1章
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天井一面に広がる夜空には、無数の星々が瞬いていた。
それは屋内に描かれた幻想ではなく、まるで外の夜空そのものが魔法によって閉じ込められたかのようだった。雲がゆっくりと流れ、星屑がきらきらと瞬く。漂うキャンドルの炎は揺らぎながらも強く消えず、大広間を柔らかい光で包み、初めて訪れた者たちの緊張を優しく溶かそうとしていた。
望むと望まぬとに関わらず、その光の下に立たされているのは新入生たちだった。
長い列に並ぶ子どもたちの心は高鳴りと怯え、その両方に波打っていた。
名前がひとりずつ呼ばれ、組み分け帽をかぶった生徒は、帽子に囁かれる声に耳を傾け、やがて各寮へと送り出されていく。歓声、拍手、旗の揺れ。色と色が交錯し、ひとりの選択が人生の始まりを告げる儀式が続いていた。
「レギュラス•ブラック」
その名が呼ばれた時、場の空気がわずかに引き締まった。
堂々とした足取りで前に進んだ彼は、躊躇なく組み分け帽に手をかけた。椅子に座り、帽子が頭に触れた途端、彼の進む道はすでに決まっていると誰もが悟っただろう。
答えを告げられるより早く、その名は響きわたった。
——スリザリン。
大広間の一角、緑と銀の旗がひらめく下で拍手が盛大に沸き起こる。歓声と共に椅子から立ち上がる生徒たちは誇らしげに彼を迎え入れ、まるで当然のごとくその席を与えられるかのようだった。
アランはその背中を見つめていた。
どこまでもまっすぐで、ゆらぎなど一切なく、血統と誇りをそのまま体現するかのような少年の歩み。
幼い頃から彼が「そうである」のは知っていた。けれど今この瞬間、それがはっきりと形を持ったように胸に迫ってきた。
そして——。
「アラン•セシール」
自分の名が呼ばれた時、胸の奥に別の声が波打った。
——シリウスの声。
「スリザリンなんかやめて、グリフィンドールに来い」
あの声が甦る。
顔を上げると、赤と金の旗の下にいるシリウスの姿が目に入った。
彼はこちらに向けて、屈託のない笑顔を見せていた。無邪気で、人を惹きつけてやまない光を、その顔の中に持っていた。
足元が揺れる。ほんの一瞬、歩みが迷おうとした。
だが組み分け帽が耳許に触れる前に、アランは唇を噛みしめて言葉を落としていた。
「……スリザリンを」
選んでしまった。
選ばざるを得なかった。
犠牲はあまりに大きい。
自由を望むには、まだ幼すぎる。
家族も、立場も、一族の期待も。すべてを背にして生き抜く覚悟までは、彼女にはまだ持ちきれなかった。
響き渡った判定に、スリザリンの食卓から拍手が湧く。
アランは緑と銀の旗の下、自分の席へと歩みを進めた。
すぐ隣に、レギュラスがいた。
彼は僅かに口元を綻ばせ、穏やかな声で囁いた。
「アラン、ずっと一緒にいられますね」
その声は、深い水面のように静かで安らかだった。幼い頃から変わらず、彼女を包み込む声。
「ええ、……あなたがいるから、心細くありません」
答える声には嘘はなかった。
それは確かに、本心でもあった。
レギュラスはいつだって彼女を守ろうとした。母の小言が彼女を傷つけぬよう、父の苛立ちを受け止める盾となり、目立たぬ献身を続けてきた。
使用人である彼女を、時に令嬢のように扱わせるほど、彼の存在は強かった。
その優しさに、どれほど救われてきただろう。
だからこそ、口元に浮かべた笑みは揺らぎなかった。
——けれど。
胸の奥にある「別の道への憧れ」は、今も確かに息づいていた。
赤と金に染まる旗の下、屈託なく笑うシリウス。
その視線がこちらを捕らえたような幻を感じながら、アランは静かに心へ鍵をかけた。
ひとまず、その憧れは深い場所に沈めよう。
自らの手で沈めてしまうしかないのだ。
大広間の美しい天井に星がまたひとつ瞬いた。
その輝きは、心の奥底に封じ込めた光と、不思議に重なって見えた。
初めて迎えるホグワーツでの夕食。
アランの目の前に広がる大広間は、まさに異世界そのものだった。
四つの長いテーブルが堂々と並び、天井には夜空が広がっている。満天の星々が瞬き、雲の切れ間がゆるやかに流れ、その下を無数のキャンドルが柔らかな灯を揺らめかせていた。光はあたたかく揺れながら落ち、生徒たちの笑い声や話し声を包み込む。
目の前に並ぶ料理は、屋敷で味わってきたどんな食事とも違った。色彩豊かで、香辛料や焼き立ての香ばしさが混ざり合い、熱気がテーブルの上にゆらゆらと漂っている。アランは立ち上る熱気に少し目を細めながら、まるで夢の只中に放り込まれたような気分で席に着いた。
緑と銀。
身に纏うスリザリンの制服はまだ身体に馴染まず、自分がここに座っていていいのかどうか、妙な違和感が拭い切れなかった。
緊張と戸惑いのせいで、無意識に、身体はこれまでの「習慣」を繰り返してしまう。
隣に座るレギュラスにちらと目をやったとき、自然と手が動いていた。
彼の皿に料理を取ろうとして、スプーンを持つ指先が伸びる。
水差しを手に取り、ゴブレットに注いで彼の前に置こうとする。
それは屋敷で何度も繰り返してきた、染み付いた動作。無意識の奉仕、当然の役割。
けれど、その瞬間。
「…… アラン」
落ち着いた声に呼び止められた。
小さく息をのんで顔を上げると、レギュラスが穏やかな笑みを浮かべながらも、ゆるやかに首を振っていた。
「ここではもう、あなたはブラック家の使用人じゃないんです」
言葉は静かだったが、確かな力を持っていた。
アランの手に触れるように伸ばされた彼の手が、そっとその指を包み込む。
誰にも見咎められぬ自然な仕草。だが、その温かさは驚くほど鮮烈で、アランの指先から胸の奥へ、じわじわと広がっていった。
——ああ、この人はいつもこうだ。
幼い頃から。
困った時にはさりげなく助け舟を差し伸べ、誰にも気づかれぬところで盾のように守ってくれる。
ブラック家の子息でありながら、使用人である自分を細やかに扱い、その存在を一度たりとも蔑ろにしなかった。
時に家族のように、時にそれ以上の場所へと引き上げてくれた人。
だからこそ、胸の奥にふと申し訳なさが滲む。
他の屋敷に仕える使用人たちは、おそらくこんな扱いを受けることはない。
対等に扱われ、大切にされ、敬われる。
そんな自分は——とても分不相応なのではないか。
その気配を読み取るように、レギュラスは柔らかな笑みを保ったまま真っすぐ言葉を重ねる。
「……ここでは、僕たちは対等なんです」
耳に届いたその一言で、胸の奥がきゅっと小さな音を立てた気がした。
“対等”。
使用人と主人。上下関係しか知らず育ってきたアランにとって、それは今まで考えもしなかった響きだった。
温かくもあり、胸を撫でる安心感であり、けれど同時にくすぐったく、さらにどこか申し訳ない気持ちまでも芽生える。
返すべき言葉は見つからず、心がごちゃまぜになる。
アランはただ、翡翠の瞳を伏せながら、小さくたしかな微笑を返すしかなかった。
周囲では生徒たちが楽しげに笑い合い、教え合い、料理を取り合う賑わいが響いている。
だが、その中心の喧噪から切り離されたように——ふたりの間だけが静かな夜の湖面のように結ばれていた。
大広間の熱気と煌めきの中で、外の雨の匂いを忘れるほどに。
その短い時間は、アランにとって何よりも温かく、そして不思議なほど静謐なひとときとなった。
喧騒に満ちた大広間を後にすると、空気は一変した。
つい先ほどまで笑い声や賑わいで溢れていた場所が、扉一枚隔てただけで冷ややかに沈む。廊下に漂うのは、壁に並んだ燭台の炎の明かりと、わずかな蝋と古い石の匂いだけ。ざわめきの残響は背後に遠のき、ここには凛とした静けさだけが満ちていた。
「…… アラン!」
その声に足が止まった。
振り返ると、そこにはシリウスが立っていた。
彼の眼差しは、いつもと変わらずどこか乱暴で、直線だけで描かれたように真っ直ぐだった。ためらいも逡巡もなく、伸ばされた手がアランの手を掴む。
その強さに驚く間もなく、彼女は引き寄せられ、人気のない回廊の片隅へと導かれていった。
胸が大きく脈打つ。
ばくばくと響く心臓の音が自分にしか聞こえないのか、それとも彼にまで届いてしまうのか。喉の奥まで高鳴りがせり上がり、呼吸がまともにできない。
——責められるのだろうか。
心の奥で震えが這った。
望んでいたのに、シリウスの隣に並ぶ勇気が持てなかった。グリフィンドールを選ぶという選択を、恐れに押し潰されてしまった。
彼の瞳が失望で曇ったらどうしよう。落胆し、遠ざかるのではないか。
視線が逃げ場を求めて彷徨ったその瞬間。
シリウスは、彼女を見下ろすその瞳に笑みを宿していた。
「アラン」
静かに名を呼び、彼は続ける。
「寮が違うのは仕方ねぇ。お前にはお前の生き方がある」
低い声。だがそこに込められた力は確かで、揺らぐことがない。
「でもな、俺たちはそんなもんで離れたりしねぇ。何かあったらいつでも言え。……俺が守ってやる」
あっけらかんとした調子ですらあったのに、その言葉は驚くほど強く、ひたすらに温かだった。
想像していた「責める言葉」でも「失望の眼差し」でもない。
彼女が恐れていた冷徹な刃はどこにもなく、代わりにあったのは理解と包容の光。
その瞬間、アランの胸には幸福が奔流のように押し寄せてきた。
——失望されるのではないか。
怯えていた心だからこそ、その優しさは想定の何倍もの大きな力で響いた。胸がきゅうと痛み、次の瞬間に熱で焼け付くように満たされていく。
「シリウス……ごめんなさい。私……選べなくて」
かすかな声で俯いた時、彼は軽くそれを遮った。
「いいんだ、そんなことは」
あまりにも自然に。胸へ突き刺さっていた罪悪感を、あっさりと断ち切るように。
「お前があの屋敷を離れて、楽しくやれるなら……それが一番なんだ」
真っ直ぐに投げかけられた言葉に、アランははっと顔を上げた。翡翠の瞳が大きく揺れ、彼を映す光で満たされる。
——ああ、この人だ。
心の底で確信が鳴り響いた。
自分にとってあまりにも不相応だとわかっている。
身分の差も、立場も、現実も、全部が重くのしかかっている。
それでも。
それでも確かに、この人が好きだ。
まだ子供でありながら——「この人と生きていきたい」と思ってしまった。
夢にも似た無謀な願い。けれど今はただ、この真っ直ぐな炎のような光を信じていたかった。
遠くで鐘がひとつ鳴り、夜の闇が深く迫ってきた。
その中で、掴まれた手の温もりだけが鮮やかに現実を縫い止め、二人を包み込んでいた。
スリザリンの談話室へと続く石の階段を降りると、世界は一変した。
地下ならではの冷たい空気が肌にまとわりつき、しんとした湿り気を帯びた息が、胸の奥まで沁み込んでいく。壁に沿って並ぶエメラルド色のランプが淡く灯り、湖面を透して差し込む青緑の光が揺れ、天井や床までもが水の底に沈んでいるかのようだった。
アランが重い扉に手をかけて押し開いた瞬間――そこに立つ影に息をのんだ。
レギュラスだった。
椅子にも座らず、壁に背を預けて待っていたらしい。背筋を伸ばし、静けさを纏っているその姿は、見慣れた穏やかなようでいて、今夜はどこか張り詰めた気配を伴っていた。
視線が絡む。瞳の奥に潜む揺らぎが、アランの心臓をわずかに圧迫した。
「……どこにいたんです?」
低く落ち着いた声。けれど、その奥には抑えきれぬ不安の色が微かに滲んでいた。
アランの喉がきゅっと締めつけられる。
答えられない。
——言えない。シリウスと会っていたなんて。
あの胸の高鳴りは、誰にも触れられたくない。
心にしまっておきたい。眩しい宝石のように、大切な秘密のままにしておきたい。
「……お手洗いに行って戻ったら、誰もいなくて。迷ってしまって」
驚くほど自然に、言葉は口をついて出ていた。
それが自分の声だと信じられないほど、淀みなく澄んだ響きで。
レギュラスは黙ってアランを見つめた。
長い沈黙がふたりの間に流れた。
苛立ちも非難もない。けれど、その無言の視線に、胸の奥の嘘が見抜かれてしまいそうで心臓が早鐘を打つ。
やがて、彼の表情がふっと和らいだ。
「……よかった。ホグワーツにはいろんなところがありますから」
安堵を含む微笑みと共に、彼はゆるやかに手を差し出した。
「探検なら……一緒にしましょう」
そのまま差し出された手が、アランの手を包み込む。
静かだが確かな温もりが流れ込み、迷った心を導く道標のようだった。
胸の奥がざわめく。
「……ありがとう、レギュラス」
微笑みながら礼を言う。心は感謝で満たされるはずだった。
けれど同時に、胸の底にはずしりと重たい影が沈殿したままだった。
——自分は、隠し事をしている。
ブラック家の主人のひとりであり、幼い頃からずっと自分を守ろうとしてくれた人に。
彼の揺らがぬ優しさに応えるどころか、胸の奥に秘密を抱えて立っているのだ。
罪悪感は影となって心に落ち、消えることなく沈み続ける。
しかし、その影の隣で、シリウスと交わした言葉の熱が確かに息づいていた。
「お前を守る」「俺が連れ出す」――あの真っ直ぐな声が蘇り、宝石のような輝きとなって密かに胸を温め続けている。
翡翠の瞳に映るのは、矛盾して交わらぬふたつの感情だった。
安堵と罪悪、温もりと痛み。
それらは水面に届かぬ深さまで沈み落ちていき、夜の湖底のような静けさの中で溶け合おうとしていた。
談話室を満たす青緑の光は揺らぎながら、アランの心の奥深くに潜むその姿を、誰にも告げず照らし出していた。
ホグワーツに来て、しばらくの日々が経った。
広い石造りの廊下を教室へ向かう足取りも、天井まで積み上げられた書架が並ぶ図書館での学びも、地下のスリザリン談話室で交わされる声やざわめきも、まだ新鮮で胸を踊らせた。
何よりも、自分が「使用人」ではなく「生徒」として扱われる事実。
誰かに仕えるのではなく、自ら名を呼ばれ、ひとりの生徒として座り、学び、笑うことが許されている。
それは確かに、生まれて初めて味わう新しい呼吸のようなものだった。
けれど、心が本当に晴れているわけではなかった。
胸の奥には、あの夜の記憶が固く息づいていた。
大広間を出たあと、扉の影で交わした言葉。
「俺たちはそんなもんで離れたりしねぇ。何かあったらいつでも言え。俺が守ってやる」
真っ直ぐに告げられたその声と笑顔。
シリウスの輝きは、宝石の光のように心の奥深くに沈み、誰にも見せたくない宝物として隠れていた。
それを抱きしめているだけで息が熱を帯びる。
だが、その一方で。
レギュラスと向き合うたび、胸は苦しく沈んだ。
昔から何度も彼に救われてきた。ヴァルブルガやオリオンの苛立ちに晒されても、さりげなく盾になってくれたのは常に彼だった。
礼儀を失わぬ物腰で、それでいて静かに寄り添い、自分を守ろうとしてくれた人。
その感謝を忘れたことはない。
だからこそ、今の自分は赦されないのではないかと思ってしまう。
彼の前で視線を逸らすたび、罪悪感が胸の奥で膨らんでいった。
そんなある日。
授業を終えて、魔法薬学の教科書をパタンと閉じた瞬間、ふっと視線を感じた。
顔を上げると、机を隔てた先にレギュラスが座っていた。
静かな眼差しが、真っすぐにこちらを見ている。
それは決して鋭いものでも非難でもなかった。だが、必要以上に細やかで……まるで何かを探ろうとするように、翡翠色の瞳を覗き込んでくる。
「…… アラン、最近、少し元気がないように見えます」
低く抑えられた声が心に触れる。
罪悪感が一気に波立ち、アランは慌てて微笑んだ。
「そんなこと……ありません」
そう取り繕うつもりだった。
けれど翡翠の瞳はわずかに揺れ、すぐには言葉の裏を覆い隠せなかった。
レギュラスが、机越しにゆっくり手を伸ばした。
あと少しでアランの手に触れる距離。だが、途中で止められたその指は、震えを残して空中で沈黙を抱く。
代わりに彼は、微かな笑みを浮かべた。
「僕には、わかります」
その声に胸がぎゅっと締め付けられた。
「昔から、ずっと見てきましたから」
言葉は柔らかい。
けれど、それは逃げ場を塞ぐ縄のようにも響いた。
——気づかれている。
隠しているはずの罪の影。その気配が、彼の瞳に少しずつ浮かび上がってきてしまう感覚。宝物を胸の底にしまうほど、罪悪感は濃くなっていく。
「……何か困っていることがあれば、僕に言ってください」
優しい、あくまで優しい響きだった。
しかしそこには「見逃さない」という意志が潜み、どこか押し返せぬ強さを帯びていた。
アランは首を振り、かすかに震える声で答えた。
「大丈夫です……」
その瞬間だった。
胸の奥で、宝石の輝きと暗い影が音もなくせめぎ合った。
シリウスから託された宝物の光と、レギュラスへの裏切りに似た罪悪感。
それらが絡まり合い、ほどけることなく、心の奥でますます複雑に結ばれていった。
授業を終え、アランはいつものように大広間へ足を踏み入れた。
灯りに照らされた空間は、すでに何百人もの生徒たちの声で賑わい、熱気が渦巻いている。
組み分けからしばらくが過ぎた今でも、この大広間にはまだ新鮮に映る光景があった。広がる天井は夜空と星々を宿し、無数のキャンドルが宙に浮かびながら、長いテーブルや料理の皿を柔らかに照らしている。
そのざわめきの中心にいたのは、やはりシリウス・ブラックだった。
朗らかな笑い声が、低い天井まで突き抜けるように響いている。
彼は両隣に座った友人の肩に遠慮なく腕を回し、無邪気に話を飛ばしながら場を盛り上げていた。
その一挙手一投足に、自然と人々が惹きつけられる。とりわけ少女たち。
テーブルの周囲には、シリウスの方へ身を寄せる女子生徒がいく人もいた。
遠慮も照れもなく、その瞳には熱が宿り、憧れを隠さぬまま、彼をまっすぐ見つめ続けているのがわかる。
なぜなら—— アラン自身も、同じ瞳をしていたから。
胸の奥から溢れる、眩しく熱い感情。
どう抗っても抑えきれず、視線が自然と彼を追ってしまう。
でも、次の瞬間、内側にきりきりと苦い痛みが走った。
——どうせ自分も、あの女の子たちと同じ。
彼女たちと同じように大勢の中に紛れ、光の前では名前も色も霞んでしまうだけなのだ。
一介の使用人の娘でしかない自分が、彼に選ばれるはずがない。
「好きでいたい」とさえ願ってしまうことが、烏滸がましいのだと、自分に言い聞かせる。
けれど、否応なく胸に残ってしまう。
あの夜。
「俺が守ってやる」と彼が告げた声と笑顔。
その言葉が宝石のように胸に刻まれ、ひとつひとつの響きが心を震わせ続けている。
隠し切れないほどの輝きが内側を照らして、今も消えない。
「……うるさい人たちですね、本当に」
ふいに、隣から低く静かな声が落ちた。
びくりとして隣に目を向けると、レギュラスがいた。
彼の灰色の瞳は一瞬だけ、大広間の中心にいるシリウスとその人だかりを捉えていた。
その表情は崩れず、声色も淡かった。
けれど、アランの胸はどきりと跳ねる。
——気づかれている。
自分がシリウスの姿を目で追っていたことを。
その一瞬の眼差しに、心の奥を見透かされたような痛みが走った。
「……賑やかですね」
精一杯の笑みを作り、言葉を返す。
深い意味はない、ただ人の多さと騒がしさに視線を向けていただけだと装う。
そう振る舞うことが唯一の防御だった。
レギュラスは短く視線を戻し、わずかに口元を綻ばせた。
それ以上、何も問いかけはしてこない。
だが、その沈黙こそが余計に胸を締め付けた。
言葉がない分、全てを知った上で敢えて覆い隠しているようで。
その気配に心が揺れ、後ろめたさと切なさが交錯し、翡翠の瞳は小さく震え続けていた。
大広間の喧噪を遠くに感じながら、アランは自分の胸の奥がさらに複雑に絡まっていくのを痛感していた。
スリザリンの談話室はいつも静謐で、どこか息苦しいほどの閉ざされた空気に満ちていた。
湖の底に沈んだような薄暗さの中、青緑の光が壁へと差し込んでいる。ゆらめく湖面が揺らす影は、魚の群れが通り過ぎるように壁と天井に映り、部屋の空気をさらに水中のように変えていた。
アランは机の上に広げた教科書を閉じようとしていた。小さな息をつき、涼やかな光で満たされる部屋に視線を流したとき、背後に妙な重みを感じた。
振り返ると、そこにレギュラスが立っていた。
姿勢は整い、穏やかな表情を浮かべている。けれどその佇まいには、ただの少年らしい気安さではなく、切迫した意志のようなものが絡みついていた。
「…… アラン」
柔らかな呼びかけだった。
しかし音の奥底に含まれているものは、不思議と逃れられない重さを持っていた。
「先ほど、大広間で……兄の方を見ていましたね」
問いかけは静かで、鋭利な色も責める響きもなかった。
ただひとつの事実を確かめるように、淡い微笑とともに投げかけられた言葉。
アランの胸は大きく揺れ、翡翠の瞳が潤む。
思わず喉がきゅっと詰まり、答えを探そうともつれたまま言葉がこぼれた。
「……あの、ええと……みなさん、とても賑やかだったので」
必死に理由を繋ぎ合わせる。注がれていたのは人だかりの喧しさに過ぎない、と自分に言い聞かせるために。
レギュラスはしばし、アランの瞳をじっと見つめていた。
光と影の中で、その視線は湖の底を覗き込むように深く、動かない。
やがて、彼の口元がわずかに緩んだ。
「そうですか。……賑やか、でしたね」
その声は確かに頷く響きを持っていた。けれどそこには「信じている」とも「信じきっていない」ともつかない曖昧さが漂い、アランの胸を締め付けた。
そして次の瞬間、彼は机に置かれたアランの手にそっと触れた。
その仕草は一見すれば優しさそのものに見えた。けれど、指が離れない。
彼女の温度を確かめるように、長く、纏いつくように。
熱が、皮膚から胸の奥へじわりと広がっていく。
「……僕には、あなたが心の中で何を抱えているのか……だいたいわかります」
低く響いた言葉に、アランは息を止めた。
胸が大きく詰まり、頭の奥で罪悪感と恐れがよじれる。
「いえ……そんな、こと……」
掠れる声を絞り出した瞬間、レギュラスはわずかに瞳を細めた。
「大丈夫です。言わなくても」
微笑んだ唇から、柔らかな声がこぼれた。だがその声は安堵以上に、境界線を引く重みに似ていた。
「……でも覚えていてくださいね」
温かな光のような言葉。けれどその響きは、どこか結界の呪文にも聞こえた。
「僕はずっと……あなたの側にいますから」
その言葉に、アランの胸の奥が震える。
——慰め。それとも拘束。
彼の声は両方の色を併せ持ち、心を揺さぶりながら絡みついてくる。
胸の深みで、背中合わせのふたつの輝きが激しく競い合っていた。
罪と影のように沈むもの。
そして、シリウスが与えてくれたあの言葉。
「俺が守ってやる」
宝石のように光るその記憶が、なお鮮やかに燃えていた。
アランの心は、二つの異なる光の間に引き裂かれながら沈み込み、談話室に揺れる湖の光はその揺らぎを誰にも告げず、冷たい壁に映し出していた。
ホグワーツの図書館は、夜になるとひときわ厳かな静けさに包まれた。
幾重にも積み重なる本棚は影を深く落とし、まるで古代の森のように暗く沈んでいる。その合間を縫って漂う空気には、古い羊皮紙の匂いと乾いたインクの香りが色濃く満ち、誰しもが言葉を潜めざるを得ない荘厳さを湛えていた。
アラン・セシールは、長い机に据えられたランプの光を頼りに、ひたすら教科書にかじりついていた。
羽ペンが羊皮紙を掠める音が、かすかに響く。書き損じるたび、彼女はページを戻しては書き直し、必死に文章を追いかける。その小さな肩は集中のあまり時折こわばり、翡翠の瞳は一行一行を掴もうと強く揺れていた。
その隣でレギュラスは静かに本を閉じ、しばらく無言のまま彼女を見つめていた。
光に照らされた彼女の横顔。額にかかる髪の影。その真剣な眼差しに、胸の奥がきゅうと熱を帯びる。言葉を失うほど、集中して学びに没頭している姿に心を奪われてしまう。
そして耐え切れず、ふっと柔らかに言葉を零した。
「……頑張り屋ですね」
アランは羽ペンを止め、はっとしたように顔を上げた。
翡翠の瞳に光が宿り、少し照れたように笑みをこぼす。その声は小さくも誠実だった。
「違うんです。……私は、レギュラスみたいに昔からずっと勉強していて、基礎があるわけじゃないから。人よりもっと勉強しないと、追いつけないんです」
言葉の中に、悔しさと真剣さが滲んでいた。
確かに、とレギュラスは思った。
自分もシリウスも、幼い頃から屋敷で家庭教師をつけられ、魔法の基礎知識を叩き込まれてきた。
けれどそのとき、アランは廊下や厨房に立っていた。重い盆を手に持ち、大人の命令に逆らわず、幼い体で家事を任されていたのだ。今こうして机に向かい、魔法に触れられる学びの時間は、彼女にとって初めて享受できる「自由の知識」そのものだった。
その努力を誇るべきだと理性が告げる。
だが、心の奥底には別の思いも芽吹く。
——そんなにしてまで学ばなくてもいいのではないか。
アランは結局、このホグワーツを出たら再びブラック家に仕え続ける存在。
外の世界で自由に職を選び、生きる道を新しく切り開いていけるわけではない。
ならば、人並みにこなせればそれで十分だ。
彼女は命令に従い、静かに屋敷にいればいい。
指先が震えた。
教科書に夢中になり、細い指に小さなインクの染みを残すほど。肩を張り詰め、瞳に疲れが滲むほど。そこまでしなくても——彼女の手はもっと美しく、大切にされるべきなのではないか。
あの翡翠色の瞳は、本来なら疲れの濁りなど映すべきではない。
ただ、澄んだままに笑っていてほしい。
目の前の必死な姿さえも愛おしかった。
だが同時に、どこか遠くへ行ってしまいそうな不安が忍び込む。
机に向かい吸い込むように知識を取り込んでいる姿は、確かにアランを「使用人」という枠組みの外に連れ出してしまう。
その未来を考えると、胸の奥にかすかなざらつきが芽生える。
——昔から、彼女は目を惹く存在だった。
セシール家の血の証を宿し、母から受け継いだ麗しさを惜しみなく備えている。
大勢の視線を集めるほどに美しく成長したアラン。
もし彼女が「ただの使用人の娘」ではなく、純血貴族の娘だったなら。
自分は何の迷いもなく、父オリオンに婚姻を願い出てこの少女を生涯の隣に迎えていただろう。
だが彼女はセシール家の娘。
定めとして「仕える者」でしかない。
その現実はときに誇らしく、しかし一方で恐ろしかった。
このままなら、自分の傍にいてくれるだろう。
けれど、これほど麗しく、光を放つほどの存在が、人に見つめられ、憧れられ続ければ。
いつか自分の手の届かぬ場所に行ってしまうのではないか。
その考えが、思考の奥底で黒い影のように広がっていく。
ランプの灯りが二人の机に落ちる。
アランの翡翠の瞳がその小さな光を反射し、きらりと輝いていた。
その輝きは、恐ろしいほど美しく——だからこそ怖かった。
レギュラスは無意識に、机の端で拳を強く握りしめていた。
爪が食い込むほどに、彼女を掴み離すまいとする衝動が忍び寄っていた。
深夜に近い図書館は、ほとんど無人だった。
高い天井の隙間に漂う空気は冷たく澄み、どこか粘度を持つように静まり返っている。棚と棚の隙間に並ぶランプが、点々と淡い灯を浮かべるだけ。その灯りは遠くの奥行きを飲み込むことはなく、机の上に閉じ込められた小さな世界を淡く照らしていた。
アラン・セシールはそのひとつの光に包まれ、分厚い魔法薬学の本を広げて向かっていた。
羽ペンを握る指は震えを堪え、羊皮紙の上に小さな字で走り書きを続けている。眉を寄せ、唇をかすかに噛みしめる。
声も音もない空間には、羽ペンが紙を掠める擦過音と、ページをめくったり戻したりする音だけが響いていた。
少しでも遅れを取り戻さなければ——。
その焦りが、誰に強いられるでもなく本人を突き動かしていた。
「……ほんと真面目だよな」
ふいに肩越しに落ちてきた声に、アランははっと顔を上げた。
そこに立っていたのはシリウス・ブラックだった。
濃い夜の色をたたえた瞳に、月明かりのような輝きを宿している。整った額にかかった黒髪はどこか乱れ、ちぐはぐな軽やかさを纏っていた。その口許には気楽そうな笑みが滲んでいる。
「シリウス……」
思わず名を呼ぶと、彼は少し首を傾げてから笑った。
「まだこんな時間まで勉強してんのか。偉いな」
その言葉に、アランは視線を机へと落とし、小さく首を横に振った。
「違うの……私は、レギュラスみたいに昔から基礎ができていたわけじゃないから。人よりたくさんやらないと、追いつけないだけ……」
必死さと、悔しさ。それを隠しきれず、声に滲ませてしまう。
短い沈黙のあと、シリウスはほんの一瞬だけ視線を落として、それから一気に破顔した。
「……そんなの、別にいいだろ」
「え?」
驚いて見上げた瞬間、シリウスは机の淵に軽く腰を乗せ、片肩を竦めてみせた。
「勉強なんかできなきゃできないでいいさ。お前は生きて、笑ってりゃそれで十分なんだよ。
何か困ったことがあったら、俺が助けてやる」
軽やかで、真っ直ぐで、迷いを知らない響き。
努力を否定する言葉ではなかった。むしろそれ以上に、「お前はそのままでいい」と告げられたような温度を宿していた。
胸の奥が一気に熱に満たされる。
「……でも……」
かすれた声で抵抗しようとすれば、彼はまた笑った。肩を揺らし、屈託のない響きで。
「まあ、それでも頑張りたいって言うなら止めねぇさ。俺はただ……無理して疲れちまうお前を見るのは嫌だ、って言ってるだけ」
その言葉に、アランははっと息を飲んだ。
——なんて自由なんだろう。
レギュラスの静かで繊細な気遣いとは正反対。
シリウスの言葉は、幼い頃から屋敷にまとわりついていた「務め」や「枷」を、力任せに破り捨ててしまうような光を放っている。
その強引な優しさが、心を縛る糸を解いてしまう。
アランは翡翠の瞳をそっと伏せ、羽ペンを持つ手を緩め、机に置いた。
胸はきゅっと高鳴り続ける。
その高鳴りは、不安や罪悪感すら溶かしてしまうほど温かく、涙のような熱が喉ににじんだ。
——やっぱり、この人が好きだ。
心の奥に刻まれた確信。
深夜の図書館、暗い天井と揺れるランプの下で、それは一層はっきりと浮かび上がってきた。
彼の言葉は、勉強机を超えて、胸の奥のもっと深い場所に刻み込まれていた。
翌朝の大広間は、まだ眠気を手放しきれないざわめきで彩られていた。
長いテーブルに並ぶ皿には焼きたてのパンが湯気を上げ、その香ばしい匂いが空気を満たしている。温かなスープから立ちのぼる蒸気が白く揺れ、まだ少し冷えを残す朝の身体へと沁み込んでいった。そこかしこで笑い声や談笑が交わされ、学院の一日の始まりを告げる活気に包まれていた。
アランは静かに席へつき、胸の奥に昨夜の余韻をそっと抱き寄せていた。
まだ心のどこかが熱を帯びている。
——シリウスの、あの真っ直ぐな言葉。
「お前はそのままでいい」
あの声が耳の奥で繰り返し蘇る。甘やかで、力強く、心を震わせる光。
思い出すたびに、胸の奥でそっと息をつめるような感覚が広がり、熱を留めきれずに揺れてしまう。
ふと、視線が無意識に赤と金の旗の下を探していた。
数秒先、アランは小さく息を止めた。
シリウスの席。
そこで、恥ずかしそうに顔を赤らめた一人の少女が、両手で小さく折りたたまれた封筒を差し出していた。
ラブレター。
周囲からは笑い混じりの声が上がり、友人たちがひやかす。
けれどその雑踏はアランの耳に届かなかった。
世界の音が一瞬でかすみ、胸の奥から鋭い痛みが走った。
——受け取るのだろうか。
——どんな眼差しで、その子を見るのだろう。
——どんな声で応えるのだろう。
気になって仕方ないのに、その答えを知ってしまうのが怖い。
知りたいと願うのと同じ強さで、目を背けたい。
心を掻き乱す痛みに抗うように、視線を食卓へと逸らした。
「…… アラン、食べないんですか?」
正面からかけられた声に、はっと我に返る。
レギュラスがそこにいた。
落ち着いた表情で、淡く柔らかな微笑を浮かべている。
「ええ……いただきます」
慌ててパンをちぎり、スープをすくって口に運ぶ。
その動きはぎこちなく、内を誤魔化すためのものだった。
「レギュラス、あなたこそ、ほら。もっと食べてくださいね」
努めて明るい声を作り、彼の皿にサラダを盛り付ける。
空いたゴブレットへ水差しから注ぐのも自然だった。
それは屋敷で何度も繰り返してきた動作。手が覚えている所作は、いっさい考えることなく滑るように体から零れ出る。
胸を焦がす痛みを覆い隠すように、ただひたすらに手を動かした。
ルーティンの中に逃げ込む。それが唯一の拠り所だった。
「…… アラン」
少し間を置いて、レギュラスが口を開いた。
その声は柔らかいが、芯に冷たい鋼を抱いていた。
「前にも言ったでしょう。こんなこと、ここではしなくていいんです」
アランはわずかに肩を揺らし、けれど小さく首を横に振った。
唇に微笑をたたえ、必死に繕う。
「ううん……いいんです。こうしている方が、性に合ってるから」
それは半分の本音であり、もう半分は胸を覆う痛みを隠すための言い訳だった。
「こうして動いていれば、考えずに済む」
そういう心の声が、作られた笑みに隠れていた。
レギュラスは応じなかった。
ただ静かに、彼女を見つめた。
視線は深く長く、翡翠の瞳をじっと捕らえる。
そこに自分以外の何かがあることを本能的に感じ取るように。
逃がすまいとする強さと、理解したいと願う優しさを交ぜ込んだ、複雑な光だった。
アランの瞳が揺れた。
小さな翡翠色の影が震え、彼の心に深く差し込む。
焼きたてのパンの匂いと、揺れる蝋火の穏やかさに満ちた朝。
けれどその静かな朝に、三人の間に張られた見えない糸は、少しずつ、不穏に軋みを帯び始めていた。
魔法史の授業が行われる教室には、昼の光が高い窓から差し込んでいた。
古びた石壁に反射するそれは硬質な輝きを帯び、黒板の上に白く淡い影を描き出している。
アランはその下で、必死に羽ペンを走らせていた。
黒板に刻まれていく魔法理論と歴史的事実は矢継ぎ早に解説されるが、頭にはすぐには馴染まず、何度も首を傾げてはノートを戻り、間違いに気づけば慌てて修正を入れる。小さな文字の列はしだいに乱れ、焦りの色を帯びていった。
隣に座るレギュラスはまるで別世界だった。
滑らかな筆致で簡潔明瞭に要点をまとめ、羽ペンの動きには淀みがない。黒板に書かれる問いや教授の応用的な質問にも、彼は迷いなく正確な言葉を返す。
——生まれついた環境の差。
幼い頃から家庭教師をつけられてきた兄弟と、厨房の煤に染まったり庭の雑草を引き抜いてきた自分は、積み重ねてきた「時間」そのものがまるで違う。
机に並んで座っていること自体が、夢か錯覚のようで。心に小さなざらつきが残り続けていた。
「…… アラン、ここ」
ふいに小声で呼ばれる。
視線を向けると、レギュラスが彼女のノートを覗き込み、指先で示しながらそっと小さな丸を描いた。
「この部分は……少し違ってます。こう直すと良い」
穏やかな声と、控えめで優しい動き。
筆先が紙に残す修正はあまりにも控えめで、まるで彼女の努力を否定しないように心を砕いているかのように見えた。
胸が温かくなる。
けれど同時に、自分の不甲斐なさが胸の奥を突き上げる。
——どうして、自分はこうも何もできないのだろう。
レギュラスの隣で羽ペンを動かすこと自体、どこか場違いなことのように思えてしまう。彼の明晰な頭脳、揺るぎない誇りと血筋。そのすべてが自分とは違う。
堪えきれず、思わず吐き出してしまった。
「……レギュラスは、私の隣にいない方がいいのではないですか」
言った瞬間、胸に重さが落ちた。
覗き込む横顔が小さく瞬きをする気配を感じ取る。
「なぜです?」
真っ直ぐな問い返しに、アランは視線をノートへ落とし、震える声で言葉を紡いだ。
「だって……私は使用人の女ですし。あなたみたいに頭の出来がいいわけでもないし……」
否定の響きを含んだ小さな告白。
だが返ってきたのは、驚くほど揺らぎのない声だった。
「そんなこと、僕にとっては重要じゃないんです」
淡々と、しかし芯を持って響いた。
顔を上げると、真剣に彼女を見据える灰色の瞳があった。
「僕は、あなたの隣だからいたいわけであって」
その一言が、胸の奥深くにまっすぐ落ちた。
生まれや学力、境遇で測られるものを、彼は意味をなさないと切り捨てる。
そして、自分が「ここにいる理由」そのものを肯定する瞳で見ていた。
アランの胸の奥に、不思議な温もりが広がっていった。
自分がどんなに責めても、彼は決して退けない。その優しさは、渾身的とも言えるほどの力で彼女を包み込んでいる。
——この人の、こういうところ。
幼い頃から何度救われてきただろう。
気づかれないところで盾になり、孤独を覆うように寄り添い続けてくれた存在。
それは世界にたった一つしかない特別な優しさであり、自分だけに注がれているのだと感じた時、胸は締め付けられるようで、それでも甘やかに熱を帯びていた。
大きな窓から差し込む昼の光は静かに石壁を白く照らし、机の上にふたりの影を並べて落としていた。
その影はまるで、切り離せない運命のように重なって揺らめいていた。
「アラン・セシールは可愛らしい」
そんな噂が、いつからか男子生徒たちの口の端にのぼるようになっていた。
それは囁きの域を出ないささやかな評判だったが、ひと度耳にすれば、その理由を否定できる者はいなかった。
彼女の顔立ちも、立ち居振る舞いも、ひどく儚げでありながら、放っておけない光を帯びていた。
姿を見れば思わず視線を追い、その翡翠色の瞳に映り込めば、息を呑むしかない。
——それは宿命にすら似ていた。
思えば昔から、セシール家の血筋は「美しい」と語られてきた。
アランの母リシェルも、ホグワーツに在学していた頃には「麗しい」と噂され、清らかに風を纏うような女性だったと今も語り草になっていた。
父ロイクは長年ブラック家に仕えた忠実な使用人だった。
自らの褒美に他を選ばず、ただひとつ「リシェルを妻に」と強く望んだ。
オリオンがその忠義に報いて彼女を与えた、という話は今も屋敷に残っている。
——その血から生まれたならば、この美しさもまた宿命なのだろう。
そう割り切ることもできるかもしれない。
だが、少なくとも自分にとっては、宿命や噂などでは決してなかった。
彼女はただの一人であり、かけがえのない存在だった。
兄シリウスでさえも、アランに惹かれていることを、敏感な心は察していた。
その思いを認めるたび、胸の奥にひやりと鋭い痛みが走る。
それでも、自分は彼らを押しのけてでも構わないと——そんな決意が静かに芽を育んでいった。
自分にとっても、始まりはきっと一目惚れだった。
幼い日、初めて屋敷に連れてこられたセシール家の少女。
あのとき、澄んだ瞳が一瞬だけ自分を映した。
その瞬間の衝撃は今も鮮烈で、まるで胸を打ち抜かれるようだった。
だからこそ、誰にもアランの隣を奪わせたくなかった。
授業の時も。
食事の時も。
人の目に触れぬちょっとした隙間でも。
できるかぎり自分の横に彼女を座らせ、その小さな肩越しに視線を感じ、当たり前のように過ごす。
その日常が繰り返されるたび、心に一点の安堵が滴るのを知っていた。
その日の授業が終わり、教科書を閉じて片付ける時間。
レギュラスは机の端で羽ペンを揃え、自然な声色で告げた。
「アラン、先に出てますね」
振り返った彼女が小さく頷き、軽やかに微笑んで「はい」と答えた。
その返事だけで、胸の奥にじんわりと温かい安堵が降りてきた。
言葉にすれば些細な肯定にすぎない。けれど、レギュラスにとっては十分だった。
——もう、彼女にとって自分の隣は「当然」になっている。
そう思えることが、何よりも心を落ち着けた。
廊下に浮かび上がる灯りに、その横顔の輪郭がやわらかく揺れる。
歩き去る背を見送りながら、レギュラスは胸の奥で静かに、しかし確かな想いを深く刻み込む。
この「当たり前」が、ずっと続いていけばいい。
決して誰にも、奪わせはしない。
心に走る決意は、蝋燭の炎のように揺らめきながらも確かだった。
その光の下で、彼の灰色の瞳は静かに輝いていた。
それは屋内に描かれた幻想ではなく、まるで外の夜空そのものが魔法によって閉じ込められたかのようだった。雲がゆっくりと流れ、星屑がきらきらと瞬く。漂うキャンドルの炎は揺らぎながらも強く消えず、大広間を柔らかい光で包み、初めて訪れた者たちの緊張を優しく溶かそうとしていた。
望むと望まぬとに関わらず、その光の下に立たされているのは新入生たちだった。
長い列に並ぶ子どもたちの心は高鳴りと怯え、その両方に波打っていた。
名前がひとりずつ呼ばれ、組み分け帽をかぶった生徒は、帽子に囁かれる声に耳を傾け、やがて各寮へと送り出されていく。歓声、拍手、旗の揺れ。色と色が交錯し、ひとりの選択が人生の始まりを告げる儀式が続いていた。
「レギュラス•ブラック」
その名が呼ばれた時、場の空気がわずかに引き締まった。
堂々とした足取りで前に進んだ彼は、躊躇なく組み分け帽に手をかけた。椅子に座り、帽子が頭に触れた途端、彼の進む道はすでに決まっていると誰もが悟っただろう。
答えを告げられるより早く、その名は響きわたった。
——スリザリン。
大広間の一角、緑と銀の旗がひらめく下で拍手が盛大に沸き起こる。歓声と共に椅子から立ち上がる生徒たちは誇らしげに彼を迎え入れ、まるで当然のごとくその席を与えられるかのようだった。
アランはその背中を見つめていた。
どこまでもまっすぐで、ゆらぎなど一切なく、血統と誇りをそのまま体現するかのような少年の歩み。
幼い頃から彼が「そうである」のは知っていた。けれど今この瞬間、それがはっきりと形を持ったように胸に迫ってきた。
そして——。
「アラン•セシール」
自分の名が呼ばれた時、胸の奥に別の声が波打った。
——シリウスの声。
「スリザリンなんかやめて、グリフィンドールに来い」
あの声が甦る。
顔を上げると、赤と金の旗の下にいるシリウスの姿が目に入った。
彼はこちらに向けて、屈託のない笑顔を見せていた。無邪気で、人を惹きつけてやまない光を、その顔の中に持っていた。
足元が揺れる。ほんの一瞬、歩みが迷おうとした。
だが組み分け帽が耳許に触れる前に、アランは唇を噛みしめて言葉を落としていた。
「……スリザリンを」
選んでしまった。
選ばざるを得なかった。
犠牲はあまりに大きい。
自由を望むには、まだ幼すぎる。
家族も、立場も、一族の期待も。すべてを背にして生き抜く覚悟までは、彼女にはまだ持ちきれなかった。
響き渡った判定に、スリザリンの食卓から拍手が湧く。
アランは緑と銀の旗の下、自分の席へと歩みを進めた。
すぐ隣に、レギュラスがいた。
彼は僅かに口元を綻ばせ、穏やかな声で囁いた。
「アラン、ずっと一緒にいられますね」
その声は、深い水面のように静かで安らかだった。幼い頃から変わらず、彼女を包み込む声。
「ええ、……あなたがいるから、心細くありません」
答える声には嘘はなかった。
それは確かに、本心でもあった。
レギュラスはいつだって彼女を守ろうとした。母の小言が彼女を傷つけぬよう、父の苛立ちを受け止める盾となり、目立たぬ献身を続けてきた。
使用人である彼女を、時に令嬢のように扱わせるほど、彼の存在は強かった。
その優しさに、どれほど救われてきただろう。
だからこそ、口元に浮かべた笑みは揺らぎなかった。
——けれど。
胸の奥にある「別の道への憧れ」は、今も確かに息づいていた。
赤と金に染まる旗の下、屈託なく笑うシリウス。
その視線がこちらを捕らえたような幻を感じながら、アランは静かに心へ鍵をかけた。
ひとまず、その憧れは深い場所に沈めよう。
自らの手で沈めてしまうしかないのだ。
大広間の美しい天井に星がまたひとつ瞬いた。
その輝きは、心の奥底に封じ込めた光と、不思議に重なって見えた。
初めて迎えるホグワーツでの夕食。
アランの目の前に広がる大広間は、まさに異世界そのものだった。
四つの長いテーブルが堂々と並び、天井には夜空が広がっている。満天の星々が瞬き、雲の切れ間がゆるやかに流れ、その下を無数のキャンドルが柔らかな灯を揺らめかせていた。光はあたたかく揺れながら落ち、生徒たちの笑い声や話し声を包み込む。
目の前に並ぶ料理は、屋敷で味わってきたどんな食事とも違った。色彩豊かで、香辛料や焼き立ての香ばしさが混ざり合い、熱気がテーブルの上にゆらゆらと漂っている。アランは立ち上る熱気に少し目を細めながら、まるで夢の只中に放り込まれたような気分で席に着いた。
緑と銀。
身に纏うスリザリンの制服はまだ身体に馴染まず、自分がここに座っていていいのかどうか、妙な違和感が拭い切れなかった。
緊張と戸惑いのせいで、無意識に、身体はこれまでの「習慣」を繰り返してしまう。
隣に座るレギュラスにちらと目をやったとき、自然と手が動いていた。
彼の皿に料理を取ろうとして、スプーンを持つ指先が伸びる。
水差しを手に取り、ゴブレットに注いで彼の前に置こうとする。
それは屋敷で何度も繰り返してきた、染み付いた動作。無意識の奉仕、当然の役割。
けれど、その瞬間。
「…… アラン」
落ち着いた声に呼び止められた。
小さく息をのんで顔を上げると、レギュラスが穏やかな笑みを浮かべながらも、ゆるやかに首を振っていた。
「ここではもう、あなたはブラック家の使用人じゃないんです」
言葉は静かだったが、確かな力を持っていた。
アランの手に触れるように伸ばされた彼の手が、そっとその指を包み込む。
誰にも見咎められぬ自然な仕草。だが、その温かさは驚くほど鮮烈で、アランの指先から胸の奥へ、じわじわと広がっていった。
——ああ、この人はいつもこうだ。
幼い頃から。
困った時にはさりげなく助け舟を差し伸べ、誰にも気づかれぬところで盾のように守ってくれる。
ブラック家の子息でありながら、使用人である自分を細やかに扱い、その存在を一度たりとも蔑ろにしなかった。
時に家族のように、時にそれ以上の場所へと引き上げてくれた人。
だからこそ、胸の奥にふと申し訳なさが滲む。
他の屋敷に仕える使用人たちは、おそらくこんな扱いを受けることはない。
対等に扱われ、大切にされ、敬われる。
そんな自分は——とても分不相応なのではないか。
その気配を読み取るように、レギュラスは柔らかな笑みを保ったまま真っすぐ言葉を重ねる。
「……ここでは、僕たちは対等なんです」
耳に届いたその一言で、胸の奥がきゅっと小さな音を立てた気がした。
“対等”。
使用人と主人。上下関係しか知らず育ってきたアランにとって、それは今まで考えもしなかった響きだった。
温かくもあり、胸を撫でる安心感であり、けれど同時にくすぐったく、さらにどこか申し訳ない気持ちまでも芽生える。
返すべき言葉は見つからず、心がごちゃまぜになる。
アランはただ、翡翠の瞳を伏せながら、小さくたしかな微笑を返すしかなかった。
周囲では生徒たちが楽しげに笑い合い、教え合い、料理を取り合う賑わいが響いている。
だが、その中心の喧噪から切り離されたように——ふたりの間だけが静かな夜の湖面のように結ばれていた。
大広間の熱気と煌めきの中で、外の雨の匂いを忘れるほどに。
その短い時間は、アランにとって何よりも温かく、そして不思議なほど静謐なひとときとなった。
喧騒に満ちた大広間を後にすると、空気は一変した。
つい先ほどまで笑い声や賑わいで溢れていた場所が、扉一枚隔てただけで冷ややかに沈む。廊下に漂うのは、壁に並んだ燭台の炎の明かりと、わずかな蝋と古い石の匂いだけ。ざわめきの残響は背後に遠のき、ここには凛とした静けさだけが満ちていた。
「…… アラン!」
その声に足が止まった。
振り返ると、そこにはシリウスが立っていた。
彼の眼差しは、いつもと変わらずどこか乱暴で、直線だけで描かれたように真っ直ぐだった。ためらいも逡巡もなく、伸ばされた手がアランの手を掴む。
その強さに驚く間もなく、彼女は引き寄せられ、人気のない回廊の片隅へと導かれていった。
胸が大きく脈打つ。
ばくばくと響く心臓の音が自分にしか聞こえないのか、それとも彼にまで届いてしまうのか。喉の奥まで高鳴りがせり上がり、呼吸がまともにできない。
——責められるのだろうか。
心の奥で震えが這った。
望んでいたのに、シリウスの隣に並ぶ勇気が持てなかった。グリフィンドールを選ぶという選択を、恐れに押し潰されてしまった。
彼の瞳が失望で曇ったらどうしよう。落胆し、遠ざかるのではないか。
視線が逃げ場を求めて彷徨ったその瞬間。
シリウスは、彼女を見下ろすその瞳に笑みを宿していた。
「アラン」
静かに名を呼び、彼は続ける。
「寮が違うのは仕方ねぇ。お前にはお前の生き方がある」
低い声。だがそこに込められた力は確かで、揺らぐことがない。
「でもな、俺たちはそんなもんで離れたりしねぇ。何かあったらいつでも言え。……俺が守ってやる」
あっけらかんとした調子ですらあったのに、その言葉は驚くほど強く、ひたすらに温かだった。
想像していた「責める言葉」でも「失望の眼差し」でもない。
彼女が恐れていた冷徹な刃はどこにもなく、代わりにあったのは理解と包容の光。
その瞬間、アランの胸には幸福が奔流のように押し寄せてきた。
——失望されるのではないか。
怯えていた心だからこそ、その優しさは想定の何倍もの大きな力で響いた。胸がきゅうと痛み、次の瞬間に熱で焼け付くように満たされていく。
「シリウス……ごめんなさい。私……選べなくて」
かすかな声で俯いた時、彼は軽くそれを遮った。
「いいんだ、そんなことは」
あまりにも自然に。胸へ突き刺さっていた罪悪感を、あっさりと断ち切るように。
「お前があの屋敷を離れて、楽しくやれるなら……それが一番なんだ」
真っ直ぐに投げかけられた言葉に、アランははっと顔を上げた。翡翠の瞳が大きく揺れ、彼を映す光で満たされる。
——ああ、この人だ。
心の底で確信が鳴り響いた。
自分にとってあまりにも不相応だとわかっている。
身分の差も、立場も、現実も、全部が重くのしかかっている。
それでも。
それでも確かに、この人が好きだ。
まだ子供でありながら——「この人と生きていきたい」と思ってしまった。
夢にも似た無謀な願い。けれど今はただ、この真っ直ぐな炎のような光を信じていたかった。
遠くで鐘がひとつ鳴り、夜の闇が深く迫ってきた。
その中で、掴まれた手の温もりだけが鮮やかに現実を縫い止め、二人を包み込んでいた。
スリザリンの談話室へと続く石の階段を降りると、世界は一変した。
地下ならではの冷たい空気が肌にまとわりつき、しんとした湿り気を帯びた息が、胸の奥まで沁み込んでいく。壁に沿って並ぶエメラルド色のランプが淡く灯り、湖面を透して差し込む青緑の光が揺れ、天井や床までもが水の底に沈んでいるかのようだった。
アランが重い扉に手をかけて押し開いた瞬間――そこに立つ影に息をのんだ。
レギュラスだった。
椅子にも座らず、壁に背を預けて待っていたらしい。背筋を伸ばし、静けさを纏っているその姿は、見慣れた穏やかなようでいて、今夜はどこか張り詰めた気配を伴っていた。
視線が絡む。瞳の奥に潜む揺らぎが、アランの心臓をわずかに圧迫した。
「……どこにいたんです?」
低く落ち着いた声。けれど、その奥には抑えきれぬ不安の色が微かに滲んでいた。
アランの喉がきゅっと締めつけられる。
答えられない。
——言えない。シリウスと会っていたなんて。
あの胸の高鳴りは、誰にも触れられたくない。
心にしまっておきたい。眩しい宝石のように、大切な秘密のままにしておきたい。
「……お手洗いに行って戻ったら、誰もいなくて。迷ってしまって」
驚くほど自然に、言葉は口をついて出ていた。
それが自分の声だと信じられないほど、淀みなく澄んだ響きで。
レギュラスは黙ってアランを見つめた。
長い沈黙がふたりの間に流れた。
苛立ちも非難もない。けれど、その無言の視線に、胸の奥の嘘が見抜かれてしまいそうで心臓が早鐘を打つ。
やがて、彼の表情がふっと和らいだ。
「……よかった。ホグワーツにはいろんなところがありますから」
安堵を含む微笑みと共に、彼はゆるやかに手を差し出した。
「探検なら……一緒にしましょう」
そのまま差し出された手が、アランの手を包み込む。
静かだが確かな温もりが流れ込み、迷った心を導く道標のようだった。
胸の奥がざわめく。
「……ありがとう、レギュラス」
微笑みながら礼を言う。心は感謝で満たされるはずだった。
けれど同時に、胸の底にはずしりと重たい影が沈殿したままだった。
——自分は、隠し事をしている。
ブラック家の主人のひとりであり、幼い頃からずっと自分を守ろうとしてくれた人に。
彼の揺らがぬ優しさに応えるどころか、胸の奥に秘密を抱えて立っているのだ。
罪悪感は影となって心に落ち、消えることなく沈み続ける。
しかし、その影の隣で、シリウスと交わした言葉の熱が確かに息づいていた。
「お前を守る」「俺が連れ出す」――あの真っ直ぐな声が蘇り、宝石のような輝きとなって密かに胸を温め続けている。
翡翠の瞳に映るのは、矛盾して交わらぬふたつの感情だった。
安堵と罪悪、温もりと痛み。
それらは水面に届かぬ深さまで沈み落ちていき、夜の湖底のような静けさの中で溶け合おうとしていた。
談話室を満たす青緑の光は揺らぎながら、アランの心の奥深くに潜むその姿を、誰にも告げず照らし出していた。
ホグワーツに来て、しばらくの日々が経った。
広い石造りの廊下を教室へ向かう足取りも、天井まで積み上げられた書架が並ぶ図書館での学びも、地下のスリザリン談話室で交わされる声やざわめきも、まだ新鮮で胸を踊らせた。
何よりも、自分が「使用人」ではなく「生徒」として扱われる事実。
誰かに仕えるのではなく、自ら名を呼ばれ、ひとりの生徒として座り、学び、笑うことが許されている。
それは確かに、生まれて初めて味わう新しい呼吸のようなものだった。
けれど、心が本当に晴れているわけではなかった。
胸の奥には、あの夜の記憶が固く息づいていた。
大広間を出たあと、扉の影で交わした言葉。
「俺たちはそんなもんで離れたりしねぇ。何かあったらいつでも言え。俺が守ってやる」
真っ直ぐに告げられたその声と笑顔。
シリウスの輝きは、宝石の光のように心の奥深くに沈み、誰にも見せたくない宝物として隠れていた。
それを抱きしめているだけで息が熱を帯びる。
だが、その一方で。
レギュラスと向き合うたび、胸は苦しく沈んだ。
昔から何度も彼に救われてきた。ヴァルブルガやオリオンの苛立ちに晒されても、さりげなく盾になってくれたのは常に彼だった。
礼儀を失わぬ物腰で、それでいて静かに寄り添い、自分を守ろうとしてくれた人。
その感謝を忘れたことはない。
だからこそ、今の自分は赦されないのではないかと思ってしまう。
彼の前で視線を逸らすたび、罪悪感が胸の奥で膨らんでいった。
そんなある日。
授業を終えて、魔法薬学の教科書をパタンと閉じた瞬間、ふっと視線を感じた。
顔を上げると、机を隔てた先にレギュラスが座っていた。
静かな眼差しが、真っすぐにこちらを見ている。
それは決して鋭いものでも非難でもなかった。だが、必要以上に細やかで……まるで何かを探ろうとするように、翡翠色の瞳を覗き込んでくる。
「…… アラン、最近、少し元気がないように見えます」
低く抑えられた声が心に触れる。
罪悪感が一気に波立ち、アランは慌てて微笑んだ。
「そんなこと……ありません」
そう取り繕うつもりだった。
けれど翡翠の瞳はわずかに揺れ、すぐには言葉の裏を覆い隠せなかった。
レギュラスが、机越しにゆっくり手を伸ばした。
あと少しでアランの手に触れる距離。だが、途中で止められたその指は、震えを残して空中で沈黙を抱く。
代わりに彼は、微かな笑みを浮かべた。
「僕には、わかります」
その声に胸がぎゅっと締め付けられた。
「昔から、ずっと見てきましたから」
言葉は柔らかい。
けれど、それは逃げ場を塞ぐ縄のようにも響いた。
——気づかれている。
隠しているはずの罪の影。その気配が、彼の瞳に少しずつ浮かび上がってきてしまう感覚。宝物を胸の底にしまうほど、罪悪感は濃くなっていく。
「……何か困っていることがあれば、僕に言ってください」
優しい、あくまで優しい響きだった。
しかしそこには「見逃さない」という意志が潜み、どこか押し返せぬ強さを帯びていた。
アランは首を振り、かすかに震える声で答えた。
「大丈夫です……」
その瞬間だった。
胸の奥で、宝石の輝きと暗い影が音もなくせめぎ合った。
シリウスから託された宝物の光と、レギュラスへの裏切りに似た罪悪感。
それらが絡まり合い、ほどけることなく、心の奥でますます複雑に結ばれていった。
授業を終え、アランはいつものように大広間へ足を踏み入れた。
灯りに照らされた空間は、すでに何百人もの生徒たちの声で賑わい、熱気が渦巻いている。
組み分けからしばらくが過ぎた今でも、この大広間にはまだ新鮮に映る光景があった。広がる天井は夜空と星々を宿し、無数のキャンドルが宙に浮かびながら、長いテーブルや料理の皿を柔らかに照らしている。
そのざわめきの中心にいたのは、やはりシリウス・ブラックだった。
朗らかな笑い声が、低い天井まで突き抜けるように響いている。
彼は両隣に座った友人の肩に遠慮なく腕を回し、無邪気に話を飛ばしながら場を盛り上げていた。
その一挙手一投足に、自然と人々が惹きつけられる。とりわけ少女たち。
テーブルの周囲には、シリウスの方へ身を寄せる女子生徒がいく人もいた。
遠慮も照れもなく、その瞳には熱が宿り、憧れを隠さぬまま、彼をまっすぐ見つめ続けているのがわかる。
なぜなら—— アラン自身も、同じ瞳をしていたから。
胸の奥から溢れる、眩しく熱い感情。
どう抗っても抑えきれず、視線が自然と彼を追ってしまう。
でも、次の瞬間、内側にきりきりと苦い痛みが走った。
——どうせ自分も、あの女の子たちと同じ。
彼女たちと同じように大勢の中に紛れ、光の前では名前も色も霞んでしまうだけなのだ。
一介の使用人の娘でしかない自分が、彼に選ばれるはずがない。
「好きでいたい」とさえ願ってしまうことが、烏滸がましいのだと、自分に言い聞かせる。
けれど、否応なく胸に残ってしまう。
あの夜。
「俺が守ってやる」と彼が告げた声と笑顔。
その言葉が宝石のように胸に刻まれ、ひとつひとつの響きが心を震わせ続けている。
隠し切れないほどの輝きが内側を照らして、今も消えない。
「……うるさい人たちですね、本当に」
ふいに、隣から低く静かな声が落ちた。
びくりとして隣に目を向けると、レギュラスがいた。
彼の灰色の瞳は一瞬だけ、大広間の中心にいるシリウスとその人だかりを捉えていた。
その表情は崩れず、声色も淡かった。
けれど、アランの胸はどきりと跳ねる。
——気づかれている。
自分がシリウスの姿を目で追っていたことを。
その一瞬の眼差しに、心の奥を見透かされたような痛みが走った。
「……賑やかですね」
精一杯の笑みを作り、言葉を返す。
深い意味はない、ただ人の多さと騒がしさに視線を向けていただけだと装う。
そう振る舞うことが唯一の防御だった。
レギュラスは短く視線を戻し、わずかに口元を綻ばせた。
それ以上、何も問いかけはしてこない。
だが、その沈黙こそが余計に胸を締め付けた。
言葉がない分、全てを知った上で敢えて覆い隠しているようで。
その気配に心が揺れ、後ろめたさと切なさが交錯し、翡翠の瞳は小さく震え続けていた。
大広間の喧噪を遠くに感じながら、アランは自分の胸の奥がさらに複雑に絡まっていくのを痛感していた。
スリザリンの談話室はいつも静謐で、どこか息苦しいほどの閉ざされた空気に満ちていた。
湖の底に沈んだような薄暗さの中、青緑の光が壁へと差し込んでいる。ゆらめく湖面が揺らす影は、魚の群れが通り過ぎるように壁と天井に映り、部屋の空気をさらに水中のように変えていた。
アランは机の上に広げた教科書を閉じようとしていた。小さな息をつき、涼やかな光で満たされる部屋に視線を流したとき、背後に妙な重みを感じた。
振り返ると、そこにレギュラスが立っていた。
姿勢は整い、穏やかな表情を浮かべている。けれどその佇まいには、ただの少年らしい気安さではなく、切迫した意志のようなものが絡みついていた。
「…… アラン」
柔らかな呼びかけだった。
しかし音の奥底に含まれているものは、不思議と逃れられない重さを持っていた。
「先ほど、大広間で……兄の方を見ていましたね」
問いかけは静かで、鋭利な色も責める響きもなかった。
ただひとつの事実を確かめるように、淡い微笑とともに投げかけられた言葉。
アランの胸は大きく揺れ、翡翠の瞳が潤む。
思わず喉がきゅっと詰まり、答えを探そうともつれたまま言葉がこぼれた。
「……あの、ええと……みなさん、とても賑やかだったので」
必死に理由を繋ぎ合わせる。注がれていたのは人だかりの喧しさに過ぎない、と自分に言い聞かせるために。
レギュラスはしばし、アランの瞳をじっと見つめていた。
光と影の中で、その視線は湖の底を覗き込むように深く、動かない。
やがて、彼の口元がわずかに緩んだ。
「そうですか。……賑やか、でしたね」
その声は確かに頷く響きを持っていた。けれどそこには「信じている」とも「信じきっていない」ともつかない曖昧さが漂い、アランの胸を締め付けた。
そして次の瞬間、彼は机に置かれたアランの手にそっと触れた。
その仕草は一見すれば優しさそのものに見えた。けれど、指が離れない。
彼女の温度を確かめるように、長く、纏いつくように。
熱が、皮膚から胸の奥へじわりと広がっていく。
「……僕には、あなたが心の中で何を抱えているのか……だいたいわかります」
低く響いた言葉に、アランは息を止めた。
胸が大きく詰まり、頭の奥で罪悪感と恐れがよじれる。
「いえ……そんな、こと……」
掠れる声を絞り出した瞬間、レギュラスはわずかに瞳を細めた。
「大丈夫です。言わなくても」
微笑んだ唇から、柔らかな声がこぼれた。だがその声は安堵以上に、境界線を引く重みに似ていた。
「……でも覚えていてくださいね」
温かな光のような言葉。けれどその響きは、どこか結界の呪文にも聞こえた。
「僕はずっと……あなたの側にいますから」
その言葉に、アランの胸の奥が震える。
——慰め。それとも拘束。
彼の声は両方の色を併せ持ち、心を揺さぶりながら絡みついてくる。
胸の深みで、背中合わせのふたつの輝きが激しく競い合っていた。
罪と影のように沈むもの。
そして、シリウスが与えてくれたあの言葉。
「俺が守ってやる」
宝石のように光るその記憶が、なお鮮やかに燃えていた。
アランの心は、二つの異なる光の間に引き裂かれながら沈み込み、談話室に揺れる湖の光はその揺らぎを誰にも告げず、冷たい壁に映し出していた。
ホグワーツの図書館は、夜になるとひときわ厳かな静けさに包まれた。
幾重にも積み重なる本棚は影を深く落とし、まるで古代の森のように暗く沈んでいる。その合間を縫って漂う空気には、古い羊皮紙の匂いと乾いたインクの香りが色濃く満ち、誰しもが言葉を潜めざるを得ない荘厳さを湛えていた。
アラン・セシールは、長い机に据えられたランプの光を頼りに、ひたすら教科書にかじりついていた。
羽ペンが羊皮紙を掠める音が、かすかに響く。書き損じるたび、彼女はページを戻しては書き直し、必死に文章を追いかける。その小さな肩は集中のあまり時折こわばり、翡翠の瞳は一行一行を掴もうと強く揺れていた。
その隣でレギュラスは静かに本を閉じ、しばらく無言のまま彼女を見つめていた。
光に照らされた彼女の横顔。額にかかる髪の影。その真剣な眼差しに、胸の奥がきゅうと熱を帯びる。言葉を失うほど、集中して学びに没頭している姿に心を奪われてしまう。
そして耐え切れず、ふっと柔らかに言葉を零した。
「……頑張り屋ですね」
アランは羽ペンを止め、はっとしたように顔を上げた。
翡翠の瞳に光が宿り、少し照れたように笑みをこぼす。その声は小さくも誠実だった。
「違うんです。……私は、レギュラスみたいに昔からずっと勉強していて、基礎があるわけじゃないから。人よりもっと勉強しないと、追いつけないんです」
言葉の中に、悔しさと真剣さが滲んでいた。
確かに、とレギュラスは思った。
自分もシリウスも、幼い頃から屋敷で家庭教師をつけられ、魔法の基礎知識を叩き込まれてきた。
けれどそのとき、アランは廊下や厨房に立っていた。重い盆を手に持ち、大人の命令に逆らわず、幼い体で家事を任されていたのだ。今こうして机に向かい、魔法に触れられる学びの時間は、彼女にとって初めて享受できる「自由の知識」そのものだった。
その努力を誇るべきだと理性が告げる。
だが、心の奥底には別の思いも芽吹く。
——そんなにしてまで学ばなくてもいいのではないか。
アランは結局、このホグワーツを出たら再びブラック家に仕え続ける存在。
外の世界で自由に職を選び、生きる道を新しく切り開いていけるわけではない。
ならば、人並みにこなせればそれで十分だ。
彼女は命令に従い、静かに屋敷にいればいい。
指先が震えた。
教科書に夢中になり、細い指に小さなインクの染みを残すほど。肩を張り詰め、瞳に疲れが滲むほど。そこまでしなくても——彼女の手はもっと美しく、大切にされるべきなのではないか。
あの翡翠色の瞳は、本来なら疲れの濁りなど映すべきではない。
ただ、澄んだままに笑っていてほしい。
目の前の必死な姿さえも愛おしかった。
だが同時に、どこか遠くへ行ってしまいそうな不安が忍び込む。
机に向かい吸い込むように知識を取り込んでいる姿は、確かにアランを「使用人」という枠組みの外に連れ出してしまう。
その未来を考えると、胸の奥にかすかなざらつきが芽生える。
——昔から、彼女は目を惹く存在だった。
セシール家の血の証を宿し、母から受け継いだ麗しさを惜しみなく備えている。
大勢の視線を集めるほどに美しく成長したアラン。
もし彼女が「ただの使用人の娘」ではなく、純血貴族の娘だったなら。
自分は何の迷いもなく、父オリオンに婚姻を願い出てこの少女を生涯の隣に迎えていただろう。
だが彼女はセシール家の娘。
定めとして「仕える者」でしかない。
その現実はときに誇らしく、しかし一方で恐ろしかった。
このままなら、自分の傍にいてくれるだろう。
けれど、これほど麗しく、光を放つほどの存在が、人に見つめられ、憧れられ続ければ。
いつか自分の手の届かぬ場所に行ってしまうのではないか。
その考えが、思考の奥底で黒い影のように広がっていく。
ランプの灯りが二人の机に落ちる。
アランの翡翠の瞳がその小さな光を反射し、きらりと輝いていた。
その輝きは、恐ろしいほど美しく——だからこそ怖かった。
レギュラスは無意識に、机の端で拳を強く握りしめていた。
爪が食い込むほどに、彼女を掴み離すまいとする衝動が忍び寄っていた。
深夜に近い図書館は、ほとんど無人だった。
高い天井の隙間に漂う空気は冷たく澄み、どこか粘度を持つように静まり返っている。棚と棚の隙間に並ぶランプが、点々と淡い灯を浮かべるだけ。その灯りは遠くの奥行きを飲み込むことはなく、机の上に閉じ込められた小さな世界を淡く照らしていた。
アラン・セシールはそのひとつの光に包まれ、分厚い魔法薬学の本を広げて向かっていた。
羽ペンを握る指は震えを堪え、羊皮紙の上に小さな字で走り書きを続けている。眉を寄せ、唇をかすかに噛みしめる。
声も音もない空間には、羽ペンが紙を掠める擦過音と、ページをめくったり戻したりする音だけが響いていた。
少しでも遅れを取り戻さなければ——。
その焦りが、誰に強いられるでもなく本人を突き動かしていた。
「……ほんと真面目だよな」
ふいに肩越しに落ちてきた声に、アランははっと顔を上げた。
そこに立っていたのはシリウス・ブラックだった。
濃い夜の色をたたえた瞳に、月明かりのような輝きを宿している。整った額にかかった黒髪はどこか乱れ、ちぐはぐな軽やかさを纏っていた。その口許には気楽そうな笑みが滲んでいる。
「シリウス……」
思わず名を呼ぶと、彼は少し首を傾げてから笑った。
「まだこんな時間まで勉強してんのか。偉いな」
その言葉に、アランは視線を机へと落とし、小さく首を横に振った。
「違うの……私は、レギュラスみたいに昔から基礎ができていたわけじゃないから。人よりたくさんやらないと、追いつけないだけ……」
必死さと、悔しさ。それを隠しきれず、声に滲ませてしまう。
短い沈黙のあと、シリウスはほんの一瞬だけ視線を落として、それから一気に破顔した。
「……そんなの、別にいいだろ」
「え?」
驚いて見上げた瞬間、シリウスは机の淵に軽く腰を乗せ、片肩を竦めてみせた。
「勉強なんかできなきゃできないでいいさ。お前は生きて、笑ってりゃそれで十分なんだよ。
何か困ったことがあったら、俺が助けてやる」
軽やかで、真っ直ぐで、迷いを知らない響き。
努力を否定する言葉ではなかった。むしろそれ以上に、「お前はそのままでいい」と告げられたような温度を宿していた。
胸の奥が一気に熱に満たされる。
「……でも……」
かすれた声で抵抗しようとすれば、彼はまた笑った。肩を揺らし、屈託のない響きで。
「まあ、それでも頑張りたいって言うなら止めねぇさ。俺はただ……無理して疲れちまうお前を見るのは嫌だ、って言ってるだけ」
その言葉に、アランははっと息を飲んだ。
——なんて自由なんだろう。
レギュラスの静かで繊細な気遣いとは正反対。
シリウスの言葉は、幼い頃から屋敷にまとわりついていた「務め」や「枷」を、力任せに破り捨ててしまうような光を放っている。
その強引な優しさが、心を縛る糸を解いてしまう。
アランは翡翠の瞳をそっと伏せ、羽ペンを持つ手を緩め、机に置いた。
胸はきゅっと高鳴り続ける。
その高鳴りは、不安や罪悪感すら溶かしてしまうほど温かく、涙のような熱が喉ににじんだ。
——やっぱり、この人が好きだ。
心の奥に刻まれた確信。
深夜の図書館、暗い天井と揺れるランプの下で、それは一層はっきりと浮かび上がってきた。
彼の言葉は、勉強机を超えて、胸の奥のもっと深い場所に刻み込まれていた。
翌朝の大広間は、まだ眠気を手放しきれないざわめきで彩られていた。
長いテーブルに並ぶ皿には焼きたてのパンが湯気を上げ、その香ばしい匂いが空気を満たしている。温かなスープから立ちのぼる蒸気が白く揺れ、まだ少し冷えを残す朝の身体へと沁み込んでいった。そこかしこで笑い声や談笑が交わされ、学院の一日の始まりを告げる活気に包まれていた。
アランは静かに席へつき、胸の奥に昨夜の余韻をそっと抱き寄せていた。
まだ心のどこかが熱を帯びている。
——シリウスの、あの真っ直ぐな言葉。
「お前はそのままでいい」
あの声が耳の奥で繰り返し蘇る。甘やかで、力強く、心を震わせる光。
思い出すたびに、胸の奥でそっと息をつめるような感覚が広がり、熱を留めきれずに揺れてしまう。
ふと、視線が無意識に赤と金の旗の下を探していた。
数秒先、アランは小さく息を止めた。
シリウスの席。
そこで、恥ずかしそうに顔を赤らめた一人の少女が、両手で小さく折りたたまれた封筒を差し出していた。
ラブレター。
周囲からは笑い混じりの声が上がり、友人たちがひやかす。
けれどその雑踏はアランの耳に届かなかった。
世界の音が一瞬でかすみ、胸の奥から鋭い痛みが走った。
——受け取るのだろうか。
——どんな眼差しで、その子を見るのだろう。
——どんな声で応えるのだろう。
気になって仕方ないのに、その答えを知ってしまうのが怖い。
知りたいと願うのと同じ強さで、目を背けたい。
心を掻き乱す痛みに抗うように、視線を食卓へと逸らした。
「…… アラン、食べないんですか?」
正面からかけられた声に、はっと我に返る。
レギュラスがそこにいた。
落ち着いた表情で、淡く柔らかな微笑を浮かべている。
「ええ……いただきます」
慌ててパンをちぎり、スープをすくって口に運ぶ。
その動きはぎこちなく、内を誤魔化すためのものだった。
「レギュラス、あなたこそ、ほら。もっと食べてくださいね」
努めて明るい声を作り、彼の皿にサラダを盛り付ける。
空いたゴブレットへ水差しから注ぐのも自然だった。
それは屋敷で何度も繰り返してきた動作。手が覚えている所作は、いっさい考えることなく滑るように体から零れ出る。
胸を焦がす痛みを覆い隠すように、ただひたすらに手を動かした。
ルーティンの中に逃げ込む。それが唯一の拠り所だった。
「…… アラン」
少し間を置いて、レギュラスが口を開いた。
その声は柔らかいが、芯に冷たい鋼を抱いていた。
「前にも言ったでしょう。こんなこと、ここではしなくていいんです」
アランはわずかに肩を揺らし、けれど小さく首を横に振った。
唇に微笑をたたえ、必死に繕う。
「ううん……いいんです。こうしている方が、性に合ってるから」
それは半分の本音であり、もう半分は胸を覆う痛みを隠すための言い訳だった。
「こうして動いていれば、考えずに済む」
そういう心の声が、作られた笑みに隠れていた。
レギュラスは応じなかった。
ただ静かに、彼女を見つめた。
視線は深く長く、翡翠の瞳をじっと捕らえる。
そこに自分以外の何かがあることを本能的に感じ取るように。
逃がすまいとする強さと、理解したいと願う優しさを交ぜ込んだ、複雑な光だった。
アランの瞳が揺れた。
小さな翡翠色の影が震え、彼の心に深く差し込む。
焼きたてのパンの匂いと、揺れる蝋火の穏やかさに満ちた朝。
けれどその静かな朝に、三人の間に張られた見えない糸は、少しずつ、不穏に軋みを帯び始めていた。
魔法史の授業が行われる教室には、昼の光が高い窓から差し込んでいた。
古びた石壁に反射するそれは硬質な輝きを帯び、黒板の上に白く淡い影を描き出している。
アランはその下で、必死に羽ペンを走らせていた。
黒板に刻まれていく魔法理論と歴史的事実は矢継ぎ早に解説されるが、頭にはすぐには馴染まず、何度も首を傾げてはノートを戻り、間違いに気づけば慌てて修正を入れる。小さな文字の列はしだいに乱れ、焦りの色を帯びていった。
隣に座るレギュラスはまるで別世界だった。
滑らかな筆致で簡潔明瞭に要点をまとめ、羽ペンの動きには淀みがない。黒板に書かれる問いや教授の応用的な質問にも、彼は迷いなく正確な言葉を返す。
——生まれついた環境の差。
幼い頃から家庭教師をつけられてきた兄弟と、厨房の煤に染まったり庭の雑草を引き抜いてきた自分は、積み重ねてきた「時間」そのものがまるで違う。
机に並んで座っていること自体が、夢か錯覚のようで。心に小さなざらつきが残り続けていた。
「…… アラン、ここ」
ふいに小声で呼ばれる。
視線を向けると、レギュラスが彼女のノートを覗き込み、指先で示しながらそっと小さな丸を描いた。
「この部分は……少し違ってます。こう直すと良い」
穏やかな声と、控えめで優しい動き。
筆先が紙に残す修正はあまりにも控えめで、まるで彼女の努力を否定しないように心を砕いているかのように見えた。
胸が温かくなる。
けれど同時に、自分の不甲斐なさが胸の奥を突き上げる。
——どうして、自分はこうも何もできないのだろう。
レギュラスの隣で羽ペンを動かすこと自体、どこか場違いなことのように思えてしまう。彼の明晰な頭脳、揺るぎない誇りと血筋。そのすべてが自分とは違う。
堪えきれず、思わず吐き出してしまった。
「……レギュラスは、私の隣にいない方がいいのではないですか」
言った瞬間、胸に重さが落ちた。
覗き込む横顔が小さく瞬きをする気配を感じ取る。
「なぜです?」
真っ直ぐな問い返しに、アランは視線をノートへ落とし、震える声で言葉を紡いだ。
「だって……私は使用人の女ですし。あなたみたいに頭の出来がいいわけでもないし……」
否定の響きを含んだ小さな告白。
だが返ってきたのは、驚くほど揺らぎのない声だった。
「そんなこと、僕にとっては重要じゃないんです」
淡々と、しかし芯を持って響いた。
顔を上げると、真剣に彼女を見据える灰色の瞳があった。
「僕は、あなたの隣だからいたいわけであって」
その一言が、胸の奥深くにまっすぐ落ちた。
生まれや学力、境遇で測られるものを、彼は意味をなさないと切り捨てる。
そして、自分が「ここにいる理由」そのものを肯定する瞳で見ていた。
アランの胸の奥に、不思議な温もりが広がっていった。
自分がどんなに責めても、彼は決して退けない。その優しさは、渾身的とも言えるほどの力で彼女を包み込んでいる。
——この人の、こういうところ。
幼い頃から何度救われてきただろう。
気づかれないところで盾になり、孤独を覆うように寄り添い続けてくれた存在。
それは世界にたった一つしかない特別な優しさであり、自分だけに注がれているのだと感じた時、胸は締め付けられるようで、それでも甘やかに熱を帯びていた。
大きな窓から差し込む昼の光は静かに石壁を白く照らし、机の上にふたりの影を並べて落としていた。
その影はまるで、切り離せない運命のように重なって揺らめいていた。
「アラン・セシールは可愛らしい」
そんな噂が、いつからか男子生徒たちの口の端にのぼるようになっていた。
それは囁きの域を出ないささやかな評判だったが、ひと度耳にすれば、その理由を否定できる者はいなかった。
彼女の顔立ちも、立ち居振る舞いも、ひどく儚げでありながら、放っておけない光を帯びていた。
姿を見れば思わず視線を追い、その翡翠色の瞳に映り込めば、息を呑むしかない。
——それは宿命にすら似ていた。
思えば昔から、セシール家の血筋は「美しい」と語られてきた。
アランの母リシェルも、ホグワーツに在学していた頃には「麗しい」と噂され、清らかに風を纏うような女性だったと今も語り草になっていた。
父ロイクは長年ブラック家に仕えた忠実な使用人だった。
自らの褒美に他を選ばず、ただひとつ「リシェルを妻に」と強く望んだ。
オリオンがその忠義に報いて彼女を与えた、という話は今も屋敷に残っている。
——その血から生まれたならば、この美しさもまた宿命なのだろう。
そう割り切ることもできるかもしれない。
だが、少なくとも自分にとっては、宿命や噂などでは決してなかった。
彼女はただの一人であり、かけがえのない存在だった。
兄シリウスでさえも、アランに惹かれていることを、敏感な心は察していた。
その思いを認めるたび、胸の奥にひやりと鋭い痛みが走る。
それでも、自分は彼らを押しのけてでも構わないと——そんな決意が静かに芽を育んでいった。
自分にとっても、始まりはきっと一目惚れだった。
幼い日、初めて屋敷に連れてこられたセシール家の少女。
あのとき、澄んだ瞳が一瞬だけ自分を映した。
その瞬間の衝撃は今も鮮烈で、まるで胸を打ち抜かれるようだった。
だからこそ、誰にもアランの隣を奪わせたくなかった。
授業の時も。
食事の時も。
人の目に触れぬちょっとした隙間でも。
できるかぎり自分の横に彼女を座らせ、その小さな肩越しに視線を感じ、当たり前のように過ごす。
その日常が繰り返されるたび、心に一点の安堵が滴るのを知っていた。
その日の授業が終わり、教科書を閉じて片付ける時間。
レギュラスは机の端で羽ペンを揃え、自然な声色で告げた。
「アラン、先に出てますね」
振り返った彼女が小さく頷き、軽やかに微笑んで「はい」と答えた。
その返事だけで、胸の奥にじんわりと温かい安堵が降りてきた。
言葉にすれば些細な肯定にすぎない。けれど、レギュラスにとっては十分だった。
——もう、彼女にとって自分の隣は「当然」になっている。
そう思えることが、何よりも心を落ち着けた。
廊下に浮かび上がる灯りに、その横顔の輪郭がやわらかく揺れる。
歩き去る背を見送りながら、レギュラスは胸の奥で静かに、しかし確かな想いを深く刻み込む。
この「当たり前」が、ずっと続いていけばいい。
決して誰にも、奪わせはしない。
心に走る決意は、蝋燭の炎のように揺らめきながらも確かだった。
その光の下で、彼の灰色の瞳は静かに輝いていた。
