触れながら、低く静かな声で告げた。
「アラン。──自分で、脱いでみせてください」
その言葉の意味を理解するまで、一瞬時間が止まった。
耳に届いた音と、その内容が一致せず、世界が揺れるような錯覚さえ覚えた。
自分で……?
この手で……?
彼の前で?
全身に、熱いものが一気に駆け巡った。
羞恥という名の炎が、頬から首筋まで焼き尽くすように広がっていく。
「……嫌です」
小さく、しかしはっきりと首を振る。
拒絶の意思を示したのに、声はどこか掠れて震えていた。
レギュラスは、そのわずかな震えさえ計算していたかのように、眉を静かにひそめる。
「楽しませてくれると言いましたよね?」
その声音には、優しさの皮をかぶった命令が宿っていた。
心の奥にずしりと落ち、動く余地を奪われていく。
抵抗を許さないと告げるには、言葉よりもずっと雄弁だった。
アランは喉を鳴らした。
逃げ場のない羞恥が、胸と腹のあたりで膨れ続け、呼吸を苦しくする。
それでも、彼の視線から目をそらすことはできなかった。
黒曜石のような瞳に捕まったら、もう後戻りできないと知っているのに。
震える指先が、ブラウスの第1ボタンに触れた。
金具がわずかに触れ合う“カチリ”という微かな音だけが、静寂を裂いた。
一つ、
また一つ。
外すたびに、心臓が痛くなるほど脈打つ。
羞恥と恐れと、言葉にできない曖昧な感情が胸の奥で渦を巻き、身体じゅうを締めつける。
どこを見ていいのか分からず、アランは目をきつく閉じた。
視界を閉ざすことでしか自分を守れなかった。
やがて、最後のボタンが外れた。
その瞬間、空気が肌に触れるようなひやりとした感覚が背筋を走り、思わず肩が震える。
レギュラスが立ち上がり、音もなくアランに近づいた。
そして、彼女の肩にそっと手を置く。
ブラウスの布が、すうっと滑り落ちる。
まるで、抵抗の最後の砦が崩れ落ちる音が聞こえたかのようだった。
アランは、その場に立っていることさえ痛みに感じるほどの羞恥に押しつぶされそうになった。
両手を胸元に寄せ、必死に呼吸を整えようとするのに、胸の鼓動が速すぎて追いつかない。
レギュラスの指が顎に触れ、彼女の顔を上向かせる。
逃げたくても、逃げられない。
──この屈辱もまた、彼の愛情の形なのだ。
それを理解したくないのに、アランの心はその事実から目をそらすことができなかった。
愛という名の鎖は、時に甘く、時に残酷で、彼女はそのどれからも逃げ出せない。
アランは息を震わせながら、ただ静かに目を伏せた。
そうするしか、自分を守れる術がなかった。
羞恥に頬を染め、うつむいたまま微動だにしないアランの姿は、
レギュラスの胸の奥に、痛みとも昂ぶりともつかぬ衝動を喚起させた。
守りたい。
傷つけたい。
泣かせたい。
救いたい。
互いに矛盾するはずの感情が、不思議なほど滑らかに混ざり合っていく。
誰にも語れぬこの倒錯の悦びは、アランの存在によってしか呼び覚まされない。
レギュラスは小さく息を吐き、静かに頭を垂れた。
「……アラン。ごめんなさい。言いすぎました」
怯えたように肩をすくませるアランを見ているだけで、胸がぎゅっと縮こまる。
両手でそっと彼女の頬を挟み、顔を上向かせると、翡翠の瞳が揺れながらこちらを見返した。
その宝石のような色に触れた途端、胸の奥の何かが溶けて落ちていく。
優しい衝動と、独占欲の混じり合う甘い痛みがゆっくりと広がった。
自然に身体が近づき、唇が触れ合った。
触れた瞬間、すべてのざわめきが遠のき、世界が二人だけのものに変わる。
アランの息は小さく震え、レギュラスはその震えを飲み込むように、深く、長くキスを続けた。
彼はアランの肩に手を添えながら、ゆっくりとベッドへ導く。
普段のような強引さは微塵もなく、触れる手は驚くほど穏やかで、
まるで薄氷を割らぬよう配慮しながらそっと押し留めるような優しさだった。
唇を離すたび、アランの頬に柔らかな息がかかる。
そのたびに、彼女の胸が小さく波打ち、白い喉がかすかに動いた。
レギュラスは片手でアランの頬を撫で、もう片方の手で彼女の手を包み込む。
その手のひらに伝わる細い震えが、愛しさと同時に胸を締めつける。
「大丈夫です。今は……何も考えないで」
言葉に宿るのは命令ではなく、静かな祈り。
怯えも羞恥も、自分のことも彼のことも、いっそすべてを忘れてしまえるように。
レギュラスの視線は、アランの瞳の奥に潜む影を探る。
恐怖、戸惑い、かすかな信頼。
そして――抗いがたい引力。
そのすべてが彼にとっては甘美な麻薬のようで、
胸の奥に満ちていた荒ぶる衝動は、次第に形を変えていく。
触れ合うたび、心の奥のしこりが解けていく。
呼吸が重なるたび、不安が静かに沈んでいく。
指先が絡まるたび、確かに「救われている」のは自分の方だと気づかされる。
アランが小さく眉を寄せると、レギュラスはすぐに額を寄せた。
唇で触れ、囁きで宥め、両腕で囲い込む。
まるで傷ついた小鳥を抱くように、そっと、しかし離す気配は欠片もなく。
重なる体温の中で、赦しも愛も境界を失っていく。
言葉にならぬ想いが呼吸の合間に溶け、ふたりの間の空気を静かに震わせた。
この夜、感情はただ沈み、ほどけ、寄り添い、満たされていくばかり。
疑念も痛みも遠い彼方へ消え失せ、
残ったのは――互いの存在が触れ合うことそのものが生み出す、
密やかで深い安らぎだけだった。
すべての熱が静かに引いていったあと、
アランはまるで糸が切れた人形のように、ベッドの上で四肢を投げ出していた。
肩でゆっくり呼吸を繰り返すたび、胸のあたりが上下に揺れ、
彼女の体に残る余韻の「かすかな震え」が、まだ完全には消えていないことを伝えている。
レギュラスはそんなアランを横目に、深く静かな満足に包まれていた。
奪い尽くしたという感覚ではない。
むしろ――
“満たし尽くし、満たされる”
そんな、奇妙に純度の高い充足。
ただ静かで、あたたかく、ひどく穏やかな夜だった。
「アラン、どうぞ」
かすかに息の残る声で、彼はベッドの端に落ちていた下着を拾い上げ、差し出した。
アランはゆっくりと身を起こし、肩を落としながらそれを受け取った。
指先はまだ頼りなく、力が戻っていないのが一目でわかる。
「後ろ、向いてくれれば……付けますよ」
レギュラスが静かに言うと、アランはわずかに頷き、背を向けた。
肩紐の片側だけを腕に通した状態で身を任せるその姿は、
言葉にならないほど無防備で、儚く、
そして彼にとってはどんな宝石よりも尊いものだった。
レギュラスは指先でそっと肩紐を拾い上げ、軽く捻れを直すように整えながら、
アランの肩へ優しく添えた。
その触れ方一つさえ、慈しみに満ちていた。
制服を手に取ったアランが、ひとつひとつ丁寧に着込んでいく。
その間、レギュラスも自身の散らばった服を拾い上げ、順々に身にまとっていく。
シャツを羽織り、袖を通しながらふと視線を向けると、
アランの細い指が必死にボタンを留めようとして震えているのが見えた。
その瞬間、胸の奥に浮かんだのは、
怒りでも、支配でも、欲でもない――
ただ純粋な愛情だけだった。
レギュラスは無言でアランの背後へ立ち、そっと腕を回した。
アランの身体はまだわずかに熱を帯びていて、
触れた瞬間、彼女が静かに息を呑む気配が伝わってくる。
その弱々しい反応さえ、レギュラスには胸の奥深いところをくすぐる幸福そのものだった。
「レギュラス……服をちゃんと着ないと……」
アランは自分のセーターを抱えたまま、気遣うように差し出した。
彼がまだシャツの前を乱したままなのを見かねたのだろう。
そんな些細な優しさすら、彼には眩しいほどだった。
レギュラスは柔らかに微笑んだ。
「ええ。あなたもね」
そう囁き、アランの肩を軽く引き寄せる。
そして彼女の震える手からそっとシャツの端を預かり、一つずつボタンを留めていった。
小さな布に触れるたび、
アランの呼吸が胸の奥で静かに揺れる。
その気配を感じながら、レギュラスは丁寧に、丁寧に、
まるで儀式のように整えていく。
「自分で……できます……」
アランが弱々しく抗議しても、レギュラスは首を振る。
「いいえ。今夜は……僕にさせてください」
その言葉と一緒に、最後のボタンが音もなく留まる。
ふたりの間には、言語化できない温度だけが満ちていた。
触れ合う指先、寄り添う体温、
静かにふくらむ安堵――
何も語らずとも伝わる情愛が、夜の静けさにゆるやかに溶けていく。
こうして過ぎゆく時間が、
誰にも触れられないほど繊細で、
そして何より幸福だった。
シリウスと交わしたばかりの、胸の奥まであたためられるような優しいふれ合いは、
ほんの一瞬で、レギュラスの冷たい影に覆い隠されてしまった。
つい先ほどまでアランの胸を満たしていた柔らかな光――
未来を信じていいのだと思わせてくれる、あの穏やかで温かい希望は、
レギュラスのほんの一瞥だけで押し潰され、
まるで灯火を靴底でひねり消すように、跡形もなく闇の底へ沈んでいった。
どれほど心の中でシリウスを思い、
彼の隣に立つ未来だけを信じようとしても、
レギュラスが冷えた瞳で問いかけてくると、
アランは急に声を失ってしまう。
――なぜ言えないのだろう。
逃げ出したいはずなのに、足が縫い付けられたように動かない。
抗いたいはずなのに、喉が凍りついたように声が出ない。
まるで、逃げ道の一つひとつを蛇のように塞がれていく感覚。
彼の視線は、網のようにアランの心の奥まで絡みつき、
どんな反論も動揺も、すべて見透かす。
そんな自分が弱くて、情けなくて、
獲物として追い詰められた小動物のように思えて、胸がきゅっと痛んだ。
――この屋敷を出られるのだろうか。
――レギュラスのこの愛情に抗ってまで、シリウスの方へ歩めるのだろうか。
その問いが、アラン自身を深く抉る。
逃げるべきなのはわかっている。
自分の願いは、ずっと前から決まっていたはずなのに。
レギュラスの影に触れた瞬間、
その願いはゆっくりと形を失い、
薄い雲のように歪んで崩れ、どこへ向かうべきか分からなくなっていく。
そんな混乱の渦の中で、レギュラスはふと息をつき、
ほんの少し眉尻を下げ、優しく腕を伸ばしてきた。
「アラン……きつく言いすぎましたね。すみません」
その声は、驚くほど穏やかだった。
冷たさも鋭さも消え、ただ静かな温度だけを帯びている。
先ほどまで胸を締めつけていた威圧の影は、
その柔らかな声に触れた途端、薄らいでいく。
レギュラスがそっと抱き寄せる。
その腕の中に沈むと、アランは思わず小さく息を漏らした。
あまりにも安堵してしまう自分が、怖かった。
許された気がして、
抱きしめられただけで胸が緩む。
さっきまで逃れようとしていた相手なのに、
その手に触れると、心が静かにほどけていく。
彼の隣にいると、緊張が張り詰めた糸のように精神を締めつけ、
次の瞬間にはその糸が急に緩んでしまう。
その反復の中で、アランの意思は曖昧になり、
気づけば自分の輪郭が薄れていく。
レギュラスの胸に寄り添うたび、
自分の未来はどこへ向かうのか――
答えが分からなくなる。
光に満ちた希望と、
闇に絡め取られる絶望。
そのどちらにも踏み出せず、
ただ揺れ続ける自分がいる。
レギュラスの抱擁は、甘く、やさしくて――そして底知れない。
愛なのか束縛なのか、救いなのか監禁なのか、
その境界が曖昧になるほどに、アランは彼に呑み込まれていく。
夜は深まり、静寂が降りる。
許しと屈服、希望と闇、願いと迷い――
すべてが渦のように胸の内で混ざり合い、
アランはその狭間で小さく震えていた。
魔法学校対抗のクィディッチ試合が開催されると発表されたその日、
ホグワーツ全体が浮き立つようなざわめきに包まれていた。
廊下を行き交う生徒たちは皆、色とりどりのマフラーを揺らしながら、
「誰が出場するらしい」「どの学校が強い」などと噂を囁き合っている。
そんな中、アランは寮の共用室でレギュラスの姿を見つけた。
他の生徒たちとは異なる静かな佇まいを保ちつつ、
しかしどこか懐かしい光を瞳に宿し、金のスニッチの模型を指で弄んでいる。
「応援しています、レギュラス」
アランがそっと声をかけると、
レギュラスはほんの少し肩を揺らし、柔らかな笑みを向けた。
「練習はもう全然してませんからね。腕、鈍ってると思いますよ」
言葉とは裏腹に、有り余る自信がその声の底に潜んでいる。
かつて名シーカーとして名を馳せた彼ならば、
ブランクがあっても、必ず結果を残すだろう――
アランはそう信じて疑わなかった。
「怪我だけはしないでくださいね。ほんとに」
アランの言葉は、気遣いというより願いに近かった。
レギュラスが高く飛び、その身を風に晒す光景を思い浮かべるだけで、
胸がきゅっと締めつけられる。
「ええ。心配はかけないようなプレーをします」
レギュラスは彼女の不安をそっと包み込むように答え、
手にしていたスニッチの模型を机に置いた。
その瞳には、かつてグラウンドを支配した選手の誇りが静かに宿っていた。
だが――試合当日。
スタンドに現れたのは、絹のように光る金髪と、
冷ややかな青い瞳を持つ少女。
カサンドラ・ロズィエ。
レギュラスの婚約者。
アランの心臓は、ひゅっと細く縮んだ。
遠目にもわかる気品と、自信と、そして警戒心。
彼女がほんの少し視線をアランへ向けた瞬間、
その空気は刺すように冷たく張り詰めた。
――あの日。
「レギュラス様に近づきすぎませんように」
と、暗に牽制された記憶が鮮やかによみがえる。
アランは唇を噛みしめ、胸の奥がかすかに疼く。
レギュラスへの想いは違う。
自分が心から愛しているのはシリウス・ブラック――
それは揺るぎない真実なのに、
外から見れば、レギュラスがアランに向ける特別な眼差しは
“そうは見えない”のだろう。
たとえ自分にそのつもりがなくても。
たとえ想いを隠し通していたとしても。
誰かの婚約者の目に宿る不安や嫉妬は、
理屈では消えない。
胸の奥でゆっくりと広がっていく焦げるような痛み。
その苦しさは、口に出せば崩れてしまいそうで、
アランはただ静かに手を胸元に当てる。
試合前の空は晴れ渡り、
スタンドには歓声が渦巻く。
箒の影が高く飛び、
風が旗を大きく翻す。
そんな喧騒の中で、
アランはただひとり、
“無事に終わること”だけを祈っていた。
レギュラスの雄姿が少しでも誰かを傷つけず、
誰からも誤解されず、
何も乱さずに終わるように――。
胸にしまった切なさと、
誰にも言えない想いと一緒に、
彼女はひっそりと両手を組んだ。
空に舞う選手たちの影の下で、
アランひとりの小さな祈りだけが、
静かに風に溶けていった。
ホグワーツの城門がゆっくりと開き、
冷たく澄んだ夜気の中へ滑り込むようにして、
他校からの来賓一行が姿を現した。
金の刺繍が施された深青のローブ。
優雅な歩みと洗練された所作。
――フランスの名門、カンブリス魔法学校の生徒たち。
彼らが大広間へ足を踏み入れると、
まるで古い絵画の一場面が動き出したかのような、
気品と華やぎが場の空気に混ざり合った。
大広間では歓迎の宴が開かれていた。
天井のシャンデリアは無数の光を散らし、
ゆらめくキャンドルが長いテーブルを柔らかく照らす。
銀器はきらめき、
色鮮やかな料理が隙間なく並べられ、
グラス同士が軽やかに触れ合う音が
あちこちで小さく響いていた。
その華やかな景色の中で――
アランは胸の奥に、小さな不安の影を感じていた。
レギュラスの隣に立つのはいつものこと。
しかし今は、彼との距離をほんの数歩だけ空けていた。
外から見れば、気を遣う従者のように自然な距離。
だがそれは、意識して作った距離だった。
レギュラスはすぐにその違和感を察し、
細い瞳を少しだけ細めると、
静かに一歩、また一歩と横へ寄り添ってくる。
まるで、
「離れなくていい」
と、言葉なく語りかけるかのように。
「レギュラス……近すぎるのはいけません」
アランは小声で囁いた。
宴の喧騒の中でも、彼にだけ聞こえるような控えめな声。
レギュラスは、耳元でそっと問い返す。
「なぜです?」
その声は低く、甘く、
アランの心をくすぐるように柔らかいのに、
一方でどこか狂いようのない頑なさがあった。
アランは無意識のうちに視線を動かした。
――カサンドラ・ロズィエ。
レギュラスの婚約者。
強い眼差しを持つ、あの少女。
人混みの隙間からいつこちらを向いているか、
その視線が突き刺さっていないか……
そんな不安ばかりが胸を締めつける。
「あなたの婚約者がいらっしゃるのよ。
私が隣にいては、言い訳の余地もありません」
アランは必死に訴えた。
声は小さいのに、その裏には切実な願いがにじんでいた。
しかし――
レギュラスは、気にも留めないように淡々と言った。
「いいんです。ちゃんと父を認めさせたんですから」
アランの胸がきゅっと痛んだ。
――そういう話じゃないのに。
声には出さなかったが、心の奥で呟く。
レギュラスはいつも、肝心な部分だけを見ない。
アランの心がどこで傷つき、どこで震えているのかを
決して正確には掴んでくれない。
彼の世界は正しさと義務、忠誠と誇りで形作られている。
その中心にあるのはいつも「ブラック家」であり、
アランではなかった。
華やかに煌めく大広間。
笑い声と音楽が混ざり合い、
祝宴の空気が堂々と広がっている。
しかしその中で、
レギュラスとアランの間には
わずかな、しかし決して埋まらぬ溝が揺れていた。
すぐ隣に立っているのに、近いはずなのに、
心の距離はまるで違う方向へ伸びていくようで――
ふたりの間には、
目に見えない小さな戦いのような緊張が
静かに張り詰めていた。
光の中で揺れる影のように、
互いに離れたくても離れられず、
寄り添おうとしても噛み合わない。
その不協和音だけが、
煌びやかな夜の中で静かに響き続けていた。
大広間で開かれている歓迎の宴は、色とりどりの魔法灯や輝くシャンデリアに照らされ、華やかな空気に満ちていた。
そのなか、カサンドラ・ロズィエは堂々とした姿でレギュラスのもとへ歩み寄った。
「こんばんは、レギュラス様。ご挨拶を」
制服姿のカサンドラは満面の笑みを浮かべ、媚びるようでも気品に満ちたその言葉を丁寧に紡いだ。
レギュラスは淡い光のように貼り付けた綺麗な笑みを浮かべ、応じる。
「お久しぶりです。遠路はるばるご苦労様です」
会話は柔らかな調子で続いた。
「ホグワーツはとても素敵なところですね」
「カンブリスも噂にはフランス一の豪勢さだと聞いております」
他愛ない言葉のやりとりは、まるで長い友達同士のように和やかだった。
その傍らで、アランは気づかれぬよう静かにレギュラスから数歩距離を置いた。
彼らの会話の中に混ざることは許されず、それを望んでいないことも知っていたから。
カサンドラがレギュラスとの距離に関する不自然さを察知し、自分への問い詰めるような視線を向けることを、アランは激しく恐れていた。
一度でもカサンドラに自分たちの関係を鋭く見破られた経験は、心に深い影を落としていた。
その記憶は屋敷での冷たい空気と同じような怖さを、ホグワーツの騒がしい大広間のなかでさえ感じさせた。
けれども、ブラック家の屋敷を離れてしまえば、自分はもうカサンドラとの直接的な関係を断ち切れるのだと、心をなんとか説得していた。
これは「今だけの辛抱」だと自分に言い聞かせ、耐え続けるしかなかった。
やがて宴の喧騒から離れ、アランは静かな寮の廊下へと歩みを進める。
薄暗い灯りが点在するその時間と場所は、ほっと息をつけるわずかな慰めとなった。
大広間の煌めきから一歩出口を抜ければ、胸の痛みと戦う孤独な影だけが静かに寄り添っていた。
寮へと戻る途中、アランはふと前方に見覚えのある姿を見つけた。
四寮合同の魔法決闘の授業で一度共に戦った、グリフィンドールのミカエル・フォレストだった。
「アラン、久しぶりだね。元気だった?」
彼はにこやかに微笑みかける。
「ミカエル、あなたこそ。久しぶりね。相変わらずの活躍ぶりを聞いているわ」
アランは自然な唇の動きで答えた。
ミカエル・フォレストは、あの魔法決闘の授業で、レギュラスに一度敗れたものの、次席の強さを誇っていた。
彼は卓越した戦闘の腕前だけでなく、学業においても常に首席を争うレギュラスと肩を並べている。
まさにグリフィンドールのプリンスたる存在感を放っていた。
彼の眩いばかりの輝きは、アランにとってかつてのシリウス・ブラックと重なる瞬間だった。
-けれど、今はもう、あの輝きはホグワーツから消えていた。
そのことが彼女の胸にぽっかりと穴をあけ、塞ぎ込む日も少なくなかった。
だが、ミカエルの明るい瞳を見つめるたびに、焦がれていた光の輪郭の一端に触れているようで、慰められている気がしていた。
二人は並んでゆっくりと廊下を歩き始める。
「宴には出ないの?あなたの不在はきっとグリフィンドールの女の子たちをがっかりさせるわよ」
アランの言葉に、ミカエルは軽やかに返した。
「そう言うなら、君の不在はスリザリンの男たちの肩を落とすだろうね」
二人は見つめ合い、やがて笑みを交わす。
張り詰めていた心の緊張が、ゆっくりと和らぎ、まるで降り積もった雪が溶けていくように、その空気が柔らかく変化していくのを感じた。
ひと時の穏やかさ、そして、忘れかけていた日常の温もりに触れながら。
大広間は賑わいに満ちていた。煌びやかな魔法灯の明かりが揺れ動き、歓声や談笑が絶え間なく響き渡る。
そんな中、レギュラスの隣でカサンドラは饒舌に話を続けていた。
ふと気づくと、アランの姿は宴のどこを探しても見当たらなかった。
おそらくは寮へ戻ったのだろう。
自分自身もアランの後を追いかけたい気持ちに駆られたが、学校対抗クィディッチの選手であり、他校からの来賓を歓迎する立場ではあったため、その場を離れる正当な理由が見つけられなかった。
「ブラック家とロズィエ家は安泰ですわね」
どこからともなくそんな声が上がった。
イギリス魔法界の名門、ブラック家とフランスの名家、ロズィエ家が結びつくことは、周囲にとっても一大事だった。
魔法界きっての純血一族同士の婚約であるという噂は、長く囁かれ続けていた。
「イギリスへは何度か参りましたが、そのたびにブラック家の誇り高い噂は耳にしますわ」
カサンドラは優雅に微笑みながら続ける。
レギュラスは口角をかすかに上げて頷いたが、次第にその頬が引き攣りそうになるのを感じていた。
鮮やかな笑顔を保ちながら会話を続けることに、少しずつ体力を削られていく思いだった。
「美しい令嬢を妻にできるなんて、レギュラスはやっぱり最高だな」
「お似合いの二人だ」
「ブラック家と渡り合える貴族はロズィエ家しかいない」
そんな賛辞が周囲から飛び交い、宴の中心はまるでレギュラスとカサンドラだけのようだった。
「みなさま、私たちの話ばかりですね」
カサンドラが笑いながら言う。
「ええ、そうですね」
レギュラスは淡々と返しつつも、その心の深奥では微かな疎外感がわき上がっていた。
いくらカサンドラが外見も立ち居振る舞いも美しい令嬢だとしても、レギュラスの心における美しさの基準はただただアラン・セシール一人だった。
どれほど周囲が騒ごうとも、カサンドラを心底から美しいと讃える感情は湧かない。
彼が隣に立つのは、この婚約を受け入れた家の次期当主としての義務感であり、ロズィエ家の娘に対して持つべき礼節からのものだった。
表面には優雅な笑みをたたえ、華やかな場の演じ手を務める。
しかし、胸の奥底では複雑に絡み合う感情に揺れていた。
広間の煌めきの中、二人の姿は真っ直ぐに輝いていた。
けれど、そこに横たわる感情の重みは静かに、誰にも見えぬまま深く沈んでいた。
寮に戻ったレギュラスは、談話室にひとり静かに佇むアランの元へと歩み寄った。
「先に帰ったんですね」
その言葉に、責める意図は微塵もなかったが、心配が滲んでいるのを隠せなかった。
あはふと視線を上げ、冷たく微かに棘を含んだ声で答える。
「ごめんなさい。私は、あの場所には不釣り合いでしたから」
その言葉が、レギュラスには鋭い刺のように感じられた。
今の世間において、魔法界において、愛するアラン・セシールがブラック家当主の妻としてふさわしいとは決して言えなかった。
彼女はまだ家柄も品位も十分ではなく、カサンドラ・ロズィエと並ぶには程遠いのが現実だった。
愛情だけがすべてではない。
それを証明する様々な壁が、レギュラスの胸を打ちつけた。
愛するがゆえにもどかしく、切なく、胸が痛む思いでいっぱいだった。
「肩身の狭い思いをさせたみたいですね。すみません、アラン」
レギュラスは静かに彼女の手を取り、その翡翠の瞳を真っ直ぐに見つめて誠実を伝えた。
「違うんです、レギュラス。そういう意味で言ったわけじゃないの」
アランはその手をそっと離すと、少し俯きながら手を振る。
痛みや葛藤の影のあるその動作の裏に、かすかな反発や悲しみが宿っているのが見て取れた。
レギュラスの胸の奥には強烈な願いが燃えていた。
アランの存在を、誰からも非難されず、後ろ指を刺されることなく、そばに置けるだけの確かな正当性を手にしたい。
カサンドラに比べて家柄が劣るなどと嘲笑われず、名家の娘ではないという烙印を押されず、使用人の家系の血筋であることを蔑まれたりもしないように――。
そんな思いが深く、熱く、彼の魂を焦がす。
