2章
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午後の柔らかな陽光が庭園を包み、
風が低く、草花の間をかすめるように流れていた。
アランはしゃがみ込み、花壇の土に指を埋めていた。
根元の雑草をゆっくりと抜き取るその手つきは、
一つひとつに祈りを捧げるように丁寧で、静謐だった。
土に触れ、花に寄り添い、ただ黙々と手を動かす時間だけが、
今のアランにとって心の平穏を保つ唯一の術だった。
胸の奥には、言葉にならない不安や悲しみが層のように積もっている。
だが庭の土は、それを責め立てることもなく、ただ受け止めてくれる――
そんな優しい沈黙があった。
レギュラスは、その背にそっと近づいた。
彼の靴が砂利を踏む音を聞き取っても、アランは振り返らない。
それでも、気づいてはいる。
彼はわずかに呼吸を整え、
「アラン、少し……話せますか」
名前を呼ぶ声は、かすかにかすれ、どこか怯えた響きを帯びていた。
アランはゆっくりと顔を上げた。
陽光を受けた翡翠の瞳が、静かに揺れる。
腰に挿していた杖をそっと納め、
土のついた指先を軽く払いながら立ち上がる。
「はい」
その声音は穏やかで、しかしどこか距離のある優しさがあった。
レギュラスの手が自然とアランの手を取った。
親指の腹で手の甲を撫でる、いつもの癖だった。
その温もりは変わらないはずなのに、以前ほど心に触れてこない。
けれど、ほんの一瞬、アランの表情が柔らぐ。
それは、長い間寄り添ってきた者同士の “記憶” が呼び起こしたわずかな反応で、
優しさというより、習慣に近かった。
それでも、レギュラスは胸の奥で少しだけ救われる思いがした。
しかし次の瞬間には、父オリオンの冷徹な声が思考を覆い尽くす。
――もしあの女が、ブラック家の名を汚すようなことをすれば。
その言葉は、刃のように鋭く腹をえぐっていた。
何かを守り抜くための忠誠ではなく、
愛する者を「処罰し得る存在」として見なさざるを得ない恐怖。
その重荷が、胸を締めつける。
「アラン……」
言葉を続けようとするたび、喉が痛くなる。
掴んだ手がやや強くなる。
アランは黙って見つめ返す。
逃げも、責めることもせず、
ただ真っ直ぐにレギュラスの瞳を受け止めていた。
「どうしました、レギュラス?」
控えめだが、決して弱くない声。
その優しさが、今は苦しい。
レギュラスは短く息を吸い、
「さきほど、父と話をしていました」
そう切り出した。
アランは静かに頷き、続きを待つ。
庭園の風が二人の間を通り過ぎ、葉の影を揺らす。
「父は……あの通り、家の名や地位を非常に重く見ている人です」
「そうですね」
その返事には、長い年月で理解した“諦め”も含まれていた。
「だから……父は、あなたにもそうあってほしいと……願っています」
レギュラスの言葉は、どこまでも慎重に、
まるで壊れ物に触れるように選ばれていた。
だがその裏には、必死の叫びがあった。
――どうか、軽率な行動はしないでほしい。
――シリウスと秘密裏に会おうなどと、もう考えてほしくない。
――あなたを守るために、どうか、この家の掟から外れないでほしい。
言葉にならない懇願が、沈黙の中に滲む。
アランは、その全てを察した。
翡翠の瞳は美しく澄んでいたが、その奥には淡い影が揺れている。
レギュラスが恐れているものも、
彼が知らないところで誓っている忠誠も、
彼女にはよくわかった。
だがそれでも――
彼女の心の中には、消えない光が一つだけあった。
遠く離れた場所で戦う、あの人の光。
それはレギュラスのものではなく、
決して手放すことのできない、
静かに灯り続ける恋そのものだった。
庭園の午後は、柔らかい陽光の中で息づいている。
風が花を揺らし、影を揺らし、
揺れる二人の心までも映し出すように。
その瞬間、二人の間に広がる“揺らぎ”は、
ひっそりと、しかし確かにそこにあった――
まるで風に震える一枚の葉のように、
儚く、美しく、触れれば壊れてしまいそうなほど繊細に。
いつも通りの食卓だった。
アランが整えた料理は、どれも香りも色も美しく、
皿へ盛る手つきには揺るがぬ気配りが込められていた。
だが、その丁寧さとは裏腹に、食卓に漂う空気は張りつめ、
まるで薄い氷の上を歩いているかのような緊張感が満ちていた。
「アラン、あなたは席を外してくれるかしら」
ヴァルブルガの声は、冷ややかな刃のように響いた。
「かしこまりました、奥様」
アランは微笑みもせず、淡々と頭を下げ、静かに席を立った。
ドアが閉まる音はやけに重く、
その瞬間、部屋の空気は一気に沈み込んだ。
残されたのは、ヴァルブルガ、オリオン、そしてレギュラス。
重厚なブラック家の食堂は、不穏な沈黙に沈んでいた。
壁に掛けられた黒檀の大時計が、
静かに秒を打つ音だけが、無情に響く。
「レギュラス」
ヴァルブルガが、ゆっくりと息子の名を呼んだ。
その瞳は氷のように固く、感情を押し殺している。
「アラン・セシールを……本当に妻にするつもりですか?」
その問いは、以前から幾度となく向けられたものだった。
しかし今日は、いつも以上に熾烈な圧が宿っていた。
レギュラスは小さく息を吐いた。
――またか、と。
だが顔には出さない。
ブラック家の当主の子として育った彼は、
母の激しい感情の裏に潜む“政治”を理解していた。
「母上、父上の条件は果たしております」
レギュラスの声は淡々としていながら、芯があった。
ヴァルブルガの口元がわずかに歪む。
その表情には、明確な憤りが滲んでいた。
「あの女は……やがて災いとなるでしょう、オリオン。
あなた様のお考えが私には理解できません」
父オリオンは黙ったままワインを揺らしている。
その沈黙は、肯定でも否定でもなく、ただ判断を保留しているだけ――
それが逆に、ヴァルブルガの苛立ちを際立たせた。
レギュラスは胸の内に、重い影が落ちるのを感じた。
母は父とは違う意味で、
アランとの結婚に対して強い拒絶を抱いている。
その理由が、単なる家格の問題ではないことくらい、
レギュラスにもよくわかっていた。
「それなら、母上の望む条件をお示しください」
レギュラスは視線を逸らさず、言葉を重ねた。
「それが叶えられるものであれば、必ず達成します」
ヴァルブルガは深く溜息をついた。
その吐息は、すべてを拒絶するように鋭かった。
「……忘れましたか。
あの娘が、リシェルの血を継いでいることを」
食堂の空気がぴたりと止まる。
テーブルの上の銀の器までもが、音を立てることを躊躇うかのようだった。
リシェル――。
かつて王宮の侍女でありながら、
王妃の座に迫り、国王の寵愛を受け、
嫉妬と裏切りの渦に呑まれて処刑寸前まで追い詰められた女。
しかしロイク・セシールがその才覚と美貌を見出し、
忠誠の印としてオリオン・ブラックに彼女を望んだ。
彼女は処刑から救われ、
その後に生まれたのがアランだった。
「王宮に訪れた災いが、ブラック家にも同じように降りかかるのではないか」
ヴァルブルガの瞳は息子を射抜く。
その眼差しは、ただの母ではない――
“貴族の妻”として冷徹な理を持つ女の眼だった。
だがレギュラスは、静かに思う。
――ここは王宮ではない。
どれほどの地位があろうと、そこまでの混迷はない。
だがそんな言葉を口にすれば、
母の怒りを買うだけだと分かっていた。
「────あの娘はいずれ、あなたの判断を曇らせるでしょう」
ヴァルブルガの声は鋭く締めつけるようだった。
「未来の当主が揺らげば、一族の未来は潰えますよ」
レギュラスは一瞬瞳を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
胸に刺さるその言葉は、否定できない現実の一端でもあった。
アランの存在が自分を弱くし、揺らすことがあると、
時に彼自身も感じてしまう瞬間がある。
それでも――。
「父上や母上のお考えを慎重に聞いたうえで、決断します」
レギュラスは毅然と告げた。
どれほど母がアランを拒んでも、
どれほど鋭い危惧を並べ立てても、
オリオンとの間に交わした“約束”がある。
アランを傍に置く権利と責任は、自分の手にある。
その一点が、レギュラスの心を支える盾となっていた。
ヴァルブルガの言葉がどれほど鋭く、どれほど冷たく突き刺さろうとも、
レギュラスの決意は揺らぎもしなかった。
食堂に残っていた香草の匂いも、暖炉の暖かさも、
彼の胸の奥に燃え続ける意志を弱めることはできない。
アランを妻に迎えたい――。
その願いは、幼い頃から共に育った記憶のどれよりも深く、
もはや彼の心臓の鼓動そのものに近い強さで存在していた。
デスイーターとしての任務は、確かに彼の良心を痛めつける。
血を浴び、命を奪い、闇の名のもとに正義を貫こうとするたび、
心の奥で小さな痛みが走る。
だが――その苦痛すら、アランを手にするための代償と思えば、
レギュラスは迷わなかった。
彼にとって彼女は、“何にも代えがたい存在”だった。
食卓では、アランは一歩下がった位置で黙々と皿を片付けていた。
さっきまでの重い空気が、まだ部屋に残っている。
銀のカトラリーが触れ合う微かな音が、
沈黙をさらに強調していた。
レギュラスは静かにアランへ歩み寄る。
足音を立てないように、慎重に、まるで壊れ物に触れるかのように。
「アラン、こっちは僕が片付けます」
声は柔らかく、他の誰にも見せない優しさが混じっていた。
アランは驚いたように顔を上げた。
翡翠色の瞳には、わずかな戸惑いと、遠慮が入り混じっている。
「レギュラス……ヴァルブルガ様があまり、お喜びではないから……」
その言葉はとても小さく、
肩がほんの少し縮こまっているのが痛いほどわかった。
母の目を気にし、息を潜めるように生きるその姿。
アランの背に乗せられた“家の影”は、
まだ少女である彼女にはあまりにも重かった。
レギュラスの胸に、ふと鋭い切なさが走る。
母の一言で怯え、静かに身を縮めるアランの姿が、どうしようもなく胸を締めつけた。
彼女は何も悪くない。
何一つ悪いことなどしていない。
それなのに――この家の中で、
堂々と息をすることすら許されていないかのようだった。
「大丈夫です。母のことは気にしないでください」
レギュラスはそっとアランの皿を受け取りながら言った。
言葉は穏やかだが、その奥には強い意志が宿っていた。
けれどアランは、わずかに微笑んで首を振る。
「気にしないわけにはいきません。私は、ここでは……」
その先の言葉は、自ら飲み込んだ。
“立場がない”
“居場所がない”
そんな言葉を言いたくなる気持ちが、
その沈黙の中にはっきりと滲んでいた。
レギュラスは胸の奥で、何かが崩れていくのを感じた。
アランの小さく縮こまった肩。
伏せられた睫毛の影。
努力しても報われない、彼女の不安と孤独。
――どうして、こんな思いをさせてしまうのだろう。
誰よりも自分の隣で笑っていてほしい人なのに、
誰よりも守りたい存在なのに、
この家の中で一番傷ついているのが彼女だという現実が、
レギュラスの心を静かに裂いていく。
「アラン」
呼ぶ声が、少しだけ震えた。
彼はアランの手元から皿をそっと取り、代わりに自分の左手を伸ばした。
触れはしない。
けれど、触れたくてたまらない距離に。
「……いつか必ず、あなたが肩身の狭い思いをしない日を作ります」
その言葉は誓いというより、祈りに近かった。
「誰の顔色も気にせず、僕の隣に堂々と座れる日を」
アランは驚いたようにレギュラスを見つめた。
その瞳には、嬉しさでも、期待でもなく――
ただ静かな揺れだけがあった。
揺れる心。
それは“信じたい”と“信じられない”の狭間で漂う繊細な揺らぎ。
レギュラスは、彼女の表情を見つめながら決意を深めた。
たとえ母が拒み、父が厳しく、
家の理がアランを遠ざけようとも、
それでも彼は諦めない。
――いつか必ず。
アランが笑って、自分の隣に並び立てる日を。
静寂の中で、その願いだけが燃えるように確かで、
レギュラスの胸に深く、ゆるぎなく刻まれた。
ホグワーツに戻ると同時に、世界の色がわずかに変わったようだった。
それはシリウスの不在が生んだ空白ゆえの変化だった。
眩しく、騒がしく、いとも簡単に周囲の視線を奪っていった兄がいなくなった途端、
その視線がそのままレギュラスに向けられたのだ。
女生徒たちは、競うように彼に挨拶をし、微笑みを向け、
時には意味深で甘い視線を投げてきた。
休み時間になれば、図書室の廊下で彼を待ち構える姿がちらほら見える。
「レギュラス様、今日の課題を教えていただけませんか?」
「クィディッチの練習、見学してもいいでしょうか?」
「この本、先にあなたに読んでいただきたくて……」
勉学に励む下級生たちは、頼れる彼を囲み、
質問の嵐で息をつく暇を与えない。
ノートを貸してほしい、呪文の理論の解説をしてほしい、
監督生としての相談にも絶え間なく人が押し寄せた。
「今日のポーションの作り方がどうしても……」
「レギュラス、放課後少しだけ時間をもらえませんか?」
こうした日々は確かに彼の名誉でもあり、信頼の証でもあった。
だが、その忙しさは、彼の心をゆっくりと侵食していく。
試験準備、レポート、監督生の任務、
そこに加えて「人気」という予期せぬ重圧。
レギュラスの心身は、休まる隙なく吸い込まれていくようだった。
そして何より――
その喧騒が、アランとの時間を静かに奪っていった。
彼女と過ごすべきひとときが、
誰かの声に遮られ、分厚い予定に押しつぶされ、
気づけば取りこぼした砂のように指の間から零れ落ちていく。
アランを追おうとすると、
彼女は遠くへ行ってしまうような気がした。
距離を縮めたいのに、縮めようと手を伸ばせば、
なぜかその背中がふっと離れていく――
そんな焦りが、レギュラスの胸をわずかにざわつかせていた。
ある日の食事中、レギュラスは意を決して口を開いた。
騒がしい声の中でも、アランだけは静かに、彼の横で食器を整えていた。
「アラン、今週のホグズミードには……付き合ってほしいところがあります」
一緒に行こう、ではなく。
あえて「付き合ってほしい」と言ったのは、
より明確で、より確実な“約束”にしたかったからだ。
曖昧さが、また彼女を遠ざける気がしたのだ。
アランはゆっくりと顔を上げ、
口を開きかけた――その時だった。
「レギュラス様、あの、次の呪文学の課題を見ていただけませんか?」
「こちらの舞踏会の招待状を……ぜひ、来ていただきたくて!」
「これ、レギュラス様がお好きだと聞いて……差し入れです!」
まるで隙を突くように、女生徒たちが一斉に割り込んできた。
その声は華やかで軽く、
レギュラスも監督生として無下にはできない。
「ええ、あとで拝見しましょう」
「参加できるかは分かりませんが、招待状だけは……はい、ありがとうございます」
「ありがたくいただきます」
一つひとつ丁寧に返しながらも、
レギュラスの視線はちらりとアランに向けられた。
そこにいたはずの彼女は――
さっきよりもずっと遠くに座っていた。
女生徒たちが入りやすいよう、
席をすっとずらしたのだ。
その小さな行動は、
誰の目にも触れないほど自然で、
彼女自身も何も考えずにやったことなのかもしれない。
だが、その“わずかな距離”が、
レギュラスの胸を静かに刺した。
ほんの指先ほどの隙間が、
彼には、永遠に近い距離に感じられた。
アランの肩が再び、小さくすぼまっている。
“あなたは邪魔じゃない”と言いたいのに、
言葉をかける前に声が邪魔され、
気づけば彼の世界には彼女の沈黙だけが残る。
喧騒の中で、
レギュラスはただ一人、
彼女までの距離だけを測り続けていた。
授業と授業のわずかな隙間――
廊下には次の教室へ移動する生徒たちの喧騒が広がり、
羽根ペンの匂いとインクの名残が空気に溶けていた。
その中で、レギュラスは立ち止まる暇もなかった。
彼を呼び止める声が、複数の方向からかかる。
「レギュラス様……!」
「少しだけ、お話ししたくて……」
「これ……受け取ってください……!」
女生徒たちは他愛もない友人同士の連れではなく、
一人一人がはっきりした意志を持って彼の前に現れた。
控えめに包んだ恋文、丁寧に選んだ紙の色、
震える指先――
誰もがそれぞれの想いを胸に、
勇気を振りしぼって一歩踏み出した。
数名でやってくるときは、
彼の人気を半ば憧れのように共有する、
どこか軽やかな空気があった。
そんなときのレギュラスは、
監督生の顔で上手に受け止められた。
「ありがとう。気持ちだけ受け取っておきます」
「大切な招待状ですね。あとで必ず拝見します」
的確で、穏やかで、少し距離のある返し方。
彼の聡明さがあれば、場を荒立てることなく
その数分を切り抜けることができた。
だが――
一人だけで彼の前に立つ女生徒には、
同じ方法は決して使えなかった。
昼下がりの廊下。
窓から差し込む光は柔らかく、
花瓶に挿されたルナリスの花がひそやかに揺れている。
そんな静かな場所へ、
震える歩みでやってきた少女がいた。
「レギュラス様……お時間を、いただけますか」
声は細く、消えてしまいそうだったが、
その目だけはしっかりと彼を見つめていた。
恋文を差し出す両手は、
今にもこぼれ落ちそうなほど不器用で、
けれどその不器用さこそが、
彼女の真剣さをより際立たせていた。
レギュラスはゆっくりとそれを受け取った。
そして、深い息を一度吸い込む。
少女の勇気に対して、
曖昧な優しさで誤魔化すことはできない。
真心を寄せてくれたのなら、
誠心誠意向き合うのが礼儀だと、
彼は誰よりもよく知っていた。
「……申し訳ありません」
少女の肩がわずかに震える。
「あなたの気持ちは、とても嬉しい。
けれど……僕の心は、応えることができないんです」
その声音は驚くほど優しく、
けれど揺るぎない決意を含んでいた。
沈黙が落ちる。
窓辺の花がかすかに揺れたように見えた。
少女は強く唇を噛み、
しかし泣き崩れることはなく、
深々と頭を下げた。
「……ありがとうございます。
ちゃんと……言ってくださって」
その小さな声は、
言葉にできない痛みと、
それでも前に進もうとする勇気に満ちていた。
ゆっくりと背を向け、
一歩、また一歩と歩き去っていく少女の肩が、
かすかに震えていた。
レギュラスは、胸の奥が強く締めつけられた。
(どうしてだろう……)
振り絞るように告げてきた彼女の想いが、
自分の胸に重くのしかかる。
応えられないことをわかっていても、
その真っ直ぐさは、
どこか自分自身と重なって見えた。
――届かない想いを、それでも差し出してしまう愚かさ。
――心の中の誰かを、どうしても諦められない切なさ。
彼女たちの恋は自分自身にとっても痛いほど“分かりすぎる”感情だった。
レギュラスの周囲に変化が生まれていたのと同じように、
アランの世界にもまた、ごく静かな波が広がり始めていた。
ホグワーツでの日々は以前と変わらないように見えて、
ほんの少しずつ、確実に違っていった。
以前はどこへ行っても、レギュラスの姿が近くにあった。
彼の影がふと視界に映るだけで、アランの胸には静かな安心が流れていた。
だが今、レギュラスの時間は濁流のように奪われていく。
監督生としての義務、女生徒からの頼みごと、課題、レポート、相談。
気づけばアランは、授業と授業の間や寮のラウンジで、
一人でいる時間が他の誰よりも長くなっていた。
孤独――
その影を、周囲の生徒たちは意外なほど素早く察していた。
特に彼女の変化に敏感だったのは男子たちだった。
アランがテキストを抱えて廊下を歩くと、
どこからともなく数名が集まり、
自然と彼女を囲むようにして歩調を合わせてくる。
「ねえ、セシール……君さえよければ、今度のホグズミード、僕と行かない?」
声は控えめだったが、瞳の奥には真剣な光が宿っていた。
アランは驚き、わずかに足を止めた。
その後ろでは、別の男子が勇気を振り絞って告げる。
「実は……一年生のころからずっと、君が初恋なんだ」
頬を赤く染め、言葉を詰まらせる姿に、
アランは胸の奥がきゅっと苦しくなった。
またある者は、学業の悩みを口実に、
「この部分の呪文学が難しくて……少し教えてほしくて」
と距離を縮めてきた。
放課後の催しの案内状を差し出す者、
カバンにそっと小さな花を忍ばせてくる者もいた。
かつてアラン・セシールの美しさは、
レギュラス・ブラックただ一人の特権――
誰も彼女に近づけない、静かな聖域のようであった。
だがその独占は、レギュラスが忙しさに消耗していくほどに
ゆっくりと形を失いつつあった。
彼女の周囲には、
新しいまなざしが、確かな熱を持って集まってきた。
隙を見逃さぬ者たちが、
アランを中心にふわりと輪を作る。
アランは――困惑していた。
本当に戸惑っていたのだ。
シリウス以外に、異性として胸を焦がし、
恋として意識したことなどなかった。
恋はただひとつ、あの人の背に焦がれていた。
だから、今寄せられる好意が何に値するのか――
どう受け取ればいいのか分からない。
決して拒絶するつもりはない。
丁寧に対応したいと思う。
けれど、どうしてもそこには“迷い”が生じてしまう。
その曖昧な優しさが、
彼らに“期待”を抱かせてしまうことに、
アラン自身は気づいていなかった。
笑顔も見せていないし、
戸惑いを隠すために目を伏せることも多いのに、
その仕草の一つ一つが、
彼女の儚い魅力をいっそう際立たせてしまっていた。
廊下の角からバーテミウスがその様子を見つめていた。
彼の目は冷静で、どこか揶揄を含んだ光を帯びている。
「随分とお姫様になりましたね、セシール嬢」
その言葉は半ば皮肉で、半ば興味だった。
まるで面白い玩具を見つけたかのように、
彼は独り言のように呟いて微笑んだ。
アランはその言葉に、何も返さなかった。
反論も否定もせず、ただ沈黙を選んだ。
なぜなら、「違う」と言ってしまえば、
彼らが寄せてくれた真心を踏みにじるような気がしたからだ。
彼らは皆、勇気を振り絞って声をかけてくれた。
その気持ちに、嘘でも悪くもないと示したくなかった。
アランの心は揺れていた。
寄せられる想いの形が増えるにつれ、
その心は静かに、しかし確実にかき乱されていく。
その揺れは、彼女自身にもまだ掴めない。
自分がどこへ向かおうとしているのか、
何を望んでいるのか。
ただ――
ひとつだけ確かなのは、
どれほどの好意を寄せられても、
胸の奥の“たった一つの光”は消えなかった。
その光を、アラン自身がどう扱えばいいのか。
それだけが、彼女にはまだ分からなかった。
近頃のホグワーツは、妙に賑やかだった。
レギュラス・ブラックとアラン・セシール――
あれほどまでに寄り添い、他者の影すら踏み込めなかった二人が、
今では別々に光を帯び、それぞれに人が群がるようになっている。
ふたりの距離が開きはじめたことに、
当の本人たちは気づいているようでいて、核心には触れられずにいる。
しかし、外から眺めている者――
たとえば自分のような観察者には、
その変化は滑稽なほど明確だった。
レギュラスは焦りと不安を誤魔化せず、
苛立ちを押し殺したように口元を固め、
授業の合間に女生徒の告白を断っては、
そのたびにアランの姿を探す視線を彷徨わせている。
対照的に、アランは――
初めて触れる“赤の他人の好意”に戸惑いながらも、
どこか解き放たれたように表情が明るかった。
心の奥にはまだ迷いが残っていながらも、
自分を求めてくる者がいるという事実が、
少女としての初々しい輝きを与えていた。
バーテミウスにとって、この二人の対比は実に興味深かった。
どちらも真剣で、どちらも不器用。
その不器用さが、互いの胸をじわりと締めつけていることにすら気づかないまま、
状況に流されている。
ある日の昼下がり――
静かな中庭で、アランがひとりの男子生徒から告白を受けている場面に出くわした。
少年は顔を真っ赤にしながら、
自分でも信じられないといったように言葉を紡いでいた。
「ず、ずっと……君が好きだったんだ、アラン。
もし迷惑じゃなければ、友達からでも……!」
頬がこわばり、手が震えている。
アランは困惑したように視線を落とし、
どう返事をしてよいのかわからず、沈黙のまま立ち尽くしていた。
――ああ、これはまずい。
バーテミウスは心の中で小さくため息をついた。
沈黙という返事は、時に残酷だ。
拒絶ではなくとも、相手に“余地”を見せてしまう。
アラン自身には敵意も悪気もない。
ただ、誠実でありたいために言葉を選べずにいるだけなのだが、それが最も誤解を呼ぶ。
アランが言葉を探して視線を彷徨わせた、その瞬間。
バーテミウスはゆっくりと近づき、
まるで何気ない助言を投げるように言った。
「その気がないなら、沈黙はよろしくないですよ。
期待させますからね」
アランは驚いたようにこちらを振り返った。
翡翠の瞳が大きく見開かれ、
“いつから聞いていたの?” と問いかけるように揺れている。
その瞳には、
ただ困っているだけではない、
小さな覚悟の影が宿っていた。
――ああ、本当に面白い子だ。
バーテミウスは内心で笑みを深める。
アランは相手の好意を踏みにじりたくない。
けれど、自分の気持ちも、今どこにあるのか分からない。
レギュラスに背を向けたいわけでもなく、
彼を追いかける勇気も、今は失われつつある。
心が揺れている。
それが、彼にとって何より興味深かった。
「……そんなつもりは、ありません」
アランは小さく息を呑んだあと、
ようやくそう返した。
その声はかすかで、しかし震えていなかった。
まるで自分の中の秩序を、必死に守ろうとしているような声音だった。
バーテミウスは肩を軽くすくめ、
「ええ、分かっていますよ」
と柔らかく言った。
だがその目には、
“分かっているのは私だけだ”
という静かな皮肉と洞察が宿っている。
アランは恋に夢中になる少女とは違う。
ただ誰かを傷つけたくないだけの、
真っ直ぐすぎる優しさと脆さを持っている。
そして、その優しさは――
いつか必ず、誰かの胸を深く刺すことになる。
バーテミウスはそれを誰よりも理解していた。
観察者である彼だけが、
二人の心の歪みがどれほど深いか、
どこへ向かいはじめているかを知っている。
だからこそ、この光景は彼にとって目を離せない。
まるで、物語の結末が動き出す瞬間を目撃しているかのように。
中庭を抜ける風が、薄く乾いた紙の匂いを運んでいた。
アランは手の中に収めた小さな恋文を、胸のポケットにしまおうとしていた。
ほんの数分前、勇気を振り絞ったような表情で手渡されたものだ。
まっすぐな文字。震える筆跡。
そのどれもが、この紙片に込められた“想い”の温度を物語っていた。
――どう返したらいいのだろう。
正しい答えがわからない。
“ありがとう”と笑えるほど器用ではないし、
“ごめんなさい”と切り捨てるほど冷たくもなれない。
そんな迷いを胸にしまったその時だった。
ひゅ、と空気を切る音。
バーテミウスが杖を軽く振ったかと思うと、
アランの指先に触れていた紙片が、
瞬く間に炎の粉となり、空気の中で溶けた。
ぱち、と小さな火花が散り、
恋文は煙と共に消えた。
「……何をするんです?」
アランは驚きに瞳を見開いた。
その声には失望も怒りもなく、ただ純粋な戸惑いだけが混じっていた。
バーテミウスは口元だけで微笑む。
どこか、からかうような、しかし観察の鋭さを隠さない笑み。
「答える気はないのでしょう?
……まさか、丁寧な返事でも書こうなんて思ってました?」
その軽い一言に、アランは目を細めた。
抗議の色を秘めた翡翠の眼差し――
澄んでいて、強くて、触れた者の心をざわつかせる美しさがあった。
その瞳を見た瞬間、
バーテミウスは思わず鼻で笑うように息を漏らした。
「すみません。
その表情とあなたの美しさが、あまりに不釣り合いで……つい、笑ってしまいました」
美しい少女の小さな怒りが、
どれほど可憐で、どれほど儚いか――
それを冷静に見抜いてしまうのが、バーテミウスという男だった。
アランは気まずそうに顔を逸らした。
その仕草は、無意識のうちに“守られ続けた少女”のままだった。
アランは分かっていた。
レギュラスの隣にいた時間が長すぎて、
自分の世界がいかに狭くなっていたかを。
男子生徒と、どう“自然な距離”を取ればいいのか。
どう返事を返せば傷つけずに済むのか。
どう断れば、相手の勇気を無下にせずに済むのか。
そうした経験のどれもが、彼女の人生には存在しなかった。
恋とは、シリウスとのたった一度の深い絆だけで――
そのすべてを満たしていた。
甘く、激しく、あまりに濃密で、
他の誰かが入り込む余地など最初からなかった。
一方でレギュラスから注がれた独占的な愛情は、
アランの心を守りながらも、
外の世界を知らぬまま閉ざしてしまった。
だからこそ、今受ける告白は、
小さな棘のように胸の奥に刺さる。
痛いけれど、嫌じゃない。
嬉しいけれど、困ってしまう。
断りたいのに、嘘はつけない。
そのすべてが、アランにとって初めての経験だった。
眼前で恋文が燃えた時、
アランの胸にもまた、何かが静かに落ちた。
砕かれた紙片の灰が舞う。
その細やかな灰は、美しくも儚く、
空気の中でくるりと渦を巻きながら消えていった。
それはまるで、アランの心そのものだった。
恋という感情は幸福と痛みが常に隣り合わせで、
誰かが自分に向けてくれた“好き”を燃やされるのは、
決して無傷でいられるものではない。
返すつもりはなくても。
応じる気持ちはなくても。
その真心は、確かにアランの指に触れたのだ。
だから、灰になってしまった恋文の残り香の向こうで――
アランは胸に手を当て、静かに呼吸を整えた。
揺れ動く心の奥にあるのは、
シリウスの名残と、
レギュラスの影と、
そして自分にはまだ知らないはずの“新しい何か”だった。
監督生として最後の巡回を終えた夜、ホグワーツの廊下は凍てつくような静けさを湛えていた。
石造りの階段には、かすかな灯りがゆらゆらと揺れ、壁に映る影を歪ませている。
レギュラスはその階段をゆっくりと降りていた。足音は小さく、冷たい空気が白い吐息をさらっていく。
心を沈めるために、あえて歩幅を揃え、呼吸を整える。
今日も多くの声に囲まれ、義務に追われ、思考が騒がしく掻き乱され続けていた。
誰の前でも完璧であろうとする自分の姿勢は、時として重荷となる。それでも崩すことはできない。
──そんな思いが胸に渦巻いていたその時、背後から軽やかな足音が響く。
「こんな夜更けに、珍しいですね」
振り返ると、バーテミウスがそこにいた。
夜に似合う涼やかな無表情と、薄く笑うように歪んだ口元。
堂々と校則を破っているというのに、まるで夜風の一部のように自然だった。
レギュラスは軽くため息をついた。
「他の寮の学生ならば、確実に減点ものでしょうに」
「僕の場合は、許していただけるでしょう?」
バーテミウスは肩を竦めてみせる。
その所作はたやすく挑発の香りをまとい、レギュラスの平衡心をわずかに乱す。
二人は並んで階段を下りた。
互いに距離を保ちつつも、同じリズムで階段を踏みしめる。
言葉は少ないが、その沈黙に意味が染み込んでいた。
「セシール嬢、随分人気のようですよ」
からかうような声の高さでバーテミウスが言った。
「下級生の子まで告白しているとか」
レギュラスの足取りは乱れない。
見た目の変化はなくとも、ほんのわずかに呼吸が深くなる。
──知っている。
最近のアランに寄せられる好意も、彼女の周囲に漂う新しい視線も。
胸の奥が疼くことはあっても、アランが簡単に揺らぐとは思わなかった。
「そうですか」と、平坦な声で返すと、バーテミウスはふっと笑った。
「余裕があるようだ」
揶揄の響きを隠しもしない声音だった。
バーテミウスの眼差しは、レギュラスの表情の裏側まで見透かすかのようだ。
レギュラスは目を細めた。
バーテミウスという存在はつかみどころがなく、
常にどこか漂いながら、鋭い言葉を落としては、
人の心に小さな亀裂を作っていく。
その危うさを知りつつも、無視できぬ妙な魅力が彼にはあった。
階段の残り数段を踏みしめる間、
二人の間に漂う緊張は静かで、不穏で、どこか美しくさえあった。
言葉にしない部分こそが本質を抱えているように、
沈黙こそが雄弁に二人の胸中を映し出していた。
階段を降り切ったその瞬間、
夜気がふたりの影を別々の方向へ引き離す。
歩き出す直前、レギュラスは小さく息を吸った。
胸の奥に、静かに、だが確かに灯るものがある。
それは不安でも焦りでもなく、
揺らぎに抗うように生まれた、ひそやかな決意だった。
この揺れ続ける状況でも、
アランの心を、自分の隣に留め続けるために。
ゆっくりと、確実に――自分が動かなければならない。
冷たい夜風の中で、その決意だけが温度を持っていた。
静かな夜が世界を包み込んでいた。
ホグワーツの城壁の向こうには、夜霧を含んだ風がさらりと漂い、
校内のランタンの灯りがひとつ、またひとつと遠ざかっていく。
アランは黒い影――アニメーガスの姿をしたシリウスと共に、
誰にも気づかれないようそっと寮を抜け出した。
石の床を踏む足音は驚くほど軽く、
湖へ向かう道は月光だけが頼りだった。
シリウスの四肢が静かに土を蹴るたび、アランの胸は高鳴った。
この世界の中で、彼だけが彼女を“自由にしてくれる存在だった”から。
湖畔にたどり着くと、黒犬の姿がふっと光に揺らぎ、
シリウスの人の姿が現れた。
月に縁取られたその横顔は、以前よりも少し大人びて見えた。
「……しばらく来れなくて、すまねぇ」
申し訳なさそうな、しかし深い愛情の滲む声。
アランはそっと首を振った。
彼がどれほど忙しいかは知っている。
だからこそ、こうして時間を割いて会いに来てくれたことが、
胸の奥が痛むほど嬉しかった。
シリウスは静かに手を伸ばし、アランの頬を包んだ。
その手は温かく、月光を受けて滑らかに光る。
アランは自然とその掌へ頬を寄せる。
まるで久しく恋い焦がれていた場所を取り戻したかのように。
「アラン……」
名を呼ぶ声が、胸に落ちる。
アランはシリウスを見上げ、そっと目を閉じた。
唇が重なる。
最初はためらいが混じった、柔らかく小さな触れ合いだった。
乾いた夜気の中で、その一瞬だけが温度を持つ。
触れるだけのキスなのに、
胸の奥がしんと震え、じんわりと温かさが広がっていく。
アランは目を閉じたまま、彼の息づかいを感じた。
二人の距離が特殊な魔法のように狭まり、
世界に自分たち以外のものが何も存在しない気がした。
やがて、重なる回数が増え、
触れ合うたびに確かめ合うような優しい深さが加わる。
寂しさも不安も、胸に溢れていた言葉にならない想いも、
少しずつ崩れ落ちるようにほどけていく。
どれほど離れていても、
どれほど会えなくても、
触れた瞬間にすべてが戻ってくる――
そんな当たり前の奇跡に、胸がいっぱいになった。
キスをほどくと、
目の前には優しい光を宿した灰色の瞳があった。
「……会いたかったの」
アランの声は震え、星の粒がこぼれるように弱く儚かった。
隠そうとしても隠しきれない感情が、言葉に混ざり落ちていた。
シリウスは小さく息を吸い、真っすぐにアランを抱き寄せた。
「ああ。俺も……ずっと会いたかった」
その言葉は、夜空より深い愛を帯びていた。
二人は肩を寄せ合ったまま、湖に映る月を見つめた。
水面が揺れるたびに光がきらりと跳ね、
その反射が二人の髪や頬を照らす。
卒業までの二年。
たった二年なのに、途方もなく長く、胸が苦しくなるほど遠い。
だけど――
今だけは、その未来の孤独さえ優しく溶けていった。
アランは、胸の奥で静かに思った。
この瞬間さえあれば歩いていける、と。
シリウスが自分を見つめてくれるなら、
世界がどれほど揺らいでも、心はきっと折れない。
月光の下、互いの鼓動だけが静かに響き、
二人の魂は、夜の湖のように深く、静かに重なっていた。
夜が深まり、湖畔を撫でる風に少し冷たさが混ざり始めても、アランはどうしてもその場から立ち去れなかった。
シリウスと触れ合った余韻は、まだ胸の奥で温かく灯り続けていて、離れればその光が消えてしまいそうで怖かった。
寮へ戻る時間などとうに過ぎている。
それでも――足が動かない。
このまま二人きりの夜の中に溶けてしまえたら、どんなに良いか。
そんな幼い願いにも似た切なさが、胸の奥でじくじくと疼いていた。
シリウスは、そんなアランの心の揺れを見逃さなかった。
彼女の指先がほんのわずかに震え、離れることを拒むようにシリウスの手を掴んだまま、そっと力を込めていることに気づいたのだ。
「……卒業までの辛抱だよ、アラン」
低く、優しく、夜の空気に溶けるような声で彼は言った。
その一言が、アランの胸の奥に明かりを灯した。
まるで暗く長いトンネルの先で、やっと確かな光を見つけたかのような――そんな救いだった。
卒業さえすれば、もう誰にも隔てられずに、
誰にも遠慮せずに、
一緒に眠り、一緒に笑い、朝と夜を共に過ごしていける。
未来がこんなにも近くにあるのだと知っただけで、
アランの胸は幸福でいっぱいになり、視界がほんのりと滲んだ。
シリウスはその小さな変化を見逃さず、照れくさそうに笑みを浮かべた。
二人は自然と指を絡め、そっと手をつないだ。
アランの手はまだ細くて、華奢で、少しひんやりしている。
その手を包むシリウスの掌は驚くほど大きく、温かく、頼もしさに満ちていた。
「……おっきいわね」
アランが少し照れたように呟くと、シリウスは口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「お前を守るには、このくらい大きくないと」
その言葉は、甘い慰めでも、曖昧な優しさでもなかった。
彼がこれまでの時間の中で身につけた強さと覚悟が、そのまま言葉になっていた。
胸の奥に、そっと火が灯る。
温かくて、切なくて、泣きたくなるほど愛おしい。
アランはゆっくりとシリウスの肩に額を預けた。
湖面を渡る風が、二人の髪を静かに揺らしていく。
夜は深く、静かで、二人だけの世界がそこにはあった。
耳を澄ませば、シリウスの鼓動が聞こえる。
心臓が叩くその音が、自分の心の震えと同じ速度で響いていた。
このまま時が止まってしまえばいい。
寮に戻ることも、レギュラスの視線も、ブラック家に漂う重圧も、
そのすべてが遠くの影のように忘れられるなら。
「一緒にいられるだけで、何もいらない……」
アランは声にならない想いを胸の中に閉じ込めた。
ただ、シリウスの存在だけが、自分の世界をあたたかな光で満たしてくれる。
いつか、夜明けと共に二人で歩き出し、
人目を気にせずに、肩を寄せ合い、同じ屋根の下で笑い合える日が来る。
その未来を信じられるだけで、
この夜のすべてが救いになった。
月がゆっくりと湖面に揺れ、
まるで二人の希望を静かに照らすかのように輝いていた。
風が低く、草花の間をかすめるように流れていた。
アランはしゃがみ込み、花壇の土に指を埋めていた。
根元の雑草をゆっくりと抜き取るその手つきは、
一つひとつに祈りを捧げるように丁寧で、静謐だった。
土に触れ、花に寄り添い、ただ黙々と手を動かす時間だけが、
今のアランにとって心の平穏を保つ唯一の術だった。
胸の奥には、言葉にならない不安や悲しみが層のように積もっている。
だが庭の土は、それを責め立てることもなく、ただ受け止めてくれる――
そんな優しい沈黙があった。
レギュラスは、その背にそっと近づいた。
彼の靴が砂利を踏む音を聞き取っても、アランは振り返らない。
それでも、気づいてはいる。
彼はわずかに呼吸を整え、
「アラン、少し……話せますか」
名前を呼ぶ声は、かすかにかすれ、どこか怯えた響きを帯びていた。
アランはゆっくりと顔を上げた。
陽光を受けた翡翠の瞳が、静かに揺れる。
腰に挿していた杖をそっと納め、
土のついた指先を軽く払いながら立ち上がる。
「はい」
その声音は穏やかで、しかしどこか距離のある優しさがあった。
レギュラスの手が自然とアランの手を取った。
親指の腹で手の甲を撫でる、いつもの癖だった。
その温もりは変わらないはずなのに、以前ほど心に触れてこない。
けれど、ほんの一瞬、アランの表情が柔らぐ。
それは、長い間寄り添ってきた者同士の “記憶” が呼び起こしたわずかな反応で、
優しさというより、習慣に近かった。
それでも、レギュラスは胸の奥で少しだけ救われる思いがした。
しかし次の瞬間には、父オリオンの冷徹な声が思考を覆い尽くす。
――もしあの女が、ブラック家の名を汚すようなことをすれば。
その言葉は、刃のように鋭く腹をえぐっていた。
何かを守り抜くための忠誠ではなく、
愛する者を「処罰し得る存在」として見なさざるを得ない恐怖。
その重荷が、胸を締めつける。
「アラン……」
言葉を続けようとするたび、喉が痛くなる。
掴んだ手がやや強くなる。
アランは黙って見つめ返す。
逃げも、責めることもせず、
ただ真っ直ぐにレギュラスの瞳を受け止めていた。
「どうしました、レギュラス?」
控えめだが、決して弱くない声。
その優しさが、今は苦しい。
レギュラスは短く息を吸い、
「さきほど、父と話をしていました」
そう切り出した。
アランは静かに頷き、続きを待つ。
庭園の風が二人の間を通り過ぎ、葉の影を揺らす。
「父は……あの通り、家の名や地位を非常に重く見ている人です」
「そうですね」
その返事には、長い年月で理解した“諦め”も含まれていた。
「だから……父は、あなたにもそうあってほしいと……願っています」
レギュラスの言葉は、どこまでも慎重に、
まるで壊れ物に触れるように選ばれていた。
だがその裏には、必死の叫びがあった。
――どうか、軽率な行動はしないでほしい。
――シリウスと秘密裏に会おうなどと、もう考えてほしくない。
――あなたを守るために、どうか、この家の掟から外れないでほしい。
言葉にならない懇願が、沈黙の中に滲む。
アランは、その全てを察した。
翡翠の瞳は美しく澄んでいたが、その奥には淡い影が揺れている。
レギュラスが恐れているものも、
彼が知らないところで誓っている忠誠も、
彼女にはよくわかった。
だがそれでも――
彼女の心の中には、消えない光が一つだけあった。
遠く離れた場所で戦う、あの人の光。
それはレギュラスのものではなく、
決して手放すことのできない、
静かに灯り続ける恋そのものだった。
庭園の午後は、柔らかい陽光の中で息づいている。
風が花を揺らし、影を揺らし、
揺れる二人の心までも映し出すように。
その瞬間、二人の間に広がる“揺らぎ”は、
ひっそりと、しかし確かにそこにあった――
まるで風に震える一枚の葉のように、
儚く、美しく、触れれば壊れてしまいそうなほど繊細に。
いつも通りの食卓だった。
アランが整えた料理は、どれも香りも色も美しく、
皿へ盛る手つきには揺るがぬ気配りが込められていた。
だが、その丁寧さとは裏腹に、食卓に漂う空気は張りつめ、
まるで薄い氷の上を歩いているかのような緊張感が満ちていた。
「アラン、あなたは席を外してくれるかしら」
ヴァルブルガの声は、冷ややかな刃のように響いた。
「かしこまりました、奥様」
アランは微笑みもせず、淡々と頭を下げ、静かに席を立った。
ドアが閉まる音はやけに重く、
その瞬間、部屋の空気は一気に沈み込んだ。
残されたのは、ヴァルブルガ、オリオン、そしてレギュラス。
重厚なブラック家の食堂は、不穏な沈黙に沈んでいた。
壁に掛けられた黒檀の大時計が、
静かに秒を打つ音だけが、無情に響く。
「レギュラス」
ヴァルブルガが、ゆっくりと息子の名を呼んだ。
その瞳は氷のように固く、感情を押し殺している。
「アラン・セシールを……本当に妻にするつもりですか?」
その問いは、以前から幾度となく向けられたものだった。
しかし今日は、いつも以上に熾烈な圧が宿っていた。
レギュラスは小さく息を吐いた。
――またか、と。
だが顔には出さない。
ブラック家の当主の子として育った彼は、
母の激しい感情の裏に潜む“政治”を理解していた。
「母上、父上の条件は果たしております」
レギュラスの声は淡々としていながら、芯があった。
ヴァルブルガの口元がわずかに歪む。
その表情には、明確な憤りが滲んでいた。
「あの女は……やがて災いとなるでしょう、オリオン。
あなた様のお考えが私には理解できません」
父オリオンは黙ったままワインを揺らしている。
その沈黙は、肯定でも否定でもなく、ただ判断を保留しているだけ――
それが逆に、ヴァルブルガの苛立ちを際立たせた。
レギュラスは胸の内に、重い影が落ちるのを感じた。
母は父とは違う意味で、
アランとの結婚に対して強い拒絶を抱いている。
その理由が、単なる家格の問題ではないことくらい、
レギュラスにもよくわかっていた。
「それなら、母上の望む条件をお示しください」
レギュラスは視線を逸らさず、言葉を重ねた。
「それが叶えられるものであれば、必ず達成します」
ヴァルブルガは深く溜息をついた。
その吐息は、すべてを拒絶するように鋭かった。
「……忘れましたか。
あの娘が、リシェルの血を継いでいることを」
食堂の空気がぴたりと止まる。
テーブルの上の銀の器までもが、音を立てることを躊躇うかのようだった。
リシェル――。
かつて王宮の侍女でありながら、
王妃の座に迫り、国王の寵愛を受け、
嫉妬と裏切りの渦に呑まれて処刑寸前まで追い詰められた女。
しかしロイク・セシールがその才覚と美貌を見出し、
忠誠の印としてオリオン・ブラックに彼女を望んだ。
彼女は処刑から救われ、
その後に生まれたのがアランだった。
「王宮に訪れた災いが、ブラック家にも同じように降りかかるのではないか」
ヴァルブルガの瞳は息子を射抜く。
その眼差しは、ただの母ではない――
“貴族の妻”として冷徹な理を持つ女の眼だった。
だがレギュラスは、静かに思う。
――ここは王宮ではない。
どれほどの地位があろうと、そこまでの混迷はない。
だがそんな言葉を口にすれば、
母の怒りを買うだけだと分かっていた。
「────あの娘はいずれ、あなたの判断を曇らせるでしょう」
ヴァルブルガの声は鋭く締めつけるようだった。
「未来の当主が揺らげば、一族の未来は潰えますよ」
レギュラスは一瞬瞳を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
胸に刺さるその言葉は、否定できない現実の一端でもあった。
アランの存在が自分を弱くし、揺らすことがあると、
時に彼自身も感じてしまう瞬間がある。
それでも――。
「父上や母上のお考えを慎重に聞いたうえで、決断します」
レギュラスは毅然と告げた。
どれほど母がアランを拒んでも、
どれほど鋭い危惧を並べ立てても、
オリオンとの間に交わした“約束”がある。
アランを傍に置く権利と責任は、自分の手にある。
その一点が、レギュラスの心を支える盾となっていた。
ヴァルブルガの言葉がどれほど鋭く、どれほど冷たく突き刺さろうとも、
レギュラスの決意は揺らぎもしなかった。
食堂に残っていた香草の匂いも、暖炉の暖かさも、
彼の胸の奥に燃え続ける意志を弱めることはできない。
アランを妻に迎えたい――。
その願いは、幼い頃から共に育った記憶のどれよりも深く、
もはや彼の心臓の鼓動そのものに近い強さで存在していた。
デスイーターとしての任務は、確かに彼の良心を痛めつける。
血を浴び、命を奪い、闇の名のもとに正義を貫こうとするたび、
心の奥で小さな痛みが走る。
だが――その苦痛すら、アランを手にするための代償と思えば、
レギュラスは迷わなかった。
彼にとって彼女は、“何にも代えがたい存在”だった。
食卓では、アランは一歩下がった位置で黙々と皿を片付けていた。
さっきまでの重い空気が、まだ部屋に残っている。
銀のカトラリーが触れ合う微かな音が、
沈黙をさらに強調していた。
レギュラスは静かにアランへ歩み寄る。
足音を立てないように、慎重に、まるで壊れ物に触れるかのように。
「アラン、こっちは僕が片付けます」
声は柔らかく、他の誰にも見せない優しさが混じっていた。
アランは驚いたように顔を上げた。
翡翠色の瞳には、わずかな戸惑いと、遠慮が入り混じっている。
「レギュラス……ヴァルブルガ様があまり、お喜びではないから……」
その言葉はとても小さく、
肩がほんの少し縮こまっているのが痛いほどわかった。
母の目を気にし、息を潜めるように生きるその姿。
アランの背に乗せられた“家の影”は、
まだ少女である彼女にはあまりにも重かった。
レギュラスの胸に、ふと鋭い切なさが走る。
母の一言で怯え、静かに身を縮めるアランの姿が、どうしようもなく胸を締めつけた。
彼女は何も悪くない。
何一つ悪いことなどしていない。
それなのに――この家の中で、
堂々と息をすることすら許されていないかのようだった。
「大丈夫です。母のことは気にしないでください」
レギュラスはそっとアランの皿を受け取りながら言った。
言葉は穏やかだが、その奥には強い意志が宿っていた。
けれどアランは、わずかに微笑んで首を振る。
「気にしないわけにはいきません。私は、ここでは……」
その先の言葉は、自ら飲み込んだ。
“立場がない”
“居場所がない”
そんな言葉を言いたくなる気持ちが、
その沈黙の中にはっきりと滲んでいた。
レギュラスは胸の奥で、何かが崩れていくのを感じた。
アランの小さく縮こまった肩。
伏せられた睫毛の影。
努力しても報われない、彼女の不安と孤独。
――どうして、こんな思いをさせてしまうのだろう。
誰よりも自分の隣で笑っていてほしい人なのに、
誰よりも守りたい存在なのに、
この家の中で一番傷ついているのが彼女だという現実が、
レギュラスの心を静かに裂いていく。
「アラン」
呼ぶ声が、少しだけ震えた。
彼はアランの手元から皿をそっと取り、代わりに自分の左手を伸ばした。
触れはしない。
けれど、触れたくてたまらない距離に。
「……いつか必ず、あなたが肩身の狭い思いをしない日を作ります」
その言葉は誓いというより、祈りに近かった。
「誰の顔色も気にせず、僕の隣に堂々と座れる日を」
アランは驚いたようにレギュラスを見つめた。
その瞳には、嬉しさでも、期待でもなく――
ただ静かな揺れだけがあった。
揺れる心。
それは“信じたい”と“信じられない”の狭間で漂う繊細な揺らぎ。
レギュラスは、彼女の表情を見つめながら決意を深めた。
たとえ母が拒み、父が厳しく、
家の理がアランを遠ざけようとも、
それでも彼は諦めない。
――いつか必ず。
アランが笑って、自分の隣に並び立てる日を。
静寂の中で、その願いだけが燃えるように確かで、
レギュラスの胸に深く、ゆるぎなく刻まれた。
ホグワーツに戻ると同時に、世界の色がわずかに変わったようだった。
それはシリウスの不在が生んだ空白ゆえの変化だった。
眩しく、騒がしく、いとも簡単に周囲の視線を奪っていった兄がいなくなった途端、
その視線がそのままレギュラスに向けられたのだ。
女生徒たちは、競うように彼に挨拶をし、微笑みを向け、
時には意味深で甘い視線を投げてきた。
休み時間になれば、図書室の廊下で彼を待ち構える姿がちらほら見える。
「レギュラス様、今日の課題を教えていただけませんか?」
「クィディッチの練習、見学してもいいでしょうか?」
「この本、先にあなたに読んでいただきたくて……」
勉学に励む下級生たちは、頼れる彼を囲み、
質問の嵐で息をつく暇を与えない。
ノートを貸してほしい、呪文の理論の解説をしてほしい、
監督生としての相談にも絶え間なく人が押し寄せた。
「今日のポーションの作り方がどうしても……」
「レギュラス、放課後少しだけ時間をもらえませんか?」
こうした日々は確かに彼の名誉でもあり、信頼の証でもあった。
だが、その忙しさは、彼の心をゆっくりと侵食していく。
試験準備、レポート、監督生の任務、
そこに加えて「人気」という予期せぬ重圧。
レギュラスの心身は、休まる隙なく吸い込まれていくようだった。
そして何より――
その喧騒が、アランとの時間を静かに奪っていった。
彼女と過ごすべきひとときが、
誰かの声に遮られ、分厚い予定に押しつぶされ、
気づけば取りこぼした砂のように指の間から零れ落ちていく。
アランを追おうとすると、
彼女は遠くへ行ってしまうような気がした。
距離を縮めたいのに、縮めようと手を伸ばせば、
なぜかその背中がふっと離れていく――
そんな焦りが、レギュラスの胸をわずかにざわつかせていた。
ある日の食事中、レギュラスは意を決して口を開いた。
騒がしい声の中でも、アランだけは静かに、彼の横で食器を整えていた。
「アラン、今週のホグズミードには……付き合ってほしいところがあります」
一緒に行こう、ではなく。
あえて「付き合ってほしい」と言ったのは、
より明確で、より確実な“約束”にしたかったからだ。
曖昧さが、また彼女を遠ざける気がしたのだ。
アランはゆっくりと顔を上げ、
口を開きかけた――その時だった。
「レギュラス様、あの、次の呪文学の課題を見ていただけませんか?」
「こちらの舞踏会の招待状を……ぜひ、来ていただきたくて!」
「これ、レギュラス様がお好きだと聞いて……差し入れです!」
まるで隙を突くように、女生徒たちが一斉に割り込んできた。
その声は華やかで軽く、
レギュラスも監督生として無下にはできない。
「ええ、あとで拝見しましょう」
「参加できるかは分かりませんが、招待状だけは……はい、ありがとうございます」
「ありがたくいただきます」
一つひとつ丁寧に返しながらも、
レギュラスの視線はちらりとアランに向けられた。
そこにいたはずの彼女は――
さっきよりもずっと遠くに座っていた。
女生徒たちが入りやすいよう、
席をすっとずらしたのだ。
その小さな行動は、
誰の目にも触れないほど自然で、
彼女自身も何も考えずにやったことなのかもしれない。
だが、その“わずかな距離”が、
レギュラスの胸を静かに刺した。
ほんの指先ほどの隙間が、
彼には、永遠に近い距離に感じられた。
アランの肩が再び、小さくすぼまっている。
“あなたは邪魔じゃない”と言いたいのに、
言葉をかける前に声が邪魔され、
気づけば彼の世界には彼女の沈黙だけが残る。
喧騒の中で、
レギュラスはただ一人、
彼女までの距離だけを測り続けていた。
授業と授業のわずかな隙間――
廊下には次の教室へ移動する生徒たちの喧騒が広がり、
羽根ペンの匂いとインクの名残が空気に溶けていた。
その中で、レギュラスは立ち止まる暇もなかった。
彼を呼び止める声が、複数の方向からかかる。
「レギュラス様……!」
「少しだけ、お話ししたくて……」
「これ……受け取ってください……!」
女生徒たちは他愛もない友人同士の連れではなく、
一人一人がはっきりした意志を持って彼の前に現れた。
控えめに包んだ恋文、丁寧に選んだ紙の色、
震える指先――
誰もがそれぞれの想いを胸に、
勇気を振りしぼって一歩踏み出した。
数名でやってくるときは、
彼の人気を半ば憧れのように共有する、
どこか軽やかな空気があった。
そんなときのレギュラスは、
監督生の顔で上手に受け止められた。
「ありがとう。気持ちだけ受け取っておきます」
「大切な招待状ですね。あとで必ず拝見します」
的確で、穏やかで、少し距離のある返し方。
彼の聡明さがあれば、場を荒立てることなく
その数分を切り抜けることができた。
だが――
一人だけで彼の前に立つ女生徒には、
同じ方法は決して使えなかった。
昼下がりの廊下。
窓から差し込む光は柔らかく、
花瓶に挿されたルナリスの花がひそやかに揺れている。
そんな静かな場所へ、
震える歩みでやってきた少女がいた。
「レギュラス様……お時間を、いただけますか」
声は細く、消えてしまいそうだったが、
その目だけはしっかりと彼を見つめていた。
恋文を差し出す両手は、
今にもこぼれ落ちそうなほど不器用で、
けれどその不器用さこそが、
彼女の真剣さをより際立たせていた。
レギュラスはゆっくりとそれを受け取った。
そして、深い息を一度吸い込む。
少女の勇気に対して、
曖昧な優しさで誤魔化すことはできない。
真心を寄せてくれたのなら、
誠心誠意向き合うのが礼儀だと、
彼は誰よりもよく知っていた。
「……申し訳ありません」
少女の肩がわずかに震える。
「あなたの気持ちは、とても嬉しい。
けれど……僕の心は、応えることができないんです」
その声音は驚くほど優しく、
けれど揺るぎない決意を含んでいた。
沈黙が落ちる。
窓辺の花がかすかに揺れたように見えた。
少女は強く唇を噛み、
しかし泣き崩れることはなく、
深々と頭を下げた。
「……ありがとうございます。
ちゃんと……言ってくださって」
その小さな声は、
言葉にできない痛みと、
それでも前に進もうとする勇気に満ちていた。
ゆっくりと背を向け、
一歩、また一歩と歩き去っていく少女の肩が、
かすかに震えていた。
レギュラスは、胸の奥が強く締めつけられた。
(どうしてだろう……)
振り絞るように告げてきた彼女の想いが、
自分の胸に重くのしかかる。
応えられないことをわかっていても、
その真っ直ぐさは、
どこか自分自身と重なって見えた。
――届かない想いを、それでも差し出してしまう愚かさ。
――心の中の誰かを、どうしても諦められない切なさ。
彼女たちの恋は自分自身にとっても痛いほど“分かりすぎる”感情だった。
レギュラスの周囲に変化が生まれていたのと同じように、
アランの世界にもまた、ごく静かな波が広がり始めていた。
ホグワーツでの日々は以前と変わらないように見えて、
ほんの少しずつ、確実に違っていった。
以前はどこへ行っても、レギュラスの姿が近くにあった。
彼の影がふと視界に映るだけで、アランの胸には静かな安心が流れていた。
だが今、レギュラスの時間は濁流のように奪われていく。
監督生としての義務、女生徒からの頼みごと、課題、レポート、相談。
気づけばアランは、授業と授業の間や寮のラウンジで、
一人でいる時間が他の誰よりも長くなっていた。
孤独――
その影を、周囲の生徒たちは意外なほど素早く察していた。
特に彼女の変化に敏感だったのは男子たちだった。
アランがテキストを抱えて廊下を歩くと、
どこからともなく数名が集まり、
自然と彼女を囲むようにして歩調を合わせてくる。
「ねえ、セシール……君さえよければ、今度のホグズミード、僕と行かない?」
声は控えめだったが、瞳の奥には真剣な光が宿っていた。
アランは驚き、わずかに足を止めた。
その後ろでは、別の男子が勇気を振り絞って告げる。
「実は……一年生のころからずっと、君が初恋なんだ」
頬を赤く染め、言葉を詰まらせる姿に、
アランは胸の奥がきゅっと苦しくなった。
またある者は、学業の悩みを口実に、
「この部分の呪文学が難しくて……少し教えてほしくて」
と距離を縮めてきた。
放課後の催しの案内状を差し出す者、
カバンにそっと小さな花を忍ばせてくる者もいた。
かつてアラン・セシールの美しさは、
レギュラス・ブラックただ一人の特権――
誰も彼女に近づけない、静かな聖域のようであった。
だがその独占は、レギュラスが忙しさに消耗していくほどに
ゆっくりと形を失いつつあった。
彼女の周囲には、
新しいまなざしが、確かな熱を持って集まってきた。
隙を見逃さぬ者たちが、
アランを中心にふわりと輪を作る。
アランは――困惑していた。
本当に戸惑っていたのだ。
シリウス以外に、異性として胸を焦がし、
恋として意識したことなどなかった。
恋はただひとつ、あの人の背に焦がれていた。
だから、今寄せられる好意が何に値するのか――
どう受け取ればいいのか分からない。
決して拒絶するつもりはない。
丁寧に対応したいと思う。
けれど、どうしてもそこには“迷い”が生じてしまう。
その曖昧な優しさが、
彼らに“期待”を抱かせてしまうことに、
アラン自身は気づいていなかった。
笑顔も見せていないし、
戸惑いを隠すために目を伏せることも多いのに、
その仕草の一つ一つが、
彼女の儚い魅力をいっそう際立たせてしまっていた。
廊下の角からバーテミウスがその様子を見つめていた。
彼の目は冷静で、どこか揶揄を含んだ光を帯びている。
「随分とお姫様になりましたね、セシール嬢」
その言葉は半ば皮肉で、半ば興味だった。
まるで面白い玩具を見つけたかのように、
彼は独り言のように呟いて微笑んだ。
アランはその言葉に、何も返さなかった。
反論も否定もせず、ただ沈黙を選んだ。
なぜなら、「違う」と言ってしまえば、
彼らが寄せてくれた真心を踏みにじるような気がしたからだ。
彼らは皆、勇気を振り絞って声をかけてくれた。
その気持ちに、嘘でも悪くもないと示したくなかった。
アランの心は揺れていた。
寄せられる想いの形が増えるにつれ、
その心は静かに、しかし確実にかき乱されていく。
その揺れは、彼女自身にもまだ掴めない。
自分がどこへ向かおうとしているのか、
何を望んでいるのか。
ただ――
ひとつだけ確かなのは、
どれほどの好意を寄せられても、
胸の奥の“たった一つの光”は消えなかった。
その光を、アラン自身がどう扱えばいいのか。
それだけが、彼女にはまだ分からなかった。
近頃のホグワーツは、妙に賑やかだった。
レギュラス・ブラックとアラン・セシール――
あれほどまでに寄り添い、他者の影すら踏み込めなかった二人が、
今では別々に光を帯び、それぞれに人が群がるようになっている。
ふたりの距離が開きはじめたことに、
当の本人たちは気づいているようでいて、核心には触れられずにいる。
しかし、外から眺めている者――
たとえば自分のような観察者には、
その変化は滑稽なほど明確だった。
レギュラスは焦りと不安を誤魔化せず、
苛立ちを押し殺したように口元を固め、
授業の合間に女生徒の告白を断っては、
そのたびにアランの姿を探す視線を彷徨わせている。
対照的に、アランは――
初めて触れる“赤の他人の好意”に戸惑いながらも、
どこか解き放たれたように表情が明るかった。
心の奥にはまだ迷いが残っていながらも、
自分を求めてくる者がいるという事実が、
少女としての初々しい輝きを与えていた。
バーテミウスにとって、この二人の対比は実に興味深かった。
どちらも真剣で、どちらも不器用。
その不器用さが、互いの胸をじわりと締めつけていることにすら気づかないまま、
状況に流されている。
ある日の昼下がり――
静かな中庭で、アランがひとりの男子生徒から告白を受けている場面に出くわした。
少年は顔を真っ赤にしながら、
自分でも信じられないといったように言葉を紡いでいた。
「ず、ずっと……君が好きだったんだ、アラン。
もし迷惑じゃなければ、友達からでも……!」
頬がこわばり、手が震えている。
アランは困惑したように視線を落とし、
どう返事をしてよいのかわからず、沈黙のまま立ち尽くしていた。
――ああ、これはまずい。
バーテミウスは心の中で小さくため息をついた。
沈黙という返事は、時に残酷だ。
拒絶ではなくとも、相手に“余地”を見せてしまう。
アラン自身には敵意も悪気もない。
ただ、誠実でありたいために言葉を選べずにいるだけなのだが、それが最も誤解を呼ぶ。
アランが言葉を探して視線を彷徨わせた、その瞬間。
バーテミウスはゆっくりと近づき、
まるで何気ない助言を投げるように言った。
「その気がないなら、沈黙はよろしくないですよ。
期待させますからね」
アランは驚いたようにこちらを振り返った。
翡翠の瞳が大きく見開かれ、
“いつから聞いていたの?” と問いかけるように揺れている。
その瞳には、
ただ困っているだけではない、
小さな覚悟の影が宿っていた。
――ああ、本当に面白い子だ。
バーテミウスは内心で笑みを深める。
アランは相手の好意を踏みにじりたくない。
けれど、自分の気持ちも、今どこにあるのか分からない。
レギュラスに背を向けたいわけでもなく、
彼を追いかける勇気も、今は失われつつある。
心が揺れている。
それが、彼にとって何より興味深かった。
「……そんなつもりは、ありません」
アランは小さく息を呑んだあと、
ようやくそう返した。
その声はかすかで、しかし震えていなかった。
まるで自分の中の秩序を、必死に守ろうとしているような声音だった。
バーテミウスは肩を軽くすくめ、
「ええ、分かっていますよ」
と柔らかく言った。
だがその目には、
“分かっているのは私だけだ”
という静かな皮肉と洞察が宿っている。
アランは恋に夢中になる少女とは違う。
ただ誰かを傷つけたくないだけの、
真っ直ぐすぎる優しさと脆さを持っている。
そして、その優しさは――
いつか必ず、誰かの胸を深く刺すことになる。
バーテミウスはそれを誰よりも理解していた。
観察者である彼だけが、
二人の心の歪みがどれほど深いか、
どこへ向かいはじめているかを知っている。
だからこそ、この光景は彼にとって目を離せない。
まるで、物語の結末が動き出す瞬間を目撃しているかのように。
中庭を抜ける風が、薄く乾いた紙の匂いを運んでいた。
アランは手の中に収めた小さな恋文を、胸のポケットにしまおうとしていた。
ほんの数分前、勇気を振り絞ったような表情で手渡されたものだ。
まっすぐな文字。震える筆跡。
そのどれもが、この紙片に込められた“想い”の温度を物語っていた。
――どう返したらいいのだろう。
正しい答えがわからない。
“ありがとう”と笑えるほど器用ではないし、
“ごめんなさい”と切り捨てるほど冷たくもなれない。
そんな迷いを胸にしまったその時だった。
ひゅ、と空気を切る音。
バーテミウスが杖を軽く振ったかと思うと、
アランの指先に触れていた紙片が、
瞬く間に炎の粉となり、空気の中で溶けた。
ぱち、と小さな火花が散り、
恋文は煙と共に消えた。
「……何をするんです?」
アランは驚きに瞳を見開いた。
その声には失望も怒りもなく、ただ純粋な戸惑いだけが混じっていた。
バーテミウスは口元だけで微笑む。
どこか、からかうような、しかし観察の鋭さを隠さない笑み。
「答える気はないのでしょう?
……まさか、丁寧な返事でも書こうなんて思ってました?」
その軽い一言に、アランは目を細めた。
抗議の色を秘めた翡翠の眼差し――
澄んでいて、強くて、触れた者の心をざわつかせる美しさがあった。
その瞳を見た瞬間、
バーテミウスは思わず鼻で笑うように息を漏らした。
「すみません。
その表情とあなたの美しさが、あまりに不釣り合いで……つい、笑ってしまいました」
美しい少女の小さな怒りが、
どれほど可憐で、どれほど儚いか――
それを冷静に見抜いてしまうのが、バーテミウスという男だった。
アランは気まずそうに顔を逸らした。
その仕草は、無意識のうちに“守られ続けた少女”のままだった。
アランは分かっていた。
レギュラスの隣にいた時間が長すぎて、
自分の世界がいかに狭くなっていたかを。
男子生徒と、どう“自然な距離”を取ればいいのか。
どう返事を返せば傷つけずに済むのか。
どう断れば、相手の勇気を無下にせずに済むのか。
そうした経験のどれもが、彼女の人生には存在しなかった。
恋とは、シリウスとのたった一度の深い絆だけで――
そのすべてを満たしていた。
甘く、激しく、あまりに濃密で、
他の誰かが入り込む余地など最初からなかった。
一方でレギュラスから注がれた独占的な愛情は、
アランの心を守りながらも、
外の世界を知らぬまま閉ざしてしまった。
だからこそ、今受ける告白は、
小さな棘のように胸の奥に刺さる。
痛いけれど、嫌じゃない。
嬉しいけれど、困ってしまう。
断りたいのに、嘘はつけない。
そのすべてが、アランにとって初めての経験だった。
眼前で恋文が燃えた時、
アランの胸にもまた、何かが静かに落ちた。
砕かれた紙片の灰が舞う。
その細やかな灰は、美しくも儚く、
空気の中でくるりと渦を巻きながら消えていった。
それはまるで、アランの心そのものだった。
恋という感情は幸福と痛みが常に隣り合わせで、
誰かが自分に向けてくれた“好き”を燃やされるのは、
決して無傷でいられるものではない。
返すつもりはなくても。
応じる気持ちはなくても。
その真心は、確かにアランの指に触れたのだ。
だから、灰になってしまった恋文の残り香の向こうで――
アランは胸に手を当て、静かに呼吸を整えた。
揺れ動く心の奥にあるのは、
シリウスの名残と、
レギュラスの影と、
そして自分にはまだ知らないはずの“新しい何か”だった。
監督生として最後の巡回を終えた夜、ホグワーツの廊下は凍てつくような静けさを湛えていた。
石造りの階段には、かすかな灯りがゆらゆらと揺れ、壁に映る影を歪ませている。
レギュラスはその階段をゆっくりと降りていた。足音は小さく、冷たい空気が白い吐息をさらっていく。
心を沈めるために、あえて歩幅を揃え、呼吸を整える。
今日も多くの声に囲まれ、義務に追われ、思考が騒がしく掻き乱され続けていた。
誰の前でも完璧であろうとする自分の姿勢は、時として重荷となる。それでも崩すことはできない。
──そんな思いが胸に渦巻いていたその時、背後から軽やかな足音が響く。
「こんな夜更けに、珍しいですね」
振り返ると、バーテミウスがそこにいた。
夜に似合う涼やかな無表情と、薄く笑うように歪んだ口元。
堂々と校則を破っているというのに、まるで夜風の一部のように自然だった。
レギュラスは軽くため息をついた。
「他の寮の学生ならば、確実に減点ものでしょうに」
「僕の場合は、許していただけるでしょう?」
バーテミウスは肩を竦めてみせる。
その所作はたやすく挑発の香りをまとい、レギュラスの平衡心をわずかに乱す。
二人は並んで階段を下りた。
互いに距離を保ちつつも、同じリズムで階段を踏みしめる。
言葉は少ないが、その沈黙に意味が染み込んでいた。
「セシール嬢、随分人気のようですよ」
からかうような声の高さでバーテミウスが言った。
「下級生の子まで告白しているとか」
レギュラスの足取りは乱れない。
見た目の変化はなくとも、ほんのわずかに呼吸が深くなる。
──知っている。
最近のアランに寄せられる好意も、彼女の周囲に漂う新しい視線も。
胸の奥が疼くことはあっても、アランが簡単に揺らぐとは思わなかった。
「そうですか」と、平坦な声で返すと、バーテミウスはふっと笑った。
「余裕があるようだ」
揶揄の響きを隠しもしない声音だった。
バーテミウスの眼差しは、レギュラスの表情の裏側まで見透かすかのようだ。
レギュラスは目を細めた。
バーテミウスという存在はつかみどころがなく、
常にどこか漂いながら、鋭い言葉を落としては、
人の心に小さな亀裂を作っていく。
その危うさを知りつつも、無視できぬ妙な魅力が彼にはあった。
階段の残り数段を踏みしめる間、
二人の間に漂う緊張は静かで、不穏で、どこか美しくさえあった。
言葉にしない部分こそが本質を抱えているように、
沈黙こそが雄弁に二人の胸中を映し出していた。
階段を降り切ったその瞬間、
夜気がふたりの影を別々の方向へ引き離す。
歩き出す直前、レギュラスは小さく息を吸った。
胸の奥に、静かに、だが確かに灯るものがある。
それは不安でも焦りでもなく、
揺らぎに抗うように生まれた、ひそやかな決意だった。
この揺れ続ける状況でも、
アランの心を、自分の隣に留め続けるために。
ゆっくりと、確実に――自分が動かなければならない。
冷たい夜風の中で、その決意だけが温度を持っていた。
静かな夜が世界を包み込んでいた。
ホグワーツの城壁の向こうには、夜霧を含んだ風がさらりと漂い、
校内のランタンの灯りがひとつ、またひとつと遠ざかっていく。
アランは黒い影――アニメーガスの姿をしたシリウスと共に、
誰にも気づかれないようそっと寮を抜け出した。
石の床を踏む足音は驚くほど軽く、
湖へ向かう道は月光だけが頼りだった。
シリウスの四肢が静かに土を蹴るたび、アランの胸は高鳴った。
この世界の中で、彼だけが彼女を“自由にしてくれる存在だった”から。
湖畔にたどり着くと、黒犬の姿がふっと光に揺らぎ、
シリウスの人の姿が現れた。
月に縁取られたその横顔は、以前よりも少し大人びて見えた。
「……しばらく来れなくて、すまねぇ」
申し訳なさそうな、しかし深い愛情の滲む声。
アランはそっと首を振った。
彼がどれほど忙しいかは知っている。
だからこそ、こうして時間を割いて会いに来てくれたことが、
胸の奥が痛むほど嬉しかった。
シリウスは静かに手を伸ばし、アランの頬を包んだ。
その手は温かく、月光を受けて滑らかに光る。
アランは自然とその掌へ頬を寄せる。
まるで久しく恋い焦がれていた場所を取り戻したかのように。
「アラン……」
名を呼ぶ声が、胸に落ちる。
アランはシリウスを見上げ、そっと目を閉じた。
唇が重なる。
最初はためらいが混じった、柔らかく小さな触れ合いだった。
乾いた夜気の中で、その一瞬だけが温度を持つ。
触れるだけのキスなのに、
胸の奥がしんと震え、じんわりと温かさが広がっていく。
アランは目を閉じたまま、彼の息づかいを感じた。
二人の距離が特殊な魔法のように狭まり、
世界に自分たち以外のものが何も存在しない気がした。
やがて、重なる回数が増え、
触れ合うたびに確かめ合うような優しい深さが加わる。
寂しさも不安も、胸に溢れていた言葉にならない想いも、
少しずつ崩れ落ちるようにほどけていく。
どれほど離れていても、
どれほど会えなくても、
触れた瞬間にすべてが戻ってくる――
そんな当たり前の奇跡に、胸がいっぱいになった。
キスをほどくと、
目の前には優しい光を宿した灰色の瞳があった。
「……会いたかったの」
アランの声は震え、星の粒がこぼれるように弱く儚かった。
隠そうとしても隠しきれない感情が、言葉に混ざり落ちていた。
シリウスは小さく息を吸い、真っすぐにアランを抱き寄せた。
「ああ。俺も……ずっと会いたかった」
その言葉は、夜空より深い愛を帯びていた。
二人は肩を寄せ合ったまま、湖に映る月を見つめた。
水面が揺れるたびに光がきらりと跳ね、
その反射が二人の髪や頬を照らす。
卒業までの二年。
たった二年なのに、途方もなく長く、胸が苦しくなるほど遠い。
だけど――
今だけは、その未来の孤独さえ優しく溶けていった。
アランは、胸の奥で静かに思った。
この瞬間さえあれば歩いていける、と。
シリウスが自分を見つめてくれるなら、
世界がどれほど揺らいでも、心はきっと折れない。
月光の下、互いの鼓動だけが静かに響き、
二人の魂は、夜の湖のように深く、静かに重なっていた。
夜が深まり、湖畔を撫でる風に少し冷たさが混ざり始めても、アランはどうしてもその場から立ち去れなかった。
シリウスと触れ合った余韻は、まだ胸の奥で温かく灯り続けていて、離れればその光が消えてしまいそうで怖かった。
寮へ戻る時間などとうに過ぎている。
それでも――足が動かない。
このまま二人きりの夜の中に溶けてしまえたら、どんなに良いか。
そんな幼い願いにも似た切なさが、胸の奥でじくじくと疼いていた。
シリウスは、そんなアランの心の揺れを見逃さなかった。
彼女の指先がほんのわずかに震え、離れることを拒むようにシリウスの手を掴んだまま、そっと力を込めていることに気づいたのだ。
「……卒業までの辛抱だよ、アラン」
低く、優しく、夜の空気に溶けるような声で彼は言った。
その一言が、アランの胸の奥に明かりを灯した。
まるで暗く長いトンネルの先で、やっと確かな光を見つけたかのような――そんな救いだった。
卒業さえすれば、もう誰にも隔てられずに、
誰にも遠慮せずに、
一緒に眠り、一緒に笑い、朝と夜を共に過ごしていける。
未来がこんなにも近くにあるのだと知っただけで、
アランの胸は幸福でいっぱいになり、視界がほんのりと滲んだ。
シリウスはその小さな変化を見逃さず、照れくさそうに笑みを浮かべた。
二人は自然と指を絡め、そっと手をつないだ。
アランの手はまだ細くて、華奢で、少しひんやりしている。
その手を包むシリウスの掌は驚くほど大きく、温かく、頼もしさに満ちていた。
「……おっきいわね」
アランが少し照れたように呟くと、シリウスは口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「お前を守るには、このくらい大きくないと」
その言葉は、甘い慰めでも、曖昧な優しさでもなかった。
彼がこれまでの時間の中で身につけた強さと覚悟が、そのまま言葉になっていた。
胸の奥に、そっと火が灯る。
温かくて、切なくて、泣きたくなるほど愛おしい。
アランはゆっくりとシリウスの肩に額を預けた。
湖面を渡る風が、二人の髪を静かに揺らしていく。
夜は深く、静かで、二人だけの世界がそこにはあった。
耳を澄ませば、シリウスの鼓動が聞こえる。
心臓が叩くその音が、自分の心の震えと同じ速度で響いていた。
このまま時が止まってしまえばいい。
寮に戻ることも、レギュラスの視線も、ブラック家に漂う重圧も、
そのすべてが遠くの影のように忘れられるなら。
「一緒にいられるだけで、何もいらない……」
アランは声にならない想いを胸の中に閉じ込めた。
ただ、シリウスの存在だけが、自分の世界をあたたかな光で満たしてくれる。
いつか、夜明けと共に二人で歩き出し、
人目を気にせずに、肩を寄せ合い、同じ屋根の下で笑い合える日が来る。
その未来を信じられるだけで、
この夜のすべてが救いになった。
月がゆっくりと湖面に揺れ、
まるで二人の希望を静かに照らすかのように輝いていた。
